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聖書男(バイブルマン) 現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

A.J.ジェイコブズ/CCCメディアハウス




著者のA.J.ジェイコブズは、体にいいことを全部試してみたという『健康男』や、百科事典の全巻読破に挑戦した『驚異の百科事典男』などで人気を得た、エスカイア誌のシニアライター。

本書には、現代ニューヨーカーである著者が、聖書の教えを忠実に守るという生活を1年続けた顛末が綴られています。

(下記の太字部分は、本書を要約して引用)

何世紀ものあいだ、聖書は実話だと思われていた。完全なノンフィクションだと。ほとんどの人は、聖書学者のマーカス・ボーグいわく、「根っからの字義解釈主義者」で、聖書が実話でないと考えるに足る根拠もなかった。ところが、次第に科学と聖書の物語が激しく対立するようになった。(中略)

そのうち、この百年主流だったのがモダニズムとファンダメンタリズムの二つだ。モダニズムによれば、科学と宗教は別個のもの。スティーブン・ジェイ・グールドいわく、両者は「重複することなき教導権」だ。聖書は比喩的な言葉と詩にあふれている。天地創造の物語は、説得力はあるかもしれないが、神話にすぎない。


著者は「誰もやらないようなことを超まじめにやってみる」という経験を、軽妙な文章にしていて、ジョーク満載の気の張らないエッセイになっているものの、ファンダメンタリズムなどの原理主義や、聖書のさまざまな字義解釈を茶化しているわけではなく、

本書を執筆前の著者は、

自身を「不可知論者」であるというユダヤ人で、ニューヨークで宗教の話題はタブーのような家庭に育ち、「不可知論者」という言葉の意味を知る前から、神という観念は要らないと思っていた。姿も見えず、声も聞こえない神を、なぜ必要とするのか。神は存在するかもしれない。でも、それは、この世では絶対に知りえないこと。。

入学した非宗教系の総合大学では、ユダヤ・キリスト教の伝統よりもウィッカの儀式における記号論を研究したがる学生の方が多く、聖書を読むことはあっても文学としてだった。

ただし、宗教の歴史は学んでいて、公民権運動や慈善の寄付、奴隷制の廃止など、人類の偉大な遺産の多くが聖書を原動力としてきたことも、戦争、大虐殺、征服といった、負の遺産を正当化するのに聖書が使われてきたこともわかっていた。

宗教にはいい面もあるけれど、現代社会においては危険な存在で、悪用される可能性がきわめて高く、ほかの旧弊なものと同じように、徐々に消えてなくなり、近い将来、すべての決定がミスター・スポック流の非常な論理に基づいて下される新啓蒙主義の楽園に暮らすことになる、と。

もうお気づきだろう、みごとな誤解だった。

聖書の、そして宗教全体の影響力はいまだに絶大だ。
ぼくがこどもの頃より大きいかもしれない。。

聖書を字義解釈するといっても、実際はみんな選り好みしているんじゃないか。自分の信条にあった箇所を聖書から抜き取っているんじゃないか。ぼくは違う。層のように積み重なった解釈をはぎとり、その下にある真の聖書を見いだすつもりだ。究極のファンダメンタリスト(原理主義者)になってやる。そうすれば、聖書のどこが偉大で普遍か、逆にどこが時代にそぐわないか、見極められる。


このあと、著者は聖書と真剣に向き合い、聖書に書かれてあるとおりの生活を実践してみるだけでなく、宗教に無関心だった家族とは異なり、ユダヤ人として生まれ、ヒンドゥー教徒になってグルを自認し、ヒッピー文化に出会い、キリスト教徒になって、いまは、イスラエルの超正統派ユダヤ教徒というスピリチュアルならなんでもござれの親戚に会い、自身の民族的宗教であるユダヤ教を中心に聖書を「体験」しながら、精神世界への旅に出る。

日本人には理解するのが難しい「聖書」ですが、
宗派については、特にわかりにくいですよね。

本書では、軽妙な口調で「聖書生活」を語られるだけでなく、さまざまな宗派についても、それぞれの長所と短所のバランスを考えつつ多く語られていて、Godについて、現実アメリカで語られてきた話題の多くを、かいま見ることが出来ます。

他者と接することがなく、他者に意見をいう技術も、言葉も磨いてこなかった私たちは、ユダヤ人の「優位性」や「選民意識」など、都合のいい部分だけ似ているだなどと妄想を膨らませている人は多いものの、

批判されることによって培われてきたこともなく、宗教についてあまり考えないことが「常識人」だということに安住し、他国の宗教を理解しようとしていません。

それなのに、どうして、靖国神社への参拝をいずれ他国が理解してくれるだろう。などと期待することが出来るんでしょう?

神とは何か? という根本的な問題はさておき、

現実に、「他者」が神とどう接してきたか?について、
特に、ユダヤ教について楽に読める本は希少だと思います。

価格が安いだけでなく、注釈がとても豊富なので、その部分の読みやすさからも「電子書籍」の方に利があると思いました。下記は、Kindol版のリンクですが、私は「iBook」で購入し、iphoneで読みました(私が購入した時点ではKindle版より安かったので)


《MJメモ》

あらゆる本に登場する「マイケル・ジャクソン」ですが、2005年に出版された本書の564Pには、

アンサーズ・イン・ジェネシス(AiG)と呼ばれる福音派が建築中の、6千年足らず前に神が塵からアダムを創ったと信じる人々にとってのルーブル宮と著者が称する「創造博物館」を見学して、

完成のあかつきには、マイケル・ジャクソンの裁判並みに大勢のマスコミが押しかけてくるだろう。

また、カパロットと呼ばれる正統派ユダヤ教徒によって行われる儀式を見に行き、そのすごい人ごみの中で、ラビ・シュムリーボテアックに出会い、

上院議員のジョー・リーバーマン、レゲエ・ミュージシャンのマティスヤフについで3番目に有名な正統派ユダヤ教徒。。。「ザ・ラーニング・チャンネル」のショーを準備中で(のちに放送された)、驚くほどマスコミ通だ。「以前ここにドキュメンタリー番組のクルーがきたことがある。なんの説明もなく、それだけ見たら、野蛮でくだらない感じがする」我々の文化にはもっとくだらないものがたくさんあるんじゃないだろうか」「カパロットはボトックスよりもくだらないだろうか?全実体変化よりもくだらないだろうか?」

・・・などの記述がありました。


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by yomodalite | 2014-01-21 09:58 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)
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今年行った伊勢神宮のお神酒と、
神宮の街道で買った狛犬。




伊勢神宮には狛犬だけじゃなく、
生物を造形したものがないのだけど、
大阪に来てから、この地の神社を多く訪れたせいか、
ますます「狛犬」が好きになってしまったから。

それで、大阪の神社やお寺のことを考えつつ、伊勢神宮のことや、
年末は、安倍首相の靖国参拝が大きく報道されていたので、
靖国神社のことも考えてみたり。。

後ろに飾った「陰影礼賛」はジャン・クロード・ルマニーのキュレーションによる
フランスの現代写真家の本なんだけど、
私が愛している日本が表現されている「言葉」だから、
祈るにはいいと思ったのだ。

私がマイケル・ジャクソンについて、どうしても書かずにいられなくなってから、
あっと言う間に3年が過ぎ去り、今年中にまとめたかったけど、できなかったことも、
来年目標にしていることもたくさんあって、要するに、興味が尽きることはなく、
また、自分で納得できたことも少なかった。

東京から、大阪に移ったことで、気づいたこともたくさんあり過ぎるのだけど、

それを、なんとか、ひとことで言うとすれば、

今、東京でものを考えるのは、とても危険だということを思い知った。

今から30年近く前、名古屋から東京に行ったときは、
そんなに大きく違っているように感じたことはなかったけど、
今年、大阪に来てからは、毎日その違いに驚くことがあって、
その違いを、あえて、ひとことで言えば、

宗教がちがうのだと思う。
大阪のTVで話される言葉が、東京とちがうのは「関西弁」だからではない。

宗教という言葉には、アレルギーがある人が多いので誤解されるかもしれないけど。。
でもね、「宗教」について考えざるを得ない時代は確実に来ていると思う。
「癒し」としてではなく、「戦争」が近づいてきているから。

東京は徐々に米国に似てきた。

90年代以降、米国への憧れがなくなり、そんなに支持もされなくなったのに、
なぜか「米国化」だけは進んだ。
東京が都市化していくことに反対する気持ちはないけど、
近年はただ世界中にありふれている街になっているだけみたい。

でも、本当はもうずっと前から、
ただ「外国」を取り入れてきただけだったのかもしれない。
だから、それが素晴らしく見えなくなってきてからも、
慣習として流されているだけなのかもしれない。

東京では、だいぶ前から、落語も、歌舞伎も流行っていて、
着物を楽しんでいる人も全国一多いと思うけど、
それが、そこに住む人のマインドにはほとんど反映されていない。
大阪の文化は、現代のこどもにも影響を与えていることが感じられるのに。。

それが、どうしてなのかはわからないけど、
人のエネルギーが反映されない街が良くなることはない。ということだけは確かで、
それで、もう一度「オリンピック」に頼らなくてはならないんだと思う。

選手たちの競技を見るのは、楽しいし、感動することもいっぱいあるけど、
彼らに「明日への意気込み」を聞く人たちは、なぜ、そんなわかりきったことを、
何度も、何度も、質問し、視聴者からの感想にすら、決まりきった答えを求めるのか?
「自問自答」してくれたらなぁと思う。

私の記憶では、
90年代までは「勇気」が、人からもらえるものだなんて思う人はいなかった。

3年以上、マイケル・ジャクソンについて考えていても、
わかったことは極わずかだけれど、「英雄」とはなんなのか?
については、自分なりに答えが出た。

それは、自分の勝利ではなくて、人類の勝利に身を捧げたひとだと思う。

人類の勝利とは、弱肉強食の生物の世界とはちがう「愛と平和」の実現のことで、
それは誰もが夢みながら、一度も実現されたことがない、
一番困難な道だから、もっとも偉大なことなのだ。

英雄とは、その道を歩もうとして、努力を絶やさず、
人生の最後まであきらめずに、足掻いたひとのことだと思う。

でも、そんな英雄のことを、四六時中、考えてたところで「勇気」ももらえないし、
人の「信念」のようなものは、端から見ていると「危険」にみえてしかたがない。

生前のマイケルでさえ、そうであったように。


今年は、人類がまだ「愛」がどんなものなのかでさえ、誰もわかっていない。
ということを、例年になく突きつけられた年でした。

来年は、今年よりも良い年になりますように!



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伊勢神宮(2013.11.9)




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by yomodalite | 2013-12-29 11:54 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)
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今日は、私の好きな文学オールタイムベストのひとつ『O嬢の物語』(澁澤訳)を、
ステファン卿ではなく、ジャクソン卿への不埒な欲望をバネに、
英語訳と照らし合わせながら読みました。

下記は第2章「ステファン卿」の中から少しだけ。。
電車の中でも安心して読める箇所をセレクトしてますw


Sir Stephen
ステファン卿

Sir Stephen stirred the fire, Rene suddenly went behind the sofa and, seizing O by the throat and the hair, pulled her head down against the back of the couch and kissed her on the mouth, a kiss so prolonged and profound that she gasped for breath and could feel her loins melting and burning. He let her go only long enough to tell her that he loved her, and then immediately took her again. O's hands, overturned in a gesture of utter abandon and defeat, her palms upward, lay quietly on her black dress that spread like a corolla around her. Sir Stephen had come nearer, and when at last Rene let her go and she opened her eyes, it was the gray, unflinching gaze of the Englishman which she encountered. let her go and she opened her eyes it was the gray, unflinching gaze of the Englishman which she encountered.

ステファン卿は火をかきたてた。ルネはいきなりソファのうしろへまわって、Oの首と髪の毛をつかむと、ソファの背に彼女の頭をのけぞらせて、その口に接吻した。長い激しい接吻だったので、Oは息がつまりそうになり、全身が熱く溶け出すような感じがした。愛してるよ、と言うあいだだけ、ルネはOを離し、すぐまた彼女をつかまえるのだった。Oの身体のまわりに花冠のように広がった黒いスカートの上に、彼女の手は、掌を上にして、ぐったりと投げ出されていた。このとき、ステファン卿が近づいてきた。Oがようやくルネの手から完全に解放されて、ふたたび目をあけると、すぐ目の前にイギリス人の灰色の、まっすぐなまなざしがあった。
 
Completely stunned and bewildered, as she still was, and gasping with joy, she none the less was easily able to see that he was admiring her, and that he desired her. Who could have resisted her moist, half-open mouth, with its full lips, the white stalk of her arching neck against the black collar of her page-boy jacket, her eyes large and clear, which refused to be evasive? But the only gesture Sir Stephen allowed himself was to run his finger softly over her eyebrows, then over her lips. Then he sat down facing her on the opposite side of the fireplace, and when Rene had also sat down in an armchair, he began to speak. (~P69 - P70)

が、彼女はまだ茫然としていたし、幸福に息をはずませてもいたので、彼女を賛美し欲望する男のまなざしに、ほとんど気がつく余裕もなかった。彼女のぬれた半開きの口や、ふっくらした唇や、ページ・ボーイ風なジャケットの黒い襟からのぞいた白い首や、大きな澄んだ目に、いったい、誰が抵抗しえたであろうか。しかしステファン卿があえてした行為は、ただ指で彼女の眉毛と、それから、ステファン卿は暖炉の反対側の、Oの正面にすわった。そしてルネも肘掛椅子にすわるのを待って、次のように話しはじめたのである。



Sir Stephen's quiet, self'- assured voice rose in an absolute silence. Even the flames in the fireplace flickered noiselessly. O was frozen to the sofa like a butterfly impaled upon a pin, a long pin composed of words and looks which pierced the middle of her body and pressed her naked, attentive loins against the warm silk. She was no longer mistress of her breasts, her hands, the nape of her neck.

ステファン卿の静かな落ち着いた声が、ふかい沈黙のなかで鳴り響いていた。暖炉の炎さえ、音もなく燃えていた。Oはソファのうえに、ピンで留められた蝶のように釘づけになっていた。言葉と視線でできたその長いピンは、彼女の身体の中心をつらぬいて、彼女の敏感な臀を生暖かい絹の上に圧しつけた。Oには、もう自分の胸や襟首や手の感覚もなくなっていた。

But of this much she was sure : the object of the habits and rites of which he had spoken were patently going to be the possession of (among other parts of her body) her long thighs concealed beneath the black skirt, her already opened thighs.

それでも、いまステファン卿の言った習慣とか儀式とかいうものが目的としてねらっているものは、自分の肉体の各部分のなかでも、とりわけ黒いスカートの下にかくれた、あらかじめ半開きになっている、自分のすんなりした二本の脚であることを疑うわけにはいかなかった。

Both men were sitting across from her. Rene was smoking, but before he had lighted his cigarette he had lighted one of those black-hooded lamps which consumes the smoke, and the air, already purified by the wood fire, smelled of the cool odors of the night.

ふたりの男は彼女の方を向いていた。ルネはタバコをふかしていたが、ふと近くにある黒いシェードのランプに灯りをつけた。煙はその灯影に吸い込まれ、すでに暖炉の木の匂いによって浄化されていた空気に、さらに夜の冷気が立ちこめた。
 
“Will you give me an answer, or would you like to know more?" Sir Stephen repeated.
“lf you give your consent," Rene said, “I'll personally explain to you Sir Stephen's preferences."

「返事をしてください。それとも、もっと聞きたいことがありますか?」とステファン卿がまた言った。「もしきみが承諾してくれたら」とルネが言った。「ステファン卿に優先権があるってことを、ぼくから説明してあげよう」

“Demands,"Sir Stephen corrected.

「むしろ請求権というべきだよ」とステファン卿が訂正した。

英文:Story of O by Pauline Réage(P69~P72)
日本語:O嬢の物語 渋澤龍彦訳(河出文庫(P109~110)

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◎[Wikipedia]O嬢の物語
◎[Wikipedia]ドミニク・オーリー(ポーリーヌ・レアージュ)

☆英語版はペーパーバック、Kindle版ともに2種類ありますが、上記で引用した本はこちらです。河出文庫版と同じマンディアルグの序文やジャン・ポーランの推薦文も収録されています。
◎[Amazon]Story of O by Pauline Réage

☆澁澤訳のKindle版も角川と河出の2種類あって角川の方がお安いようですが。。
◎[Amazon]O嬢の物語 渋澤龍彦訳(河出文庫・Kindle版)

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by yomodalite | 2013-12-08 23:14 | 文学 | Trackback | Comments(0)

歌舞伎町のミッドナイト・フットボール - 世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間

菊地成孔



最近まで、何度か恩義に感じてはいたものの、氏のあまりにも素敵な感性にも教養にも、つよく影響受けてしまうのが怖い…

という乙女心からか、手に入れただけで何冊も「積ん読」状態だった、菊地成孔氏の本をついに読んだ。全速力で。ふぅーーーー予想どおり凄かった。

(おわり)

って感じで終わってもいいんだよね。ブログって(笑)

ていうか、その方が普通だよね?

大体、いつも長過ぎるんだって。

長過ぎたなぁっと思って、短く削るのにさらに時間使ったりして、いつも思うのだ。

アホかと。

いったい何をやっているのかと。

それで、この間にフラフープでも回していたら、何カロリー消費できたかとか、ちょっぴり考えるんだけど、やっぱり、菊地氏の本から少しメモしておくことにします。

素敵な本ばかりなので、どれにしようか迷って、最初『ユングのサウンドトラック』にしようと思ったのね。白いジャケットがおしゃれだから。。

でも、その本は個性が光る映画レヴューだから、記録しておきたくない(映画についての誰かの感想をできるだけ覚えておきたくないの)、『スペインの宇宙食』も、デヴュー作だし、おしゃれだし、白いしw、あと、東大の講義録の文庫は単行本に比べて表紙が...残念で、ヒョードルとかノゲイラのことも気になるし、白くていいなって思ったんだけど、

私の苦手な新宿「歌舞伎町」がタイトルの黒い本から、MJに関連した部分を少しだけ。。


「マイケル・ジャクソンの鼻」

(p201~204からつまみ食い)

「どんなに頑張っても、日本人と黒人はノリが違うよ」というのは、現在では80%は信仰で、真実は20%ぐらいじゃないかな。と思います。(中略)

結論を言えば、米製ブラック・ミュージックチャートゲッターは、エレクトロとテクノとの境界を大胆に壊しているのに対して、日本のそれは、全然そこまでいってません。でも、チャートゲッターでなければ、例えば、夜中にやってるクラブカルチャーを紹介する番組で流れてる、もうぼくには名前もわからないDJ達の音楽は、軽々とそれをやってます。

これは、日本のチャートの保守性。というより、米国のチャート、特にブラックミュージックの先鋭性。と考えた方が良いと思います。MIS - TEEQなんて、もうあれCGです。ビヨンセもジャネット・ジャクソンもCG。凄い素材をあらゆる人工化によって、完全に制御しています。極端に言うと、プロトゥールス(編集装置)。切り貼りが過ぎて音が汚いと思う側面すら有ります。(中略)

ですから、米製ブラックミュージックのチャートゲッターに特化される物は「人工美」への徹底と、基礎リズム感であるアフリカ訛り。そしてどういうわけだかあの「宇宙臭さ」。ね?宇宙船と交信してるようなイントロダクションの多いこと多いこと。そしてこの2つは、明らかにマイケル・ジャクソンを発祥にしていると断言して良いでしょう。

野田努さんの名著『ブラック・マシン・ミュージック』は、黒人を筆頭とする、すべての被差別者の哀しみが、何故もう宇宙に向かうしかないのかを克明にルポしているのですが、まあ、マイケル・ジャクソンには触れていない(そういう本じゃないから)。しかし、徹底した人工美と宇宙。もっと言えば、地球の歴史を総て詰め込んだタイムカプセルとしての宇宙船に乗っている感じ。

米製ブラック・ミュージックのチャートゲッターの多くは、マイケルの引力の中にいる。フロイディアンとして言わせていただければ、マイケル・ジャクソンの自我の中にあるわけです。日本人はプリンスの真似は出来ても、マイケル・ジャクソンの真似は出来ません。そしてそれは日本人に限ったことではないんですね。

クレオパトラの「鼻があと1センチ低かったら」歴史は変わっていた。という、古い格言を想いだしました。

(引用終了)

「マイケル・ジャクソンの鼻が低いままだったら、歴史は変わらなかった」

氏の解説によれば、上記の文章は2003年、雑誌「スタジオ・ヴォイス」12月号が初出。私はそれよりずいぶんと気づくの遅かったけど、気づかないよりは「マシ」だったと思う。

[追記]あきらさんからとてもとても素敵な動画を紹介していただきました!


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by yomodalite | 2013-11-19 09:02 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(3)

絵本スマーフ物語

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スマーフ物語を読んでみた。どうして、読んでみようと思ったかといえば、


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こういう理由なんだけど…w

ミリタリージャケットの下には、必ず「白Tシャツ」だったMJが、TIIのときだけ「キャラT」だった理由とは? 

実はスマーフの青い肌には…
無邪気なしぐさに隠された、スマーフの真実の姿とは…

その謎は、第1話『黒いスマーフ』を読めばわかります!
(んなわけないw)

スマーフの青い肌が、ある日突然、黒くなってしまう。スマーフ村のリーダー「パパスマーフ」は、元の青い肌にもどすために、様々な実験を繰り返し、薬を調合するが効き目はなかなか現れない。特効薬が見つからないうちに、ひとりまたひとりと、どんどん黒いスマーフが増えていく。このまま、青いスマーフはいなくなってしまうのか。はたして、パパスマーフは、スマーフ村の危機を救えるのか?

続きはこちらで!


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こちらは、同じく第一巻に収められた『とらわれのスマーフ』

◎[Wikipedia]スマーフ
◎[参考記事]スマーフの絵本

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by yomodalite | 2013-11-12 11:31 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)
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[追記あり。コメント欄も参照してください]

「マザー・テレサの8か条」と同じく、ネット上でよく紹介されている言葉に、
「マザー・テレサの生活問答24か条」と言われているものがあります。

ある執筆者がスペインの家庭を訪問したときに、その家の壁に貼ってあった。
と説明されていることが多いようです。


☆続きを読む!!!
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by yomodalite | 2013-10-29 20:29 | 精神・教育・自己啓発 | Trackback | Comments(13)
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[追加修正あり。コメント欄を参照してください]

「Honoring the Child Spirit」の「あとがき」へのコメントで、「逆説の10か条」をご紹介いただきました。

確かに、マイケルにぴったり当てはまっていると思ったので、これが書かれている本を読んでみることにしました。

◎[Amazon]それでもなお、人を愛しなさい

本書の「はじめに」によれば、この10か条は、著者がハーヴァード大学2年生の19歳のときに書いた「リーダーシップのための逆説の10か条」で、高校の自治活動で活躍しているリーダーたちのために書いた『静かなる変革ー生徒会におけるダイナミックなリーダーシップ』という小雑誌の一部だったそうです。

その本は1968年に大学学生部によって出版され、1960年代後半から70年代前半にかけて、およそ3万冊が売れた。それから、1997年9月、マザー・テレサが亡くなってまもなくのこと、ルシンダ・ヴァーディが編纂した『マザー・テレサ語る』という本の最後に載っていたテレサの詩「それでも」に、フォーマットは少し変わっていたものの、自分の10か条のうち8つが使われていた。

自分が30年前に書いたものがインドにたどり着いて、マザー・テレサがその言葉の重要性を認めてくれたことに、著者は、背筋がぞくぞくした。と書いています。

それで、マザー・テレサの8か条も調べてみました。

逆説の10か条も、マザー・テレサの8か条もネット上で簡単に見つかります。とはいえ、こういった有名人のことばは、最初の言葉から微妙に省略されたり、抜粋されたりして、本来の意味とは、少し違ったものになっている場合があるということを、数年間のMJ研究においても学んでいましたし、

宗教に絡んでいる場合の翻訳は、特に怪しいことが多い。ということも、これまで読書で経験していたので、これも原本を確認してから、書いておくべきと思ったのですが、

なんだかね。。今日はそんな自分に疲れてしまって(笑)、

とりあえず、ネットに散々コピーされている「マザー・テレサの8か条」に選ばれていない「逆説の10か条」は、なにかについて、メモしておきます。


The Paradoxical Commandments
逆説の10カ条



People are illogical, unreasonable, and self-centered.
Love them anyway.
人は不合理でわからず屋で、わがままな存在だ。
それでもなお人を愛しなさい。



If you do good, people will accuse you of selfish ulterior motives.
Do good anyway.
何か良いことをすれば隠された利己的な動機があるはずだと人に責められるだろう。
それでもなお良いことをしなさい。



If you are successful, you will win false friends and true enemies.
Succeed anyway.
成功すればうその友だちと本物の敵を得ることになる。
それでもなお成功しなさい。



The good you do today will be forgotten tomorrow.
Do good anyway.
今日の善行は明日になれば忘れられてしまうだろう。
それでもなお良いことをしなさい。



Honesty and frankness make you vulnerable.
Be honest and frank anyway.
正直で率直なあり方はあなたを無防備にするだろう。
それでもなお正直で率直なあなたでいなさい。



The biggest men and women with the biggest ideas can be shot down
by the smallest men and women with the smallest minds.
Think big anyway.
最大の考えをもった最も大きな男女は、
最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
それでもなお大きな考えをもちなさい。



People favor underdogs but follow only top dogs.
Fight for a few underdogs anyway.
人は弱者をひいきにはするが勝者の後にしかついていかない。
それでもなお弱者のために戦いなさい。



What you spend years building may be destroyed overnight.
Build anyway.
何年もかけて築いたものが一夜にして崩れ去るかもしれない。
それでもなお築きあげなさい。



People really need help but may attack you if you do help them.
Help people anyway.
人が本当に助けを必要としていても、
実際に助けの手を差し伸べると攻撃されるかもしれない。
それでもなお人を助けなさい


10
Give the world the best you have and you'll get kicked in the teeth.
Give the world the best you have anyway.
世界のために最善を尽くしても、その見返りにひどい仕打ちを受けるかもしれない。
それでもなお世界のために最善を尽くしなさい




前述の「はじめに」に書かれていたように、マザー・テレサのものは8か条ではなく、"Do It Anyway"(「それでも」)という詩で、逆説の10か条と、ほとんど同じ意味の詩が8つと、最後にもう一編の詩がついています。この言葉は、カルカッタの「孤児の家」の壁に書かれているとされていますが、そちらは「8か条」として書かれているのかな?

(ネット上にある日本語の「8か条」は英文と合わないことがわかり、日本語は「私訳」に変更しました。訳文で気になる点は遠慮なくご指摘ください)


"Do It Anyway"
それでも



People are often unreasonable, irrational, and self-centered.
Forgive them anyway.
人は不合理で、わからず屋で、自己中心的です。
それでも、人を許しなさい。


 

If you are kind, people may accuse you of selfish, ulterior motives.
Be kind anyway.
あなたが親切をしたなら、
人は利己的で隠れた動機があるはずだと批難するかもしれません
それでも、親切をしなさい。




If you are successful, you will win some unfaithful friends
and some genuine enemies. Succeed anyway.
あなたが成功したなら、不実な友と本物の敵を得ることになるでしょう。
それでも、成功しなさい。




If you are honest and sincere people may deceive you.
Be honest and sincere anyway.
あなたが正直で誠実であるなら、人はあなたを騙すかもしれません。
それでも、正直で誠実であり続けなさい。




What you spend years creating, others could destroy overnight.
Create anyway.
あなたが永年創り上げたものでも、一晩のうちに壊されることがあります。
それでも、作り続けなさい。

 


If you find serenity and happiness, some may be jealous.
Be happy anyway.
あなたが、落ち着いた幸せを見つけたなら、それに嫉妬するひともいるでしょう
それでも、幸せになりなさい




The good you do today, will often be forgotten.
Do good anyway.
あなたが行なったいいことは、しばしば忘れられるでしょう
それでも、いいことをしなさい。

 


Give the best you have, and it will never be enough.
Give your best anyway.
あなたの中の最良のものを与えても、十分ということはありません。
それでも、最良のものを与えなさい




In the final analysis, it is between you and God.
It was never between you and them anyway.
最後に振り返ってみれば、あなたにもわかるでしょう
これらは、あなたと神との間のことです。
あなたと誰かの間のことでは、決してないのです。




マザー・テレサの8か条には、

最大の考えをもった最も大きな男女は、
最小の心をもった最も小さな男女によって撃ち落されるかもしれない。
それでもなお大きな考えをもちなさい。

人は弱者をひいきにはするが勝者の後にしかついていかない。
それでもなお弱者のために戦いなさい。


が含まれていませんでした。実は、逆説の10か条を見たとき、
私が気になったのも、この二か条だったんです。

それは、別にケント・M・キース氏に文句があるわけではなく、ケント氏はハーヴァードを卒業して「リーダーシップ」をとるような人のために書かれていたということで納得したのですが、自分が信条にすべき文章としては、この部分が一番迷ったということです。

それで、マザー・テレサの言葉を確認したかったのですが、やっぱり、彼女の言葉にはそれはなく、彼女は「誰かのため」ではなく、「自分と神との間のこと」として書かれていたんですね。

ふぅーーー納得(笑)

[追記]と思ったのですが、そうとは言えないことが判明!
コメント欄をぜひご覧くださいませ。



自分のブログに、マザーテレサが登場するなんて、そうはないと思うので、
テレサの言葉をもう1回だけ続けます。

☆“24 questions and answers” マザー・テレサの言葉



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by yomodalite | 2013-10-28 23:09 | 精神・教育・自己啓発 | Trackback | Comments(13)
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隊長が喉のために溶かして飲んでいたキャンディを舐めつつ、

ここ最近(私の基準だと半年ぐらい。NEWSは大体そのぐらい寝かす方ww)
気になった記事とか、つぶやきなどを、ちょっぴりメモ。。

◎(2013.8.30)スティーヴン・ウォルトによるシリア介入反対論
「アサドの武器使用は、米国の政策に影響を与えるべきではない」

([NYTimes]Weapons Assad Uses Shouldn't Affect U. S. Policy)

参考(2013.6.21)世界大戦としてのシリア問題「ロシア政治経済ジャーナル」転載

◎(2013.9.07)プーチン大統領「ロシアはシリア支援を継続」

参考(2010年7月)フォーリン・アフェアーズリポート「ロシアのNATO加盟を」

◎(2013.9.09)シリア危機:イスラエルも「両者弱体」を狙っている?

◎(2013.9.10)オバマ大統領は対シリア政策をどのようにして見誤ったのか

◎(2013.9.11)化学兵器の国際管理化が実現してもシリア問題は解決しない


世界大戦の足音が近づいてきて、アジアの分断に拍車がかかっても、その団結に日本はもう絶対に関われないだけじゃなく、先頭を切って「行かされる」ことも本決まりな日々の動きを見ていると、ヨーロッパは戦争に慣れてていいなぁと思う。日本のように周辺諸国と分断して、なんて、EUのグローバル戦略と違って国民にとってまったく「いいとこ」がない。。としか思えないんですけどぉ (-_-;)(=_=;)


ひ~た@twinhita(2013.9.09)
蛯子能収が考えたオリンピックマスコット「トカイッコ」
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とりあえず、喉だけは「スッキリ」しておきたい。。


☆爆笑必須!!ベトナムの日本語メニュー


坂口恭平 ‏@zhtsss
"Escape from Tomorrow" Movie Official Trailer ディズニーに無許可でやってるっぽいです。エプコットともなんか関係ありそうな予告。

"Escape from Tomorrow" Movie Official Trailer


エプコット/フロリダ州・オーランドの湿地帯ならではの多くの水を生かしたディズニーパークの中のひとつで、エプコットは、パークテーマの「実験未来都市」の頭文字(EPCOT = Experimental Prototype Community of Tomorrow)。「キャプテンEO」はここにある。


SUPERワクワク隊/紀伊國屋新宿南店@super_wakuwaku
先日トーク&サイン会でご来店いただいた豊崎由美さんと栗原裕一郎さんに『石原慎太郎を読んでみた』のサイン本を作っていただきました!お求めはお早めに~☆ 豊崎さん、栗原さん、ありがとうございました! pic.twitter.com/vPWIx4HnXP

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なんでなのか、わからないだけど、世界のあらゆる人々の中で、「石原慎太郎」のことを悪く言うことぐらい気が楽なことはないね。

日本でも世界でも、うんざりするような人たちは、顔を思い浮かべるだけでうんざりだし、芸能人のひとは、なんだかんだ可哀想だし、、

誰に文句を言おうとしても、こっちまで「ちっちゃく」なったり、
卑しくなったりしそうで、

それにひきかえ「石原慎太郎」って、ちっちゃく書いても、でっかく見える文字面とか、

絶対に傷つきそうにない無神経なまでの度量の大きさがあるから、

石原慎太郎が、がっくり肩を落とすとか、

石原慎太郎が、涙ながらに謝罪とか、

そんなことされたら、ホント困るw

なんか、そんな風に考えてると、石原慎太郎がいなくなったら

もう、東京も終わっちゃうんじゃないかとか、

最近の他力本願ばかりで、大樹へ寄り添うばっかりの東京を見ていると、

そんな心配さえしてしまふ。。

とりあえず、、『石原慎太郎を読んでみた』は読んでみようと思うけど、
意外と「いいこと」が書かれていたら、どうしよう (-_-)


本日の「BGM」は、
サンプリング界の鬼才による、MJインスパイア曲(と私が勝手に思ってる曲)

Matthew Herbert 「Leipzig」ライプツィヒ







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by yomodalite | 2013-09-26 09:00 | 日常と写真 | Trackback | Comments(10)
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☆Edgar Allan Poe(2)“For Annie”の続き

つい最近になって、エマソンを読み始めたら(MJ研究のためにねw)、彼がポーを散々な言葉で批判しているのを発見して、それでエマソンよりも、ポーの方に夢中になってしまって、これまで、私がイメージしていた人とは別の「ポー」が現れはじめました。

それは、またしてもイメージだけが膨らんでいくようなものだったのですが、ラッキーなことに「私のポー」を、適確に著してくれた日本一のポー研究者・八木敏雄氏の本に出会うことができ、ポーにハマったとほぼ同時に、八木敏雄氏に夢中になってしまったので、八木氏の著作の中から、『エドガー・アラン・ポオ研究 ー 破壊と創造』を紹介します。


◎1964年から『成城文芸』に連載された論文をまとめ、1968年初版....
[Amazon]エドガー・アラン・ポオ研究 破壊と創造


下記は、本書の「序にかえて ー ポオの評価をめぐって」を全文引用。

(下線は著者による傍点。太字は私のアンダーライン)



序にかえて ー ポオの評価をめぐって


その死後百有余年をへた今日、いまだにエドガー・ポオの評価は定まりかねているようである。それが定まりかねているのは、ポオが論じられることのすくなく、攻究されることの稀な作家であったからではない。彼がスフィンクスの如く巨大で謎めいた人物であったからでも、またむろん、彼が評価にあたいしない文学者であったからでもない。

事情はむしろ逆で、ポオに関しては、あらゆる種類の評価や好悪の意見は出つくし、その技法態度を蘇活すると否とにかかわる後世の意図は十分以上に果たされてしまった観がある。伝記的研究は旅役者であったポオの父母のレパートリーの研究からポオ自身の借金の額の詮索にまで及び、二巻よりなる書箇集は刊行をみ、彼の作品の精神分析学的研究はポオについてのいちばん部厚い本を生んでいるありさまで、普通なら、いまではこの作家について言いふるされていないようなことは言えぬのではないかと絶望するなり、安心するなりしてよいはずであるのに、事実はそうではない。

ポオがシェイクスピアの如き汲めどもつきせぬ偉大な作家で、各時代、各世代があらたな発見をしつづけてゆくであろうような作家であるなら、この事情に不思議はないのだが、ポオが偉大な作家ではないということ、彼の文学技法上の使命は終ったということには定説があり、しかもそれはどうやら動かしがたいようにみえる。

ポオの評価をめぐるこのような逆説的事態は、ポオがその生国アメリカでは永らく顧みられず、しかしフランスでは、ボオドレールやマラルメやヴァレリーなどの世界第一級の詩人たちによって高く評価され、そればかりか、彼らの創作の大いなる糧となり、したがって世界の近代詩のみならず、近代の文学全体に大きな影響をあたえた人物であったという文学史上の逆説によく象徴されている。 

むろん、かかる事態を招いた責任の一半はポオ白身にもあった。ヴァレリーの理解ある言葉を皆りれば、ポオが「自分自身の発見について、それが有する弱点を知悉していながら、その美点のすべてを強調したり、特長の一つ一つを宣伝したり、欠陥を隠したりし、いかなる代償を払ってもそれを彼が欲するものに似せようとして自分の発見に取り組む」たぐいの人間でもあったからだ。

「しかし、ポオの思想はその根本においてやはリ深遠で、偉大なのである」ともヴァレリーは保証する。知性の悲喜劇の愛好者にとって、ポオは依然として魅力ある人物たるを失わないであろう。が、いましばらくは直接にポオを対象にしないで、ポオの評価をめぐる後世の事態を観察してみたい。それがかえってこの作家の本質を解く鍵を提供してくれるかもしれないからだ。
 
ところで米国においては、ポオの評価はその百年忌にあたる1949年頃には、比較的低いところで定まりかけていたのである。そして、ポオを見なおし考えなおそうという風潮が起ってきたのも、この百年忌を境とする。手はじめに、1949年前後にポオについてなされた、目だった論者の発言を拾ってみよう。百年祭を記念して、ポオの詩と散文のアンソロジーを編んだモンタギュー・スレイターは、そのはしがきの枕に、「その死後百年になるが、ポオの作家としての位置を決定するのは容易なことではない」と書く。

V・S・プリチェットは『ポオ百年祭』というエッセーで、やはり開ロー番、「その死後百年になるが、いったいわれわれはポオをどう理解すればよいのか? われわれはこの作家から模糊として曖昧なものを読みとるだけだ。しかしこの作家から数々の文学上の重要な事柄が摂取されてきた。二流の作家、だがしかし示唆に富んだ発言者。ポオの天分は気まぐれで狭隘であったが、影響するところ甚大」と述べ、当惑を示す。

偉大なアメリカ文学の再編成者F・O・マシーセンでさえ、1948年という時点では、「ポオの最終的評価は、彼の作品がその原動力となった多くの文学的伝統を別にしては下しえないであろう」という目算を述べるにとどめた。T・S・エリオットの『ポオからヴァレリーヘ』は米国でのポオ再評価のきっかけのIつとなった論文だが、その冒頭の一節でエリオットは次のように述べる。
 
私がここでこころみようとしていることはエドガー・アラン・ポオの裁断的評価ではない。彼の詩人としての位置を定め、彼の本質的独創性を抽出してみようとは思ってはいない。まさしくポオは批評家にとって蹟き石である。彼の作品を詳細に検討してみると、ずさんな筆運び、広範な読書と深い学識に支えられていない未熟な思考、主として経済的な逼迫のせいだろうが、細部にまでわたる完璧性に欠けた、さまざまなジャンルでの気まぐれな実験といったものしか見出せないようにみえる。

が、これでは公正を欠くだろう。ポオの作品を個々別々に見ないで、全体として遠望するなら、たえず目をそこにやらずにはおれぬような、特異な姿と印象的な大きさを有する全体として、われわれの目にうつる。ポオの影響という問題もまた、われわれをとまどわせる……。
 
ここでエリオットは、ポオを「全体として」、つまり『大鴉』の詩人、『アッシャー館の崩壊』の短篇作家、『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の長篇作家、『詩作の哲学』の詩論家、『ユリイカ』の宇宙思想家などと個別的に見ないで、それらが微妙に絡みあって構成されているポオを全体として眺めることを提案している。が、エリオットがここで示している当惑も単なる修辞的ポーズではなかろう。

たとえば、同じ論文で、エリオットは「ポオに欠けているものは頭脳力ではなく、人間全体としての成熟をまってはじめてもたらされるところの知性の成熟であり、彼のさまざまな情緒の成長と調整なのである」と指摘することを忘れない。そして注意していただきたいことは、これが米国におけるポオ再評価のきっかけとなった論文の口調だということである。
 
それ以前の米国におけるポオ評価はどうであったか。ヘンリー・ジェイムズ(「ポオを熟愛できるということは幼稚な思考の段階にあることのあきらかな証拠である」)からポール・エルマー・モーア(「ポオは未熟な少年と不健全な大人のための詩人」)をへて、今日のアイヴァー・ウィンクーズ(「ポオは、彼の讃美考たちの主張するところによれば、理論と実際とをみごとに合致させたそうだが、その理論も実際も、ともにお話にならぬほどひどいものである)に至るまで、アメリカの各世代の代表的作家、批評家がポオを高く評価したためしはなかった。
 
しかし真摯なポオ讃美者の群がフランスに見出せる。ポオを発見しポオをあがめたボオドレール、ポオとボオドレールを尊敬したマラルメ、ポオとボオドレールとマラルメを尊重したヴァレリーなどの面々。このポオ崇拝の系譜がそのままフランス象徴主義の系譜を形成していることは、すでに何事かでなくてはならぬと思わせる。

たとえばボオドレールは、はじめてポオの作品を読んだとき、そこに「私が順に思い描いていた主題ばかりか、私が考え抜いていた文章さえも見出した」と告白している。この告白に嘘がなかったことは、ボオドレールはポオの『詩の原理』をほとんどそっくりそのままフランス語に移しかえ、それを自分の詩論尚として発表していることからもうかがえる―「われにもあらず自分によって作られたと思ってしまうほど、ぴったりと自分のために作られていると思えるものは、これを自分のものとせざるを得ません」とはボオドレールに対するヴァレリーの美しい弁護だが、同類にのみ許される剽窃の事例というわけか。

だがボオドレールがいかにポオに傾例していたかの傍証としてなら、『悪の華』という詩集を一冊出しただけの彼が、またけっして着実な性格の持ち主ではなかった彼が、ポオの散文作品ばかりは生涯休みなく仏訳しつづけたという事実に如くものはあるまい。クレペ編のボオドレール作品集12巻(書簡その他を含めて全19巻)のうち、じつに5巻がポオの翻訳によって占められている。これをボオドレールの詩才のために借しむのは勝手だが、彼にとってポオの散文作品の翻訳が畢生の事業の一つであったことをこれは物語る。
 
若き日のマラルメは「もっとよくポオを読めるようになりたくて」英語を勉強した、とある手紙にしたためている。そしてマラルメのポオ崇拝の念は生涯変ることがなかった。詩(“L’Azur”)をカザリスに献じたさいに添えた手紙に、マラルメは「この方向に進んでゆけばゆくほど、私はわが偉大なる師エドガー・ポオの示した厳格な理念に忠実になってゆくでありましょう」と書いている。またポオの詩をはじめてフランス語に訳したのはマラルメであった ー おそらく、ある畏敬の念からでもあろうが、韻文訳をあきらめ、散文に移すにとどめたけれども。
 
完璧という病いにとりつかれていて、誤謬を犯すことがなによりも似つかわしくなかったポール・ヴァレリーは、「ポオは唯一の完璧な作家である。彼は誤ちを犯したことはなかった」とまで断言する。またヴァレリーは、英米にあってはまったく顧みられることがなかった『ユリイカ』について美しいエッセーを書いた。それがヴァレリーの批評に堪えたということが、すでに何事かであることをわれわれにしのばせる。ヴァレリーはまた独立のポオ論を書いているけれども、『ボオドレールの位置』というエッセーはボオドレール論であると同時にポオ論でなければならなかったほど、彼はポオに深い関心を寄せていた。ここでしばらくヴァレリーの雄弁に耳を傾けてみるのも無駄ではあるまい。
 
明晰の魔・分析の天才、また、理論と想像、神秘性と計算のもっとも樹齢でもっとも心を惹く総合の発明者、例外の心理家、芸術のあらゆる資源を極め利用する文学技師、これらはエドガア・ポオの姿をとってボオドレールの前に現われ、彼を驚歎させます。これほど多くの独創的見解と非常な約束とは技を魅了します。彼の才能はこれによって変容され、彼の運命は華々しく一変されます。(佐藤正彰訳)
 
これらフランスの詩人たちのポオを語る語り口と英米人のそれとを較べてみるがよい。その違いようは怪しむにたる。だがボオドレール、マラルメ、ヴァレリーなどが高い知性と鋭敏な感受性の持ち主であり、すぐれた批評家であったことは紛う方なき事実なので、彼らのポオ讃美が、ヘンリー・ジェイムズの言うように、彼らが「幼稚な思考段階にあることのあきらかな証拠」とはならぬことはたしかである。

これらのフランス詩人たちの「過大な」ポオ評価を彼らの英語力の不足のせいにする意見はなかなか有力である。英語を母国語とする者ならすぐそれと気づくポオの詩の未熟な語法や不正確な韻律に、彼らは気がつかなかったとする意見だ。それはありえたことである。しかし彼らの栄光は英米の読者がポオに見落していたものを見出したことにあった。
 
それでは、比較的低い評価しかあたえなかった英米の評家たちが完全に間違っていたのであろうか? すでに引用した英米の評家もいずれ劣らぬ一流の作家、詩人、批評家たちであってみれば、そういうことはありそうにない。彼らのポオに対する不満は、詮ずるにポオが成熟することを知らぬ文学者であったところに向けられていたのだ。「未熟な少年と不健全な大人のための詩人」というモーアの評は彼らのポオに対する最大公約数的な意見であったと言ってもよい。
 
「成熟する」とは、簡単に言って、この世の現実とかかわりあいながら人生観を形成することであろうが、ポオは現実を、そこに身を置き、生き、かつ人格を形成する場とは見なさず、ただ観察し、分析し、自己の知力によって綜合する対象としてしか考えていなかった、と英米の文学者たちに感じられているのである。一方、フランスの詩人たちは、ポオの観察し、分析し、綜合する意識的な態度に感心したのであった。所詮、両者の目のつけどころが違っていたのであるから、感心の仕方も違ってくるわけである。
 
教養ある英米の人士にとって、ポオの詩や短篇のいくつかは、少年の日にはある感興を覚えながら読んだことがあるけれども、長じて自然な欲求に駆られて再読してみたいとは思わぬていの読みものであるに相違なく、そのことがまたポオの未熟さを裏づけているように思いなされるのも自然なことでなくはない。たしかにポオの作品は、一度読めば生涯忘れえぬほどの印象を、われわれの意識下の記憶に刻みつけるけれども、そしてこれはポオが凡庸な作者ではなかったことの有力な証拠ではあるけれども、一方、一度読めば足リるということがあるのも事実である。

もし世界第一級の文学作品たるの資格が、まず再読に堪えること、読むごとにあらたな発見を読者に強いずにはおかぬこと、われわれを心底から震撼し、その震撼がある種の普遍的な質に到追していることなどであるとするならば、ポオの作品の多くがそのような資格に欠けていることを認めないわけにはいかない。
 
もっとも、われわれはそうしようと思えば、ポオの詩を幾度でも読むことができる ー 耳に快いから、野暮でないから。彼の短篇小説を再度たのしむことができる ーー ありうべからざることが現に眼前に展開されているかに錯覚させる短篇の技巧にすぐれているから、そうと知っていながらそのように進行してゆく筋や、そのように反応していく自分の精神の動きを確認するのにはある種の愉悦があるから。

しかしポオの詩は、それが一個の純粋な芸術作品でありながら、同時に人生や世界の不条理をしのぼせ、人間実存の姿を垣間見せるという世界第一級の詩が持たねばならぬ逆説的構造を有するまでには至っていないと感じさせる。

短篇小説の場合なら、たとえば『アッシャー館の崩壊』でのように、嵐の晩にいったん死んだはずのマデラインが生身で生きかえってくるような話に、もはやわれわれは心から驚かされることはない。要するにポオの諸作品はすでにわれわれを心から痛ましめず、傷つけず、人間性についてのあらたな発見を強いることもないように思える。

が、それにしても ーー とわれわれは思うわけだが、それというのも、純粋に芸術作品でありながら人生の多様性をはらみうるような短篇小説の原型を後世に示したのがポオであり、いまではすでに異常ですらなくなってしまったほどに「異常心理」の普及に力をかしたのがポオであり、サンボリストたちの仕事によって実証されたように、厳密と精緻の度を加えるに堪え、しかも世界の不条理を盛りこむに堪えるほどの詩の理論を最初に編み出したのがポオであったからである。

普通でないことを始めた当時には、それが普通でないという理由からうとまれ、それが普通になってしまう頃までには、それが普通でなかった当時の状態や発明者の独創は忘れ去られており、しかもそれにつきものの弱点や欠陥は出つくしてしまっている ーー という破目になるのが発明者や創始者の辛い運命なのかもしれない。が、議論を前に戻せば、決して後世によって凌駕されない仕事を残す文学者が存在する ーー たとえばシェイクスピアの如き。
 
だがアングロ・サクソン世界で、比較的低い評価しかあたえられなかったのはポオの詩や小説ばかりではなかった。いや、英米でいちばんうとんじられているのは、フランスの詩人たちに珍重され、彼らの財宝とまで見なされた『詩の原理』や『詩作の哲学』や『マージナリア』の断章に含まれていたポオの詩論のたぐいだった。

英米人には、ポオの詩論の有効性が彼自身の詩作によって実証されていないと感じられているからであろう。『詩作の哲学』が自作の詩『大鴉』を材料にポオが自己の詩作の態度と意図を開陳してみせた文章であることは周知のことであるが、これが英米ではことさらに評判が悪い。

詩の長さに対する考察、詩の純粋性の主張、詩作にあたっての意識的な分析と計算と綜合の必要性の強調、やがてサンボリストたちの合言葉とすらなった「音楽」の観念 ーー それらはすべてこの論文に見出せるわけだが、たとえば「この詩(『大福』)のいかなる些細な一点といえども偶然や直観のおかげを蒙ってはおらず、作業は数学の問題を解くときのような正確さと厳密さをもって、一歩一歩完成されていった」という作者の言明をその実作が裏切っていると見えるらしい。いかなる点がそれを裏切っているかを、エリオットは『大鵬』の次の一行をあげて指摘する。
  
In there stepped a stately Raven of the saintly days of yore.

不吉な福は、その逆ではないにしても、いささかも “stately”(気高い)なところはないはずなので、なぜこの鴉が “saintly days of yore”(気高いむかし)に属するのかわかりかねる、とエリオットは言う。また、“stately”(堂々たる)とここで形容されている鴉が幾行か先では “ungainly fowl”(見苦しい鳥)と呼ばれているが、これなど矛盾でしかない、とも。

この詩は主人公の意識の変化をたどる詩なので、その鴉の容姿も主人公の意識の変化とともに変化してもおかしくないと思えるけれども、この現代の代表的詩人の指摘はそれなりにわれわれを納得させるにたる。しかしポオが一篇の詩を書き、かてて加えて、その詩の意図から技術問題にまでわたる解説文を書いたことで、英米ではうとんじられる結果になり、フランスでは重んじられることになったのは、なお怪しむにたる。
 
要するに、英米の批判者たちの見たポオがポオのすべてでもなく、フランスの詩人たちが見た彼がポオのすべてでもなかったのである。ポオはそれらのすべてだった。この簡単な事実に気づかれるまでに、ポオはその死後百年を待たねばならなかったようである。

(引用終了)

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『破壊と創造 エドガー・アラン・ポオ論』の一部は、こちらで読めます。

http://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/043/043-04.pdf

ここの49ページ「養父ジョン・アランと養子エドガー・ポオとの関係は、しばしばポオに好意的な伝記作者たちによって加害者と被害者との関係として述べられている……」「アランとポオとの関係が加害者と被害者のそれであったとするならば、ポオには、その関係の温存をはかっていたと思えるふしがある……」「“子” の客観性のかなりの部分は “父” によって与えられるものであるから “子” は自分の自分の客観性に対してそれほど責任を持たなくてよい …… 

と続く文章にも、MJを描こうとする凡庸な伝記作者に飽きた。と思う方なら「ビビビッ」と来ませんか?(この文章は、このあと「アニー」も登場します)

☆エドガー・アラン・ポー(4)おすすめ文庫2冊!

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by yomodalite | 2013-08-07 09:30 | 文学 | Trackback | Comments(2)

Summer Greetings

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そんな暑さも乗り切れるような強靭な精神力を求めて、



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だって “彼” が、エマソン「全集」でもってるしぃ。。(-_-;)



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例の続きを書こうと思うと、

あれもこれも読んでおかなきゃ... って声が聴こえてきちゃって。。



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Penguin Cafe Orchestra - Perpetuum Mobile





♪~( ̄ε ̄;)



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http://tt050830.exblog.jp/7239018/




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by yomodalite | 2013-07-25 08:33 | 日常と写真 | Trackback | Comments(2)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite