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Cafe SONRISA(天五中崎通り)



日々の生活の中で、私は「どういうことなのかな?」っていう感覚を一番多く感じるタイプで、疑問符つきの感情を抱く事柄は、キリがないぐらいなんだけど、理解したいと思って、いろいろ人の意見を見ても、


☆More!!!
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by yomodalite | 2015-03-03 12:25 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)

「かなしみ」の哲学―日本精神史の源をさぐる (NHKブックス)

竹内 整一/日本放送出版協会




日本人はどうして「かなしみ」という否定的な感情に親しみを覚えるのか?

本書では、あらゆる角度から「かなしみ」について語られているのですが、

日本人の精神史においては、こうした「かなしみ」を感受し表現することを通してこそ、生きる基本のところで切に求められる、他者への倫理や、世界の美しさ、さらには、神や仏といった超越的な存在へとつながることができると考えられていたのではないか。つまり、「かなしみ」とは、生きていること〈死ぬこと〉の深くゆたかな奥行きをそれとして感じさせる感情なのではないかーー。

と「はじめに」には書かれています。

最近の私は、欧米の古典を読むうえで、「かなしみ」や、「もののあわれ」といった日本的な情緒で、ものごとを理解をしないように心掛けているんですが、反知性主義の時代と言われる、今の日本の現状は、宮台氏が言うように「感情の劣化」のようでもあり、


日本人が他者への共感を感じるには「かなしみ」という感情はとても大事で、また、世界から「LOVE」が失われているように感じるのも、深くゆたかな奥行きのある「かなしみ」が欠けていて、正義行動や、権利行動にばかり駆り立てられているからかもしれません。

差別を失くせ。という主張をどれだけしても、他者への同情や共感をもたれなければ、自分と同じだとは思えない。個性が尊重され、個性が競われる一方で、人類に共通した感情を確認することは、いつの時代であっても大事なことですが、現代では特に重要に思えます。

本書は、源氏物語や伊勢物語といった古典から、漱石や小川未明、宮沢賢治、井上陽水、谷川俊太郎、天童荒太、、に言及し、引用は幅広く、「かなしみ」について考えるために、コンパクトにまとめられた名著だと思いました。

全体の内容については、他の書評を。


下記は、私の個人的なメモです。

(引用開始。要約して引用しています)

「やさしい」は、太宰治のキーワードのひとつでもあるが、たとえば彼はこういうことを言っている

文化と書いて、それに、ハニカミというルビを振る事、大賛成。私は優という字を考えます。これはすぐれるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、でも、もう一つ読み方があるでしょう? 優しいとも読みます。そうして、この字をよく見ると、人偏に、憂うると書いています。人を憂える、ひとの淋しさ、忙びしさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優れている事じゃないかしら、そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。

私は含羞で、われとわが身を食っています。酒でも飲まなきや、ものも言えません。そんなところに「文化」の本質があると私は思います。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです、それでよいと思います。私は自身を「滅亡の民」だと思っています。まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学じゃないのかしらん。「昭和21年4月30日河盛好蔵宛書簡」(p81−82)

「優」のもともとの意味は、「わざおぎ、役者」である。「優」[やさし」には、どれほどかは「見せること」の演技性・作為性がふくまれているということが、こうしたところからもうかがうことができる。
 
それは偽善だ、嘘だということにはならない。大宰の言い方でいえば、「人を憂える、ひとの淋しさ詫びしさ、つらさに敏感な」「優しさ」には、そうした要素をふくむことによって、何とかその「淋しさ詫びしさ、つらさ」といったものを共悲・共苦しえているということである。大宰その人の「道化」といわれる側面もそこに由来している。
 
人は、簡単に「同じ」ではありえないのであって、そこを安易に「同じ」としてしまうとき、偽善や押しつけがましさといったことが起こってくる。「同情するな」「情けはいらない」「あわれむな」といった拒否反応は、それを感じとったところに生じるのである。

ー 以上、第4章 他者に向かう「かなしみ」より


遺された者の「かなしみ」については、「悲哀の仕事」という考え方がある。

これはフロイトの精神分析用語であるが、小此木啓吾は、それをこうまとめている。
 
……「悲哀」とは、愛する対象を失うことによってひきおこされる一連の心理過程のことである。フロイトは、相手を失ってしまったという事実を、知的に認識することと、失った相手を心からあきらめ、情緒的にも断念できるようになることとは、決して同じではないという。……頭ではよくわかっている。しかし、どうしても会いたいという思慕の情は、決してわかっただけで消えるものではない。……すくなくとも一年ぐらいのあいだは、これらの情緒体験を、心の中でさまざまな形でくり返す。この悲哀のプロセスを、心の中で完成させることなしに、その途上で悲しみを忘れようとしたり、失った対象について、かたよったイメージをつくり上げたりしたりして、その苦痛から逃避してしまうこともある。……しかしこうしたさまざまな心の動きによって、対象喪失をめぐる自然な心のプロセスを見失い、対象喪失を悼む営みが未完成なままになる心理状態は、心の狂いや病んだ状態を引きおこす。

「悲哀の仕事」とは、こうした対象喪失の「悲哀のプロセスを、心の中で完成させる」営みである。この考え方は、むろん精神分析にかぎらず、より一般的にわれわれが死者を送り弔う一連の儀式の中にもさまざまなかたちで見出されるものでもある。
 
「弔う」とは、もともと「問う」ことであり、「訪う」ことである。死者を訪問して、死者の思いを問うことである。柳田邦男の言葉でいえば、死者の[物語」を聴きとめることである。そのようにして死者の「物語」を完結させることが、同時に、こちら側の「悲哀の仕事」をも完遂させていくことになるということであろう。(p158)

「遺された者にとって、死が辛く悲しい。しかし、悲しみのなかでこそ、人の心は耕されるのだ」(柳田邦男「死への医学」への日記)(p160)

ー 以上、第7章 別れの「かなしみ」より


三水清は、以下のようなきびしい感傷批判を展開している。

・感傷は、何について感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。
・感傷はすべての情念のいわば表面にある。
・特に感傷的といわれる人間は、あらゆる情念にその固有の活動を与えないで、表面の人口で拡散させてしまう人間のことである。
・あらゆる物が流転するのを見て感傷的になるのは、物を捉えてその中に入ることのできぬ自己を感じるためである。自己もまた流転の中にあるのを知るとき、私は単なる感傷に止まり得るであろうか。
・感傷には常に何等かの虚栄がある。
・感傷には個性がない、それは真の主観性ではないから。その意味で感傷は大衆的である。
・感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている。
・感傷はただ感傷を喚び起こす、そうでなければただ消えてゆく。
・宗教はもとより、芸術も、感傷からの脱出である。
 
三木の批判の要点は、大きく分けるとふたつある。ひとつは、感傷が、表層的・静観的であること、もうひとつは、感傷が、個性を持たない、大衆的なマンネリズムに陥っていること、の2点である。

竹田青嗣は「歌謡論」のなかで「悪しきセンチメンタリズム」は、他人の目をひそかに意識し、利用する」自己哀惜のナルシズムとは、他人の目を意識しながら、それに乗じて自己の「かなしみ」をあおりたてること、高ぶらせることだという。

「他人による承認」、あるいは、「他者の目の利用」というセンチメンタリズムは、自分みずからの経験や実感に基づいておらず、そこでの表現は「大人にも子供にもあまりかわりなく、定型的な情動をよび覚ます」ものである。センチメンタリズムとは、簡単に「我と他と何の相違があるか」「皆同じではないか」と乱暴に一括してしまうところにあるということである。

ハンナ・アーレントの言うように、「哀れみは、残酷さそのものよりも残酷さそのものより残酷になる・・・感傷の際限なさが限りない暴力の奔流の解放を助ける」ということも十分ありうるし、「もののあわれ」もまた、他者性・超越性がいささかでも失われるならば、「世界を既知の同質性へと変容させるたえのイデオロギー」として「感性のファシズム」として機能してしまう危険性をもっている。(p191)

ー 以上、第8章「かなしみ」の表現より


「かなしみ」は、それを「かなし」まなければ「もっと何かを失」ってしまうものであり、さらには、それを「かなしむ」ことにおいてこそ、その失われゆくもの、失われてしまったものにつながりうるかもしれない感情でもある。(p207)

「物のあはれ」というのは、結局は、われわれのうちにある、何かしらの「永遠の根源」なるものへの思慕ではないか。喜びも「かなしみ」も、すべての感情は、「永遠の根源」への思慕を含むことによって、初めてそれ白身が喜びとなり、「かなしみ」となる。

それはいつもそう意識されているわけではないが、たとえば、「ああ楽しいなあ」、と思えばそれはずっと楽しくいたいと思うし、「ああいとしいなあ」、と思えば、それはいついつまでなどとは言わずに、ずっと愛していたいと思うものだ、だから、愛はかならず「かなしみ」となるのだ、と。

われわれは有限である。にもかかわらず、愛は愛のなかに永遠を目指すから、それはどうしても「かなしみ」にならざるをえない。ー 和辻哲郎『日本精神史研究』(p209−210)

「物のあはれ」「かなしみ」は、それ自身が、かぎりなく純化されようとする傾向をもった「無限性の感情」の発動でもある。すなわち、「物のあはれ」「かなしみ」とは、われわれのうちにあって、われわれを「永遠の根源」へと帰らせようとする、根源自身の働きだというのである。だからこそ、「それによって、我々は過ぎ行くものの間に過ぎ行くものを通じて、過ぎ行かざるものの光に接する」ことができるというのである。
 
綱島梁川は、「神はまず悲哀の姿して我らに来たる。・・・我らは悲哀を有することにおいて、悲哀そのものを通じて、悲哀以上のあるものを獲来たるなり」と表現していた。

また宣長は、その根源の働きを神々の働きと言い、親鸞は阿弥陀如来の働きとしていた。

ー 以上、第9章 有限性/無限性の感情としての「かなしみ」


人間の一生はたくさんの哀しみや苦しみに彩られながらも、その哀しみや苦しみの彩りによってさえ、人間は救われ癒されるのだ・・・哀しみも豊かさなのである。/なぜならそこにはみずからの心を犠牲にした他者への限りない想いが存在するからだ。/そしてまたそれは人の中に必ずなくてはならぬ負の聖火だからだ」(藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』)

エロスとは、男女のそれだけではないよ、真理を知りたいとか、力を持ちたいとかいうのもエロスなんだよ。(山折哲雄氏の言葉)

「その星は小さすぎて見上げてもわからないだろう、でも、その方がいい、ぼくの星は、夜空いっぱいの星のなかの、どれかひとつになる、そしたらきみは、夜空ぜんぶの星を見るのが好きになるだろう」(『星の王子さま』の最後、もとの星に戻ってしまうという王子さまの言葉)

ー 以上、「あとがき」より

(引用終了)

☆星の王子さまの言葉は、この詩と似てますね!


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by yomodalite | 2014-12-15 11:59 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

ミック・ジャガー~ワイルド・ライフ~

クリストファー・アンダーセン/ヤマハミュージックメディア

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町山智浩氏の2012年から2014年までに、米国で話題になった言葉についてのエッセイ『知ってても偉くないUSA語録』、その第1章「4000 Women」は、本書に書かれている、ミックが抱いた女の数(笑)

ロック界では、キッスのジーン・シモンズが自伝で4897人だと言い(笑)、最近出版された本によれば、あのウォーレン・ベイテイは、なんと1万2775人だそうで(笑)、ブラジルの女優ソニア・ブラガはハリウッドに招かれたとき、「ベイティさんに抱かれました?」と聞かれると、「当たり前でしょ。ニューヨークに行ったら自由の女神を見るようなものよ」と答えたとか(町山本)。

MJファンの中には、著者のクリストファー・アンダーセンの名前に記憶がある方もおられると思いますが、あの本と同様、こちらも1ページごとというか、1行ごとに「見たのかよ」とツッコミたくなるような内容でw、厚さ2.5ミリで二段組みというボリュームの中には、女性だけでなく、男性も含まれるワイルドな下半身ライフがぎっしりと詰め込まれています。

友人としても、同時代のライバルとしても、デヴィッド・ボウイが頻繁に登場するのですが、両性具有でバイセクシャルというキャラを、当時もっとも体現していたボウイ以上に、ミックもセクシャリティを超越しようと、モンローをはじめ、セクシーな女性の研究を怠らなかったとか。

今では、ミックもボウイもクラプトンも「女性っぽさ」なんて1ミリも感じませんが、でも、今、レディ・ガガが「バイセクシャル」を掲げているのと、60年代や、70年代の雰囲気はどこか違うんですよね。性的マイノリティのためとか、そんなことはどうでもよくて、女の子とも、男の子とも、魅力的だったら「ヤってみたい」と思うだけ。リベラルなアイデンティティより、本当の自由が重要だったようです。

著者は英国王室のスキャンダル本で有名らしく、こういった話題にかけては、対象が誰であろうとw、勝手に筆が進んでしまいそうな方なんですが、ミック・ジャガーという素材にはぴったりあっているようで、セックスとドラッグのことしか書かれていないような本が、どこか「おとぎ話」のように感じられるのは、今はなくなってしまった「自由」がここにはあるからでしょうか。

そんな下半身ライフだけでなく、ストーンズと言えば、昔からハードドラッグ愛好者として有名でしたが、

第4章「天使と悪魔」から、省略して引用。

ーー1967年6月29日

すでにキースに懲役1年を宣告していたかつら頭のレズリー・ブロック判事は今、ミックに塀の中で三ヶ月過ごすように言い渡していた。チチェスターにあるウェスト・サックス裁判所の外には800人のファンが集結し。彼らの「恥を知れ!」やら「彼らを釈放しろ!」というシュプレヒコールが法廷内まで響いてきた。

ミックとキースに救いがあるとすれば、今回の有罪判決には世界中から抗議が殺到していることだった。デモ隊が各国のイギリス大使館を包囲し、ミックとキースを即刻釈放せよと要求した。世界中のディスクジョッキーが、ふたりが自由を手にするそのときまで、ストーンズの曲をかけ続けると誓った。そしてザ・フーは共闘の意を表明として、今の状況にふさわしいタイトルが与えられたストーンズの楽曲ー「ラスト・タイム」と「アンダー・マイ・サム」を両面シングルとしてレコーディングした。

世論も「ミックとキースを解放せよ」と声を荒げた。多くの新聞が「ストーンズへの厳罰は「毎度おなじみの英国の偽善」であり、「とんでもない不当判決」だと非難する社説を掲載した。決定打はロンドンの老舗『タイムズ』紙の編集長によって振り下ろされた。モッグは18世紀の英国詩人アレクサンダー・ポープを引用した「誰が車で蝶をひき殺すか?」というジャーナリスト史上もっとも有名なタイトルの社説において、今回の判決を激しく抗議した。

(引用終了)

ドラッグ使用してなかったわけじゃないのに、大メジャー紙が社説で、逮捕を非難するだなんて、今では想像できないですね。それと、ミックもキースも、ヘロインやコカインなどのハードドラッグを永年にわたって多量に使用していたはずなのに、どうして70歳を超えた現在まで、肉体的にも、精神的にも健康なんでしょう?

医者が処方する薬で亡くなるケースはすごく多いのに。。


また今年、ミックの恋人、ローレン・スコットが自殺というニュースもありましたが、彼女は、本書の第9章にルウェン・スコットとして登場しています。

最後に、マイケル関連についての要約メモ。

本書の前にかなり荒く読んだ、キース・リチャーズ自伝『ライフ』では、80年代、ミックはマイケル・ジャクソンの虜で、彼の事ならなんでも知りたがり、CBSと社長のウォルター・イェトニコフとの契約したのも、そうすればマイケルと同じぐらい売れると思っていた。というようなことが書かれていたのですが、こちらの本では、

ミックはジャクソンの偉業に敬意をもっていた。だが、違うレコード会社だったら、『スリラー』はあれほどの大ヒットにはならなかったということもわかっていた。

当時の妻のジェリーとの間に娘が生まれると、真夜中に夫妻のベッドで授乳することは許さない。母乳は胸がむかつくにおいなんだよ、とミックは言うと、マイケルは明らかに引いていたが、「ステイト・オブ・ショック」のデュエットにミックを参加させることについてはあきらめなかった。発売直後に第3位にランクインしたこの曲は、ソロのキャリアを気づくことに不安を抱いていたミックには大きな自信になったものの、コラボレーションについては、どちらのスターも相手に感心しなかった。ジャクソンはミックの調子はずれを非難し(彼は一体どうやってスターになんてなれたの?)、ミックはマイケルの才能を「ビールの泡のようなもの」とけなした。

(要約引用終了)

「ステイト・オブ・ショック」の記述は、『マイケル・ジャクソン・インク』にも少しだけあって、そちらは、この曲のリリースが、ジャクソンズのシングルと同時期でファミリーともめた…みたいな内容で、スリラーで成功したあと、アルコール中毒になって失脚したおしゃべり☆☆野郎のイェトニコフが発信源のようでしたが、本書の記述は、これまでの本や報道からまとめただけみたいですね。

本書にマイケルが登場するのは、これだけですが、MJが自分の使命を自覚するうえでは、確実に影響を与えたであろう人物についての客観的なストーリーの中には、MJが求められたり、反発された理由も浮かび上がってくるのでは、と思って読みました(ずいぶんと無茶な読み方ですがw)。


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by yomodalite | 2014-09-30 06:00 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)
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今月、映画館で観た映画について。

『ジゴロ・イン・ニューヨーク』は、シャロン・ストーンが今でもすごく綺麗だったということがわかる以外には何もなくて、

『LUCY/ルーシー』は、『her 世界でひとつの彼女』、『トランセンデンス』に引き続き、人工知能に関する映画を見ておこうと思ったんだけど、、LUCYは、2作と違って、脳機能の人工的覚醒で、、とか、どうでもいいぐらいありがちなアクション映画で、

『イブ・サンローラン』は、恋人でもあり、重要な仕事上のパートナーでもあり、すべてを共有してきたはずのピエール・ベルジェ公認の脚本なんだけど、サンローランの才能も業績も苦悩も描かれているとは思えなかった。あばたがエクボに見えるだけでなく、愛していると思う気持ちには「本質が見えない」ということもあるのかも。。嫉妬ってものすごく強い感情だからなぁ。同性どうしの場合は特に。


今年はじめに観た『ファイア by ルブタン』もそうだったけど、『イブ・サンローラン』、『LUCY』で、フランス映画のレベル低下をハンパなく実感。完成度が高くないというだけでなく、ハリウッド映画より志の低さを感じる。

『TOKYO TRIBE』は、私にとって、監督の名前だけで見てしまう園子温の最新作。自主映画ぽさが薄れ、商業映画としても完成度の高い作品に、あと一歩というところが残念というか、、

監督にとって、初めての原作ありの映画。原作コミックは全然知らないけど、各トライブのリーダーの生き様とか、もう少し人物描写があれば、バトルシーンとのメリハリもついて、本当に名作になったのではないかと。


ラップミュージカルというアイデアは秀逸だし、ラップ自体も素敵(窪塚洋介以外w)。音と映像のマッチングは、たけしの『座頭市』よりもずっと素晴らしく、巨根自慢で『花子とアン』の村岡印刷さんとは180度違う、鈴木亮平のTバック姿も、美香さんの妖艶演技も、『プライド』に次いで、オペラを披露するステファニー、自前で黄色のジャンプスーツを所有するほどのブルース・リーファンのしょこたんのヌンチャク使いも素敵だったので、どうしても惜しい感じがしてしまいました。

そんなわけで、

少し早いけど、今月私がいちばん良いと思った映画は

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に決定!

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この映画のストーリーをカンタンに説明すると、『キャプテンEO』を2014年に、2時間映画にしたという感じ(ホントかどうかは各自確認w)。マイケルがマーベル・エンタテイメントを買おうとしていたことを知ってるMJファンで、時間がある人は見るべし。買収計画は失敗したものの、制作者サイドには、MJスピリッツが生きていた!

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70年代〜80年代ヒットチューンの数々が、映画を引き立てているのだけど、
ラストでは、まさに瞬殺のキラーチューンがかかります!








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by yomodalite | 2014-09-26 06:00 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(12)
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連休中のこと。
「これは、、マイケル親分にはナイショじゃけーの」と、akim兄に言われて(嘘)、周囲に話が漏れないカラオケに行く。。

マイケル親分が主夢裡を許しても、akim兄ぃが許さなかったらどげんことになるか、身震いを覚えつつカラオケルームに入り、一時間以上に渡って、あの腐れ外道(←これは架神先生の本から教えてもらった言葉だからね!)をどうシメるか、色々と話し合った結果、

「今回は泳がしちゃる」というakim兄ぃは、

ブラックオーキッドの薫りを漂わせ、

ドスをマイクに持ち替えると、

いつものakimさんに戻って、『Let It Go』を熱唱!


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akimさんが、♪The cold never bothered me anyway(少しも寒くないわ)って言うから、

私は、♪I'm so cold, let me in-a-your window(すごく寒いわ。お願い、中に入れてよ)っていう。




akimさんはその後もこんなのとか、

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冒頭の写真の曲や、こんな曲とか、


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こんな曲まで!


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ソウルフルな熱唱に次ぐ熱唱に、タンバリンを叩きまくる私。

そして、新曲を制覇して、ちょっぴり落ち着いたマイケル(akimさん)に、好物のダイアナを与えるのだった。。







元気になったマイケル(akimさん)は、
仲良しだったホイットニーの歌も歌ってくれて、







ダイアナおかわりされた私は、、







そして、ダイアナと過ごした日々を思い出したマイケルは(akimさん)は、







ふたりで歌った、、






そして、、クライマックスは、akimさんの十八番。。。


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たっぷり3時間コースのカラオケでわかったのは、

主夢裡のような「上から目線」の大人は普通にいっぱいいるけど、実際に上から見て、みんなの気持ちになって、言葉を選んでいたのは、マイケルだけ。。

そんなことをしみじみと感じつつ、

ふたりの主婦は、阪急のデパ地下に総菜を買いに行ったのだった。。




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by yomodalite | 2014-09-23 20:49 | MJ系ひとりごと | Trackback | Comments(6)
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聖誕祭月のため、映画もマイケル絡み!

もっとも、そーゆー「縛り」にあっているというよりは、むしろ、普段は、たまには他のことを考えなくては、、と思って、無理しているところをw、思う存分好きなだけ!というルールに自分でしちゃっている方が正しいのだけどww。

ハーモニー・コリン監督が2007年に撮った、マイケル・ジャクソンとしてしか生きられない青年が主人公の映画『ミスター・ロンリー』は、マイケルのインパーソネーターをしている青年が、マリリン・モンローのインパーソネーターに出会い、チャップリンのモノマネをしている彼女の夫と、ふたりの間にできた、シャーリー・テンプルのモノマネをしている子供や、それ以外にも、サミー・ディヴィス・Jrや、三バカ大将の3人、リンカーン大統領や、ローマ法王まで、様々なモノマネ芸人たちが一緒に暮らすコミューンに行って。。というお話。

MJファンにとっては、マイケル役のクオリティが気になるところですが、
演じているディエゴ・ルナ、結構キュートです!

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この映画の「マイケル」は、実際のMJのような、知性とか、ユーモア感覚には乏しいのですが、演じているのはMJではなく、彼のモノマネ芸人というところが幸いして、MJの魅力の一部である、シャイで、スイートな面が、よく出てます。

といっても、MJファンにおすすめなどと言うつもりはなく、ハーモニー・コリンに興味があるひとが見ればいい映画だとはおもうのですが、なんとなく、私はこの映画を撮ったときのコリンには、スパイク・リーが『ゲット・オン・ザ・バス』を撮ったときと似ているというか、

◎[関連記事]マイケルとスパイク・リー

作風は似ているようには感じられない2人ですが、ふたりとも次作に悩んでいるときに、MJを選んだような。。リーが、こどもの頃からMJファンというのは、よく知られたことですが、コリンの映画にも、彼が、MJの言葉をかなり調べていたように感じる点がありました。MJが話したことを、セリフにしているというのとは、少しちがうのですが。。

無類の映画マニアであるMJは、おそらくこの映画を観たでしょう。彼はどんな風に感じたんだろうと。私は思って観てました。


下記に、エリザベス女王のモノマネ芸人の言葉と、
この映画の「マイケル」が、インパーソネーターを止める決意をしたあとの言葉、

それと、

MJ自身の言葉も記しておきます。


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エリザベス女王芸人の言葉

モノマネ芸人といえど、どこにでもいる普通の人間
お客様だけが頼りです
芸における私たちの目標は
お客様を喜ばせるよう努め
美と人生を探すこと
その輝きや詩を探すことです
歌にもあります
“天国にいる気分”
“二人が組んで踊ればまさに天国”
“あなたと私が頬すりよせて踊れば・・・”
ありがとう、そしてお忘れなく
モノマネをする人の魂こそ真実に近いのです
子供心を失わぬよう、
私たちは他者の姿を通じて生きるのです
ありがとう、感謝します
神と共にあらんことを

(日本語字幕より)



映画のマイケルが「マイケル・ジャクソン」を止めたあとのモノローグ

どこを見ても災いだらけ
この世は完全に病んでしまっている
みんなが暗闇や陰から逃れようとしている
でも逃げたっていつかは追いつかれる
僕にはわかる
逃げることもできず、隠れることも出来ない
逃げ道はないんだ
なら、真っ正面から向き合おう
群衆の中でひとりぼっちになろう
なにもかも所詮まぼろし
もう終わらせるべきだ
夢は長続きしない
みんな希望に満ちた顔をしている
何かを追い求めて生きている
夢を追っているんだ
ひたすら上だけを見つめて
答えを探し求めている
答えはもうとっくに見つかっているのに
そのことに気づいていないんだ
そのあいだにも
死の世界は僕らを待っている
僕らを連れ去る日を
辛抱強く待っている

(吹き替え字幕より)


映画が始まるとすぐに「ミスター・ロンリー」のメロディが流れました。





MJが孤独について語った言葉で、私が思い出すのはこの言葉です。

デートや女の子との関係が、僕が探し求めているようなハッピーエンドになったことはありません。いつも、何かが邪魔をするのです。僕が何百万人かの人と分かち合うものと、ひとりの相手と分かち合うものとは別なのです。

多くの女の子たちは、僕を孤独から救いたいらしい。

でも僕には彼女たちが、僕の孤独を分かち合いたがっているように見えます。僕はそんなことは誰にも望んでいません。

なぜなら、僕は自分が世界で一番孤独な人間のひとりだと信じているのですから。

(自伝『ムーンウォーク』P178より省略引用)




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by yomodalite | 2014-08-11 20:54 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)
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ものすごく暑かったけど、書店に出かけた。

クレジットカードのポイントは「Amazonカード」に引き換えてって、ダーリンに言ったのに、「図書カード」が送られてきたからだ。普段そんなに本を買わないダーリンは、本を読もうという気持ちを図書カードに変えることで、その気持ちを忘れずにもっていようと思ったのだろうけど、そうはさせない。

自分の本だけで一杯なのに、
同居人の本が増えたら、狭い家がますます狭くなるもの。

彼が分厚いうえに、上下刊あるような、ある長大な小説を買おうと思う。と言うので、同じ理由で購入し、何年も本棚に置いたままになっている本を指差し、速攻で息の根を止める。

世の中には、おこづかいのすべてを妻に管理されてる人も多いのに、あなたはすべて自由なんだから、買いたいときに、好きに買って、読んだらすぐに図書館に寄贈して。

そうやって図書カードをすべて没収したせいで、外出するだけで死ぬかもしれない日に、書店に来たのだ。急ぐ理由も、図書カードで部屋が狭くなることもないのに。。

でも、この財布の中に入るほど薄くて小さなカードは、本に変えてしまうと、何倍も大きくなる。彼が分厚い長大な小説を買おうと思ったのは、図書館で借りても、返却までに読み切れないからだけど、そもそも、小説は一度読んだら、なかなか再読することはない。

だから、今後、書棚で場所をとってもいいのは優れたレファ本だけ。

そんな風に思いつつ、チェックしてあった様々な分野の本を見に、梅田の丸善・ジュンク堂を、上から順に見ていく。

最初に訪れた棚で、『ロシアを動かした秘密結社ーフリーメーソンと革命家の系譜』を見る。その本が置いてある棚が「錬金術・占星術・ニューエイジ」だということに驚き(そっち系じゃないのにw)、隣の「精神世界」という棚から、怖いもの見たさで、『世界一底なしの闇の国』をパラパラめくると、最新の闇情報として(笑)が、まだまだ上がいた。みたいなことが書いてあった

書かれていることの中には、ある意味そのとおりだと言える部分もあるけど、巻末の記事にある、フルフォード氏のユダヤへの激しい憎悪に、もっとも「深い闇」を感じて、そそくさと立ち去る(この手の本を「精神世界」に分類するのは、ビョーキの人のものの見方って意味かしらw)。

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次に、近くの宗教・神学コーナーで、前々から家においておこうと思っていた『書物としての新約聖書』と、新刊の『イエス・キリストは実在したのか?』をパラ見。(『仁義なき〜』は、成毛氏のけぞりも納得!)『タルムードのイエス』の翻訳で知った、上村静氏の『宗教の倒錯』という本がすごく面白かったので、自分的に、この分野はさらに勢いづいているんだけど、すでに「積ん読本」も多いので、「経営戦略」の棚に移動したら、楠木建氏の大きな看板が目立っていた。最近読んだ氏の『ストーリーとしての競争戦略』の長いまえがきには、

「無意味と嘘の間に位置するのが論理なのです」

というステキな言葉があって、それで、まったく必要を感じない経営戦略の本を読んだのだけど、書いてあることが何もわからない人間にまで、「愛」が届くというのは、楠木氏がよほど優しいひとだからだと思う。本当に長くて辛かったけどw


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他にも、ケリー・マクゴニガルという人の本がいっぱいあったけど、美女の「戦略」から、自分が学べることがあるような気がしないので(苦笑)、カレン・フェランの『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です』をパラ見して、その後「捜査・警察実務」の棚でしばらく過ごしているうちに、そういえば、最近ヤクザ本を読んでいなかったと反省しw、文庫・新書コーナーで、『鎮魂 ー さらば、愛しの山口組』『民暴の帝王』などを試食すると、あっさり落ち着きを取り戻す。

その他、『「鼻の横を押す」と病気が治る』とか、『「中卒」でもわかる科学入門』を探すのに手間どったりしているうちに、

結局、購入するのは、以前図書館で読んだ『「ユダ福音書」の謎を解く』にしようかなぁと思いなおし、再度、聖書・神学コーナーがある5階に戻る。


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自分にもっと英語力があったら、チョプラに直接インタヴュー(心のパワーのことじゃなくて、MJのことをねw)するかなぁ。。



同じ場所に戻ったのに、チョプラのポスターを見たせいかw、さっきは、まったく見えていなかった『現代思想』のバックナンバーに目が釘付けになった。


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メルロ=ポンティ、ダーウィン、フッサール、、、マイケル・ジャクソン?!

『現代思想』で特集号なんてあったんだぁ。。と思って、出版年をみると2009年8月15日。まだ『THIS IS IT』も公開されていないあの頃、急いで創られたものか。。と、まったく期待せずに、中を見ると、、

想像どおりの、またか!と思う内容の中にも、ところどころ、グッとこみ上げてくるものを感じて、それで、結局その本を買った。

しかたないよね。。

だって、宗教も、スピリチュアルも、科学も、冤罪も、世界の陰謀も、経営学とか、自分を変えることとか、鼻の横のことさえもw、

結局、全部、MJに関係あるんだもん。


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この写真は素敵なんだけど、ファンの方によるFAKEです!
https://www.facebook.com/karima.jackson.90



家に帰って読んでみたら、最初は「自分が少しでも知的に見える」ことしか考えてないせいで、どこにも知的なところのない批評家たちの文章の中では、少しはマシに思えたのだけど、やっぱり、段々と怒りが増してきて、

この感情の中で、自分が5年間を過ごしたことを、あらためて思った。

8月は、自分の中では、まるごと「聖誕祭」になると思う。






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by yomodalite | 2014-07-30 14:15 | 日常と写真 | Trackback | Comments(4)

World Cup 2014 が終わった。

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海外クラブの試合なんて、ほとんど観ることができない時代に、サッカーファンになったからかもしれないけど、やっぱり私にとって、「ワールドカップ」こそがサッカーだと思った大会だった。何年も前からそうだったのに、2014年に特にそう思ってしまうのは世界の変化が気になっていたからなんじゃないかと思う。今回は、開催国というだけでなく、人種が融合し、“We Are The One” がどこよりも似合うブラジルに優勝して欲しいと思っていた。


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彼らの明るいサッカーで、この世界的な祝祭が盛り上がることを期待していたけど、結果はそうじゃなかった。ワールドカップの勝敗は、国力とは微妙に異なっていたり、そういった国力と言われるもの以外での、国民性や、国がもつ個性があらわれることがよくある。経済的に発展したブラジルが歴史的大敗を経験してしまうのも、アルゼンチンやギリシャの底力がすごかったり、衰退まっしぐらとしか思えなくなってからの米国サッカーの安定した力や、可能性とか、、


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何度も聴いた6万人が歌っていた国歌

イピランガの穏やかな川岸から聞こえる勇者たちの鳴り響く雄叫び
その時、祖国の空に自由の太陽が光り輝き、力強き腕で勝ち取りし、平等の誓い
自然が生んだ雄大さ、美しく、強く、勇敢な巨人
未来が映し出す汝の偉大さ
あがめる大地、数多の中で、最愛の国よ、ブラジル!
この大地の子の優しき母、いとしき祖国、ブラジル!

(歌詞:NHKワールドカップ総集編より)


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日本代表は、世界に近づいたと言われ、これまで以上の結果を期待されていたけど、私は、いつの時代の日本代表の戦い方にも、第二次大戦のときからまったく変わらない日本マインドを感じる。

今回何度も聞かれた「自分たちの戦い」という言葉は、まさに象徴的で、日本は、歴史的に負けたことで奴隷になり、勝つことで、そこから脱け出せるというような経験がないせいか、戦いにおいて、いつも自分のいいところを出したい。という気持ちに溢れているように見える。

勝つことよりも、自分のいいところを出したいというマインドは、ちっとも悪いことじゃないけど、日本はサッカー以外でも、世界でこの20年あまり(ある分野では)ずっと負け続けていて、その負け続けている分野の人々が、自分が負けていることをまったく認めずに、誰かに戦えと言ってるような気がして、それで少し暗くなってしまうのだ。

毎回どんな試合も「絶対に負けられない」というキャッチフレーズが踊るけど、毎回「負けられない」という時点で、なにか、その言葉には空虚な響きを感じてしまう。そんなことを言ってると、「いざというとき」には、もう疲れきってしまっているし、やっぱり、私たちは「負けたくない」よりも、「自分たちの戦い」が好きなのだ。

◎[参考記事]リアリスト(?)俊輔の見方
◎[共感した感想]オランダ、スペイン戦は衝撃だった


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決勝は、アルゼンチン(南米)対ドイツ(欧州)。

優勝は、多くの人が予想していたとおりドイツで、私もドイツが勝ってよかったと思った。メッシは素晴らしかったけど、アルゼンチンが優勝するには何かが足らなくて、ドイツにはその何かが備わっていた。

でも、ドイツが勝ったからといって、ヨーロッパ勢が2014年を制したかというと、他の欧州強豪国は惨敗が目立ち、アルゼンチンのサッカーは南米ぽくはない。

だから、体格的にも似ていて、自分たちのことを精神的には「白人」だと思っている日本が、サッカーが強くなるために見習うとすれば、アルゼンチンではないかと思うけど、私たちはそんな選択はしないし、オランダやドイツのような戦略は日本には無理だけど、おそらく、日本はこれからも「自分たちのサッカー」を探し続けて、ヨーロッパから監督を選ぶでしょう。ただ、欧州のビッグクラブを率いた経験のあるプロの監督にとって、日本の代表監督が「オイシい仕事」だということは、ザッケローニによって広まったと思う。







開催前、ブラジルではワールドカップに巨額費用を投じる一方で、住民の生活のことを考えていないとする抗議の激しさなども伝えられていて、“They Don’t Care About Us” は、そんな抗議に、うってつけのテーマソングのようにもなっていた。

私はどんな運動であれ、マイケルの政治利用には感心しない。

政治的手法は、MJの表現とは異なるもので、こういった抗議活動が、政治に与える影響も見えないし、正義の旗に酔うためのレクリエーションのように思え、運動が大きな盛り上がりを見せても、代表者が「取り引き」する姿しか想像できないのは、私が悲観的すぎるからかもしれない。

ただ、ワールドカップの祝祭性にも、貧困とか差別といった政治運動にも、マイケルの音楽はぴったりと合っていて、それは、自分の気持ちを「政治的な言葉」や「正義行動」にしてしまう人には持ち得ない「メッセージ」で、そこが、MJの天才性だと思う。

FIFAや、日本のサッカー協会が腐っていたとしても、ワールドカップや、サッカーを楽しみ、そこに意味を見いだすことは出来る。


ボスニア・ヘルツェゴビナが初出場して、久しぶりにオシムの元気な姿も見られた。

下記は、民族融合チームの夢に尽力したオシムの言葉。

みんながサッカーを愛する必要はないが、
勝利を祝う姿を見るだけでも、国民には喜びとなる。
その気持ちが大事なんだ。

自分はなにかの一部だと感じ、
人々とともに道に出て、ともに歌い踊る。
生活や仕事に希望が戻り、国が再び歩み始めるんだ。

(NHKワールドカップ総集編より)


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冒頭の写真は、実際の映像ではなくて合成だと思うけど、ブラジルの映像といえば、コルコバードのキリスト像がいつも映っていて、その映像を見ると、MJの “They Don’t Care About Us” を思い出して、やっぱり、その像の人と、MJは似ていると思うのだ。

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by yomodalite | 2014-07-15 11:07 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)

八木谷 涼子/朝日新聞出版

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名著として名高い『知って役立つキリスト教大研究(新潮OH!文庫)』の増補改訂版。KIndle版も出ましたーーーー!


って、昨年末のことなんですけどw、ちょっと前に「よくわかる」なんて書いてあっても、宗教関係者が書いた本は、よくわからない本ばかり。なんてことを書いてしまいましたが、本書も信仰者によるものではなく、西欧文学からキリスト教に興味をもち、自ら「キリスト教オタク」であるという著者によるもの。


◎著者プロフィール


こーゆーレファ本って、KIndle版が便利ですよね!


内容に関しては、こちらの「なか見!検索」で目次をご覧いただきたいのですが、大勢のレヴュアーが言っているように、キリスト教の宗派についての分類が秀逸で、イラストもカラーでわかりやすく、辞書やウィキペディアより読みやすいだけでなく、文章に読ませる魅力がある、めったにないレファ本。


宗派についての箇所で、私が今、ハワード・ヒューズの次の次ぐらいに興味がある「ユニテリアン」に関する部分を、省略して少しだけ紹介します。


なぜ、「ユニテリアン」なのかと言えば、大阪に来てから、日本の近代に思いを馳せることが多くなって、、それは、街中に、ヴォーリズやフランク・ロイド・ライトの影響が感じられる近代建築の素敵な建物が多いせいでもあるんですけど、


福沢諭吉がユニテリアンに失望して、天皇制が生まれ、ユニテリアンは「理神論」から「無神論」へと進行し、地球上を一つの共同体とするグローバリズムは、超格差社会を生み、そうして、東京は安っぽいチェーン店と超高層ビルが立ち並ぶ街になったんだなぁ。。みたいなことを、しみじみ感じてしまうのと、


MJは、その会派に属していたことはないですが、エホバの証人を脱会後の、彼の神の捉え方に一番近い宗派を選ぶとすれば「ユニテリアン」だと思うので。


(引用開始)


ユニテリアン・ユニヴァーサリスト

三位一体を教義としない、境界に位置する信仰者たち


◎自由と理性と寛容を重んじ、権威への盲従を嫌う

◎自由主義神学の最先端

◎北米では女性教師の比率が高く、性的マイノリティを排除しない

◎異宗教間の交流活動にも積極的

◎キーワードは万人救済説、ユニティ、リベラル

◎代表地域はアメリカ、ハンガリー、ルーマニア

◎イメージとしては、アイザック・ニュートン、

詩人ラルフ・エマソン、チャールズ・ダーウィン

◎信者は約50万人


名称の由来と起源


ユニテリアンとは、キリスト教正当は教理の中心である三位一体論者に対し、キリストの神性の教理を否定して神の単一性を強調する人々をさす。(中略)


一方、ユニヴァーサリストとは、少数の者のみが神に選ばれ救われるとする予定説とは逆に、すべての者が例外なしに救われるとする万人救済説を主張する人々のこと。(中略)


キリスト教においては、三位一体説をとる教派が「正統」とされている。そのトリニティに対し、神のユニティ、すなわち単一性を唱えてキリストの神性を否定したのがユニテリアンと呼ばれる人々だ。(中略)社会の表面に浮上するのは、啓示や奇跡を疑い、理性のみによる神の認識を主張する理神論が登場して、人間の合理的思考が尊重されるようになった18世紀後半から。英国では、インテリ層に支持され、ユニテリアンというと、知的で裕福な階層の人々がイメージされた。


いっぽう、アメリカのユニテリアン主義は、18世紀のニューイングランドの会衆派の人びとに広まり、人間の罪を糾弾する厳格なピューリタン神学に代わって、裕福な市民層に歓迎されるようになった。19世紀後半には、あのハーヴァード大学もユニテリアンの牙城となる。詩人ラルフ・エマソンも、元はユニテリアン教会の牧師だった。(中略)


聖書は、数々の優れた書のひとつとして真価を認める、という立場。聖書の無謬や逐語霊感説をはじめ、人の原罪や代替贖罪説(イエスのあがない)、地獄における永遠の罰、処女降誕を含む奇跡、悪魔の存在も認めない。イエスの復活も、肉の復活ではなく、キリスト教信仰の出発点としてとらえる。(中略)


人間の善性を強調し、良心の自由と理性と寛容とに価値をおき、国家と教会の結びつきには否定的。科学上の諸発見を尊重し、自由主義神学の最先端にいる。(以下略)


◎参考書評



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by yomodalite | 2014-05-04 00:45 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

仁義なきキリスト教史

架神 恭介/筑摩書房

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全然「着物」についてあれこれしてないやん!というツッコミだけでなく、もはや、どこが「読書日記」やねん!というあり様に、自分でも困惑しているのですが、

今日は2ヶ月ほど前に読んだ、類書がないほど素晴らしい本を紹介します。

今まで、キリスト教に関する本を、山ほどとは言いませんが、それなりに読んだ経験から言うと、まず、どんなに「面白」とか、「よくわかる」とか書いてあっても、キリスト教の宗教者が書いた本は、信者でない人間が読むと、疑問に感じる点への言及がなかったり、絶対に納得できない説明がしてあって、起こったことの背景も理解できないので、重要人物に関しても、感情移入できないことがすごく多いんですよね。

中でも、私たちが理解しにくいのは、

なぜ、「愛の宗教」と言われるキリスト教において、多くの人が処刑されたり、戦争が起こったりという、血で血を洗うような歴史が積み重ねられているのか?という点ではないでしょうか。

本書では、そういったキリスト教の血の歴史を、日本の偉大なヤクザ映画『仁義なき戦い』と同じような抗争の歴史であることに気づき、大親分「ヤハウェ」の下、様々な「組」がうごめき、内輪揉めや派閥抗争を繰り広げていった様子が生き生きと描かれています。

第1章 やくざイエス
第2章 やくざイエスの死
第3章 初期やくざ教会
第4章 パウロ ー 極道の伝道師たち
第5章 ローマ帝国に忍び寄るやくざの影
第6章 実録・叙任権やくざ闘争
第7章 第四回十字軍
第8章 極道ルターの宗教改革
終章 インタビュー・ウィズ・やくざ

少しだけつまんで紹介します(第1章「やくざイエス」より)

「兄貴、今日はどぎゃあな御用で…」

「いやぁ、なんちゅうことはないわい。シナゴーグの帰りじゃ。近くまできたけえのう、こんなぁの顔を見に来ただけじゃ」

とイエスは快活に答える。シナゴーグ、と言われても読者諸君には馴染みはなかろうが、これは極道用語であり、要は地域共同体の集会所のことである。隠語では会堂とも呼ばれる。この集会に集まった民衆を前に、ユダヤ組の筋モンや、もしくはやくざに近いものたちが、ヤハウェ大親分の生き様や伝説などを語り聞かせる、一種の極道教育機関であった

(中略)

「なんじゃ、あの外道、ヤハウェ大親分のこと馬鹿にしくさりよって。大親分以外の誰が許すいうんじゃ。許すも許さんもそぎゃあなこと決めれるんは大親分だけじゃろうが」

すると、これを耳ざとく聞きとめたのか、

「おどりゃあ、何をちびちびいうとるんじゃ!」

イエスはパッと立ち上がると啖呵を切って言った。

「ええか、こぎゃあことはのう、人の子が許してもええことじゃ」

この時にイエスが言った「人の子」というのは、極道用語で、、、


という具合に、すべて「極道用語」で説明されるんですね(笑)

もう少し、つまんで紹介します(第2章「やくざイエスの死」より)


イエスとて、ヤハウェ大親分の子分であるからには、親分のシノギに文句をつける道理はない。彼が怒りを覚えたのはサドカイ組のシノギであった。

「あン? おい、なんじゃこりゃ。偶像じゃないの。おどりゃ知らんのか、ヤハウェ大親分は偶像が大嫌いなんじゃ。このばかたれが、出直してこんかい」

貨幣には当地の支配者であるローマ皇帝の肖像が描かれていたのだが、これが偶像であるから受け入れられぬ、と突っぱねるのだ。そして困り果てている民に対し、神殿内で商いをしている両替商が「お客さん、うちで両替すりゃええんよ」などと声をかけてくる。こうして民衆の貨幣は両替商により特殊な貨幣へと交換され、それでようやく納付が認められるわけだが、もちろん両替商は手数料を取るし、そのアガリは、サドカイ組へと流れるわけである…

(中略)

「先生、教えて欲しいんじゃ。わしら、カエサルに税金を払うことは許されとるんかの、許されとらんのかの」

その言葉を聞いた瞬間ーーー、イエスは微かに顔をしかめていた。(中略)イエスはこの言葉の裏に秘められた彼らの罠を瞬時に見取ったのだ。

(中略)

イエスは(デナリ貨幣)を高々と掲げてこう言ったのだ。

「顔が彫られとるじゃろう。これは誰の顔じゃい」

「・・・カエサルじゃ。」

「ほんなら話は簡単じゃのう。カエサルのものはカエサルに返しゃえかろうがい」

それから、イエスは、柱の陰に隠れる男たちをキッと睨みつけて、こう付け加えた。

「もちろん、ヤハウェ大親分のモノはヤハウェ大親分に、じゃ・・・」

オオッ、とヤクザたちが驚きの表情を見せる。見事な切り返しであった。イエスはローマ当局への反逆の意志を明示せず、それでいてヤハウェ大親分の顔も立てたのである。

それだけではない。この言葉の含む意味に気づき、歯がみした者たちがいた。柱の陰にいたサドカイ組のやくざたちである。「ヤハウェ大親分のモノはヤハウェ大親分に」これはヤハウェ大親分への上納金を集めるという名目で、体よく民衆から搾取を繰り返していたサドカイ組に対する皮肉でもあったのだ。

(引用終了)

このあと、サドカイ組とパリサイ組の違いや、初期やくざ教会が様々に分裂していく様子や、また、イエスが亡くなった後の、パウロの人物描写は秀逸で、ローマ帝国とキリスト教の関係もわかりやすいのですが、

下記は、第6章「実録・叙任権やくざ闘争」から(かなり省略しています)

グレゴリオス7世はキリスト教任侠道における3つの改革に着手していたのである。それは、シモニアでありニコライスムであり、俗人叙任であった。この3つの問題は、まるで違うことのように見えながらも1本の線で結ばれている。

シモニアは日本の極道用語では「聖職売買」と言われる。一方ニコライスムの語源はよくわからない。どうやらこの時代には姦淫とほぼ同じ意味で使われていたようだが、司祭などのやくざが妻を持ったり妾を囲ったりすることを問題視した言葉である。最後に、俗人叙任である。これは、司祭や司教などの組長の地位を「プロフェッショナルなやくざ」以外の王や資産家などが任命することである。この「プロフェッショナルなやくざ」を極道用語で「聖職者」と言う。なお、プロフェッショナルでないやくざは「信徒」である。。

と、ここから、さらに詳しい説明があるのですが、

こういった感じで、やくざ口語ではない部分も、簡潔にまとめられ、巻末には参考図書も提示してあるだけでなく、物語を脚色した部分についても説明があり、作者の頭の良さだけでなく、真面目な仕事ぶりに感動し、大いに笑いました。

最後に、

ラビ・シュムリーと、マイケルの会話をより深く理解したい人のために、
私のテキトーで大雑把な情報を補足しますが、

シュムリーはユダヤ教の中でも「Orthodox(正統派)」と言われる宗派なので(今はそういう言い方はしないんだけど)一応「パリサイ派」と言える。

で、パリサイ派とサドカイ派とエッセネ派が、本書でどう説明されてるかというと、

当時、ユダヤ地方を支配していたやくざには3つの代表的な組があった。いずれもユダヤ組本家から枝分かれした二次団体であり、サドカイ組、パリサイ組、エッセネ組といった。

サドカイ組は都市エルサレムにエルサレム神殿という巨大な事務所を構え、そこで民衆からヤハウェ大親分への上納金を集めてシノギとしていた。(中略)現状のシノギで十分懐が潤っているため、彼らは体制維持を志向しており保守的である。ヤハウェ大親分の言いつけも違わず守ろうとした。

サドカイ組が世襲的な「やくざ貴族」であるのに対し、パリサイ組はより庶民的な立ち位置に近く、ヤハウェ大親分に熱烈な忠誠を誓ったゴロツキたちの集まりである。ヤハウェ大親分の言いつけを厳しく守ろうとするのは同じだが、大親分の言いつけに人為的な解釈を加えることもあった。(中略)この点でサドカイ組とはソリが会わず、彼らは対立関係にあった。

エッセネ組は特殊なヤクザ組織であり、彼らの中の一派は、社会から距離を置き、独自の共同体を作って暮らしていたとされる。

で、、イエスの兄弟子であるヨハネも、イエスも「エッセネ派」だったと言われていて、MJが元信者だった「エホバの証人」もエッセネ派の影響が強いと言われています。。

そんなわけなので、

新約聖書で、イエスの宿敵のようなパリサイ派のシュムリーと、MJが深く対話し、その後決裂したことは、歴史の必然であり、MJにもその意志があった。

みたいなことも、もしかしたらわかるかもしれません(笑)

超おすすめ!(私は「Kindle版」で読みました)



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by yomodalite | 2014-05-01 11:21 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite