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書き出し「世界文学全集」[1]の続き

本書は、世界文学全集などでよく目にする作品の、書き出し部分だけ新訳を作って並べてみた」という本なのですが、「書き出し部分」は1、2ページなので、続きが読みたいと思うよりも前に終わってしまうことも多くて、ちょっぴり残念な部分も。。

でも、既読本の場合は、柴田訳と比較してみたくなりますよね。

本書には昨年ハマりまくってたポーの作品が3作も収録されていて、それも、あの『ユリイカ』が選ばれていたので、既読本の八木敏雄訳と比較してみることにしました。


He who from the top of AEtna casts his eyes leisurely around, is affected chiefly by the extent and diversity of the scene. Only by a rapid whirling on his heel could he hope to comprehend the panorama in the sublimity of its oneness. But as, on the summit of AEtna, no man has thought of whirling on his heel, so no man has ever taken into his brain the full uniqueness of the prospect; and so, again, whatever considerations lie involved in this uniqueness, have as yet no practical existence for mankind.


エトナ山の頂から悠然と下界を見やる者は、その眺めの広がりと多様性に主として思いが行く。踵を軸にしてすばやく回転でもしない限り、パノラマをその全体性の崇高さにおいて把握することは望めない。けれども、エトナの頂きにおいて踵を軸に回転しようと思った者はまだ誰もいないから、その眺望の無二性を十分に脳に取り込んだ者は誰もいない。したがって、さらに、この無二性をめぐっていかなる問題が隠れているにせよ、それらはまだ、人類にとって現実に存在してはいない。(柴田元幸・訳)

柴田氏は「oneness」を「全体性」「uniqueness」を「無二性」と訳されていますね。

エトナの山頂で漠然とあたりを見わたす者は、主としてその眺望の広がりと多様性に心うばわれる。踵でくるりと一回転してみないかぎり、その荘厳なパノラマを純然たる全一(ワンネス)としてとらえることはできない。ところが、これまでエトナの山頂でそのような旋回をこころみようとした者がいなかったので、その展望の完全な全体(ユニークネス)を頭に刻印した者はいなかった。したがってまた、その全体のなかにいかなる考察にあたいする知見がひそんでいようと、それは人類にとって、事実上、これまで存在しなかったも同然なのである。(八木敏雄・訳)

八木氏は「oneness」を「全一(ワンネス)」、「full uniqueness」を「完全な全体(ユニークネス)」にされていて、私もこれ以外ないと思ってたんですけど、、、

「oneness」は「全体性」か。。。

全一とか、ワンネスって、特殊というか、スピリチュアル業界用語みたいだからでしょうか?(苦笑)

で、このあと、individuality を、柴田氏は「不可分性」、八木氏の訳では、「全体性(インディデュアリティ)」となっていて、八木氏は「GOD」を意識して宇宙を考えていることがよくわかるのですけど、、



英米詩では、これまた、ハマっていたウィリアム・ブレイクの「The Marriage of Heaven and Hell」も、原文と照らし合わせて読んだり...

とにかく、海外古典のテキストは、今は簡単に探せるので、
いろいろ、勉強になりますねっ!





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by yomodalite | 2014-02-28 09:28 | 文学 | Trackback | Comments(10)
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これから初めてポーを読んでみよう。
もしくは、以前に有名な短編を読んでみたけどピンと来なかったという人に!

八木敏雄氏との共著もあり(未読)、現在日本ポー学会会長もされている、
巽孝之氏による一番新しい新潮文庫版は未読なんですが...

それ以外の、現在手に入る文庫本を比べて、ベスト文庫を2冊セレクト!

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短編ではなく「ショート・ストーリー」と言いたくなる、
ポーの現代性が、訳者のリズム感のいいスマートな訳でスムーズに味わえます!


◎訳者による解説(ほんのちょっぴりだけ紹介)

ポーは自分がどういう書き方をするのか、はっきり表明した人だった。自作への解説や、同時代のホーソンに対する書評などの中で、さかんに創作法を論じている。一口に言えば、理詰めの芸術派なのだ。目標ははっきりしている。ある効果に的を絞って、読者の心を強烈に打つ。

そうであれば作品として出来が良い。その効率が高いのは「恐怖」である。もし「美」を扱うなら、詩の方が韻律があるだけ有利だから、散文では「恐怖」の効果を期待する。また、読み出したら1回で読み切れる長さでなければ、効果は薄れる。(引用終了)

◎訳者あとがき「ポーとコーソン」(めちゃめちゃ大幅に省略してメモ)

19世紀のアメリカ小説をご存知の読者は、右の標題を見て「ポーとホーソン」の間違いではないかとお考えかもしれない。でも誤植ではない。「コーソン」である。ポーが作品を書いていたのは、日本式に言えば江戸時代の後期、ほぼ天保から弘化にかけての時代だった。(中略)

やや脱線した話として、じつはポーを訳しながら、話の運びが落語調だと思うこともあった。枕が長くて怪談物の得意な噺家とでも言おうか、まず一般論、抽象論として、世間の通例を話してから、ようやく本題に入っていく。この枕の部分が訳しにくい。(中略)

明治26年、篁村の向こうを張って、より原文を尊重した『黒猫』は出た。訳者は内田魯庵。この人も下谷の生まれだが、下訳は使っていない。1人で読んで訳したという意味では、これが一匹目の猫である。篁村では「私」だった語り手が、魯庵では「余」になって、まるで漢文を読み下したようなリズム感で書いている。

誤訳がないわけではないが、篁村訳よりは恐怖が内面化して感じられる。ほぼ独学だったという魯庵の英語は、相当のレベルにあったのだろう。いや、慶応が明治になる前に生まれたのだから、訳した当時は二十代半ばではないか。これはすごい。

この魯庵はもちろん、篁村の下訳者にしても、かなりの読解力があったことは間違いない。どんな辞書を使ったのだろう。ろくな資料もない時代に、よくぞここまで、と思っただけで、もう私には明治人の誤訳をあげつらう気持ちはなくなる。

この人たちの系譜に連なる仕事を自分でもしたのか、今度の猫は21世紀の一匹目ではないのか、と思うと泣きたくなるほどうれしい。にゃーお。(引用終了)

・黒猫
・本能VS.理性----黒い猫について
・アモンティリャードの樽
・告げ口心臓
・邪鬼
・ウィリアム・ウィルソン
・早すぎた埋葬
・モルグ街の殺人

◎[Amazon]黒猫/モルグ街の殺人[光文社古典新訳文庫]小川高義(翻訳)


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『アッシャー家の崩壊』『黄金虫』『リジーア』… などのベスト!

八木敏雄氏による滑らかな翻訳だけでなく、各作品の冒頭の解説も訳注も、
日本一のポー研究家ならでは!
扉絵には、当時のイラストも使用されています。

(上記の光文社古典新訳文庫と重複する作品は「アモンティラードの酒樽」のみ)

・メッツェンガーシュタイン
・ボン=ボン
・息の紛失
・『ブラックウッド』誌流の作品の書き方ある苦境
・リジーア
・アッシャー家の崩壊
・群集の人
・赤死病の仮面
・陥穽と振子
・黄金虫
・アモンティラードの酒樽

◎[Amazon]黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇 (岩波文庫)
____________

下記は、八木敏雄氏の著作の個人的メモ。

・破壊と創造 エドガー・アラン・ポオ論(南雲堂 1968)
・ポー グロテスクとアラベスク(冬樹社 1978)
・アメリカの文学 志村正雄共著(南雲堂 1983)
・アメリカン・ゴシックの水脈(研究社出版 1992)

(編著)
・アメリカ! 幻想と現実(編)(研究社 2001)
・エドガ-・アラン・ポーの世紀 ― 生誕200周年記念必携 巽孝之共編(研究社 2009)
・マニエリスムのアメリカ(南雲堂 2011)

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by yomodalite | 2013-08-09 09:28 | 文学 | Trackback | Comments(0)
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☆Edgar Allan Poe(2)“For Annie”の続き

つい最近になって、エマソンを読み始めたら(MJ研究のためにねw)、彼がポーを散々な言葉で批判しているのを発見して、それでエマソンよりも、ポーの方に夢中になってしまって、これまで、私がイメージしていた人とは別の「ポー」が現れはじめました。

それは、またしてもイメージだけが膨らんでいくようなものだったのですが、ラッキーなことに「私のポー」を、適確に著してくれた日本一のポー研究者・八木敏雄氏の本に出会うことができ、ポーにハマったとほぼ同時に、八木敏雄氏に夢中になってしまったので、八木氏の著作の中から、『エドガー・アラン・ポオ研究 ー 破壊と創造』を紹介します。


◎1964年から『成城文芸』に連載された論文をまとめ、1968年初版....
[Amazon]エドガー・アラン・ポオ研究 破壊と創造


下記は、本書の「序にかえて ー ポオの評価をめぐって」を全文引用。

(下線は著者による傍点。太字は私のアンダーライン)



序にかえて ー ポオの評価をめぐって


その死後百有余年をへた今日、いまだにエドガー・ポオの評価は定まりかねているようである。それが定まりかねているのは、ポオが論じられることのすくなく、攻究されることの稀な作家であったからではない。彼がスフィンクスの如く巨大で謎めいた人物であったからでも、またむろん、彼が評価にあたいしない文学者であったからでもない。

事情はむしろ逆で、ポオに関しては、あらゆる種類の評価や好悪の意見は出つくし、その技法態度を蘇活すると否とにかかわる後世の意図は十分以上に果たされてしまった観がある。伝記的研究は旅役者であったポオの父母のレパートリーの研究からポオ自身の借金の額の詮索にまで及び、二巻よりなる書箇集は刊行をみ、彼の作品の精神分析学的研究はポオについてのいちばん部厚い本を生んでいるありさまで、普通なら、いまではこの作家について言いふるされていないようなことは言えぬのではないかと絶望するなり、安心するなりしてよいはずであるのに、事実はそうではない。

ポオがシェイクスピアの如き汲めどもつきせぬ偉大な作家で、各時代、各世代があらたな発見をしつづけてゆくであろうような作家であるなら、この事情に不思議はないのだが、ポオが偉大な作家ではないということ、彼の文学技法上の使命は終ったということには定説があり、しかもそれはどうやら動かしがたいようにみえる。

ポオの評価をめぐるこのような逆説的事態は、ポオがその生国アメリカでは永らく顧みられず、しかしフランスでは、ボオドレールやマラルメやヴァレリーなどの世界第一級の詩人たちによって高く評価され、そればかりか、彼らの創作の大いなる糧となり、したがって世界の近代詩のみならず、近代の文学全体に大きな影響をあたえた人物であったという文学史上の逆説によく象徴されている。 

むろん、かかる事態を招いた責任の一半はポオ白身にもあった。ヴァレリーの理解ある言葉を皆りれば、ポオが「自分自身の発見について、それが有する弱点を知悉していながら、その美点のすべてを強調したり、特長の一つ一つを宣伝したり、欠陥を隠したりし、いかなる代償を払ってもそれを彼が欲するものに似せようとして自分の発見に取り組む」たぐいの人間でもあったからだ。

「しかし、ポオの思想はその根本においてやはリ深遠で、偉大なのである」ともヴァレリーは保証する。知性の悲喜劇の愛好者にとって、ポオは依然として魅力ある人物たるを失わないであろう。が、いましばらくは直接にポオを対象にしないで、ポオの評価をめぐる後世の事態を観察してみたい。それがかえってこの作家の本質を解く鍵を提供してくれるかもしれないからだ。
 
ところで米国においては、ポオの評価はその百年忌にあたる1949年頃には、比較的低いところで定まりかけていたのである。そして、ポオを見なおし考えなおそうという風潮が起ってきたのも、この百年忌を境とする。手はじめに、1949年前後にポオについてなされた、目だった論者の発言を拾ってみよう。百年祭を記念して、ポオの詩と散文のアンソロジーを編んだモンタギュー・スレイターは、そのはしがきの枕に、「その死後百年になるが、ポオの作家としての位置を決定するのは容易なことではない」と書く。

V・S・プリチェットは『ポオ百年祭』というエッセーで、やはり開ロー番、「その死後百年になるが、いったいわれわれはポオをどう理解すればよいのか? われわれはこの作家から模糊として曖昧なものを読みとるだけだ。しかしこの作家から数々の文学上の重要な事柄が摂取されてきた。二流の作家、だがしかし示唆に富んだ発言者。ポオの天分は気まぐれで狭隘であったが、影響するところ甚大」と述べ、当惑を示す。

偉大なアメリカ文学の再編成者F・O・マシーセンでさえ、1948年という時点では、「ポオの最終的評価は、彼の作品がその原動力となった多くの文学的伝統を別にしては下しえないであろう」という目算を述べるにとどめた。T・S・エリオットの『ポオからヴァレリーヘ』は米国でのポオ再評価のきっかけのIつとなった論文だが、その冒頭の一節でエリオットは次のように述べる。
 
私がここでこころみようとしていることはエドガー・アラン・ポオの裁断的評価ではない。彼の詩人としての位置を定め、彼の本質的独創性を抽出してみようとは思ってはいない。まさしくポオは批評家にとって蹟き石である。彼の作品を詳細に検討してみると、ずさんな筆運び、広範な読書と深い学識に支えられていない未熟な思考、主として経済的な逼迫のせいだろうが、細部にまでわたる完璧性に欠けた、さまざまなジャンルでの気まぐれな実験といったものしか見出せないようにみえる。

が、これでは公正を欠くだろう。ポオの作品を個々別々に見ないで、全体として遠望するなら、たえず目をそこにやらずにはおれぬような、特異な姿と印象的な大きさを有する全体として、われわれの目にうつる。ポオの影響という問題もまた、われわれをとまどわせる……。
 
ここでエリオットは、ポオを「全体として」、つまり『大鴉』の詩人、『アッシャー館の崩壊』の短篇作家、『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の長篇作家、『詩作の哲学』の詩論家、『ユリイカ』の宇宙思想家などと個別的に見ないで、それらが微妙に絡みあって構成されているポオを全体として眺めることを提案している。が、エリオットがここで示している当惑も単なる修辞的ポーズではなかろう。

たとえば、同じ論文で、エリオットは「ポオに欠けているものは頭脳力ではなく、人間全体としての成熟をまってはじめてもたらされるところの知性の成熟であり、彼のさまざまな情緒の成長と調整なのである」と指摘することを忘れない。そして注意していただきたいことは、これが米国におけるポオ再評価のきっかけとなった論文の口調だということである。
 
それ以前の米国におけるポオ評価はどうであったか。ヘンリー・ジェイムズ(「ポオを熟愛できるということは幼稚な思考の段階にあることのあきらかな証拠である」)からポール・エルマー・モーア(「ポオは未熟な少年と不健全な大人のための詩人」)をへて、今日のアイヴァー・ウィンクーズ(「ポオは、彼の讃美考たちの主張するところによれば、理論と実際とをみごとに合致させたそうだが、その理論も実際も、ともにお話にならぬほどひどいものである)に至るまで、アメリカの各世代の代表的作家、批評家がポオを高く評価したためしはなかった。
 
しかし真摯なポオ讃美者の群がフランスに見出せる。ポオを発見しポオをあがめたボオドレール、ポオとボオドレールを尊敬したマラルメ、ポオとボオドレールとマラルメを尊重したヴァレリーなどの面々。このポオ崇拝の系譜がそのままフランス象徴主義の系譜を形成していることは、すでに何事かでなくてはならぬと思わせる。

たとえばボオドレールは、はじめてポオの作品を読んだとき、そこに「私が順に思い描いていた主題ばかりか、私が考え抜いていた文章さえも見出した」と告白している。この告白に嘘がなかったことは、ボオドレールはポオの『詩の原理』をほとんどそっくりそのままフランス語に移しかえ、それを自分の詩論尚として発表していることからもうかがえる―「われにもあらず自分によって作られたと思ってしまうほど、ぴったりと自分のために作られていると思えるものは、これを自分のものとせざるを得ません」とはボオドレールに対するヴァレリーの美しい弁護だが、同類にのみ許される剽窃の事例というわけか。

だがボオドレールがいかにポオに傾例していたかの傍証としてなら、『悪の華』という詩集を一冊出しただけの彼が、またけっして着実な性格の持ち主ではなかった彼が、ポオの散文作品ばかりは生涯休みなく仏訳しつづけたという事実に如くものはあるまい。クレペ編のボオドレール作品集12巻(書簡その他を含めて全19巻)のうち、じつに5巻がポオの翻訳によって占められている。これをボオドレールの詩才のために借しむのは勝手だが、彼にとってポオの散文作品の翻訳が畢生の事業の一つであったことをこれは物語る。
 
若き日のマラルメは「もっとよくポオを読めるようになりたくて」英語を勉強した、とある手紙にしたためている。そしてマラルメのポオ崇拝の念は生涯変ることがなかった。詩(“L’Azur”)をカザリスに献じたさいに添えた手紙に、マラルメは「この方向に進んでゆけばゆくほど、私はわが偉大なる師エドガー・ポオの示した厳格な理念に忠実になってゆくでありましょう」と書いている。またポオの詩をはじめてフランス語に訳したのはマラルメであった ー おそらく、ある畏敬の念からでもあろうが、韻文訳をあきらめ、散文に移すにとどめたけれども。
 
完璧という病いにとりつかれていて、誤謬を犯すことがなによりも似つかわしくなかったポール・ヴァレリーは、「ポオは唯一の完璧な作家である。彼は誤ちを犯したことはなかった」とまで断言する。またヴァレリーは、英米にあってはまったく顧みられることがなかった『ユリイカ』について美しいエッセーを書いた。それがヴァレリーの批評に堪えたということが、すでに何事かであることをわれわれにしのばせる。ヴァレリーはまた独立のポオ論を書いているけれども、『ボオドレールの位置』というエッセーはボオドレール論であると同時にポオ論でなければならなかったほど、彼はポオに深い関心を寄せていた。ここでしばらくヴァレリーの雄弁に耳を傾けてみるのも無駄ではあるまい。
 
明晰の魔・分析の天才、また、理論と想像、神秘性と計算のもっとも樹齢でもっとも心を惹く総合の発明者、例外の心理家、芸術のあらゆる資源を極め利用する文学技師、これらはエドガア・ポオの姿をとってボオドレールの前に現われ、彼を驚歎させます。これほど多くの独創的見解と非常な約束とは技を魅了します。彼の才能はこれによって変容され、彼の運命は華々しく一変されます。(佐藤正彰訳)
 
これらフランスの詩人たちのポオを語る語り口と英米人のそれとを較べてみるがよい。その違いようは怪しむにたる。だがボオドレール、マラルメ、ヴァレリーなどが高い知性と鋭敏な感受性の持ち主であり、すぐれた批評家であったことは紛う方なき事実なので、彼らのポオ讃美が、ヘンリー・ジェイムズの言うように、彼らが「幼稚な思考段階にあることのあきらかな証拠」とはならぬことはたしかである。

これらのフランス詩人たちの「過大な」ポオ評価を彼らの英語力の不足のせいにする意見はなかなか有力である。英語を母国語とする者ならすぐそれと気づくポオの詩の未熟な語法や不正確な韻律に、彼らは気がつかなかったとする意見だ。それはありえたことである。しかし彼らの栄光は英米の読者がポオに見落していたものを見出したことにあった。
 
それでは、比較的低い評価しかあたえなかった英米の評家たちが完全に間違っていたのであろうか? すでに引用した英米の評家もいずれ劣らぬ一流の作家、詩人、批評家たちであってみれば、そういうことはありそうにない。彼らのポオに対する不満は、詮ずるにポオが成熟することを知らぬ文学者であったところに向けられていたのだ。「未熟な少年と不健全な大人のための詩人」というモーアの評は彼らのポオに対する最大公約数的な意見であったと言ってもよい。
 
「成熟する」とは、簡単に言って、この世の現実とかかわりあいながら人生観を形成することであろうが、ポオは現実を、そこに身を置き、生き、かつ人格を形成する場とは見なさず、ただ観察し、分析し、自己の知力によって綜合する対象としてしか考えていなかった、と英米の文学者たちに感じられているのである。一方、フランスの詩人たちは、ポオの観察し、分析し、綜合する意識的な態度に感心したのであった。所詮、両者の目のつけどころが違っていたのであるから、感心の仕方も違ってくるわけである。
 
教養ある英米の人士にとって、ポオの詩や短篇のいくつかは、少年の日にはある感興を覚えながら読んだことがあるけれども、長じて自然な欲求に駆られて再読してみたいとは思わぬていの読みものであるに相違なく、そのことがまたポオの未熟さを裏づけているように思いなされるのも自然なことでなくはない。たしかにポオの作品は、一度読めば生涯忘れえぬほどの印象を、われわれの意識下の記憶に刻みつけるけれども、そしてこれはポオが凡庸な作者ではなかったことの有力な証拠ではあるけれども、一方、一度読めば足リるということがあるのも事実である。

もし世界第一級の文学作品たるの資格が、まず再読に堪えること、読むごとにあらたな発見を読者に強いずにはおかぬこと、われわれを心底から震撼し、その震撼がある種の普遍的な質に到追していることなどであるとするならば、ポオの作品の多くがそのような資格に欠けていることを認めないわけにはいかない。
 
もっとも、われわれはそうしようと思えば、ポオの詩を幾度でも読むことができる ー 耳に快いから、野暮でないから。彼の短篇小説を再度たのしむことができる ーー ありうべからざることが現に眼前に展開されているかに錯覚させる短篇の技巧にすぐれているから、そうと知っていながらそのように進行してゆく筋や、そのように反応していく自分の精神の動きを確認するのにはある種の愉悦があるから。

しかしポオの詩は、それが一個の純粋な芸術作品でありながら、同時に人生や世界の不条理をしのぼせ、人間実存の姿を垣間見せるという世界第一級の詩が持たねばならぬ逆説的構造を有するまでには至っていないと感じさせる。

短篇小説の場合なら、たとえば『アッシャー館の崩壊』でのように、嵐の晩にいったん死んだはずのマデラインが生身で生きかえってくるような話に、もはやわれわれは心から驚かされることはない。要するにポオの諸作品はすでにわれわれを心から痛ましめず、傷つけず、人間性についてのあらたな発見を強いることもないように思える。

が、それにしても ーー とわれわれは思うわけだが、それというのも、純粋に芸術作品でありながら人生の多様性をはらみうるような短篇小説の原型を後世に示したのがポオであり、いまではすでに異常ですらなくなってしまったほどに「異常心理」の普及に力をかしたのがポオであり、サンボリストたちの仕事によって実証されたように、厳密と精緻の度を加えるに堪え、しかも世界の不条理を盛りこむに堪えるほどの詩の理論を最初に編み出したのがポオであったからである。

普通でないことを始めた当時には、それが普通でないという理由からうとまれ、それが普通になってしまう頃までには、それが普通でなかった当時の状態や発明者の独創は忘れ去られており、しかもそれにつきものの弱点や欠陥は出つくしてしまっている ーー という破目になるのが発明者や創始者の辛い運命なのかもしれない。が、議論を前に戻せば、決して後世によって凌駕されない仕事を残す文学者が存在する ーー たとえばシェイクスピアの如き。
 
だがアングロ・サクソン世界で、比較的低い評価しかあたえられなかったのはポオの詩や小説ばかりではなかった。いや、英米でいちばんうとんじられているのは、フランスの詩人たちに珍重され、彼らの財宝とまで見なされた『詩の原理』や『詩作の哲学』や『マージナリア』の断章に含まれていたポオの詩論のたぐいだった。

英米人には、ポオの詩論の有効性が彼自身の詩作によって実証されていないと感じられているからであろう。『詩作の哲学』が自作の詩『大鴉』を材料にポオが自己の詩作の態度と意図を開陳してみせた文章であることは周知のことであるが、これが英米ではことさらに評判が悪い。

詩の長さに対する考察、詩の純粋性の主張、詩作にあたっての意識的な分析と計算と綜合の必要性の強調、やがてサンボリストたちの合言葉とすらなった「音楽」の観念 ーー それらはすべてこの論文に見出せるわけだが、たとえば「この詩(『大福』)のいかなる些細な一点といえども偶然や直観のおかげを蒙ってはおらず、作業は数学の問題を解くときのような正確さと厳密さをもって、一歩一歩完成されていった」という作者の言明をその実作が裏切っていると見えるらしい。いかなる点がそれを裏切っているかを、エリオットは『大鵬』の次の一行をあげて指摘する。
  
In there stepped a stately Raven of the saintly days of yore.

不吉な福は、その逆ではないにしても、いささかも “stately”(気高い)なところはないはずなので、なぜこの鴉が “saintly days of yore”(気高いむかし)に属するのかわかりかねる、とエリオットは言う。また、“stately”(堂々たる)とここで形容されている鴉が幾行か先では “ungainly fowl”(見苦しい鳥)と呼ばれているが、これなど矛盾でしかない、とも。

この詩は主人公の意識の変化をたどる詩なので、その鴉の容姿も主人公の意識の変化とともに変化してもおかしくないと思えるけれども、この現代の代表的詩人の指摘はそれなりにわれわれを納得させるにたる。しかしポオが一篇の詩を書き、かてて加えて、その詩の意図から技術問題にまでわたる解説文を書いたことで、英米ではうとんじられる結果になり、フランスでは重んじられることになったのは、なお怪しむにたる。
 
要するに、英米の批判者たちの見たポオがポオのすべてでもなく、フランスの詩人たちが見た彼がポオのすべてでもなかったのである。ポオはそれらのすべてだった。この簡単な事実に気づかれるまでに、ポオはその死後百年を待たねばならなかったようである。

(引用終了)

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『破壊と創造 エドガー・アラン・ポオ論』の一部は、こちらで読めます。

http://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/043/043-04.pdf

ここの49ページ「養父ジョン・アランと養子エドガー・ポオとの関係は、しばしばポオに好意的な伝記作者たちによって加害者と被害者との関係として述べられている……」「アランとポオとの関係が加害者と被害者のそれであったとするならば、ポオには、その関係の温存をはかっていたと思えるふしがある……」「“子” の客観性のかなりの部分は “父” によって与えられるものであるから “子” は自分の自分の客観性に対してそれほど責任を持たなくてよい …… 

と続く文章にも、MJを描こうとする凡庸な伝記作者に飽きた。と思う方なら「ビビビッ」と来ませんか?(この文章は、このあと「アニー」も登場します)

☆エドガー・アラン・ポー(4)おすすめ文庫2冊!

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by yomodalite | 2013-08-07 09:30 | 文学 | Trackback | Comments(2)
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☆Edgar Allan Poe “For Annie”(1)の続き

MJの愛読書の中で、全集(Complete Works)の所有が確認されている作家は、O・ヘンリー(1862年9月11日 - 1910年6月5日)と、ラルフ・ウォルドー・エマソン(1803年5月25日 - 1882年4月27日)と、エドガー・アラン・ポー(1809年1月19日 - 1849年10月7日)の3人で、「For Annie」は、彼が所有している『The Complete Stories and Poems of Edgar Allan Poe』に収められています。

また、「ポォーーーー!」という叫びが印象的な『Smooth Criminal』のショート・フィルムは、ポーが創造し、その後ホームズ等に受け継がれた探偵やトリックなどのスマートさ以外にも、ポーからの様々なインスピレーションが感じられる作品だと思います。

『Smooth Criminal』の “アニー” に関しては、様々な解釈がされていますし、MJの作品の要素は概ね「てんこ盛り」なので、ひとつのテーマに集約するなんて、幕の内弁当の中で天ぷらだけを食べているようなものだと思いますが、 MJが計画していた映画「The Nightmares of Edgar Allan Poe」は、ポーの晩年に焦点をあてたもので、アニーは、ポーの最後のときを彩った女性でした。そんなわけで、

“アニーの謎” が、ポーへの入口に繋がるのは、いずれ、MJと文学談義を交わす際には有用なのではないかという目論み(笑)なので、夜露死苦っ!

◎[関連記事]http://yourockmyworld829.blog88.fc2.com/

☆ ☆ ☆


「For Annie」は、1848年に発表された詩で、アニーとは、何年も病床にあった妻(ヴァージニア)を、1847年を亡くし、深い失意にあった頃、つきあっていたナンシー・リッチモンド夫人(アニー・リッチモンド)のことだと言われています。(この頃、彼には他にも婚約したり、詩を捧げたりという複数のロマンスがあるのですが)

この詩の「私」は死後の独白のような内容ですが、実際、ポーは、このころ自殺を図り、詩が発表された翌年、原因がわからない変死により人生の幕を閉じている。

しかし、そういった「物語」よりも、もっと複雑で興味深いのは、やっぱり、彼の作品であり、詩であると。そんな風にようやく感じられ始めたので、(1)とはまた別の訳書を読んでみました。

◎[Amazon]ポオ詩と詩論 (創元推理文庫)

こちらは「ユリイカ」など長文の散文詩を含めすべての詩が収められて、
1979年に出版されたもの。

下記は、福永武彦氏による「まえがき」

エドガー・アラン・ポオの詩の全部を、現代口語に翻訳しようなどという試みは無謀というほかはなく、私はひたすら固辞したのだが、遂に出版社の熱意に押し切られて引き受けざるを得ない破目になった。

そこで私は条件をつけて、詩集のうちのわずか十篇ほどで勘弁してもらい、残りの五十三篇は入沢康夫君の手を煩わした。同君は何よりもまず詩人であり、詩の翻訳は訳者もまた詩人でなければ語感の美しさを移植できないと信じる。

ただ私にしても入沢君にしてもフランス語の方が本業なので、語学的に間違いを犯した点がありはしないかと恐れている。(中略)

勿論私たちは二人とも、ステファヌ・マラルメ及びレオン・ルモニエの仏訳を参照したが、これは文字通り参照したというだけで、実を言うと、仏訳にも怪しい点が少なからずある。

[仏語が読めない私にはわからない参考資料]マラルメ訳「Pour Annie」

ただ語感という点では、マラルメの散文訳は見事なものであり、私たちも亦その語感に学んだと言うことが出来る。この邦訳は、その大部分を入沢君に頼んだが、頼んだのが私である以上、全体に関しては、勿論私が責任を持つものである。

(引用終了)

と、このまえがきから、マラルメのポーの翻訳詩が見てみたくなっただけでなく、福永武彦氏のことも一瞬で好きになってしまいました!(私は存じ上げなかったのですが、作家としてもとてもファンの多い方で、三島由紀夫より7歳年上)。


下記は本書から、福永氏ではなく、入沢氏が翻訳された “For Annie” の訳詞に
英語原文を加え、各スタンザの冒頭に番号を付記しました。

こちらは、答えあわせのつもりだったのですが、

残念ながらそうとも言えないというか、
しつこく(呆)疑問がのこった点に関しては「太字」にしてあります。
ご意見やご指導をお寄せくださいませ。




For Annie
アニーのために


1)
Thank Heaven! the crisis 一
The danger is past,
And the lingering illness
ls over at last 一
And the fever called “Living”
ls conquered at last.

有難いことだ! 危機は ーー
危難は すぎ去った。
長びいたわずらいも
とうとう終った ーー
「生存」という名の熱病が
ついにとどめをさされたのだ。

2)
Sadly,l know
l am shorn of my strength,
And no muscle l move
As l lie at full length 一
But no matter ー l feel
l am better at length.

私は知っている、悲しいことだが、
私の力は奪われている。
筋一本も 動かばこそ、
長々と横たおったままなのだ ーー
だが、かまわない!ーー 私は感じる、
やっと心地がよくなったのを。

3)
And l rest so composedly,
Now,in my bed,
That any beholder
Might fancy me dead 一
Might start at beholding me,
Thinking me dead.

こうして私がいかにもゆったりと 今
ベッドにやすらっている姿を
見る人はだれであれ思うだろう、
私が死んでいるのだとーー
私を眺め 死んでいるものと思いこんで
おそらく身ぶるいをするだろう。

4)
The moaning and groaning,
The sighing and sobbing,
Are quieted now,
With that horrible throbbing
At heart : 一 ah,that horrible,
Horrible throbbing !

かなしみの声 呻きの声、
溜息も すすり泣きも、
今は静かになってしまった。
あのいまわしい心臓の
鼓動も消えた ーー ああ あのいまわしい
いまわしい鼓動の音も!

5)
The sickness 一 the nausea 一
The pitiless pain 一
Have ceased,with the fever
That maddened my brain 一
With the fever called “Living”
That burned in my brain.

むかつき ーー 嘔き気 ーー
なさけ容赦もない痛み ーー
みんな 終った。私の頭を
狂わせていた熱病も終った ーー
頭の中で燃えていた
「生存」という名の熱病も。

6)
And oh! of all tortures
That torture the worst
Has abated 一 the terrible
Torture of thirst
For the napthaline river
Of Passion accurst : 一
l have drank of a water
That quenches all thirst : 一

そして ああ! ありとある
責苦のなかでも一番むごい
あの責苦 ーー 呪われた「熱情」の
瀝青の河に渇き苦しむ
おそろしい責苦
それも今やおさまった ーー
すべての渇きをいやす水を
私はごくりと飲みほしたのだから ーー

7)
Of a water that flows,
With a lullaby sound,
From a spring but a very few
Feet under ground 一
From a cavern not very far
Down under ground.

子守唄のような音を立てて
流れて来た その水、
地下 ほんの数尺の
泉から流れ出る水 ーー
ほど遠からぬ地の下の
洞穴から流れ出て来る水を。

8)
And ah! let it never
Be foolishly said
That my room it is gloomy
And narrow my bed;
For man never slept
In a different bed 一
And, to sleep, you must slumber
In just such a bed. 

だから ああ! この私の部屋が暗く、
私のベッドが狭いなどと、
そんな愚かしいことは
言わないでいただきたい。
人はみな これと同じ
ベッドに就いてきた。
眠るというならば 人はまさに
このようなベッドでまどろまねばならぬ。

9)
My tantalized spirit
Here blandly reposes,
Forgetting, or never
Regretting its roses 一
Its old agitations
Of myrtles and roses :

タンタロスのように渇きに喘いだ私の魂も、
ここでは さわやかにやすらっている。
薔薇の花のことも ーー
その昔のミルトや薔薇のさやぎも、
忘れて ーー それをくやむことも
絶えてなく。

10)
For now, while so quietly
Lying, it fancies
A holier odor
About it,of pansies 一
A rosemary odor,
Commingled with pansies 一
With rue and the beautiful
Puritan pansies.

それというのも 今 こうして静かに横たわって
私の魂は さらにさらに神聖な
思い(パンジー)の香りが身をとりまくのを
夢みているからだ。
美しく清らかな思い(パンジー)や
侮い(ヘンルーダ)にまじった
追憶(ローズマリー)の香り
が身をとりまくのを
夢みているからだ。

11)
And so it lies happily,
Bathing in many
A dream of the truth
And the beauty of Annie 一
Drowned in a bath
Of the tresses of Annie.

こうして 私の魂は 幸せに
やすらっているのだ、
アニーの 真実と 美との
数知れぬ夢にゆあみしながら ーー
アニーの髪の中に
深々とゆあみしながら。

12)
She tenderly kissed me,
She fondly caressed,
And then l fen gently
To sleep on her breast 一
Deeply to sleep
From the heaven of her breast.

彼女はやさしくキスしてくれた。
心をこめて愛撫してくれた。
やがて 私は彼女の胸で
穏やかに眠りにおちるのだったI
天国のような彼女の胸から
深い眠りへとおちるのだった。

13)
When the light was extinguished,
She covered me warm,
And she prayed to the angels
To keep me from harm 一
To the queen of the angels
To shield me from harm.

ともしびが消えた時、
彼女は私を暖かく覆ってくれ、
天使たちに祈ってくれた、
この人を危難から守って下さいと ーー
天使たちの女王のマリアに祈ってくれた
この人を危難から守って下さいと。

14)
And l lie so composedly,
Now,in my bed,
(Knowing her love)
That you fancy me dead-
And l rest so contentedly,
Now in my bed,
(With her love at my breast)
That you fancy me dead 一
That you shudder to look at me,
Thinking me dead: 一

今 私がベッドの上で
(彼女の愛情を思いながら)
ゆったりと横だわっているのを
人は死んでいると思うのだ ーー
今 私がベッドの上に
(彼女の愛情を胸に抱いて)
こころ満ち足りて やすらっているのを
人は死んでいると思うのだ ーー
死んでいると思えばこそ
私を見てふるえるのだ。

15)
But my heart it is brighter
Than an of the many
Stars in the sky,
For it sparkles with Annie 一
It glows with the light
Of the love of my Annie 一
With the thought of the light
Of the eyes of my Annie.

だが 私の心は 天国の
あまたの星をことごとく合せたよりも
もっともっと輝いているのだ。
アニーといっしょにきらめいているのだ ーー
私のアニーの愛の光で
あかあかと燃えているのだ ーー
私のアニーの限の光を思って
あかあかと燃えているのだ。


(訳:入沢康夫)


下記は、上記の訳への疑問と(1)の私訳への「言い訳」ww

7)
泉から流れ出る水 ーー not very few Feet で、not very far Down の地下から流れ出てきた水は「泉」ではないと思いました。

地獄があるはずの地下から、子守唄のような音が聞こえ、清らかな水が流れてくることや
光が射さない暗闇の中にも、春が訪れる…

冒頭の「Thank Heaven!」から、棺桶の中で休んでいる “私” は、教会の教えに反したことや、死に感謝するなど、人々の感情とは異なることを述べていると思います。

9)
myrtles(ミルト)や roses(薔薇)のような女たちによって、タンタロスのように、永遠に止むことのない飢えと乾きを感じていた “私” が、安らいでいる理由は…

10)
パンジー(思い)や、ヘンルーダ(侮い)や、ローズマリー(追憶)の香りが
身にとりまくのを夢みている...

悔いに混じった追憶...

ヘンルーダの香りに、ローズマリーの香りが混じった香りに身を包まれることを夢みる...ポーが「花言葉」で詩を書くことが変ではないとしても、この文章は「変」ではないでしょうか?

花言葉の意味で感情を表現するのに「odor」を用いていることにも違和感を感じるのですが、

くやむこともなく、忘れて… と言っている、myrtles(ミルト)roses(薔薇)など、誘惑的で香りを身にまといたくなるような花は複数形で、

両方とも薬草系で、夢ごこちで身にまといたくなる香りではない「rue」と「rosemary」は単数形ですよね。だったら、A holier odor と、A rosemary odor が、Commingled(混じっている)のは「Puritan pansies」の方なんじゃないでしょうか? そして、それは、美しくもあり(beautiful)、残念(rue)でもあると。

私には、どうして、この部分をわざわざ「花ことば」の意味で考えなくてはならないのかがわからないんですが、、この時代の人々が、すぐにこういった「花ことば」を思い浮かべる習慣があるなら、この詩全体に流れる、反社会的な基調を和らげているというか、ポーの巧妙な仕掛けなんじゃないでしょうか。

11)
棺桶の中で幸せを感じている “私” は、アニーの夢に安らいでいる。この「アニー」が、リッチモンド夫人だとすれば、アニーは生きていて、 “私” は、死によって安らいでいる。

12)13)
やさしくキスをし、愛撫し、 “私” のために祈ってくれたのは、アニーの思い出でしょうか?

15)
“私” は死によって、「アニーと一緒に」なる夢をみることができ、
天国よりも星よりも、きらめくことができる…

私のアニーの愛の光で、あかあかと燃えている…

アニーの愛の光で、私の魂が燃えている。なら、ふつうに意味が分かるんですが、「私の」を強調しているのは、現実のアニーではなく、夢の中にだけ存在する「アニー」が、 “私” が、死んだことにより、永遠に “私” の中に生き続けることになる。

そして、それはアニーという固有の女性への愛情ではなく、彼女を見つめる “私の眼の中” に「thought of the light」があるのだ。ということだと思い、「ぼくのアニーを見つめる目の奥には輝くような思想があるから」にしました。


Annie, are you ok?
So, Annie are you ok?
Are you ok, Annie?



Smooth Criminal(HIStory World Tour Live In Gothenburg '97)




☆エドガー・アラン・ポー(3)「破壊と創造」に続く



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by yomodalite | 2013-08-04 19:23 | ☆マイケルの愛読書 | Trackback | Comments(22)
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ブレイクの対訳詩集でこのシリーズの面白さにハマり、マイケルが愛読していたポーの詩集も読んでみました。

◎[Amazon]対訳 ポー詩集ーアメリカ詩人選〈1〉(岩波文庫)


これまで、ポー作品は有名な短編を何作か読んだことがあっただけで、詩をじっくり読んだのは初めての経験だったのですが、あらためて、こーゆー人だったんだ。と思えることが多くて、、

ポーの画像検索をしていて思ったのですが、ポーの写真は「一種類」しかないといっていいほど少ない。それは、彼のイメージが「一種類」に絞られているということと同様で、実際、ポーの作品を読んだことがない人でも、ポーについての「イメージ」だけはある。という人は多いと思います。

このブログを、マイケル関連で読んでくださっている方には、MJがポーのファンで、彼に関する映画の計画についての話題をご存知の方が多いと思いますが、ポーの詩や詩論を読んでみたら、小説を読んだときよりもずっとMJとの繋がりを感じて “ワクワク” してしまいました。

で、そんなことを語りたかったのですが、まだまだわからない点も多く、
まずは、詩の翻訳から。


本書では「アニーに寄せて」というタイトルの詩です。


下記の詩の英語部分は、『対訳ポー詩集』から書き起したあと、ネット探索もしましたが、日本語訳は「私訳」なのでご注意ください。

『対訳ポー詩集』と解釈が異なる箇所は、パラグラフ(スタンザ)の最後に(*)をつけ、そちらの訳と注釈も掲載しましたので、お叱りをいただける際(優しく教えてね)の参考にしてくださいね。


私の解釈と疑問は(☆)です。


For Annie
アニーのおかげで...(☆1)

Thank Heaven! the crisis 一
The danger is past,
And the lingering illness
ls over at last 一
And the fever called “Living”
ls conquered at last.

天国に感謝!
絶体絶命 一 そんな危篤状態から抜け出て
長く苦しんだ病いもすっかり過去のこと ー
そして、ついに「生きる」ことへの熱情も
克服したのだ

Sadly,l know
l am shorn of my strength,
And no muscle l move
As l lie at full length 一
But no matter ー l feel
l am better at length.

哀しむべきことに、
ぼくは、どんな筋肉も動かすことができず
力を奪われた状態で横たわっている
だが、なんの問題もない
ぼくは確かによくなったのだから

And l rest so composedly,
Now,in my bed,
That any beholder
Might fancy me dead 一
Might start at beholding me,
Thinking me dead.

ぼくは、今、とても落ち着いて
ベッドで休んでいる
人はその様子にぼくが死んだと思い込み
そんな眼でぼくを見始める

The moaning and groaning,
The sighing and sobbing,
Are quieted now,
With that horrible throbbing
At heart : 一 ah,that horrible,
Horrible throbbing !

嘆いたり、罵ったり、溜め息をつき、すすり泣くことも
今はもうない
胸がずきずきするような、酷い動悸
あの、恐ろしく心臓が
ずきずきするような激しい動悸さえも!

The sickness 一 the nausea 一
The pitiless pain 一
Have ceased,with the fever
That maddened my brain 一
With the fever called “Living”
That burned in my brain.

あの病気というもの 一 吐き気や
容赦のない痛みも 一 終わったのだ
それは、ぼくの脳を激しく悩ませ
「生きる」ことへの熱情を、ぼくの脳に焼き付けた

And oh! of all tortures
That torture the worst
Has abated 一 the terrible
Torture of thirst
For the napthaline river
Of Passion accurst : 一
l have drank of a water
That quenches all thirst : 一(*1)

そして、なにもかもが拷問と思える中でも
最悪の苦しみが ー 薄らいだ
ナフタリンが流れるような川からの
激しいのどの渇きによる「受難」ー
ぼくは、すべての渇きを潤す水を飲んだ

Of a water that flows,
With a lullaby sound,
From a spring but a very few
Feet under ground 一
From a cavern not very far
Down under ground.

その水は春から
子守唄のような音色をともない
流れてきた
地面のほんの少し下の ー
そんなに深くない洞穴から

And ah! let it never
Be foolishly said
That my room it is gloomy
And narrow my bed;
For man never slept
In a different bed 一
And, to sleep, you must slumber
In just such a bed. (*2)

だから、どうか
ぼくが横たわる部屋が、暗くて、狭いだなんて
愚かなことは二度と言わないでほしい
その男はこれ以外のベッドでは眠れたことがないのだ
そして眠るとなれば、誰もが
このようなベッドで過ごさなければならない

My tantalized spirit
Here blandly reposes,
Forgetting, or never
Regretting its roses 一
Its old agitations
Of myrtles and roses : (*3)

ぼくの乾いた魂も、ここでは穏やかでいられる
忘れよう、そしてもう二度と
後悔はない、薔薇のことは ー
銀梅花や薔薇のような花々に
惹かれた過去のことは

For now, while so quietly
Lying, it fancies
A holier odor
About it,of pansies 一
A rosemary odor,
Commingled with pansies 一
With rue and the beautiful
Puritan pansies.(*4)

今、ここでこうして静かに横たわり、
この場の神聖な匂いを嗅いでみれば
それはパンジーのようで ー
ローズマリーの匂いでもあり、
パンジーには、
厳格で清らかな清教徒の残念さが潜んでいる(☆2)

And so it lies happily,
Bathing in many
A dream of the truth
And the beauty of Annie 一
Drowned in a bath
of the tresses of Annie.

だから、そう、これは幸いなことなのだ
あの真実の夢 ー 美しいアニーの
彼女の長く美しい髪にうもれた夢に浸れるのだから

She tenderly kissed me,
She fondly caressed,
And then l fen gently
To sleep on her breast 一
Deeply to sleep
From the heaven of her breast.

彼女はぼくに優しくキスをし愛撫した。
それから、ぼくは彼女の胸の上で穏やかに
沼地に沈みこむように、眠りにつく
彼女の天国のような胸の上で

When the light was extinguished,
She covered me warm,
And she prayed to the angels
To keep me from harm 一
To the queen of the angels
To shield me from harm.

明かりを消し
彼女はぼくを優しく包み込むように抱きしめ
ぼくを危険から遠ざけるために、天使たちに祈った
ぼくを守るように
天使たちの女王に

And l lie so composedly,
Now,in my bed,
(Knowing her love)
That you fancy me dead-
And l rest so contentedly,
Now in my bed,
(With her love at my breast)
That you fancy me dead 一
That you shudder to look at me,
Thinking me dead: 一

そして、今ぼくはとても穏やかに
(彼女の愛を知りながら)
ベッドに横たわっている
人はぼくが死んでいると思っている ー
しかし、ぼくは心地よく休むために
今、こうしてベッドにいる
(彼女への愛を胸に抱いて)
人はぼくが死んでいると思っている ー
ぼくが死んでいると思っているから
ぼくを見て恐ろしさに身を震わせているのだ

But my heart it is brighter
Than an of the many
Stars in the sky,
For it sparkles with Annie 一
It glows with the light
of the love of my Annie 一
With the thought of the light
of the eyes of my Annie.

しかし、ぼくの心は満天の星々よりも
もっと明るい
それは、アニーとともにいて
アニーに対する愛情の光で輝いていて
ぼくのアニーを見つめる目の奥には輝くような思想があるから

(訳:yomodalite)

(☆1)ダサいタイトルですみません。でも、アニーに寄せてや、アニーのために。ではないと思ったら、これしか思いつきませんでした。

(*1)
それに何よりも、おお、
何よりも苦しかったものが
静まってくれた 一一
のどの乾きという苦しみ、あの呪われた「情熱」の
火の川を求める
恐ろしい苦しみが静まって 一一
いまのぼくは
すべての渇きをいやす水を飲んだのです 一一

本書の註:napthaline または naphthalene = clear, combustible rock oil(石油からとる、ナフタリン)「地獄の火の川」を連想させる。of Passion accurst passion の p を大文字にすると、キリスト教の受難の意となるが、ここでは、普通の意味を強調する語。accurst(呪われた)passion quenches(Vt. )= puts out, extinguishes.

(☆)naphthalene rever 「地獄の火の川」を求める...?

(*2)
そして、おお、どうか
思いこまないでほしい 一一 ぼくの
横たわるところが
薄暗くて狭苦しいものだなんて 一一
なぜなら人は誰でもみんな
眠れば同じようなベッドに眠るのです 一一
眠るとなれば、いいですか、
誰だって同じようなベッドなのです。



(*3)
いつも恋いこがれる
ぼくの魂もいまゆったりと憩っている。
そのマートルや薔薇によせた
興奮の数々を
いまは忘れて、もう ーー
後悔もしないで ーー


本書の註:myrtles and roses myrtleはキンバイカ、ヒメツルニチソウ。ここでは myrtleは “Love” を、rose は “Beauty” を象徴している。(ボーの時代の「花言葉」辞典による。次も同じ。

(*4)
なぜっていま、
こうしてごく静かに
横たわる魂は
パンジーの
あの清い香りを思うからです、
美しいパンジーの清さにまじる
ローズマリーの香りと 一一
ルーや美しくて清いパンジーの香りと。


本書の註:pansies パンジーは “Thoughts”(思索、物思い)の象徴。 rosemary マンネンロウ。香料となる低木“Remembrance"(追憶)または “Fidelity"(忠実)の象徴。rue ヘンルーダ、ミカン科の低木、葉に強い香りあり。“Grace"(優美さ)の象徴。Puritan pansies Puritanは清教徒のこと。相手のアニーはニューイングランド育ちで清教徒だから、この妙な語(Puritan pansies)もそれなりにふさわしいのだろうが、訳しようもない句である。

(☆2)「rue」は名詞でしょうか?...「Puritan pansies」は、文章にするのはむつかしくても、私にはその意味自体は明確に思えました。このスタンザに漂っているのは “美しい花の香り” だけではなく、詩人だけが感じるような “臭気” も「commingle」だと思ったのですが。。

rosemary と pansies は、ぼくが寝ている場所、ベッド(棺桶)が置かれている教会のような場所の「匂い」と、三枚の花弁をもつパンジーは、三位一体を受け入れたキリスト教徒の反知性を表現し、「Puritan pansies」は、質素で、厳格な清教徒に対して幾分かの侮蔑と、また、冒頭で天国に感謝し、心地よく横たわる “ぼく” の「残念な思い(後悔)」とは、「Puritan pansies」に対してであり、ピューリタンの夢と現実が混じりあう米国に対してではないでしょうか。

この詩は、冒頭の「Thank Heaven!」から、教会が教える「天国と地獄」のイメージに、詩人の魂で返したもので、アメリカはピューリタンの精神で建国されたと言われる国ですが、19世紀のアメリカで、モルグ街を書き、ホームズの先達とも言えるオーギュスト・デュパンを創造したような鋭利な知性の持ち主である彼が、清教徒の女性を讃美し「花言葉」の意味で詩を書くでしょうか... 

彼の個性も、アイルランド系の出自も、当時の米国では正当な評価を受けにくいものだったでしょう。(彼は、フランスの詩人たちによって高い評価を得た後、米国で評価されるようになった)

また翻訳者は解説で、アニーをナンシー・リッチモンド夫人だと書いているのですが、、


Annie, are you ok?
So, Annie are you ok?
Are you ok, Annie?





ポォー ーーーー!!!


このあとも、さらに、この詩で悩み、どんどん深みにハマってしまったので、
☆(2)に続く


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by yomodalite | 2013-08-02 10:00 | ☆マイケルの愛読書 | Trackback | Comments(12)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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