邦題は、 原題「The Childhood of Jesus」の直訳だけど、聖書の話とも、歴史上のイエスの記述とも違っていて、半分ほど読み終わるまで、これがどういう類の小説なのかもわからなかったのだけど・・
主人公の中年男は、自分の子でも孫でもない5歳の少年を連れて、移民や難民が集まるような「セントロ・デ・レウピカシオン・ノビージャ」という場所に降り立つ。ふたりにはそれぞれスペイン語の名前が与えられていて、中年男はシモン、少年はダビードと身分証に書かれている。
そこでは、社会福祉が整っていて、人々は親切で、きちんとしているようで、どこか生気がなく、シモンは違和感を感じながらも、与えられた船の荷揚げの仕事に就く。でも、シモンは真面目に仕事をこなしながらも、単純な作業や、不効率な部分に不満がないわけではない。
ある日、シモンは、倉庫にネズミの大群を発見して叫び声を上げるが、同僚は「我々人類が栄えるところにはネズミも栄える」と、意に関しない。シモンが、「どうしてネズミに汚染された倉庫に、何千トンの単位で、穀物を貯蔵しておくんだ?1ヶ月ごとに需要に見合うだけ輸入すればいいじゃないか。どうしてもっと効率良くできないんだ?」と言うと、
同僚は「あんたの言うようにしたら、おれたちはどうなる?馬は?・・・つまり、おれたちの獣じみた労働生活から解放したいと言うんだな・・・そういう職場では、粒がカサカサ言うのを聞きながら、積荷に肩に担ぎ上げたり、物とじかに触れ合うこともできなくなる。人間の糧となり命を与えている食物との接触を失うんだ。
われわれは、なぜ、自分たちが救済されるべきだとこうも強く信じ込んでいるんだろうな、シモン? おれたちは無能でほかに出来ることがないから、こんなに荷役をして暮らしていると思うか?・・・わかってきたろう、あんたも仲間なんだよ、同志。・・・愚かなのは俺たちじゃない。愚かなのは、あんたが頼りにしている小賢しい理屈だ。そのせいで、答えを見誤ってしまうんだ・・」
という具合に、ノビージャの人々は哲学的な会話が好きで、船の荷揚げの仕事が終わったあと、さまざまな倶楽部に参加して余暇を過ごしているが、そこでは、語学やプラトン哲学だけでなく、女性と過ごすことより、人体デッサンを学ぶ方が人気w。
シモンには、少年の母親を探すという目的があるが、名前も住所もわからず、ただ、会えば確実にわかる。という強い確信だけがあって、ある日、山の上にある蔦に覆われた門の中で見かけた女性が、ダビードの母親に違いないと感じ、その女性(イネス)に、母親になってほしいと頼むと、不思議なことに、若い独身の彼女もそれを引き受けてしまう。
しかし、シモンは直感だけでイネスを選んだものの、子育ての経験もない彼女の教育方針には、口を挟みたくなることも多く、また、少年ダビード(イエス?)は、覚えたばかりのチェスですぐに大人に勝利するなど、並外れたところはあるものの、大人の言うことを聞かず、イエスというよりは、暴君的で、ダビデ王のようでもあり、妙に「数字」にこだわったりw、「ライセ」のことも信じているw
物語の終盤、自分が三男坊になるために、兄弟を欲しかっていたデビートは、ヒッチハイクをしていたフアンという青年に出会う。「あとがき」によれば、フアンは、クッツェーの名前、Juanのスペイン語形で、つまり「ヨハネ」だということ。この続編の『イエスの学校時代(The Schooldays of Jesus』も刊行予定で、すでにそちらもブッカー賞のリスト入りとか・・早く読みたいっ!
まくことが好きなのは、男だけだと思っていた。1位になったF1レーサー、優勝した野球チーム、土俵入りするお相撲さん、いつだって何かをまいているのは、男だ。例えば節分の日、神社の刑ないで豆をまく人たちだって、女より男の方がはしゃいでいるし、ぼくのクラスメイトでも、水をぶうっと吹いて遊ぶのや、砂場の砂を投げつけてくるのは、いつだって男子だ。
数ヶ月前に出版された枡野浩一氏の小説という名の実話、というか私小説? 離婚についてと、会えなくなった息子の話はまだ続いていて、あーーこの話はまだ続くんだなぁと思いつつ、やっぱりそれが読みたかったような気もして・・、芸人として舞台に立たれていたことなどはこの本で初めて知りました。
本の中では、「神ンポ」という略称が度々出てくるのだけど、元々は「神様がくれたインポ」というタイトルでWebで連載されていたもの。書籍化するときにこのタイトルに変更されて、うさぎがカワイイ装幀に、中村うさぎさんの手厳しいコピーが付いています。
そして、おそらくこの本でお勧めされていたことから読んだ、小説らしい小説がこちら。
下記は、町田康氏の解説から省略してピックアップしたもの。
・・人は人が作ったものから勇気や力、あるいは、また別の、そうした簡単な言葉で表しがたいものを確かに受け取り、それが自分のなかに間違いなく残り、その後の人生に影響を及ぼすことがある。そのとき、その作ったものとはどんなものか。例えば小説だった場合、どのように書かれるべきなのか。その例を挙げるならば、私は、本書、『こちらあみ子』のようであるべきだと思う。・・
・・この世で一途に愛することができる人間はどんな人間か。その一途な愛はこの世になにをするのか。一途に愛する人はこの世になにをされるのか。・・
・・一途に愛するためには、世間の外側にいなければならない。しかし、人間が世間の外側に出るということは実に難しいことで、だから多くの場合は一途に愛することはなく、他のことと適度にバランスをとって愛したり、また、そのことで愛されたりもする。つまり、殆どの人間が一途に愛するということはないということで、一途に愛するものは、この世に居場所がない人間でなければならないのである。・・
・・「あみ子、ってのは、特殊な人なんですね」と多くの人が思うだろうが、そうではなく、この小説を読んで私たちは、簡単な言葉で表しがたいものが確実に自分のなかに残っているのに気がつく。世の中で生きる人間の悲しさのすべてを感じる。すべての情景が意味を帯び、互いに関係し合って世の中と世の中を生きる人間の姿をその外から描いていることにも気がつく。
なぜ、この小説ばかりがそうなるのか。
それは、人になにかを与えようとして書かれているのではなく、もっと大きくて不可解なものに向けて書かれているからであろう。
「ピクニック」は乾いていてなおかつ切ない。幸福なお母さんから遠いところにいる者たちの信仰は尊くて惨めで。「チズさん」も向こう側から描かれていて、この世の人間の言葉や動きが、ひどくぎこちなく、不自然で、しかし、実際に私たちがその通りであるようにも感じて眩暈がする。
今のところ私たちが読むことができる今村夏子の小説はこの3編だが、いずれも時代を超えて読み継がれるべきであると私は思う。
(引用終了)
今年(2016年)の芥川賞候補になった『あひる』は2年ぶりの新作のようです。
プリンストン大学の大学院でエドガー・アラン・ポーを研究していたフィクリーは、妻の助言から、アリス島でたったひとつの小さな書店アイランド・ブックスを経営することに。しかし、売り上げは観光客が訪れる夏だけ・・妻を事故で失ったあとは、ひとり売れない本に囲まれる毎日だった。
アメリア・ローマン(エイミー)は、ナイトリー・プレスという出版社の伝説の営業担当の後任として、アイランド・ブックスに赴いた。彼女は、長年独身で通してきた老人が78歳で結婚し、その花嫁を二年後の83歳で亡くすという、80歳の老人の回想録『遅咲きの花』を売り込むが、フィクリーに「好みではない」と言われてしまう。どんな本がお好みなのか?と聞くと、フィクリーは、「お好み」を嫌悪をもって繰り返し、
「お好みでないものをあげるというのはどう? ポストモダン、最終戦争後の世界という設定、死者の独白、あるいはマジック・リアリズム。才気ばしった定石的な趣向、多種多様な字体、あるべきではないところにある挿絵ーー基本的には、あらゆる種類の小細工。ホロコーストや、その他の主な世界戦争の悲劇を描いた文学作品は好まないーーこういうものはノンフィクションだけにしてもらいたい。文学的探偵小説風とか文学的ファンタジー風といったジャンルのマッシュ・アップ。児童書、ことに孤児が出てくるやつ。うちの棚にヤング・アダルトものは詰めこみたくない。四百頁以上のもの、百五十頁以下の本はいかなるものも好まない。リアリティ・テレビの番組に登場する俳優たちのゴーストライターによる小説、セレブの写真集、スポーツ回想録、映画とのタイアップ、付録のついている本、言うまでもないが、ヴァンパイアもね。デビュー作、若い女性向けの小説、詩、翻訳書。シリーズものを置くのも好まないが、こちらのふところ具合で置かざるを得ないこともある。そちらのことをいうなら、次の長大なシリーズものについては話す必要はない・・・。とにかく、ミズ・ローマン、哀れな老妻が癌で死ぬという哀れな老人のみじめったらしい回想録なんてぜったいごめんだ。営業が、よく書かれていますよと保証してくれても、母の日にはたくさん売れると保証してくれてもね」
アメリアは、顔を紅潮させ、当惑というよりは怒りを感じながら、このせいぜい十歳ほど年上の相手に、再度聞く。「あなたはなにがお好きなんですか?」
「今あげたもの以外のすべて、短篇集はたまにごひいきなやつがあるけど、客は絶対に買わない」・・・
偏屈な書店主と、出版社の営業と、島の数少ない住人・・未読のものや、昔読んで思い出すのに時間がかかるような海外作品もたくさん登場し、果たしてこれから面白くなるのか、あまり期待できないような序盤とはうってかわり、物語は徐々にラブストーリーのようでもあり、父と娘の話でもあり、大雑把なあらすじとしては、ベタといってもいいような展開を見せつつも、最初にフィクリーが「好みでない」と言っていたことがフリになっていたかのように、「本好き」が楽しめる要素が何重にも仕掛けられていて最後まで楽しめます。
13章あるものがたりには、すべて短編のタイトルが掲げられ、フィクリーによる短いコメントがついているのですが、物語の始まりは、ロアルト・ダールの『おとなしい凶器』。
翻訳者のあとがきには、これらの短編はすべて読んでいなくてもいいけど、オコナーの『善人はなかなかいない』だけは読んでいた方がいいかもしれない。と書かれていますが、
ある日、書店の中にぽつんと置かれていた小さな女の子マヤ。フィクリーは彼女を娘として育てる・・・
そして、最後もロアルト・ダールの『古本屋』
「・・・人生を長く続ければ続けるほど、この物語こそがすべての中核だと、ぼくは信じないではいられない。つながるということなんだよ、ぼくのかわいいおバカさん。ひたすらつながることなんだよ。
1. おとなしい凶器 ー ロアルト・ダール
2. リッツくらい大きなダイアモンド ー F. スコット・フィッツジェラルド
3. ロアリング・キャンプのラック ー ブレット・ハート
4. 世界の肌ざわり ー リチャード・ボーシュ
5. 善人はなかなかいない ー フラナリー・オコナー
6. ジム・スマイリーの跳び蛙 ー マーク・トウェイン
7. 夏服を着た女たち ー アーウィン・ショー
8. 父親との会話 ー グレイス・ペイリー
9. バナナフィッシュ日和 ー J.D.サリンジャー
10. 告げ口心臓 ー E.A.ポー
11. アイロン頭 ー エイミー・ベンダー
12. 愛について語るときに我々の語ること ー レイモンド・カーヴァー
13. 古本屋ー ロアルト・ダール
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