「汝みずからを知る」のはむつかしい・・・

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システィナ礼拝堂の「デルフォイの巫女」




『汝、みずからを知れ』(グノーテイ・サウトン)

『度を過ごすなかれ』(メーデン・アガン)


デルフォイの神殿には、上記2つの格言(箴言とか神託とも言う)が書かれていたらしい・・・ただ、プラトンは3つあったと言っていたとか・・・ちなみに、Wikipediaの「デルポイの神託」には、3つの格言が刻まれていた。となっていて、3つめは、


「誓約と破滅は紙一重」(無理な誓いはするな)


この部分の注釈にはプラトンの『カルミデス』が挙げてあるので、プラトン説を採用したみたいなんだけど、でも、数のことより、神託を受けるためには、どうすればいいのか?とか、ギリシャ神話の神であるアポロンには、デルフォイの神殿を受け継いだとされているのだけど(それでアポロン神殿とも言われている)、どうして彼が受け継ぐことができたのか?とか、


あのミケランジェロのシスティナ礼拝堂にも描かれている『デルフォイの巫女』が受けた神託と、アポロンのはどう違うのか?などという疑問が、脳のあまり稼働してない領域にほんの少しだけど長くこびりついていたところ、

今、アポロン神殿の「汝みずからを知れ」は、神でない人間は必ず死ぬ。ということを知れ。という意味で「FA」になっているらしい、と小耳にはさみ、本屋に行って確かめてみたところ、ギリシャ・ローマ神話本で「アポロン」の項を見ると、たしかにそんな感じの記述が多くて、、アポロンは、美貌と、音楽、芸術に優れ、輝ける神でありながら、冷酷さ、残忍さをも併せ持っていたとか、なんとか・・・


とにかく、今本屋に置いてあるギリシャ・ローマ神話本には、そう書いてあるものが多かったんだけど、山本光雄氏は1905年生まれで、東大哲学科を卒業された方なので、きっと、ここまでの経緯についても書いてくださっているのでは・・・と、祈るような気分で、『ギリシア・ローマ哲学者物語』(講談社学術文庫)を見てみたら、期待どおりだったのでメモしておきます(あむさん、この本のこと教えてくれてありがとーー!)。


(下記は省略して引用しています)


『ギリシア・ローマ哲学者物語』後編・哲学者の憂い〈第十二夜〉より


これは東大の斎藤忍随君がヨーロッパ土産にくれた。骸骨の下に書いてあるギリシア文字は、グノーチ・サウトン、すなわち「汝みずからを知れ」だ。



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これをもらったときには、詳しいことはわからなかったが、その後「古代文化」という雑誌にこれと同じ図版があって、大阪大学教授の角田文衛氏が「酒宴の骸骨」という小論を書いておられた。原物はローマの国立テルメ博物館の所蔵。もとは、一八六六年にクインチリウス兄弟の別荘跡から発掘され、食堂の床面を飾っていた大理石のモザイク画で、骸骨をモチーフにしたモザイク画や酒杯の図柄は、一、二世紀の流行となっていた。


角田氏はセネカの話にも出たペトロニウスの作と言われる『サチュリコン』を参考にして次のように言っておられる。「〈汝みずからを知れ〉とは哲学の始祖タレスの言葉として伝えられている。しかし〈クインチリウス邸〉の食堂の床に記された〈汝みずからを知れ〉は深遠な意味をもった蔵言ではない。つまりそれは〈汝みずからも死すべき者であることを知れ〉という警告であり、それゆえにこそ命のあるあいだにできるだけ愉んでおけというのである」と。こうした考え方の底流をなしていたのは、当時のローマ世界に瀰漫(びまん)していた俗化されたエピクロス哲学であった、とされている。

 

私は氏の所論に賛成する。エピクロス学派について言うと、始祖のあとで有名なのはキケロより十年ばかり前に死んだローマの詩人哲学者ルクレチウスである。彼の著『物の本質について』はエピクロス哲学のいわば聖典だ。その後、紀元後二世紀ごろまでにその学派の哲学者として名前をあげるに値するような者はオイノアンダのヂオゲネスとヂオゲニアノスの二人くらいだろう。でもその学派そのものが衰微していたわけではない。


「汝みずからを知れ」に返ろう。この策言は当時より約百年以前に生きていたローマの詩人オヴィヂウスにおいてはかなり違った意味で利用されている。彼の著作に『アルス・アマトリア』すなわち『恋愛術』というのがある。その中で彼が恋愛術を説き教えているところに、詩人の姿をしたアポロンが現われてきて、こう言うのだ。

 

淫奔(いんぼん)なる愛を説く師よ、いざ、おまえの弟子たちをわが神殿に導き来れ。各自おのれ自身を知るべしと命ぜるかの文字、かの世界にあまねく知れわたりたる文字のあるところへ。おのれ自身を知る者にして、はじめて賢明なる愛はおこないうべし、またあらゆる仕事もおのれが力に応じて完了するなるべし。生来美貌に恵まれし者は、その点より眺められよ。色艶のよき肌をもちたる者は、ときに肩を裸にして横たわるべし。



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生来美貌に・・眺められよ。ときに肩を裸にして・・の例w




以上は樋口氏の訳を拝借したが、全部を自分で読んでみるがよい。この引用では、「汝みずからを知れ」は「汝みずからの身体の美点・長所を知れ」という意味に解され、その知った美点・長所を恋人の獲得と確保のため利用せよ、と忠告しているのだ。

 

この『アルス・アマトリア』を紀元前二年の作だとすると、それより四十二、三年前に書かれたキケロの『ツスクラヌム談義』においてもこの箴言がもち出されている。そこではオヴィヂウスとは反対に、それはわれわれの肢体や体格や容姿を知ることを命ずるのではなくて、「汝の魂を知れ」と命ずるものだと解されている。そして魂を知るということが神的なことだから、その篇言はある頭の鋭い人の作ったものだけれど、神に帰せられることになったという趣旨のことが述べられ、ついで魂の不滅の問題が論じられることになる。


しかし、このキケロの解釈はプラトンの『第一アルキビアデス』ですでに述べられていることだ。プラトンの『プロタゴラス』では、この篇言は七賢人が相そろって、デルポイの神殿に詣でて彼らの知恵の初なりとして、「やり過ぎるな」という箴言といっしょにアポルロンに奉納したことになっていて、『カルミデス』にも出てくる。この対話編では健全な思慮の徳、すなわち節制の定義が求められるのだが、ソクラテスの話し相手のクリチアスは、「健全な思慮」とは、つまり「自分自身を知ること」であると答える。しかしその解釈は『第一アルキビアデス』の解釈との一致から見て、プラトンのものとしてさしつかえはあるまい。


それによると、この箴言は「ごきげんよう」という普通一般の挨拶の代わりに神様が参拝者へなさる挨拶として、この「汝みずからを知れ」を奉納したのであって、その意味は「思慮健全であれよ」というのと同一である。しかし世間の人は別なものと思っているようで、また「やり過ぎるな」「保証、その傍に破滅」(誓約と破滅は紙一重)という箴言を後に奉納した人たちも同じくそう思い、また、それを忠告だと考え違いし、自分たちもそれに劣らぬ忠告を捧げるつもりでそうした、というのである。


しかし諸君にはおそらくその両者がどうして同一のことを意味するのか、すぐにはわかるまい。で、ちょっと説明しておこう。


『チマイオス』で「思慮の健全な」は「正気の」という意味で使用され、思慮の働きが睡眠によって、あるいは病気によって、あるいは神がかりによって拘束され、狂わされている心の状態と対立させられている。つまり、いろんな種類の「狂気の」と反対の意味で使用され、そして「正気の」人のみ自分自身のことを行ない、自分自身を知ることができるという昔からの言葉が正しいものとして承認されている。したがって「正気であること」は「自分白身を知ること」の必須の前提として、両者は同義だと主張されることになったのだろう。

 

次に「汝みずからを知れ」とソクラテスの「汝の無知なることを知れ」という勧告との関連も少々わかり難いかもしれぬ。プラトンは『ピレボス』でこういうようなことを言っている。神様が人間に「汝みずからを知れ」と命じられるのは、人間が自分自身を知らないからのことである。しかしこの自分自身についての無知は三種類ある。その一つは金銭に関し、自分を自分の財産以上の金持だと思う場合、他の一つは身体に関し、自分を真実ありのまま以上に大きく美しいと思う場合、最後の一つは魂の徳に関し、事実そうでないのに、自分を徳のすぐれた者だと思う場合である。この三つの場合は後にいくほど、そう思い違いする人数が多くなる。そして最後の場合は、権勢をもって影者、後者は笑うべき強い者とそうでない者とがあるが、前者は憎むべき醜悪な者である。


したがって右の関連において考えると、「汝みずからを知れ」は、「汝自身の無知を知れ」ということを意味することになるだろう。

 

ところで、この箴言はさきの『プロタゴラス』では七賢人の合作ということになっていたが、また別の伝えでは七賢人の一人のタレス、あるいはキロンの作となっている。また別の伝えもある。いま七賢人、あるいはその一人の作だとすると、そのときにおいてはどういう意味をもっていただろうか。それを推定する資料はほとんどないので、確実なことは言えないようだ。


私としては諸君に私の前編「哲学者の笑い」の第一夜の話を思い出すことをお願いする。「知恵のもっともすぐれた者」として自分に贈られてきた黄金の鼎(かなえ)をソロンは、「神こそ知恵のもっともすぐれたお方である」と言って、デルポイの神殿に奉納したというのである。この関連において考えてみると、「汝みずからを知れ」はソクラテスが『弁明』において言っているように、もっとも賢いと言われる人間の知恵さえも神の知恵に比べれば、まったく取るに足らぬことを知れという意味になるだろう。

 

またプルタルコスの小論に『デルポイのEについて』というのがある。そこで、内殿の入口に掲げてあるこのギリシア文字エイについていろいろな解釈が述べられているが、そのうちのペリパトス学派のアムモニオスの解釈では、Eは「汝はある」という人間の神に対する挨拶である。そして表玄関に掲げてある「汝みずからを知れ」は逆に神から人間への挨拶である。それは、エイは二人称単数のエイすなわち、「汝はある」で、神が永遠の存在者であるということを意味するのに対し、人間は絶えず生成消滅する可死的存在者であることを言うものである、というのだ。


プルタルコスといえば、紀元後一世紀ドミチアヌス皇帝治下、ローマで一時講義をしていたことがある。絵葉書の文字が書かれる数十年前のことだ。したがってこの時代では世間一般の人々にはやはり「汝みずからを知れ」は「汝の可死的なる者であることを知れ」という意味にとられていたのだろう。


しかしその解釈からただちに「それゆえに生を享楽せよ」というエピクロス学派の結論は出てこない。ボエチウスの『哲学の慰め』でも、獄中に呻吟する彼に「哲学」の化身によって「自分自身を知る」ことが勧められ、「実のところ、自己自らを知るときにかぎり他の諸物の上に卓越し、これに反して自己を知ることをやめれば動物の下に堕するというのが人間の本性なのだから」と言われている(岩波文庫、畠中尚志氏訳)。そして、ここではエピクロス学派とは反対のことが結論されている。


ともかく「汝みずからを知れ」という箴言そのものが謎なのだ。

いや、「汝みずから」がすでにスフィンクスの謎だ。


プロクロスが『第一アルキビアデス』の注釈の初めに言っているように、「自分自身を知ること」が哲学の初めだ。

 

哲学を学ぶ諸君! 諸君も正気をもって自分自身をよく調べたまえIーーこう言いながら、しかし私自身のために想い出す一つの話がある。哲学の祖タレスはあるとき何がむずかしいことかと尋ねられて、「自分白身を知ることだ」と答え、また何か容易なことかと尋ねられて、「他人に忠告することだ」と答えたということだ。

 

では、今夜はここまでにしよう。


(引用終了)



◎「3.11」関連の記事は、こちらのカテゴリにあります。

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Commented by あむ at 2016-03-14 22:39 x
た、大変恐縮しております。(汗)
“ときに肩を…の例”に、更に更に大汗をかきました。
Commented by yomodalite at 2016-03-15 12:22
こちらにコメント頂いて、ホントにありがとうございます!!!

なんだか粘着しているみたいで、実際そうなんですけどw・・・あむさんのコメントによって、色々刺激されたということなんです。MJの神殿が、アポロン神殿に繋がっているのはまちがいないと思いますが、私はあのとき、すっかり忘れてましたからね。

一番共感したのは、「危険だ、という道は、必ず、自分の行きたい道なのだ」です。これについても、もっとお話したいと思っているので、どうか懲りずに、そして恐縮などなさらずに、勝手なお願いですが(汗)

>“ときに肩を…の例”に・・・

そんな例まで?って、私もびっくりでした(笑)

それにしても、哲学関係のことを見ていると、未だにプラトンが頻繁に引用されていることに驚いちゃうんですけど、紀元前427年生まれって、今から約2400 年前って(驚)ミケランジェロが亡くなってから450年なんて驚いている場合じゃなかったというか、でも、キリスト教が出来てから、ギリシャ哲学は忘れられつつあったのに、ルネサンスで復活して・・・っていうような長い長い歴史が、MJが「HIStory」で見ていた、永遠だったんじゃないかって思います。永遠が見えたとき、地獄の入り口も、死の危険も、見方が変わりそうですものね。
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by yomodalite | 2016-03-11 22:38 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(2)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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