2015年 12月 03日
映画「FOUJITA」主演:オダギリジョー、監督:小栗康平 |
1920年代のパリで、知らぬ者がいないと言われるほど成功した様子も、敗戦後、戦争画を描いたことで戦争責任を問われ、再びフランスに渡ることになった経緯も、5度の結婚から想像されるような華やかな女性関係も、そして、藤田の人生の背後にいつもあった戦争の悲惨さについても、十分な描写とは言えないのだけれど、フランスと日本の風景は、両方とも静謐で美しく、そしてある意味退屈で、ときどき幻想的なシーンが現れる。
まったくの想像だけど、監督は、藤田に特別な興味があって、この映画を創ろうとしたのではなく、たまたま(おそらく、フランス側の要望で)撮ることになった藤田を通して、芸術家の生き方を考えながら、探り探り、この映画を撮ったのではないだろうか。
主演のオダギリジョーは、NHK「SWITCHインタビュー」で、舘鼻則孝と対談したとき、「技術と感性のバランスって難しくないですか?」と聞いていたのが印象的だったのだけど、小栗監督もなにか、まとめることを拒むようなセンスで、この映画を創ったような・・・小栗作品を観るのはこれが初めてなので、なんとなく、そう思っただけなのだけど。
フランスついて、今の私は、「無神論の国」というイメージが一番先にくるのだけど、そのせいなのか、この映画の藤田嗣治が、芸術の都を謳歌した狂乱の時代のパリに受け入れられ、帰国後の日本で、戦争画を描き、再びフランスに戻って、カトリックの洗礼を受けた。ということが、モンパルナス、セーヌ川・・自由の国フランス!とだけ思っていたときよりも、自分にはしっくりと感じられた。
カトリックの国の「無神論」はわかりやすい。
教会も、彫刻も、フレスコ画も、石で出来ていて、何百年も遺されている。
そして、対比が明確なものは、光と影のように一対でもある。
浮世絵などの日本文化や、藤田がフランスで高く評価されたのも、フランスが、カトリックの「無神論」だったからで、アメリカにあるプロテスタントの「無神論」ではありえなかった。
エンディングでは、いくぶん唐突に、藤田の礼拝堂(ノートルダム・ド・ラ・ペ教会)が映る。
私には、藤田が描いた晩年の宗教画は、モンパルナスで大成功した時代の絵よりも美しく見えるのだけど、小栗監督は、それを最後に見せながらも、少し迷いながら撮っているように感じた。でも、それもこの映画を美しくしている点だったのかもしれない。
そんな風に感じながら、映画を観ていたのだけど、家に帰ってこれを書いているうちに、
前述の番組で、「藤田の顔は真似しやすいですよね。誰でも似せられるというか、そんなところも藤田は、考えていたんじゃないですかね」と、オダギリジョーが言っていたことを思い出した。
藤田は、モンパルナス時代、その絵が評価されただけでなく、フランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれて親しまれていたのだけど、そういえば、藤田のルックスは、三バカ大将のモーの髪型と、チャップリンとヒトラーのチョビ髭と、ハロルド・ロイドの丸メガネがすべてミックスされている。
でも、この4人の中で一番年上なのは、藤田で、その名が知られるようになったのも彼らより後ではなかったのだ。
( )内は誕生日
藤田嗣治(1886年11月27日)
1917年頃に初めて絵が売れ、3か月後に初めての個展を開く。この最初の個展で、著名な美術評論家が序文を書き、高値で売れるようになる。翌1918年の終戦によって、さらに名声が高まり、1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。
ヒトラー(1889年4月20日)
1923年にミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後合法的な選挙により勢力を拡大した。1933年にドイツ国首相
チャップリン(1889年4月16日)
1909年、パリ巡業。1910年、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。1918年、ハリウッドに自身の撮影スタジオを設け、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。
ハロルド・ロイド(1893年4月20日)
1917年、『ロイドの野球Over the Fence』で初めて眼鏡キャラクター"The Boy"になった。
三バカ大将のモー(1897年6月19日)
モー、ラリー、カーリーによる三バカ大将は、1934年にコロンビア映画と専属契約を結び、「三ばか大将」をメインタイトルに頂く短編シリーズが始まる。子役出身のモーは、このメンバーに固まる前の1920年代初頭から活躍している。
by yomodalite
| 2015-12-03 10:22
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