もうたくさん!「We've had enough」(6) |
☆もうたくさん!「We've had enough」(5)の続き
ウィラ:同感だわ、エレノア。そして彼はその考え方を、『Dancing the Dream』という彼の詩集にある「Heaven is Here」という詩に美しく表現している。
You and I were never separate
It’s just an illusion
Wrought by the magical lens of
Perception
きみとぼくは別のものではない
別々だと思うのは、魔法のレンズが創り出した
物の見え方のせいで
それこそが、まさに幻想なんだ
There is only one Wholeness
Only one Mind
We are like ripples
In the vast Ocean of Consciousness
ここにあるすべてのものが、
ひとつであり
ひとつの精神からできていて
ぼくたちの意識は
広大な海の
さざ波のようなもの
Come, let us dance
The Dance of Creation
Let us celebrate
The Joy of Life …
さあ、一緒に踊ろう
創造のダンスを
生きている喜びを
一緒に祝おう
◎[詩の全文和訳]http://nikkidoku.exblog.jp/20103916/
エレノア:この美しい詩は、彼の作品にくりかえし登場するもう一つのテーマを表している。我々は別々の存在ではない。「君は僕の分身なんだ」ってこと。
ウィラ:まさしく。
エレノア:「We've Had Enough」の子供たちのように、マイケル・ジャクソンは、人を結びつける内なる力を保ち、それが彼のビジョンのもととなって、「We've Had Enough」に描かれるような行為の残酷さや、野蛮性、あまりに愚かで何ももたらすことのない「狂気」をはっきりを見極め、認めるという能力と賢さをもっていた。
子供が、大事なものを失い、不正によって、心に傷を負うとき、彼もまた傷を負う。本当は、私たち全員が傷を負うべきなのよ。でも、歌詞の次の部分でマイケルが言っているとおり、私たちはそうしない。その代わり、、
We’re innocently standing by
Watching people lose their lives
It’s as if we have no voice
私たちはただ呆然と立っていて
人が死んでいくのを見てるだけ
まるで声を失ったかのように
もし人が死んでいくのを見たら、どうして「呆然と立って」いることができるの?彼は皮肉としてそう言っているのかもしれない。でなければ、私たちを、宗教的あるいは文化的な洗脳に犯された、「罪なき犠牲者」だと思っているのかも。私の推測では、私たちは「罪なき傍観者」でもあり、「罪を犯した人間」でもある、その両方だけど。
そして、歌の冒頭で湧き上がった憤りは、最初は警察や兵士に向けられたものだけど、いまや、私たちを洗脳するシステムに向いているし、洗脳を許してしまう私たち自身にも向いている。だって、私たちは声を出せるのよ。なのに、それを使わないことを選んでる。こういう行為をやめさせる責任は私たちにあるのに、それを怠っている。エドモンド・バーク(18世紀のイギリスの思想家。アイルランド生まれ)の有名な言葉にあるように、「悪の勝利のために必要なのは、善人が何もしないこと」なのよ。
ウィラ:マイケルはまた、私たちが「他の人が死んでいくのを見ても」何もせず傍観しているなら、私たちの力も弱まってしまう、と言っているのでは。それは、私たちを黙らせてしまう。「まるで声を失ったかのように」
エレノア:人が亡くなっているときに、私たちが、自分を罪なき傍観者だと信じて何もしないでいるなら、それは明らかに間違っている。「Earth Song」の歌詞で言えば、「我々はどこにいるのかさえわからなくなっている。でも、遠くまで漂い続けたことだけはわかってる…」言い換えれば、私たちは道徳の羅針盤を失ってしまったということ。
一方で、私たちに出来たことが何もなかったわけじゃない。マイケルは、私たちにすでに何かをしてなきゃいけなかったと言う。
Only God could decide
Who will live and who will die,
There’s nothing that can’t be done
If we raise our voice as one
決心するときなんだ
誰が生きるか、誰が死ぬか
判断できるのは、神だけなんだ
みんなが声をひとつにすれば
できないことなんて何ひとつない
They’ve gotta hear it from me
They’ve gotta hear it from you
They’ve gotta hear it from us
彼らは僕の話を聞くべきだ
彼らはあなたの話を聞くべきだ
彼らは私たちの話を聞くべきなんだ
We can’t take it
We’ve already had enough
Deep in my soul, baby
Deep in your soul and let God decide
これ以上だなんて
もうたくさんだよ
私たちの魂の奥でも
あなたの魂の奥でも
決めるのは神なんだ
私たちこそ、「神の」意思を表現する媒体なんだと認識しなければ、と彼は言っているように思う。だから、彼は私たちに、切羽詰まった、絶望に満ちた声で、「魂の奥」の力に心を開き、「判断をするのは神」だとわからせようとする。
ウィラ:そうね。それは重要な指摘だわ。バラク・オバマが何度も引用している、エイブラハム・リンカーンの言葉を思い出す。「私が知りたいのは、神が我々の側にいるかどうかではない。大事なのは我々が神の側にいるかどうかだ」つまり、マイケルは、自分をよく見つめ、正しいことを為すために、神への理解を使うべきだと言っている。自分の利益のための行動を正当化するために神を利用するのではなくね。
エレノア:もし私たちが自分の魂の奥を見つめて、「内なる神と、小さな力で、公益を求める運動」に携わって考えれば、国とか、ひとつの人種とかではなく、私たちを含めた地球全体にとっての善は、あるグループのために、他のグループが犠牲になることはない。そして神の判断は、私たちの道徳の羅針盤を正常に戻し、我々が抱える矛盾によって閉じ込められていたパワーを、解き放つ役割を果たしてくれる。マイケル・ジャクソンは、このエネルギーが存在することを、真摯に信じていた。このエネルギーに導いてもらえば、私たちは何でも成し遂げられると。
そして、この詩のタイトルは、私たちが頭をはっきりさせ、心と知性の結びつきを取り戻すことが出来れば、自分の身に起こっているこれらの不正を感じられるはずだ、ということを明らかにしている。なぜなら、不正が行われ、私たちは皆、その結果に苦しんでいるのだから。そして彼は、私たち全員が「もうたくさんだ」ということを、いつわかって、何をするのか、と疑問に思っている。
ウィラ:そうね。だから、歌の終盤に彼は以下のようなアドリブを入れたのよね。4 :10くらいからだけど、、
They’ve gotta hear it from me
They’ve gotta hear it from you
They’ve gotta hear it from us
We’ve already had enough
(He’s my brother)
We’ve already had enough
(Dear God, take it from me
It’s too much for me
That’s my brother
It’s too much for me
That’s my brother, baby
That’s my lover)
We’ve already had enough
彼らは僕の話を聞くべきだ
彼らはあなたの話を聞くべきだ
彼らは私たちの話を聞くべきだ
もうたくさんだ
(彼は僕の兄弟なんだ)
もうたくさんだ
(親愛なる神よ、私の言葉を信じてください
私にはもう手に負えないのです
あれは、僕の兄弟で
あれは、僕の愛する人)
もうたくさんなんだ
武器を持たない1人の父親が、通りで警察に殺されるとき、遠い国に住む1人の母親が、自分の家にいながら爆撃で殺されるとき、マイケル・ジャクソンは、私たちに、自分には関係ない、遠い出来事だと思ってほしくないのよ。自分のことだととらえ、もし「私の兄弟」なら、「私の愛する人」なら、と考えてほしい。それは、私たちみんなの身に起こっていることなんだと。
エレノア:何もしないことによって、自分自身を破滅に追い込んでいってる、ってことね。
ウィラ:まさしく。
エレノア:「We've Had Enough」がいつ作られたか知らないけれど、発表は2004年のアルティメットコレクションで、彼が裁判を控えている時期だった。その裁判で、彼は収監され、子供たちに会えなくなる可能性もあった。10年前に始まった、ものすごくつらい時期。だからこの歌は、怒りと絶望が、深い悲しみや同情やフラストレーションと混ざった感情を表している。彼の後期の作品の多くがそうであるように。
そして、彼の声に込められた必死な叫びを聞くと、彼が、ここに出てくる子供たちや、同じような境遇の幾千の子供たちの痛みを感じているだけでなく、彼自身、そして私たちみんなも、同じ邪悪な構造の罠にはめられている、と感じているのがわかる。その構造は、あの手この手で私たちから力を奪う。だけど、彼はその構造だって打ち壊すことができるし、打ち壊さなければと信じている。
でも、悲しくて、恐ろしいことだけど、「もうたくさん」とはなっていない。この歌がレコーディングされて何年も経つのに、警察や軍との衝突で、罪なき人が死に続けている。警察部隊が次第に軍隊みたいになり、軍事活動が、若い兵士が制御盤に向かって、まるでテレビゲームでもやるように人の命を奪うという、人の顔の見えないものになってからは特にそう。
でも、おそらく、その構造に勝てる確率はすごく低い。はっきりとものを言えば代償は高くつく。彼がこの歌の最後でほのめかしているように。「僕はまだ生きていて、それは、自分次第なんだ」と。でも、悲しいことに、彼はもう生きてはいない。この歌の子供たちのように、彼は善と悪の違いを知っていた。信じられないほどの強さと勇気で、公権力に立ち向かった。心を開き、生命の力を自分の中に呼び込み、自分の生き方や作品を通じて、不正に対して声を上げようと私たちを鼓舞した。彼はあきらめなかったし、決してそこから降りなかった。そして、彼は最も大きな代償を払った。
ウィラ:そうね。それが、今回最初に取り上げた、D.B.アンダーソンの記事が言ってることでもある。
マイケル・ジャクソンは、自分が目にした真実のためなら、矢面に立つことを決して恐れなかった。ジャクソンは、いつだって、世界規模のリーダーとして頼れる人だった。私たちが感じていることすべてを表現してくれた。大人になってからの彼の人生は、社会運動実践のカタログのようなもの。
飢餓、エイズ、ギャング問題、人種問題、環境問題。戦争で荒れたサラエボでコンサートを行ったのも、ジャクソンだった。911のあと、みんなに呼びかけてチャリティソングを作り、コンサートを開いたのも、ジャクソンだった。世界的な名声のすべてを使って世の中を変えようとしたのも、ジャクソンだった。彼はいつも矢面に立っていた。
彼の政治的姿勢ゆえに起こったことは、売り上げを落とすこと以上に悪い事態だった。権力に対して真実を言ったために、ジャクソンはターゲットにされた。そして、D.B.アンダーソンの言うとおり。彼は自らターゲットになり、ものすごい代償を払ったのよ。
エレノア:でも彼は、行動しなければそのツケはあまりに大きいという、強烈な真実を私たちに示した。そして、行動を起こそうという必死な呼びかけを残した。
They’ve gotta hear it from me
They’ve gotta hear it from you
They’ve gotta hear it from us
彼らは僕の話を聞くべきだ
彼らはあなたの話を聞くべきだ
彼らは私たちの話を聞くべきだ
We can’t take it
We’ve already had enough
もうこれ以上はいやだ
もうたくさんなんだ
(ウィラとエレノアの記事終了)