自伝「裸のジョージ・マイケル」[2]

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☆[1]の続き


ジョージ:ひどい一週間だったよ。「ヤング・ガンズ」がチャートを落っこちた日、女の子が僕にもうつきまとうなって言ったんだから。


ジョージの出版人であるディック・リーヒイは、このレコードを死なせないために、彼のフィリップス時代(ダスティ・スプリングフィールド、ウオーカー・ブラザース)ベル・レコード時代(ベイ・シティ・ローラーズ、デヴィッド・キャシディ)、そして自分のレーベルGTO時代(ドナ・サマーとそのナンバー・ワン・ヒット「アイ・フィール・ラブ」)など、一生を音楽産業でやってきた経験を結集し、この2枚目のシングルに決定的な2度目のチャンスを与えることにした。過去において、ティン・パン・アレイやブリル・ビルディングの時代には、音楽出版は歌の産婆役を務め、作曲家から曲を引き出し、それをアーティストに演奏させることに責任をもっていた。こういう大昔の時代に、出版社は創造性のポン引き役を果たしていたのだ。しかし、ビートルズやビーチ・ポーイズ、バディ・ホリーやチャック・ベリー、リトル・リチャードによって始められたプロセスを完成させてしまうと、アーティストと作曲者は大抵同じ人物になった。出版社はあまり重要でなくなり、むしろレコード会社が重要になってきた。


しかし、ディック・リーヒイは普通の出版人とはかけ離れていた。彼が出版業に入ったのも横道からだった。1977年にGTOをCBSに売却したときの合意条項に競合しないことという条項があって、3年の問は別のレコード会社を始めることができなかった。だから彼は出版業に入ったわけだ。


ディック・リーヒイ:すべては音楽次第であり、すべてはアーティスト次第なんだ。でも、私は出版業に入って来るとき、レコード会社の姿勢を持ち込んだ。出版社のいったいいくつが地下室にデモ・スタジオを持っていると思うかね。出版人としての私の姿勢は、アーティストと契約しても、レコード会社には頼らない、というものだった。アーティストと一緒に働く限りは、音楽的な仕事をするんだ。シングルを出したり、それをプロモートしたり、そういったすべてをレコード会社と一緒に決めていく。それを私たちはジョージとアンドリューとともにやり始めたんだ。歌を気に入って、作曲者と契約するだけじゃダメだ。レコード会社を乗せなくてはね。出版社の伝統的な役割は作曲者を代理して、彼の曲を人にカバーさせることだった。私はそういうことはしない。私は出版を、アーティストと仕事をするひとつの方法として使うんだ。

 

「ワム・ラップ!」は失敗に終っていた。これはジョージにとっては大きな失望だったが、彼にはもっといいレコードが作れるといつも思っていたし、あの段階ではいい勉強になると思っていたところもあったから、私はあまりガッカリしなかった。でも「ヤング・ガンズ」がチャートを下がり始めると、今度は危険だった。これはみんなが話題にしている若いデュオの素晴しいニュー・シングルなんだ・・でも、なにしろ気まぐれなマーケットだからね。もしこれがうまく行ってくれなかったら…11月、12月を置いてスタジオに戻って、次のレコードが出るのは次の年の春になってしまう。いつまでも《有望な若手新人アーティスト》ではいられないんだよ。


これは素晴しいレコードなんだ、みんな聞けば飛び出してレコードを買いに行く・・そう信じなくちゃいけない。イギリスのチャートは、サンブルに選ばれた店の売り上げを調べたものだ。それだけのものなんだ。トップ50の中だって、売り上げは高いものも低いものも大差ない。だから、ある週に誰が、どこの店で、どのレコードを買ったか、それだけに頼っているわけさ。

 

信じている素晴しいレコードがチャートを下がりかけたら、そういうときにできるのはレコードに関係しているすべての人間、ラジオ、プレス、レコード店回りのセールスマンなどを刺激することしかない。みんなに言うんだ。これはまだ終っちゃいない。ほんとに終っていないんだ。一週間くれないか。これを生き返らせてみせる。ほんとにやるからって。


店でレコードをかけさせることだ。ラジオでレコードがかかれば1000万人に聴かせられるが、その中でレコード購買者は少ないパーセンテージだ。でも、レコード店なら、そこにいる全員がレコード購買者といっていい。


ジョージ・マイケルは良すぎるぐらいだったから、うまくいかないはずはなかったが、幸運にも次の週レコードはもち直し、さらに『トップ・オブ・ザ・ポップス』の出演が決まった。たった一度のテレビ出演がワム!をみんなに引き合わせるチャンスになった。(P108 - 110)


* * *


最初、ワム!は喜んでマス・メディアの標的になっていた。アンドリューは段鼻を美容整形で直そうと決めたとき、自分の鼻はデヴィッド・オースティンが投げたシャンパン入れが当たると言う悲劇的な事故で折れてしまったと発表し、手術に煙幕を貼ろうとした。これが悪名高き《鼻事件》の始まりだった。


アンドリューの顔(バンソウコを十字に貼ったもの)が、彼のハンサムな容貌は一生戻らないのではないかという推測の文章とともに、第一面に堂々と出現した。それがみんなインチキで、リッジリーの鼻が高額の美容整形で変えられたことが判明すると、それもまた第一面になった。(P157 - 158)


* * *


ワム!の初のナンバー・ワンは、その後9週間も1位の座に君臨したフランキー・ゴーズ・トウ・ハリウッドの「トゥー・トライブス」に取って替わられたが、音楽業界の中で長く充実したキャリアを歩むことになったのは、リヴァブールからやって未だ愛すべきならず者たちではなかった。フランキーズのレコードはいつもトレヴァー・ホーンの大げさなプロダクションの巧妙な腕に大幅に寄りかかっていた。それがなくなると、彼らはマージー河を虚しく流されていくのみだった。ジョージ・マイケルは、すべてを自分自身でやることを学んでいた。


 サイモン・ネイピア・ベル:プロデューサー兼ソングライターというのは、いつも長い間生き残れるもののようだね。スタジオで監督をするわけだよ。それが自信から来るのか、ヤケから来るのかはわからない。たぶん両方の組み合わせだろうな。自分自身の能力に対する自信と、自分の声を望むように引き出してくれない人たちにすっかり頭に来たっていうのがあるわけだ。欲しいものがわかっていて、それがやって来ないとしたら、自分でプロデュースしなくてはならないことになる。ジョージはプロデュースすることを学ばなくてはならなかったし、その責任を取るように強いられたんだ。

 

ジョージは1984年のチャートの闘いを楽しんだ・・たぶんいつも自分が勝ち技くことになったからだろう。最終的に、彼のライバルたち(ボーイ・ジョージ、フランキーズ、デュランデュラン)はみな、スタミナと作曲能力と自立心に欠けていた。しかも、このライバルたちは、さまざまな大騒ぎに自滅の傾向を見せていた。ジョージも彼なりにそうした傾向はあったが、彼にはそれをうまくやり過ごすセンスがあったし、うまく隠しておく慎重さがあった。

 

夏になると、ジョージ・マイケルのキャリアはイギリスでもアメリカでも最高の時期を迎えたようだった。彼は、作曲し、アレンジ、プロデュースを手がけ、しかも自分の作品を歌うことができるという自分白身の才能によって守られるのと同時に、アドバイザー、腹心の友、信頼できる支援者の強力な集団に囲まれていた。中でも最も近かったのは、もちろんパートナーであるアンドリュー・リッジリーと、出版社であり師でもあるディック・リーヒイだが、さらに弁護士のトニー・ラッセル、スタジオ・エンジニアのクリス・ボーター、パブリシストのコニー・フィリッペロらがいた。友だちであるアンドリューは別として、これらの人たちはみな忠誠心厚く、この仕事上の人間関係は90年代のジョージ・マイケルにも関わっている。


ノーミスとワム!の関係は、ジョージもネイピア・ベルもお互いに相手を用心深く見ていたため、時として緊張することもあったが、1983年後半以降、サイモンとジャズ・サマーズがワールドワイドでバンドのマネージメントを担当するようになっていた。ウエスト・コーストの大物、ロン・ワイズナーとフレディ・デ・マンは、アメリカでのマネージメント契約が機能し始めるよりも前に技けていた。


ジャズ・サマーズ:多くの大きなレコード会社、特にCBSは、かなりけんか腰なんだ。「私たちCBSで君たちをフォローしていくにはいくんだが、私たちにはブルース・スプリングスティーンもマイケル・ジャクソンもバーブラ・ストライザンドもボブ・ディランもいるし、また明日新しいやつが入るんだ」って具合でね。


ワイズナーとデ・マンは、ワム!がすごいバンドだってことをCBSに確信させてなかった。だから、フレディ・デ・マンをミーティングに呼びつけて言ってやったよ。「あんたは何をしてるんだ? なんにも私たちにいいことをしてくれてないじゃないか。もしCBSに行って、このバンドじゃマイケル・ジャクソンのような扱いはムリだって言われたら、マイケル・ジャクソンのような扱いをこのバンドにしてやれるまで頑張らなくちゃならない。彼らはそういう扱いに値いするんだから。もし君ができないと言うのなら、私がやってやろうじゃないか」って。彼にはひどく無遠慮にしてしまって、きっと気分を悪くしただろうし、トニー・ラッセルは契約の件でかなり苦労したと思う。だけど、彼らは手を引いたんだ。


ジョージはそのとき私に言った。「よし、アメリカには君もひどい目に会わされるだろう。でも君はできるって言ったんだからな。徹底的にやってもらわなきゃね」 


ワム!機動部隊のもうひとりの重要なメンバーは、攻撃的ながら人好きのするロンドンっ子、ゲイリー・ファーロウである。日焼けして、早口に喋る金髪のゲイリー・ファーロウは、メディアの一端でワムの利益の監視、促進を管理するフリーの電波放送関係者だった。


ゲイリー・ファーロウ:僕はマーク・ディーンを通じてジョージに会った。マークはワム!のレコードを聞くたびに手首を切りつけたいと思ってるに違いないけどね。僕は相談役として関係するようになったんだ。

 

TVショーをやるとき、すべての要求に責任を持つのが僕の仕事だった。ワム!の駆け出しのころ、僕たちはありったけの照明とダンサーと風船を使おうとした。アーティストを持ち上げてできる限り良く見せようといろんなことをやってプロデューサーやディレクターを駆けずり回らせたあげく、変化が訪れた。こう言うべき時が来たんだ。「もうこんなクズはいらない。あの風船は何だっていうんだ。取っ払ってくれよ。」


この組織の全員が、すべてをダブルチェックするというポリシーを採用していた。レコードは最良の週に発表されただろうか。限定のビデオをふさわしい人に渡していただろうか。アーティストをできる限り最高に見えるようにしていただろうか。


週を追うごとに、僕たちは捕まえにくくなっていった。彼らが思い立って電話してジョージが捕まるなんて状況は、決してなかった。または、レコード会社が電話してきて「週半ば(木曜のチャートのこと。これでレコードが上がるかどうかを推測する)の結果が出た。上がるとは思うがそんな大ヒットにはならないだろう。もしこのショーに出てもらえば、すごく効果があるんだが……」で、また次の週に電話してきて、また3、4番組出てくれないかと言うような、そういうやり方は一切通用しなかった。僕たちの計画が成功したのは、僕たちがすべてをコントロールしていたからだ。


誰にインタビューをさせたらいいかわかっていたし、彼らがほころびを繕ってくれるのもわかっていたし、表紙になれるかどうかもわかっていたし、写真の許可を出すべきかどうかわかっていたし、その写真をカットできないこともわかっていた。そして、シングルを出すごとに、ワム!はだんだん近寄り難くなってきた。彼らは素晴らしいビデオ、楽しいビデオを作り、どの作品もジョージにコントロールされ、演出され、許可を受けて世界中に出ていった。TVショーにはあまり力を入れてなかったね。番組をコントロールすることはできないから。

 

僕がワム!との仕事を始めたとき、彼らはキャーキャーいわれるようなアイドルじゃなかった。彼らはもともとすごくヒップだったんだ。僕の仕事は、彼らをアイドルにすること。それから、僕たちはジョージがアイドルをやめる決定をするのを待った。彼はいちばん最初の日から、自分のやりたいことをはっきりわかっていたよ。自分が使いたいカメラマン、出演したいラジオ番組、誰に自分のことを書いてもらいたいか、誰は嫌か、そしてその理由……。彼はずっと自分のやりたいことがわかっていて、それに従ってしっかりと手綱を握っていた。

 

ジョージが耳を傾ける人たちもいた。だけど、誰も彼をコントロールできなかった。(P162 - 165)


☆[3]に続く


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by yomodalite | 2015-02-18 15:59 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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