「かなしみ」の哲学 ― 日本精神史の源をさぐる/竹内整一

「かなしみ」の哲学―日本精神史の源をさぐる (NHKブックス)

竹内 整一/日本放送出版協会




日本人はどうして「かなしみ」という否定的な感情に親しみを覚えるのか?

本書では、あらゆる角度から「かなしみ」について語られているのですが、

日本人の精神史においては、こうした「かなしみ」を感受し表現することを通してこそ、生きる基本のところで切に求められる、他者への倫理や、世界の美しさ、さらには、神や仏といった超越的な存在へとつながることができると考えられていたのではないか。つまり、「かなしみ」とは、生きていること〈死ぬこと〉の深くゆたかな奥行きをそれとして感じさせる感情なのではないかーー。

と「はじめに」には書かれています。

最近の私は、欧米の古典を読むうえで、「かなしみ」や、「もののあわれ」といった日本的な情緒で、ものごとを理解をしないように心掛けているんですが、反知性主義の時代と言われる、今の日本の現状は、宮台氏が言うように「感情の劣化」のようでもあり、


日本人が他者への共感を感じるには「かなしみ」という感情はとても大事で、また、世界から「LOVE」が失われているように感じるのも、深くゆたかな奥行きのある「かなしみ」が欠けていて、正義行動や、権利行動にばかり駆り立てられているからかもしれません。

差別を失くせ。という主張をどれだけしても、他者への同情や共感をもたれなければ、自分と同じだとは思えない。個性が尊重され、個性が競われる一方で、人類に共通した感情を確認することは、いつの時代であっても大事なことですが、現代では特に重要に思えます。

本書は、源氏物語や伊勢物語といった古典から、漱石や小川未明、宮沢賢治、井上陽水、谷川俊太郎、天童荒太、、に言及し、引用は幅広く、「かなしみ」について考えるために、コンパクトにまとめられた名著だと思いました。

全体の内容については、他の書評を。


下記は、私の個人的なメモです。

(引用開始。要約して引用しています)

「やさしい」は、太宰治のキーワードのひとつでもあるが、たとえば彼はこういうことを言っている

文化と書いて、それに、ハニカミというルビを振る事、大賛成。私は優という字を考えます。これはすぐれるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、でも、もう一つ読み方があるでしょう? 優しいとも読みます。そうして、この字をよく見ると、人偏に、憂うると書いています。人を憂える、ひとの淋しさ、忙びしさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優れている事じゃないかしら、そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。

私は含羞で、われとわが身を食っています。酒でも飲まなきや、ものも言えません。そんなところに「文化」の本質があると私は思います。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです、それでよいと思います。私は自身を「滅亡の民」だと思っています。まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学じゃないのかしらん。「昭和21年4月30日河盛好蔵宛書簡」(p81−82)

「優」のもともとの意味は、「わざおぎ、役者」である。「優」[やさし」には、どれほどかは「見せること」の演技性・作為性がふくまれているということが、こうしたところからもうかがうことができる。
 
それは偽善だ、嘘だということにはならない。大宰の言い方でいえば、「人を憂える、ひとの淋しさ詫びしさ、つらさに敏感な」「優しさ」には、そうした要素をふくむことによって、何とかその「淋しさ詫びしさ、つらさ」といったものを共悲・共苦しえているということである。大宰その人の「道化」といわれる側面もそこに由来している。
 
人は、簡単に「同じ」ではありえないのであって、そこを安易に「同じ」としてしまうとき、偽善や押しつけがましさといったことが起こってくる。「同情するな」「情けはいらない」「あわれむな」といった拒否反応は、それを感じとったところに生じるのである。

ー 以上、第4章 他者に向かう「かなしみ」より


遺された者の「かなしみ」については、「悲哀の仕事」という考え方がある。

これはフロイトの精神分析用語であるが、小此木啓吾は、それをこうまとめている。
 
……「悲哀」とは、愛する対象を失うことによってひきおこされる一連の心理過程のことである。フロイトは、相手を失ってしまったという事実を、知的に認識することと、失った相手を心からあきらめ、情緒的にも断念できるようになることとは、決して同じではないという。……頭ではよくわかっている。しかし、どうしても会いたいという思慕の情は、決してわかっただけで消えるものではない。……すくなくとも一年ぐらいのあいだは、これらの情緒体験を、心の中でさまざまな形でくり返す。この悲哀のプロセスを、心の中で完成させることなしに、その途上で悲しみを忘れようとしたり、失った対象について、かたよったイメージをつくり上げたりしたりして、その苦痛から逃避してしまうこともある。……しかしこうしたさまざまな心の動きによって、対象喪失をめぐる自然な心のプロセスを見失い、対象喪失を悼む営みが未完成なままになる心理状態は、心の狂いや病んだ状態を引きおこす。

「悲哀の仕事」とは、こうした対象喪失の「悲哀のプロセスを、心の中で完成させる」営みである。この考え方は、むろん精神分析にかぎらず、より一般的にわれわれが死者を送り弔う一連の儀式の中にもさまざまなかたちで見出されるものでもある。
 
「弔う」とは、もともと「問う」ことであり、「訪う」ことである。死者を訪問して、死者の思いを問うことである。柳田邦男の言葉でいえば、死者の[物語」を聴きとめることである。そのようにして死者の「物語」を完結させることが、同時に、こちら側の「悲哀の仕事」をも完遂させていくことになるということであろう。(p158)

「遺された者にとって、死が辛く悲しい。しかし、悲しみのなかでこそ、人の心は耕されるのだ」(柳田邦男「死への医学」への日記)(p160)

ー 以上、第7章 別れの「かなしみ」より


三水清は、以下のようなきびしい感傷批判を展開している。

・感傷は、何について感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。
・感傷はすべての情念のいわば表面にある。
・特に感傷的といわれる人間は、あらゆる情念にその固有の活動を与えないで、表面の人口で拡散させてしまう人間のことである。
・あらゆる物が流転するのを見て感傷的になるのは、物を捉えてその中に入ることのできぬ自己を感じるためである。自己もまた流転の中にあるのを知るとき、私は単なる感傷に止まり得るであろうか。
・感傷には常に何等かの虚栄がある。
・感傷には個性がない、それは真の主観性ではないから。その意味で感傷は大衆的である。
・感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている。
・感傷はただ感傷を喚び起こす、そうでなければただ消えてゆく。
・宗教はもとより、芸術も、感傷からの脱出である。
 
三木の批判の要点は、大きく分けるとふたつある。ひとつは、感傷が、表層的・静観的であること、もうひとつは、感傷が、個性を持たない、大衆的なマンネリズムに陥っていること、の2点である。

竹田青嗣は「歌謡論」のなかで「悪しきセンチメンタリズム」は、他人の目をひそかに意識し、利用する」自己哀惜のナルシズムとは、他人の目を意識しながら、それに乗じて自己の「かなしみ」をあおりたてること、高ぶらせることだという。

「他人による承認」、あるいは、「他者の目の利用」というセンチメンタリズムは、自分みずからの経験や実感に基づいておらず、そこでの表現は「大人にも子供にもあまりかわりなく、定型的な情動をよび覚ます」ものである。センチメンタリズムとは、簡単に「我と他と何の相違があるか」「皆同じではないか」と乱暴に一括してしまうところにあるということである。

ハンナ・アーレントの言うように、「哀れみは、残酷さそのものよりも残酷さそのものより残酷になる・・・感傷の際限なさが限りない暴力の奔流の解放を助ける」ということも十分ありうるし、「もののあわれ」もまた、他者性・超越性がいささかでも失われるならば、「世界を既知の同質性へと変容させるたえのイデオロギー」として「感性のファシズム」として機能してしまう危険性をもっている。(p191)

ー 以上、第8章「かなしみ」の表現より


「かなしみ」は、それを「かなし」まなければ「もっと何かを失」ってしまうものであり、さらには、それを「かなしむ」ことにおいてこそ、その失われゆくもの、失われてしまったものにつながりうるかもしれない感情でもある。(p207)

「物のあはれ」というのは、結局は、われわれのうちにある、何かしらの「永遠の根源」なるものへの思慕ではないか。喜びも「かなしみ」も、すべての感情は、「永遠の根源」への思慕を含むことによって、初めてそれ白身が喜びとなり、「かなしみ」となる。

それはいつもそう意識されているわけではないが、たとえば、「ああ楽しいなあ」、と思えばそれはずっと楽しくいたいと思うし、「ああいとしいなあ」、と思えば、それはいついつまでなどとは言わずに、ずっと愛していたいと思うものだ、だから、愛はかならず「かなしみ」となるのだ、と。

われわれは有限である。にもかかわらず、愛は愛のなかに永遠を目指すから、それはどうしても「かなしみ」にならざるをえない。ー 和辻哲郎『日本精神史研究』(p209−210)

「物のあはれ」「かなしみ」は、それ自身が、かぎりなく純化されようとする傾向をもった「無限性の感情」の発動でもある。すなわち、「物のあはれ」「かなしみ」とは、われわれのうちにあって、われわれを「永遠の根源」へと帰らせようとする、根源自身の働きだというのである。だからこそ、「それによって、我々は過ぎ行くものの間に過ぎ行くものを通じて、過ぎ行かざるものの光に接する」ことができるというのである。
 
綱島梁川は、「神はまず悲哀の姿して我らに来たる。・・・我らは悲哀を有することにおいて、悲哀そのものを通じて、悲哀以上のあるものを獲来たるなり」と表現していた。

また宣長は、その根源の働きを神々の働きと言い、親鸞は阿弥陀如来の働きとしていた。

ー 以上、第9章 有限性/無限性の感情としての「かなしみ」


人間の一生はたくさんの哀しみや苦しみに彩られながらも、その哀しみや苦しみの彩りによってさえ、人間は救われ癒されるのだ・・・哀しみも豊かさなのである。/なぜならそこにはみずからの心を犠牲にした他者への限りない想いが存在するからだ。/そしてまたそれは人の中に必ずなくてはならぬ負の聖火だからだ」(藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』)

エロスとは、男女のそれだけではないよ、真理を知りたいとか、力を持ちたいとかいうのもエロスなんだよ。(山折哲雄氏の言葉)

「その星は小さすぎて見上げてもわからないだろう、でも、その方がいい、ぼくの星は、夜空いっぱいの星のなかの、どれかひとつになる、そしたらきみは、夜空ぜんぶの星を見るのが好きになるだろう」(『星の王子さま』の最後、もとの星に戻ってしまうという王子さまの言葉)

ー 以上、「あとがき」より

(引用終了)

☆星の王子さまの言葉は、この詩と似てますね!


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by yomodalite | 2014-12-15 11:59 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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