ケンブリッジ白熱教室・第4回「哲学的幸福論」[2]

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宗教や、占いは、「答え」を与えてくれます。ただ、それは、誰かが出した答えを、信じることです。


精神分析も、いわゆる陰謀論も、なぜ、自分はうまくいかないのかについて「答え」を与えてくれますが、そこからどうすればいいのかという方法論や、思考方法は与えられず、誰かの責任にしまいがちです。


マーティン博士が言うように、日常の経験を理解するために哲学が役立ったという記憶はありませんが、どんな答えが待っているのか、わからないところまで、思考を続けることが出来たら、人生の最後まで、好奇心が薄れることなく、それは、早く答えを知ることよりも、もしかしたら、、ということはあるような気がします。


☆下記は、第4回「哲学的幸福論」[1]の続きです。


とにかく、ナポレオンの革命後の自由化の理論が、幸福の増大を約束していることは明らかだ。フランス帝国が実際に幸福に関する約束を果たしているということに納得していなかった人物がいる。とても勇敢な思想家、シャルル・フーリエだ。

シャルル・フーリエ(1772-1837)

フランスの哲学者。自給自足の理想的な共同体「ファランステール」を基本とした共産主義を提唱。性愛も含めた自然的欲望の肯定を主張した。主な著作:「四運動の理論」「愛の新世界」


彼は、19世紀初頭、状況をどのように改善すべきか、彼の理論を述べた手紙をナポレオンにあてて書いた。あまり上手くいってない、だから、私はあなたがこうすべきだと思う。とナポレオンに言ったわけだが、それに関して感謝されることはなかった。フーリエは「ファランステール」の理論を思いつく。文明の何かいけないのか? とフロイトが問う。答えは「私たちには幸福がある。幸福があり過ぎるから。私たちは自分たちを少し抑制する必要がある。つまり、昇華の理論。ある欲望を他のものに置換すること、あるいは、別のものに向けることだと説明しよう。

だから、ナポレオンが失恋して、いや、ナポレオンが作家になりたいという欲望に破れて、「わかった。ここで、帝国を始めよう」と思う。ということに向ける。あるいは、方向転換するということだ。これはおそらく昇華の究極の行動だと思う。言い換えれば、あるものを投げ出して、それを埋めるためのより良いものを考えつくことだ。でも、元々の欲望はあきらめなくてはならない。特に性的欲望。そして、性的欲望を芸術や政治、橋の建設などに置き換えるということだ。

ここで、私の友テッドの話に少し戻りたい。

一度、彼に昇華の理論の概略を説明したことがある。そして、その理論がいかに良い理論かを提示した。なぜなら、彼はあるとき、欲求不満を感じていたから。それに関して、彼がなんといったか憶えている。彼が言った、「NO!」 彼は今まで昇華の理論に出会ったことがなかった。彼は注意深く聴いてからこう言った。「NOだ」。それはやってみた。でも上手くいかない。私は自分の欲望を昇華させるのではなく、自分の欲望を満たしたい。だから、彼はフロイトではなく、もっとずっとシャルル・フーリエのようだった。

なぜなら、フーリエは言う。文明の主な問題は、すべての人が欲求不満であることだ。彼らの情熱は満たされていない。まったく満足が得られないというのが、極ふつうのことになっている。それに対するフーリエの解決法は、それなら、満足を得てみろ。というものだ。

「ファランステール」は未来のもので、素晴らしいユートピア的コミュニティ。おそらく、君たちが空想していたようなヨーロッパ人が現れて、台無しにしてしまう前に、タヒチに存在していたようなもの。仕事は楽しみに変わり、海はレモネードに変わる。これは、フーリエの奇抜な考えの1つだが。そして、そこには常にセックスがある。幸福は、長い間、フランスにおいて、特に性的な意味をもっていた。でも、重要なのは革命後のフランスにおいて、すべての人が幸せになるはずだった。そして、その幸福は常に続いていなければならない。苛立や不満がときどき介入してくるような隙間を残してはいけない。それは災いの元である。

フーリエもまた、同世紀の少しあとにゴーギャンがやるように、タヒチとブーガンヴィルから着想を得ている。フーリエはこう書いている。愛はこの惑星の残りのどの場所でより、タヒチの小さな島で最大の進化を遂げてきた。

「ファランステール」について、フーリエは素晴らしく詳細な説明を与えている。例えば、すべての人に良い食べ物が与えられなければならない。だから、フーリエは料理オリンピックのようなものが、未来におこると思い描く。そして、彼は似たようなものが、セックスのオリンピックという形で、4年に一度ではなく、「ファランステール」においては、毎晩行われることを構想する。これは、フーリエの偉大な作品、『愛の新世界』の中でも述べられている。彼が調和と呼ぶ、素晴らしい未来の時代、そこで彼は、大量姦通、公開乱交、緊急時の性的出動サービスを想像する。誰かが満足出来ずに絶望的になっているときのための緊急出動だ。

その信じられないような性的ユートピアに関して、非常に面白いことが1つある。フーリエがそれを「ミニマム」、最低限と表現していることだ。私がまず思ったのは、「なんてことだ。では、マキシマム、最大限はなんなんだ?」(笑) どうしてそんな時間があるのか、どうやって他のことをやるのか? これがフロイトの言わんとすることだ。昇華はどこにあるのか? どうやって他のことを達成するのか? でも、重要なのは、素晴らしい機械のように永遠に幸福機械を動かし続けなければならない。飽和するまで、満足するまで、隙間や休憩なしに動かし続けなければいけないことだ。ワーズワースの不死の暗示を引用すれば、満ち足りていること。

ワーズワースの良い表現、満ち足りた至福、これが「ファランステール」が生み出さなくてはならないものだ。

学生:「ファランステール」は大量の嫉妬を生み出すことはないのですか?

大量の嫉妬。。。それは面白い。

学生:もし、みんなが、最高のものになろうとしたら、歯医者には何が起こるでしょう?

ああ、、、銀や銅メダルの人? 

学生:まったくメダルを取れない人です。

金を目指して、賢明に競争しなければいけないということか。うん、これはとても面白い質問だと思う。だから、おそらくフーリエの理論は、実際には意味をなさないわけだ。さらに、不幸と嫉妬の歴史は、19世紀の作家たちのテーマにされている。フランスの文脈で言えば、悲嘆小説と呼ぶものとして、もっともよく知られているのが、1857年に書かれた『ボヴァリー夫人』。

でも、私がここで言及したいのは、トルストイのもう少し後の小説、『アンナ・カレーニナ』だ。この小説は冒険心の強い女性が、フーリエの言うような、魅惑され、満たされた夢をもって、若くして人生を終える話だ。トルストイの冒頭の一文は、今から引用するが、おそらく、それなりに馴染みがあると思う。

幸福な家庭は、どれも似たものだが、

不幸な家庭はいずれも、それぞれに不幸なものである。


これは、どういう意味か? 幸福は、抽象、理論であるが、一方で、不幸は、なにか現実的で、特定のもので、作家がそれについて書くことができる。という意味だと思う。不幸は、模倣現実主義に属するものだが、幸福は、ユートピア哲学者たちだけのものだ。

ならば、いったい、誰が私たちを救うことができるのか? マイケル・ジャクソンが哀れな声で尋ねるように、おそらく誰でもない(*)

だが、私は、新実存主義の二元的な実践は、少なくとも、私たち自身の精神疾患に洞察を与えてくれると考えたい。

答えは、サルトルの「即時対峙存在」の分析、そして、神の不条理の理論の中にあると思う。彼らの説明が意味をなすようにするために、ある特定の現代神経認識科学を利用して考えてみたい。


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まず、君たちに2つのことを尋ねていきたい。

なぜ、私たちにはデジャブがあるのか? 

もうひとつは、足のフェティシズム(笑)

私は、この2つの現象が説明を与えてくれることを願っている。よし、デジャブ、君たちは以前なにかを見たことがあるという感覚をもったことがあるか? 例えば、ある家に行って、過去に訪れたことがないはずなのに、なにか薄気味悪い、とても良く知っているもののような感じがする。君たちはみんな経験があるにちがいない。誰か説明してくれないか? なぜなら、デジャブには、完全に信じられる、あるいは証明出来るような説明がないのではないかと思うから。どうぞ。

学生:時間と空間は流体のようなものです。私たちの潜在意識が気づかないうちに、その流体を通って、今までに行ったことがあるところに、たどり着くのです。

なるほど。とてもいい説明だ。だから、これは、言わば、魂、あるいは、精神、あるいは肉体から離脱した自己が、時間を自由に動き回って、空間を自由に動き回っていて、組織化されてはいないが、連続性がある。よし、それは、素晴らしい。

他の理論はあるかな?

学生:よくわかりませんが、私に起こるデジャブは、ずっと昔にどこかに行ったことがあるように感じるようなものです。

前世の生まれ変わり説?

学生、いいえ、、、

君の理論は、実際に君は、過去のどこかの時点で、その場所にいたのに、そこにいたことを忘れてしまったということ?

学生:おそらく、、それは、精神のトリックのようなものだと思います。よくわかりませんが、異なる場所からの、異なる要素の組み合わせが、ひとつのものとなって現れているのではないでしょうか?

はい、、クリス、どうぞ。

学生:僕もその意見に同意します。なぜなら、私たちの脳は、美的に心地よいものに惹かれます。無意識の中で、僕たちは、これらの画像をつくりだし、そして、これらの画像が現実に再現されたとき、つまり、頭の中で、創り出された像に一致する家を見たとき、過去に見たものを思い出した。と思わせるのだと思います。

なるほど、それはいい。だから、私たちは、その先行する画像をいつももっている。ということか。これは、とてもプラトン的な考え方ではないか。なぜなら、プラトンは、もし、家の先行する像、つまり、理想形をもっていなければ、それが家だと、どうやって理解できるのか? と言っている。

だから、理解する前に、家の知覚を、家の認知的地図と比較している。通常これら2つのものは一致する。でも、デジャブの場合、君は「ああ、、」と言うことになる。通常、デジャブにはならずに、これら2つのものが一致するが、それが分離して、デジャブの瞬間、2つのものが少しずれている状態になる。だから、現実と、非現実の感覚を同時にもつことになるのだと思う。

ここに、もっとつまらない説明があるが、それでも、私は気に入っている。

これが、もっともな理論かはよくわからないが、、

ある情報処理と関係している。そうだ、ときどき、デュアルプロセス認知と言われる。これは、よく知られたダニエル・カーネマンの著書『ファスト&スロウ』からだ。

ダニエル・カーネマン(1934- )

アメリカの心理学者、行動経済学者。認知科学や、心理学研究を経済学に統合し、2002年にノーベル経済学賞を受賞。『ファスト&スロウ』は、人間の意思決定システムから、経済学までを網羅した代表作。


彼の説明は、

前にここに来たことがあるか? この本や、カフェ、ホテル、この場所に? 「イエス」、私は自分そういうかもしれない。ほんの数秒前、私は、最初この部屋がどんな場所かを調べていたとき、比較的組織化されていない、自発的なやり方で、情報を処理していたときに。

第二の段階は、もちろん、私たちの日常の知覚だ。ああ、私は部屋に歩いて入った。私は家に歩いて入った。この人に会った。それが第二段階だ。

通常、私たちは、第一の認知の段階をもたない。ときどき、第一の段階に行くと、デジャブを経験する。おそらく、これは、理想的な精神の状態。プラトンや、マイケル・ジャクソンが、哲学の中で振りかえり、思い出そうとするものだ。

そして、ルソーの「自然の状態」でもあるのではないかと思う。情報処理の最初の形式。それは、組織化されていない状態。一時的な幻影の状態。私の古い友人テッドが、それほどにも憧れた状態。。。

ここで、足のフェティシズムの問題に移ろう。

そうだ、ここで、無遠慮にならせてもらう。他人のつま先を愛する人々がいる。でも、なぜ? これが決定的な問題だ。一体、なぜ、彼らは、つま先に対して、熱心になるのか?

君は、おそらく、これについての意見をもっているだろう。どうかな。

学生(さっき時間と空間は、、と答えた女性):考えはありますが、ここでは言わない方がいいと思います。

なるほど。。それは興味をそそる。私がもっともらしいと思う理論を挙げよう。

私は、偉大な脳の専門家。ラマチャンドランに言及したい。

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951- )

インド出身、アメリカの神経科医、神経科学者、存在しない手足が激しく痛む「幻肢痛」や「共感覚」などの脳神経系が専門。主な著作:『脳の中の幽霊』


彼は、この問題に関する素晴らしい答えを思いついたと思う。

彼は、脳が身体の地図を持ち歩いていると言う。でも、もちろん、この地図は、身体と同じ構造を持つわけではない。ちょっと難しいが、この脳内地図では、科学的、電子的な形式、認識的形式において、足は生殖器の近くに格納されている。だから、そこには、いわゆる神経交差がある。あるいは、配線の交差があると。

だから、私たちは、性的特徴づけされた “つま先” の感覚をもつわけだ。そして、ラマチャンドランは、幻肢の現象をもちだす。手足が切断された後も、脳の混同によって、まだ、そこにあるかのように感じる。脳が理解できていない状態だ。自分の腕がもがれてしまったことを知っているが、まだ、そこにあるように感じる。自分の身体の認識的地図をもっていて、それが混乱させているからだ。

これを単純に、混乱、あるいは、混沌と呼ぶこともできる。でも、この状態から、私たちは、融合や、調和の観念も、また引き出せると思う。そして、これは、私たちがすがり続けることができない、維持することができない状態だ。そして、おそらく感情移入と、自閉症の違いについて、議論することもできる。

ここで、私は心理学者、サイモン・バロン=コーエンが、生後1日の乳児たちに対して行った、非常に面白い実験について言及したい。

サイモン・バロン=コーエン(1958-)

イギリスの発達心理学者、自閉症の研究で知られる。主な著作:『共感する女脳、システム化する男脳』


この実験は、魅力的な女性の大学院生によって行われた。乳児は大学院生の顔を見る選択肢を与えられた。あるいは、ここに、とても面白いものがある。ひもにぶら下がって、回っているおもちゃがある。無機的な動きをしていて、魅力的な大学院生とは反対に、機械的なもの。その選択をすることができる。

それで、彼らは何人のこどもが大学院生の顔を見て、何人のこどもがおもちゃを見たかを書き留めていった。統計の数値にはくわしく触れないが、彼の主な推測は、男の子はおもちゃを見る傾向があり、女の子は顔を見る傾向があるというものだった。

彼の理論の一部は、性別による違い。私は、次の彼の考えは面白いと思う。

彼が主張するのは、性差をこえる人がいて、彼はそれを体系化する人、感情移入する人と呼ぶ。私がこの実験で、もっとも問題だと思うのは、もし、私がこどもで、ベビーベッドに横たわる、生後1日の乳児の立場にいると考えたら、私はこう言うだろう。「両方とることはできないの?」 魅力的な学生と、おもちゃ、両方とることはできないの? 彼女を見ている間に、おもちゃで遊んでもいい? これに何の問題があるというのか?

これまでの講義でも触れたが、どのように脱構築という言葉が生まれたのか? 

もちろん、偉大なジャック・デリダの発明。

ジャック・デリダ(1930-2004)

フランスの哲学者、1960年代の後半から70年代にかけて登場したポスト構造主義の代表的哲学者。私たちの哲学の営みそのものが、常に古い構造を破壊し、新たな構造を生成している。という「脱構築」の概念を提唱した。


デリダは文章の中の神髄を拾い出すのが非常に上手い。対立、その核にある分離的サイン、これが、彼がやることだ。この簡単な例、誰か、彼のニーチェについての随筆を知っているかな?

彼はとても不思議な、奇妙な面白いものを選ぶ。それは、ニーチェのノートの端に書かれていたものだったと思う。ニーチェはこう書いている。

私は傘をなくした。

そして、その奇妙で重要とは思えないような文章から、デリダは、彼の哲学全体を導く。これが出来るのは素晴らしいことだ。物事が上手くいっているようなとき、それは哲学ではない。なにかが上手くいかなくなるときこそ、哲学だ。そして、何かを失くして、そこにあって欲しいものがないとき、それが、哲学がもっともその姿を露にしているときだ。なぜなら、機械がうまく機能していないから。

そして、これは、先日、私が重要な会議へと急いでいたときに起こったことを考えさせる。自転車のチェーンが外れてしまったのだ。これは、私に現代コンピューティングの父、アラン・チューリングのことを思いださせた。彼も、ケンブリッジで、私の自転車に似た、よく壊れる自転車に乗っていた。

アラン・チューリング(1912-1954)

イギリスの数学者、人工知能の父。計算機科学の発展に大きな影響を及ぼし、「アルゴリズム」「計算」の概念を定式化、コンピューター誕生に重要な役割を果たした。


彼が書いた人工知能についての『イミテーション・ゲーム』は、君たちも読んだことがあるに違いない。人間と機械を対抗させる思考実験。彼の偉大な論文を読んだことがあるかな? その中で、彼はコンピューターと、人間の違いを言うことができるか?と問う。

彼が1950年代にこの論文を書いたとき、人間と機械の違いを言うのは、実際とても簡単だったが、今はもっともっとむずかしい。そして、彼は当時、すでにこの区別をするのが、どんどんむずかしくなると言っていた。おそらく人間と機械を区別するのは、不可能になると。

現代のフランス人哲学者、ベルナール・スティグレールが技術の話をするとき、SFの父、ジュール・ベルヌが創り出した小説『海底二万マイル』の登場人物、ネモ船長のことを考える。

ベルナール・スティグレール(1952 - )

フランスの哲学者 著書「技術と時間」は、哲学と技術の関係や、社会と技術の関係を中心に書かれ、人間の生み出した技術が創り出した時間と、その時間に支配される人間を描き出す。 


自分の快適な潜水艦ノーチラス号の中に、潜水艦の中には、人間と機械があって、スティグレールならば、人間と機械は分離できないと言う。そして、人間と機械は、世界の他の部分と切り離されている。私たちは機械の窓から、世界を観察しているのだ。チューリングが人間と機械を比較して、2つの違いを区別することが不可能になるというとき、それは、人間は、すでに機械的なチェーンがかかったり、外れたりするものを含んでいるからだ。故障、あるいは、サーフィン用語ではワイフアウト、転倒への必然的な傾向をもっている。

次は、偉大な人類学者、クロード・レヴィストロース

クロード・レヴィストロース(1908-2009)

フランスの社会人類学者。民俗学者、 構造主義の中心的人物。代表的な概念のひとつ「料理の三角形」では、生のもの、調理したもの、腐ったもの、の3つの頂点を設定し、複雑な社会現象の基礎となる構造を研究。主な著書:『悲しき熱帯』『構造人類学』


彼の素晴らしい「料理の三角形」の中で、生のものと、調理されたものについて話している。私はレヴィストロースが主張したことをやってみるが、これらのことを、元々の文脈から話して使う。

最初に、私たちは20世紀のフランス哲学的思想の中に、実存主義的思考と、構造主義じたいの間の違いを見ることができる。知的歴史におけるこれらの象徴的な瞬間を、「生のもの」と、「調理されたもの」という言葉にあてはめてみると、生のものの実存主義から、調理された構造主義へ、脱構築は、ふたつの違いが分けられた後に出てきたものだが、即時存在の周りで踊っている、対峙存在の相関を風刺している。

レヴィストロースの「料理の三角形」とは、

「生のもの」→ 生のものに手を加えて「調理したもの」

「生のもの」→ 生のものが自然に変化した「腐ったもの」

この3つを頂点とする三角形を、社会や文化の考察に用いる方法論のひとつ。

マーティン博士は、この「料理の三角形」の生のものに「実存主義」を、構造主義を「調理したもの」と置き換えることで、共に、人間や社会を考察する、実存主義と構造主義の密接な関係性を指摘している。


生のものと、調理されたものの間のどこかに、私たちがもつ、ふたつの情報処理システムがある。そして、不安、不条理な脱構築、不幸、嫉妬が、そのギャップを埋めることになる。

新実存主義において、私が素晴らしいと思うのは、これが、失敗の哲学だからだ。

上手く失敗しなさい。


成功は、単なる慣習の遵守の中でやっていることに過ぎないと、新実存主義者は言うだろう。これは、カミュが反抗という言葉を使うときに指しているものだと思う。彼は逸脱性を受け入れることを意味している。2つの例を紹介しよう。

ブリジット・バルドー、私はバルドーが大好きだ。理由の1つには、彼女は、彼女について、ボーヴォワールが書いた、ロリータ症候群についての素晴らしい随筆を笑ったから。バルドーは、ロリータ症候群を、実際に読んで、それを笑って捨てた。おそらく真実であるべきだという要求のせいだと思う。バルドーは動物愛護のために映画をあきらめた。彼女はそうやって、自分自身の神話から逃れたんだ。

そして、2つめの例は、私の古い友人テッド、彼は転倒の芸術を極めた。サーフィンは存在が不安定であることを証明するという意味で、実質的に脱構築と同等だと思う。そして、テッドは偉大な18世紀の航海者と違って、サーフィンが必ずしも精神の動揺の癒しにはならないことを発見した。

私が実証してきた「幸福」というのは、抽象的で手に入れられないものだ。むしろ、プラトンの理想形、真・善・美の理論のように、地球上に存在しない理想的な状態。私が何かについて、不平を言っていたとき、古い心理学者の友人が、私に言ったことがある。確か、仕事が忙しすぎたんだと思う。そのときの彼の言葉はこうだ。

痛みを楽しめ。

それがそこにあるすべてだ。


私の心理学者の友人が、この言葉で言おうとしていたことは、私たちはこれらの命令から、自分を解放する必要があるということだ。私たちの人生を支配する規範、要求、幸福でなければならない。この不可能な理想的状態に到達しなければならないという要求からの解放。私たちをこんなに惨めにしているのは、これらの理想的状態だ。

なぜなら、私たちは、それを手にいれることが出来ないからだ。

私たちは、理想的な認知的地図と、二級品である日常経験の間の不一致に苦しんでいる。

テッドに捧げる意味をこめて、サーフボードを取り出してみたい(机の下からサーフボードを取り出す)。



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私は、テッドを、ここで象徴するために、このサーフボードを使っている。死んだテッドは、今日ここに、私たちと一緒にいることは出来ない。このサーフボードの形で、物としての姿をもつことを除いては。だから、私はこのサーフボードを、テッドだと考えたい。でも、私はこの授業の最後に、私のお気に入りの2人の哲学者、サルトルとカミュに戻ることにしたい。

2人は、サーフボードに上手く象徴されていると思う。私がテッドを象徴するために使っている、このサーフボードの中で、二元的実践が起こっている。

これが、サルトルで、


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(2人のサーファーが描かれている上の部分)


こちらが、カミュだと考えたい。


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(同じサーフボードの下の部分)


少なくとも、このサーフボード上では、二元的実践のダンスの中で、2人は繋がれている。その1つは、不可能な単一性を達成しようと努力し、もう一方は、差異と多様性を探しているのだ。

でも、最後に、これが「美しい」ところだが、

今回、上手く論証できているといいが、二元的実践は、君たちが実際に理解しなければならないようなものではない。君たちはそれをここに(サーフボードの中に)見ることができ、それになることもできる。

ここで、終わりにしよう。どうもありがとう。

(講義終了・番組スクリプト終了)

(*)マイケルが哀れな声で尋ねるように...

マーティン教授がこのとき思い浮かべたのは、おそらく「Earth Song」でしょう。この曲はイギリスで最も売れたマイケルの曲で、♪ What about sunrise、What about rain… から始まり、Where did we go wrong Someone tell me why(私たちはどこで間違えたんだ。誰か理由を教えてくれ)という歌詞があります。





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by yomodalite | 2014-12-07 20:49 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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