ケンブリッジ白熱教室・第2回「美と醜悪の現象学」[2]

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☆ケンブリッジ白熱教室・第2回「美と醜悪の現象学」[1]の続き


最初は、サルトルが登場するまで「長っ!」と思っていましたが、16世紀頃の芸術が大好きだと言っていたMJにとっては、プラトンから攻めてもらって良かったかも。

マーティン教授がよくいる、幼稚な持論全開なうえに上から目線な人ではなく、マイケルに対しても、好意以上の敬意が感じられて、次回がますます楽しみになりました。

下記は、マイケル・ジャクソンをテーマにした「美と醜悪の現象学」の後半部分です。

理想型がそれ自体が美しいかどうかについて。でも、ここで、美しいものはどこにあるのか。プラトンはときどき、美について語っている。ここで、私は質問された問題について考えてみたい。

理想型はそれ自体が美しくなければいけないのか? 

プラトンは美について、まるでそれ自体が理想型であるかのように話す。美の理想型。美の原型。ここに椅子があり、そこに美しいものがある。プラトンは言う。「その美しいものだけが、本当に美しい」。プラトンの言っている、その美しいものだけが、本当に美しいーこれを議論するのは、とてもむつかしいと思うが、よく考えると、なにを考えようとしているのか、よくわからない。美はすべての理想型に備わっているものとして、話をする方がもっと説得力があると思う。美は理想的な状態にあるすべてのものの特性だ。

理想的なその椅子は美しい。理想的なそのテーブルも美しい。という風に。椅子の理想型は美しい。なぜなら、その椅子そのものであるから。同様に男性の理想型が美しいのは、男性そのものであるから。だとすると、醜さも定義されるだろう。正確には、定義の欠如によって、定義される。何か質問がある?

生徒から:マイケル・ジャクソンの場合、彼はふたつの異なる観念の間に挟まれているとはいえないでしょうか。ひとつは、彼の自己改善への執着、具体的にいえば、整形への執着は、自分が美の理想型と考えたものに近づこうとしていたということを示しています。しかし、その理想型とは、社会によって形成されたものです。

一方で、マイケルは子どもたちと時間を過ごすことで、社会的知識を分解しようとしています。子どもたちは、社会的構成前に属していて、無知だと、彼は考えていました。このふたつには、対立した緊張関係があったと思います。一方で完全に、社会のパラダイムに嵌ろうとし、もう一方で、それらを超越しようとしている。ということです。

マーティン先生:君にハイパーノーミア。この言葉は私が創った言葉なのだが、アノミー、つまり、無規則状態の反対のものだ。アノミーは、深く社会規範を逸脱している。私はすべての社会の規則に反抗する人間だ。一方で、ハイパーノーミアとは、どういう意味だと思うか? 私は特に古典ギリシャ的な「ノモス」に注目したい。誰かノモスについて、手助けをしてくれないか? 

生徒から:慣習とか、法律の意味だと思います。

マーティン先生:慣習や、法律、だから、ハイパーノーミアは、規則を意識することだ。もちろん、マイケル・ジャクソンは、規則をとても意識している。彼は言う。「子どもは規則を無視する」。ハイパーノーミアは、規則や理想型に対する過敏性だ。でも、理想型についても曖昧さがある。それは、マイケルの中の曖昧さにも通じる。

プラトンは、「見てみろ。これらの理想型があるが、誰も理想型になることはできない。それを理解しなくてはいけない。今、地球に理想型は存在しない。理想型は、生まれる前、あるいは、死後のものだ。その間の部分、生きているときは考えるな。理想型になろうとしたりするな。なれるはずがないと言った。

しかし、誰もがやるのは「私は理想型になる必要がある」。よし、私たちはここに理想型が必要で、理想型に対応する人がいて、そこに理想型に対応しない人がいる。残念ながら、プラトンのもうひとつの解釈が存在する。言い換えれば、私たちは神話的なものになれるのか? 理想的な椅子を創ることはできるのか? 理想的な足の爪切りを創ることはできるのか? おそらく、無理だ。でも、可能性は埋め込まれているのではないだろうか? もしかすると、美は失われたもので、醜さが私たちに残されたすべてではないのか? これが哲学の行き着くところなのか? 醜さが私たちに残されたすべて。。

ソクラテスも同様のことを主張する。

君たちも読んだことがあるかもしれないが、ここで、『饗宴』の一部を思い出してもらおう。

饗宴(プラトン中期の対話編。副題は「恋について」紀元前416年、ギリシャ・アテナイの悲劇のコンクールの優勝祝賀の様子を語ったもの。祝宴にはソクラテスも参加した。

ソクラテスはアルキビアデスに向き合って言う。ここで、アルキビアデス、誰か彼について、知っていることをひとつ教えてほしい。誰か

生徒から:軍人ではなかったでしょうか。

マーティン先生:それは忘れていた(笑)、なぜなら、私が考えていたのは、彼はハンサムな男性だったということだから。彼はハンサムで、でも、彼は軍人でもあった。彼はアテネで最も美しい男性という名声があったと思う。彼はアテネの象徴のようなものだった。ソクラテスよりも若かった。ソクラテスは醜くて有名だった。アルキビアデスは、ソクラテスを森に住む好色な牧神サティロス、あるいは、セタ、サターンのようだと言う。サティロス、私は正しく発音している? (生徒から)「サティアです。」サティアか、どう発音するのかよく知らない。でも、要するに年老いた山羊、それでいい。

アルキビアデスはこう言う。「あなたは醜い老いた野獣だ。そうでしょう」でもそれから同時にソクラテスの気を惹こうとするが、激しく拒否される。ソクラテスの醜さに対する擁護は、理想的な美のみが、真に美しいがゆえに、アルキビアデスはその基準にあてはまらない。単なるこの世の美は、幻想にすぎない。だから、アテネ、そして世界は、再び醜い人々にとって、安全な場所になったのである。言い換えれば、私たちは皆、醜さの中にいる。ソクラテスは美しい人々の根本的な不平等を理解していた。この意味で、醜さの認識、理想型との一致との失敗、これが西欧哲学のまさに起源にあった。

そして、もちろん、理想型の排他性についての問題もまたそこにある。

ソクラテスの哲学にも関わらず、私たちはまだ理想型に自分を一致させようとしているのか? これが君が注意を払っていた「緊張関係」だと思う。

私にとって、現代のソクラテスは、ジャン・ポール・サルトルだ。

ジャン・ポール・サルトル(1905〜1980)フランスの小説家・哲学者。主な著作『嘔吐』『存在と無』、実存主義の中心的人物。「実存は本質に先立つ」容姿に強いコンプレックスを抱いていた。(*実存とは「現実存在」という意味)

他の哲学者が崇高なものを熟考する一方で、サルトルの場合は、醜さが、彼の哲学の全体に浸透している。君たちの中には、サルトルが醜さを発見した瞬間のことを知っている人もいるだろう。それは彼の自伝の中にある。サルトルが醜さを発見したときのことを、誰か憶えているか? 私が「髪型が決まらない日」と呼ぶ日だ。

サルトルが散髪をしたときのこと。私たちはみんなこのような経験をしたことがあるだろう。切り過ぎた髪型を伸ばしてくれ! サルトルの自伝で、この部分を憶えている人はいるか? それは、彼が7歳か8歳ぐらいのことだったと思う。実際、サルトルのこどもの頃の写真がここにある。彼はこの時点まで天使と呼ばれていた。(写真登場)注意を惹くのは、長い金髪とカールした髪だ。家にやってくる人はみんな、「おお、なんて可愛い天使なの。この子は天使だわ」と言っていたらしい。

これは、サルトルが抱いていた考えだ。これは少し、マイケル・ジャクソン風、ルソー主義的考え。いわば、髪を介して、私は天と繋がっているということ。しかし、彼の祖父がサルトルがあまりにも女の子ぽくなっていると、それで、彼はサルトルを床屋に連れて行くことを主張した。幼い天使サルトルは、「いいよ。面白そうだ。おじいさんと出かけるといつも楽しいから」と思った。当時、彼は7歳か8歳だった。よし、床屋に行こう。そこで、祖父が言う。「しっかり刈ってほしい」これは深刻だ。つまり丸刈りのように、すべて剃ってくれ。サルトルは帰宅する。母親は外出から帰ってきて、ドアを通り抜けて、サルトルがそこに立っているのを見る。彼は母親になにかこのようなことを言っている。「ねえ、髪を切ったから、見て」。彼女はもっていた買い物袋を落とし、階段を駆け上がって、ベッドに身を投げ出し、泣きじゃくった。散髪でこのようなリアクションをされたことはないと思うが、これはかなり強烈なものだ。

このとき、サルトルは彼のすべての凝視に関する理論を発展させたんだ。「地獄とは他人のことである」という観念はまさにそこから始まっていた。

彼が実際に書いているのは、これは天使の前で(幼い頃の写真)、これがそのあと(サルトルの写真として知られるもの)。散髪によってヒキガエルに変身させられてしまった。天使からヒキガエルへの散髪効果だ。それが、彼がその後の自分を表現する方法となった。髪が天使効果を使って、彼を変装させているが、それが取り除かれると、ソクラテスのように醜いものとして暴露される。

なぜ、サルトルは「地獄とは他人のことである」というのか。なぜなら、理想型の場合と同様に、私は、あなたの完璧なものに、自分を一致させることができないからだ。

サルトルの哲学者の彼女は同意する。「そう、あなたは実際に醜い。なんの疑いもない。周りの人を見て比べてみると、あなたの醜さは本当に際立っている」。実際に彼女がそう言ったわけではないが、でも、実存的な肉体について重要なのは、その肉体は、その肉体そのものではないという点だ。その肉体はいつも、その肉体であるもの以外のなにかになることができる。

私は私であるものではなく、私は私ではないものだ。

これは、問題であると同時に、解決法でもある。

実存主義は、それがプラトン的理想の領域と同じように、牢獄から脱出させる切り札であると言っている。ソクラテスにとって、醜さは現在そこにあるが一時的なもの。醜いあひるの子の議論の一形式で、いずれは白鳥になる。でも、サルトルにとって、醜さは避けられないものだが、とるに足らないもの。サルトルとソクラテスは、私たちが顔と本の理論と呼ぶものを共有している。彼らが鏡から切り離そうとするとき、顔が本の起源になっていて、本には顔の起源がのこっている。

サルトルは言う。「私は書くことから生まれた。その前にあったのは、鏡にうつった像だけだった」

でも、これらのどれも、あの素敵なマイケル・ジャクソンには当てはまらないのではないか? 彼はソクラテスよりは、アルキビアデスではないのか。彼はサルトルよりも、カミュではないのか? 彼はヒキガエルよりは、天使なのではないか? 

ここで、マイケルの傑作の一曲について考えてみたい。「マン・イン・ザ・ミラー」

僕は鏡の中の男から始める。彼に生き方を変えるように言ってみる。こんなにもわかりやすいメッセージはない。もし、世界をよりよい場所にしたいなら、まず、自分を見て、自分を変えることだ。

君たちの番だ。この曲は君たちにとって、なにを意味するか? なぜなら、私はマイケル・ジャクソンが、それが意味することを、君たちに伝えることができるから。「はい。どうぞ」

生徒から:先生は、サルトルのことを話していましたので、私はそれで「出口なし」のことを思いました。どの登場人物が言うのだったか、憶えていませんが、「私が鏡であるかのように、私の目に映ったあなた自身を見て」と言います。なぜなら、登場人物のひとりは、鏡を欲しがるのですが、彼女は鏡をもっていないからです。

マーティン先生:確か、イネーズだ。彼女は鏡をもっていない。だから私の鏡になって。でも鏡の中で…鏡の… 彼女はある時点で鏡になる事を申し出る。それから?

生徒から:それはエステルです。

マーティン先生:君がいてくれて本当に助かったよ。今日は私の「名前がよく思い出せない日」のようだ。そうだ、エステル。

生徒から:エステルは口紅を心配しています。イネーズは目を鏡として使うように言うのです。

別の生徒から:たぶん、鏡の中の男は理想形で、マイケル・ジャクソンは、もし、彼が理想形に自分の生き方を変えてほしいと思っているなら、自分の理想を変えなければいけないと、あるいは、少なくとも理想形に必死にたどりつこうとするのを止めようとしていると思います。彼は理想形にならなければいけないというプレッシャーを感じているからです。

マーティン先生:理想形は全てのものにあると思う。だからそれはもっともらしい説だ。

『マン・イン・ザ・ミラー』のプラトン的解釈からサルトル的解釈に移ろうと思っていた。自伝「ムーンウォーク」の中でマイケルは、この曲が、ガンジーや、キング牧師、ケネディ大統領などからの影響を受けていると言う。これは利他主義の訴えだと言う。とても気高い。でもマイケル自身を「利己的な愛の犠牲者」として表している。つまり、鏡が必然的に映し表す自己愛、あるいは自己観察のようなものだ。これはばかげて聞こえるかもしれない。

ショービジネスを生きる男性がいて、彼は確かに20世紀の最高のパフォーマーの一人。どうして彼は自分の外見にそんなに不安を抱くのか? でも自伝にはそれがかなりはっきり書かれている。「有名になると人々は凝視するようになる。観察する。それは理解できる。でもそれは易しい事ではない。なぜ私が人前でできるかぎりサングラスをかけているのかと聞くなら、それは人の目を見なければいけないというのが好きではないというだけだ。少し自分を隠す方法だ」。

ある時、彼は歯科医に細菌が入らないようにするため手術用マスクを渡される。そして彼は言う。「このマスクがとても気に入った」。

マイケルの「子供は自意識がない」という考えを思い出してほしい。逆説的だが、彼はステージで自分の全ての意識を失う事ができると言っている。彼はこの瞬間、他人に完全に観察されているからかもしれない。「パフォーマンスをしている時自分がどのように聞こえるか、どのように人に思われるかには気付かない。ただ口を開けて歌うだけ。だからパフォーマンスの中で自意識は消え、自己超越がある」。しかしステージを降りると自意識が戻る。

「一度ステージを降りるとまた対面しなければならない鏡がそこにある」。だから、マイケルは強い自意識、あるいは彼自身の、あるいは他人からの凝視の恐怖に苦しんでいたと言う事ができる。

そして整形の話にも触れたいと思う。マイケルがどのように視覚的に自分を再構築したのか。「10代の頃に向き合わなければならなかった最も大きな個人的苦悩は、スタジオで録音したり、ステージでパフォーマンスをしたりする事とは関係なかった。

当時の最も大きな苦悩は自分の鏡の中にあった」。彼はこれが思春期に始まったと言う。おそらく私たちは推測する事しかできないが、彼は肌の色素形成を気にしていた。彼は皮膚病恐怖症だったかもしれない。マイケルはどれくらいの治療を行ったか? でも治療をすればするほど、彼はもっと不満になる。

「時々私の人生経験はサーカスの仕掛け鏡に映った像のように思う。一部分はとても太っているのに他の部分は消え入りそうなほどに細い」。他にマイケルには解決法があるか。ひと言で答えると「アクセサリーをつける事」。ひとつの白い手袋。ショービジネスそのもの。だがこれがどのように光を反射させるかに注目してほしい。

彼の靴への執着。視線を屈折させるためにアクセサリーは反射するものでなければいけない。そしてマイクも。「マイクは私の手の自然な延長となっていた」。

自分を「もの」化するという意味でアクセサリーは全て1つの機能を持っているのではないか。メークアップも同じだ。「私は何かを自分の顔に塗られることを楽しんでいた。私がカカシに変身するとき、それは最もすばらしい事だった」。カカシは映画の登場人物。「それは世界で最もすばらしい事だった。役を通して誰か別人になって逃げられると思った」。

ここで再び彼は「もの」になる。これは自己客体化だ。「私は座ってこう言う事ができる。『よし今存在するものは他に何もない』」。サルトル哲学はここで何が起こっているのかを説明している。

これは全て「美」に関する事。「美」は超越した状態で、それに到達できるのは「その人でない」人間が「もの」になる事ができるとき。

「もの」というのはプラトンの言う理想形に近いものだ。あるいはサルトルの言葉を使えば「対自即自存在」。実在がついに本質になり意味を帯びる。

「即自存在」とはそれが何ものであるかを規定されて存在しているもの。一方「対自存在」は何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うもの。つまり人間は「対自存在」にあたるとサルトルは言います。この即自存在と対自存在が一致した状態。本質と実存の一致が「即自対自存在」となります。

サルトルが書いている事。

La beauté représente donc un état idéal du monde.’
これは私たちが超越に与える価値だ。これは私たちが美と呼ぶもの。

美は世界の理想的な状態を表す。

でもサルトルは言う。「美は世界の人々につきまとう亡霊だが決して実現されないもののままだ。私たちは美しいものを切望する。私たちは、私たち自身が美の欠如である事を把握する限りにおいて、宇宙を美しいものの欠如として把握する」。

サルトルは『存在と無』の一節でこの対立を劇的に表現している。あるスキーヤーという人物の中の内面の「二元的実践」。このスキーヤーは理想形。スキーヤーそのものになりたいと願うがそうなる事ができない。彼の幻想は雪のように解けてしまう。

マイケルはある宗教の信者だったと知られている。でもサルトル哲学では、神を信じているだけではなく神になろうとしている。あるいは逆に言えば、神は「即自対自存在」に私たちが与える名前だ。

サルトルは言う。「私たちは皆、神になろうと企て、自らを神として投影する」。

マイケルの世界的人気は、彼がこの普遍的な状況を明らかにした事の印だと主張したい。

神になろうとする事の失敗。不可能な「即自対自存在」になろうとする事の失敗だ。

講義の結論に向かおう。

ここで「美」にも関連する言葉「崇高」という言葉に注目したい。

君たちは「崇高」という言葉を知っているし、おそらく「崇高」を経験した事もあるだろう。君たちは崇高かもしれない。誰か崇高の仮説的定義を提案してくれないか? あるいは、崇高に見えるだけで十分だと感じるか?どうぞ。

生徒から:崇高とは美と畏敬との間にある美的な感情だと思います。自然の力などに対して感じられる畏怖の感覚ではないでしょうか。

マーティン先生:モーガンからの崇高の定義。他に崇高なものについて意見のある人はいるか?どうぞスペンサー。

生徒から:それは理想形に似たものに到達するという事ではないでしょうか? 理想形と同じ特性を持つ事、そして一瞬ほんの一瞬の間だけ、それに到達する事ができて、そのあとは記憶の中に残されるようなものです。

マーティン先生:プラトンはそう言うべきだったと思う。理想形への近似化は君が言うように、一瞬の、いわば一瞬の中に感じる永遠のようなもの。崇高は一時的なものだ。

ある状態とある状態の間で不安定にあるという感覚だ。でもこれは身振りやダンスとしての哲学。綱渡り芸人、あるいは死ぬまで割れる波に乗るサーフィン。ムーンウォークは前に進むと見せて後ろに進む。このような形の崇高は維持できないものだ。

マイケルは答えのヒントを与えてくれていると思う。

彼は言う。「私はとても長いスピンをして、それから爪先で静止するつもりだった。一瞬の間止まって、ただそこにいたかった。ただそこで凍りつくように静止したかった。でも思ったようにはうまくいかなかった」。

私はマイケル・ジャクソンの慰めになるような提案をしたい。

それはソクラテスやサルトルからではない。レナード・コーエンの「チェルシー・ホテル」の中からだ。

「気にしない。私たちは醜い。でも私たちには音楽がある」。

そしてここで終わりにしたい。マイケル、レナード・コーエン、サルトル、そして、みんなどうもありがとう。

(拍手・講義終了)





私は、元々美しかった容姿にさらに磨きをかけ、世界一の容姿を手に入れた彼が、愛されることに恵まれていない人々を公平に愛そうとする姿に、少しだけ疑問を感じていたんですが、

彼が亡くなると、想像以上の喪失感でいっぱいになり、マイケル自身がそういった様々なジレンマにとことん苦しんだだけでなく、社会から、これ以上ないほどの批判をうけながら、最後まで、謙虚に考え続けたことがわかったことで、今まで、彼に向けていた疑問のすべてが、自分に降り掛かってきました。

この一時間弱の講義には、そのことが哲学的によくまとまっているなぁと感じました。

We are ugly but we have the music
私たちは醜い、それでも私たちには音楽がある

私は、この言葉を、マイケルに贈りたいとは思いませんが、彼の音楽を聴いていて、自分が救われているのは、まさにそうだと思いました。

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Commented by kuma at 2014-10-24 12:35 x
これは録画しなきゃ!って思ってたのに、すっかり忘れてしまい、再放送の予定もわからず、涙目になっていたのですが、yomodaliteさんに救われました(何度目?)。

こんなに丁寧にテキストを載せてくださって、本当にありがとうございます。(1)、(2)ともに、繰り返し読ませていただいています。すぐには内容を咀嚼できない頭の悲しさですが、読むほどに頷くことも、考えることも多くなり、自分なりに楽しいです。
マイケルが、彼自身の知性に見合う形で論じられているのもうれしい。

マーティー教授の講義、次は見逃さないようにせねば。
Commented by yomodalite at 2014-10-24 17:47
>テキストを載せてくださって、

自分でも何度も考えたいから、録画より、こっちの方が便利なんだよね。

>マイケルが、彼自身の知性に見合う形で論じられているのもうれしい。

だよねーー!。隊長の場合、今の時代の中で、頭がイイなんて認められてるぐらいの人に、あーだこーだ言われるんじゃなくて、その人が亡くなって何年経っていても振り返られるような、そんな、問題提起をして、その時代と戦ったような人と比較して、話をしてもらわないとね。

>マーティー教授の講義、次は見逃さないようにせねば。

今日(金)の夜だよね!
Commented by jean moulin at 2014-10-28 21:08 x
これ、見たよ。
マーティー教授は魅力的だし、kumaさんもおっしゃってるように、ケンブリッジの研究室で、MJがプラトンやサルトルと共に語られてるのは、とても感慨深かった・・。
ただ、私も内容的には、今のところピンとくるところがなくって。
実存主義がもともとあまり好きではないせいもあるのかもしれないけどね。
でも、MJが哲学の素材となるという、その現象をMJの哲学の一旦として捉えると、興味深いかな。
Yomodaliteさんのテキストを読み直しているうちに、何か発見できるかもしれないので、その時はまたコメントします!
Commented by yomodalite at 2014-10-28 22:48
>ケンブリッジの研究室で、MJがプラトンやサルトルと共に語られてるのは、とても感慨深かった・・

だよねぇ。。MJアカデミアは、色々な大学で始まっているけど、英国ケンブリッジ大学で、サルトルを中心にしたフランス哲学の教授がってところが、興味津々だったんだけど、1回目が面白かったから、MJの回も、そのタイトルでも大丈夫なんじゃないかなって思ってたんだけど。。

現代では、芸能人をネタに、毎日のように伝えられてるじゃない。劣化だの、スッピンだの、メイク術に、整形。。この回のタイトルは、そういった美醜に関する現代の病を想像させるんだけど、プラトンからサルトルまでの哲学における「美とは何か?」っていうことだったと思うんだよね。

一回目も、ベッカムを実存主義者として捉えてたんだけど、ベッカムを哲学的に考察する。というよりは、ベッカムという素材を使って、実存主義とはなにか?を、説明しようとしてて、MJの回もそうだったんだけど、

ただ、ベッカムの場合は、本人が哲学的な感じがしないんだけど、MJの場合は、MJ思想が感じられる分、MJ哲学を説明しているかって言えば、どのなのよ?って思う人も多いかもね。でも、ミケランジェロのことを考えてるときに、「ネオプラトン」とか、「プラトン主義」について、MJぽいって思ってたし、心理学を手軽に使ってる感じの「分析」とか、「解釈」とか言ってるのを読むと、「もう、みんな、プラトンからやり直せ!」って、よく頭に来てたこともあって、(自分にもブーメランで、「ハァ。。」ってなってたけど) マーティン先生が、プラトンから始めてくれてので、私は嬉しかったかも。(つづく)
Commented by yomodalite at 2014-10-29 10:08
(ここからのコメントは書き直しました)サルトルの話が出てから、「鏡」とか「容姿」の話になって、マイケルというとどうしても話はそうなるって部分もあるけど、夕陽を美しいと感じたり、赤ちゃんをかわいいと思う、なにを美しいと感じるかは、なにを神と感じるかってことだから、そーゆー意味でも「理想型」とマイケルの話はいいと思ったよ。

「理想型」っていうと、自分の理想って考える人が多いと思うけど、「GOD」と「神」の違いは「世界を創造した」ってことが重要で、プラトンの理想型っていうのは、GODクリエイションを考えることだから。

一方、サルトルの容姿へのコンプレックスの話は、神の理想型ではなく、現実存在のことではあるんだけど、マイケルにとっても、エンターティナーとしての「容姿」という問題があって、番組では、プラトンからサルトルへ移行する部分で、生徒から「自分の理想型」についての発言があるでしょ。

マーティン先生が、ここで「ハイパーノーミア」という聞き慣れない言葉を使ってるから、わかりにくいんだけど、生徒の発言内容や、マイケルが批判された整形という問題は、現代社会が抱える「アノミー」であって、マイケル自体は「ハイパーノーミア」だったってところも、グッジョブじゃない?

お手軽な心理学で、他人の心理を知ろうとしても、自分を客体化する訓練をしてないと、他人を分析したつもりでも、自分を他人に見ているだけになっちゃう。
Commented by yomodalite at 2014-10-29 10:09
芸能人は、みんな自己客体化を求められるものだけど、おそらく経験として、マイケル以上にその苦しさを味わった人はいない。それなのに、彼があれほど長くそれに耐えられたのは、サルトル以上に「地獄とは他人のこと」だって、わかってたからじゃないかな。マイケル自身ではなく、MJ周辺を取り巻いた話としてわかり易い表現だと思ったけど。


ただ、この回だけじゃなく、訳し方がちょっとなんじゃないかって部分があって、テキストにしてるときに、日本語足したくなったり、訳し方を変えたらって思った部分はあったよね。3回目の「FBI」の回なんか、これまで以上に、番組制作時間がなかったのか、さっぱりわからない日本語になってるところがいっぱいあったし、、

それとね、、私が選んだ写真が悪くて、この写真だけ「マーティー教授」って入ってるんだけど、マーティン教授だからね。
Commented by jean moulin at 2014-11-03 17:43 x
>MJ哲学を説明しているかって言えば、どのなのよ?
そうそう、そこ私もよく取り違えるんだけど、これは、MJ哲学を語っているのではなく、MJを素材として、マーティン先生(ンね。)自身の哲学を展開しているという事を踏まえて聴かないとね。
>プラトンから始めてくれて
うん、この辺りはとっても違和感なく聴いてた。
ギリシア哲学は、とってもMJと馴染むよね。
>「ハイパーノーミア」だったってところも、グッジョブ
学生さんも言ってたけど、この辺りの二元論的なとらえ方は、神話的な解釈より的確だったよね。

でも最終的にマーティン先生は、サルトルの容姿コンプレックスと、マイケルの造形的執着を引き合いに出して、「理想型→ハイパーアノミー」に話を展開したかったんじゃないかって思うのは、ひねくれてる?
基本的にサルトルの哲学は、の意識、自己の存在そのものに向かうものだと思うんだけど、マイケルには常に観衆がいる。
自分の存在を定義するのは、一義的に観衆だったというのは、家族に「何その髪型!?」と言われて始まった哲学とは、素材としても、違うと思うんだけどな。
でも、部分的にはおもしろい考察もあったし、学生さん達が、哲学の一素材として、客観的にMJを取り扱おうとしているのは、興味深かったな。
Commented by yomodalite at 2014-11-05 01:07
>MJを素材として、。。。踏まえて聴かないとね。

うん。。マーティン先生自身のっていうか、偉大な哲学者たちの思想を、現代におきかえて、生徒たちに、できる限り優しく教えてくれようとしているところが、嫌な気持ちにならなかったところかなぁ。哲学は役に立たない、無駄な学問だと言う人がいて、私自身もそんな風に思ってた時期もあるんだけど、

それは、ワケの分からない言葉を使って、頭イイぶりたいとか、自分が言いたいことに、不適切に利用しているアホなタイプがうじゃうじゃいるからで、本当に賢いひとは(MJのようにねw)、必ず、歴史から学んでいるんだよね。この教室にいる生徒も、それぞれ、自分の意見を主張するというよりは、この場に必要な考え方を提出している感じで、ブログ主を、汚い言葉で批判するか、必要以上に褒め称えるかの二極に分かれやすいネット社会と違って、ホッとするよね?(笑)

>サルトルの容姿コンプレックスと、、、ひねくれてる?

マーティン先生の意志はわかんないし、moulinさんの意見がひねくれてるとも思わないけど、、

マーティン先生は、MJのマンミラでの自己愛の否定や、偉人の利他主義に強い影響を受けていることがわかっているせいか、よく言われる整形を繰り返したとか、一般的な意味で、彼が自分の容姿に拘っていた。という意見に不思議なぐらい同調してないね。わたしは、2000年以降のMJについて、ずっと考えてるせいか、

「今、地球に理想型は存在しない。理想型は、生まれる前、あるいは、死後のものだ」っていう部分にドキッとしたなぁ。このあたりのことをMJも色々と考えてただろうなぁというのは、シュムリーとの会話でもよく感じることだから。。

シュムリーは「生きているときは理想型になろうとしたりするな。なれるはずがない」と考えていて、MJの若さへの拘りに(当然のごとく)諦めろって言ってるでしょ。でも、MJはハンサムな男性でありながら、怪物でもあって、子供でもある、っていうその3つを同時にもっていないとって思っていて「若さ」にこだわっているんじゃない。

ところで、、コメント欄に書き込むの、なんか難しくなってたでしょ?「改悪」という意見が続出みたいなの。そんな面倒にも関わらず、書き込んでくれてありがとね!
Commented by kei at 2018-05-25 00:03 x
連日連夜で失礼いたします(^_^;)
マイケルをもっと知りたい!と思ったときに、マイケルが考えていた世界がまさかこんなに深いとは思いもしませんでした。
読書をあまりしない、まして哲学など高校の倫理以来か?という状態で
読む日々活字と格闘。年を取ってなお回転の遅くなった頭と鈍感になっていた心をフル回転させてもなおマイケルを知りたい、理解したいという思いで寝不足と戦いつつ読ませていただきました。

とても興味のあるテーマなのにさっぱり理解できず自分にがっかりしてしまいましたが、
yomodaliteさんの
>彼の音楽を聴いていて、自分が救われているのは、まさにそうだと思いました。
これは強く強くそう思いました。
Commented by yomodalite at 2018-05-27 21:01
>連日連夜・・・

返信おそくなっちゃってスンマソン!
たくさん読んでくださっただけでなく、どの記事に注目されて、どう感じられた、ということをお知らせしてくださるのはとても嬉しいことなんですよね。

>とても興味のあるテーマなのにさっぱり・・・

哲学関係の話は、元のキリスト教的思考を理解しないといけないし、日本語の訳語もおかしいものが多いのですからね・・そこに慣れていないと言葉がしっくりと来ないんですよね。。このマーティン先生のように、実践的で日常の経験を理解するために役立つ学問だということを、熱心に教えてくれる先生が欲しかったですね。

>yomodaliteさんの・・まさにそうだと思いました。

私は冒頭でマーティン先生が、マイケルが子供に夢中だった理由について、完璧に理解していたことに感動しました。「完全に認識していたのに、同じパターンを繰り返した」ってことも。人種も、薬物にも触れずに、一番本質的な部分でわかっている点が、さすが英国の大学だなぁって。
Commented by kei at 2018-05-31 23:01 x
いえいえこちらこそ深夜にならないとパソコンに向かえない身なのでお気遣いなく!(笑)

哲学もキリスト教的思考が元とは知りませんでした。って何も知らないんですが(^_^;)そこに日本語ではあまり使わない表現なのでさっぱり・・なのですね。
でも、私ですら食いつきそうなテーマを扱って下さるのは本当にありがたい先生。

>わたしは冒頭で~
それをマイケルの著書の中の彼の言葉を使ってそれを解読するように説明してくださるのですから!

で、さすが英国のというのは米国と違ってってことですよね・・。
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by yomodalite | 2014-10-21 13:57 | MJ考察系 | Trackback | Comments(11)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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