2012年 10月 05日
寅さんとイエス (筑摩選書) /米田彰男 |
下記は「プロローグ」から(省略して引用しています)
女子大学で講義するようになって20年近くになるが、教室で「寅さんの『男はつらいよ』を観たことがある人」と尋ね、「はい」と手を上げる生徒がこの数年ほとんどいなくなった。常日頃思うことであるが、我々現代人は、果てしない功利性の追求から、
寅さんの「聖なる無用性」にもう一度帰りゆかねばならない。
その思いを込めて、寅さんと、そして世界の多くの人が神と呼ぶイエスの、風貌とユーモアについて何か語ってみよう。
寅さんに関しては、すでに多くの人が興味深い文章を書き記している。井上ひさし監修の『寅さん大全』都築政昭『寅さんの風景』吉村英夫『「男はつらいよ」の世界』など...
私の人生の歩みの中で、寅さんと共にいつも心に懸かっているのは、イエスという人物である。イエスについても、決して少なくはない人々がそれぞれの観点から文章をしたあtめている。日本語で読めるものに限っても、非常に高いレベルのイエスに関する書物に出会う。
田川建三『イエスという男』、A・ノーラン『キリスト教以前のイエス』や大貫隆『イエスという経験』等がその例である。山浦玄嗣の四福音書訳『ガリラヤのイェシュー』も興味深い。(中略)
寅さんを捉えるためには第一作から第48作全体の中で丸ごと捉えることが必要であり、その時、より一層味わい深いものになる。第一作のはち切れんばかりの若き寅さん、押さえても押さえきれないエネルギー、常識のはみ出しに顔を背ける人もあろうが、その人が第1作だけではなく第48作をも観たなら、あれっと思うことだろう。どちらも渥美清演じる寅さんである。
イエスについても同じことが言える。イエスを丸ごと捉えることが大事である。しかしその作業は寅さん以上に困難を極める。イエス自身は何一つ書き残していない。限りなき大物は文章を残さない。ソクラテス然り、孔子然り、イエス然りである。
(引用終了)
第一章「人間の色気」
「寅さんの場合として」では、
『男はつらいよ』を第1作から順に第48作まで観てゆくと、寅さんがだんだん弱ってゆく姿を目の当たりにすることになる。その大きなターニングポイントである、いしだあゆみ出演の第29作「寅次郎あじさいの恋」と、浅丘ルリ子(リリー)出演の第48作『寅次郎紅の花』が紹介され、「非接触、非破壊」を守り通す寅さんの、人間の気品、色気が語られる。
「イエスの場合として」では、
(a)「情欲をもって女を見る者は誰でも、すでに心の中で女を姦淫したことになる」(マタイ5章28節)
その途方もない要求について「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」の福音書の違いや、映画『ダ・ヴィンチ・コード』に登場したQ資料についてや、
また、イエスの言葉の真意に迫るために、イエスの時代のユダヤの社会における、一般的な女性観はいかなるものであったか、という問題から、「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」と共に、グノーシスという思想に基づく数多くの福音書が書かれたが、マルキオンという当時は異端とされた人物が、旧約聖書を廃止、ルカ福音書と、パウロの書簡のみを聖典として採用し、、その試みが正統派キリスト教の正典化に拍車をかけた。。というような聖書学に基づく内容なども。
(b)イエスをめぐる女性たち
『ダ・ヴィンチ・コード』の主役、マグダラのマリアについて、Q資料には、イエスに言及した資料は見つかっていないことや、ナグ・ハマディ文書、死海文書、ユダの福音書などが登場し、
著者は、寅さんのことよりも『ダ・ヴィンチ・コード』の記述の方が気になるようで、正直「いったい寅さんはどこに?」というような内容なんですが、
最初の方に「20世紀でもっとも進んでいる学問は原子物理学と聖書学であるといわれるほど発達し、、、聖書の内容は、いかなる学問的分析にも耐えられるものであり、どれほど深く学問のメスを入れても、びくともするものではない」という、尊敬する山本七平氏の『聖書の常識』からの言葉もあり、安心して読んでいると、
著者の主張は、イエスとマグダラのマリアの関係を語るにあたって資料としているものは、グノーシス思想に基づく福音書である以上、イエスをめぐる女性について論ずるためには信憑性を欠いたものとならざるを得ない。
など、ところどころ、カトリックの司祭らしい「力技」も感じられ、
著者が「小説」として軽んじている『ダ・ヴィンチ・コード』の底本である『レンヌ=ル=シャトーの謎』では、イエスとマグダラのマリアの関係について相反する内容が、もっともっと「聖書学」ぽく書かれていたなぁと、思ってしまう。
◎関連記事『レンヌ=ル=シャトーの謎』(p425~ほか)
そんなこともあって、この章は、イエスとマグダラのマリアの関係を否定する箇所に力が入り過ぎていて、寅さんという人間の気品や、色気については、わかるような気がするものの、
イエスの「色気」に関しては、かなり、わかりづらい。
また、
第二章「フーテン(風天)」について、
第三章「つらさ」について
第四章「ユーモア」について、でも、
今年になって、初めて『男はつらいよ』の第1作を観た、私のような「寅さんビギナー」にとって、本書は、寅さんの魅力について、具体的なドラマを紹介しつつ語られていて、続きを見るうえで参考になるのですが、
イエスに関して書かれている部分は「聖書ビギナー」にとって、分りやすいとは言えない内容で、
イエスには風天性があり、陽気で楽しい人物だと、著者のようなカトリックの司祭も認めておられるようですが、
その「つらさ」については、レヴィナス、ゴッホ、遠藤周作「沈黙」、シモーヌ・ヴェイユ、ヒトラー、親鸞「悪人正機説」、パスカル「パンセ」などから語るというありがちな内容で、
イエスのユーモアについては、さらに一段と、感じ取りにくい....
寅さんが描かれている部分と、イエスの表現の「差」が大きい点が、全部難解な本を読了するより、意外と疲れる上に、満足感も少ないかなぁ。。
◎[Amazon]寅さんとイエス
______________
女子大学で講義するようになって20年近くになるが、教室で「寅さんの『男はつらいよ』を観たことがある人」と尋ね、「はい」と手を上げる生徒がこの数年ほとんどいなくなった。常日頃思うことであるが、我々現代人は、果てしない功利性の追求から、
寅さんの「聖なる無用性」にもう一度帰りゆかねばならない。
その思いを込めて、寅さんと、そして世界の多くの人が神と呼ぶイエスの、風貌とユーモアについて何か語ってみよう。
寅さんに関しては、すでに多くの人が興味深い文章を書き記している。井上ひさし監修の『寅さん大全』都築政昭『寅さんの風景』吉村英夫『「男はつらいよ」の世界』など...
私の人生の歩みの中で、寅さんと共にいつも心に懸かっているのは、イエスという人物である。イエスについても、決して少なくはない人々がそれぞれの観点から文章をしたあtめている。日本語で読めるものに限っても、非常に高いレベルのイエスに関する書物に出会う。
田川建三『イエスという男』、A・ノーラン『キリスト教以前のイエス』や大貫隆『イエスという経験』等がその例である。山浦玄嗣の四福音書訳『ガリラヤのイェシュー』も興味深い。(中略)
寅さんを捉えるためには第一作から第48作全体の中で丸ごと捉えることが必要であり、その時、より一層味わい深いものになる。第一作のはち切れんばかりの若き寅さん、押さえても押さえきれないエネルギー、常識のはみ出しに顔を背ける人もあろうが、その人が第1作だけではなく第48作をも観たなら、あれっと思うことだろう。どちらも渥美清演じる寅さんである。
イエスについても同じことが言える。イエスを丸ごと捉えることが大事である。しかしその作業は寅さん以上に困難を極める。イエス自身は何一つ書き残していない。限りなき大物は文章を残さない。ソクラテス然り、孔子然り、イエス然りである。
(引用終了)
第一章「人間の色気」
「寅さんの場合として」では、
『男はつらいよ』を第1作から順に第48作まで観てゆくと、寅さんがだんだん弱ってゆく姿を目の当たりにすることになる。その大きなターニングポイントである、いしだあゆみ出演の第29作「寅次郎あじさいの恋」と、浅丘ルリ子(リリー)出演の第48作『寅次郎紅の花』が紹介され、「非接触、非破壊」を守り通す寅さんの、人間の気品、色気が語られる。
「イエスの場合として」では、
(a)「情欲をもって女を見る者は誰でも、すでに心の中で女を姦淫したことになる」(マタイ5章28節)
その途方もない要求について「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」の福音書の違いや、映画『ダ・ヴィンチ・コード』に登場したQ資料についてや、
また、イエスの言葉の真意に迫るために、イエスの時代のユダヤの社会における、一般的な女性観はいかなるものであったか、という問題から、「マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ」と共に、グノーシスという思想に基づく数多くの福音書が書かれたが、マルキオンという当時は異端とされた人物が、旧約聖書を廃止、ルカ福音書と、パウロの書簡のみを聖典として採用し、、その試みが正統派キリスト教の正典化に拍車をかけた。。というような聖書学に基づく内容なども。
(b)イエスをめぐる女性たち
『ダ・ヴィンチ・コード』の主役、マグダラのマリアについて、Q資料には、イエスに言及した資料は見つかっていないことや、ナグ・ハマディ文書、死海文書、ユダの福音書などが登場し、
著者は、寅さんのことよりも『ダ・ヴィンチ・コード』の記述の方が気になるようで、正直「いったい寅さんはどこに?」というような内容なんですが、
最初の方に「20世紀でもっとも進んでいる学問は原子物理学と聖書学であるといわれるほど発達し、、、聖書の内容は、いかなる学問的分析にも耐えられるものであり、どれほど深く学問のメスを入れても、びくともするものではない」という、尊敬する山本七平氏の『聖書の常識』からの言葉もあり、安心して読んでいると、
著者の主張は、イエスとマグダラのマリアの関係を語るにあたって資料としているものは、グノーシス思想に基づく福音書である以上、イエスをめぐる女性について論ずるためには信憑性を欠いたものとならざるを得ない。
など、ところどころ、カトリックの司祭らしい「力技」も感じられ、
著者が「小説」として軽んじている『ダ・ヴィンチ・コード』の底本である『レンヌ=ル=シャトーの謎』では、イエスとマグダラのマリアの関係について相反する内容が、もっともっと「聖書学」ぽく書かれていたなぁと、思ってしまう。
◎関連記事『レンヌ=ル=シャトーの謎』(p425~ほか)
そんなこともあって、この章は、イエスとマグダラのマリアの関係を否定する箇所に力が入り過ぎていて、寅さんという人間の気品や、色気については、わかるような気がするものの、
イエスの「色気」に関しては、かなり、わかりづらい。
また、
第二章「フーテン(風天)」について、
第三章「つらさ」について
第四章「ユーモア」について、でも、
今年になって、初めて『男はつらいよ』の第1作を観た、私のような「寅さんビギナー」にとって、本書は、寅さんの魅力について、具体的なドラマを紹介しつつ語られていて、続きを見るうえで参考になるのですが、
イエスに関して書かれている部分は「聖書ビギナー」にとって、分りやすいとは言えない内容で、
イエスには風天性があり、陽気で楽しい人物だと、著者のようなカトリックの司祭も認めておられるようですが、
その「つらさ」については、レヴィナス、ゴッホ、遠藤周作「沈黙」、シモーヌ・ヴェイユ、ヒトラー、親鸞「悪人正機説」、パスカル「パンセ」などから語るというありがちな内容で、
イエスのユーモアについては、さらに一段と、感じ取りにくい....
寅さんが描かれている部分と、イエスの表現の「差」が大きい点が、全部難解な本を読了するより、意外と疲れる上に、満足感も少ないかなぁ。。
◎[Amazon]寅さんとイエス
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[内容説明]イエスの実像については、マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネという四つの福音書が典拠とされてきた。さらに、二〇世紀後半になって発見された幾つかの資料は、イエスとその周辺について無視できない情報をもたらしている。その分析を通して見えてきたのは、イエスの風貌とユーモアは、たとえば寅さんの世界に類似しているという意外な発見だった。聖書学の成果に『男はつらいよ』の精緻な読み込みを重ね合わせ、現代が求めている聖なる無用性の根源に迫る。
[BOOKデータベース]真の幸福・人生とは何だろうか?功利性のみが支配する現代の中で、寅さんとイエスとを比較。聖書学の成果に『男はつらいよ』の精緻な読み込みを重ね合わせ、現代が求めている聖なる無用性の根源に迫る。筑摩書房 (2012/7/12)
by yomodalite
| 2012-10-05 08:23
| 宗教・哲学・思想
|
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