マイケルと宗教との関係(註釈2)

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☆(註釈1)の続き

MJとシュムリーの関係は、1999年から2001年頃まで続いていたと言われています。『The Michael Jackson Tapes』については、これまでマイケルがプライヴェートに関して赤裸々に告白しているところのみ、センセーショナルに伝えられていて残念なんですが、

でも、MJは、なぜシュムリーにこれほど自分のことを語ろうと思ったのでしょうか?

シュムリーは、これは隠し撮りしたものではなく、公開されることをMJも望んでいたと語っていますが、私もそれが嘘だとは思っていません。

また、仮にそうでなかったとしても、この頃のMJは、自分に「一切のプライヴァシーがない」ということを自覚しているだけでなく、他の誰にも不可能なレベルで克服していたと思っているので、シュムリーがこれを出版したことにも、会話の相手になってくれたことにも、感謝の気持ちをもっています。

ただし、

シュムリーが、自分が優れた宗教的指導者だから、彼の個人的なカウンセラーに選ばれ、また同じ理由で、彼の慈善事業の片腕にも選ばれたと思っていること、そして、その慈善事業が不調に終わり、蜜月期が去ったこと、また、MJが旅立った後は、周囲にいた多くの人々と同様「彼を救うことができなかった」と考えていることには、

少し異なる感想を抱いています。

私は、シュムリーを一般的なMJファンが考えているよりは人格者だと思いますし、大勢の人を導いてきた宗教的指導者だと思っていて、MJは、自分のことを告白するだけの価値があると思ったから、シュムリーにこれほど多くを語っているのだと思いますが、

なぜ、彼は「ユダヤ教のラビ」に、自分のことを語ろうと思ったのでしょうか?

☆ ☆ ☆

米国の一般的なキリスト教徒というように、一括りにすることは難しいのですが、新約聖書には、パリサイ派とか、サドカイ派とか、すごく批判されてますよね。私も詳しくはわかりませんが、要するに、それはユダヤ教の一派で、イエスがユダヤ人に殺されたと、イエスがユダヤ人であることも知らずに、激しい敵意をもっている人もいて・・・

一般的なクリスチャンのユダヤ人への反感は根深いもののようです。

ただ、一般的な米国人の中ではユダヤ教徒が占める割合は、キリスト教徒よりずっと少ないのですが、MJが尊敬していた、サミー・ディヴィス・Jr や、親友エリザベス・テーラーもユダヤ教に改宗していますし、ハリウッドや、セレブ社会といった、MJの周辺は、米国一般社会よりずっと多くのユダヤ教信者がいる世界だと思います。

こちらの冒頭で、シュムリーとMJは、「イエスの存在」について、質問し合っています。

MJは、イエスの実在を信じていて、自分はイエスと繋がっていると感じている。

シュムリーは、イエスを、信心深い道徳の教師で、素晴らしい人物だったと信じていますが、神が人々に使わしたというような意味での「救世主」だとは考えていない。(これは、シュムリーの個人的意見ではなく、現代ユダヤ教の一般的な考え)

2人は、イエスは神ではなく、ユダヤ教の教師だったという点では合意しているようです。

聖書はイエスが書いたわけではないということは、みなさんご存知ですよね。ですから「キリスト教」というものを創ったのは、イエスではなくて、パウロとペテロです。ユダヤ教にも、宗教の始祖というべき人はいなくて、モーセという預言者が神から預かった(と言われている)10の戒律が「モーセの十戒」と呼ばれるものです。

ちなみに、仏教もブッディズムと言われてますが、仏教の神髄とよく言われている「般若心経」を書いたのは、ナーガルジュナ(龍樹)で、シャーリープトラー(舎利子)が言ったことを記したものらしく、このお経にはブッダの名前すら出て来ません。

ただし、

ブッダとイエスが実在の人物だったということは、歴史的にも認められている。

聖書は、これまでの教会の教えに反旗を翻した男の人気に慌てた教会が、イエスを取り込むことで、教会の人気と権威を回復しようとしたものなので(私の意見)、口調も偉そうで、MJが言っているようにイエスが子供のような人にはあまり思えないんですが、

偉そうにしたいのは「教会」であって、イエスではないと、
MJは思っているんじゃないでしょうか。


実際のイエスは、女性にも、こどもにも、障害をもった人や、犯罪者にも慕われていて、人々の人気者だったと言われていて、そーゆー人は、大抵の場合、無邪気で、こどもっぽいところがあるし、ガンジーや、マンデラも笑顔が可愛いし、イエスの場合は、マリアという奥さんもいて、他にも、多くの女性に守られていたということも伝わっているので、セクシーな男という部分もあったはず….

MJは、ずっとそんな風に考えてイエスを見習ってきて、この頃には、強く実感を伴って、そんな風に感じていたのではないでしょうか。



「目には目を」というのも、誤解されて伝わっている部分もありますが、これは「1に対して1を返す」ということで、それ以上は復讐してはいけないという「律法」です。

それに対し、イエスが言ったとされているのは「1も返してはいけない」と言うことですよね。なぜなら、1+1+1+… と、永遠に続いてしまう可能性がありますし、人は主観的ですから、両者で等しい「1」を見つけるということは、すごくむつかしい。

後にやられた方は、絶対に先にやった方が、何倍も悪いと思うし、そもそも、復讐したいと思う相手は「民族」とか「集団」で、個人ではないことも多い。

だから、あなたが復讐しないことで、哀しみの連鎖を止めることができるし、また復讐を遂げることが哀しみを癒すとは限らないし、罪を犯してしまった人が悔い改めるには、見捨ててしまってはいけない。

イエスは、律法に縛られている世界で、幸せになれない人々のすべてに、優しく、楽しく諭していたはずだと

MJはそんな風に「山上の説教」を読んでいるんじゃないかなぁ。。

でも、、、

イエスが亡くなった後、彼のエッセンスが「聖書」という戒律に組み込まれてしまうと、やはり、それに縛られて、幸せや、自由を得られない人が増え、人々の不満が高まってくる。確かに、これらの説教を現実世界で守っていくのは、厳しいことですよね。

その決まりを守っていたら、現実に生きていけないと考える人のために、教会は、現実の世界で幸せになれない人のために、天国(天の国)を強調するようになります。

天国の存在は、古い聖書にはないものです。

宗教改革とか、新しい流派とか、新宗教も、常に、

◎教えを守ったことへの対価(神からのご褒美)
◎教えによって、自由が縛られたり、差別が生まれること(神からの苦難)

という2つを大きな柱にして、様々なバリエーションを創りだしていて、

・教えを守ったものは、天国に行くことができる。
・教えから外れたものは、天国に行けない。

信者を広く求める、多くの宗教が「天国」のような存在を必要とし、「来世」や「過去世」というようなシステムをも生み出し、これらは、亡くなった後だけでなく、生きている間の「魂の成長」を判断するシステムにも繋がっていきます。

それらは一見、人が成長するうえでとても良いシステムに見え、そのシステムに自分を適合させやすい人や、自分の魂の成績表が欲しいと思っている人に喜ばれるような、魂のステップアップを「売り」にする宗教も自己啓発もあとを絶ちません。

何が正しくて、何が間違っているのか?

この基準がない「宗教」はあまりないと思うのですが、それが「審判」とか、正義と悪魔という区分、カルマ(因果律)を生むことになります。

☆カルマと正義[1]『The Michael Jackson Tapes』に続く

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by yomodalite | 2012-08-13 09:27 | マイケルと神について | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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