2012年 01月 27日
青春 この狂気するもの/田原総一朗[1] |
水道橋博士は、著書『本業』で、田原氏のことを「日本で初めてのAV男優である」(詳細は『濃厚民族』)と紹介していますが、その本にも登場し、あのマイケル・ムーアにも多大な影響を与えたという、原一男氏は「この本を読んでショックを受けた」ことから、ドキュメンタリー作家となったと言う........
(ふぅーーー)読むしかないじゃん!
(ふぅーーー)読むしかないじゃん!
そんな感じで、ちょっぴり苦労して探し出した本書なんですが、、
田原総一朗氏のドキュメンタリー番組は『田原総一朗の遺言』(水道橋博士や、時代の証言者であるゲストと討論をした番組などシリーズ全7作)として、最近DVDで発売され、
◎『田原総一朗の遺言』(アマゾン)
わたしは、このDVDの元になった番組で、映像による「ドキュメント」を見たときは、昔のテレビは自由で過激だったんだなぁというのが第一印象で、フィルムに移っている「若者」にも「風俗」にも、その時代が描かれていると感じました。
ところが、本書から感じたのは、驚くほど現代的で、1969年という「カラーテレビ」が一般家庭に普及して間もないTVの黎明期にも関わらず、田原氏が、ここで語っていることは、現代の新書として発売になっていても特に違和感がない部分が多くて....(そんなことあると思います?)。
DVDにまとめられているのは「永田洋子と連合赤軍」「一線を越えたジャーナリスト達」「永山則夫と三上寛/田中角栄」「藤圭子/べ平連 小田実」....など、その時代の有名人や、歴史的事件に関わっているものなのですが、
本書は、田原氏が上記と同じく、東京12チャンネル(現・テレビ東京)で、製作していたドキュメンタリーで「青春」をテーマにした5つの番組の裏側を綴ったもので、登場するのは、すべて無名の若者たち。
「はじめに」テレビ・ドキュメンタリー・わたし(省略・要約して引用)
......ドキュメンタリーとは、ものごとをありのままに捉えるべきだという、もっとも根源的な誤りが、いまだに大きな顔をしてまかりとおっている。そのよい例が、ドキュメンタリー番組に登場する若者たちのしらじらしさだ。現実の世界では造反をくり返しているのに、ブラウン管の若者たちは、レディメードの古びた〈青春像〉を忠実になぞっているばかり。(中略)
ドキュメンタリーとは、実はすべて〈演出〉されたもの、つまり〈やらせ〉なのだ。〈やらせ〉のドキュメンタリーだけが、実像を捉えることができ〈やらせ〉でない〈ありのまま〉のドキュメンタリーなどは、ことごとくとんでもないまやかしか〈やらせ〉さえする価値のないドキュメンタリーだとわたしは考えている。
あなた自身を素材にしてカメラとマイクを向ける、あなたの行動にカメラとマイクがつきまとう。そのとき、あなたはどうする?
あなたは演技をするに違いない。
〈かくし撮り〉あるいは〈盗み撮り〉相手にまったく気づかれずに撮影する。それが、奇妙に現実感があるためにフィクションであるテレビドラマや映画にもずいぶん活用されている。しかし、〈かくし撮り〉でありのままのあなた自体を捉えられるかということになると、答えは「否」である。
いくら〈かくし撮り〉をしようが、取材すると宣言された以上、あなたの意識は金輪際カメラとマイクから離れることはないだろう。そして〈かくし撮り〉があなたにとって一番見せたくないあなたを捉えたとしても、あなたがそれを公開することを拒否するだろう。
つまり〈かくし撮り〉で捉えられるものは、わざわざ〈かくし撮り〉にしなくても捉えられるあなたなのであって、それにもかかわらずドキュメンタリーが〈かくし撮り〉を多用するのは、多くの場合、より現実感を強くする、つまりニセものを少しでもありのままらしく見せる〈だまし〉のテクニックに過ぎないのである。
それでは、カメラとマイクを武器にしたドキュメンタリーで人間の内部を捉えることは不可能なのか。可能だとわたしは考えている。わたしは、むしろ、カメラとマイクがあるからこそ、人間のポーズの内側を捉えられるのだと考えている。(引用終了)
(下記は、大幅な省略や、要約を交えて引用していて、あくまでの私が記憶を呼び起こすためのものです。田原氏の言わんとするところを押さえているとは言えないこと、また、その魅惑的な文章とも異なることを、ご了承くださいませ)
「青春との出会い」彼女の内なる狂気へ
1966年、S・Yという二十歳のバスガイドを取材した『S・Y 二十歳』いわば、わたしに悪魔的影響をおよぼした女。しかし、彼女は、むろん希代の悪女でも、英雄的な女性でもなかった。彼女を私に紹介してくれたのは、友人であるディレクターだが、わたしがそのディレクターに出した注文は「平凡で明朗な女性であること」。
ただし、彼女との初対面では「平凡も程度問題だ」と八つ当たりをはじめ、ひそかに、カメラマンが素材の変更を要求するのを期待したほどだった。
彼女は日の出前に出社し、運転手が来る前にバスの掃除を終え、食事をする前に、裸足でバスを水洗いする。そんな彼女だったが、他のガイドたちがおしゃベリをしているところへS・Yが入って来ると、なんとなくその場がしらけてしまう。
わたしは、彼女たちの城の中に闖入したためのぎこちなさだろうと思っていたが、それだけではなさそうだった。S・Yの周囲にある違和感の原因は一体何なのか?その謎を解明しようとするカメラマンの眼は次第に〈殺意〉を帯びて来た。
わたしは、思いきって、S・Yの部屋にガイドたちを集め「S・Yをどう思うか」という問いから取材を開始した。ガイドたちの顔色が変わり、ひとりはわたしを睨みつけて立とうとした。わたしが、黙って彼女たちが「おちる」のを眺めていると、S・Yは感情をむき出しにし「やめて!」と叫んだ。S・Yを誘い、2人だけで行ったビアガーデンで、
「本当は、あたし、田原さんたちの取材を利用しようとしていたのです」
「あたし、原爆ッ子なんです」
「原爆なら、隠すも隠さないも.....、あなたは犠牲者なんだし、
みんなは同情するはずで......」
「同情なんて言葉を聞くとぞっとします。こわいんです。その同情がわたしの家族をめちゃくちゃにしてしまったのですから..... 姉も、そのために死にました」
歩きながら、わたしは〈話して貰ってよかった〉というための格好のつく言葉を探そうとした。信頼、勇気、連帯、愛......。だが、ぴったりとくる言葉が思いつかないまま、黙って肩を並べているうちに、彼女の存在がしだいに重くなってきたような気がした。
彼女はわたしの手を握った。その手にほんの少し力を入れさえすれば.....。しかし、わたしは手に力を入れるかわりに、そっと彼女の掌から抜きさった。
一時間後、わたしはカメラマンに電話をして「広島に行くことになるかもしれない」とだけ伝えた。だが、次の日、あらためてS・Yの告白を取材しようとしたら、彼女は「もう一度話をしたい」と言い出したのである。
その夜、十時、赤羽駅東口の喫茶店〈T〉。
「わたしのいったことは、全部ウソです」
S・Yは、いきなり言った。胎内被爆も、姉の被爆者手帳もすべてウソだという。
S・Yは、しばらく唇を噛み締めて1冊のノートをテーブルの上に出した。かなり汚れたノートで『日記Ⅳ』と記してある。その夜『日記Ⅳ』を読んだ気持ちをひと言で言えば〈後悔〉だった。見なければいよいものを見てしまったという気持ちだった。その日記は、N観光へ務めてから、ずっと書き続けたものらしく、そのノートを見るかぎり、一日も欠けてはいない。
一番量の多いのは、7月20日の、ガイドをやめた友人との男性論議で5ページ。一番短いのは、8月6日〈黙祷〉の二字。ところが、8月26日、突然日付けだけで空白のページが現われる。つづいて27日も空白。そして28日。
「なぜ、あんなに空がきれいだったのだろう。部屋は静かだし、窓の外の道路を毎日同じ時間に通る豆腐屋さん。(中略)
事件が起きたのは、25日の夜10時過ぎ、荒川のKS橋の上......(後略)」
事件の翌日、N観光ではすでにひとつの噂がかたまりはじめていた.....
だが、こうして事情がわかったところで、わたしが感じたものは「困惑」だった。知りすぎてしまった。知りすぎてしまったために動きがとれなくなってしまった、というのがいつわりのない気持ちだった。もし、ノートを見せられていなかったら、彼女を〈原爆の犠牲者〉として描くこともできた。
2日後、8月6日、21回目の原爆記念日、わたしたちは、荒川の堤防でこの取材最後のシーンの撮影をした。夕日を背に堤防を歩くS・Y、その顔のアップ。風にひるがえる髪、その髪ににじむような太陽のハレーション。彼女の日記のナレーションバックになる映像....
それから、2週間後の放送後、視聴者から3本の電話があった。1本は、S・Yをわたしに紹介してくれたラジオのディレクターからだった。「なかなか面白かったよ」「それにしても、大テレビ局の大ディレクターが、小娘のPRの片棒をかつがされたみたいだな」とつけくわえた。
わたしに「もしや」という疑問が起こってきたのである。こう考えると、いくつも思い当たるふしがある。
わたしは、見つめることだけに終始しようと思って、素材を選んだのに、どうやら、見事に見つめることを放棄して、彼女のために旗をふってしまったようだ。S・Yにしてみれば、危険度の大きいバクチだったに違いない。そのバクチに彼女は賭けた。最後にはわたしにゆだねるという捨身の勝負にでた。ドライに計算した行為の中に、そんなひたむきな若さゆえの手応えを、はっきりと身体に感じたからである。
そのとしの11月。わたしは取材でN観光の近くまで行ったとき、S・Yを訪ねてみた.捨身のバクチに勝って、再び女の住居権を与えられ、文字どうり「平凡で明朗な」女性に戻っているはずの彼女に会って「してやられたよ」とひと言憎まれ口をたたいてやろうと思ったからである。
ところが、S・Yは3ヵ月前にN観光を辞めていた。わたしたちが取材した直後である。顔見知りのガイドに聞くと「あのテレビの放送も見ないで行ってしまったの」ときょとんとした表情で言った。
すべてが、一挙に謎に戻ってしまった。
S・Yの消息はそれっきりわからない。だが、近頃になって、わたしは、彼女もわたしたちの取材の中で何かを確かめようとしていたのではないかと思えてきた。
わたしたちが彼女を見つめ、彼女を追いつめることで〈何か〉を確かめようとしていたとき、彼女も見つめられること、追いつめられることで〈何か〉を確かめようとしていたのではないか。だからこそ、彼女は、わたしたちの執拗な追いつめ方にも耐えたのではないか。
彼女は、わたしたちにはわからない〈何か〉を確かめ得た。だからこそ、新しい生活にとびこんでいったのではないだろうか。しかし、わたしがこう考えるのは、べつに根拠があってのことではないし、わたしたちの取材が彼女に何を与えたのかもさっぱりわからないままだ。
☆青春 この狂気するもの/田原総一朗[2]につづく
「青春との出会い」彼女の内なる狂気へ
1966年、S・Yという二十歳のバスガイドを取材した『S・Y 二十歳』いわば、わたしに悪魔的影響をおよぼした女。しかし、彼女は、むろん希代の悪女でも、英雄的な女性でもなかった。彼女を私に紹介してくれたのは、友人であるディレクターだが、わたしがそのディレクターに出した注文は「平凡で明朗な女性であること」。
ただし、彼女との初対面では「平凡も程度問題だ」と八つ当たりをはじめ、ひそかに、カメラマンが素材の変更を要求するのを期待したほどだった。
彼女は日の出前に出社し、運転手が来る前にバスの掃除を終え、食事をする前に、裸足でバスを水洗いする。そんな彼女だったが、他のガイドたちがおしゃベリをしているところへS・Yが入って来ると、なんとなくその場がしらけてしまう。
わたしは、彼女たちの城の中に闖入したためのぎこちなさだろうと思っていたが、それだけではなさそうだった。S・Yの周囲にある違和感の原因は一体何なのか?その謎を解明しようとするカメラマンの眼は次第に〈殺意〉を帯びて来た。
わたしは、思いきって、S・Yの部屋にガイドたちを集め「S・Yをどう思うか」という問いから取材を開始した。ガイドたちの顔色が変わり、ひとりはわたしを睨みつけて立とうとした。わたしが、黙って彼女たちが「おちる」のを眺めていると、S・Yは感情をむき出しにし「やめて!」と叫んだ。S・Yを誘い、2人だけで行ったビアガーデンで、
「本当は、あたし、田原さんたちの取材を利用しようとしていたのです」
「あたし、原爆ッ子なんです」
「原爆なら、隠すも隠さないも.....、あなたは犠牲者なんだし、
みんなは同情するはずで......」
「同情なんて言葉を聞くとぞっとします。こわいんです。その同情がわたしの家族をめちゃくちゃにしてしまったのですから..... 姉も、そのために死にました」
歩きながら、わたしは〈話して貰ってよかった〉というための格好のつく言葉を探そうとした。信頼、勇気、連帯、愛......。だが、ぴったりとくる言葉が思いつかないまま、黙って肩を並べているうちに、彼女の存在がしだいに重くなってきたような気がした。
彼女はわたしの手を握った。その手にほんの少し力を入れさえすれば.....。しかし、わたしは手に力を入れるかわりに、そっと彼女の掌から抜きさった。
一時間後、わたしはカメラマンに電話をして「広島に行くことになるかもしれない」とだけ伝えた。だが、次の日、あらためてS・Yの告白を取材しようとしたら、彼女は「もう一度話をしたい」と言い出したのである。
その夜、十時、赤羽駅東口の喫茶店〈T〉。
「わたしのいったことは、全部ウソです」
S・Yは、いきなり言った。胎内被爆も、姉の被爆者手帳もすべてウソだという。
S・Yは、しばらく唇を噛み締めて1冊のノートをテーブルの上に出した。かなり汚れたノートで『日記Ⅳ』と記してある。その夜『日記Ⅳ』を読んだ気持ちをひと言で言えば〈後悔〉だった。見なければいよいものを見てしまったという気持ちだった。その日記は、N観光へ務めてから、ずっと書き続けたものらしく、そのノートを見るかぎり、一日も欠けてはいない。
一番量の多いのは、7月20日の、ガイドをやめた友人との男性論議で5ページ。一番短いのは、8月6日〈黙祷〉の二字。ところが、8月26日、突然日付けだけで空白のページが現われる。つづいて27日も空白。そして28日。
「なぜ、あんなに空がきれいだったのだろう。部屋は静かだし、窓の外の道路を毎日同じ時間に通る豆腐屋さん。(中略)
事件が起きたのは、25日の夜10時過ぎ、荒川のKS橋の上......(後略)」
事件の翌日、N観光ではすでにひとつの噂がかたまりはじめていた.....
だが、こうして事情がわかったところで、わたしが感じたものは「困惑」だった。知りすぎてしまった。知りすぎてしまったために動きがとれなくなってしまった、というのがいつわりのない気持ちだった。もし、ノートを見せられていなかったら、彼女を〈原爆の犠牲者〉として描くこともできた。
2日後、8月6日、21回目の原爆記念日、わたしたちは、荒川の堤防でこの取材最後のシーンの撮影をした。夕日を背に堤防を歩くS・Y、その顔のアップ。風にひるがえる髪、その髪ににじむような太陽のハレーション。彼女の日記のナレーションバックになる映像....
それから、2週間後の放送後、視聴者から3本の電話があった。1本は、S・Yをわたしに紹介してくれたラジオのディレクターからだった。「なかなか面白かったよ」「それにしても、大テレビ局の大ディレクターが、小娘のPRの片棒をかつがされたみたいだな」とつけくわえた。
わたしに「もしや」という疑問が起こってきたのである。こう考えると、いくつも思い当たるふしがある。
わたしは、見つめることだけに終始しようと思って、素材を選んだのに、どうやら、見事に見つめることを放棄して、彼女のために旗をふってしまったようだ。S・Yにしてみれば、危険度の大きいバクチだったに違いない。そのバクチに彼女は賭けた。最後にはわたしにゆだねるという捨身の勝負にでた。ドライに計算した行為の中に、そんなひたむきな若さゆえの手応えを、はっきりと身体に感じたからである。
そのとしの11月。わたしは取材でN観光の近くまで行ったとき、S・Yを訪ねてみた.捨身のバクチに勝って、再び女の住居権を与えられ、文字どうり「平凡で明朗な」女性に戻っているはずの彼女に会って「してやられたよ」とひと言憎まれ口をたたいてやろうと思ったからである。
ところが、S・Yは3ヵ月前にN観光を辞めていた。わたしたちが取材した直後である。顔見知りのガイドに聞くと「あのテレビの放送も見ないで行ってしまったの」ときょとんとした表情で言った。
すべてが、一挙に謎に戻ってしまった。
S・Yの消息はそれっきりわからない。だが、近頃になって、わたしは、彼女もわたしたちの取材の中で何かを確かめようとしていたのではないかと思えてきた。
わたしたちが彼女を見つめ、彼女を追いつめることで〈何か〉を確かめようとしていたとき、彼女も見つめられること、追いつめられることで〈何か〉を確かめようとしていたのではないか。だからこそ、彼女は、わたしたちの執拗な追いつめ方にも耐えたのではないか。
彼女は、わたしたちにはわからない〈何か〉を確かめ得た。だからこそ、新しい生活にとびこんでいったのではないだろうか。しかし、わたしがこう考えるのは、べつに根拠があってのことではないし、わたしたちの取材が彼女に何を与えたのかもさっぱりわからないままだ。
☆青春 この狂気するもの/田原総一朗[2]につづく
by yomodalite
| 2012-01-27 15:05
| 報道・ノンフィクション
|
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