2009年 03月 28日
橋本治と内田樹/橋本治、内田樹 |
2004年の冬の対談である「Ⅰ」では、内田樹は橋本治のファンであると名乗り、二人の母校である70年前後の東大のことから話は始まる。
「Ⅰ」で内田氏が引出した一番のキーワードは、橋本治は「パブリックの人」であるということ。パブリックであろうとする橋本治に評論家が手を出せない状況や、文壇でのポジションがないことなど。。
また職人としての自分をメルロ・ポンティは知らないけど、カルロ・ポンティなら知ってる。と橋本治。内田氏は自分が対談の相手として人気なのは、聞き役が上手いからというものの、インテリとしての役割不足は否めない。
2005年の春の対談である「II」では、作家になってから批評なしでここまできたという橋本治の強固な自分語りの聞き役に徹し過ぎた感があった「Ⅰ」に比べると、「Ⅱ」は内田氏も自分を語ることで、橋本治との違いを強調したり、変調が見られ、内容もますます深くなっていく。
ただ、いずれにしても、リードしているのは橋本氏で、内田樹にしてこんなものかなぁという感じ。
あちこちにキラキラと光る砂金が見えるのだけど、なかなか救いとるのは難しく、またキラキラしているのは、すべて橋本治印がついている、というような本です。
内田氏は「まえがき」で『桃尻娘』以来のファンである橋本氏との共著で本を出すことの喜びを語っているのだけど、本著の出来上がりを見てきっと悔しい思いをしているにちがいないので、きっといつか『橋本治論』を書いてくれることを期待してます。それにしても、どうして対談後、出版まで3年もかかったんでしょう。
「大物じゃない限り、主観を出しちゃいけない」
大勢がブログをやっているということについては、
「参考にするんじゃなくて、とにかく参加したい」。
「私は批評はいらないんです。ちゃんと紹介してくれれば」
など、本当にためになった本は、できるだけ感想でなく紹介することができたらと、私も思ってはいるのですけど橋本治氏の本を紹介するのは、むずかしいなぁ。特にこの本は、そういう感じ。
とりあえず、『デヴィッド100コラム』『ロバート本』『アストロモモンガ』はいち早くチェックしていたのに、『嘘つき映画館シネマほらセット』を読み忘れていたことに気づいたので、早く読みたいと思います。
【目 次】
Ⅰ
まえがき 内田樹
#1 くだらないことに命懸けるところあるんですよね。
#2 うっかりするとね、「美しい」の上に 「とても幸福だ」があるんですよ。それはあえてやってる。
#3 メルロ・ポンティは知らないけど、カルロ・ポンティなら知ってる。
#4 議論とか論争がわかんないんですよ。闘犬や闘牛をはたで見てるようなもんじゃないかっていう……。
II
#5 「本を読むときに眼鏡をかけると、なんかインテリになったみたいな気がして」「先生、それ中学生ですよ(笑)」
#6 「あっ、君の中にすばらしいバカがあるね」と言って、ピンとくる人ってどれだけいる?
#7 人間の話は全部講談だから、講談が扱ってないことに関して、日本人は何も知らないんですよ。
#8 光源氏がセクハラ親父になって孤立していくあたりが、すごく哀しくてね……。
#9 竹垣の向こうに人が住んでるから、秋になると秋刀魚をくれるんですよ。
#10 ちゃんとした紹介が、最大の批評だと思うんです。
#11 アメリカの不幸は土地の神様がいないこと。ジャパニーズ・ホラーで「祟りなす神」まで輸入している。
あとがき 橋本治
____________
【内容紹介】いま自分が子どもや高校生だったら、つらすぎる/橋本さんは「パブリックの人」/期間限定で「民主主義」が輝いていた/ヤなやつは小説の主人公にならない/自分がわからない(内田)×他人がわからない(橋本)/お洒落とは自分を消すこと/自分の中にすばらしい“バカ”がある/禁煙ファシズム/光源氏がセクハラ親父になって孤立していくあたりが、すごく哀しくてね…/人間の話は全部講談だから、講談が扱ってないことに関して、日本人は何も知らないんですよ/「私の最大の破壊は建設である」/距離がないと関係は深まらない/三島由紀夫の描写はなぜすごいか/ちゃんとした紹介が、最大の批評/アメリカの不幸は「土地の神様」がいないこと(ほか)
話題の対談集、ついに刊行!文学歴史芸能に、教育問題、身体論。はたまた米中の行方まで。抱腹絶倒、痛快無比。当代きっての柔軟な知性が語りつくす、世界と日本の現在過去未来。不毛で窮屈な論争をほぐして、「よきもの」に変えるおじさんの智慧がここに凝縮。読むと希望が湧いてきます。 筑摩書房 (2008/11/27)
「Ⅰ」で内田氏が引出した一番のキーワードは、橋本治は「パブリックの人」であるということ。パブリックであろうとする橋本治に評論家が手を出せない状況や、文壇でのポジションがないことなど。。
また職人としての自分をメルロ・ポンティは知らないけど、カルロ・ポンティなら知ってる。と橋本治。内田氏は自分が対談の相手として人気なのは、聞き役が上手いからというものの、インテリとしての役割不足は否めない。
2005年の春の対談である「II」では、作家になってから批評なしでここまできたという橋本治の強固な自分語りの聞き役に徹し過ぎた感があった「Ⅰ」に比べると、「Ⅱ」は内田氏も自分を語ることで、橋本治との違いを強調したり、変調が見られ、内容もますます深くなっていく。
ただ、いずれにしても、リードしているのは橋本氏で、内田樹にしてこんなものかなぁという感じ。
あちこちにキラキラと光る砂金が見えるのだけど、なかなか救いとるのは難しく、またキラキラしているのは、すべて橋本治印がついている、というような本です。
内田氏は「まえがき」で『桃尻娘』以来のファンである橋本氏との共著で本を出すことの喜びを語っているのだけど、本著の出来上がりを見てきっと悔しい思いをしているにちがいないので、きっといつか『橋本治論』を書いてくれることを期待してます。それにしても、どうして対談後、出版まで3年もかかったんでしょう。
「大物じゃない限り、主観を出しちゃいけない」
大勢がブログをやっているということについては、
「参考にするんじゃなくて、とにかく参加したい」。
「私は批評はいらないんです。ちゃんと紹介してくれれば」
など、本当にためになった本は、できるだけ感想でなく紹介することができたらと、私も思ってはいるのですけど橋本治氏の本を紹介するのは、むずかしいなぁ。特にこの本は、そういう感じ。
とりあえず、『デヴィッド100コラム』『ロバート本』『アストロモモンガ』はいち早くチェックしていたのに、『嘘つき映画館シネマほらセット』を読み忘れていたことに気づいたので、早く読みたいと思います。
【目 次】
Ⅰ
まえがき 内田樹
#1 くだらないことに命懸けるところあるんですよね。
#2 うっかりするとね、「美しい」の上に 「とても幸福だ」があるんですよ。それはあえてやってる。
#3 メルロ・ポンティは知らないけど、カルロ・ポンティなら知ってる。
#4 議論とか論争がわかんないんですよ。闘犬や闘牛をはたで見てるようなもんじゃないかっていう……。
II
#5 「本を読むときに眼鏡をかけると、なんかインテリになったみたいな気がして」「先生、それ中学生ですよ(笑)」
#6 「あっ、君の中にすばらしいバカがあるね」と言って、ピンとくる人ってどれだけいる?
#7 人間の話は全部講談だから、講談が扱ってないことに関して、日本人は何も知らないんですよ。
#8 光源氏がセクハラ親父になって孤立していくあたりが、すごく哀しくてね……。
#9 竹垣の向こうに人が住んでるから、秋になると秋刀魚をくれるんですよ。
#10 ちゃんとした紹介が、最大の批評だと思うんです。
#11 アメリカの不幸は土地の神様がいないこと。ジャパニーズ・ホラーで「祟りなす神」まで輸入している。
あとがき 橋本治
____________
【内容紹介】いま自分が子どもや高校生だったら、つらすぎる/橋本さんは「パブリックの人」/期間限定で「民主主義」が輝いていた/ヤなやつは小説の主人公にならない/自分がわからない(内田)×他人がわからない(橋本)/お洒落とは自分を消すこと/自分の中にすばらしい“バカ”がある/禁煙ファシズム/光源氏がセクハラ親父になって孤立していくあたりが、すごく哀しくてね…/人間の話は全部講談だから、講談が扱ってないことに関して、日本人は何も知らないんですよ/「私の最大の破壊は建設である」/距離がないと関係は深まらない/三島由紀夫の描写はなぜすごいか/ちゃんとした紹介が、最大の批評/アメリカの不幸は「土地の神様」がいないこと(ほか)
話題の対談集、ついに刊行!文学歴史芸能に、教育問題、身体論。はたまた米中の行方まで。抱腹絶倒、痛快無比。当代きっての柔軟な知性が語りつくす、世界と日本の現在過去未来。不毛で窮屈な論争をほぐして、「よきもの」に変えるおじさんの智慧がここに凝縮。読むと希望が湧いてきます。 筑摩書房 (2008/11/27)
by yomodalite
| 2009-03-28 00:07
| 文学
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