タグ:Thriller ( 17 ) タグの人気記事

f0134963_19254966.jpg


今年初めての読書メモ。昨年は、読書本について、内容が良くてもそうでなくても書けないことが多くて・・。そんな積み残した分から、やっぱりマイケル関連書籍については何冊か記録しておこうと思います。

2015年に放送された『アナザーストーリーズ 運命の分岐点「マイケル・ジャクソン降臨」』をご覧になった方も多いと思いますが、本書はその書籍版。

インディアナ州ゲイリーで生まれ、ジャクソン5として、モータウンと契約するまでのPart 1。モータウンを離れ、ジャクソンズと改名、映画『ウィズ』に出演するなど、ソロアーティストとしての階段を上り始めるPart 2のあと、成功の分岐点となったムーンウォーク誕生の舞台裏に迫った番組内容を文章化したPart 3、そして、Part 4ではかつてないほどの栄光とスキャンダルに苦しめられ、THIS IS ITで復活を遂げるまでの軌跡が綴られているのですが、

様々な憶測が飛び交った死の原因、騒々しい報道が注目されただけの裁判も終わって落ち着いた頃(2016年9月発売)、厚み12ミリほどのコンパクトサイズにまとめられた物語は、歴史に刻まれたあの栄光の舞台裏(ステージでムーンウォークを披露するまでにかけた長い時間だけでなく、テレビ放送時は自ら編集に立ち会い、カメラワークまで指示した・・)が鮮やかに描写されているせいか、ビギナーファンはもちろん、マイケルに詳しいファンにとっても読み応えがあると思いました。

番組には納められなかったPart 4では、性的虐待疑惑のあと、オックスフォードスピーチが紹介されているのですが、「寝る前に子供に本を読み聞かせることの重要性」や、「自分が愛されていなくても親を許すように、呼びかけたこと」など、

本が読める人が少なく戦うことが推奨され、許すことを重要視しない文化の問題点を、子供と親の両方の立場から訴えた部分がピックアップされ、音楽活動を休止していた時期のことも陰謀のせいにするのではなく、子育てを重要視していたことも示唆し、生前のマイケルが贈ったという「クイーン・オブ・マイ・マート」の文字を娘のパリスがタトゥーにしたことなども記されています。

テレビ番組のナレーションのようにスムーズな読み物でありながら、マイケル自身が、「マイケル・ジャクソン」を創り出したという凄みを、これまで以上に表現されているように感じられ、2017年の時点では、もっとも「教科書」に相応しいマイケル本かもしれません。

下記は「はじめに」から省略して引用
成功者には、実は多くの共通項がある。一番目の条件は言わずと知れた「才能」である。しかし才能があってもそれだけで人は花開くとは限らない。その才能は発見されなければならない。それが2番目の条件、場所だ。多くの芸術家を生んだパリのカフェ、手塚治虫を始め錚々たる漫画家たちが住んだトキワ荘、ジョブズやゲイツがしのぎを削ったシリコンバレーなど、その時代を切り開く “才能” が集まる場所があり、そこから時代を揺るがすジャイアントが生まれる。
その意味において、ジャクソン5として幼い頃からモータウンの空気を浴びたマイケルは、まさに “正しい場所” を見つけたといえる。しかし、人が何かを極めるには、もうひとつ不可欠な条件がある。それは “野心” だ。
番組では、あの2秒間にこそマイケル誕生の秘密があると看破、その豪腕で企画として成立させた。見えてきたのは、マイケルの創作の隅々にまで発揮されたすさまじいまでのこだわり、そして天才ゆえの孤独だった。
謎のベールに包まれたキング・オブ・ポップ、マイケル・ジャクソンその偉大な足跡を知ることで、彼の “野心” に触れて欲しい。きっとその想いの深さこそが、彼を世界の頂点に押し上げたのだから。

[PR]
by yomodalite | 2017-01-05 19:30 | ☆マイケルジャクソン書籍 | Trackback | Comments(0)

聖誕祭2016「Thriller」

f0134963_17174639.jpg





f0134963_00471458.jpg




f0134963_08483164.jpg





f0134963_00473005.jpg




f0134963_15441489.jpg




f0134963_00480739.jpg




f0134963_00482734.jpg




f0134963_00484058.jpg




f0134963_00485841.jpg




f0134963_00494141.jpeg




f0134963_00502132.jpg




f0134963_00504102.jpg




f0134963_00505645.jpg





f0134963_00511219.jpg




f0134963_00512777.jpg




f0134963_00514571.jpg




f0134963_00520281.jpg




f0134963_00522087.jpg




f0134963_00523448.jpg




f0134963_00525193.jpg




f0134963_00530867.jpg




f0134963_00532110.jpg




f0134963_00533896.jpg




f0134963_00535544.jpg




f0134963_00541274.jpg




f0134963_21051307.jpg





f0134963_00544250.jpg




f0134963_00550098.jpg




f0134963_00551517.jpeg




f0134963_00554096.jpg




f0134963_00555572.jpg




f0134963_00562050.jpg




f0134963_00570467.jpg




f0134963_00574508.jpg




f0134963_00580746.jpg




f0134963_00583465.jpg




f0134963_00584775.jpg




f0134963_00594527.jpg




f0134963_01000079.jpg




f0134963_01001430.jpg




f0134963_01002740.jpg




f0134963_01004129.jpg




f0134963_01005803.jpg




f0134963_20132969.jpg





f0134963_01011573.jpg










「Bad期」へ・・・






[PR]
by yomodalite | 2016-08-18 06:00 | ☆MJ Birthday | Trackback | Comments(4)

聖誕祭2015「Thriller期」②

こちらにあった記事は下記に移動しました。



[PR]
by yomodalite | 2015-08-17 06:00 | ☆MJ Birthday | Trackback | Comments(0)

聖誕祭2015「Thriller期」①

こちらにあった内容は下記に移動しました。


[PR]
by yomodalite | 2015-08-16 18:00 | ☆MJ Birthday | Trackback | Comments(0)
f0134963_22281781.jpg


スティーヴ・バロンが、自身の仕事を振りかえった本「Egg n Chips & Billie Jean」を出版。そのPRもあってか、「The Telegraph」のインタヴューに応えていて、“ビリー・ジーン”の撮影についての話が興味深かったので、訳してみました。


私は、MJはアルバムリリース段階から、「スリラー」で画期的なビデオを創るために、通常はありえない7番目のシングルまでを計画し、周到な計算のうえに、順番にリリースしていった。という自説の一端が表れている話だと思いながら読んだのですが、そう思うのは私だけかな?w


source : http://www.telegraph.co.uk/



そのとき、カメラは湯気で曇った --- 私が『ビリージーン』のビデオを創ったとき


By Rupert Hawksley

12:00PM GMT 11 Dec 2014


スティーヴ・バロン(プロデューサー兼ディレクター)はこれまでに制作されたアイコンともいえるいくつかの音楽ビデオに関わりました。彼が80年代に仕事をしたアーティストたちは印象的です。アハ、デビッド・ボウイ、フリートウッド・マック、ヒューマン・リーグ、マドンナ。しかし、そのリストのトップは、マイケル・ジャクソンでしょう。ジャクソンの1982年のヒット曲「ビリー・ジーン」のビデオがどのように製作されたかという裏話について、バロンが語ります。





◎THE OFFER

1982年の段階で、私は15から20本の音楽ビデオを創っていて、その中には当時イギリスでNo1だったヒューマン・リーグの『Don’t You Want Me』のビデオもありました。その頃はまだみんながマイケルのことを話しているというわけじゃなかった。『スリラー』の発表されたのは2、3ヶ月後でしたからね。マイケルからの電話をもらった時は、確かに、魔法のようなものを感じましたが、私はヒューマン・リーグの仕事のほうに熱中していましたし、当時、妻は最初のこどもを妊娠していて、最初、私は「やってる余裕はない」と思ってました。どうしてもやらなきゃいけない仕事だとは感じなかったんです。私にやるべきだと説得してくれたのは、妻でした。


◎THE BRIEF

マイケルのマネージャーから、マイケルは、ビデオを不思議な感じにしたくて、ヒューマンリーグの『Don’t You Want Me』の映画的なところや、全体の雰囲気が気に入っていると聞きました。マイケルは、ストーリーのある音楽ビデオではなく、むしろ短編映画のようにしたいと思っていたのです。






◎THE BUDGET

5万ドル。それは、これまでに私に頼まれた仕事の2倍の予算でした。でも、『Beat It』が5週間後にリリースされたとき、その予算は30万ドルになり、そして、彼らが『Thriller』をリリースしたときは、それは200万ドルになりました。3ヵ月の間に、『Billie Jean』の予算は、些細なものになったんです。


◎THE INSPIRATION

私は、ジョーン・アーマトレイディングのビデオのためにあったアイデアを、『Billie Jean』のために使いました。ミダス的というか、マイケルが行くところの、すべてが輝いて、黄金に変わるというようなプランですね。私はファックスでそのコンセプトを書きとめて、マイケルにそのページをファックスし、内容の半分を伝えました。マイケル側は、「彼はすごく気に入っている。彼はピーター・パンのようなものを望んでいる」と。それで「よし、やってもらおう。すぐにとりかかって欲しい、君のアイデアが気に入ったよ」ってことになったんです。


◎THE FILM

私たちは16mmのフィルムを使いました。35mmを使わなかったのは、ちょうど、『Don’t You Want Me』を35mmで撮っているときで、十分な予算がなかったからです


◎MEETING MICHAEL

マイケルは、とても優しく、すごく静かで、柔和な感じでしたが、ビデオの計画については、本当に詳細に知りたがって、結局、彼は私よりもわかっていたいようでした。


◎BEFORE THE SHOOT

ビデオの絵コンテを書くとてもいい友人がいて、私はマイケルと座って、彼にその絵コンテを見せ、コーラス部分の2つの空白だった画面には、彼のマネージャーが、マイケルがいくらかダンスをしたがるかもしれないと言って、彼は、マイケルが鏡の前で練習していたことを説明しました。

マイケルと話したのは、彼の後をつける私立探偵のアイデアについてです。それは、大まかに言って、彼が私に話したことに基づいていて、この曲の基本的コンセプトですね。マイケルは以前、何か私立探偵についての記事を新聞で読んでいたんです。


f0134963_23024944.jpg

◎MICHAEL'S MOMENT OF GENIUS

私たちは、彼と一緒にシーンごとにセットを確認していって、カメラ店のシーンは、彼のエネルギーが引金になって、すべてのカメラが動きだすというシーンだったんですが、マイケルはそこでアイデアがあると言ったんです。

「通りにもう一軒、ウィンドウに、マネキンが置いてあるテーラーなんてどうかな?僕がカメラ店を通り過ぎる前か後で、マネキン達が生き返って、彼らはウィンドウから、僕の後ろに飛び出る。それから、彼らが、僕と踊ったりするなんてどう?」私はそれを完璧に気に入りました。素晴らしいアイデアで、ここまでのコンセプトに沿っているだけでなく、物語を強化する、まさに天才的なアイデアでした。

その後のミーティングで、私はプロデューサーに、「マイケルが素晴らしいアイデアを出しました。私たちが進めている現状の撮影セットを変える必要があります。私たちはマネキン何体かと、ダンサーを新しく入れて、リハーサルをする必要があり、振付師や、衣装デザイナーも雇わなくてはなりません。これは、最初のダンスのあとにあるので、撮影には、あと二時間ほど必要です」と言いました。

プロデューサーは、その制作費は5千ドル以上かかると言い、マイケルのレコード会社であるCBSは納得せず、彼らは、「我々はこれ以上は払えない。以前言ったように、あなたには5万ドル払う。それでやってもらう」



f0134963_23040189.gif


◎A LUCKY BREAK

彼の出したアイディアをやるには予算がない、と誰かがマイケルに言わなければいけませんでした。私は半ば、彼が「その代金は僕が払います」と言ってくれると思っていましたが、彼はそうしなかった。金曜の夜、私が寝ているときに電話があって、私は一瞬「ここはどこ?」状態だったんですが、それは、マイケルからでした。彼が自分で電話するようには思えなかったので、妙な感じでしたね。

すると、彼は「ねぇ、スティーブ、明日の撮影だけど、ダンスはやらないことにしようと思う」と。それなら、「私も打ち明けるのはやめよう。彼がやめたんだ。彼が自分でやりたくないと言った以上、予算について説明する意味はないだろう」と。

どうして、彼がやめたのかについて、私の想像なんですが、彼は、そのとき『Beat It』について考えていて、『Thriller』のことも考えていたからだと思います。ただ、あの素晴らしいアイデアをやらなかったのは残念でした。すごく撮りたかったのに撮れなかったシーンですね。あれがあれば、このビデオはもっと良くなったと思っています。


◎THE DAY OF THE SHOOT

撮影セットの中で私は落ち着いていました。彼が踊り始めるまでは、いつも通りの仕事だったのです。



f0134963_22293647.jpg



◎THE DANCE

その前の日、私が聞かされたのは、敷石のすべてが明るくなるわけではなく、マイケルは歩きたいところすべてを歩けるわけではないということです。11枚は明るくできるということで、歩行のすべてのパターンを朝までに決めなければなりませんでした。私は、「すみません、マイケル、この敷石が明るくなって、それからここの2つ、その次はここです」と言わなくてはならなかった。

リハーサルも何も見ていなかったので、マイケルがどうするつもりだったのかは推測するしかありませんでしたが、彼は色々な動きを練習していたんだと思います。ただ、それらをどのようにつないでまとめられたのかは、神のみぞ知るといったところでしょうか。

マイケルは、すべてをとても慎重に観察していて、私たちは徹底的に話し合った。それから、私が「マイケル、少しリハーサルしてみよう」と言うと、彼は、「いや、撮影にとりかかろう」と言ったんです。

コーラス部分が近づくと、彼の足の動きは少し大きくなり、そして、コーラスが始まると、彼はサッとダンスを始めました。私がそれまで見たことがないようなダンスです。それはまさに本能的で、驚異的で、彼はその場のすべてを支配し、私たちが今見ているものを作り上げた。彼が放っていたエネルギーは、私に飛び火し、私が熱くなったので、カメラは文字通り湯気で曇りました。私が興奮したせいで、覗いていたレンズが熱くなったからです。湯気で曇ったレンズのせいで、彼は霧の中に消えてしまいそうでした。そんなこともあって、それはとにかくシュールな瞬間でしたね。



f0134963_23052235.jpg

◎THE EDIT

私はコヴェントガーデンのロングエーカーにある、編集スタジオでマイケルに会いました。徹夜で仕事をしていたのを覚えています。早く仕上げなければなりませんでしたからね。いつものことですが。彼はたまたまロンドンにいて、完璧なタイミングでした。彼は、私の背後にあったソファで、横になっていたことを覚えているんですが、ある場面に来たところで、「これ、すごくいいね」と言ったんです。スクリーンには、分割された3つのショットが並んでいました。本当は、その3つの中から一つ選んでもらおうと思ってたのですが、それは黙ってました。




f0134963_22312843.jpg


◎A VIRAL VIDEO

私が覚えているのは、およそ2週後のことですが、MTVが『Bille Jean』をオンエアしないということを聞きました。MTVは、それが自分たちの視聴者に合わないと言ったんですね。そのあとも、多くのストーリー(CBSが激怒してMTVに電話したとか)を聞きました。「これほど偉大なアーティストの売れるレコードとビデオをオンエアしなかったら、君たちの視聴者になんてなれっこない。君たちの視聴者は誰なんだ?」なんていうのをね。

MTVは、アメリカの中流家庭を代表しているんだ。と言っていました。白人が、とか黒人が、という言葉は使っていなかったと思います。MTVは、まだ始まったばかりで、自分たちが何者かわかっていなくて、マイケル・ジャクソンがMTVの代名詞になるなんて、もちろんわかっていなかった。彼らは、自分たちの帝国の礎になるものと、戦おうとしていたんですね。


(インタビュー終了。翻訳はkumaさんにご協力いただきました)



f0134963_23065901.jpg

Steve Barron's memoir Egg n Chips & Billie Jean: a Trip Through the Eighties is out now

By Rupert Hawksley 11 Dec 2014



これまでMJは、スリラーからのビデオはすべて35ミリで撮影したと言っていたと思いますが、監督はそうではなかったと言ってますね。

他のショートフィルムの監督にも最低でもこれぐらいの長さのインタヴューをしてもらいたいです。


こちらは、メイキング動画。











[PR]
by yomodalite | 2014-12-21 01:00 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)
f0134963_15084980.jpg
[追記 2014.12]

マイケルは、なぜ、あのアルバムを「スリラー」と名付けたのか?[4]の続き

『スリラー』のフィルムは1983年の終わりには出来上がっていました。翌年の2月にそれを発表し、まずはMTVでお披露目されました。(自伝『ムーンウォーク』p238)

と、自伝には書かれていますが、私が見た資料のほとんどに、1983年の12月にMTVで放映されたと書かれていて、いくつかの映画館では11月下旬に観ることができたとも。。


スリラーには、最も売れたミュージックビデオという記録もありますが、監督ジョン・ランディスは、すでにTVで何度も放映されているビデオを買う人がいるなんて思いもしなかったと語っています。確かに1983年、録画もできるビデオデッキがある家庭は多かったのですが、

『Making Michael Jackson's Thriller』には、スリラーのショートフィルム完全版と、メイキングドキュメンタリーだけでなく、『モータウン25』での “ビリー・ジーン” のパフォーマンス、『ビート・イット』『Can You Feel It』のクリップ、その他『オフ・ザ・ウォール』と『Workin' Day and Night』のオーディオも含まれていました。

スリラー完全版の録画の機会は数少なく、ムーンウォークを憶えたい人で『モータウン25』を見逃した人も多かったでしょう。

『ウエストサイド物語』よりも、もっと現代的なロック感覚にあふれた『ビート・イット』にも、多くの人が参加してみたくなるダンスムーブがあり、アルバム『スリラー』や、これまでのシングル版を買った人も、『オフ・ザ・ウォール』や『トライアンフ』を買っていない人も、楽しむことができて、それは、当時の購買用ビデオよりも廉価な20ドル前後で販売されました。

MJが自伝で言っている、アルバム『スリラー』の売上げが落ちてから、ディレオの発案で、急遽、ビデオを作ることになったというのは疑わしく、

このVHSに『モータウン25』からの映像を収録できたのも、番組に出ることを最後まで渋ったという交渉の時点で、自分の出演部分の映像権利を獲得していたわけですし、『ビリージーン』のビデオで、ムーンウォークを見せなかったことも含めて、

スリラーで長編ビデオを創ることも、
ビデオ販売の計画もかなり前からあったとしか思えません。

ここまで、長々と書いてきましたが、レコードの売上げを促進するだけでなく、自分の映像をメディアから求められる商品にする。という明確な意志についてをまとめると、

・「The Girl Is Mine」
ポールっぽい曲だけど、マイケル作曲(ポールの名前で、Popチャートに分類されることを期待。でも、印税はMJという作戦)

・「Billie Jean」
MTVにオンエアされるために作った初めてのビデオ。最大の武器であるダンスは抑え気味にし、それまでとは異なる「生まれ変わったMJ」についてミステリアスに表現した。

・「Beat It」
白人の若者は、MTVだけでなく、MJ自身のターゲットでもあった。

・「Wanna Be Startin' Somethin」「Human Nature」「PYT」
様々な音楽ジャンルを好む人々にアピールするように、アルバム「スリラー」の多様性を見せ、売り上げの拡大を図る。

・「Say Say Say」
ポールの予算で創ったビデオでは、ビートルズ以上のアイドル的な魅力も発揮し、新旧トップスター対決を企てる。前作2本にはなかった笑顔など、ガールへのアピールも欠かさず、ここまでに(83年中)3本の高品質ビデオが、徐々にMJをMTVの顔として認知させた。

7枚目のシングルというのは、そこまで売上げが悪ければもちろん、すごく売れても、出す必要がない。そういったありえない順番まで、スリラーのシングルカットをガマンしたというは、MJだけが心に秘めていても出来ない作戦だったと思いますが、彼の強い意志がすべてを動かして行ったことは間違いないことのように思えます。

かつてないほど完璧にこだわったスタジオワークを終えたか、あるいはもっと以前からだったのか、MJがこのアルバムを売るために考えていたことを想像すると信じられないという思いではありますが、2009年のときも、彼はステージに集中するだけでなく、映画のことや、ツアーに付随するビジネスだけでなく、新しいアルバムや、クラシック音楽のようなインストゥルメントアルバムまで、同時進行しようとしていました。

当時の私は、アートや、最新のトレンドを感じさせるようなものが、革新的なビデオだと思っていて、スリラー期のマイケルのPVを新しいとは思わず、同時期に活躍していた、ユーリズミックスのアニー・レノックスや、レディ・ガガにも影響を与えた、グレイス・ジョーンズのような人が新しい黒人アーティストだと思っていました。

これは、1985年のビデオですが、
以前は「Slave to the Rhythm」と言えばこの曲でした!




MJ : In my opinion, it has to be completely entertaining and have a sense of, a linear sense of continuity as far as …. I like to have a beginning, a middle and an ending and have it follow a story and not just be a collage of images, you know, and sometimes that's ok too but it depends on what the director, as a visionary what he sees.

MJ : 僕の考えとしては、ビデオには完璧に人を楽しませる感覚をもっていて、1本筋が通っているような… 始まりと中盤そして結末へと進行する物語をもったもの。イメージのコラージュではなくてね。監督が見ているヴィジョンが素晴らしいものなら、時にはそれもいいんだけど。


今、振り返ってみると、グレイス・ジョーンズの映像には「80年代」の雰囲気が色濃く感じられ、ジョーンズが巨大な像になっているところだけでなく、いくつか、バッド期以降のMJの映像を思い出す部分がありますが、イメージのコラージュではなくて、というMJの映像の作り方との違いがよくわかると思います。

でも、時代を変えるような「革新」とは、それまでの歴史を踏まえたうえで、変えるべきところを変える。聖書を物語の基本とする世界では、特にそういった物語が、何度も言及されて歴史に遺っていく。

また、少年時代に貧しさから脱却し、家の門の前に女の子がいなかった日は1日もないというMJが、史上最高というほど売上げにこだわる理由も、私にはずっとわからなかったのですが、

それは「黒人として初めてという記録」ではなく、
もっと先にある「歴史を変える」という意志で、

そのための第一歩が「史上最高の売上げ記録をもつレコード」だった。

そして、その目標のために重要だったのは、
これまでレコードを買わなかった層にアピールするということです。

MJは、ロッド・テンパートンに「子供にアピールできるような曲を作って欲しい」と注文を出し、元々「スターライト」だった曲は、『スリラー』へと変化しました。





全国をネットワークしたMTVは、音楽から地方や人種というコミュニティを希薄にしただけでなく、これまでレコードを買わなかった層にも音楽を届けることが可能になり、中でも、子供たちへの影響は大きかった。MJにとっても、子供はエンターテイメントを目指したときの自分自身の純粋なきもちを投影できる、絶対に裏切れない相手であり、こどもが純粋に憧れられるような、黒人のスターがいなかったことを、彼以上に憶えていたアーティストもいませんでした。

スリラーという曲は、『ビリージーン』や、『ビート・イット』に比べて、カバーバージョンがほとんど見られない曲です。サウンドトラックのように、最初から映像にあわせて創られているような曲で、ホラー映画でお馴染みの声で、物語が語られてもいます。

このアルバムが「ホラー」をテーマに創られていたら、この曲はアルバム1曲目に相応しい曲ですし、最初のシングルにもなっていたでしょう。でも、MJは、この曲を「Baby Be Mine」やポールとのデュエット曲「The Girl Is Mine」の後に配置して、さらにビデオでは、「Say Say Say」でのキュートな姿にキュンとなっていた女の子の甘い気持ちを一転させます。

なぜなら、それこそが「スリル」であり、
自分は、スリラー(スリルを行なう人)だから。





現在では、MTVの時代に最もフィットしたアーティストとして、誰もが、マイケルのことを思い浮かべますが、

おそらく彼以上にビジュアルについて悩んだ人はいないでしょう。

f0134963_18515649.jpg

『オフ・ザ・ウォール』で、ようやく結果を出したと思ったものの、評論家たちには「マイケル・ジャクソン」に対して、まだ固定化されたイメージがあり、少年時代の熱狂的人気以上のアーティストに成長することは信じられておらず、彼の個性は「R&B」のアーティストの中では、成長途中にしか見られなかった。

自分のアーティストとしての形を見いだすまで、多くの天才たちがもがき苦しむものですが、新生マイケル・ジャクソンを形づくるために、MJが悩んだ量に比べれば、たいしたことはなかったのではないかと思うぐらい、彼は考え抜いたのだと思います。

マイケルの整形については、あれこれと言われていますが、彼が行なった手術は、バッド期までの2、3回をのぞいて、一般的な芸能人が行なっていることと何ら変わりがないものです。

ただ、最初に行なった「鼻を細くする」という手術だけは、特別なものでした。

それは「人種」を信じる人々にとっては、ルーツをないがしろにするように見え、
そして、その感情を逆撫でするように、彼は肌さえも白くなった。

私は、彼の肌の色の変化について、それが「病気」であってもなくても重要ではないと思っています。ハリウッドでは、白人が黒人や東洋人の役を演じることは、極ふつうのことでした。それなのに、どうして彼らはそういった批判をうけなかったのでしょう?

チャイルドスターには、人種や性別があまり感じられないものです。その時代に世界中でスターになったMJには、成長することで、自分の世界が狭まっていくことが、どれほど辛いものだったでしょう。

努力して身につけたことのすべてが、少年時代よりも低く評価されてしまう。多くのチャイルドスターが乗り越えられなかった苦悩に加えて、黒人アーティストが表現できることは、もっと狭められていたうえに、兄弟すべてが芸能人のファミリーとして、その成長や変化を観察され続けてきている中でどうやって新しい自分を創り出せばいいのか。


f0134963_15101046.jpg

これほどの難問に答えが出せたのは「奇跡」としか言いようがないのですが、

MJが起こした「奇跡」には、考え抜かれた計画と、
信じられないまでの努力のあとしかないのが「現実」だと思います。

『ビリージーン』という曲には、『オフ・ザ・ウォール』を創り終えたころの「21歳のマニフェスト」には書かれなかった、最も重要なことを書き加えた。

キレイな女に気をつけろ
どんなときでも、もう一度よく考えろ。と

『ビート・イット』では、
破滅から逃げることを説き、

そして、『スリラー』は、

おそらく、曲が完成した段階で、彼にはその映像がはっきり見えていた。
それは、長い間、ずっと考えてきた「自分」にもっとも相応しい物語だったから。

自分が変身する姿と、それを怖がる人、それを見て笑う自分、
そして、恐怖を感じさせては、手を差し伸べる。
それらを何度も見られる映像にして、
世界には光と闇があるけど、
彼は恐怖に遭遇したときに、側にいてくれて、
スリルも与えてくれるスターだと認識させた

理想をいだいて失敗し、地獄に落とされた者たちを墓場から甦らせ、
彼らの思いも受けとめて
世界中の大勢の人々に踊ることを教えた。

私たちが今癒されているエンターテイメントは、
その多くが「君はそのままでいいんだよ」と、なぐさめてくれるようなものです。

マイケルが越えようとしたビートルズの『Let It Be(なすがままに)』も、グラミー賞で悔しい思いをした「素顔のままで(Just the Way You Are)」も、

そして今、これを書いているときは「Let it go(ありのままで)」という歌が流行っています。

マイケルは人々を癒すエンタテインメントの仕事をとても誇りに思っていて、「Escapism(現実逃避)」がとても大事だと考えていた人ですが、彼が人々に与えようとした世界は、常にそれらとは異なっていたように思います。

彼を見ていると、私たちは今のままでいいとは思えなくなるでしょう?

スリラーを創っているとき、
マイケルには音楽ビデオがビジネスになることも、
ビートルズから王冠を奪えることも、
これからの人々が生きるには、もっと踊れる音楽が必要だということも
わかっていた。

時代を象徴するような表現の出現には、多くの偶然や幸運が重なるものかもしれません。

でも、彼が幸運だったのは「スターライト」という曲のサビに「スリラー」がハマった、
その一瞬だけだったと思う。

了)

資料の読み間違いなどは、遠慮なくご指摘くださいませ。
また、「スリラー」に関してのハーバード大学のビジネス講座について知っている。
というか、受けましたけど。。という方も、ぜひ!


付記)

タイトルだけ決めてあるけど、おそらく書かない
マイケルのアルバム考察シリーズ…ww

◎何が「バッド」だったのか?
◎本当に「デンジャラス」だったものとは?
◎歴史の嘘と「ヒストリー」
◎「インヴィンシブル」ー究極は越えられない
◎THIS IS IT!ー 見つかった。何が? ショーは永遠に続くということ



[PR]
by yomodalite | 2014-06-05 19:57 | MJ考察系 | Trackback | Comments(7)
f0134963_13095623.jpg



アルバム『スリラー』の中から発表された『ビリージーン』『ビート・イット』そして『スリラー』という3本のビデオは、すべてこのアルバムのために僕が考えたコンセプトによるものでした。可能な限り映像的に音楽を提供しようと僕は心に決めていたのです。どうして世の中は、こんなにも原始的で、説得力のないビデオだらけなのか、理解できませんでした。(『ムーンウォーク』p215)

『ビリージーン』は、MTVが最初に放映した黒人アーティストのビデオだという、
MJのよく知られた伝説があります。

ただ、CBSの当時の社長イェトニコフが、マイケルのビデオを流さないなら、自社のアーティストすべてをMTVに出さないと言ったのは、若干「作り話」であるらしく、「Billie Jean」は、他のレコード会社アーティストである、プリンスの「Little Red Corvette」と同時期にMTVに登場しています。

(プリンスは『スリラー』の翌年、主演映画『パープル・レイン』で、映画とサントラの両方を大ヒットさせています。同じ時代を生きたふたりの天才の歩んだ道は、MJを考えるうえでとても重要だと思うのですが、今回はスルー)

それでは、『ビリージーン』より前のビデオは、どこで流されていたんでしょう?

私はアメリカに住んでいたわけではないので、実際のところよくわかりませんが、『Don't Stop 'Til You Get Enough』は、1979年7月、フランスの「M6 Music Hits」で初放映され、『Rock with You』は1979年11月、『She's out of my life』1980年2月、『Can you feel it?』は1981年2月に、英国の「VH-1 Classics Europe」というケーブルTVが最初に放映しています。

『Don't Stop 'Til You Get Enough』以外は、すべて英国のTVディレクターで、プロモーションビデオとして世界初作品(1975年)と言われているクイーンの『ボヘミアン・ラブソディー』のビデオで有名になった監督、Bruce Gowers によるものです。






『ボヘミアン・ラブソディー』は、これまで英国で一番売れた曲としても有名ですね。

この頃までのMJの作品は、いずれも海外でシングル発売日に初放映されています。本国よりも海外の方が早い理由について確かなことはわかりませんが、これは、当時のMTVが黒人差別をしていたからではありません。

なぜなら、MTVが始まったのは、1981年の8月1日。
これらの曲のプロモーションの頃はまだ存在していなかったのです。

おそらく当時の日本でもそうだったように、周辺諸国の方が、世界最大のマーケットをもつ国の音楽情報をいち早く取り入れたいと思うものであったり、また広い国土をもった、独立した州の連合体である米国では、音楽リスナーの地域格差が大きかったこともあり、全国的な音楽チャンネルの設立には至っていなかった。

MTVで初めて流れた音楽ビデオは、すでに2年前に発売になっていた英国のバンド、
バグルスの「ラジオスターの悲劇」でした。





それは、巨大音楽市場をもつ米国でラジオ時代の終焉を予見し、TVで音楽を楽しむ時代の口火を切り、それまでの英国やヨーロッパのような小さな音楽市場の視聴者層とは、まったく異なるタイプのビデオが求められる時代の到来でした。

ファンにとって『Rock with You』のキラキラしたMJは、今でもとても魅力的ですが、MTV発足の半年前の『Can you feel it?』は、まさにそんな時期に気合いを入れて創られたことがわかるレベルの作品だと思います。






それでは、『Can you feel it?』と比較して、3年後の『ビリージーン』は、
それほど画期的にレベルの高い作品に見えるでしょうか?





うん…  見えなくも、、ないか(笑)

私には『Can you feel it?』は、歌のメッセージをしっかりと押さえ、言うべきことを予算内でしっかりとビジュアル化した、インパクトがある作品に見えます。実際、この作品は、2009年に行なわれたビデオ作品人気投票ベスト100にも選ばれています。

一方、その2年後の『ビリー・ジーン』は、あとから振り返ってみると、

MJがこのあと創ったすべてのショートフィルムだけでなく、彼自身の未来予測も含まれた「青写真」になっているようで、とてもとても興味深いのですが、

監視する男、色が変化する猫、コイン投げ、サタデーナイト・フィーバーのフロアを思い出させるライトアップされた道、ステイン・アライブのバリーギブのようにジャケットを肩にかけ、タブロイド新聞が舞う道には、フレッド・アステアの「バンドワゴン」にも登場した虎模様の布、貧乏な男がリッチマンに変身、MGMミュージカルのようなセット、「オズの魔法使い」に登場したような道(yellow brick road)、男をだましそうな複数の女、爪先立ちのポーズ、HOTEL、誰と寝ているのかわからないベッド、盗撮、警官、逮捕される男、ゴッドファーザーの看板、虎模様の布が本物の虎に…

歌詞と、直接関係のないような、こういったシュールなテイストのビデオは、当時なかったわけではないので、この頃のMJが、あまりにも革新的なビデオをクリエイトしていたと言われると、なんだか納得できないと、私は長い間思っていましたし、映画用のフィルムを使ったことも、作品のインパクトに比べれば、予算をかけ過ぎているようにも見えましたが、

(後記:MJは35ミリを使ったと言っていますが、監督はインタヴューで16ミリでの撮影だったと明かしています→スティーブ・バロン監督が語る『ビリー・ジーン』裏話

この頃、音楽ビデオで一歩も二歩も進んでいた英国アーティストに対して、MJは、映画において大きな蓄積のあるハリウッドの人材によって、ビデオの質を上げようとし、その第一人者として他をリードすることを考えたわけです。それは、このあと「スリラー」で長編ビデオを創るうえでも、実に適確な判断だったと今は思います。

さて、『ビリー・ジーン』のビデオも、
これまでのように、英国やドイツの音楽ビデオ番組で初放映されているのですが

フィルムが出来上がっていた1月ではなく、3月が最初で、MTVでは4ヶ月後が初放映です。MTVが遅かったのは、よく言われているような黒人差別のせいかもしれませんが、今まで、発売と同時に放映してきた海外の放送局でも、遅れるようになったのは、なぜなんでしょう?

これは、私の想像ですが、

MTVだけでなく、他の国でも音楽チャンネルがこれまで以上に注目されることによって
「放映権」に変化が生じたからだと思います。

そして、他のビデオの何倍もの制作費をかけた『ビリー・ジーン』は、テレビ局にとって、もっとも手強い契約相手だったのではないでしょうか。

そしてこのあと、『ビリー・ジーン』には、さらに注目されることが起こります。

あの、最初に「ムーンウォーク」を見せたという伝説のTVスペシャル『モータウン25』が、リリースから4ヶ月後の5月16日(ショーが行なわれたのは3月25日)に放映されたからです。





前作『オフ・ザ・ウォール』では、ミュージックビデオ以外の露出はなく、大人気だったジャクソンズのバラエティーショーを、自ら降板したMJは、その後長らくテレビに出演していませんでした。そのせいもあり、TVスペシャル『モータウン25』で、ムーンウォークを披露したとき、世間は久しぶりにジャクソン5の少年が大人になった姿を見て、その魅力的な変化に驚きました。

パフォーマンスが素晴らしく、ムーンウォークがめずらしいダンスだっただけでなく、あの少年が、鼻が細くして、これまでとは違う新しい外観の若手スターになって帰ってきたということで、MJに大きな注目が集まったわけです。

新生マイケル・ジャクソンを初披露したのが、黒人音楽をメジャーにした「モータウン・レーベル」の記念番組だったということも、とても重要だったと思います。会場には、MJを少年時代から応援し、黒人に偏見をもたない人が大勢いたわけですから。

そして、その番組で大評判になったあと、『スリラー』からの、2番目のビデオ『ビート・イット』は、発売からおよそ2ヶ月後のプライムタイムにMTVで放映され、その後、米国3大ネットワークのひとつであるNBCのプライムタイムの番組「Friday Night Videos」で放映された初めての作品になりました(1983年7月29日)。

スリラー期のMJのビデオは、当時、ミュージックビデオをよく見ている人間にとっては、それほど画期的には見えなかったのですが、この年、米国では、ケーブルテレビではなく、3大ネットワークのプライムタイムに、音楽ビデオを放送する番組が始まり、今までとは異なる視聴者層にアピールするようなビデオが、より一層求められるようになったんですね。

1983年1月2日発売の『ビリー・ジーン』も、その1ヶ月後に発売された『ビート・イット』も、地上波テレビによって、さらに売上げに火がついたわけです。


1983年の秋までに、アルバム『スリラー』は、CBSの期待を遥かに越える、800万枚を売り上げていました。すでに売れに売れているアルバムからは、シングルリリースする意味も、3本目のビデオを創る理由も、レコード会社にもなかったはずです。

自伝には、売上げが落ち始めたことで、当時のマネージャー、フランク・ディレオが、もう1本、ビデオか、短編映画を作ってもらえないかと言ってきた。とあるのですが、そんなことをディレオが言うでしょうか?しかも、「短編映画」だなんて。。

2009年版の自伝の序文を書いた、ベリー・ゴーディーはこう言っていました。

「アーティストとしての偉大性を深く理解するには、さらに行間を読み取る努力が必要かもしれない。というのも、彼には二面性があったからだ。(中略)

作曲、歌、プロデュース、演技、演出と多岐にわたって能力を発揮してきたマイケルだが、実は思慮深さも兼ね備えていた。自分の身を守るために、キャラクターを作り上げて演じてきたこともある。ステージの自分と、普段の自分、あるいは会議中、契約中、企画中、プロモーション中など各々シーンに合わせたキャラクターをつくり出し、演じていた。

マイケル自身が絶対に創りたかったものでも、このときは、あまり自分の手柄や、計画とは思われたくなかった。ということではないでしょうか。






[PR]
by yomodalite | 2014-06-02 13:54 | MJ考察系 | Trackback | Comments(4)
f0134963_11364890.jpg


☆マイケルは、なぜ、あのアルバムを「スリラー」と名付けたのか?[2]の続き

自伝『ムーンウォーク』で書かれているように、『オフ・ザ・ウォール』は、かつてのチャイルド・スターが、時代にマッチしたレコーディング・アーティストへと成長できることを証明し、『スリラー』で、成し遂げる仕事のお膳立てをしたアルバムでした。

MJは、幼い頃から夢だった史上最高の売上げを誇るアルバムを創ることを、
周囲にも目標として指し示すことが出来る段階に来ていた。

自分を信じて、作品に文字通り魂を注ぎ込む。
そのためには死んでもかまわないと思うまでに。(『ムーンウォーク』p200)


下記はオリジナルのアルバム『スリラー』の収録曲。
( )内は作曲者および共演者 ☆印はMJ作曲

◎A面
1. Wanna Be Startin' Somethin'
2. Baby Be Mine (Rod Temperton)
3. The Girl Is Mine (featuring Paul McCartney)☆
4. Thriller (Rod Temperton)
◎B面
5. Beat It (featuring Eddie Van Halen) ☆
6. Billie Jean
7. Human Nature (Steve Porcaro & John Bettis)
8. P.Y.T. "Pretty Young Thing" (James Ingram)
9. The Lady in My Life  (Rod Temperton)


『オフ・ザ・ウォール』には、MJのさらなる魅力を加味するために、ポール・マッカートニーの曲が収録されましたが、『オフ・ザ・ウォール』よりも、さらに売れるアルバムを目指した『スリラー』では、ふたりがデュエットした「ガール・イズ・マイン」が、先行シングルとしてリリースされました。

(下記は、自伝『ムーンウォーク』より省略して引用)

この曲のように、1曲にふたつのビッグネームが入っていれば、最初に出すしかないのです。さもなければ、その曲ばかり繰り返しオンエアされ、目立ち過ぎてしまいます。ポールに声をかけたのは『オフ・ザ・ウォール』に “ガールフレンド” という曲を寄せてくれた彼の好意に対して、お返しがしたいと思ったからです。

ポールという、スタジオであらゆる楽器を操り、すべてのパートの楽譜を書ける男と、そんなことはできない若造の僕との共作です。にもかかわらず、僕らは対等に仕事をし、スタジオでポールが僕を引っ張って行く必要はなかったのです。僕にとってこの共同作業は、大きな一歩になりました。そこには、誤りを正すクインシー・ジョーンズの存在がなかったからです。

(引用終了)

アルバムを評価したり、オンエア曲を選ぶようなプロは、まず、ビッグネームが関わっている曲を聴いて、アルバム全体の出来を判断します。MJは1曲にふたつのビッグネームと言っていますが、「ガール・イズ・マイン」はMJが作曲した曲です。そこから判断すれば、『オフ・ザ・ウォール』で、ポールやスティービーの曲をシングルにしなかったのは、自分の曲を埋没させたくなかったからでしょう。「スリラー」で、ポールとの曲を先行シングルにしたのは、MJの実力が証明された後だったことと、

このアルバムを「R&B」ではなく「Pop」に分類させる意味があったと思う。

この間のポールとMJの共演は下記の3曲ですが、

・Say Say Say(MJ&ポール共作)
・The Girl Is Mine(MJ作曲)
・The Man(ポール作曲)

この中で一番の名曲が「Say Say Say」であることに異論がある人はいないでしょう。

実際、この曲はMJのシングルヒットの中でも歴代No.1の売上げを記録している。

ポールは「スリラー」より10ヶ月後、1983年10月31日リリースされたアルバム『パイプス・オブ・ピース』から、1983年10月3日に先行シングルとして「Say Say Say」をリリースし、PVも制作しました。

ポールは、スリラーの8ヶ月前の1982年4月にリリースした『タッグ・オブ・ウォー』でも、ステーヴィー・ワンダーとの共演曲「エボニー・アンド・アイボリー」をシングルリリースし、PVも制作していました。これは、スティーヴィーにとって、米英チャートではじめて1位を獲得した曲で、その他「Take It Away」も、ビルボードトップ10入りしています。

ポールは、80年代においてもシングル曲のチャートゲッターとして圧倒的でした。

(それなのに、未だに元ビートルズと言われているのは、
もしかしたら、ビートルズの版権所有者であるMJの策略かもしれませんww)

MJの伝説として、ミュージックビデオを革新したとは、よく言われていることですが、彼が変革したのは、プロモーションビデオ自体が、米国でビジネスになったということで、MJより前に面白いPVがなかったというわけではありません。

ただ、当時、若者が観たいと思うようなミュージックビデオは、その多くが英国のアーティストによるもの。音楽が輸出産業だった英国では、海外へのプロモーションが重要で、またハリウッドのような巨大映画産業がなかっため、音楽ビデオは、才能のある映像作家が活躍する土壌にもなっていました。

一方、米国の音楽界では、自国の売上げだけで充分な販売が期待でき、映像作家はハリウッドに集中していたせいで、当時のミュージックビデオはつまらなかった。

英国のビッグアーティストであるポールが、米国アーティストとの共演作をシングルカットし、予算をかけたPVを創ることは確実でした。

『パイプス・オブ・ピース 』は、前作『タッグ・オブ・ウォー』と2枚組での発売予定もあり、1982年にすべての曲が完成していて、『The Girl Is Mine』よりも前にレコーディングも終えていた。

それなのに発売は、スリラーより10ヶ月後の1983年10月。

ビッグアーティストが同時期に完成していたアルバムを発売する場合、
先輩の方が後からという慣習はあったかもしれませんが、

MJのアルバム『スリラー』は1982年12月1日にリリースされ、
ポールとマイケルのシングルリリースは下記の順番でした(☆印はビデオありのもの)

・The Girl Is Mine(1982年10月23日)
・Billie Jean(1983年1月2日) 
・Beat It(1983年2月3日)
・Wanna Be Startin' Somethin(1983年5月8日)
・Human Nature(1983年7月3日)
・PYT(1983年9月19日)
・Say Say Say(1983年10月3日)
・Pipes of Peace(1983年12月17日英国のみ発売。☆)
・Thriller (1983年11月12日)





ポールは前作「エボニー・アンド・アイボリー」のビデオでは、黒人と白人をピアノの鍵盤にたとえて、音楽に人種なんてないことを表現し、




「Say Say Say」では、一緒に「ミンストレル・ショー」を行って、黒人も白人も、芸能人はみんな同じ人種だと言っているようです。

『Say Say Say』のビデオが好きなMJファンは多かったと思います。

僕はそれをビデオと呼ぶのさえ嫌なのです。撮影現場でもスタッフたちに、僕らが作っているのは映画なんだ。僕らはビデオテープを使わずに、35ミリフィルムで撮影しました。真剣だったのです。(自伝『ムーンウォーク』P217)

というMJの『ビリージーン』や『ビートイット』より、

映画的だと思うのも私だけではないでしょう?

作品のテーマからか、米国では発売されませんでしたが、第2弾シングルの『Pipes of Peace』でも、ポールはMJよりもショートフィルムと呼びたくなるビデオを創っています。





MJは「彼の好意に対して、お返しがしたい」と書いていますが、

『オフ・ザ・ウォール』で、ポールが作曲した『Girlfriend』をシングルカットせず、MJ自身がポールの曲と同じような曲を書き直してみましたというような『The Girl Is Mine』を、同じようなタイトルの『Baby Be Mine』の次に収録したり、

私には、この頃のMJは、ギネスで「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定され、60年代からずっとチャートキーパーだったレジェンドに戦いを挑み、葬り去ろうとしていたように感じられます。

ポールは黒人と白人がいると思っている。

でも、MJは、黒人とか、白人という、肌の色で区別されたくない。

マイケルは「人種差別をするな」ではなく「人種なんて本当はない」と思っていた。

これまでの「黒人」の描かれ方は、自分とは違う「型にはまった」もので、黒人に与えられる役柄も少なかった。「セイ・セイ・セイ」のヴィデオに登場し、『特攻野郎Aチーム』や『ロッキー3』で大人気だった ミスター・T もそうであったように…

ポールが前作に引きつづき、反戦や、人種共存といった
平和をテーマに曲を創っているとき、

MJはポールに対しては、どんな女も「自分のもの」だと言ってばかりw

(いったいどこが「感謝」なの?と思うのは、私だけでしょうか…ww)

それでも、スリラーのシングルリリース前までに、ポールが創った優れたビデオを含め、MTVでは3本のMJ映像が集中して放映されることになり、『Say Say Say』での、ポールと「主演」を争うような共演は、彼を、次世代のスーパースターへと印象づけました。


f0134963_09543593.jpg
『The Girl Is Mine』のジャケットは、スナップ写真すぎるうえに、
着てるもんまで、ポールからもらったやつw
自分では1円も使いたくないのだ(笑)



一緒にレコーディング中は、特に垢抜けないファッションで
ポールを油断させておいたことが、
ありありと伝わる、他のシングルジャケット。(上から発売順)


f0134963_13051361.jpg

f0134963_13052706.jpg

f0134963_13054034.jpg

f0134963_13055062.jpg

f0134963_13060666.jpg
f0134963_13062807.jpg




こちらは、『Say Say Say』のジャケット。
f0134963_10191050.jpg

MJだけがイラストっぽいようなw
そして、脚も長過ぎるようなw、
これも、MJのウルサいチェックのせいでしょうか(笑)


☆[4] に続く






[PR]
by yomodalite | 2014-05-31 12:08 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
f0134963_22444783.png



『スリラー』の前作、アルバム『オフ・ザ・ウォール』の頃、MJは、日本でもすでに大人気だった。ただ、今のような熱狂的な女子ファンの存在はあまり感じられず、前回、MJのアルバムにはコンセプトが感じられないと言ったけど、『オフ・ザ・ウォール』には、コンセプトが感じられた。

それは「最強のダンスミュージック・アルバム」だったと思う。

ダンスフロアには流行がつきもので、その当時一世を風靡したものほど古くなりやすい。MJが研究し尽くしたという、あの「サタデー・ナイト・フィーバー」も、アルバム『デンジャラス』で取り入れられたというニュー・ジャック・スウィングもその例で、

マドンナが「コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア」でABBAを復活させたように、当時の流行が見直されて、再度ブームが来ることはよくあることだけど、『オフ・ザ・ウォール』のように、発売以来ずっと古びなかったということはない。このアルバムは、これまでのディスコミュージックよりも、フロアの外を意識したものだった。

永遠に踊れるような曲で、じっくり聴くにも相応しい。黒人音楽の新たな地平に立ったアルバムは、『オフ・ザ・ウォール』というタイトルに相応しく、当時すでに低迷していたレコード販売を、復活させたと言われるほど爆発的に売れた。

下記はオリジナルのアルバム『オフ・ザ・ウォール』の収録曲。☆印はMJ作曲

1. Don't Stop 'Til You Get Enough (第1弾先行シングル)
2. Rock with You(第2弾シングル・ロッド・テンパートン作曲)
3. Working Day and Night(第2弾シングルB面)
4. Get on the Floor(第3弾・4弾シングルB面)
5. Off the Wall(第3弾シングル・ロッド・テンパートン作曲)
6. Girlfriend(ポール・マッカートニー作曲)
7. She's Out Of My Life(第4弾シングル・トム・バーラー作曲)
8. I Can't Help It(第1弾先行シングルB面・スティービー・ワンダー作詞作曲)
9. It's the Falling in Love(デヴィッド・フォスター作曲)
10. Burn This Disco Out(ロッド・テンパートン作曲)


ディスコ・ヒットを狙った『オフ・ザ・ウォール』は、MJの魅力をそれだけではないものにするために、ポール・マッカートニーの曲も収録された。

CD以前のアナログレコードには、A面・B面があって、
ポール作曲の「Girlfriend」は、B面2曲目。

ポールは、多くのティーンエイジャーの少女達を失神させたビートルズの中でもアイドル的な人気を誇り、70年代も80年代もNo.1を狙えるチャートゲッターであり続けたソングライター。

MJは、ポールに曲を提供させたにも関わらず、それをB面1曲目の「OFF THE WALL」の次、B面3曲目のしっとりとしたラブソング「SHE'S OUT OF MY LIFE」の間という微妙な曲順に配置し、アルバムの中で目立たせなかっただけでなく、シングルカットもしなかった。

多くのディスコでも、DJたちがこの曲を無視したと思う。彼は自分が作曲した「Don't Stop 'Til You Get Enough」を第1弾シングルに選び、第2弾、第3弾は、クインシー組の作曲家として完成までコントロール出来た、ロッド・テンパートンの曲を選び、ポールと同じく確実なチャートゲッターだったスティービー・ワンダーの曲もB面にした。

MJとクインシーの戦略は当たり、このアルバムは大ヒットした。

それでも、1979年のグラミー賞では、
R&B最優秀ヴォーカル賞にノミネートされただけだった。

同年のグラミー章の最優秀楽曲賞にはビリー・ジョエルの「素顔のままで」。
最優秀レコード賞には「サタデー・ナイト・フィーバー」。

この結果を「黒人差別」とは言えないと思う。

MJ自身も、「サタデー・ナイト・フィーバー」を聴いたとき、
自分に出来たことを、先にやられてしまったと感じたのだ。

(下記は2003年のブレット・ラトナーによるインタヴューから)

MJ : Really, and then when the Bee Gees came out in the '70s, that did it for me. I cried. I cried listening to their music. I knew every note, every instrument.

MJ : ….そして、そのあと、、ビージーズが70年代に登場したとき、僕はやられたと思った。僕は泣いたよ。彼らの音楽を聴いて悔しかったんだ。僕は、彼らの音符も楽器も全部知ってた。(註:このあと、ラトナーが『サタデーナイト・フィーバー』より前の曲を歌いだしますが、MJが「cried」って言ってるのは、元々『サタデーナイト・フィーバー』のことだと思う)

BR : [sings] "This broken heart . . ." 

(ふたりで、ビージーズの『How Can You Mend A Broken Heart』を歌う)

MJ : I love that stuff. And when they did Saturday Night Fever, that did it for me. I said, "I gotta do this. I know I can do this." And we hit with Thriller. And I just started writing songs. I wrote "Billie Jean." I wrote "Beat It," "Startin' Somethin'." Just writing, writing. It was fun.

MJ : 大好きな曲だよ。それから、彼らが『サタデーナイト・フィーバー』をやったとき、僕は「してやられた」と思った。僕はこれをやる。僕にはできるってわかる。そして、僕らはスリラーに打ち込んだ。僕は曲を書き始めて『ビリー・ジーン』や『ビート・イット』を書いて、『スタート・サムシン』を書いて、ただ、もう書いて、書いて、それはすごく楽しかった。




Michael Jackson - Private home interview 2003 (PART 2/2)




黒人のチャック・ベリーではなく、1曲も作曲していない白人のエルヴィスにロックンロールの「KING」の称号が与えられ、そのエルヴィスや、他の黒人音楽からも強い影響を受けたビートルズがその王冠を受け継いだように、

黒人のたまり場だったディスコも、
ビージーズとジョン・トラボルタという白人によるヒットで、メジャーになった。

同じことを黒人がしても、白人評論家たちは、白人にすり寄ったと批判し、「ブラック・ミュージック」を愛する人たちは、黒人の音楽的優越を信じ、やはり、それを黒人の白人化だと批判する。

音楽界では、黒人が始めたことを、白人が取り入れ、ヒットするという例はいくらでもある。でもその逆はないことを、MJはまたも思い知り、彼の闘争心は極限まで燃え上がったのだと思う。

『オフ・ザ・ウォール』を創り上げた直後、MJはジャクソンズの『トライアンフ』制作に没頭し、これまでにはなかった野心的で、異質な曲「ハートブレイク・ホテル」を書いていた。

1981年、21歳のマイケルにインタヴューした湯川れい子氏は、

「エルビスは私たちの音楽を盗んで有名になった」というMJに、「エルビスという存在があったからこそ、黒人音楽が白人層にも広がったはず。」と切り返すと、「むしろ代償の方がずっと大きい。その証拠に、いまだに黒人のスーパーマンもピーターパンもいない」と言ったことを、そのときの鋭い眼光とともに紹介している。


自伝『ムーンウォーク』には、「ハートブレイク・ホテル」は復讐というコンセプトで書かれているけど、エルヴィスとは何の関係もなく、音楽界にとってエルヴィスは、白人だけでなく、黒人にとっても重要な存在だったけど、自分は彼の影響はまったく受けていない。(P187)

と書かれている。でも「ハートブレイク・ホテル」を聴いた誰もが、エルヴィスを思い浮かべることを、MJがわからなかったはずはなく、彼が絶対に違うと言いたいのは、黒人が、白人に対して復讐したわけではなく、自分もエルヴィス個人に復讐したかったわけではないということでしょう。



f0134963_10153634.jpg

また、自伝には、『オフ・ザ・ウォール』の成功が、
グラミー賞の結果によって、屈折したものになったこと。

自分がクリエイトしていく仕事に関して、

獲物を狙う猛獣のように客観的になれる自分と、
作品を創り終えて、神から与えられた才能を一滴も残さず注ぎきった自分。

このふたつのバランスをとることの難しさも語っていた。

『オフ・ザ・ウォール』前年の1978年、兄たちとのジャクソンズで、『デスティニー(Destiny)』を発表し、翌年の1980年には『トライアンフ(Triumph)』を発表した。

湯川れい子氏が、MJにインタヴューしたのは、
MJが自分の運命と神意(Destiny)を感じ、勝利(Triumph)を目前に感じていたとき。

スーパーマンにもピーターパンにも自分ならなれる。と思いながら、あと少しでそれはつかみきれず、『オフ・ザ・ウォール』では、業界からの予想外の拒絶にも直面した。

二十歳そこそこの若者が世界的な成功をおさめて、初めて経験することを、少年時代にすべて経験してしまったMJにとって、成功例がほとんどないチャイルドスターからの再ブレイクは高く厚い壁であっても、絶対に乗り越えようと思うことが、日々の努力へのモチベーションだった。

でも、そういった自分だけの特殊なモチベーションでは、もうその先へは進めない。

『オフ・ザ・ウォール』の成功と挫折は、
MJの中のデーモンを、はじめて輪郭のはっきりした「モンスター」へと変身させた。


☆[3]に続く




[PR]
by yomodalite | 2014-05-30 08:50 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
f0134963_09301499.jpg

(以前書いた「スリラーはなぜ高く評価されているのか」のあと、なぜ、MJ自身がずっと特別な作品だと感じていたのか?を考えて書いたものです。)

マイケル・ジャクソンを語るとき、必ずといっていいほど登場する「スリラー」。そして、そのあとには、また必ずといっていいほど、世界一の売上げ枚数という話がつづく。

スリラー期のマイケルにまだあまり興味がなく、あの有名なヴィデオに何の衝撃も受けなかった私にとって、スリラーがMJの絶頂期という話は、整形の次にうんざりする話で、MJはバッドツアーのステージの素晴らしさと、来日プロモーションで人気が沸騰し、それで、スリラーのビデオもお茶の間に浸透したのだから、

少なくとも日本でのMJ絶頂期は「バッド」だったはずなのにと、いつも思っていました。

バッドツアーは日本から始まったので、MJにとっても日本は最初のプロモーションの場で、新幹線に乗り、各地の名所をめぐったり、日本滞在をリラックスして過ごしているようにみえる彼の笑顔は素晴らしいステージや歌と同様に日本のファンを虜にし、世界にもそのニュースが流れた。

スリラー期からバッド期のMJの顔の変化はかなりあるので、もし、日本でも「スリラー」が絶頂期だったら、「バッド」での彼の変化に、もっと拒絶反応があったはずだけど、日本のファンにとってMJは、浅黒い肌の「外人」であって、

日本には「日本人」と「外人」以外の「人種」はなかった。

だから、「バッド」では、よりカッコ良くなったとしか見えなかったし、当時の彼はファンになっても親にとがめられることのない好青年のロックスターだった。それなのに、スリラー期よりももっと爽やかな笑顔を見せるようになった「バッド期」のMJは、

なぜ、あのアルバムを「BAD」と名付けたのだろう?

アーティストが、アルバムをコンセプトで創るようになり、音楽評論もアルバムをそのコンセプトで語るようになった時代に、なぜか、MJだけがいつも売上げだけで語られ、今もそれが続いているのは、その偉業のインパクトのせいではなく、

結局、誰も彼のコンセプトがわからなかったからだと、今は思う。

MJ自身は、何度「スリラー」について聞かれても、うんざりする様子も見せず、いずれ劣らぬ完成度で創り上げた他のアルバムに注目して欲しいと言うこともなく、晩年まで、スリラーの栄光に関しては特別誇りに感じているようだった。すべての作品において、革新的でありながら、高い完成度を保ち、売り上げにおいてさえNo.1にこだわってきたアーティストとしては、その反応も極めて稀だと思う。

確かに、MJは「売れる」ことを誰よりも考えていたし、彼のアルバムは、どれも全体を通しての「物語」や「概念」といったコンセプトは感じられず、シングルヒットを詰め込んだという以外のコンセプトが見当たらないように思える。

そして、そういった場合のアルバムタイトルは、もっとも売れるシングル曲と同じであることがほとんどだ。

アルバム『スリラー』の中で最も有名な曲は、おそらく「スリラー」でしょう。映像と曲が同時に何度もオンエアされた「スリラー」の印象は強く、その後、MJを紹介する場面でも「世界一の売上げ」という言葉と一緒に、いつもこの曲が流れているように思う。

でも、「スリラー」は、このアルバムの7番目のシングルだった。

7番目のシングルなんて、普通はありえない。

当時は1枚のアルバムに対し、シングルは1曲が普通で、どんなに多くても3曲ぐらいだったと思う。オリジナルのアルバム「スリラー」には9曲しか収められていないのに、7番目だなんて… 普通に考えれば、シングルカットする気がなかったとしか思えない。

それなのに、なぜ、あのアルバムは「スリラー」と名付けられたのか?

現在、「スリラー」の歴史的評価は、人種の壁を越え、音楽ビジネスを変えたことと言われています。

「スリラー」がMJの全盛期という定説には異論があるものの、「人類史上最大のヒットアルバム」という歴史的評価が「結果的にそうなった」のではなく、それを可能にしたマイケル自身の明確な意志と「戦略」について振り返ろうと思います。






[PR]
by yomodalite | 2014-05-29 16:07 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite