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☆[5]の続き

色々と回り道をしていることで、誤解を招いていることも多いと思うので、ここまでの要点を一旦まとめておきたいと思います。

[1]の要点

モトーラの「悪魔」呼ばわりは、MJが「人を憎むことは決して教えない」と言っていたことに反していないか。『インヴィンシブル』が発売になったのは、同時多発テロと同じ2001年。抗議行動は、翌年の2002年、ブッシュ大統領が「悪の枢軸」発言をした年。マイケルには、自分のアルバムのことよりも、言うべき言葉があったのではないか。

[2]の要点

星条旗があふれ、アメリカ中が戦闘態勢になって、イラク戦争への道に突き進んでいった時代、「僕たちは、何度でも、何度でも、愛を与えるべきなんだ」と歌う『What More Can I Give』をリリース出来なかったのは、モトーラや、SONYだけだっただろうか。

[3]の要点

ここまで良好な関係だったモトーラを「人種差別者」だと攻撃したのは、彼を失脚させるためで、ソニー攻撃は、モトーラ下しの手段という側面が大きかったのではないか。

[4]の要点

モトーラが『インヴィンシブル』の宣伝を抑えたのは、史上最高ともいえるほど派手な広告をした『ヒストリー』での経験から、広告のし過ぎは、リスナーや若手ミュージシャンから「お金持ちMJ」という反発を招き、メディアの反感を煽るだけだと判断したのではないか。

また、MJはこの行動により、モトーラ失脚に成功した(彼は音楽部門のトップの座は死守した)。

[5]の要点(本文に書ききれなかった不足分も加えてあります)

(4の後半からも含めて)音楽版権は、マイケルがATVを取得したときよりさらに大きな利益を生み出しつつあった。グローバル化による販路の拡大だけでなく、様々な商品フォーマットの開発が期待され、CD売上げや、オンエア使用料だけでなく、版権の「債券」としての価値も急上昇した。

労働者と経営者との格差が広がる時代が到来し、アーティストが才能と肉体を駆使して、生み出した作品を利用して、経営者たちが、彼らよりも儲けているという状況は変わらず、

MJが、音楽とダンスとビジュアルを融合させたことを、後続のアーティストたちが、真似するようになっただけでなく、モトーラや経営陣は、MJの様々な方法論や、版権の価値の重要性についても、後追いするようになった。

と、ここまでが、一応、前回までのまとめなのですが、

モトーラを「人種差別者」だと攻撃したのは、彼を失脚させるためという[3]の内容について、このあと、また別の見方をしてみたいと思います。

ハーレムで行なったスピーチのときに、その場に居合わせた、アル・シャープトン師は、自分はモトーラが人種差別主義者だとは思っていないし、マイケルが事前に何を言うかは知らなかったと公の場で発言し、

報道でMJの発言を知ったベリー・ゴーディは、マイケルに電話をかけ「〈人種という切り札〉を使うべきではない。我々はこれまで、一度もその方法はとらなかった。音楽はみんなのもので、肌の色は関係ない。というのが我々の信念だ。特に君はダメだ。これまで人種を意識してやってきたわけじゃないだろう。よく考えてみろ」と諭し、マイケルもまた、「あなたの言うとおりで、よく考えなくてもわかる。電話をくれて本当にありがとう」と言ったそうです(→『Michael Jackson Inc.』)

モトーラに対して、人種差別を訴えたのは、マライアや、ジョージ・マイケルはしていないことですし、この時代のMJが、黒人としての差別を訴えるというのは、当時の私には違和感しか感じられませんでした。

MJは黒人の可能性を拡げた人物として、今でも尊敬されていますが、当時、白人よりも「白い肌」になっていたMJが、黒人差別を訴えるのに相応しいとは思えず、SONYが販促活動を怠ったことを、差別のせいにするというのは、もっと理解できないことでした。

なぜなら、マイケルだけでなく、プリンスも、MCハマーや、ボビー・ブラウン、ジャネット・ジャクソンや、ホイットニー・ヒューストンも、日本でお茶の間に波及するほど、売れていた洋楽アーティストには黒人が多く、スポーツ界では、マイケル・ジョーダンの人気が凄まじく、オリンピックでは、カール・ルイスや、ジョイナーが活躍し、ゴルファーで一番の有名人といえば、タイガー・ウッズ、女子テニスでは、ビーナス、セレナ姉妹が大活躍し、日本で、アメリカの有名人と言えば、ほとんど黒人のように思えた80年代以降、「人種差別」という問題は、日本ではまったく感じることが出来ないことでもあったからです。

ただ、その後、日本でも、韓流ブームの後に、嫌韓流が流行り、GDPで抜かれた後に、反中ブームが起こったという経験を経て、当時のアメリカで、貧しくなった白人が、どんな思いがしたのか、なんとなく実感を持って想像できるようになった気がします。

満たされない思いを抱く白人が多くなり、自分たちには手にすることの出来ない人種差別という「切り札」を、苦々しく思う人が増えた。それは、日本が貧しくなってから、「在日特権」などということがクローズアップされたように、人類に共通したネガティブな感情なんだと思います。

黒人の流行を上手に取り入れた白人アーティストが活躍するという状況は、マイケルが登場する前は、トラボルタとビージーズによる「サタデー・ナイト・フィーバー」のブームがあり、ブルーアイドソウルと呼ばれた、ホール&オーツも大人気でしたが、この当時から、隆盛を誇っていたヒップホップ文化が、ハーレムだけでなく、ブルックリンをも席巻するようになってから、ブルックリン出身で、イタリア系のモトーラの周囲では、白人の中では一段下に置かれていた、ラテン系、ヒスパニック系の人々を中心に、黒人以外の人種で結束するという状況があったのではないでしょうか。彼らが、黒人勢力に対し、侮蔑的な発言をすることで、集団としてまとまるということは、容易に想像できることなので、

マイケルが「モトーラは、所属アーティストをニガー(黒人に対する蔑称)呼ばわりしている」と言ったことを、彼を失脚させるための嘘だと思っているわけではなく、実際にそういうことはあったのだと思います。

ただ、マイケルほど冷静な人が、様々なストレスを抱えていたとしても、人種差別への思いが再燃したという理由だけで、これまで封印してきた〈黒人差別という切り札〉を使ったとは、私には思えません。

と、このあと[7]に続く予定でしたが・・・

他のことに追われ、時間が経つうちに、MJエステートが持っていたソニー/ATVを、SONYに売却することが決定しました(マイケルの楽曲に対する出版権の所有権は100%エステートが所有したまま)。

http://yourockmyworld829.blog88.fc2.com/blog-entry-3683.html

これに関しての私の感想は、ジョーパパとまったく同じです。

http://yourockmyworld829.blog88.fc2.com/blog-entry-3685.html

マイケルの子供たちが、これを保有し、ビジネスとしていく意向があるのなら、また別の選択もあったでしょうが、長男の選んだ大学から想像しても、おそらくそういった興味はない様子。そうであるなら、マイケルが地上にいない、ビジネスに関与できない状態で、他にどんな選択があるんでしょうか。

「ソニーウォーズの意味について」は、他人をお金の亡者に仕立てて、正義を振りかざす方々が作る “真実” への危惧から書き始めたものですが、しばらく放置することにします。

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by yomodalite | 2015-03-23 08:40 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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☆[2]の続き

アルバム『フェイス(Faith)』は、マイケルのとっての『スリラー』のように、ソロアーティストとしてのジョージ・マイケルを決定づけたアルバムだったようです。そして、このアルバムの記録的なヒットの3年後に発売されたのが、モトーラが酷評し、SONYとの確執を生んだ『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』。


『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』の、アメリカでの売り上げは200万枚、前年までにアメリカで700万枚を売り上げた前作『フェイス』と比べて大きく数字を落としたものの、本国イギリスでは全英初登場1位を記録し、『フェイス』を越すセールスを記録するなど高く評価され、1991年のブリット・アワードでは「ブリティッシュ・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を獲得し、全世界でも800万枚を売り上げた。


米国での人気のなさと、世界での売上げの上昇。といった部分も、マイケルの問題と似ているような気がします。


第15章「フェイス」より(省略・要約して引用しています)


「フェイス」を歌う男は、スタンリー・コワルスキー(『欲望という名の電車』でブランドが演じた役)的な魅力を侍っており、青白きイギリス少年のジェネレーションを経て、エディ・コクラン、エルヴィス、ブランド、ディーンにまで続く、アイドルの系譜をはっきりと継承していた。それは、ハードな時代、クラシック・ロックで優稚なロクデナシ、50年代のアメリカっぽさを象徴するもので、常に流行から外れることはなかった。アルバム『フェイス』のタイトル曲が、続くキャンペーンでのスタイルを決め、1980年代後半のジョージと、初期のワム!のプロモに出てくる、きれいに髭を剃った駆け出しの青二才との違いを明確にした。


最初の2枚のソロ:ンングル「ケアレス・ウイスパー」と「ディファレント・コーナー」は、古典的なワム!の指を鳴らしたりウキウキワクワクしたりするようなイメージからジョージを解き放つものだったが、次の2枚「アイ・ウォント・ユア・セックス」と「フェイス」は、ソロになったジョージ・マイケルはショーの流れを止める泣かせのバラードだけを歌っていくつもりはないということを、はっきりと打ち建てるものになっていた。後者のシングルはジョージの分裂した魂を反映している。


ディック・リーヒイー:『フェイス』が売れ出したとき、私は自分の人生で最も大きな安堵のため息をついたよ。ワム!の解散で、多くの人たちが私のところに来ては「ジョージを説得してもう1枚ワム!のアルバムを作らせなくちゃいけない」って言ってたからね。圧力はずっと続いてたんだ。想像できるだろう。しかし、私はそんなことはしなかった。『フェイス』は、彼が作らなくてはならないアルバムだったんだ。


私の耳には、あれははっきりと立場を明らかにしたアルバム、人生の特別な段階にあるアーティストだということを明確に示したアルバムには聞こえない。80%は良いアルバムだ。というのも、何曲かは特定の目的のために書かれているからね。でも、そうした気兼ねはなくなった。次のアルバムでは、彼がいかに素晴らしいかわかるだろう。きっといいものになるはずだ。


アルバム『フェイス』の唯一現実的な問題は、ファースト・シングルを出すことだった。「アイ・ウォント・ユア・セックス」はずっと前にでていたから、何を出しても最初のシングルみたいなものだった。誰もが「ケアレス・ウィスパー」のようなバラードを期待していた。それがあまりにも見え透いていたから、そうするわけにはいかなかった。


* * *


『フェイス』が世界中のアルバム・チヤートで1位になると、それまで敵意を抱いていた批評家たちが急に、改良された新型のジョージに対して温かくなった。ほとんどの場合、彼らはいともあっさりワム!時代を切り捨て、新しいLPを抱き締めて喋りまくった「信念を持って、ポップスターは成長する」と、ヤッピーたちの『リーダーズ・ダイジェスト』である『ローリング・ストーン』誌は書き立てた。(P248 - 253)


* * *


アルバムはいろいろな歌を大胆に折衷させて集めたものだった。「もしこのアルバムを聞いて何ひとつ好きになれないとしたら、ボッブ・ミュージックが好きじゃないんだ」と、ジョージは『ローリング・ストーン』誌に語っている。『フェイス』のイメージ(マッチョで、自意識の強いカッコ良さを待った、むっつりした雰囲気に包まれたレザーとデニムと無精髭の混合物)は、ジョージの現実のパーソナリティとは何光年も離れていたかもしれないが、そのステージ衣装と彼の普段着とは、先が尖って鉄のついたポスト・モダンの靴に至るまでそっくり同じだった。1987年後半にジョージと昼食を取った人は誰も、いつものように約束の時間に5分だけ遅れて、『フェイス』のジャケットから出て来たような男がレストランに入ってくるのを、メニュー越しに見たはずだ。


彼はそのすべてを、次なる最終段階にまで待っていこうとしていた。彼はついに、スプリングスティーンの労働者の救世主、マドンナの奔放でカッ飛んだ金髪美人、プリンスのにやけた信心深いセックス・マシーン、ジャクソンのムーンウォークするディズニーの突然変異体・・・などに匹敵するイメージを手に入れたのだ。


ジョージ:サイド1は全部ヒット曲。アルバムのクオリティという観点から、うまくいくだろうと期待はしてた。作ってたときも、すごく、すごく満足してた。その出来上がりには自分でびっくりしてしまったほどさ。だけど、予期してなかったのは、ビデオのイメージの効果だった。自分がビジュアル面で強力なアピールをしてるとは思ってなかったんだけど、どうやらそれがアメリカでは心の琴線に触れたようだね。だから、そういう自分では最初全然気づいてなかったような複雑に絡んだ要素とかがあったりして、雪ダルマ式の効果を生んだわけだ。成功の大きさには驚いたし、嬉しかった。


『フェイス』ブームが起こる前、あるミーティングで僕のマネージャーが誰かに向かって、「彼はこのアルバムで世界一ビッグなアーティストになるはずだ」って言ったのを覚えてる。僕は彼に「おい、落ちつけよ、頼むから、ほんとに落ちつけって」って言ったんだ。僕はそれをアメリカ人の興奮癖のせいだと思ってたんだけど、彼はほんとにそう信じ込んでた。


あのイメージがアメリカであんなに役に立つとは期待してなかった。アルバムがものすごく売れることは予想してたけど、自分はそれ以上のものになるほど新鮮味がないって心から信じてた。「フェイス」のビデオは、アルバムの中でも僕の最も強烈なイメージになってる。ジャケットにしても、ジーンズにしても、ブーツにしても。だけど、それをビジュアル上の主張か何かのように考えるには、普段実際に僕が着てるものに近すぎた。あのイメージがあまりにも強烈になるのはいい気持ちはしなかった。最終的に、それが成功の理由を曖昧なものにしてしまうからね。


『ザ・ファイナル』のアルバムを見ると、4つか5つのイメージがあって、そのひとつひとつがその年その年のルックスを示してる。僕はまだ、どうやったらいちばんカッコ良く見えるか試行錯誤している子供だった。髪の長いのと短いの、どっちがカッコ良く見えた? 黒いのとブロンドのとは? 髭ありと髭なしは? デヴィッド・ボウイじゃないんだ。人の興味を持続させるために変えてたんじゃない。いつも満足できなくて、自信がもてなかったからさ。僕はもう違ってみえるようにするためにそんな努力をするつもりはない。人がカメレオン・ビジネスに興味があってそうしたいというなら、それはそれでいい。例えばマドンナやプリンスみたいにね。彼らはすごく上手くやっているよ、だけど、そんなの僕には向いていない。(P254 - 255)


ジョージ・マイケルの初めてのソロ・シングル、自身のプロデユースによる「ケアレス:ワィスパー」は1984年7月、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの「トゥー・トライブス」に代わってブリティッシュ・チャートの1位になった。レコードがリリースされる前、プレスの話題は、ジョージの1万7000ポンドかかった髪型のことでもちきりだった。(P165 - 166)


ロブ・カーン:僕たちがこのレコードを出したとき、CBSはブルース・スプリングスティーン、マイケル・ジャクソン、ピンク・フロイド、ミック・ジャガー、ビリー・ジョエルなどのアルバムも出したんだ。


こんな大物たちがそろってレコードを出す時期に、ジョージ・マイケルは初めてのソロ・アルバム(『フェイス』)を発表したというわけさ。僕たちは大きなキャンペーンを始めたが、それは最初の2週間ですべてを使い果してしまうという類のものではなかった。このレコードは長い間かけて売れるだろうとわかっていたら、52週にわたるキャンペーンをやって、シングルでずっと活気をつないでいったんだ。シングルが出るたびに、どーんと上がって、また改めて火がつくわけだ。終りのころには、グレイテスト・ヒット・アルバムを売ってるようなものだった。2回クリスマスを越したんだ。

 

僕は予定の時間内で目標に達しなかったせいで、体調を崩してしまった。いつも、早く早くって思ってたんだ。ジョージは、ある時期までに何百万枚ものアルバムとツアーのチケットを売るつもりでいた。で、その時期がまだ来ないってことで、僕はかなり内面的に追いつめられて、心疲のあまりひどい潰瘍ができちゃったんだ。いつもすべてがちゃんと行ってるか心配ばかりしてたものだよ ーー マネージャーとしての初仕事で、ストレスも多かったんだ。ワールド・ツアー、何百万枚ものアルバム、ひどい潰瘍 ーー というわけさ。

 

ジョージは、自分も昔は君みたいだった、アルバムのセールスがどうなってるか気にして、いつもすごく追いつめられてたよ、と言ってた。彼は言ったよ、もうそんなことは全然ない、ってね。


1988年はツアーに費された。『フェイス』ツアーは2月19日に東京の日本武退縮に始まり、10月の最後の日、フロリダのペンサコーラ公演まで続いた。その間には、いったん喉の手術のために中断が入ったりもしたが、10カ月間、170公演近くにも及ぶ、淋しい旅回りの苦闘があったのだ。ツアーは、ジョージのキャリアと同じように、西へ向かって移動していった。日本から、サーカスはオーストラリアヘと下り、それからヨーロッパに渡り、その後アメリカでの長い夏の陣が始まった。

 

ショーは『フェイス』からの歌と、ワム!の最高傑作のいくつか(「恋のかけひき」「アイム・ユア・マン」「ディファレント・コーナー」「ケアレス・ウィスパー」)を中心に、ソウル・ボーイの奥の手である名曲(ラベルの「レディ・マーマレード」、ワイルド・チェリーの「プレイ・ザット・ファンキー・ミュージック」、それから昔からのお気に入りであるステイーヴイー・ワンダーの「ある愛の伝説」)を加えたものだった。昔とまったく同じように、ジョージが観客に向かって腰を突き出すと、彼らは悲鳴をあげるのだが、その悲鳴は『フェイス」ツアーでは観客の中の女性のほとんどが婚期に達していたという事実を被い隠していた。

 

ショーは初夏にロンドンにやって来た。ジョージはネルソン・マンデラのベネフィット・コンサートに出演するため、6月11日土曜日の午後、ウェンブリーに向かった。自分自身以外の何かをプロモートするときは他の人の曲を演るという慣例を固守して、彼は3曲の魅力的なカバー(マーヴィン・ゲイの「セクシャル・ヒーリング」、スティーヴィー・ワングーの「ビレッジ・ゲットーランド」、グラディス・ナイトの「イフ・ユー・ワー・マイ・ウーマン」)を歌った。


その日の夜、彼はアールズ・コートで2度目の公演をやり、彼はそのコンサートを今までで最高の出来だったと記憶している。しかし、マンデラ・コンサートのウェンブリーの観客は、ジョージ・マイケルの熱心なファンでもなければ、ライヴ・エイドに集まったような心の広い仲間たちでもなかった。コメディアンのハリー・エンフィールドは、マンデラの観客の心ない快楽主義的態度を、こんなセリフで見事に風刺した。「どこだい?僕の無料(フリー)のネルソン・マンデラ(マンデラを自由に!のスローガンにひっかけている)はどこにあるんだい?」


ジョージ:今はベネフィットについてずっとシニカルになってる。ネルソン・マンデラ・ショーを観てた人たちや、アフリカ人出演者に対する彼らの反応にはゾッとしたよ。彼らの半分はシンプル・マインズを観にきただけで、残りの半分は暴徒だった。すべてが好きじゃなかったね。


僕がしたかったのは、セルフ・プロモーションみたいなことと自分を区別すること。当時自分が売ってたものとは全然関係のないものをやりたかったんだ。自分の考えを押し出してるみたいに取られてしまうから、極端に政治的メッセージの強いものは選びたくなかった。だから、自分にできる最も政治的なことは、影響を受けたアーティストによる3つのソウル・ソングを歌うことだって思ったのさ。スティービー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、グラディス・ナイトっていう。(P258 - 260)


(引用終了)


◎[Amazon]自伝「裸のジョージ・マイケル」


このあと、本書の最後には、当時の新作『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』から、「プレイング・フォー・タイム」「マザーズ・プライド」「サムシング・トゥ・セイヴ」「クレイジーマン・ダンス」「ハッピー」の和訳歌詞が納められていました。


下記はジョージ・マイケルのWikipediaから、


『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』は、前作『フェイス』ほどのヒットにはならず、ジョージ・マイケル個人としてはアルバムの出来に満足していたが、前作ほど所属レーベルがプロモーションに力を入れなかったこともあり売れ行きは鈍く、ソニーは商業的に前作を下回った為に酷評をする(酷評したのは当時のソニ-の社長、トミー・モトーラという)。


これに怒ったジョージ・マイケルは、「ソニーはアーティストをアーティストとして扱わない。こんな会社ではクリエイティヴな仕事は出来ない」と、ソニーを相手に契約無効を訴える裁判を起こす。本来2枚組になる予定だった『LISTEN WITHOUT PREJUDICE』は、2枚目の制作が間に合わず、先行して1枚をvol.1として発売。「Crazyman Dance」、「Happy」など収録予定だったアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 2』を出す予定だったが、この泥沼化した裁判により、発売が無くなってしまう。


後に「Happy」は、エイズ・チャリティ・アルバム『Red Hot + Dance』に収録して発表。「Crazyman Dance」は、上記『Red Hot+Dance』に提供した新曲「Too Funky」のシングルのカップリングとして発表した。また、このアルバム発売後、ワールドツアー「COVER TO COVER TOUR」を日本より行う。タイトルの示すとおり、ツアーの選曲内容は、半分以上が他のアーティストが歌ったカバー曲で選曲されており、オリジナル曲もワム!時代の曲を織り交ぜたりと、ソロデビュー後の曲は殆ど歌われなかった。カバーの選曲がツアーで廻ったアメリカやヨーロッパでは有名な曲ばかりだったが、日本ではそれらの曲を殆ど知らない客が多かった為、評論家からは酷評された。このツアー以降、本人は「ツアーは行わない」と発言し、長年ツアーを行っていなかったが、2006年9月よりヨーロッパツアーを開始。


(以上、Wikipediaより)


裁判は、ジョージの敗訴に終わり、5年8カ月を経た次アルバム『オールダー』は、1996年にヴァージンレーベルから発売になりました。その後、カヴァーアルバム『ソングス・フロム・ザ・ラスト・センチュリー』の後、2004年の『ペイシェンス』で、ジョージは、再び、SONYに戻っています(モトーラが会長職を退いたからとコメントしたらしい)。


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by yomodalite | 2015-02-18 16:04 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)
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☆[1]の続き


ジョージ:ひどい一週間だったよ。「ヤング・ガンズ」がチャートを落っこちた日、女の子が僕にもうつきまとうなって言ったんだから。


ジョージの出版人であるディック・リーヒイは、このレコードを死なせないために、彼のフィリップス時代(ダスティ・スプリングフィールド、ウオーカー・ブラザース)ベル・レコード時代(ベイ・シティ・ローラーズ、デヴィッド・キャシディ)、そして自分のレーベルGTO時代(ドナ・サマーとそのナンバー・ワン・ヒット「アイ・フィール・ラブ」)など、一生を音楽産業でやってきた経験を結集し、この2枚目のシングルに決定的な2度目のチャンスを与えることにした。過去において、ティン・パン・アレイやブリル・ビルディングの時代には、音楽出版は歌の産婆役を務め、作曲家から曲を引き出し、それをアーティストに演奏させることに責任をもっていた。こういう大昔の時代に、出版社は創造性のポン引き役を果たしていたのだ。しかし、ビートルズやビーチ・ポーイズ、バディ・ホリーやチャック・ベリー、リトル・リチャードによって始められたプロセスを完成させてしまうと、アーティストと作曲者は大抵同じ人物になった。出版社はあまり重要でなくなり、むしろレコード会社が重要になってきた。


しかし、ディック・リーヒイは普通の出版人とはかけ離れていた。彼が出版業に入ったのも横道からだった。1977年にGTOをCBSに売却したときの合意条項に競合しないことという条項があって、3年の問は別のレコード会社を始めることができなかった。だから彼は出版業に入ったわけだ。


ディック・リーヒイ:すべては音楽次第であり、すべてはアーティスト次第なんだ。でも、私は出版業に入って来るとき、レコード会社の姿勢を持ち込んだ。出版社のいったいいくつが地下室にデモ・スタジオを持っていると思うかね。出版人としての私の姿勢は、アーティストと契約しても、レコード会社には頼らない、というものだった。アーティストと一緒に働く限りは、音楽的な仕事をするんだ。シングルを出したり、それをプロモートしたり、そういったすべてをレコード会社と一緒に決めていく。それを私たちはジョージとアンドリューとともにやり始めたんだ。歌を気に入って、作曲者と契約するだけじゃダメだ。レコード会社を乗せなくてはね。出版社の伝統的な役割は作曲者を代理して、彼の曲を人にカバーさせることだった。私はそういうことはしない。私は出版を、アーティストと仕事をするひとつの方法として使うんだ。

 

「ワム・ラップ!」は失敗に終っていた。これはジョージにとっては大きな失望だったが、彼にはもっといいレコードが作れるといつも思っていたし、あの段階ではいい勉強になると思っていたところもあったから、私はあまりガッカリしなかった。でも「ヤング・ガンズ」がチャートを下がり始めると、今度は危険だった。これはみんなが話題にしている若いデュオの素晴しいニュー・シングルなんだ・・でも、なにしろ気まぐれなマーケットだからね。もしこれがうまく行ってくれなかったら…11月、12月を置いてスタジオに戻って、次のレコードが出るのは次の年の春になってしまう。いつまでも《有望な若手新人アーティスト》ではいられないんだよ。


これは素晴しいレコードなんだ、みんな聞けば飛び出してレコードを買いに行く・・そう信じなくちゃいけない。イギリスのチャートは、サンブルに選ばれた店の売り上げを調べたものだ。それだけのものなんだ。トップ50の中だって、売り上げは高いものも低いものも大差ない。だから、ある週に誰が、どこの店で、どのレコードを買ったか、それだけに頼っているわけさ。

 

信じている素晴しいレコードがチャートを下がりかけたら、そういうときにできるのはレコードに関係しているすべての人間、ラジオ、プレス、レコード店回りのセールスマンなどを刺激することしかない。みんなに言うんだ。これはまだ終っちゃいない。ほんとに終っていないんだ。一週間くれないか。これを生き返らせてみせる。ほんとにやるからって。


店でレコードをかけさせることだ。ラジオでレコードがかかれば1000万人に聴かせられるが、その中でレコード購買者は少ないパーセンテージだ。でも、レコード店なら、そこにいる全員がレコード購買者といっていい。


ジョージ・マイケルは良すぎるぐらいだったから、うまくいかないはずはなかったが、幸運にも次の週レコードはもち直し、さらに『トップ・オブ・ザ・ポップス』の出演が決まった。たった一度のテレビ出演がワム!をみんなに引き合わせるチャンスになった。(P108 - 110)


* * *


最初、ワム!は喜んでマス・メディアの標的になっていた。アンドリューは段鼻を美容整形で直そうと決めたとき、自分の鼻はデヴィッド・オースティンが投げたシャンパン入れが当たると言う悲劇的な事故で折れてしまったと発表し、手術に煙幕を貼ろうとした。これが悪名高き《鼻事件》の始まりだった。


アンドリューの顔(バンソウコを十字に貼ったもの)が、彼のハンサムな容貌は一生戻らないのではないかという推測の文章とともに、第一面に堂々と出現した。それがみんなインチキで、リッジリーの鼻が高額の美容整形で変えられたことが判明すると、それもまた第一面になった。(P157 - 158)


* * *


ワム!の初のナンバー・ワンは、その後9週間も1位の座に君臨したフランキー・ゴーズ・トウ・ハリウッドの「トゥー・トライブス」に取って替わられたが、音楽業界の中で長く充実したキャリアを歩むことになったのは、リヴァブールからやって未だ愛すべきならず者たちではなかった。フランキーズのレコードはいつもトレヴァー・ホーンの大げさなプロダクションの巧妙な腕に大幅に寄りかかっていた。それがなくなると、彼らはマージー河を虚しく流されていくのみだった。ジョージ・マイケルは、すべてを自分自身でやることを学んでいた。


 サイモン・ネイピア・ベル:プロデューサー兼ソングライターというのは、いつも長い間生き残れるもののようだね。スタジオで監督をするわけだよ。それが自信から来るのか、ヤケから来るのかはわからない。たぶん両方の組み合わせだろうな。自分自身の能力に対する自信と、自分の声を望むように引き出してくれない人たちにすっかり頭に来たっていうのがあるわけだ。欲しいものがわかっていて、それがやって来ないとしたら、自分でプロデュースしなくてはならないことになる。ジョージはプロデュースすることを学ばなくてはならなかったし、その責任を取るように強いられたんだ。

 

ジョージは1984年のチャートの闘いを楽しんだ・・たぶんいつも自分が勝ち技くことになったからだろう。最終的に、彼のライバルたち(ボーイ・ジョージ、フランキーズ、デュランデュラン)はみな、スタミナと作曲能力と自立心に欠けていた。しかも、このライバルたちは、さまざまな大騒ぎに自滅の傾向を見せていた。ジョージも彼なりにそうした傾向はあったが、彼にはそれをうまくやり過ごすセンスがあったし、うまく隠しておく慎重さがあった。

 

夏になると、ジョージ・マイケルのキャリアはイギリスでもアメリカでも最高の時期を迎えたようだった。彼は、作曲し、アレンジ、プロデュースを手がけ、しかも自分の作品を歌うことができるという自分白身の才能によって守られるのと同時に、アドバイザー、腹心の友、信頼できる支援者の強力な集団に囲まれていた。中でも最も近かったのは、もちろんパートナーであるアンドリュー・リッジリーと、出版社であり師でもあるディック・リーヒイだが、さらに弁護士のトニー・ラッセル、スタジオ・エンジニアのクリス・ボーター、パブリシストのコニー・フィリッペロらがいた。友だちであるアンドリューは別として、これらの人たちはみな忠誠心厚く、この仕事上の人間関係は90年代のジョージ・マイケルにも関わっている。


ノーミスとワム!の関係は、ジョージもネイピア・ベルもお互いに相手を用心深く見ていたため、時として緊張することもあったが、1983年後半以降、サイモンとジャズ・サマーズがワールドワイドでバンドのマネージメントを担当するようになっていた。ウエスト・コーストの大物、ロン・ワイズナーとフレディ・デ・マンは、アメリカでのマネージメント契約が機能し始めるよりも前に技けていた。


ジャズ・サマーズ:多くの大きなレコード会社、特にCBSは、かなりけんか腰なんだ。「私たちCBSで君たちをフォローしていくにはいくんだが、私たちにはブルース・スプリングスティーンもマイケル・ジャクソンもバーブラ・ストライザンドもボブ・ディランもいるし、また明日新しいやつが入るんだ」って具合でね。


ワイズナーとデ・マンは、ワム!がすごいバンドだってことをCBSに確信させてなかった。だから、フレディ・デ・マンをミーティングに呼びつけて言ってやったよ。「あんたは何をしてるんだ? なんにも私たちにいいことをしてくれてないじゃないか。もしCBSに行って、このバンドじゃマイケル・ジャクソンのような扱いはムリだって言われたら、マイケル・ジャクソンのような扱いをこのバンドにしてやれるまで頑張らなくちゃならない。彼らはそういう扱いに値いするんだから。もし君ができないと言うのなら、私がやってやろうじゃないか」って。彼にはひどく無遠慮にしてしまって、きっと気分を悪くしただろうし、トニー・ラッセルは契約の件でかなり苦労したと思う。だけど、彼らは手を引いたんだ。


ジョージはそのとき私に言った。「よし、アメリカには君もひどい目に会わされるだろう。でも君はできるって言ったんだからな。徹底的にやってもらわなきゃね」 


ワム!機動部隊のもうひとりの重要なメンバーは、攻撃的ながら人好きのするロンドンっ子、ゲイリー・ファーロウである。日焼けして、早口に喋る金髪のゲイリー・ファーロウは、メディアの一端でワムの利益の監視、促進を管理するフリーの電波放送関係者だった。


ゲイリー・ファーロウ:僕はマーク・ディーンを通じてジョージに会った。マークはワム!のレコードを聞くたびに手首を切りつけたいと思ってるに違いないけどね。僕は相談役として関係するようになったんだ。

 

TVショーをやるとき、すべての要求に責任を持つのが僕の仕事だった。ワム!の駆け出しのころ、僕たちはありったけの照明とダンサーと風船を使おうとした。アーティストを持ち上げてできる限り良く見せようといろんなことをやってプロデューサーやディレクターを駆けずり回らせたあげく、変化が訪れた。こう言うべき時が来たんだ。「もうこんなクズはいらない。あの風船は何だっていうんだ。取っ払ってくれよ。」


この組織の全員が、すべてをダブルチェックするというポリシーを採用していた。レコードは最良の週に発表されただろうか。限定のビデオをふさわしい人に渡していただろうか。アーティストをできる限り最高に見えるようにしていただろうか。


週を追うごとに、僕たちは捕まえにくくなっていった。彼らが思い立って電話してジョージが捕まるなんて状況は、決してなかった。または、レコード会社が電話してきて「週半ば(木曜のチャートのこと。これでレコードが上がるかどうかを推測する)の結果が出た。上がるとは思うがそんな大ヒットにはならないだろう。もしこのショーに出てもらえば、すごく効果があるんだが……」で、また次の週に電話してきて、また3、4番組出てくれないかと言うような、そういうやり方は一切通用しなかった。僕たちの計画が成功したのは、僕たちがすべてをコントロールしていたからだ。


誰にインタビューをさせたらいいかわかっていたし、彼らがほころびを繕ってくれるのもわかっていたし、表紙になれるかどうかもわかっていたし、写真の許可を出すべきかどうかわかっていたし、その写真をカットできないこともわかっていた。そして、シングルを出すごとに、ワム!はだんだん近寄り難くなってきた。彼らは素晴らしいビデオ、楽しいビデオを作り、どの作品もジョージにコントロールされ、演出され、許可を受けて世界中に出ていった。TVショーにはあまり力を入れてなかったね。番組をコントロールすることはできないから。

 

僕がワム!との仕事を始めたとき、彼らはキャーキャーいわれるようなアイドルじゃなかった。彼らはもともとすごくヒップだったんだ。僕の仕事は、彼らをアイドルにすること。それから、僕たちはジョージがアイドルをやめる決定をするのを待った。彼はいちばん最初の日から、自分のやりたいことをはっきりわかっていたよ。自分が使いたいカメラマン、出演したいラジオ番組、誰に自分のことを書いてもらいたいか、誰は嫌か、そしてその理由……。彼はずっと自分のやりたいことがわかっていて、それに従ってしっかりと手綱を握っていた。

 

ジョージが耳を傾ける人たちもいた。だけど、誰も彼をコントロールできなかった。(P162 - 165)


☆[3]に続く


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by yomodalite | 2015-02-18 15:59 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)
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1990年に出版されたジョージ・マイケルの自伝。共著者であるトニー・パースンズが、ジョージが語ったことや、ワム!のアンドリュー、元彼女、マネージャーやスタッフなどの証言をまとめて構成したという内容になっています。

SONYともめるきっかけになったアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』は、この本の出版と同年なので、その件に関しての詳しい話はありませんが、レコード会社との契約、成功後の苦難など、直前の彼の心境などが垣間見えます。

日本版はCBSソニー出版ですが、原著はペンギンブックス。ソニーとの関係が泥沼化するのは、この出版より1、2年あとのこと。

私は、MJとSONYの資料として読んだので、関係がありそうな箇所をメモしておきます。

下記は、すべて省略して引用しています。

すべてを変えてしまったのは、ワム!が解散したあとの初めてのソロ・アルバムだった。『フェイス』の成功の影響は世界中に及んだ。それが1988年アメリカで最も売れたアルバムになり、1989年の第31回グラミー賞でアルバム・オブ・ザ・イヤーを獲得すると、そこら中ジョージ・マイケルー色になってしまったようだった。


このアルバムは、エンターテイメント業界の頂点に彼を押し上げ,ビジネス誌「フォーブス」の集計による、その年の高額所得者トップ5の仲間入りまでさせた。トップ5の他の顔ぶれは、マイケル・ジャクソン、マイク・タイソン、シルヴェスター・ス々ローン、ステイーヴン・スビルバーグ。いずれも、ジョージのいう成功して生きることの難しさを思い出させる々名前だ。スピルバーグ、スタローン、タイソン、ジャクソン、うち3人は最近離婚しているし、ひとりはチンパンジーを相棒にしている。


1990年の、彼がグラミーを穫った日からほぼ1年たったある嵐の午後。彼の価値は流行小説の中でも論じられ(ジェイ・マキナニーの『ストーリー・オブ・マイライフ』の中で、女の子が彼について「ラスト・ネームがファースト・ネームみたいな男は信用しないわ」と言うくだりがある)、彼の悪業は(事実であれ作り話であれ)世界の出来事やダイアナ妃の新しい髪形といったニュースを蹴落として大衆紙のトップを飾る。


この嵐の午後、ジョージはビスケットを食べ、紅茶を飲みながら、『フェイス』を売るのに注がれた多くのエネルギーは、音楽を作るということとは何の関係もなかったと言う。1990年初頭、彼はすべてが変わらなくてはならない、と言っているのだ。


ジョージ:ずっと自分が詐欺師みたいに感じてた。いつの日かみんながそれに気づいて、すべてが持って行かれ、僕の世界の底が抜けてしまうだろうって思ってた。もうそういうのはない。恐怖はなくなった。もう、これが自分の人生のステージだ、なんてふうには感じない。


名声を小さな箱に入れておいて、ときどき出してきては楽しんでる。ある程度のスーパースターになってしまったら、それが自分や周囲の人たちに、とても悲しい、お決まりのやり方で影響を及ぼさないはずはないと思う。僕が成功している理由は、才能があるからだ。だけど、それは永久不滅のものじゃないから守らなくちゃならない。


だから、僕のキャリアのある時期が今、終ろうとしているんだ。今後、僕は以前のようなやり方で自分を見せるつもりはないし、昔のようにプロモーションをしたりメディアを相手に話したりもしないし、もう世の中に面と向かって向き合うつもりもない。音楽が好きだから、ずっとレコードは作っていく。でも、この業界で生きるのは楽しめない。プロセスに無感覚になってきてるって、自分でも感じてるんだけど、そういうのが楽しくないんだ。この業界に長い間いる人たちを見て、あんなふうにはなりたくないって思うよ。

 

この間、サンタバーバラの別荘にいたときのことだ。そこはとても穏やかで、のどかで、自然が溢れてるんだ。家の周りには鷲が飛び交っているし、そこら中にリスがいるし、一歩外に出れば、オレンジやレモンや、あらゆる種類の果実がなってる。ところが、突然、「こういうものこそ金持ちがお金をかけるものなんだ」って思いが横切ってね。いい気分じゃなかったよ。これは、お金とは関係ないものだと思っていたから。

 

本当のこと言って、有名人たちに会うのは嫌いだ。マイケル・ジャクソンは去年僕が賞を獲ったときにすごくよくしてくれたからずいぶん会うけど、大抵の場合名士たちに会っても楽しくないんだ。人間としてどうだっていうんじゃなくて、お互いに共通するものがとても稀薄だからね。何を喋ったらいいんだ? やあ、こんにちは、君も金持ちで有名なんだね。へえ、君も有名人なんだ、とかね。一体何を話せっていうんだい?これはかなり難しいよ。僕は誰かのところに歩み寄って、あなたの仕事をほんとに尊敬してますって言うタイプなんだ。それはいつだって真実。そう思ってもいない人にそんなこと決して言わない。でも、そんなふうにオープンにしたせいでちょっと苦い思いをして、有名人に話しかけるのに臆病になってしまった。できることなら、そういう状況は避けていたいんだ。


ジョージ・マイケルは多分に創造物(つくりもの)だった。僕はずっとそういうふうに見ていた。決して現実のものじゃなかった。それを恥じるつもりはないけど、もう終りだ。それは当初の目的よりもずっと長く生きた。これからもたまには《ジョージ・マイケル》になりたいような気がすることがあるだろうけど、自分のそういう面は切り捨てた ーー 「もうよせよ」って言わなくちゃならないんだ。ライターとして、ひとりの人間として、すごくいけないことだからさ。


1990年代始めに発表されるアルバムと、それをプロモートするための10ヶ月のツアーについて話していた。「僕はロードに出て、ジョージ・マイケルになって、家に帰ってくるんだ」と、彼は言っていた。


家に帰ると誰になるのかと尋ねると、彼はわからないと語った。「ジョージ・キリアコス・パナイオトゥー(本名)じゃないな」と彼。「それよりはずっとジョージ・マイケルみたいだって気がしてる。頭の中では、まだそれはタイトルなんだけどね、「ジョージ・マイケル」っていう。ちょっとした自作のタイトルってところじゃない?


そして今日、彼はジョージ・マイケルを地下室に閉じ込めて、彼のエゴを生き埋めにし、イメージの要求するいろいろな面倒も一緒に捨ててしまうという。そうすれば音楽だけが残ると。彼はこの1年、ずっとこんなふうに言ってきた。ジョージ・マイケルはひとり取り残されることを望んでいるのだ。(第1章より)


* * *


アンドリュー(ワム!のメンバー):契約を交わしたときは有頂天だったよ。マークはいいやつだ ーー 信じられないくらいのエネルギーがあるし、音楽に対して素晴らしい耳を持ってるし、悪くないやつだよ。のちに彼と不和になったのは、彼が僕らに不利になるように動いてるって思ったからなんだ。彼の抱えていた問題をわかってなかったのさ。彼はCBSと厳しい契約を交わしてた。あれは彼の最初の契約で、彼自身の初仕事だった。僕たちはそこんところに全然気づいてなかった。僕らにとってはすべてをうまくいかせてくれるA&Rの大物って感じだった。だけど、彼は僕らより2つか3つ年が上なだけだったんだ。(P91-92)


ジョージ:僕の人生でいちばん驚くべき瞬間というのは、バンドやサックスやなんかを全部入れてちゃんとデモ・テープにした「ケアレス・ウィスパー」を聞いたときだった。その日、僕たちはナンバー・ワンになるような作品を作ったぞってやっと確信したその日に、マークとの契約にサインしたってのは皮肉だった。


その日に、僕たちはすべてにサインして売り渡してしまったんだ。でも自分に何ができるのかっていうのはわからないし、そんな先見の明なんて持ってるわけないからね。

 

もしこれにサインしなかったら、すべては消え去ってしまうって気持ちがどうしてもあった。みんなが、うまくやるのは運のいいやつだけって言うから、思っちやうわけだよ。「これこそ、そのチャンスだ、これこそ僕の運が開けたんだ」って。あとになって、人がこの契約について書くとき、みんないつも同じ言葉を使った ーー「自業自得だ」っていう。


「若者たちは焦っていた」・・・のちにレコード契約が大々的な訴訟問題に発展したとき、ある裁判官はこう言った。例えば父親のレストランでたまたまCBSの重役が食事していたとき、マーク・ディーンはCBSと契約しているのかと尋ねる(もちろんしていたわけだが)などして、ジョージも彼らしい慎重さでことを進めようと最善を尽くしてはいた。しかし、結局のところ3人の若者は全員、成功物語を始めるには少々焦りすぎていた。

  

それまでにあらゆる人々から断られていたワム!と、あらゆる人たちから祭り上げられていたマーク・ディーンとは、今や水のしみ込む同じボート、レコード・レーベルのタイタニック号であるインナーヴィジョン号に乗り込んで、お洒落なサウス・モルトン・ストリートから不安げに出港しようとしていた。

 

ワム!がインナーヴィジョンと結んだ契約は、海底のエビの尻尾よりも食えないものだった。前払い金として各々に渡された500ポンド(それも将来の印税から返済することになっている)で、ワム!の少年たちはインナーヴィジョンとの5年契約にサインした。イギリスではシングル、アルバムともに8パーセント、その他海外ではアルバムが6パーセント、シングルが4パーセントという印税率に、彼らは合意した。12インチ・シングル(1980年代初頭の音楽ビジネスにおける急成長の分野だった)は1ペニーも彼らのものにはならない。印税なしである。これには自業自得以上のものがあった・・・しかし、さらに悪いことが続いた。

 

この苛酷な親方であるインナーヴィジョンは、5年の間、年1枚のアルバムを要求できることになっていた。もし会社がその気になれば毎年もう1枚アルバムを出すこともできた。つまり、ワム!は5年間になんと10枚のアルバムという、ガレー船の奴隷もショックで気絶するような量の仕事をさせられる可能性があったわけだ。もし、バンドが契約の完了を前に解散した場合、例えば9枚目のアルバムを出した直後だとしても、インナーヴィジョンは2人の少年のどちらからもさらに10枚のアルバムを自由に要求してよかった。まさに心臓の止まりそうな条項である。門外漢から見ると、インナーヴィジョンは彼らの魂さえも所有していたかのようだ。

 

この無情にして心痛む契約は、部分的には若きマーク・ディーンの会社(インナーヴィジョンはマークの大きな出発であると同様、ジョージやアンドリューにとっても大きなチャンスだったのだ)を成功させようという固い決意から来たものだったが、部分的には彼の親会社との契約の厳しさから来たものでもあった。若き大立て者を全面的に信頼し、彼の仕事をスタートさせるために大金をつぎ込んだCBSが、彼をずっと監督していたことは想像に難くない。(P93-94)


☆自伝「裸のジョージ・マイケル」[2]に続く


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by yomodalite | 2015-02-18 00:04 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)
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SONY is phony like bologna は、ソーセージの肉のようにインチキという意味


引き続き、マイケルが自分の愛したSONYではないと感じた理由を、モトーラと絡めつつ、色々探っていきたいと思います。

モトーラがソニーミュージックの社長となった1990年代は、グローバリゼーションが地球規模化し、多国籍企業が世界経済を支配していくことになった時代でした。

MJのレーベルであるエピックレコードは1953年に設立され、コロムビアとエピックの2つのレーベルを柱としていたCBSレコードは、1988年にソニーに買収され、1991年にソニー・ミュージックエンタテインメントと改名する。

マイケルがATV版権を買ったのは1985年。1988年に自分のレーベル「MJJ Music」を創った頃、彼には、自分がレコード会社を所有して、アーティストを育てるということも考えていたようです。

MJの30周年記念コンサートには、彼に影響を受けた若いアーティストが大勢出演し、アッシャーや、ビヨンセ(ディスティニー・チャイルド)、ジャスティン・ティンバーレイク(インシンク)は、MJの大ファンを公言しているだけでなく、ブリトニー・スピアーズや、インシンクは、MJの教え子であるウェイド・ロブソンが振り付けを担当していました。

2015年に、ウェイドのことを考えるのは気が重いですが、オーストラリア出身であるウェイドを、アメリカに連れてきたのはMJで、振付師としてだけでなく「MJJ Music」で、アーティスト契約もし、Quoという名前でデビューしました。






ブリトニー・スピアーズやインシンクがやっていること、そのスタイルはすべて僕から来ている。僕がウェイドを教えたんだから。彼は僕のレコード会社「MJJ Music」に所属していて、ラップもできるし、何でもできるんだ。(『MJ Tapes』)


MJにとって、教え子のウェイド・ロブソンは、自分のあとを追う、ティンバーレイクや、ブリトニーを生み出しましたが、自分のレーベルでデビューさせた “Quo” は、ティンバーレイクや、ブリトニーのようには売れなかった。そして、ディスティニー・チャイルド(コロムビア)、インシンク(RCA)、アッシャー(Arista)といったMJチルドレンは、レーベルはちがっても、合併により、すべてソニーミュージックのアーティストになっていました。

ニルヴァーナの登場によって、「マイケル的な美学」が完全に過去のものとなっていく様を体感し続けた。「90年代」に生きる多くのミュージシャン、音楽ファンにとって「マイケル」こそは唾棄すべき商業的な音楽の象徴であり、「ニルヴァーナ/カート・コバーン」こそは救世主であった。(西寺郷太『マイケル・ジャクソン』)


というグランジロック全盛期のあと、怒濤のように現れた「MJチルドレン」は、マイケルへのリスペクトを取り戻す起爆剤にはなりましたが、『インヴィンシブル』は、彼らとヒットチャートを争わなくてはならなかった。


一方、モトーラは、ホール&オーツ、ビリー・ジョエルなど、永年に渡って、様々なアーティストを手がけてきたヒットメイカーですが、ソニー/コロンビア時代に彼が手がけたのは、マライアだけでなく、


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Jennifer Lopez




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SHAKIRA




タリアはマライアの後、モトーラと結婚したアーティスト。

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Thalia





上記の動画や写真は、2000〜2002年でセレクトしていて、彼女たちは皆、ブロンドヘアで、露出の多いファッションなど、マライアの成功パターンを繰り返したようにも見えますが、マライアのデビュー当時の写真を見ると、


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マライアが、今のような巨乳とエロティックな路線になったのは離婚直後から。


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離婚して、SONYを離れる直前1999年頃



ただ、SONYの女性アーティストが、モトーラの趣味により、みんなソフトウェービーのブロンドヘアで、ヌーディーなファッションになったようにも見えるので、コントロール・フリークだと言われても納得できるものはあります。

また、セリーヌ・ディオン、グロリア・エステファン、マライア・キャリー、ジェニファー・ロペス、シャキーラ、そして、マライアと離婚後、再婚したタリアなど、女性アーティストが多いだけでなく、マーク・アンソニー、リッキー・マーティンなど男性アーティストも含めて、

彼はイタリア系の自分と同じ「ラテン系」のアーティストを多く売り出したようです。

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Britney Spears





彼女たち以上に人気を得たブリトニーも、外見上の「戦略」は同じで、ブロンドでグラマーな美女が好まれるというのは、MJが好きな「黄金律」よりも、現世的に確実な「ゴールデンルール」なので、モトーラの個人的趣味ではなく、他のレコード会社でも似たような状況だったかもしれませんが、

この時代は、MJチルドレンが席巻しただけでなく、ポップチャートに登場するアーティストのほとんどに、ダンスの要素と、過激な肉体露出が求められるようになっていました。

最初に、MJが目を付けたATV版権の半分を所有し、巨大企業となったソニーミュージックは、所属アーティストを大勢抱えることによって、その権利ビジネスも巨大になり、SONYだけでなく、80年代から上昇傾向にあったグローバル企業の役員報酬額の伸びは90年を越えて、ますます、急激に上昇していきました。

アーティストが才能と肉体を駆使して、生み出した作品を利用して、アーティストよりも、派手な生活を楽におくっている・・・当時の音楽業界の幹部たちの姿を見て、

アーティストたちに、実際にその代価が支払われていないのは本当に悲しいことです。彼らは、世界中の人々と会社のために大きな喜びを生み出したのに、レコード会社のような組織を始めとして、完全に彼らを利用している。(2002年ハーレムでのスピーチ)


と感じたアーティストは多かったと思いますが、それを公言し、会社に潰されることがない立場だったのは、世界中でMJただひとりだったと思います。



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by yomodalite | 2015-01-31 00:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(11)
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☆(3)の続き


SONYデモで、プロモーションへの不満を主張したのは『インヴィンシブル』だけでしたが、そこまでの経緯を少し振りかえってみたいと思います。


宣伝が少ないと不満を表明した『インヴィンシブル』の前に出された『ヒストリー』と『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』は、その宣伝方法において、両極端な戦略がとられました。


『ヒストリー』は、業界の常識を超えるほどの派手な広告が打たれ、史上最も売り上げた二枚組アルバムという記録を作りましたが、その宣伝方法や、ティーザーは激しい批判を浴び、米英ともにNo.1にもなったにも関わらず、メディアは「失敗」の烙印を押し、


◎[参考記事]この記事内にあるTV『プライムタイム』の内容


一方の『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』は、発売日すら告知しない状態で店頭に並べられ、リミックス・アルバムとして世界最高売り上げのアルバムになりました。


『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』が急遽発売されたのは、未収録になった作品を長く埋蔵させるよりは、アルバムや、通常アメリカのアーティストが行かないような場所までケアしたツアーなど、多額の費用と時間をかけた『ヒストリー』期の損失補填に利用したい。という意向があったのかもしれませんが、


リミックスアルバムといえ、新曲が5曲も含まれたアルバムに対し、このときのMJは、宣伝がないことになんの不満も述べず、これまでよりも安い予算で創られたとおぼしきショートフィルムを1本だけ創っています。


私は未読ですが、2013年に出版された、彼の著書『Hitmaker: The Man and His Music』には、そんなことが書かれているんでしょうか(読まれた方は教えてくださいね!)?


◎[Amazon]『Hitmaker: The Man and His Music』


MJも尊敬する俳優ロバート・デニーロが、ブロンクスで生まれ、自分の才覚によって成功を納めた同胞に対して、「彼を誇りに思う」というレヴュー他、ビリー・ジョエル、ジェニファー・ロペス、有名音楽プロデューサーで、数々のレコード会社の社長でもあったクライブ・デイヴィス等からの賞賛の言葉が並んでいます。


このまったく違う2枚の宣伝方法は、マイケルにとっても、モトーラにとっても、次のアルバムの「観測気球」になったのではないでしょうか。


まったくの想像ですが、


モトーラは、宣伝のし過ぎは、若手ミュージシャンからの反発と、メディアの反感を煽るだけで逆効果になる。と考えたのではないでしょうか。


1993年の疑惑によって、MJが1530万ドルという巨額の和解金を払ったことは大きく報道されていました。また、グランジ・ロックが席巻した当時の米国で、成功したアーティストによる「金にものを言わせる」広告は、若者に好まれていなかった。音楽プロデューサーとして、様々なアーティストの売り出しを考えねばならず、MJだけに特別扱いはできない。むしろ、MJには先輩として、若手にプロモーション費用を譲って欲しいと。 


マイケルがどう考えたかは、さらにむずかしいですが、


『ヒストリー』ティーザーへの批判は、論争を巻き起こしたかったからで(TV番組『プライムタイム』での発言)、むしろ、歓迎すべきことであり、『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』は、自分が創ったショートフィルムだけで売れた。


というような結果を手にしていたのかもしれません。


西寺郷太氏の『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』には、


ソニー創業者のひとりである盛田昭夫会長のことを心から尊敬し、信頼していたマイケルにとっては「これは自分の愛したソニーではない」という気持ちが強かったのかもしれません。


と書かれています。私もそう思います。


マイケルの愛したSONYは、最新の技術と、夢のある商品を提供する「特別な会社」で、また、そのハリウッドへの挑戦に対しても、盛田社長と、マイケルは夢を共有する関係だったと思いますが、ヒットメイカー、モトーラが支配するソニーミュージックは、MJにとっては「普通のレコード会社」になっていた。



上記は、デモの後行われたスピーチですが、その中でも語っているように、


このとき、MJはソニーの半分を所有していました。


モトーラが、ソニー・ミュージックの社長になったのは1990年。『デンジャラス』『ヒストリー』『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』『インヴィンシブル』の製作期間、彼は、MJのレコード会社の社長で、


MJのATV版権と、ソニーの音楽出版事業が合併し、ソニーATVミュージックパブリッシング(以下:ソニーATV)が出来たのは1995年。このときソニーミュージックの社長だったモトーラが、どの程度そこに関わったのか、あるいは関わろうとしていたのか?その詳細はわかりませんが、


モトーラのWikipediaによれば、


在任中、ソニーを最も成功しているグローバルな音楽会社の1つに変えた。とか、ビートルズなどのカタログを獲得をすることによってソニーミュージックの出版事業部を生き返らせて・・・などの記述があるので、ソニーATVの版権の利用について、もっとも力を行使できる立場だったと思われます。


◎Tommy Mottola(Wikipedia)


その使い方の中には、マイケルにとって「音楽を殺す」と感じられるようなことがあったのでしょう。MJは購入する版権の楽曲にもかなりのこだわりがあったようです(『MICHAL JACKSON.INC.』)。


しかしながら、財務一辺倒でない音楽プロデューサー出身のモトーラが、マライアを失った後のSONYで、マイケルまで潰そうとするでしょうか?


西寺氏と同じく、私もそこに大きな疑問を感じます。



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モトーラは、マイケルには「もっと売れて欲しかった」。ただ、マイケルが考えているようなプランは対費用効果に乏しく、これ以上時間をかけても仕方がない。すでに素晴らしい曲が出来ているんだから、これをシングルにすればいいだけだ。というような、誰もが思う正論を、「自分が悪者になるのだ」(西寺郷太『新しいマイケル・ジャクソンの教科書』)と思って言っていたのではないでしょうか。


当時のことを聞かれたモトーラは、「たとえ誰かがノーと言ったとしても、マイケルはイエスと言ってくれる別の人のところに行くだけだったと答えています。(『MICHAL JACKSON.INC.』)


しかし、納得のいかないMJはスピーチで語ったように、


版権の半分を所有したまま、離れる。


と、SONYに迫った。端的に言えば、それは「自分とモトーラのどちらを取るんだ」という脅しです。

そして、SONYはモトーラの方を解雇した。


MJは、モトーラをソニーミュージックの社長の座から降ろすことに成功したわけです。


スピーチでは、SONYから自由になる。と発言しているので、あれだけ批判したSONYに停まったことを疑問に思った人は多いと思いますが、デモの時点ではモトーラはまだ社長ですから、彼を失脚させるためにSONYブランドを攻撃した。ということで理屈は通ります。


これ以降、MJ主導のショートフィルムは創られることなく、多くの企画が流れていったことで、ファンは、MJの創作活動が妨げられていると感じ、さまざまな想像がなされ、マイケルがその後も何度か版権への陰謀を口にしてきたことは、それにさらに拍車をかけました。


「SONYは、ソニーATVの全権をにぎるために、自分のキャリアを破壊しようとしている」


という理屈は、


「アルバムが失敗すれば、資金ぐりが悪化し、ソニーATVを担保に借りている2億ドルの返済が滞る」


ということで、マイケルの心中としてはそうでしょうが、理由はどうであれ、彼が非常にお金のかかる生活をしていたことは否定できませんし、アルバムの制作費に莫大な金額をかけたのも、借金をしたのもMJで、モトーラや、SONYがそうするように仕向けたわけではありません。


MJは当時の破産という噂に対し、FOXニュースのインタビューで、「僕は最近、とある人物に5億ドル(約600億円)の小切手を渡したばかりだ」と答えていますが(→ http://moonwalker.jp/project_old/2002-2.html)


それほどお金があるなら、そして、なぜ、「スリラー」のときと同じように、自分のお金で「アンブレイカブル」のショートフィルムを創らなかったのでしょう?


また、その後も莫大なお金を借りられることができたMJは、なぜ、その借金で本当に創りたいショートフィルムを作らなかったのでしょう?


また、デモを行なった、2002年6月15日から7月16日までの間に、ソニーと共同で、カントリー音楽を扱う音楽出版社エーカフ・ローズを購入するという発表(7月2日)も行なわれています。そこから考えても、やはり、ソニーへの攻撃は、モトーラ失脚のための手段だったと、私には思えてなりません。


☆(5)に続く


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by yomodalite | 2015-01-25 06:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(2)
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とうとう、(3)まで、書いてしまいましたけど、まだ最初に書きたいと思ったところまで、全然来てなくて、焦ったり、迷ったりしつつ、これ以上、自分の心が折れないように、初心を思い出したり、いいわけしたりしたいんですけど、

マイケルに限らず、考察をする意味というのは、自分以外の人のことを考えることで、「自分を知ること」だと思っています。

マイケルは、「偉大な人を学ぶことで、自分も偉大になる」と考えて読書をしていました。

私にとって「偉大な人」は、マイケルですが、自分も。。というようなことは、まるで考えられないので、読書をする行為という部分だけをとっても、ものすごい違いがあるわけです(それ以外はもっと違ってるんですけどねw)。それで、「マイケル・ジャクソンを読む」ということのむずかしさを実感したり、

彼が読んでいた本とか、彼が偉大だと思っていた人物について調べたりということを、コツコツとやっていると、こんなに偉大な人たちがいっぱいいて、命がけで歴史を創ってきたのに、どうして世の中はよくならないんだろうと思って、絶望しそうになるんですが、

偉大な人たちは、そんなことに絶望することなく、偉大な精神を未来に繋ぐために、その身を削ってきた人だということはわかってきて、その「偉大な精神」とは何かということもわかりました。そこだけは、はっきり「わかった」と言ってしまいますが、「偉大な精神」とは、

We Are The World と、Heal The World です。

(ちなみに、今ほどマイケル病にかかっていない頃、私は「Heal The World」という曲は大好きでしたが、「We Are The World」は嫌いでした)

マイケルのことを尊敬しているから、そう思うのではなく、世界宗教の創始者も、科学者も、思想家も、詩人も、政治家も「偉大なひと」はみんなその精神だと思います。

2015年の私だけじゃなく、2016年も、2017年の私もきっとそう思っているんじゃないかと思います。それについては、7年続けているブログでさえ、なにか書こうと思ってから、実際に書いてみると、まるで違う内容になってしまうと思うぐらい、自分の考えも、その書き方もわからない私にしては、めずらしいぐらい確信しているんですが、残念ながら、人は「確信」したときほど、間違ってるものらしくw、


名越氏は、立派な精神科医の方なので、こんな風に言ってくださいますが、ほんの少しかじったその方法論だけで、偉大な人を「病気」に分類したり、幼児期のトラウマや、悲惨な体験を発見しては、物事の真実を知ったと、悦に入っている人の方が世の中には多いので、その創始者であるフロイトが「精神分析」について、慎重に書いてきたこととは、まるで違っていて、

偉大ではない人が、ものすごく正しいと感じるときは、たしかに「ヤバい病気」に犯されている可能性は大いにあって、

しかも、その「ヤバい病気」というのは、ふつうのひとが「偉大な精神」に触れたとき、よく起こる病気で、世の中がよくならない原因でもある。といってもいいぐらいの「ヤバさ」なんですが、一旦、発病すると、完治に至ることは極まれで、もともと感染力が強いだけでなく、発病した人はみんな、積極的に他人をも感染させようとするせいか、少しづつ形を変えて、蔓延するので、どんどんヤバさが増していくという、ホントに恐ろしい病気なんですけど、えっと、何の話でしたっけ(笑)

そうそう、「マイケル・ジャクソン考察と、偉大な精神を考えることのむずかしさ」についてですよ。たしかww

とにかく、そんなわけで、「偉大な精神」のことを考えていたって、偉大にはなれないことが多いだけでなく、むしろ、そこから離れていくことが多いので、

だから、マイケルことはわからない。ってことになるんですけど・・・

でもね、残念なことに、すでに「発病」してしまってるんです。私だけじゃなく、あなたも。

私が考える「マイケル」は、しょせん、「私の考え」です。

私の考えを「マイケルの考え」のように書かれたり、MJではないものを、「MJとして捉えられている」ことへの不快感は、私も日々感じていますが、

本当は憎む必要がないものを、憎んだことで起こる問題は重大で、世界中の人を愛し、また愛された人のことを考えることは、「自分を知ること」だけでなく、少しでも「自分を拡げること」に繋げたいと思います。

マイケルを理解することには、なんの自信もありませんが、今後も、病とつきあっていくので、どうぞよろしくお願いします。


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by yomodalite | 2015-01-22 14:31 | MJ考察系 | Trackback | Comments(8)
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☆[2]の続き

ソニー社内の権力闘争という側面については、下記に詳しく書かれています。

http://homepage3.nifty.com/mana/michael-world7.html

上記は、『ソニー:ドリームキッズの伝説』にインスパイアされた素晴らしい記事ですが、実際の本の中で、マイケルに言及した部分は極わずかということもあって、
少しだけ異論というか、解釈を加えたいと思うのですが、

まず、私は、マイケルにとって関係のないソニー内の権力闘争によって、彼が犠牲になってきた。とは考えません。

私を含め、ほとんどのファンは、MJのような「KING」ではないので、大きなものに巻かれたり、その犠牲になるような経験しかないため、つい、大好きなマイケルのことも、自分と同じように弱い立場として想像しがちなのですが、

「スリラー」で始まった彼の物語は、「バッド」で「デンジャラス」な「ヒストリー」を創りあげ、これ以上ない「インヴィンシブル」な男だったことを、ファンはもっとも忘れてはいけないのではないでしょうか。

「オフ・ザ・ウォール」を続けるということは、常に戦いに勝利するということです。

80年代のイエトニコフ時代のCBSレコードはソニー最大の稼ぎ頭で、90年代のモトーラ時代の音楽部門は、映画部門と並んで、ソニー全体にとって、むしろ「赤字部門」だった。ということは重要な指摘なんですが、歴代トップと、モトーラとの最大の違いは、

モトーラが、マイケルに並ぶほど収益をあげたマライアを育てたことです。


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それまで、なんだかんだ、マイケル頼みだったこれまでの社長と違い、自分自身もアーティストの経験があるモトーラは、プロデュース能力によって、次々にスターを生み出し、マライアを90年代には、MJを凌ぐほどのドル箱に成長させました。マライアにとって「耐えられないほどの干渉」は、裏を返せば、それほど、きめ細やかな指導だったとも言えます。

彼は財務のプロフェッショナルというよりは、むしろ、音楽業界を知り尽くした、現場の叩き上げとして、社長の座を射止めたわけです。

音楽産業は転換期をむかえ、全米のラジオ局は、クリアチャンネルが独占するようになり、それぞれのDJが音楽を選曲して放送する時代は終わり、流通も変化しました。ニューズ・コーポレーションに代表されるメディア・コングロマリットは、5大ネットワークをゴシップ雑誌と同じ水準に引き下げ、彼らは、マイケルの驚異的な知名度をビッグビジネスに転化しましたが、レコード会社にとってはそうではなかった。

ますます売れなくなる音楽業界で、放っておいても売れるアーティストにお金を使わせるよりも、新人のプロモーションにお金をつかう方が、新たな収入源につながることは、誰が考えても明白で、それは、モトーラ個人の考えというよりは、レコード会社だけでなく、多くのビジネス現場で正しいと判断される考え方で、私たちが働く会社でも、ビジネス論理は同じようなものです。

マイケルが、他のアーティストと比べて、待遇面であまりにも恵まれていたことは否定できず、90年代、数々のスキャンダルに見舞われ、ブランド価値に陰りが差したマイケルに物が言えるのは、当時マイケルと同じぐらい稼いでいたマライアの生みの親であるモトーラだけ。。

病床にあった盛田会長だけでなく、当時のソニーは、映画産業への壁に阻まれ、デジタル化への変化の中でもがき続けている最中で、マイケルと同様のマインドを持ち続けたくても出来ない状況でした。


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赤字に転落していた音楽部門を立て直すために、モトーラに期待されたことは、アーティストを今まで以上に「売る」ことだったでしょう。元々ミュージシャンで、敏腕プロデューサーだったモトーラは、これまで成功したアーティストの方法論も、彼らの音楽についても、アーティストが売れたいと思う気持ちも理解できたと思います。

売れるためにはどうすればいいか。日々そのことを考えていたモトーラは、これまでの社長よりも、マイケルのアルバム製作にしても、宣伝活動にしても、現実的な目線で見ていたでしょう。想像でしかありませんが、マイケルの90年代の売上げに匹敵するほど、マライアを売った男は、それまでの社長よりもマイケルに具体的な指示をしがちだったと思います。

そういった意味において、MJにとって、モトーラは、歴代社長の中でもっとも「ウザい」相手だったのでしょう。

成功に導いた実の父親や、ベリー・ゴーディ、クインシー・ジョーンズといった人々でさえ、自分のやり方を通すために別離し、有能なマネージャーのディレオ、ソニーウォーズでも切り札になった版権取得を可能にしたジョン・ブランカでさえも、首にしてきたマイケルは、自分に指図するような相手と長くつきあうことはしません。

マイケルの業績として、彼が新しい音楽ビジネスを開拓したということがよく語られています。新たなビジネスモデルを創るということは、経済分野においては、彼の音楽よりも評価されることですが、それは、そのモデルによって、他の人にも恩恵が与えられるからです。

2015年の音楽業界でも「MJフォロワー」は数えきれないでしょう。

『MJ Tapes』の中で、マイケルは、マドンナのことをあまり良く語っていない理由のひとつは、自分の真似をすることで、自分に近い地位まで獲得した彼女に、自分とはまったく違う精神を感じるからだと思います。その感覚は複雑だと思いますが、

あえて、ひとことで表すとすれば、「PHONEY(偽物)」ではないでしょうか。


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私たちが、心の底から「本物」だと思うアーティストは、素晴らしいものの中にも、「偽物」を感じるような鋭敏な感覚を、永遠に持ち続けることで、真の「本物」になったのだと思います。

マイケルは、マライアの才能を認め、高く評価していますが、それは、彼女がマドンナと違って、自分のライヴァルにはならないということもあったでしょう。でも、社長として、売上げベースで比較すれば、ふたりのアーティストの価値は拮抗していて、モトーラは、その一方を創ったという意識で、マイケルに接したはずです。

「KING OF POP」のみならず、「KING OF MUSIC」であるマイケルがそれをどう感じたか、どんな山よりも高い、MJのプライドを知るファンとしては、彼が「イラっ」とする感じが想像できるんじゃないでしょうか。

「KING OF MUSIC」である自分の想像の翼をすぼめることは、「音楽を殺すこと」と同じだと、マイケルが考えても、彼のファンなら、ただの傲慢だとは思わないでしょう。彼のような音楽を創り上げるには、それぐらいの妥協のなさと同時に、ビジネス論理にも打ち勝つことが必要でした。

米国の一流企業のトップにとって、女性蔑視的な行動や、人種差別的発言を公表されることは完全に「OUT」です。SONYのようなコンシューマー企業は特にそうです。

マライアから、最初にモトーラについて相談を持ちかけられたときから、MJが内心ほくそ笑み、マライアを移籍に誘導していった。とまでは言いませんが(あ、口がすべったw)、ソニーから移籍したマライアから、モトーラの罪状を聞いたとき、小さくガッツポーズするMJが、どうしても私には見えてしまいます(妄想ですw)。

会社に莫大な利益をあげたアーティストを育てたことで得た地位は、彼女に去られたことで、危うくもなっていました。モトーラのマライアに対しての監視や盗聴行為は、ライバル会社に移籍した元妻が自分の立場を悪くすることへの防御の意味合いもあったでしょう。

マライアの口からそれを聞き出したとき、それは、MJにとって、「時はきた。」という瞬間ではなかったでしょうか(またまた妄想w)。

当初のインタヴューで答えていたように、MJのソニー攻撃は、モトーラ下しの手段という側面が大きかった。

ただ、MJの心の中では、結局、そのふたつへの怒りは、同じものとして、燃え上がっていったのだと思います。


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by yomodalite | 2015-01-21 06:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(10)
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☆[1]の続き

ソニーへの抗議で、MJが主張したと言われているのは、

1. 所有する版権を奪うために、アルバム『インヴィンシブル』のプロモーションを積極的に行わなかった。

2. ソニー・ミュージックの社長、トミー・モトーラの人種差別や、元妻(マライア・キャリー)への監視・盗聴などの行為

当初のインタヴューでは、マイケルは「モトーラに怒っているんであって、ソニー全体ではない」と言っていたものの、デモでは、「STOP CRIMINAL MOTTLA(犯罪行為を止めろ、モトーラ)」「GO BACK TO HELL MOTTOLA!!(地獄へ帰れ、モトーラ!)」以上に、「SONY IS PHONEY(いんちきソニー)」「SONY SUCKS(くそったれソニー)」「SONY KILLS MUSIC(ソニーは音楽を殺す)」といったプラカードを挙げているマイケルの姿が目立った。(プラカードはファンが用意したもの)




マライア・キャリーは、CBSレコード(現:ソニーミュージックエンタテイメント)の社長だったトミー・モトーラに見いだされ、1990年にデビュー。1993年にはモトーラと結婚し、1999年を最後にソニー・ミュージックを離れるまで、会社に1000億円を超える利益を与えたと言われるほどの成功を納めた。敏腕音楽プロデューサーだったモトーラが、彼女を成功に導いたことは間違いないものの、私生活と仕事の両面で厳しい干渉を受け続けたマライアは、ついにそれに耐えられなくなり、1998年に離婚。ヴァージンレコードに移籍する。


西寺郷太氏の『新しいマイケル・ジャクソンの教科書』には、

モトーラが元妻のマライアと別離後にした仕打ち、『インヴィンシブル』からほとんどシングルカットがされず、ショートフィルムが作られなかったこと、マイケルの呼びかけにより、21世紀の「ウィー・アー・ザ・ワールド」とも呼ばれた『ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ?』のリリースをなぜかソニーが拒み続けたことは、未だに不可解であり、ふたりの個人的感情のもつれとしか思えない。


と書かれています。ふたりの間に感情のもつれがなかったとは言えないでしょう。ただ、『ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ?』は、自然災害の被害者や、飢餓を救うためだけのチャリティ・ソングとは違っていました。


(下記は歌詞からの抜粋)

How many people will have to die before we will take a stand?

どれだけの人が死んだら、僕たちは立ち上がるんだろう?


How many children will have to cry, before we do all we can?

どれだけの子どもが泣いたら、手を尽くすというのだろう?


If sending your love is all you can give to help one live

人が生きるのを助けるために、愛を与えることができていたら


How many times can we turn our heads and pretend we cannot see

僕たちは、何度顔を背け、見て見ぬ振りをするのだろう?


See, then why do they keep teaching us such hate and cruelty?

よく見て欲しい、なぜ彼らは、私たちに憎しみや残虐を教えようとするのか?


We should give over and over again

僕たちは、何度でも与えよう


What have I got that I can give?

他に何かできる?


We should give over and over again!

僕たちは、何度でも、何度でも、愛を与えるべきなんだ


(yomodalite訳)


◎[参考記事]“What More Can I Give”が歌われる前に行われたスピーチ





日本語字幕 “What More Can I Give”

(私訳とは少し異なりますが)




911を憶えている人なら、あの頃、アメリカ中が戦闘態勢になり、国中に星条旗があふれ、イラク戦争への道に突き進んでいったことを憶えているでしょう。当時は、「イマジン」も放送禁止になり、人々の平和を求める声は抑えられ、戦うことを強いた時代でした。


それぞれ別レーベルのアーティストが参加したこの曲のリリースは、各レコード会社が、その壁を越えて、力をあわせなくてはならない事業でしたが、アフリカやハイチの支援活動と異なり、この時代の米国で「ひとつになること」を求められたのは「テロとの戦い」の方。


“What More Can I Give” は、同時多発テロ事件で傷ついた人々に手を差し伸べるだけでなく、その憎しみを利用して、戦争を起こそうとする政府に反した内容で、お金集めを目的とするチャリティ・ソングを越えたものでした。


モトーラでなくても、そしてSONY以外のレコード会社でも、“What More Can I Give” のリリースには、積極的になれなかったのではないでしょうか。


☆ソニーウォーズの意味について[3]に続く



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by yomodalite | 2015-01-20 06:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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正月三が日を明けた頃、尊敬するある先生から、

「私はPHONEY(偽物)が嫌いなんです」

という言葉を聞いて、私の頭の中は、SONYへの抗議行動を起こしたときのマイケルの姿でいっぱいになり、そのあと、その先生と同年代である吉本隆明のNHKの番組「戦後史証言」を見て、

SONYという会社が2000年以降のMJの活動を妨げ、その他諸々、彼への陰謀に関わっていたという論調に違和感を感じていた理由のひとつは、偏向する報道の視聴者であり、利潤を追求するために働いている「私たち」が抜けていたからだと思いました。

大衆の原像を忘却し、この原像から、思想が孤立することは恥辱である。大衆の思想は、世界性という基盤をもっているのだ。ー 吉本隆明「情況とはなにか」

大衆の原像とは、今のありのままの大衆ではなくて、大衆の理想化されたイメージであり、それを正しさの基準としなければならないのだと。

MJが背負った「KING OF POP」の「POP(大衆)」にも、それと同じようなものを感じる。

番組では、吉本隆明に影響をうけた人々だけでなく、同時代のさまざまな論客による彼への異論も紹介されていて、それぞれの人がもつ「正しさ」のものさしのようなものも見えたけど、「思想家」として、時代を超えるものと、そうではないものとの違いも、少しだけ見えたような・・

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そんなことを考えつつ、久しぶりに西寺郷太氏の『マイケル・ジャクソン』を見てみたら、

人生を危険にさらせ ー『悦ばしき知識』

という、ニーチェの言葉が冒頭にあって、西寺氏がどんなきもちでそれを引用されたのかはわからないけど、なにか同じものを感じて嬉しくなった。マイケルは、ほとんど語らなかったし、むずかしい言葉も絶対につかわなかったけど、彼のことを考えようとすると、偉大な思想家の力を借りなくては説明の出来ないことがいっぱいある。というか、MJの持っていた何かが、それまでは何を言っているのかわからなかった言葉の中から、それを発見させたり、ゴミ箱に入れてもいいものも教えてくれる。

若いときに「本物をいっぱい見ろ」とよく言われたけど、何が「本物」なのかよくわからなかった。でも、一度でも「本物」に出会えると、芋づる式に「本物」に出会うこともできれば、素晴らしく見えるものの中に偽物があることにも気づく。

偽物は、借り物の言葉で出来ているけど、本物は、それを表す言葉がないことに気づかされて、言葉を失わせられる。それで、自分の無知を知ることができるのだ。

MJのことを考えていると、いつも言葉を失って、誰かが、彼について語っている、その言葉にも納得ができない(そんな経験をみんなもしてるよね?)。

そんなことを考えていたら、childspirits先生から電話がかかってきた。

C:お正月に『THIS IS IT』をコマ送りで見て、どうだった?


Y:私って、すっごい俳優だなって思うと、コマ送りで見るの好きじゃん? でもさ、『THIS IS IT』をこれだけ何度も見てるのに、まだやったことなかったのね。なんか、怖かったんだよねw、うっかりすると、なんだか恐ろしいものが見えそうでさ、そーゆーことよくあるじゃん、マイケルの場合w。でもね、だいじょうぶだった。もうね、どこで止めてもすっごく絵になってた!


C:娘がまだこどもの頃に、「スリラー」を見せたことがあったんだけど、それからしばらくして、「You Are Not Alone」を見て、すごくショックを受けてた。あの「スリラー」の人がこんな風になったんだって。


Y:リアルタイムで彼の変化を見てるときは、あれでも、充分ショックだったし、基本的にいつもショックを受けてたような気がするw「Blood On The Dance Floor」だって、今は死ぬほど好きだけど、昔あれを見たときの怖さは、未だに忘れられないし、あらゆる映像の中でも一番トラウマになった映像は「You Rock My World」のような気がするしw。。。あのね、今「ソニーウォーズ」のこと考えてて、それで、「Threatened」の歌詞も翻訳しようと思って読んでて、それで、あらためて怖いなぁって思ってたところだったんだ。ホント、マイケルってハンパなく恐ろしいよね。怒ってる神々って多いからかなぁ・・・




彼の怖さについては、まだよくわからないけど、「ソニーウォーズ」のときの、今までに見たことないような行動。あのときのMJは何に怒っていたんだろう?

SONYは、アップル設立前のスティーブ・ジョブズが憧れるほど輝いていた会社でありながら、一般的な米国人にとっては、自国の衰退を感じさせた外国企業の代表として、それまでも、職を奪われた人々による抗議のはけ口として常にニュースにされやすい会社で、単純な陰謀論を信じやすいファンにとって、うってつけの企業だった。

それまでのMJは、SONYから、その革新性の象徴のように扱われていて、彼が抗議した、レコード会社がアーティストから搾取しているという主張は、SONYという会社の固有の資質ではなく、むしろ、SONYのマイケルへの投資は、他と比較すれば異例で、MJがどんなに売れたからといって、他の会社だったらこれほど自由にできたとも思えなかった。

『HIStory』が、巨額の広告費を投じた割には売れなかった後の『Invincible』までの6年という長い歳月は、レコード会社としては我慢の限界を遥かにこえていて、MJがアーティストとして、彼らからの催促をかわし続けたことは流石としか言いようがないけど、SONY本体が映画部門の失敗で苦しむ中、売り上げ不振だったレコード部門の縮小は止む終えないもので、当時、MJが得意としていた華やかな宣伝は、消費者にも好まれなくなっていた。


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そんな状況の中でも、相変わらず巨額な費用をかけたビデオを製作し、それが1本しか創れなかったから、会社が「Invincible」を売ることを妨害したとか、マライア・キャリーの訴えを100%信用し、トミー・モトーラを「悪魔」呼ばわりするなんて、

「僕は人を憎むことは決して教えない」

と言っていたことに反してないだろうか。SONYとの契約の中には知られていないことも多くあるのだと思いますが、これまで見聞きしたものの中には、真実の光を放つものはなく、長い時間をかけて創った素晴らしいアルバムに対して、不当なほど酷い評価を下したメディアや批評家に憤慨するのならわかるけど、

すでに、知らない人が誰もいないほど有名になったアーティストが、広告が足らないことへの不満から、所属レコード会社に対して派手な抗議をするなんて、円熟したアーティストの行動とは思えないし、トミー・モトーラは、MJが「悪魔」と呼ぶには小さ過ぎる相手ではないか。長くエンタメ業界で過ごしてきた彼なら、モトーラ程度の「悪魔」なら、何度も遭遇してきたはず。。

『インヴィンシブル』が発売になったのは、同時多発テロと同じ2001年。抗議行動は、その翌年、ブッシュ大統領が「悪の枢軸」発言をした2002年。そのとき、マイケルには、もっと他に言うべき言葉があったのではないか。

私はずっとあのときのMJのことがわからなかった。


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by yomodalite | 2015-01-18 20:27 | MJ考察系 | Trackback | Comments(2)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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