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連休中のこと。
「これは、、マイケル親分にはナイショじゃけーの」と、akim兄に言われて(嘘)、周囲に話が漏れないカラオケに行く。。

マイケル親分が主夢裡を許しても、akim兄ぃが許さなかったらどげんことになるか、身震いを覚えつつカラオケルームに入り、一時間以上に渡って、あの腐れ外道(←これは架神先生の本から教えてもらった言葉だからね!)をどうシメるか、色々と話し合った結果、

「今回は泳がしちゃる」というakim兄ぃは、

ブラックオーキッドの薫りを漂わせ、

ドスをマイクに持ち替えると、

いつものakimさんに戻って、『Let It Go』を熱唱!


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akimさんが、♪The cold never bothered me anyway(少しも寒くないわ)って言うから、

私は、♪I'm so cold, let me in-a-your window(すごく寒いわ。お願い、中に入れてよ)っていう。




akimさんはその後もこんなのとか、

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冒頭の写真の曲や、こんな曲とか、


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こんな曲まで!


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ソウルフルな熱唱に次ぐ熱唱に、タンバリンを叩きまくる私。

そして、新曲を制覇して、ちょっぴり落ち着いたマイケル(akimさん)に、好物のダイアナを与えるのだった。。







元気になったマイケル(akimさん)は、
仲良しだったホイットニーの歌も歌ってくれて、







ダイアナおかわりされた私は、、







そして、ダイアナと過ごした日々を思い出したマイケルは(akimさん)は、







ふたりで歌った、、






そして、、クライマックスは、akimさんの十八番。。。


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たっぷり3時間コースのカラオケでわかったのは、

主夢裡のような「上から目線」の大人は普通にいっぱいいるけど、実際に上から見て、みんなの気持ちになって、言葉を選んでいたのは、マイケルだけ。。

そんなことをしみじみと感じつつ、

ふたりの主婦は、阪急のデパ地下に総菜を買いに行ったのだった。。




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by yomodalite | 2014-09-23 20:49 | MJ系ひとりごと | Trackback | Comments(6)
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聖誕祭月のため、映画もマイケル絡み!

もっとも、そーゆー「縛り」にあっているというよりは、むしろ、普段は、たまには他のことを考えなくては、、と思って、無理しているところをw、思う存分好きなだけ!というルールに自分でしちゃっている方が正しいのだけどww。

ハーモニー・コリン監督が2007年に撮った、マイケル・ジャクソンとしてしか生きられない青年が主人公の映画『ミスター・ロンリー』は、マイケルのインパーソネーターをしている青年が、マリリン・モンローのインパーソネーターに出会い、チャップリンのモノマネをしている彼女の夫と、ふたりの間にできた、シャーリー・テンプルのモノマネをしている子供や、それ以外にも、サミー・ディヴィス・Jrや、三バカ大将の3人、リンカーン大統領や、ローマ法王まで、様々なモノマネ芸人たちが一緒に暮らすコミューンに行って。。というお話。

MJファンにとっては、マイケル役のクオリティが気になるところですが、
演じているディエゴ・ルナ、結構キュートです!

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この映画の「マイケル」は、実際のMJのような、知性とか、ユーモア感覚には乏しいのですが、演じているのはMJではなく、彼のモノマネ芸人というところが幸いして、MJの魅力の一部である、シャイで、スイートな面が、よく出てます。

といっても、MJファンにおすすめなどと言うつもりはなく、ハーモニー・コリンに興味があるひとが見ればいい映画だとはおもうのですが、なんとなく、私はこの映画を撮ったときのコリンには、スパイク・リーが『ゲット・オン・ザ・バス』を撮ったときと似ているというか、

◎[関連記事]マイケルとスパイク・リー

作風は似ているようには感じられない2人ですが、ふたりとも次作に悩んでいるときに、MJを選んだような。。リーが、こどもの頃からMJファンというのは、よく知られたことですが、コリンの映画にも、彼が、MJの言葉をかなり調べていたように感じる点がありました。MJが話したことを、セリフにしているというのとは、少しちがうのですが。。

無類の映画マニアであるMJは、おそらくこの映画を観たでしょう。彼はどんな風に感じたんだろうと。私は思って観てました。


下記に、エリザベス女王のモノマネ芸人の言葉と、
この映画の「マイケル」が、インパーソネーターを止める決意をしたあとの言葉、

それと、

MJ自身の言葉も記しておきます。


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エリザベス女王芸人の言葉

モノマネ芸人といえど、どこにでもいる普通の人間
お客様だけが頼りです
芸における私たちの目標は
お客様を喜ばせるよう努め
美と人生を探すこと
その輝きや詩を探すことです
歌にもあります
“天国にいる気分”
“二人が組んで踊ればまさに天国”
“あなたと私が頬すりよせて踊れば・・・”
ありがとう、そしてお忘れなく
モノマネをする人の魂こそ真実に近いのです
子供心を失わぬよう、
私たちは他者の姿を通じて生きるのです
ありがとう、感謝します
神と共にあらんことを

(日本語字幕より)



映画のマイケルが「マイケル・ジャクソン」を止めたあとのモノローグ

どこを見ても災いだらけ
この世は完全に病んでしまっている
みんなが暗闇や陰から逃れようとしている
でも逃げたっていつかは追いつかれる
僕にはわかる
逃げることもできず、隠れることも出来ない
逃げ道はないんだ
なら、真っ正面から向き合おう
群衆の中でひとりぼっちになろう
なにもかも所詮まぼろし
もう終わらせるべきだ
夢は長続きしない
みんな希望に満ちた顔をしている
何かを追い求めて生きている
夢を追っているんだ
ひたすら上だけを見つめて
答えを探し求めている
答えはもうとっくに見つかっているのに
そのことに気づいていないんだ
そのあいだにも
死の世界は僕らを待っている
僕らを連れ去る日を
辛抱強く待っている

(吹き替え字幕より)


映画が始まるとすぐに「ミスター・ロンリー」のメロディが流れました。





MJが孤独について語った言葉で、私が思い出すのはこの言葉です。

デートや女の子との関係が、僕が探し求めているようなハッピーエンドになったことはありません。いつも、何かが邪魔をするのです。僕が何百万人かの人と分かち合うものと、ひとりの相手と分かち合うものとは別なのです。

多くの女の子たちは、僕を孤独から救いたいらしい。

でも僕には彼女たちが、僕の孤独を分かち合いたがっているように見えます。僕はそんなことは誰にも望んでいません。

なぜなら、僕は自分が世界で一番孤独な人間のひとりだと信じているのですから。

(自伝『ムーンウォーク』P178より省略引用)




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by yomodalite | 2014-08-11 20:54 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)
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ものすごく暑かったけど、書店に出かけた。

クレジットカードのポイントは「Amazonカード」に引き換えてって、ダーリンに言ったのに、「図書カード」が送られてきたからだ。普段そんなに本を買わないダーリンは、本を読もうという気持ちを図書カードに変えることで、その気持ちを忘れずにもっていようと思ったのだろうけど、そうはさせない。

自分の本だけで一杯なのに、
同居人の本が増えたら、狭い家がますます狭くなるもの。

彼が分厚いうえに、上下刊あるような、ある長大な小説を買おうと思う。と言うので、同じ理由で購入し、何年も本棚に置いたままになっている本を指差し、速攻で息の根を止める。

世の中には、おこづかいのすべてを妻に管理されてる人も多いのに、あなたはすべて自由なんだから、買いたいときに、好きに買って、読んだらすぐに図書館に寄贈して。

そうやって図書カードをすべて没収したせいで、外出するだけで死ぬかもしれない日に、書店に来たのだ。急ぐ理由も、図書カードで部屋が狭くなることもないのに。。

でも、この財布の中に入るほど薄くて小さなカードは、本に変えてしまうと、何倍も大きくなる。彼が分厚い長大な小説を買おうと思ったのは、図書館で借りても、返却までに読み切れないからだけど、そもそも、小説は一度読んだら、なかなか再読することはない。

だから、今後、書棚で場所をとってもいいのは優れたレファ本だけ。

そんな風に思いつつ、チェックしてあった様々な分野の本を見に、梅田の丸善・ジュンク堂を、上から順に見ていく。

最初に訪れた棚で、『ロシアを動かした秘密結社ーフリーメーソンと革命家の系譜』を見る。その本が置いてある棚が「錬金術・占星術・ニューエイジ」だということに驚き(そっち系じゃないのにw)、隣の「精神世界」という棚から、怖いもの見たさで、『世界一底なしの闇の国』をパラパラめくると、最新の闇情報として(笑)が、まだまだ上がいた。みたいなことが書いてあった

書かれていることの中には、ある意味そのとおりだと言える部分もあるけど、巻末の記事にある、フルフォード氏のユダヤへの激しい憎悪に、もっとも「深い闇」を感じて、そそくさと立ち去る(この手の本を「精神世界」に分類するのは、ビョーキの人のものの見方って意味かしらw)。

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次に、近くの宗教・神学コーナーで、前々から家においておこうと思っていた『書物としての新約聖書』と、新刊の『イエス・キリストは実在したのか?』をパラ見。(『仁義なき〜』は、成毛氏のけぞりも納得!)『タルムードのイエス』の翻訳で知った、上村静氏の『宗教の倒錯』という本がすごく面白かったので、自分的に、この分野はさらに勢いづいているんだけど、すでに「積ん読本」も多いので、「経営戦略」の棚に移動したら、楠木建氏の大きな看板が目立っていた。最近読んだ氏の『ストーリーとしての競争戦略』の長いまえがきには、

「無意味と嘘の間に位置するのが論理なのです」

というステキな言葉があって、それで、まったく必要を感じない経営戦略の本を読んだのだけど、書いてあることが何もわからない人間にまで、「愛」が届くというのは、楠木氏がよほど優しいひとだからだと思う。本当に長くて辛かったけどw


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他にも、ケリー・マクゴニガルという人の本がいっぱいあったけど、美女の「戦略」から、自分が学べることがあるような気がしないので(苦笑)、カレン・フェランの『申し訳ない、御社をつぶしたのは私です』をパラ見して、その後「捜査・警察実務」の棚でしばらく過ごしているうちに、そういえば、最近ヤクザ本を読んでいなかったと反省しw、文庫・新書コーナーで、『鎮魂 ー さらば、愛しの山口組』『民暴の帝王』などを試食すると、あっさり落ち着きを取り戻す。

その他、『「鼻の横を押す」と病気が治る』とか、『「中卒」でもわかる科学入門』を探すのに手間どったりしているうちに、

結局、購入するのは、以前図書館で読んだ『「ユダ福音書」の謎を解く』にしようかなぁと思いなおし、再度、聖書・神学コーナーがある5階に戻る。


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自分にもっと英語力があったら、チョプラに直接インタヴュー(心のパワーのことじゃなくて、MJのことをねw)するかなぁ。。



同じ場所に戻ったのに、チョプラのポスターを見たせいかw、さっきは、まったく見えていなかった『現代思想』のバックナンバーに目が釘付けになった。


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メルロ=ポンティ、ダーウィン、フッサール、、、マイケル・ジャクソン?!

『現代思想』で特集号なんてあったんだぁ。。と思って、出版年をみると2009年8月15日。まだ『THIS IS IT』も公開されていないあの頃、急いで創られたものか。。と、まったく期待せずに、中を見ると、、

想像どおりの、またか!と思う内容の中にも、ところどころ、グッとこみ上げてくるものを感じて、それで、結局その本を買った。

しかたないよね。。

だって、宗教も、スピリチュアルも、科学も、冤罪も、世界の陰謀も、経営学とか、自分を変えることとか、鼻の横のことさえもw、

結局、全部、MJに関係あるんだもん。


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この写真は素敵なんだけど、ファンの方によるFAKEです!
https://www.facebook.com/karima.jackson.90



家に帰って読んでみたら、最初は「自分が少しでも知的に見える」ことしか考えてないせいで、どこにも知的なところのない批評家たちの文章の中では、少しはマシに思えたのだけど、やっぱり、段々と怒りが増してきて、

この感情の中で、自分が5年間を過ごしたことを、あらためて思った。

8月は、自分の中では、まるごと「聖誕祭」になると思う。






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by yomodalite | 2014-07-30 14:15 | 日常と写真 | Trackback | Comments(4)

World Cup 2014 が終わった。

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海外クラブの試合なんて、ほとんど観ることができない時代に、サッカーファンになったからかもしれないけど、やっぱり私にとって、「ワールドカップ」こそがサッカーだと思った大会だった。何年も前からそうだったのに、2014年に特にそう思ってしまうのは世界の変化が気になっていたからなんじゃないかと思う。今回は、開催国というだけでなく、人種が融合し、“We Are The One” がどこよりも似合うブラジルに優勝して欲しいと思っていた。


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彼らの明るいサッカーで、この世界的な祝祭が盛り上がることを期待していたけど、結果はそうじゃなかった。ワールドカップの勝敗は、国力とは微妙に異なっていたり、そういった国力と言われるもの以外での、国民性や、国がもつ個性があらわれることがよくある。経済的に発展したブラジルが歴史的大敗を経験してしまうのも、アルゼンチンやギリシャの底力がすごかったり、衰退まっしぐらとしか思えなくなってからの米国サッカーの安定した力や、可能性とか、、


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何度も聴いた6万人が歌っていた国歌

イピランガの穏やかな川岸から聞こえる勇者たちの鳴り響く雄叫び
その時、祖国の空に自由の太陽が光り輝き、力強き腕で勝ち取りし、平等の誓い
自然が生んだ雄大さ、美しく、強く、勇敢な巨人
未来が映し出す汝の偉大さ
あがめる大地、数多の中で、最愛の国よ、ブラジル!
この大地の子の優しき母、いとしき祖国、ブラジル!

(歌詞:NHKワールドカップ総集編より)


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日本代表は、世界に近づいたと言われ、これまで以上の結果を期待されていたけど、私は、いつの時代の日本代表の戦い方にも、第二次大戦のときからまったく変わらない日本マインドを感じる。

今回何度も聞かれた「自分たちの戦い」という言葉は、まさに象徴的で、日本は、歴史的に負けたことで奴隷になり、勝つことで、そこから脱け出せるというような経験がないせいか、戦いにおいて、いつも自分のいいところを出したい。という気持ちに溢れているように見える。

勝つことよりも、自分のいいところを出したいというマインドは、ちっとも悪いことじゃないけど、日本はサッカー以外でも、世界でこの20年あまり(ある分野では)ずっと負け続けていて、その負け続けている分野の人々が、自分が負けていることをまったく認めずに、誰かに戦えと言ってるような気がして、それで少し暗くなってしまうのだ。

毎回どんな試合も「絶対に負けられない」というキャッチフレーズが踊るけど、毎回「負けられない」という時点で、なにか、その言葉には空虚な響きを感じてしまう。そんなことを言ってると、「いざというとき」には、もう疲れきってしまっているし、やっぱり、私たちは「負けたくない」よりも、「自分たちの戦い」が好きなのだ。

◎[参考記事]リアリスト(?)俊輔の見方
◎[共感した感想]オランダ、スペイン戦は衝撃だった


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決勝は、アルゼンチン(南米)対ドイツ(欧州)。

優勝は、多くの人が予想していたとおりドイツで、私もドイツが勝ってよかったと思った。メッシは素晴らしかったけど、アルゼンチンが優勝するには何かが足らなくて、ドイツにはその何かが備わっていた。

でも、ドイツが勝ったからといって、ヨーロッパ勢が2014年を制したかというと、他の欧州強豪国は惨敗が目立ち、アルゼンチンのサッカーは南米ぽくはない。

だから、体格的にも似ていて、自分たちのことを精神的には「白人」だと思っている日本が、サッカーが強くなるために見習うとすれば、アルゼンチンではないかと思うけど、私たちはそんな選択はしないし、オランダやドイツのような戦略は日本には無理だけど、おそらく、日本はこれからも「自分たちのサッカー」を探し続けて、ヨーロッパから監督を選ぶでしょう。ただ、欧州のビッグクラブを率いた経験のあるプロの監督にとって、日本の代表監督が「オイシい仕事」だということは、ザッケローニによって広まったと思う。







開催前、ブラジルではワールドカップに巨額費用を投じる一方で、住民の生活のことを考えていないとする抗議の激しさなども伝えられていて、“They Don’t Care About Us” は、そんな抗議に、うってつけのテーマソングのようにもなっていた。

私はどんな運動であれ、マイケルの政治利用には感心しない。

政治的手法は、MJの表現とは異なるもので、こういった抗議活動が、政治に与える影響も見えないし、正義の旗に酔うためのレクリエーションのように思え、運動が大きな盛り上がりを見せても、代表者が「取り引き」する姿しか想像できないのは、私が悲観的すぎるからかもしれない。

ただ、ワールドカップの祝祭性にも、貧困とか差別といった政治運動にも、マイケルの音楽はぴったりと合っていて、それは、自分の気持ちを「政治的な言葉」や「正義行動」にしてしまう人には持ち得ない「メッセージ」で、そこが、MJの天才性だと思う。

FIFAや、日本のサッカー協会が腐っていたとしても、ワールドカップや、サッカーを楽しみ、そこに意味を見いだすことは出来る。


ボスニア・ヘルツェゴビナが初出場して、久しぶりにオシムの元気な姿も見られた。

下記は、民族融合チームの夢に尽力したオシムの言葉。

みんながサッカーを愛する必要はないが、
勝利を祝う姿を見るだけでも、国民には喜びとなる。
その気持ちが大事なんだ。

自分はなにかの一部だと感じ、
人々とともに道に出て、ともに歌い踊る。
生活や仕事に希望が戻り、国が再び歩み始めるんだ。

(NHKワールドカップ総集編より)


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冒頭の写真は、実際の映像ではなくて合成だと思うけど、ブラジルの映像といえば、コルコバードのキリスト像がいつも映っていて、その映像を見ると、MJの “They Don’t Care About Us” を思い出して、やっぱり、その像の人と、MJは似ていると思うのだ。

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by yomodalite | 2014-07-15 11:07 | スポーツ | Trackback | Comments(0)

なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)

八木谷 涼子/朝日新聞出版

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名著として名高い『知って役立つキリスト教大研究(新潮OH!文庫)』の増補改訂版。KIndle版も出ましたーーーー!


って、昨年末のことなんですけどw、ちょっと前に「よくわかる」なんて書いてあっても、宗教関係者が書いた本は、よくわからない本ばかり。なんてことを書いてしまいましたが、本書も信仰者によるものではなく、西欧文学からキリスト教に興味をもち、自ら「キリスト教オタク」であるという著者によるもの。


◎著者プロフィール


こーゆーレファ本って、KIndle版が便利ですよね!


内容に関しては、こちらの「なか見!検索」で目次をご覧いただきたいのですが、大勢のレヴュアーが言っているように、キリスト教の宗派についての分類が秀逸で、イラストもカラーでわかりやすく、辞書やウィキペディアより読みやすいだけでなく、文章に読ませる魅力がある、めったにないレファ本。


宗派についての箇所で、私が今、ハワード・ヒューズの次の次ぐらいに興味がある「ユニテリアン」に関する部分を、省略して少しだけ紹介します。


なぜ、「ユニテリアン」なのかと言えば、大阪に来てから、日本の近代に思いを馳せることが多くなって、、それは、街中に、ヴォーリズやフランク・ロイド・ライトの影響が感じられる近代建築の素敵な建物が多いせいでもあるんですけど、


福沢諭吉がユニテリアンに失望して、天皇制が生まれ、ユニテリアンは「理神論」から「無神論」へと進行し、地球上を一つの共同体とするグローバリズムは、超格差社会を生み、そうして、東京は安っぽいチェーン店と超高層ビルが立ち並ぶ街になったんだなぁ。。みたいなことを、しみじみ感じてしまうのと、


MJは、その会派に属していたことはないですが、エホバの証人を脱会後の、彼の神の捉え方に一番近い宗派を選ぶとすれば「ユニテリアン」だと思うので。


(引用開始)


ユニテリアン・ユニヴァーサリスト

三位一体を教義としない、境界に位置する信仰者たち


◎自由と理性と寛容を重んじ、権威への盲従を嫌う

◎自由主義神学の最先端

◎北米では女性教師の比率が高く、性的マイノリティを排除しない

◎異宗教間の交流活動にも積極的

◎キーワードは万人救済説、ユニティ、リベラル

◎代表地域はアメリカ、ハンガリー、ルーマニア

◎イメージとしては、アイザック・ニュートン、

詩人ラルフ・エマソン、チャールズ・ダーウィン

◎信者は約50万人


名称の由来と起源


ユニテリアンとは、キリスト教正当は教理の中心である三位一体論者に対し、キリストの神性の教理を否定して神の単一性を強調する人々をさす。(中略)


一方、ユニヴァーサリストとは、少数の者のみが神に選ばれ救われるとする予定説とは逆に、すべての者が例外なしに救われるとする万人救済説を主張する人々のこと。(中略)


キリスト教においては、三位一体説をとる教派が「正統」とされている。そのトリニティに対し、神のユニティ、すなわち単一性を唱えてキリストの神性を否定したのがユニテリアンと呼ばれる人々だ。(中略)社会の表面に浮上するのは、啓示や奇跡を疑い、理性のみによる神の認識を主張する理神論が登場して、人間の合理的思考が尊重されるようになった18世紀後半から。英国では、インテリ層に支持され、ユニテリアンというと、知的で裕福な階層の人々がイメージされた。


いっぽう、アメリカのユニテリアン主義は、18世紀のニューイングランドの会衆派の人びとに広まり、人間の罪を糾弾する厳格なピューリタン神学に代わって、裕福な市民層に歓迎されるようになった。19世紀後半には、あのハーヴァード大学もユニテリアンの牙城となる。詩人ラルフ・エマソンも、元はユニテリアン教会の牧師だった。(中略)


聖書は、数々の優れた書のひとつとして真価を認める、という立場。聖書の無謬や逐語霊感説をはじめ、人の原罪や代替贖罪説(イエスのあがない)、地獄における永遠の罰、処女降誕を含む奇跡、悪魔の存在も認めない。イエスの復活も、肉の復活ではなく、キリスト教信仰の出発点としてとらえる。(中略)


人間の善性を強調し、良心の自由と理性と寛容とに価値をおき、国家と教会の結びつきには否定的。科学上の諸発見を尊重し、自由主義神学の最先端にいる。(以下略)


◎参考書評



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by yomodalite | 2014-05-04 00:45 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

仁義なきキリスト教史

架神 恭介/筑摩書房

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全然「着物」についてあれこれしてないやん!というツッコミだけでなく、もはや、どこが「読書日記」やねん!というあり様に、自分でも困惑しているのですが、

今日は2ヶ月ほど前に読んだ、類書がないほど素晴らしい本を紹介します。

今まで、キリスト教に関する本を、山ほどとは言いませんが、それなりに読んだ経験から言うと、まず、どんなに「面白」とか、「よくわかる」とか書いてあっても、キリスト教の宗教者が書いた本は、信者でない人間が読むと、疑問に感じる点への言及がなかったり、絶対に納得できない説明がしてあって、起こったことの背景も理解できないので、重要人物に関しても、感情移入できないことがすごく多いんですよね。

中でも、私たちが理解しにくいのは、

なぜ、「愛の宗教」と言われるキリスト教において、多くの人が処刑されたり、戦争が起こったりという、血で血を洗うような歴史が積み重ねられているのか?という点ではないでしょうか。

本書では、そういったキリスト教の血の歴史を、日本の偉大なヤクザ映画『仁義なき戦い』と同じような抗争の歴史であることに気づき、大親分「ヤハウェ」の下、様々な「組」がうごめき、内輪揉めや派閥抗争を繰り広げていった様子が生き生きと描かれています。

第1章 やくざイエス
第2章 やくざイエスの死
第3章 初期やくざ教会
第4章 パウロ ー 極道の伝道師たち
第5章 ローマ帝国に忍び寄るやくざの影
第6章 実録・叙任権やくざ闘争
第7章 第四回十字軍
第8章 極道ルターの宗教改革
終章 インタビュー・ウィズ・やくざ

少しだけつまんで紹介します(第1章「やくざイエス」より)

「兄貴、今日はどぎゃあな御用で…」

「いやぁ、なんちゅうことはないわい。シナゴーグの帰りじゃ。近くまできたけえのう、こんなぁの顔を見に来ただけじゃ」

とイエスは快活に答える。シナゴーグ、と言われても読者諸君には馴染みはなかろうが、これは極道用語であり、要は地域共同体の集会所のことである。隠語では会堂とも呼ばれる。この集会に集まった民衆を前に、ユダヤ組の筋モンや、もしくはやくざに近いものたちが、ヤハウェ大親分の生き様や伝説などを語り聞かせる、一種の極道教育機関であった

(中略)

「なんじゃ、あの外道、ヤハウェ大親分のこと馬鹿にしくさりよって。大親分以外の誰が許すいうんじゃ。許すも許さんもそぎゃあなこと決めれるんは大親分だけじゃろうが」

すると、これを耳ざとく聞きとめたのか、

「おどりゃあ、何をちびちびいうとるんじゃ!」

イエスはパッと立ち上がると啖呵を切って言った。

「ええか、こぎゃあことはのう、人の子が許してもええことじゃ」

この時にイエスが言った「人の子」というのは、極道用語で、、、


という具合に、すべて「極道用語」で説明されるんですね(笑)

もう少し、つまんで紹介します(第2章「やくざイエスの死」より)


イエスとて、ヤハウェ大親分の子分であるからには、親分のシノギに文句をつける道理はない。彼が怒りを覚えたのはサドカイ組のシノギであった。

「あン? おい、なんじゃこりゃ。偶像じゃないの。おどりゃ知らんのか、ヤハウェ大親分は偶像が大嫌いなんじゃ。このばかたれが、出直してこんかい」

貨幣には当地の支配者であるローマ皇帝の肖像が描かれていたのだが、これが偶像であるから受け入れられぬ、と突っぱねるのだ。そして困り果てている民に対し、神殿内で商いをしている両替商が「お客さん、うちで両替すりゃええんよ」などと声をかけてくる。こうして民衆の貨幣は両替商により特殊な貨幣へと交換され、それでようやく納付が認められるわけだが、もちろん両替商は手数料を取るし、そのアガリは、サドカイ組へと流れるわけである…

(中略)

「先生、教えて欲しいんじゃ。わしら、カエサルに税金を払うことは許されとるんかの、許されとらんのかの」

その言葉を聞いた瞬間ーーー、イエスは微かに顔をしかめていた。(中略)イエスはこの言葉の裏に秘められた彼らの罠を瞬時に見取ったのだ。

(中略)

イエスは(デナリ貨幣)を高々と掲げてこう言ったのだ。

「顔が彫られとるじゃろう。これは誰の顔じゃい」

「・・・カエサルじゃ。」

「ほんなら話は簡単じゃのう。カエサルのものはカエサルに返しゃえかろうがい」

それから、イエスは、柱の陰に隠れる男たちをキッと睨みつけて、こう付け加えた。

「もちろん、ヤハウェ大親分のモノはヤハウェ大親分に、じゃ・・・」

オオッ、とヤクザたちが驚きの表情を見せる。見事な切り返しであった。イエスはローマ当局への反逆の意志を明示せず、それでいてヤハウェ大親分の顔も立てたのである。

それだけではない。この言葉の含む意味に気づき、歯がみした者たちがいた。柱の陰にいたサドカイ組のやくざたちである。「ヤハウェ大親分のモノはヤハウェ大親分に」これはヤハウェ大親分への上納金を集めるという名目で、体よく民衆から搾取を繰り返していたサドカイ組に対する皮肉でもあったのだ。

(引用終了)

このあと、サドカイ組とパリサイ組の違いや、初期やくざ教会が様々に分裂していく様子や、また、イエスが亡くなった後の、パウロの人物描写は秀逸で、ローマ帝国とキリスト教の関係もわかりやすいのですが、

下記は、第6章「実録・叙任権やくざ闘争」から(かなり省略しています)

グレゴリオス7世はキリスト教任侠道における3つの改革に着手していたのである。それは、シモニアでありニコライスムであり、俗人叙任であった。この3つの問題は、まるで違うことのように見えながらも1本の線で結ばれている。

シモニアは日本の極道用語では「聖職売買」と言われる。一方ニコライスムの語源はよくわからない。どうやらこの時代には姦淫とほぼ同じ意味で使われていたようだが、司祭などのやくざが妻を持ったり妾を囲ったりすることを問題視した言葉である。最後に、俗人叙任である。これは、司祭や司教などの組長の地位を「プロフェッショナルなやくざ」以外の王や資産家などが任命することである。この「プロフェッショナルなやくざ」を極道用語で「聖職者」と言う。なお、プロフェッショナルでないやくざは「信徒」である。。

と、ここから、さらに詳しい説明があるのですが、

こういった感じで、やくざ口語ではない部分も、簡潔にまとめられ、巻末には参考図書も提示してあるだけでなく、物語を脚色した部分についても説明があり、作者の頭の良さだけでなく、真面目な仕事ぶりに感動し、大いに笑いました。

最後に、

ラビ・シュムリーと、マイケルの会話をより深く理解したい人のために、
私のテキトーで大雑把な情報を補足しますが、

シュムリーはユダヤ教の中でも「Orthodox(正統派)」と言われる宗派なので(今はそういう言い方はしないんだけど)一応「パリサイ派」と言える。

で、パリサイ派とサドカイ派とエッセネ派が、本書でどう説明されてるかというと、

当時、ユダヤ地方を支配していたやくざには3つの代表的な組があった。いずれもユダヤ組本家から枝分かれした二次団体であり、サドカイ組、パリサイ組、エッセネ組といった。

サドカイ組は都市エルサレムにエルサレム神殿という巨大な事務所を構え、そこで民衆からヤハウェ大親分への上納金を集めてシノギとしていた。(中略)現状のシノギで十分懐が潤っているため、彼らは体制維持を志向しており保守的である。ヤハウェ大親分の言いつけも違わず守ろうとした。

サドカイ組が世襲的な「やくざ貴族」であるのに対し、パリサイ組はより庶民的な立ち位置に近く、ヤハウェ大親分に熱烈な忠誠を誓ったゴロツキたちの集まりである。ヤハウェ大親分の言いつけを厳しく守ろうとするのは同じだが、大親分の言いつけに人為的な解釈を加えることもあった。(中略)この点でサドカイ組とはソリが会わず、彼らは対立関係にあった。

エッセネ組は特殊なヤクザ組織であり、彼らの中の一派は、社会から距離を置き、独自の共同体を作って暮らしていたとされる。

で、、イエスの兄弟子であるヨハネも、イエスも「エッセネ派」だったと言われていて、MJが元信者だった「エホバの証人」もエッセネ派の影響が強いと言われています。。

そんなわけなので、

新約聖書で、イエスの宿敵のようなパリサイ派のシュムリーと、MJが深く対話し、その後決裂したことは、歴史の必然であり、MJにもその意志があった。

みたいなことも、もしかしたらわかるかもしれません(笑)

超おすすめ!(私は「Kindle版」で読みました)



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by yomodalite | 2014-05-01 11:21 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

聖書男(バイブルマン) 現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

A.J.ジェイコブズ/CCCメディアハウス




著者のA.J.ジェイコブズは、体にいいことを全部試してみたという『健康男』や、百科事典の全巻読破に挑戦した『驚異の百科事典男』などで人気を得た、エスカイア誌のシニアライター。

本書には、現代ニューヨーカーである著者が、聖書の教えを忠実に守るという生活を1年続けた顛末が綴られています。

(下記の太字部分は、本書を要約して引用)

何世紀ものあいだ、聖書は実話だと思われていた。完全なノンフィクションだと。ほとんどの人は、聖書学者のマーカス・ボーグいわく、「根っからの字義解釈主義者」で、聖書が実話でないと考えるに足る根拠もなかった。ところが、次第に科学と聖書の物語が激しく対立するようになった。(中略)

そのうち、この百年主流だったのがモダニズムとファンダメンタリズムの二つだ。モダニズムによれば、科学と宗教は別個のもの。スティーブン・ジェイ・グールドいわく、両者は「重複することなき教導権」だ。聖書は比喩的な言葉と詩にあふれている。天地創造の物語は、説得力はあるかもしれないが、神話にすぎない。


著者は「誰もやらないようなことを超まじめにやってみる」という経験を、軽妙な文章にしていて、ジョーク満載の気の張らないエッセイになっているものの、ファンダメンタリズムなどの原理主義や、聖書のさまざまな字義解釈を茶化しているわけではなく、

本書を執筆前の著者は、

自身を「不可知論者」であるというユダヤ人で、ニューヨークで宗教の話題はタブーのような家庭に育ち、「不可知論者」という言葉の意味を知る前から、神という観念は要らないと思っていた。姿も見えず、声も聞こえない神を、なぜ必要とするのか。神は存在するかもしれない。でも、それは、この世では絶対に知りえないこと。。

入学した非宗教系の総合大学では、ユダヤ・キリスト教の伝統よりもウィッカの儀式における記号論を研究したがる学生の方が多く、聖書を読むことはあっても文学としてだった。

ただし、宗教の歴史は学んでいて、公民権運動や慈善の寄付、奴隷制の廃止など、人類の偉大な遺産の多くが聖書を原動力としてきたことも、戦争、大虐殺、征服といった、負の遺産を正当化するのに聖書が使われてきたこともわかっていた。

宗教にはいい面もあるけれど、現代社会においては危険な存在で、悪用される可能性がきわめて高く、ほかの旧弊なものと同じように、徐々に消えてなくなり、近い将来、すべての決定がミスター・スポック流の非常な論理に基づいて下される新啓蒙主義の楽園に暮らすことになる、と。

もうお気づきだろう、みごとな誤解だった。

聖書の、そして宗教全体の影響力はいまだに絶大だ。
ぼくがこどもの頃より大きいかもしれない。。

聖書を字義解釈するといっても、実際はみんな選り好みしているんじゃないか。自分の信条にあった箇所を聖書から抜き取っているんじゃないか。ぼくは違う。層のように積み重なった解釈をはぎとり、その下にある真の聖書を見いだすつもりだ。究極のファンダメンタリスト(原理主義者)になってやる。そうすれば、聖書のどこが偉大で普遍か、逆にどこが時代にそぐわないか、見極められる。


このあと、著者は聖書と真剣に向き合い、聖書に書かれてあるとおりの生活を実践してみるだけでなく、宗教に無関心だった家族とは異なり、ユダヤ人として生まれ、ヒンドゥー教徒になってグルを自認し、ヒッピー文化に出会い、キリスト教徒になって、いまは、イスラエルの超正統派ユダヤ教徒というスピリチュアルならなんでもござれの親戚に会い、自身の民族的宗教であるユダヤ教を中心に聖書を「体験」しながら、精神世界への旅に出る。

日本人には理解するのが難しい「聖書」ですが、
宗派については、特にわかりにくいですよね。

本書では、軽妙な口調で「聖書生活」を語られるだけでなく、さまざまな宗派についても、それぞれの長所と短所のバランスを考えつつ多く語られていて、Godについて、現実アメリカで語られてきた話題の多くを、かいま見ることが出来ます。

他者と接することがなく、他者に意見をいう技術も、言葉も磨いてこなかった私たちは、ユダヤ人の「優位性」や「選民意識」など、都合のいい部分だけ似ているだなどと妄想を膨らませている人は多いものの、

批判されることによって培われてきたこともなく、宗教についてあまり考えないことが「常識人」だということに安住し、他国の宗教を理解しようとしていません。

それなのに、どうして、靖国神社への参拝をいずれ他国が理解してくれるだろう。などと期待することが出来るんでしょう?

神とは何か? という根本的な問題はさておき、

現実に、「他者」が神とどう接してきたか?について、
特に、ユダヤ教について楽に読める本は希少だと思います。

価格が安いだけでなく、注釈がとても豊富なので、その部分の読みやすさからも「電子書籍」の方に利があると思いました。下記は、Kindol版のリンクですが、私は「iBook」で購入し、iphoneで読みました(私が購入した時点ではKindle版より安かったので)


《MJメモ》

あらゆる本に登場する「マイケル・ジャクソン」ですが、2005年に出版された本書の564Pには、

アンサーズ・イン・ジェネシス(AiG)と呼ばれる福音派が建築中の、6千年足らず前に神が塵からアダムを創ったと信じる人々にとってのルーブル宮と著者が称する「創造博物館」を見学して、

完成のあかつきには、マイケル・ジャクソンの裁判並みに大勢のマスコミが押しかけてくるだろう。

また、カパロットと呼ばれる正統派ユダヤ教徒によって行われる儀式を見に行き、そのすごい人ごみの中で、ラビ・シュムリーボテアックに出会い、

上院議員のジョー・リーバーマン、レゲエ・ミュージシャンのマティスヤフについで3番目に有名な正統派ユダヤ教徒。。。「ザ・ラーニング・チャンネル」のショーを準備中で(のちに放送された)、驚くほどマスコミ通だ。「以前ここにドキュメンタリー番組のクルーがきたことがある。なんの説明もなく、それだけ見たら、野蛮でくだらない感じがする」我々の文化にはもっとくだらないものがたくさんあるんじゃないだろうか」「カパロットはボトックスよりもくだらないだろうか?全実体変化よりもくだらないだろうか?」

・・・などの記述がありました。


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by yomodalite | 2014-01-21 09:58 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)
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今年行った伊勢神宮のお神酒と、
神宮の街道で買った狛犬。




伊勢神宮には狛犬だけじゃなく、
生物を造形したものがないのだけど、
大阪に来てから、この地の神社を多く訪れたせいか、
ますます「狛犬」が好きになってしまったから。

それで、大阪の神社やお寺のことを考えつつ、伊勢神宮のことや、
年末は、安倍首相の靖国参拝が大きく報道されていたので、
靖国神社のことも考えてみたり。。

後ろに飾った「陰影礼賛」はジャン・クロード・ルマニーのキュレーションによる
フランスの現代写真家の本なんだけど、
私が愛している日本が表現されている「言葉」だから、
祈るにはいいと思ったのだ。

私がマイケル・ジャクソンについて、どうしても書かずにいられなくなってから、
あっと言う間に3年が過ぎ去り、今年中にまとめたかったけど、できなかったことも、
来年目標にしていることもたくさんあって、要するに、興味が尽きることはなく、
また、自分で納得できたことも少なかった。

東京から、大阪に移ったことで、気づいたこともたくさんあり過ぎるのだけど、

それを、なんとか、ひとことで言うとすれば、

今、東京でものを考えるのは、とても危険だということを思い知った。

今から30年近く前、名古屋から東京に行ったときは、
そんなに大きく違っているように感じたことはなかったけど、
今年、大阪に来てからは、毎日その違いに驚くことがあって、
その違いを、あえて、ひとことで言えば、

宗教がちがうのだと思う。
大阪のTVで話される言葉が、東京とちがうのは「関西弁」だからではない。

宗教という言葉には、アレルギーがある人が多いので誤解されるかもしれないけど。。
でもね、「宗教」について考えざるを得ない時代は確実に来ていると思う。
「癒し」としてではなく、「戦争」が近づいてきているから。

東京は徐々に米国に似てきた。

90年代以降、米国への憧れがなくなり、そんなに支持もされなくなったのに、
なぜか「米国化」だけは進んだ。
東京が都市化していくことに反対する気持ちはないけど、
近年はただ世界中にありふれている街になっているだけみたい。

でも、本当はもうずっと前から、
ただ「外国」を取り入れてきただけだったのかもしれない。
だから、それが素晴らしく見えなくなってきてからも、
慣習として流されているだけなのかもしれない。

東京では、だいぶ前から、落語も、歌舞伎も流行っていて、
着物を楽しんでいる人も全国一多いと思うけど、
それが、そこに住む人のマインドにはほとんど反映されていない。
大阪の文化は、現代のこどもにも影響を与えていることが感じられるのに。。

それが、どうしてなのかはわからないけど、
人のエネルギーが反映されない街が良くなることはない。ということだけは確かで、
それで、もう一度「オリンピック」に頼らなくてはならないんだと思う。

選手たちの競技を見るのは、楽しいし、感動することもいっぱいあるけど、
彼らに「明日への意気込み」を聞く人たちは、なぜ、そんなわかりきったことを、
何度も、何度も、質問し、視聴者からの感想にすら、決まりきった答えを求めるのか?
「自問自答」してくれたらなぁと思う。

私の記憶では、
90年代までは「勇気」が、人からもらえるものだなんて思う人はいなかった。

3年以上、マイケル・ジャクソンについて考えていても、
わかったことは極わずかだけれど、「英雄」とはなんなのか?
については、自分なりに答えが出た。

それは、自分の勝利ではなくて、人類の勝利に身を捧げたひとだと思う。

人類の勝利とは、弱肉強食の生物の世界とはちがう「愛と平和」の実現のことで、
それは誰もが夢みながら、一度も実現されたことがない、
一番困難な道だから、もっとも偉大なことなのだ。

英雄とは、その道を歩もうとして、努力を絶やさず、
人生の最後まであきらめずに、足掻いたひとのことだと思う。

でも、そんな英雄のことを、四六時中、考えてたところで「勇気」ももらえないし、
人の「信念」のようなものは、端から見ていると「危険」にみえてしかたがない。

生前のマイケルでさえ、そうであったように。


今年は、人類がまだ「愛」がどんなものなのかでさえ、誰もわかっていない。
ということを、例年になく突きつけられた年でした。

来年は、今年よりも良い年になりますように!



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伊勢神宮(2013.11.9)




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by yomodalite | 2013-12-29 11:54 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)
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今日は、私の好きな文学オールタイムベストのひとつ『O嬢の物語』(澁澤訳)を、
ステファン卿ではなく、ジャクソン卿への不埒な欲望をバネに、
英語訳と照らし合わせながら読みました。

下記は第2章「ステファン卿」の中から少しだけ。。
電車の中でも安心して読める箇所をセレクトしてますw


Sir Stephen
ステファン卿

Sir Stephen stirred the fire, Rene suddenly went behind the sofa and, seizing O by the throat and the hair, pulled her head down against the back of the couch and kissed her on the mouth, a kiss so prolonged and profound that she gasped for breath and could feel her loins melting and burning. He let her go only long enough to tell her that he loved her, and then immediately took her again. O's hands, overturned in a gesture of utter abandon and defeat, her palms upward, lay quietly on her black dress that spread like a corolla around her. Sir Stephen had come nearer, and when at last Rene let her go and she opened her eyes, it was the gray, unflinching gaze of the Englishman which she encountered. let her go and she opened her eyes it was the gray, unflinching gaze of the Englishman which she encountered.

ステファン卿は火をかきたてた。ルネはいきなりソファのうしろへまわって、Oの首と髪の毛をつかむと、ソファの背に彼女の頭をのけぞらせて、その口に接吻した。長い激しい接吻だったので、Oは息がつまりそうになり、全身が熱く溶け出すような感じがした。愛してるよ、と言うあいだだけ、ルネはOを離し、すぐまた彼女をつかまえるのだった。Oの身体のまわりに花冠のように広がった黒いスカートの上に、彼女の手は、掌を上にして、ぐったりと投げ出されていた。このとき、ステファン卿が近づいてきた。Oがようやくルネの手から完全に解放されて、ふたたび目をあけると、すぐ目の前にイギリス人の灰色の、まっすぐなまなざしがあった。
 
Completely stunned and bewildered, as she still was, and gasping with joy, she none the less was easily able to see that he was admiring her, and that he desired her. Who could have resisted her moist, half-open mouth, with its full lips, the white stalk of her arching neck against the black collar of her page-boy jacket, her eyes large and clear, which refused to be evasive? But the only gesture Sir Stephen allowed himself was to run his finger softly over her eyebrows, then over her lips. Then he sat down facing her on the opposite side of the fireplace, and when Rene had also sat down in an armchair, he began to speak. (~P69 - P70)

が、彼女はまだ茫然としていたし、幸福に息をはずませてもいたので、彼女を賛美し欲望する男のまなざしに、ほとんど気がつく余裕もなかった。彼女のぬれた半開きの口や、ふっくらした唇や、ページ・ボーイ風なジャケットの黒い襟からのぞいた白い首や、大きな澄んだ目に、いったい、誰が抵抗しえたであろうか。しかしステファン卿があえてした行為は、ただ指で彼女の眉毛と、それから、ステファン卿は暖炉の反対側の、Oの正面にすわった。そしてルネも肘掛椅子にすわるのを待って、次のように話しはじめたのである。



Sir Stephen's quiet, self'- assured voice rose in an absolute silence. Even the flames in the fireplace flickered noiselessly. O was frozen to the sofa like a butterfly impaled upon a pin, a long pin composed of words and looks which pierced the middle of her body and pressed her naked, attentive loins against the warm silk. She was no longer mistress of her breasts, her hands, the nape of her neck.

ステファン卿の静かな落ち着いた声が、ふかい沈黙のなかで鳴り響いていた。暖炉の炎さえ、音もなく燃えていた。Oはソファのうえに、ピンで留められた蝶のように釘づけになっていた。言葉と視線でできたその長いピンは、彼女の身体の中心をつらぬいて、彼女の敏感な臀を生暖かい絹の上に圧しつけた。Oには、もう自分の胸や襟首や手の感覚もなくなっていた。

But of this much she was sure : the object of the habits and rites of which he had spoken were patently going to be the possession of (among other parts of her body) her long thighs concealed beneath the black skirt, her already opened thighs.

それでも、いまステファン卿の言った習慣とか儀式とかいうものが目的としてねらっているものは、自分の肉体の各部分のなかでも、とりわけ黒いスカートの下にかくれた、あらかじめ半開きになっている、自分のすんなりした二本の脚であることを疑うわけにはいかなかった。

Both men were sitting across from her. Rene was smoking, but before he had lighted his cigarette he had lighted one of those black-hooded lamps which consumes the smoke, and the air, already purified by the wood fire, smelled of the cool odors of the night.

ふたりの男は彼女の方を向いていた。ルネはタバコをふかしていたが、ふと近くにある黒いシェードのランプに灯りをつけた。煙はその灯影に吸い込まれ、すでに暖炉の木の匂いによって浄化されていた空気に、さらに夜の冷気が立ちこめた。
 
“Will you give me an answer, or would you like to know more?" Sir Stephen repeated.
“lf you give your consent," Rene said, “I'll personally explain to you Sir Stephen's preferences."

「返事をしてください。それとも、もっと聞きたいことがありますか?」とステファン卿がまた言った。「もしきみが承諾してくれたら」とルネが言った。「ステファン卿に優先権があるってことを、ぼくから説明してあげよう」

“Demands,"Sir Stephen corrected.

「むしろ請求権というべきだよ」とステファン卿が訂正した。

英文:Story of O by Pauline Réage(P69~P72)
日本語:O嬢の物語 渋澤龍彦訳(河出文庫(P109~110)

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◎[Wikipedia]O嬢の物語
◎[Wikipedia]ドミニク・オーリー(ポーリーヌ・レアージュ)

☆英語版はペーパーバック、Kindle版ともに2種類ありますが、上記で引用した本はこちらです。河出文庫版と同じマンディアルグの序文やジャン・ポーランの推薦文も収録されています。
◎[Amazon]Story of O by Pauline Réage

☆澁澤訳のKindle版も角川と河出の2種類あって角川の方がお安いようですが。。
◎[Amazon]O嬢の物語 渋澤龍彦訳(河出文庫・Kindle版)

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by yomodalite | 2013-12-08 23:14 | 文学 | Trackback | Comments(0)

歌舞伎町のミッドナイト・フットボール - 世界の9年間と、新宿コマ劇場裏の6日間

菊地成孔



最近まで、何度か恩義に感じてはいたものの、氏のあまりにも素敵な感性にも教養にも、つよく影響受けてしまうのが怖い…

という乙女心からか、手に入れただけで何冊も「積ん読」状態だった、菊地成孔氏の本をついに読んだ。全速力で。ふぅーーーー予想どおり凄かった。

(おわり)

って感じで終わってもいいんだよね。ブログって(笑)

ていうか、その方が普通だよね?

大体、いつも長過ぎるんだって。

長過ぎたなぁっと思って、短く削るのにさらに時間使ったりして、いつも思うのだ。

アホかと。

いったい何をやっているのかと。

それで、この間にフラフープでも回していたら、何カロリー消費できたかとか、ちょっぴり考えるんだけど、やっぱり、菊地氏の本から少しメモしておくことにします。

素敵な本ばかりなので、どれにしようか迷って、最初『ユングのサウンドトラック』にしようと思ったのね。白いジャケットがおしゃれだから。。

でも、その本は個性が光る映画レヴューだから、記録しておきたくない(映画についての誰かの感想をできるだけ覚えておきたくないの)、『スペインの宇宙食』も、デヴュー作だし、おしゃれだし、白いしw、あと、東大の講義録の文庫は単行本に比べて表紙が...残念で、ヒョードルとかノゲイラのことも気になるし、白くていいなって思ったんだけど、

私の苦手な新宿「歌舞伎町」がタイトルの黒い本から、MJに関連した部分を少しだけ。。


「マイケル・ジャクソンの鼻」

(p201~204からつまみ食い)

「どんなに頑張っても、日本人と黒人はノリが違うよ」というのは、現在では80%は信仰で、真実は20%ぐらいじゃないかな。と思います。(中略)

結論を言えば、米製ブラック・ミュージックチャートゲッターは、エレクトロとテクノとの境界を大胆に壊しているのに対して、日本のそれは、全然そこまでいってません。でも、チャートゲッターでなければ、例えば、夜中にやってるクラブカルチャーを紹介する番組で流れてる、もうぼくには名前もわからないDJ達の音楽は、軽々とそれをやってます。

これは、日本のチャートの保守性。というより、米国のチャート、特にブラックミュージックの先鋭性。と考えた方が良いと思います。MIS - TEEQなんて、もうあれCGです。ビヨンセもジャネット・ジャクソンもCG。凄い素材をあらゆる人工化によって、完全に制御しています。極端に言うと、プロトゥールス(編集装置)。切り貼りが過ぎて音が汚いと思う側面すら有ります。(中略)

ですから、米製ブラックミュージックのチャートゲッターに特化される物は「人工美」への徹底と、基礎リズム感であるアフリカ訛り。そしてどういうわけだかあの「宇宙臭さ」。ね?宇宙船と交信してるようなイントロダクションの多いこと多いこと。そしてこの2つは、明らかにマイケル・ジャクソンを発祥にしていると断言して良いでしょう。

野田努さんの名著『ブラック・マシン・ミュージック』は、黒人を筆頭とする、すべての被差別者の哀しみが、何故もう宇宙に向かうしかないのかを克明にルポしているのですが、まあ、マイケル・ジャクソンには触れていない(そういう本じゃないから)。しかし、徹底した人工美と宇宙。もっと言えば、地球の歴史を総て詰め込んだタイムカプセルとしての宇宙船に乗っている感じ。

米製ブラック・ミュージックのチャートゲッターの多くは、マイケルの引力の中にいる。フロイディアンとして言わせていただければ、マイケル・ジャクソンの自我の中にあるわけです。日本人はプリンスの真似は出来ても、マイケル・ジャクソンの真似は出来ません。そしてそれは日本人に限ったことではないんですね。

クレオパトラの「鼻があと1センチ低かったら」歴史は変わっていた。という、古い格言を想いだしました。

(引用終了)

「マイケル・ジャクソンの鼻が低いままだったら、歴史は変わらなかった」

氏の解説によれば、上記の文章は2003年、雑誌「スタジオ・ヴォイス」12月号が初出。私はそれよりずいぶんと気づくの遅かったけど、気づかないよりは「マシ」だったと思う。

[追記]あきらさんからとてもとても素敵な動画を紹介していただきました!


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by yomodalite | 2013-11-19 09:02 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(3)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite