タグ:MJ系メモ ( 88 ) タグの人気記事

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

大田 俊寛/春秋社




『ヒストリー』20周年で、アメリカだけでなく、日本の1995年を思い返しているのですが、その年は、阪神大震災が起こり、オウム真理教によるサリン事件があった年でした。

20代から30代までグノーシス主義の研究に専念したという著者は、2011年に出版された本書で、これまでに出版されたオウム関連書籍を、元信者、ジャーナリスト、学問的著作に分類し、特に、学問的分野において、適切に論じられているものがなく、


・中沢新一『「尊師」のニヒリズム』

・宮台真司『終わりなき日常を生きろーオウム完全克服マニュアル』

・大澤真幸『虚構の時代の果てーオウムと世界最終戦争』

・島薗進『現代宗教の可能性ーオウム真理教と暴力』

・島田裕己『オウムーなぜ宗教はテロリズムを生んだのか』


著者は上記の代表的な五点の問題点を

オウム事件の原因を70年代後半から80年代以降の日本社会、すなわち、高度経済成長を達成した後の日本社会の問題に帰着させていることである。このような着眼はまったく間違っているというわけではないが、端的に言って、視野が狭すぎる。現代の日本社会においてオウムのような「カルト」が発生するに至ったのは、それに先行するさまざまな歴史的要因の蓄積があり、学問的分析においては、そのような要因をも視野に収めなければならない。
それとは逆に、仏教研究を専門とする学者によって執筆された論考にしばしば見られるものだが、オウムの問題を、例えば仏教史全体から考察しようとすることは、視野が広すぎる。宗教のあり方はそれぞれの時代によって大きく異なっており、近代以前の仏教の教義とオウムのそれを比較することは、両者の根本的な差異が大きすぎ、有効な分析にはなりえない。オウムはしばしば原始仏教へと回帰することを訴えたが。その精神史的ルーツが本当に仏教にあるのかということ自体を疑問に付す必要があるだろう。


という。このあと、オウムの教義が近代宗教の特質を備えていることを確認すると、「第1章」では、そもそも「宗教」とは何なのか、について、キリスト教の成立から、主権国家と政教分離に至るまで。といった内容が展開され、やはり「視野が広すぎる」のでは? と思うものの、


そのあとの第2章で、サブタイトルにもあるように「ロマン主義」、第3章で「全体主義」、第4章で「原理主義」と、近代宗教や精神史の総括が簡潔にまとまっているので、オウムのみならず、宗教やスピリチュアル、オカルト、陰謀論を考えるうえでは、ちょうどいい視野と言えるのかも。(ただし、本書の「ロマン主義とは何か」という説明は、宗教のなかの「ロマン主義」を説明する文章であって、精神運動全般としてのロマン主義を誤解させかねない点は要注意)


下記は、神智学、ニューエイジ思想、トランスパーソナル心理学、チベット仏教、インドの導師・・など、現在のスピリチュアルの根源が数多く登場する、


第2章「ロマン主義ー闇に潜むわたし」から(省略・要約して抜粋)


近代においては、主権国家の枠組みのもと、科学力・経済力・軍事力等が歴史的に類を見ない速度で発展し、またそれに伴って、社会の巨大化と流動化と複雑化が右肩上がりに進行していった。それではこのような社会において、人々が心理的に求めるものとは何だろうか。それは、世界の全体像を知りたい、ということである。


今や社会はあまりにも巨大化しており、事実上、誰もその全体像を一つの視野に収めることができない。また、社会はあまりにも高度に複雑化しており、誰もその詳細を見通すことができない。誤解してはならないのは、社会の全体像を把握することができないのは、それが非合理的な存在だからではなく、合理的に組み上げられたネットワークそのものが、今やあまりにも巨大で複雑なものと化しているからである。しかし人々は、自分が生きている世界の構造を知り、その全体像を見渡したいという欲望を断念することができない。そこから、幻想的な「世界観」が生まれることになる。

 

そして次に、自分が生きている意味を知りたい、ということである。啓蒙主義は、万人には平等な理性が与えられていると説くが、このような主張は実は、群衆社会に生きている人々にとっては、不安や恐怖の原因でしかない。なぜならそれは、自分自身が他の誰とでも交換可能な存在に過ぎないということを示すものだからである。人々はむしろ、自分がかけがえのない存在であり、自分の人生に固有の意味があるということを実感したいと欲する。複雑な社会のなかで一つの部品のように生きている自分は「偽りの自分」に過ぎず、「本当の自分」は見えないところに隠れている、と考えるのである。

 

近代人のこのような心理的欲望から、多種多様な幻想が析出されてくることになるが、ロマン主義という思想は、その主なものの一つである。


ロマン主義的宗教論の系譜をたどる上で、最初に取り上げておきたいのは、ドイツの神学者フリードリッヒ・シュライアマハーが著した『宗教論』という著作である。1799年に初版が公刊された『宗教論』は、副題に「宗教を軽んずる教養人への講話」と記されており、もはや人間は宗教という迷信にすがる必要はないとする、当時の先進的知識人に向けた反論として執筆された。


彼は、心のなかに湧き上がる宗数的感情を「宇宙の直観」と呼ぶ。『宗教論』では、究極的存在者を「神」という言葉でなく、「宇宙」や「無限(者)」という用語が使用される。『宗教論』という著作は、キリスト教の本質を捉えることを目的としているが、それ以上に、個別宗教としてのキリスト教やその人格神の観念を突き抜け、宗教一般の本質へと到達しようとしたものなのである。そして彼が言う「宇宙」とは、目に見える宇宙の背後に、あるいは人間の心の深部に存在する、不可視で精神的な「宇宙」なのである。


『宗教論』という著作は、美しい文体と説得力のある論理の運びによって多くの読者を獲得し、後世にも長く影響を与えた。しかし、実際に、シュライアマハーが提唱したことをそのまま実現しようとすると、オウムのような「カルト」的傾向を帯びた宗教が立ち現れることになる。また、人間の心の中には「宇宙」という無限の世界が広がっており、それに触れて自己を変革することに、宗教の本質があるというアイデアは、その後、数多くの心理学者たちによって具体的に展開される。(→ウィリアムズ・ジェイムズ『宗教的経験の諸相」~P63)


* * *


19世紀にヨーロッパで生まれたロマン主義という潮流は、20世紀後半のアメリカ・ニューエイジ思想においてヴァラエティに富む表現や実践方法を獲得し、60年代以降、日本では「精神世界」というカテゴリーが作り出され、ニューエイジ思想以上に雑多な内容のものがそこに放り込まれた。具体的には、東西の神秘主義、錬金術、魔術、ヨーガ、密教、禅、仙遊、輪廻転生、超能力、占星術、チャネリング、深層心理学、UFO、古代偽史などであり、一見したところ相互にどのような関連を持っているのか見分けがたいが、その大枠は、何か「宇宙的なもの」を感じさせてくれる対象の集まり、ということになるだろう。


シュライアマハーは「心のなかの宇宙」に触れて本当の自分に目覚めることを宗教の本質とし、宇宙を経験するために古今東西のさまざまな宗教について学ぶべきであると提唱したが、日本の「精神世界」論は、ポピュラーな水準でそれを具体化したもので、オウムもまた、こうした精神世界論のなかから生み出されたものの一つだったのである。

 

日本にヨーガを持ち込んだのは、心身統一論で知られる中村天風、神智学系のヨーガ団体の竜王会を主催した三浦関造、ヨーガ教典の翻訳に努めた佐保田鶴治などがその先駆けとなるが、クンダリニー・ヨーガを広く社会に浸透させたという点から考えると、超心理学を提唱した本山博、阿含宗の教祖である桐山靖雄に注目する必要がある。

 

本山博(1925~)は、霊能者の母を持ち、東京文理科大学(現・筑波大学)で博士号を取得した本山は、自らの神秘的経験を科学的に検証することを志す。その成果として1963年に公刊された処女作が『宗教経験の世界』。この著作では、超感覚的な存在を科学的に探求する試みが世界中で始まっていることが紹介され、J・B・ラインの超能力(ESP)研究、ユングの深層心理学、そしてヨーガの実践による超感覚的なものの体験が挙げられている。論理構成としては、ヨーガの修行者や霊能者が主観的に体験している超感覚の世界を、いかにして科学的に明らかにしうるかという問題が取り上げられ、著作の結論部においては、宗教経験に全体として三つの段階の深まりがあること、その第三段階おいては「心霊との全き一致」が生じることが論じられる。

 

本山の活動は、「超心理学会」の開設や「宗教心理学研究所」の運営など多岐にわたるが、1978年に公刊された『密教ヨーガ』という著作では、ヨーガの目的が「身体や心を健全にするだけでなく、人間の存在そのものを霊的に進化させ、宇宙の絶対者と一体にならしめるところにある」と説かれ、宇宙との一体化を実現するためには、クンダリニーを覚醒させ、身体内の七つのチャクラを問くことが必要であると説かれる。この著作には、本山自身の体験についても豊富な記載があるが、クンダリニーが覚醒したとき、一時的に身体が空中に浮揚したということが述べられている。オウムの信者のなかには、本山の著作や指導によって最初にヨーガに触れたという者も数多く存在した。

 

ヨーガや密教の修行をポピュラーなものとするのにより大きな役割を果たしたのは、本山の活動と並行して発展した、桐山靖雄(1921~)の「阿含宗」である。オウムの初期信者たちの多くが阿含宗に所属しており、麻原自身もかつて阿合宗で修行していたことが知られている。桐山は81年に『1999年カルマと霊障からの脱出』という著作を公刊し、ノストラダムス・ブームに荷担するとともに、悪しきカルマの増大によってこの世に破局が訪れるという形式の終末論を唱え、その論法はオウムにも引き継がれていった。また、阿含宗は関連会社として平河出版社を経営しており、桐山の著作だけでなく、ニューエイジ関連本も多数出版された。そのなかの一冊が1981年に中沢新一による『虹の階梯』である。(P99~104)


* * *


第3章「全体主義 ー 超人とユートピア」から(省略・要約して抜粋)


フランス革命の標語「自由・平等・友愛」に示されているように、近代社会を支える理念とは、個々の人間が自由で平等な主体として存立し、友愛の念を持って相互に尊重し合うということである。啓蒙主義においては、あらゆる人間には平等に理性が備わっているとされ、ロマン主義においては、個々の人間は他に還元できないかけがえのない固有性を持っていると見なされる。人間のあいだの共通性に着眼するのか、あるいは差異性に着眼するのかという点において、啓蒙主義とロマン主義の主張は対極的であるが、それでも両思想のベースには、人間の本来的平等の観念が存在していると見ることができるだろう。

 

しかし、地縁や血縁から切り離された「自由で平等」な個人が都市部に集合して群衆化し、アノミー的に裁き続ける近代社会において、人々は逆説的にも、生の指針を示し、自分を導いてくれる、特権的な人物の存在を強く希求するようになる。


一例を挙げれば、啓蒙的な自主独立の精神に立脚していたはずのフランス革命は、実際にはロベスピエールという一人の「カリスマ」によって唱導された。また、ロマン主義において、宗教の本質は心のなかに潜む宇宙を独白に探求することであるとされたが、自らの霊性をどれほど深く探求し、開発したかに応じて、人々から「導師」として仰がれるような高位の人物が現れてきた。


政治哲学者ハンナ・アーレントは群衆意識の性質について、次のように述べている。


大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロールの可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。それ故に彼らには或る種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見えるものならなんにでも動かされる。事実というものは大衆を説得する力を失ってしまったから、偽りの事実ですら彼らには何の印象も与えない。大衆を動かし得るのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである。(『全体主義の起原』第三巻、80頁)


人々の利害はあまりに細分化・多極化しており、すべての人問に共通する利害を見出すことが難しい。ゆえに政治家や運動家は、特定の利害ではなく、明確に目には見えないものの、個々人がそこに自らの生の基盤があることを実感し、自我を没入させることができるような「世界観」を提示しようとする。全体主義とは一言で言えば、孤立化した個々の群衆を特定の世界観のなかにすべて融解させてしまおうとする運動なのである。


アーレントは、全体主義が構築する世界観について、次のように論じる。


全体主義運動は(中略)権力を握る以前から、首尾一貫性の虚構の世界をつくり出す。(中略)全体主義プロパガンダは大衆を空想によって現実の世界から遮断する力をすでに持っている。不幸の打撃に見舞われるごとに嘘を信じ易くなってゆく大衆にとって、現実の世界で理解できる唯一のものは、言わば現実世界の割れ目、すなわち、世界が公然とは論議したがらない問題、あるいは、たとえ歪められた形ではあってもとにかく何らかの急所に触れているために世間が公然と反駁できないでいる噂などである。(『全体主義の起原』第三巻、八三頁)

 

白身が生活する現実世界の全体像を見渡すことができない群衆は、現実世界の「割れ目」に存在するものを手掛かりにして、幻想的な世界観を作り上げる。ナチズムの場合で言えば、肯定的な存在としては、「ゲルマン民族の血の高貴さ」であり、否定的な存在としては「ユダヤ=フリーメイソンの陰謀」ということになるだろう。群衆はこうした不可視の想像物を基礎に据えることによって、幻想的で二元論的な世界観を構築する。すなわち、彼らは、自らの本来的アイデンティティはゲルマン民族としての血統にあるが、劣等民族であるユダヤ人や秘密結社のフリーメイソンがその高貴さを汚そうとしている、こうした相克こそが世界の実相である、と思い込むのである。


エーリッヒ・フロムがナチズムの運動に雪崩れ込んでいった群衆の心理を「自由からの逃走」と呼んだように、根無し草としての放恣な自由に疲れ、苦悩を抱える群衆は、その心の奥底では、強固な束縛こそを希求しているのである。(~P117)


* * *


近代人に「超人」というヴィジョンを提示しだニーチェは、近代の世界においてはもはやキリスト教の原理が通用しないこと、キリスト教が提示してきた目的論的な歴史観が失効してしまったことに、もっとも正面から向き合おうとした。主著の『ツァラトゥストラ』で、主人公のツァラトゥストラは、独白に近いスタイルで「超人」について語り始める。しかしそもそも、なにゆえに超人の存在が必要とされるのだろうか。

 

ひと言にで言えば、それは、キリスト教の神がすでに死んでしまったため、神の存在を基準として人間主体を陶冶してゆくという従来の方法が、もはや通用しなくなったからである。ニーチェは、キリスト数的な主体から超人へと至る精神の歩みを、駱駝、獅子、小児という三段階の比喩を用いて語っている。駱駝とは、敬虔の念に溢れた重荷に耐える精神、キリスト教の規範に従属する禁欲的精神のことを指すが、これに対して獅子は、「われは欲す」という欲望と意志の言葉によって、その生き方を打ち砕く。しかし獅子も、新しい価値を自ら創造することはできない。それが可能なのは、無垢な小児である。小児は、過去については忘却し、その目は常に新しい始まりに対して開かれ、世界生成のありのままの姿を肯定する。「創造の遊戯」によって新たな価値を生み出すことができるのは、小児=超人なのである。

 

ニーチェは、プラトン主義的な形而上学や、神の国の実現という目的=終末を設定するキリスト数的な歴史観を、空虚な「背後世界」の存在を仮定し、それによって人間の価値や存在意義を提造しようとする錯誤的な思考であるとして、厳しく退ける。それに代わってニーチェが持ち出すのは、いわゆる「永劫回帰」の世界観である。あの世などという「背後世界」は実在せず、存在するのはあくまでこの世だけである。そしてこの世において、万物は流れ去るとともに、再び同一の状態へと回帰する。死もまた、人間の生にピリオドを打つものではない。人の一生はまったく同じあり方で、同じ世界のなかに再び回帰してくるからである。何らの意味も目的も終わりもなく、流れ去っては、永久に回帰し続ける世界。しかし、ニーチェの思想は、シュタイナーやユングのような20世紀のロマン主義者たちに多くの霊感を与えただけでなく、ナチズムにおける進化論や人種論を支えるバックボーンともなった。(P126。ウェーバーのカリスマ論~群集心理学~精神分析のパラノイア論)


* * *


『わが闘争』において、ヒトラーがユダヤ的なるものとして指弾している対象、民主主義、マルクス主義、マスメディア、国際金融資本、売春業などには、確かに共通した傾向が見られる。それは、人間を慣れ親しんだ故郷の大地から引き剥がし、不透明で流動的な社会へと投げ込むもの。すなわち、近代的な群衆社会の特性を象徴するものなのである。しかしながら、彼の思索は、論理的一貫性を備えているとは言い難い。具体例を挙げれば、ヒトラーは、マルクス主義と資本家を共にユダヤ的だと見なしているが、言うまでもなくマルクス主義は資本家の打倒をその政治目標として掲げており、対立する両者がともにユダヤ的というのは、辻褄があわない。そこでヒトラーが持ち出すのが、いわゆる「ユダヤ陰謀論」である。ユダヤ人による活動はきわめて多岐にわたり、一見したところ支離滅裂で、ときに対立しているかのように思われるが、その背後にはすべての糸をひいている秘密結社が存在し、ある目的を達成するために、隠された計画を進めているのである。


表面的に露わになったものにはその「裏」があるのではないだろうか、と考える「陰謀論的解釈学」は、必然的に裏の裏、裏の裏の裏を追求することを余儀なくされ、その妄想の連鎖には歯止めが利かなくなる。(~P148。「洗脳の楽園」~グルジェフのワーク、ヤマギシ会の農業ユートピア)


* * *


第4章「原理主義ー週末への恐怖と欲望」


原理主義という言葉は、本来、20世紀初頭のアメリカに現れたキリスト教・プロテスタントの一派を名指すために使われ始めた言葉であるが、視野を広げてみれば、キリスト教やその他の一神教だけでなく、日本の宗教思想にもその存在が認められる。日蓮主義はその一例であるが、日本において特徴的なのは、オカルト思想に由来する原理主義、例えば「竹内文書」に基づいた偽史的世界観や、ノストラダムスの予言書に基づく終末思想が大きな影響力を振るい、国内に流入したキリスト教原理主義と奇妙な混淆を起こしていることである。


アメリカ社会において一般に原理主義が広まったのは、急速に普及したテレビによって、「テレビ説教師」と呼ばれる人物たちが登場したことによる。彼らの歴史観は「ディスペンセーション主義」と呼ばれ、その最も有名な書物はハル・リンゼイが1970年に公刊し、アメリカで1800万部を売り上げた『今は亡き大いなる地球』である。リンゼイはイスラエルの再建を終末へのカウントダウンが開始された確証であるとみなす。同時にイスラエルの存在は、中東情勢を不安定にする要因となっており、メギドの丘(ハルマゲドン)に「諸国の王」が呼び集められ、最終戦争が引き起こされるための条件が徐々に整いつつある。旧約聖書のエゼキエル書にあにイスラエルの敵として登場する「ゴグ」をソ連のことだと考え、両者の間に核戦争が勃発すると予測する。ダニエル書の記述から「北の王」をソ連、「南の王」をエジプトだとし、エジプトもイスラエルへの侵入を目論んでいると考える。世界情勢は聖書の預言どおりに進行しており、ハルマゲドンは間近にせまっている。とする。(P177。~ブランチ・ダビディアン)


アメリカのキリスト教原理主義の信仰形態は、日本にも伝達された。日本ホーリネス教会の創始者、中田重治は、世界の終末とキリストの再臨が迫っていること、、そしてその際、正しい信仰をもった信者は救済されると説いたのだが、そこで、根本的な疑問に直面する。果たして、神の救済計画の中に、日本人の救済が含まれているのだろうか?このような疑問に回答し、信仰への確信を得るために、中田はきわめて突飛な論を引き寄せる。いわゆる「日ユ同祖論」である。(P183。~竹内文書、ローゼンベルグの『20世紀の神話』、ヒヒイロカネ)


* * *


第二次大戦中から戦後にかけて、日本では最終戦争や、終末論に関する言説は影を潜めたが、1970年以降、再び活気を取り戻す。ハル・リンゼイが提示した終末論を焼き直した書物を執筆する人々が現れ、彼らの著作も多くの読者を獲得するようになり、その代表者の一人が、宇野正美である。宇野は、キリスト教の終末論に加え、ユダヤ陰謀論を唱えるようになり、1986年に出版された『ユダヤがわかると世界が見えてくる』『ユダヤがわかると日本が見えてくる』の二書は、100万部を超えるベストセラーになった。


また、1970年代半ば以降『地球ロマン』『UFOと宇宙』『迷宮』など数々のオカルト雑誌を公刊し、『ムー』や『トワイライト・ゾーン』の発刊、編集にも間接的に関わった、武田崇元は、東大法学部在学中にトロツキーを始めとする共産主義の思想に触れ、卒業後は大本教の出口王仁三郎の霊学思想へと軸足を移した。結果として武田の世界観は、共産主義と大本霊学という二つの革命思想を混淆させたものとなり、「霊的革命」「霊的ボルシェビキ」と称され、『はじまりのレーニン』などの革命感は、中沢新一にも影響を与えたと言われる。武田の著作はそれほど多くはないが、「有賀隆太」というペンネームで書かれた『予言書 黙示録の大破局』という著作の末尾に、世紀末の日本に「オカルト神道」が復活し、その流れから「再生のキリスト」が出現することが予言されている。(P193。~五島勉『ノストラダムスの大予言』~仏教による千年王国の実現~川島徹『滅亡のシナリオ』)


* * *


このあと最終章の第5章で「オウム真理教の軌跡」として、麻原の出生からのサリン事件に至るまでの軌跡が綴られています。


◎[Amazon]オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義



[PR]
by yomodalite | 2015-10-19 23:20 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)
苦手な英語読みに時間がかかって、読書日記が書けないので、
9月と10月で読んだ本のすべてではなく、良本のみ、とりあえずメモ。


◎マイケル研究資料

下記は、MJ蔵書のブラックヒストリーといった分類の中におそらくあったはず。という推測で読んだもの。

1987年に初刊が出版され、世界的に話題になった本で、多くの本に引用されていますが、著名な読書家による紹介文などから感じるのは、実際のところ、日本では、ほぼ誰も読了していない本だと思います(笑)。

現在まで、《1》《2》(上下巻)が出ているのですが、原文がすごく難しい(と、著者自身も言っている)こともあって、翻訳に何年もかかり、《2》の方が先に出版されてしまうなどの混乱だけでなく、とにかく世界史について、広範囲に専門知識がないと読めない(あったとしてもかなりの難読本)本なんですが、

最近、「黒いアテナ批判に答えるという本が出版されていたことを知って、再度挑戦のきもちもあって、一応中身を見てみたんです。本書で巻き起こった批判をまとめて、著者が答えているというのは、あの、超長くてクソ面倒くさい本より少しは楽かも・・と思って。
結果から言えば、この本自体も上下巻あって、、全然無理でした(笑)

それで、私が読めなかったから、隊長も・・なんて言うつもりはないですが、でも、マイケルもこの本を読んだのではなく、日本の知識人と同じようにw、多数出版された関連書籍を読んだのではないかと思うので(原典を必ず押さえるという基本から、書庫にある可能性は高いですが)、「マイケルの愛読書」には含めませんでした。



黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

フランツ ファノン/みすず書房



黒い肌と白い肌。それは、植民者と本国者によっての分断なのか、それとも、皮膚の色によっての分断なのか・・マルコムXにも大きな影響を与えたフランツ・ファノンの本も、マイケルは読んでるはず・・と思って、『地に呪われたる者』と『黒い皮膚・白い仮面』の2冊をパラパラと。こちらは、バナール本とは違って、私よりも何世代か前の人には、よく読まれていた本らしく、熱情的な筆致に、かつて日本にもあった「革命の季節」を感じました。

そして、マイケルの肌の色を変えたことの中には、彼の呪いも幾分含まれていて、感覚的には異なっているように見えるファノンの叫びが、マイケルの声を通して発信されていたのかもしれないと。

[参考記事]松岡正剛の千夜千冊


◎アート系

アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン

大野 左紀子/河出書房新社



現代アートといったような範疇で、アーティストになろうとしたことがある人や、作品というものを作ったことがある人、あるいは、それらを見ている人には、おすすめ。疑問に思ったことへの回答は得られないものの(当然でしょ)、疑問を再確認することが出来ます(そっちの方が重要でしょ)。


◎文学系

旅のラゴス/筒井康隆

1986年に出版された本なのに、今また売れているという評判につられて。。

[参考記事]終わらない不思議な旅の人生とロマン


受難/姫野カオルコ

米原万里氏が絶賛し、1997年の直木賞候補になった作品。姫野氏の作品は現代を描いているようで、世界にも通じる古典性もあると思うんですが、この作品もまったく古くなっていませんでした。流石!

これ以外に読んだ本で、良かったものは個別に書く予定。

[PR]
by yomodalite | 2015-10-17 16:00 | 読書メモ | Trackback | Comments(0)
f0134963_22310518.jpg



[急遽、日夏耿之介の霊が降りてきたためw、後半に追記]


出張で京都にきた友人と会ったときのこと。


y:そうそう、、あの「愛従姉妹」でね、最初に思い出したのがマンディアルグの『満潮』っていう小説で、、生田耕作が翻訳で、今は亡き京都の「アスタルテ書房」で買ったステキな装幀の本なんだけど、、久しぶりに手にとって、少し読んでみたら、思った以上にエロくてさw ちょっとブログにはアップ出来ないって思って、それで人形に走ったんだ(笑)



f0134963_22335896.jpg



f0134963_22342003.jpg



で、マンディアルグだけじゃなく、なんか甘美で、悦楽的で、、最近ていうか、この数年、あのKINGのおかげで、そーゆー感じの文学って全然読んでなかったなぁ、、とか思ってるうちに、ふと、日夏耿之介のことを思い出して、、知らない? 詩人で翻訳家なんだけど、すっごく高踏的っていうか、荘厳華麗な翻訳をするひとで、、、私ね、何度もいうようだけどw、例のKINGのせいで「散文的に訳さねば!」とか、もう必死で自分に言い聞かせてたじゃんw。それで、まるっきり真逆の世界のものが恋しくなってきたこともあって、日夏耿之介訳の本を片っぱしから借りてみたのね。


そしたら、、もう思ってた以上にすごくてさ、、


特にスゴかったのが、ポーの「大鴉(The Raven)」の翻訳で、英語よりも、日本語の方が、さっぱりわかんないの。うん。もうね、何度読んでも、さっぱり!英語と並べてみないと


本当にまるっきり意味がわかんないの(笑)


で、ブログアップしようにも、もう部首もわかんない、絶対に変換できないような漢字もいっぱいあって、ルビも一字一字打たなきゃいけなくなりそうで、そうなると、すべての文字にカッコつきになっちゃって、とにかく無理なの。


それで、ああ、昔はこういうの「視覚的」に読んでたんだなぁって、つくづく思ったのね。今は、それを禁じてるけど、、英語って視覚的に読めないから、、、


(と、言ってたのが下記で、太字は変換不可の漢字、最初のパラグラフのみ)


The Raven

大鴉 


Once upon a midnight dreary, while I pondered weak and weary,

Over many a quaint and curious volume of forgotten lore,

While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,

As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.

`'Tis some visitor,' I muttered, `tapping at my chamber door -

Only this, and nothing more.'


むかし荒涼たる夜半なりけり いたづきみつれ黙坐しつも

忘却の古学のふみの奇古なるを繁(しじ)に披(ひら)きて

黄奶(くわうねい)のおろねぶりしつ交睫(まどろ)めば

忽然(こちねん)と叩叩の欵門(おとなひ)あり。

この房室(へや)の扉(と)をほとほとと 

ひとありて剥啄(はくたく:啄は旧字)の声あるごとく。

儂(われ)呟(つぶや)きぬ

「賓客(まれびと)のこの房室(へや)の扉(と)をほとほとと叩けるのみぞ。

さは然(さ)のみ あだごとならじ。」


沖積社『大鴉』日夏耿之介訳より


* * *


まさかと思って調べてみたら、

日夏訳の「大鴉」をアップしてくださっている方を発見!

こちらの講談社版の訳は、

4段目から6段目までの訳ですね

http://kusakai.jugem.jp/?eid=295


ちなみに、「サロメ」の方は、希律(ヘロデ)とか、希羅底(ヘロデア)とか、色々面倒くさいけどw、戯曲だから「大鴉」よりはわかりやすいかも。。



f0134963_22583983.jpg


河原町から、JP京都駅への乗換え駅「東福寺」のカフェ(ここはな)は、冷房だけでなく、なぜか暖房まで効いていた


f0134963_23023693.jpg


トイレの写真撮ってきてって、moulinさんが言うからぁ。。


f0134963_23061284.jpg




f0134963_23094432.jpg


私はアイスコーヒーだったけど、
どこでもワインのmoulinさんはこの日二杯目。。


そんな、moulinさんの「その日の思い出」はこちらです。

http://yasukuni0423.blogspot.jp/2015/09/yomodalite.html




追記)日夏氏の本をみていたら、氏の霊が降りてきたーーーww



KING OF POP

衆生悉皆(ひとみな)の国王(おほぎみ)


嗟呼(ああ)、彌額爾釈尊(みかえる・しやくそん)の

真名(まな)を何と称(よ)ぼうか

その肉体は、たくましきかの埃及(えぢぷと)の若者のやうで

鋼(はがね)の彫像のやうでありながら

象牙のやうに白く耀き、月のやうに浄らか

黝(かぐろ)きその睫毛の先には

長い長い真暗な夜、その夜とても

彼の眼(まなこ)のやうには黒くなく

然ても柔媚(しをらし)い眼光(まなざし)よ


血汐の上で舞を舞う

紅色(こうしょく)の衣(きぬ)の嬋娟(あてやか)さも

彼の魂(たま)の底(そこひ)のやうに絳(あか)くはなく

その仁(ひと)が現れれば、荒蕪(こうぶ)した諸所にも歓声が上がる

その音色は、聾者(みみしいたるもの)の耳にも通じ

その声音(こわね)は、楽の音色のやうで

主なる神の御声か 天球の音楽か

現世(うつしよ)の救ひ主とは、そなたのこと


(作:日夏耿之介じゃなくて、yomodalite!)


[PR]
by yomodalite | 2015-09-16 08:00 | 日常と写真 | Trackback | Comments(6)
f0134963_13233628.jpg


こちらは、スティーブ・ハーヴェイ、 D・L・ヒューリー、セドリック・ジ・エンターテイナー、バーニー・マックという4人の黒人コメディアンによるツアー「Kings of Comedy」の評判を聞きつけたスパイク・リーがドキュメント映画にしたもの(2000年公開)。

スティーブ・ハーヴェイは、1996年から2000年まで放映されていたコメディ番組「The Steve Harvey Show」や、2013年から始まった各界の著名人とのトーク番組「Steve Harvey」のホストとして、現在も大人気なんですが、

MJへの疑惑がどのように創られて行ったかを詳細に著した、雑誌『GQ』の特集記事「マイケル・ジャクソンは嵌められたのか」を熱心に紹介してくれて、


マイケルは、2002年にスティーブのラジオインタヴューで、

「君のショー “Kings of Comedy” でやったタイタニックのネタは、僕が見た中で最高におかしかったものだよ」「僕は、君の番組を見て、いつも爆笑してる、いつも見てるよ」

と答えていて、その後、2003年の誕生日パーティーの司会や、また2005年の裁判のときなど、幾度となくMJの側で支えてくれた方。


f0134963_14020633.jpg



MJ好きで、コメディ好きな私は、このショーがずっと見たかったんですが、日本版のDVD販売はなく、海外版のDVDは英語字幕もないうえに高額で、日本版のVHSもなかなか手に入らないし、、ということで、しかたなく、聞き流しているうちに、何を言っているかわかるようになる。という遼君の言葉を信じて、英語版のVHSを何度も見てたんですけど、

ちょっぴりわかったのは、テーブルをひっくり返して、ハンカチ、、あ、これが「タイタニック」ネタだ。。とか、テンプテーションの「ワン・マイク」と、ヒップホップのショーの違いぐらいで、あとは「ガッデム」と「マザーファッカー」しか聴き取れなかったんですけどw

最近ようやく日本版のVHSを手に入れて、念願の「字幕つき」で、爆笑することができました!

ショーは、私がこれまでに見た黒人コメディアンのショー中でも、最高に「黒いネタ」が満載で、4人のコメディアンは、すべて、白人はこうだけど、俺たち黒人は、、というネタに徹していて、9割が黒人客という中、人種差別や、自虐ネタ、SEXから、幼児虐待までw、これでもかっていうぐらい「アンチMJな世界」が、怒涛のごとく繰り広げられ(笑)、最後に登場するバーニー・マックは、私たちにはなかなかわからない、黒人の「マザーファッカー」という言葉の使い方についての解説もしてくれます(笑)

スティーブ・ハーヴェイはMCなので、何度も登場し、その度に、神や、音楽の素晴らしさ、そして一番大事なのは「愛」だということを人々に説きます。彼なりのやり方で(笑)。そして、「俺はオールドスクールの音楽が好きだ」と言って紹介された中でも、最高のラブソングとして、もっとも会場が盛り上がった曲は、私の知らない曲でした。






この曲をサンプリングして、
カニエ・ウェストがプロデュースした曲。






スティーブ・ハーヴェイと、リチャード・プライヤーは同一人物かと思うほど顔が似てるけど、エディ・マーフィーっぽいネタはないし、コメデイファンならずとも笑っぱなしかどうかは、差別ネタや下ネタへの耐性にもよるかと。。ちなみにMJネタはありません。



《おまけ》
こちらはスティーブの番組の人気コーナー
「スティーブに聞いてみよう」で、
マイケルについてのエピソードを
語っている動画(2014年)




(動画の内容)MJファンらしい質問者から彼とのエピソードに求められ、スティーブは『You Rock My World』の撮影現場に遊びにいった話を披露。MJは大きなトレーラーでそこに来ていて、案内されて中に入ると、そこはディズニーランドのような装飾がなされていて、テーブルセットの椅子は、なんと「きのこ」の形だったそうです(笑)。マイケルが優しく笑ってすすめるので、座ってはみたものの、きのこの傘の部分が尖っててケツが痛くて(笑)すっごく居心地悪かったと(笑)。外では、ヘンゼルとグレーテルのような白人ぽい子供たちが走り回ってたんだけど、それがマイケルの子供でさ。。みたいなことを言ってるようです。。




[PR]
by yomodalite | 2015-09-10 06:00 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)

ローリング・ストーンズを経営する: 貴族出身・“ロック最強の儲け屋”マネージャーによる40年史

プリンス・ルパート ローウェンスタイン/河出書房新社




40年にわたってストーンズのビジネス・マネージャーだった著者の自伝。第三章から、ようやくストーンズのメンバーが登場し始めるのですが、スペイン生まれで、ドイツ・バイエルン地方の貴族だった両親や、ヨーロッパのエスタブリッシュメントの生活感や考え方が窺い知れる部分など、ストーンズに関係のない部分にも興味深い点が多い本です。

そんな本書の中から、

各章のエピグラフのメモと、マイケルに関するエピソードを記録しておきますw

第1章
子どもたちだけが、なにを探しているのか、わかっているんだね
ーーーサン・テグジュペリ

第2章
軽薄については多く語られている。
軽薄な人々とは、結局、一部の慈善家、改良派よりも世界に及ぼす害は少ない。愚かなことを少しもしない人は信頼するな。
ーーーバーナーズ卿

第3章
経験とは何か別のものを探している間に得るもの
ーーーフェデリコ・フェリー二

第4章
病的な音楽しか金にならない
ーーーフリードリッヒ・ニーチェ

第5章
わたしだとてもよく知っている。(←原文ママ)
ならず者らは、望みを糧にくらすというのを。
ーーーアイスキュロス

第6章
今過ぎゆくこの瞬間以外、人生はすべてが思い出、
あまりにすばやく過ぎ去り、とても追いつけない
ーーーテネシー・ウィリアムズ

第7章
これまで不正が義務だったことはない
ーーーアンソニー・イーデン

第8章
人はいつも時が物事を変えてくれると言うけれど、
それはあなた自身が変えなければならないものだ。
ーーーアンディ・ウォーホル

第9章
自由なライオンは自分自身の野生の法則に従うことができる
ーーーR.H.ベンソン

第10章
友を許すより敵を許す方が簡単である
ーーーウィリアム・ブレイク

第11章
わずかな真実に足をつっこめば、自由に飛べる
ーーーアンドリュー・ワイエス

第12章
自分の好きなことをやりながら生きていけたら、それは素晴らしい人生だ
ーーーアーメット・アーティガン

エピローグ
ああ、歳月の過ぎゆくことのいかに早きことか。
ーーーホラティウス


f0134963_23595519.jpg


ポール・マッカートニーとエルトン・ジョンの前例があったものの、多くの人々にとってミックが騎士の称号をもらうことは驚きだった。しかし、それほど奇妙なことでもなかった。過去には、ジョン・ギールグッドに騎士の称号を与えることに抗議する人々でセント・ジェームズ・ストリートが騒然としたことがあった。また、建築史学者ジェームズ・リース・ミルンが授与者リストに載ったと噂された時にも、これを阻止しようと似たような騒動が起きた。ミックヘの授与は、アートの世界の異性愛者たちにとって、ちょっとした勝利だった。


f0134963_00003294.jpeg


私はアンディ・ウォーホルが1975年に創作したミックの肖像画と同じ路線の美術プロジェクトを立ち上げようとした。今回はマイケル・ジャクソンの肖像画を考えていた。マイケルの弁護士ジョン・ブランカにこの話を持ちかけると、マイケルが快諾したとの返事をもらったので、私はロンドンのルフェーヴル・ファイン・アート・ギャラリーのデズモンド・コーコランとマーティン・サマーズに相談した。二人の見解では、アメリカでもっとも評価の高い現役の肖像画家はアンドリュー・ワイエスだった。



f0134963_00094878.jpg


 
そこで私たちはメリーランド州ブランディワインにあるワイエスの自宅で打ち合わせをすることにした。その地所は私たちの知り合いの画家、陽気なウェイマウスとして知られるジョージ・ウェイマウスが所有していた。ジョン・ブランカがニューヨークからワイエスのエージェントを伴って到着した。マイケル・ジャクソンは、カリフォルニアからターバンとローブをまとったニキビ面の若手マクロビオティックのシェフ、そしておそらく子どもの頃からマイケルの面倒をみているに違いない70代のチャーミングなガードマンを同行してきた。
 
アンドリュー・ワイエスはマイケル・ジャクソンととても気が合ったようで、ランチのあいだマイケルに「肖像画のためにどんなコスチュームを着るか考えなくてはね」と語りかけていた。二人ともコスチュームオタクだった。マイケルが「僕は南北戦争の騎兵隊将校の制服が着たい」と言うと、ワイエスは「素晴らしいね。メイン州の海のそばにある私の家に来てもらって一緒に肖像画に取り組もう」と答えた。
 
それからアンドリューがマイケルに好きな画家は誰かと尋ねると、「ピエロ・デラ・フランチェスカ」と、彼は即答した。私はびっくりして、フォークを落とした。「君は印象派が好きなの?」とアンドリューが続けると、「そのとおりだよ、セザンヌは別だけどね」。このやり取りに私は呆然とした。マイケルは偉大な画家たちの作品に対して、明らかに審美眼を待っていた。二人ともよく語り、魅力的で、すべてが私の期待とは正反対だった。

同じくらい驚いたのは、イタリアのボルゴ・サンセポルクロやアレッツォの小さな教会にあるピエロ・デラ・フランチェスカの絵について、ワイエスに尋ねたところ、彼が「外国には行ったことがない」と答えたことだった。世界的に有名な画家なのにイタリアを訪れたことがなかったのだ。
 
残念なことに、このプロジェクトは日の目を見なかった。ワイエスの妻ベッツィが、彼と愛人ヘルガの不倫を知り、その仕返しとして、ワイエスがやりたがっていたマイケル・ジャクソンのプロジェクトを止めさせたのだ。ワイエスは2009年1月に亡くなったので、これが実現していたら彼の最後の大作品となったことは間違いない。マイケル・ジャクソンとはブランディワイン訪問後に、ロサンゼルスとロンドンのコンサートで数回会い、楽屋で楽しくおしゃべりをしたが、彼も6か月後に帰らぬ人となった。

(引用終了 P203〜205)


全体的に、すこし雑な翻訳なので、意味がわかりにくい部分はあるのですが、、

MJは、ピエロ・デラ・フランチェスカ好きで、印象派好きだけど、セザンヌは嫌い(私もーーー!!!)


ワイエスが有名人の肖像画を描くなんてイメージなかったんだけど、マイケルの肖像画見たかったなぁーー!

f0134963_08354969.jpg

この絵の女性との関係が、妻ベッツィを怒らせただけでなく、
マイケルとのプロジェクトを潰すことになっていたなんて。。


南北戦争の騎兵隊将校の制服。。。

スリラーで8冠受賞することになったグラミー章のときの衣装など、スリラー期のミリタリーファッションがもっとも「南北戦争の騎兵隊将校の制服」に近いように思えるのですが、、MJのミリタリー趣味は生涯続くものでした。グラミー受賞直後のオークションで『風と共に去りぬ』のオスカー像を1億円余で買ったことなど、MJは南北戦争に対してのこだわりを人生の最後まで持ち続けていたんですね。

そして、肖像画も「戦う男」として後世に残したかったんですね。

ちなみに、アンドリュー・ワイエスの息子のジェイミー・ワイエスは、ケネディや、ウォーホル、ヌレエフといった有名人の肖像画を描いています。。


f0134963_21511859.jpg



[PR]
by yomodalite | 2015-08-05 06:00 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(6)
著者は、京都大学在学中に、国家公務員上級試験、司法試験に合格し、同大学を首席で卒業後、通産省へ。その後ハーバート・ロースクールから、ペンシルバニア大学証券金融研究所研究員を経て、現在は、千代田国際経営法律事務所所長、国際弁護士として、アメリカ、ヨーロッパを中心にM&Aのサポートする著者は、50歳を過ぎてから、ユダヤ教に惹かれ改宗することを決意する。

他の宗教とは異なり、ユダヤ教への改宗は、信者になるというだけではなく、「ユダヤ人」になるということ。

日本人からユダヤ人になるのは、簡単なことではなく、宗教指導者であるラバイ(=ラビ)の元で何年も厳しい勉強をし、筆記試験や、口述試験を何度か受け、数々の儀式を行い、死後、自分の遺体を火葬しない誓約書を提出し、割礼手術を受ける。手術はラバイの立会いの元、病院で行ったものの、術後、2週間も出血と痛みがあった。また妻も改宗するという条件があり、冬の三浦海岸で、素っ裸になって海に浸かる儀式を経て、あらためてユダヤ式の結婚式を挙げた。(「はじめに」より)


これほど優秀なひとが「簡単なことではない」というユダヤ教について、冒頭から学ぶ気が失せるようなことが書かれているうえに、「浮かれる日本への警鐘」というサブタイトルどおり、耳の痛いことが満載の本書なのですが、

「第4章・生き延びるためのヒントはユダヤの教えに」から、

「なぜリベラルアーツ教育は日本に根づかなかったのか」を引用します。


あるボーディングスクールを訪ねたとき、こんな標語の書かれたポスターが貼ってあるのを目にした。

A bill of rights is what the people are entitled to against every government on earth.
地球上のあらゆる政府に対して抵抗する人民の権利こそが基本的人権である

これは、アメリカ合衆国第三代大統領であり、アメリカ独立宣言の主要な起草者であるトーマス・ジェファーソンの言葉(*)である。
 
ボーディングスクールとは、リベラルアーツ教育を行うところだ。日本では「リベラルアーツ=一般教養」などと誤った訳が与えられているが、とんでもなく馬鹿げた間違いである。今の日本には、そもそもリベラルアーツの概念すら存在しない。
 
リベラルアーツとは何か?それはギリシャ・ローマ時代に理念的な源流を持つ、人が身につけるべき実践的な知識・学問のことだ。原義は「人を自由にする学問」であり、それを学ぶことで人は初めて非奴隷たる自由人になれた。
 
時代は下って、アメリカで発達した現代のリベラルアーツ教育は、人文科学、社会科学、自然科学に加え、物の考え方に重点を置いた教育が行われる。全寮制による少人数教育であることも特徴だ。
 
と、ここまでの説明は辞書的な一般論である。私なりの解釈をいえば、リベラルアーツ教育とは、冒頭の標語に書かれていたように、政府に抵抗し、政府を倒すための戦略的思考を教える教育である。政府に抵抗する人民のために銃を持つことが権利であると同じように、政府に対抗するための学問を修めることも人民の最も重要な権利なのだ。
 
だからこそダグラス・マッカーサー元帥は、第二次世界大戦後、日本からリベラルアーツ教育を奪い去ったのである。そんなものが日本にあると世界にとって危険だからだ。だからこそ豊臣秀吉は刀狩りをやったのだ。そんなものがあると秀吉の支配に危険だったからだ。同じことである。
 
マッカーサーは日本をアメリカのいいなりになる羊ばかりの国にするために、リベラルアーツの欠如した教育制度をつくった。6・3・3・4という日本の教育制度からは、リベラルアーツを修める機会がすっぽり抜け落ちていることに日本人は気づかなかった。その挙句、どうなったか? 日本には受験教育と就職戦争だけが残った。一つでも上のランクの大学に入ろう。早く大学に入って就職活動をしよう。そういう若者ばかりを育てた。結果として、戦略的思考ができる人間は日本からはほとんど生まれなくなった。
 
これこそはアメリカの思う壷であった。”愚かな国、日本” を収奪の対象とすることが戦後70年にわたって行われてきた。日本の国富という国富はすべてアメリカに吸い上げられた。その結果が今の日本の体たらくである。
 
経営学の巨人、ピーター・ドラッカーはいっている。
 
「マネジメントはリベラルアーツである」
 
ドラッカーのいうマネジメントには、企業のマネジメントはもちろんのこと、国家のマネジメントも含まれる。
 
先に挙げたトーマス・ジェファーソンの言葉を紹介したポスターは、ケンタッキー州のレキシントンにあるトランシルヴァニア大学のキャンパスに貼られていたものだ。トランシルヴァニア大学は小さなリベラルアーツ・カレッジである。その大学の標語が「単なるリーダーになるな、パイオニアになれ」といっているのだ。
 
パイオニアとは、いうまでもなくある分野の開拓者、つまり人がやっていないことを、先頭に立って切り開く者という意味である。これぞまさに、今の日本に最も求められている起業家のことではないか。リベラルアーツ教育はパイオニア精神を叩き込む教育なのだ。日本人は政府に反抗したり、政府を倒そうとしたりしない羊のような人間の集合である。それはアメリカによってつくられた現実だったが、結果的には政治家や官僚にとっても、都合の良い状態なのだろう。
 
マッカーサーの「謀略」以前に立ち戻って、日本人はリベラルアーツ教育の必要性を議論するべき時である。

(引用終了)



(*)イギリスに統治されていた13の植民地が独立したことを宣言した、アメリカの独立宣言は、トーマス・ジェファーソンが起草し、1776年7月4日に大陸会議によって採択された(この頃、日本は鎖国中の江戸時代)。基本的人権と革命権に関する前文、国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情に関する28ヶ条の本文、そして独立を宣言する結語の3部から成り、中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。

ちなみに、

マイケルが、オックスフォード・スピーチで「子どもたちの権利」について話す前に、ジェファーソンを登場させているのも、それが米英の基本的人権の土台になっているからですね。

(下記はスピーチの該当部分)

みなさんご存じのように、イギリスとアメリカは、第3代大統領トーマス・ジェファーソンが起草した独立宣言の「奪うことのできない権利」(生命・自由・幸福の追求)をめぐり争っていました。2カ国がジェファーソン大統領の主張をめぐり争う中、子どもたちにも「奪うことのできない権利」があるということは論議されなかったのです。

これらの権利が徐々にむしばまれていけば、世界中の子ども たちの多くが、幸福や安全を享受できなくなります。そこで、すべての家庭に児童権利法案が取り入れられることを強く望みます。 条項を挙げると、

・愛される権利。自ら求めずとも。
   
・守られる権利。どんなことがあっても。
   
・かけがえのない存在だと感じられる権利。何も持たずにこの世に生を受けようとも。
   
・話を聞いてもらえる権利。大人にはおもしろくない話でも。
   
・寝る前に読み聞かせをしてもらえる権利。夕方のニュースや、『イースト・エンダー』(イギリスの家族ドラマ)に時間を取られることなく。
   
・教育を受ける権利。学校で銃弾におびえることなく。
   
・かわいがられる対象となる権利 (たとえ平凡な外見だとしても)。

どの人も、自分が愛される対象であると実感することが、認識の土台、つまり意識のはじまりなのです。髪の色が赤か茶色かを知る以 前に、肌の色が黒か白かを知る以前に、どんな宗教に属しているかを知る以前に、自分が愛されていることを実感できなくてはならな いのです。




[PR]
by yomodalite | 2015-07-05 20:00 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)
f0134963_11525513.jpg
Cafe SONRISA(天五中崎通り)



日々の生活の中で、私は「どういうことなのかな?」っていう感覚を一番多く感じるタイプで、疑問符つきの感情を抱く事柄は、キリがないぐらいなんだけど、理解したいと思って、いろいろ人の意見を見ても、


☆More!!!
[PR]
by yomodalite | 2015-03-03 12:25 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)

「かなしみ」の哲学―日本精神史の源をさぐる (NHKブックス)

竹内 整一/日本放送出版協会




日本人はどうして「かなしみ」という否定的な感情に親しみを覚えるのか?

本書では、あらゆる角度から「かなしみ」について語られているのですが、

日本人の精神史においては、こうした「かなしみ」を感受し表現することを通してこそ、生きる基本のところで切に求められる、他者への倫理や、世界の美しさ、さらには、神や仏といった超越的な存在へとつながることができると考えられていたのではないか。つまり、「かなしみ」とは、生きていること〈死ぬこと〉の深くゆたかな奥行きをそれとして感じさせる感情なのではないかーー。

と「はじめに」には書かれています。

最近の私は、欧米の古典を読むうえで、「かなしみ」や、「もののあわれ」といった日本的な情緒で、ものごとを理解をしないように心掛けているんですが、反知性主義の時代と言われる、今の日本の現状は、宮台氏が言うように「感情の劣化」のようでもあり、


日本人が他者への共感を感じるには「かなしみ」という感情はとても大事で、また、世界から「LOVE」が失われているように感じるのも、深くゆたかな奥行きのある「かなしみ」が欠けていて、正義行動や、権利行動にばかり駆り立てられているからかもしれません。

差別を失くせ。という主張をどれだけしても、他者への同情や共感をもたれなければ、自分と同じだとは思えない。個性が尊重され、個性が競われる一方で、人類に共通した感情を確認することは、いつの時代であっても大事なことですが、現代では特に重要に思えます。

本書は、源氏物語や伊勢物語といった古典から、漱石や小川未明、宮沢賢治、井上陽水、谷川俊太郎、天童荒太、、に言及し、引用は幅広く、「かなしみ」について考えるために、コンパクトにまとめられた名著だと思いました。

全体の内容については、他の書評を。


下記は、私の個人的なメモです。

(引用開始。要約して引用しています)

「やさしい」は、太宰治のキーワードのひとつでもあるが、たとえば彼はこういうことを言っている

文化と書いて、それに、ハニカミというルビを振る事、大賛成。私は優という字を考えます。これはすぐれるという字で、優良可なんていうし、優勝なんていうけど、でも、もう一つ読み方があるでしょう? 優しいとも読みます。そうして、この字をよく見ると、人偏に、憂うると書いています。人を憂える、ひとの淋しさ、忙びしさ、つらさに敏感な事、これが優しさであり、また人間として一番優れている事じゃないかしら、そうして、そんな、やさしい人の表情は、いつでも含羞(はにかみ)であります。

私は含羞で、われとわが身を食っています。酒でも飲まなきや、ものも言えません。そんなところに「文化」の本質があると私は思います。「文化」が、もしそれだとしたなら、それは弱くて、敗けるものです、それでよいと思います。私は自身を「滅亡の民」だと思っています。まけてほろびて、その呟きが、私たちの文学じゃないのかしらん。「昭和21年4月30日河盛好蔵宛書簡」(p81−82)

「優」のもともとの意味は、「わざおぎ、役者」である。「優」[やさし」には、どれほどかは「見せること」の演技性・作為性がふくまれているということが、こうしたところからもうかがうことができる。
 
それは偽善だ、嘘だということにはならない。大宰の言い方でいえば、「人を憂える、ひとの淋しさ詫びしさ、つらさに敏感な」「優しさ」には、そうした要素をふくむことによって、何とかその「淋しさ詫びしさ、つらさ」といったものを共悲・共苦しえているということである。大宰その人の「道化」といわれる側面もそこに由来している。
 
人は、簡単に「同じ」ではありえないのであって、そこを安易に「同じ」としてしまうとき、偽善や押しつけがましさといったことが起こってくる。「同情するな」「情けはいらない」「あわれむな」といった拒否反応は、それを感じとったところに生じるのである。

ー 以上、第4章 他者に向かう「かなしみ」より


遺された者の「かなしみ」については、「悲哀の仕事」という考え方がある。

これはフロイトの精神分析用語であるが、小此木啓吾は、それをこうまとめている。
 
……「悲哀」とは、愛する対象を失うことによってひきおこされる一連の心理過程のことである。フロイトは、相手を失ってしまったという事実を、知的に認識することと、失った相手を心からあきらめ、情緒的にも断念できるようになることとは、決して同じではないという。……頭ではよくわかっている。しかし、どうしても会いたいという思慕の情は、決してわかっただけで消えるものではない。……すくなくとも一年ぐらいのあいだは、これらの情緒体験を、心の中でさまざまな形でくり返す。この悲哀のプロセスを、心の中で完成させることなしに、その途上で悲しみを忘れようとしたり、失った対象について、かたよったイメージをつくり上げたりしたりして、その苦痛から逃避してしまうこともある。……しかしこうしたさまざまな心の動きによって、対象喪失をめぐる自然な心のプロセスを見失い、対象喪失を悼む営みが未完成なままになる心理状態は、心の狂いや病んだ状態を引きおこす。

「悲哀の仕事」とは、こうした対象喪失の「悲哀のプロセスを、心の中で完成させる」営みである。この考え方は、むろん精神分析にかぎらず、より一般的にわれわれが死者を送り弔う一連の儀式の中にもさまざまなかたちで見出されるものでもある。
 
「弔う」とは、もともと「問う」ことであり、「訪う」ことである。死者を訪問して、死者の思いを問うことである。柳田邦男の言葉でいえば、死者の[物語」を聴きとめることである。そのようにして死者の「物語」を完結させることが、同時に、こちら側の「悲哀の仕事」をも完遂させていくことになるということであろう。(p158)

「遺された者にとって、死が辛く悲しい。しかし、悲しみのなかでこそ、人の心は耕されるのだ」(柳田邦男「死への医学」への日記)(p160)

ー 以上、第7章 別れの「かなしみ」より


三水清は、以下のようなきびしい感傷批判を展開している。

・感傷は、何について感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。
・感傷はすべての情念のいわば表面にある。
・特に感傷的といわれる人間は、あらゆる情念にその固有の活動を与えないで、表面の人口で拡散させてしまう人間のことである。
・あらゆる物が流転するのを見て感傷的になるのは、物を捉えてその中に入ることのできぬ自己を感じるためである。自己もまた流転の中にあるのを知るとき、私は単なる感傷に止まり得るであろうか。
・感傷には常に何等かの虚栄がある。
・感傷には個性がない、それは真の主観性ではないから。その意味で感傷は大衆的である。
・感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている。
・感傷はただ感傷を喚び起こす、そうでなければただ消えてゆく。
・宗教はもとより、芸術も、感傷からの脱出である。
 
三木の批判の要点は、大きく分けるとふたつある。ひとつは、感傷が、表層的・静観的であること、もうひとつは、感傷が、個性を持たない、大衆的なマンネリズムに陥っていること、の2点である。

竹田青嗣は「歌謡論」のなかで「悪しきセンチメンタリズム」は、他人の目をひそかに意識し、利用する」自己哀惜のナルシズムとは、他人の目を意識しながら、それに乗じて自己の「かなしみ」をあおりたてること、高ぶらせることだという。

「他人による承認」、あるいは、「他者の目の利用」というセンチメンタリズムは、自分みずからの経験や実感に基づいておらず、そこでの表現は「大人にも子供にもあまりかわりなく、定型的な情動をよび覚ます」ものである。センチメンタリズムとは、簡単に「我と他と何の相違があるか」「皆同じではないか」と乱暴に一括してしまうところにあるということである。

ハンナ・アーレントの言うように、「哀れみは、残酷さそのものよりも残酷さそのものより残酷になる・・・感傷の際限なさが限りない暴力の奔流の解放を助ける」ということも十分ありうるし、「もののあわれ」もまた、他者性・超越性がいささかでも失われるならば、「世界を既知の同質性へと変容させるたえのイデオロギー」として「感性のファシズム」として機能してしまう危険性をもっている。(p191)

ー 以上、第8章「かなしみ」の表現より


「かなしみ」は、それを「かなし」まなければ「もっと何かを失」ってしまうものであり、さらには、それを「かなしむ」ことにおいてこそ、その失われゆくもの、失われてしまったものにつながりうるかもしれない感情でもある。(p207)

「物のあはれ」というのは、結局は、われわれのうちにある、何かしらの「永遠の根源」なるものへの思慕ではないか。喜びも「かなしみ」も、すべての感情は、「永遠の根源」への思慕を含むことによって、初めてそれ白身が喜びとなり、「かなしみ」となる。

それはいつもそう意識されているわけではないが、たとえば、「ああ楽しいなあ」、と思えばそれはずっと楽しくいたいと思うし、「ああいとしいなあ」、と思えば、それはいついつまでなどとは言わずに、ずっと愛していたいと思うものだ、だから、愛はかならず「かなしみ」となるのだ、と。

われわれは有限である。にもかかわらず、愛は愛のなかに永遠を目指すから、それはどうしても「かなしみ」にならざるをえない。ー 和辻哲郎『日本精神史研究』(p209−210)

「物のあはれ」「かなしみ」は、それ自身が、かぎりなく純化されようとする傾向をもった「無限性の感情」の発動でもある。すなわち、「物のあはれ」「かなしみ」とは、われわれのうちにあって、われわれを「永遠の根源」へと帰らせようとする、根源自身の働きだというのである。だからこそ、「それによって、我々は過ぎ行くものの間に過ぎ行くものを通じて、過ぎ行かざるものの光に接する」ことができるというのである。
 
綱島梁川は、「神はまず悲哀の姿して我らに来たる。・・・我らは悲哀を有することにおいて、悲哀そのものを通じて、悲哀以上のあるものを獲来たるなり」と表現していた。

また宣長は、その根源の働きを神々の働きと言い、親鸞は阿弥陀如来の働きとしていた。

ー 以上、第9章 有限性/無限性の感情としての「かなしみ」


人間の一生はたくさんの哀しみや苦しみに彩られながらも、その哀しみや苦しみの彩りによってさえ、人間は救われ癒されるのだ・・・哀しみも豊かさなのである。/なぜならそこにはみずからの心を犠牲にした他者への限りない想いが存在するからだ。/そしてまたそれは人の中に必ずなくてはならぬ負の聖火だからだ」(藤原新也『コスモスの影にはいつも誰かが隠れている』)

エロスとは、男女のそれだけではないよ、真理を知りたいとか、力を持ちたいとかいうのもエロスなんだよ。(山折哲雄氏の言葉)

「その星は小さすぎて見上げてもわからないだろう、でも、その方がいい、ぼくの星は、夜空いっぱいの星のなかの、どれかひとつになる、そしたらきみは、夜空ぜんぶの星を見るのが好きになるだろう」(『星の王子さま』の最後、もとの星に戻ってしまうという王子さまの言葉)

ー 以上、「あとがき」より

(引用終了)

☆星の王子さまの言葉は、この詩と似てますね!


[PR]
by yomodalite | 2014-12-15 11:59 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

ミック・ジャガー~ワイルド・ライフ~

クリストファー・アンダーセン/ヤマハミュージックメディア

undefined



町山智浩氏の2012年から2014年までに、米国で話題になった言葉についてのエッセイ『知ってても偉くないUSA語録』、その第1章「4000 Women」は、本書に書かれている、ミックが抱いた女の数(笑)

ロック界では、キッスのジーン・シモンズが自伝で4897人だと言い(笑)、最近出版された本によれば、あのウォーレン・ベイテイは、なんと1万2775人だそうで(笑)、ブラジルの女優ソニア・ブラガはハリウッドに招かれたとき、「ベイティさんに抱かれました?」と聞かれると、「当たり前でしょ。ニューヨークに行ったら自由の女神を見るようなものよ」と答えたとか(町山本)。

MJファンの中には、著者のクリストファー・アンダーセンの名前に記憶がある方もおられると思いますが、あの本と同様、こちらも1ページごとというか、1行ごとに「見たのかよ」とツッコミたくなるような内容でw、厚さ2.5ミリで二段組みというボリュームの中には、女性だけでなく、男性も含まれるワイルドな下半身ライフがぎっしりと詰め込まれています。

友人としても、同時代のライバルとしても、デヴィッド・ボウイが頻繁に登場するのですが、両性具有でバイセクシャルというキャラを、当時もっとも体現していたボウイ以上に、ミックもセクシャリティを超越しようと、モンローをはじめ、セクシーな女性の研究を怠らなかったとか。

今では、ミックもボウイもクラプトンも「女性っぽさ」なんて1ミリも感じませんが、でも、今、レディ・ガガが「バイセクシャル」を掲げているのと、60年代や、70年代の雰囲気はどこか違うんですよね。性的マイノリティのためとか、そんなことはどうでもよくて、女の子とも、男の子とも、魅力的だったら「ヤってみたい」と思うだけ。リベラルなアイデンティティより、本当の自由が重要だったようです。

著者は英国王室のスキャンダル本で有名らしく、こういった話題にかけては、対象が誰であろうとw、勝手に筆が進んでしまいそうな方なんですが、ミック・ジャガーという素材にはぴったりあっているようで、セックスとドラッグのことしか書かれていないような本が、どこか「おとぎ話」のように感じられるのは、今はなくなってしまった「自由」がここにはあるからでしょうか。

そんな下半身ライフだけでなく、ストーンズと言えば、昔からハードドラッグ愛好者として有名でしたが、

第4章「天使と悪魔」から、省略して引用。

ーー1967年6月29日

すでにキースに懲役1年を宣告していたかつら頭のレズリー・ブロック判事は今、ミックに塀の中で三ヶ月過ごすように言い渡していた。チチェスターにあるウェスト・サックス裁判所の外には800人のファンが集結し。彼らの「恥を知れ!」やら「彼らを釈放しろ!」というシュプレヒコールが法廷内まで響いてきた。

ミックとキースに救いがあるとすれば、今回の有罪判決には世界中から抗議が殺到していることだった。デモ隊が各国のイギリス大使館を包囲し、ミックとキースを即刻釈放せよと要求した。世界中のディスクジョッキーが、ふたりが自由を手にするそのときまで、ストーンズの曲をかけ続けると誓った。そしてザ・フーは共闘の意を表明として、今の状況にふさわしいタイトルが与えられたストーンズの楽曲ー「ラスト・タイム」と「アンダー・マイ・サム」を両面シングルとしてレコーディングした。

世論も「ミックとキースを解放せよ」と声を荒げた。多くの新聞が「ストーンズへの厳罰は「毎度おなじみの英国の偽善」であり、「とんでもない不当判決」だと非難する社説を掲載した。決定打はロンドンの老舗『タイムズ』紙の編集長によって振り下ろされた。モッグは18世紀の英国詩人アレクサンダー・ポープを引用した「誰が車で蝶をひき殺すか?」というジャーナリスト史上もっとも有名なタイトルの社説において、今回の判決を激しく抗議した。

(引用終了)

ドラッグ使用してなかったわけじゃないのに、大メジャー紙が社説で、逮捕を非難するだなんて、今では想像できないですね。それと、ミックもキースも、ヘロインやコカインなどのハードドラッグを永年にわたって多量に使用していたはずなのに、どうして70歳を超えた現在まで、肉体的にも、精神的にも健康なんでしょう?

医者が処方する薬で亡くなるケースはすごく多いのに。。


また今年、ミックの恋人、ローレン・スコットが自殺というニュースもありましたが、彼女は、本書の第9章にルウェン・スコットとして登場しています。

最後に、マイケル関連についての要約メモ。

本書の前にかなり荒く読んだ、キース・リチャーズ自伝『ライフ』では、80年代、ミックはマイケル・ジャクソンの虜で、彼の事ならなんでも知りたがり、CBSと社長のウォルター・イェトニコフとの契約したのも、そうすればマイケルと同じぐらい売れると思っていた。というようなことが書かれていたのですが、こちらの本では、

ミックはジャクソンの偉業に敬意をもっていた。だが、違うレコード会社だったら、『スリラー』はあれほどの大ヒットにはならなかったということもわかっていた。

当時の妻のジェリーとの間に娘が生まれると、真夜中に夫妻のベッドで授乳することは許さない。母乳は胸がむかつくにおいなんだよ、とミックは言うと、マイケルは明らかに引いていたが、「ステイト・オブ・ショック」のデュエットにミックを参加させることについてはあきらめなかった。発売直後に第3位にランクインしたこの曲は、ソロのキャリアを気づくことに不安を抱いていたミックには大きな自信になったものの、コラボレーションについては、どちらのスターも相手に感心しなかった。ジャクソンはミックの調子はずれを非難し(彼は一体どうやってスターになんてなれたの?)、ミックはマイケルの才能を「ビールの泡のようなもの」とけなした。

(要約引用終了)

「ステイト・オブ・ショック」の記述は、『マイケル・ジャクソン・インク』にも少しだけあって、そちらは、この曲のリリースが、ジャクソンズのシングルと同時期でファミリーともめた…みたいな内容で、スリラーで成功したあと、アルコール中毒になって失脚したおしゃべり☆☆野郎のイェトニコフが発信源のようでしたが、本書の記述は、これまでの本や報道からまとめただけみたいですね。

本書にマイケルが登場するのは、これだけですが、MJが自分の使命を自覚するうえでは、確実に影響を与えたであろう人物についての客観的なストーリーの中には、MJが求められたり、反発された理由も浮かび上がってくるのでは、と思って読みました(ずいぶんと無茶な読み方ですがw)。


[PR]
by yomodalite | 2014-09-30 06:00 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)
f0134963_14200006.jpg


今月、映画館で観た映画について。

『ジゴロ・イン・ニューヨーク』は、シャロン・ストーンが今でもすごく綺麗だったということがわかる以外には何もなくて、

『LUCY/ルーシー』は、『her 世界でひとつの彼女』、『トランセンデンス』に引き続き、人工知能に関する映画を見ておこうと思ったんだけど、、LUCYは、2作と違って、脳機能の人工的覚醒で、、とか、どうでもいいぐらいありがちなアクション映画で、

『イブ・サンローラン』は、恋人でもあり、重要な仕事上のパートナーでもあり、すべてを共有してきたはずのピエール・ベルジェ公認の脚本なんだけど、サンローランの才能も業績も苦悩も描かれているとは思えなかった。あばたがエクボに見えるだけでなく、愛していると思う気持ちには「本質が見えない」ということもあるのかも。。嫉妬ってものすごく強い感情だからなぁ。同性どうしの場合は特に。


今年はじめに観た『ファイア by ルブタン』もそうだったけど、『イブ・サンローラン』、『LUCY』で、フランス映画のレベル低下をハンパなく実感。完成度が高くないというだけでなく、ハリウッド映画より志の低さを感じる。

『TOKYO TRIBE』は、私にとって、監督の名前だけで見てしまう園子温の最新作。自主映画ぽさが薄れ、商業映画としても完成度の高い作品に、あと一歩というところが残念というか、、

監督にとって、初めての原作ありの映画。原作コミックは全然知らないけど、各トライブのリーダーの生き様とか、もう少し人物描写があれば、バトルシーンとのメリハリもついて、本当に名作になったのではないかと。


ラップミュージカルというアイデアは秀逸だし、ラップ自体も素敵(窪塚洋介以外w)。音と映像のマッチングは、たけしの『座頭市』よりもずっと素晴らしく、巨根自慢で『花子とアン』の村岡印刷さんとは180度違う、鈴木亮平のTバック姿も、美香さんの妖艶演技も、『プライド』に次いで、オペラを披露するステファニー、自前で黄色のジャンプスーツを所有するほどのブルース・リーファンのしょこたんのヌンチャク使いも素敵だったので、どうしても惜しい感じがしてしまいました。

そんなわけで、

少し早いけど、今月私がいちばん良いと思った映画は

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』に決定!

f0134963_14140942.jpg

この映画のストーリーをカンタンに説明すると、『キャプテンEO』を2014年に、2時間映画にしたという感じ(ホントかどうかは各自確認w)。マイケルがマーベル・エンタテイメントを買おうとしていたことを知ってるMJファンで、時間がある人は見るべし。買収計画は失敗したものの、制作者サイドには、MJスピリッツが生きていた!

f0134963_14235924.jpg

70年代〜80年代ヒットチューンの数々が、映画を引き立てているのだけど、
ラストでは、まさに瞬殺のキラーチューンがかかります!








[PR]
by yomodalite | 2014-09-26 06:00 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(12)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite