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先日紹介したウィラとヴォーゲルの会話(Boy, is that Girl with You?)で、引用されていた本が面白くて、ふたりの会話について、chiidspirits先生とおしゃべりしてみました。


* * *


Y:いつもは、私がリクエストしてばっかりなんだけど、この記事は、childspirits先生の方からオススメしてもらったんだよね。最初に興味深いと感じたのはどういった部分だったのかな?



C:うん、この曲とショートフィルムが、人種の壁をぶち破る、というマイケルの意思表明だということは、タイトルからすぐわかるんだけど、、それ以上の要素がいっぱい詰まっているということを考えさせてくれる記事で、みんなでシェアしたいなと思ったのね。


たとえば、ショートフィルムのブロローグ部分が、白人家庭の孤立と機能不全、特に父と息子のそれを描いているとか、人種だけではなくジェンダーの壁を破ろうとするメッセージが込められていたんだとか。私たちのよく知らないアメリカの社会的背景とか、そういう見方もあるのかぁ、と思わせてくれる記事だったから。このサイトの記事はどれもそうなんだけどね。


あと、ラルフ・エリソンとかジェイムズ・ボールドウィンなどの作家の名前が、MJとの関連から出てきたことにも興味をひかれた。考えてみると彼らは文学の世界で、人種を越えたファン層を獲得し、議論を巻き起こした、いわばMJの先達なんだよね。「MJと文学」という観点は、自分には興味深くて、多くの人にも知ってもらいたいような気がしたのね。それと、もうひとつ、去年から頻発している黒人青年と白人警察官の事件がボルティモアで暴発したということもあって、この歌でMJが提起した問題は、まったく今日的なことなんだなぁと、改めて思ったので。



Y:この文章からは、マイケルが「人種の壁を突破した」とか「黒人として初めて、、」と言われていることが、実際にどれほどの偉業だったかについて、あらためて理解できるよね。ただ、当時の日本のファンは、MJのことを黒人という意識では見ていなかったし、彼が登場した80年代以降、日本のお茶の間にまで浸透したアメリカのスターは黒人の方が多かったという印象もあって、人種差別は、切実な問題として考えられなかったんだよね。



C : 彼らの活躍を目の当たりにすれば、アメリカの人種問題の深刻さや残酷さを感じることは少なかったかもしれないよね。


でも、かつては日本でも、結構アメリカの黒人が抱える問題を意識してたんじゃないかと思う。文学の話で言うと、1961年から68年にかけて、立派な黒人文学全集刊行されて、この中にはラルフ・エリソンやボールドウィンや、彼らの先輩であるリチャード・ライトも取り上げられている。そういう全集が編まれたってことは、需要があったんだよね。それに私が中学校の頃、音楽の教科書には「オールド・ブラック・ジョー」ものっていたし、「アンクルトムの小屋」の話も、小説全部読んだことはなくても、あらすじくらいは知ってる人が多かった。でも、今の若い人にはどちらも全くと言っていいほど、なじみがないみたい。先に挙げたボルティモアの暴動についての新聞記事を大学の授業で読む場合、かなり予習が必要な感じがするもの。



Y:その頃、黒人文学とか、人種差別について熱心だったっていうのは、“人権” について考えることが日本が近代国家になるために重要だっていう認識が教育現場にあったからじゃないかな。日本が貧しくても、上を見ていられた時代には、差別に打ち勝ってきた黒人たちへの共感があったんだと思う。


でも、日本人としてのプライドが揺らぎ始めた昨今では、日本礼賛みたいな教育の方が重要みたいで。。当時はよくわからなかったけど、最近の嫌韓・反中といった恥ずかしいブームを経験して、ようやく、今だに絶えない黒人差別がどういうことだったか、少しわかったような気がするよね。要するに今まで下に見ていたものが、そうとはいえなくなったとき、差別感情は、前よりももっと激しくなるということが。。



C : うん、人権についての関心は、上っていくべき目標がはっきりしていた、精神的なゆとりがあったからというのは、本当にそうだと思う。敗戦後、とにかくアメリカについて何でも知らねば、という機運もあったのだろうしね。かつてアメリカで、黒人に対してもっとも差別意識や憎悪をあからさまにしたのは、レッドネックと呼ばれるような貧困層の白人で、それはある意味分かりやすい構図だったのかもしれない。でも黒人の地位が上がり、大成功して何もかも手に入れているように見える黒人が現れてくると、既得権益をおびやかされる白人の層はかつてとは違ってくるわけで、差別や嫌悪の現れ方も違ってくる。


それは、日本で今起きている差別問題からも感じることだけど、私たちは、結局、アメリカの人種差別から大して学んでおらず、安全なところから黒人に対して勝手な共感を抱いたり、同情していただけだったのでは、と思わされるね。



Y:貧困層から始まった差別感情が、中間層の落ち込みにともなって、拡大していくという構図は、アメリカも日本もまったく同じで、その感情は黒人だけでなく、ユダヤ人感情にも見られるものだよね。


ただ、日本人が、黒人差別がわからないのは、異人種が少ない島国だからという部分もあるけど、ヨーロッパには、いっぱい黒人がいるのに、これほど差別が激しく、差別を根底にした暴行事件が多発しているのは、アメリカだけなんだよね。そういう意味では、ウィラは、「人種というのは、生物学的事実ではなく文化的なコンセプトによって生じるもの」だと言っているけど、私は、それを世界で最も受け入れないことが “アメリカ文化” だと言えるんじゃないかと思う。少し皮肉めいた言い方をしちゃうけど、アメリカのアカデミーで「人種問題」というのは、いつの時代もトレンドであって論文にしやすいんだなぁ、と。



C : ウィラの「人種というのは・・・」という発言は、現実の「アメリカ文化」がそれとは正反対だからこそ、特に意味を持つわけだよね。



Y:それで、そのことと少し関係があると思うんだけど、ロバート・ブライの『アイアン・ジョンの魂』が取り上げられてたでしょう。私たちふたりとも、その本を知らなくて、あわてて読んでみたわけなんだけど、訳してるときに想像してた内容とは印象が違ってて、それについても少し驚いたよね?


◎アイアン・ジョンの魂(単行本)

◎グリム童話の正しい読み方―『鉄のハンス』が教える生き方の処方箋 (文庫)



C:てっきり、マッチョな男性像や、家父長的な強い父親を取り戻そう、みたいなメッセージかと思ったら、のっけから全然違っていて、すごく意外だった。でも、調べてみたらブライという人は、シュールレアリストとしてスタートし、芭蕉や一茶の翻訳もしてるし、戦争や自然についての優れた作品もあり、異文化や歴史について広く深い関心を持った詩人なのよね。単純にマッチョの回復なんか提唱するするばずはないんだね。やっぱりちゃんと、原典にあたるの大事だなぁと、またもや実感。MJに関わってると、それをくりかえし諭されるように思うのだけれど、すぐ忘れちゃって・・・ベストセラーに対する偏見(笑)も悪い癖です。



Y:ホント実際読んでみてよかったよね。これはグリム童話の『鉄のハンス』(米国ではアイアン・ジョンとして知られている)の物語の解釈から、人生を探求する物語なんだけど、神話やおとぎ話やフロイトの理論について、自分の成長に繋げて考えるのではなく、世の現象や、他者への分析にカンタンに解答を出すための手段としか考えていないような人が書いたものとは一線を画す内容で、


「大変な時代を生きることになった。今まで通用してきた “男らしさ” なんてものがヨレヨレに擦り切れて、使い物にならない時代になってしまった」


ってところから始まる。ヴォーゲルは、この本について、「それがすべての男性に通じる普遍的なメッセージで “男らしさの危機” に対するオールマイティな処方箋だと思ってる」ところが問題だと言っているけど、


ブライが90年代に投げかけた問題というのは、むしろ、誰にでも有効な処方箋なんてないにも関わらず、正しさを世界中に押し付けたり、あるいは、様々な考え方を “調和させて” 、ひとつの正しさをつくることに熱中するあまり、古いものや、伝統から学ぶことが出来なくなっていること、それが、90年代のアメリカの病理の原因のひとつだと指摘しているところじゃない。


「鳥たちは、裸の木にどうやって巣をつくるのか、渡り鳥はどうやって越冬の地に飛んでいくのか、そういった情報は、本能の中枢に溜め込んで子々孫々へと伝えられていくわけだが、それでは人間たちはどうしてきたのだろう。新しい状況に対応していくために、たくさんの選択肢が必要であることを知って、そのための情報を、本能以外のところに蓄えることにしてきたのである。それが、おとぎ話であり、伝説や神話や昔話なのである。(...)この分野では、近世さまざまな人物が傑出した研究をしている。ジョージ・グロデック(*1)、グルジェフ、カール・ユング、ハインリッヒ・ジンマー、ジョーゼフ・キャンベル(*2)、ジョルジュ・デュメジルなどがあげられる。おとぎ話の世界に、私の目をひらかせてくれた先生は、マリー=ルイズ・フォン・フランツで、彼女のたくさんの著書の中で、女の物語に真摯に取り組んだように、私は男の物語について、忠実に追求してみたいと思っている」


というような記述からも、単純な「男性回帰運動」のようなものではないことがわかると思うし、ウィラが、「郊外で肘掛け椅子に座ってた父親がアフリカに吹き飛ばされて、マイケルジャクソンが部族の男性たちと踊る」という部分が、ブライのメッセージをそのまま表したシーンだと言っている意味も、少し想像できると思う。ただ、次に「インドの女性や、ロシアの男性グループとも踊る」ことが、ブライのメッセージとはかけ離れているかどうかは微妙かなぁ。



C : 私も、神話やおとぎ話やそれを分析する心理学の要素をふんだんに盛り込んで説明してくれている彼のメッセージと、マイケルがやろうとしていたことの間には、それほどギャップがあるとは思えなかったなぁ。「“男らしさの危機” に対するオールマイティな処方箋だと思ってる」のは、本の内容を受け取る側の問題であって、ブライが提起した「90年代のアメリカの病理」は、マイケルが『ブラック・オア・ホワイト』で突きつけようとしたものの中にもあって、それは、今に至るまで解決されてないと思う。



Y:この本を読んでいたら、以前、MJが子供たちのために書いたホラーストーリーのことを思い出して、このとき、MJは「通過儀礼」の重要さをわかってる人なんだなぁと思ったんだけど、ブライの考え方は、父親としてのMJの考え方と割と近い感じがしたよね。


◎[関連記事]Michael's Horror Story



C:マイケル、こんなホラーストーリー書いてたんだ。このメモに、昔話に出てくる「通過儀礼」の要素があるというのは、「アイアン・ジョン」を読んだあとだと、よくわかるね。MJは神話や心理学についてもすごく本を読んでるし、考えてもいたものね。子育てしているときのMJについては、子供を抱いたり世話をしたりという、ちょっと母性を感じさせるような文章や画像も多いんだけど、じつは彼は父として、ブライの言う「ワイルド・マン」の要素もすごく大事に思っていたんじゃない。それに、周りいた少年たち(フランク・カシオ含め)や若いアーティストたちへの接し方を見ると、MJは、若者たちが「ワイルド・マン」に出会う助けをする年長者(この本の訳では「年寄り」だけど)の役目を果たそうとしていたようにも見える。この本にある、子供と黄金のマリの話(7章)なんかも、MJが子供について言っていることと、すごく共通点があるし、体や心に受けた傷によって「ジーニアス」を発見していく(8章)、なんていうところも印象的だった。



Y:最初に「僕はシーツなんか恐くない:『ブラック・オア・ホワイト』における黒人の男らしさ再考」というヴォーゲルの論文のタイトルを見たとき、これがマイケルの「男らしさ」について論じられたものだということに、あんまりピンと来なかったのね。というのも、MJといえば「ピーターパン」で、大人になりたくない、いつまでも少年でいたい若者の代表で、黒人社会の中でも、ネイション・イスラムのルイス・ファラカンとか、“男らしくない” MJは、黒人の若者に悪影響を与えるみたいなことを言ってたでしょう。MJはこれまで「男らしくなくてもいい」というアイコンだったと思うんだよね。


でも、MJと同世代のスパイク・リーは『ブラック・オア・ホワイト』に共感して、ネイション・オブ・イスラムの呼びかけによるミリオンマーチに参加する予定だった人々を “別の場所” へと連れていく『ゲット・オン・ザ・バス』という映画を作り、同じ年(1996)に『ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス』のショート・フィルムも撮っている。これらの作品は、従来のような人権運動家による黒人の権利の獲得や、ブラックパワーのような黒人礼賛ではなく、人種を超えた連帯を表現したものだった。


◎[関連記事]マイケルとスパイク・リー



C:両方の作品とも、より高い次元を目指して若者を導いていく、男性の姿があるよね。「ピーターパン・シンドローム」という言葉のおかげで、ピーター・パンといえば、「大人になりたくない」部分ばかり強調され、MJが自分をたとえて言った意味も、かなり狭められて伝わっているけど、ブライの本では、飛翔し続ける若者、という意味で論じられているんだよね。



Y:ブライの本は1990年に出版されたものだから、『ブラック・オア・ホワイト』についての記述はないけど、マイケルが登場する箇所はあるんだよね。それは第4章の「父親不在の時代における王への飢餓」という章なんだけど、


「誰でも “王” と一緒にいられたらなぁと思う。若い女の子たちのあの熱狂ぶりはどうだ。「キング」と呼ばれたエルヴィス、最近では「プリンス」を目にした時のあの興奮ぶり、ディヴィッド・レターマンの家に絶えず押しかける女性たち。チャールズ皇太子の部屋からナプキンを盗んだり、マイケル・ジャクソンの家の外でキャンプをしたり、、、みんなが「王」の前にいたがる。ダライ・ラマは多くの人たちのために「王」の役を演じている。場合によっては、彼は法王の座さえ揺るがしかねない。父親に対する飢餓感は、王に対する飢餓感に形を変える…」


MJが「KING OF POP」という称号を大事に思って、本当に素晴らしい “王” になるためにどれだけ多くの努力していたか。それはポップミュージック界の王様というだけでなく、「人民のための王」という意味まで含まれていたよね。


マイケルとの繋がりを感じてしまう箇所は他にもいっぱいあるんだけど、第7章「赤、白、黒毛の馬にのること」の中から要約して引用すると、


「ヨーロッパのおとぎ話を調べれば、赤、白、黒の3色にこだわっているのがわかる。しかも、この3色には、ある順序が見られる。(...)白は、新月の聖母マリア、赤は満月の母親気質、最後の黒は、旧月の老婆。(...)若い女が、純潔の白から始まるのなら、少年は赤から始まる。(...)若者たちは、炎のように燃え、戦い、赤を見ては難題にぶつかるように鼓舞される。(...)


中世では、アイアン・ジョンの順序に、大いなる注意が払われていた。パルジファルの冒険談はその一例で、ここには赤騎士から白騎士へ、そして黒騎士へと、物語の展開がある。赤騎士時代に、どんなに多くの反社会的な行為に耽ることか!でも、赤を経ないでは、白には到達できないのである。でも、現代はそうはいかない。私たちは義務教育によって、子供を直接「白騎士」へと仕立てようとしている。(...)


私たちアメリカの、白騎士の段階には、どんな危険性が考えられるか。この白騎士は、赤の段階を通ってきていないため、耐えられなくなることが多いんだなぁ。そして悪しき赤を、インディアンや、共産主義者や、言うことをきかない女たちや、黒人たちに投影している。(...)レンブラントの絵は、彼が年をとっていくにつれて、周縁部の方がだんだん暗くなっている。黒の段階にいる人は、通常、他人を非難しなくなる。(...)ユーモアは、黒の段階になると生まれる」



こういった色の感覚についても、MJはすごく取り入れていたし、彼が『ブラック・オア・ホワイト』のとき、すでにユーモアを身につけるという黒の段階にあったことは、記事の中で紹介したメイキング動画でも感じられるけど、「I’m not going to spend my life being a color(僕は生涯、有色人種と呼ばれて生きる気はない)」というラップを、自分や黒人ラッパーではなく、制作者のひとりであるボットレルにやらせたのは、彼がラッパーではなく、しかも白人だったから。というエピソードなんかも、そういった事実を強化する話だよね。


◎[参考記事]http://7mjj.blog.fc2.com/blog-entry-194.html



もう少し、要約引用を続けると、


「私たちが『アイアン・ジョン』の物語から得られるものは、ほかでもない、若い男性が赤の強烈さから、白の交戦へ、そして黒の人間性にまで進んでいくという考え方ではないだろうか。(...)


聖職者たちは、赤の段階を飛び越えたたえに、自分を白の段階に強制的につなぎとめておかなくてはならない。政治家は、現実には正体不明の色である間も、白を装わなくてはならない。


人が黒へと動いていくとき、その段階で、影の材料すべてがあらわになってくる。それは、長いあいだ、悪玉の男や女たちや、共産主義者や、魔女や、圧政者の顔面に、内なる黒として投影されていたものだ。だから、この過程は、影を取り戻し、食べることだ、と言っていいと思う。ロバート・フロスト(*3)は、自分の影をたくさん食べた。だから彼は偉大なのだ。


黒へと進む男は、「道ある限り歩く」必要がある。黒に入っていくには、長い時間がかかる。男が投げ捨ててしまった、彼自身の暗い部分を見出す前に、どのくらいの年月が過ぎていくのだろう?彼がその部分を発見し、とっさにその瞬間、彼の黄金の髪が肩にはらりと落ち、すべての男たちは、彼の正体を知るところとなるーー」



で、、この文章は、「だが、それは次の物語である」で終わり、次章は、第8章「王の家臣から受けた傷」で、そこには、さまざまな “傷” についての話と、トリックスターの話も登場するんだけど、、2000年以降のマイケルの変化を語るうえで、ここに書かれてあることは重要だよね。社会が何を忘れていたのか。を思い出させてくれるし、MJがおとぎ話の重要性について語っていたことが、“子供らしさを失わないこと” ということだけではなかったこと。そして、マイケルが “子供らしさを失わないこと” を、あれほど語っていながら、父親として子供に良い教育ができた秘密についてもね。



C:そう。対談では、ブライのメッセージをかなり限定した形で引用したきらいもあるんだよね。それは、当時の一般的な理解のされ方がそうだった、ということなのかも知れないけど。とにかく本全体からは、マイケルが伝えようとしたこととの共通点がたくさん含まれていると思う。それは、最近あったボルティモアの抗議運動で『ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス』が使われ、そして、その抗議行動の中で起こった暴動を抑えたのも、MJの『ビート・イット』だったという事実にもよく表れていると思う。



今回ウィラたちの対談を訳したことは、始めに述べたような意味ですごく勉強になったんだけど、でもいちばん勉強になったのは、このブライの本を読んだことかなぁ。この本を丸ごと肯定するとかじゃないけど、マイケルのことや、自分のことを、いままで出来なかった角度から考え直すヒントを、いっぱい与えてくれそうな気がするもの。それと、ここには西洋の思想教養をもとにした分析があるけれど、私たちの先祖にはどういう神話や民話があり、それがどう通過儀礼と結びついていたか、などもさかのぼりたくなったなぁ。



Y:同感!ブライがこの本で語っている男性の段階について、マイケルは、すごく自覚的にその段階すべてを経験しようとして、「道ある限り歩き続けた」と思う。私たち、最終的にいつもこの結論に達しちゃうんだけど、またもや、「マイケルにはすべてがある」って思っちゃった。


未だに、MJについて、輝かしい成功を納めたものの、度重なる整形や、晩年は奇行が目立ち、、というような “物語” だと思っている人は、ただ、年をとったり、デカいだけのおバカな “お子ちゃま” で、「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪である」とか言った男は、青年期の成功から一歩も成長できなかったんだなぁなんてことも、よくわかったしね(笑)



C:「黒」に至るかどうかは、年齢に関係ないんだよね。



Y:マイケルのメッセージというのは、あらゆる考えの人々が利用したくなるほど、とても、ひとりの人間のメッセージとは思えないぐらい、「他者」を取り込んでいるんだよね。 

 

こうなると、ますますウィラが感動したという、ヴォーゲルがブライを引用して、MJの男らしさについて書いた論文も読んでみたくなるよね。childspirits先生!(笑)



C:英文読むのが遅い私に新たなが苦難が…。でも、いままでの経験からすると、MJに導かれてやることに、ハズレはないからなぁ。



Y:ブライは、第8章「王の家臣から受けた傷」の中で、「教師やセラピストたちは、自分の中に強力な料理人や、神話学者、あるいは魔術師を持っていることが多い。けれども、もし教師がワイルド・マンやワイルド・ウーマンを育てなかったなら、その人は私たちが「学者屋」と呼ぶだけのヘンテコな存在になってしまう。。」など、しばしば “学者屋” に対しての批判をしているんだけど、、ヴォーゲル、だいじょうぶかなぁ?(笑)



C : それ、私にとってもドキッとする言葉。やっぱり、読んでみなくちゃね!



《註》_________



(*1)ジョージ・グロデック/日本の著書ではゲオルグ・グロデック。精神分析者としてこのエスの概念を最初に提唱した。フロイトはグロデックからこの概念を借りている。著書『エスとの対話』『エスの本』など。



(*2)ジョーゼフ・キャンベル/『スターウォーズ』にも影響を与えたと言われる『千の顔をもつ英雄』で神話の基本構造を論じ、神話学の巨匠となる(ただし翻訳本はものすごく読みにくい)。死後に出版された『神話の力』は、ジャーナリストのビル・モイヤーズとの対談集で読みやすくおすすめです。



(*3)ロバート・フロスト/自伝『ムーン・ウォーク』の中で、マイケルもフロストを引用しています。

There are so many things all around us to be thankful for. Wasn't it Robert Frost who wrote about the world a person can see in a leaf? I think that's true. That's what I love about being with kids.

僕たちの周囲には感謝することがあふれてる。1枚の葉の中に世界を見ることができるって書いたのは、ロバート・フロストだったっけ?それは本当だと思う。僕が子どもたちと一緒にいるのが好きなのも、そういうことなんだ。(←この日本語は私訳。Chapter 6「愛こそはすべて」P287)

フロストのどの詩のことなのかはよくわからないのですが、、
こんな有名な詩があります

“Nothing Gold Can Stay”


Nature's first green is gold,

Her hardest hue to hold.

Her early leaf's a flower;

But only so an hour.

Then leaf subsides to leaf,

So Eden sank to grief,

So dawn goes down to day

Nothing gold can stay.


--- Robert Frost




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by yomodalite | 2015-05-17 22:30 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

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☆Boy, is that Girl with You?(3)の続き。。


ウィラ:『ブラック・オア・ホワイト』のジョン・ランディスのシーンにも同じことが言えると思う。ジョン・ランディスが監督かも知れないけど、場を支配しているのは彼じゃない。彼は、それが何かを理解しないままに、マイケル・ジャクソンの見識を皆に伝える助けをする、雇われた人に過ぎないのよ。そのことを、ジョー、あなたが紹介してくれた映像の中で、ジョン・ランディス自身がはっきりと見せてしまっているのよ。1:45のところで、彼はカメラに向かって「僕がこれを振り付けしたんじゃないからね。撮影しているだけなんだからね」と言っている。彼は、パンサー・シーンで画面に現れるすべてのことから自分を完全に切り離しているのよ。



ジョー:そのとおり。僕の論文でも彼の発言を取り上げていて、そこでも彼は似たようなことを、基本的に自分はこのビデオのために雇われたスタッフだ、というようなことを言っている。それは謙遜して言っている発言じゃないと思うよ。彼はマイケルがやっていることと自分とに距離を置きたいんだ。



ウィラ:そうね。私にもそう見える。彼はこのビデオのパンサー・シーンにすごく戸惑っているみたいね。それも理解できる。なぜなら、あなたが言ったように「白人の監督(ジョン・ランディス)は監督の座を奪われている」のだから。そして、マイケル・ジャクソンは白人監督の役割を否定しただけでなく、もっと重要なこと、長い歴史を持つ、黒人男性と黒人の文化に対するハリウッド流の表現方法に挑戦状をたたきつけたのだから。それを考慮すると、パンサー・シーンのクライマックスで、爆発と飛び散る火花の中、The Royal Arms Hotel の看板が落ちていく場面はすごい意味を持っていると思う。これは、「Royal Arms(王の権力)」への、それが象徴する植民地支配のイデオロギーへの、黒人からの抵抗であり、人種差別的・植民地支配的な世界観に侵された映画産業への抵抗ではないかとね。


そういった世界観の重要な原則は、あなたが論文で言っている、異人種間結婚の禁止よね。かつてそうであったような、それを禁止する法律はもうない。その代わり、その法にかわるものが、人の心に内在するようになった。黒人男性を見て嫌悪や憎悪を感じる白人女性の心が、白人女性と黒人男性が一緒にいるところを見て、激しい怒りに駆られる白人男性の心が、それを禁止する。


この植民地時代以後の人種差別主義は、D・W・グリフィスの言うところの「白人の中に、とりわけ白人女性の中に、黒人男性に対する嫌悪感を植え付けること」が目的なんだけど、アメリカの映画産業の始まりから、それは業界の中心にあった。マイケル・ジャクソンはそれに対して、パンサー・シーンで戦いを挑んだ。あなたの『國民の創世』と『ブラックオアホワイト』の分析を読むと、特にそれがよくわかる。



ジョー:うん、頑張って論じてみたよ。あれはすごいショート・フィルムで、マイケルの作品は殆どそうだけど、深く考えれば考えるほど、大きなものが得られるんだ。実際、いまこうしてあなたと話していると、自分の論文にもっと書き足したくなるよ!



ウィラ:わかるわ、あなたが言いたいこと。マイケル・ジャクソンのひとつの作品を完全に理解するのにはすごい時間と労力がかかるのよね。私だって、『ブラック・オア・ホワイト』について何年も考えているけど、それでもあなたの論文を読んでこの驚くべき作品の見方に新たな展望が開けたもの。



ジョー:だけど、多分そうやって最良の答えを見つけていくんだよね。僕はあの論文で、6,7千語削らなくてはいけなかった。学術的な論文では当然のことだけど、実際、活字にするものはたいていそうだよね。でも、僕は確信しているんだ。このショート・フィルムは、新たな、そして魅力的な切り口で、今後も論じられ続けるだろうって。33 1/3シリーズのあの素晴らしい「デンジャラス」の号で、スーザン・ファストが指摘しているんだけど(*9)、ジャクソンの歌やビデオの中で、『ブラック・オア・ホワイト』以上に学問の世界で注目された作品はない。

まず最初に出たのが、1991年に「ザ・シティ・サン」に掲載されたアーモンド・ホワイトの画期的な論文で(*10)、それ以後、特にジャクソンが亡くなった2009年以降は、何年にもわたってこの作品のことが論じられている。僕の論文もここ何年かの研究の一部で(博士論文の最初の一章だからね)、それがやっと活字になったんだよ!



ウィラ:私もうれしいわ。特にあなたの論文で、『ブラック・オア・ホワイト』があの当時、つまりロドニー・キング殴打事件(*11)がビデオに撮られた数ヶ月後、どれだけ真に革新的でありパワフルであったか、そして今日でもなおどれだけパワフルであるかが、あなたの論文によって示されたのだから。オリジナルの11分バージョンは見つけるのが難しいけど、見つかったところで、Vevoには強力すぎるのかもね!それで、あなたの論文は活字になって誰でも読めるの?



ジョー:うん。論文は、The Journal of Popular Music Studiesの3月27日号の第一版に掲載されてる。残念なことに、いまのところこの雑誌は一冊買うと、ちょっと高いんだ。僕はもちろん無料で読めるようにしたいんだけど、著作権の関係でいまは出来ない。スーザン・ファストは最近ブログで、学術論文の出版のプロセスは、他の多くの分野と同じく、このデジタル時代にどのように内容にアクセスしてもらうか、どのように運営していくかを未だ模索中であるということを、すごくうまく説明してくれている。(https://susanfast.wordpress.com/)



ウィラ:そう、スーザンが説明しているように学術雑誌は創るのに時間がかかるから高いのよね。別に儲けようとしているわけじゃない。学術雑誌に書く人はそれが出版されたからといって収入を得るわけじゃないし、著作権も所有しない。だから、たとえば私が自分の論文である “Monsters, Witches, Ghosts” を「Dancing with the Elephant」に再掲載したいと思っても出来ない。代わりに要約を載せるように言われるの。論文へのリンクをつけてね。幸いなことに、たいていの大学の図書館には、The Journal of Popular Music Studies がおいてあるから、大学の近くに住んでいる人は、おそらくあなたの論文をそこで無料で読むことが出来るわね。

それと、みんなに知らせておきたいのは、このサイトの「Reading Room」には、あなたが書いた議会図書館用「スリラー」の項目へのリンクが貼ってあるということ。残念ながらこれについてあなたと話す機会はまだ持ててないけど、これは議会図書館のために書かれたもので、National Register(国内登録)のところにあるのよね?



ジョー:そうなんだ。僕は「スリラー」について短く書いてと依頼を受けたんだけど、これがもう大変だった。議会図書館の登録項目(*12)には、400のレコーディング(音楽、音声、映像)が収められている。どれも議会図書館によって選択されたもので、国家保存重要録音登録審査委員会が提供している。それらの記録はアメリカの歴史にとって、もの凄く重要なものだからね。芸術的な意味でも、文化的な意味でも、歴史的な意味でも。だから、国の図書館に永遠に保存されておくべきものなんだ。議会図書館は、研究者や音楽批評家にコンタクトをとり、400のそれぞれのレコーディングについて、だいたい1000ワードくらいで多様な学術的エッセイを書くように依頼する。そうやって図書館のウェブサイトを充実させていくわけ。だから、音楽の歴史を愛する人は他の曲のエッセイもチェックしてみるといいよ。僕もいくつか読んだけど、すごく良かった。



ウィラ:本当にそうね。ちょうどいま、ブルーグラスの創始者であるビル・モンロー(*13)の「ケンタッキーの青い月(Blue Moon of Kentucky)」の項を読んでるところなんだけど、面白いことにこのエッセイは、モンローをD・W・グリフィスと比較するところから始まる。マーサ・グラハム(*14)や、議論の余地はあるかもしれないけど、グリフィスのように、彼が人生の中で作り上げたものは、その後も生き続け、何百ものアーティストがその影響を受ける、芸術や言語や語彙の、ひとつの体系になった。

そしてマーサ・グラハムがモダン・ダンスを生み出したように、そしてグリフィスが『國民の創世』によって、現代の映画を生み出したように、ビル・モンローはブルー・グラスというジャンルを生み出したってことね。議会図書館では、登録項目のエッセイの一覧、レコーディング項目のエッセイの一覧も見ることが出来るのよね。

さて、話をしに来てくれてありがとう、ジョー!あなたと話すのは、いつも本当に楽しいわ。



ジョー:ありがとう、ウィラ。僕のほうこそ。ジョイエにもよろしくね!



ウィラ:伝えておくわ!(終)



☆この会話についての私たちの「おしゃべり」はこちら!

《註》_________


(*9)スーザン・ファスト(Susan Fast)/カナダのマックマスター大学の教授で、2014年、音楽業書『33 1/3』において、マイケル・ジャクソンの『Dangerous』を取り上げ、Amazonレヴューにおいても高い評価を得ている『Dangerous(33 1/3)』を出版。


(*10)アーモンド・ホワイト(Armond White)/「The City Sun」の1991年11月26日号と12月3日号に、"The Gloved One Is Not a Chump" が掲載されている。その文章は現在ネット上では見られませんが、『KEEP GOING : Michael Jackson Chronicle』という評価の高い著書がある。

→Armond Whiteへのインタヴュー


(*11)ロドニー・キング殴打事件/1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出し、警官の装備であるトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラがこの様子を撮影しており、映像が全米で報道されると黒人たちの激しい憤りを招いたが、裁判では、キングが巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかったという警官たちの主張が全面的に認められ、陪審員は無罪評決を下した。この裁判への不満がロス暴動のきっかけになったと言われている。

→ロサンジェルス暴動


(*12)ジョーが話している「議会図書館の登録」というのは、国家保存重要録音登録制度(National Recording Registry)を指すと思われる。これは2000年に制定された法案に基づいて始まった制度で、アメリカにとって、文化的・歴史的・芸術的価値のある音源を保存しておく制度。保存登録する音源の選定は、議会図書館によって任命された、国家保存重要録音登録審査委員会(National Recording Preservation Board)によって行われる。


(*13)ビル・モンロー/ブルーグラスとして知られる音楽スタイルの確立に寄与したアメリカ人音楽家。ブルーグラスの名は、彼のバンド名Blue Grass Boysから採られた。モンローは60年間、歌手・演奏者・作曲者・バンドリーダーとしての経歴を持ち、「ブルーグラスの父」と評されている。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/ビル・モンロー


(*14)マーサ・グレハム/アメリカ合衆国の舞踏家、振付師であり、モダンダンスの開拓者の一人。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/マーサ・グレアム


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by yomodalite | 2015-05-14 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

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☆Boy, is that Girl with You?(2)の続き。。


ウィラ:興味深いわ、ジョー。これまで話してくれたような背景は重要よ。なぜならあなたは、『ブラック・オア・ホワイト』を、よく言われるような人種主義への批判としてだけでなく、ジェンダーへの批判としても見ているものね。男であるとはどういうことか、とりわけ黒人の男であるとはどういうことかを表す、文化が生み出した抑圧的な物語に挑戦し、黒人の男性への見方を変えようとした作品としてね。


アメリカのメディアにおける黒人男性の描かれ方に、ある「パターン」が存在することにジャクソンは気づいていた。映画において、ジャクソンが言うところの「パターン」を最初に広めたのは、もちろん『國民の創世』だった。


形は違うけど同じように抑圧的な「パターン」を引き継ぎ普及させたのが、ブライの『男性運動』であり、ヒップホップであり、ヘヴィメタルだとあなたは言うのね。そして、『ブラック・オア・ホワイト』は、それらのパターンに真正面から挑戦し、人種やジェンダーについて、新しい見方を、あなたの言葉で言えば「見直し方」を提起しているということね。


ジョー:そうだね。裁判の頃のあるインタビュー(*5)で、マイケル・ジャクソンはボクサーのジャック・ジョンソンの話をしている(*6)。ジョンソンはアメリカ社会にある黒人男性への恐れ、特に、『國民の創世』の中心にある恐れでもある、黒人男性の秘めた力が、白人女性の純潔を冒涜するという、その性的能力への恐れを鋭く見抜いていたけど、監督のグリフィスはこれになんの疑いも持たなかった。あなたがさっき言ったように、彼は異人種間結婚への「嫌悪」を引き出したいと語っている。この恐怖は、奴隷制度の時代にさかのぼるものであり、エメット・ティル(*7)やユシフ・ホーキンス(*8)の死といった悲劇の中にも引き続き見られるものだ。(憶えておいて欲しいのは、1958年に白人と黒人の結婚を認めるアメリカ人は、たった4パーセントだった。1991年までにその数字は48パーセントにまで上がったが、それでも半分以下)


そして、マイケルジャクソンが『ブラック・オア・ホワイト』の歌詞の中で、この神話と対決している。「Boy, is that girl with you?(坊や、彼女はお前の連れなのか?)/ Yes, we're one and the same(そう、僕たちは一緒、同じ仲間さ)」から始まり、マイケルが燃えさかる十字架の中を歩きながら「シーツなんか恐くない!」とシャウトするシーン、人種の純粋性という観念を否定してみせるモーフィングシーン、そしてパンサー・シーンに至る流れでね。パンサー・シーンは、僕の意見では、ミュージック・ビデオの歴史の中ではもちろんのこと、映画史上でも最も大胆で、挑戦的な瞬間だ。



ウィラ:私もそう思うわ。



ジョー:このシーンについて僕が本当にすごいと思うのは、マイケルが象徴的な意味で監督の役を引き受けているということ。白人の監督(ジョン・ランディス)は監督の座を奪われているよね。これは、映画の歴史を、映画がどれだけ圧倒的に白人に支配されて来たかということを考えるともの凄いことだよ。何が起こったかというと、ジョン・ランディスはマイケルがパンサー・シーンでやろうとしたことにはすごく反対した。ソニーの重役たちも反対したんだ。最近、YouTubeに未公開シーンがアップされたんだけど、そこにこの時の様子が少し映ってるね。






(記事中にはありませんが、動画スクリプトを参考まで)


(共同で振り付けをしていたと思われるパターソンが、こんな風に、と動きながらマイケルに話している)


Patterson : “No, not wild―wild is great. I’m just saying, sometimes you get real funky or sometimes you get…. tight. [Video glitch―unintelligible.] Sharp body lines, Loosen your body, you know what I mean? Funk out. Funk out.

パターソン:いや、ワイルド、っていうんじゃなくて・・・ワイルドもいいんだけど。僕が言いたいのは、時にすごくファンキーになったり、時にスキッとした感じになったり(ビデオ画面乱れる)切れのある感じを出したり、力を抜いたり・・・わかるよね。ファンクな感じを出すんだ。


MJ : Be more wormy.

マイケル:もっと、芋虫みたいに、ってことかな。


Landis : You want more wormy. More wormy. Grab your nuts some more?

ランディス:もっと芋虫みたい? 芋虫って・・・もっとあそこを掴むとか?


MJ : See, he’s thinking dirty. I don’t do dirty things.

マイケル:ほらね、彼は下品なこと考えてるよ。僕は下品なことなんかしないよ。


Patterson : You know what I mean.

パターソン:僕の言ってる意味わかるよね。


Landis : You mean...“wormy,” right? He doesn’t mean “wormy.”

ランディス:だって、「芋虫っぽく」なんだろ? 彼(パターソン)は「芋虫みたいに」って言ってるのじゃないの?


MJ : No. It’s an expression. I know exactly what it expresses.

マイケル:うーん。そういう言い方なんだってば。僕にはどういう意味かわかるよ。


Landis : I know. (to Patterson): He knows what you mean.

ランディス:あ、そう。(パターソンに)マイケルは君の言ってることわかるって。


MJ: (smiling, to Landis): You’re so dirty.

マイケル:(ランディスに笑いながら)もう、下品なんだから。


Landis : Excuse me, was I doing…..

ランディス:ちょっと待ってよ、僕はそんな・・・。


Karen Faye : It’s all in the mind.

カレン・フェイ:心の中で、ってことでしょ。


MJ : Yes.

マイケル:そうそう。


Landis : (to camera) Was I imagining he was grabbing his nuts?

ランディス:君があそこつかんでるところを、想像しただって?


画像乱れの後、移っていないところで「カメラ回して」の声。マイケルが自動車の屋根で踊り、ボンネットに降りて踊り続け、さらに歩道に降りてフレームから消えるところまで撮影。マイケルが「もう一回」と叫ぶ。それからクルーが自動車の屋根で、次の撮影用にマイケルの身支度をととのえている。画面の外から:はーい、みんなスタンバイして!


Landis (to camera) : I didn’t choreograph this. I’m just shooting.

ランディス:(カメラに向かって)振り付けは僕じゃないからね。僕は撮ってるだけなんだから。


MJ : You are too religious

マイケル:君は信仰心が強すぎるんだよ。


Landis : Too religious...

ランディス:信仰心ねぇ・・・。


* * *


ウィラ:本当にね。それと、メーキングの映像のことを教えてくれてありがとう!見たことがなかったけど、とてもたくさんのことがわかる映像よね。これを見ると、ジョン・ランディスが、マイケルのやろうとしていたことや、それが重要なのかどうかを、本当の意味では理解していなかったとわかるわね。そしてあなたと同じく、私も、ジョン・ランディスの象徴的な意味での役割はモーフィング・シーンまでで終わっていて、その後のシーン、つまりパンサー・シーンは、すべてマイケルだけの作品だ、というところが重要だと思う。


そういえば、『リベリアン・ガール』でも、ビデオは、宣教師がすっかり布教を終えたあとのようなハリウッド的なアフリカの植民地の描写から始まるんだけど、突然すべてが変わるのよね。マルコム・ジャマール・ワーナー(黒人俳優)が「ここにあるどのドアを開けるのも恐いなぁ」と言うんだけど、面白いコメントよね。そして、ウーピー・ゴールドバーグ(黒人女優)が「だれがこれを監督してるの?」と尋ねる。カメラはスティーブン・スピルバーグ(白人監督)が監督用の椅子に座っているところを映すんだけど、監督してるのは彼じゃない。彼はただ退屈そうに待ってるだけ。


そしてロザンナ・アークエット(白人女優)がジャスミン・ガイ(黒人女優)に尋ねる。「私たちなにをすればいいの?」ジャスミン・ガイは「わかってるのは、マイケルに呼ばれたってことだけ。彼がここに来れば、なにをすればいいか教えてくれると思うわ」と言って、マイケル・ジャクソンこそがこの場を取り仕切っている人間だとほのめかす。答えは最後の最後に明らかになって、私たちはついにマイケルを見る。そして驚いたことに、彼はカメラマン用の椅子に座っているのよね。だから、彼がカメラをコントロールし、すべてを支配していた訳ね。監督用の椅子に座って、時計をちらちら見ながら、どうすればいいか指示してもらうのを待っていた白人男性ではなくて。だから、導入部分で期待させたのとは異なり、リベリアンガールは、よくある、白人の目でアフリカの植民地を描いたものではなかった、というわけ。まったく違ったものだったの。これは、世界中の何百万という家庭で見られる作品について全権を握っている、ひとりの才能ある若き黒人男性の話だったのよ。それが、とても楽しく、気楽な雰囲気で、賢いやり方で表現されているから、誰も彼がやっていることに気が付かない。





《註》_________


(*5)2005年のジェシー・ジャクソンによるインタビュー。


下記は該当箇所の抜粋


Jessy Jackson:君はこれがパターンのようなものだと思うんだね。でも、どうやってこれに対応している?すごく高いところに持ち上げられてから一転して、今は、君の人格も、潔白について攻撃されている。こういったことにどうやって対応するんだい?


Michael : そういったことを経験した過去の人物たちを参考にしている。マンデラの物語や、彼の経験は僕に大きな強さを与えてくれるし、それと、ジャック・ジョンソンの物語をPBS(米国の公共放送)で見たんだけど、これは今『Unforgivable Blackness』というDVDにもなっている。


1910年からのこの人物についての驚くべき物語で、彼は黒人初の世界ヘヴィ級チャンピオンとして、突如として登場したんだけど、社会は彼の地位やライフスタイルも受け入れたくなかった。それで、社会がやったことと言えば、ジョンソンを投獄するためにいかに法律を変えるかということ。彼は、ある種の勢力によって不当に投獄されたんだよ。そして、モハメド・アリや、ジェシー・オーエンス(ヒトラーとナチス党が白人種の優越性を証明することを望んだ1936年のベルリンオリンピック大会で、4冠を達成した黒人の陸上選手)の物語もね。


僕は、すべての物語を歴史をさかのぼって考えることができるし、それらを読むことで強さを得ることが出来るんだよ。ジェシー、あなたの話も僕に強さを与えてくれる。あなたの経験もね。僕は公民権運動の終わりの方しか知らなくて、本当には経験してないからね。70年代は子供だったんだ。でも、終わりの方の公民権運動には参加したし、目にすることも出来たんだよね。


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(*6)ジャック・ジョンソン(ボクサー)/黒人として初めての世界ヘビー級王者(1908年-1915年)となり、それは当時非常に大きな論争の的となった。その生涯をたどったドキュメンタリーにおいて、ケン・バーンズは「13年以上にわたり、ジャック・ジョンソンは地球上で最も有名であると同時に、最も悪名高い黒人であった」と評した。SF「You Rock My World」の黒人ボクサーの写真もおそらくこの人だと思われる。(VISIONのN寺解説は間違いが多すぎて、むしろ謎w)


→ http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック・ジョンソン_(ボクサー)


(*7)エメット・ティル(Emmett Louis “Bobo” Till 1941年7月25日– 1955年8月28日)は、アフリカ系アメリカ人の少年。14歳の時、イリノイ州シカゴの実家からミシシッピ州デルタ地区の親類を尋ねていた折、食品雑貨店店主、ロイ・ブライアントの妻キャロライン・ブライアント(21才)に口笛を吹いたと因縁をつけられ、後日、納屋に連れ込まれて凄惨なリンチ(目玉をえぐられ、頭を銃で撃たれ、有刺鉄線に縛りつけ、首に32 kgの重りをつけられた後、死体は川に捨てられた)をうけ殺害された。ティルの死体は3日後に川から発見され、引き上げられた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/エメット・ティル


(*8)ユシフ・ホーキンス(Yusef Hawkins 1973年3月19日~1989年8月23日)は、ニューヨーク市、ブルックリンで、イタリア系アメリカ人に射殺された16歳のアフリカ系アメリカ人。 ホーキンズと3人の友人は10~30人の白人の若者の群衆に攻撃され、そのうちの7人が野球用バットを振るい、ピストルで武装していた者は2度も胸を撃ち、ホーキンズは亡くなった。

Death of Yusef Hawkins

http://en.wikipedia.org/wiki/Death_of_Yusef_Hawkins



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by yomodalite | 2015-05-12 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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☆Boy, is that Girl with You?(1)の続き。。


ウィラ:あなたの論文にある、


ジャクソンが言おうとしたのは、“Being a color(有色人種になる)というのは普遍的本質ではないということ。それは、想像や歴史や物語や神話を通して付与されたアイデンティティにすぎず、同心円的コミュニティにおける、ランク付けのための言葉に過ぎない。


これはとても重要な指摘で、部族の男たちとのシーンとモーフィングは、マイケルが言いたかったことの重要な部分だと思う。ふたつのシーンの重要性は、これらをショート・フィルムのどの部分に置くかという戦略によって、強化されているんじゃないかしら。ふたつのシーンは『ブラック・オア・ホワイト』の中心部分を、ブックエンドのように左右から支えていて、『ブラック・オア・ホワイト』は3つのパートから成り立ってるように見える。音楽が始まる前の、郊外でのプロローグと、マイケルが歌うメインの部分、音楽が終わったあとのエピローグ、いわゆる「パンサー・ダンス」と呼ばれる部分にね。それで、私はメインのパートが部族の男たちで始まり、モーフィングで終わるところが重要だと思うのね。


ジョー:鋭い観察だね。そしてもちろん、この新しい、複雑な人種についての物語は、たぶん、伝統的な白人郊外居住家族にむけて発せられているわけだよ。あなたがプロローグと呼んだ部分は、白人家庭の孤立と機能不全、特に父と息子の間のそれを描いている。白人の支配的な父(ジョージ・ウェント)は、表面上は、息子(マコーレー・カルキン)が大音量で音楽をかけていることで怒っている。


でも、マイケルがここで指摘していることはもっと深いところにある。父の怒りは無知から起こっている。彼は息子を理解していないし、息子の愛する音楽を、息子のヒーローを理解しない。世界を見る彼の視野はとても狭く、地域限定で、時代遅れ。だから息子は、文字通り父を家から吹き飛ばしてしまう。父は座っていた肘掛け椅子もろともアフリカという、文明の生まれたところに着地し、そこで彼の「学び直し」が始まる。



ウィラ:そう。そして大事なのは、息子のヒーローのひとりがマイケル・ジャクソンだということ。父親が荒々しく息子の部屋に入ってきた時に、そのノックの勢いでマイケルのポスターが落ちてしまう。あなたが論文で指摘しているとおり、似たシーンが、ビデオの最後の最後にあって、そこではホーマー・シンプソン(アニメ『ザ・シンプソンズ』に登場する父親のキャラクター)がリモコンをつかみ、テレビを消してしまう。息子のバートが『ブラック・オア・ホワイト』を見ていたから。それも、特にパンサーダンスをね。つまり、ビデオは、白人の父親の、怒った、抑圧的な態度という額縁に縁取られているわけ。その態度は、息子がポップカルチャー、とりわけ黒人アーティスト、マイケル・ジャクソンがもたらすようなポップカルチャーに触れるのを妨げるためのものよね。


これは当時の雰囲気を正しく反映していると思う。なぜなら、これもあなたが指摘しているように、『ブラック・オア・ホワイト』は、白人男性の怒りが高まっている中でリリースされたものよね。公民権や女性の権利やゲイの権利が認められるにつれ、「家庭や職場における男性支配が減退していった」そして、その大半は、白人による「男性運動」の高まりに結びついていった。興味深いと思うんだけど、『ブラック・オア・ホワイト』がリリースされた1991年に最も売れた本は、ロバート・ブライの『アイアン・ジョンの魂』(原題 "Iron John" )だった。あなたも言っているようにこれは、「傷ついた男たちに語りかけ、内なる“野生”と“戦士”を回復する事によって彼らを立ち直らせるための本」なのよね。


ブライの本や「男性運動」が当時どれだけ人気を博したか憶えているわ。男性たちが森に集まって大きなたき火をし、太鼓をたたいて、「オスとしての強さ」を奪ってしまうらしい文明の影響を振り落とすのよ。それらのことを、マイケル・ジャクソンとの関連から考えたことは無かったんだけど、『ブラック・オア・ホワイト』を理解する上でとても面白い歴史的な背景よね。特に、あなたが言っていた、郊外で肘掛け椅子に座ってた父親がアフリカに吹き飛ばされて、マイケルジャクソンが部族の男性たちと踊るのを見るっていうシーンを理解する上でね。


ある意味、これはブライのメッセージをそのまま表したシーンで、つまり、男たちよ原始に帰り、“内なる戦士” に目覚めよっていう。でも、マイケル・ジャクソンは、タイの女性たちや、小さい女の子も含めた平原で、インディアンたちと踊ることで、ブライの記述から逸脱していく。そして次に、インドの女性や、ロシアの男性グループとも踊る。マイケル・ジャクソンのメッセージは、ブライのメッセージとはかけ離れているのよ。



ジョー:確かに。ブライのメッセージのトンチンカンなところは、僕の意見では、それがすべての男性に通じる普遍的なメッセージで、もっと言えば、いわゆる「男らしさの危機」に対するオールマイティな処方箋だと思ってるところなんだ。ブライは、男性にもいろいろあるということを認識していなかった。マイケルはわかっていたけどね。でも、あなたが言うように、(ブライの本は)男らしさが危機にさらされていると認識されていたことを示す、とても興味深い歴史的背景だね。


実は、僕が結局あそこに書かなかったもう一つの背景は、ヒップホップの役割なんだ。あの当時のヒップホップ、特にギャングスターラップの多くが、超男らしいパワーを発散しようというような内容だった。真の男になって、ゲイやホモとかナヨナヨした奴を閉め出せ。女に優しい奴や、異なる人種と関係を持つ奴もだ、って感じの。


だから、このような背景から言えば、マイケルの歌やビデオは、ヒップホップや、ハードロックやメタルに浸透している言説に、直に異議を申し立てていることにもなる。ヒップホップのほうが言われること多いけど、メタルだって同じくらい女性嫌悪や同性愛嫌悪が強いよね。



ウィラ:本当にそうね。



ジョー:これらのジャンルは80年代終わりから90年代始めにかけての若者に多大な影響力を持っていた。だからマイケルが両ジャンルをブラックオアホワイトに取り入れたのは偶然ではない。ただし、メッセージの内容は創り直してね。




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by yomodalite | 2015-05-11 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(4)
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2009年に、アメリカ議会図書館で『スリラー』のショートフィルムが永久保存されるというニュースを聞いた方は多いと思います。それは「アメリカ国立フィルム登録簿」に保存されたということで、ショートフィルムとしては史上初の快挙だったのですが、


そういった「マイケル・ジャクソン・アカデミー」の今が垣間見える記事を「Dancing With The Elephant」から紹介します。


取り上げられているのは、マイケル作品の中で『スリラー』以上に言及の多い『ブラック・オア・ホワイト』。今回ウィラと対話しているのは『マイケル・ジャクソン・コンプリートワークス(Man In The Music)』の著者、ジョー・ヴォーゲルです!


翻訳は、childspilits先生に全面的にご協力いただきました。

Boy, is that Girl with You?

APR 2


ウィラ:今週は長年の友人ジョー・ヴォーゲルに来てもらえてとってもうれしい。あ、Dr ジョー・ヴォーゲルと言わなきゃね。この前話した時から、あなたはたくさんのことを成し遂げたのよね。どうしてたか、話してくれる?



ジョー:こんにちわ、ウィラ。また話せてうれしいよ。ここのところ忙しくしてたけど、このサイトはいつもチェックしていて,そのたびに新しい、すごい議論が繰り広げられてた。あなたとジョイエは、マイケル・ジャクソンの創作活動や人生の様々な面について、素晴らしい探索をしているよね。あなたが言ってくれたように、僕は、最近ロチェスター大学でPhDを終えて、いまは、ジェームズ・ボールドウィン(*1)についての本を書いてる。彼の1980年代の文化やメデイアに対する批評に焦点を合わせてね。



ウィラ:面白そうねぇ。あなたはブログでも度々ボールドウィンについての論文を載せていたけど、本を書いていたことは知らなかったわ。



ジョー:これは博士論文のひとつの章をふくらませたものなんだけど。ボールドウィンの仕事について詳細に調べ始めると、彼の洞察力の凄さに驚くね。彼の作品は、今日の世界に生きている僕たちにこそ大事なものだよ。


それと、MJに関連したものもいくつか書いた。一部はもう活字になっていて(議会図書館の『スリラー』の項目とか、アルバム『エスケイプ』のライナーノート)、スクリブナー百科事典(*2)のために書いたものや、僕たちがこれから議論する「僕はシーツなんか恐くない:『ブラック・オア・ホワイト』における黒人の男らしさ再考」という論文も近く出版される(この論文は「The Journal of Popular Music Studies」誌に掲載された)。



ウィラ:それについて話すのを楽しみにしていたのよ。あなたの論文には、私を魅了し、驚かせた点がたくさんあった。たとえば、あなたは「ブラック・オア・ホワイト」を映画産業における人種差別の長い歴史を覆そうとしたものだと見ていて、その差別の歴史をふり返ることから始めてるんだけど、正直言って、あの部分にはショックを受けたわ。


あなたが指摘しているように、ハリウッドの最初の映画、私たちがいま考える映画という意味での最初の作品は、D・W・グリフィスの「國民の創生」だった(*3)。これはクークルックスクラン(KKK)を讃える映画で、事実、元々の題名は「クランズマン(The Clansman)」だったのよね。


あなたは論文で次のように指摘してる。


その映画は映画という娯楽産業の形を変える、新しい芸術形式の先駆けとなった。『國民の創生』は当時もっとも収益をあげた映画で、インフレ率を換算すれば、史上もっとも収益をあげた映画かもしれない。制作に10万ドル以上かかった初の映画で、音楽をつけた初の映画であり、ホワイトハウスで上映された初の映画で、最高裁や議会で上映された初の映画で、何百万もの観客を動員した初の映画でもあり、それは、アメリカが生んだ大ヒット作だった。


『國民の創生』はアメリカの新興映画産業に大きな影響を与えたのよね。映画とはどういうものか、どうあるべきかについて、人々の考え方や、人種についての一般的な考え方が形成されるのに手を貸した。そしてあなたは『ブラック・オア・ホワイト』も、そうした課題に取り組んだと考えている。アメリカにおける、人種と映画産業という双頭の怪物に戦いを挑んだと。



ジョー:そのとおり。ラルフ・エリソン(*4)は『國民の創生』のことを、「スクリーンを通して、けだものじみたレイプ犯と、ニタニタ笑いにギョロ目の道化という、ふたつの黒人像を捏造した」と述べている。あの映画は南部だけではなく北部でも、もの凄いパワーと影響力を持っていた。ロサンゼルスでもね。初上映では、スタンディングオベーションが起こったんだ。





*黒人の描き方の例 2:08:42~、2:17:02~ 2:29;20~




ウィラ:そうね。実際、映画のストーリーの転換点は、白人女性をレイプしようとしたという罪に問われた黒人男性が殺されるところだし、異人種間結婚や「けだものじみたレイプ犯」としての黒人男性に対する恐怖は、最初から最後まで描かれ続けている。たとえば、映画の終わりに、二組の白人カップルが同時に結婚式を挙げる。そして、それは、北部から来た兄妹が、南部の兄妹と結婚するんだけど、彼らを結びつけているのは、つまり、南北戦争の惨禍のあとの北部と、南部を結びつけているのは、黒人男性への恐怖だということなのよ。



ジョー:マイケル・ジャクソンは映画の歴史に精通しているけど、興味深いと思うのは、1991年に、世界中で推定5億人が見たというすごい環境で、マイケルはこの生まれたばかりの、つまりD・W・グリフィスが長編映画のパイオニアだったように、彼自身がパイオニアになったショート・ミュージック・フィルムというメディアを使って、グリフィスが遺した黒人男性についての、そして黒人という人種全体についての神話に異議を申し立て、それに代わるものを提示しようとしたことなんだ。



ウィラ:そうね。あなたが書いているように、


グリフィス自身、あの作品の重要な目的が、「白人の中に、とりわけ白人女性の中に、黒人男性に対する嫌悪感を植え付けること」だと認識していた。


さらにあなたはこう言っている。


グリフィスはその目的のために、人種間の違いを誇張し、「あからさまな対比のある世界」を描いた。黒人の登場人物のほとんどは顔を黒く塗った白人が演じ、実際の黒人の肌の色は人によっていろいろ差があるにもかかわらず、皆一様に、実際よりも黒い色に塗っていた。そして黒人たちはしばしば暗いところで、狂ったような笑みや、肉欲にとりつかれたような表情で現れる。一方白人の主人公たちは、まばゆく輝くオーラをまとっていて、それが彼らの白さや生まれながらの高貴さを強調している。


マイケル・ジャクソンは、『ブラック・オア・ホワイト』のショートフィルムで、より複雑で、より俯瞰的な人間に対する見方を提示することによって、この「あからさまな対比の世界」に異議を申し立てた。そして彼の抗議は「白か黒か」という皮肉の効いたタイトルで始まる。この作品には、真っ黒なものも真っ白なものも、殆ど登場しない。



ジョー:そのとおり。音と映像で、彼はたえず「カテゴリー」に対する我々の理解に揺さぶりをかけ、注意深く複数のものを同時に提示して、緊張のバランスをとる。マイケルのこの作品は、グリフィスの映画の中心にあった前提、つまり人種の純粋性や、そこから発展した白人優越主義という誤謬を、根底から覆すものだったんだ。



ウィラ:本当にそうね。たとえば、グリフィスは顔を黒く塗った白人俳優を使って、人種の違いをまるで漫画のように表現したけど、マイケル・ジャクソンが私たちに見せたのは、黒と白両方の色で顔にペイントを施したアフリカの部族の男性たちだった。つまり彼らの顔は、白と黒のコラージュよね。これは大事なシーンで、このシーンとともに、ブラックオアホワイトの音楽が始まり、マイケルが登場する。私がすごいと思うのは、登場するなりマイケルは、この男性たちと踊るのよね。そして、単純な人種の定義を揺るがし、それに抵抗している彼の顔は、こういう部族の男性たちの真ん中に最初からあるのよ。黒と白のアートに飾られた、男性たちの顔に囲まれてね。


作品の後半には、あの有名なモーフィングの連続シーンがあって、アメリカン・インディアンの男性の顔が、黒人女性に変わり、それから白人女性に変わり、次に黒人女性、東アジアの女性、というふうにどんどん変化していく。私にとっては、黒と白のペイントを施した部族の男たちとモーフィング、このふたつのシーンは、あなたが言った「人種の純粋性という誤謬」をアートの形で表現しているのだと、私には思える。


生物学的には、「人種」というものは無い。つまり、片方に黒い遺伝子、もう片方に白い遺伝子がある、というものではないのよね。人種というのは、生物学的事実ではなく文化的なコンセプトによって生じるもの。人間は、肌の色や顔の特徴や髪質など、膨大な身体的特徴情報の集積で、人種の区別というのは人為的に与えられたものに過ぎない。




Black Or White(モーフィングで終わるShort Ver)




《註》_________


(*1)ジェームズ・ボールドウィン/アメリカ合衆国の小説家、劇作家、詩人、および公民権運動家。著作の大半は、20世紀半ばのアメリカ合衆国における人種問題と性の問題を扱っている。黒人であり、同性愛者であることに関連した社会的なコンプレックスや、心理的圧力を掘り下げた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/ジェイムズ・ボールドウィン)


(*2)スクリブナー百科事典/The Scribner Encyclopedia of American Livesのこと。世界的に知られているアメリカ人が掲載されている。ジョー・ボーゲル氏が書いたのは、「世界におけるアメリカ:1776年から現在まで」のマイケル・ジャクソンの項。


(*3)「國民の創生」/D・W・グリフィス監督による1915年公開の無声映画。リリアン・ギッシュ主演。物語は、南北戦争とその後の連邦再建の時代の波に翻弄される、アメリカ北部・ペンシルベニア州のストーンマン家と、アメリカ南部・サウスカロライナ州のキャメロン家の二つの名家に起こる息子の戦死、両家の子供達の恋愛、解放黒人奴隷による白人の娘のレイプ未遂と投身自殺などの出来事を、南北戦争、奴隷解放やエイブラハム・リンカーンの暗殺、KKKの黒人虐待などを、白人の視点から壮大な叙事詩のように描いている。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/國民の創生


(*4)ラルフ・エリソン/アメリカ合衆国の小説家・文芸評論家・音楽評論家・エッセイスト。小説『見えない人間』(Invisible Man、1952年)によって、1953年に全米図書賞を受賞した。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/ラルフ・エリソン



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by yomodalite | 2015-05-09 21:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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昨日はすごくいいお天気だったので、昼間から桜を見に行った。

いっぱい咲いているだけでなく、

こんなにラブリーなものが、無数に地面に落ちているなんて、、


ようやく、ウィラとエレノアの会話を最後まで紹介することが出来たけど、なんだか、まどろっこしくて、わかりきっていることを面倒くさく説明しているだけとか、あるいは、わかったようで、わからないと感じた方もいるかもしれない。

MJが言っているように「立ち上がる」ってどうすればいいのか?

そして、エレノアが言っているように「その構造に勝てる確率はすごく低い」ということも確かで、MJもターゲットになり、そして、「悲しいことに、彼はもう生きてはいない」。

エレノアは、この会話で、MJのジレンマについて説明すると同時に、会話の相手であるウィラが、以前の会話「What is My Life if I Don’t Believe?」で、ジョイエよりも、より深刻にMJのジレンマを受け止めているのが、なぜなのか?について、彼女に代わって説明しているのだと思う。

ウィラは、エレノアが説明していることを、ときおり「思ってもみなかった」と答えていて、それは、この記事全体で書かれているんだけど、

本当は、気づいていることなのだと思う。



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エレノアは、MJのジレンマは、「We've Had Enoughの子供たちが直面したジレンマと同一」で、それは、「彼がよく、L.O. V. E.と表現した力に対して、深い共感と結びつきを感じていたことを考えると、なおさら」であり、「神についての疑問と、悪(evil)の問題が、彼の頭を離れなかったことを示している」と。

英文学の博士号をもっているウィラには、MJが、神への疑問をどのあたりまで考えたかが想像できる。欧米の学問の基礎は、すべて神学にあり、論理的思考を身につけるうえで、「神とはなにか」「神は存在するか」などの疑問を考えることは、論理学の基本なので、そこを通過しない、Ph.D はいないから。『MJ Tapes』での会話は、シュムリーの結論はどうであれ、この会話のあとのMJの行動と合わせてみるとなおのこと、その後もMJが生半可な思考をしなかったことがよくわかる。

そういった探求を、MJは独学で続けただけでなく、1万冊以上の本を読みながら(決して知らないわけではない)学問分野での言葉を使わずに、「子供の心」に集約させた。

そして、そのことで、少年への性的嗜好を疑われ、無実を信じた人も、「MJは純粋だから」と、尊敬するような態度で無視するか、もしくは、MJに同情し、彼を弁護するという「正義の立場」に立って、周囲の人々を断罪するか、いずれにしても、誰もが「自分の問題」としては考えない。

そして、ウィラは、MJが「そういう結果」をも知っていた。と考えている。

それで、MJが、越えようとしたジレンマの深さが身にしみると同時に、身動きのできない自分を感じているのだと思う。

ふたりの会話には、何にどう立ち向かうか。が示されていないけど、それは、MJの歌もそうだったと思う。

私はこの会話を読んで、すべての人を愛するというのが「神の愛」だとすれば、その愛を考えること以上に、深いジレンマはないと思った。

理想の社会を目指して、そうならなかったことも、戦争の歴史が、いつになっても終わらないことも歴史の事実だけど、それでも「愛」が生き続けているのも事実。

残酷な歴史が繰り返されている一方で、愛が失われなかったのはなぜなのか?

ウィラが、MJの苦難を思うと同時に「私たちが想像できないほどの喜びも経験していた」と思うのは、歴史に寄与できるほどの「愛の力」が、自分に与えられているという自負がMJに有ったのだと感じているから。

でも、何が「愛なのか」を、神は指し示さない。

MJも、神から特別な力を与えられているはずなのに、それは子供を通してしかわからない。という。

そう、愛は、自分が「愛している」と強く思ったところで、それが「本当に愛なのか」どうかはわからないし、神のように深い愛は、神にしかわからない。と、なぜか、神について深く考えた人ほどわかるらしい。



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だから、本当に神を考えるとか、魂について考えるというのは、導師とかマスターに忠誠を誓ったり、ソウルなんとかとか、なんとかソウルとか、どこかにいるはずの魂の兄弟や、真の友人や恋人を探したり、見つけることでもなく、

自分自身で「もっとも深い愛を考える」ということで、もっとも深い愛について考えた人というのは、そのジレンマに決着をつけることなく、最後まで、自分自身で考え続けた人なんじゃないかな。。。




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by yomodalite | 2015-04-03 21:00 | 日常と写真 | Trackback | Comments(9)

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☆もうたくさん!「We've had enough」(5)の続き


ウィラ:同感だわ、エレノア。そして彼はその考え方を、『Dancing the Dream』という彼の詩集にある「Heaven is Here」という詩に美しく表現している。


You and I were never separate

It’s just an illusion

Wrought by the magical lens of

Perception


きみとぼくは別のものではない

別々だと思うのは、魔法のレンズが創り出した

物の見え方のせいで

それこそが、まさに幻想なんだ


There is only one Wholeness

Only one Mind

We are like ripples

In the vast Ocean of Consciousness


ここにあるすべてのものが、

ひとつであり

ひとつの精神からできていて

ぼくたちの意識は

広大な海の

さざ波のようなもの


Come, let us dance

The Dance of Creation

Let us celebrate

The Joy of Life …


さあ、一緒に踊ろう

創造のダンスを

生きている喜びを

一緒に祝おう


◎[詩の全文和訳]http://nikkidoku.exblog.jp/20103916/


エレノア:この美しい詩は、彼の作品にくりかえし登場するもう一つのテーマを表している。我々は別々の存在ではない。「君は僕の分身なんだ」ってこと。


ウィラ:まさしく。


エレノア:「We've Had Enough」の子供たちのように、マイケル・ジャクソンは、人を結びつける内なる力を保ち、それが彼のビジョンのもととなって、「We've Had Enough」に描かれるような行為の残酷さや、野蛮性、あまりに愚かで何ももたらすことのない「狂気」をはっきりを見極め、認めるという能力と賢さをもっていた。


子供が、大事なものを失い、不正によって、心に傷を負うとき、彼もまた傷を負う。本当は、私たち全員が傷を負うべきなのよ。でも、歌詞の次の部分でマイケルが言っているとおり、私たちはそうしない。その代わり、、


We’re innocently standing by

Watching people lose their lives

It’s as if we have no voice


私たちはただ呆然と立っていて

人が死んでいくのを見てるだけ

まるで声を失ったかのように


もし人が死んでいくのを見たら、どうして「呆然と立って」いることができるの?彼は皮肉としてそう言っているのかもしれない。でなければ、私たちを、宗教的あるいは文化的な洗脳に犯された、「罪なき犠牲者」だと思っているのかも。私の推測では、私たちは「罪なき傍観者」でもあり、「罪を犯した人間」でもある、その両方だけど。


そして、歌の冒頭で湧き上がった憤りは、最初は警察や兵士に向けられたものだけど、いまや、私たちを洗脳するシステムに向いているし、洗脳を許してしまう私たち自身にも向いている。だって、私たちは声を出せるのよ。なのに、それを使わないことを選んでる。こういう行為をやめさせる責任は私たちにあるのに、それを怠っている。エドモンド・バーク(18世紀のイギリスの思想家。アイルランド生まれ)の有名な言葉にあるように、「悪の勝利のために必要なのは、善人が何もしないこと」なのよ。


ウィラ:マイケルはまた、私たちが「他の人が死んでいくのを見ても」何もせず傍観しているなら、私たちの力も弱まってしまう、と言っているのでは。それは、私たちを黙らせてしまう。「まるで声を失ったかのように」


エレノア:人が亡くなっているときに、私たちが、自分を罪なき傍観者だと信じて何もしないでいるなら、それは明らかに間違っている。「Earth Song」の歌詞で言えば、「我々はどこにいるのかさえわからなくなっている。でも、遠くまで漂い続けたことだけはわかってる…」言い換えれば、私たちは道徳の羅針盤を失ってしまったということ。


一方で、私たちに出来たことが何もなかったわけじゃない。マイケルは、私たちにすでに何かをしてなきゃいけなかったと言う。


It’s time for us to make a choice

Only God could decide

Who will live and who will die,

There’s nothing that can’t be done

If we raise our voice as one


決心するときなんだ

誰が生きるか、誰が死ぬか

判断できるのは、神だけなんだ

みんなが声をひとつにすれば

できないことなんて何ひとつない


They’ve gotta hear it from me

They’ve gotta hear it from you

They’ve gotta hear it from us


彼らは僕の話を聞くべきだ

彼らはあなたの話を聞くべきだ

彼らは私たちの話を聞くべきなんだ


We can’t take it

We’ve already had enough

Deep in my soul, baby

Deep in your soul and let God decide


これ以上だなんて

もうたくさんだよ

私たちの魂の奥でも

あなたの魂の奥でも

決めるのは神なんだ


私たちこそ、「神の」意思を表現する媒体なんだと認識しなければ、と彼は言っているように思う。だから、彼は私たちに、切羽詰まった、絶望に満ちた声で、「魂の奥」の力に心を開き、「判断をするのは神」だとわからせようとする。


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ウィラ:そうね。それは重要な指摘だわ。バラク・オバマが何度も引用している、エイブラハム・リンカーンの言葉を思い出す。「私が知りたいのは、神が我々の側にいるかどうかではない。大事なのは我々が神の側にいるかどうかだ」つまり、マイケルは、自分をよく見つめ、正しいことを為すために、神への理解を使うべきだと言っている。自分の利益のための行動を正当化するために神を利用するのではなくね。


エレノア:もし私たちが自分の魂の奥を見つめて、「内なる神と、小さな力で、公益を求める運動」に携わって考えれば、国とか、ひとつの人種とかではなく、私たちを含めた地球全体にとっての善は、あるグループのために、他のグループが犠牲になることはない。そして神の判断は、私たちの道徳の羅針盤を正常に戻し、我々が抱える矛盾によって閉じ込められていたパワーを、解き放つ役割を果たしてくれる。マイケル・ジャクソンは、このエネルギーが存在することを、真摯に信じていた。このエネルギーに導いてもらえば、私たちは何でも成し遂げられると。


そして、この詩のタイトルは、私たちが頭をはっきりさせ、心と知性の結びつきを取り戻すことが出来れば、自分の身に起こっているこれらの不正を感じられるはずだ、ということを明らかにしている。なぜなら、不正が行われ、私たちは皆、その結果に苦しんでいるのだから。そして彼は、私たち全員が「もうたくさんだ」ということを、いつわかって、何をするのか、と疑問に思っている。


ウィラ:そうね。だから、歌の終盤に彼は以下のようなアドリブを入れたのよね。4 :10くらいからだけど、、


They’ve gotta hear it from me

They’ve gotta hear it from you

They’ve gotta hear it from us

We’ve already had enough

(He’s my brother)

We’ve already had enough

(Dear God, take it from me

It’s too much for me

That’s my brother

It’s too much for me

That’s my brother, baby

That’s my lover)

We’ve already had enough


彼らは僕の話を聞くべきだ

彼らはあなたの話を聞くべきだ

彼らは私たちの話を聞くべきだ

もうたくさんだ

(彼は僕の兄弟なんだ)

もうたくさんだ

(親愛なる神よ、私の言葉を信じてください

私にはもう手に負えないのです

あれは、僕の兄弟で

あれは、僕の愛する人)

もうたくさんなんだ


武器を持たない1人の父親が、通りで警察に殺されるとき、遠い国に住む1人の母親が、自分の家にいながら爆撃で殺されるとき、マイケル・ジャクソンは、私たちに、自分には関係ない、遠い出来事だと思ってほしくないのよ。自分のことだととらえ、もし「私の兄弟」なら、「私の愛する人」なら、と考えてほしい。それは、私たちみんなの身に起こっていることなんだと。


エレノア:何もしないことによって、自分自身を破滅に追い込んでいってる、ってことね。


ウィラ:まさしく。


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エレノア:「We've Had Enough」がいつ作られたか知らないけれど、発表は2004年のアルティメットコレクションで、彼が裁判を控えている時期だった。その裁判で、彼は収監され、子供たちに会えなくなる可能性もあった。10年前に始まった、ものすごくつらい時期。だからこの歌は、怒りと絶望が、深い悲しみや同情やフラストレーションと混ざった感情を表している。彼の後期の作品の多くがそうであるように。


そして、彼の声に込められた必死な叫びを聞くと、彼が、ここに出てくる子供たちや、同じような境遇の幾千の子供たちの痛みを感じているだけでなく、彼自身、そして私たちみんなも、同じ邪悪な構造の罠にはめられている、と感じているのがわかる。その構造は、あの手この手で私たちから力を奪う。だけど、彼はその構造だって打ち壊すことができるし、打ち壊さなければと信じている。


でも、悲しくて、恐ろしいことだけど、「もうたくさん」とはなっていない。この歌がレコーディングされて何年も経つのに、警察や軍との衝突で、罪なき人が死に続けている。警察部隊が次第に軍隊みたいになり、軍事活動が、若い兵士が制御盤に向かって、まるでテレビゲームでもやるように人の命を奪うという、人の顔の見えないものになってからは特にそう。


でも、おそらく、その構造に勝てる確率はすごく低い。はっきりとものを言えば代償は高くつく。彼がこの歌の最後でほのめかしているように。「僕はまだ生きていて、それは、自分次第なんだ」と。でも、悲しいことに、彼はもう生きてはいない。この歌の子供たちのように、彼は善と悪の違いを知っていた。信じられないほどの強さと勇気で、公権力に立ち向かった。心を開き、生命の力を自分の中に呼び込み、自分の生き方や作品を通じて、不正に対して声を上げようと私たちを鼓舞した。彼はあきらめなかったし、決してそこから降りなかった。そして、彼は最も大きな代償を払った。


ウィラ:そうね。それが、今回最初に取り上げた、D.B.アンダーソンの記事が言ってることでもある。


マイケル・ジャクソンは、自分が目にした真実のためなら、矢面に立つことを決して恐れなかった。ジャクソンは、いつだって、世界規模のリーダーとして頼れる人だった。私たちが感じていることすべてを表現してくれた。大人になってからの彼の人生は、社会運動実践のカタログのようなもの。


飢餓、エイズ、ギャング問題、人種問題、環境問題。戦争で荒れたサラエボでコンサートを行ったのも、ジャクソンだった。911のあと、みんなに呼びかけてチャリティソングを作り、コンサートを開いたのも、ジャクソンだった。世界的な名声のすべてを使って世の中を変えようとしたのも、ジャクソンだった。彼はいつも矢面に立っていた。


彼の政治的姿勢ゆえに起こったことは、売り上げを落とすこと以上に悪い事態だった。権力に対して真実を言ったために、ジャクソンはターゲットにされた。そして、D.B.アンダーソンの言うとおり。彼は自らターゲットになり、ものすごい代償を払ったのよ。


エレノア:でも彼は、行動しなければそのツケはあまりに大きいという、強烈な真実を私たちに示した。そして、行動を起こそうという必死な呼びかけを残した。


They’ve gotta hear it from me

They’ve gotta hear it from you

They’ve gotta hear it from us


彼らは僕の話を聞くべきだ

彼らはあなたの話を聞くべきだ

彼らは私たちの話を聞くべきだ


We can’t take it

We’ve already had enough


もうこれ以上はいやだ

もうたくさんなんだ


(ウィラとエレノアの記事終了)


☆和訳「We've had enough」に続く




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by yomodalite | 2015-04-03 08:58 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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☆もうたくさん!「We've had enough』(4)の続き


エレノア:そして、人種のことを忘れちゃいけない。白人至上主義者とキリスト教ファンダメンタリズム(原理主義)は、しばしば密接に関係し合っている。



ウィラ:残念だけど、それは事実ね。ただ、あなたは、国家あるいは、宗教や人種や民族や性的指向などをベースにして成り立っている集団が、自分たちの行為を、その行為が暴力的だったり弾圧的だったりする場合は特にだけど、正当化するために、神の概念や神の意志を都合よく利用する傾向があるという、重要なことを指摘してると思う。


それは、ジョイエと私が去年の3月の記事でとりあげた「All in Your Name」でも、マイケル・ジャクソンが取り組んだ問題だと思う。


ガーディアン紙の記事には、「ジャクソンは、未完の曲を持って、バリー・ギブのもとを訪れた・・・アメリカ合衆国がイラクに侵攻する約3ヶ月前に」とある。その歌で、彼は迫りつつある戦争だけではなく、「あなたの名のもとで」行われるすべてのことについて、疑問を呈している。


彼は、神の名の下に行われている残虐な行為に心底怒り、苦しんでいて、神の存在自体に疑問を投げかける。でも、神への強い信仰なしに生きていくこともまた、マイケルにとっては非常な苦しみ。それを彼はバリー・ギブと声を合わせて歌っているのよね。


So what is my life

If I don’t believe

There is someone to watch me?

Follow my dreams

Take all my chances

Like those who dare?

And where is the peace

We’re searching for

Under the shadows of war?

Can we hold out

And stand up

And say no?


誰かが見守ってくれていて

私の夢を気にかけてくれて

チャンスや、勇気を信じられなかったとしたら

人生にどんな意味があるのだろう

そして、私たちが求めている平和は

どこにあるのだろう?

戦争の影の下で

私たちはできるだろうか

踏みとどまり

立ち上がり、Noと言うことが


Only God knows

It’s all in your name

Follow me to the gates of paradise

They’re the same

It’s all in your name


神だけがご存知なんだ

すべてはあなたの名前でしたこと

どんな天国の門であっても

それらはすべて同じこと

すべてはあなたの名において



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神は慈悲深いと信じることは、マイケルの人生の土台のひとつといえる。教会で育ち、その宗教的な信条に導かれ、あらゆる狂乱を経験してもなお、正常な精神を保ってくれた。神への信仰なしに生きることなど、彼には想像がつかなかった。だから、彼は繰り返し歌ってる。「(誰かを=神)信じることができなければ、人生にどんな意味がある?」


でも、一方では、恐ろしい行為が、神の名のもとに行われ続けている。「私たちが求めた平和はどこにあるのか?この戦争の影の下で・・・すべてはあなたの名において」


そして、私たちは、宗教的な不寛容と聖戦を中東や、それ以外の戦闘地域にも広がっていくのをずっと目にしている。そのことも、マイケルにとって耐えがたいことだった。


エレノア:とても深いわね。ウィラ・・・「平和はどこにあるのか?」という歌詞は、数年早く書かれた「Earth Song」に似た響きがある。「平和はどうなったんだ。あなたの一人息子に誓ったはずでは?」マイケルはこの問題を本当に長い間考え、格闘してきた。


ウィラ:私もそう思う。そして、彼は分岐点で立ち止まり、何を信じるべきか、何をするべきかを、必死にわかろうとする。そして、「All in Your Name」で彼は、慈悲深い神への信仰を保ちながらも、立ち上がって、宗教戦争や、宗教による不寛容に反対する立場をとろうと決意し、葛藤を克服する。そして彼とバリー・ギブは歌う。


Can we hold out

And stand up

And say no?


私たちはできるだろうか

踏みとどまり

立ち上がり

NOと言うことが


Only God knows


神だけが知っている


◎『All In Your Name』全訳


エレノア:この歌は、マイケルが直面した深刻なジレンマを完璧に表現している、とあなたたちが議論したのをよく覚えてるわ、ウィラ。 彼がよく、L.O. V. E.と表現した力に対して、深い共感と結びつきを感じていたことを考えると、なおさらね。この歌は、彼が9月11日にどれほど苦悩し、絶望的な気持ちになったかを表している。そう、彼は、あの日ニューヨークにいて、恐怖の光景を目撃していた。


この歌、そして、ここで描かれた物語もまた、「神についての疑問」と悪(evil)の問題が、彼の頭を離れなかったことを示している。そして、彼のジレンマは、「We've Had Enough」の子供たちが直面したジレンマと同一なのよね。子供たちは心の奥で、自分や親たちを襲う悪(evil)は、愛であり善なる力である彼らの神のせいではないこと、全能であるはずの神が、こんなひどいことが起こるのを許すはずはないことを知っている。それでも、ひどいことは起きる。ならば、子供たちにどう答えれば良いのか?


マイケル・ジャクソンは、ジレンマへの解決法を、「We've Had Enough」に出てくるような、曇り無き眼を持つ子供の、無垢な知恵に見つけたんだと思う。国家の行為を裏で支え、「撃て」と命令し、どの命が重要かそうでないかを決めるような、国家に属した神ではなく、ある人たちが「内なる神」と呼ぶ、すべての人にとっての善を実現する力が存在することを、子供たちの中に見いだした。もしも、その力に気づき、私たちがその力を使えるなら、できないことはないんだと。でも、その「もしも」はとてつもなく大きい。なぜなら、私たち大人は、それを無視することもできて、ほとんどの場合、そうする方を選ぶ。


そういった私たちのような、自分の中の無垢な知恵に触れることができなくなっている大人とは違い、MJはいつもそこへ続く道を広く開け、五感を研ぎ澄まし、神経を隅々まで活発に働かせ、深い感情とパワーを作品に注ぎ込んでいた。そしてそのパワーを使い、私たちの魂の奥深くへと入りこみ、私たちの中の無垢な部分に触れることができた。


それは、人と人を結びつける、愛と共感のこと。人々を別々に分けるような恐怖や怒りではない。そして、彼は、私たちの中に無垢な力が存在することを信じ続けた。どれほど、それを否定する証拠が数多くあったにもかかわらずね。


☆(6)に続く





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by yomodalite | 2015-04-02 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

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☆もうたくさん!「We've had enough」(3)の続き


エレノア:子供たちの問いは、神の問題へと通じ、神と国家との関係という問題を提起している。この女の子からすれば、国家は神の許しなく振る舞っているいうことになるのでしょう。彼女はとても難しい問題を私たちに突きつけている。



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by yomodalite | 2015-03-31 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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☆もうたくさん!「We've had enough」(2)の続き


エレノア:まさにそうね。ただ、最初の物語のテーマは人種で、2番目の物語は国籍よね。


ウィラ:そう。あるいは、宗教や民族やそれらの組み合わせと言ってもいい。でも、私たちがこれらの物語を聞いて、それをどのように解釈したり、場面をどのように頭に描くかに関わりなく、歌詞を歌うマイケル・ジャクソンの声は哀しみに満ちている。彼の心はきっと、北アイルランドで親を失った子供や、イラクやスーダンやセルビアやイスラエルや東南アジアで親を亡くした子供に対する哀しみでいっぱいなんだと思う。子供の観点からは問題の解釈なんかどうでもいいのよ。子供にとっては、母が父が殺された、そのことだけしかないのよ。「We've Had Enough」は、親を失った子供の視点に立つことを、私たちに促すのよ。


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by yomodalite | 2015-03-30 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite