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おそめ ー 伝説のマダム(新潮文庫)/石井妙子

おそめ―伝説の銀座マダム (新潮文庫)

石井 妙子/新潮社

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本書を読むことになったのは、こちらで紹介されていた楠木建氏の『戦略読書日記』にとりあげられている本の中で、この『おそめ』という書名だけが、なんの本なのか、まったく想像がつかなかったので、それで、どんな内容なのかも調べずに、図書館で予約してみたんです。

購入する場合は、色々調べ回ることが多いのですが、借りられる本に関しては、とにかく真っ白な状態で「読んでみる」方が、自分が選ばないような本と出会えて楽しいからなんですが、

図書館で受け取った本の表紙を見て、初めて銀座のマダムの話とわかり、まずは「よかった」と思いました。なぜなら、元芸妓で銀座マダムになった人の本だと知っていたら、今読もうとは思わなかった。と思うんです。

銀座のマダムにも、芸妓にも興味がないわけではありませんが、

愛される性質の美女が、個人の才覚で、時代の寵児となるほどの成功をおさめる。なんて、まずは「美女にならなくては何も始まらない」という、少女時代から自分を苦しめてきた “この世のルール” を何度見せつけられたからって、自分にはどうしようもない。と思うせいなのか、

以前読んだ『江戸っ子芸者一代記』が自分には期待はずれだったからか、

とにかく『おそめ』が「伝説の銀座マダム」だと知っていたら、「今」は読まなかった可能性が高かったのですが、知らずに手に取ったおかげで、素晴らしい読書ができました。

彼女の物語は、たしかに稀有な人生といえるものなのですが、女の物語としてはありふれていると、同じ性をもつ者なら思うのではないでしょうか。

読了後『おそめ』で検索してみたら、本書に書かれていた物語を、かなり詳細に紹介しているものも多く、松岡正剛氏のサイトの『おそめ』の項でも、これでは、中身を紹介しすぎでは?と思うほど詳しく書かれていたり、

また、おそめさんが、モデルになったと言われる『夜の蝶』も、小説では読んでいませんが、映画の方は、着物への興味から偶然見てはいたのですが、

本書は、それらの印象とはまったく異なっていて、この本の魅力は、伝説にもなった物語にあるのではなく、著者である石井氏の語り口にあると思いました。

吉春姐さんや、デヴィ夫人、銀座で成功した多くの女性のようには自らを語らなかった、おそめさんのことを、石井氏は、エピソードではなく、彼女の風情に相応しい文体で綴ってあって、それで、私は惹き込まれずにはいられなかったように思います。

本書の中には、おそめさんの美しさに対して、通りを歩くとすぐにひとだかりがして「日本一!」の声がかかったとか、あの白州次郎は「綾部の傑作」といい、白州正子は「平安絵巻から抜け出した白拍子かお巫女」と書き、銀座の後輩でもある山口洋子は「京人形というより、もの哀しげな博多人形」だと綴ったことを紹介しているのだけど、

著者は、後年のおそめに直接会ってから、残された写真を見て、彼女の美しさは、写真には写せないようなものではなかったかと書いています。

しかし、その写真に遺せないような美しさは、本書の文体にはよく映しとられ、人生の深さや、哀しさは、文庫の厚み以上に迫ってくる、渾身というに相応しい傑作!

終生、女たちから激しい嫉妬をうけてきた「おそめ」さんですが、彼女の物語に強く心打たれるのも、やはり女性の方が多いのかもしれません。


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by yomodalite | 2013-09-16 09:00 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

江戸っ子芸者中村喜春一代記/中村喜春

文庫 江戸っ子芸者一代記 (草思社文庫)

中村喜春/草思社



前々から読みたいと思っていた伝説の芸者、喜春姐さんの一代記。著者が90歳で亡くなってから5年後、ようやく出会うことができました。

初版は1983年に草思社から出版され、その後朝日文庫から“青春編”“戦後編”“アメリカ編”として全3冊出版されているのですが、残念ながら現在は在庫切れの模様。

中村喜春さんと言えば、英語が達者な芸者として、来日した海外セレブを虜にし、外交官と結婚後はインドで、和製マタハリとして活躍。その後アメリカに渡ってからは、大学で日本文化を講義するなどの活躍をし、NHKのドラマや、SmaSTATIONでも取り上げられ、芸者に興味津々なわたしはかなり期待して読んだのですが、どういうわけだか、あまり面白いとはおもえませんでした。

執筆時、すでに70歳の喜春姐さんは、語り口が実に若々しく、まさに青春時代に戻って書いているようで、現代にはわかりにくい用語などの説明も、堅苦しくなく説明されていて読みやすいのですが、医者の娘として銀座に生まれた娘が、実家の没落も借金もなく芸者になったことの説明が、ただ本人が好きだったからと言う理由だったり、

名だたる有名人や時の権力者の名前がたくさん登場し、可愛がられた思い出が語られていても、すべてが無邪気なお客自慢の域を超えたものではなく、現代の水商売との流儀の違いについても、基本的には、現代の銀座マダムの成功物語とさほど変わらない。

最後の芸者の姿を期待していたんですが、実際は新しい時代の先駆けだったということで、それは痛快な物語なのかもしれませんが、とにかく“芸者”ではなく、デヴィ夫人の先輩モデルの姿だったという違和感でしょうか。自分のスタイルで時代を駆け抜けた“芸者”の姿を期待していただけに、既存の権力志向が気になったのかもしれません。

お客のプライヴァシーも、喜春姐さん自身のプライヴァシーもしっかり守った上で書かれているためか、人間ドラマに乏しく、「江戸っ子芸者」の物語を期待していたのだけど“青春編”を読む限りは、新時代を「語学」を武器に駆け抜けた女の物語が主で「芸者」は、そのスパイスとして、効果的だったという感じでしょうか。

かなり読書欲は減じましたが、この後「戦後編」「アメリカ編」も、いつかは読んでみるつもりです。

「千夜千冊」第三百六十九夜【0369】2001年8月31日
中村喜春『江戸っ子芸者一代記』全3冊
1983・1984(戦後篇),1987(アメリカ篇) 草思社
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0369.html
___________

【BOOKデータベース】昭和初期、知性と江戸っ子気質で政財界や外国要人の人気を博した新橋芸者の、波乱に満ちた一代記シリーズ。1956年の渡米後はオペラのコンサルタントになり、今も活躍中の喜春さん。青春編は生い立ちから芸者時代、外交官との結婚、インド赴任、開戦による収容所生活、そして帰国までを綴る。朝日新聞 (1993/04)

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by yomodalite | 2009-07-24 17:21 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

映画『SAYURI』監督:ロブ・マーシャル 主演:チャン・ツィイー

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アマゾンレヴューの、日本文化を履き違えているとか、世界に「日本文化とか芸者ってこんなんなのね」って勘違いされるかと思うと腹立たしいとか、主役が日本人でないとか、なんで英語なの(笑)とか・・・なんだか同じ日本人として恥ずかしいです。舞台が1930〜50年代の日本だとすれば、その当時の芸者を実際に知っている人は70〜90歳のはず。もちろんその世代の人で、この映画を観てブログやアマゾンレヴューに感想を書かれた人がいないとは言い切れませんが、みなさん、どちらで「芸者」をご覧になったのでしょうか?



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国内では『さくらん』や『舞妓Haaaan!!!』のような映画しか創れないくせに、いったいどういう了見で、そんなに偉そうに日本文化を語っていらっしゃるのか不思議でしょうがありません。他のレヴューで発見した意見ですが、

花魁はある意味売春婦でありながら、色は売ったけど決して性は売らないのだ。

こんな妖しげな知識から、国籍が日本人であるというだけで、日本文化について、外国人に偉そうに意見できると思っている人が多すぎるように思います。自ら日本文化を徹底的にないがしろにしてきたくせにに、外人に理解しろとは!!陰影礼賛を外人に教えられても、もうそれに気づくことすらできない日本人ばかり。確かに、ハリウッド映画には妖しい日本文化がよく見受けられますが、これほど芸者や日本文化へのリスペクトが感じられる映画に、芸者への理解が足りないとか、着物の着方が変だとか、ゆがんだプライドもいい加減にするべきです。そもそも映画芸術を誤解していませんか?



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何度も言いますが、あなたが知っている芸者は、いつどこで観た芸者なんですか?その芸者は今ハリウッド映画の大スクリーンで、世界の観客を魅了できるような存在なんですか?あなたが見た芸者は正しい日本の姿かもしれませんが「一流」といえるのですか?



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確か、祇園ではこの映画への協力を断ったと記憶しています。そのこと自体は無理からぬ事情もあると思います。今の祇園は、隠すことで成り立っている部分が大きいですから。もっと日本を研究してなどと書いている人も多く見られるのですが、日本語が読める日本人ですら、難しい分野であることは、日本文化に興味がない人にはわからないのでしょう。下手に興味をもったところで「色は売ったけど決して性は売らないのだ」などと大声で言ってしまうことにしかなりません。



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日本ではとうに廃れてしまった「芸者」へ、美しい想い出を残してくれた外国人に心から感謝。日本文化のために懸命に英語をマスターした日本の俳優たちにも感謝。チャン・ツィイー、ミッシェル・ヨー、コン・リー。この3人のアジア人女優が出演してくれなかったら、この映画はこんなに立派なものにはならなかったでしょう。(仮に英語というハンデがなくても)彼女たち以上の日本女優がいないことは残念ですが、それを認めることから、日本が日本文化を取り戻すスタートにすればいいと思います。




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チャン・ツィイーの元には、かつて芸者をしていた日本の老女から優美な着物の贈り物があったそうです。予告編を観てすごく期待したという元芸者の気持ちの方が私にはすんなり理解できます。



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☆☆☆☆☆(Memoirs of a Geisha でこれ以上の映画はもう二度と無理なので)

“Memoirs of a Geisha Wallpaper”
http://www.helloziyi.us/Galleries/geisha-wallpaper4.htm
http://www.helloziyi.us/Galleries/895zhangziyi_032.htm
________________

【Amazon.co.jp】舞台は京都の祇園ながら、アメリカ人のアーサー・ゴールデンが原作を書き、ロブ・マーシャル監督で映画化。その点だけでも、これは日本人にとって興味津々の作品だろう。幼い頃に置屋に売られた千代が、花街で一番の芸者「さゆり」に成長するまでを、豪華絢爛な映像で描いていく。さゆり役にチャン・ツィイー、彼女が想いを寄せる会長さんに渡辺謙など、アジアを代表するスターが共演。端々に日本語の単語を織り込みつつも、基本は英語の会話というのには違和感もあるが、その分、異色の面白さが味わえるのも事実だ。芸者たちの踊りや着物の着方など、明らかに常識と違う描写にも、マーシャル監督の美意識が貫かれている。日本家屋の暗さや、障子に映る影には、日本映画以上に“日本らしさ”が意識されている気もする。さゆりと先輩芸者の初桃、そのライバルの豆葉など、女たちが嫉妬と確執のドロドロなバトルを繰り広げるのだが、この点はハリウッド製のためか、映像ほど、こってりはしていない。そんななか、桃井かおりの存在感だけは終始、圧倒的だ。(斉藤博昭)



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by yomodalite | 2009-03-22 22:18 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)

芸者と遊び—日本的サロン文化の盛衰 (学研新書)/田中優子

芸者と遊び―日本的サロン文化の盛衰 (学研新書)

田中 優子/学習研究社




辰巳芸者の粋とは? 

という謎から芸者関連の本の決定打を求めて、田中優子氏に辿り着きました。

そろそろ真打ちに登場してもらって、芸者の件にケリをつけたい(笑)と思ったのですけど、本著は第一部が「江戸の芸者とその歴史」、第二部の「明治の芸者 その栄華と終焉」という二部構成、分量的にも第一部の「江戸の芸者」はページ数半分弱なんですね

そんなわけで「辰巳芸者の謎」に関しては、また別に...

本著のはしがきは、次の文章ではじまります。

芸者についての本は、いまでも芸者自身の回想録を含めて種々出されている。しかし、芸者およびその住む世界、つまり花柳界の歴史については、必ずしもわかっているとは言えない。それも無理からぬ事情がある。というのも、芸者の生まれたのは江戸時代のことであるし、そうして生まれた江戸芸者の伝統は、その最も華やかな明治時代を経て、大正の初期に亡びてしまったのだ。その持つ意味はその頃を境に、大きく変化したものと思われる。

ここで、述べようとする「芸者の時代」とは、その亡びてしまった芸者についてである。


ふんふんナルホドと思った、そこの和風男! 和の嗜みに通じ「粋」をモットーとしているつもりの貴男はたぶんグローバリストか、着物をすっかりダメにした呉服業界の人で、いずれにしても江戸の粋とは真逆の人ではないでしょうか。本当に「江戸」が遠い遠い遥か彼方に行ってしまっていることを、よく解っていない粋人男の多いこと。。。。

江戸学の泰斗、田中優子氏にして「わからない」という江戸の芸者に、努々勝手な妄想を抱かず、日本的サロン文化がなぜ盛衰したかを考えつつ、熟読しましょう。

「踊り子」の女の歴史は、今日に至るまで、細々であっても途切れることなく続いていると思いますが、「粋な男」の歴史はいつ途絶えてしまったのか。新たに始まる気配も感じられないのは寂しい限り。

粋は意気で、それこそが「男気」なのに。。。

☆参考サイト → 遊女asome

【目次】
第1部 江戸の芸者とその歴史
・踊子から芸者へ
・深川芸者の発生と実像
・色を売ること売らないこと
・幕末の芸者たち

第2部 明治の芸者その栄華と終焉
・祗園と柳橋;雑魚寝のこと
・名妓たち
・水揚げのこと
・芸者遊びとは何か
・日本的サロン文化

【MARCデータベース】「芸者は伝統芸能だけを継承してきたのではない」 町のファッションリーダーであり、維新の志士や明治の文豪を魅了した、サロン文化の担い手、芸者の歴史を読み解く。 学研 (2007/06)



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by yomodalite | 2009-01-20 16:23 | 歴史・文化:美術 | Trackback | Comments(0)

残されたる江戸(中公文庫)/柴田流星(著), 江戸川朝歌(挿画)

残されたる江戸 (中公文庫)

柴田 流星/中央公論社




次回、田中優子氏の著作で一応「辰巳芸者」の件は終了の予定ですが、この本も江戸の芸者のことが気になって読んでみた本です。

1990年の中公文庫ですが、初版は明治44年、失われてしまった江戸を愛惜を込めて描いた柴田流星は作家で翻訳家でもあったらしいのですが、これが90年に文庫で復刊されたのは、たぶん挿絵を書いた竹下夢二によるところが大きいでしょう。

夢二は当時、江戸川に住んでいたらしく、この本の出版後、銚子にお島を訪ね「宵待草」が生まれたらしい。この挿絵は、明治42年に出版物が次々とヒットして、夢二全盛の兆しが見えていた時代なんですが、残念ながら、この本の「江戸川朝歌」という変名での仕事は、夢二の大正ロマンのスタイルとは異なっていて、気軽にペン?1本で書かれたもの。

とりあえず、芸者に関しての箇所のみ少し書き出してみます。

為永春水の作に次の如く書いてある。
「・・・・・上田太織の鼠の棒縞、黒の小柳に紫の山繭縞の縮緬を鯨帯とし、下着は、お納戸の中形縮緬、お高祖頭巾を手に持ちて乱れし鬢の島田髷・・・・・」

また、ソレシャ社会の驕奢を穿って、同じ人がこうも書いている。

「・・・・・極上誂織の白七子をお納戸の紋付に染め、江戸褄模様に翻れ梅、紅白の上絵彩色銀糸にて松葉を散らしに縫わせ・・・・英泉の筆意を頼み、下着は縮緬鼠のさや形、帯は花色勝山に色糸を以て阿蘭陀模様を堅縞の如く縫わせたらば類なくてよかろうか。黒の呉絽服に雨竜の飛び飛杉を菅ぬいにさせたらば如何だろう。


為永春水(1790〜1844年)は江戸後期の戯作者で、1842年に風紀を乱したとして「手鎖の刑」に処されているので、この描写は江戸の最後期の辰巳芸者の驕奢ぶりを表現していると思われます。

尚、本著は下記のサイトで読めます。↓

残されたる江戸/柴田流星
http://www.aozora.gr.jp/cards/000342/files/2391_18586.html
______________

【BOOKデータベース】夏祭り、風鈴と釣忍、薮入と閻魔、渡し舟、五月場所、苗売り、菊と紅葉、丑べに、筍めし、八百善料理、歳の市、浅草趣味、常磐津、清元、歌沢、江戸ッ児の教育などなど—。江戸の名所名物、年中行事、物売り、気質など、失われゆく江戸を明治人が愛惜をこめて綴る。明治という、江戸の面影が未だ色濃く残されている時代に纒められた資料生ゆたかな、明治版“江戸案内”。竹久夢二挿画十五葉入り。中央公論社 (1990/06)




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by yomodalite | 2008-11-13 22:09 | 歴史・文化:美術 | Trackback | Comments(0)

浮世絵のきもの[3]「ボストン美術館 浮世絵名品展」(Ⅱ)辰巳芸者とは?

浮世絵のきもの[1]「ボストン美術館 浮世絵名品展」
浮世絵のきもの[2]「ボストン美術館 浮世絵名品展」

上記の続きなんですが、、、辰巳芸者の件です。

いろいろ嗅ぎ回っているのですけど。。。
辰巳芸者への疑問は、目一杯膨れ上がっていて、何から手をつけようか混乱しています。
鼠色系の着物に、羽織、素足が3拍子揃った「辰巳芸者」が浮世絵に見つからないということは、単純に考えて、それぞれが時代が異なる辰巳芸者の特徴だったのではないか?と考えられないでしょうか? 

深川は明治維新後も「江戸」の雰囲気を残し、花街としては吉原に次ぐ歴史が長い土地ですから、もしかしたら、「江戸の粋」というコピーだって、明治以降の深川が作った可能性もないとは言えません。

辰巳芸者の特徴を考える上で、対比される吉原芸者はどうだったか?というと、

吉原芸者は、吉原の大衆化が進む中で芸能の流行に与ることのできなくなった遊女のヘルプとして郭と契約を結んだ者で、遊女の職分を侵さないように服装には、細かい規則が設けられていた。(そうした芸者の監督所が創設されたのは1779年)

・白襟無地の紋付の小袖に、縫いのない織物の帯を「後結び」。
・裾まわしを「紺」にして、襦袢を着ない。
・縮緬の白の蹴だしを巻いて素足。
・頭は島田で、平打の笄(こうがい)1本、櫛1枚、簪1本。


同時期の吉原遊女は、花鳥山水の図案の打掛けに総縫いの上着と無垢の下着、頭の上は小間物屋と言われるぐらい派手だった。ともありますが、とにかく吉原芸者も「素足」です

例えばこの絵。


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鳥居清長/当世遊里美人合(1783年)




この絵は、芸者の服装の規則が出来て4年目後の絵ですが、左から2番目の女は、帯を前結びにしているので遊女と思われますが、頭に扇子を翳しているので、飾りがはっきり見えないのですけど、全員あまり髪飾りに変化はありません。

一番左と、右から3番目は着物も襦袢というか蹴りだしが明らかに地味ですが、右から3番目の女は、遊女と同じく襟がピンク。一番右は、襟は白で、帯も着物も地味ですが、蹴りだしだけではないようにも見えまた足は全員「素足」です。


更にこの絵。

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鳥居清長/雪月花美通の色取「雪」(1784年)



ボストン美術館カタログの解説によれば、モデルの社会的階層ははっきりせず、普通の中流家庭のようにも思われるが、煙草を吸う情景は「浮き世」と関連づけられることが多く、また黒い衣装の女と、それ以外の二人の衣装に階層の違いが感じられるが、使用人の態度には見えないので、芸者と世話役にも見える。という二つの解釈がされています。

このような振袖を着ているのは、まだ一人前の芸者ではない禿かと思っていたけど、この芸者は赤ん坊の母親であるように見えるし、この2年後の清長の「日本橋の往来」の裕福な商家の娘の振袖姿とどこが違うのかよくわからない。

江戸時代は、身分制度を守るためにやたらと服装の差別化にうるさいのですが、守られていない故に何度も厳しく規範を作ったとも考えられます。

で、辰巳芸者なんですが、「江戸の粋=辰巳芸者」という疑問にこだわっていますので、まず全盛期と考えられる時期を特定してみましょう。

ウィキペディアの辰巳芸者には、

深川は明暦(1655年から1657年)ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えた。その始祖は日本橋の人気芸者の「菊弥」という女性で日本橋で揉め事が会って深川に居を移したという。


とあります。吉原が浅草裏に移転する1656年頃とほぼ同じくして深川が花街として栄え始めたということですね。

↓こちらで、下記のような羽織芸者の諸説が紹介されています。
「御服屋」歴史編7 女物の羽織

・もともと芸者というのは男の仕事で、男芸者すなわち幇間(たいこもち)がひいきの旦那衆から羽織を頂くという習慣が残って女性ではあるが羽織を着る習慣があったといいう説

・江戸時代の官許の郭は吉原だけですが吉原の芸者が羽織を着ることが禁じられていたので 向こうを張って羽織を着たという説

・14,15才ごろの若い芸者をお客が男装させて船遊びに連れ出したことから始まるという説。現在でも深川髷という独特の男髷で芸者衆が祭りに参加する事がある。

・女性が派手な格好をして町を歩けば風紀を乱すというお上に対抗したという説


尚、女性の羽織については1748年と1841年に着用禁止のお触れが出されていて、女性は羽織を着る事ができなくなったようです。
ちなみにこの時代の幇間というのは、現在イメージする騒々しい世辞を言う印象とは異なり、宴席を影で支えるために自らの存在を消し、茶事の心得や床の間の花を生けるなど茶人そのものと言えるものだったそうです。

で、菊弥に関しては、こちら↓
「みんな知恵蔵」 朝日日本歴史人物事典の解説

江戸中期の踊り子(芸者)。江戸の人。享保末年,江戸日本橋芳町の踊り子であったが,追われて深川仲町に移り,小唄や三味線の師匠をする傍ら茶屋を開き,すっかり衰微していた岡場所(非公認の遊里)深川を踊り子の本場とし,吉原や品川に並ぶ繁華な遊里とする因を作った。江戸浄瑠璃の一派豊後節の流行に乗って,太夫が着用した黒羽織を愛用し,これが深川の踊り子の風儀となったため,深川の羽織芸者の最初の人として知られる。 (宇田敏彦)

太夫とは、浄瑠璃の語り手のことらしく、この菊弥が、深川芸者の芸は売っても身は売らずという建前を支えていた人物らしいですね。享保は1716年から1735年。「柳橋花街の発展が天保の改革(天保1830年から1843年)で門前仲町の芸者達が弾圧を逃れて、こちら側に次第に移る者があり。。。」とあるので、江戸深川芸者は1735年〜1843年に全盛期があったと思われます。

ただ、岩下尚史氏の『芸者論』によれば、深川が吉原を圧倒する勢いを見せたのは、文化年間(1804〜1818)とあるので、更に絞って1804〜1843年とします。『芸者論』には、更に驚くべきことが書かれていて、

本来は男にしか許されぬ羽織を着て、生意気にも足袋を履き、権兵衛名と称する男名前を名乗り、何かと言うと男嫌いのふりをして。。。

生意気にも足袋を履き...??なんと、辰巳芸者は足袋を履いていた!?

でも、辰巳芸者が浄瑠璃の豊後節を踊る「芸人」であったなら、そのほうが理屈にあっています。当時は白足袋といえば芸人ですし、また辰巳芸者が何かと張り合いたがるのは、白襟紋付の吉原芸者ではなく、江戸の芝居町で男たちに愛された陰間だったらしく、陰間茶屋が芳町、芝、湯島だったことなども下町芸者の発祥と関係が深そうです。当時の陰間は女装ではなく、美青年の色気で売っていたらしく、その美青年ぶりを真似た者が、羽織芸者と言われた頃の辰巳芸者だったのではないでしょうか。

その後の天保の改革で、特に歌舞伎役者は苛烈な差別を受け、衣服は身分を表すもので、めいめいの好みを表現することは階級制度の根幹を揺るがすという考えから、服装に対して厳しく取り締まろうとします。前述したように1748年と1841年に女性の羽織禁止令は、辰巳芸者の全盛時と重なり、辰巳芸者が「羽織」を流行らせていたからこその禁止令といえそうです。

また下記に、男羽織の説明があります。概ね黒の長羽織が流行っていたようです。
「御服屋」歴史編5 江戸時代の男性の服装

最初に「羽織」と呼ばれた全盛期(深川芸者の歴史は長いので第一次ブームと呼んだ方がいいのかもしれませんが)の辰巳芸者は、当時の歌舞伎役者などの「芸人」(男Z)を真似た衣装で、彼らの同じように「足袋」を履き、多分黒の長羽織で、その当時の着物は鼠色系ではなく、華やかな役者風だったのかもしれません。いずれにしろ、辰巳芸者が、吉原ともっとも異なっていたのは、男っぽさで、ファッションも「男装」が基本にあったのではないかと思います。(続く)

芸者論—神々に扮することを忘れた日本人』岩下尚史





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by yomodalite | 2008-11-08 13:11 | きもの | Trackback | Comments(4)

芸者論—神々に扮することを忘れた日本人/岩下尚史

芸者論―神々に扮することを忘れた日本人

岩下 尚史/雄山閣



芸者論―花柳界の記憶 (文春文庫)

岩下 尚史/文藝春秋




辰巳芸者のことを色々調べていて発見した本なんですが、想像以上の内容に感動とともに読了しました。2006年に出版された芸者関係の本にここまで優れたものがあったとは!

第一章、古代・中世編は、柳田邦男、折口信夫の民俗学による解明で始まりますが、戦後に到るまでの「芸者」を神格化したわけではなく、日本の移り変わりとともに変化して行った「芸者」の歴史には、関係者には耳の痛い話もかなり含まれている。

これほど詳細な芸者の歴史を語り、著者には、言わば「インサイダー」という立場もありながら、花街の狭い世界に拘泥することのないバランス感覚は稀で、日本文化論としても優れもの。

続編ともいえる、芸者論Ⅱ『名妓の資格』も読んでみたい。

辰巳芸者に関しても、興味深い内容がいくつかあったので、そちらはまた別に書きます。

☆☆☆☆☆(満点)

「今週の本棚」田中優子氏の書評
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2007/05/20070527ddm015070157000c.html

中日新聞
http://www.tokyo-np.co.jp/book/shohyo/shohyo2006121003.html
______________

「日本の伝統芸能を支え続けた花柳界と芸者衆の心意気を
これほど明らかにした著作はあるまい。」      平岩弓枝 −帯より

【目 次】
序/都市の秘境と化した東京の花柳界 
第一章/神々の振舞いを演じるという記憶の系譜 
第二章/神婚秘儀の再生装置としての吉原 
第三章/町芸者の確立 
第四章/帝都の花(明治〜大正)        
第五章/菩薩を凌駕する迦陵頻伽 
第六章/名妓と不見転の分化 
第八章/東京の替り目 
結 び/宴の祭司と巫女

【出版社/著者からの内容紹介】
新人としては異例の第二十回和辻哲郎文化賞を受賞。古代から今日にいたる芸者の歴史的変容の姿を解き明かし、その歴史と現状を紹介しつつ都市文化の本質を探る。魅力的な挿話による注釈とともに、実際には全く知られていない東京の芸者や花柳界を都市文化の核と位置づける画期的日本文化論。雄山閣 (2006/10)

【著者経歴】
岩下尚史 (いわしたふみひさ)
國學院大學文学部卒業後、新橋演舞場株式会社入社。
企画室長として、社史『新橋と演舞場の七十年』を編纂。

劇場創設の母体である新橋花柳界主催「東をどり」の制作に携わり
明治生まれの錚々たる名妓たちに親しく接したことで、芸者の本質および一流の花柳界の実態を知る。幕末から平成にいたる新橋花柳界の調査研究を進めたが、
その折に採集した老妓たちによる回顧談のノートが、後に上梓することになる花街関係の著作の基礎資料となる。

現在は、東京の秘境とも言うべき一流地の花柳界の歴史と実情に精通する稀少な作家として、各新聞雑誌へコラムを寄稿する一方、演劇界および花柳界の中枢に身を置いた特異な経歴と、その興趣あふれる話術から講演の依頼も多く、出版および各メディアを通して、宴を中核とした日本文化の特長を分かりやすく紹介している。



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by yomodalite | 2008-11-04 11:01 | 歴史・文化:美術 | Trackback | Comments(0)

浮世絵のきもの[2]「ボストン美術館 浮世絵名品展」(Ⅰ)辰巳芸者とは?

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☆浮世絵のきもの[1]「ボストン美術館 浮世絵名品展」の続き

カタログを眺めていて、更に気になったのは、人物のほとんどが「足袋」をはいていないこと。首元からずいぶんと着込んでいることがわかるような冬の装いでも、足袋は履いていない。

調べてみると、

(ウィキペディアより省略引用)

足袋は布製のものが登場したのは江戸時代初期で、それまでは、革製のものが江戸時代初期まで貴族や合戦時の武士に用いられていた。現在の金属製のこはぜがついたものは、江戸後期から明治前期に普及したもの。

また、「白足袋」は、茶人や僧侶、能楽師、歌舞伎役者、芸人が使用し、能舞台、所作板、弓道場などは白足袋着用でなければあがれないことが多く、土俵上でも白足袋以外の着用は認められない。これらの例からもわかるように白足袋は清浄を示す象徴であり、ほかの足袋とは性格の異ったものとして扱われている。男性は、平服時は「黒足袋」、女性は色足袋を使用していた。

(引用終了)

とのことなので、他所様のお宅に伺うときに白足袋を別に用意するなどは、明治以降の女子教育から始まったのではないかと思う。(ちなみに明治維新期までの寺子屋は男女共学が主流だったので、明治以降の女子教育というのは大抵は欧米の影響ですね)

とにかく足袋を履いている絵は、春信の「伊達虚無僧の男女」と、歌麿の「鷹狩り行列」など、ごくわずかで、磯田湖龍斎の「雛形若菜の初模様」など、吉原の遊女の正月の一張羅を描いているはずなんだけど、やっぱり裸足。

で、裸足といえば、辰巳芸者が有名ですけど、

(ウィキペディアより省略引用)

辰巳芸者(たつみげいしゃ)とは、江戸時代を中心に、江戸の深川(今の東京都深川)で活躍した芸者衆のこと。深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったことから「辰巳芸者」と呼ばれるが、羽織姿が特徴的なことから「羽織芸者」とも呼ばれる。

「意気」と「張り」を看板にし、舞妓・芸妓が京の「華」なら、辰巳芸者は江戸の「粋」の象徴とたたえられる。冬でも足袋を履かず素足のまま、当時男のものだった羽織を引っ掛け座敷に上がり、男っぽい喋り方。気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という辰巳芸者は粋の権化として江戸で非常に人気があったという。また源氏名も「浮船」「葵」といった女性らしい名前ではなく、「音吉」「蔦吉」「豆奴」など男名前を名乗った。

(引用終了)

辰巳芸者じゃなくても、みんな裸足じゃん!

それに羽織を着た芸者の絵が1枚も見当たらないんですけど。

羽織の美人画といえば鏑木清方(1877〜1972)の『築地明石町』の美人も裸足だけど、でもあれは羽織じゃなくて道中着ですよね。当時あれを「羽織」といったかもしれませんが、辰巳芸者は男羽織を着ていたはずなんですよね〜その弟子の伊東深水(1898~1972)も生まれが深川で、辰巳芸者の絵を描いたと思っていたけど、大正から昭和の画家だし。。。

とにかく、実際に「江戸の粋」と言われた辰巳芸者のファッションが確かめたくなりました。こんなに裸足が多いのなら、辰巳芸者の裸足というのは、襦袢とか、蹴りだしなどもなくて、かなり生足が見えていたとか、なんかもっと特徴があるかもしれないですよね。

なんとなく現在の辰巳芸者のイメージは「江戸褄」を着ているような印象があるのだけど、羽織を着ているのは見たことないような気がするし。。。

で、ネットを徘徊しまくったのですけど、決定打がありません。

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いづつやの文化記号


この絵は、上記のサイトからお借りした画像なんですが、大体こんなイメージをもっている方が多いのではないでしょうか?私もこれをイメージしていたんですけど、なんだか裸足というだけでは、本当にこれが「辰巳芸者」かどうか確信がもてません。


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こちらは、歌麿の「辰巳路考」。路考という名の辰巳芸者を描いたものなので、辰巳芸者に間違いないでしょう。でも上半身だけだけど、帯がちらりと見えているので、多分羽織は着てませんね。

茶色の地に縞の着物、辰巳芸者は地味な鼠色や、茶の着物を着ていたらしいので、「江戸褄」というのは、やはり柳橋や、日本橋の芸者と混同している可能性もありますね。髪飾りはべっ甲でしょうか。地味なきものに、べっ甲の髪飾り。確かに、なんとなく「江戸の粋」という感じがします。でもどうして「羽織」じゃないのかなぁ。。。

下記は、門前仲町、富岡八幡宮の 「深川八幡祭り」での辰巳芸者の手小舞の木遣り行列です。詳しいことはよくわかりませんが、本来は、読んで字のごとく木を遣り渡す(運ぶ)という意味で、威勢のいい町火消のお兄さん達に唄われる唄で、江戸の中期ごろには鳶職人の人達の間で盛んに唄われていたそうで、そのうち町火消が鳶職人を中心に誕生したため、木遣り唄も自然と町火消の中に溶け込み、受け継がれていったといわれています。


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手小舞は、保存会の人により受け継がれているもので、当時の辰巳芸者は、このようなファッションで、祭りを盛り上げていたようです。火消しの半纏を着ていますが、片肌を脱いで赤い襦袢を半分見せています。

辰巳芸者は、深川・木場の職人に愛された芸者ですから、もしかしたら、「羽織」も職人のものということはないでしょうか? 侍を思わせる黒い羽織では、職人の街に不似合いですよね。

とにかく、浮世絵、歌舞伎などで「辰巳芸者」の画像がないかと、必死に探したところ、
こちらを見つけました。

◎落語「名月八幡祭り」の舞台を歩く


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「吾妻源氏 辰美の秋月」国貞画



辰美=辰巳。辰巳の花街の様子です。この絵の一見浴衣?に見える。。これ職人の羽織柄じゃないでしょうか。男羽織をそのまま着ていたのかと思っていましたが、これが羽織だとすると特注ですね。今の羽織とは全然ちがって、着るというよりはマントのように纏っているという感じでしょうか。


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「縮屋新助と芸者美代吉」歌川豊国



上記と同様、着物と同じぐらい長い「羽織?」ですね。
辰巳芸者は「江戸褄」ではなくて、羽織も黒じゃないんでしょうか?

《追加考察》

上記を、羽織と考えるのは、やはり違うのかもしれません。ただ、役割がはっきりしていた吉原芸者の「羽織」と違って、辰巳芸者の羽織とは、フリーの女の意気=男装で、それは下町気質を担っていたはず。「羽織」は、辰巳芸者登場時の流行であり、かなり短い期間の流行だったのかもしれません。ファッションとは大体そういうものですから。ですから、隆盛を誇っていた時代を通してのスタイルではないのかもいれません。

芸人は、羽織に白足袋が基本だったところを、羽織のみ、引っ掛けて。。という気分が「辰巳芸者」の「男気」な気風とあっていたのかもしれません。。。
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歌舞伎に詳しい方がおられましたら「名月八幡祭り」や「梅ごよみ」「ゆうれい貸屋」などでの辰巳芸者の衣装はどんな感じだったのか教えてくださいませ。

鈴木春信の「伊達虚無僧姿の男女」に関しても色々探りたいけど、ちと疲れが。。江戸の謎は深いです。。。

☆浮世絵のきもの[3]「ボストン美術館 浮世絵名品展」(Ⅱ)辰巳芸者とは?に続く

◎「杉浦日奈子のおもしろ講座」●大江戸深川事情●
◎『歌舞伎役者市川亀治郎が語る浮世絵の魅力』 〜vol.2 伊達虚無僧姿の男女

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by yomodalite | 2008-10-26 00:43 | きもの | Trackback | Comments(4)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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