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モナドの領域/筒井康隆

モナドの領域

筒井 康隆/新潮社

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2015年の暮れに出版された、当時81歳の著者が最後の長編だという作品。


モナドについては、ライプニッツのも、数学のも、まったくわからないのだけど、日本の日常に「GOD」が現れるこの小説はかなり楽しめました。


カトリックの幼稚園に通い、プロテスタントの同志社大学を卒業し、神の問題はなじみが深かったという筒井氏は、いわゆる信者としてではなく、GODに興味がある人だというのは、以前読んだ本の解説でも感じていたんですが、SF作家の神テーマってソソられますよね。


ミステリ小説からは、ずいぶんと遠ざかっているので、これが「ミステリ」として面白いのか、どうなのかはわかりませんが、GODが話すことを目的に犯罪を犯した裁判で何を語ったのか、にワクワクしてしまう人には、おすすめ!


GODは、本が売れない出版社の社長の商売の相談にのったり、世界の破滅を救ってほしいと嘆願されたり、さまざまなタイプの人と話をするのですが、そこから、去年から続く『HIStory』20周年にちょっぴり関係がありそうなところ(?)を、あんまりネタバレしないようにピックアップすると、


「あなたのような存在を、今まで想像できた人はいるんでしょうか?」という質問に、


「何人もいるよ。デカルト君とかカント君とか・・彼らは哲学の方法を学問的にしようとして・・・ハイデッガー君はそういう一義的なものに批判的だった。だから師匠のフッサール君の・・・ハイデガー君は存在の問題にした・・・ハイデガー君はトマス・アクィナス君を読んでおるくせに、勉強したとは絶対に言ってはおらん・・・なあに彼の文章を読めば・・一目瞭然だろう。トマス君は今、どうも正当に評価されておらんようだが・・」


など、その他の箇所も含めて、筒井GODは、なんだかんだトマス主義者で、


「どうすれば自分の書きたいことが書けて、しかも読者に喜ばれて、作家としても成長する、そんな作家になれるんだろうか?」と悩む若い作家からの問いには、


「お前さんはジャン=フランソワ・リオタール君の本を読んでおらん。その種の議論なら今のところ彼が一番の優れものだ。ジオタール君は、政治の技術と芸術の問には相関関係があると考えた。政治が形而上学的な理想を形成しようとする時の様態と、芸術がギリシャ語で言うテクネー、つまり技術のモデルが、プラトン君以来詩を『鋳直し』や『型押し』として考えられてきた様態だ。プラトン君の『国家』にも書かれているように、政治の問題は人間の共同体のために善のモデルを遵守することにある。政治哲学が芸術を見習ってきたと言ってよい。これが中世、ルネッサンス、近代へと時代によって変化しながら続いてきた。


ところがナチズムがこの関係を逆転させてしまった。芸術が政治の役を果たすようになったんだ。ナチはありとあらゆる形態のもとにエネルギーの全体的な動員をするため、メディア、大衆文化、新しい技術などを大いに利用した。そして『トータルな芸術作品』というワグナー君の夢を実現した。実はだね、今日の政治もこれとは別の正当化や時には正反対の議論のもとに、やっぱり同じ症状を呈しているんだよ。近代民主主義では大衆の意見が、リオタール君がテレグラフィック、つまり遠隔映像的と言っている手続き、規制したり記述したりする様ざまな種類の遠隔記入によって鋳直されなければならないという原理でヘゲモニー、要するに人びとの意見による主導権が存続している。だけどナチズムが勝利したのもまたこの方法によるものだった。


しかし、これに従属しない思考やエクリチュール即ち書く行為は孤立化させられて、カフカ君の作品のテーマが展開しているようなゲットーヘと追い込まれてしまう。ゲットーと言っても単なるメタファーじゃないよ。何かの隠喩じゃないんだ。実際にワルシャワのユダヤ人たちはただ単に死を約束させられていただけじゃない。彼らはナチがチフスの脅威に対抗するため建設することを決めた壁をけじめとして彼らに対する『予防措置』の費用まで負指しなけりゃならなかった。現代の作家にとっても事態は同じだよ。作家たちがこれに抵抗すれば、ただ消え去るようにあらかじめ定められてしまう。つまり作家たちは自分たちの予防措置である『防疫線』を作るのに貢献しなきやいけないんだ。


そうしている限りはこの防疫線の庇護のもとで作家たちの破滅は遅延させられる。作家たちはその作品がコミュニケーション可能なもの、交換可能なもの、つまり商品化可能なものになるよう自分の思考のしかたや書く方法を変えることによって、ほんのつかの間の空しい延命、作家生命の遅延を『買う』んだ。ところがだな、こうした思考や言葉の交換や売買は、逆説になるが『どのように考えるべきか』『どのように書くべきか』という問題の最終的な解決に貢献しとるんだよ」


「え、それはなぜですか?」


「つまり、人びとの主導権を一層確固としたものにする、ということに貢献しておるんだよ。このリオタール君の考えかたは正しいもの、真であるとわしは決定している。お前さんが思考しなければならず、書かなければならず、その限りにおいて抵抗しなければならないというこの指令の送り手は、いったい誰なのか、その正当性はどのようなものか、こうした問いかけこそがまさに開かれたままの問いかけなんだよ」



と、、こちらも、まったく読んでないジャン=フランソワ・リオタールを正しいと決定されていたり、


多様体論または集合論についてはどうお考えでしょうか?なんて質問には、


「あれはプラトン君のいうエイドスとかイデアとかミクトンというものに・・・これは本来の無限ではないな・・・だからこれを悪無限などと・・・」とか、


他にも、ディヴィッド・ルイス君もある程度は正しいのだが、ではなにが間違っているかというと・・・なんてことにも、ガンガン答えていかれるので、


河川敷で発見された片腕のこととか、ベーカリーで評判になった腕の形のバゲットの謎のことなんか、すっかり忘れているうちにエンディングになってしまいました。


ちなみに、表紙の絵は、筒井氏の息子である筒井伸輔氏による「偏在するGODを表現した絵」だそうです。


◎[Amazon]モナドの領域/筒井康隆



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by yomodalite | 2016-03-14 06:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)
苦手な英語読みに時間がかかって、読書日記が書けないので、
9月と10月で読んだ本のすべてではなく、良本のみ、とりあえずメモ。


◎マイケル研究資料

下記は、MJ蔵書のブラックヒストリーといった分類の中におそらくあったはず。という推測で読んだもの。

1987年に初刊が出版され、世界的に話題になった本で、多くの本に引用されていますが、著名な読書家による紹介文などから感じるのは、実際のところ、日本では、ほぼ誰も読了していない本だと思います(笑)。

現在まで、《1》《2》(上下巻)が出ているのですが、原文がすごく難しい(と、著者自身も言っている)こともあって、翻訳に何年もかかり、《2》の方が先に出版されてしまうなどの混乱だけでなく、とにかく世界史について、広範囲に専門知識がないと読めない(あったとしてもかなりの難読本)本なんですが、

最近、「黒いアテナ批判に答えるという本が出版されていたことを知って、再度挑戦のきもちもあって、一応中身を見てみたんです。本書で巻き起こった批判をまとめて、著者が答えているというのは、あの、超長くてクソ面倒くさい本より少しは楽かも・・と思って。
結果から言えば、この本自体も上下巻あって、、全然無理でした(笑)

それで、私が読めなかったから、隊長も・・なんて言うつもりはないですが、でも、マイケルもこの本を読んだのではなく、日本の知識人と同じようにw、多数出版された関連書籍を読んだのではないかと思うので(原典を必ず押さえるという基本から、書庫にある可能性は高いですが)、「マイケルの愛読書」には含めませんでした。



黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

フランツ ファノン/みすず書房



黒い肌と白い肌。それは、植民者と本国者によっての分断なのか、それとも、皮膚の色によっての分断なのか・・マルコムXにも大きな影響を与えたフランツ・ファノンの本も、マイケルは読んでるはず・・と思って、『地に呪われたる者』と『黒い皮膚・白い仮面』の2冊をパラパラと。こちらは、バナール本とは違って、私よりも何世代か前の人には、よく読まれていた本らしく、熱情的な筆致に、かつて日本にもあった「革命の季節」を感じました。

そして、マイケルの肌の色を変えたことの中には、彼の呪いも幾分含まれていて、感覚的には異なっているように見えるファノンの叫びが、マイケルの声を通して発信されていたのかもしれないと。

[参考記事]松岡正剛の千夜千冊


◎アート系

アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン

大野 左紀子/河出書房新社



現代アートといったような範疇で、アーティストになろうとしたことがある人や、作品というものを作ったことがある人、あるいは、それらを見ている人には、おすすめ。疑問に思ったことへの回答は得られないものの(当然でしょ)、疑問を再確認することが出来ます(そっちの方が重要でしょ)。


◎文学系

旅のラゴス/筒井康隆

1986年に出版された本なのに、今また売れているという評判につられて。。

[参考記事]終わらない不思議な旅の人生とロマン


受難/姫野カオルコ

米原万里氏が絶賛し、1997年の直木賞候補になった作品。姫野氏の作品は現代を描いているようで、世界にも通じる古典性もあると思うんですが、この作品もまったく古くなっていませんでした。流石!

これ以外に読んだ本で、良かったものは個別に書く予定。

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by yomodalite | 2015-10-17 16:00 | 読書メモ | Trackback | Comments(0)

哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る

マーク ローランズ/集英社インターナショナル

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本書は、こちらのコメント欄で、hizirinosatosiさんから、ご紹介いただいた本なのですが(感謝!)、大分時間が経ってしまったものの、ようやく手にすることが出来て、すっごく面白かったので、私も紹介したいと思いました。

まず、タイトルには「マトリックスでデカルトが解る」とありますが、

第1章 「フランケンシュタイン」で実存主義が解る
第2章 「マトリックス」でデカルトが解る
第3章 「ターミネーター」で心身問題が解る
第4章 「トータル・リコール」&「シックス・デイ」でアイデンティティ論が解る
第5章 「マイノリティ・リポート」で自由意志が解る
第6章 「インビジブル」でカントが解る
第7章 「インデペンデンス・デイ」&「エイリアン」で黄金律が解る
第8章 「スター・ウォーズ」でニーチェが解る
第9章 「ブレードランナー」で死の意味が解る


出版社は「人気映画を題材に哲学の理論を痛快に解き明かす!」と豪語し、デカルトだけでなく、カントや、ニーチェや、実存主義まで「解る」といいたげですが、残念ながら、そんなに甘くはなく、そもそも哲学とは「解る」ものではなく、疑ったり、考えたりすることを、生きている間のすべてに要求するもので、著者も「序文」で、

哲学とは「知る」ことではなく「する」ことに関する学問である。

と言っています。

思想・哲学分野の本は、ハズレ率の高さがハンパない分野で、知ったかぶりな著者が、同様に知ったかぶりたい読者のために、わかっている風に書くという「芸風」が蔓延していて、有名な思想家を「ダシ」に、あまり関係のない自分の主張をしてしまっているような本が多いのですが、

本書は、そういった哲学を「する」こともなく、安易に「利用している」人が書いた本とは異なり、著者には、若い学生を哲学の世界に惹き込もうという気持ちがあり、また映画紹介本としても面白いので、私は本書をきっかけに『フランケンシュタイン』を楽しむことができました。

また、SFを作家として創り、優れた現代批評を行なってきた、翻訳監修者である筒井康隆氏の解説が素晴らしいので、2005年の出版から8年経っていることですし、

要約したり、省略せず、下記に全文引用します。

監修者解説 筒井康隆

優れた映画はおしなべて哲学的だが、中でもSF映画は、SFがそもそも文明批評を基盤にしている上、現実の一部をエクストラポレーション(外挿法)によって拡大し、この傾向がこのまま進行すれば未来はどうなるかという思索によって読者に驚き(センス・オブ・ワンダー)をもたらすものである以上、どんなSF映画も思索的であると言え、すべてのSFのSはスペキュレーティヴ(思索的)のSだと言う人もいて、ただの怪獣映画、宇宙活劇といえどもそこには必ず何らかの哲学的命題が含まれているのだ。
 
本書の著者はイギリスのハートフォードシャー大学で哲学を講じている教授である。学生たちに何とか哲学に興味を持たせ、その何たるかを教えようというのでSF映画を持ち出してきたところにアイディアの妙がある。本書はこの著者の授業の内容を本にしたもので、たいていの若者が見ているSF映画から哲学的命題を引き出してきて、わかりやすく論じている。いわばSF映画による哲学概論であり、この着想はたいへん優れている。
 
むろん、高い哲学性が含まれているものとしてSF映画すべてをひとしなみに扱うことはできない。小生などは例えば『未来世紀ブラジル』を優れた記号論として高く評価するし、それ以外にもここに取り上げられていないSF映画の中にもっと優れた作品がたくさんあるのだが、この著者はあくまで聴講生や読者のために、できるだけ多くの人が見ている、人気のあった映画のみを俎上にのせて論じ、意外な映画から意外な命題を導き出しているのだ。だから読者諸君は、序章で著者が進言するように、「各章を読む前に、その章が扱っている映画を見ておく」のがよいだろう。すでに見ている読者も、ビデオ店から借りてきてもう一度参考にされるがよい。二、三の章で、たとえ哲学的思索が次第にその映画から離れていくように思うことがあっても、哲学のとっかかりに学ぶ者が必ず困惑するあの取っつきにくさは、幾分かは軽減されている筈だ。
 
第一章では映画『フランケンシュタイン』によって「不条理」という哲学の概念が説明されている。映画『フランケンシュタイン』はポリス・カーロフがモンスターを演じた昔のものではなく、ロバート・デ・二ーロがモンスターを演じた新しい方である。著者はその理由を「デ・二ーロのモンスターの方が知的で繊細だから」としていて、これはわれわれが自分自身を見る眼と他から見られる眼の矛盾について悩む人間的悩み=不条理が、よりよく表現されているからである。
 
「不条理」という哲学用語に間しては、この用語を好んだフランスの実存主義の作家・哲学者アルベール・カミュによる説明「シーシュポスの神話」を援用して論じている。ご存じのようにカミュには他に『異邦人』という問題作もあるが、この主人公がすでにフランケンシュタインのモンスターとの類似を示してもいる。不条理に対する人間のむなしい反抗を描いたこの作家を最初に登場させ、その説明をデ・二ーロ演じるフランケンシュタインのモンスターと対比させたのは、何故か縦笛を演奏できるというこのモンスターの人間性によって、存在の意味、生の意味を探求する究極的な哲学の大命題への導入部にするためだ。
 
第二章で登場するのは映画『マトリックス』ー 現在では続編が製作されたが、ここではあくまで最初の方の『マトリックス』である。これは五十年前に発表されて当時SF界で話題になった、わが実弟俊隆の書いた唯一の小説『消去』とまったく同じ設定のSFであり、巨大人工知能によって人間すべての脳が溶液に浸され、その中でプログラムされた仮想現実をいっせいに夢見ているという世界の話である。映画の方では、自分か長年生きてきた世界が現実ではなかったと知った主人公が、この人工知能つまりマトリックスと対決し、救世主(the One)と呼ばれる存在になる。
 
このSFの世界を現実に置き換えて思索すれば、それはデカルトの認識論になると著者は説明する。20世紀のカミュから17世紀のデカルトに飛ぶことでおわかりのように、登場する哲学者たちは年代として逐次的ではないので、この本はいわゆる哲学史にはなっていない。あくまで哲学的に思索する方法や論理を教える講義になっている。

このデカルトの認識論というのは、どんな感覚による判断も信頼できず、1十1=2という数学的真理さえ神や霊がわれわれを編しているのかもしれないという懐疑主義であり、すべてを疑ったあとに残っているのは考えること ー つまり「疑う」ことは「考える」ことだから、「われ考えるゆえにわれあり」という第一の形而上学的真理にたどりつくのであり、まさに『マトリックス』の世界そのものであろう。ところが著者はそこにとどまっていず、自分の思考さえ確信できるのかという思索を、ニーチェやヒュームの論理を援用して現代的に敷衍している。
 
著者はどうやらアーノルド・シュワルツェネッガーの大ファンらしく、『ターミネーター』を取り上げた次の第三章ではなんと「シュワちゃん」を偉大な哲学者として「心とは何か」という「心身問題」を論じている。むろんシュワちゃんに仮託して自分の論を述べているのだが、オーストリアが誇る哲学者としてシュワちゃんの主演作品は次章でも採り上げられている。この『ターミネーター』も現在第三作目が作られたが、ここで論じられているのは『ターミネーター1・2』である。
 
「心身問題」つまり「心とは何か」というのは哲学的に重要な命題である。脳を観察しても心の状態はわからない。では物質的でない心がどうして『ターミネーター』におけるサイボーグに宿るのか。著者は物質的身体しか持だないサイボーグに非物質的な心が宿ることは絶対にないとする「二元論」を取りあげ、心がどんなものであるかが述べられていないことを理由にこれを退け、「唯物論」に向かい、ここからコンピューター・プログラムの世界に入っていって「神経回路網モデル」の実現可能性を論じている。
 
フィリップ・K・ディックは優れて哲学的なSF作家であり、次の第四章では彼の短篇「追憶売ります」を映画化した『トータル・リコール』が取りあげられる。以前の自分の記憶を消され、偽の記憶を植えつけられた男の話であり、主人公を演じるシュワちゃんは昔の記憶が戻れば今の自分は存在しなくなるというので自分の新しい生命のために戦うのだ。言うまでもなくここで問題になるのは自己同一性、ここでは人格同一性とされているが、つまりアイデンティティの問題である。古い記憶の持ち主が悪玉であるとすれば、その人格もまた自分なのか。
 
著者は一挙に紀元前の古代ギリシアに飛んで、ヘラクレイトス、アリストテレスという二大哲学者を引用する。身体的には無論のこと、記憶や感情など、すべての点で人間が同じ人物でいられる筈がないとするヘラクレイトスと、本質的変化がない限り存在は終らないとするアリストテレスを対比させて論じていて、『トータル・リコール』では主人公の新しい記憶こそ本質的だとする「記憶論」を支持してアリストテレス寄りだったシュワちゃんは、十年後の映画『シックス・デイ』では進歩してヘラクレイトス寄りになったと説いている。ただし「人格の同一性などは存在しない」とするヘラクレイトスとは異なった理由からであると論じている。
 
『シックス・デイ』は自分のクローン人間に家庭を乗っ取られた男の詣である。著者はギリシアの哲学者の古臭い議論などから離脱して、シュワちゃんに託して自分の理論を推し進めた末に、ついには「われわれは存在しない」「自分というものは先行していた自分の生き残りに過ぎない」という結論にたどりついてしまう。「これが人格の同一性の問題」だと著者は言っている。
 
第五章では著者が哲学における最大最悪の問題だという「自由意志の問題」または「人間の尊厳の問題」が論じられる。取りあげられる映画はまたしてもディック原作の『マイノリティ・リポート』である。これはプリコグと呼ばれる、殺人を予知できる子供たちの力を活用して犯罪を予防する詣である。だが予供たちは、ある殺人の犯人が予防局のりIダーであるトム・クルーズであると予知してしまう。さて。トム・クルーズにその予知から逃れ、殺人を犯さないでいられるという選択ができるのかどうか。ここからが、われわれは本当に何でも自由に決定できるのか、われわれには自由な意志かおるのかという哲学的な議論となる。
 
著者は、神がすべてのことをあらかじめ定めたというルターなど神学者の神学的決定論、つまり「予定説」や、すべては神の本質の必然的な現れであるとするスピノザの「決定論」を説明し、さらに、神が宇宙の最初の状態を知っているのなら、これから起こるすべても予知できる筈という「ラプラスの魔」として有名な、19世紀フランスの数学者・天文学者ラプラスのことばを引用し、また18世紀イギリスの哲学者ヒュームの、正しい筋道による行動なら自由といえるが、強制されたものは自由ではないとする「両立主義」を引用し、結局は人間の自由など証明できず、尊厳もないのだという結論に達して、ハッピーエンドに終わる『マイノリティ・リポート』の哲学的不徹底さを指摘している。なるほど、最大最悪の問題ではある。
 
次の第六章は道徳の問題で、H・G・ウェルズ『透明人間』の映画としての最新版『インビジブル』が取りあげられる。これはまた紀元前ギリシアの哲学者プラトンが『国家論』の中で伝えた「ギューゲースの指輪」という話の作り替えであるとも言っているが、これらのいずれもが虚構とはいえ、まったく透明人間になったやつは必ず悪いことをするものであると感心する。『インビジブル』の主人公で透明人間になるケビン・ベーコンがさんが悪いことをするのは道徳的である必要がないから、つまり逮捕されないからだというのだが、ここから、では道徳的であるとはどういうことなのか、なぜ人間は道徳的であるべきなのかという哲学の大きな命題に入って行く。

 まず「万人の万人に対する戦い」で有名な17世紀のイギリスの哲学者ホッブスの社会契約説が紹介され、著者はこれを「自身の利益を推し進めるために他者と契約するのが道徳性であるというのは、例えばケビン・ベーコンの場合道徳的である必要はないのだから、これは空虚な道徳性になってしまう」と退ける。次にまたヒュームを登場させ、「人間はその内的自然から打算的であるよりも道徳的であることを好む」とした人文(道徳)哲学を紹介し、これも「その理由が述べられていず、単なる因果説明であり、道徳的理由が打算的理由に優ることを正当化していない」として退け、最後に18世紀ドイツの哲学者カントの「無矛盾性」という論理的な答えを次のように紹介する。「誰もが約束を破ったら、約束するという行為が無意味となり、人は約束することをやめてしまう。すると破る約束もなくなるのだから、約束は破られないことになるこれは矛盾したポリシーだから約束を破るというのは道徳的に間違っていることになる」

このようにわかりやすく哲学を説くのがこの本の狙いである。あるテレビの番組で若い男性が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、物議を醸した。

同席の大人たちが怒り、騒ぐだけだったのは、このような哲学に親しんでいなかったからである。カントの無矛盾性を持ち出すほどのことでもなく、ポップスの社会契約説だけで充分論破できた筈の議論なのだ。
 
しかしこの無矛盾性さえ、著者は「この説は、なぜわれわれ(人間)は道徳的であるべきかではなく、なぜ自分(個人)が道徳的でなければならないかを証明していない」として退けるのである。そしてこの問いは答えられる類いのものではないとまで言い回る。道徳的か利己的かは理性を超えた選択だというのだ。まことに哲学というのは奥深いものである。
 
ではこの道徳性の問題、相手が人間ではなく異星人であればどうなるのか。というわけで次の第七章では映画「インデペンデンス・デイ』と『エイリアン』を持ち出してきて引き続き道徳性の問題を論じている。引きあいに出されるのはまたしてもカントで、前章に続く「無矛盾性」に加え、「公平性」という概念が提示される。他人は自分の目標を推し進めるための手段であるだけではなく、目的として扱わねばならない、例えば配管工に工事をしてもらったら賃金を払う、これが公平性だというのである。さらに「最大多数の最大幸福」ということばで有名な18〜19世紀イギリスの法学者ジェレミー・ベンサムと、その門弟の息子で19世紀イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルという、功利主義を展開した二人を紹介している。
 
「インデペンデンス・デイににおける異星人は知能が高く、地球を襲って資源を根こそぎ略奪し、人間が反抗すれば種全体を消してしまう。こんな種族に対し、いかに道徳性の問題を話しあうかが問題となる。「無矛盾性」と「公平性」の原理は異星人にも通用する筈だ、と、著者は言う。

なぜなら異星人同士もこの原則を護っているからで、少なくとも人種差別や性差別に対しては理解できる筈だ。では『エイリアン』のシリーズ三作品における異星人はどうであろうか。この種族は人間の体内に卵を産みつけ、胸を突き破って出てくる。これは他の種族を手段として利用するだけだから明らかに「公平性」に反する生物種差別である。ではそのことをもってわれわれは彼らを説得できるのか。これはできないと著者は言う。そして著者はわれわれが他の生物種に対していかにひどいことをしているかをえんえんと論じた末、異星人をひどい種族と思うなら、われわれは鏡を覗いた方がいい、われわれ人問が他からどう見られているかを考えることこそがSFの大きなメリットであって、そこにこそ「無矛盾性」や「公平性」という黄金律の意義があるのだと結論する。

 現在『スター・ウォーズ』シリーズは五作品が公開されたが、第八章で収りあげられるのもこの全作品で、論じられる中心はダース・ベイダーである。つまりジョージ・ルーカスが示しているマニ教的二元論を手がかりにして善悪の問題を論じているのである。ダース・ベイダーに象徴される、悪を実在的で偏在するものとしたいスター・ウォーズには、悪を「善の不在」と見做すキリスト教会に逆らっているわけだが、そのキリスト教の教義がそもそも、第六章で登場したブラトンにまで潮ることから、哲学では避けて通れぬこのプラトンの「善のイデア」をわかりやすく解説している。ブラトンは、いろいろな善の中にも悪いものがあり、その善と悪の間にはいろいろな段階があり、その序列の最高に位置するのが完璧な善のイデアであるという。だからプラトンにとって最も実在的なものは善の形式であり、悪の形式というものはなく、悪とはただ善の不在、脱落、欠如に過ぎないのだ。
 
しかし『スター・ウォーズ』において、最も実在的な登場人物はダース・ベイダーではないか、と、著者は反論する。ここで援用されるのが19世紀ドイツの詩人で哲学者でもあるニーチェの立場であり、20世紀オーストリアの精神分析学者フロイトの昇華理論である。ニーチェは、キリスト教会の言うように悪を抑圧するのではなく、その原始的な衝動を昇華してこそ芸術的な人生が送れるのだと言う。これはのちのフロイト理論とほぼ同じ考えである。ダース・ベイダーは悪の衝動を抑圧して神経症にならなかったのはよかったのだが、その欲求を昇華させなかったので偉大な超人になれなかった、しかしもしダース・ベイダーが芸術的な人生を送ったとすれば、『スター・ウォーズ』はどんな映画になっていただろうかと著者は言う。欠点があるから面白いのだという、この章はおかしな結論になってしまう。
 
最後の第九章で、いよいよ哲学の最大の問題「死、そして生の意味」が論じられる。当然のことながらここで語られるのは20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーであり、論じられるのは20世紀最大の書物と言われる「存在と時間」の中心命題である。そして取りあげられる映画『ブレードランナー』の原作はまたしても最高の哲学的SF作家フィリツプ・K・ディックの長篇『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。アンドロイドはここではレプリカントと呼ばれる、人間によって労働力のために作られた存在である。このレプリカントに反抗心を持たれては困るので、人間は彼らに四年間の寿命しか与えなかった。しかし彼らは暴動を起こす。これらのレプリカントを殺すための特捜班はブレードランナーと呼ばれ、主人公ハリソン・フォードもその一員だ。だが彼は次第に彼らの立場を理解するようになる。だからこの映画の意義は「死ぬべき運命」とでも言うべきものにある。
 
死は悪いことなのかという疑問がまず論じられる。では生はなぜいいことなのか。死によって奪われるものの価値が見つかれば、生の価値も見出せるのではないか。ハイデガーの言うようにわれわれは「未来へ向かう存在」であり、死は未来を奪うが、単なる欲求で非概念的に未来へ向かっている者と、未来に間する明確な概念を持って概念的に未来へ向かっている者とでは、死によって奪われるものの価値が違うのである。その価値こそがつまりは生の価値なのではないか。時間的に限界のない人生は人生ではない。死こそが人生のそれぞれの時間の意味を際立たせ生かしてくれるのであり、死がなければ本質的に意味をなすものはなくなってしまう。
 
だからこそ、と、ハイデガーは言う。死に向かいあうことが大切である、死に対して自分を投げ込む=企投することによって人生を先駆的に了解することができる、自分の人生の意味が了解でき、今何をなすべきかも知ることができると。
 
哲学はいろいろ、哲学者もまたいろいろである。アリストテレスの時代には神の存在を疑うことなどできなかった。だからこそ彼は神の存在を証明し、その後の哲学者たちも神の存在を疑わなかった。ニーチェに影響を与えたショーペンハウエルなどという厭世哲学者その他多くの哲学者は多くの哲学の徒を自殺に追いやりもした。ハイデガーは死を肯定的に論じることによって逆に生を価値あるものにした。神が死んだ今、われわれは哲学によって人生の価値を探求すべきだが、そのためにもわれわれ映画好き、SF好きは、ただ面白いだけでなく何故か心に引っかかるSF映画、優れて哲学的な命題を含む名作群を今1度、本書を手がかりにして哲学的に考察するべきであろう。

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by yomodalite | 2013-09-07 08:48 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(6)

ダンシング・ヴァニティ (新潮文庫)

筒井 康隆/新潮社




久しぶりに筒井康隆氏の著作を読みました。最後に読んだのは10代の頃だったでしょうか(遥か昔ですね)

当時はかなり夢中になって読んでいた記憶があるのですが、20年程もご無沙汰していたようです。この最新作への評価は、筒井氏の老いても盛んな実験的精神への賞賛に集約されるのでしょうが、筒井氏自身は、今更こんなネタを「実験」とは思っていないと思います。ただ、序盤で締めも安易に想像出来てしまうので、残念ながら、途中で退屈してしまって読了まで辛かった。

さて、20年余のブランクを埋めるべく、次は何を読もうかな。。

究極映像研究所
http://bp.cocolog-nifty.com/bp/2008/02/dancing_vanity_775c.html
asahi.com
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200802140097.html
_________

[要旨]美術評論家のおれが住む家のまわりでは喧嘩がたえまなく繰り返されている。一緒に暮らす老いた母と妻、娘たちを騒ぎから守ろうと、おれは繰り返し対応に四苦八苦。そこに死んだはずの父親が繰り返しあらわれ、3歳で死んだ息子も成長したパイロットの姿になって繰り返し訪ねてくる…。あらゆる場面で執拗に繰り返される「反復記述」が奏でるのは、錯乱の世界か、文学のダンスか?第4回絲山賞受賞。新潮社 (2008/01)

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by yomodalite | 2008-02-28 11:48 | 文学 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite