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サンカーラ―この世の断片をたぐり寄せて

田口 ランディ/新潮社



久しぶりに小説を読もうという気分で手に取ったのですが、これは小説ではありませんでした。

著者の永年にわたる原発との関わりから著された『ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ : 原子力を受け入れた日本』では、原発について知りたいと思う、多くの一般の人々に、バランスのとれた知識と情報を。という主旨で書かれたものでしたが、

本書は、その内側というか、そこで書かれた著者の経験を、一冊の本としてまとめるための苦心、「反原発」の人々からの批判や、著者自身の原発に対しての揺れ動く気持ち、作家として、一個人として、それらすべてにバランスを保ってきた田口氏の深い苦悩が凝縮された本になっています。

また、描かれているのは震災に限らず、同居していた、夫の両親の介護や、彼らへの看取りのことから始まり、被災者だけでなく、他者への関わりについての悩み、そして、著者のデヴュー作『コンセント』から綴られている、兄の自死への思いなど、心にこびりついて、癒えることが想像できないような苦しみについても、繰り返し描かれていて、

著者がたぐり寄せた「この世の断片」は、非常に多彩で、感情を揺さぶられる断片が、次々に語られていく。

反原発の人の多くが「無知ゆえに」と無条件に信じていた、被災地に残る人々の様々な姿や、日本に長く暮らす、イタリア人ジャーナリストと同行して行ったイタリアでの体験、また、田口氏は、オウム真理教信者で、地下鉄サリン事件の実行犯でもある林泰男とも文通していて、この10年間で旅をしてきたのは、カンボジアの地雷原、アウシュビッツ、グラウンド・ゼロ、ベラルーシ、チェルノブイリ、キリング・フィールドなど暴力と関係のある場所。。

私は、昔観て、当時とても好きだった『ベルリン・天使の詩』を、もう一度観たくなり、ヴェンダース監督の新作『Pina / ピナ・バウシュ踊り続けるいのち』を、本書で知り、その映画も、ピナ・バウシュのパフォーマンスのことも久しぶりに思い出して、やっぱり、とても観たくなった。(本書で、ピナの「あの振付け」という独特の振付けのことが思い浮かばなくて、自己嫌悪を感じるぐらい悔しかった)


☆3D映画だったなんて。。絶対映画館で観ておくべきだった。。本当に残念。
◎[公式サイト]『Pina / ピナ・バウシュ踊り続けるいのち』


下記は、終章「サンカーラ」から、省略して引用。

震災後「ブッダについて書いてみたい」と思い立った。
もともと仏教には興味があった。自身、津波、そして原発事故。あまりに大きな災害が続き、新聞、テレビ、ネットで心の救済が叫ばれる。でも、私には災害でこころに傷を負った人たちに向けて差し出す言葉が立ち上がって来ない。なにを語ってよいのかすらわからなかったのだ。

心を救うというのはどういうことだろう。

考えるよりどころとなったのが、ブッダの教えであった。ところが、実際に災害に起こってみるとブッダの教えを救済として語る人はほとんどいない。その理由もわかる。いままさに家族を、家を、土地を失い、悲しみと絶望のなかで呆然としている人たちに対して、ブッダの教えはあまりに冷酷に思えるからだ。(中略)

サンカーラとは、この世の諸行を意味する。
私という意識の経験の蓄積、様々な印象を寄せ集めたモザイク…

(引用終了)


田口氏が冷酷だと思い、ジョン・レノンも厳しすぎると感じたブッダに関して、最近、私の中では、かなり独自なイメージが拡がってきていて、自分でも困惑していて、、著者が読んだと書いてある本も全部読んだわけではありませんが、ブッダ自身の言葉に一番近いと思われるものであっても、本人が書いたものではないし、、、もしかしたら、私たちは「悟り」という言葉に幻惑されてきたんじゃないか。と、最近よく思っていました。

ブッダは、弟子たちと違って、寺院の中で本を読んでいたのではなく、王子の世界から、奴隷状態に苦しむ人々の中に入っていき、それは「出家」という名の「駆け込み寺」とは違って、より現実を生きていくことで、苦行とは、特別な修行ではなく、生きていくことそのもので、

彼は、人々に厳しいことを言ったのではなく、たとえ飢え死にしそうでも、あきらめないで前に進めと自分に向けて言っていて、苦しい生活を送る人々に今の苦しみはいつかは終わり、輪廻によって永遠に苦しむことなどないと説き、彼らを「同志」として勇気づけ、

それまでの「ヴェーダ」の教えとは異なる、ブッダの考え方を知った人々が、それを見て「悟り」を感じたんじゃないかと。。

そんな風に勝手に思うようになっていました。

著者が問い、苦しんだ日々を経て、たどり着いた地点は、そんな私の勝手な解釈から遠いものではなく、今、特に苦しみを感じていない私には得るものがありましたが、

田口氏が深く悩まれたように、今、傷を負ったような人々に対して
有効な「答え」は、、ない。のかもしれません。

急いで「答え」を出すことを良しとし、簡単に「答え」が検索できるように思える世の中では、誰かが、答えを知っていると思いがちで、

でも、苦しみが「財産」に、苦しんだことが「人生への満足」に変わることが、ある。ということを、ほんの少しだけでも感じてくれれば…  自らの体験を通して表現された田口氏の試みは、

仏教を学んだ多くの人々よりも、
仏教書を読んで学んだわけではない、ブッダに近いかもしれない。と、私は感じました。

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by yomodalite | 2013-01-19 08:52 | 311関連 | Trackback | Comments(6)

ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ: 原子力を受け入れた日本 (ちくまプリマー新書)

田口 ランディ/筑摩書房




本書は「最初に出会う新書」をコンセプトにした、ちくまプリマー文庫から、2011年9月10日に出版された本。

311以降、本当に多くの人が、原発について考えてきたと思います。でも、原発再稼働の停止を求めるデモが盛り上がりを見せる一方で、その数に酔った人たちは、運動への小さな疑問を呈しただけで「原発推進」のレッテル張りをするなど、議論の熟成からは遠くなっているような印象も…

田口ランディ氏が、これまで原子力について学ばれてきた歴史は、多くの国民が「ここから始めよう」と思えるような、バランスのとれたものだと感じました。

下記は「はじめにー私はなぜ原子のエネルギーに興味を持ったか?」から。
(中略と書いていない部分も大幅に省略して引用しています)


私は茨城で育ちましたから、茨城県にある東海村原子力発電所については小さい頃から聞き知っていました。関東圏の北にあってやや存在感の薄い茨城の「勲章」のような存在でした。そこは日本で最初に建設された原子力発電所だったからです。当時、原子力は最先端の科学、21世紀のエネルギーでした。(中略)

原子力が危険なのだ、ということを意識したのは、1986年のチェルノブイリ原発のときです。私は26歳になっていました。自分も地球のためになにか行動しなければという気持ちになりました。それで、反原発の集会や、原発の危険を訴える本など読みましたが、今から思えば、ただ流行に乗っただけの行動でした。

チェルノブイリ原発事故の話題はしばらくテレビや新聞で報道されていましたが、いつしか消えていきました。日本はその頃もさらに経済成長を遂げていて。時代はバブル期にさしかかっていました。原子力発電を止めて節電を、という世論はどうでもよくなり、好景気のなかで誰もが潤い、湯水のようにお金を使い、電気を使い、都市は不夜城のようになって、エネルギーの問題などどこかに吹き飛んでしまったのです。(中略)

私が原子力…ひいては核エネルギーというものと向き合うようになたきっかけは、14歳の私が「もう人生が終わっているだろう」と思っていた40歳のとき、1999年に起こった茨城県東海村の臨界事故がきっかけでした。(中略)

茨城県東海村で起こった臨界事故は、報道で知れば知るほど奇妙でした。事故を起こしたJCOという会社は原子力発電の燃料となる低濃縮ウランの製造過程で起こりました。事故後の捜査で、この会社の社員たちが正規の製造工程を勝手に簡易化した「裏マニュアル」に従って仕事をしていたことが判明しました。(中略)

マスコミはJCO のずさんな管理体制、社員のいいかげんな作業態度に対して一斉に批判を浴びせました。私もそういう報道を見て、まったくひどい、いくらなんでもよくそんな危険なことができたものだと思いました。

そして、当時、定期的に発行していたインターネットのメールマガジンを通じて、テレビ報道を聞きかじっただけの、熟慮もしていない幼稚な意見を発表したのです。すると、「私はJCOの元社員です」という男性から一通のメールが届きました。何度もメールのやりとりをしていくうちに、それまで知らなかった原子力業界の事情がわかってきました。

原子力の問題に関して発言するとかなり辛辣な批判を投げつけてくる方たちがいらっしゃいます。専門外の人間が、このような科学技術の分野に首を突っ込む必要があるのか?必要はありませんでした。専門家の方がたくさんいらっしゃいます。私は見知らぬ人から誹謗中傷されるのが、とても怖かったし、この問題にあまり関わりたくなかったので、原子力に関する発言を止めてしまいました。

2000年8月6日に、広島テレビのご依頼で広島にまいりました。4日間ほど滞在して原爆に関する取材をし、今度は「核兵器」と向き合うことになりました。ここにも「放射能物質」「被ばく」という問題がからんできます。最初のうちは、原子力の問題と、原爆の問題は、私のなかではとても遠い位置にありました。(中略)どんなに原爆を体験された方のお話を伺っても、どうしても現実感をもつことができません。そういうジレンマを小説に描いた作品が『被爆のマリア』でした。

それからも、原爆の取材は続けてきましたが、だんだんと興味が「そもそも原爆とはなにか? 核とはなにか?」ということに移ってきました。人類最初の被爆国である日本人は、これほど核兵器で痛手を負っているにもかかわらず、なぜ、原子力という核エネルギーに対しては寛容なのだろうか。

北村正晴先生は、東海村の臨界事故をきっかけに独自の活動を開始されました。ですが、原発に関する反対派と推進派の間の亀裂はとても深く、しかも修復不可能なほどよじれてしまっていました。専門家は市民の理解力不足を嘆き、市民は専門家を御用学者となじる。そのような関係ではとても、対話は成立しません。

2010年10月、私と北村先生は明治大学をお借りして「ダイアローグ研究会」という自主ゼミのようなものを立ち上げます。第1回は「原子力の問題でなぜ対話が困難なのか?」というテーマで、2回、3回と継続的に「原子力と対話」の問題を取り上げて議論をすすめてきた矢先、2011年3月11日に福島第一原発の事故が起こったのでした。

福島の事故現場付近は放射能汚染の被害を受け、多くの方たちが、住み慣れた家を離れなければならない事態になりました。原発を止めるにしても、原発停止、解体、廃炉までには長い時間を要します。

私はこの機会に、自分が取材をしつつ12年間考えてきたことをまとめてみようと思いました。それは原子力は《核エネルギー》であるということ。そして、日本が核エネルギーを使用するようになたことは、ヒロシマ、ナガサキに原爆が投下されたことと無関係ではない。ヒロシマ、ナガサキ、フクシマは、分断された点としての出来事ではなく、ひと続きの人類史なのであることを、多くの方に知ってもらいたいと考えたのです。(引用終了)


また、田口氏は、偶然にも震災の5日前にツィッターを止めていたのですが、事故後それが正解だったと思ったそうです。発言はまずメーリングリストで発表し、信頼できる複数の人間に間違いを指摘してもらい、偏見や自分の身勝手な思いが全面に出ていないか意見を聞き、それからブログで公開するようにしました。個人の感情などつぶやいている場合ではないと思われたそうです。

2年間続けた twitter を、私はこの時、自分が情報を発信する道具として全く信頼していませんでした。かなり没頭してこのメディアを使い切った結果として私が行き着いた結論は、私にとって、このメディアは不要だ、ということでした。即効性はありますが、熟慮には向かなかったのです。(P135~136)


☆写真はクリックすると拡大します!

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◎[Amazon]ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ : 原子力を受け入れた日本
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BOOKデータベース/世界で唯一、原爆を落とされた国が、なぜ原発大国になったのだろう?ヒロシマ・ナガサキとフクシマは、見えない糸でつながっている。そのつながりを、歴史を振り返り、圧倒的な想像力で描き出していく。これからの「核」の話をはじめるための、最初の一冊。 筑摩書房 (2011/9/5)



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by yomodalite | 2012-07-21 09:57 | 311関連 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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