タグ:村上春樹 ( 5 ) タグの人気記事

『1Q84』と『オペ・おかめ』そしてイサム・ノグチと藤永茂のペルソナ

f0134963_21521366.jpg


巷では、4年ぶりの新作長編小説の話題でいっぱいだというのに、今頃になって『1Q84』を読み出した私は、黒原敏行氏が『闇の奥』のクルツとの対面と似た場面と言っていた箇所をクリアし、今、青豆がミッションを終えたあたりを読んでます(BOOK 2の後編《文庫版4巻》)。

クルツよりも、マーロン・ブランドが演じていたカーツや、麻原のことが、映像のごとく浮かび上がってきて、『アフター・ダーク』のときにもういいかなと思ったことと、長編なのに続きを読ませる魅力の両方を思い出しながら、とにかくこれを読み終わるまで、他の小説は読めないって思ってたんだけど、そうは言ってられない事態が起きた。

なんと、このブログにもときどき登場していただいた藤永先生が小説を発表されたのだ!


およそ30年前に発想したと言われていますが、「一人の老物理学者が100パーセント確実な暗殺用機器を完成させ、核軍拡に狂奔する世界に対して神を演じようとする」というのは、まさに “今” の物語!

藤永ブログは、小説『闇の奥』のことにしても、シリアやクルド人のことも、私には知識が少なすぎて、理解できないことの方が多いのですが、

『地獄の黙示録』から、『闇の奥』の訳書と解説本へとたどり着き、メールを差し上げて以来、マイケルのことを、ポール・ヴァレリーのいう「大芸術」として考えてくださったり、勝新の『座頭市』や、フィギュアスケートについても、私のブログのあらゆる話題に反応してくださって、自分の父親よりも遥かに年上の先生の若々しさ(御歳90歳)と、しなやかさに仰天したことは一度や二度ではないのですが、それは、今回の小説にもいかんなく発揮されていて・・・

主人公の老化学者、白鳥譲治

量子化学者、大学教授として、人種のるつぼと言われる米国やカナダで永年暮らし、人種・民族問題の名著『アメリカ・インディアン悲史』を著し、英語圏の大学で、20世紀で最も多く使用された文学作品と言われる『闇の奥』の解読や、古典文学から現代文化までの幅広い教養、そしてそれらすべてを内包して培われた現代政治への問題意識など、白鳥譲治は、藤永先生自身がモデルではないかと思う人は多いでしょう。

娼婦ジャンヌ

そして、白鳥とは真逆の人生を歩んでいるはずの美貌の娼婦ジャンヌ・・高校の文学教師から、ボードレールやランボー、ロートレアモンの『マルドロールの歌』や、ジャリの戯曲『ユビュ王』を読まされ、今井正のドキュメンタリーに衝撃を受けた彼女の人生もまた藤永茂の「ペルソナ」のようにも感じられる。しかも、ジャンヌは、村上春樹が描く「女性」よりもリアルで、そのエロティックさは、日本の中高年だけでなく、多くの世界作家の「男目線」とも違っている。

今回、村上春樹の小説と交互に読むことになったのは、まったくの偶然ですが、私にとって、藤永茂と村上春樹は、浅からぬ関係があります。

311後に、村上氏がカタルーニャ国際賞で、オッペンハイマーに言及したときに、ちょうど『ロバート・オッペンハイマー』を読んでいて、それは村上春樹の物語(ファンタジー)に違和感を覚えるきっかけにもなったから。


夢を見ることは小説家の仕事で、小説家にとって大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。

と村上春樹は言う。

しかし、人が夢を分かち合うためには、現実の共有も必要だ。でも、フェイクニュースや、オルタナファクトという言葉が飛び交う “今” だけでなく、私たちが、現実や、事実を共有することはずっとむずかしい問題であり続け、世界に垣根がなくなったように見える現代では、人々が夢を分かち合うことの困難さだけが、可視化されているようにも見える。

村上春樹に癒される人が世界中にいるのは、村上氏が言うように、「人々と夢を共有している」からではなく、アイデンティティを喪失し、社会から疎外されているという感覚のまま、引き篭っていられるための居心地のいい装置になっているから。村上春樹が、現実を把握することをやめ、自己批評性を放棄していることで、読者も批判や現実から逃れることができる。

1984年に起きたことで人々が共有できる歴史と、個人にとっての1984年は違う。そういった無数にある物語ではなく、「1Q84」を共有することが、人々と夢を分かち合うことになる。それが、小説家としての仕事だと、村上春樹は言っているのだと思う。

夢とは見るものではなく、実現させるもの。

村上春樹は、そんな風には言えないわたしたちを少しだけ別の世界へ連れていってくれるけど、藤永茂の「夢」はそんなことではない。

村上春樹の小説では固有名詞がキーワードとして話題になることが多く、読者もゲーマーのように、そこに隠しコマンドやメッセージを発見したがる。それらは、ハルキ世界を表現する調度品であり、ゲームを支配しているのはあくまでも「作家」だ。

でも、藤永世界での固有名詞は、「狂奔する世界に対して “神” を演じようとする」ために、歴史を踏まえ、ひとつひとつ必要な手順を踏んできたことを示すものであり、調度品でも、知性を演じるためのアクセサリでもなく、まさに世界を攻略するためのロールプレイングであり、本当のゲームのための「知識」であり「武器」なのだ。

世界作家となった村上春樹は、311のとき、村上春樹が、日本人は核に対して「ノー」を言うべきだったとは言っても、原爆を落とした相手が広島や長崎だけでなく、もっと世界中に爆弾投下を行っていることには何も言わない。

鴻巣友季子氏が、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の書評で、「かつて村上の小説にうっすらあった自己批評性としたたかなユーモアはどこへ行ったんだろう? その謎の方が気になる」と述べたように、自己批評性とユーモアの欠如は「偽善」という感覚を失わせる。でも、『オペ・おかめ』の主人公、白鳥譲治の「偽善」への感覚は、藤永茂と同じように鋭敏だ。

第1章「人間のペルソナ」
白鳥譲治はジキルとハイドのように、化学者でありながらテロリストなのか。彼が実行しようとしている米国大統領へのオペレーションの名前は「おかめ」。一体なぜそんな名前が?そして、白鳥がジャンヌに近づいた理由とは・・

第2章「仏たちの面立ち」
白鳥譲治の驚くべき前半生が明かされ、おかめの仮面が意味していたものも明かされる!

イサム・ノグチの作品が好きで観に行ったり、また家に彼がデザインした家具がある人は多いでしょう。でも、この記事の一番上の電子書籍の表紙絵を見て、「イサム・ノグチ」の作品を思い出した人は少ないのではないでしょうか?

実は私もそうでした。

香川県のイサム・ノグチ庭園美術館も、札幌のモエレ沼公園も訪れたことがあり(両方ともこの小説に登場します)、イサム・ノグチのテーブルも使っている私ですが、第2章でそれが明かされるまで気づきませんでした。

「おかめ」は、イサム・ノグチの作品の名前でもあり、それはノグチのペルソナでもあったのだ。


f0134963_12000829.jpg


知ってると思っていたものに対して、自分がいかに知らなかったか。イサム・ノグチのことだけでなく、読んでいる間、何度もそんな感覚におそわれて、私は2009年以降、マイケルに対して感じてきた感覚を、もう一度強く感じることになりました。

藤永先生は、少数民族や世界文学など、日本人が考えることが少ない難しいテーマについて多く書かれていますが、この小説はそうではありません。

『永遠の0』という大ベストセラーの感想文に「零戦にも、戦争にも、興味がない、少女から老女までと、すべての日本人に!」と書きましたが、

この小説でも同じような気持ちになりました。読みやすい海外ミステリのような面白さから、予想もできない着地点へと引きずり込まれる快感と、決して忘れてはいけない記憶。
右翼でも左翼でもなく、日本が好きだったり嫌いだったりしながら、世界が平和であってほしいと願う、すべての日本人に。

Must Read!! Must buy!!!
☆まだ、Kindleで本を読んだことのない人へ。

電子書籍リーダーがなくても、スマホがあれば、Kindle本を読むことはカンタンです。無料のKindleアプリをダウンロードすれば、すぐに読めます。紙の本が好きな人は多いと思いますが、興味がある本がKindle販でも出版されている場合、簡単に立ち読みができて、紙の本を買うときの参考にもなります。

例えば、今話題の菅野完氏の『日本会議の研究』
その他のフォーマットにKindle販の表示があれば、そちらをクリックすると「1クリックで今すぐ買う」の下に「無料サンプルを送信」というボタンがあるので、そこをクリック。サンプル販で読める量は、本によってかなり違いがあり、電子書籍の作りも、文字の書体や大きさが自由に変えられないものもありますが、
『オペ・おかめ』は激安価格にもかかわらず、文字の書体や大きさが変えられる、上質な作りなので「Kindle本」が初めての人にもオススメです。

[PR]
by yomodalite | 2017-03-17 07:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)

映画『ノルウェイの森』『ハーブ&ドロシー』『人斬り』

f0134963_16114027.jpg

年末とか、お正月に観た映画から良かったものをちょっぴりメモ。HDに溜まっていた録画からなので、新作映画ではありませんが。。

『ノルウェイの森』

私はそんなに村上春樹のファンというわけではないので、映画化と聞いても「むつかしそうだなぁ」と思ったぐらいで、そんなに注目していたわけでもなく、公開後、いくつかのレヴューを目にしているうちに、ますます興味が薄くなっていたのですが・・とても見事な作品でした。

f0134963_16125381.jpg

そんなにファンではないといっても、村上作品は結構多く読んでいて、なかでも「ノルウェイの森」は、もっとも印象に残っている作品。でも、熱心なファンのひとのように、あの場面とか、あのセリフが、ということはなくて、ただ、主人公が、私の「初めての男」によく似ていて、登場人物に、自分が投影できる人物がいて、、それで、他の作品より印象に残っているんですね。

出演された俳優は、全員がこれ以上は考えられないほど、ベストな配役で、観る前は「どうなの?」という感じだった、菊地凛子は、登場した瞬間、彼女でよかった。と思うぐらい素晴らしく、主人公の松山ケンイチは「私の男」にそっくりで、、

わたしは、自分の「恋愛」のことをたくさん思い出して胸が熱くなりました。

f0134963_1613185.jpg

事前に情報を何も知らなかったのだけど、観終わった後、トラン・アン・ユンの脚本・監督だと知って納得。彼の『青いパパイヤの香り』は、その雰囲気が大好きで、めずらしく何度も観てしまった映画。まだ観ていない『夏至』も観てみなくちゃと思いました。

◎映画『ノルウェイの森』オフィシャルサイト



f0134963_16143849.jpg

「ハーブ&ドロシー」

現代アート界のアイドル。といっても作家ではなく、コレクターの老夫婦の話。

郵便局員のハーブと、図書館司書のドロシー、ふたりの楽しみは現代アートを買うこと。購入する作品を選ぶ基準は、自分たちのお給料で買える値段と、1LDKのアパートに収まるサイズであること。そして、彼らは購入した作品を決して売らない。。

30年の間、買い集めた作品は慎ましい部屋の隅々にまですき間もないぐらい詰め込まれ、ソファの置き場所もないぐらいになっていた。そして、ついに、アメリカ国立美術館が動く。これまで、どの美術館からの話も断ってきたふたりでしたが、、



ふたりが買ってきたアートは、いわゆるコンセプチュアルアートとか、ミニマルアートと呼ばれるようなもので、一般的に難解だとか、これが芸術だとは!と、批判されることが多い。

私は、美大出身だとわかったとたんに「どうしてピカソの絵はあんなに高いのか?」という質問をされた経験が何度もあるのだけど、そういう質問を「堂々とする」人は、私の経験では100%、K大の経済学部の人で、

たぶん日経新聞などで、オークションの記事を見て疑問に思ったのだと思うのだけど、株式市場の上下動や、実体経済とはかけ離れた市場を見ていて、どうしてピカソの絵の値段だけを「高い」と思うのか、不思議でしょうがなかったけど、当時は、私自身もよくわからなかったので、大抵の場合は「美術史上の価値なら少しはわかりますが、価格に関しては、マーケットを創っている人たちによるものなので、わかりません」と答えていた。

私が会ったK大経済学部の人たちとはまた別の人たちは、現代アートはユダヤ人による「マーケット」でしかない。と思っている人も多い。

いずれにしても、彼らはそれらの作品に疑問をもっていて、それが不当に高いと思う感情から、嫌悪感を抱き、作品も、作品を創る人も「詐欺」だと感じているのだ。

価値がわからないなら、買うこともないわけで、それなら騙されて買わされるという「詐欺」にあうこともないのに、世の中に、自分の価値観にそぐわないものに高値がついていることが許せないと思う人は多いようで、日本でも、村上隆氏を批判する人は多い。

現代アートは宗教だ。という人も多い。彼らは、概ね宗教を「詐欺」か、前近代的な遺物だと思っていて、意識的か、もしくは無意識に、科学やお金を信仰している。

わずかな収入のほとんどを現代アートを買うことに費やす、
ハーブとドロシーが何を買い、何で魂が満たされていたのか? 
それを知りたい人はぜひ!

◎『ハーブ&ドロシー』公式サイト

◎映画「ハーブ&ドロシー」日本公開版予告編



◎[Amazon]ハーブ&ドロシー(DVD)



f0134963_1616152.jpg

『人斬り』

去年から「日本映画チャンネル」では、やたらと勝新が登場して、今までなかなか見られなかった『警視K』が始まってしまったり、我が家の録画機の、勝新占領率はますます増えていく一方。。

そんな大好きな勝新ですが、座頭市にハマり過ぎているからか、目が開いているときの彼に違和感を感じることが多いんですね。勝新は、顔が可愛らしすぎるというか、子供っぽくて、現代劇でも、時代劇でも、座頭市のような人間的な深みに到達するのは、他の役ではむつかしいと感じてしまうことが多い。。


f0134963_16172946.jpg


f0134963_16481584.jpg

この映画で、勝新が演じているのは、司馬遼太郎の小説から「人斬り以蔵」の名で有名になった岡田以蔵。私は司馬史観で、幕末を見ることに飽き飽きしているのですが、この映画では、大好きな勝新が岡田以蔵を演じているだけでなく、大好きな三島由紀夫が「人斬り新兵衛」こと田中新兵衛を演じ、劇中で切腹シーンもあるので、絶対に見逃せない作品だったんです。


f0134963_16215671.jpg


f0134963_16214672.jpg


f0134963_1622177.jpg

監督は五社英雄、脚本は、黒澤映画の数々の傑作を書いた橋本忍、龍馬役の石原裕次郎や、仲代達矢も重要な役で共演し、その他の豪華キャストが華を添えているだけでなく、すべて意味のある出演となっていて、流石、勝プロダクション制作!

座頭市以外では、なかなか魅せられることができない純真さと凶暴さをあわせもつ、勝新に相応しい役で、1969年の公開当時は8月だったようですが、わたしはお正月映画としてとても満足しました。

◎勝新太郎「人斬り」テレビ初放送
◎『人斬り』goo映画

*全部観たわけではありませんが、この映画の三島は、これまでになく自然な演技で魅力的。切腹シーンも残酷な場面に弱い私が見てもだいじょうぶで、素晴らしい演技でした。

*勝新お奨め情報/作品数が多い勝新ですが、最初に見るべきなのは「座頭市」で「兵隊やくざ」「悪名」は見なくていい。また、座頭市は、初期より後期が完成度が高く、映画より1時間のTVシリーズ『新座頭市』は、マイケル・ジャクソンのダンスに匹敵するような彼の完成された立ち回りと、凝縮された脚本、さらに勝新の監督した回なら、彼の類いまれな音や映像のセンスにも驚かされるはず。

[PR]
by yomodalite | 2013-01-06 16:51 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)

もういちど 村上春樹にご用心/内田樹

もういちど村上春樹にご用心 (文春文庫)

内田 樹/文藝春秋



本書は「自分が村上春樹をどう読んでいるか」を全人類を代表して語っている(柴田元幸談)と言われる内田樹氏が、2007年に刊行した『村上春樹にご用心』の続編ではなく「改訂新版」。

私は、村上春樹について書かれた本は、これまで、ブログに書いていないだけでなく、まったく読んだことがなく、村上春樹について書かれた本だけでなく、5年前に読書ブログを始めたときから、村上春樹の本については書かないって決めてました。日本で一番有名な作家について、私が語ることなんて・・という理由で。

本書についても、そんな感じで、村上氏について語りたくないんですけど、私が、マイケル・ジャクソンについて考えているときに、よく思うことについて、すごく共感したり、為になるなぁ。と思った部分だけ、メモしておくことにします。

(引用開始)

僕も文学研究者ですから、ベタな主観性で書いたものはろくなものにならないのはわかってます。でもね、なまじな客観性を取ろうとするのもよくないんですよ。レヴィナス論を書いたときに思ったんですけど、自分より明らかにスケールの大きい人を相手にする場合に、自分自身を中立的、客観的に保とうと思うと、結局何もできないんです。

そういうときはもう「すみませんでした」と言って土下座をして両手をついて「秘密を教えてください」ってにじり寄っていくしかない。批評家とか研究者じゃなくて、弟子とかファンのスタンスです。

学問的には弟子とかファンのスタンスはタブーですけど、巨大な人を相手にするときは、タブーを破らないと、その人の、人間の通常レベルを超えたところにはどうしてもたどり着けないんじゃないかと。

こういうふうに育って、こういう文体訓練して、こういう人の影響を受けて、こういう人生を経て、こういうテーマで書きましたって。それを読んだ人が納得して、なるほど、だから、こういうものを書いたのかってわかったような気になる。

読者に一種の全能感、爽快感を与えるわけだから、そういう仕事も必要だと思うんですけど、

実際にはそれってその作家なり、思想家なりのスケールを縮減してしまって、昔僕らがよく使っていた言葉ですが、「最低の鞍部で巨大な人を乗り越えてしまう」ことになりがちなんですよね。

どうせならなるべく高いところににじり寄っていかないと。で、別に超えなくてもいいんじゃないかと思うんですよ。「高いですねー、こんな高いところがあるんですね」ってことを示すだけでも、学者の仕事としては成立すると思うんです。([特別対談]柴田元幸×内田樹『村上春樹はからだで読む』より)


村上春樹は「翻訳」をした。それは彼自身の言葉を使えば「他人の家の中にそっと忍び込むような」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)経験である。同じく翻訳を業とする者として、この感じはよく分かる。

それはいわば、「自分の頭」をはずして、自分の身体の上に「他人の頭」を接ぎ木するような感じのする経験である。ふつうの人は逆のことを考えるかも知れない。他人の身体に自分の頭を接続するさまを想像するかも知れない。

そうではないのだ。他人の頭に自分の身体を接続するのである。

だって、自分の頭をもってしては他人の頭の中で起きていることを言語化することができないからだ。けれども、自分の身体は他人の頭から送られる微弱な信号でも感知することができる。

頭は「意味」しか受信出来ないけれど、身体は「意味以前」のものでも受信できる。

頭は「シグナル」しか理解出来ないけれど、身体は「シグナルになる以前のノイズ」を聴き取ることができる。他人の頭から送られてくるのは、輪郭のくっきりした語や文ではない。

ノイズである。ある種の波動であると言ってもいい。その波動を私の身体が受け止める。すると、その波動と共振する部位が発生する。「何か」がその波動と干渉し合って、震え始め、響きを発し始める。とりあえずその響きは私の身体の内側で起きている私の出来事である。私自身の骨や神経や細胞が現に動いて、その共振音を出しているのである。自分自身の身体が発しているノイズであれば、それをシグナルに変換することはできる。

おそらくそれが翻訳という仕事の本質的な構造なのだと私は思う。

自分の身体を他者の頭脳に接続して、身体に発生する「ざわめき」を忍耐づよく聴き取って、それを自分の脳にもわかる言葉に置き換えてゆく。(「すぐれた物語は身体に効く」より)


「知性の節度」こそ偉大な学者のすべてに通じるおのである。私が「節度」と呼んでいるのは、ここで「最小限度の暫定的な例示」と呼ばれるデータ(ベンジャミン・フランクリンのテクスト)をマックス・ウェーバー自身は言えないということである。

ここに資本主義の精神を理解する手がかりがある、とマックス・ウェーバーは思った。にもかかわらず、「ふぅん、そうなんだ。で、どうして、フランクリンの書いた本の中に鍵があるとあなたは思ったの?」という問いにウェーバー自身は答えることができない。

「知性の節度」というのは、「どうして私はこんなに賢いのか、自分では説明できない」という不能感のことである。

「どうして私はこんなに賢いのか」について得々と理由を列挙できるような人間はたくさんいるが、それは彼らが「理由が説明できる程度の賢さ(というよりは愚かさ)の水準にとどまっているからである。(中略)

「私にはそれが説明できるが、なぜ『私にはそれが説明できる』のかは説明できない」

世界史的レベルで頭がいい人が抑制の効いた文章を書くようになるのは、この不能感につきまとわれているからである(と思う。なったことがないからわかんないけど)(中略)

「説明できる」ということと「確信をもつ」ということは違う次元の出来事である。

「確信」をもっているのは、僕ではない誰かだからである。(中略)

サルトルは小説に「神の視点」を持ち込むべきではない、ということを述べた。(中略)人々はサルトルにこぞて同意した。文学から「神の視点」を排除せよ。(中略)小説家は神の視点に立つことを自制し、登場人物が彼ら彼女らの棲息する虚構世界内部で実際に見聞きできていること以上のことを書いてはならない、ということが以後、不文律となった(はずである)。

それから半世紀経った。ところが作家たちは相変わらず全知全能の書き手が登場人物の内面や、まだ起きてないことや登場人物が知るはずもないことをことこまかに描写することを許している。(中略)

サルトルは、実はもののはずみで全知全能の神の視点からしか見えないはずのものが見えるということがときどき起こり、そのことを僕たちは知っているということを見落としたのである。(「100%の女の子とウェーバー的直感について」より)

(引用終了)



写真はクリックすると拡大します
f0134963_1135792.jpg



f0134963_11352370.jpg



◎[参考サイト]一条真也のハートフル・ブログ

◎[Amazon]もういちど 村上春樹にご用心
______________

[内容紹介]『1Q84』やエルサレム・スピーチをウチダ先生はどう読んだのか? ハルキ文学の読み方がもういちど変わる! 新たなテクストとともに『村上春樹にご用心』を再構成=アップデートした改訂新版、待望の刊行! アルテスパブリッシング (2010/11/19)




[PR]
by yomodalite | 2012-07-25 10:56 | 文学 | Trackback | Comments(0)

「3.11後の言葉」村上春樹・カタルーニャ国際賞スピーチ(2011.6.9)

f0134963_1291257.jpg


3.11への言葉を、わたしの「備忘録」として。

【バルセロナ共同】9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)

「非現実的な夢想家として」

僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。
 
でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。
 
ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1・8秒短くなるほどの規模の地震でした。
 
地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。
 
日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。
 
台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。
 
にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。
 
なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。
 
日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。
 
「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。
 
自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。
 
どうしてか?
 
桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。
 
そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。
 
今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。
 
でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。
 
結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。
 
ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。
 
僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。
 
みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。
 
十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。
 
なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。
 
また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。
 
我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。
 
日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。
 
しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。
 
ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。
 
僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。
 
戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。
 
広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。
 
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 
素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。
 
そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。
 
何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?
 
理由は簡単です。「効率」です。
 
原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。
 
そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。
 
そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。
 
そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。
 
原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。
 
それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。
 
「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」
 
我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。



f0134963_12105223.jpg


ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
 
「大統領、私の両手は血にまみれています」
 
トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」
 
しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。
 
我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。
 
我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。
 
それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。
 
前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。
 
壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
 
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。
 
最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。
 
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
 
カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。
 
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。
 
最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)


☆村上氏のスピーチは日本語で行われている
◎村上春樹カタルーニャ国際賞スピーチノーカット音源ー1

☆関連記事
◎ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者

☆参考資料
◎村上春樹エルサレム賞スピーチ全文(日本語訳)





[PR]
by yomodalite | 2012-01-30 12:13 | 311関連 | Trackback | Comments(3)

ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者/藤永茂

ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者

藤永茂/朝日新聞出版




『闇の奥』と『「闇の奥」の奥』を読んで、藤永茂氏の本をもっと読みたくなったのですが、氏の著作の中に、この名前を発見して読む前から胸が熱くなりました。

オッペンハイマーの名前は、もう記憶のない人の方が多いのかもしれません。でも、3.11後に行われた、村上春樹氏のカタルーニャ国際賞スピーチを読んだ人は、そこで思い出された方もいるでしょう。

ロバート・オッペンハイマーは「原爆の父」と言われている人です。
私は、少女時代にその名前を知ったものの、マンハッタン計画とトリニティ実験、ロスアラモス研究所と、そのメンバーで「水爆の父」と言われたエドワード・テラーの名前を覚えただけで、それ以上考えたこともなく、

エドワード・テラーの息子がアストロ・テラーという名前だと知って、テラーは息子にアストロと名づけるようなタイプなんだなぁと驚き、その彼が書いた小説(『エドガー@サイプラス』 )を読むという、どうでもいい迂回をしただけで、ずっと忘れていました。

註)上記は当時の記憶で、今、調べてみたところでは、アストロ・テラーは孫らしく、アストロという名もエドワードが名づけたわけではないようです。


f0134963_22535944.jpg
Robert Oppenheimer



そんなわけで、本書に書かれてあることは、私にとって初めて知ることが多く、オッペンハイマーへの評価の変節も、原水爆の開発や研究に対する議論もよく知らないのですが、それでも、本書が「オッペンハイマー伝」の決定版であると思うのは、

著者が「おわりに」で

本書は多数の文献にもとづいて書かれた。オッペンハイマーと面識のあった方々にも接触したが新しい事実は得られなかった。私が、会話や状況の叙述を勝手に創作した箇所は1つもない

と書かれているように、本書は、これまでの様々な文献から多くを引用し、それらをまた別の文献で補強したり、反論するという手法に徹底し、これまでの著者がくり返してきた「安易な想像による物語」を許さないという姿勢が貫かれていること、

また、同じく「おわりに」では、

村山馨著『オッペンハイマー』については感謝の意を表しておきたい。10年ほど前、すでにオッペンハイマーに強い関心を持っていた私には、村山氏の著書がオッペンハイマーに対して心情的に好意的すぎるように思われた。私には別のオッペンハイマー伝が書けると思ったのである。

それから、10年、私はかなり広く読み漁り、絶えずオッペンハイマーのことを考えて続けてきた。その結果、私が見出したことは、私も、まわりまわって、結局は村山さんが立っておられた場所に戻ってきてしまったという事であった。


という記述もあるのですが、読者にとって、著者の20年以上に渡る「まわりまわった」結果を1冊の本で読めることは、とても幸せなことだと思いました。


f0134963_2301687.jpg


村上春樹氏は、カタルーニャ国際賞スピーチで、オッペンハイマーについてこう語りました。

ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。
 
「大統領、私の両手は血にまみれています」

トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。(引用終了)


◎村上春樹・カタルーニャ国際賞スピーチ全文



f0134963_233137.jpg


このとき、村上氏が、過ちを犯した科学者の代表として引用したオッペンハイマーの言葉は、反原発を叫ぶ人々にとって、わかりやすい科学者像であり「物語」でしょう。

この場面だけでなく、オッペンハイマーの言葉は、被爆国であるがゆえに、原爆の罪を追求できなかった日本以外では、様々な人によって厳しく追及され、多くの「物語」で「セリフ」として切り取られています。

日本には「原爆の日」も「終戦記念日」もあるのに、これほど、オッペンハイマーのことが忘れられているのは、日本の敗戦をどうするかを考えた人たちの「戦略」によるものなのでしょう。私は今その戦略を否定する気にはあまりなれない。

下記は、村上氏のスピーチ後半部分から。

壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。

それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。
 
その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。(中略)
 
僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。
 
日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。

我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。(引用終了)



f0134963_2394791.jpg

全文を読むと、安易な科学者批判ではなく、多くの人々へのメッセージと、文学者としての自分の今後を述べた部分に力点があるのだと思いますが、

村上氏は、すべての人々が、被害者であると同時に加害者で、その過ちは「効率」であり「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」を、もう一度心に刻み、そのことを厳しく見つめなおさなくては、またどこかで同じ失敗が繰り返されると述べ、

オッペンハイマーの「過ち」を語り、私たちは、核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの中心命題に据えるべきだったと言う。

全体的に素敵なスピーチなのですが、私はこれを読んだとき、なぜか、あまり感動することができませんでした。それは震災のショックが大きかったせいもありますが、

過ちの理由は簡単で「効率」と言い切られたことと、

被害者であり、加害者であるのは「日本人」全体であるのに対し「小説家」として未来の希望を語るだけで「小説家の責任」については語られなかったことに対してなのかもしれません。

時刻通りに動く電車など、勤勉で真面目な仕事ぶりで世界的に認知され、優れた科学者に恵まれた日本が、なぜ、2度も被爆国にならなければならなかったのか?

それは、人が必ず「過ち」を犯すものだからではないんでしょうか?

わたしは、村上氏の「過ちは繰り返しませんから」よりも、日本人が声をあげることなく、世界に伝わった「メッセージ」は、そうであっただろうと思います。

私は、過ちを繰り返さないという「言葉」が、文学者として、大きな「過ち」ではないかと思う。

震災で傷ついた人々が見られる夢は「非現実な夢」なんでしょうか?

原爆や、原発事故のように、多くの人が1度に甚大な被害にあうことはなかっただけで「言葉の過ち」は、大勢を不幸にし「死」をも招いてきたはずです。

本書は、これまで大勢の小説家や文筆家が描いてきた、科学者や政治家の責任を問う「物語」とは異なり、誇り高い科学者が「本当の人の愚かさ」について書いた「物語」です。


f0134963_124468.jpg


藤永氏は、大江健三郎が『ヒロシマノート』で述べた、

ロスアラモスの有刺鉄線の中でひたすら働いた6000人の人間たちには原爆地獄への想像力が欠けていた。

について、

それが人間というものである、と私は考える。人間は想像力の欠如によって、容易にモンスターとなる。このことが他人事ではないという自覚から、私はオッペンハイマーという“モンスター”について書き続けているのである(p160)

と言い、物理学者にとって永遠に魅力を失うことのない学術都市「ゲッチンゲン」に現れた、若き日のオッペンハイマーのほっそりとした若い詩人を思わせる容姿や、現代詩、特にT・S・エリオットの『荒地』を愛誦し、高等学術研究所の所長として、エリオットを招き、ヒンズー文学にも強い関心を寄せ、その聖典『バガヴァド・ギーター』を原語で読むためにサンスクリットを学んだという「オッピー」(オッペンハイマーの愛称)の人物像を、様々な証言から「立体化」していく。

わたしには、ここで描かれたオッペンハイマーが、大江健三郎氏より、想像力がないと思えなかっただけでなく、政治家がその国民の民度と同様であるということと同じく、原爆を落とした国が「12歳ぐらい」と判定した基準を、大江氏の文章から感じました。

村上春樹氏は、私たちが等しく「非現実的な夢想家」になるべきだと言う。

私に想像力がないせいか、それが素晴らしいことなのかどうかよくわからないのですが、

「過ち」が許されない「計算」を基礎とする科学者たちが、どんな「夢」を紡ぎ、そして「過ち」に気づいたとき、それを修正するために、どのような「政治」があったのか。

それらの「現実」は、小説家の想像よりも「夢」のないものだったのでしょうか。

藤永氏が、科学者の愚かな過ちに対し、同じ科学者として、オッペンハイマーを洞察する「眼」には、久しく出会った事のない「ヒーロー」を感じ、村上氏のスピーチに感動できなかった理由も、この本には書かれているように思えました。

数学も科学も苦手なので、本書の物理学用語を難しく感じる点は多々ありました。それでも、私にとって、この本は「現実」に光が感じられるものでした。

日本が戦後と呼んだ時代は、確実に遠くなっていますが、新たな戦争は確実に近づいているでしょう。原爆も、原発も、人の愚かさも、過ちは常に繰り返されることを確認するために、

日本人必読の書だと思いました。

1996年出版の本ですが、決して古くなることのない名著です!
◎[Amazon]『ロバート・オッペンハイマー』オンデマンド版
◎[Amazon]『ロバート・オッペンハイマー』朝日選書版(レヴューあり)

アメリカでは、オッペンハイマーについて、活発な議論があり、ドキュメント映画も、彼をテーマにしたオペラ作品もあるようで、戦後、日本の教育が戦争責任という言葉で、ひたすら「反省」してきたことに比べると、米国の方が原爆投下を「戦争の早期終結のため」という理由に集約されているわけではないようです。

◎ロバート・オッペンハイマー(ウィキペディア)
◎エドワード・テラー(ウィキペディア)
◎ドキュメンタリー映画『The day after Trinity』
◎メトロポリタンオペラ「ドクター・アトミック」(徒然なる all over the World)

[PR]
by yomodalite | 2012-01-03 23:35 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite