羊の目/伊集院静

羊の目 (文春文庫)

伊集院 静/文藝春秋




目次からは短編集のようにも見えますが、物語はすべて繋がっています。

浜嶋辰三、山尾三津男、四宮賢治、須賀正、神崎武美・・・彼らに刺青を入れた清次(彫清)が刻印したもの、俠客、博徒...そして名を変えながらも繋がっているものの共通点とは。修羅の世界で生きる男たちの抗争を描きつつも、静謐な文体と、神崎武美の存在が物語を「聖書」のような味わいにしていて、小説としては『眠る蝶』以降俄然面白みを増す。

地味ではあるけれど、大人の読書マニア向けとしては、多分今年最高の佳作でしょう。

★★★★(R40)

『牡丹の女』
深川で内股に牡丹の刺青のある夜鷹は花川戸の辰三に、些細な喧嘩で死んだ指物師の夫との子供を託す。数年後、病を患い満州から引き上げた女は、我が子が辰三の元で成長したことを知る。。。

『観音堂』
本所吾妻橋、竹町の長屋にやってきた博徒“上州のみつ山”こと山尾三津男は、辰三が率いる浜嶋組の代貸しとなり、浜嶋組は勢力を増していく。辰三の家にはタケミという名の澄んだ目をした少年がいた。。。

『ライオンの舌』
戦場で出会った日本兵の背中にはライオンに似た動物のタトゥーがあった。ロダル・マッキーオ・コルザは、シチリアマフィアと同様の掟をもつ日本のヤクザに惹かれ、老人の博徒のケンキチに会う。ケンキチの元に届け物をもってきた若い男はタケミと名乗った。

『眠る蝶』
辰三が彫清の長屋に若衆を連れてきた。若衆の背中に触れた彫清はその類いまれな肌に惹かれ、辰三と同じ刺青を入れることを引き受ける。若衆は神崎武美という20歳そこそこの男だった。清次(彫清)の道具箱には見事な銀の蝶の細工が浮かんでいた。昔、指物師から惚れた女の刺青の代金として受け取ったが、指物師はその後斬り殺されたらしい。
仕事を始めて清次は益々武美に惚れ込み、かつて武美と同じような魅力に溢れた男がいたことを思い出した。不動明王を彫ったその男は四宮賢治と言った。

辰三の息子正規は大阪に逃げていたが、武美により辰三の元に帰ることになる。辰三は正規との親子の縁を切り関東から所払いにしたが、正規は辰三の妾を人質にとり、辰三に迫った。正規が女を突き飛ばし、匕首を辰三に向けて飛び出した時、武美は二人の間に突進した。

『竜の爪』
伊佐和力は、四宮兼治に逢い伊佐和組を四宮組に預ける決心を固め、須賀は四宮組の武闘派として組をまかされ勢力拡大の先鋒となった。警察に自首し刑期を模範囚として勤めていた須賀の前に、際立った印象をあたえる若衆が現れた。須賀は、若衆が男色の趣味のある首謀者を含む5人に襲われるも、同じ房の無期役の老人と撃退したのを目撃し、その鮮やかな手腕に感心した。その若衆は神崎武美と言い浜嶋組の若頭で、辰三の倅を殺して服役し、老人は、相手のほとんどがヤクザにもかかわらず11人を殺した事件で世間を騒がせた正木千吉だった。
数日後、須賀は風呂場で神崎の背中に見事な唐獅子の刺青を見た。刺青は四宮の不動明王と同じく「彫清」のものだった。

『ホットドッグ』
ロスアンジェルス、ワダ・ランドリー店。ケイコは母とともに、リトル・トーキョーで催される慰霊祭に出席する米陸軍第442連隊戦闘団の軍服の修繕で忙しくしていた。ある日、店に体格のいい日本人が仕事を求めてやってきた。ケイコは男が聖サンチャゴ・クニにそっくりだと思った。一方、須賀は神崎を追って、ロスアンジェルスで催される442連隊の慰霊祭の興業団の一行に加わり渡航していた。

『羊の目』
ニューハンプシャー州、コステル連邦刑務所は合衆国の中でも取分け厳しい監獄だった。規則だけでなく、1年の3分の1が凍雪に埋もれる過酷な環境、それ以上に厳しいのは囚人たちの掟だった。無期懲役囚ばかりの重い沈黙の中で、25年間服役囚たちの間でまことしなやかに伝えられている伝説があった。

だな通信 ミステリー文庫
http://danatuusinmystery.blog17.fc2.com/blog-entry-269.html
______________

[出版社からの内容紹介]夜鷹の女が産み捨てた男児は、闇社会を震撼させる暗殺者となった。神に祈りを捧げつつなお“親”のため人を殺し続ける男の生涯を描く。昭和8年。牡丹の彫物をもつ夜鷹の女は、後に日本の闇社会を震撼させるひとりの男児を産み落とした。児の名は神崎武美。浅草の侠客・浜嶋辰三に育てられた武美は、「親」を守るため幼くして殺しに手を染め、稀代の暗殺者へと成長していく。やがて対立する組織に追われ、ロスに潜伏した武美は、日本人街の母娘に導かれてキリスト教に接するのだが… 高潔で、寡黙で、神に祈りを捧げる殺人者。25年ぶりに日本に戻った武美が見たものとは──。稀代の暗殺者の生涯を描き、深い余韻を残す大河長篇。伊集院文学の最高峰! 文藝春秋 (2008/02)



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by yomodalite | 2008-09-29 15:48 | 文学 | Trackback(1) | Comments(0)

「海洋国家」日本の戦後史 (ちくま新書)

宮城 大蔵/筑摩書房




アジア外交といえば、中国、韓国・朝鮮ばかりをイメージしてしまいますが、本著はインドネシアを主軸として、アジアの転換期に日本がどのように関わってきたのか、というお話。今もって話題のつきないデヴィ夫人の活躍も。アメリカの属国をやりながら、アジアの非政治化を目指す。外交とはつくづく難しい。

「毎日jp」今週の本棚/五百旗頭(いおきべ)真・評

◇アジアの経済建設という劇

 あの戦争に敗れた日本の戦後外交は、受け身の対応を基調としてきたと言われる。とりわけ超大国アメリカとの関係はそう見える。日本外交は舞台の中央に立って大見得(おおみえ)を切るような派手なスタイルをとらないし、自らの外交的成功を世界に誇って回るようなこともしないので、実際より小さく見られがちである。

 そのような見てくれと大方の評判に騙(だま)されてはいけない。日本が新しい時代をつくり出すうえで国際的役割を果した局面がある。それもアジアの地で、というのが本書のメッセージである。

 『「海洋国家」日本の戦後史』という本書の表題を見て、日米海洋同盟の話かと早とちりしてはいけない。日本の南方にある多島海の国インドネシアを軸とするアジアの歴史が、本書の世界である。

 アジアの戦後史とは何であったか。第一局面は、脱植民地化と独立の時代であった。革命と解放の熱き政治の時代であり、毛沢東やスカルノらカリスマ的英雄が跳躍する局面である。(ちなみに日本史は、この局面を西郷隆盛や坂本竜馬の明治維新期に済ませており、戦後史は経済再建と民主化をテーマとした。)

 戦後アジアの第二局面は、経済建設を中心とする実質的な国づくりの時代であり、朴正熙、スハルト、マハティール、トウ小平ら開発権威主義者たちの活躍が目立った。第三局面は、フィリピンのピープルズ・パワーがマルコス政権を倒して以後の民主化の季節である。

 本書が描き出すのは、第一と第二の局面であり、とりわけ第二の局面を切り開いて、戦後日本が自らの経済主義的な「海洋国家」の生き方を、南の海の国に拡(ひろ)げて行くプロセスがハイライトである。

 アジア・アフリカ諸国が参集した一九五五年のバンドン会議から本書は始まる。対米基軸で再建を図る日本は、しかし親米反共の立場で会議に臨まなかった。もとより会議で活発な反植民地主義と反米左翼に同ぜず、中立主義を政治的立場ともせず、平和主義を説きつつアジアへの復帰を求める鮮明でない存在だった。日本の知るかつてのアジアと全く違う反植民地主義の政治感情が煮えたぎるアジアを前に立ちすくんだ日本であった。

 一九五七年にインドネシアを訪れた岸首相がスカルノ大統領に対して、こじれていた賠償問題を大胆な決断によって決着したことにより、日本は南方に経済地平を拡げることになった。

 反植民地主義の精神動員によって多元的な大国を統合し、共産中国に接近するスカルノ政治。スカルノに対する地方の反乱を米国CIAは支援して敗れた。この地での信頼と影響力を失うアメリカ。マレーシアを守るため強固な反スカルノに走るイギリス。日本はスカルノを親共であるよりも民族主義であると定義し、この国との関係を切らない。一九六五年の九・三〇事件後にスハルトが指導権を確立すると、日本は真先に協力と支援に乗り出す。

 この第二局面への移行に際して、日本は米英両国がそれぞれに外交的影響力を失う中で、インドネシア債権国会議を東京で開催し、開発の時代を南方に切り開く。それは独立したアジアの国をめぐって、中国の革命路線を抑えて、地道な経済建設の時代を呼び起すことになった。

 朝鮮戦争やベトナム戦争といった冷戦の地域的熱戦化に眼(め)が奪われがちななかで、静かな、しかし長期的に真に重要なアジアのドラマと、それへの日本の関与を、はじめて実証的に解明した著者の総集編ともいうべき本書である。

毎日新聞 2008年6月29日 東京朝刊
________________

【本の内容 asahi.com】独立と脱植民地化が課題となった戦後アジアは、冷戦と革命をめぐる渦に巻き込まれる。ひとつの軸であったインドネシアでの1965年の政変を転換点に、「非政治化」したアジアの開発は本格化する。解禁された日米ほかの外交機密文書をもとに、アジアの半世紀の変容における日本の航跡を描き出す。筑摩書房 (2008/06)

1.「アジア」の誕生―バンドン会議と日本のジレンマ
2. 日本の「南進」とその波紋―独立と冷戦の間で
3. 脱植民地化をめぐる攻防―日英の確執、中国との綱引き
4. 戦後アジアの転換点―1965年
5. アジア冷戦の溶解―米中接近と「中国問題」の浮上
エピローグ(「アジアの非政治化」と戦後日本、「吉田ドクトリン」と「福田ドクトリン」、21世紀のアジアと日本)

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by yomodalite | 2008-08-24 20:54 | 政治・外交 | Trackback | Comments(0)

家族の昭和/関川夏央

家族の昭和 (新潮文庫)

関川 夏央/新潮社

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戦中に生まれ「もはや戦後ではない」と言われた東京オリンピックの年に売れっ子TVドラマ脚本家になった向田邦子が「戦前」で、

日露戦争勃発の年の明治に生まれ、偉大な父露伴から、江戸の粋を身体で覚えさせられた幸田文が「戦後」という章順には、最初違和感を抱くが、‘78年(昭和53年)の『父の詫び状』発表までは「戦前」は暗黒であり、昭和後半までは「存在」していなかった。

昭和という時代は、その後半において、まず「戦前」を発見し、明治・江戸へと遡った。江戸の静かなブームは現在まで続き、平成の世に「落語」が再発見されている。女の自立は、戦後欧米由来一辺倒だったが、昭和後半において、明治の女の自立がようやく発見された。

バブル前夜に若くして亡くなった向田邦子は、戦前の家族を描いて仕事を終えたが、江戸の粋を作家としてではなく、一生活人としてたったひとりで体現していた幸田文は、父を描くだけではなく、戦前の家庭教育による女の骨太な自立を描いて、バブル終焉間近に亡くなった。「昭和史」においては、やはり、この順番で正しいのかも。
 
昭和後半生まれとしては、第3章の鎌田敏夫のドラマは、この中ではもっとも記憶に残っている。「ダイヤル回して手を止めた〜♪」のは、団塊の世代と言われる人たちだった。終戦後4、5年あとに生まれ、必死に豊かさを求めた親をもち、激しい競争と、学生運動という戦争を経て、核家族と、専業主婦による「家族」のドラマは、不倫と、学生時代の思い出をスパイスに描かれていた。

蒲田のドラマの主人公は、その後独身の若者へと移っていき、「家庭」は、育ちのレベルを著わすようになる。経済的格差による抗えないアイデンティティ「○金(まるきん)」、「○貧(まるび)」、ブランド信仰...

『3丁目の夕日』とは全く異なる、永く永く揺れ動いたリアルな昭和史。

向田邦子/1929年11月28日 - 1981年8月22日『父の詫び状』(1978年)
幸田文/1904年9月1日 - 1990年10月31日 『流れる』(1955年)
小川知子/1949年1月26日〜
団塊の世代/1947〜1949(※1955年までの説もあり)

「壊れかけたメモリーの外部記憶」
http://blogs.yahoo.co.jp/rtpcrrtpcr/42923486.html

1.「戦前」の夜ー向田邦子『父の詫び状』と、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』
・平伏する父
・稼ぐ娘
・ふたつの家の「家長」
・「コペル君」たちの東京
・「あの人々」への視線
・「大衆」の住む家
・家族のプライバシー
・大事なことはしゃべらない

2.女性シングルの昭和戦後ー幸田文『流れる』ほか
・女だへの家
・向島の生家
・「おとうと」を亡くした人
・「脊梁骨を提起しろ」
・父の思い出を書く人
・女たちがひとりで棲む街
・玄人に伍してみたい

3.退屈と「回想」ー鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』ほか
・「妻たち」の昭和末
・「回想」する彼ら
・「生まれ育ち」には勝てない
・衣食足りて退屈を知る
・リバーサイドからベイエリアへ
・「昭和」の終焉

終章 家族のいない茶の間
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[本の内容]向田邦子『父の詫び状』、吉野源三郎『君たちはどう生きるか』、幸田文『流れる』、そして鎌田敏夫『金曜日の妻たちへ』……。家族が寄り集まっていた茶の間から、一人去り、二人去り、そしてついに誰もいなくなったのが昭和という時代だった。戦前・戦中・戦後、さらにバブル期へ。「家族」を切断面に見た、「昭和期日本」の姿。
新潮社 (2008/05)

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by yomodalite | 2008-08-24 17:20 | 歴史・文化:美術 | Trackback | Comments(0)

安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)

豊下 楢彦/岩波書店




久しぶりの岩波新書。著者は今年「昭和天皇・マッカーサー会見」で更にこの論を深めているらしいのだけど、まずは96年のこの著作から読んでみました。『昭和天皇・マッカーサー会見』も読了しての感想を一言で言えば、日本の学者は1945年の終戦の日から、63年もかけてここに辿り着いたということ。

下記は「シャンバラ」http://shanbara.jugem.jp/?eid=34 より

日本は51年のサンフランシスコ平和条約と同時に、日米安保条約をアメリカとの間に結んだ。それは確かに不平等なものであったが、坂元教授によれば、それは「日本側の外交交渉の拙劣さよりも、当時の日米の立場と力関係から説明するのが妥当ではないか」というものである。ところが、豊下教授は全く別の見解を提示している。

講和条約の交渉が始まる前年、つまり50年6月に朝鮮戦争が勃発した。49年の中国共産党による政権樹立とともに、アジアでの冷戦色が急激に強まってしまう反面、アメリカにとって日本の戦略的価値が飛躍的に高くなった。よって51年の1月末から始める日米の講和交渉において、日本としては基地提供をカードとして使用し、アメリカとの交渉を有利に行うことが”可能”であった。

しかしながら、交渉の開始とともに日本はそのカードを自ら捨ててしまう。1月30日に提出された「わが方見解」という文書に、吉田の指示にもとづいて「日本は、自力によって国内治安を確保し、対外的には国際連合あるいは米国との協力(駐兵のごとき)によって安全を確保したい」という文言が挿入されたのだ。つまり、日本の基地をこちらから”提供してあげる”のではなく、日本の要請に基づいてアメリカが"駐兵してあげる"という形式になってしまった。結果的に、日米安保条約は日本にとって相当不利な条約となった。なぜ吉田はこのような、日本を交渉において不利にするような文言を挿入させたのだろうか。

豊下教授は、そこに天皇の影響があるのではないかという仮説を展開している。天皇は日本の安全保障を確保するために、米軍の駐留を望んでいた。なぜならば天皇はソ連、もしくは国内の共産主義勢力の革命の危険性を強く認識していたからだという。革命によって政権が転覆させられ、天皇制そのものが廃止されれば、天皇も裁判にかけられる可能性がある。

しかし、マッカーサーは日本を非武装中立にするという持論をもっており、天皇の思うとおりに事が運びそうにない。そこに登場したダレスにアプローチをして、非公式のチャンネルを作ったのではないか、というものである。ダレスも天皇も米軍を日本に駐留させることを望んでおり、マッカーサーと吉田の両者をバイパスして、それを実現させようとしたと教授は推測する。吉田は頻繁に交渉の経過を天皇に報告しており、その中で天皇に「御叱り」を受けて方針転換し、日本から基地提供を申し出たのではないかというのである。(後文略)

下記は「公式 天木直人のブログ」より

豊下楢彦という国際政治学者

書評のついでにもう一つ書いておく。豊下楢彦という国際政治学者がいる。私が彼を知ったのは「安保条約の成立」―吉田外交と天皇外交(岩波新書)ーを読んだ事がきっかけであった。

その著書により、昭和天皇が、新憲法の下で政治的行為を行わない象徴天皇になってからも、単独でマッカーサーと何度も会見し、自らの保身の為に吉田茂に安保条約の早期締結を迫った事を知った。

もっとも、前段は周知の事実であるが、後段は豊下の推論である。昭和天皇とマッカーサーの会談の真相は未だそのすべてが公開されていない。おそらく今後も公開されることはないであろう。だから豊下の推論はあくまでも推論にとどまって終る。しかし彼の推論は少なくともその著を読む限り説得力はある。そしてその推論が正しければ、われわれの戦後外交のイメージは一変する。

豊下教授の国際政治学者としての一般的評価を私は知らない。しかしこのような意見を著書で明らかにする学者は、その実力や業績の如何にかかわらず、既成体制にとって容認できないということであろう。御用学者のようにメディアやマスコミなどで重用される事は決してありえない。

その豊下が、同じ岩波新書から、「集団的自衛権とは何か」という最新著を先月上梓した。さっそく購入して読了した。教えられる本だ。タイムリーな本だ。

その中で私が注目したのは、何と言っても、1960年の安保改定に先駆けて行われた重光葵外相とダレス国務長官とのやり取りの中の次のごとき米国の本音である。
・・・(1955年に行われた重光葵の訪米の目的は)日本には(全土にわたって)基地を提供する義務はあるが米国には日本を防衛する義務はない、という不公平極まりない旧安保条約の改定を要請することであった。

このため重光は安保条約にかわる相互防衛条約案を携えて臨んだ。しかしダレスは重光の提案を門前払いする。(その表向きの理由は)安保改定を受け入れる大前提として、日本がまず憲法改正を行い、集団的自衛権の行使を可能にすること(であったが、実は重光案の中には米国として受け入れがたい項目があったのだ)。すなわち、「日本国内に配備されたアメリカ合衆国軍隊はこの条約の効力発生とともに撤退を開始するものとする」という項目があったのだ。

ダレスはこれに激しく反発した・・・ダレスにとっては、日本が集団的自衛権を行使して「米国を守る」ことよりも、米国が日本の基地を特権的に維持し続けることの方がはるかに重要な意味を持っていた・・・ダレスの最大の獲得目標は、「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」の獲得にあった・・・

(米国にとっては)日本を独立させた以降も占領期の米軍の特権維持を保障するような条約を締結することこそが、死活的な意味を持っていたのである・・・

一般国民は、岸信介の手による日米安保条約の改定が、それまでの片務的なものから対等なものに改められたと信じ込まされている。それが岸信介の一大功績であると思い込まされている。しかし実際は安保条約の改定によって米国の一方的な基地占有が固定化されたのだ。

ついでに言えば、豊下が指摘するもう一つの重要点も見逃せない。それはいわゆる極東条項の起源についてである。

極東条項とは、極東における共産主義の脅威から米軍が日本を守ると言う意味で、米軍の軍事行動を地域的に限定する条項であると解されている。だからこそ極東を超えたベトナムや中東地域での米国の戦争に日本から米軍が出兵することが、安保条約の逸脱であると批判される。
 
ところが安保条約の交渉の経緯を検証すると、極東条項は米国の要求によって書き込まれた米軍のフリーハンド条項であるのだ、と豊下は言う。

旧安保条約は、言うまでもなく、国連による集団安全保障(特定国との軍事同盟によって安全保障を図るという集団的自衛権の発動ではなく、国連加盟国全体によって潜在的な敵に対応し安全保障を図る事)が発動されるまでの過渡的な二国間条約にしたいとする日本側の考えと、自らの安全保障政策のために在日駐留軍を自由に使いたいとする米国の間のせめぎあいの結果、日本が全面的に譲歩して出来たものだった。

言い換えれば、米軍の軍事行動を、国連憲章に縛られる事なく、米国独自の判断で一方的に行えるよう米国が要求してきた条項であった。そして、そのような米国の要求を受け入れざるを得なかった事を「汗顔のいたり」と考えた外務官僚が、その「悔恨」を背景に、岸政権下の安保条約改定交渉において削除を申し入れたところ、再び拒否されたといういわくつきの条項であった。

豊下は次のように解説する。

「日米安保条約が国連憲章の目的と原則を再確認しその遵守を謳っている以上、米軍の行動には憲章51条の規定に従い『武力攻撃の発生』という縛りをかけることが必要不可欠であった。ところが譲歩の結果この縛りを欠くことになったため、またしても国連憲章を無視した米国の「一方的行動」を想定した条約となってしまった・・」(後文略)
____________

【出版社/著者からの内容紹介】「安保再定義」が声高に論じられている。だが、そもそも安保条約とは何なのか。なぜ、一方的な駐軍協定というべきものになったのか。著者は、発見された「非公開外交文書」とダレス文書を読みぬき、「吉田ワンマン外交」に解消されない新たなベクトル「天皇外交」を見いだしていく。戦後史を考え、現代を考えるための必読の書。岩波書店 (1996/12)

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by yomodalite | 2008-08-11 12:38 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

アメリカの鏡・日本 完全版 (角川ソフィア文庫)

ヘレン・ミアーズ/KADOKAWA/角川学芸出版




噂には聞いていたものの、ここまでとは思わなかったというぐらい日本にとっては、すべての痒いところに手が届いている日本擁護に満ちた本。

中国侵略、真珠湾攻撃、軍国主義、韓国併合。。。日本のマスコミすべてがアメリカの管理下にあったということを再認識すべきと同時に、ひとつのプロパガンダの罠から抜け出たと感じるときは、別の罠に入り込んでいる可能性も意識しないとね。

「天木直人のブログ」
http://www.amakiblog.com/archives/2008/07/07/#000990
__________

[出版社/著者からの内容紹介]
◎真珠湾攻撃は青天の霹靂ではなかった。アメリカは、さしたる被害なしに日本に第一撃を仕掛けさせるよう画策した。
◎原爆投下は必要なかった。それは、日本に対して使ったのではなく、ソ連との政治戦争で使用したのだ。
◎終戦直後、「アメリカは日本を裁くほど公正でも潔白でもない」とアメリカの女性歴史家ヘレン・ミアーズは主張した。
戦後の歴史認識を変えるグローバルな視点! アイネックス (1995/06)

[Wikipedia]原題は『Mirror for Americans:JAPAN』で、ヘレン・ミアーズ(Helen Mears、1900-1989、アメリカ)による著書。アメリカでは終戦後間もない1948年に出版された。著者より同書を贈られた翻訳家・原百代氏は日本での翻訳・出版の許可をGHQに求めたが、却下された。GHQによる占領終了の翌年の1953年、原氏の翻訳は『アメリカの反省』との邦題で出版。1995年、伊藤延司氏の翻訳による『アメリカの鏡・日本』が出版(アイネックス発行)

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by yomodalite | 2008-08-08 12:43 | 戦争・軍隊 | Trackback | Comments(0)

美の死―ぼくの感傷的読書 (ちくま文庫)

久世 光彦/筑摩書房




著者は、『美の死』というタイトルにとくに説明はしていませんが、ここに集録された作品にある「美」が失われてしまったという意味ではないでしょうか。

記憶の底にある著者の仕事はテレビドラマの演出も含め、失われていく何ものかを常に意識させてくれるものでした。

梶井基次郎の3つの短編を分類して、

『檸檬』は白い紙に赤や青や緑のインクで書いたカルテで、『城のある町にて』は患者に自由に描かせた淡彩画、そして『Kの昇天』は、患者の目に映画のレンズを嵌め込んで彼が見たものを撮影したフィルムと、もう一台のカメラで撮った彼自身の生態を記録したフィルムとを、交互に、しかも任意に繋ぎあわせた〈奇妙なもの〉と言うことができるかもしれない。

とい比喩は至極納得。また、太宰治について書かれた「太宰元年」で、

私には年号が三つある。西暦と、明治・大正・昭和の、いわゆる元号歴と、今日まで隠していたが、その他に、私にはまったく個人的な〈太宰〉という年号があるのだ。

という表現には、ドキッとさせられました。家族よりも、親友よりも、自分自身よりも太宰が身近だった時代が私にもあったからです。〈太宰〉は何年続いたでしょう。その後は何になったのか確かではありませんが、〈太宰〉時代は熱く燃え尽き、20代前半で太宰の墓の近くに住んでいたときも、太宰ゆかりの地ということに興味がなく過ごしていましたが、「太宰元年」という言葉により、何十年ぶりに、私の〈太宰〉歴が急激に蘇りました。

他の集録作品は、川端康成「片腕」、内田百間「サラサーテの盤」、川上弘美「春立つ」、織田作之助「蛍」、岡本かの子「老妓抄」、福永武彦「草の花」、渡辺温「可哀相な姉」、梶井基次郎「Kの昇天」、吉村昭「少女架刑」、半村良「箪笥」、江藤淳「南州残影」、高樹のぶ子「透光の樹」、庄野潤三「庭のつるばら」、谷川俊太郎「和田夏十の本」、樋田慶子『つまらぬ男と結婚するより「一流の男の妾におなり」』、星野智幸「目覚めよと人魚は歌う」、坪内祐三編「明治文学遊学案内」、原武史「大正天皇」、渡辺啓助「ネメクモア」、高平哲郎「あなたの思い出」、瀬戸内寂聴「場所」、なかにし礼「愛人学」、柳美里「家族の標本」、水原紫苑「客人」、松浦寿輝「花腐し」、福田和也「甘美な人生」、野溝七生子「眉輪」、筒井康隆「魚藍観音記」、山本夏彦「私の岩波物語」。。。

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【BOOKデータベース】「一冊の本を読むことは、一人の女と寝ることに似ている—外見だの評判だのは、むろん当てにならない。女は寝てみなければわからない」とは、著者久世光彦の言葉だが、言いえて妙である。稀代の本読みが心を震わせる本と、三島由紀夫、江藤淳、吉行淳之介、保田與重郎、太宰治など思いを寄せる作家に熱く迫る。 筑摩書房 (2006/03)

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by yomodalite | 2008-07-30 22:17 | 文学 | Trackback | Comments(0)

奇縁まんだら

瀬戸内 寂聴/日本経済新聞出版社




各冒頭の略歴に添えられているのが墓の写真というのもユニークなんですが、それに続き、横尾氏によるイラストが3点づつ掲載されています。生前の顔が定かでない人もいましたが、横尾氏のイラストは鮮やかにその印象を語っていて、瀬戸内氏の文章をより豊かにしてくれている。

登場する男性作家は、瀬戸内氏によれば、ほぼ全員美男子で自殺した作家をのぞき比較的長寿であるのも少し意外でした。豪華な挿絵本にもかかわらず定価2000円は魅力。


○島崎藤村(71) 
女大生だった著者が初めて見た作家。美男子ぶりに惚れ惚れする。

○正宗白鳥(83) 
円地文子が生涯の恩人だと語った。

○川端康成(72)
「かの子のことで、色々お世話になっていてありがとうございます」

○三島由紀夫(45) 
27歳の時に出したファンレターに返事が来た。ノーベル賞が二人の作家を自殺させた。。

○谷崎潤一郎(79)
ヤクザが谷崎家に来たとき日本刀をひっさげて玄関で睨みを効かせたのは今東光だった。松子夫人の妖艶な美しさ

○佐藤春夫(72)
谷崎の妻千代の譲渡事件の驚くべき真相。千代は谷崎の弟子和田六郎と同時不倫していた。

○舟橋聖一(71)
文士劇での女形ぶり。晩年は口述筆記により作品を書いた。

○丹羽文雄(100)
自費で後進のために同人誌を出した。美男子で艶聞に事欠ず、晩年は認知症になった経験を描いた夫人の本もベストセラーになった。

○稲垣足穂(76)
日本文学大賞受賞後、長年愛用した机を寂聴に譲った。

○宇野千代(98)
女流文学者会の中でもひと際オーラを放っていた。

○今東光(79)
清張、東光、寂聴の三人組での旅行の思い出。寂聴の出家の面倒を見た。生涯で政治にかかわった事のみ悔いていた。

○松本清張(82)
絶世の美女だった赤坂の芸者A子は清張をこよなく愛し、C子は清張夫人の座に執着し困らせたが、清張は、C子のおかげで悪女がかけるようになった恩人と語った。

○河盛好蔵(97)
若い時から貧乏知らず、美人の妻を娶り、物わかりのいいインテリの伯父さんは、老いても尚元気で長寿を全うした。

○里見弴(94)
有名芸者「照葉」は38歳で智照尼になったが、98歳で亡くなるまで里見弴に恋心を抱いていた。

○荒畑寒村(93)
死ぬまで色気を失わなかった革命家の葬儀の棺は真っ赤な赤旗で包まれていた。

○岡本太郎(84)
『かの子撩乱』を愛読、「ぼくの知らないかの子をずいぶん教わった」。しかし、寂聴にぼくの仕事を手伝えと言い、断ると「つまらん小説を書いているよりずっと生き甲斐があるのに、と言う。敏子には、私が死んだら寂庵に太郎を引き取って欲しいと言われていた。

○檀一雄(63)
壇ふみは、NHKラジオのレギュラーとして一緒になったことを父に話したところ「徳島に行ったら瀬戸内さんにモラエスのお墓に連れて行っていただくよう申しました」。

○平林たい子(66)
平林家の九官鳥は『幸福だわ。幸福だわ』と、『愛してます。愛してます』しか言わなかった。

○平野謙(70)
受賞後第一作『花芯』を酷評されるが、その五年後『夏の終わり』を金無垢の私小説と絶賛した。

○遠藤周作(73)
朗らかで、陽気でスマートだった遠藤氏が編集者に抱き抱えられて対談が始まった。長い廊下を遠ざかる氏を見送りながら、こらえられず私は泣いた。

○水上勉(85)
作家として才能の幅が広く、講演会では聴衆を泣かせ、文士劇では各地の色町のキレイ所がずらりと並び、人気女優との噂も華やかだった。仕事ぶりは、松本清張と並ぶ程だったが、障害のある女児の将来のため、稼がねばならないと決死的になっていた。

※( )内は没年齢

「今日はちょうどよい日和だから」
http://d.hatena.ne.jp/naoko_1999/20080725/1217119039
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【内容紹介】いまや日本を代表する女流作家が、藤村、川端、三島から岡本太郎まで、21人の物故巨匠作家との奇縁を綴った随想集。誰にも書けない日本文学史“ライブ”であり、“自立した女性”の魁となった著者の精神史でもある。日本経済新聞出版社 (2008/4/16)

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by yomodalite | 2008-07-08 14:54 | 文学 | Trackback(1) | Comments(0)

昭和恋々―あのころ、こんな暮らしがあった

山本 夏彦,久世 光彦/清流出版




本著のデータを確認しようとして、山本夏彦研究サイト「年を歴た鰐の棲処」が消えているのに気づきました。熱心な個人の研究サイトを管理人が自ら消去してしまうというのはどういった心境なのか想像もできませんが、とても残念です。

本書の初版は、山本翁が亡くなくなる4年前、83歳の時に出版されています。

内容は、翁が5/1、久世氏が2/1を書き、その他が対談。最後の作品集のタイトルで自嘲的に語っていたように、すべては寄せては返す波、この後も87歳で亡くなるまで、翁は消え去ってしまった生活を語ることを繰り返された。わたしも、山本翁の本を人生最後の日まで折々に読み返して死んで行きたいと思う。
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【日経ビジネス】世の中の変化の速度が速くなった今、「十年ひと昔」という言葉ももはや廃れてしまったのだろうか。年号が昭和から平成へと変わって丸十年が過ぎた。改めて振り返ってみると、生活のなかで昭和を感じさせるものがだんだんと消え去っていることに気が付くはずだ。

作家の山本夏彦氏と、演出家で作家としても知られる久世光彦氏が、エッセイで昭和の暮らしをよみがえらせた。山本氏は「下宿屋」「髪床」「質屋」などを引き合いに戦前の東京の街を描き、久世氏は「入学式」「虫干し」「七輪」「障子洗い」といった季節の風物詩から戦中、戦後の庶民の生活ぶりを浮かび上がらせた。

久世氏の「汽車」という章にはこんな一節がある。

「汽車にあって電車にないのは《未練》である。このまま行こうか戻ろうか。発車のベルが鳴っても、まだ間に合うのが汽車だった」。すべての章にタイトルに合うように「あのころ」の写真が添えられており、それが昭和への郷愁をいっそうかき立てる。
文藝春秋 (2002/06)初版 清流出版(1998/11)

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by yomodalite | 2008-07-07 13:07 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

ゴーマニズム宣言EXTRA パトリなきナショナリズム

小林 よしのり/小学館

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パラオを通してみた日本統治時代、命の大切さを考える傑作マンガ『ザ・樹海』、『戦争論』以降のプチナショナリズムへの危惧から、ゴー宣『沖縄論』その後。親米ポチ(エセ右翼)への従来からの批判に加え、『沖縄論』の沖縄以外での反響の薄さなど、ゴー宣本の中では印象の薄かった本著だが、『ザ・樹海』のマンガとしてのレベルの高さ、『沖縄論』への補足も、2007年時点で力の衰えていない小林氏の凄みを感じた。これを含め07年以降のゴー宣は未読だったのですが、やはり全部読まなくては、と改めて思わされました。
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【出版社/著者からの内容紹介】『わしズム』連載中の好評シリーズ単行本化
小林よしのり苦悩す——日本のナショナリズムに火をつけ戦後の言論空間に地殻変動を巻き起こした『戦争論』から9年。日本に出現したのは「危険なナショナリズム」だった。ネット右翼、ネオリベ一派の「偏狭なナショナリスト」は小林よしのりが『戦争論』によって昂揚させた「愛国心」から生まれたのか? 日本に真のナショナリズムは育ちつつあるのか? 今回はパラオ現地取材による「日本統治論」、自らの故郷・福岡から「美しい国」を描く「パトリ(故郷)とナショナリズム」、挑戦的意欲作の「国家と結婚」、など新しいテーマが満載。さらに語り下ろしと漫画による“沖縄戦スペシャル”、ギャグ漫画「ザ・樹海」なども特別収録する。小学館 (2007/6/14)

【目 次】
日本統治論①
日本統治論②
パラオ取材日記
ザ・樹海① 「ニートとフリーターと愛国オタク」
『戦争論』以後の愛国心について
ザ・樹海② 「命を大切にしない奴を嫌う奴」
真の不安、偽りの不安
パトリなきナショナリズムの危険
ザ・樹海③ 「リストラ一家」
国家にとって「結婚」とは何なのか?
特別収録/新ゴーマニズム宣言 沖縄戦編
インタヴュー『沖縄論』、その後
第1戦 ひめゆり語り部に関する試験問題
第2戦 ひめゆり学徒隊の証言を読む
第3戦 対馬丸の悲劇は日本軍が悪い?
沖縄取材日記
第4戦 同調圧力の島・沖縄
沖縄講演会『沖縄論』を語る



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by yomodalite | 2008-06-09 22:46 | 戦争・軍隊 | Trackback | Comments(0)

昭和天皇二つの「独白録」 (NHKスペシャルセレクション)

東野 真/日本放送出版協会



1997年6月にNHKスペシャルとしてテレビ放映された内容を単行本として出版したもの。著者の東野真氏はNHKのディレクター。

この本により、1990年12月の「文藝春秋」誌に発表された「昭和天皇独白録」が昭和天皇が東京裁判から自らの罪を免れることを目的とした文書であることが明らかにされた。(『昭和天皇独白録』寺崎英成著/文春文庫)

当時、東京裁判の対策として書かれたなら、アメリカに示したであろう英文の独白録があるはずだ、との反論がありましたが、それがNHKの取材により発見された。英語版の「独白録」を持っていたのは、元アメリカ陸軍准将ボナー・F・フェラーズ。フェラーズは、1944(昭和19)年から二年間にわたって、ダグラス・マッカーサー元帥の軍事秘書で、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を愛読し、皇室内にも非常に信頼された日本通。

元大統領ハーバート・フーヴァーと同じくクェーカー教徒(フレンド派)でマッカーサーを大統領選挙にかつぎ出すために活動した。寺崎氏も後年クェーカーとなっている。

天皇が主張したポイントは以下の2点(p. 133)。

1.自分は立憲君主であったから政府の決定したことを無条件に裁可していた。

2.もし開戦の決定に拒否権を行使していたら、クーデターなどの内乱が勃発して日本は滅びていた。

つまり、天皇は「自分は無力であった。戦争を起こしたのは好戦的な、軍国主義者たちである。だから私は無罪である」と主張したのだ。それならば、なぜ終戦のときだけ天皇は「聖断」を下して日本軍の戦闘を止めることが出来たのかと、当然原告側からは追求されるだろう。ここが論理的に苦しい箇所であり、フェラーズらもそれを協議している。

(以下『昭和天皇独白録』より引用)
開戦の際東條内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。

終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまゝその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信ずる所に依て、事を裁いたのである。

今から回顧すると、最初の私の考は正しかつた。陸海軍の兵力の極度に弱つた終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起つた位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行つたとしたならば、一体どうなつたであらうか。(『昭和天皇独白録』(文春文庫)、p. 160)

天皇は「終戦時は内閣が機能していなかったので自ら決断せざるを得なかったのだ」と少々苦しいながらも弁明することになった。

他にも、フェラーズの戦中での重要な任務である「心理作戦」には驚かされた。

《終戦の年の天皇誕生日に投下されたビラ》

「今日は天長節」
今日4月29日は御目出度い天長節であります(中略)
戦争の責任者である軍首脳者はこの陛下の御誕生の日に戦捷を御報告申し上げる事も出来ず、むしろ自身の無能の暴露を恐れているでせう。軍首脳部は果たして何時まで陛下を欺き奉る事が出来るでせうか。

終戦前から、米軍は戦争責任を負う者として、「軍首脳部」を指摘し、天皇はだまされている、という認識を示していたことは驚きだった。

《「聖断」前、8月13日午後に東京に巻かれたビラ》

日本の皆様
私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国の政府が申し込んだ降伏条件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット連邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します。戦争を直ちにやめるか否かはかかったお国の政府にあります。皆様は次の二通の公式通告をお読みになれば、どうすれば戦争をやめる事が出来るかがお判りになります。

ビラには、これに続いて、日本政府の通告文とバーンズ回答とが印刷されている。このビラは翌日の早朝にもまかれ、その直後8月14日の午前中、天皇自らの発意で初めて御前会議が召集された。

天皇は後にフェラーズが心理作戦の担当者だったと聞いて、寺崎に託してメッセージを伝えた。フェラーズが家族にあてた手紙によると

昨日、天皇から個人的なメッセージを受け取った。その内容はこうだ。心理作戦でまかれたビラや新聞は非常に効果的だった。いや、効果的過ぎたかもしれない。予定していた重要な軍事会議は心理作戦のせいでキャンセルせざるをえなかったというのだ。そして、ビラを見た軍人たちがクーデターなどの過激な行動に出るのを恐れたため、天皇は終戦の決断を下したのだそうだ。心理作戦によって終戦が早まったのだ。
(1946年3月10日のフェラーズ文書)

予定していた重要な軍事会議とは14日午前中に予定されていた最高戦争指導会議のことである。心理作戦のビラが日本の終戦交渉を暴露したため、危機感を抱き、終戦の「聖断」を下したー天皇はそう説明しているのである。同じようなことは「独白録」にも書かれている。

日本を去るとき、フェラーズは、当時日米振興会会長を務めていた笠井重治へを通し天皇にあてて一通の書簡を送っていた。フェラーズは直接会う事を希望し、天皇もそれを希望していたが、吉田外相の判断によって会見は実現せず、代わりに書簡を渡す事になった。

フェラーズは何を伝えようとしたのか。天皇にあてた書簡の写しは残念ながらフェラーズ書簡に残されていない。しかし後に笠井の手紙からその内容を推察することができる。17年後の1963年4月29日付けのフェラーズへの手紙に次のような一節があるからだ。

今日は、天皇誕生日だ。マッカーサーと君のおかげで、天皇の座は維持された。君には本当に感謝している。君の努力は素晴らしかった。君と二人で、天皇に「遺憾の意」(Imperial repentance)を表明するようお願いしようとしたことを覚えているかね?あれが実行されていれば、天皇は日本国民のみならず、世界の人々の敬愛を集めたことだろう(フェラーズ文書)

フェラーズが天皇に伝えようとしたのは、どこかの時点で天皇自ら戦争についての意見表明を行うべきだというメッセージだったのではないだろうか。「遺憾の意」というのは、「戦争をとめられなかったことは遺憾である」といったような内容かと思われる。フェラーズがなぜこうした提言をしたのかは明らかでない。(中略)今日に至るまで、天皇の戦争責任問題が折に触れて内外から問題にされることを考えれば、この提言の持っていた意味は少なくないというべきだろう。

戦後30年1975年10月31日初のアメリカ公式訪問を終えて帰国した折に、訪米の成功を記念して記者会見が行われた。このときある記者が「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」と質問した。天皇はやや表情を固くして次のように答えた。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題については、お答えできかねます。

天皇のパーソナリティーがよくわかる発言だと思う。天皇は科学的知性の人で、決して文学的でない。日本の軍部があまりに文学的というか、合理的精神とかけ離れていたのと対象的で、これが逆だったらと思わずにはいられない。もっとも、非科学的で、合理的精神に欠けているのは当時の軍部だけではなく、その後の政治もマスコミもまったく変わらない。

戦争責任に関してどう答えるか、この記者を含めて大勢の日本人が期待しているのは、不祥事を起こしたときに謝罪する経営者に期待しているものと同質の非常に「文学的」なものだ。世界を巻き込んだ戦争に対して、天皇と日本と自分の国籍さえ、よく理解していない幼稚な精神からの質問としか思えない。

私自身は、この本によって天皇への見方が変わったということはないですね。天皇教のようなものを作ってしまう心性が、天皇にかかわりなく現代の日本にも色濃く残っている。日本人はとにかく担ぎ上げてついていくのが今でも大好きですから。

この本は、この英語版発見は「NHK」取材班の手柄とし、天皇温存によって日本を運営する案をほとんどフェラーズ一人のパーソナリティーを主体としていて、フェラーズを送りこみ、日本を学ばせた真の支配者たちのことには触れていない。天皇の戦争責任について、最も厳しい態度をとっていたのがオーストラリアとソ連だったのは、この二国が世界支配者たちとあまり接点がないからでしょう。
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【内容「MARC」データベースより】天皇訴追に備えて用意された英語版「独白録」。東京裁判前夜、日米共同で進められた極秘工作の全貌を明らかにするとともに、「独白録」の日本語版と英語版を徹底比較する。日本放送出版協会 (1998/07)



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by yomodalite | 2008-04-02 14:10 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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