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[追記あり]

地獄の黙示録について、少しは理解できたはずなのですが、原作と言われる『闇の奥』については、まだ、わからない点が多くて・・・


今後、『闇の奥』を読み返したときに、なにか参考になるかも・・という理由で、コッポラが原作にアンダーラインを引いた箇所などを、『地獄の黙示録・3Disc-コレクターズ・エディション」のミリアス・インタビューとブックレットから、メモしておきます。(また、前回アップした「ミリアス・インタビュー」も大幅に追記して、再投稿しました。)


英文は、こちらの「ORIGINAL TEXT」

日本語は、藤永茂訳の『闇の奥』から。


アンダーラインは、コッポラがインタビュー内で読み上げたり、ペーパーバックに赤線が引いてあった箇所です。


We penetrated deeper and deeper into the heart of darkness. It was very quiet there. At night sometimes the roll of drums behind the curtain of trees would run up the river and remain sustained faintly, as if hovering in the air high over our heads, till the first break of day. Whether it meant war, peace, or prayer we could not tell. The dawns were heralded by the descent of a chill stillness; the wood-cutters slept, their fires burned low; the snapping of a twig would make you start.


僕らは深く、より深く、闇の奥へ入り込んで行った。死んだような静けさだった。夜中に、時々、樹々のカーテンの向こう側で鳴る太鼓のひびきが河を上がって来ることもあったが、それは、われわれの頭上はるかの大気のなかでたゆたうかのように、空か白むまで、仄かに残っていた。その太鼓の音が、戦いを意味したのか、平和を意味したのか、それとも祈祷であったのか、知る由もなかった。その音が絶えて、冷たい静寂が降りて来ると、ほどなく朝が明けるのだった。木こりたちは眠りをとり,焚き火も燃え尽きかけて、誰かが焚き火の小枝を一本ポキンと祈る音にもハッと驚かされることにもなる。


We were wanderers on a prehistoric earth, on an earth that wore the aspect of an unknown planet. We could have fancied ourselves the first of men taking possession of an accursed inheritance, to be subdued at the cost of profound anguish and of excessive toil.


いうなれば、僕らは、見知らぬ遊星のような様相を帯びた地球、歴史以前の地球の上を彷徨っていたのだ。僕らは、深甚な苦痛と過酷な労役の末に手が届いた、ある呪われた遺産を所有しようとする最初の人間たちのように、自分らを思い描くこともできたかもしれぬ。


But suddenly, as we struggled round a bend, there would be a glimpse of rush walls, of peaked grass-roofs, a burst of yells, a whirl of black limbs, a mass of hands clapping of feet stamping, of bodies swaying, of eyes rolling, under the droop of heavy and motionless foliage. The steamer toiled along slowly on the edge of a black and incomprehensible frenzy. The prehistoric man was cursing us, praying to us, welcoming us―who could tell?


ところがだ。船が、流れの曲がり角をやっとこ回り終えたところで、重く、動きのない樹々の繁みの垂れ下がった陰に、突然、イグサ造りの壁や尖った草葺き屋根がチラリと見え、ほとばしる叫び声が聞こえ、黒い肢体の群れが乱舞し、手を打ち、足を踏み鳴らし、からだを揺さぶり、目玉をぎょろぎょろさせているのが、視界に飛び込んできた。この黒々とした不可解な狂乱のへりをスレスレに、船はゆっくりと遡航の骨折りを続けた。あの先史時代の人間たちが、僕らを呪っていたのか、折っていたのか、それとも、喜び迎えていたのかーー誰が分かるだろうか? 


We were cut off from the comprehension of our surroundings; we glided past like phantoms, wondering and secretly appalled, as sane men would be before an enthusiastic outbreak in a madhouse. We could not understand because we were too far and could not remember because we were travelling in the night of first ages, of those ages that are gone, leaving hardly a sign―and no memories.


僕らを取り巻くものへの理解から、僕らは断ち切られてしまっていた。狂人病院の中の熟狂的な狂躁に直面した正気の人間のように、僕らは仰天し、心中ぞっとしながら、まるで亡霊のように、その場を滑り抜けていったのだ。理解もできなければ、記憶をたどることもできなかった。なぜなら、僕らはあまりにも遠い所に来てしまったのであり、原始時代の夜を、ほとんど何の痕跡もーー何の記憶も残していない遠くに去ってしまった時代の夜を、いま旅しているのだったから。


“The earth seemed unearthly. We are accustomed to look upon the shackled form of a conquered monster, but there―there you could look at a thing monstrous and free. It was unearthly, and the men were―No, they were not inhuman. Well, you know, that was the worst of it―this suspicion of their not being inhuman. It would come slowly to one. They howled and leaped, and spun, and made horrid faces; but what thrilled you was just the thought of their humanity―like yours―the thought of your remote kinship with this wild and passionate uproar.


 『大地は大地とは思えぬ様相を呈していた。屈服した怪物が繋がれた姿なら、僕らも見慣れているが、しかし、あそこではーーあそこでは自由なままの怪物を目の当たりにすることができるのだ。この世のものとも思えないーーそして、あの男たちもーーいや、彼らは人間でないのではなかった。分かるかい、彼らも人間でなくはないのだという疑念ーーこれが一番厄介なことだった。その疑念は、じわじわと追って来る。彼らは、唸りを上げ、跳ね上がり、ぐるぐる回り、すさまじい形相をひけらかす。だが、こちらを戦慄させるのは、彼らも人間だーー君らと同じようなーーという想い、眼前の熱狂的な叫びと、僕らは、遥かな血縁で結ばれているという想念だ。


Ugly. Yes, it was ugly enough; but if you were man enough you would admit to yourself that there (上記の写真はここから)was in you just the faintest trace of a response to the terrible frankness of that noise, a dim suspicion of there being a meaning in it which you―you so remote from the night of first ages―could comprehend. And why not? The mind of man is capable of anything―because everything is in it, all the past as well as all the future.


醜悪、そう、たしかに醜悪だった。しかし、もし君に十分の男らしさがあれば、君のうちにも、ほんの微かとはいえ、あの喧噪のおぞましいまでの率直さに共鳴する何かがあることを認めるのじゃないかな。そのなかには、君にもーー原始時代の夜から遠く遠かに離れてしまった君にも理解できる意味が込められているのではないか、という朧げな疑念だ。考えてみれば何も驚くにあたらない。人間の心は何でもやれるーーなぜなら、そのなかに、過去のすべて、未来のすべて、あらゆるものが入っているのだから。


What was there after all? Joy, fear, sorrow, devotion, valour, rage―who can tell?―but truth―truth stripped of its cloak of time. Let the fool gape and shudder―the man knows, and can look on without a wink. But he must at least be as much of a man as these on the shore. He must meet that truth with his own true stuff―with his own inborn strength. Principles won’t do. Acquisitions, clothes, pretty rags―rags that would fly off at the first good shake. No; you want a deliberate belief. An appeal to me in this fiendish row―is there? Very well; I hear; I admit, but I have a voice, too, and for good or evil mine is the speech that cannot be silenced. Of course, a fool, what with sheer fright and fine sentiments, is always safe. Who’s that grunting? You wonder I didn’t go ashore for a howl and a dance? Well, no―I didn’t. Fine sentiments, you say? Fine sentiments, be hanged! I had no time. I had to mess about with white-lead and strips of woolen blanket helping to put bandages on those leaky steam-pipes―I tell you. I had to watch the steering, and circumvent those snags, and get the tin-pot along by hook or by crook. There was surface-truth enough in these things to save a wiser man.


あそこには、いったい何かあったのだろう? 喜びか、恐怖か、悲嘆か、獣身か、勇気か、怒りかーー誰が分かろう?ーーしかし、真実というものーー時という覆いをはぎ取られた裸の真実がたしかにあった。馬鹿な奴どもは仰天し震え上がるに任せておこう。ーー男たるものは、その真実を知っている。瞬ぎもせずにそれを直視できる。だが、それには、河岸にいた連中たちと少なくとも同じぐらい赤裸の人間でなければならぬ。その真実に自分の本当の素質をもってーー生まれながらに備わった力で立ち向かわねばならないのだ。主義? そんなものは役に立たぬ。あとから身につけたもの、衣装、見た目だけの服、そんなボロの類いは、一度揺さぶられると、たちまち飛び散ってしまう。そんなものじゃない、一つのしっかりした信仰が必要なのだ。この悪魔じみた騒ぎのなかに、訴えてくるものがあるかって? よかろう。僕にはそれが聞こえる。認めよう。しかし、僕には僕の声もある。そして、それは、善きにしろ、悪しきにしろ、黙らせることのできない言葉なのだ。いうまでもないが、馬鹿者なら、すっかり腰を抜かしてしまうとか、繊細な感情とかいうやつのおかけで、いつも安全だ。誰だ、そこでぶつくさ言っているのは? お前は、岸に上がって、一緒に叫んだり、踊ったりはしなかったじゃないか、と言うんだな? そう、たしかにーー僕はそうしなかった。繊細な感情からかって? 冗談じゃない。繊細な感情なんて糞食らえ! そんな暇はなかったのだ。いいかね。漏れ出した蒸気管に包帯をするのを手助けするために、僕は白鉛と裂いた毛布を持って右往左往していたし、舵取りを見張り、河床の倒木を避けて通り、どうにかこうにかポンコツ蒸気船を勤かすことで精一杯だったのだ。こうした事どもには、馬鹿よりはましな男であれば何とか款ってもらえるに十分な、表面的な真理があるものだ。


And between whiles I had to look after the savage who was fireman. He was an improved specimen; he could fire up a vertical boiler. He was there below me, and, upon my word, to look at him was as edifying as seeing a dog in a parody of breeches and a feather hat, walking on his hind-legs. A few months of training had done for that really fine chap. He squinted at the steam-gauge and at the water-gauge with an evident effort of intrepidity―and he had filed teeth, too, the poor devil, and the wool of his pate shaved into queer patterns, and three ornamental scars on each of his cheeks. He ought to have been clapping his hands and stamping his feet on the bank, instead of which he was hard at work, a thrall to strange witchcraft, full of improving knowledge.


その上、祈りを見ては、罐焚きの役の蛮人の監督もしなければならなかった。彼はいわゆる教化蛮人のひとりで、直立ボイラーの焚き方を心得ていた。僕のすぐ足許で働いていたのだが、それを見ていると、半ズボンをはいて羽根付きの帽子をかぶり、うしろ脚で立ち歩きの曲芸をしている大そっくりで、結構、感心させられたよ。まったく健気な野郎で、教カ月の訓練でこれだけになった。何か恐ろしいものに無理に勇気をふるって立ち向かうようにして、気圧計と水量計を薮睨みして見張っている。この哀れな小悪魔ーー彼は歯を研いで鋭くしていたし、頭の縮れ毛は奇妙なパターンに剃り込み、両頬には刀傷が飾りに三筋入れてあった。彼なども、やはり、あの河岸で、手をたたき、足を踏み鳴らしているほうが柄にあっていたのだろう。それだのに、教化のための知識を詰め込まれ、奇態な魔法のとりこになって、懸命になって働いている。教化されたことで、彼は有用になった。藤永茂訳 p96 - 100)


※光文社古典新訳文庫・黒原敏行訳(p89 - 93)



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“我々は闇の中に入っていく
そこは静かだった
夜、時々木々の後ろから
聞こえる太鼓の音が
川を上りかすかに漂った
夜明けまで我々の頭上で
舞っているかのように
戦争、平和、祈り・・・
我々には分からなかった”
(DVDの日本語字幕より)




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by yomodalite | 2016-03-09 17:38 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)
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[内容を大幅に追加して再投稿しました]私が見た「3Disc コレクターズ・エディション」の1枚目はオリジナル版と特別版、2枚目がコッポラの妻のメイキング『ハート・オブ・ダークネス』で、3枚目は、終盤部分は異なるものの、脚本の90%ぐらいを書いている、ジョン・ミリアスや、主演のマーティン・シーンのインタヴューなどが入っているボーナスディスク。

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「HIStoryと黙示録」の記事内で、コッポラのコメントとして紹介したものは、1枚目のディスクに収録された監督コメンタリーからですが、こちらには、脚本家ミリアスのインタビューから、気になった内容をメモしておきます。


⭐️ ⭐️ ⭐️


ミリアス:ベイジル・ポールドゥリス(『レッド・オクトーバーを追え』の作曲者)は、ルーカスとともに、南カリフォルニア大学で同じクラスだった。みんなが好きだったのは、『博士の異常な愛情』で、それは『地獄の黙示録』にも影響を与えた。


・・・


『闇の奥』は英文学の傑作のひとつだったが、偉大な作家たちを悩ませていた。ベン・ヘクトや、アーネスト・レーマンや他の素晴らしい作家たち・・この本は危険信号を発していた。僕は『闇の奥』が大好きで、17歳の時にこの本を読んだ。僕はビーチから遠ざけるために、コロラドの学校へ送られていた。コロラドの山の中に野放しになった僕は、すぐに山男になった。罠を仕掛け、狩りをして、ジム・ブリッジャーになろうとして、それで『闇の奥』を読むのは素晴らしいことだった。寒い冬にジャングルやアフリカ、コンゴ川のことを読む。雪に埋もれ・・凍えて・・でも同時に自分を山男だと感じた。『闇の奥』の映画化は何人もの人が失敗した危険な作品だが、『闇の奥』の素晴らしさは、ジャングル自体に力があること。そして、それは人を脱落させる。人はジャングルを恐れるから。ジャングルは原始そのもので、その力に自分を捧げねばならない。人は、ジャングルでは暗闇を恐れた子供時代と同じことをする。自分を暗闇に従属させるのだ。ジャングルでは、可能な限り、奥へ入っていく。ジャングルの超自然的な力を恐れるがゆえに、戦いの絵の具を顔に塗る。それで、ジャングルの生き物になり、トーテムをもち、動物になる。そして狼か何かのように吠え始める。僕はこれをコロラドでやっていた。イエティが木の反対側にいると信じて、木にもたれて寝たり、猟銃を持って座り、この力を見た。この原始の超自然的な力。この原始のものが木の反対側にいる。襲いかかろうとする熊、猟銃なしでは対処できないが、猟銃は家に置かねばならず、ナイフだけで眠らねばならない。結局僕は、ナイフを木に刺し、丸腰で眠った。このためには完全に身を任せねばならない。これが『闇の奥』の内容だ。ここから、カーツがこの力に身を任せる案が生まれた。さらに彼はそれと仲良くなり、彼はその一部になった。物語を読み、僕はどの文学作品よりも強く惹きつけられた。君に会う前から、これをやらねば・・マイケル・ハーの記事を読んでも、何かをすぐに始めないとと思った。それから、友人たちがベトナムから帰ってきて、色々な話をした。彼らとじっくり話して気づいたのは、話せば情報が得られるということ。それでベトナム帰りの人を探し始めた。


コッポラ:サーファーは?


ミリアス:数人いた。(ベトナムに)行ったサーファーは少ない。徴兵を逃れる方法を知っていたから。『ビッグ・ウェンズ・デー』でわかるよ。これらの人々と話すときは、出来る限りすべてを収集するんだ。物語をね。そして最終的に・・ジョージ・ルーカスが「これを書き始めるべきだ、君は作家だ、君は書くのが仕事だ、他に誰もいない」と。それで、書くときになって、『闇の奥』を思い、これをベトナムで撮るべきだと思った。『闇の奥』を寓話とするので、読み直そうと思ったが、しかし、読むべきじゃないと思い直した。夢のように覚えていて、きっちり読み返しては、それが台無しになると思った。


コッポラ:哨戒艇で『闇の奥』の川を上る案は、君とジョージ・ルーカスが考えたの?それともひとりで考えた?


ミリアス:僕ひとりだ。ジョージは「ヘリを入れろ」と。


コッポラ:彼は監督をするはずだった。


ミリアス:脚本は誰も書きたくなかった。作家はハリウッドではよく扱われない。英雄は監督だ。次が撮影監督。カメラを持っているからだ。カメラは備品で、人々は備品にこだわる。歩兵部隊なら機関銃を持ちたい、カメラは機関銃だった。


コッポラ:ジョージは、君が書いたら、監督すると?


ミリアス:ああ、いつもジョージが案を出していた。当時僕は自分を監督とは考えていなかった。ハリウッドに行ったことがなかったから、監督というのは黒澤やジョン・フォードみたいな人で、彼らみたいになるだなんて、ハリウッドの質の悪い監督たちを見るまで気づかなかった。


コッポラ:『雨の中の女』の撮影からジョージと戻ったとき、ワーナー・ブラザーズの僕の事務所の隣が編集室で、そのときジョージと君に初めて会ったと思う。(あのとき君は)『地獄の黙示録』の脚本を書いていたの?まだだった?


ミリアス:いや、君が契約をまとめて金を受け取るまで僕の収入はなかったから・・そのときから1ページ目を書き始めた。だが、内容や音楽のメモはたくさんあった。映画中の場面とほぼ同じ場面をつくりあげていた。


コッポラ:『地獄の黙示録』の題名を決めるにあたって、君は『サイケデリック・ソルジャー』という題名を・・・


ミリアス:それは他の人。僕の題は最初からこれ。なぜなら、僕はヒッピーを見ていて、ヒッヒーの時代は急に来て、1965年から急に、良くも悪くもね。僕は信じなかった。ビート族は好きだったけど。ヒッヒーの時代は急に来て、1965年から急に、良くも悪くもね。僕は信じなかった。ビート族は好きだったけど。ヒッピーは、ピースマークをつけていて、その意味は「ニルバーナ・ナウ」だった。今こそ、ハイになって苦痛から脱却しよう。ドラッグを使えば、みんながその境地に、禅を学ぶ必要はない、「地獄から脱却しよう」という感じでね。僕は反逆児だから、それが理油だっと思うけど、戦争の方が好きだったから、ピースマークを変えた。ニルバーナ・ナウから、「アポカリプス・ナウ」という題名を思いついた。これを僕の本かなにかに貼って、持ち歩き、皆が気に入っていた。書き始めるずっと前からね。初めからこれが題名だった。



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コッポラ:映画の始めの方のヘリコプターの場面で、ワーグナーの音楽が鳴って、素晴らしいから、どうやったか聞かれるんだが?


ミリアス:僕はワーグナーが好きで、なぜかヘリの場面で効果的だった。


コッポラ:なぜ、あの曲を選んだ?


ミリアス:脚本を書いたとき、2つのことを考えていた。ワーグナーとドアーズ、この2者を聞きながら、脚本を書き上げた。ドアーズのファーストアルバムをひたすらかけていた。擦り切れるまでね。


コッポラ:ドアーズはベトナム戦争時、人気があった。


ミリアス:ああ、ドアーズは常に・・あれは戦争の音楽だった。ドアーズにそう言ったら、びっくりして、「絶対に違う!正反対だ」って言ってたけど、でも、彼らの音楽が有名なのは、この映画によってだ。


コッポラ:ドアーズは、全員UCLAの映画部の出身。レイ・マンザレクや、海軍将校の息子だったジム・モリソンは僕と同じ学校だった。モリソンは極端に静かで、内省的で、読書家で、特にニーチェの大ファンで、詩人だった。


ミリアス:彼は素晴らしい詩人だ。彼の歌を聴くと、いまだに素晴らしくて・・


コッポラ:僕が我々の企画をワーナーに承諾させ、サンフランシスコに行ったときはどうだった?


ミリアス:君が初めて企画を売り込んだ。我々みんな、映画制作の仕事がなければ、CM制作でネガの編集を続けるしかない状況で、君の案は全員に良かった。大勢の仲間が大スタジオに雇われる。そのときには僕はそこから抜けていた。僕はいうなれば補欠メンバー、君たちが道を開いた正規のメンバーだった。


コッポラ:僕は5、6歳年長だ、それは大きい。


ミリアス:君が僕に「1年間の生活費は?」僕は大胆に「1万5千ドル」君は「あげるよ」信じられなかった。


コッポラ:ジョージ(ルーカス)にも同様の金額か、何がしかの金を渡した。彼はそれを『THX1138』の制作にあてた。『地獄の黙示録』の脚本で、ジョージと共同でやったことは?執筆に関して、彼は介入した?君ひとりなのか?


ミリアス:彼は仕事があり、「がんばれ!」とか、「場面を少し話して」とか、彼は6ページくらい書くまで見てない。


コッポラ:僕もやってないけど、脚本家が6人いて、小さなスタジオだったから。脚本がノッてきたときの様子が知りたい。初期の脚本は盛りだくさんだった。ヘリの戦闘や、カーネッジ中佐とか、執筆作業を教えてくれ。カーツ大佐は、最初からカーツだった?


ミリアス:ああ、彼が「カーツ大佐は死んだ」という場面を入れたがった。


コッポラ:作業はどう展開した?


ミリアス:ある程度順序良く展開した。話が始まれば、川を遡ることは決まっていたから。


コッポラ:4人の乗組員をどうやって船に乗せた?


ミリアス:哨戒船だとわかっていたから、チーフが船の責任者で、クリーンは若いあの男、ブロンクス出身だかのロックンロールで踊り、シェフは僕のお気に入りだった。当時でさえ、理不尽な案・・ソーシエの修行をした男、ニューオリンズ出身で海兵隊に入ったが、食べ物がひどく我慢ができなかった。


コッポラ:ランスは実在のモデルが?


ミリアス:サーファーの人物を思いついた。(ランス役の俳優は)家族がサーファーだから、役を理解できたと思う。無邪気さを持ち続けてくれてね。


コッポラ:それらの登場人物と、哨戒艇、ウィラード、ウィラードは君のスターだね。


ミリアス:ウィラードはある意味、とても複雑な登場人物だ。彼は時代に先行していて、今は、彼についてたくさん書かれているが、当時は説明のない人物。攻撃的でないが、戦争で興奮した。戦争が彼のドラッグ。戦争好きで、他に行くところもやることを知らない。ウィラードには戦争のPTSDがあって、最初の場面では、目的も行き先もわからず連れて行かれれる、まるで、彼がそれを待っていたように。そして、彼は任務を与えられ、それで満足する。映画ができたとき、僕は寂しくなった。僕は君に電話で、「僕は任務が必要だ」君は「分かるよ」って。(コッポラにヘリコプターの場面でのワーグナーが素晴らしいと言われて)今や、ヘリコプターの急襲に、ワーグナーの音楽は欠かせない。2003年のイラク侵攻でも、ヘリコプターは、ワーグナーをかけた。


コッポラ:当時、これを指揮したカラヤンからも興奮したという電話があったよ。音楽の他の部分の使われ方について話したいと。あの手紙があったらね、すごく感応してた。脚本は君からだと言っておいたよ。


ミリアス:キルゴアは《キュクロプス》から思いついた。こっちはオデュッセウスで、キュクロプスに会うんだ。プレイボーイのバニーガールは《セイレーン》。通り抜けるにはキュクロプスを騙さないと。キュクロプスが騙されるのは、サーファーによってだ。そこでランスが出てくる。キルゴアはランスを勇気付けて、この川を上るといいサーフポイントがあるという。


コッポラ:「俺の利き足は左だ」が好きだ


ミリアス:ああ、キルゴアが、サーフィンに興味があるのは道理にあう。キルゴア登場の別の理由は、6日戦争の話になるが、アリエル・シャロンの記事を読んだんだ。彼は武装侵入で、アカバに侵攻したとき、武装侵入だ。この攻撃はアカバまで至った。戦車から降り、素潜りをして、アクバ特有の魚をモリでつき、焼いて、指揮官たちとそれを食べた。エジプトの戦車が後ろで火を吹いている、彼は「我々は敵を破壊するだけでなく、敵の魚まで食い尽くした」。そこから敵を全滅させ、敵地でサーフィンする案が生まれたんだ。


僕はカリフォルニアで、戦争が起きることを考えた。ある意味第二次大戦のようで、でも、映画の中で戦うのは、ブロンクス出身者や、ブルックリン、それか中西部で、地元出身者は戦わないんだ。当時の文化の中心はヒッピーのカリフォルニアで、全世界がビーチボーイズで、ドアーズで、すべてがカリフォルニアだった。だから戦争もカリフォルニアで起こる。冒頭でヘリと炎の映像が絶え間なく続く。ロケット弾の爆発で炎上して、でも人々の頭には、ピースマークが描かれているんだ。「平和は武器よりも強し」みたいなね。ヒッピーの音楽を聴いたり、カリフォルニアの文化と、古い歴史の衝突が起きるんだ。チンギス・ハーンに抵抗し、ベトナム、インドネシアはフランスに抵抗した。中国にもすべてに抵抗した。今は共産主義者の薄い皮をかぶっているが、奥底には東洋の神秘主義がある。すばらしく不可解な東洋の性質。それがカリフォルニアにやってきた。ロック音楽やドラッグや武器もある国に対抗する・・


コッポラ:君が書いたセリフで、君も人から聞いた話だそうだが、「爆弾で人を殺せと教えられるが、機体にファックと落書きをするのは許されない」


ミリアス:その数年後、僕は「砂漠の嵐作戦」時に、バーレーンの海兵隊空軍基地へ行った。航空機と海兵隊、彼らは戦いに勝っていたから。航空機は制空戦闘機、どれもぐれーで機体横に番号とかが書いてある。機体を見分ける方法は、書いてあるパイロットの名前だ。バード・なんとか、とか、英国人のところに行くと、裸の女性が助手席にいたり、色々と・・不道徳なことが・・英国人は厳格だったけど、アメリカ人は容認できなかったんだね。一方で人々を焼き殺したりしていたのにね。


コッポラ:君がどうやって脚本を作り上げたかを話そう。初稿を書き上げた。今それを書いている最中とする。「プレイボーイ」のバニーガールは?


ミリアス:ああ、我々は・・ただ理論的に、このショーのアイデアは、セクシーな女の子たちが連れてこられ、明日をも知れぬ命の多くの男の前に提示され、男たちにはなくすものはない。彼女たちを取らない方法はない。この手のことはたくさん起こったに違いない。これは聞いた話ではない。聞いたのは皆、国から来た女の子を見て、すごく幸せだった、見るだけで気持ちがよくなったということ。だが、欲望はあっただろう。彼女たちはセイレーンだから。彼らが触らない、初めのヴァージョンが好きだ。セイレーンに触れたら、岩になるからね。


コッポラ:初めのヴァージョンで編集で抜いた場面だが、でも君の脚本にあったよね?


ミリアス:ああ、最初のヴァージョンにね。あれがなくなってほっとした。(中略)これが映画制作のおもしろさ、映画が作られ、我々はすべてをやった。多くのことをやった。(中略)ジョージは、『アルジェの戦い』のような映画にしようとしていた。でも、彼はすでに『スターウォーズ』が始まっていて、『アメリカン・グラフティ』もあった・・・





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by yomodalite | 2016-02-14 17:44 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)
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④の続き・・・


前回、ルーカス監督が、ジョーゼフ・キャンベルの神話学から『スター・ウォーズ』を生み出したことを書きましたが、コッポラの映画には、神話学において、キャンベルの先達であるジェームズ・フレイザーの『金枝篇』と、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』が効果的に使われています。


エンディングを間近にして、この2冊が登場した意味を解説するために、騎士物語について、もう少し説明しますね。



◎アーサー王物語と、聖杯伝説


アーサー王は、ブリテン王である父が、魔法使いマーリンの助けで貴婦人と同衾して誕生したと言われ、若くしてブリテン王となったアーサーは宝剣エクスカリバーの力で諸国を統一すると、貴族の娘グィネビアと結婚し、これを甥のモドレッドにゆだねてローマ遠征の途につくが、留守中、モドレッドが反逆し、王位と妃を奪われてしまう。アーサーは遠征を中断して帰国し、モドレッドを討つが、自らも致命傷を受け、不思議な島アバロンに去った。


アーサー王の城(キャメロット)には、大勢の円卓騎士たちがいて、彼らによる建国物語や、武功と愛の物語、また、キリストが最後の晩餐に用い、十字架上のキリストが流した血を受けたとされる聖杯(Holy Grail)の行方を探求するのが騎士の使命であるという「聖杯探し」の要素も織り込まれ、これらすべて総称して「アーサー王伝説」と呼ばれている。


アーサー王物語はさまざまに発展し、円卓騎士たちの物語である、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の悲恋物語や、『ランスロット』などの騎士ロマンスだけでなく、キリスト教神秘思想を導入したクレチアン=ド=トロワの『ペルスバルまたは聖杯物語』や、ドイツの詩人ウォルフラム・フォン・エッシェンバハの『パルツィヴァール』などのように、騎士たちが、血を流す槍と、聖杯を発見すること。このふたつによってその国が栄えるという聖杯信仰をも生み出しました。



◎病める王と荒地(Wast Land)


騎士ペルスバル(パルツィヴァール)は、漁夫王(漁師の親方ではなく、王様の名前w)の城で、血の滴る槍と、光る聖杯について見聞きしたものの、心に抱いた質問を口に出すことはなかった。これが失敗の原因だったと後で知ったペルスバルは、聖杯探索の旅に出る。《漁夫王》(Fisher King)は、癒えない負傷を得たことから、不具の王、病める王とも呼ばれ、王が病むことで、王国も病み、肥沃な国土は《荒地》(Wast Land)へと変わってしまう。勇者である騎士たちは、王の病を癒すために《聖杯》を探しに行き、それを持ち帰ることで、王と王国を癒そうとします。


騎士物語にあるふたつの重要な要素は《戦い》と《探究》なのですが、騎士は、聖杯を探すだけでなく、《ある問いを正しく問う》ことも重要なんですね。


しかし、キリスト教国の現実においては、美しく彩られた騎士物語は、各地で残虐な殺し合いをする兵士や、海外の品々を奪い取って持ち帰る商人たちに、肉体も精神も知識も優れたもっとも素晴らしい民族という意識を与えることになり、自分たちが、その精神によって世界を支配する、ことに疑いをもつことなく、異文化の人々への野蛮な行為を助長する手助けにもなっていました。


そういったヨーロッパの裏面に触れ、通俗小説として描いた最初期のものが、『地獄の黙示録』の原作である『闇の奥』(Heart Of Darkness, 1902出版)であり、20世紀最大の詩人と言われるT.S.エリオットの長編詩『荒地』(Wast Land, 1922年出版)は、第一次大戦後、ヨーロッパそのものを《荒地》と表現し、その少しあとに書かれ、映画の中でカーツが朗読していた『空ろな人間』という詩は、『闇の奥』の登場人物、Mr. クルツが、死んだ。から始まるものでした。




◎『金枝篇』と『祭祀からロマンスへ』


そして、コンラッドの『闇の奥』と、T.S.エリオットの『荒地』に大きな影響を与えた研究書が、カーツの部屋にあった2冊の本、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(初版1890年)と、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』(1920年出版)です。



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『金枝篇』について、ターナーの描いた美しい絵だとか、金枝とはヤドリギのことで・・ネミの森がどうしたこうした・・なんていう説明をすればするほど、『地獄の黙示録』との関係がわからなくなるので、結論部分のみ、超あっさり風味で説明すると、


イエスが十字架に架けられた後、復活したという奇跡の物語は、世界各国の未開部族における生贄の儀式(祭祀)や神話と同じであり、人々は、常に、神(王)を殺すことで、その地を再生してきた。


ということ。これは、もっとも優れた民族で、未開部族を自分たちが啓蒙することで目覚めさせようという意識でいた、当時のキリスト教文化圏の人々にはショッキングな結論だったのですが、フレイザーの研究に多大な影響を受け、その祭祀についての見解は、聖杯ロマンスも同じであると結論づけたのが、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』で、ウェストンの結論をこれまた超訳すると、


王が病むことで、王国も病み、荒地(Wast Land)へと変わってしまう。それを癒すために、「聖杯」を探して、王と王国を建て直そうとするヨーロッパの基本となった騎士たちの物語は、病んだ王を殺すことで、国が病むことを防ぐ。新しく王となる者は、その聖なる力を受け継ぐために、王が自然死を遂げる前に殺さなくてはならない。そして、王を殺した者が、次の王となる。という、未開の村のシステムの中で、王を殺す勇気をもった若者と、それを望んだ人々の気持ちを癒すための儀式が基になっていた。


ということです。


こういったことは欧米の本を読む習慣のある知識レベルの人々にとっては、知っていて当然のことなんですが、これらは、カーツが単純に騎士道精神を信じていたわけでなく、彼がどれぐらい自己探求をしていたか、を示すための「小道具」であり、また、エンディングのウィラードの行動を予告するものにもなっています。



◎カーツとウィラードの狂気と嘘と欺瞞


カーツは、他者のために自分を捧げるという英雄に憧れていた。彼が38歳で空挺部隊を希望した理由には、キルゴアのシーンで見られたように、奇襲作戦しかない現代の騎兵隊に、自分なら戦闘の合理性や美しさをも指導できるという思いからだったのでしょう。しかし、彼の作戦は、上層部に独断的行為とのみ受けとめられ、戦争の中での「殺人罪」という理不尽な罪を負わされる。それは、現実社会が認める以上の、つまり、神話的な英雄レベルの苦悩で、地獄を知らぬ者に、何が必要かを、言葉で説いて分からせることは不可能だ」という彼の言葉には、それがよく表れています。ただ・・・


カーツは、ウィラードに「君のような人間が来ると思っていた」といったとき、


1)司令部の偽善的倫理を超えて正しいことをした自分を理解してくれる人間が現れて、自分の真実を息子に伝えてほしい。


2)村で、今や「病める王」となった自分を殺し、その若者に新たな王になって欲しい。


という、2つの希望をもっていた。


一方、ウィラードは、司令部の人間に、


この戦争ではいろいろな混乱が生じている。権力と理想、古い道徳観と現実の作戦行動、彼は現地人の間に入り、自ら神となる大きな誘惑に負けた。人間の心には戦いがある。合理と不合理、善と悪、善が勝つとは限らぬ。誰にも理性の限界がある。君にも、私にも。カーツは限界に達し、完全にイカレてしまった。彼の行動は良識による抑制を失い、人間の行ないとしていささかの容赦の余地もない。カーツの情報を集めながら、その行方を追い、発見次第、いかなる手段を使おうとも、「抹殺するのだ。私情を捨てて」


と言われ、戦場の英雄を「殺人罪」で処刑しようとする司令部に疑問をもったものの、命令を拒否することなく、カーツを追って旅にでる。しかし、カーツの経歴を辿っているうちに、彼が自分の損得からではなく、軍に復帰していることや、司令部が不健全だといったカーツの作戦が、的を得たものであったことがわかり、腐っているのは、司令部やさらに上の人々だと感じ、カーツへの共感が増す。


しかし、様々な困難を乗り越えて、カーツの王国に到着すると、


「君は考えるか? “真の自由”とは何か 他人の意見にとらわれぬ自由、自分からも解きはなれた自由とは何かを?」


と質問されても、ウィラードは命令だとしか答えられず、また、これまでカーツのことを考えてきたにも関わらず、なにも質問することができない。


カーツは、自分がたどり着いた地点を理解してくれる人間に、あとを継いで欲しいと思っている。でも、カーツが自分を殺す者を待っていたのは、本当に自分の王国の行く末を心配しているからだと言えるでしょうか? 


「息子よ、頼りが途絶えて、母さんも心配しているだろう。面倒なことになった。私は殺人罪に問われている。4名の二重スパイを処刑したからだ。我々は数ヶ月かけて証拠を固め、その証拠をもとに軍人として行動した。告発は不当だ。この戦いのさなかに、どう考えても正気の沙汰とは思えない。戦争には憐れみの必要な時がある。また冷酷で非常な行動が必要な時もある。だが多くの場合に重要なのは、なすべきことを冷静に見きわめて、沈着にためらわず、すみやかに、行動することだ。お前の判断で母さんに伝えてくれ。私は告発の件など気にしていない。私は彼らの偽善的倫理を超えたところにいる。ーー 私が信頼する息子へ。愛する父より」


カーツが息子に書いた手紙で、息子に「なすべきこと」だと言っているのは、軍人としての正しい行動を指していて、彼が軍服や、名誉勲章を大事にとってあったのも、自分のこれまでの戦いをまちがっていたとは思っていないことを示している。おそらく、非常に知的で、人格にも申し分のない軍人だったカーツに欠けていたのは《政治力》で、それは、戦争の意味や勝敗を常にわかりにくくする・・・


ナポレオンのしたことは、当時のフランスの栄光のためだった。しかし、ナポレオンが、ヨーロッパ全体にもたらした荒廃はひどいものであり、それは、ヒトラーにも同じことがいえる。カーツの判断が、軍人としての範疇にとどまるなら、それは、時と場所を越えれば、必ず矛盾をはらんだものになり、彼自身、ベトナムや、カンボジアの人々の方に理想の軍人を見るようになっていく。


そして、教義とか、政治信条だけでなく、選んだ職業倫理や、幼い頃から「こうしなくては・・」と思っていることが絡みあい、「絶対こうしなくてはならない」という結論を見出してしまうんですね。人というのは・・・


カーツは、自分を理解してくれる者を求めているが、その苦悩に魅せられ、自分に従おうとする者ばかりが増えていく。しかし、カーツは彼らを指導することに、もう未来を感じることができない。なぜなら、彼にはもう戦う目的がなくなっているから。彼が軍の理想を書きつらねた文章にあった「爆弾を投下してすべてを殲滅せよ」の文字には、その気持ちが表れている。カーツはこのジレンマを解消するために、《王殺し》を行う若者を待っていた。そして、自分を追ってきたウィラードに最後の期待をかけるものの、彼の答えは、カーツを満足させるものではなく、“ただの使い走りの小僧” だと失望する。


でも、ウィラードも実際のカーツを見て失望していた。彼は、なにかはわからないものの、カーツに期待していた。しかし、カーツがウィラードに言った言葉・・


「私を殺す権利はあるが、私を裁く権利はない。言葉では言えない。地獄を知らぬ者に、何が必要かを、言葉で説いて分からせることは不可能だ。・・・恐怖とそれに怯える心、両者を友とせねば一転して恐るべき敵となる。真に恐るべき敵だ・・・持つべき兵は、道義に聡く、だが同時に何の感情も感情も興奮もなく、原始的な殺人本能で人を殺せる男たちだ。理性的な判断を持たずに、理性的な判断が敗北を招く」


それは、司令部が自分に言ったことと同じ。ただ言い方を変えただけだった。


ウィラードはカーツの王国にたどり着き、その混乱した世界に言葉を失う。これまでの戦場と同じように死体があふれていただけでなく、もっと理解のできない不気味な世界は、ウィラードをこれまで以上の不安に陥れた。それで彼は、当初は疑問に思った司令部の命令を遂行することで、この旅を終わらせようとする。彼は、自分自身を探究して結論を出したのではなく、誰もが、そしてカーツ自身も望んでいるのだから・・と納得する。


つまり、ウィラードは、疑問を感じた、司令部にも、カーツにも《ある問いを正しく問う》ことをせずに、王殺しを行ってしまったのだ。カーツ殺しは、ウィラードの原始的本能を目覚めさせ、殺人は古代の儀式のように行われる。でも、彼は、その儀式に込められた《破壊と再生》を信じていないし、それは、神話に似せただけの行動で、そこには「光」がない。



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カーツの最後の言葉は、「horror horror(地獄だ、地獄の恐怖だ)」


殺されることを待っていたカーツには、死への恐怖はなかったはず。いざ、死が目の前に迫ってみると急に怖くなった、というのとも違うでしょう。「horror horror」は、カーツ自身が「恐ろしい」と感じたのではなく、人が生きることや、行動原理は、恐怖に基づいていて、人生はホラーに等しい、という意味ではないでしょうか。


そして、結局ウィラードが、カーツ殺しを決めたのも「恐怖」からだった。ふたりは、自ら戦場に魅せられて行ったはずなのに・・



◎「解読『地獄の黙示録』」との解釈の違い


4年ほど前に、立花氏の本を読んだとき、わたしはまだ、聖書も、『闇の奥』も『金枝篇』も『祭祀からロマンスへ』も、エリオットのことも、『地獄の黙示録』との関連がわかるほど理解していなかったのですが、数年かけて、これらの本を読み、ようやく少しはわかるようになったと思い、それで、この⑧を書く前に、あらためて、立花氏の本を読んでみたところ、氏が言っていることは、たしかに「知ったかぶり」ではないことがわかり(何様ww)、何度も「誤訳」を強調する割には、全然正解訳を書かないとか、その他いろいろ卑怯wだと感じる点は以前と変わらずあったものの、意外にも自分が理解したことと一致している点も多くて、驚いたり、がっかりしたりしたんですがw、エンディング部分の解釈で、どうしても納得できないという箇所が・・(嬉w)


・・・チャールズ・マンソンの大量殺人とカーツ王国のどちらも、weird という言葉で、シェフは表現するが、カーツが原始的本能を使って、シェフの首を斬り、その生首をウィラードのひざの上に投げ出す場面の、あのカーツの顔と、決意の場のウィラードの顔がいかに質的にちがうか、説明の必要はあるまい、ウィラードは、最後まで人間としての正気を保ってカーツを殺したのである。(p114)
カーツ殺しを果たして、寺院の前に出てきたウィラードは、民衆から、新しい王として迎えられる。カーツの子供たちは、いまやウィラードの子供たちになったのだ。・・彼は何を迷ったのか。彼もまた、自分が神になれる可能性を前にして、その誘惑に動かされたのだ。しかし、騎士に与えられた最後の試練もまたウィラードは切り抜ける。彼は無言で武器を投げ出し、即位したばかりの王位から退く。・・つまりコッポラは『荒地』を下敷きとしながら、これもまた根本的なところで換骨奪胎してしまったわけだ。彼にとっては「荒地」はカーツの世界なのである。(115 -116)


ウィラードが人間として正気? 騎士として正しい行動をとった?


人間の顔はいかなるものより多くのことを表現するという。あのウィラードの顔にこめられたものが、コッポラの観客への最大のメッセージなのである。そして、それが「荒地」への雨をもたらしたというのが、彼の寓話である。(p118)


私も、この映画は『闇の奥』よりも、構造的にエリオットの『荒地』に似ている部分が多いように感じますし、黒澤明をこよなく尊敬するコッポラが、雨のシーンに思い入れがあるのも間違いないと思います。そして、殺しに向かうウィラードが決意を固めた戦士の顔であったことも間違いないでしょう。でも、殺しを終えて、船に戻ってきたウィラードの顔に、光があったでしょうか? 上記に書いたように、私は、ウィラードは、「ある問いをきちんと問わなかった」ことで、騎士として失敗していると思います。エンディングで、オープニングと同じドアーズの「THE END」が流れ、ウィラードは翌朝、オープニングとまったく同じように目覚め、これからも覚めない悪夢を繰り返す姿が見えないでしょうか。そこには、終わりのない地獄しかない。


彼は命令を果たし終わったことで、また《空ろな人間》になってしまった。そして、雄々しく刀を振るった彼に、司令部からの通信が響く「こちらオールマイティ、哨戒艇ストリート・ギャング、応答せよ」



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カーツを神となる誘惑に負けた狂人だという司令部は、自らを「全能(オールマイティ)」だと言ってはばからず、地獄の底まで旅をしたウィラードは「チンピラ(ストリート・ギャング)のまま。もう一度繰り返される、カーツの最後の言葉「horror horror」は、ここでは、ウィラードの言葉のように聞こえる・・「彼の物語は、俺の物語、彼の物語が懺悔録なら、俺のも同じだ」。冒頭の、事を成し遂げたあとの独白でも、ウィラードはそう言っていた。



立花氏は、この雨の意味をさらにこう解釈している。


ラストシーンで、カーツを殺したウィラードは、群衆の中にわけいり、原住民の中にいたランスの手をつかんで、引き出し、いっしょにパトロールボートに乗る。そのとき雨が降ってくる。ランスは雨に顔をぬらして喜ぶ。・・このシーンは病める漁夫王が癒されて、「荒地に雨が降り、世界が救済される」という神話のシンボリックな表現である。ここで、「L.B.ジョンソン」の名前が意味を持ってくる。L.B.ジョンソンこそ病める王だったのである。L.B.ジョンソンが戦争の狂気から抜け出したときに、世界は救済され、雨が降ったのである。

病める漁夫王が癒され、荒地に雨が降り、世界が救済される。というのが、神話のシンボリックな表現なのはわかるつもりですが、このシーンがそうだと言うなら、何が救済されたと、立花氏は言っているのか?

このあと、1965年にベトナム戦争が本格化し・・・1968年にジョンソン大統領が北爆を停止し、北ベトナムに和平交渉を開始することを提案するとともに、次期大統領に出馬しないことを言明した。実際にはそのあともベトナム戦争は続き、次期大統領のニクソンもベトナム和平を公約したにも関わらず、すぐには終結させず、その後4年にわたって、北爆再開、ラオス、カンボジア進行など悪あがきを続け、死傷者が30万人を超え、国内の反戦運動が百万人単位の人を集めるようになり、ソンミ虐殺事件の報道、ペンタゴン秘密文書のスッパ抜きなどで、戦争支持者は激減し、財務破綻の末、ついに73年、和平協定に調印した。


という上記の文章は「L.B.ジョンソンが戦争の狂気から抜け出したときに、雨が降ったのである」のすぐあとの文章なんですけど、、で、何が救済されたんですか??? カーツの王国が「荒地」だったら、カーツが病める王で、漁夫王でしょう? 



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(雨はランスの血で汚れた顔をぬぐっただけ・・・)



この雨は、コッポラが映画の結末に悩み抜き、最後まで、島の爆破計画も捨てきれない中、なんとかエンディングを撮り終えた自分に降らせた雨ではないでしょうか。そこには、牛殺しの儀式の血や(これは村人の実際の儀式)、現実の戦争の傷を、洗い流したい、コッポラの気持ちが込められていたのかも・・・



◎コッポラの主題は・・・


脚本家のジョン・ミリアスが、これを書いたとき、コッポラは自分が監督をやるとは思っていなかったのに、監督と、出資者になり、本当に最後の最後まで、エンディングを決められなかっただけでなく、さまざまな部分に、大勢の人の意見が取り入れられているようなのですが、エンディングに、大きな影響を与えた『金枝篇』と、『祭祀からロマンスへ』は、カーツを演じたマーロン・ブランドと同じように、あとから現場に来た、デニス・ホッパーのアイデアで、急遽盛り込まれたものなんですね。

私の解釈は、最初からこの2冊の本ありきなので、エンディングからオープニングを遡って解釈するなら、整合性がとれていると思いますが、実際の現場では、最後までどうなるかわからないことだらけで、計画的ではなかった部分がたくさんあったようです。コッポラのコメントは全体的に、これは奇跡的に完成した映画であって、名作となった箇所のほとんどが、自分のディレクションではない、と言っているようにも感じられるのですが、その中でも、監督自身の気持ちが伝わる部分をDVDの監督コメンタリーから抜粋すると、


撮影中、何度も『闇の奥』を読み返し、この映画が戦争映画ではないことに気づいた。主題は道徳観だ、と。我々は嘘をつき、それが潤滑油となり、さらにひどいことが起こる。真実を言えば、いくらかの行動が不可能になる。すべてが機械化され、テクノロジーは広がり、嘘は極端に異様で、破壊的なものを生み、そして同時に美が備わる。・・・戦って守るというのは、『ゴッドファーザー』と同じ主題だ。マイケル(コルレオーネ家の三男)がやったことは、彼の家族を保つためだが、そのために家族は抹消される。

殺人と破壊と森林除去のために、金と努力と近代的な資源をたくさん使い、同時に安易に道徳観念を論じられるのか。少し考えるだけでも頭痛がする。これが『地獄の黙示録』の主題で、これを反戦映画だと考えたことはない。



◎原作『闇の奥』との違い


『地獄の黙示録』の意味がよくわからない、という理由で、原作『闇の奥』を読んでみたという人は多いと思いますが、それで、『地獄の黙示録』がわかったという人は少ないと思います。『闇の奥』は、植民地コンゴが舞台。そこは戦場ではなく、象牙や黒人が堂々と売られている世界で、クルツ(映画ではカーツですが)も軍人ではなく商人で、また、クルツは、カーツのように殺されたわけではありません。文学作品を原作とした映画の場合、その魅力のほんの断片の映像化であったり、原作よりも単純化されたものになっていることがほとんどなのですが、この映画に関しては、『闇の奥」は原作というには、話が違いすぎ、映画はかなりの「翻案」がされています。


特に、映画のカーツを、原作のクルツから探ろうとするのはお勧めできませんし、原作の語り手であるマーロウと、映画のウィラードの人物造形もかなり異なっています。曖昧なところは、原作も曖昧で、映画では、俳優、スタッフ、大勢のすばらしい映画製作者たちが、それぞれ肉付けしたことで、『闇の奥』にはまったくない別のテーマが、『地獄の黙示録』にはあると思います。



◎まとめ・・・


歴史は勝者が作る、と言いますが、歴史の最初から一貫して勝利している者などひとりもいませんし、王者は常に移り変わっています。だから、歴史は「王たちの物語」とは言えるのかもしれません。一握りの王たちが勝ったり、負けたりしていることが記述されている。では、王ではない、私たちは、その歴史にただ翻弄されてきただけなんでしょうか? 


この映画のフォトジャーナリストのように、状況を解説し、判断し、先導する人間がいて、私たちは、ヒトラーを熱狂的に支持し、ドイツが負けると、彼を葬ったように、日本でもなんども同じことが起きています。私たちは、王に力が無くなったと感じると、それを殺す側に参加する。


コッポラがベトナム戦争を描いた映画で、ウィラードを主役にしながら、彼だけでなく、どんな英雄も登場させなかったことで、この映画は、戦争の原因や責任を問う映画ではなく、「わたしたち」の映画になったのだと思います。カーツも、ウィラードも、嘘と欺瞞を憎んでいた。それなのに、


我々はみんな嘘をつき、それが潤滑油となり、さらにひどいことが起こる・・・



さて・・


マイケルの最初のショートフィルムと言える『ビリー・ジーン』も、最後の『ユー・ロック・マイ・ワールド』にも、マーロン・ブランドが強く影響していました。


「ホラー、ホラー」で終わった《王殺し》の映画は、《スリラー》で《王》になり、《スリテンド》でアルバム創りを終えたマイケルと、どう繋がっているのか、いないのか?


次回から、ようやく「ティーザー」の解読します!

HIStoryと黙示録:マイケルと神話 ①







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by yomodalite | 2016-02-09 14:12 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(6)

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③の続き・・・

聖書と黙示録、政治と歴史との関連に引き続き、今回は、マイケルの『HIStory』にもっとも影響がありそうな《神話や騎士道物語》との関連について。



◎Godがいる国の神話


まず、《神話》という言葉のイメージは、私たちと、Godがいる国では大きな違いがあります。


私たちが、神話の世界を想像するとき、そこには、原始のままの美しい森や、透き通るような川が流れていて、巫女のお告げを人々が聞き、作物の豊穣を神に祈っているような世界を思い浮かべ、自然を見ると、それをそのまま「神の恵み」だと感じるでしょう。


でも、Godがいる国の自然への感覚はそうではなく、神話学で有名なジョーゼフ・キャンベルは、「聖書の伝統は、社会的な方向をもった神話体系で、自然は悪しきものとして呪われている」と語っています。

「自然を悪と見なしたとき、人は自然と調和を保つことができず、自然を支配する、あるいは支配しようと試みる。おかげで緊張と不安が生まれる・・・聖書の中では、永遠は退き、自然は堕落しきっている。聖書の思考に従えば、私たちは異境で流刑生活を送っている・・・ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典の伝統はすべて、いわゆる自然宗教を非難しながら、自己を語っている。・・・「創世記」にも書いてあります。われわれ人間が世界の支配者にならなければならない」



◎神話の主題と、英雄物語の基本


黙示録の《神の国》の創造が、こういった考えから生まれたものだということがよくわかると思うのですが、《神話》の主題も、この堕落した自然に《光》を取り戻す、ということになるわけです。


これが「聖杯伝説」や「アーサー王と円卓の騎士」と呼ばれる《神話》の基本で、こういった神話から、戦いに勝った国の王が《英雄》であるだけでなく、カトリックでは《聖人》にもなっています。ただ、誰も聖書が読めない時代は、聖書の内容とは関係のない物語で、人々を惹きつけていても大丈夫だったのですが、プロテスタントになると、事実と明らかに違うことは、聖書から除外するようになり、天使も聖人も新約聖書からはいなくなっていく一方で、騎士物語はますます盛んになり、中世の騎士に由来した「ナイト(騎士)」という称号が、現在のイギリスの叙勲制度にあるように、素晴らしい騎士というものが、最高の人物・人格である、というヨーロッパの伝統も出来たのですが、


キャンベルは、英雄伝説の基本構造は大きくは3つに分類され、


①英雄が、日常世界から危険を冒して、超自然的な領域に出掛け(セパレーション:分離・旅立ち)、②そこで超人的な力に遭遇し、未知の経験や、これまでの自分の殻を脱ぎ捨てるなどの転生を経て、最終的に決定的な勝利を収める(イニシエーション:通過儀礼)。③そして、英雄は、彼に従う者たちにも恩恵を授ける力をえて、この不思議な冒険から帰還する(リターン:帰還)。


これをもう少し細かく分析すると、


・Calling(天命)
・Commitment(旅の始まり)
・Threshold(境界線)
・Guardians(メンター)
・Demon(悪魔)
・Transformation(変容)
・Complete the task(課題完了)
・Return home(故郷へ帰る)


となり、西欧の騎士物語も、東洋のブッダの物語も、このパターンであるとキャンベルは言っています。


大学でキャンベルの授業に影響を受けたジョージ・ルーカスが、この基本構造を『スター・ウォーズ』三部作に適用して大成功を収めた話はよく知られていますが、その『スター・ウォーズ』第1作が公開になった1977年の2年後に公開された『地獄の黙示録』は、元々『闇の奥』を原作にしてベトナム戦争を描くという、ルーカスの企画が、コッポラに譲られて発展したもので、現代の英雄としての「騎士物語」を目指した『スターウォーズ』と『地獄の黙示録』は、裏表の関係にある映画ともいえるんですね。



◎登場人物の名前(ファーストネーム)


欧米では、子供を聖書から命名することが多いですよね。カトリックには、聖人と呼ばれる人が大勢いますが、例えば、最近「聖人」になったマザー・テレサは、元々は、アグネス・ゴンジャ・ボヤジュという名前で、アグネスは、聖アグネスという聖人から名づけられていて、修道女になったときに、リジューのテレサと呼ばれる聖人の名を、修道名にしたのだそうです。


でも、修道女や、アッシジのフランチェスコのように、実際に宗教的な奉仕活動をおこなった「聖人」だけでなく、伝説上で活躍した聖人も大勢いて、男子に人気の名前は、「騎士道物語」の登場人物の名前も多いんですね。


映画の中でその名前が呼ばれることはありませんが、『地獄の黙示録』の登場人物には、ミドルネームもきちんとつけられていて、その名前を見ていると、コッポラが黙示録だけでなく、神話や騎士道物語を意識していたことが見えてきます。


ウォルター・E・カーツ大佐 Walter E. Kurtz

ウォルターの名は、古ドイツ語で「支配する」ことを意味するwaltanと「軍隊、部隊」を意味するheriの合成により生まれたものであるとされる。ちなみに、原作の『闇の奥』で、クルツ(Kurtz)と呼ばれる人物は、そのドイツ系の苗字しか明示されていらず、母親が半分イギリス人で、父親は半分フランス人、イギリスで教育を受け、ヨーロッパ全体がクルツという人物を作り上げるのに貢献したような・・とされる人物。


ビル・キルゴア中佐 William "Bill" Kilgore

ウィリアム(ビルはウィリアムの愛称)の名は、ゲルマン的要素を持つ古フランス語の名に由来し、Williamは、念願や意志を意味する"Will"(「Triumph of the Will」の "ウィル" ですね!)と、ヘルメットや防護を意味する"helm"があわさった名前とされる。


ベンジャミン・L・ウィラード大尉 Benjamin L. Willard

ベンジャミンの名は、ヘブライ語で[son of the right hand=最も頼りになる助力者の息子]という意味。ベニヤミンを由来とする。米・英に多い。そして、 彼の役職は「U.S. Army Special Operations Officer」!(→マイケルもSpecial Officer だったよね!)


ちなみに、司令部の場面に登場して、カーツの情報を説明するハリソン・フォードはルーカス大佐」なんですが、これまでに、何度も指摘している《逆》パターンが、わかりやすい例としては、


ジョージ・フィリップス(“チーフ”)George Phillips

ジョージの名は、ドラゴン退治の伝説で有名なキリスト教の聖人ゲオルギウスに由来。槍で致命傷を与えたのち、アスカロンでトドメをさした。感謝した町の人々はキリスト教に改教したという神話があるのですが、“チーフ”は「槍」に射抜かれて亡くなります。



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ランス・B・ジョンソン・Lance B. Johnson

ランス(英: lance)は、中世から近代まで主にヨーロッパの騎兵に用いられた「槍」の一種。また、ランスロット(Lancelot)は、アーサー王物語等に登場する伝説の人物で、槍、剣術、乗馬のどれも彼の右に出るものはいない、最強の円卓の騎士と言われているのですが、元サーファーのランスは、もっとも軍人らしくない人物。



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(槍が刺さっているように自分で細工している)




◎ランス・B・ジョンソンとは・・


この映画のランスは、L.B.ジョンソンであり、円卓の騎士ランスロットでもあり、そして、さらに、サーファーのカリスマとしての彼は、このベトナム戦争をテーマにした映画の中で、聖書や、円卓の騎士という古い神話ではなく、当時は「ニューエイジ」と呼ばれていた新しい精神主義の波である、スピリチュアリズムに惹かれる若者という役どころも担っています。


この時代、サーフィンと哲学や精神世界を結びつける文化が流行っていて、60年代にハーバード大学の教授だったティモシー・リアリーは、LSDなどの幻覚剤による人格変容の研究を行うだけでなく、東洋の導師とも関係を深め、ニューエイジ文化の一翼を担っていたのですが、彼は、サーフィンの素晴らしさについて、「一回のライドで何回も生と死といった究極の人生を体験できる」とか、サーファーとは人類全般の進む方向を探るため、皆よりも列の先頭へ出され、道なき道をあゆまされているのだ」というような言葉で、若者のサーフィン文化を盛り上げていたんですね。


ニューエイジ文化は、科学の発展にともに信じることが難しくなり、また魅力的には見えなくなった大人たちの宗教よりも未来を感じさせ、残酷な歴史に由来しない輝かしいものとして、東洋など、異国の思想も大いに取り入れられたのですが、徐々に、プロテスタントが捨てたカトリック的な要素を、別の包み紙にくるんで再提出したような内容が多くなり、天国や地獄も、最後の審判も、昇天や、復活といったことも、新たな名前に言い換えて、隠喩としてではなく、現実に起こることとして信じようとする(そのため物理学用語なども使う)。


それで、結局、自分では何も考えず、教義を信じていれば、正義と救済が手に入るという「宗教」と同じものになり、他者の受け入れも、その教義を信じる仲間に限られる、というところまでまったく同じ歩みを辿ることになる。


「ソウル・・・」とか、「・・・ソウル」とか、仲間や恋人を求める人には、近づきやすく、宗教のもつ怖さとは無縁のように感じられ、なぜか、古代の神話が大好きで、ファンタスティックなもののように語る人が多いのですが、生きるということは、他の生き物から命を奪うことだという、ことを実感できない現代の若者が、古代の人々が神に求めてきたものを、どうやって誤解せずに理解できるんでしょう。


この映画の中でも、ランスは自分が撒き散らしたスモークによって、敵に発見され、そのときの攻撃で “クール” が死んでしまっても、自分の犬のことの方を気にしていたり、常に自己中なんですが、神話上では、聖ゲオルギウスとしてドラゴン退治の仲間だった “チーフ”の水葬のときだけ、パブテスマのヨハネになったかのように、なぜか、洗礼の真似事だけは上手い(笑)。



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(とても美しい「前世ごっこ」のシーン)




⑥の「ふたりのL.B.ジョンソン」で、ジョンソン大統領もランスも、共に、ジョンソン(ヨハネの息子)という名前が重要だと言ったのは、《ヨハネの啓示をそのまま継承していく者》だという意味だったのですが、


ランスが、ただアシッドにふけっているだけの自己中のニューエイジではなく、

「ヨハネの息子」だ、という証拠写真はこちら(笑)



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出ました!「神の国」Gods Country



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未来を輝かせるのは「神の国」ではなく、

君の心の中にある「愛」で、

それはどんな教義を信じることでもなく、

日々懸命に生きることで少しづつ大きくしていくものなのにぃ・・

(→ HEAL THE world)





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(クールや、チーフが亡くなるシーンより少し前の場面)



船のオイルタンクらしき場所には、CANNED HEATと書かれていて、これは、「Sterno」というブランドの物が有名な「携帯燃料」のことを指したり、そこから「アルコール中毒」という意味にもなっていたり、爆発しそうな位の熱い気持ち、といった意味もあるようですが、船の燃料が入っている場所に書かれているのは、、、なんか「変w」ですね。


上の写真では見えづらいですが、船体には、EREBUS(エレボス)という文字も見えます。エレボスはギリシャ神話に登場する神の名で、原初の幽冥を神格化したもので、「地下世界」を意味しています。


さて、ルーカスが、キャンベルの本から、『スターウォーズ』を創ったように、コッポラにも、この映画を創るうえで、啓示をうけた本がありました。そして、カーツとはいったい何者だったのか、ウィラードはなぜ、カーツを殺したのか? 


次回、ようやく『地獄の黙示録』の最終回!





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by yomodalite | 2016-02-02 21:47 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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②の続き・・・

たった、数分足らずのショートフィルムを解読するのに、なんでこんなに一杯読まないといけないの?とお思いの方も大勢いらっしゃると思うんですけど、ただ、こういったことは、マイケルが意識していたに違いないことではあるものの、わたしたちにとっては前提となる知識も意識もないことなので、説明しようと思うと、どんなに短くしようとしても、これぐらいになってしまって・・・(大泣)。


それでも、同じ資料を、ただただ「頭がいいフリ」とか「わかったフリ」をするためだけに使用してきた数多のものよりは、よっぽどわかりやすくマシなものになっているという自負もあるのですが、そんな私の伸びた鼻をへし折ってくれる人もマジで感謝しますので遠慮なく!


では、今回は、歴史・政治との関連と、

あらゆる場面で成立しない「父と息子の関係」や「お笑い」もちょっぴり・・・



◎リンカーンの言う “心の天使”


ウィラードが、カーツ殺しを請け負ったときに司令部から言われた言葉、


この戦争ではいろいろな混乱が生じている。権力と理想、古い道徳観と現実の作戦行動、現地人の間に入り、自ら神となるのは、大きな誘惑に違いない。人間の心には戦いがある。合理と不合理、善と悪、善が勝つとは限らぬ。時には、悪が勝って、リンカーンの言う “心の天使” を打ち負かす。誰にも理性の限界がある。君にも、私にも。カーツは限界に達し、完全にイカレてしまった。彼の行動は良識による抑制を失い、人間の行ないとしていささかの容赦の余地もない。その彼が軍の指揮を取っている」


この、リンカーンの言う “心の天使”というのは、彼の最初の就任演説の最後の方で述べられた、


I am loathe to close. We are not enemies, but friends. We must not be enemies. Though passion may have strained, it must not break our bonds of affection. The mystic chords of memory, stretching from every battlefield and patriot grave to every living heart and hearthstone all over this broad land, will yet swell the chorus of the Union when again touched, as surely they will be, by the better angels of our nature.


私は演説を終えるのが残念です。われわれは敵同士ではなく、味方なのです。われわれは敵同士になるべきではありません。感情が高ぶっても、われわれの親愛のきずなを切るべきではないのです。思い出の神秘的な弦が、全ての戦場や愛国者の墓から、この広大な国の全ての生けるものの心と家庭へとのびていて、再び奏でられるとき、統一の音を高らかにならすことだろう。その音は確かに、われわれの本来の姿であるよい天使によって鳴り響くことだろう。


のことで、黒人奴隷の解放をめぐって争われた南北戦争後、南部が連邦から脱退できないことを述べたあと、彼らへのアピールとして語られた言葉のようです。


で、このあと、司令部を出たウィラードは、戦場でテンガロン・ハットをかぶり、未だに南北戦争を戦っているかのような、カリカチュアされた南部・テキサス人、将軍キルゴアに出会います(キルゴアはテキサスにある地名)。



◎ここは笑っていい


深刻な戦争を描いている映画でありながら、また、色々と《逆》になっている部分や、パロディでもあると言ってしまいましたが、そう言ってしまうと誤解されそうな部分も・・・


キルゴア登場シーンは、「笑いどころ」が多くあるものの、実は「真実」という場面もあります。


まず、島に到着したとき、「カメラを見ないで先へ進め。テレビだ!カメラを見ずに戦っているフリをしろ!」というカメラクルーが登場しますが、ベトナム戦争は初めてテレビカメラが入った戦争で、人々に「反戦」意識が高まったのもそれが原因だったと言われています。ですから、これは実際の話。


でも、典型的なテキサス人のキルゴアがサーフィンをやってるわけがないw。


これは《逆》になっているという例なんですが、キルゴアが遺体にトランプを配っているのは、死者数を数えたり、恐怖を与えるために、実際に使われた方法で、これは真実です。また、戦闘中に、牧師が祈っていたり、その祈りの言葉も真実で、爆撃したあとに、「我々は暖かい庇護の手を差し伸べる」というアナウンスなども、本当にバカバカしいのですが、こういったことは、すべての戦争で行われていることで、この映画で何度も繰り返し表現されている、攻撃しておいて、助けようとする。という偽善行為で・・・一番笑えないところです。


そして、爆撃を終えて、「DEATH FROM ABOVE」と書かれたヘリコプターから、キルゴアが降りると、テンガロンハットの正面についている「騎兵隊」のマークが、それまでの倍ほどデッカくなっているw(これに似たギャグ、マイケルもやってたよね)。



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(befor)


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(after)



また、本来、いかにも軍人らしいキルゴアのような人物は、戦場がどういうところかわかっていないサーファーのランスを、軍人として鍛えることが役目であり、その厳しさが、若者が成長するための《通過儀礼》になるというのが、『愛と青春の旅立ち』などでも、おなじみの構図なんですが、キルゴアは、戦場では、まったく役に立たないサーフィンのカリスマを尊敬するような態度で接し、戦場における《父と息子》の関係は築かれることなく、ランスの成長も阻害されています。



物資運搬船の乗員を虐殺する


船の中では、もっとも冷静沈着にみえた “チーフ” は、航海中に船を発見し、物資を運搬している船は調べなくてはならない、というもっともな理由から検問するのですが、武器を隠しているかもしれないという疑惑は、軍人として未熟な若者 “クリーン” を興奮させ、銃の乱射を招いてしまう。


このシーンは、ベトナム反戦運動のシンボルにもなった「ソンミ村虐殺事件」から発想したと、コッポラは述べていますが、私たちの国で問題になっている南京虐殺にも似ている点があるように思えますし、この映画よりもずっと後に起きた、イラクに大量破壊兵器があると信じたことから始まったイラク戦争のことも思い出されますね。


そして、ここでも、同じ黒人である “チーフ” と “クリーン” に築かれるはずの《父と息子》の関係が壊れていて、父である “チーフ” は、軍人としての経験と判断から行動を起こしたことで、息子 “クリーン”の致命的な行動を招いてしまう。



◎ふたりのL.B.ジョンソン


この映画にはふたりのL.B.ジョンソンが登場します。そのひとりが、サーファーのランス・B・ジョンソンで、もうひとりが、ベトナム戦争時のアメリカ大統領リンドン・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson


この、ふたりのL.B.ジョンソンについては、地獄の黙示録のレヴューとして評価の高い、立花隆氏の『解読 地獄の黙示録』でも指摘されていて、


「L.B.ジョンソンと聞けば、誰でもすぐに、あの大統領を連想する。(…)カーツ大佐のドキュメントの中に、二人が肩を並べて撮った写真が出てくるし、ベトナム戦争の将来展望に関する参謀本部宛の特別報告書がジョンソン大統領にも提出されていたこと、また、カーツがウィラードに読んで聞かせるタイム誌の記事にも(特別編集版)、ジョンソン大統領の名前が出てきて、ベトナム戦争がジョンソン大統領の戦争であったことを、いやでも思い出すように仕向けられている。」


と、ここまでは完全に納得。ただ、このあとの記述、


ランスとジョンソン大統領を重ねることで、ラストシーンの意味的含みが現実のベトナム戦争と重なってくる。カーツを殺したウィラードが群衆の中にわけいり、ランスの手をつかんで、一緒にボートに乗る。そのとき雨が降ってくる。ランスは雨に顔を濡らして喜ぶ。このシーンは、病める漁夫王が癒されて、「荒地に雨が降り、世界が救済される」というシンボリックな表現である。ここで、「L.B.ジョンソン」の名前が意味を持ってくる。L.B.ジョンソンこそが病める王だったのである。


については「???」で、これについては、最後の「神話」との関連で説明する予定ですが、私は、コッポラは、ランスとジョンソン大統領を、ある意味において《類似形》として描いているのではないかと思います。


リンドン・ジョンソンの経歴は、


保守的な南部テキサス州(キルゴアと同じ)から、戦争で戦うことを公約して、南部では支持者の少ない民主党の上院議員になり、その後、実際に戦争に行って、名誉勲章を受章するほど活躍する。ケネディ政権では副大統領になり、ケネディが暗殺されたことで、大統領の座につき、次の選挙でも大勝するものの、ベトナム戦争への判断ミスによって、政治生命を断たれ、また、ケネディ暗殺の首謀者だという根深い疑惑ももたれた。


というようなものなのですが、これらは、一貫したイデオロギーがなく、その場その場で上手く世の中を渡ってきたようにも見え、戦地と政界というふたつの厳しい戦場で成功をおさめ、生き残った人物であるともいえます。


そして、またランスも、サーフィンのカリスマとしては、誰もが一目置くような人物だったものの、軍人としてはまったくの素人。にも関わらず、結局、戦場の波をも乗り切って、最期まで生き残る。


カーツは、自分のことだけではなく、他人のために生きること決断し、そのためには、現在の価値観を破壊することも厭わない「英雄」の道を目指した人間ですが、リンドン・ジョンソンや、ランスは、既存の価値観の中で自分の目標を見つけ、そこのみに邁進する。だから、世界を変えることはできないし、その意思は元々ない。


また、ふたりのL.B.ジョンソンが、共に、ジョンソン(ヨハネの息子)という名前だという点も重要なのではないかと思いますが、それについても後述。



◎カーツとリンドン・ジョンソン


カーツに関する最初のレポートで、マーロン・ブランドが、ドイツ軍の青年将校を演じている『若き獅子たち』の写真が使われていたり、サーフィンをしているランスが「サヨナラ!」というのも、ブランドが演じた映画のタイトルだという「遊び」のあと、


「輝かしすぎる、いや、完璧だ。軍の最高幹部となるべき男だった。大将にでも、参謀長にでも・・・しかし、ベトナムがつまづきとなる。ジョンソン大統領宛の報告書は握りつぶされた。問題があったのだ。続く数ヶ月空挺部隊を訓練課程を3回も志願して、やっと受理された。空挺部隊?38歳にもなって? そして、特殊部隊に加わって、ベトナムに戻る」


というカーツの経歴は、ジョンソンが、自身の上院選挙の運動時に、もし戦争が始まったら、戦地に赴き敵と戦うという公約を掲げ、実際に、第二次世界大戦に海軍少佐として従軍し、輝かしい叙勲を受けたという経歴にそっくりで、しかも、副大統領時代、ケネディ大統領に送った、「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」という予想が大きく外れ、悪化する一方の戦争の責任から政治生命を断たれた。という経歴と対比するものですが、


カーツは名誉勲章を受章して除隊した後、出世には、何の見返りも期待できないうえに、厳しい訓練を必要とするグリーンベレーに自ら希望して入り、実際の軍事行動として、適切な作戦を実行したにも関わらず、軍部に逆らったとして処罰されようとしている。つまり、カーツは、ジョンソン大統領と、ある地点から《逆》コースを行く人物として、造形されているんですね。



◎カーツとダグラス・マッカーサー


上記で、L.B.ジョンソンと対比したカーツですが、軍人として一旦退いたあと、再び、軍に復帰して、カンボジアに行ったという、カーツの人物造型に、アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例は無かった。と評されるほど、日本を占領したダグラス・マッカーサーを感じた人も多いでしょう。


ウィラードが、カーツの資料を読みながら、「陸軍士官学校を首席で卒業、朝鮮戦線、空挺部隊、叙勲の回数多々、見事な経歴だ。」という字幕の背景にある資料映像には、ハーバード大学で歴史を専攻し、その修士論文は、「Phillipines Insurrection: American Foreign Policy in Southeast Asia, 1898-1905(フィリピンの反乱:東南アジアのアメリカの外交政策1898-1905)」とあるのですが、



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マッカーサーが、ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校を首席で卒業し、フィリピンに陸軍少尉として派遣されたのは、1903年。このときが、マッカーサーとフィリピンとの長い関係の始まりなのですが、彼がフィリピンにこだわった理由には、マッカーサーの父親が、フィリピン総督だったという歴史があり、カーツが学んだ「フィリピンの歴史」も、マッカーサーの父親の外交政策といえるのかもしれません。また別の資料で、カーツの母親らしき女性が大きく写っているのも、マッカーサーのマザコンエピソードを思わせますし、独断で行った作戦に、上層部はカンカンになるものの、マスコミ人気によって、昇進したことなども・・・



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トルーマンや、アイゼンハワーの忠告を聞くことなく、終戦後、天皇に代わって日本の「王」となり、その後、仁川上陸作戦で、ソウルの奪回にも成功して、名声を高めると、米国の執行部は、ますます、マッカーサーに手を焼くようになり、最終的に解任されるという道のりと、この映画でのカーツの経歴には、重なる部分が少なくありません。


また、⑤でも取り上げた、元シェフのジェイが、ウィラードと一緒に船を降りて、マンゴーを探しに行ったとき、虎に襲われた、というシーンですが、


マッカーサーの有名なセリフ「I shall return(必ずや私は戻るだろう)」は、1942年に、ルーズベルトの命令で、フィリピンからオーストラリアへ脱出するよう命じられたときに発せられたものなんですが、その後の1944年から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の戦闘で《マレーの虎》と呼ばれて恐れられた日本軍の大将、山下奉文とは敵対する関係で、


戦後、他のA級戦犯には同情的だったにも関わらず、フィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束したこともあり、フィリピン戦での戦争犯罪訴追には、非常に熱心に取り組み、山下は、フィリピンでの降伏調印式が終わるとすぐに逮捕され、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任だという理由で死刑判決が下されました。これには、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もあるのですが、マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせる様に「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、山下は囚人服のまま《マンゴーの木で》絞首刑を執行された。ということがありました。


マンゴーを探しに行って、虎に殺されそうになった。というのは、《マレーの虎》を《マンゴーの木》で殺した。ことを《逆》にしたエピソードなのかもしれません。



◎カーツとジョンソンとマッカーサーの共通点


カーツの部屋で、ウィラードが発見したこちら・・


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これは、銀星章(シルバー・スター)と呼ばれる勲章なのですが、この章は、アメリカ合衆国の軍の勲章・記章の序列で、戦闘時における功績に限定すれば、シルバースターは名誉勲章、十字章に次ぐ第3位の勲章です。


しかし、名誉勲章の授与基準は「敵対する武装勢力との直接戦闘における任務の要求を越えた著しい勇敢さと生命の危険に際しての剛胆さ」とされるため、生存者の受章は非常に困難で、また、十字章は、「敵対する武装勢力への作戦行動における非凡な英雄的行為」なので、前線で戦った者への受章機会は少ない。


一方、シルバースターの叙勲は「敵対する武装勢力との交戦における勇敢さ」に対して贈られるため、上位の勲章よりも、前線将兵の受章機会は多く、実際に勇敢な行動に対して与えられる章であるとも言えます。


銀星章の受章経験者の中でも、7回受章というぶっちぎりの記録をもつのはマッカーサーで、あとから疑惑をもたれるものの、ジョンソンも歴代大統領の中で唯一この章を受章した人物。


カーツの人物像が、ジョンソンとマッカーサーを経由して出来ていることが、ここからもわかると思いますが、さらにわかりたい人は、カーツが、戦後の日本と大いに関係があり、この映画も・・ということも夜露死苦!



◎兵士のロボット化と、殺人ロボットの実用化


ウィラードが、司令部からカーツ殺しを命令される場面に戻りますが、こんなシーンがありました。



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抹殺するのだ。私情を捨てて」(字幕訳)
Terminate With Extreme Prejudice



このTerminateっていうのは「ターミネーター」と同じ言葉ですが、Extreme Prejudice というのは、通常使われない言葉だったそうで、当時かなりの流行語になったそうです。


直訳すると、「極端な偏見によって始末しろ!」といった感じでしょうか。マイケルファンとしては、彼の「Prejudice Is Ignorance(偏見は無知なり)」の方を深く噛み締めてしまうのですが、兵士たちは、実際に戦場に行くと、人を殺すことを嫌がり、なかなか立派な兵士にはならなかった。それで、兵士たちの発砲率を上げるために、色々と研究がなされ、ベトナム戦争では、それまでわずか15~20%にすぎなかった銃の発砲率が、90%に跳ね上がったということがあったようです。


◎参考図書「戦争における「人殺し」の心理学」


私情を捨てて目的をやり遂げる兵士は、これまでに紹介した、ヨハネの黙示録や、バガヴァッド・ギーターでも、理想の兵士だと考えられてきているわけですが、そこから、ロボット戦士が地球を救う『ターミネーター』へと繋がった可能性は大いにありそうですね。そして、最近では、「殺人ロボットの実用化」が実際に近づいてきたというニュースもありました。



次回は、神話や騎士道物語との関連について。






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by yomodalite | 2016-01-28 18:44 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

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①の続き・・・


欧米で、ほとんどの人が知っている典型的な神話といえば、《アーサー王と円卓の騎士》と、《聖杯探し》。これらは、どれが原型なのかわからないほど膨大な量の物語があり、また、お互いが混じり合うことで、《英雄》と《探求》の物語を形成していて、それは、イエスの英雄化にも、影響を与えてきました。


ハリウッドでは、ヒーローを描く物語が無数にありますが、それらは、与えられた試練を乗り越えて、どう成長していくかという《通過儀礼》がテーマになっています。そして、その通過儀礼のもっとも大きな要素は、私たちの国では、ほとんど見られない《父殺し》。


宗教学者の島田裕巳氏は、「アメリカ映画は、父を殺すためにある」と言う。父殺しという《通過儀礼》を果たすことによって、英雄(ヒーロー)へと生まれかわるのだと。また、映画評論家の町山智浩氏は、ヒーロー物語と父殺しの関係について、「ユダヤ・キリスト教では、聖書は神を「父」、キリストをその「息子」として描いていて、その父子関係が世界理解の基本になっている。イギリスに反抗して独立したアメリカという国は、常に自分を父と戦った息子としてイメージせざるを得ない」のだと指摘しています。


そして、父殺しは、『スターウォーズ』を思い出してもらうとわかりやすいのですが、歴史や、未来や、神話を舞台にした映画では《王殺し》の物語へと変化します。


元サーファーのランスは、「ディズニーランドよりも素敵なところが他に?」と書かれた手紙を読んで、「あるさ、ここにある」と答えますが、『地獄の黙示録』のジャングル・クルーズは、真実を求める「探索」の物語であり、カーツという《王》を殺しに行く物語でありながら、若者を成長させる通過儀礼にはならず、ここには、誰ひとり《ヒーロー》がおらず、誰もがみんな間違っていて、旅の果てには、《答え(聖杯)》も《宝(聖杯)》も見つからない。


『地獄の黙示録』は、戦いや、王殺しを行うだけでなく、実際の歴史や、これまでの黙示録に基づく物語、神話、王殺しの物語、アーサー王や、聖杯探しといった騎士道物語や、宝探しのすべてを 解体” した物語で、とてもシリアスではあるものの、ある意味、それらのパロディになっているんですね。


この構造は、マイケルのショートフィルムに、とても大きな影響を与えているので、そういった例を出来るだけ多く紹介していきたいと思いますが、

まずは、聖書や、黙示録との関連から・・



◎ヘリコプターと「イナゴの群れ」


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この映画は、ヘリコプター集団の映像がよくあるのですが、これは、黙示録の「イナゴの群れ」ですね。


煙の中からは、イナゴの群れが地上へ出て来た。(...)「額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい」と命じられ・・・そのイナゴの姿は、出陣の用意を整えた馬に似ていた。そのイナゴの姿は、出陣の用意を整えた馬に似ていた。頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようでもあった。(...)胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その翼(つばさ)の音は多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった(黙示録・第九章より)



◎炎と、紫と黄色の煙


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私は幻の中で、馬と騎兵たちを見た。彼らは、・・・口からは炎、紫、および硫黄の色の・・・口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災難で人間の三分の一が殺された。(黙示録・第九章より)


戦場を描いているので、爆発シーンや、煙が多いのは、普通なんですが、それ以外のシーンでも、紫と硫黄の色(黄色)の煙が何度も象徴的に登場したと思います。



◎ヘリコプターと『ワルキューレの騎行』


キルゴアが、「俺たちは空の第一騎兵隊」だといった翌朝、ラッパが吹かれ、ヘリコプターは離陸し、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』を大音量で鳴らしながら、ミサイルが打たれる場面は、


第五の天使がラッパを吹いた。・・・この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられた。深い淵の穴を開くと、大きな炉から出る煙のようなものが地上に広がり、太陽も空もその穴からの煙のために暗くなった。(ヨハネの黙示録より)


という場面ですね。黙示録の7人の天使たちは、何かを成す前に、ラッパを吹くことになっていて、交響曲のファンファーレも、このラッパから影響を受けているんですが、


「ワルキューレの騎行」は、アーサー王の物語を原型としている、ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指輪』4部作の二作目で、騎行とは馬に乗って行くことです。ワルキューレは、北欧神話(ルーン文字で書かれている)に登場する半神のことで、「戦死者を選ぶ者」とされていて、一般的に、鎧と羽根のついた兜で身を固め、槍(もしくは剣)や盾を持ち、翼の生えた馬(ペガサスなど)に乗る美しい乙女の姿で表されています。



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『ニーベルングの指輪』では、神々の長ヴォータン(=オーディン。北欧神話の主神で、戦争と死の神)と知の神エルダの間に生まれた9人の娘達として登場し、天馬にまたがり槍と楯を持ち天空を駆け巡るワルキューレたちが、戦死した兵士の魂を岩山へ連れ帰る場面の前奏曲として『ワルキューレの騎行』が流れます。

『地獄の黙示録』では、この戦闘シーンから、しばらくして、武器をもって踊る、カウガールファッションの『PLAYBOY』のバニーガールたちが、ヘリコプターで、空から登場するのですが、彼女たちは、《ワルキューレ》としては、早々に兵士たちの前から立ち去っていき、黙示録の《バビロンの大淫婦》のように、裁かれて、焼かれることもなく、2000年版では、淫婦とは正反対の少女のようにも描かれています。



◎ウィラードに送られてくるレポート

船上にいるウィラードに次々に送られてくるレポートは、黙示録で、小羊(イエス)が開くのがふさわしいとされる巻物を指していますが、ウィラードはイエス的な人物としては描かれていない。



第五の天使は《アバドン》を呼び出し・・・


ヨハネの黙示録では、第五の天使がラッパを吹くと、地獄の蓋が開き、《アバドン》と《イナゴ》を呼び出す。ことになります。アバドンというのは、奈落の王のことで、ルシファーや、サタンと同一視され、「破壊の場」「滅ぼす者」「奈落の底」の意味をもっているのですが、ここでは「カーツ」を指しているようです。


また、このあと、第六の天使がラッパを吹くと、ユーフラテス川のほとりにつながれている《四人の天使》は、人間の1/3を殺すために解き放される。のですが、カーツは、ベトナム人の《4人のスパイ》を殺害するという最小の攻撃で、最大の効果をあげる作戦を選択します。


そして、第七の天使がラッパを吹くと、この世は、我らの主と、そのメシアのものとなり、主は限りなく統治される。というのですが、映画では、このあと不気味な「カーツの王国」へとたどり着く・・・



◎「船を離れるな」


マンゴーを取るために、船を降りて、ジャングルに向かったことで、トラに襲われそうになった場面で、元シェフは、船から離れたことを何度も後悔し、ウィラードも、教訓のように「船を離れるな」(Never get out of the boat. というシーンがあります。


これは、おそらくマタイ伝14章22-33で、イエスに「来なさい」と言われて、ペトロが、船から降りて、水の上を歩き、イエスの元に進むのですが(Peter got down out of the boat, walked on the water and came toward Jesus. )、途中で強風に会って、沈みかけ、助けを求めると、イエスが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われる。という場面を《逆》にしているのだと思います。



◎ラザロからの襲撃


ふざけた味方のボートから襲撃を受け、ボヤが起き、船長がリーダーらしき男を見て「お前か?ラザロ」と名前を呼ぶシーンがあります。ラザロといえば、コールドプレイのクリス・マーティンが、MJのTHIS IS ITでのカムバックを「ラザロ以来の復活劇」だと称したように、イエスによって、死から蘇った人物として有名なのですが、この場面でのラザロが、それとは正反対の下品な行為をしているのは、軍事行動と医療行為の両方を行っている「聖ラザロ騎士団」を揶揄する意図からだと思います。


マルタ騎士団、テンプル騎士団、ガーター騎士団、ラザロ騎士団といった騎士団の本来の使命は、巡礼者がキリスト教の聖地を旅するのを守ることだったのですが、現代では、キリスト教の慣習に基づき、慈善活動に取り組み、貧しい人々や病気に苦しむ人々を助けることに置かれていて、故レーガン元大統領や、ヒラリー・クリントンといった素晴らしいメンバーがいることで知られる現代のラザロ騎士団は・・・要するに偽善を行う「悪の秘密結社」なんですね(笑)


これは、聖書からの由来でありながら、歴史であり、騎士物語であり、現代の政治の話でもあるわけですが、こんな風に、この4つは実際に混ざり合っています。



黙示録と聖書に関連する場面は、まだまだありそうなんですが、


次は、歴史・政治との《関連》について・・・






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by yomodalite | 2016-01-25 09:35 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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HIStoryと黙示録:『ターミネーター2』の続き


さて、いよいよ、HIStoryティーザーに引用された最後の映画である『地獄の黙示録』について考えたいと思います。


1979年の作品ですが、今見てもまったく古さを感じない名画で、AFIが選んだ『アメリカ映画ベスト100』で、実際の戦争を描いてベスト30に選ばれた映画は、すべて他国の話か、アメリカが勝利した戦争の映画なのですが、


『地獄の黙示録』は、唯一アメリカが勝てなかった戦争をテーマにしてランクインしています。


また、ヨーロッパが起こした戦争に参加したといえた第二次大戦までの戦争とは違い、資本主義陣営の盟主となったアメリカと、共産主義陣営の盟主であるソ連、この二大国の代理戦争ともいえるベトナム戦争を舞台にしながら、これまでのヨーロッパの戦争の歴史そのものを問い、戦禍の中での「愛と友情」を描いたり、戦争の悲惨さや無意味さから「反戦」をテーマにした多くの戦争映画とも異なり、


『地獄の黙示録(原題:Apocalypse Now)』は、ヨハネの黙示録(The Apocalypse of John)の「最終戦争」や「千年王国」、「善と悪との戦い」といったプロットを採用して、未来を描いた『レッド・オクトーバーを追え』や、『ターミネーター2』のような映画とも違っていて、「今の黙示録(Apocalypse Now)」を描いているんですね。


マイケルは、『HIStory : Past, Present and Future, Book I』において、ヨハネの黙示録(別名:The Book of Revelation)や、聖書(通称:The Book)への間違った解釈に基づいた「HIStory(歴史)」を「Past(過去)」のものとし、「Present(現在)」と、「Future(未来)」を「Book I(新たな本の第1巻)」とするために、この映画を最後に引用したと思われるので、まずは、『地獄の黙示録』の解説から始めてみたいと思います。



◎ヨハネの黙示録と『地獄の黙示録』の違い


ヨハネの黙示録の最初の方には、わたしはアルファであり、オメガである」とあり、また、終わりの方で、わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後のものである。初めであり、終わりである」とあります。これは、ギリシャ文字の最初のΑ(アルファ)と、最後の文字Ω(オメガ)が、最初と最後、すなわち、「全て」と「永遠」という意味を持つと考えられ、伝統的な聖書の解釈では、この人物をイエスだとしてきたのですが、


『地獄の黙示録』は、ドアーズの「The End」で始まり、また、「The End」で終わる映画なんですね。



◎なにもかもが「矛盾」したストーリー


ウィラとエレノアの会話では、ヒストリー・ティーザーは「情景と音」が逆になっている、と表現されていましたが、地獄の黙示録では、常に「理性と感情」や、「感情と行動」が逆になっていて、・・・


オープニング、ジャングルが燃える風景をバックに「The End」が流れる。


これで終わりだ 美しい友よ これで終わりだ ただ一人の友よ 築きあげた理想はもろくも崩れ 立っていたものはすべて倒れた 安らぎは失われ 驚きは去って もう二度と君の瞳を見ることはないだろう 心に描けるだろうか 限りなく自由なものを あえぎながら見知らぬ人の助けを求め 絶望の大地をさまよう・・・果てしない苦悩の荒野に進むべき道を失い すべての子供たちは狂気に走る すべての子供たちは狂気に走る・・・  夏の雨を待ちわびて(字幕訳)






ジャングルに主人公の男(ウィラード)の顔がオーバーラップする。ウィラードは、厳しい戦場を離れ、愛しい故郷へ戻ったとたん、戦場が恋しくなり、妻と離婚し、軍に戻っていた。戦地とは離れた安全な部屋の中で、司令を待っているうちに、恐怖を感じ、鏡に映る自分を殴って、手に怪我を負う。翌朝、泥酔して目覚めたウィラードは、司令を届けにきた二人の男に抱えられて身支度され、司令部へと送られる。


ウィラードに与えられた任務は、人間として優れ、優しく、ユーモアを解し、非のうちどころのないエリート軍人だったカーツの殺害。


司令部の人間はいう。「彼は、特殊部隊に入って、考え方や作戦手段が変わった。カンボジアに入り、彼を神と崇め、絶対服従を誓う人々を意のままに動かしている。カーツ大佐には、殺人罪で、逮捕命令が出ている。彼は数名のベトナム人スパイを二重スパイだと決めつけ、独断で処刑した。


この戦争ではいろいろな混乱が生じている。権力と理想、古い道徳観と現実の作戦行動、現地人の間に入り、自ら神となるのは、大きな誘惑に違いない。人間の心には戦いがある。合理と不合理、善と悪、善が勝つとは限らぬ。時には、悪が勝って、リンカーンの言う “心の天使” を打ち負かす。誰にも理性の限界がある。君にも、私にも。カーツは限界に達し、完全にイカレてしまった。彼の行動は良識による抑制を失い、人間の行ないとしていささかの容赦の余地もない。その彼が軍の指揮を取っている」


ウィラードの心は揺れる。戦場の英雄に与えられた罪は「殺人罪」。レース場でスピード違反を取りしまるか? 彼は大きな疑問を抱きながらも、その任務を引き受け、船に乗り込む。


「行き先が地獄だってことを、おれは知らなかった。彼の物語は、俺の物語、彼の物語が懺悔録なら、俺のも同じだ」(事を成し遂げた後のウィラードの回想)


最初に降りた島では、米軍による空爆が行われた直後で、夥しい死体が転がっている。生き残った人はトラックに誘導され、「我々は暖かい庇護の手を差し伸べる」とアナウンスが響いている。将軍(キルゴア)は、大怪我をしているベトナム人に、自分の水筒から水をやろうとするが、ウィラードが乗りこんだ船に、有名サーファーがいることを知ると、貴重な水をあげずに捨て、その場から去っていく。死体の処理に追われる兵士、ヘリコプターで救助される牛・・・


牧師が祈る声が響く「栄光は天なる父のものなり、我々を救いたもう主に祈りを捧げよう。天にまします、我らの父よ、御名を崇めさせたまえ、御国を来たれせたまえ、御心の天になるごとく・・」


翌朝、ラッパが吹かれ、ヘリコプターは離陸する。現代の騎兵隊たちは、サーフィンの高波を目指し、ベトコンの拠点へと向かう。キルゴアは島の人々に脅威を与えようと、ヘリコプターから、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』を大音量で鳴らし、ミサイルが打たれる。


学校が爆撃を受け、子供たちが犠牲になり、アメリカ軍兵士も大勢犠牲になる。攻撃は、さらなる攻撃を生みだし、その惨劇の中、キルゴアは、サーフィンのために、波の高さを確認し、ナパーム弾を搭載した爆撃機に、ヤシ畑への破壊司令を出す。燃え上がるヤシ林。「朝のナパームは格別だ」そう言い放つ彼は、「この戦争もいつかは終わる」と仲間を励ます。


キルゴアが許されて、なぜカーツが・・ ウィラードの自問自答は続くが、船は進んでいく。船の乗組員たちは、誰も目的地を知らず、目指してもいないが、誰もが船を降りられない。カーツ殺しを請け負ったウィラードは、カーツを知れば知るほど、尊敬すべき男に思えてくる。カーツは将官になれたのに、その道を捨て、前線を志願していた。カーツは何を目指しているのか?


船が進んで行くたびに、戦場は混乱を極め、乗組員の命はひとり、またひとりと奪われていく。そして、ウィラードは、ついに、これまでに目にした戦場以上に混乱した、カーツが支配する島(王国)へとたどり着く。


ここに住む米国人カメラマンは、ウィラードたちを出迎えて言う。俺たちは皆、彼(カーツ大佐)の子供だ、と。ウィラードが彼と話したいというと、「話を聞くんだ、心を拡げて、彼は軍人であり、同時に詩人だ」と言う。数え切れないほどの処刑された死体と生首があふれているその島の人々は、ウィラードをカーツの元へと運んでいった。


捕らえられたウィラードに、カーツは尋ねる。「君は考えるか? “真の自由”とは何か 他人の意見にとらわれぬ自由、自分からも解きはなれた自由、彼らは理由を言ったか?ウィラード なぜ私を殺して、私の指揮を断ち切るかを」


ウィラード「私の任務は軍の機密です」

カーツ「今更、機密ではなかろう 彼らはなんと?」

ウィラード「彼らはこう言いました。あなたは完全におかしくなり、作戦手段が不健全だと」

カーツ「私の作戦が不健全だと?」

ウィラード「私の目には作戦手段など・・どこにも・・」

カーツ「君のような人間が来ると思っていた。君は何を期待してた?

ウィラード「・・・」

カーツ「君は殺し屋か」

ウィラード「私は軍人です」

カーツ「どっちでもない 使い走りの小僧だ 店の主人に言われて、勘定を取りに来た」


この後、牢に入れられたウィラードに、カメラマンが言う。「なぜだ?、なぜ君のようないい奴が天才を殺す・・・知ってるか? あの人は君のことを好いてる。君を気に入って、処置を考えてる。知りたいだろ? 俺は知りたいね、どうする気か・・君は知らないだろうから、教えてやる。彼の頭は正常だ。彼の魂がイカれてる。わかるか? 彼はじき死ぬ。このすべてを憎んでる。時々・・彼は詩を朗読する。生き延びた君を彼は評価し、処置を考えてる。俺は君を助けない、君が彼を助ける 彼が死んだらどうなる? 彼が死ねばすべてが死ぬ 人々は彼について何と言う? 優しい男だった、賢い男だった、理想を持っていた。たわ言だ!俺が真実を証言するのか? ご免こうむる!それは、君の役目だ」


夜になり、ウィラードが意識を取り戻すと、目の前には、顔をカモフラージュにメイクしたカーツが立っていて、船に残してきた仲間の「首」を置いていく。激しい恐怖に意識を失ったウィラードは牢から出され、身を清められ、食事を与えられて、再び、カーツがいる場所へと連れて行かれる。カーツは詩を読んでいた。


空ろな人間たち 

互いにもたれ合ってるわら人形

頭の中にはわらが詰まってる・・(字幕訳)


カメラマンはウィラードに言う。「何を言ってるかわかるか ごく基本的な弁証法だよ・・弁証法理論には、 “愛” か “憎しみ” しかない。


(ウィラードの独白)「彼に会えば、すぐに任務を果たせると思っていた。」


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(カーツの軍服の「鷲のマーク」がクローズアップされる)



彼は俺の心を見通していた。将軍たちが俺の見たものを見たら、彼を殺すだろうか。もちろん殺すだろう。彼の家族が今の彼を見たら、どうするだろう。彼は家族を捨て、自分をも捨てた。彼ほど苦悩に引き裂かれた男を俺は知らない。



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(カーツのデスクには、聖書とゲーテの本、フレイザーの『金枝篇』、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』が置かれていた)



「私は地獄を見た。君が見た地獄を。だが私を殺人者と呼ぶ権利はない。私を殺す権利はあるが、私を裁く権利はない。言葉では言えない。地獄を知らぬ者に、何が必要かを、言葉で説いて分からせることは不可能だ。恐怖だ。地獄の恐怖には顔がある。それを友とせねばならぬ。恐怖とそれに怯える心、両者を友とせねば一転して恐るべき敵となる。真に恐るべき敵だ・・・持つべき兵は、道義に聡く、だが同時に何の感情も感情も興奮もなく、原始的な殺人本能で人を殺せる男たちだ。理性的な判断を持たずに、理性的な判断が敗北を招く・・・


私は気がかりだ。息子が私の行動を理解できるかどうか。もし私が殺される運命にあるのなら、誰かをやって息子にすべてを伝えてほしいのだ。私が行い、君が見たすべてを。何よりも嫌悪すべきは「偽り」が放つ悪臭だ。君が私を理解するなら、君がやってくれ。


(画面が変わって)村人が、神への生贄として、牛を殺そうとしている


牛を生贄に捧げる祭りの夜、ウィラードは、カーツ殺しに向かう。再びドアーズの「THE END」が流れ始め、ウィラードは、村人が牛を殺すのと同じタイミングで、カーツに鎌を振り下ろす。


倒れたカーツの最後の言葉は、「地獄だ、地獄の恐怖だ(Horror Horror)」。


カーツが最後まで書いていた分厚い原稿・・(原作の『闇の奥』では、国際蛮習防止協会から、野蛮な行動を防止するための報告書を求められていた)しかし、理想を書き連ねてあるはずの、その原稿の中には、大きく赤い文字で、「爆弾を投下してすべてを殲滅せよ」の文字が。


(ウィラードの独白)これで俺は少佐に昇進。だが軍隊などどうでもいい。皆が殺る時を待っていた。特に彼が・・俺が苦痛を取り除くのを彼は待っていた。軍人として死ぬことを願っていた。みじめな脱走将校としてではなく・・ジャングルも彼の死を求めてた。彼の城であったジャングルも。


カーツが殺されたことが村人にも知れ渡り、全員がウィラードに向かって、頭を下げる。王を殺した者は、新たな王だと見なされる。しかし、ウィラードは村人の間を割って進んで行き、ランスと共に船に乗り込む。ウィラードは村を爆破することなく、島を立ち去った。(続く)


____________


[補足情報]ご覧になったことがない方に参考までに付け加えると、この映画には、現在「劇場公開版」(1979年版)と「特別完全版」(2000年版)と呼ばれている2種類のヴァージョンがあるのですが、コッポラ自身が制作費をまかなっていることもあって、1979年版から「ディレクターズ・カット」であり、特別完全版(原題:Redux)は、迷いに迷って振るい落とした場面を「復活」させたもので、いわゆる「最終版」とは違うんですね。


そんなわけで、「劇場公開版」では、まるごと削られたエピソードなども、「特別完全版」にはあるのですが、最初に「劇場公開版」で、作品全体を味わい、次に「特別完全版」を観ることを、私はオススメします。これは、マイケルの再発アルバムと同様で、追加された曲は、どれもとても魅力的だけど、最初のカットの重要性は変わらないといった感じでしょうか。


また、特別完全版は、HIStoryティーザーよりも後に公開されたものなので、この考察では、オリジナル版のエピソードを基本にします。





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by yomodalite | 2016-01-20 12:11 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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世界はますます終わりに近づいているような気がする毎日ですが、人生も惑星の命にも限りがあるので、世界が終わるのは、当然といえば当然なんですが、Godという創造主のことを考えると、人はなぜか「永遠」を考え出すんだなぁなどと思いつつ、


とにかく、ヒストリー・ティーザーについてのエレノアとウィラの会話(これから紹介するPart 3)をより理解するために、そこにちょっぴり登場する『地獄の黙示録』を再度見てみたり、引用された文学作品を読んだりもしているのですが、原作の『闇の奥』は、以前なんとか読んだので、今回は、映画の中で、カーツが読んでいたT・S・エリオットの「The Hollow Men」という詩を読んでみようと思って、岩波文庫『四つの四重奏』(岩崎宗治訳)を買ったんです。


childspirits先生と二人で、エレノアの会話を日本語にしているだけで、もうヘトヘトなので、誰かが訳してくださったもので、あっさりと理解したかったんですが、訳注や解説には、ためになる部分があったものの、実際の詩の方は「?」という部分が多くて、、、しかたなく自分でも考えてみました。


ふだん、直訳とか、意訳という言葉が大嫌いな私ですが、意味がわかる。という意味での「意訳」につとめ、散文的に訳してあります。


気になる点や、間違いはもちろん、

遠慮のないご意見をお待ちしております。



The Hollow Men

空ろな人間


Mistah Kurtz―he dead. (*1)

Mr.クルツは死んだ


A penny for the Old Guy(*2)

ガイさんに1ペニーを(恵んでおくれ)。


I

We are the hollow men

We are the stuffed men

Leaning together

Headpiece filled with straw. Alas!

Our dried voices, when

We whisper together

Are quiet and meaningless

As wind in dry grass

Or rats' feet over broken glass

In our dry cellar


我々はすき間がないほど

詰め込まれていながら、空っぽで

頭の中は藁がいっぱい詰まっている(嗚呼)

お互い寄りかかるしかなく

みんなで一緒に囁いても

かすれるような声でしかなく

枯野の草のように静かで意味がない

もしくは、地下室で

ネズミが割れたガラスの上を歩くぐらいか


Shape without form, shade without colour,

Paralysed force, gesture without motion;


つかみどころのない形、色のない影、

麻痺した力、動きのない身振り


Those who have crossed

With direct eyes, to death's other Kingdom

Remember us―if at all―not as lost

Violent souls, but only

As the hollow men

The stuffed men.


目を見開いて、

死後にある別の王国に渡った者が

もし我々のことを覚えていたとしても

それは、荒ぶる魂というよりは

ただ、無意味だけが

詰め込まれた人間としてだ


II

Eyes I dare not meet in dreams

In death's dream kingdom

These do not appear:

There, the eyes are

Sunlight on a broken column

There, is a tree swinging

And voices are

In the wind's singing

More distant and more solemn

Than a fading star.


この目は、私が夢に出会うことを怖れ

死後の夢の王国が

目の前に現れることはないが、

そこでは

折れた円柱に陽射しが注がれ

木々は揺れ、

そして、声は響き、風は歌う

この消えゆく星よりも

ずっと遠くにあって、より厳かに


Let me be no nearer

In death's dream kingdom

Let me also wear

Such deliberate disguises

Rat's coat, crowskin, crossed staves(*3)

In a field

Behaving as the wind behaves

No nearer―


死後の夢の王国のそばに

俺を行かせないでくれ

あの念入りに見つくろった

死装束をまとわせるのも、だ。

鼠の毛皮、カラスの肌、十字にした棒

この場所では

風が振舞うように、振る舞う

それ以外にはない


Not that final meeting

In the twilight kingdom


あの黄昏の王国での

最後の集いとは違うのだ


III

This is the dead land

This is cactus land

Here the stone images

Are raised, here they receive

The supplication of a dead man's hand

Under the twinkle of a fading star.


ここは、死んだ国

サボテンの国

ここにある石の像は

消えていく星の煌めきの下

死んだ者たちの嘆願を

受け入れるために建てられた


Is it like this

In death's other kingdom

Waking alone

At the hour when we are

Trembling with tenderness

Lips that would kiss

Form prayers to broken stone.


それは、死後の王国で

ひとり目覚めたとき

誰かがそこにいて

優しく震えるように

唇にキスをする者によって

石が崩れ去る、ということか


IV

The eyes are not here

There are no eyes here

In this valley of dying stars

In this hollow valley

This broken jaw of our lost kingdoms


この目に見えるのはそんな場所ではなく

ここにある世界はそうではない

この谷では、星は死にゆき

ここは、空ろな谷でしかなく

この壊れた骸骨が、失われた王国なのだ


In this last of meeting places

We grope together

And avoid speech

Gathered on this beach of the tumid river


最後の集いの場所では

みんなが探りあい

意見を言うことを避け

人々は水が膨張した河の岸辺に

ただ群がっている


Sightless, unless

The eyes reappear

As the perpetual star

Multifoliate rose

Of death's twilight kingdom

The hope only

Of empty men.


盲目でないとすれば

この目にも、永遠の星や

花びらが幾重にも重なった薔薇が

見えるだろう

死にゆく黄昏の王国で

空っぽな人間の

残された希望として


V

Here we go round the prickly pear(*4)

Prickly pear prickly pear

Here we go round the prickly pear

At five o'clock in the morning.


手のひらみたいなサボテンのまわりを

サボテン、サボテン、みんなでまわろう

手のひらみたいなサボテンのまわりを

みんなでまわろう、朝の五時


Between the idea

And the reality

Between the motion

And the act

Falls the Shadow

     For Thine is the Kingdom(*5)


理念と現実の間に

動きと行いの間に

幻影があらわれる        

     神の王国のために


Between the conception

And the creation

Between the emotion

And the response

Falls the Shadow(*6)

     Life is very long(*7)


構想と創造の間に

感情と反応の間に

幻影があらわれる

     人生はとても長い


Between the desire

And the spasm

Between the potency

And the existence

Between the essence

And the descent

Falls the Shadow

     For Thine is the Kingdom


欲望と発作の間に

潜在と実在の間に

本質と堕落の間に

幻影があらわれる

     神の王国のために


For Thine is

Life is

For Thine is the(*8)


あなたのための

人生とは

それを、あなたのために


This is the way the world ends (*9)

This is the way the world ends

This is the way the world ends

Not with a bang but a whimper.


こんなふうに、世界は終わる

こんなふうに、世界は終わる

世界の終りは、

爆発音ではなく、すすり泣く声で。


(訳:yomodalite)

下記の訳注も含め、間違いに気付かれた方は遠慮なくご指摘くださいませ


訳注)________


(*1)コンラッド『闇の奥』からの引用、主人公クルツの死を告げる黒人のボーイの言葉。


(*2)1605年、ジェイムズ一世とその政権を転覆させるため、少数のカトリック教徒の中で、国会議事堂の爆破が計画された(「火薬陰謀事件」と呼ばれる)。しかし、実行予定の前夜、議事堂地下室で火薬の見張りに立っていたガイ・フォークスは捕らえられ、仲間とともに処刑された。英国ではこの日にちなんで、11月5日を「ガイ・フォークスの日」として、彼の張りぼて人形を引き回し、爆竹をはぜさせながら、人形を火に投じる習慣があった。「ガイさんに1ペニー」は、この日に子供たちが、家々をまわって爆竹を買うための小銭をもらうときの言葉。


(*3)Rat's coat, crowskin, crossed staves

このパラグラフ(スタンザ)は、岩波文庫『四つの四重奏』(岩崎宗治・訳)の「詩集1909 - 1925年」に納められた〈空ろな人間たち〉の訳では、

これ以上近くには行かせないでください
死の夢の国で
そしてわたしにまとわせてください
とくに入念な変装を
鼠の毛皮(コート)、烏皮(からすがわ)、十字に組んだ棒
麦畑で
振る舞いは風の振る舞いのように
これ以上近くには----

になっています。訳注では(訳者は、the stuffed men を、案山子人間と訳している。The Hollow Men に案山子の絵が使用されている例は多い)、

「わたし」は、中身の空ろな案山子として生きようとする。案山子はここでは棒を十字に組んで古着を着せたもの。畑を荒らす野鼠や烏を脅すために、そうした動物の死骸を結びつけることがある。原文のRat's coat の ‘coat’ は、「上着」または、「(獣の)毛皮」で、‘crowskin’ は、‘backskin’ (鹿革)に似せた造語で、「烏皮」といったところか。ともあれ、魂のない「案山子人間」には・・・

とありますが、私には「畑を荒らす野鼠や烏を脅すため」や、「まとわせてください」というのは納得できません。


鼠やカラスといった動物から喚起されるイメージと、「I」の〈rats' feet〉との音韻だけでなく、人間の社会では、鼠の上着(毛皮)は、動物の毛皮としては薄くて価値がないし、カラスは羽根に覆われていて、その肌がかえりみられることはありませんが、どちらも自然なもので、同じように、自然社会にあるのは、棒を十字にしたものだけであって「十字架」ではない。


その場所で身につけるものは、人間社会での葬送の儀式で、遺体に着せられるようなものではなく・・という意味からの言葉ではないでしょうか。


(*4)prickly pear


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ウチワサボテンとも言われるようですが、このスタンザは童謡を歌っているようになっているので、このサボテンの能天気な感じを出すために「手のひら」みたいな、にしました。


(*5)For Thine is the Kingdom

これは「主の祈り」とも言われる、『マタイによる福音書』6章9-13にからの引用だと思われます。(→https://ja.wikipedia.org/wiki/主の祈り)


Between the idea ~ And the act までは、「王殺し」をイメージしていて、「For Thine is the Kingdom」は、その行為を後押しする言葉にもなっている。


岩波文庫訳では、

For Thine is the Kingdom
それ〈御国〉は〈汝〉のものなればけり

という訳のわからない(私だけ?)訳になっていて、確かに、Thine は古語で、英語辞書では、「汝」もしくは「そなた」などと書いてあり、


「汝」は、日本の国語辞典では、

二人称の人称代名詞。本来は、尊敬の意を含む語だが、徐々に敬意を失って、同等または目下の者に対する代名詞となり、中世以降はもっぱら目下の者に対する代名詞となった。

と、あります。でも、英語のThine は、「同等かもしくは尊敬の意」なので、Thine=汝というのは、現代の日本人にとって勘違いしやすい訳になっているように思います。例を挙げれば、シェイクスピアのセリフでは「汝」(もしくは「そなた」)で問題ありませんが、『マタイによる福音書』などの聖書訳の場合、「thy」は、神を指している場合も多く、これを「汝」と訳すのは間違いの元ではないかと。


「主の祈り」の英語訳は、


Our Father, which art in heaven,

hallowed be thy name;

thy kingdom come;

thy will be done,

in earth as it is in heaven.

Give us this day our daily bread.

And forgive us our trespasses,

as we forgive them that trespass against us.

And lead us not into temptation;

but deliver us from evil.

[For thine is the kingdom,

the power, and the glory,

for ever and ever.]

Amen.


上記のウィキペディアのリンク先にある日本語訳でも、「thy」がわかりにくい訳になっているので、下記は私訳ですが、


天国にいる、我らの父よ

あなたの名が讃えられ

あなたの王国がやってきますように

あなたはこの地上を

天国のようにされるでしょう

そして、私たちに今日のパンを与え

私たちが、罪を犯した者を許すように、

私たちの罪も許してください

そして、私たちが誘惑に導かれないように

私たちを悪から救ってください

[あなたのための王国、その力、そして栄光は、永遠に続きます]

アーメン。


thyや、thineは、すべて、Our Father, which art in heaven(天国におられる我らの父)を指しています。(ちなみに、ウィキペディアにはもっとも普及していると思われる「新共同訳」が載っていませんが、そちらは、天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように・・・で、[ ]内はありません。ただ、文春新書の『新約聖書Ⅰ』にある佐藤優氏のマタイの福音書の案内によれば、[ ]内は、2世紀頃に付加されるようになったもので、「国とちからと栄とは限りなくなんじのものなればけり」という頌栄がつけられることもある。とのこと

それ〈御国〉は〈汝〉のものなればけり

とにかく、上記の岩波文庫訳では、神の国が「あなた(自分)」のものだと言っているか、もしくは、神に「上から目線」になってしまいませんか?


岩波文庫訳への疑問に文字数を使いすぎてしまいましたが、日本人が考える「神」と「God」の違いは、「God」がこの世界の創造主というだけでなく、


「God」を信じる宗教には「神の王国をこれから創る」という目標があることが、重要で、それは、この詩でも、また『地獄の黙示録』でも、現代の世界戦争においても、重要なテーマになっていると思います。


(*6)Falls the Shadow

Falls も、Shadowも意味深い言葉で、私訳では “幻影があらわれる” としましたが、Fall は、「人間の堕落や原罪」という意味を感じさせる言葉ですね。


(*7)Life is very long

(*5)と同じ文字装飾になっているので、なんらかの引用かもしれませんが、岩波文庫の訳注では、コンラッドの『島の流れ者(邦題「文化果つるところ」』の中で、重大な背信行為を犯した主人公に、年配の船長リンガードが言う言葉。とあり、恩寵に出会えぬまま苦悩し続ける人間にとって「人生は長い」ということ。だと説明されています。


(*8)

For Thine is

Life is

For Thine is the


このスタンザでは、ここまでの言葉の語尾が消されていて、


For thine is (the kingdom)

Life is (very long)

For Thine is thekingdom)


消された部分を繋げると、


その王国はとても遠い王国


という意味になり、ここから、最後の「This is the way the world ends」に続きます。


(*9)

この部分は[V]のサボテンの歌と同じく、童謡をベースにしていて、岩波文庫の訳注によれば、パロディの本歌となった童謡では「こんなふうにぼくらは手を叩く」という童謡があるそうです。




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by yomodalite | 2015-11-16 06:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

ジョゼフ コンラッド/光文社



藤永氏の『闇の奥』は、以前に読んだ中野訳に比べると、とても読みやすく解説もわかりやすかったのですが、そこから更に、同氏の 「『闇の奥』の奥―コンラッドー植民地主義ーアフリカの重荷」を読んだことで、氏の解読に惹き込まれすぎたのでは?と思う点もあり、また、わたしにとって『闇の奥』は、映画『地獄の黙示録』の原作という意識が強過ぎるので、

『闇の奥』に関して、もう一度頭を冷やす意味でも、他の翻訳本にも興味がわいて来て、一番新しい訳書である、黒原敏行訳の『闇の奥』にも目を通してみました。

下記は、解説(武田ちあき・埼玉大準教授)より、要約引用。

英語文学の古典とされていても、なんだか難しそうと一般読者はひいてしまいがちだった『闇の奥』に、原文の緩急自在な語りの生気と勢いをのせた新訳が誕生した。落語そっくりとよくいわれるディケンズのノリのいい語りに、幼少から親しんでいたコンラッド(語り手であるマーロウは、その名からしてもディケンズを意識している)は、

その重厚ながら軽快な、自分で自分にボケやツッコミを入れたり、聴き手に話しをふったりしながら、ぐいぐい読者を引込む芸達者な語り口を、本書は日本語でたっぷりと読ませてくれる。

「人類の文明の歴史への深遠なる洞察」「帝国主義による植民地経営の残虐非道極まる実態への先鋭な告発」「人間性の深奥に潜む悪・道徳的腐敗の発見」ー

この小説はいままでずっと、こうした重量級のフレーズで評されて来た。しかし、その中心に描かれた苛烈なアフリカの現実は「何でも見てやろう」と勢い込み「若さとバカさの挑戦」に浮き立つ青二才だったマーロウ(著者コンラッドが投影されている)のうぶな目だからこそ、のけぞるばかりに圧倒的な闇の深さがいっそうの迫力で映るのだ。

コンラッド好きには、中野好夫、岩清水由美子、藤永茂のそれぞれ渾身の訳業と読みくらべるのも愉しい。だがなによりも、今の若い人、とりわけ社会の矛盾や将来の不安にへこみながらも、なんとか希望をみつけだし、自分らしい人生を歩んでいこうとする世代、いままさに冒険に出かけようとする現代の若きマーロウたちにこそ、本書をめくって欲しい。(引用終了)


ホントにもう「ノリのいい語りに、幼少から親しんでいた」とか「自分で自分にボケやツッコミを入れたり、」とか「若さとバカさの挑戦」とか、、、

マジですかーーー!これまでの2冊からは、そんな気配は、微塵も感じたことなかったんですけど...... (これだから、翻訳本はむつかしい。。武田氏の解説はここから先もとても興味深い内容なので、是非、本書でお読みくださいませ)

ただ、実際に読んでみた感じでは、残念ながら、そこまで言うほどの若々しい訳ではなくて、難しい漢字の量や、文語的な表現も、そんなに変わらないかなぁ。

下記は、訳者のあとがきから(省略引用)

コンラッドの『闇の奥』は、ただならぬ魔力で人を惹き寄せる小説だが、原文も翻訳も読みにくい、というのが世の共通理解だと思う。原文が読みにくいのなら、翻訳が読みにくくても仕方がない。いや、むしろ読みにくくなれればならない。そんなふうにもいえそうだ。しかし本当にこれはそんなに難解な小説なのだろうか。

これはごく少数の人間にだけわかってもらえればいい前衛的な実験小説として書かれたわけではないだろう。

密林の奥で進行する奇怪な事件を語る伝奇的な冒険小説であり、ぞくぞくしながらページを捲る手ももどかしく読んでもらおうとした物語のはずだ。途中で行き悩んで放り出してしまう難読書になるのはおかしいのではないか。(中略)

ということで、まず行ったのは、語学的解釈の不備をできるだけなくす努力だ。

たとえば、3つの既訳には、「クルツはドイツ語で、“短い”という意味だが、その名前は彼の人生のほかのすべてのことと同様に真実を語っていた」という論旨の訳文がある。これを私は、「真実を語っていなかった」と逆にした。

原文は、the name was as true as everything else in his life もちろん普通は「〜と同様に真実だった」でいいが、その直後に He looked at least seven feet long. (身長が少なくとも2メートル10センチあるように見えた)とある。つまり「短い」という名前は真実を語っていないのだ。こういう場合は否定的に訳さなければ論理が通らない。たとえば、a monkey as big as a mouse は「鼠と同じぐらい大きな猿」ではなく「鼠ぐらいの大きさしかない猿」なのである。

もうひとつ例をあげてみる。瀕死の黒人たちが大勢横たわっている暗い林の中で、河の早瀬の音が響いている。その音を、マーロウは、as though the tearing pace of the launched earth had suddenly become audible と表現している。それぞれの訳は次の通りである。

まるで動き出した大地の激しい足音が、にわかに聞こえだしたかのそうな(中野訳)

まるで動き出した地球の激烈な足音が、突然聞こえたかのようにね。(岩清水訳)

あたかも、猛烈な勢いで動き出した大地の足音が突然聞こえだしたかのような(藤永訳)

まるで地球がすさまじい速度で宇宙の中を飛ぶ音が、不意に聞こえ始めたかのようだった。(本書43P)

既訳はいずれも大地ないし地球の足音と解釈しているが、しかし大地や地球がどこを歩いて音を立てるのか、イメージが浮かばない。それにこの早瀬の音は、uninterrupted(途切れることのない)と形容されている。ザッーという連続音なのだ。足音なら、ズシン、ズシンという断続音だろう。

launched earth の launch は「投げる」「放つ」「発射する」という意味。つまり地球が投げ出され、あるいは発射されて、飛んでいるイメージだ。もちろん宇宙空間には空気がないので、公転する地球がザッーと音を立てるはずはないが、そういう音が突然聴こえだしたかのようだ、と言っているのだ。

突飛な解釈と思われるかもしれないが、じつはコンラッドは天体の運動のイメージをよく使う。『闇の奥』にも、「動いているとはわからないほどゆっくりと曲線を描いて降りてきた太陽が、ようやく空の低い所まで来て」とか.....もっと重要な例は『闇の奥』の姉妹編ともいうべき『ロードジム』(これもマーロウが語る物語だ)に見られる。(中略)

さて、個々の訳語でまっさきに注目されるのは、有名な「The horror!The horror!」というクルツの囁きかもしれないが、これはそれほど悩むこともなく「恐ろしい!恐ろしい!」というごく普通の選択肢をとった。藤永氏が訳註で説明しているとおり、日本語の「地獄」は幅広いニュアンスを持っているので勇み足になっているわけではないと思う。

それよりも、最後まで悩んだのは、何と言ってもwilderness(ウィルダネス)の訳語だ。結論からいうと、本書では基本的に「魔境」という古めかしくもおどろおどろしい訳語をあてることにし、その一部は、原語は wilderness の一語であるけれども、「魔境ともいうべき原始の自然」とか「緑の魔境」という説明つきの言葉にした。

しかし、どういう訳語をあてるにせよ、若干の解説が必要だろう。wilderness とは人間の手が入っていない自然の土地を指し、英和辞典には「荒野」「荒れ野」「荒地」「未開の地」「無人の地」「原始の自然」などの訳語が載っている。ただ『闇の奥』は植物が氾濫する密林が主体なので「荒野」「荒れ野」「荒地」は合わない。

一方、「未開の地」「無人の地」「原始の自然」はクルツを狂わせ、マーロウに深い恐怖を覚えさせる魔性に欠ける。人が住まない所ということでは「人外境」という言葉もあり、これと「魔境」を合わせた「人外魔境」という言葉もある。後者は小栗虫太郎の伝奇冒険小説「人外魔境シリーズ」の第1作がコンゴを舞台にしていることから捨てがたいのだが、語感があまりにも伝奇小説的すぎるので採らなかった。

ついでにいうと、漱石の『草枕』にいう「人でなしの国」は『闇の奥』の wilderness を実感するのに多少役立つかもしれない。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう(夏目漱石『草枕』)

どういう国なのかよくわからないが、とにかく人間的な価値尺度が通用しないのだろう。魑魅魍魎が棲んでいそうな恐ろしげなイメージがある。マーロウは「ただの人が作った人の世が住みにくい」と感じる漂泊の冒険家だが、その彼にも「人でなしの国は人の世よりもなお住みにく」いと骨身に染みたというのが『闇の奥』の話だといえなくもない。

もう1つ、聖書で wilderness といえば、パブテスマのヨハネが人々に悔い改めよと呼ばわる「荒野」(あらの)であり、人の世に汚されていない場所というイメージも持っている「原始の自然」と捉えた場所の wilderness にも無垢のイメージがあり、憧憬の対象にもなるわけだ。(中略)

14歳で日本中を震撼させたあの事件を起こした少年は、「俺は真っすぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」と作文に書いた。あれはダンテの『神曲・地獄篇』から取ったものだが、少年の「暗い森」は『闇の奥』の密林とも地続きだったかもしれない。『神曲』の英訳の中には「暗い森」を dark wilderness と訳しているものもあるのだ。(中略)

この普遍性から、ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』、コッポラ監督の『地獄の黙示録』、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』、村上春樹『羊をめぐる冒険』に『闇の奥』の影響があることはつとに指摘されているが、最新作の『IQ84』にもクルツとの対面に似た場面が出てきた。伊藤計劃の『虐殺器官』は『地獄の黙示録』経由のSF版『闇の奥』である。(中略)

コンゴでの植民地支配という時代背景に押し込めれば、クルツはすでに、幽霊の正体見たり枯れすすきだろう。しかし『闇の奥』が意図的に曖昧化し普遍化した闇に目を凝らすなら、21世紀の世界でも、クルツの幽霊はまだまだ色々な所にに現われるに違いない。(引用終了)


以前に挫折経験のある『闇の奥』を、もう一度読んでみようと思ったのは、マーロン・ブランドが『地獄の黙示録』のカーツ役を、どのように創造したかに興味があったことが大きく、映画でのカーツ大佐のシーンが、原作にはない部分が大半ということを知り、実際の原作を確認したかったからというのが、最大の理由でした。

この理由は『闇の奥』を小説として味わうことにおいて、不純な動機だったかもしれないのですが、何かしら、強い思いがなければ、この作品を最後まで読んで味わうのは困難なことも確かで、2冊の翻訳本を読んで、あらためて思うのは、やっぱり、この作品は「とてももやもやとした作品」だということです。

黒原氏が、藤永本の小説終了後の解釈にある、帝国主義や植民地支配への批判から、『闇の奥』のコンラッドの植民地支配の描き方をも批判するのはどうかということも一理はあるのですが、この作品に対して「すでに正体見たり」とするのも、やはり「あとがき」の中でのことで、

本文中は、どちらも「もやもやとしている」ことには変わりはなく、黒原氏が言われるように「密林の奥で進行する奇怪な事件を語る伝奇的な冒険小説」として読むことにもストレスを感じる人は多そう。

文庫のお手軽さは魅力的なものの、手軽に読み終わったところで「もやもやした感じが一向に解決しない」ことを考えれば、藤永訳の豊富な注釈とともに、険しい密林を分け入るように、読みすすんでいく方が、読み終わった後の充実感が感じられる可能性が高く、1冊だけ読むとしたら、冒頭に解説があり、また読了後の「もやもや」に関して「アフターフォロー」がある、藤永本がもっとも満足度が高いと思われますが、

いずれにしても、1回読んだから...という作品ではないので、両方読むのがベターだと思いました。

◎[参考サイト]うただひかるまだがすかる(4人の訳の比較があります)

☆こちらのレヴューは、3者の訳本すべてに共通なのでご注意ください。
◎『闇の奥』黒原敏行訳(アマゾン)


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by yomodalite | 2011-12-17 23:17 | 文学 | Trackback | Comments(0)

『闇の奥』の奥/藤永茂

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☆[1]のつづき

下記は、本書の冒頭「『地獄の黙示録』のエンディングをめぐって」より省略引用。

映画『地獄の黙示録』はベトナム戦争の、小説『闇の奥』は白人のアフリカ侵略の核心に迫った優れた芸術作品とみなされている。奇才オーソン・ウェルズは『闇の奥』をラジオドラマ化し、その後映画化しようとするものの断念して『市民ケーン』を制作。小説のクルツは丸禿げだが、ウェルズがクルツに扮した写真では髪がある。ウェルズはヒトラーをクルツに重ねて考えていた。

それから、40年後、コッポラは『闇の奥』を翻案した『地獄の黙示録』を撮影し、カーツを演じたブランドは丸禿げの男として現われる。この翻案されたクルツは映画の終わりの30分ほどの間に出てくるのだが、このエンディング、そしてブランドの演技が多数の評論家から「むしろない方がよかった」などと、散々にこき下ろされた。『ニューヨーク・タイムス』の映画評がその代表例である。

ほとんどすべての批評家が認める、この映画の最高の見せ場は、ワグナーの「ワルキューレ」の音楽を空から大音響で鳴らしながら(映画の背景音楽ではない)ベトナムの村落に襲いかかる米軍ヘリコプターの大群と、その指揮をとるキルゴア中佐の描写だ。


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『ニューヨーク・タイムズ』の映画評論家キャビーはこのキルゴア中佐をベタ褒めにし「息をのむような迫力と魅力でロバート・デュバルが演じ切ったキルゴアは、この映画の中のカーツの馬鹿臭い仰々しさの中に全く欠けている優れた資質のほとんどを備えている。カーツの方と言えば、結局のところ、彼の行動もセリフもこの映画の他の部分とはおよそ何の関係も持っていない。

米国のベトナム戦争介入を批判した著書『ベスト&ブライテスト』で有名なハルバームスタムも『地獄の黙示録』をベトナム戦争についてのベスト映画と呼んでいるが、エンディングについては「ブランドが出てくる終わりのところのたわ言はない方がいい」などと手厳しい。(yomodaliteのつぶやき:NTってどんだけバカなの?)

この映画の解説として日本でもっともポピュラーなのは立花隆『解読「地獄の黙示録」』だろうが、そのページ数の大部分が映画のエンディングを語ることに費やされているのはいささか異常である。(yomodaliteのつぶやき:立花氏が参考にしているのは、主に海外の雑誌と夫人の本だけで、国内の英語弱者のマスコミと読者に「上から目線が出来れば」それでOKだからw。

追記:立花氏の解釈については、私のマイケル・ジャクソンのショートフィルム解釈の前段「HIStoryと黙示録」の④〜⑧の中でも触れました。


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Lieutenant Colonel “Bill Kilgore” Robert Duvall



エンディングに悩みつづけたコッポラは、それから、23年もたった2001年に新たに編集した『Apocalypse Now Redux』(邦題「特別完全版」)を発表する。しかしエンディングの大きな変更はなく、この完全版の公開後もコッポラは満足できずローリング・ストーンズ誌のインタヴューで「あれは嘘のエンディングだ。僕の中には本当の結末がある」と奇妙な発言をしている。

果てしなく続くエンディングの腰の定まらなさは、一体何に由来し、何を意味するのか?アメリカの著名な文学評論家ハロルド・ブルームは、それを、コンラッドの『闇の奥』の意図的な曖昧性に求めている。

しかし、クルツにまつわる曖昧さ、晦渋さは読者向けのものであり、その創造者コンラッドの内心ではクルツの担う意味が明確にされていたとは、私は考えない。言い換えれば、多くの論者がヨーロッパの帝国主義的アフリカ侵略の核心を摘出する文学作品とみなす『闇の奥』には、本質的な曖昧さ、したがって、欠陥があると私は考えるのである。

そして、この根本的な欠陥がそのまま『地獄の黙示録』に移植されざるを得なかったことが、コッポラの終わることのない懊悩苦難の源泉であり、この映画が遂にベトナム戦争の本質の剔出に成功しなかった理由でもあると私は考える。


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映画『地獄の黙示録』の最初の脚本は、ジョン・ミリアスによって書かれているが、映画の完全版脚本とのもっとも大きな違いは、自分を殺しにきたウィラードを前にして、静かに死を覚悟し、カーツが訥々と語る告白の有無である。エレノア夫人その他の証言からも、コッポラは映画のエンディングをミリアス脚本よりも『闇の奥』に近くしたいと考えていたことが知られている。

表面的には、ミリアス脚本の方が完全版よりもはるかに小説に忠実で、コンラッドの原文そのものの科白がたくさんある。ウィラードにあたるマーロウが、クルツの死後、故国に戻ってクルツの婚約者に面会する場面が、小説の終わりにあるのだが、ミリアス脚本もウィラードがアメリカに帰って、カーツの妻に会う場面で終わっている。これは完全版のエンディングには全く欠けている。

では、コッポラが完全版の方をコンラッドの原作により近いものと考えたのはなぜだろうか? その答えはカーツ大佐の最期の告白に伏せられているとしか考えようがない。その重い告白の全文を読んでみよう。

俺はずっと恐怖を見てきた......お前も見てきた恐怖だ。だが、お前は俺を人殺しと呼ぶ権利はない。俺を殺す権利はある。お前にはそれをやる権利はあるが......しかし、この俺を裁く権利はない。恐怖が何を意味するかを知らない連中に、何が必要不可欠かを言葉で描いてみせるなんて出来やしない。恐怖。恐怖には顔がある......そして、お前は恐怖を友にしなければならぬ。恐怖と精神的な戦慄はお前の友なのだ。そうならなければ、恐るべき敵になる。恐怖と心を襲う戦慄は真に恐るべき敵なのだ。

特殊部隊と行動を共にしていた時のことだ......もう遠いはるかな昔のことのように思える......我々はある難民収容所に入って子供たちに予防接種をした。子供たちにポリオの予防接種をした後、そこから引き揚げたのだが、老人がひとり、泣きながら走って追っかけてきた。だまって見てはおれなかったのだ。すぐに取って返してみると、ベトコンがやって来て、予防接種をした腕を1つ残さず切り落としてしまっていたのだ。

山積みになってそこにあった......子供たちの小さな腕が山積みになっていたのだ。忘れもしない。俺は.....俺は.....俺は泣いた.....まるでどこかの老婆みたいに泣いた。俺の歯をむしり取って捨ててしまいたかった。何をしたいのか、自分でも分からなかった。ただ、これは心に刻んでおかなければ、絶対に忘れたくない、決して忘れてはならぬ......と思ったのだ。

次の瞬間、俺は悟った.....撃たれたように.....そう、ダイアモンドで......一発のダイアモンドの弾で額を撃ち抜かれたように.....そして思ったのだ。何とまあ、あの大した根性。あの精神。あの行為をやってのける意志。完璧で、真正で、完全で、透明で、純粋な意志。そして、ベトコンは我々より強いのだということを、俺は理解した。なぜなら、あれをやったのはモンスターではないと彼らは言い切ることができたからだ。

彼らはれっきとした人間たち......鍛え抜かれた精鋭であり、心底から戦う男たちだ。家族もあり、子供もあり、愛情にもあふれ、しかも、彼らは、あの強さ、あの残忍行為をやってのける......強さをもっていたのだ。もし、ああした男たちでできた十個師団が俺の指揮下にあったなら、ベトナムでの我々の困難は立ち所に片が付いてしまっただろう。

道義心があって......しかも同時に、無感情に、激情にも走らず、思慮もなく......そうだ、思慮分別なしに、原始的な殺戮本能を行使できる男たちが必要なのだ。なぜなら、思慮分別というやつが我々を打ち負かすことになるからだ。


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Colonel “Walter E. Kurtz” Marlon Brando


米軍最高幹部への昇進を約束されていたカーツは、その栄光のコースをかなぐり捨てて、密林の奥に分け入り、先住民に君臨する王となり、原始そのままの殺人鬼となった。その変貌の転機となった劇的事件を刺客ウィラードに語っているのである。しかし、コンラッドの『闇の奥』には、このカーツの告白に結びつけることが出来そうなクルツの発言は見当たらない。それでもなお、コッポラが完全版脚本の方がコンラッドの原作に近いと考えたとすれば、私たちはカーツの告白をさらに深く読み解く必要があるようだ。

西欧文学には、墜落(フォール)をテーマとする執拗な伝統がある。定冠詞をつけてザ・フォールとすれば、アダムとイブの物語、神の恩寵を失った人間の地獄落ちを意味する。エリオットの詩『虚ろな人々』もこの系譜に属する。人間と文明の本質的な空虚さと堕落というテーマの20世紀的寓話をコンラッドの『闇の奥』に読んだエリオットは、『闇の奥』の中の黒人ボーイの言葉「ミスター・クルツ ー 彼、死んだ」(Mistah Kurtz - he dead)を『虚ろな人々』の冒頭の題詞に選んだのである。だから、この2つの作品の内容は密接にからみ合っている。

『地獄の黙示録』のエンディングで、カーツ大佐は最後の告白の前に『虚ろな人々』の最初の二行までを読み上げる。

われらは虚ろな人間
われらは剥製の人間
互いにもたれかかり合って
頭には藁がつまっている。ああ!
われらの乾いた声
互いに囁き合うときのその声は
ひそやかで意味もない
枯れ草の中の風のように、あるいは
ワインの絶えたわれらの地下倉の中で
砕けたガラスを踏むネズミの足音のように
形のない形、色のない陰
麻痺した力、動きのないジェスチャー

ここで、一人称で語るエリオットを含めて、この詩を読む者が「われら」であり『地獄の黙示録』のカーツ大佐も「われら」の1人と考えるのが自然だろう。だから、立花隆氏も「独立王国のトップまで登り詰めたところで、発見できたのは自己の空虚さでしかないということになったのである。だから、We are the hollow men(「我らは空ろなり」)とつぶやきながら、自分の空しさを終わらせるために、自分を殺してくれる人間の出現を待つということになってしまったのだ」と結論する。

そうだとすると、カーツ大佐はコミカルな存在になる。虚ろな「われら」の1人と自覚して自己嫌悪に落ち入り、挙げ句の果てにウィラードに殺してもらうとは何とも冴えない結末ではないか。だが、別の解釈も可能のように思われる。問題は、カーツが口ずさんだ1、2行に続く次の6行にある。

真っすぐに前を見据えて
死の彼岸の王国へと渡って行った者たちが
たとえ、万一、われらを覚えていようとも
破滅した烈しい魂としてではなく
ただ単に、虚ろな人間
剥製の人間としてでしかない。


ここで、エリオットはクルツを「真っすぐに見据えて、死の彼岸の王国へと渡って行った者たち」の中に数え、虚ろな「われら」とはっきりと区別している。こうなると、1、2行まで口ずさんだところで、虚ろな言葉を並べ立てるカメラマンに本を投げつけるカーツ大佐は、人間の邪悪さと悲惨さを正面から見据えながら従容と死を迎える自分をクルツと同定していたのだと解釈できるかもしれない。

コンラッドのクルツを何らかの意味で英雄的と考えるか、考えないか ー これは『闇の奥』解釈の中核の問題である。『闇の奥』を下敷きにして『地獄の黙示録』の制作をきめた時、コッポラは同じ問題をそっくりそのまま抱え込んでしまった。カーツ大佐をある意味で悲劇的英雄として描くか、描かないか ー この決断がコッポラには最後まで下せずに終わってしまった。これが映像的には輝かしい成果を上げながら、思想的メッセージとしては『地獄の黙示録』が名作ならぬ一種の「迷作」に止まったと考えざるを得ない理由の1つである。

しかし、その失敗した根本的理由は別にあり、しかも、その理由もまた、コンラッドの『闇の奥』から必然的に移ってきたウィルスに『地獄の黙示録』が冒されたからだと考える。その症状はカーツ大佐の最後の告白の中に見ることができる。

(引用終了)


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ここから、藤永氏は『地獄の黙示録』の初期の脚本にはないカーツの告白が、どのような経緯で映画に組み込まれていったのか?という疑問を抱き、カーツが語った切り落とされた腕のエピソードの真偽に迫り、100年前のコンゴの蜜論で何があったのか?を綿密に探り、表題にある、コンラッド、植民地主義、アフリカの重荷に対して、これまで為されてきた論考から、さらに先鋭化した「闇の奥」のまさに奥を著されています。

それは、本書の核となる論考ですが、こちらにメモすることは控えます。

☆参考サイト『本と奇妙な煙』
◎『闇の奥』の奥[1]
◎『闇の奥』の奥[2]

わたしが引用した箇所は、冒頭部分の極一部で、本書は「腕切り落とし事件」の真相を追った部分や、レオポルド2世の虐殺・収奪の歴史を軸に、西欧中心の歴史の横暴の告発を主内容としたものなんですが、氏が物理化学者のためか、凡庸なジャーナリストが社会告発をするような手触りとは異なり、『闇の奥』の文学論としても、また、この作品が優れた文学作品として、長く研究対象とされてきた理由すらも見えてくる、大変な力作だと思いました。

藤永氏は、カーツ大佐を演じたマーロン・ブランド自身には触れていませんが、立花氏の本を読んだときのように、気分が悪くなることがないどころか、ここまでの藤永氏の真摯な作品追求に胸が熱くなり、

扱われているテーマのシリアスさに対して相応しくないことは、よぉく分かっているのですが、読んでいて清々しい興奮を味わってしまうのは、きっと本物の「知の巨人」に出会えたからだと思いますっ!

藤永氏は現在85歳で、紹介した著書2冊の執筆時も80歳....他にも、『ロバート・オッペンハイマー』の本も書かれてて、まだ読んでないのに...なぜか...すでに涙が...

☆追記:読了しました!『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』


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ちなみに、藤永氏が疑問とされている「カーツ大佐の科白はどこから来たのか?」ですが

ブランドの自伝にはこう書かれています。

1976年の夏、私は『地獄の黙示録』に出演するためにフィリピンに行った。ところが到着してみると、監督のコッポラは鬱になったかと思うと、次にはパニックに陥るという有様で、撮影は遅れ、物語の結末もきまっていなかった。脚本の出来も話にならず、全編ドラマ性に欠けていた。

そこで「このまま、脚本を使うのもいいかもしれないが、変えないと我々が損するんじゃないかな。『闇の奥』では、コンラッドはクルツという男をイメージばかりが肥大した、ほとんど神話的な人物として書いている。映画でもここを押さえないといけないよ。カーツ大佐は孤高で謎に満ちていなければだめなんだ。その姿が見えるのは、ぎりぎりまで私たちの想像の中だけにしておくのさ」

オリジナルの脚本のカーツ像にしがみついていたら、彼にまつわる不吉な謎に焦点をしぼることができないと私は主張した。私の申し出にコッポラは賛成し、私はハウスポートにこもって脚本をまるまる書き直し、カーツ大佐の風貌について思いをめぐらせた。コンラッドはクルツの特徴をこう記している。

「頭は見事に禿げている。未開のジャングルが磨きあげたのだ。見よ!あれは玉、象牙の玉である......」

私はコッポラに告げずに、頭をツルツルに剃りあげ、カメラマンと照明部にエキセントリックな照明を当ててもらい、心ここにあらずといった口調で科白をしゃべり、そうして撮影したテストフィルムをコッポラに見せて、観客の耳に初めてとどくカーツの声は、暗闇から聞こえてくるべきだと言った......

プロットを再構成するだけでなく、カーツの科白も書いた。その中の死を目前にしたモノローグは、45分間という長セリフで、自分を見失いそうになるまでのめり込んだ役といえば、このカーツ大佐ぐらいである。自分を極力コントロールしなければならなかった独白シーンは、私が演じたものでは最高の部類に入ると自負している。

即席で創りあげた演技だった......コッポラは2回撮影したが ー 45分間のアドリブ演技を2回である ー そのフィルムはほとんど使わなかった。インパクトがあると私は思ったのだけれど、映画全体のなかでは浮いてしまったのかもしれない。モノローグのフィルムは部分的にしか見ていないので、はっきりしたことは言えないが。


(上記は、P432〜P446までの文章を省略して引用。わたしは、個人的にも莫大な資金を投入し、映画製作の全責任を負わなくてはいけない監督コッポラに気遣いをしつつも、エンディングへの不満を述べた文章だと思いました)


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私は、本書を読んでいるうちに(冒頭部分だけでなく)、なぜ、ニューヨーク・タイムスや、ローリング・ストーンズ誌に映画評を書いているような人に、ブランドの演技がこれほどまでに貶されたのか?という理由とか、夫人の本に記された、コッポラの映画製作の実務的苦悩とはまた別の苦悩があったことなども透けて見えてきました。

yomodalite註:これらの感想は、個人差があり...というか、むしろ、そのような効果は、私だけに見られるおそれがありますので、ご注意ください(笑)。

また、立花氏の『解読「地獄の黙示録」』では、通常の映画製作とは比較にならないほど監督が苦悩して制作したという事実から、その苦労を「上からねぎらうような態度」で傑作としているものの、

「世界文学に匹敵するレベルで作られた映画」という意味において、そこに、世界文学が引用されていること以外、本質的なことは何もわかっていないじゃん!とか、

「闇の奥」が語られて来た文脈を多少はわかっていたなら、ブランドの「カーツ」への批判が、その議論と関係ないわけないってことに「ピン」と来て!とか、

映画『地獄の黙示録』の解読と言っても、実際の映画の解読ではなく、原作本の訳者と、字幕職人(戸田奈津子氏)への、自分の方が英語デキル自慢ばっかりじゃん!とか、

アメリカ人が、ベトナムや黒人を見る目に「日本人」をまったく感じないって(呆)などと思うのも、きっとわたしだけだと思いますが(笑)、

『地獄の黙示録』のウィキペディア「撮影中のトラブル」に記述されているような、俳優たちのエピソードは、俳優たちに責任を負わせようとする、予算に関して本来責任を負うべき人のリークと、無責任なマスコミの合わせ技で、無声映画時代に溯るほどの伝統的手法であり、そういったことに未だに無自覚で、うかつに信じてしまうのも、どんなものかと.....

☆☆☆☆☆(満点)

yomodaliteのつぶやき:今頃になって気づいたんだけど、、私が『闇の奥』を理解しようとする気持ちのほとんどは、おバカメディアやブロガーによる、ブランドへの名誉毀損が許せないからなんだなぁ。。。

◎『闇の奥』の奥―コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷/藤永茂(著)
◎[参考サイト]さてはてメモ帳 Imagine & Think!

☆「私の闇の奥」(藤永氏のサイト)にコメントされた、
高名な理論物理学者、川崎恭治氏と藤永氏のやりとり

◎白人にも黒人にも公平にする?(1)
◎白人にも黒人にも公平にする?(2)
◎白人にも黒人にも公平にする?(3)
◎白人にも黒人にも公平にする?(4)
◎白人にも黒人にも公平にする?(5)

☆闇の奥/ジョセフ・コンラッド[3](翻訳:黒原敏行)につづく


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by yomodalite | 2011-12-09 18:06 | 文学 | Trackback | Comments(2)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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