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人生を変えたければ「桜井章一」を見よ/桜井章一、名越康文

人生を変えたければ「桜井章一」を見よ! (成美文庫)

桜井 章一,名越 康文/成美堂出版



桜井章一氏は、20年間無敗のまま引退した伝説の麻雀士。著作も多い方なんですが、名越康文氏との共著があることを知り、初めて読んでみました。

対談ではなく、桜井氏が語ったテーマに対して、名越氏が「診断」を下すという形になってはいますが、精神分析をされているのではなく、名越氏は、テーマを掘り下げたり、解説をされるという形になっています。

共に、自己啓発分野での著作が多い方なので、どこを選ぼうか迷いましたが、

下記に少しだけメモしておきます(省略して引用しています)

「友達ではなく仲間」

(桜井)「嫌いな人っているんですか?」と聞かれることがある。確かにそう考えると、嫌いな人はあまりいない。ただ、私には友人とか親友とか、そういった友達がひとりもいないことに気づいた。では、何がいるのか?私には《仲間》がいるのだ。

「友達」、「親友」というくくりで考えてしまうと、人間関係の幅が狭くなる。どうしても都合のいい人間、分かり合える人間を選んでしまうからだ。ただ、そこに《仲間》という感覚を持ち込むだけで世界が広がる。1人では絶対に出来ないようなことも、仲間がいれば可能になる。人間関係で悩んでいる人も、一対一の直線的な思考ではなく、仲間としての丸い輪、円のような考え方にするだけで、かなり違ってくるのではないか。

(名越診断)僕にとっての友達、親友というのはシンプルで《尊敬できる人》です。《対等な人》と思ったことはありません。ただし、この《尊敬》の内容は、社会的な価値観や道徳とは何の関係もありません。少なくとも僕はそう認識しています。そして不思議なことに、そういう人たちと近づけば、近づくほど、その人の凄さを言葉に表せなくなるのです。桜井氏は仲間を《円》という言葉で表現しています。ここに僕は《円》という表現でしか言い表せない、人生の妙味を感じます。

ただ、《円》という思想、考え方は非常に危険な部分もあります。禅の世界や、タオイズムの悟りでも《円》が用いられます。それら一大思想を築いた方たちが悟りの境地で体感したのが、《円》だったということにはまったく異論はありません。ただ、悟ったふりをしている人、悟りの境地に憧れるあまり、大きなエゴをもってしまった人も、やはり《円》を持ち出すものなのです。《円》というのは非常に難しい概念で、そこにはさまざまな考え方が玉石混淆していますが、それらのほとんどが、玉ではなく《石》です。そういった世の常を見定めてゆくことが大切だと思っています。


「目的意識をもたない」

(桜井)現代に生きる人々にとっての目的意識とはいったい何だろう。答えはいろいろあると思うが、集約すると、

「勝つため」
「偉くなるため」
「お金持ちになるため」

この3つに行き着くのではないだろうか。こんな目的をもつから人間はダメになっていくのだ。結果だけを求め、そこに行き着くまでの過程はどうでもいいという精神。結果主義は人間の弱い心をくすぐり邪心を刺激する。他人を羨むとか、妬むとか、他人よりも偉くなりたいとか、お金持ちになりたいとか。そんな目的意識、生き方は自然界にはない。

(名越診断)目的意識が自身の確かな感覚体験に基づかず、既存のものを鵜呑みにすることほどみじめな生き方はないと思います。何がみじめかと言うと、その人からどんどん個性が失われ、考えること、感じることもどこかで聞いたような中身になってゆくからです。でも、無気力になっているわけではないのです。逆にやたら活発な人が多い。それはただ熱を感じさせるだけで、心の弾力や強さは伝わってきません。

目的意識は人のためにもつようなところがあります。自分を尊敬させるため、見えやすく分かりやすくするため、あるいは真面目そうに見せるために持つこともあるかもしれません。しかし、真の意味での目的、目標というのは、人生を生き切った時にはじめて、何を目指していたのか気づいたり分かったりするものなのではないでしょうか。

また道徳、宗教、哲学というのは崇拝の対象になりやすいものです。崇拝とは自分の欠落した部分を埋めようとする行為で、誤った、《熱》を持ちやすいものなのです。

熱さとは《欠落》です。しかし、だからと言って宗教的なものを何でも否定しようとするのも考えものです。ヒステリックな言動、否定しようとする情熱も何かの欠落なのです。そういうことを僕たちは理解しておかなければならないと思います。

(引用終了)

《円》という概念は玉石混淆で、ほとんどは《石》。熱さとは《欠落》

ふぅ。。。

桜井氏の魅力が伝わりにくい部分を紹介してしまったかも。。桜井氏の本はまた読んでみようと思います。

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by yomodalite | 2015-01-16 13:16 | 精神・教育・自己啓発 | Trackback | Comments(0)

中津でミニコミを買う

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大阪市中津「シカク」の看板猫 “にゃん太ちゃん”



夜間飛行 ‏@bookyakan(6月8日)

個人的には「広報」や「広告」の時代は終わったと思います。これからは「狭報」や「狭告」の時代になるのではないでしょうか。/高城剛メルマガ最新号より 
http://bit.ly/O4pOI7


ホント、そう思う!
広報は、そうではないようにみえるものでも、結局は広告ばかりだし、広告は、なんだかんだと、結局は危険を煽るものばかりだし、、
有料メルマガ執筆者のクオリティ情報は、見てるだけで、うっかり自分のクオリティが上がった気分にさせられちゃうし、、

それに、

外国人とカンタンなコミュニケーションが出来るぐらいの英語が話せて、どこに行っても困らないようなタフな性格と能力をもったグローバル(世界中で誰とでも交換可能)な「人材」とか、

女性はもっと社会進出すべきだと、専業主婦を目の敵にするように煽られ、男女平等の元、賃金は、男女共に、女性のレベルに下げられて、国から、個人として直接管理されやすいような「人材」にされないように

もっと、ユルユルな感じに、自分を磨いて行きたいんだよぉ。。

んなわけで、

「人生をより低迷させる旅コミ誌」

というキャッチコピーに惹かれて『野宿野郎』を探しに、近所の中津に行ってみる。

ひまだったから...ww

◎オフィシャル公式「野宿野郎」ホームページ

東京では中野も新宿もなぜか苦手で、、タコシェも、模索舎にも行ったことはなかったのだけど、こちらでご近所になった「中津」に『野宿野郎』が置いてある、自費出版ミニコミ書店があると知り行ってみたのだ。

で、ここが、中野ブロードウェイとは別世界の「中津商店街」。


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快晴の日の午後3時ぐらいで、この暗さ!
周辺には、コジャレた店もないこともなく、梅田からも至近距離なのに、グランフロントに客を奪われたせいでしょうか。。(絶対違うw)


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アンダーグラウンドに「身を落とす」ような暗さがなくて、なにが「自主制作」だよ!インディーズのくせに全国区で有名だなんて、、もう飽き飽き・・そんな風にしっかりと自分に言い聞かせないと、入る勇気も、行く理由もない「商店街」の中程に、ほとんどそこしかやってないようなお店「シカク」をようやく発見。



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中に入ると、表の印象よりはずっと家庭的な感じで、拾い猫とは思えない「美男が抱っこ」するのに相応しいような猫もいて、



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思わず、

永遠なる手と目によって
お前の軀は畏るべきシンメトリーに形づくられたのか
ー by William Blake

と心の中で言いつつ、何枚かモデルになってもらう。



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最近は「ZINE(ジン)」と呼ばれているらしいミニコミを、がっつり立ち読みして物色する予定だったんだけど、最初に手に取った3冊を「感触」だけで(最近コンタクトをした状態だと近くが見づらいという理由での)大人買い!

( 大人のミニコミ買いは、棚を指差し「ここから、ここまでお願い」が正解だよね )


帰宅後、座り読みして意外だったのは『野宿野郎』の主催者が女性だったことと、乙女心よりも純情なドウテイ心をむやみに追求する雑誌『恋と童貞』第1号・特濃版を読んだら、2号も読みたくなったことかな。。

◎『恋と童貞』編集長のブログ

あーーー、わたしも人生をより低迷させるようなキャッチフレーズを作ったり、

むやみな追求をしていきたいっ!



名越康文 ‏@nakoshiyasufumi(6月6日)

なにかのために、は残念だがほぼ役に立たない。何かが好きだ、のみがなにかのためになる。ところが、ために、と、好きだの区別ができない個人が大勢になっている。ヒントはためにと好きだは、雲泥に違う感覚だということだろう。だからどっちかなぁ?はすべて観念(ために)と疑ってよい。覚え書き。


うーーーーーん、やっぱ、野宿は迷ったけど

MJのことは圧倒的に好きだわw

ゲーテの名言
人が旅するのは到着するためではなく、旅行するためである。 

しあわせの名言@名言ナビ @happy_meigen
幸福とは、旅の目的地のことではなく、旅のしかたのことである。
マーガレット・リー・ランベック



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by yomodalite | 2013-06-11 10:25 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)

精神科医、名越康文氏の言葉から(2)

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(MJの手書きメモ)



名越先生、あまりにも為になったので、ほんの少しだけ紹介させてくださいませ。ぺこり

下記は、名越氏の有料メルマガから。感動された方は、ぜひ購読をご検討くださいませ。

◎名越康文のメールマガジン「生きるための対話(dialogue)」


2012年10月1日 Vol.037 より(大幅に省略して引用しています)

◎「欲深い」人は退屈しない

必要がないからといって、いま僕たちがつつがなく過ごしている日常に満足して、そこから足を踏み出さなくなってしまうと、人間はどうしたって暇になります。暇になった人間は必ず退屈する。退屈になるとどうなりますか。いろいろあるけど、心理学的にまずいのは、退屈していると、人は他人を頼りたくなるんです。

誰かかまってくれないか、誰か私をほめてくれないか、誰か私の暇を、私の退屈をどうにかしてよ、そう考えるようになる。

退屈から期待が生まれる。そしてそれはあっという間に不満、怒りに転化していきます。

そう考えると、「人間の能力が秘めた可能性」を少しでも開いていきたいという欲を持つことは、そういう「退屈から怒り」へのスパイラルから逃れる、非常に有効な手段となりうることがわかります。

ですから、もしもいま退屈しているという人は、自分がどこかで自分の人生を見限っていないか、ということを見直してみてほしい。そもそも、こういう講座に来る人は、心のどこかに「人生こんなもんじゃないはずだ」という「欲」が出てきていると思うんです。その欲を大切にしてほしいと僕は思う。


◎「人を変える欲」、「自分を変える欲」

欲とか、夢とか、僕はけっこう誤解を招きやすい言葉を使っていますが、たとえば僕が今日使っている「欲を持て」「夢を抱け」というのは、あくまで「自分がどうするか」という欲であり、夢である、ということは間違えないでくださいね。

つまり、「あの人に振り向いてもらいたい」とか「息子が定職についてほしい」といった「他人にどうにかしてもらおう」という欲や夢は、今日の話とは無関係です。というよりも、そういう欲は、幸福に生きるための妨げになってしまいます。そういうふうに他人に自分の欲を託すようになると、その人は必ず不幸になっていきます。

他人に変化を求める欲がいけないのは、それが叶わないからじゃありません。他人がこちらの思うように変わってくれることだってある。でも、そうやって他人が変わってくれたとしても、やはり、そういう欲や夢を持ってしまった人は不幸なんです。

他人を変えるんじゃなくて、自分を変えていこう、成長させようという欲を持つことの意義を、今日はお話しています。他人を変えるよりも自分を変えることをお勧めするのは、そのほうが叶いやすいからではありません。むしろ、自分を変えるのは、他人を変えるよりも、実は難しいかもしれない。でも、それでも「自分を変える」欲を選んでほしいんです。

それは、「自分を変える」欲を持った人は、それが叶わなかったとしても、そのことを本気で願った瞬間から、幸せになれるからなんです。

他人に変わってほしいと願うことが不幸の温床になるのは、「こうなってくれたらいいのになあ」と他人が変わることを願った瞬間、そこに怒りが生じるからです。怒っているとどういうわけかひどい目に遭う。これは仏教心理学の知恵であると同時に、僕の人生50年の経験則でもあります。


◎今ここに集中する

「自分を変える欲」を持つためには、瑣末な日々の心配事から、できるだけ手を離すことが必要です。瑣末な日々のことにあまりにも心を奪われていると、夢を描く暇がなくなってしまう。

瑣末な心配事というのは、だいたい「未来の心配」です。未来の心配を手放すということは、「今、このときだけ頑張る」という姿勢で取り組む、ということです。明日のことは問わない。今日一日だけ、全力投球する。そういう態度で日々を過ごしていると、だんだんと「今の自分」に目を向ける余裕が生まれてきます。

僕らは通常、信じがたいぐらい未来への不安と妄想に時間を使って日々を過ごしています。「もしこんなことが起きたらどうしよう」という不安に囚われて、「今、ここ」を生きることができていない。

だからこそ、意識的に「今日一日」「この1時間」「この一瞬」に集中する必要がある。いくら根気のない人だって「次の一瞬だけ」がんばることはできるはずです。そして、その一瞬をがんばることができたら、次の一瞬をがんばることができる。


◎諦めない人だけが、学ぶことができる

学び続けていれば、イライラしなくなるし、人と幸せをわかちあえるようになる。ところが多くの人は、学ぶということが人生にもたらす意味をついつい忘れてしまうんです。だからこそ最近僕は、「欲」が大事だと思うようになった。

例えば「人生、所詮は金だ」っていう人って、どこかで人生を諦めていますよね。表面的には欲深いんだけれど「人生そのものに対する期待」という点では、僕のほうがずっと欲深い。「人生、所詮は金だ」とうそぶく人は、はるか手前の段階で人生の本質に触れる豊かさを諦めてしまっている人です。


◎学びたければ、怒りを消そう

近年、日本の政治の場面では、扇動家が票を集めるようになってきましたね。なぜわれわれは扇動家に票を集めるか。

それは、自分が不幸な人生を歩んでいる原因が、自分が努力をしなかったことにあるのを認めたくないからです。

この心の働きに気づかない限り、我々はいつまでたっても、扇動家に煽られることになるでしょう。いまの日本で扇動家が勝つのはしかたがありません。でも、皆さんは個人レベルでは、怒りに勝ってください。そのために必要なのが、今日お話しているような「学び」です。

一人ひとりが学んでいくことの力は、小さいようだけれど、扇動家に勝つにはほとんど、それ以外の手段がありません。

逆に言えば、僕らはそれくらい感情の虜だということです。そして、扇動家はそこをたくみについてくる。恋人のことが好きで好きでたまらないから自分は幸せだと思い、恋人が言うことを聞かなければ悲しくて不幸だと思う。常に僕らは、自分の幸不幸を相手のせいにしようとする。ここに、扇動家がつけいる隙があるんです。

扇動家が力を持つのは、僕たちがいかに感情に振り回されているか、いかに感情によって、現実的な判断を誤っているかということの、ひとつの証拠だと思います。

僕たちはまだまだ、扇動されるでしょう。だからこそ、皆さんにはぜひとも、学んでほしいんです。


◎本気で祈ることの力

日本人は宗教アレルギーだから、「祈り」ということに正面から向き合わないんですね。ほとんどの人は特定の宗教を持っていないから、お坊様の話も、牧師様の話も、ある種の宗教の「枠」に入った話として、自分とはどこか別世界の話としてしか耳に入らない。

「祈り」というのは、すべての人が日常的に駆使すべき、ものすごく実効的な「心理的技法」だと僕は捉えています。少なくとも、そういう実際に僕らが駆使すべきスキルとして、学ぶ必要があるものだと思うんです。


◎信仰と信念

例えば「信念を持つ」ということと「信仰心を持つ」ということには、どれだけの違いがあるでしょう? 無宗教の日本に生きる僕らは、一度そのあたりをフラットなところからよく考えたほうがいい。

怪しい宗教の勧誘とか、詐欺に引っかかりたくなければ、宗教を遠ざけるのではなく、真に宗教的な人間になればいいんです。

自らの心を自分の力で明るくしていこうと決心し、日々、不安を消す努力を重ね、本気で祈る。そういう人こそがよしんば特定の宗教を持たずとも、宗教的な人間であり、明るく、幸せな人生に近づいていくための王道だと思うんです。

(引用終了。名越先生ありがとうございました。ぺこり)

2012年10月1日 Vol.037 では、その他に、

◎他人の不幸に対して心が動かないのはまずいですか?
◎いきなり奢らされることになってもやもやしています

という質問に対しての「素敵なお答え」など、
もっとずっと盛りだくさんで、300倍ぐらい素敵な内容。
感動された方は、ぜひ購読をご検討くださいませ。

◎名越康文のメールマガジン「生きるための対話(dialogue)」

◎内田樹×名越康文「辺境ラジオ」2011年12月25日ポッドキャスト


冒頭の手書きメモ

I truly love all of you.
I am recording tonight, for all of you.
You are my true inspiration forever.
I am living for you, and the children.
Be alive, be free, feel Consciousness(*)
Subconscious(*) , being God.
I love you.

M. Jackson and Family.


On November 11, 2008, Michael Jackson sends another handwritten note to a group of fans gathered in front of his home in Los Angeles.

(*) 手書き文字は、contiousness 、subcontious のように見えるのだけど、、
consciousness → contiousness と書いてしまうのは、MJのいつもの癖だと思う。。

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by yomodalite | 2012-10-03 07:48 | 精神・教育・自己啓発 | Trackback | Comments(0)

精神科医、名越康文氏の言葉から(1)

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マイケル自筆の絵「Our eyes are the windows to the world」



2011年も年末になったからなのか、なんとなく「このブログについて」という文章を書こうかなと思っていたんですが、、とりあえず、いつも気をつけなきゃって思っていることを、端的に著してくれている、素晴らしい文章を発見したので、メモしておきたいと思います。

ちなみに、引用先は、名越氏の有料メルマガからなので、感動された方は、ぜひ購読をご検討くださいませ。(名越先生、あまりにも為になったので、ほんの少しだけ紹介させてくださいませ。ぺこり)

◎名越康文のメールマガジン「生きるための対話(dialogue)」


◎目の前にあっても気がつかないことが多い

養老先生が言っていたのは「答えはいつも目の前にある」ということ。有史以来、ギリシャでも中国でも、賢人たちはみな「答えは目の前にある」ということを繰り返し、説き続けてきた。

でも、そうやって口すっぱく言い続けなきゃいけないくらい、ぼく達は絶えず「答え」を見逃し続けてきた。

「答えは常に目の前にある」というのは、僕らは目の前にある「答え」を、ほとんどまともに認識することができない存在である、ということ。

そしてすぐに「こんなことになったのは誰のせい!?」と周囲を問い詰める。もちろん「誰のせいか」を究明してもいい。

でもその検証作業に感情を込めて「誰それの人生を返せ!」と主張する、といったことを続けていると、目の前にある「答え」がどんどん見えなくなってしまう。そのことをまずは心に留めてほしいと思います。

「そんなの当たり前じゃないか」って思いますか?でも我々はしばしば「どう問うか」なんて考えもせずに、自動的に何らかの「答え」に飛びついているんじゃないでしょうか。

僕らは、自分の問いかけ方を、皆が採用している普遍的なものだと無意識のうちに思い込んでいます。


◎相手の中に自分を発見したとき「確信」が生じてしまう

ちょっと恥ずかしい話をすると、僕自身も、この手の間違いはいっぱい経験しています。臨床的にいうと、僕らの中に「確信」が生じるのって、相手の中に自分のコンプレックスを発見してしまったときなんですね。怖いでしょう? 

要するに、自分のなかで「これだ!」っていう確信が生じているときがいちばん危ない。そういうときほど、丹念に自分の心の中を観察してみると、相手に自分を投影しているだけということに気づいたりするんです。

何回でも言いますよ。精神科を生業にして24時間どっぷりその世界で人を見てきた僕でも、自分自身のコンプレックスに起因する固定観念からそこそこ程度抜け出すのに5年以上かかりました。

それぐらい、僕らはすぐに、相手の中に自分を見つけてしまうということですね。

相手の中に自分自身を発見したとき、僕らは必ず、感情的になっています。例えば相手の中に自分の理想を見出すと、相手のことを好きになってしまう。逆に、自分の弱点を発見して、嫌いになったりする。

こういう状態のとき、僕らは相手の心なんて、ほとんど見えてなくて、ほとんど投影された自分自身の感情に反応しているだけなんです。(引用終了)

☆あなたは、どのタイプ? 私はどの質問もすっごく迷っちゃった....
◎名越康文氏の[類人猿分類診断]


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by yomodalite | 2011-12-06 20:43 | 精神・教育・自己啓発 | Trackback | Comments(7)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite