タグ:内田樹 ( 15 ) タグの人気記事

『絶歌』/元少年A(2)

絶歌

元少年A/太田出版



私はなにか調べたいことがあると、かなりしつこくネット検索することがあるけど、誰かの感想については、自分が見たり読んだりする前には、極力見ないようにしてます。

『絶歌』に関しては、大きく報道されたので、多くの批判があることだけはわかっていたけど、読了後に、ブログに参考記事を載せるために少しだけネット徘徊したら、想像以上にあらゆる人々が、その内容にも、出版にも厳しい批判をしていて、あらためて驚いた。

あらためて、、だなんて、

今さらそんなことで驚かないよね(笑

単に書き言葉の「常套句」を使っただけだって言いたいけど、

でも実は、本当に驚いたの、マジで(バカって懲りないね)

いっぱい驚いたのあったけど、メンドくさいから一個だけ。

内田樹 ‏@levinassien 6月16日
ある週刊誌から「絶歌」読んで感想聞かせてくださいというオッファーがありました。「やです」とご返事。「邪悪なもの」は近づくだけで何かが損なわれるから近づかないようにというのは師匠の教えです。

内田樹終了ーーーーー!!!(しないで欲しいけど。。)

佐々木俊尚氏の『21世紀の自由論』で、

この勢力はたとえば、原発に反対し、自衛隊の海外派遣に反対し、日本国憲法九条を護持し、「国民を戦場に送ろうとしている」と自民党政権の集団的自衛権行使や特定秘密保護法案に反対している。文化人で言えば、作家の大江健三郎氏や瀬戸内寂聴氏、音楽家の坂本龍一氏、学者では「九条の会」事務局長で東大教授の小森陽一氏、神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏、経済学者の浜矩子氏。政治勢力としては福島瑞穂氏と社民党、生活の党と山本太郎となかまたち。元経産省官僚の古賀茂明氏。一緒にくくられることに抵抗のある人もいるだろうが、メディアの上で「リベラル勢力」という呼び方で視界に入ってくるのはそういう人たちだ。

しかしこの「リベラル勢力」は、いま完全にほころびている。

最大の問題は、彼らが知的な人たちに見えて、実は根本の部分に政治哲学を持っていないことだ。端的にいえば、日本の「リベラル」と呼ばれる政治勢力はリベラリズムとはほとんど何の関係もない、彼らの拠って立つのは、ただ「反権力」という立ち位置のみである。

イギリスでは、ブレアの人道的介入に対して、保守派が「国内の利益を最優先すべきだ」と批判した。保守派は一国平和主義的な思想を持つ傾向が強い。そうなると日本の「リベラル」は、欧米の保守派の意見に近いということさえ言えてしまう….

という主張を自ら証明してしまっている、のでは?

そんなことよりも、もっと大事なことが、、というのはわかるけど、それなら、なにもつぶやかないで欲しかった。現代日本では一応「思想家」なんだから。。(ぐっすん)

僕は野球選手の名前も、テレビタレントの名前もほとんど知らなかった。当時の僕にとってのスターは、ジェフリー・ダーマー、テッド・バンディ、アンドレイ・チカティロ、…… 世界に名を轟かせる連続殺人犯たちだった。映画『羊たちの沈黙』の公開を皮切りに90年代に巻き起こった「連続殺人犯ブーム」に僕も乗っかり、友だちの家に揃っていた『週間マーダーズブック』や、本屋に並んだロバート・K・レスラー、コリン・ウィルソンの異常犯罪心理関係の本を読み耽った。(『絶歌』より)

90年代、酒鬼薔薇より遥かに多くの人を残虐に殺害した人についての本がたくさん出版されていたし、そういった殺人者を扱った本だけでなく、実際に猟奇殺人を犯した佐川一政は、ほんの数年の療養を経ただけで、サブカル界で活躍する場を与えられていた。確実にその頃の業界を知っている人間が、いったいどの口で、出版社のモラルだなんて言っているんでしょう。

(一個って言ったくせにぃ、、)

◎久田将義コラム

サブカル界の人間がこぞって「正義」を振り回す時代がくるなんて、90年代には想像もしてなかった。時間に追われて、お金のために書いたくせに、人間としての自分の「心」を優先だなんて、よくもそんな「薄っぺら」なことを(驚)。『実話ナックルズ』とか『ダークサイドJAPAN』のような下衆な(いい意味でw)雑誌を創っている人たちは、正義を売ることだけはしないという「矜持」を持っているものだと思っていた私が甘かったです。「GOD LESS NIGHT」よりよっぽど鼻じらんでしまったんですけど、、

「遺族」の気持ちを第一に考えるということがどこまでできるものなのか、安保法案や、今後の日本の様々な問題への対応も踏まえて、拝見させていただきますね。

なんだかんだ勢いづいたから、もう一個言っとくw

◎元少年A『絶歌』よんでみた : ロマン優光連載33

かつてはトンガリ少年だった自分が、すっかり「凡庸で薄いサブカルさん」になったからって、どシロウトが書いた初めての作品に、自分の現状をぶつけてどうするの?

こちらは、共感した記事。


本当に残念なことだけど『絶歌』について書かれた著名人の批判より、元少年Aが書いたものの方がずっと「心に迫った」。

残虐非道な殺人鬼なのに、どうしてかなって思ったけど、彼が、誰よりも更生しようとしてたからなのかも。。それが仮に、出版社側の「クリエイティブ」であったとしても、お金を出す価値があったのは『絶歌』の方なんだから、売れたってしかたがない。

いつの時代も極端にふれた動きしか見えないし、強く批判している記事もモラルや遺族のためではなく「お金のため」。ただ、本家よりも考えていないし、もはや本も買えないビンボーな人をお客にするには、これぐらいの文章で十分だって思っていることも大勢の人に見透かされている。

「正義」が蔓延るのは、経済のために「戦争」だってしかたがないと、みんな心の中では認めているから。



2015年06月17日
訃報「アスタルテ書房」店主・佐々木氏ご逝去

エディション・イレーヌ松本氏から連絡をいただきましたが、アスタルテ書房店主の佐々木一彌氏は、6月14日夜に入院先の病院でお亡くなりになったとのことです。お葬式等はすでにご家族のみで済まされたとのこと。アスタルテ書房については、ご子息には引き継がれる意思がまったくないそうなので、このまま閉店となるのでしょう。在庫品は古本組合の市で処分されることになりそうで、閉店セールの予定もいまのところないようです。

もう、京都まで終了しそう。。。(泣)





[PR]
by yomodalite | 2015-06-19 17:35 | 裁判・法律・犯罪 | Trackback | Comments(0)

大阪に来て2年が経った..(大阪市住民投票)

f0134963_16290336.jpg

東京での20余年間だけで、10回も引っ越ししている私だけど、転勤という会社都合で移動させられるという経験は初めてのことで、最初は理不尽な思いもあったのだ。

会社が契約している引っ越し業者は、私に対してお客さんという意識がなく、リーダーの男性はスタッフを軍隊のように厳しく統率していて、何日も準備に追われて引っ越し当日を迎えた私の心は、何度も逆なでされるような思いを味わったのだけど、大阪に到着して荷物を運び入れてくれた業者さんの態度は、まるで違っていた。
リーダーの男性は、集団の中でいちばん優しい人が選ばれたのかと思うような人で、要領の悪いスタッフによるミスを事前に防ぐために段取りを考えるなど、予想外のトラブルが多くあったにも関わらず、一度も怒ることなく、すべての荷物を運び入れたあと、ひとりだけ残って、アンティーク家具の扉の調整に時間をかけてくれたり、本当に最後まで細かい点にも気を使ってくれて、とても優しかった。

大阪が優しい街だという印象はその日以来、今日まで変っていない。

東京は、自分に厳しく、人にも厳しい。
大阪は、人に優しく、自分にも甘い。ような気がする。

その印象は、ずっと東京都心で暮らしてきた渋谷生まれで渋谷育ちのダーリンも同じで、彼も来てすぐに大阪が好きになって、今は、私としゃべるときでさえ大阪弁で、すっかり大阪のオッサンと化している。



f0134963_16321177.jpg


私たちふたりは、引っ越す前は東京中央区に住んでいて、今は、大阪北区に住んでいる。それで、丸の内〜銀座〜月島〜豊洲あたりとは、かなり具体的に比較していると思うけど、大阪の街は、東京よりも美しい魅力に溢れているように見える。なにを美しく感じるかは人それぞれではあるけど、忙しく造った家賃が高いだけのマンションとか、サラ金とか、連れ込まれて高額商品を買わされそうな店ばかり、、といった雑居ビルが少ないうえに、凝った造りのレトロビルが現在も有効に使われていて、新宿や渋谷の駅前の感じとは比較にならないぐらい、大阪の中心部は落ち着いた雰囲気がある。

ダーリンは、同じ会社の東京本社と大阪支部なので、給料にはほとんど変化がないけど、会社のビルは大阪の方がキレイで、場所も便利なところにある。私たちは東京の家を貸し、大阪で家を借りているので、収支的にはプラスになっているうえに、大阪の方が物価が安く、味もサービスも年々低下していると感じていた東京と比べて、個性豊かな美味しい食べ物屋さんもいっぱいあって、不満を感じることがない。

そんなわけで、

私たちは、大阪のどこに問題があるのか、まだわからない状態なのだけど、

ダーリンは、♪自分のこーとーやから自分で決めなアカン〜♫っていう住民投票のテーマソングを口ずさみつつ、ふたりは投票に行き、賛成と反対に1票づつ入れた。


《投票に行こう!イベントの動画》
MJ&ダイアナの『Ease On Down』で
ダンスしている人たちもすごく素敵だけど、
6:40〜で寺前未来さんが歌っている
「投票ソング」が、結構いい曲で
大阪の街ではよく流れていた。
9:17〜から始まる曲も
私が感じている大阪感が満載で素敵な曲!





少女時代を過ごした名古屋では、このまま名古屋にいるか、大阪に行くか、東京に行くか、という3つの選択があって、私はそのとき東京に行って良かったと今でも思ってるけど、再婚して、仕事をやめて、老眼鏡が必要な年齢になって、大阪に来ることができたこともすごく良かったと思う。

かつての東京には、アメリカもイギリスもフランスもイタリアもロシアもフランスもインドも中国もあったように感じたんだけど、今、入ってくるのはアメリカの極一部だけで、それで、日本がつまらなくなったように思えてならなかったんだけど、日本の中で、ほんの数時間離れただけで、こんなに感覚が違っているなんて思ってもみなかった。

東京と大阪が違っているとは思っていたけど、
こんな風に違っているとは、想像していなかったんだよね。

投票を済ませ、ブラブラ歩いていたら、最近できたばかりの、倉庫っぽい建物を利用して、たくさんのレコードと、立派なスピーカーがあって、スペシャルなコーヒーだけでなく、日曜の昼間に、とっても美味しいオリジナルカクテルまで出してくれるカフェを発見。


f0134963_18042416.jpg


「“都” になったら、大阪駅から10分ぐらいの場所に、個人でこーゆーお店は創れなくなるんじゃないかなぁ・・」という私。

アルコールが入ったこともあり、東京にいたとき、若い女性を連れたタレント時代の橋本市長が、麻布の焼き鳥屋で隣に座ったときのこととか、仕事仲間の妹が、ヅラウォッチャー(ヅラをかぶってる人を発見するのが何よりも好き)で、念願かなってw、カツラメーカーの社員と合コンしたときに聞いた話とか、

橋本市長の話になると、必ず持ち出して何度でも繰り返して話しているうちに、原型すらわからなくなってきているネタを、さらに盛って話そうとするダーリン。。

だから、、あれはキャバ嬢じゃなくて、あの番組のアシスタントだったってば、、つうか、実際に隣に座ってたのは、私なんですけどぉ、とかなんとか、その話を「原型」に戻そうとするうちに、頭が「焼き鳥」のことでいっぱいになる私、、、

大阪住民投票の日は、そんな感じで暮れていったのだった。




《寺前未来さんの歌の歌詞》


世界中のできごとに心を揺らして、

やさしいあなたは笑ったり泣いたり忙しい。

それならば、その前に、大好きな人の住むこの街を大切に、

もういちど見つめよう。

自分の街のことやから、自分で決めなあかん。

自分の街のことやからね、自分で決めなあかん。

だいじょうぶ、だいじょうぶ、とってもシンプルなの。

幸せの形は、あなたの中にある。


自分の街のことやから、自分で決めたいの。

自分の街のことやからねぇ、、ららら・・・




[PR]
by yomodalite | 2015-05-19 17:40 | 日常と写真 | Trackback | Comments(8)

日本の文脈と、安堂ロイド・・

f0134963_16284736.jpg

今日は、ブログに『日本の文脈』についてアップしようと思っていた。

『日本の文脈』は、大震災の前から3年にわたって語られた内田樹氏と中沢新一氏による対談をまとめたもので、元々は「日本の王道」というタイトルだったものの、震災後の紆余曲折を経て2012年に出版されたもの。

ふたりの会話はお互いの言いたいことだけ言って、内容への反論よりも、人格攻撃ばかりして、さっぱり議論になっていない日本の男性知識人どうしの会話とは異なり、

あちこち目移りするような色とりどりのおかずに溢れていながら、ご飯が美味しく頂けるような、よく出来た幕の内弁当のような味わいがあり、知的な漫才のようでもあり、おばちゃんの会話にも似ている。

中沢氏の本の中では、圧倒的に読みやすく、内田氏は以前の『私家版・ユダヤ文化論』や『日本辺境論』よりも、さらに日本回帰されているようで、私にとっても心地いい言葉や、覚えて使ってみたくなるフレーズもいっぱいある。


f0134963_16305097.jpg


私が東京から大阪に越してすぐにここが心地よく感じられたのも、大阪の方が「日本らしさ」に満ちているからで、もしも、大阪が日本で2番目の大都市を死守してくれていなかったら、日本はもっと、、、

と、できる限り短くまとめようと思って、ここまで書いたところで、なんだか気持ちが沈んで来て(雨が降っていたからだと思う)、録画してあった『安堂ロイド』を観ることにした。



f0134963_16312113.jpg


『安堂ロイド』って、今いちばん面白いドラマだよね? 

という感想がどれだけ共感されるのかもわからないし、TVの連続ドラマを最初から観るなんて、数年間の間でさえ記憶にないぐらいだし、TVだけじゃなく、映画もあまり観ていない有り様なので、「いちばん」なんて言える立場じゃないんだけど。。

◎[Wikipedia]安堂ロイド~A.I. knows LOVE?~
◎『安堂ロイド』が視聴できる動画(Dailymotion「安堂ロイド」検索結果)


伊集院光 キムタクのドラマ『安堂ロイド』の感想を語る。




内田氏は本書の後も、日本文化に転換期をもたらす固有の文化は、武芸、能楽、鎌倉仏教によって確立された。という文脈に、ますますチャンネルを固定されているようです。

それは確かにそのとおりで、それについては、すでに新渡戸稲造や、鈴木大拙が、世界に発信し、世界からも評価を受けている。と同時に、すでに、世界からはそこへの批判も問題点も指摘されていると思う。

その批判をものすごく単純化して言えば、日本の方法というのは、結局、日本人にしか適応できず、世界中の多くの人が感受することは不可能。さらに、問題なのは、日本人自身もそう信じていて、それが、日本人にとって優越感や安定感の源泉となっている。

でも、新渡戸稲造が『武士道』を書いたときでさえ、それは失われつつあって、だから、今の日本人が日本人としての身体性を取り戻すためには、もう一度というのは間違いはないと思う。

内田氏は自身のブログで

◎日本の文脈・アメリカの文脈

私が(米国)国務省の「対日政策局」の小役人なら、どうしていいかわからずに今頃は頭を抱えているだろう。

と、言っている。

でも、日本の文脈で語られたことを、猪瀬直樹や、石原慎太郎や橋下徹などの日本の政治家の言葉に変換すると、こうなってしまうのだ。もっと残念なことに、彼らとはまったく違っていると思われる政治家でさえ、そうなる。

それで、内田氏も、「現段階における個人的な総括と見通しを書き留めておきたい。」といっても、米国の「対日政策局」の小役人なら、、と書かざるを得ない。

これはとても変な話だけど、

日本の思想家は、日本の政治家に与えるべき言葉を
与えなくてもいいというのも「日本の伝統」なのだ。


日本の言葉は、思想という領域に、どうしても分け入っていけない「言葉」で、だから、それを駆使するには、身体性が重要で。。。(ふぅーー)


f0134963_16365551.jpg


『日本の文脈』からいろいろメモしておこうと思っていたのだけど、代わりに『安堂ロイド』の名言を。


安堂麻陽が死ぬことは禁じられている。

いいかげんにしろ
君が死ぬことは禁じられている

俺はクライアントの命令通り君を守るだけだ
ただ俺は、君を守ることこそ
未来を守ることだと思っている


フレミング「沫嶋黎士の脳データを破壊した。お前のクライアントはいない。補給もない」

安堂ロイド「原子還元処理を実行する! 俺にはもう許可の申請もクライアントの命令も必要ない! 安堂麻陽を守る。それは俺の意思だ!」

〜安堂ロイド

ピンチの時こそ
敵の目線に立つこと
敵の目線に経てば、敵の弱点とか狙いがひと目でわかる
敵が最も嫌がる一手を常に常に考えて打つこと

勝つまでやるって言ったろ

〜沫嶋黎士

[PR]
by yomodalite | 2013-11-25 17:37 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)

カフェでkindleを読みつつ、読んだ本のことを考える…

f0134963_23112554.jpg


東京の街中では、大手カフェチェーンが席巻しまくっていたせいなのか、大阪では、個人オーナーの個性が光るお店が目につくことが多い。

カンテ・グランデは、近所を散歩中にみつけたお店で、お店全体をグリーンが駆逐しているような佇まいが素敵。

上の写真からはそんな風に見えないと思うけど、この建物の上の方は普通のマンションになっていて、


f0134963_23122620.jpg

お店はマンションの1階ではなく「地下」なのね。

この構造から、このカフェのオーナーがマンションも建てたのでは?という気がするのだけど、どーなんでしょう? こちらは、ウルフルズのメンバー3人がバイトしてたなどの逸話もある昔からの有名店らしく、現在はグラン・フロントを始め、各所に支店もあるようです。

◎カンテ・グランデ

そんなカフェで、ジンジャー・チャイを飲みながら、iphoneで、内田樹の『寝ながら学べる構造主義』を座って読む。なんで、この本を読むことになったかといえば、

ダーリンが、図書館で予約していた、釈徹宗と内田樹の共著『聖地巡礼』と、中沢新一と内田樹の共著『日本の文脈』が、2冊同時に来てしまって、大阪に漂う霊性について、先に答えを知りたくないと思い『大阪アースダイバー』も読まずにガマンしていた私も、ついつい、こちらは「ちら読み」してしまい、

そのせいで『寝ながら学べる構造主義』が読みたくなった。。


f0134963_0554945.jpg

知的探求は(それが本質的なものであろうとするならば)、つねに「私は何を知っているか」ではなく、「私は何を知らないか」を起点に開始されます。(『寝ながら学べる構造主義』のまえがきより)


ここは、霊性が高いという情報は、自分の身体で感じたいんだけど、私が霊性を感じているポイントとポイントを繋ぐ構造についての、方法論… と思ったら、ああ、自分は「構造主義」を知らないんだと、初めて「知らない」ことに気づいたからだと思う。


f0134963_23143875.jpg

このお店の隣には富島神社という神社もあって、お店に入る前にそちらにも寄った。

門前や、本堂の前だけでなく「先代」もいて、狛犬自体は、たぶん「岡崎型」と言われるよくいるタイプではあるのだけど、お稲荷さんの狐や、カエルまで、ここには動物の像がたくさんある。



f0134963_23182310.jpg



f0134963_23184472.jpg


動物とか、生物がそんなに好きとはいえないけど、生物をかたどった像のようなものを見るのは飽きない。内田氏は、上町台地や、梅田駅周辺は、土地が持っている霊力を侮った罰だと言っておられるのだけど、私はその感覚には疑いを抱く。



f0134963_0561699.jpg


そういえば、『聖地巡礼』の中に「聖地はスラム化する」という大瀧詠一氏の言葉が紹介されていて、聖地は必ず俗化する宿命にある。と。

キレイになった大阪駅やグランフロントからほど近い場所の混沌は、今の六本木や原宿の裏道にある感覚とは違っていて(かつてあった雰囲気とも少し違うような)、私には、そのどちらもすごく好ましく感じられる。

「聖地」ではない神社には動物が多くて、それは、やっぱり「人」にもいいのだと思う。



[PR]
by yomodalite | 2013-11-22 09:32 | 日常と写真 | Trackback | Comments(3)

グランフロント大阪

f0134963_23373649.jpg
Photo : Take It Easy~パパールの雑記帳 別館


2、3日ほど前の、内田樹氏のツイッター。


内田樹 ‏@levinassien
ところで「うめきた」にできたあの施設ですけれど、Grand Front がどうして「グランフロント」なのか誰か知ってますか?あの綴り、英語だったら「グランドフロント」だし、フランス語だったら「グランフロン」って読むんじゃないですか。そもそも「大前線」てどういう意味?

家の近くにChocolat Republic という店舗の看板があって、これもぞくぞくします。La Tour Blanc というお店もあります。お店の名前つけるというのはずいぶん時間をかけたはずですけれど、どうして人は「辞書を引く」という手間を惜しむのでしょう。

たぶん命名会議では大学でフランス語初級をとった人が「この店舗名、英語圏の人もフランス語圏の人も、『?』ってなるんじゃないですか?」って疑義をただしたんだと思います。そのときに「いいんだよ、客は誰も店舗名なんか気にしないんだから」って言った人がいたんでしょうね。

まあ、それもひとつの見識ですね。実際に、店舗名に「これはちょっと・・・?」という報道を僕はどこでも見たことないですし。まあ、それも「おおらか」と言えば、おおらかです。ええ、いいんじゃないですか、グランドフロンで。あ、違ったグランフロントだ。

綴り字間違いのお店情報、たくさんの方からご教示いただきました。日本語の店名にすればいいのに、どうしてなんでしょうね。うめきただって「新梅北商店街」とかいう名前にして、漢字で書いた巨大看板とかつけたら(『ブレードランナー』みたいな)、世界中のフォトグラファーが飛んできますよ。

というかはじめから「うめきた大仏」にしておけばよかったんですよ。あそこに100メートルの大仏が立って、参道には「茶店」とか「たこ焼き屋」とか「うどん屋」とかが軒を接している。松と竹と梅を植え込んだ築山と池があって、四季折々の風情を楽しんでみんなが庭を散策。そっちのがいいのに。

形容詞の最後の子音の脱落が「正しい英語」の発音だから「グランフロント」でいいのだというご教示がありました。ヘンリー・ヒギンズ教授だったら「そんなのは英語じゃない」と言うでしょうね。「グランプリ」を子音脱落の例に挙げてくれましたが、Grand Prixはフランス語では・・・

帰り道にもう一個みつけました。Monlavie というマンションです。たぶん大家さんが「『生活』ってなんて言うの?」って訊いたときにフランス語初級をとったことのある息子が「え?La vie じゃないの」と答え、「じゃあ、『私の』は?」に「え、Monかな・・・」と答えた結果がこれ?

今年30回目の新幹線で東京に向かうなう。さわやかな五月晴れの土曜日です。言語と階層についてのヘンリー・ヒギンス教授のご意見を徴すべく『マイフェア・レディ』を見たら、『サウンド・オブ・ミュージック』が見たくなり、さらに『ウェストサイド物語』まで見始めたので、寝不足で眠いです。


(内田氏のツイッター終了)


「うめきた」と言うのは、大阪・梅田の北側の愛称で、グランフロントは、家から徒歩圏内の大型商業施設。わたしは街が好きだし、基本的にキレイで、便利で、めずらしいようなものが売っているところも好きなので、まるで、わたしの引越しに合わせて完成したようなタイミングに気を良くし、靴とか、お洋服とか、勢いで買っちゃったりしてるので、「うめきた大仏」じゃなくて、ホント良かったと思うものの、

同様の疑問はもっていたので、なんとなく、、、。

東京近郊の人に、グランフロントのことを説明すると、

外側から見ると、2本同じような形のビルが並んでるので、丸ビルみたいな感じなんだけど、中に入って見ると、丸ビルほど多くのお店はなくて、あのゴージャスな椅子とかソファもないんだけど、

八重洲口の新開発と似た感じの「うめきた」というプロジェクトと、新宿のリヴィングセンターOZONEと、パナソニックが汐留感覚で作った何の未来も感じさせないうえに、ますます赤字が増えそうな未来型ショールームとか、

日本橋コレドの早稲田キャンパスとか、六本木ヒルズの会員制サロンのカジュアル版のような「ナレッジサロン」などと、

アパレル&レストラン施設が一緒になってるとこかな。

それと、、

最近わたしは書店というところにさっぱり行ってなかったのですが、久しぶりに行ってみたら、もしかして、やっぱり書店てステキなところだわ。という思いが蘇るんじゃないかと思って、

グランフロントの中の「紀伊国屋書店」に行ってみました。

ここの書店の「オルタナティブ」の棚にどんな本が並んでいるか興味があったんです。

f0134963_2246830.jpg

f0134963_22465611.jpg

ネグリとか、チョムスキーやクルーグマンとかジャック・アタリ...
f0134963_2252882.jpg

新自由主義や『ショック・ドクトリン』、
f0134963_22523464.jpg

エンデと『モモ』や『デルス・ウザラー』などが、オルタナティブなんだぁ。
f0134963_2253228.jpg


で、「オルタナティブ」の向かい側がスピリチュアルの棚なんですが、

チョプラの本がまだ6冊も並んでいて、、
f0134963_22563094.jpg


ワンワールドとか、コールマンも新版とか再刊だったり、
f0134963_225771.jpg


日月神示や、ユダヤ同祖論もまだ人気?
f0134963_22591028.jpg


仏教とヨガとセラピーとパワーストーンは「スピリチュアル」ではなく
「ヒーリング」という棚で、
f0134963_230398.jpg

f0134963_2303054.jpg


その隣は「未来社会」という棚。

f0134963_2322397.jpg

ウパニシャッドとか、ヒンズー教というか、サンスクリット語がタイトルの本や、カルロス・カスタネダとか、ラーマクリシュナとか、マクロビオティックとか、マリファナの本も「未来社会」という棚なのね。

ちなみに、オルタナティブ棚の左隣は「現代思想」の棚で、

f0134963_233754.jpg


スピリチュアルの隣は、国書刊行会の魔術とか、カバラの本があるんだけど、ビニールパックされてて苦笑してしまう。



f0134963_2345176.jpg

10年ぐらい誰も買わない恐れがあるからですねw。なぜそんなことを考えるかと言えば、ここの棚だけ、私が20年近く前にデザインした本が残ってるからww

(通常、出版社は再販時にデザインを変える。大抵の本は、日版とか東版といった問屋から送られてきたものを、書店が委託販売しているので、売れ行きが悪いと書店は出版社に送り返すことができるのだけど、国書の本は「買取」システムになっていて、送り返せないので汚したくないんですね。たぶん)


今回は少し立ち読みしてから買いたい本があったので、

久しぶりに書店に行ってみたけど、

紀伊国屋って、ホントどこも同じで、田舎の「大型書店」より品揃えが多いだけで、ファミレスと大差ない感じ。ファッションを売ってる店の方が知的好奇心が刺激される内装になってるうえに、実店舗の優位性なんて「立ち読み」ぐらいしかないのに、魔術の本をビニールパックにしちゃうわ、長くいたくなる雰囲気もないけど、椅子もないし、、(後日談:最近行ったら、イス増えてた!)

こんな感じなら、カフェで電子書籍を読む方がスマートじゃない?

個人店主がやっている、こじんまりとした本のセレクトショップみたいなところは別として、かつての六本木のABCとか、西武のリブロや、アールヴィヴァンのような魅力的な大型書店はもうどこにもなくて、紀伊国屋も、八重洲ブックセンターも、ジュンク堂も、ブックファーストも、たくさん本があっても、自分が欲しい本がある気がしないし、よほど必要に迫られない限り、やっぱり行くの面倒くさいかも。

そんなことを思いつつ、この日は一冊だけ買って、家に帰ったのでした。

◎参考記事「オルタナティヴ棚」@紀伊國屋書店グランフロント大阪店


[PR]
by yomodalite | 2013-05-28 09:35 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)

もういちど 村上春樹にご用心/内田樹

もういちど村上春樹にご用心 (文春文庫)

内田 樹/文藝春秋



本書は「自分が村上春樹をどう読んでいるか」を全人類を代表して語っている(柴田元幸談)と言われる内田樹氏が、2007年に刊行した『村上春樹にご用心』の続編ではなく「改訂新版」。

私は、村上春樹について書かれた本は、これまで、ブログに書いていないだけでなく、まったく読んだことがなく、村上春樹について書かれた本だけでなく、5年前に読書ブログを始めたときから、村上春樹の本については書かないって決めてました。日本で一番有名な作家について、私が語ることなんて・・という理由で。

本書についても、そんな感じで、村上氏について語りたくないんですけど、私が、マイケル・ジャクソンについて考えているときに、よく思うことについて、すごく共感したり、為になるなぁ。と思った部分だけ、メモしておくことにします。

(引用開始)

僕も文学研究者ですから、ベタな主観性で書いたものはろくなものにならないのはわかってます。でもね、なまじな客観性を取ろうとするのもよくないんですよ。レヴィナス論を書いたときに思ったんですけど、自分より明らかにスケールの大きい人を相手にする場合に、自分自身を中立的、客観的に保とうと思うと、結局何もできないんです。

そういうときはもう「すみませんでした」と言って土下座をして両手をついて「秘密を教えてください」ってにじり寄っていくしかない。批評家とか研究者じゃなくて、弟子とかファンのスタンスです。

学問的には弟子とかファンのスタンスはタブーですけど、巨大な人を相手にするときは、タブーを破らないと、その人の、人間の通常レベルを超えたところにはどうしてもたどり着けないんじゃないかと。

こういうふうに育って、こういう文体訓練して、こういう人の影響を受けて、こういう人生を経て、こういうテーマで書きましたって。それを読んだ人が納得して、なるほど、だから、こういうものを書いたのかってわかったような気になる。

読者に一種の全能感、爽快感を与えるわけだから、そういう仕事も必要だと思うんですけど、

実際にはそれってその作家なり、思想家なりのスケールを縮減してしまって、昔僕らがよく使っていた言葉ですが、「最低の鞍部で巨大な人を乗り越えてしまう」ことになりがちなんですよね。

どうせならなるべく高いところににじり寄っていかないと。で、別に超えなくてもいいんじゃないかと思うんですよ。「高いですねー、こんな高いところがあるんですね」ってことを示すだけでも、学者の仕事としては成立すると思うんです。([特別対談]柴田元幸×内田樹『村上春樹はからだで読む』より)


村上春樹は「翻訳」をした。それは彼自身の言葉を使えば「他人の家の中にそっと忍び込むような」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)経験である。同じく翻訳を業とする者として、この感じはよく分かる。

それはいわば、「自分の頭」をはずして、自分の身体の上に「他人の頭」を接ぎ木するような感じのする経験である。ふつうの人は逆のことを考えるかも知れない。他人の身体に自分の頭を接続するさまを想像するかも知れない。

そうではないのだ。他人の頭に自分の身体を接続するのである。

だって、自分の頭をもってしては他人の頭の中で起きていることを言語化することができないからだ。けれども、自分の身体は他人の頭から送られる微弱な信号でも感知することができる。

頭は「意味」しか受信出来ないけれど、身体は「意味以前」のものでも受信できる。

頭は「シグナル」しか理解出来ないけれど、身体は「シグナルになる以前のノイズ」を聴き取ることができる。他人の頭から送られてくるのは、輪郭のくっきりした語や文ではない。

ノイズである。ある種の波動であると言ってもいい。その波動を私の身体が受け止める。すると、その波動と共振する部位が発生する。「何か」がその波動と干渉し合って、震え始め、響きを発し始める。とりあえずその響きは私の身体の内側で起きている私の出来事である。私自身の骨や神経や細胞が現に動いて、その共振音を出しているのである。自分自身の身体が発しているノイズであれば、それをシグナルに変換することはできる。

おそらくそれが翻訳という仕事の本質的な構造なのだと私は思う。

自分の身体を他者の頭脳に接続して、身体に発生する「ざわめき」を忍耐づよく聴き取って、それを自分の脳にもわかる言葉に置き換えてゆく。(「すぐれた物語は身体に効く」より)


「知性の節度」こそ偉大な学者のすべてに通じるおのである。私が「節度」と呼んでいるのは、ここで「最小限度の暫定的な例示」と呼ばれるデータ(ベンジャミン・フランクリンのテクスト)をマックス・ウェーバー自身は言えないということである。

ここに資本主義の精神を理解する手がかりがある、とマックス・ウェーバーは思った。にもかかわらず、「ふぅん、そうなんだ。で、どうして、フランクリンの書いた本の中に鍵があるとあなたは思ったの?」という問いにウェーバー自身は答えることができない。

「知性の節度」というのは、「どうして私はこんなに賢いのか、自分では説明できない」という不能感のことである。

「どうして私はこんなに賢いのか」について得々と理由を列挙できるような人間はたくさんいるが、それは彼らが「理由が説明できる程度の賢さ(というよりは愚かさ)の水準にとどまっているからである。(中略)

「私にはそれが説明できるが、なぜ『私にはそれが説明できる』のかは説明できない」

世界史的レベルで頭がいい人が抑制の効いた文章を書くようになるのは、この不能感につきまとわれているからである(と思う。なったことがないからわかんないけど)(中略)

「説明できる」ということと「確信をもつ」ということは違う次元の出来事である。

「確信」をもっているのは、僕ではない誰かだからである。(中略)

サルトルは小説に「神の視点」を持ち込むべきではない、ということを述べた。(中略)人々はサルトルにこぞて同意した。文学から「神の視点」を排除せよ。(中略)小説家は神の視点に立つことを自制し、登場人物が彼ら彼女らの棲息する虚構世界内部で実際に見聞きできていること以上のことを書いてはならない、ということが以後、不文律となった(はずである)。

それから半世紀経った。ところが作家たちは相変わらず全知全能の書き手が登場人物の内面や、まだ起きてないことや登場人物が知るはずもないことをことこまかに描写することを許している。(中略)

サルトルは、実はもののはずみで全知全能の神の視点からしか見えないはずのものが見えるということがときどき起こり、そのことを僕たちは知っているということを見落としたのである。(「100%の女の子とウェーバー的直感について」より)

(引用終了)



写真はクリックすると拡大します
f0134963_1135792.jpg



f0134963_11352370.jpg



◎[参考サイト]一条真也のハートフル・ブログ

◎[Amazon]もういちど 村上春樹にご用心
______________

[内容紹介]『1Q84』やエルサレム・スピーチをウチダ先生はどう読んだのか? ハルキ文学の読み方がもういちど変わる! 新たなテクストとともに『村上春樹にご用心』を再構成=アップデートした改訂新版、待望の刊行! アルテスパブリッシング (2010/11/19)




[PR]
by yomodalite | 2012-07-25 10:56 | 文学 | Trackback | Comments(0)

うほほいシネクラブ/内田樹[3]

f0134963_22463643.jpg
黒澤明監督『野良犬』Stray Dog



うほほいシネクラブ/内田樹[2]のつづき

[追記あり]

みなさま。あけましておめでとうございます!私は、本日(元旦)の「モラッター」

『迷っても光の多い道に進んでごらん』とマイケルからメッセージをもらいました。

関東・東北にお住まいの方は、元旦から揺れるという不穏な一年の始まりになりましたが、でも、今年が「揺れる」年であることは間違いないですし、何がおきても後悔しないように毎日過ごしてまいりましょう!

昨年は、古典の深みに足を踏み入れ、重量級の本なども読むことになり、これまで知らなかった世界や、自分の範囲を超えた歴史の重みを実感しまって、そして、そのことで、ますますMJにのめり込み、もはや中毒症状の進展は納まりようがない域に達しつつあるような...

そんな私が、去年から引き続いて、今いちばん興味があるテーマは「MJの映画」です。

どんな映画を創りたかったのか? そして、本当に創りたかったのか?という点にも多くの疑問をもっています。

他にも、色々散らかしたままになっているものもあり、そこは、強く意識はしておきたいものの、まだまだという感じがするんですが、MJの映画については、なんか「来てる!」って感じがするんですよね。。(あくまで当社比)

と、まぁ、今年のスタートはそんな感じですが、とりあえず、内田先生の本のメモを続けますね。

第4章「おとぼけ映画批評」から(抜粋・省略して引用しています)

黒澤明監督ご逝去

ずいぶん前に伊丹十三との対談の中で、蓮見重彦が黒澤映画の「徴候」として「上がばたばた、下がどろどろ」という図像的な強迫があることを指摘していました。この指摘には「眼から鱗が落ちた」思いがしました。

私はそれまでフォルムメーカーというのは、なんらかの言語化できるメッセージを発信しているものであって、映像そのものに固執して、ただ、そういう「絵」がほしい一心で映画を作っているなんて思ったことがなかったからです。

しかし、蓮見の指摘する通り、黒澤の映画で印象深い映像はことごとく『野良犬』も『七人の侍』も『影武者』もとにかくなんでも、上では(旗とか洗濯物とか木の枝とか)「ばたばたするもの」が風にはためき、下では(泥とかペンキとか屍体とか血とか)「足にからみつくもの」がねとねとしているのです。

黒澤はしばしば「完全主義」というふうに言われましたが、それはある種の「言語的メッセージ」の媒体として映画を考えるから出て来る評価であって「ある絵が欲しい」ということが最優先であるようなフィルムメーカーであれば「もっと風を」とか「もっと雨を」「もっと土をどろどろにして」とか注文するのは考えてみれば、当たり前なのです。

黒澤の場合は幸いプロットもすごく面白いので、つい映画のメッセージを言語的な水準に求めてしまいますが、それはおそらく黒澤の映画を「堪能する」ためには適切なアプローチではないのです。きっと黒澤にとって「上がばたばた下ねとねと」というのは、人間とその世界についての根本的な図像学的表現なのでしょう。

私は、少し前まで、MJのビジュアルセンスを、こーゆーのが好きなんだなぁというように「嗜好」として受けとっていたのですが、今は、一般の人やアーティストと比べても「嗜好」で選ぶことが、非常に少ないひとではないかと思ってます。


f0134963_22503990.jpg
黒澤明監督『野良犬』Stray Dog


追悼・黒澤明その2

....「演技」ということの本質において、仲代達矢は根本的に思い違いをしているように私には思われます。それは仲代的演技の対極にある演技者を考えれば分かります。私が、仲代的=新劇的=デカルト的演技術の対極に想定するのはクエンティン・タランティーノの芝居です。

役者タランティーノは恐いくらいに上手い。どう上手いかというと、喜怒哀楽の演技が「とってつけたように不自然」なのです。ふつうの上手い役者は喜怒哀楽の表現を「自然に」演じようとします。怒りや怯えやおかしさの感情が「心の内部からわき上がってきて、表情に現われる」という感情表出回路をたどろうとする。

これに対してタランティーノはいきなり「とってつけたように」怒り「とってつけたように」笑います。それはタランティーノが人間は怒るときに内側からこみ上げて来る情動に身を任せているのではなく、誰かが怒るのを見た「映像的な記憶」をたぐり寄せて、それを「再演」してみせるものだと思っているからです。(たぶん)

伝記によると、タランティーノは生まれてからの人生をほとんど映画を見るか、映画を撮るかのどちらかの仕事で過ごしてきたそうです。教養も、美意識も、イデオロギーも、修辞法も、感情表現も、映画から学んだのです。だから、この人はおそらく「名状しがたいほどリアルな現実経験」というものを、たぶん知らないのだと思います。

どのような個人的体験をしても、それが常に「あ、これはあの映画のあのシーンだ」というかたちで映画的記憶とリンクしてしまうからです。そのような人間の感情表現が「とってつけたよう」になるのは当然です。

しかし、このような感情表現についての理解は、人間の精神の動きについての、彼なりの観察を踏まえています。そして、私はこの見識は深いと思っています。

心理学的知見によれば、幼児はまずまわりの大人たちの「表情の模倣」からその感情生活を始めます。表情の模倣によって、その表情がもつ感情を追体験する。表情はまさしく「とってつけたように」外部から到来するのであり、感情はその「とってつけた」表情の効果として、幼児の内部に発生するのです。

こういうふうに考えると「上手い役者」と言われる人の演技があまりリアルではなく「変な役者」がときに異常にリアルな理由が分かると思います。

MJも常に「あの映画のあのシーンだ」と思うことが多い人のように思います。多くの偉大なアーティストが、少年でありながら「老成」している理由にも共通しているのかなぁ。


f0134963_2251592.jpg
黒澤明監督『野良犬』Stray Dog


『ジャッキー・ブラウン』

.....ロラン・バルトはこんなことを書いています。

「ギリシャ悲劇ではテクストは二重の意味をもつ言葉で編まれている。そして、それぞれの登場人物は2つの意味のうちのひとつしか理解していない。この終わりなき誤解が『悲劇』を『悲劇』たらしめているのである。しかし、その二重性を理解しているものがいる。それどころか、こういってよければ、自分の前で語っている登場人物たちの無理解そのものを聞取っているものがいる。これこそ読者(聴衆)である。かくしてエクリチュールの存在全体があらわになる」(『作者の死』)

ギリシャ悲劇を知ってか知らずか、タランティーノの映画文法は『ジャッキー・ブラウン』でも印象的な使われ方をしていました。

作家は「登場人部が経験したこと」以上のことを書いてはならないと言ったのはサルトルで、文学が「何かについての物語」ではなく「物語そのもの」になるためには「何かについての経験」ではなく「経験そのもの」になるためには、そのような禁欲が必要だということをサルトルは指摘したわけですが、それと同じ「節度」を私はタランティーノのうちに見出すのです。


タランティーノはサルトルなんて読んじゃいないでしょう。でも、私たちが生きている世界をそのまま物語の水準に移すときに、ある種の精密な「技巧」がなくてはすまされないということについて彼ほど意識的なフィルムメーカーはあまりいないような気がします。


『ライフ・イズ・ビューティフル』

私はユダヤ人の迫害を扱ったドラマにふれると、映画でも小説でも、被害者に対する同情よりは、加害者に対する怒りと憎しみで身体がきしむような感じになってしまう。でも、この映画で、ファシストやSS隊員たちは決して悪魔のように描かれていない。

グイドと帽子の取り替えっこをする椅子屋の主人、恋敵の市役所の役人、彼らが支持したイデオロギーが、隣人たちを強制収容所へと連れ去ることになる。もちろん彼ら自身が手を下したわけではないけれど、彼らはジェノサイドの協力者である。この市民たちひとりひとりは決して有害な人物ではない。

個人的にはあるいは愛すべき多くの美質をもっているだろう。しかし、彼らには何かが決定的に欠けている。それは想像力だ。

自分のひとつひとつの行為が、他者たちにどのような影響を及ぼすことになるのか。それを考察する回路が、この人たちには構造的に欠落している。だから彼らはまるでちょっと不機嫌にルーティンワークをこなすような仕方で、大量虐殺に加担することができる。

その一方、グイドに権力も金も社会的プレスティージもないけれど、想像力だけは豊かにある。彼の世界で、彼は「王子」であり、素敵な彼女は「王女さま」である。(中略)たしかにグイドの想像力は、世界を美しく愉快な物語で彩ることはできるけれど、世界を変えることも、苦しむ人々を救うこともできない。その意味では、これもまた「閉じられた想像力」にすぎない。

想像力のない人間は世界を滅ぼすだろう。けれど想像力があっても世界は救えない。微笑みながら滅びるだけだ。もちろん、それだって不機嫌な顔をして滅びるよりはずっと素敵なことだけど。

(引用終了)

☆メモは、私が何度も意味を考えてみたいと思ったところを抜粋しました。本書の全体としては、軽い内容なのに含蓄があるという文章が多いと思います。


[PR]
by yomodalite | 2012-01-01 23:01 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

うほほいシネクラブ/内田樹[2]

f0134963_2119179.jpg


うほほいシネクラブ/内田樹[1]のつづき

第二章「街場の映画論」より(抜粋・省略して引用しています)

『冬のソナタ』と複式夢幻能

『冬のソナタ』全20話を見終わる。今頃こんなところに感想を記すのはまことに時宣を得ない発言であることは重々承知であるが、あえて言わせていただく。

泣いた。ずいぶん泣いた。ユジンが泣くたびに、チュンサンが泣くたびに、私もまた彼らとともにハンカチ(ではなくティッシュだったが)を濡らしたのである。『冬ソナ』は日本の中高年女性を紅涙を絞ったと巷間では喧伝されていたが、そういう性差別的な発言はお控え願いたいと思う。

老狐ウチダでさえ「それから10年」というタイトルが出たところから(第三話の終わりくらいからだね)最後まで、暇さえあればむせび泣いた。心が洗われるような涙だった。

「ユジン、戻り道を忘れないでね」というところでは、頬を流れる涙を止めることができなかった。ミニョン、おまえ、ほんとうにいいやつだな。一方、サンヒョクが「ユジン、もう一度やり直さないか」と言うたびに、チェリンが「ミニョン、私のところに戻ってきて」と言うたびに、私はTVに向かって「ナロー、これ以上うじうじしやがると、世間が許してもおいらが許さないぞ」と頬を紅潮させて怒ったのである。

ともあれ、一夜明けて、われに返ったウチダは、映画評論家として、この世紀の傑作についてひここと論評のことばを述べねばならない。韓流ドラマの3つのドラマツルギーは「親の許さぬ結婚」「不治の病」「記憶喪失」だという。

しかし、私は今回韓国TVドラマおよび韓国恋愛映画に伏流するドラマツルギーの定型が何であるか確信するに至った。それは「宿命」である。宿命というと大仰だが、言い換えると「既視感」である。「同じ情景が回帰すること」それが宿命性ということである。


f0134963_21194534.jpg

かつてフロイトはそれを「不気味なもの」と名づけた。重要なのは「何が」回帰するかではなく「回帰することそれ自体」である。

「宿命」について、かつてレヴィナス老師はこう書かれたことがある。

宿命的な出会いとは、その人に出会ったそのときに、その人に対する久しい欠如が自分のうちに「既に」穿たれていたことに気づくという仕方で構造化されている、と。

はじめて出会ったそのときに私が他ならぬその人を久しく「失っていた」ことに気づくような恋、それが「宿命的な恋」なのである。


はじめての出会いが目眩のするような「既視感」に満たされて経験されるような出会い。私がこの人にこれほど惹き付けられるのは、私がその人を一度はわがものとしており、その後、一度はその人を失い、その埋めることの出来ぬ欠如を抱えたまま生きてきたからだという「先取りされた既視感」。それこそが宿命性の刻印なのである。

明治の速度

高橋源一郎の明治文学講義 in 神戸女学院。いちばんびっくりしたのは「明治の人は早口だった」という知見である。実は私も前からそう思っていたのである。最初にそれに気づいたのは、川上音二郎のパリ公演の録音というのを大滝詠一師匠の『日本ポップス伝』で聴いたときである。異常に早口なのである。川上音二郎と言えば「おっぺけぺ」の人である。自由民権運動の闘士である。

戦前の映画のせりふも速い。音楽もそうだ。戦後になってアメリカ文化が入ってきて、生活のテンポが速くなった....と一般には言われているが、実は人間の話す速度は遅くなっているのである。そのことについて、高橋さんのご高説を一部紹介しよう。

「明治に近づけば近づくほど、登場人物たちの会話が早口になるんです。

僕は、遠い時代のものがだんだん遠く感じられる理由ってのは何かって言うことを考えるんです。もちろん、自分が知らないとそういうようなこともありますが、スピードが違うんじゃないかっていう気がするんですね。

『野菊の墓』の原稿7、80枚っていうのは、ただ単に短いというだけでなく、速いんです。スピードが。『坊ちゃん』も大変速い小説ですね。このスピードのまま映画化したら、早回しのフィルムを見ているようで、とても不自然に見えるんじゃないかと思います。

この速い世界を映画にする、それはたぶん『虞美人草』や『たけくらべ』の時代までは可能だったのかもしれませんが、カラーの時代になったときすでに、我々自身のスピード感が違っていた。ある意味ゆっくりしている。どういうスピードかっていうと、僕は、テレビ的スピードじゃないかと思うんですね」

さすが史上最強の批評家、タカハシさんである。映画の早口から、それが文学そのものが内在させている「物語の速度」に連関していることを看破するとは。この「明治文学の速度」という知見はきわめて多産なものであるように私には思われる。(引用終了)

私は、常々「江戸」は「東京」より速いと思っていました。そしてその理由を、人生を概ね50年ぐらいと思って生きている人の方が、70歳を過ぎてからの「介護人生」を待っている現代人より、焦りがあるからだと思っていたんですが「カラーテレビが遅い」という知見には驚きました。

立川談志が、志ん生には最後までかなわなかったと言っているのも、晩年でも志ん生のスピードの方が速くて、その速さに付いていける観客がいないことも、理由のひとつかもと思っていましたけど....このスピードは、今後「グローバル社会」が進むことで、ますます「ゆっくり」になっていくでしょう。

それは、今よりもっと「野暮」な社会になることだとしか思えないと、暗くなりそうなので、遅くしか読めない「古典」とか、外国語を読む量を増やす方が、精神衛生上いいような気がしてます。


f0134963_13214830.jpg
photo : John Waters


ジョン・ウォーターズ賛

ジョン・ウォーターズの『ヘアスプレー』を見る。よい映画である。あまりに面白かったので、ジョン・ウォーターズの自伝『悪趣味映画作法』を取出して読む(訳者は町山智浩+柳下“ガース”穀一朗)。ウォーターズは17歳のときにディヴァインに会うんだけど、そのときの回想。

「他人に悪影響を与えるのにはもううんざりしていて、そろそろ自分にも悪影響を与えてくれるような人に会いたかったのだ」

そうでしょうね。そういえば、ウオーターズのアイドルがラス・メイヤーだということを知ったのもこの本でだった。ラス・メイヤーの『ファスター・プッシーキャット キル!キル!』は、ウォーターズのオールタイムベストで、この映画について、こうコメントしている。
f0134963_12493295.jpg
photo : 『Hairspray』John Waters


「過去15年間、ぼくは『ファスター』のリヴァイバルには、何十キロ遠くても必ずかけつけるようにしている。フィルムも借りて、友人と映画のスタッフには私語厳禁を言い渡したうえで、無理矢理鑑賞させた」

僕が一番気に入ったのは、ウォーターズのもうひとりのアイドル、ハーシェル・ゴードン・ルイスについてのコメント。

「ぼくはルイス氏の怪物的3部作『血の祝祭日』『2000人の狂人』『カラー・ミー・ブラッド・レッド』を近所のドライブインシアターで発見した。ティーンエイジのカップルが車から走り出てゲロを吐くのを見たとき、ぼくはこの監督になら死ぬまでついていけると思った」

僕もジョン・ウォーターズと小津安二郎になら死ぬまでついていける(2005年3月1日)


f0134963_13231519.jpg
『Hairspray』John Waters



私は、ウォーターズの映画は『ピンクフラミンゴ』以外は記憶がなく『ファスター・プッシーキャット キル!キル!』も流し見した程度で、近いうちに『クライ・ベイビー』(ジョニー・デップ主演)を観なくちゃと思っていた程度で何もわかっていないのですが、

ウォーターズの映画にまったく触れたことのない人に、念のため付け加えると、ウォーターズと、小津映画の雰囲気はあまりにも違います。(一般的なイメージとしては。。。)それで、内田先生の「死ぬまでついて行ける」発言にはビックリして、しばらく考えていたら、意外と似てるかもと感じ始めて、さらにビックリしたって感じでしょうか。。

とにかく、私は、この発言で『ヘアスプレー』も観なきゃと思い、ウチダ先生にも、ますますついて行きたいと思いました。


集中講義終わる

ハリウッド映画をトラウマ、抑圧、代理表象、転移などにからめて論じるというスタイルは、これまでと同じだけど、今回は「同期」「閾下知覚」「暗黙知」「無意識的言語活動」といったことに軸足を置いてみた。初日の朝に、寝床の中で「アナグラム」の話を思いついて、あれこれ資料に付け加えたところから話の筋道がどんどん変わってしまった。

これまでにアナグラムについて、それが識閾下でのある種の言語活動であることはとりあえずわかっている。それがコミュニケーションにおいて死活的に重要であることまでは分かっていたのである。

だが、時間意識の形成とアナグラムをつなぐ理路がよくわからなかったのである。それがぼんやりわかってきた。

アナグラムは「閾下の言語活動」であり、そこでは時間も空間も意識次元とはまったく違う仕方で展開している。この識閾を適切にキープする能力が人間の人間性をどうやら最終的に担保している。そんな気がしてきたのである。

識閾を設定し保持する力こそが、実は人間の知性の核心なのではないか。識閾というのは、フロイトの術語を使って言えば「無意識の部屋」と「意識の部屋」を隔ててる、あの番人のいる「扉」のことである。

この「扉」の管理がしっかりしてはじめて人間は「論理」とか「時間」とか「自我」とか「他者」といったものを維持することができる。この扉の開け閉めが緩んで、無意識の心的過程がダダ漏れになってしまうと、時間も論理も自我も、みんなまとめて吹っ飛んでしまう。


無意識と時間意識のかかわりについて考えるきっかけになっったのは、春日先生にうかがった統合失調症の「幻聴」の話である。幻聴というのは、自分の思考が声になって聴こえるという病症である。幻の声が自分の思考を「先回り」をして言い当ててしまう。患者は「宇宙人からの指令が聴こえる」とか「脳内にチップを埋め込まされた」といった定期的な作話によって「合理化」しようとする。

でも、よく考えたら「そんなこと」は誰にも起こる。アナグラムの例から知られるように、私たちは瞬間的に一望のうちに視野にはいるすべての視覚情報を取り込んで処理することができる。本を開いた瞬間に見開き2ページ分の視覚情報を入力するくらいのことは朝飯前である。だから、私たちはページを開いた瞬間に2ページ分「もう読み終えている」。しかし、私たちは「すでに読んでしまった文」を「まだ読んでない」ことにして、一行ずつ本を読む。

なぜ瞬間的に入力された情報を段階的に取出すような手間ヒマをかけるのか。

私にはその理由がまだよくわからない。よくわからないままに、直感的な物言いを許してもらえれば、たぶん、それは「手間ひまをかける」ということが「情報を適切に処理すること」よりも人間にとって重要だからである。「手間ひまをかける」というのは言い換えると「時間を可視化する」ということである。

おそらく、無時間的に入力された情報を「ほぐす」という工程を通じて人間的「時間」は生成する、一瞬で入力された文字情報をあえてシーケンシャル処理することは、知性機能の「拡大」ではなく、機能の「制限」である。私たちの知性はおそらく「見えているものを『見えていないことにする』という仕方で「能力を制御する」ことで機能している。

それに対して、統合失調症の人たちはおそらく「見えているものが無時間的にすべて見えてしまう」のである。かれらは「<超>能力が制御できない」状態になっている。発想の転換が必要なのだ。私たちは精神病というものを知性の機能が停滞している病態だと考えている。そうではない。逆なのである。人間の認識能力が制御されずに暴走している状態が統合失調症なのである。

私たちの中では実際には無数の声や、無数の視覚イメージが乱舞し、私たちの理解を絶した数理的秩序が支配している。その中の「ひとつの声」だけを選択に自分の声をして聴き取り「ひとつの視野」だけを自分の視線に同定し、理解を絶した秩序の理解可能な一断片だけに思念を限定できる節度を「正気」と言う。たぶん、そうだと思う。

この「理解を絶した数理的秩序」を私たちの貧しい語彙をもって語ろうとすると、それは「宇宙人の声」とか「CIAの監視」といったチープでシンプルな物語に還元されてしまう。だから、それについてはあえて語らない。それが知性の節度なのだ。ウィトゲンシュタインが言ったように「語り得ないものについては沈黙すること」が知性の生命線なのである。

アナグラムという現象は、人間の言語活動のうち、少なくとも音韻選択は識閾下でも活発に活動していることを示している。アナグラムについて書かれた詩学者が1冊も存在しないという事実は、アナグラムが人間の知性が統御すべき領域の出来事ではないということを意味している。おそらくそのことを古代人は知っていたのだ。というようなことを考えて映画を見る。

映画の中には無数のでたらめな表象が飛び交っている。とくにハリウッド・バカ映画の場合、映画を中枢的に統御している「作者」はもう存在しない。

フィルムメーカーたちが映画づくりにかかわる動機はきわめて多様である。あるものは金を儲けるために、あるものは政治的メッセージを伝えるために、あるものは宗教的確信を告白するために......それぞれがてんでかってな仕方で映画の現場に参加している。そこにはどのような意味でも「秩序」というようなもおが打ち立てられるはずがない。

しかし、それらの娯楽映画を分析的に見ると、すべてのフィルターがある種の「数理的秩序」に類するものに従って整然とする配列されていることがわかる。


いったい「誰」がその秩序を用意して、どうやって数百人数千人のスタッフ、キャストをその「意」に従わせたのか?私には説明ができない。たぶん、誰にも説明できないだろう。(引用終了)

このアナグラムの話は、本書の中で、私がもっとも理解できなかった部分(特に前半)で何度か考えてみたかったので、メモしておきました。

☆うほほいシネクラブ/内田樹[3]につづく


[PR]
by yomodalite | 2011-12-31 13:33 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

うほほいシネクラブ/内田樹[1]

うほほいシネクラブ (文春新書)

内田 樹/文藝春秋

undefined



内田樹氏の映画本。内田本にハズレがないのも、重要な箇所に線を引こうとすると、すべての行になってしまうことも、やっぱりいつもどおり。しかも、新書としては、最重量の厚み(2センチ程)で、面白さが詰まっているので、どこを切り取ろうか決められないぐらいで....ホント困ってしまうのですが、、

返る田舎のない身なので、年末からお正月まで、本書からのメモを、気が向いたときに追加していきたいと思います。 

これまで内田氏の映画論は、小津映画についてのものぐらいしか知らなかったのですが、ジョニー・デップや、タランティーノ、特にジョン・ウォーターズをそこまで高く評価されていることは全然知りませんでした(嬉しいっ)

「まえがき」より(省略して引用しています)

本書は僕にとって3冊目の映画論の本です。最初が『映画は死んだ ー 世界のすべての眺めを夢見て』次が『映画の構造分析 ー ハリウッド映画で学べる現代思想』本書に収録したのは、その2冊を出した後にさまざまな媒体に寄稿したものと、ネットで公開したけれど、これまで活字化されなかった映画についての書き物です。

第一章は、本書のタイトルになった「うほほいシネクラブ」読売新聞の「エピス」という紙面に連載した映画評で、2004年から2008年まで、月に一回試写会に行って映画を観て、それについて書くという仕事でした。

第二章は「街場の映画論」は僕のブログから拾い上げた「映画に言及した雑文」とパンフに寄稿したもの。

第三章「小津安二郎断想」は小津安二郎のDVDブックに連載したもので、小津のコレクションから1本抜き出して、じっくり隅から隅まで見て、思いついたことを書くという愉悦的な仕事でした。

最後の第四章「おとぼけ映画批評」は、1998年にインターネットのHPを開設してすぐ連載を開始した個人的な映画評です(2003年まで5年間続けました)。当時のHPのアクセスは100くらいで、読んでいるのはほとんど知りあいで、友だちと居酒屋で、生ビールなんかごくごく飲み、「どう、最近なんか面白い映画見た?」というようなカジュアルな口調で書かれています。

メディアの映画評では、新作しか扱いませんが、今は古い映画でも、ネットで上でクリックすれば済みます。そういう新しい技術的環境を享受していながら、いまだに新作しかレヴューしないというのは、ちょっとおかしいんじゃないかと、、あらゆる時代のあらゆる作品はつねに現時点におけるレビューの対象となりうる。いささか過激かもしれませんけれど、そういう開放的な立場から書かれた映画評というのだってあってもよいと思います。(引用終了)

第一章の「うほほいシネクラブ」の映画評は、それぞれ新書の1ページぐらいの分量なんですが、それでも、内田氏の思想・哲学が垣間見れるというか、匠の技や至芸を堪能できてしまうという例をほんの少しだけ。(省略・抜粋して引用)

『2046』
ことばは誰にも届かない。けれども人々は語ることを止めず、その誰にも届かないことばを、響きのよい音調で、あるいは絞り出すように、あるいはつぶやくように語り続けます。おそらく、聴き取って欲しい人にことばの「意味」が届かないとわかったときに、人間はいちばん美しい「音声」を発して、それを補償しようとするからでしょう。

『エターナル・サンシャイン』
アメリカのみなさんは、年に一度『クリスマス・キャロル』映画が見たくなる。これは僕が最近発見した「ハリウッド映画の隠された法則」の1つです。

おのれの人生を凝縮した時間のうちに幻視することによって「回心」を経験する、という話型はアングロサクソンの方々の琴線にふれるもののようです。この映画も『クリスマス・キャロル』ものに分類してよろしいと思います。

人間と言うのは不思議なもので、確定したはずの過去に「別の解釈可能性」があり、そのとき「別の選択肢を取った場合の私」というものがありえたと思うと、なぜか他人に優しくなって、生きる希望がわいてくるんです。

これは本当。若い人も長く生きてればわかるようになります。

『チャーリーとチョコレート工場』
「ティム・バートンにはずれなし」「ジョニー・デップにはずれなし」というのは僕が経験から学んだ貴重な教訓です(もうひとつ「メル・ギブソンにはずれなし」というものもあります)

僕が興味をもったのは、この映画がアメリカ社会に伏流するある隠された心性をストレートに表現していたということです。それは「母親に対する子供の抑圧された悪意」です。

『Always 3丁目の夕日』
おそらく僕たちには「一度として所有したことのない過去を懐かしく思い出す能力」が備わっているのです。この映画はそのような想像力が生み出したもののように僕には思われます。

『シン・シティ』
映画が固有の現実性を獲得するためには、フィルムメーカーと観客が「同じ側」に立って映画内的現実を見つめているよいう状況設定が必要なのです。「こちら」にフィルムメーカーと観客、「あちら」に映画そのもの。この二項対立関係が成立すると、映画そのものが(もう人間が作り出したものではなく)固有の悪夢のような現実性を持ち始めて自律的に存在するようになるのです。真に創造的なフィルムメーカーは(タランティーノもそのひとり)そのことを知っています。

『ミュンヘン』
この映画の心情的な通低音は「アメリカに住むユダヤ人がイスラエルに対して感じる疾しさ」です、現在アメリカに住んでいるユダヤ人たちは、もう十分にアメリカ社会に根付いているにもかかわらず「もしも、ここでまたホロコーストが起きたら....」という悪夢のような想像からはなかなか逃れることができません。

万が一そのようなことが起きたとしても、逃れるべき「祖国」があるということが彼らを心理的に支えています。イスラエルという「心理的な支え」があるからこそ、アメリカのユダヤ人たちは「普通の生活」を享受できている。

しかし、当のイスラエルでは人々は存亡をかけた戦争を繰り返し、日常的にテロに脅かされ、テロを行っています。ですから「私たちアメリカのユダヤ人は、イスラエルに踏みとどまっている同胞の血と罪によって、おのれの市民的平和を購っているのではないか?」という疾しさは程度の差こそあれ、アメリカ・ユダヤ人のうちに伏流しているのです。

『バベル』
4つの物語に共通するのは「言葉が通じない」と言う状況です。言葉が通じないことがむしろ出会いたいという欲望を亢進させるのです。「あなたの言いたいことはよくわかった」という宣言は「だから、私の前から消えてよろしい」という拒絶の意志を含意しています。僕たちはむしろ「あなたの言いたいことがよくわからない。だから、あなたのそばにいたい」という言葉を待ち望んでいるのです。

『The 有頂天ホテル』
「自分らしく生きる」というのは、自分の中からこみあげてくるピュアな欲望や衝動に身を委ねるということではなく、人々が自分に期待している役割を粛々と演じきる覚悟性のうちにある。たぶん三谷さんはそういうふうに考えているんじゃないかと思います。(大人ですね)

『父親たちの星条旗』
クリント・イーストウッドは偉大なフィルムメーカーです。もしかすると未来の映画史には20ー21世紀で最も偉大なハリウッド映画監督として記憶されることになるかもしれません。『ダーティハリー』と『ガントレット』で刑事映画のスタイルを完成させ『ペイルライダー』と『許されざる者』で西部劇のスタイルを完成させ『ハートブレイク・リッジ』と『父親たちの星条旗』で戦争映画のスタイルを完成させたんですから。

スタイルの完成させたというのは、これ以上洗練された映像を作り出すことがほとんど不可能をいうことです。彼の映画について形容する言葉を1つだけ選ぶとしたら、それは「洗練」ということになるでしょう。

「洗練」というのは「過剰」の反対です。ですから、彼の映画ではすべてが「少しだけ足りない」

俳優は説明的な演技を禁じられており、画面は観客が予想するよりもわずかに早くカットアウトされ、ライトは画面の隅々まで行き渡って、俳優の表情をくまなく見せるには少しだけ足りません。重要なセリフを語るときは、観客が少しだけ耳を澄ましてわずかに身を前に乗り出さなければならない程度にわずかに音量が抑えられる。すべてが「少しだけ足らない」。

『硫黄島からの手紙』
硫黄島で死んだ二万人の兵士を鎮魂する映画はどう考えても日本人が自力で作るべき映画でした。この映画の中で僕たちは「天皇陛下万歳』と「靖国で会おう」という常套句に何度か遭遇します。これまでに見たどのような映画でも、僕はこのようなイデオロギー的言明に悪寒以外のものを感じたことがありません。けれども、この映画においては、僕はその言葉に不覚にも目頭が熱くなりました。

間違いなく多くの日本の兵士たちは死に際して、最後の希望をその言葉に託したのです。その動かしがたい事実が淡々と、どのような判断も込めずに、ただ記述的な仕方で示されているときに「そのような言葉を口にすべきではなかった」というようなあと知恵の政治的判断はほとんど力を持ちません。

このことがどれほどの力業であるかを理解したければ、日本人のフィルムメーカーが「アメリカの兵士たちが日本軍と戦って死ぬ映画」を作って、そのアメリカ人兵士たちのたたずまいの描き方の精密さがアメリカの観客たちを感動させるという事態を想像してみればよいでしょう(僕には想像ができません)

『ヘアスプレー』
ジョン・ウォーターズ師匠(私が「師匠」と敬称をつけてその名を呼ぶフィルメメーカーはこの世に小津安二郎と、ジョン・ウォーターズのお二人だけです)の、ボルチモア讃歌シリーズの中でも名作の誉れ高い『ヘアスプレー』(1988年)のリメイクです。

この師匠のスゴいところは「テーマなし(ほとんど)ストーリーなし」であるにもかかわらず始まってから5秒後に映画の中に引きずり込まれ、エンドマークが出るまで時の経つのを忘れてしまうスーパーな「娯楽映画」を作ってしまうところです。

映画はただ1つのことしか扱っていません。それは「ロケンロールへの愛」です。ロケンロールは20世紀のアメリカ人が誰にも気兼ねすることなくそれに対する無条件の愛を信仰告白することが許された唯一の対象でした。

ロケンロールこそ、1945年以後のアメリカ人が肌の色を超え、信教の違いを超え、階級を超え、政治的立場を超えて、1つに結びついた、たった一度だけの歴史的経験だったのでした。


ブルースは黒人の音楽であり、カントリーは中西部の白人の音楽であり、ポップスは中産階級の音楽であり、ラップは非抑圧階級の音楽であったからです。そのようなきびしい社会集団ごとの境界線がすべての文化財を乗り越え不能な仕方で切り刻んでいる中で、唯一「ロケンロール」だけは「ヒップ」なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが「自分のための音楽」として認知することのできる「開かれた音楽」だったのでした。

そのような文化的な「入会地」はもう21世紀のアメリカ社会には存在しません。だからアメリカ人たちは今万感の哀惜を込めて、ヘアスプレーで固めた髪の毛をロケットのように点に突き上げ、リーゼントを決めた兄ちゃん、姐ちゃんが底抜けに陽気なダンスをすることができた「ケネディが大統領だった時代」を目を潤ませてながら回顧しているのです。(引用終了)

エイミー・スチュワートを見ていると、妙にジョン・ウォーターズの映画が観たくなってきてたんだけど、『ヘア・スプレー』置いてないのね、TUTAYA DISCAS....

☆うほほいシネクラブ/内田樹[2]に続く


[PR]
by yomodalite | 2011-12-29 19:47 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

『ミケルアンヂェロ』ほか・・・

f0134963_234852100.jpg


去年末から、勝新太郎や根本敬など、これまで今ひとつわからなかった方々と濃密に出会えたことからすっかり調子づいて、もしかしたら、この勢いで、ミケランジェロも“来る”んじゃないかって気がして、こちらの本でお薦めされた『ミケルアンヂェロ』を読み始めたんですが、

しばらく読んでから思い出しました。この本は、もうずっ〜と昔、本代を親に請求出来た時代にも出会ってました。でも、そのときは、本当に書いてあることが、さっぱりわからなかったんですけど、今回読み直してみたら、

やっぱり、全然わかんないんですよ(笑)



f0134963_23492097.jpg


しかも、この難しさは、簡単なことをなるべく難しく書くのがカッコいいって思ってるような、よくある面倒くさい文章だからじゃなくて、これを読むために必要な「知識」が完全に不足しているという「残念」な理由なので(泣)、これ1冊読むのに、参考書がたくさん必要で、他の読書がぜんぜんできないの。

この時代の文化人の「教養」に、ついて行くのってマジ大変だわ。

(最近ようやく、ミケランジェロの怒りが少しわかってきたので、写真入れ替えてみた。2012.10月追記)



f0134963_2350286.jpg


ちっともページが進まないことにイライラしている私に、ダーリンがしつこく、太田光の『マボロシの鳥』『M−1戦国史』を勧めてきたので、ちょっぴり読んでみたんだけど、『マボロシ...』は2編のみ、『M−1戦国史』も、ポイズン・ガール・バンド(大好き)のことが良く描かれていたことを軽く確認した以上は読めなかったし、

『アナーキー・イン・ザ・JP』は1ページ目を開いただけで無理だなって思っちゃうし、笑える本を期待してたんだけど、『考えない人』も入り込めなかった。

『邪悪なものの鎮め方』は、いつもどおりためになって、『ゴーマニズム宣言SPECIAL 昭和天皇論』に、感想書こうとしたら「よしりんは、MJに似てる...」なんてことになりそうなので書かないことにします。

どんなに面倒くさくても、“ミケランジェロ”の方が気になっちゃうんだなぁ。(ミケランジェロへの興味というよりはMJ愛として♡)

わたしって、やっぱり同時に2人の男は無理なタイプなんだと思う(残念)

そういえば、作家の桜庭一樹氏が、NHK-BS「週刊ブックレヴュー」で、秋頃出版予定の本として、

「もし日本にマイケル・ジャクソンがいたら....て思いついたんですけど....銀座の廃校になった小学校を、和製MJが買い取って、ネヴァーランドを創るって話で....そこでどうやって生まれたかわからない娘と2人で暮らしているのだが....ある日事件が...っていうものを書いてまして。。」(あとに『傷跡』として出版された)

て語っていてびっくり!それで今マイケル資料漬けになってるそうです。

◎桜庭一樹オフィシャルサイト
◎番組で紹介された話題の新刊『伏(ふせ)贋作・里美八犬伝』

江戸を舞台にした小説のあと、今度は銀座でMJって、、桜庭氏ってわたしと「電波」で繋がってるひと?(笑)清涼院流水氏の小説は未読ですけど、桜庭氏の方がよりファンタジックな内容ぽいので、こちらは読んでみようかな。。。

また、この間に観た映画(TV)では、『板尾創路の脱獄王』『空気人形』がラブリーで、『マン・オン・ワイヤー』は生涯忘れたくない作品でした。


[PR]
by yomodalite | 2011-01-24 21:30 | MJ系ひとりごと | Trackback | Comments(10)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite