タグ:フランス ( 7 ) タグの人気記事

f0134963_00035419.png



ヴェネツィア国際映画祭のワールドプレミアで上映された映画。
先入観なく映画を楽しみたいという理由で、いつもテキトーな情報で見に行ってしまう私は、エンディングまですっと、ソフィア・コッポラの映画を見ているつもりだったのですが、監督はフランスのソフィア・コッポラとの呼び声が高いレベッカ・ズロトヴスキでした。


f0134963_00011099.jpg


ナタリー・ポートマンと、ジョニー・デップとヴァネッサ・パラディの娘リリー=ローズ・デップが演じている、ローラとケイトのバーロウ姉妹は、アメリカ人の霊能力者で降霊術のショーで稼いでいる。そんな二人に魅せられた映画プロデューサーのコルベンは、世界初の映画を撮影しようと姉妹と契約するのですが・・・


f0134963_00013902.jpg


バーロウ姉妹とコルベンは、実在したスピリチュアリストのフォックス三姉妹と、フランスの伝説的映画プロデューサー、ベルナール・ナタンという人物がモデルになっているらしいのだけど、37歳のズロトヴスキという名前のフランス出身の女流監督が、パリが最も華やかだった1930年代を舞台にしたかったのは、その時代の衣装や文化がただ好きだったから、と言いたくなるほど「おしゃれレベル」が高い映画。

では、それ以外になにがあるかといえば、何もないかもしれないけど、

「彼女たちは人種と性差の壁を突き抜けて・・・」なんていう《夢》を押し付けられるばかりのハリウッドと現代への、女流監督ならではの、ゆるふわではありながらも、確固たる反旗の意志は見え隠れしているかも。


f0134963_23565093.jpg

煙草を吸うシーンがやたらと多いおしゃれ映画が見たい、という人へ


[PR]
by yomodalite | 2017-10-05 00:08 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)
f0134963_00354748.jpg


画家、藤田嗣治の波乱の生涯を描いた、小栗康平監督の10年ぶりの映画。

1920年代のパリで、知らぬ者がいないと言われるほど成功した様子も、敗戦後、戦争画を描いたことで戦争責任を問われ、再びフランスに渡ることになった経緯も、5度の結婚から想像されるような華やかな女性関係も、そして、藤田の人生の背後にいつもあった戦争の悲惨さについても、十分な描写とは言えないのだけれど、フランスと日本の風景は、両方とも静謐で美しく、そしてある意味退屈で、ときどき幻想的なシーンが現れる。

まったくの想像だけど、監督は、藤田に特別な興味があって、この映画を創ろうとしたのではなく、たまたま(おそらく、フランス側の要望で)撮ることになった藤田を通して、芸術家の生き方を考えながら、探り探り、この映画を撮ったのではないだろうか。

主演のオダギリジョーは、NHK「SWITCHインタビュー」で、舘鼻則孝と対談したとき、「技術と感性のバランスって難しくないですか?」と聞いていたのが印象的だったのだけど、小栗監督もなにか、まとめることを拒むようなセンスで、この映画を創ったような・・・小栗作品を観るのはこれが初めてなので、なんとなく、そう思っただけなのだけど。

フランスついて、今の私は、「無神論の国」というイメージが一番先にくるのだけど、そのせいなのか、この映画の藤田嗣治が、芸術の都を謳歌した狂乱の時代のパリに受け入れられ、帰国後の日本で、戦争画を描き、再びフランスに戻って、カトリックの洗礼を受けた。ということが、モンパルナス、セーヌ川・・自由の国フランス!とだけ思っていたときよりも、自分にはしっくりと感じられた。

カトリックの国の「無神論」はわかりやすい。

教会も、彫刻も、フレスコ画も、石で出来ていて、何百年も遺されている。

そして、対比が明確なものは、光と影のように一対でもある。

浮世絵などの日本文化や、藤田がフランスで高く評価されたのも、フランスが、カトリックの「無神論」だったからで、アメリカにあるプロテスタントの「無神論」ではありえなかった。

エンディングでは、いくぶん唐突に、藤田の礼拝堂(ノートルダム・ド・ラ・ペ教会)が映る。

私には、藤田が描いた晩年の宗教画は、モンパルナスで大成功した時代の絵よりも美しく見えるのだけど、小栗監督は、それを最後に見せながらも、少し迷いながら撮っているように感じた。でも、それもこの映画を美しくしている点だったのかもしれない。


そんな風に感じながら、映画を観ていたのだけど、家に帰ってこれを書いているうちに、

前述の番組で、「藤田の顔は真似しやすいですよね。誰でも似せられるというか、そんなところも藤田は、考えていたんじゃないですかね」と、オダギリジョーが言っていたことを思い出した。

藤田は、モンパルナス時代、その絵が評価されただけでなく、フランス語の綴り「Foujita」から「FouFou(フランス語でお調子者の意)」と呼ばれて親しまれていたのだけど、そういえば、藤田のルックスは、三バカ大将のモーの髪型と、チャップリンとヒトラーのチョビ髭と、ハロルド・ロイドの丸メガネがすべてミックスされている。



f0134963_10081677.jpg


でも、この4人の中で一番年上なのは、藤田で、その名が知られるようになったのも彼らより後ではなかったのだ。

( )内は誕生日

藤田嗣治(1886年11月27日)
1917年頃に初めて絵が売れ、3か月後に初めての個展を開く。この最初の個展で、著名な美術評論家が序文を書き、高値で売れるようになる。翌1918年の終戦によって、さらに名声が高まり、1925年にはフランスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を贈られた。

ヒトラー(1889年4月20日)
1923年にミュンヘン一揆の首謀者となり、一時投獄されるも、出獄後合法的な選挙により勢力を拡大した。1933年にドイツ国首相

チャップリン(1889年4月16日)
1909年、パリ巡業。1910年、寸劇『スケート』や『ワウワウ』に主演し好評を博す。1918年、ハリウッドに自身の撮影スタジオを設け、年間100万ドル超の契約を結び、名実ともに世界的ビッグスターとなる。

ハロルド・ロイド(1893年4月20日) 
1917年、『ロイドの野球Over the Fence』で初めて眼鏡キャラクター"The Boy"になった。

三バカ大将のモー(1897年6月19日)
モー、ラリー、カーリーによる三バカ大将は、1934年にコロンビア映画と専属契約を結び、「三ばか大将」をメインタイトルに頂く短編シリーズが始まる。子役出身のモーは、このメンバーに固まる前の1920年代初頭から活躍している。


[PR]
by yomodalite | 2015-12-03 10:22 | 映画・マンガ・TV | Trackback(1) | Comments(0)

無神論/竹下節子

無神論―二千年の混沌と相克を超えて

竹下 節子/中央公論新社

undefined


私たちは、キリスト教や聖書がわからないだけでなく、「無神論」は、もっとわかってないんだなぁと最近になって気づきました。自分のことを「無神論者」だと思ってしまう日本人は多いですが、神がいないことを、とことん考えた人など日本の歴史の中にはいません(神の存在について考えた人もいませんけど)。

キリスト教ってどうしてこんなに宗派が多いの?と思った人も多いと思いますが、ユダヤ教を否定したキリスト教はカトリックを生み、カトリックを否定したプロテスタントは改革を進めるうちにユダヤ教に近づいていき、フリーメーソンもイルミナティも「プロテスタント」だという見方もあるようですが、なぜか、カトリックの司祭にもメーソンはいて、もっと理解しがたいことに、福音派のメーソンもいたりして、それでも彼らは「スパイ」というわけではなく、公にそれを認めるかどうかという議論もあるのだとか。。

とにかく、この3つは、長年の間お互いをディスりあっているので、手の内が見えていたり、手慣れてもいて、そしてそのディスりあいは、お互いを「無神論」だと言うことでもある。

下記は、著者の志の高さに拍手を送りたくなった「はじめに」から省略して引用します。

ヨーロッパの基礎を作ったのはローマ・カトリックだ。文化の温床でもあったけれど、政治の道具でもあり、攻撃と弾圧のシステムでもあった。(...)人間の宗教の歴史とは、いつも偶像崇拝の歴史に重なるのが常なのだ。2000年前に、神殿に閉じ込められたユダヤの神を解放したイエスのキリスト教はローマ帝国から「無神論」だと呼ばれて非難された。16世紀のヨーロッパでは、巨大な教会組織の中に閉じ込められたカトリックの神を解放しようとしてプロテスタント諸派が産声を上げ、「旧教」と「新教」は、互いに互いを「無神論者」と罵り合った。

17世紀にはリベルタン(自由思想者)が生まれ、デイスト(理神論者)が登場した。デイストとは、神を世界の創造者とはするが、人格的存在としては認めず、奇跡・預言・啓示などを否定する立場の人々である。天地創造した後で独り子イエスを地上に送って犠牲にした神とは別に、天地創造した後で被造物への不干渉を決め込む神や、宇宙の偉大なる設計士としての神が生まれた。現代の福音派キリスト教の説くような創造の「グランド・デザイン」をする神もいる。無神論を唱えた共産主義といえども、一党独裁の儀式化は、神政政治モデルを採用した疑似宗教のようなものだった。

そして、それぞれの「神」に、それぞれの「無神論者」が戦いを挑んだ。今も挑み続けている。キリスト教世界の神と無神論は光と影のようにセットになっているのだ。その拮抗を見なければ歴史はわからない。

しかし、キリスト教文化圏発の近代社会が地球のスタンダードとなりグローバル化か進むとき、皮肉にも、イスラム世界をはじめとする政教一体の宗教思想が侵入してきた。20世紀以降にヨーロッパに「移住」してきたイスラムの神には無神論の影がない。宗教と無神論の拮抗のノウハウをすでに失いつつあるキリスト教文化圏にとって、それは思いがけない脅威となってしまった。

キリスト教原理主義の台頭、モラルなき弱肉強食の新自由主義と拝金主義の蔓延など、神と無神論が二極化しつつあり混乱しているのだ。その戦いを「一神教同士の戦い」などと単純に眺めている日本は、イスラム同様、そもそも無神論の影を持たず、神と無神論の対立なしに、ポストモダンの相対化の混沌に突入してしまった。だから日本は外交の言葉が紡げない。

キリスト教無神論を知らなければ、キリスト教が生んだ近代理念とその変貌とを真に理解することはできない。無神論を知ることは、神を知ることだ。無神論とは神への執念である。それは「来し方行く末」に思いをめぐらさずにはおれない人間に対する洞察であり、存在の意味への挑戦であり、生き方を模索する哲学でもある。

政教分離に至る危機の時代を象徴する鋭角的なエッフェル塔と、豊かで丸いサクレ・クール聖堂が二つながら今日も観光客を魅了する国にいて、神から無神論が、無神論から神が、いつか互いに解き放たれて世界平和の力になる日を夢見て、この本は構想された。無神論を語ることは神を語ることと同じように広範囲にわたるので、その全貌を紹介することはむろん不可能だ。ここではまず、良くも悪くも現代文明のスタンダードとされている「西洋近代」を創ることになったヨーロッパにおける無神論の系譜を辿り、さらにそれが立体的に見えるようにいくつかのテーマに光を当ててみた。いつの時代にも、真の無神論的感性こそが、神を普遍へと招き、人を無限の高みへ誘い、永遠と有限とを和解させるのだ。

(引用終了)

本書ではこのあと、無神論の歴史について、事細かにというか、もう少し省略できたんじゃないか、特に「不信心」と「無神論」は区別すべきではないかとか、逆に興味深い記述が来た!と思ったらすぐに終わってしまうとか、『ユダ ー 封印された負の符号の心性史』と同様の少し残念な展開が待っていたり、

また、フランス在住の著者が思う「無神論」は、フランスのそれであって、アメリカの「無神論」とは少し様相が異なっている。ということも・・・それでも、他にこのテーマでいい本があるわけではないので、

19世紀までの記述から、本書の面白さが少しわかる箇所をメモしておきます。

無神論は理性主義の衰勢と連動した。理性主義の観点から大きく分けると、「無神論」の系譜と「異端」の系譜は実は対極にある。すなわち、「無神論」として警戒されたのは、世界の説明と人間の営みに「神を必要としない」態度であったのだが、いわゆる「異端」のほとんどは、その逆で、「信仰」の非合理的な部分を拡大して理性を犠牲にして神学上のバランスを崩す、という態度であった。

カトリック神学の正統派は、民衆の間に根強く残っていた多神数的で呪術的な「蒙昧」に比べて、はるかに「無神論」に近いところにあったのである。それはキリスト教がその出発点において持っていた偶像崇拝否定や呪術否定という啓蒙的な「無神論」的スタンスを多かれ少なかれ持ち続けていたということを物語っている。

15世紀には、ニコラウス・クザーヌスの弁証法的否定神学が確立し、後のドイツ哲学にも大きな影響を与えることとなる。しかし、人間の無知を認識する否定神学の流れは、やがてすべての神学の否定に通じるペシミズムとニヒリズムにも向かっていった。理科系の「神離れ」が西欧近代というモダニズムを生み、文科系の「神離れ」がポストモダニスムを生んだといえるかもしれない。結局のところ、理性至上主義も懐疑と無神論をはらみ、理性を放棄した神秘主義も絶望と無神論をはらんでいたということで、すべての試みが「近代無神論」を用意するのである。

* * *

中世の知識人(神学者、聖職者、貴族)と、その中間には、学生や文学者や芸能者や都市民による不信心が広がっていた。芸能者や吟遊詩人、学生らは共通語であるラテン語を使って、恋愛や性について自由奔放な歌を高吟していた。現存するテキストで有名なのは、11世紀から13世紀にかけてのものと見られる写本群『カルミナ・ブラーナ』で、ドイツの音楽家オルフによる世俗カンタータによって日本でもよく知られている。そこには「魂は死ぬ、体しか大事にしない」とか「永遠の救いよりも官能だ」などというカトリックの教義に明らかに反する言葉がたくさんある。教皇庁のあるイタリアでも、中世末期からルネサンス初期にユマニスム(人文主義)が広まり始めた。ボッカチオの『デカメロン』の中の父が三人の息子にダイヤを残す話の中では、三人の息子はそれぞれユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒となっている。ボッカチオはラテン語作品として神々の系譜も説いた。(〜ヨーロッパ中世の無神論)


17世紀のヨーロッパのカトリック教会に衝撃を与えた無神論的事件の一つは日本で起こった。イエズス会のポルトガル人宣教師でありながら、拷問に耐えかねて禅宗に帰依してしまったクリストファン・フェレイラの存在である。過去に空海が『三教指帰』で儒教や道教に比べて仏教が優越することを証明したように、キリスト教よりも仏教の優越を説いたわけではなく、フェレイラの論議を見ると、それは実は中世末期からルネサンスにかけてすでにヨーロッパの至るところに出回っていた反キリスト教、反宗数的言説の踏襲である。フェレイラの棄教にショックを受けてその後あえて日本行きを志願した宣教師は少なくなかった。遠藤周作がそれをモデルにして『沈黙』という小説を書いたのはよく知られている。現代のフランスでも、ジャック・ケリギーが『断末魔』という小説によってフェレイラの転向の心理を分析している。

しかし、フェレイラは殉教した日本人キリシタンに比べて苦しみに耐える力が足りなかったからでも、無理やりキリスト教弾劾の書を書かされたわけでもなさそうである。フェレイラの属するイエズス会では前述したガラス神父の善に見れるように、プロテスタントやリベルタンの言い分かすでに広く知られていた。フェレイラは科学者としても最先端にいた人らしく、天文学や外科医学の書物も奢して日本における蘭学の基礎を築いた。「理性の善用による進歩主義」の勧めは彼の本音に近いところにあったものだろうし、彼のキリスト教批判には、アリストテレス主義、アヴェロエス主義、エラスムスの影響が見え、さらにそれらをつないでいたマラノズム(マラノス主義)の影もある。フェレイラは、15世紀のレコンキスタ(失地回復運動)以来カトリックに改宗したイベリア半島のユダヤ人の家系出身だった。彼らは隠れユダヤ人を意味する「マラノス」と呼ばれたが、実際にカトリックに帰依した者、プラグマティックでリベラルな精神であった者、隠れてユダヤ教を実践する者などいろいろだった。このマラノスがプロテスタント国に亡命してユダヤ教に再び戻ることもあった。アムステルダムに移住したイベリア半島出身マラノスのユダヤ家庭の三代目に生まれて無神論的哲学の先駆となったスピノサとフェレイラには通底するものがあるかもしれない。

フェレイラが科学的合理主義者としての使命をまっとうしたところを見ると、当時の日本では、主として政治的思惑からキリシタンが弾圧されたとはいえ、キリシタンのもたらした科学技術は積極的に取り入れられたことからも、むしろアヴェロエスの「ニつの真実論」的な折り合いが信仰と理性の問にあったように思われる。そんな中であえて一神教に帰依した日本の信者たちにはダブル・スタンダードを使い分けることなど不可能で、それ故に殉教へと突き進んだ一般人が少なくなかったのかもしれない。彼らはキリスト教には帰依したものの、ヨーロッパではすでにキリスト教と表裏一体となっていた無神論的な言説についてはまったく知らされていなかったのである。その後250年間続いた徳川時代には、戸籍を司る檀家制の仏教が強制された。日本の支配者にとって、フェレイラによる内部からのキリスト教反駁は歓迎すべきツールであっても、「神仏を拝む蒙昧」にまで敷衍されては大変なことになる。蘭学はそんな江戸時代の日本で少しずつでも受け継がれていったが、同じ二五〇年間にヨーロッパが体験する「無神論による脱宗教の近代」という激動からは、日本は何も学ばぬままでいたし問題の所在すら意識化されなかったのである。

フェレイラの少し前に日本人キリシタンで「再転向」してキリスト教批判のを書いた不干斎ハビアン(巴鼻庵)という人物がいる。この書は芥川龍之介の『るしへる』という短編によっても知られたが、この人はもとが禅僧でキリシタンに改宗してフェレイラと同じイエズス会の修道士となって、仏教や神道よりもキリスト教が優れていることを説く『妙貞問答』を著した論客だ。一神数回士の優劣論議の伝統を口本の仏教や神道に応用するには日本人論客が必要だったはずで、この書の意味は大きい。しかし幕府の儒学若林羅山が「排耶蘇』という書で触れている論争を経て、棄教し、一転して『破提宇子(はだいうす)』を著した。林羅山はキリスト教だけでなく儒教と神道以外はすべて排除する立場であり、ハビアンもキリスト教を捨てた後、仏教に戻ったわけではない。彼のキリスト教批判は元イエズス会士らしくヨーロッパのキリスト教批判の定石に則っているが、そこに白人による覇権古義と優越思想への批判が盛り込まれている。この人が日本の宗教を捨てて「舶来宗教」に走ったことも、それを再び捨てて排撃しはじめたのも、それぞれの伝統社会における居心地の悪さの表明だったのかもしれない。
 
時代に先行した科学主義の精神が、その光をまずキリスト教普遍主義とイエズス会の科学精神に求めようとして得られず、異文化の壁に突き当たって閉塞する個人となってしまった例であろう。ハビアンの無神論はキリスト教であることがとりあえずデフォルト(標準環境)であった17世紀ヨーロッパでのそれとは違って、形而上学へと醸成されることはついになかったのである。(〜17世紀の無神論)

* * *

個人主義心理学がペシミスティックな無神論を孤絶に紡いでいた生存戦略の中で、20世紀以降のポストモダンの時代に最も大きな影響を与えたのはフリードリヒ・ニーチェである。「神は死んだ」という宣告で有名なニーチェは、神なき虚無の中で絶望する代わりに、力の意志を選び、超人思想の構築に至った。妹への手紙の中で「魂の平和がほしいのなら信じるがいい。真実の使徒でありたいのなら、探し求めるがいい」と書いたように、ニーチェは宗教の幻想に留まることも、絶望の中に立ちすくむことも拒否した。ニーチエは西欧近代における「神殺し」が実はキリスト教の世俗化であり、近代の「人間教」の理念がすべてキリスト教のシステムを非宗教化しただけであることを見抜いていたのだ。
 
牧師の息子であったが18歳の頃にはすでに、聖書解釈学や理想主義的哲学の前にはキリスト教は形骸化するだろうと予感していた。友人のルー・アンドレアス・サロメはニーチェが激しい宗教感情の持ち主で、神の死におののいていたことを証言している。ニーチェはキリスト教の神がもはや信じ難くなっていることの持つ意味の恐ろしさに誰よりも早く気づいた。神は死んだ。我々が神を殺したのだ。
 
神殺しはどのように行われたのだろう。まずルターが神を各人の個人的信仰に拠るものだとしたことで殺した。神自身も、人間を哀れみ過ぎたことで自らの死を招いた。神は神学に息の根を止められた。科学や心理学の発展も神を殺した。そして、そのように断末魔に苦しむ惨めな神の姿を見るに忍びないニーチェ的な意志によってさらに止めを剌されるのだ。
 
最悪なのは、人々が神を殺したことに気づいていないことだ。キリスト教をユマニスムに置き換えただけで、倫理学も形而上学も実は何も変わっていない。人々はまるで神がまだ生きているかのように振る舞っているのだ。
 
今や、人は神の死という現実を見据えて、神なしで生きることに慣れなければならない。それには二つの方法がある。一つは「大衆向け」の方法で、奴隷の倫理を選ぶこと、つまり神の代わりに、科学や進歩や民主主義や真実といった偶像の新しい神の影を拝んでいればいい。そのうちに、人は生存条件の悪い場所を捨てていくのでこの世はますます狭まるだろう。温め合うために身を寄せ合うこともあり、快適に生きるためにも毒を盛り、快適に死ぬためにも毒を盛る。みな平等で、昼も夜も楽しく生きて健康に気をつけて、適度な「幸福」に生きて満足していればよい。これが超人の反対の「末人」の道である。

もう一つは真の無神論者、すなわち「超越」幻想から解放されて神のいない世界を引き受ける人々向けの「超人」の道である。真実や意味などは存在しない。すべては許されている。超人にとってのモラルとは力の意志である。神の前の平等というキリスト教の平等に薇づくモラルは馬鹿げている。

超人は、永遠に回帰し続ける世界を前に英雄的に生きる。ショーペンハウアーのような諦念と絶望は超人の道ではない。しかし、抗し難い運命の前で自由に生きることを選択するのは、それ自体が矛盾している。ニーチェは懐疑に蝕まれ、自己を真に信じるためには狂気の道しかないと追い詰められた。こうして19世紀の超人は狂気の中に突き進み、次の世紀には、平等な小市民の幸福を追求する「末人」たちが近代とポストモダンの世界を埋め尽くすことになるのである。(〜19世紀の無神論 P140)

(引用終了)


[PR]
by yomodalite | 2015-05-22 06:00 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(2)
f0134963_22331859.jpg

今日は、私の好きな文学オールタイムベストのひとつ『O嬢の物語』(澁澤訳)を、
ステファン卿ではなく、ジャクソン卿への不埒な欲望をバネに、
英語訳と照らし合わせながら読みました。

下記は第2章「ステファン卿」の中から少しだけ。。
電車の中でも安心して読める箇所をセレクトしてますw


Sir Stephen
ステファン卿

Sir Stephen stirred the fire, Rene suddenly went behind the sofa and, seizing O by the throat and the hair, pulled her head down against the back of the couch and kissed her on the mouth, a kiss so prolonged and profound that she gasped for breath and could feel her loins melting and burning. He let her go only long enough to tell her that he loved her, and then immediately took her again. O's hands, overturned in a gesture of utter abandon and defeat, her palms upward, lay quietly on her black dress that spread like a corolla around her. Sir Stephen had come nearer, and when at last Rene let her go and she opened her eyes, it was the gray, unflinching gaze of the Englishman which she encountered. let her go and she opened her eyes it was the gray, unflinching gaze of the Englishman which she encountered.

ステファン卿は火をかきたてた。ルネはいきなりソファのうしろへまわって、Oの首と髪の毛をつかむと、ソファの背に彼女の頭をのけぞらせて、その口に接吻した。長い激しい接吻だったので、Oは息がつまりそうになり、全身が熱く溶け出すような感じがした。愛してるよ、と言うあいだだけ、ルネはOを離し、すぐまた彼女をつかまえるのだった。Oの身体のまわりに花冠のように広がった黒いスカートの上に、彼女の手は、掌を上にして、ぐったりと投げ出されていた。このとき、ステファン卿が近づいてきた。Oがようやくルネの手から完全に解放されて、ふたたび目をあけると、すぐ目の前にイギリス人の灰色の、まっすぐなまなざしがあった。
 
Completely stunned and bewildered, as she still was, and gasping with joy, she none the less was easily able to see that he was admiring her, and that he desired her. Who could have resisted her moist, half-open mouth, with its full lips, the white stalk of her arching neck against the black collar of her page-boy jacket, her eyes large and clear, which refused to be evasive? But the only gesture Sir Stephen allowed himself was to run his finger softly over her eyebrows, then over her lips. Then he sat down facing her on the opposite side of the fireplace, and when Rene had also sat down in an armchair, he began to speak. (~P69 - P70)

が、彼女はまだ茫然としていたし、幸福に息をはずませてもいたので、彼女を賛美し欲望する男のまなざしに、ほとんど気がつく余裕もなかった。彼女のぬれた半開きの口や、ふっくらした唇や、ページ・ボーイ風なジャケットの黒い襟からのぞいた白い首や、大きな澄んだ目に、いったい、誰が抵抗しえたであろうか。しかしステファン卿があえてした行為は、ただ指で彼女の眉毛と、それから、ステファン卿は暖炉の反対側の、Oの正面にすわった。そしてルネも肘掛椅子にすわるのを待って、次のように話しはじめたのである。



Sir Stephen's quiet, self'- assured voice rose in an absolute silence. Even the flames in the fireplace flickered noiselessly. O was frozen to the sofa like a butterfly impaled upon a pin, a long pin composed of words and looks which pierced the middle of her body and pressed her naked, attentive loins against the warm silk. She was no longer mistress of her breasts, her hands, the nape of her neck.

ステファン卿の静かな落ち着いた声が、ふかい沈黙のなかで鳴り響いていた。暖炉の炎さえ、音もなく燃えていた。Oはソファのうえに、ピンで留められた蝶のように釘づけになっていた。言葉と視線でできたその長いピンは、彼女の身体の中心をつらぬいて、彼女の敏感な臀を生暖かい絹の上に圧しつけた。Oには、もう自分の胸や襟首や手の感覚もなくなっていた。

But of this much she was sure : the object of the habits and rites of which he had spoken were patently going to be the possession of (among other parts of her body) her long thighs concealed beneath the black skirt, her already opened thighs.

それでも、いまステファン卿の言った習慣とか儀式とかいうものが目的としてねらっているものは、自分の肉体の各部分のなかでも、とりわけ黒いスカートの下にかくれた、あらかじめ半開きになっている、自分のすんなりした二本の脚であることを疑うわけにはいかなかった。

Both men were sitting across from her. Rene was smoking, but before he had lighted his cigarette he had lighted one of those black-hooded lamps which consumes the smoke, and the air, already purified by the wood fire, smelled of the cool odors of the night.

ふたりの男は彼女の方を向いていた。ルネはタバコをふかしていたが、ふと近くにある黒いシェードのランプに灯りをつけた。煙はその灯影に吸い込まれ、すでに暖炉の木の匂いによって浄化されていた空気に、さらに夜の冷気が立ちこめた。
 
“Will you give me an answer, or would you like to know more?" Sir Stephen repeated.
“lf you give your consent," Rene said, “I'll personally explain to you Sir Stephen's preferences."

「返事をしてください。それとも、もっと聞きたいことがありますか?」とステファン卿がまた言った。「もしきみが承諾してくれたら」とルネが言った。「ステファン卿に優先権があるってことを、ぼくから説明してあげよう」

“Demands,"Sir Stephen corrected.

「むしろ請求権というべきだよ」とステファン卿が訂正した。

英文:Story of O by Pauline Réage(P69~P72)
日本語:O嬢の物語 渋澤龍彦訳(河出文庫(P109~110)

f0134963_22364680.jpg

◎[Wikipedia]O嬢の物語
◎[Wikipedia]ドミニク・オーリー(ポーリーヌ・レアージュ)

☆英語版はペーパーバック、Kindle版ともに2種類ありますが、上記で引用した本はこちらです。河出文庫版と同じマンディアルグの序文やジャン・ポーランの推薦文も収録されています。
◎[Amazon]Story of O by Pauline Réage

☆澁澤訳のKindle版も角川と河出の2種類あって角川の方がお安いようですが。。
◎[Amazon]O嬢の物語 渋澤龍彦訳(河出文庫・Kindle版)

[PR]
by yomodalite | 2013-12-08 23:14 | 文学 | Trackback | Comments(0)

読んでいない本について堂々と語る方法

ピエール・バイヤール/筑摩書房



2012年の12月は、今日までに、7冊しか本のことを書けなかった。

そのせいなのか、一瞬、このタイトルを見てハッとしたのだ。で、、それと同じぐらい一瞬で「何のために?」と思い返したものの、一応、本は読んでみた。だって、「みるみるわかる!」と書かれている本で、みるみるわかったこともなければ、「**とは何だったのか?」という本に、答えが書かれていたこともないし、

本というのは、実際に読んでみないと本当に何が書かれているかわからないものなので、この本が、本当に「読んでいない本について」書かれたものなのかどうかだって、読んでみないとわからないからね。

で、その内容なんですが、、

本書は2008年に出版されていて、読書ブロガーなら「ひとこと」言いたくなるような性質の本ということもあり、凄腕の書評ブロガーの方が、素敵な書評を書かれています。

◎わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる
◎読書論の極北 - 読んでいない本について堂々と語る方法(404 Blog Not Found)

上記の、おふたりの書評はお見事としか言いようがないほど鮮やかで、特に、小飼弾氏が短くまとめた結論、

本を読んだら、今度は「自分」を読め。

というのは、流石『弾言』の著者!

読んでいない人にはわからないと思うけど、本書は、そこそこ読書慣れしている人ほど、トラップに気をつけて読もうと思う本で、そーゆー本をあっという間に読んで、すばやく、こんな結論を出せる人が、いったい、なんのためにこの本を読んだのかわからないぐらいなのだけど、、

こういう技を見せつけて、スゴい人だと思われるため、、ですよね、きっと。

私は本書を読んでいるときは、そんな風に読んでいませんでしたが、本を読んだら、今度は「自分」を読め。という読み方は、この本に限らず、するようになっていて、それで、本を読むより、自分を読む方にずっと時間がかかってしまうのだ。

それでいい。とは思っているけど、

2012年の12月は、これまでにないぐらい、その時間が長くなって、果たして、本当にその本を読んだのかどうかわからなくなってしまうほどで、

何か別の「脳内本」を読んだような気がするのだ。この本だけじゃなく。。

そんなわけで、読んでいない本はもちろん、
読んだ本についても堂々と語りたくなかった。

わたしには、堂々と語る必要もなければ、読んだふりをする必要もないのだけど、、読まなくてはいけないと思うような立場の人というのは、つくづく「読んだふり」をするものだと思う。

同じテーマについて、何冊も本を読んでいると(そうなる理由はつまらない本ばかりという理由が多い)、読んでいない本について堂々と語る人たちばかりがいる業界を発見してしまうし、一般の読者にも、私だけでなく「脳内本」を読んでいる人もすごく多い。

例えば、、

◎[Amazon]現人神の創作者たち

上記のAmazonレヴューも、全員、脳内本を読んでいるとしか思えないのだけど、小谷野敦氏は、これに限らず(というか、むしろこの本は読んでるっぽい)読んでいない本について堂々と語るプロフェッショナルだと思う。評論家の仕事って、ほとんどが、そういうものだけど。。

以上、

読んだけど、あまりよくわからなかった本について堂々と語る。
ということをしてみました。

読んだにも関わらず、自分のことを考え過ぎて、書くのに時間がかかっている本については、2013年に持ち越すことにしますので、

来年もよろしくお願いします!

♪この狭い心の檻を壊して自由になりたいの。ファッションモンスター♫ 

(と、紅白できゃりーぱみゅぱみゅが歌っている時に書きました)

◎[Amazon]読んでいない本について堂々と語る方法


[PR]
by yomodalite | 2012-12-31 21:56 | 文学 | Trackback | Comments(0)
MJが完璧なアルバムとして、何度も挙げていたチャイコフスキーの「くるみ割り人形」(The Nutcracker)なんですが、そういえば、この曲は、ダンス(バレエ)のための音楽だったことに、今更なんですが、ふと気になって原作が読みたくなりました。

◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(河出文庫)E・T・A・ホフマン、種村季弘訳
◎『くるみ割り人形』アレクサンドル・デュマ、小倉重夫訳

下記は、上記2冊を読んだメモです。

「くるみ割り人形」に関しては、ドイツロマン派の作家、E・T・A・ホフマン原作とか、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマ原作とも言われたり、結局どっちなの?という疑問をもたれた方も多いんじゃないかと思うのですが、その件も含めて、デュマ版の翻訳者、小倉重夫氏の「あとがき」から省略して引用します。


1891年帝政ロシアの作曲家チャイコフスキーは、翌年12月に初演される彼にとって3番目で、最後のバレエ音楽『くるみ割り人形』の作曲に励んでいた。このバレエは前年に初演した『眠れる森の美女』に続き、フランス趣味をバレエに積極的に取り込んだもの。

振付けは、当時ロシア・バレエ界の大御所だったマリウス・プティバが担当することになっており、彼は上演のための台本をチャイコフスキーに手渡し、彼も有名な童話は充分に承知していたが、改めて読み直したりして、構想を練り始めた。

チャイコフスキーは、2歳年下の妹と特に仲が良く、彼女が嫁いだ後も、甥や姪たちとの団らんを楽しみ、『白鳥の湖』も『眠れる森の美女』も、この一家の家庭音楽界用のものとして作曲された。『くるみ割り人形』は、この妹の急死にショックを受け、2人の楽しかった思い出を回顧するとともに、彼女への追悼曲にしたもの。

前2作に見られるような小品の連鎖曲ではなく、少女とくるみ割り人形との出会いから、人形とねずみの戦闘の場に到るまで、彼は交響絵巻のように休みなく音楽を劇的に展開させたのである。全曲を支配するメルヘンチックな世界には、少女と妹が二重写しになって描写され、自らの体験から生み出されたと思われる幼き日の思い出が、生き生きとよみがえっているのである。

『くるみ割り人形』の原作は、一般にドイツ・ロマン派の作家、E・T・A・ホフマンが、1815年に書いた幻想童話として知られているが、バレエ版で使用されたのは、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマの手になるもので、このアレクサンドル・デュマは、実は2人いて、父子の関係にある。父親はデュマ・ペール(一般に大デュマ)と呼ばれ『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』の作者として広く知られている。

一方、息子はデュマ・フィス(一般に小デュマ)と呼ばれ、デュマ・ペールの庶子で、作家としては、娼婦の恋愛を描いた小説をイタリアの作曲家ヴェルディが名作オペラとした『椿姫』で有名である。

『くるみ割り人形』(原題は『くるみ割り人形物語』)は、1844年に息子、デュマ・フィスが、まだ20歳の若き日にE・T・A・ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』のフランス語訳に着手、やがて『三銃士』を完成し『モンテ・クリスト伯』を執筆中の父親も加わり、合作の形で完成させ、ペール、フィスの明記なく1845年に出版したものである。

研究者の間では、どちらの作品とすべきか、見解が分かれているが、フランスの作品リストでは父親の方に所収されてきている。また、彼らはこの同じ年に英語版もイギリスとアメリカ両方で同時に出版もしている。こうしたことからは、いかに一時期彼らがこの作品に執着していたかがうかがえる。

当時フランスのパリは、ヴィクトル・ユゴーをリーダーとするロマン主義の全盛期で、その影響はシェイクスピアやバイロンなどの文学と同時に、ドイツのそれからも顕著に受けていた。つまり、ドイツ文学のフランス化、あるいは新ドイツ主義とも言えることが盛んに行われていた時代で、文学、音楽、バレエなどの主題をはじめ、それぞれの創作活動にこれらは色濃く反映されていた。

たとえばゲーテの傑作『ファウスト』がフランス語訳出され、『ジューヌ・フランス』派の若きロマンティスティシズムの闘志集団に愛読され、ベートーヴェンらの交響曲作品が紹介され、ベルリオーズやリストが、フランス風に極めて標題的で、演劇的、絵画的な交響曲作品を作曲するようになり、そうした主題や背景には『ファウスト』などが使われ、

ゴーティエがアナトール夫人やハイネの著した民間伝承話や、死霊ヴィリからインスパイアされて製作されたバレエ『ジゼル』にも、フランス化現象が顕著に表れ、この頃の『ジューヌ・フランス』派の若人たちは、熱病に冒されたかのように、ドイツ文化がもつ神秘で幻想的な世界、疾風怒濤の精神運動(シュトゥルム・ウント・ドランク)に熱狂し、ロマンティズムを成熟させていった。

こうした傾向はゲーテのみならず、E・T・A・ホフマンにも及び、彼の幻想怪奇な小説は高く評価され、デュマ父子にも及んだ。翻案の形で進められたところから、随所にホフマンとの相違を見ることができるが、バレエと結びつけて読まれる場合は、デュマ版の方が有効である。

それはドイツ語よりもフランス語をたしなむことが多かった当時のロシアでは、ホフマン版よりも、デュマ版の方が広く流布していて、バレエ関係者はホフマン版を手にした形跡がないからである。バレエ版を製作するに際し、スタッフもダンサーも共に原作や台本が入手困難といったこともあってか、読み込み不足、かたこれらをもとに作曲された音楽にもかかわらず、それを軽んじる傾向が、昨今散見されるのは残念なことである。

バレエは憧れいずる魂を刺激するものでなければならないが、これでは舞踏劇としての醍醐味はそこなわれてしまうのではないだろうか。『くるみ割り人形』にしても、今日上演されている多くのバレエ公演に接するよりも、デュマ父子の翻案に触れ、舞台で欠落している部分を補うことで、作品の魅力を感受し、納得していただくことが望ましいのである。(引用終了)



ホフマン版と、デュマ版の両方を読んだ感想としてはデュマ版は、あきらかにホフマンのリメイクで両作はほぼ同じ話です。ただ、デュマ版の方が、より童話っぽいという感じでしょうか。。いずれにしても、私は、バレエの『くるみ割り人形』は、こどもバレエで見た記憶が強いせいか、原作を読むまで、こんなお話だったとは、全然知りませんでした。


以下は、ホフマン版『くるみ割り人形とねずみの王様』の訳者で、ドイツ文学者の種村季弘氏の「訳者解説」より(省略して引用)


『くるみ割り人形とねずみの王様』と聞いて真っ先に思い出すのは、ホフマンのこの物語ではなくて、同じ題名のチャイコフスキーのバレエ組曲のほう、という方の方が多いかもしれません。『眠れる森の美女』『白鳥の湖』に次ぐチャイコフスキーの3番目で、最後のバレエ。それ自体がクリスマスプレゼントのようなバレエとして知られています。

これはチャイコフスキーのバレエの原作ですが、ホフマン原作をかなり省略したデュマのフランス語訳から、マリウス・プティバが1892年に書き上げた台本にチャイコフスキーが作曲したのでした。ホフマン原作は1816年、80年近い年月のへだたりがあるうえに、デュマ、プティバの2人の手が入ったのでは原作ばなれもやむを得ません。

デュマの手が入ったために、ホフマン原作の不気味な雰囲気が消えてしまったのを残念がる人もいます。フランス的ブルジョア的に甘いお砂糖をまぶし過ぎたということでしょうか。この問題は「くるみ割り人形」のバレエ上演のたびに再燃するようで、バレエ評論家によると「くるみ割り人形」上演史では、少女クララを中心にした「かわいい」演出と、ドロッセルマイヤーを中心にした「不気味な」演出の2つの流れがあるということです。


yomodalite註 : 小倉訳の『くるみ割り人形』では、主人公はマリーで、マリーのお人形がクララ(ホフマン版の人形の名前はクレールヒェン“愛称クララ”)バレエ上演では、クララとくるみ割り人形(→あとから王子)が主役のヴァージョンの他に、熊川哲也のKバレエカンパニーなど、マリー姫が登場するヴァージョンでは、原作のマリーとクララが逆になっているものもあるような。。。

☆[動画]3分でわかる!くるみ割り人形(牧阿佐美バレエ団)

そういえば、チャイコフスキーのバレエは、現にこどもである、こどもに見せるより、昔こどもだったことのある大人に見せるように構成されているように思えないこともありません。お行儀が良くて、エレガントです。ではホフマンの方はどうでしょう。そんなにお行儀が良くはありません。

こどもたちはマリーもフリッツもやんちゃそのもの。くるみ割り人形も、一皮むけば白馬の騎士といった単純なでくの坊ではありません。みにくさも、人の良さも、そのくるみ割り人形の伯父さん、ドロッセルマイヤーおじさんにしたって、素敵なクリスマス・プレゼントを贈ってくれる、こっけいで気のいいおじさんというだけでなく、何だか向こう側の世界の回し者めいた、うさん臭い不気味な感じがしませんか。(引用終了)


チャイコフスキーが、ホフマン版を読んでいたかどうかは、微妙ですが、バレエ版のお菓子の国のイメージからは、まったく想像していなかったような物語で、種村氏が言われるように、ホフマン版には不気味な味わいがあり、文庫本で5ミリ厚ぐらいの話なんですが、深みのある濃厚な描写力で、こども向けとは言えない物語が展開されています。

バレエ版では、人形が「くるみ割り人形」という、お父さんのツマミのための道具?のようなものが、少女のおもちゃとして、あまりイメージ出来なかったこともそうですし、なぜ王子が人形に変身したのかについても、納得のいくストーリーではなかったような気がするのですが、

ホフマンの原作では、「くるみ割り人形」の大きく口が避けている(?)顔を、元々カワイイ顔とは考えておらず、「王国」には、決して甘くない人間模様があり、それらから真実を見抜き、利発で、勝ち気、信念を貫き、くるみ割り人形を助けることになる、主人公のマリーは、まるで、幼い頃のパリスちゃんを彷彿するようなおてんば少女で、不気味な味わいはあるものの、このお話は、こどもの「真実を見る眼を養う」ことに繋がるのかも。。。

(引用開始)

こっけいで不気味、気が良くて残酷、美しくて醜悪、エレガントでうさん臭い。そのどちらかではなくて、どちらでもあるのがホフマンの作中人物のようです。「かわいい」か「不気味」か、どちらかに局限されるわけではなく ー むろんバレエ演出はそれでいいのですが ー 善と悪、美と醜がまだ分かれていなくて、なにもかもがまるごとそのままにある、子供の世界、それも腕白小僧やおちゃっぴいの女の子の世界が、ホフマンの「くるみ割り人形」の世界だといえばよろしいでしょうか。(中略)

「くるみ割り人形」のマリーも、ねずみの大群にお菓子やお人形をみんな食べられてなくしてしまってから、くるみ割り人形のお菓子の王国へ招待されたのでしたね。


見た目においしそうなもの、きらびやかなものを、まずすべて失ってしまうことが、この世にありうべくもない夢の世界に招かれる条件なのですね。(引用終了)


ホフマンのことは、同じ文庫に納められた『見知らぬ子ども』『大晦日の夜の冒険』という3編の短編を読んだだけなのに、ウィキペディアの

ホフマンの評価はむしろドイツ国外で高まり、1828年にフランスに初めて翻訳されて以降バルザック、ユゴー、ゴーティエ、ジョルジュ・サンド、ミュッセ、ヴィリエ・ド・リラダン、デュマ、ネルヴァル、ボードレール、モーパッサンなど、中でも特に小ロマン派と呼ばれる作家達に大きな影響を及ぼし、

ロシアではプーシキン、ドストエフスキーなどがホフマンの物語を愛好し、その影響はエドガー・アラン・ポーにも及んでいる。ドイツではリヒャルト・ヴァーグナーがホフマンから霊感を得ており、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『タンホイザー』は『ゼラピオン同人集』のなかのパリを舞台にした小説群に多くを負っているほか、

『さまよえるオランダ人』もホフマン作品の暗鬱で神秘的な人物像から影響を受けている。またジークムント・フロイトはホフマンの『砂男』を題材にして「不気味」という感情の源泉を分析した『不気味なもの』という論文を執筆している。


という文章に、大いに「納得」してしまいました。

また、今まで「ロマン派」とか「ロマン主義」とか、何度か説明されても、今イチ、ピンと来なくて、よくわからなかったのですが、MJが創りたかった映画のことを、色々考えているうちに、なんだかすごく気になってきて.....だって、ハリウッドは、ストーリー、音楽、ダンスも含めて、現代のロマン派がもっとも結集した場所ですし、、

MJが「インストュルメント・アルバム」を計画していたときに、好きな音楽として挙げられていた作曲家たち(2人のバーンスタインとか...)も、まさに、その源流の人々だったり、、MJが「くるみ割り人形」がお気に入りの理由は、チャイコフスキーの「リズム」にあるのかもしれませんが、

ホフマンの世界と、その継承者たちの精神には、MJが「狼男」にこだわった理由や、おとぎ話の意味が詰まっているように思えました。

そんなわけで、古い本だけでなく、古い映画も観なくちゃという気持ちに、ますますなってきてます。

☆一番上の写真には「新刊」てあるけど、全然新しくないです!
◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(アマゾン)
◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(本が好き!)

◎『くるみ割り人形』アレクサンドル・デュマ、小倉重夫(訳)は、アマゾンでは現在取扱いなし。私は図書館を利用しました。

《下記は、ホフマンの生年を大雑把に把握するためのメモ》

◎ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日)
◎モーツァルト(1756年1月27日 - 1791年12月5日)
◎ベートヴェン(1770年12月16日ごろ - 1827年3月26日)
◎ノヴァーリス(1772年5月2日 - 1801年3月25日)

◎E・T・A・ホフマン(1776年1月24日 - 1822年6月25日)

◎ユゴー(1802年2月26日 - 1885年5月22日)
◎エドガー・アラン・ポー(1809年1月19日 - 1849年10月7日)
◎ワーグナー(1813年5月22日 - 1883年2月13日)
◎ドストエフスキー(1821年11月11日 - 1881年2月9日)
◎ボードレール(1821年4月9日 - 1867年8月31日)
◎ルイス・キャロル(1832年1月27日 - 1898年1月14日)
◎チャイコフスキー(1840年5月7日 - 1893年11月6日)
◎ニーチェ(1844年10月15日 - 1900年8月25日)
◎オスカー・ワイルド(1854年10月16日 - 1900年11月30日)
◎T・S・エリオット(1888年9月26日 - 1965年1月4日)


[PR]
by yomodalite | 2011-12-27 10:41 | 文学 | Trackback | Comments(6)

フランス的人生

ジャン=ポール デュボワ/筑摩書房




こちらは、NHK-BS「週間ブックレヴュー」で、フランスのベストセラーという点が記憶に残り、なんだか読んでみたくなった本。2004年のフェミナ章受賞作。

現在54歳のポール・ブリックの回想録は、8歳のときに、優秀な兄が急病で亡くなったことによる家族の危機から始まる。その後ポールは、何人もの女と様々なセックスを試み、富豪の美人実業家と結婚、2冊の写真集の爆発的ヒットにより、労働の必要のない人生を歩むことになる。

章タイトルはすべて仏歴代大統領の名前で、「シャルル・ドゴール(1958年1月8日ー1969年4月28日)」から始まり、最終章は「ジャック・シラクⅡ(2002年5月5日ー)」。

1950年後半から現代までの社会情勢を背景に描かれるポールの人生は、一般的とはいえないものの、盛りを越えた1人の男の回想録として、特に同年代には感慨深いものがあるかも。。何不自由ないと思われたポールの人生だったが、最終章は、ハッピィエンドとは言えない様相を帯びてくる。

主人公は左翼的人物として、妻のアンナや主人公の母は保守的描かれているが、アポロの月面着陸や、ケネディ暗殺、東京オリンピックで活躍した円谷幸吉のエピソードなども語られ、また、その姪と息子が結婚するなど、フランスの政治状況に関して詳しくない日本人、とりわけ同世代の日本人には心情的に理解しやすい印象。

奔放な性体験告白や、淡々とはいえない人生を、どこか冷めた視線で語る50代の男の回顧録を読む余裕のある方へ。(翻訳のこなれ具合は今ひとつ・・)
___________

【BOOKデータベース】68年世代のポールは、まばゆいばかりの美しい富豪令嬢と出会い、結ばれる。写真家としても大成功をおさめた幸運な日々…そこに突如、すざまじい悲劇がつぎつぎと襲いかかる。ミッテラン大統領も登場、マラソンの円谷選手の哀切な死が綴られたり、スリルいっぱいの展開と絶望のさい果てのペーソスが胸をえぐる、フランスでベストセラーの話題作。


[PR]
by yomodalite | 2009-06-06 16:03 | 文学 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite