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ジョージ・マイケル追悼「Praying For Time」

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今年は最後の最後まで、一時代を築いた人の訃報が続く年でしたが、私の青春時代からずっとクリスマスシーズンの街に欠かせなかった曲を作ったジョージ・マイケルが、クリスマス当日に旅立ってしまうなんて・・・


ジェームズ・コーデン(英国の俳優・コメディアン):僕は物心ついた頃から、ジョージ・マイケルが大好きだった。彼は絶対的なインスピレーションだった。常に時代を先取りしていた。ジョージ・マイケルが「Praying for Time」を書いたのは、今から25年前のこと。でも僕はこの曲のメッセージについて、今でこそ、これまで以上に意味を持つのではないかと本当に信じている。


Praying for Time は、世界的な大ヒットアルバム『フェイス』のあと、1990年に発表された『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』のシングル曲。『フェイス』と同じ路線を期待するレコード会社ともめるきっかけとなった曰くつきの作品で、そのあと予定されていた『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 2』の発売も中止になってしまった。



1990年は、世界をリードしていた米国のポップ文化が経済的格差によって変化し、グローバリズムという世界戦略の拡大と共に、徐々に世界の人々の心と乖離していくことになっていく、その最初の年だったのかもしれません。今あらためて聴くと、この曲には、ジョージ・マイケルがその頃感じていた、時代への危機感や違和感が表れているように思えます。


マイリー・サイラス:既に寂しいわ!LGBTQコミュニティーにおいて、積極的に活動してくれてありがとう!ずっと愛しています!


どのコミュニティに属するか決めないと生きられず、それぞれ主張し合うばかりで、大きな連帯のない時代。彼女の世代(choosers)にとっては、ジョージ・マイケルは、LGBTQコミュニティの重要人物なのでしょう。でも、POP黄金時代を作った彼が夢見ていた世界は、それとは少し違っていたような・・







Praying For Time

時への祈り


These are the days of the open hand

They will not be the last

Look around now

These are the days of the beggars and the choosers


気前が良かった時代には、続きがあった

見てごらん

今はひどく貧乏な人と、

自分に合うものだけを選びたい人の時代


This is the year of the hungry man

Whose place is in the past

Hand in hand with ignorance

And legitimate excuses


今は飢えた人の時代

過去の栄光にすがり

無知でつながり合い

言い訳を正当化する


The rich declare themselves poor

And most of us are not sure

If we have too much

But we'll take our chances

Because god's stopped keeping score

I guess somewhere along the way

He must have let us alt out to play

Turned his back and all god's children

Crept out the back door


金持ちは自分たちは貧しいと言い張り

僕らの多くはどれだけ所有しても

実感を持てず

チャンスがあればまた手に入れてしまう

だって神は点数をつけるのをやめてしまったから

僕が思うに、神はどこかの時点で

勝手にやればいいと僕らに背を向け、

神の子供たちを全部連れて

裏口からそっと出て行ったんだ


And it's hard to love, there's so much to hate

Hanging on to hope

When there is no hope to speak of

And the wounded skies above say it's much too late

Well maybe we should all be praying for time


愛することは難しく、憎むことはたくさんあって

なんとか希望を持ちたいと願うけど

語れるような希望はなく

傷ついた空は、もう遅すぎると言う

今はみんなで、もっと時間をくださいと祈るしかない


These are the days of the empty hand

Oh you hold on to what you can

And charity is a coat you wear twice a year


今は持てるものなど何もない時代

ただ手に入るものにしがみついているだけ

そして、施しとして与えられるのは

年に2回しか着ないコート


This is the year of the guilty man

Your television takes a stand

And you find that what was over there is over here


今は罪人だらけの時代

テレビは断罪するけど

画面に映っているものは

こちら側にもあることがわかるだろう


So you scream from behind your door

Say "what's mine is mine and not yours"

I may have too much but i'll take my chances

Because god's stopped keeping score

And you cling to the things they sold you

Did you cover your eyes when they told you


それで、君はドアの後ろから叫ぶ

「私のものは私のもの、あなたのものじゃない」

僕は持ち過ぎているかも知れないのに

チャンスがあればまた手に入れてしまう

神は点数をつけるのを止めてしまったから

人は売りつけられているものにしがみつく

声をかけられたとき、目を塞いでいるんだろうか?


That he can't come back

Beacuse he has no children to come back for


神はもう戻って来れない

彼の帰りを待つ子供たちがいないから


It's hard to love there's so much to hate

Hanging on to hope when there is no hope to speak of

And the wounded skies above say it's much too late

So maybe we should all be praying for time


愛することは難しく、憎むことはたくさんあって

なんとか希望を持ちたいと願うけど

語れるほどの希望はない

傷ついた空は、もう遅すぎると言う

今はみんなで、もっと時間をくださいと祈るしかない


(訳:yomodalite)





LIVE Version(1996)


たくさんの素晴らしい歌を

ありがとう、ジョージ!


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リアム・ギャラガーもこの曲をシェアしてた・・


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by yomodalite | 2016-12-29 12:59 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)

自伝「裸のジョージ・マイケル」[3]

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☆[2]の続き

アルバム『フェイス(Faith)』は、マイケルのとっての『スリラー』のように、ソロアーティストとしてのジョージ・マイケルを決定づけたアルバムだったようです。そして、このアルバムの記録的なヒットの3年後に発売されたのが、モトーラが酷評し、SONYとの確執を生んだ『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』。


『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』の、アメリカでの売り上げは200万枚、前年までにアメリカで700万枚を売り上げた前作『フェイス』と比べて大きく数字を落としたものの、本国イギリスでは全英初登場1位を記録し、『フェイス』を越すセールスを記録するなど高く評価され、1991年のブリット・アワードでは「ブリティッシュ・アルバム・オブ・ザ・イヤー」を獲得し、全世界でも800万枚を売り上げた。


米国での人気のなさと、世界での売上げの上昇。といった部分も、マイケルの問題と似ているような気がします。


第15章「フェイス」より(省略・要約して引用しています)


「フェイス」を歌う男は、スタンリー・コワルスキー(『欲望という名の電車』でブランドが演じた役)的な魅力を侍っており、青白きイギリス少年のジェネレーションを経て、エディ・コクラン、エルヴィス、ブランド、ディーンにまで続く、アイドルの系譜をはっきりと継承していた。それは、ハードな時代、クラシック・ロックで優稚なロクデナシ、50年代のアメリカっぽさを象徴するもので、常に流行から外れることはなかった。アルバム『フェイス』のタイトル曲が、続くキャンペーンでのスタイルを決め、1980年代後半のジョージと、初期のワム!のプロモに出てくる、きれいに髭を剃った駆け出しの青二才との違いを明確にした。


最初の2枚のソロ:ンングル「ケアレス・ウイスパー」と「ディファレント・コーナー」は、古典的なワム!の指を鳴らしたりウキウキワクワクしたりするようなイメージからジョージを解き放つものだったが、次の2枚「アイ・ウォント・ユア・セックス」と「フェイス」は、ソロになったジョージ・マイケルはショーの流れを止める泣かせのバラードだけを歌っていくつもりはないということを、はっきりと打ち建てるものになっていた。後者のシングルはジョージの分裂した魂を反映している。


ディック・リーヒイー:『フェイス』が売れ出したとき、私は自分の人生で最も大きな安堵のため息をついたよ。ワム!の解散で、多くの人たちが私のところに来ては「ジョージを説得してもう1枚ワム!のアルバムを作らせなくちゃいけない」って言ってたからね。圧力はずっと続いてたんだ。想像できるだろう。しかし、私はそんなことはしなかった。『フェイス』は、彼が作らなくてはならないアルバムだったんだ。


私の耳には、あれははっきりと立場を明らかにしたアルバム、人生の特別な段階にあるアーティストだということを明確に示したアルバムには聞こえない。80%は良いアルバムだ。というのも、何曲かは特定の目的のために書かれているからね。でも、そうした気兼ねはなくなった。次のアルバムでは、彼がいかに素晴らしいかわかるだろう。きっといいものになるはずだ。


アルバム『フェイス』の唯一現実的な問題は、ファースト・シングルを出すことだった。「アイ・ウォント・ユア・セックス」はずっと前にでていたから、何を出しても最初のシングルみたいなものだった。誰もが「ケアレス・ウィスパー」のようなバラードを期待していた。それがあまりにも見え透いていたから、そうするわけにはいかなかった。


* * *


『フェイス』が世界中のアルバム・チヤートで1位になると、それまで敵意を抱いていた批評家たちが急に、改良された新型のジョージに対して温かくなった。ほとんどの場合、彼らはいともあっさりワム!時代を切り捨て、新しいLPを抱き締めて喋りまくった「信念を持って、ポップスターは成長する」と、ヤッピーたちの『リーダーズ・ダイジェスト』である『ローリング・ストーン』誌は書き立てた。(P248 - 253)


* * *


アルバムはいろいろな歌を大胆に折衷させて集めたものだった。「もしこのアルバムを聞いて何ひとつ好きになれないとしたら、ボッブ・ミュージックが好きじゃないんだ」と、ジョージは『ローリング・ストーン』誌に語っている。『フェイス』のイメージ(マッチョで、自意識の強いカッコ良さを待った、むっつりした雰囲気に包まれたレザーとデニムと無精髭の混合物)は、ジョージの現実のパーソナリティとは何光年も離れていたかもしれないが、そのステージ衣装と彼の普段着とは、先が尖って鉄のついたポスト・モダンの靴に至るまでそっくり同じだった。1987年後半にジョージと昼食を取った人は誰も、いつものように約束の時間に5分だけ遅れて、『フェイス』のジャケットから出て来たような男がレストランに入ってくるのを、メニュー越しに見たはずだ。


彼はそのすべてを、次なる最終段階にまで待っていこうとしていた。彼はついに、スプリングスティーンの労働者の救世主、マドンナの奔放でカッ飛んだ金髪美人、プリンスのにやけた信心深いセックス・マシーン、ジャクソンのムーンウォークするディズニーの突然変異体・・・などに匹敵するイメージを手に入れたのだ。


ジョージ:サイド1は全部ヒット曲。アルバムのクオリティという観点から、うまくいくだろうと期待はしてた。作ってたときも、すごく、すごく満足してた。その出来上がりには自分でびっくりしてしまったほどさ。だけど、予期してなかったのは、ビデオのイメージの効果だった。自分がビジュアル面で強力なアピールをしてるとは思ってなかったんだけど、どうやらそれがアメリカでは心の琴線に触れたようだね。だから、そういう自分では最初全然気づいてなかったような複雑に絡んだ要素とかがあったりして、雪ダルマ式の効果を生んだわけだ。成功の大きさには驚いたし、嬉しかった。


『フェイス』ブームが起こる前、あるミーティングで僕のマネージャーが誰かに向かって、「彼はこのアルバムで世界一ビッグなアーティストになるはずだ」って言ったのを覚えてる。僕は彼に「おい、落ちつけよ、頼むから、ほんとに落ちつけって」って言ったんだ。僕はそれをアメリカ人の興奮癖のせいだと思ってたんだけど、彼はほんとにそう信じ込んでた。


あのイメージがアメリカであんなに役に立つとは期待してなかった。アルバムがものすごく売れることは予想してたけど、自分はそれ以上のものになるほど新鮮味がないって心から信じてた。「フェイス」のビデオは、アルバムの中でも僕の最も強烈なイメージになってる。ジャケットにしても、ジーンズにしても、ブーツにしても。だけど、それをビジュアル上の主張か何かのように考えるには、普段実際に僕が着てるものに近すぎた。あのイメージがあまりにも強烈になるのはいい気持ちはしなかった。最終的に、それが成功の理由を曖昧なものにしてしまうからね。


『ザ・ファイナル』のアルバムを見ると、4つか5つのイメージがあって、そのひとつひとつがその年その年のルックスを示してる。僕はまだ、どうやったらいちばんカッコ良く見えるか試行錯誤している子供だった。髪の長いのと短いの、どっちがカッコ良く見えた? 黒いのとブロンドのとは? 髭ありと髭なしは? デヴィッド・ボウイじゃないんだ。人の興味を持続させるために変えてたんじゃない。いつも満足できなくて、自信がもてなかったからさ。僕はもう違ってみえるようにするためにそんな努力をするつもりはない。人がカメレオン・ビジネスに興味があってそうしたいというなら、それはそれでいい。例えばマドンナやプリンスみたいにね。彼らはすごく上手くやっているよ、だけど、そんなの僕には向いていない。(P254 - 255)


ジョージ・マイケルの初めてのソロ・シングル、自身のプロデユースによる「ケアレス:ワィスパー」は1984年7月、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドの「トゥー・トライブス」に代わってブリティッシュ・チャートの1位になった。レコードがリリースされる前、プレスの話題は、ジョージの1万7000ポンドかかった髪型のことでもちきりだった。(P165 - 166)


ロブ・カーン:僕たちがこのレコードを出したとき、CBSはブルース・スプリングスティーン、マイケル・ジャクソン、ピンク・フロイド、ミック・ジャガー、ビリー・ジョエルなどのアルバムも出したんだ。


こんな大物たちがそろってレコードを出す時期に、ジョージ・マイケルは初めてのソロ・アルバム(『フェイス』)を発表したというわけさ。僕たちは大きなキャンペーンを始めたが、それは最初の2週間ですべてを使い果してしまうという類のものではなかった。このレコードは長い間かけて売れるだろうとわかっていたら、52週にわたるキャンペーンをやって、シングルでずっと活気をつないでいったんだ。シングルが出るたびに、どーんと上がって、また改めて火がつくわけだ。終りのころには、グレイテスト・ヒット・アルバムを売ってるようなものだった。2回クリスマスを越したんだ。

 

僕は予定の時間内で目標に達しなかったせいで、体調を崩してしまった。いつも、早く早くって思ってたんだ。ジョージは、ある時期までに何百万枚ものアルバムとツアーのチケットを売るつもりでいた。で、その時期がまだ来ないってことで、僕はかなり内面的に追いつめられて、心疲のあまりひどい潰瘍ができちゃったんだ。いつもすべてがちゃんと行ってるか心配ばかりしてたものだよ ーー マネージャーとしての初仕事で、ストレスも多かったんだ。ワールド・ツアー、何百万枚ものアルバム、ひどい潰瘍 ーー というわけさ。

 

ジョージは、自分も昔は君みたいだった、アルバムのセールスがどうなってるか気にして、いつもすごく追いつめられてたよ、と言ってた。彼は言ったよ、もうそんなことは全然ない、ってね。


1988年はツアーに費された。『フェイス』ツアーは2月19日に東京の日本武退縮に始まり、10月の最後の日、フロリダのペンサコーラ公演まで続いた。その間には、いったん喉の手術のために中断が入ったりもしたが、10カ月間、170公演近くにも及ぶ、淋しい旅回りの苦闘があったのだ。ツアーは、ジョージのキャリアと同じように、西へ向かって移動していった。日本から、サーカスはオーストラリアヘと下り、それからヨーロッパに渡り、その後アメリカでの長い夏の陣が始まった。

 

ショーは『フェイス』からの歌と、ワム!の最高傑作のいくつか(「恋のかけひき」「アイム・ユア・マン」「ディファレント・コーナー」「ケアレス・ウィスパー」)を中心に、ソウル・ボーイの奥の手である名曲(ラベルの「レディ・マーマレード」、ワイルド・チェリーの「プレイ・ザット・ファンキー・ミュージック」、それから昔からのお気に入りであるステイーヴイー・ワンダーの「ある愛の伝説」)を加えたものだった。昔とまったく同じように、ジョージが観客に向かって腰を突き出すと、彼らは悲鳴をあげるのだが、その悲鳴は『フェイス」ツアーでは観客の中の女性のほとんどが婚期に達していたという事実を被い隠していた。

 

ショーは初夏にロンドンにやって来た。ジョージはネルソン・マンデラのベネフィット・コンサートに出演するため、6月11日土曜日の午後、ウェンブリーに向かった。自分自身以外の何かをプロモートするときは他の人の曲を演るという慣例を固守して、彼は3曲の魅力的なカバー(マーヴィン・ゲイの「セクシャル・ヒーリング」、スティーヴィー・ワングーの「ビレッジ・ゲットーランド」、グラディス・ナイトの「イフ・ユー・ワー・マイ・ウーマン」)を歌った。


その日の夜、彼はアールズ・コートで2度目の公演をやり、彼はそのコンサートを今までで最高の出来だったと記憶している。しかし、マンデラ・コンサートのウェンブリーの観客は、ジョージ・マイケルの熱心なファンでもなければ、ライヴ・エイドに集まったような心の広い仲間たちでもなかった。コメディアンのハリー・エンフィールドは、マンデラの観客の心ない快楽主義的態度を、こんなセリフで見事に風刺した。「どこだい?僕の無料(フリー)のネルソン・マンデラ(マンデラを自由に!のスローガンにひっかけている)はどこにあるんだい?」


ジョージ:今はベネフィットについてずっとシニカルになってる。ネルソン・マンデラ・ショーを観てた人たちや、アフリカ人出演者に対する彼らの反応にはゾッとしたよ。彼らの半分はシンプル・マインズを観にきただけで、残りの半分は暴徒だった。すべてが好きじゃなかったね。


僕がしたかったのは、セルフ・プロモーションみたいなことと自分を区別すること。当時自分が売ってたものとは全然関係のないものをやりたかったんだ。自分の考えを押し出してるみたいに取られてしまうから、極端に政治的メッセージの強いものは選びたくなかった。だから、自分にできる最も政治的なことは、影響を受けたアーティストによる3つのソウル・ソングを歌うことだって思ったのさ。スティービー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、グラディス・ナイトっていう。(P258 - 260)


(引用終了)


◎[Amazon]自伝「裸のジョージ・マイケル」


このあと、本書の最後には、当時の新作『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』から、「プレイング・フォー・タイム」「マザーズ・プライド」「サムシング・トゥ・セイヴ」「クレイジーマン・ダンス」「ハッピー」の和訳歌詞が納められていました。


下記はジョージ・マイケルのWikipediaから、


『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』は、前作『フェイス』ほどのヒットにはならず、ジョージ・マイケル個人としてはアルバムの出来に満足していたが、前作ほど所属レーベルがプロモーションに力を入れなかったこともあり売れ行きは鈍く、ソニーは商業的に前作を下回った為に酷評をする(酷評したのは当時のソニ-の社長、トミー・モトーラという)。


これに怒ったジョージ・マイケルは、「ソニーはアーティストをアーティストとして扱わない。こんな会社ではクリエイティヴな仕事は出来ない」と、ソニーを相手に契約無効を訴える裁判を起こす。本来2枚組になる予定だった『LISTEN WITHOUT PREJUDICE』は、2枚目の制作が間に合わず、先行して1枚をvol.1として発売。「Crazyman Dance」、「Happy」など収録予定だったアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 2』を出す予定だったが、この泥沼化した裁判により、発売が無くなってしまう。


後に「Happy」は、エイズ・チャリティ・アルバム『Red Hot + Dance』に収録して発表。「Crazyman Dance」は、上記『Red Hot+Dance』に提供した新曲「Too Funky」のシングルのカップリングとして発表した。また、このアルバム発売後、ワールドツアー「COVER TO COVER TOUR」を日本より行う。タイトルの示すとおり、ツアーの選曲内容は、半分以上が他のアーティストが歌ったカバー曲で選曲されており、オリジナル曲もワム!時代の曲を織り交ぜたりと、ソロデビュー後の曲は殆ど歌われなかった。カバーの選曲がツアーで廻ったアメリカやヨーロッパでは有名な曲ばかりだったが、日本ではそれらの曲を殆ど知らない客が多かった為、評論家からは酷評された。このツアー以降、本人は「ツアーは行わない」と発言し、長年ツアーを行っていなかったが、2006年9月よりヨーロッパツアーを開始。


(以上、Wikipediaより)


裁判は、ジョージの敗訴に終わり、5年8カ月を経た次アルバム『オールダー』は、1996年にヴァージンレーベルから発売になりました。その後、カヴァーアルバム『ソングス・フロム・ザ・ラスト・センチュリー』の後、2004年の『ペイシェンス』で、ジョージは、再び、SONYに戻っています(モトーラが会長職を退いたからとコメントしたらしい)。


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by yomodalite | 2015-02-18 16:04 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)

自伝「裸のジョージ・マイケル」[2]

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☆[1]の続き


ジョージ:ひどい一週間だったよ。「ヤング・ガンズ」がチャートを落っこちた日、女の子が僕にもうつきまとうなって言ったんだから。


ジョージの出版人であるディック・リーヒイは、このレコードを死なせないために、彼のフィリップス時代(ダスティ・スプリングフィールド、ウオーカー・ブラザース)ベル・レコード時代(ベイ・シティ・ローラーズ、デヴィッド・キャシディ)、そして自分のレーベルGTO時代(ドナ・サマーとそのナンバー・ワン・ヒット「アイ・フィール・ラブ」)など、一生を音楽産業でやってきた経験を結集し、この2枚目のシングルに決定的な2度目のチャンスを与えることにした。過去において、ティン・パン・アレイやブリル・ビルディングの時代には、音楽出版は歌の産婆役を務め、作曲家から曲を引き出し、それをアーティストに演奏させることに責任をもっていた。こういう大昔の時代に、出版社は創造性のポン引き役を果たしていたのだ。しかし、ビートルズやビーチ・ポーイズ、バディ・ホリーやチャック・ベリー、リトル・リチャードによって始められたプロセスを完成させてしまうと、アーティストと作曲者は大抵同じ人物になった。出版社はあまり重要でなくなり、むしろレコード会社が重要になってきた。


しかし、ディック・リーヒイは普通の出版人とはかけ離れていた。彼が出版業に入ったのも横道からだった。1977年にGTOをCBSに売却したときの合意条項に競合しないことという条項があって、3年の問は別のレコード会社を始めることができなかった。だから彼は出版業に入ったわけだ。


ディック・リーヒイ:すべては音楽次第であり、すべてはアーティスト次第なんだ。でも、私は出版業に入って来るとき、レコード会社の姿勢を持ち込んだ。出版社のいったいいくつが地下室にデモ・スタジオを持っていると思うかね。出版人としての私の姿勢は、アーティストと契約しても、レコード会社には頼らない、というものだった。アーティストと一緒に働く限りは、音楽的な仕事をするんだ。シングルを出したり、それをプロモートしたり、そういったすべてをレコード会社と一緒に決めていく。それを私たちはジョージとアンドリューとともにやり始めたんだ。歌を気に入って、作曲者と契約するだけじゃダメだ。レコード会社を乗せなくてはね。出版社の伝統的な役割は作曲者を代理して、彼の曲を人にカバーさせることだった。私はそういうことはしない。私は出版を、アーティストと仕事をするひとつの方法として使うんだ。

 

「ワム・ラップ!」は失敗に終っていた。これはジョージにとっては大きな失望だったが、彼にはもっといいレコードが作れるといつも思っていたし、あの段階ではいい勉強になると思っていたところもあったから、私はあまりガッカリしなかった。でも「ヤング・ガンズ」がチャートを下がり始めると、今度は危険だった。これはみんなが話題にしている若いデュオの素晴しいニュー・シングルなんだ・・でも、なにしろ気まぐれなマーケットだからね。もしこれがうまく行ってくれなかったら…11月、12月を置いてスタジオに戻って、次のレコードが出るのは次の年の春になってしまう。いつまでも《有望な若手新人アーティスト》ではいられないんだよ。


これは素晴しいレコードなんだ、みんな聞けば飛び出してレコードを買いに行く・・そう信じなくちゃいけない。イギリスのチャートは、サンブルに選ばれた店の売り上げを調べたものだ。それだけのものなんだ。トップ50の中だって、売り上げは高いものも低いものも大差ない。だから、ある週に誰が、どこの店で、どのレコードを買ったか、それだけに頼っているわけさ。

 

信じている素晴しいレコードがチャートを下がりかけたら、そういうときにできるのはレコードに関係しているすべての人間、ラジオ、プレス、レコード店回りのセールスマンなどを刺激することしかない。みんなに言うんだ。これはまだ終っちゃいない。ほんとに終っていないんだ。一週間くれないか。これを生き返らせてみせる。ほんとにやるからって。


店でレコードをかけさせることだ。ラジオでレコードがかかれば1000万人に聴かせられるが、その中でレコード購買者は少ないパーセンテージだ。でも、レコード店なら、そこにいる全員がレコード購買者といっていい。


ジョージ・マイケルは良すぎるぐらいだったから、うまくいかないはずはなかったが、幸運にも次の週レコードはもち直し、さらに『トップ・オブ・ザ・ポップス』の出演が決まった。たった一度のテレビ出演がワム!をみんなに引き合わせるチャンスになった。(P108 - 110)


* * *


最初、ワム!は喜んでマス・メディアの標的になっていた。アンドリューは段鼻を美容整形で直そうと決めたとき、自分の鼻はデヴィッド・オースティンが投げたシャンパン入れが当たると言う悲劇的な事故で折れてしまったと発表し、手術に煙幕を貼ろうとした。これが悪名高き《鼻事件》の始まりだった。


アンドリューの顔(バンソウコを十字に貼ったもの)が、彼のハンサムな容貌は一生戻らないのではないかという推測の文章とともに、第一面に堂々と出現した。それがみんなインチキで、リッジリーの鼻が高額の美容整形で変えられたことが判明すると、それもまた第一面になった。(P157 - 158)


* * *


ワム!の初のナンバー・ワンは、その後9週間も1位の座に君臨したフランキー・ゴーズ・トウ・ハリウッドの「トゥー・トライブス」に取って替わられたが、音楽業界の中で長く充実したキャリアを歩むことになったのは、リヴァブールからやって未だ愛すべきならず者たちではなかった。フランキーズのレコードはいつもトレヴァー・ホーンの大げさなプロダクションの巧妙な腕に大幅に寄りかかっていた。それがなくなると、彼らはマージー河を虚しく流されていくのみだった。ジョージ・マイケルは、すべてを自分自身でやることを学んでいた。


 サイモン・ネイピア・ベル:プロデューサー兼ソングライターというのは、いつも長い間生き残れるもののようだね。スタジオで監督をするわけだよ。それが自信から来るのか、ヤケから来るのかはわからない。たぶん両方の組み合わせだろうな。自分自身の能力に対する自信と、自分の声を望むように引き出してくれない人たちにすっかり頭に来たっていうのがあるわけだ。欲しいものがわかっていて、それがやって来ないとしたら、自分でプロデュースしなくてはならないことになる。ジョージはプロデュースすることを学ばなくてはならなかったし、その責任を取るように強いられたんだ。

 

ジョージは1984年のチャートの闘いを楽しんだ・・たぶんいつも自分が勝ち技くことになったからだろう。最終的に、彼のライバルたち(ボーイ・ジョージ、フランキーズ、デュランデュラン)はみな、スタミナと作曲能力と自立心に欠けていた。しかも、このライバルたちは、さまざまな大騒ぎに自滅の傾向を見せていた。ジョージも彼なりにそうした傾向はあったが、彼にはそれをうまくやり過ごすセンスがあったし、うまく隠しておく慎重さがあった。

 

夏になると、ジョージ・マイケルのキャリアはイギリスでもアメリカでも最高の時期を迎えたようだった。彼は、作曲し、アレンジ、プロデュースを手がけ、しかも自分の作品を歌うことができるという自分白身の才能によって守られるのと同時に、アドバイザー、腹心の友、信頼できる支援者の強力な集団に囲まれていた。中でも最も近かったのは、もちろんパートナーであるアンドリュー・リッジリーと、出版社であり師でもあるディック・リーヒイだが、さらに弁護士のトニー・ラッセル、スタジオ・エンジニアのクリス・ボーター、パブリシストのコニー・フィリッペロらがいた。友だちであるアンドリューは別として、これらの人たちはみな忠誠心厚く、この仕事上の人間関係は90年代のジョージ・マイケルにも関わっている。


ノーミスとワム!の関係は、ジョージもネイピア・ベルもお互いに相手を用心深く見ていたため、時として緊張することもあったが、1983年後半以降、サイモンとジャズ・サマーズがワールドワイドでバンドのマネージメントを担当するようになっていた。ウエスト・コーストの大物、ロン・ワイズナーとフレディ・デ・マンは、アメリカでのマネージメント契約が機能し始めるよりも前に技けていた。


ジャズ・サマーズ:多くの大きなレコード会社、特にCBSは、かなりけんか腰なんだ。「私たちCBSで君たちをフォローしていくにはいくんだが、私たちにはブルース・スプリングスティーンもマイケル・ジャクソンもバーブラ・ストライザンドもボブ・ディランもいるし、また明日新しいやつが入るんだ」って具合でね。


ワイズナーとデ・マンは、ワム!がすごいバンドだってことをCBSに確信させてなかった。だから、フレディ・デ・マンをミーティングに呼びつけて言ってやったよ。「あんたは何をしてるんだ? なんにも私たちにいいことをしてくれてないじゃないか。もしCBSに行って、このバンドじゃマイケル・ジャクソンのような扱いはムリだって言われたら、マイケル・ジャクソンのような扱いをこのバンドにしてやれるまで頑張らなくちゃならない。彼らはそういう扱いに値いするんだから。もし君ができないと言うのなら、私がやってやろうじゃないか」って。彼にはひどく無遠慮にしてしまって、きっと気分を悪くしただろうし、トニー・ラッセルは契約の件でかなり苦労したと思う。だけど、彼らは手を引いたんだ。


ジョージはそのとき私に言った。「よし、アメリカには君もひどい目に会わされるだろう。でも君はできるって言ったんだからな。徹底的にやってもらわなきゃね」 


ワム!機動部隊のもうひとりの重要なメンバーは、攻撃的ながら人好きのするロンドンっ子、ゲイリー・ファーロウである。日焼けして、早口に喋る金髪のゲイリー・ファーロウは、メディアの一端でワムの利益の監視、促進を管理するフリーの電波放送関係者だった。


ゲイリー・ファーロウ:僕はマーク・ディーンを通じてジョージに会った。マークはワム!のレコードを聞くたびに手首を切りつけたいと思ってるに違いないけどね。僕は相談役として関係するようになったんだ。

 

TVショーをやるとき、すべての要求に責任を持つのが僕の仕事だった。ワム!の駆け出しのころ、僕たちはありったけの照明とダンサーと風船を使おうとした。アーティストを持ち上げてできる限り良く見せようといろんなことをやってプロデューサーやディレクターを駆けずり回らせたあげく、変化が訪れた。こう言うべき時が来たんだ。「もうこんなクズはいらない。あの風船は何だっていうんだ。取っ払ってくれよ。」


この組織の全員が、すべてをダブルチェックするというポリシーを採用していた。レコードは最良の週に発表されただろうか。限定のビデオをふさわしい人に渡していただろうか。アーティストをできる限り最高に見えるようにしていただろうか。


週を追うごとに、僕たちは捕まえにくくなっていった。彼らが思い立って電話してジョージが捕まるなんて状況は、決してなかった。または、レコード会社が電話してきて「週半ば(木曜のチャートのこと。これでレコードが上がるかどうかを推測する)の結果が出た。上がるとは思うがそんな大ヒットにはならないだろう。もしこのショーに出てもらえば、すごく効果があるんだが……」で、また次の週に電話してきて、また3、4番組出てくれないかと言うような、そういうやり方は一切通用しなかった。僕たちの計画が成功したのは、僕たちがすべてをコントロールしていたからだ。


誰にインタビューをさせたらいいかわかっていたし、彼らがほころびを繕ってくれるのもわかっていたし、表紙になれるかどうかもわかっていたし、写真の許可を出すべきかどうかわかっていたし、その写真をカットできないこともわかっていた。そして、シングルを出すごとに、ワム!はだんだん近寄り難くなってきた。彼らは素晴らしいビデオ、楽しいビデオを作り、どの作品もジョージにコントロールされ、演出され、許可を受けて世界中に出ていった。TVショーにはあまり力を入れてなかったね。番組をコントロールすることはできないから。

 

僕がワム!との仕事を始めたとき、彼らはキャーキャーいわれるようなアイドルじゃなかった。彼らはもともとすごくヒップだったんだ。僕の仕事は、彼らをアイドルにすること。それから、僕たちはジョージがアイドルをやめる決定をするのを待った。彼はいちばん最初の日から、自分のやりたいことをはっきりわかっていたよ。自分が使いたいカメラマン、出演したいラジオ番組、誰に自分のことを書いてもらいたいか、誰は嫌か、そしてその理由……。彼はずっと自分のやりたいことがわかっていて、それに従ってしっかりと手綱を握っていた。

 

ジョージが耳を傾ける人たちもいた。だけど、誰も彼をコントロールできなかった。(P162 - 165)


☆[3]に続く


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by yomodalite | 2015-02-18 15:59 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)

自伝「裸のジョージ・マイケル」[1]

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1990年に出版されたジョージ・マイケルの自伝。共著者であるトニー・パースンズが、ジョージが語ったことや、ワム!のアンドリュー、元彼女、マネージャーやスタッフなどの証言をまとめて構成したという内容になっています。

SONYともめるきっかけになったアルバム『LISTEN WITHOUT PREJUDICE VOL. 1』は、この本の出版と同年なので、その件に関しての詳しい話はありませんが、レコード会社との契約、成功後の苦難など、直前の彼の心境などが垣間見えます。

日本版はCBSソニー出版ですが、原著はペンギンブックス。ソニーとの関係が泥沼化するのは、この出版より1、2年あとのこと。

私は、MJとSONYの資料として読んだので、関係がありそうな箇所をメモしておきます。

下記は、すべて省略して引用しています。

すべてを変えてしまったのは、ワム!が解散したあとの初めてのソロ・アルバムだった。『フェイス』の成功の影響は世界中に及んだ。それが1988年アメリカで最も売れたアルバムになり、1989年の第31回グラミー賞でアルバム・オブ・ザ・イヤーを獲得すると、そこら中ジョージ・マイケルー色になってしまったようだった。


このアルバムは、エンターテイメント業界の頂点に彼を押し上げ,ビジネス誌「フォーブス」の集計による、その年の高額所得者トップ5の仲間入りまでさせた。トップ5の他の顔ぶれは、マイケル・ジャクソン、マイク・タイソン、シルヴェスター・ス々ローン、ステイーヴン・スビルバーグ。いずれも、ジョージのいう成功して生きることの難しさを思い出させる々名前だ。スピルバーグ、スタローン、タイソン、ジャクソン、うち3人は最近離婚しているし、ひとりはチンパンジーを相棒にしている。


1990年の、彼がグラミーを穫った日からほぼ1年たったある嵐の午後。彼の価値は流行小説の中でも論じられ(ジェイ・マキナニーの『ストーリー・オブ・マイライフ』の中で、女の子が彼について「ラスト・ネームがファースト・ネームみたいな男は信用しないわ」と言うくだりがある)、彼の悪業は(事実であれ作り話であれ)世界の出来事やダイアナ妃の新しい髪形といったニュースを蹴落として大衆紙のトップを飾る。


この嵐の午後、ジョージはビスケットを食べ、紅茶を飲みながら、『フェイス』を売るのに注がれた多くのエネルギーは、音楽を作るということとは何の関係もなかったと言う。1990年初頭、彼はすべてが変わらなくてはならない、と言っているのだ。


ジョージ:ずっと自分が詐欺師みたいに感じてた。いつの日かみんながそれに気づいて、すべてが持って行かれ、僕の世界の底が抜けてしまうだろうって思ってた。もうそういうのはない。恐怖はなくなった。もう、これが自分の人生のステージだ、なんてふうには感じない。


名声を小さな箱に入れておいて、ときどき出してきては楽しんでる。ある程度のスーパースターになってしまったら、それが自分や周囲の人たちに、とても悲しい、お決まりのやり方で影響を及ぼさないはずはないと思う。僕が成功している理由は、才能があるからだ。だけど、それは永久不滅のものじゃないから守らなくちゃならない。


だから、僕のキャリアのある時期が今、終ろうとしているんだ。今後、僕は以前のようなやり方で自分を見せるつもりはないし、昔のようにプロモーションをしたりメディアを相手に話したりもしないし、もう世の中に面と向かって向き合うつもりもない。音楽が好きだから、ずっとレコードは作っていく。でも、この業界で生きるのは楽しめない。プロセスに無感覚になってきてるって、自分でも感じてるんだけど、そういうのが楽しくないんだ。この業界に長い間いる人たちを見て、あんなふうにはなりたくないって思うよ。

 

この間、サンタバーバラの別荘にいたときのことだ。そこはとても穏やかで、のどかで、自然が溢れてるんだ。家の周りには鷲が飛び交っているし、そこら中にリスがいるし、一歩外に出れば、オレンジやレモンや、あらゆる種類の果実がなってる。ところが、突然、「こういうものこそ金持ちがお金をかけるものなんだ」って思いが横切ってね。いい気分じゃなかったよ。これは、お金とは関係ないものだと思っていたから。

 

本当のこと言って、有名人たちに会うのは嫌いだ。マイケル・ジャクソンは去年僕が賞を獲ったときにすごくよくしてくれたからずいぶん会うけど、大抵の場合名士たちに会っても楽しくないんだ。人間としてどうだっていうんじゃなくて、お互いに共通するものがとても稀薄だからね。何を喋ったらいいんだ? やあ、こんにちは、君も金持ちで有名なんだね。へえ、君も有名人なんだ、とかね。一体何を話せっていうんだい?これはかなり難しいよ。僕は誰かのところに歩み寄って、あなたの仕事をほんとに尊敬してますって言うタイプなんだ。それはいつだって真実。そう思ってもいない人にそんなこと決して言わない。でも、そんなふうにオープンにしたせいでちょっと苦い思いをして、有名人に話しかけるのに臆病になってしまった。できることなら、そういう状況は避けていたいんだ。


ジョージ・マイケルは多分に創造物(つくりもの)だった。僕はずっとそういうふうに見ていた。決して現実のものじゃなかった。それを恥じるつもりはないけど、もう終りだ。それは当初の目的よりもずっと長く生きた。これからもたまには《ジョージ・マイケル》になりたいような気がすることがあるだろうけど、自分のそういう面は切り捨てた ーー 「もうよせよ」って言わなくちゃならないんだ。ライターとして、ひとりの人間として、すごくいけないことだからさ。


1990年代始めに発表されるアルバムと、それをプロモートするための10ヶ月のツアーについて話していた。「僕はロードに出て、ジョージ・マイケルになって、家に帰ってくるんだ」と、彼は言っていた。


家に帰ると誰になるのかと尋ねると、彼はわからないと語った。「ジョージ・キリアコス・パナイオトゥー(本名)じゃないな」と彼。「それよりはずっとジョージ・マイケルみたいだって気がしてる。頭の中では、まだそれはタイトルなんだけどね、「ジョージ・マイケル」っていう。ちょっとした自作のタイトルってところじゃない?


そして今日、彼はジョージ・マイケルを地下室に閉じ込めて、彼のエゴを生き埋めにし、イメージの要求するいろいろな面倒も一緒に捨ててしまうという。そうすれば音楽だけが残ると。彼はこの1年、ずっとこんなふうに言ってきた。ジョージ・マイケルはひとり取り残されることを望んでいるのだ。(第1章より)


* * *


アンドリュー(ワム!のメンバー):契約を交わしたときは有頂天だったよ。マークはいいやつだ ーー 信じられないくらいのエネルギーがあるし、音楽に対して素晴らしい耳を持ってるし、悪くないやつだよ。のちに彼と不和になったのは、彼が僕らに不利になるように動いてるって思ったからなんだ。彼の抱えていた問題をわかってなかったのさ。彼はCBSと厳しい契約を交わしてた。あれは彼の最初の契約で、彼自身の初仕事だった。僕たちはそこんところに全然気づいてなかった。僕らにとってはすべてをうまくいかせてくれるA&Rの大物って感じだった。だけど、彼は僕らより2つか3つ年が上なだけだったんだ。(P91-92)


ジョージ:僕の人生でいちばん驚くべき瞬間というのは、バンドやサックスやなんかを全部入れてちゃんとデモ・テープにした「ケアレス・ウィスパー」を聞いたときだった。その日、僕たちはナンバー・ワンになるような作品を作ったぞってやっと確信したその日に、マークとの契約にサインしたってのは皮肉だった。


その日に、僕たちはすべてにサインして売り渡してしまったんだ。でも自分に何ができるのかっていうのはわからないし、そんな先見の明なんて持ってるわけないからね。

 

もしこれにサインしなかったら、すべては消え去ってしまうって気持ちがどうしてもあった。みんなが、うまくやるのは運のいいやつだけって言うから、思っちやうわけだよ。「これこそ、そのチャンスだ、これこそ僕の運が開けたんだ」って。あとになって、人がこの契約について書くとき、みんないつも同じ言葉を使った ーー「自業自得だ」っていう。


「若者たちは焦っていた」・・・のちにレコード契約が大々的な訴訟問題に発展したとき、ある裁判官はこう言った。例えば父親のレストランでたまたまCBSの重役が食事していたとき、マーク・ディーンはCBSと契約しているのかと尋ねる(もちろんしていたわけだが)などして、ジョージも彼らしい慎重さでことを進めようと最善を尽くしてはいた。しかし、結局のところ3人の若者は全員、成功物語を始めるには少々焦りすぎていた。

  

それまでにあらゆる人々から断られていたワム!と、あらゆる人たちから祭り上げられていたマーク・ディーンとは、今や水のしみ込む同じボート、レコード・レーベルのタイタニック号であるインナーヴィジョン号に乗り込んで、お洒落なサウス・モルトン・ストリートから不安げに出港しようとしていた。

 

ワム!がインナーヴィジョンと結んだ契約は、海底のエビの尻尾よりも食えないものだった。前払い金として各々に渡された500ポンド(それも将来の印税から返済することになっている)で、ワム!の少年たちはインナーヴィジョンとの5年契約にサインした。イギリスではシングル、アルバムともに8パーセント、その他海外ではアルバムが6パーセント、シングルが4パーセントという印税率に、彼らは合意した。12インチ・シングル(1980年代初頭の音楽ビジネスにおける急成長の分野だった)は1ペニーも彼らのものにはならない。印税なしである。これには自業自得以上のものがあった・・・しかし、さらに悪いことが続いた。

 

この苛酷な親方であるインナーヴィジョンは、5年の間、年1枚のアルバムを要求できることになっていた。もし会社がその気になれば毎年もう1枚アルバムを出すこともできた。つまり、ワム!は5年間になんと10枚のアルバムという、ガレー船の奴隷もショックで気絶するような量の仕事をさせられる可能性があったわけだ。もし、バンドが契約の完了を前に解散した場合、例えば9枚目のアルバムを出した直後だとしても、インナーヴィジョンは2人の少年のどちらからもさらに10枚のアルバムを自由に要求してよかった。まさに心臓の止まりそうな条項である。門外漢から見ると、インナーヴィジョンは彼らの魂さえも所有していたかのようだ。

 

この無情にして心痛む契約は、部分的には若きマーク・ディーンの会社(インナーヴィジョンはマークの大きな出発であると同様、ジョージやアンドリューにとっても大きなチャンスだったのだ)を成功させようという固い決意から来たものだったが、部分的には彼の親会社との契約の厳しさから来たものでもあった。若き大立て者を全面的に信頼し、彼の仕事をスタートさせるために大金をつぎ込んだCBSが、彼をずっと監督していたことは想像に難くない。(P93-94)


☆自伝「裸のジョージ・マイケル」[2]に続く


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by yomodalite | 2015-02-18 00:04 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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