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☆クインシー・ジョーンズ自叙伝[2]のつづき

自叙伝からのメモからもう少しだけ。。。

(引用開始)

私はフランク(シナトラ)と仕事をともにしつつ、マーキュリー・レコードでオーケストラや女性歌手のレコーディングに関わっていた。たとえばサラ・ヴォーン、ムスクリーニ、ダミタ・ジョー、ニーナ・シモンといった歌手を扱った。そして “キング・オブ・ストリングス” の異名をもつアレンジャー、ロバート・ファーノンとサラ・ヴォーン、それにストリング・セクションに16人の合唱団のスヴェン・サービー・クワイヤーを組合せてアルバムを制作し、ビリー・バイヤーのアレンジによるジュリアス・ワトキンズのアルバム『フレンチホーンズ・フォー・マイ・レディ』を手がけた。

(引用終了)


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サラ・ヴォーンは、女性ジャズ・ヴォーカリスト御三家の一人で、ムスクリーニ(ナナ・ムスクーリ)も世界的に有名。

ニーナ・シモンは「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」に於いて第29位で、ジャズやソウルが苦手な私が、唯一自分でCDを買って何度も泣きながら聴いたほどハマっていた方(ニーナ自身は、どうしても何かのジャンルに分けられなければならないのなら、自分はフォーク歌手とされるべきだと思うと言っている)。

☆特に好きだったアルバム!(視聴可)
◎And PIANO / Nina Simone

でも、現在ダミタ・ジョーと言って思い浮かぶのは、ジャネット・ジャクソンのアルバムタイトルや、彼女のミドルネームという人が多いのではないでしょうか。

本書は、この記述以外に、ダミタ・ジョーとの関わりについての話は特にないのですが、
なんとなく「彼女」のことが気になっていて、、

彼女の容姿は、歌手になりたかったキャサママにどことなく似ているようで、ジャネットが生まれたとき、ダミタのような歌手に。という思いがあったかどうか、母の著書の記述には記憶がなく、ジャネットの自伝は読んでいないのですが、彼女が、女優でコメディアンでもあったという部分は、幼少時のジャネットと重なって見えたり、、


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私はダミタのことを、まったく知らなかったのですが、Wikipediaによれば、彼女には、ドリフターズの "Save the Last Dance for Me" 、ベン・E・キングの "Stand By Me" というふたつの曲のアンサーソングによるヒット曲があるようです。


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Damita Jo - I'll Save The Last Dance For You





Damita Jo - I'll Be There





この2曲のヒット後の、1966年にジャネットは誕生し、1970年にはジャクソン5の "I'll Be There" が全米No.1ヒットになり、ジャネットはダミタより遥かに大きな成功をつかんだんですね。。


Damita Jo - Dance With A Dolly





Damita Jo - Silver Dollar





Damita Jo sings





Damita Jo "What Did I Have That I Don't Have




様々な天才たちが登場し、米国史としても貴重なクインシーの自叙伝は、
またいつか読みたいと思いますが、今回はひとまずこれで終了。

◎[Amazon]クインシー・ジョーンズ自叙伝



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by yomodalite | 2013-03-31 09:51 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)
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2Pacが表紙になった、クインシーが設立した雑誌「VIBE」



☆クインシー・ジョーンズ自叙伝[1]のつづき


ヒップホップ界のもっとも偉大な才能という評価は何度も聞いたことがあるのですが、ラップを英語で聴くのはむずかしくて、2Pacのことはずっとよくわからなかったのですが、本書をきっかけに、彼との距離が少しだけ近づいた気がしました。

下記は「ビバップからヒップ・ホップヘ」からのメモの続きです。

(引用開始)

私は、娘キダーダと付き合っていたトゥパック・シャクールに接しはじめたばかりだった。彼を知れば知るほどアーティストとして、人間としての並外れた可能性と感性を理解するようになっていた。

彼が1度ベルエアー・ホテルで私と待ち合わせをしていたとき、披は時間を守り、10時にホテルに着くと「スーツに着替えてすぐに出直します」というメッセージを残したことがあった。彼はたんにアーティスト、あるいは実業家としてではなく、愛する女性の父親として敬意を払って私に会いたいと思った。それは、ヤクザなポーズが神話になり、マスコミやファンには決してわからなかったトゥパックの一面だ。

トゥパックの詩集『コンクリートに咲いたバラ』は、彼の死によってベストセラーになったが、それは書くという職業柄、女々しくみられることに対する悲惨な恐れをあらわにする。彼は書くことによって自分の弱点をさらすと思った。

また、彼の死後、アマルレコードは彼の思索的な詩のCDでヴィンセント・ヴァン・ゴッホに捧げたトゥパックの詩『スターリー・ナイト』を朗読するよう、彼の母親から頼まれた。そしてそれは、私の息子QDⅢがプロデュースを行い、娘ラシーダが歌を添えた。(p310 - 311)


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The Starry Night - Vincent van Gogh
「星月夜」ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ


☆[必読]2PAC の運命的な生い立ちからギャングスタ抗争、
キダーダとの最後の日までのストーリー!


◎2PAC True Story[chapter 1]
◎2PAC True Story[chapter 2]
◎2PAC True Story[chapter 3]
◎2PAC True Story[chapter 4]


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☆このページにある動画が、クインシーが2Pacの詩を朗読し
息子や娘と創った「STARRY NIGHT」

◎2Pac - Starry Night


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☆この曲はドン・マクレーンの「ヴィンセント」という曲で、
2Pacが撃たれた後運ばれた病院で、キダーダが彼に聴かせた曲。

◎Vincent - Don McLean(2Pac Tribute)




◎『ヴィンセント』ドン・マクリーン(和訳)



トゥパックが射殺されてまもなく、私はシャロン・ストーンの誕生日の祝賀会に出席していた。会場を出るのが予定より遅れ、私は『ヴァイブ』とクウェスト・レコードのパーティーを取り仕切っていたキダーダに電話を入れ、少し到着が遅れると伝えた。すると彼女が「父さん、こないで。たったいま誰かが殺されたのよ」と言った。それはノートリアス・BIGだった。

彼はパーティー会場を出た4分後に待ち伏せにあい、リムジンに乗り込んだところを射殺された。トゥパックの死が記億になまなましいキダーダにとって、それは強烈な精神的ショックだった。私たちは全員、その朝9時まで彼女やトゥパックの仲間とともに過ごし、そのショックを乗り越えようとした。現在まで、そのふたつの殺人事件で逮捕者がひとりも出ていないという事実に、わたしは背筋が寒くなる。(中略)


◎The Notorious B.I.G. - "One More Chance"





◎ノトーリアス・B.I.G.(Wikipedia)

アメリカの若者は、リーダーシップと見識を必要としている。ラッパーは、いままで以上に責任を負わざるを得ない。だが、そのためには25歳以上、生きなければならない。現実として30歳がひとつのハードルになっているのだ。私は若いミュージシャンに、自分の音楽的宿命を管理することの重要性を伝えたいと思う。

(引用終了)



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by yomodalite | 2013-03-29 08:17 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)

クインシー・ジョーンズ自叙伝

クインシー ジョーンズ/河出書房新社





新たな読書がほとんど出来ないので、再読したかった本をこの機会に!という主旨でセレクトした本。以前読んだときは、目線がマイケルにばかり集中してしまって「もったいない」読み方をしてしまったという思いがあり、再読時には、アメリカ音楽界の巨匠による、音楽史をたっぷり味わおうと思っていました。

今回は、たっぷりというほど気持ちに余裕がないものの、本書は360ページで「2段組み」、登場する有名人も数多いので、記憶に残る箇所は読者によってかなり異なるとは思いますが、わたしが再読して意外だったのは、マーロン・ブランドの名前が頻繁に登場していたことでしょうか。

クインシーは、精神的に一番辛かった時期をブランドのプライヴェート・アイランドである「テティアロア」で休養していましたが、ブランド自身は晩年のほとんどを、マイケルの「ネヴァーランド」で過ごしていて、

クインシーの自叙伝は、マーロン・ブランドの自伝と同じぐらいアメリカの歴史と繋がっていて、特に黒人音楽に興味がある人なら、必読といっていいほど中身が濃く、また、ブランドに負けないほど女性にモテているという点でも華麗な内容なのですが、、

下記は、ブランドにも彼の恋愛遍歴にも関係のない、第44章「ビバップからヒップ・ホップヘ」という章から省略してメモしておきます。

(引用開始)

私は根っからのビバッパーだ。ありとあらゆる音楽を愛し、また創り出してもいるが、私の魂と音楽的宿命を定義するうえで、ビバップは不可欠のものだった。
 
ビバップといわれるジャズは、音楽にとどまらず、ひとつの姿勢であり、視点であり、ライフ・スタイルであり、人々、とくに黒人が芸術的に知的に自己表現する手段であり、同時にそうしたすべてを可能にする沈着さを維持する術でもあった。ビバップは、表現形式というよりも感じ方、つまり全世界に及ぶ支持者の共感のネットワークだった。

ビバップの世界では、曲のタイトルそのものが認識の変化を示した。たとえば《ハズ・エニバディ・シーン・マイ・ギャル?》(誰か僕の彼女に会ったかい?)というような従来のタイトルではなく、チャーリー・パーカーは(オーニソロジー》(鳥類学)を思いつき、セロニアス・モンクは《エピストロフィー》(回帰)を書いた。
 
シアトル時代、私や友人たちは、いわゆる知的スノッブだった。周囲には好奇心の強いミュージシャンが犬勢いた。私たちは13、14歳のころに『カーマ・スートラ』、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』、カリール・ジブランの『ザ・プロフェット』、L・ロナルド・ハバードの『ダイアネティックス』などを読んでいた。

◎[Amazon]バートン版「カーマ・スートラ」(角川文庫)
◎[Amazon]ルバイヤート(岩波文庫)
◎[関連記事]カリール・ジブラン
◎[Amazon]ダイアネティックス
◎[Wikipedia]サイエントロジー

ブラック・ミュージックには、常に公民権を奪われた人々が心理的・精神的・創造的に生き残る支えになるためのサブ・カルチャー、私たち白身の社会を生み出す必要があった。私たちは私たち白身のスラング、ボディ・ランゲージ、イデオロギー、感性、音楽と共存する生き方をみつけた。ビバップはサブ・カルチャーをもたらしたが、ヒップ・ホップはカルチャーそのものになった。

ヒップ・ホップはいたるところにある。それは新しいジャンルの例にもれず、ストリートから生まれた。そして、技巧的な西欧のコンサート・ミュージックと対照的な、生命力あふれるアフリカン・ミュージックの伝統を引き継ぐ、それなりに強烈な表現形式だ。チャック・Dの言葉を借りれば、“ヒップ・ホップはストリートのCNN”となる。

私はヒップ・ホップを旧世代のコミュニケーションの継続と提えている。40年代にレスター・ヤング、カウント・ベイシーやサブ・カルチャーを形成した人々は、“ホームボーイ” あるいは “ラップ” という言葉を使っていた。また、ビバップは器楽編成ばかりか、スキャット、ヴォーカリーズや生き方や姿勢でもあった。ヒップ・ホップは、ときには荒廃した社会の末端で発生し、なかにはさまざまな闘争によって、最悪の場合、ブラザーがブラザーを殺す暴力によって汚されたものもある。そうしたヒップ・ホップのほとんどは、ラッパーではなく “現実感” という名のもとに音楽を私物化したチンピラによって残された。
 
私たちの国のもっとも大きな文化的貢献は、ジャズやゴスペルであれ、ブロードウェイ・ミュージカルやバーバーショップ、ドゥワップであれ、ビバッブやリズム&ブルースであれ、私たち自身の多様性を反映している。現在では、きわめてハードコアなラップでさえ、エストニア、パリ、アフリカ大陸、東京はいうまでもなく、ダラスのショッピング・モールでさえ流れている。私とクラレンス・アヴァン夫婦がはじめてドイツのプリンセスの城に招かれたとき、彼女の12歳の息子は、スヌープ・ドギー・ドッグとドクター・ドレを聴いていた。それは、アフリカの原動力と趣をもつ私たちの “作り立てのガンボ″ だ。
 
現在ラップと呼ばれるものがはじめて私のレーダー・スクリーンに現れたのは、1960年代のことだった。私は、ラスト・ポエッツやギル・スコット・ヘロンといったパフォーマーに注目した。そして1975年には、アルバム『メロウ・マッドネス』で、人気グループ、ワッツ・プロフェッツによるラップ、《ビューティフル・ブラック・ガール》をフィーチャーした。ワッツ・プロフェッツは、いわばロサンゼルス版ラスト・ポエッツやギル・スコット・ヘロンだった。彼らは詩的なコール・アンド・リスポンス(応答形式)のチャントを使った。私はそれにアフリカのファンキーなパーカッションをちりばめた。


◎QUINCY JONES & THE WATTS PROPHETS - Beautiful Black Girl





1979年には、ショーとシルヴィア・ロビンソンのレーベルがシュガー・ヒル・ギャングの『ラッパーズ・ディライト』を!100万枚売り、ラップが商業的成功を収めうることを音楽業界全体に知らしめた。私は1980年にアルバム『ザ・デュード』で7度目のグラミー賞を受賞した。その10年後、私にとっての音楽的融合における実験作「バック・オン・ザ・ブロック』で、アメリカのゲットーのどの街角にもいるデュード(気取り屋)、誰もが手本にしたボスの記憶を甦らせた。だが業界の主流派からは、私が行きづまっていると口々に言われた。彼らはいちように “ラップは終わった” とみなした。1989年のことだ。(p298 - 300)


◎Sugar Hill Gang - Rappers Delight





◎Quincy Jones - The Dude






◎Quincy Jones - Back On The Block





『ヴァイブ』のキース・クリンクスケールズ、そして、ドクター・ドレ、ア・ドライブ・コールド・クウェストやパブリック・エネミーのメンバーをはじめ多くのラッパーの姿があった。
 
クラレンス・アヴァンとコリン・パウエルは、ヒップ・ホップによって解放された怒りは、堕落でなく解決という、よりポジティブな方向に向けられる必要があると訴えた。パネリストたちは、たとえ怒りが行動を起こすきっかけになるとしても、そのパワーは破壊や抹殺につながる使い方をするものではなく、良心に委ねるべきものであり、表現の仕方には責任を負うべきであると口々に語った。あきらかにラッパーたちは、彼ら白身の運命を管理するためにも結束を図る必要があった。
 
ラップ界には、“エンターテインメントはエンターテインメント”とラップしつづける若者たちがいた。そのひとり、デフ・ジャム・レコードの重役ジェイク・ロウブレズは、1週間後、アトランタで射殺された。だが、私にとってビバップとラップの関連性は、知識で培われるという点だ。

ヒップでいるためには、さまざまな事情に通じていなければならない。シンポジウムは、それを意識したヒップな企画だった。私たちはラップ以外にビジネス、テクノロジー、影響力を急速に拡大するインターネットをテーマとして取り上げた。
 
だが、その余波は、ラップがさらに商業的成功を収めると同時に、暴力による抗争が激化するというほろ苦いものだった。東海岸のグループと西海岸のグループの対立関係は、心理劇の様相を帯びた。

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by yomodalite | 2013-03-28 09:18 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)
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スリラー/ネルソン・ジョージ (著)、五十嵐正 (翻訳) 《2》のつづき

唐突なんですが、なんだか「黒い音」が続いたので、気分を替えておフレンチなのを...
デヴィッド・リンチのお気に入り“Au Revoir Simone” 

◎Au Revoir Simone-The Lucky One
◎Au Revoir Simone - Another Likely Story
◎Au Revoir Simone "Sad Song"  
◎Au Revoir Simone - Fallen Snow


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▲1986年『Captain EO』



リンチとMJの繋がりと言えば「デンジャラス」ティーザーですけど、わたしは、“アメリカ文化・最後のひと” 繋がりを感じています。このふたりには、わたしがまだ完全にこどもだった頃の「アメリカ人」を感じるんです。シャツの一番上のボタンまで、きっちり止めるところとか.....

でも、リンチとMJについて、考えだすと収拾がつかなくなるので.....

本書の話題に戻りますが、



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▲1986年『Captain EO』



この本には、現在、 アマゾン評のレヴューに☆1つ評価が一件あるのみなんですが、通常こういった極端に低い評価を見ると、わたしの場合、つい庇いたくなることが多いんですけど、今回はそういう気持ちにはなれませんでした。このレヴュアーの方が「出直してこい」と言われている心情には、完全同意したいという気持ちです。

それでも、かなり頑張って、本書を面白く読めるひとを想像してみると、ラーメンばかり食べ歩くことで「美味しいラーメン屋」が発見できると思うタイプの人には、ためになる部分もあると思います。(あと、新聞やTVの報道番組が好きな人も♡)

ちなみに、わたしは「ラーメン評論家」が、ラーメンばかり食べていることを語っているのを聞くと「吐きそう」になるタイプなので、それで「黒人音楽評論家」と意見が合わないことが多いのかなって気がしてます。



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▲1984年“Celebration for Thriller”




特に「黒人音楽評論家」がMJを語る場合は、極上のレストランに初めて来たにもかかわらず、気取らないサーヴィスと、馴染み客のような対応を期待し、フルコースに、旨いラーメンじゃないって「いちゃもん」つけてるような、検討ちがいの「クレーム」を感じることが、今までにも何度もあったので、本書にも、最初から、そういったマイナスの先入観がなかったとは言えません(ラーメンよりフルコースが上って意味じゃないですからね)

ただ、音楽評論家に「マイケル・ジャクソン」を語ることが無理だということは、もう重々わかっていましたけど、一応、その中ではレベルが高いという人なら、せめて『スリラー』のことぐらいは、書けるんじゃないかという「期待」はしてたんですね。



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▲1978年“The Wiz ”Opening



ところが、そんな低いレベルの期待にすら届いていない....というのが、一読しての感想でした。でも、その評価のかなりの部分は、わたしが、これを日本語で読んでしまったからかもしれません。もしかしたら、著者は、もっと格調高く愛情溢れる感じの文章で書いているのかもしれないんですけど、日本語の方は、まるで「自動翻訳機」のような文章で読みにくく、著者の主旨が今イチ伝わらない点も考慮しなければと思い直したり、

消費者として買ったものに対して、多少でも満足したいという“意地汚い”根性も手伝い、ひょっとして「音」と一緒に読むことで、少しは資料的価値があるのかも...というのが、ここまでのメモの動機のひとつだったんですが (* ̄∇ ̄*)

もうひとつは、この著者のようなタイプと、こういった評論形式を、うっかり学んでしまう(笑)タイプの人には「肌の漂白」などの事実誤認を何度指摘したところでわからないし、あっさりと☆ひとつ評価で貶すぐらいでは「許せない」って気がしてきちゃったんですよね。この著者に対してではなく、自分に。。。



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《お詫び》ここまで「黒人音楽評論家」という表現を何度もしましたけど、極一部の素晴らしいひとに、たいへん失礼だったことを、謹んでお詫びいたします。

著者が、歴史的アルバムの一曲一曲に、根拠に乏しい個人的感想のみで評価を下していたり、「音楽評論と回顧録...」とか言っていたので、音楽評論家の方かと思ったんですが、「音楽」を評論するための「知識」もあまり感じられませんし「愛」や「尊敬」はもっと感じられません。

自分の思い出が「歴史」だと思っていたり、調べないで書くことが常態化している様子や自分の取材に応えない態度が“傲慢”だと勘違いしているような「傲慢」さなど、音楽評論家のひととは、もうまったく比べ物にならないほど、世の中に害悪を垂れ流しているひとの割合が高い新聞とか雑誌記者(元含む)の人が書く文章とよく似ていると思いました。

それで、プロフィールを確認して見たら「音楽評論家」なのは、翻訳家の方のほうで(黒人音楽ではない模様)、著者は音楽関係の著作や、監督、脚本とあるので、飯の種になっているのは、むしろ「黒人」の方なのかもしれません。



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▲1983年、Todd Gray Photo



たぶん、読者として「出直して来い!」って言いたくなるのは「第3部」の内容に集中しているのではないかと思います。

「イントロダクション」では、ジャクソン5が引き起した熱狂を「何かが始まった」とし、2011年にあらためて語られるべき「スリラー」の功績が綴られるかと思いきや、資料は、ほこりを被った自分の昔の記事と当時の資料ばかり....

伝説的アルバムの一曲一曲に対し自分の感想を書き連ねる際も、スライをポップアーティストとして省いたり(?)、黒人ロックを語るのにレニー・クラヴィッツを無視するなど、MJ本としても黒人音楽史としてもありえない修正主義的(!)な内容や



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すでに他の本で語られている情報を使い回し、クインシーと知りあいという利点も、よくある、MJ<クインシー図式に乗っ取ったへつらいに、ほんの少しだけ、彼のエロ親父ぶりを描写するにとどまっていた《第2部》から、ようやく“THIS IS IT”衝撃後の「スリラー」とMJが語られるかと思ったら、若き日にベストセラーになった自著をあまり取材していなかったと反省しているような記述があるにも関わらず、

それぞれ友人だって言っていた、

スパイク・リーのMJリスペクトからは、100万倍以上かけ離れた理解度や、その魅力を讃えていたはずのクインシーから面白い本の書き方も見習わず(『クインシー・ジョーンズ自叙伝』)、親友(?)のジョン・マクレーンに新アルバムのことを取材しないなどの気の利かなさに呆れるだけでなく、


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▲1984年 Lynn Goldsmith Photo



スリラー期のMJの頬の赤みを「ほお紅のつけ過ぎ」だの、ヴィクトリーツアーの高額チケットは彼の名前に汚点を残したなど、MJがこのときの自分のギャラを全額寄付(ツアー開始前に公式発表)したことも知らない(!?)というお粗末さ。

その後、人生最初にして最後の取材(笑)だったかもしれない『ヴィレッジ・ボイス』誌の記事(「何故エドマンド・ペリーは死んだのか」)によって、『BAD』が創られたという“自慢”に辟易とさせられたのもつかの間、追撃ちをかけるように、次の記述が.....




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(引用開始)彼の死後、アフリカ系アメリカ人社会は、彼の思い出を守るべく陣営を固めてしまったが、80年代後半にはマイケルの肌の濃淡の変化は説教壇から床屋までで批判の矢面に立たされる話題だった。マイケルは後にそれらの変化は肌の病気の白班のひどい症例を埋め合わせるためだと主張した。だが、彼の顔の改造は根本的に作り直した鼻をはじめ、その病気の引き起すものを超えている。

(MJの死後のクインシー・ジョーンズのインタヴューより)「ああ、俺たちはいつだってそれについて話していたよ。でも、彼は、“ねえ、断言するよ。僕は病気なんだ”とかびっくりするようなことを言ってくるんだ。“胸に水ぶくれがあるんだよ”とか、そういった戯言のあれこれをね。むずかしいね。だってマイケルは乙女座だからさ。自分のやり方ですごく固まってしまっている。彼を説得してやめさせるなんてできないよ。ケミカル・ピールとかああいったことをね」さらにクインシーはとても悲しそうに、マイケルが自分の黒人性に問題を抱えていると示唆した(引用終了)




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最初に、“事実誤認を何度指摘したところでわからない”と言ったのは、この記述のような著者の捉え方によるものなんですが、わたしは、MJのように、白人より真っ白な肌にまで「漂白」することが可能とは思いませんが、でも彼が、それが病気であることを相当あとになるまで公表しなかったことと、もし実際に漂白可能だったら、彼は実行していた可能性も高いことを考えると、この件に関して、病気によるものか、そうでないかはあまり問題にしたくありません。


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▲1984年(?)Todd Gray Photo


♪ちょっと休憩(^^*ゞ ♫

そういえば、本書の第2部には、ポール・マッカートニーとスティービー・ワンダーの《エボニー&アイボリー》のことを、ワンダーとマッカートニーはこのうえもなく偉大なアーティストだが、両者とも感傷的で気の利かないイメージとかわいさをねらったメロディーに取組むと本当に甘党で.....《エボニー&アイボリー》は、そこが欠点だった(中略)人種の調和の訴えは申し分ない。それでもなお、この曲の最後の部分には深刻な主題を平凡化してしまう許しがたい無遠慮な何かがある。

って書かれてるんですが、そこは、ちょっぴり共感したかも....(それでも「Black Or White」に触れられないんだなぁ、この著者は....本当に“Dangerous”って危険なアルバムだったってことが、今の方がよくわかります)

そんなわけで“人類の調和”「Hold My Hand」完成記念、Akon♡特集!!!
◎Angel - Akon(Lyrics)
◎Angel - Akon(downlord-link)
◎Wanna Be Startin' Somethin' 2008 - MJ with Akon  

☆MJの旅立ちを契機に、エロキャラ脱却を謀るR.Kellyの隙をついて
“エロキング”の称号を射程に入れてきたAkonの共演曲

◎I Just Had Sex - Lonely Island feat. Akon
◎I Just Had Sex - Lonely Island feat. Akon (LYRICS)


エイコンは、両手を拡げたポーズと、笑顔が組合わさると(“I Just Had Sex”参照)『ロック・ウィズ・ユー』のときのMJに似てない?どんなにエロくても“神のご加護”がある感じも...

さて、休憩終了。下記は、休憩前の文章に続きます * ̄∇ ̄* )



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▲1984年のMJとマドンナ



MJの肌が白くなったことが、人為的な「漂白」によるものか、本人の意思にまったく関係ない「病気」によるものか、わたしは、そのどちらであっても、MJの偉業にまったく関係ないと思いますが、

それは、著者のいう「自分の黒人性」に問題を抱えているか、いないかではなくて「黒人性」という問題の立て方そのものに疑問を感じるからです。

そもそも、アメリカに住む黒人すべてを「アフリカ系アメリカ人」と呼ぼうとするのも、すごく不思議なことだと思う。白人より「黒い」という、肌の濃淡からは「アフリカ」からだけではない、様々な“ルーツ”があり、その中で「アフリカ」が関わっているのが100%の人もいれば、ごくわずかの人もいる。

両親のどちらかにアフリカ系のルーツが何割かある場合、必ず「黒人」や「アフリカ系」とされるルールは、それ自体が矛盾を孕んでいて、

国でもなく、統一言語もなく、文化も様々な「アフリカ」をアメリカでの「帰属」として考え、身体的特徴まで、その「イメージ」どおりにというルールは、自分は何者か?という問いを真剣に考える人間には共感できない「掟」であったり、自分の可能性に枠をはめることだと思う人もいるでしょう。マイケルにとっては、まさしくそうだったと思う。

彼はアフリカ文化もアメリカの黒人文化もよく学んでいるけど「黒人」らしくとか「アフリカン」など、そのイメージの限界に、自分が当てはめられるのは、イヤだったんだと思う。



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▲1984年、Hemsley Palaceを離れるところ


また、この著者のように「黒人の誇り」を前面に出しつつ、世界中の多様な人々に尊敬されているひとを、自分のイメージと違うというだけで攻撃しようとする人もいる。彼らが標的にしたり、無視しようとするのが、いつも人種の越境者たちであることを思うと、こういった人々こそ、真の「人種差別主義者」であり「差別」をネタに利益を受けるために人種差別を無くさないよう目を光らせている「差別温存主義者」なんじゃないかと疑う。彼らのような人が、MJの真摯なメッセージを受けとめたくないために『バッド』や『デンジャラス』を無視したり、貶してきたんだと思う。

MJが言っているように「人種」じゃなくて「メンツ」の問題なのだ。


肌の色が同じだということが仲間意識に繋がることはあるけど、人が、音楽に魅せられるときに、肌の色が黒いか白いかを気にする人がいるだろうか。

エルヴィスが、現在とは比べ物にならないほど、人種が隔離されていた時代に、黒人音楽に魅せられたのも、その音楽にどうしようもなく魅せられたのであって、肌の色には関係ない。大勢の人が「混血」になったのも、人が人に魅せられることに、肌の色が関係ないことの証拠だし、クインシーが、白人と結婚することと、マイケルが白人を取入れようとしたことに、いったい、どれだけの違いがあるというのだろう。

マイケルは「黒人性に問題」を抱えていたのではなく、黒人でも白人でも関係ないという強い信念があっただけだ。肌の色の変化に関して「事実」がどうであれ、彼の信念は、黒いときも白いときもまったく変ってなんかいない。

でも、この著者は、元々そんなことには、何の興味もなく、そもそもマイケル・ジャクソンに「疑問」も「興味」も持っていない。

彼が「漂白した」としつこく言い募り、少年への性的疑惑の真相を探ろうとしないのは、

「マイケル・ジャクソンの人生にはとても多くの疑問を提示する」という“パターン”で、何度でも楽に商売ができるから!

スリラー/ネルソン・ジョージ (著)、五十嵐正 (翻訳) 《4》につづく 


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by yomodalite | 2011-01-05 13:12 | マイケルジャクソン書籍 | Trackback | Comments(2)
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スリラー/ネルソン・ジョージ (著)、五十嵐正 (翻訳) 《1》のつづき


さっき行って来た近所の神社でお願いするの忘れちゃったけど、
石川さゆりには、この先50年とか、もう永遠に紅白で『天城越え』を歌って欲しい。。

さて、


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以下、抜粋してある文章はすべて省略引用

「第一部」は、主に『スリラー』以前が語られているのですが、黒人であるネルソン・ジョージが感じた、同時代の黒人音楽と、当時のMJを対比していくという行為は「日本人」のわたしにとって、かなりの違和感を感じるものでしたが、この違和感は、わたしだけではなく、MJもそうだったのではないでしょうか。

クインシー・ジョーンズも、永年ジャンルを超えた作品で、早くから黒人枠を越えたアーティストで、彼の年代では、白人の美人妻を迎えるというのが、ステイタスでもあったわけですが、


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MJは、子供のころから、白人の女の子の熱狂を経験し、当時の映像を見ても、ジャクソン5のファン層は、むしろ白人の方が多いように見えるぐらいですし、10代の頃にテイタム・オニール、ブルック・シールズといった、国際的アイドル女優を射止めてもいます。

わたしは、彼が皮膚の色素が破壊される「病気」によってというよりは、アーティストとしての自由を「黒い枠」にはめようとする圧力の壁を越えようとする「意志の力」によって、肌の色が「変化」したんじゃないかと思うことがあります(科学的でないことを承知で言いますが....)



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1983年、エンシノの自宅にて



それは、黒人としてのルーツを大事にしていないこととは厳然と異なると思いますが、彼の生まれ育った「国」は、人種を重要視(特別視)し過ぎるという問題があり、また、その問題は日本でも、音楽評論家や、駆け出しの翻訳家のナイーブさでは複雑過ぎるために、「マイケル・ジャクソン」が理解できないという方も目立つように思います。

(MJに関しては、他のアーティストに比べ、プロデューサーの功績を高く見積もることが常態化しているのも不思議ですね。『デンジャラス』で、MJが“ニュージャックスウィング”を取入れただとか、『スリラー』の“Q”に関しても...「芸術」にも「創造」にも敬意が感じられない、嫉妬深くて、上から目線で言いたいだけの本場(笑)の評論家の意見を、ただの情報輸入屋さんが“素直”に信じてまき散らしたからなんでしょうか?)

子供時代から、肌の色の壁を越え、成人後すぐに世界一売れたレコードを作ったMJは「スリラー」の後は、もっと広い世界や宇宙にさえ目を向けていました(Captain EO...)日本のリスナーとして『スリラー』も、他の作品も、余所の国の“事情”を踏まえ、あまりに素直に学び過ぎるのはどうかと思うんですが....



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▲1984年、Grammy Awards



☆ここからが、本書のメモ(すべて省略引用)

《第2部》『スリラー』

(引用開始)...とてもよくデザインされた80年代らしいパッケージにそれを個人的な声明と思わせるに充分な彼の特異性のタッチが加えられている。このアルバムは計算された大量生産の製品であると同時に、非凡で、漫画的で、情熱的で、奇妙で、夢を見がちで、不安に満ちた個人を投影したものであり、熟練したアーティストと職人の一団がその両方を可能にした。


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『スリラー」は、82年4月から10月にかけてデジタル以前の時代の最先端のスタジオだったウェストレイク・スタジオで録音された。そのアルバムはそれ以前に出たすべての売上げを凌ぎ、その後のレコードが届くことが不可能な記録を打ち立てた。

これほど壮大な成功は振返って見てみれば、何かの始まりであるだけではなく、ある時代の終わりと見ることもできる。『スリラー』は両方だった。

『スリラー』は最後のデジタル以前(アナログ)のアルバムの1枚だった。それは主流ポップに受入れられることを求めてきた黒人アーティストたちによる奮闘の数十年間の頂点と証明された。そのアルバムは黒人音楽の成功がどこまで可能かについて非現実的な期待値を定めた。

《スタート・サムシン》

『ソウルパワー』の記憶に残る一場面は、カメルーンのサックス奏者マヌ・ディバンゴを追いかけ、彼の演奏で子供たちが踊るところだ(中略)彼の《ソウル・マコッサ》は別の曲のシングルのB面で、ニューヨークの先を見通す力のあるDJ、ディヴィッド・マンクーソがいなければ、間違いなく知られないままだったろう。



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73年までに《ソウル・マコッサ》は、小さな熱狂となり、30ほどのカヴァー・ヴァージョンが録音された一方、ディバンゴのオリジナルはポップチャートで35位までに上がった。進歩的なニューヨークのディスコからWBLS局のプレイリストに、そして世界的なヒットに至るという、こういった音楽の旅はディスコ時代にしばしば繰り返されることになる。

「ママ=セ、ママ=サ、マ=マ=クー=サ」......マイケルとバックグラウンド歌手たちの最終ヴァージョンは、よりアフリカ的なサウンドに聞こえる。

ディバンゴは《スタート・サムシン》の共作者としてのクレジットはされなかったが、ジャクソン側陣営と金銭面で和解し、リアーナは、07年のスマッシュ・ヒット《ドント・ストップ・ザ・ミュージック》で、その本案を用いた。



R&Bの世界に白人のソングライターは、ジェリー・リーバーとマイク・ストウラーのデュオが古典曲を連続して書いた50年代から存在し、77〜79年にかけて、白人のソングライターがグラミー賞の年間最優秀R&B楽曲を獲得した。
◎アース・ウィンド&ファイアの《ファンタジー》1977年

この態度こそがマイケルジャクソンが『スリラー』で応答することになるものだった。



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《今夜はビート・イット》

....ファンたちはチャック・ベリーの曲を大抵はビートルズ、ビーチボーイズ、グレイトフル・デッド他のカヴァーを通して知っていた。だが、ジミー・ヘンドリックスを除く黒人ロッカーは愛を得ることはなかった。プリンスは正真正銘のロック・ギターを基調にした曲を作ったが、最初の5枚のアルバムの間はAORににべもなくされていた。

80年代はロックラジオでヘンドリックス以外の黒人の歌声を聴くことはなく、黒人ラジオも同じくらい偏見があった。ジャクソンとクインシーは、こういったアフリカ系アメリカ人とロック・ギターの歴史に逆らって《ビート・イット》を作り上げた。

クインシーがこの曲をけしかけたのだが、彼はナックの79年のフックのあるヒット《マイ・シャローナ》に刺激されたようだ。

《ビート・イット》が、ジャクソンにとってのヒットとなったにもかかわらず、その曲は黒人ロックへの水門を開けることはなかった。しかし、『スリラー』全体、とりわけ《ビート・イット》が受入れられたことは、プリンスをポップスターとして受入れられるのを容易にしたと僕は強く信じている。


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《ビート・イット》と《パープル・レイン》以降の年月に、多くのR&Bのアーティストが大きな売上げに近づく道としてロックギターを用いた。

◎シャラマーの《デッド・ギブアウェイ》
◎キャメオの《キャンディ》
◎ジャネット・ジャクソンの《ブラック・キャット》

ロックをその音楽へのアプローチに融合させて最も成功した黒人グループは主流のずっと外側からやってきた。「ロックの王様」と自ら宣言したランDMCは、黒人のストリートの若者たちと郊外のロック・ファンの両方に信用されるラップレコードを作った。《ウォーク・ディス・ウェイ》でのランDMCと、エアロスミスの共演は《ビート・イット》の息子であり、同じくらいに文化的影響力を持った。

◎Walk This Way - RUN-DMC(1986年)

ランDMCから、パブリック・エネミーのサンプルの壁が登場し、やがて、扇動的な(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン)から面白みのない(リンプ・ビズキット)までのバンドによるラップ・ロックというジャンル全体の誕生を引き起こしたのだ。


それでもなお、プリンス&ザ・レボリューションを除くと、実際に「ロックの殿堂入り」をした黒人バンドはいなかった。最も近かったのはリヴィング・カラーで、彼らはブラック・ロック・コーリションの旗艦バンドだった。


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《ビート・イット》の永続する魅力のひとつの例は21世紀のポップロックバンドのフォール・アウト・ボーイに見つけられた。

プリンス、ランDMC、リヴィング・カラーの後、その曲のヒットに最も影響を受けたアーティストはマイケル・ジャクソンだった。残りのキャリアにおいて、マイケルは定期的にロック賛歌かぶれの曲を、それも頻繁に他のロック・ギターの神との共演で録音した。

だが、その後の労作はどれひとつとして《ビート・イット》ほど活力があったり、重要だったりしなかった。その曲はジミ・ヘンドリックスの死以降の年月においての最も重要な黒人ロック・レコードであり続けている。

☆yomodalite注:本書の内容をメモしているのは、この本の素晴らしさを紹介したいのではなくて『スリラー』最高傑作などの、MJへの音楽的評価の“類型”に対して「正気ですか?(by : ケンドー・コバヤシ)」とか「どうかしてるぜっ!(by : ブラマヨ)」って思ってるからです。

音楽リンクを追補したのは、音楽評論家が陥りやすい「評価の類型」が、どのような「心情」や「歴史観」から来ているものなのかという「パターン」を読み解く材料になればという思いと、各ミュージシャンの時代への試みは、評論家の浅薄な言葉や、歴史への傲慢さとは違って、ずっと尊いので。。。



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《ヒューマン・ネイチャー》

ステイプルズ・アリーナでの追悼式の出演者リストの中で、最も驚かされた名前はジョン・メイヤーのそれだった。

メイヤーは白人のギタリスト/歌手で、21世紀に入ってから最初のレコードを作った男である。彼は幾らかのソウルフルなサウンドのレコードを作ろうと試みてきたし、ブルーズの古典を数曲録音した。

だが、彼にはマイケルとの事実上の直接的なつながりはまったくなかった。

しかし、彼の世代(77年生まれ)の若者の一人残らずと同じく、メイヤーはマイケルの音楽と共に育った。ポップ・ソングとは何かについての考えの多くは『スリラー』を経由して学んだのだ。

ジャクソン家はメイヤーに連絡をとって、彼に《ヒューマン・ネイチャー》を歌ってほしいと頼み、結局、彼は歌うのはよそうと決心し、その代わりにそのメロディーをギターで弾くことを選んだ。意図したかどうかは別としても《ヒューマン・ネイチャー》の演奏にメイヤーを選択したことは、その曲の創作の中心にいた白人のポップ職人たちへの黙礼として機能した。

メイヤーは大衆にアピールする主流ポップ(ユア・ボディ・イズ・ア・ワンダーランド)の作り手であり、LAのスタジオ完璧主義の全盛期の痕跡を見出せる数少ない21世紀のスターの1人である。



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▲1984年、American Music Awards



TOTOは、LAの一流セッション奏者たちの集まりから成るポップバンドで、そういったスタイルの象徴というだけでなく『スリラー』の制作において音楽の中心的な役割も果たしたが、多くの批評家にとって、それはニューヨーク、ロンドン、その他あらゆるところのパンク・ロックの怒れる使者に、胸のむかつく思いをさせる如才ない大衆受けねらいのサウンドの象徴とした。ジャーニーやシカゴ、その他の70年代の一語だけの名前の中流白人的なバンドと共に、ロック評論家たちは、TOTOをひどく嫌った。

(TOTOのメンバーである)スティーブ・ルカサーは《ビート・イット》を編曲し、大半のギターを弾いた。クインシーは作詞家のジョン・ベティス(カーペンターズの《イエスタディ・ワンスモア》マドンナの《クレイジー・フォー・ユー》を書いた)の番号を引っ張りだし、マイルス・デイビスは《ヒューマン・ネイチャー》をカヴァーした。



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photo : Matthew Rolston(1984)



《P・Y・T(プリティ・ヤング・シング)》

クインシーの81年のアルバム『ザ・デュード』は、百万以上を売り、年間最優秀アルバムを含む5つのグラミー賞を獲得した。クインシーがイングラムのために選んだ方向性 ー 天性のソウル歌手による抑制されたバラード歌唱 ー は、80年代ポップの主要な商品となる。ライオネル・リッチーが70年代後半にコモドアーズのために作曲して歌ったバラード、《イージー》、《セイル・オン》がこの戦略の基礎を築いた。



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photo : Matthew Rolston(1984)



ピーチズ&ハーブの《リユナイテッド》、マンハッタンズの《シャイニング・スター》などのヒット曲は、その後のホイットニー・ヒューストンがとることになる道を切り開いたことがわかる。しかしながら、その見返りに感情を抑制した歌い方は作品の「面白みの無さ」を強調することにもなった。

◎Shining Star - The Manhattans(1976年)
◎Reunited - Peaches & Herb(1978年)

クインシーは、A&Mレコードを離れ、ワーナーが資金を提供した自分のレーベル「クウェスト」を設立し、《ハウ・ドゥ・ユー・キープ・ザ・ミュージック・プレイング》や、TVの昼メロ番組『ジェネラル・ホスピタル』で目立って使われた《ベイビー・カム・トゥ・ミー》といった曲でヒットを飛ばし続けた。






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by yomodalite | 2011-01-01 22:01 | ☆マイケルジャクソン書籍 | Trackback | Comments(6)
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いつもお世話になっている、みなさまに、感謝のきもちを込めた、年末のごあいさつなどもしたいところなんですが、

自分の中で、どんどん、宿題が溜っていく一方で、また、東京から離れる気もないので、年末年始は、この本の内容を、メモしていこうと思います。

最初の方は、主に「音」の補足です。

わたしは「スリラー」に関しては、以前、“スリラー”は、なぜ高く評価されているのか?でも書いたように、

マイケル・ジャクソンにとって、通過地点でしかない「スリラー」を最高傑作とする論評の中には「スリラー」以降の彼の数々の偉業や傑作を見なかったことにしようという「意図」が隠されているような気がして、うんざりしてしまうんです。

そんなわけで、本書のタイトルを見たときも、また「スリラー」(疲)と思ったんですが、日本語で読めるMJ本は、限られていますしね(疲)。。


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▲1981年“Off The Wall”Platinum



著者は本書について
「伝記ではない。音楽評論と回顧録と文化史の混合である」と形容し、「マイケル・ジャクソンの人生はとても多くの疑問を差し出す」とし、

翻訳者は「訳者あとがき」で、日本での死後の人気の再燃に関して、
「死者を敬う態度は当然だが、彼を神様か天使扱いして、生前の業績や行動のすべてを肯定する修正主義的なマイケル・ジャクソン像が描かれがちだと思うのだ」と記しています。



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▲スリラー期のジェリー・カール(1984年“Celebration for Thriller”)



わたしは自分なりに調べた結果、現在、MJを「自分の神」のように尊敬していますけど、死後、彼の慈善活動ばかりを高く評価したり「愛」と「平和」というイメージばかりに集約されそうになったことには、強い危惧を感じました。

しかしながら、一方で、MJへの根拠に乏しい偏向報道に対して、きちんとした修正が行われていないにも関わらず「修正主義」という言葉を安易に使用する、この翻訳者のように

正確な資料の収集を怠っているにも関わらず、間をとったような態度だけで「バランスのとれた見方」をしていると勘違いし、また、それだけで、効率よく、自分が頭がいいということを見せられると思っている、常識人的態度にこそ、日々「多くの疑問」を感じています。


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▲1984年“Celebration for Thriller”



それでも最終的に、これを読もうと思ったのは、著者が、TVドキュメンタリー作家(悩)とか、ジャーナリスト(笑)とかではなく、元音楽雑誌「Bilbord」のライター(悩)で、10冊以上の著作があり、ディームズ・テイラー・アウォードを2度受賞していて、

《ディームズ・テイラー・アウォード》
ASCAP(アメリカ作曲家・作家・出版者協会)のディームズ・テイラー賞(作曲家・音楽評論家として活躍したTaylorにちなんで優秀な音楽関係の著作物に与えられる賞)。ディームズ・テイラーは、ディズニー映画『ファンタジア』の音楽顧問で、ナレーションも担当している。


90年以降は、映画、TVのプロデューサーや脚本家、監督もこなし、MJより、ひとつ年上で、同い年のスパイク・リーとは友人らしく、リーと同様に、子供のころから、MJ旋風を受けて育ち、クインシー・ジョーンズや、MJエステートのジョン・マクレーンとも、知りあいであるという情報から、

『スリラー』を語った本としては「良質」なんじゃないかという気がしたからです。

ただし、上記に書いたことから想像できるように、これは、ファン向けの本ではなくて、MJを多少「研究したい」という人向けだと思います。

◎ネルソン・ジョージ著『スリラー マイケル・ジャクソンがポップ・ミュージックを変えた瞬間』吉岡正春のSoul Searchin'

◎「ネルソン・ジョージから学んだこと」吉岡正春のSoul Searchin'

◎ https://twitter.com/#!/taddihno(五十嵐正氏(翻訳者)のTwitter )


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「オフ・ザ・ウォール」期のジェリー・カール



☆ここから本書の引用開始

《第1部》

☆2009年
84年1月、アメリカ自然史博物館でジャクソンがギネスブックによって名誉を授けられていた夜に、デルが僕の初めての本となる『ザ・マイケル・ジャクソン・ストーリー』を出版した。

その本は百万部以上売れて、『ニューヨーク・タイムズ』紙のベストセラー・リストの第3位にまで上がることになる。

僕はスパイク・リーという名前の若い映像作家と友だちになり、彼の映画『シーズ・ガッタ・ハブ・イット』の初期の編集を見た(中略)その衝撃が現在にまで及ぶ黒人映画のムーブメントを先導する映画史における事件となった。

僕は公の場で彼を追悼したくなかったし、マイケルの人生の、それについてまったく知らない面のことを話したくなかった。

これは音楽がその中心にある本だ(中略)09年秋に、VH-1が毎年放送している『ヒップホップ・オーナーズ』のセットで振付師のファティマ・ロビンソンと話していた(中略)ヒップホップのアーティストたちの間でも、マイケル・ジャクソンの名前が出てきた。


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僕らの会話の中で僕が最もよく覚えていることは、彼女の息子ズーリが20世紀の暗黒の日々に死に絶えたと思っていた髪型であるジェリー・カールにしたがったという話だった。

彼は黒人と白人、ふたりのマイケル・ジャクソンがいたに違いないと考えたのだ。そして彼自身が濃い褐色の少年であるズーリは、その両方が大好きだった。

☆ゲアリーに戻ろう

ジョーの芸能界入りした子供たちは誰一人としてフランキー・ライモンのような悲劇とはならなかった(フランキーは13歳にしてセンセーションとなったが、18歳になるまでにヘロイン中毒で自滅し、26歳で亡くなった)

◎Frankie Lymon & The Teenagers

☆その歌声

マイケルの長いレコーディングのキャリアは、美しい人間の声が子供から中年まで進化していくさまを耳にする、かけがえのない機会を僕らに提供してくれる。

“ビッグボーイ”でのマイケルのリードボーカルは、これら初期のの録音の中で最も人を惹き付けるパフォーマンスだ。その歌詞は若い少年が信用してくれない女性に自分の成熟さを主張する物語で、マイケルのヴォーカルのアプローチはモータウンの初期の録音よりももっと大人っぽい。

◎Big Boy - The Jackson 5 


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マイケルはよく「コールド・スウェット」と「アイ・ガット・ザ・フィーリング」を歌っていたけど、あの感情は偽物じゃなかった
アイズレーブラザースの「イッツ・ユア・シング」のカヴァーでは

その伴奏トラックのかみそりのように鋭いシンバルのサウンドに調和するシンコペイションをもって発音し音を伸ばすマイケルをフィーチャーしている


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フォートップスの「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア」のジャクソン5版では、マイケルがジャーメインとヴォーカルを分け合うが、オリジナルよりゆっくりとしたテンポで歌われ、マイケルのヴォーカルはリーヴァイ・スタッブス(フォートップスのリードヴォーカル)のもっとオペラ的な解釈よりもブルースっぽい。

◎Reach Out I'll Be There - The Four Tops


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これらの録音の中でとりわけ素晴らしいのは、
レイ・チャールズの「ア・フール・フォー・ユー」のカヴァーだ。
テイラーには残念なことだったが、ベリー・ゴーディは持ち前の売れるものへの直感力によって、(中略)テイラーをジャクソン5のプロデューサーの座から外した。

テイラーの後任としてジャクソン5のスタジオ内での交通整理担当になったのは(中略)ディーク・リチャーズである。20代半ばの白人のギタリスト/ソングライターで、ハリウッドの脚本家の息子だった。

伝説的なH=D=Hチームが自分たちのレーベルを始めたので、リチャーズと共に、LAを本拠とするフランク・ウィルソン、パム・ソウヤー,R・ディーン・テイラー、ハンク・コスビーが、デトロイトのポンチャトレイン・ホテルに集められ、H=D=H退社以降の曲を幾つか作り上げた。クラン(訳者注:一族)と名付けられた緩い括りのアンサンブルは「ラブ・チャイルド」を生み出した。

◎Diana Ross & The Supremes - Love Child


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最初、その3人組はグラディス・ナイト&ザ・ピップスと仕事をし「アイ・ウォント・トゥビー・フリー」という曲を生み出した。この曲がどのように「帰って欲しいの」に発展していったかは、幾つかの少しばかり異なる物語を生んでいる。


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▲この当時から女の扱いが上手過ぎるMJ。
スリラー期のシャイさは、
ある意味女を知り過ぎていたからかもw



「メイビー・トゥモロウ」は、僕のお気に入りの70年代前半のマイケル・ジャクソンのヴォーカルだ。(中略)「メイビー・トゥモロウ」は恋愛への心からの熱望の歌で、即座にゲットーの古典となる曲だ。僕にはラジオで聴くよりも公営住宅の夜中のハウスパーティーでかかる方が良く聞こえたレコードであり、その部屋で最もセクシーな女の子とスロウダンスするときにかけるレコードである。90年代に、ラッパーのゴーストフェイス・キラーとプロデューサーのRZAが「オール・ザット・アイ・ガット・イズ・ユー」の土台として、その曲を用いた。

◎Ghostface Killah - All That I Got Is You

☆音/映像1

マイケルは50年の生涯でハリウッドが投資した映画には1本しか出演しなかったー78年の『ウィズ』だ(中略)



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▲1979年、MJ & Tatum O'Neal



スピルバーグのような映画監督がマイケルの演じられる役柄に言及したとしても、それはピーターパンやその他の日常の現実の外に彼を置く作品の登場人物としてだった(中略)マイケルのもうひとつの障害物は彼の話し声だった(中略)

それでもなお、マイケルの役者としての仕事は稀だったにもかかわらず、デトロイトでの最初のオーディション映像から死後に公開されたコンサート映画『ディス・イズ・イット』まで、彼ほどそのパフォーマーとしての人生の、あれだけの詳細な記録が映画、ヴィデオ、最後にハイディフィニションで残されたエンターティナーはほとんどいない。

☆ニューヨーク、ニューヨーク

スタジオ54は快楽主義の見ものだった(中略)スタジオ54でマイケル・ジャクソンがドラッグやセックスにふけっていた記録はないとしても、彼は間違いなくニューヨークのディスコ文化をそのきらびやかな影響の最盛期に目撃した。


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70年代後半のニューヨークのサウンドトラックだったサウンドと感性の独特の融合を定義したのは、ラジオ局WBLSとそこのプログラム・ディレクター/スーパースターDJのフランキー・“ハリウッド”・クロッカーだった。(中略)クロッカーの音楽のミックスは優雅で耳あたり良く、洗練されていて、そして最も重要なことには肌の色を問わなかった。

彼は黒人聴衆の関心をユーロ・ディスコに向けさせたし、ドナ・サマーの「愛の誘惑(ラブ・トゥ・ラブ・ユー・ベイビー)」や素晴らしいオルタナ・ダンス・バンドのドクター・バザーズ・オリジナル・サヴァンナ・バンド他多くの人たちをヒットさせた。

◎Donna Summer - Love To Love You Baby(1975)  
◎Dr. Buzzard's Original Savannah Band - Cherchez La Femme


ディスコの影響力はニューヨークのヒップな人たちだけに限っていなかった。映画館でもクールじゃないAMのトップ40局でも。それらの場所ではビージーズが支配していた。



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▲1980年の“American Music Awards”ドナ・サマーとMJ


☆音/映像2

マイケルのマイクの持ち方、スピンするときの上半身の保ち方、マイクを持っていない方の手を使ってのジェスチャー、踊っているときに頭を傾かせて身体の各部を分離させるやり方、これらのMJの動きのすべてに少量のウィルソン(ジャッキー・ウィルソン)がある

マイケルのヴォーカルの音域と「ホーッ」サウンドはブラウンのざらざらな唸り声よりもウィルソンの高いテナーとしゃっくりのような歌い方のずっと似て聞こえる。

☆黒人のハリウッド

70年代の初めにベリー・ゴーディがモータウンの操業をデトロイトからロスアンジェルズに移したとき、彼はジャクソン5を養成する以上のことをした。彼は黒人ポップの地理的バランスを変えた(中略)


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1981年のThe Diana Ross Special Show



LAとニューヨークは常に重要な目的地だったが、モータウンの西への移動は(中略)大志を抱くアーティストたちは(中略)どちらかの都市に行かねばならないという結果を生じさせた。この移動は他のふたつの黒人ポップ現象と時を同じくしていた。ひとつはブラックスプロイテーション映画、もうひとつはドン・コーネリアスの『ソウル・トレイン』

このダンス番組は黒人のアーティスト、スタイル、ダンスを定期的に全国に紹介し、同時期にはハリウッド・エリートの通う私立学校と公立学校への黒人の少年少女の流入があった(中略)

ジャクソン兄弟の仲間のうちの一部となった若者の一人がジョン・マクレインである。彼は痩せたハンサムな若者で、母親がジャズピアニストのシャーリー・スコットで父親はLA周辺で葬儀社チェーンを所有していた。マクレインはジャクソンズが子供のポップ・バンドから若者のバンドに進化していった年月に彼らとつきあっていた(中略)


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1981年の“Annual Academy Awards”



マクレインは80年代前半にA&MレコードにA&Rの重役として加わり、16歳だったジャネットとレコード契約を交わした。

僕がジョンと会ったのはその頃で、その直後に彼はジャクソン家の末娘を、ジミー・ジャム&テリー・ルイスと組ませて、ジャクソン家の2人目のスーパースターを作り出す。

80年代半ばにさかのぼると、ジョンは黒人音楽界で姿を現してきたばかりの人物で、僕の親友のようなものだった(中略)LAコミュニティの価値観はニューヨークで僕が知っているそれらとはとても異なっていた(中略)サンセット・ストリップの2階建てのナイトクラブ、カルロス&チャーリーズやハリウッド・ヒルズでの盛り上がっているパーティーでは(中略)激しいファンクよりもスタジオで磨かれた完璧さを褒め讃えるR&B美学を作り出した。

幾つかの例外(トータル・エクスペリエンス・レコード所属のギャップバンド、サウンド・オブ・ロス・アンジェルズ・レコードでのリーオン・シルヴァーズのプロダクションの一部)はあったが、黒人ポップの80年代前半サウンドをブッカーT&MGズと間違える人は誰もいなかった。

◎Booker T & MG's ~ Green Onione


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☆例外の方↓


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1981年、Chris Walter 撮影



☆リーオン・シルヴァーズのプロダクション(Leon Sylvers III Production)
Leon Sylversが居たThe Sylversは、ウエスト・コーストのジャクソン5と言われたグループ。その後、作曲家、プロデューサーとしても大活躍した。



☆Leon Sylvers III Productionのヒット曲(MJファンにはおなじみのシャラマーも!!!)



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1983年、Victory Tour Press Conference



(80年代前半の黒人ポップの)変化に貢献したのは、コンピューターテクノロジーの使用の増大だった。アース・ウィンド・&ファイア、キャメオ、コン・ファンク・シャンといったバンドはどれもホーン・セクションと数個のパーカッション楽器を売り物にしていたが、人間の奏者をシンセサイザーやドラムマシーンに取り替えた。

◎Cameo - Shake Your Pants
◎Con Funk Shun - Ffun
◎Con Funk Shun - Too Tight


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この社会的及び音楽的コンテクストの中で、79年の『オフ・ザ・ウォール』で始まるマイケル・ジャクソンとクインシー・ジョーンズの共同作業はミュージシャンとしての彼の作品にとってと同じくらいにハリウッドでの有力な業界人としての成長にも重要だった。


2009年のMJの旅立ち後から始まり『スリラー』以前の音楽・文化事情を記した「第1部」のメモは、とりあえず、これで終了。

「スリラー/ネルソン・ジョージ(著)、五十嵐正 (翻訳)《2》」につづく

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by yomodalite | 2010-12-28 14:00 | ☆マイケルジャクソン書籍 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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