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ウィラとヴォーゲルの会話への感想。。

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先日紹介したウィラとヴォーゲルの会話(Boy, is that Girl with You?)で、引用されていた本が面白くて、ふたりの会話について、chiidspirits先生とおしゃべりしてみました。


* * *


Y:いつもは、私がリクエストしてばっかりなんだけど、この記事は、childspirits先生の方からオススメしてもらったんだよね。最初に興味深いと感じたのはどういった部分だったのかな?



C:うん、この曲とショートフィルムが、人種の壁をぶち破る、というマイケルの意思表明だということは、タイトルからすぐわかるんだけど、、それ以上の要素がいっぱい詰まっているということを考えさせてくれる記事で、みんなでシェアしたいなと思ったのね。


たとえば、ショートフィルムのブロローグ部分が、白人家庭の孤立と機能不全、特に父と息子のそれを描いているとか、人種だけではなくジェンダーの壁を破ろうとするメッセージが込められていたんだとか。私たちのよく知らないアメリカの社会的背景とか、そういう見方もあるのかぁ、と思わせてくれる記事だったから。このサイトの記事はどれもそうなんだけどね。


あと、ラルフ・エリソンとかジェイムズ・ボールドウィンなどの作家の名前が、MJとの関連から出てきたことにも興味をひかれた。考えてみると彼らは文学の世界で、人種を越えたファン層を獲得し、議論を巻き起こした、いわばMJの先達なんだよね。「MJと文学」という観点は、自分には興味深くて、多くの人にも知ってもらいたいような気がしたのね。それと、もうひとつ、去年から頻発している黒人青年と白人警察官の事件がボルティモアで暴発したということもあって、この歌でMJが提起した問題は、まったく今日的なことなんだなぁと、改めて思ったので。



Y:この文章からは、マイケルが「人種の壁を突破した」とか「黒人として初めて、、」と言われていることが、実際にどれほどの偉業だったかについて、あらためて理解できるよね。ただ、当時の日本のファンは、MJのことを黒人という意識では見ていなかったし、彼が登場した80年代以降、日本のお茶の間にまで浸透したアメリカのスターは黒人の方が多かったという印象もあって、人種差別は、切実な問題として考えられなかったんだよね。



C : 彼らの活躍を目の当たりにすれば、アメリカの人種問題の深刻さや残酷さを感じることは少なかったかもしれないよね。


でも、かつては日本でも、結構アメリカの黒人が抱える問題を意識してたんじゃないかと思う。文学の話で言うと、1961年から68年にかけて、立派な黒人文学全集刊行されて、この中にはラルフ・エリソンやボールドウィンや、彼らの先輩であるリチャード・ライトも取り上げられている。そういう全集が編まれたってことは、需要があったんだよね。それに私が中学校の頃、音楽の教科書には「オールド・ブラック・ジョー」ものっていたし、「アンクルトムの小屋」の話も、小説全部読んだことはなくても、あらすじくらいは知ってる人が多かった。でも、今の若い人にはどちらも全くと言っていいほど、なじみがないみたい。先に挙げたボルティモアの暴動についての新聞記事を大学の授業で読む場合、かなり予習が必要な感じがするもの。



Y:その頃、黒人文学とか、人種差別について熱心だったっていうのは、“人権” について考えることが日本が近代国家になるために重要だっていう認識が教育現場にあったからじゃないかな。日本が貧しくても、上を見ていられた時代には、差別に打ち勝ってきた黒人たちへの共感があったんだと思う。


でも、日本人としてのプライドが揺らぎ始めた昨今では、日本礼賛みたいな教育の方が重要みたいで。。当時はよくわからなかったけど、最近の嫌韓・反中といった恥ずかしいブームを経験して、ようやく、今だに絶えない黒人差別がどういうことだったか、少しわかったような気がするよね。要するに今まで下に見ていたものが、そうとはいえなくなったとき、差別感情は、前よりももっと激しくなるということが。。



C : うん、人権についての関心は、上っていくべき目標がはっきりしていた、精神的なゆとりがあったからというのは、本当にそうだと思う。敗戦後、とにかくアメリカについて何でも知らねば、という機運もあったのだろうしね。かつてアメリカで、黒人に対してもっとも差別意識や憎悪をあからさまにしたのは、レッドネックと呼ばれるような貧困層の白人で、それはある意味分かりやすい構図だったのかもしれない。でも黒人の地位が上がり、大成功して何もかも手に入れているように見える黒人が現れてくると、既得権益をおびやかされる白人の層はかつてとは違ってくるわけで、差別や嫌悪の現れ方も違ってくる。


それは、日本で今起きている差別問題からも感じることだけど、私たちは、結局、アメリカの人種差別から大して学んでおらず、安全なところから黒人に対して勝手な共感を抱いたり、同情していただけだったのでは、と思わされるね。



Y:貧困層から始まった差別感情が、中間層の落ち込みにともなって、拡大していくという構図は、アメリカも日本もまったく同じで、その感情は黒人だけでなく、ユダヤ人感情にも見られるものだよね。


ただ、日本人が、黒人差別がわからないのは、異人種が少ない島国だからという部分もあるけど、ヨーロッパには、いっぱい黒人がいるのに、これほど差別が激しく、差別を根底にした暴行事件が多発しているのは、アメリカだけなんだよね。そういう意味では、ウィラは、「人種というのは、生物学的事実ではなく文化的なコンセプトによって生じるもの」だと言っているけど、私は、それを世界で最も受け入れないことが “アメリカ文化” だと言えるんじゃないかと思う。少し皮肉めいた言い方をしちゃうけど、アメリカのアカデミーで「人種問題」というのは、いつの時代もトレンドであって論文にしやすいんだなぁ、と。



C : ウィラの「人種というのは・・・」という発言は、現実の「アメリカ文化」がそれとは正反対だからこそ、特に意味を持つわけだよね。



Y:それで、そのことと少し関係があると思うんだけど、ロバート・ブライの『アイアン・ジョンの魂』が取り上げられてたでしょう。私たちふたりとも、その本を知らなくて、あわてて読んでみたわけなんだけど、訳してるときに想像してた内容とは印象が違ってて、それについても少し驚いたよね?


◎アイアン・ジョンの魂(単行本)

◎グリム童話の正しい読み方―『鉄のハンス』が教える生き方の処方箋 (文庫)



C:てっきり、マッチョな男性像や、家父長的な強い父親を取り戻そう、みたいなメッセージかと思ったら、のっけから全然違っていて、すごく意外だった。でも、調べてみたらブライという人は、シュールレアリストとしてスタートし、芭蕉や一茶の翻訳もしてるし、戦争や自然についての優れた作品もあり、異文化や歴史について広く深い関心を持った詩人なのよね。単純にマッチョの回復なんか提唱するするばずはないんだね。やっぱりちゃんと、原典にあたるの大事だなぁと、またもや実感。MJに関わってると、それをくりかえし諭されるように思うのだけれど、すぐ忘れちゃって・・・ベストセラーに対する偏見(笑)も悪い癖です。



Y:ホント実際読んでみてよかったよね。これはグリム童話の『鉄のハンス』(米国ではアイアン・ジョンとして知られている)の物語の解釈から、人生を探求する物語なんだけど、神話やおとぎ話やフロイトの理論について、自分の成長に繋げて考えるのではなく、世の現象や、他者への分析にカンタンに解答を出すための手段としか考えていないような人が書いたものとは一線を画す内容で、


「大変な時代を生きることになった。今まで通用してきた “男らしさ” なんてものがヨレヨレに擦り切れて、使い物にならない時代になってしまった」


ってところから始まる。ヴォーゲルは、この本について、「それがすべての男性に通じる普遍的なメッセージで “男らしさの危機” に対するオールマイティな処方箋だと思ってる」ところが問題だと言っているけど、


ブライが90年代に投げかけた問題というのは、むしろ、誰にでも有効な処方箋なんてないにも関わらず、正しさを世界中に押し付けたり、あるいは、様々な考え方を “調和させて” 、ひとつの正しさをつくることに熱中するあまり、古いものや、伝統から学ぶことが出来なくなっていること、それが、90年代のアメリカの病理の原因のひとつだと指摘しているところじゃない。


「鳥たちは、裸の木にどうやって巣をつくるのか、渡り鳥はどうやって越冬の地に飛んでいくのか、そういった情報は、本能の中枢に溜め込んで子々孫々へと伝えられていくわけだが、それでは人間たちはどうしてきたのだろう。新しい状況に対応していくために、たくさんの選択肢が必要であることを知って、そのための情報を、本能以外のところに蓄えることにしてきたのである。それが、おとぎ話であり、伝説や神話や昔話なのである。(...)この分野では、近世さまざまな人物が傑出した研究をしている。ジョージ・グロデック(*1)、グルジェフ、カール・ユング、ハインリッヒ・ジンマー、ジョーゼフ・キャンベル(*2)、ジョルジュ・デュメジルなどがあげられる。おとぎ話の世界に、私の目をひらかせてくれた先生は、マリー=ルイズ・フォン・フランツで、彼女のたくさんの著書の中で、女の物語に真摯に取り組んだように、私は男の物語について、忠実に追求してみたいと思っている」


というような記述からも、単純な「男性回帰運動」のようなものではないことがわかると思うし、ウィラが、「郊外で肘掛け椅子に座ってた父親がアフリカに吹き飛ばされて、マイケルジャクソンが部族の男性たちと踊る」という部分が、ブライのメッセージをそのまま表したシーンだと言っている意味も、少し想像できると思う。ただ、次に「インドの女性や、ロシアの男性グループとも踊る」ことが、ブライのメッセージとはかけ離れているかどうかは微妙かなぁ。



C : 私も、神話やおとぎ話やそれを分析する心理学の要素をふんだんに盛り込んで説明してくれている彼のメッセージと、マイケルがやろうとしていたことの間には、それほどギャップがあるとは思えなかったなぁ。「“男らしさの危機” に対するオールマイティな処方箋だと思ってる」のは、本の内容を受け取る側の問題であって、ブライが提起した「90年代のアメリカの病理」は、マイケルが『ブラック・オア・ホワイト』で突きつけようとしたものの中にもあって、それは、今に至るまで解決されてないと思う。



Y:この本を読んでいたら、以前、MJが子供たちのために書いたホラーストーリーのことを思い出して、このとき、MJは「通過儀礼」の重要さをわかってる人なんだなぁと思ったんだけど、ブライの考え方は、父親としてのMJの考え方と割と近い感じがしたよね。


◎[関連記事]Michael's Horror Story



C:マイケル、こんなホラーストーリー書いてたんだ。このメモに、昔話に出てくる「通過儀礼」の要素があるというのは、「アイアン・ジョン」を読んだあとだと、よくわかるね。MJは神話や心理学についてもすごく本を読んでるし、考えてもいたものね。子育てしているときのMJについては、子供を抱いたり世話をしたりという、ちょっと母性を感じさせるような文章や画像も多いんだけど、じつは彼は父として、ブライの言う「ワイルド・マン」の要素もすごく大事に思っていたんじゃない。それに、周りいた少年たち(フランク・カシオ含め)や若いアーティストたちへの接し方を見ると、MJは、若者たちが「ワイルド・マン」に出会う助けをする年長者(この本の訳では「年寄り」だけど)の役目を果たそうとしていたようにも見える。この本にある、子供と黄金のマリの話(7章)なんかも、MJが子供について言っていることと、すごく共通点があるし、体や心に受けた傷によって「ジーニアス」を発見していく(8章)、なんていうところも印象的だった。



Y:最初に「僕はシーツなんか恐くない:『ブラック・オア・ホワイト』における黒人の男らしさ再考」というヴォーゲルの論文のタイトルを見たとき、これがマイケルの「男らしさ」について論じられたものだということに、あんまりピンと来なかったのね。というのも、MJといえば「ピーターパン」で、大人になりたくない、いつまでも少年でいたい若者の代表で、黒人社会の中でも、ネイション・イスラムのルイス・ファラカンとか、“男らしくない” MJは、黒人の若者に悪影響を与えるみたいなことを言ってたでしょう。MJはこれまで「男らしくなくてもいい」というアイコンだったと思うんだよね。


でも、MJと同世代のスパイク・リーは『ブラック・オア・ホワイト』に共感して、ネイション・オブ・イスラムの呼びかけによるミリオンマーチに参加する予定だった人々を “別の場所” へと連れていく『ゲット・オン・ザ・バス』という映画を作り、同じ年(1996)に『ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス』のショート・フィルムも撮っている。これらの作品は、従来のような人権運動家による黒人の権利の獲得や、ブラックパワーのような黒人礼賛ではなく、人種を超えた連帯を表現したものだった。


◎[関連記事]マイケルとスパイク・リー



C:両方の作品とも、より高い次元を目指して若者を導いていく、男性の姿があるよね。「ピーターパン・シンドローム」という言葉のおかげで、ピーター・パンといえば、「大人になりたくない」部分ばかり強調され、MJが自分をたとえて言った意味も、かなり狭められて伝わっているけど、ブライの本では、飛翔し続ける若者、という意味で論じられているんだよね。



Y:ブライの本は1990年に出版されたものだから、『ブラック・オア・ホワイト』についての記述はないけど、マイケルが登場する箇所はあるんだよね。それは第4章の「父親不在の時代における王への飢餓」という章なんだけど、


「誰でも “王” と一緒にいられたらなぁと思う。若い女の子たちのあの熱狂ぶりはどうだ。「キング」と呼ばれたエルヴィス、最近では「プリンス」を目にした時のあの興奮ぶり、ディヴィッド・レターマンの家に絶えず押しかける女性たち。チャールズ皇太子の部屋からナプキンを盗んだり、マイケル・ジャクソンの家の外でキャンプをしたり、、、みんなが「王」の前にいたがる。ダライ・ラマは多くの人たちのために「王」の役を演じている。場合によっては、彼は法王の座さえ揺るがしかねない。父親に対する飢餓感は、王に対する飢餓感に形を変える…」


MJが「KING OF POP」という称号を大事に思って、本当に素晴らしい “王” になるためにどれだけ多くの努力していたか。それはポップミュージック界の王様というだけでなく、「人民のための王」という意味まで含まれていたよね。


マイケルとの繋がりを感じてしまう箇所は他にもいっぱいあるんだけど、第7章「赤、白、黒毛の馬にのること」の中から要約して引用すると、


「ヨーロッパのおとぎ話を調べれば、赤、白、黒の3色にこだわっているのがわかる。しかも、この3色には、ある順序が見られる。(...)白は、新月の聖母マリア、赤は満月の母親気質、最後の黒は、旧月の老婆。(...)若い女が、純潔の白から始まるのなら、少年は赤から始まる。(...)若者たちは、炎のように燃え、戦い、赤を見ては難題にぶつかるように鼓舞される。(...)


中世では、アイアン・ジョンの順序に、大いなる注意が払われていた。パルジファルの冒険談はその一例で、ここには赤騎士から白騎士へ、そして黒騎士へと、物語の展開がある。赤騎士時代に、どんなに多くの反社会的な行為に耽ることか!でも、赤を経ないでは、白には到達できないのである。でも、現代はそうはいかない。私たちは義務教育によって、子供を直接「白騎士」へと仕立てようとしている。(...)


私たちアメリカの、白騎士の段階には、どんな危険性が考えられるか。この白騎士は、赤の段階を通ってきていないため、耐えられなくなることが多いんだなぁ。そして悪しき赤を、インディアンや、共産主義者や、言うことをきかない女たちや、黒人たちに投影している。(...)レンブラントの絵は、彼が年をとっていくにつれて、周縁部の方がだんだん暗くなっている。黒の段階にいる人は、通常、他人を非難しなくなる。(...)ユーモアは、黒の段階になると生まれる」



こういった色の感覚についても、MJはすごく取り入れていたし、彼が『ブラック・オア・ホワイト』のとき、すでにユーモアを身につけるという黒の段階にあったことは、記事の中で紹介したメイキング動画でも感じられるけど、「I’m not going to spend my life being a color(僕は生涯、有色人種と呼ばれて生きる気はない)」というラップを、自分や黒人ラッパーではなく、制作者のひとりであるボットレルにやらせたのは、彼がラッパーではなく、しかも白人だったから。というエピソードなんかも、そういった事実を強化する話だよね。


◎[参考記事]http://7mjj.blog.fc2.com/blog-entry-194.html



もう少し、要約引用を続けると、


「私たちが『アイアン・ジョン』の物語から得られるものは、ほかでもない、若い男性が赤の強烈さから、白の交戦へ、そして黒の人間性にまで進んでいくという考え方ではないだろうか。(...)


聖職者たちは、赤の段階を飛び越えたたえに、自分を白の段階に強制的につなぎとめておかなくてはならない。政治家は、現実には正体不明の色である間も、白を装わなくてはならない。


人が黒へと動いていくとき、その段階で、影の材料すべてがあらわになってくる。それは、長いあいだ、悪玉の男や女たちや、共産主義者や、魔女や、圧政者の顔面に、内なる黒として投影されていたものだ。だから、この過程は、影を取り戻し、食べることだ、と言っていいと思う。ロバート・フロスト(*3)は、自分の影をたくさん食べた。だから彼は偉大なのだ。


黒へと進む男は、「道ある限り歩く」必要がある。黒に入っていくには、長い時間がかかる。男が投げ捨ててしまった、彼自身の暗い部分を見出す前に、どのくらいの年月が過ぎていくのだろう?彼がその部分を発見し、とっさにその瞬間、彼の黄金の髪が肩にはらりと落ち、すべての男たちは、彼の正体を知るところとなるーー」



で、、この文章は、「だが、それは次の物語である」で終わり、次章は、第8章「王の家臣から受けた傷」で、そこには、さまざまな “傷” についての話と、トリックスターの話も登場するんだけど、、2000年以降のマイケルの変化を語るうえで、ここに書かれてあることは重要だよね。社会が何を忘れていたのか。を思い出させてくれるし、MJがおとぎ話の重要性について語っていたことが、“子供らしさを失わないこと” ということだけではなかったこと。そして、マイケルが “子供らしさを失わないこと” を、あれほど語っていながら、父親として子供に良い教育ができた秘密についてもね。



C:そう。対談では、ブライのメッセージをかなり限定した形で引用したきらいもあるんだよね。それは、当時の一般的な理解のされ方がそうだった、ということなのかも知れないけど。とにかく本全体からは、マイケルが伝えようとしたこととの共通点がたくさん含まれていると思う。それは、最近あったボルティモアの抗議運動で『ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス』が使われ、そして、その抗議行動の中で起こった暴動を抑えたのも、MJの『ビート・イット』だったという事実にもよく表れていると思う。



今回ウィラたちの対談を訳したことは、始めに述べたような意味ですごく勉強になったんだけど、でもいちばん勉強になったのは、このブライの本を読んだことかなぁ。この本を丸ごと肯定するとかじゃないけど、マイケルのことや、自分のことを、いままで出来なかった角度から考え直すヒントを、いっぱい与えてくれそうな気がするもの。それと、ここには西洋の思想教養をもとにした分析があるけれど、私たちの先祖にはどういう神話や民話があり、それがどう通過儀礼と結びついていたか、などもさかのぼりたくなったなぁ。



Y:同感!ブライがこの本で語っている男性の段階について、マイケルは、すごく自覚的にその段階すべてを経験しようとして、「道ある限り歩き続けた」と思う。私たち、最終的にいつもこの結論に達しちゃうんだけど、またもや、「マイケルにはすべてがある」って思っちゃった。


未だに、MJについて、輝かしい成功を納めたものの、度重なる整形や、晩年は奇行が目立ち、、というような “物語” だと思っている人は、ただ、年をとったり、デカいだけのおバカな “お子ちゃま” で、「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪である」とか言った男は、青年期の成功から一歩も成長できなかったんだなぁなんてことも、よくわかったしね(笑)



C:「黒」に至るかどうかは、年齢に関係ないんだよね。



Y:マイケルのメッセージというのは、あらゆる考えの人々が利用したくなるほど、とても、ひとりの人間のメッセージとは思えないぐらい、「他者」を取り込んでいるんだよね。 

 

こうなると、ますますウィラが感動したという、ヴォーゲルがブライを引用して、MJの男らしさについて書いた論文も読んでみたくなるよね。childspirits先生!(笑)



C:英文読むのが遅い私に新たなが苦難が…。でも、いままでの経験からすると、MJに導かれてやることに、ハズレはないからなぁ。



Y:ブライは、第8章「王の家臣から受けた傷」の中で、「教師やセラピストたちは、自分の中に強力な料理人や、神話学者、あるいは魔術師を持っていることが多い。けれども、もし教師がワイルド・マンやワイルド・ウーマンを育てなかったなら、その人は私たちが「学者屋」と呼ぶだけのヘンテコな存在になってしまう。。」など、しばしば “学者屋” に対しての批判をしているんだけど、、ヴォーゲル、だいじょうぶかなぁ?(笑)



C : それ、私にとってもドキッとする言葉。やっぱり、読んでみなくちゃね!



《註》_________



(*1)ジョージ・グロデック/日本の著書ではゲオルグ・グロデック。精神分析者としてこのエスの概念を最初に提唱した。フロイトはグロデックからこの概念を借りている。著書『エスとの対話』『エスの本』など。



(*2)ジョーゼフ・キャンベル/『スターウォーズ』にも影響を与えたと言われる『千の顔をもつ英雄』で神話の基本構造を論じ、神話学の巨匠となる(ただし翻訳本はものすごく読みにくい)。死後に出版された『神話の力』は、ジャーナリストのビル・モイヤーズとの対談集で読みやすくおすすめです。



(*3)ロバート・フロスト/自伝『ムーン・ウォーク』の中で、マイケルもフロストを引用しています。

There are so many things all around us to be thankful for. Wasn't it Robert Frost who wrote about the world a person can see in a leaf? I think that's true. That's what I love about being with kids.

僕たちの周囲には感謝することがあふれてる。1枚の葉の中に世界を見ることができるって書いたのは、ロバート・フロストだったっけ?それは本当だと思う。僕が子どもたちと一緒にいるのが好きなのも、そういうことなんだ。(←この日本語は私訳。Chapter 6「愛こそはすべて」P287)

フロストのどの詩のことなのかはよくわからないのですが、、
こんな有名な詩があります

“Nothing Gold Can Stay”


Nature's first green is gold,

Her hardest hue to hold.

Her early leaf's a flower;

But only so an hour.

Then leaf subsides to leaf,

So Eden sank to grief,

So dawn goes down to day

Nothing gold can stay.


--- Robert Frost




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by yomodalite | 2015-05-17 22:30 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

『MJ Tapes』の翻訳について[4]序章を終えて

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☆『MJ Tapes』の翻訳について[3]の続き

yomodaliteと、childspirits先生とのおしゃべりの続きです。



C:「すんなり納得できるパターン」っていうのは、MJの事に限らず、私たちが日々インプットしたりアウトプットしたりする言葉が陥りやすい罠だね。そういう意味で、『MJTapes』も他のMJ本とは一線を画していて、同時に、一線を画した批判のされ方もしたんだね。そのこともMJに出会ってすごく考えさせられた。


彼の事があるまでは、誰かの熱烈なファンになったことはなくて、「ファンの愛」というものを遠巻きに見ていたけど、MJの死後に「彼は誰かに殺された」という疑惑がいろんなパターンで出てきたとき、そちらに引っ張られたこともあったのね。急激に彼を好きになった分、彼の死を理不尽な悲劇とのみ捉え、彼をかわいそうな被害者と考え、「死に追いやった悪者」を突き止めて、「懲らしめねば」、みたいな気持ちにね。そんなことは自分にできることではないし、できたとしても、死後のMJにどんないいことがあるのかわからなかったけど。たぶん、悲劇の人というイメージにあうプロットを探して、大好きなMJのために何かをしている自分を感じたかったのかなぁ。だから、「すんなり納得できるパターン」と「プロット」の話は、人ごとではないかな。



Y:推理小説って、まさにプロットでできてるストーリーだからね。別に殺さなくてもいいようなことでも、殺す。ストーリーのためにw。MJのようなメガスターが「殺されるかもしれない」という想像は、生前から人々の中にあって、実際に「殺されたのかもしれない」という疑惑は、真剣に検証されなくてはならないし、その可能性を全否定するつもりはないんだけど、ただ、その論者のひとたちは、私が見た限り、全員その動機を「お金」に絞ってるよね。


それなのに、「お金のために殺された」と主張してるサイトは、どこも、お金のことがわかってるとは思えないんだよね、残念なことに。彼らが「確信」しているのは、世の中は強欲な人でがあふれていて、そういった人々が共謀している「不公平な社会」だということだと思うのね。そこは私も共感しなくはないけど、「強欲」から「殺人」へのプロットが弱くて、MJのお金の流れについて、比較的細かく説明してくれているところの情報を読んでいると、MJが亡くなった場合と、生きていた場合と比較して、確実に前者の方が儲かる立場を確保するのは、かなり難しいと思ったのね。利益を得るためには、まず借金の返済をしなきゃいけないわけだけど、この収支をプラスにもっていけるかどうかは、MJブランドが回復した現在から考えても不確定でリスクが大きすぎると思う。



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チャンドラーやアルビーゾがやったことを思い出すと、MJがリスクが大きくても「お金のため」という考えの犠牲になったことは間違いないんだけど、殺人に関しては、疑惑は理解できるけど、具体的に納得できるプロットには出会わなかったし、私にも出来ない。


だって、実際に調査したわけでもないのに、想像だけで人を判断するなんて、まさにMJがされたことと同じじゃない?


チャンドラーや、アルビーゾはお金のためだけかもしれないけど、メディアが、MJを利用できたのは、そこに様々な人の「正義感」や「ジャッジ」があったからでしょう?


でも、私たちには、殺人疑惑に決着をつけることはできないけど、MJが旅立つ前の美しい姿は、この眼ではっきり見たじゃない。それが、仮にものすごくいい状態を繋ぎ合わせたものだったとしても、あれだけたくさんの奇跡のような瞬間があるってことは、それまでの生活の賜物で、「1クールのレギュラーより、1回の伝説」(by 江頭 2:50)に重きをおいていたってことでしょ(笑)。



C:さすがエガちゃん、いつでも捨て身の芸人(笑)、いいこと言うわ。「すんなり納得できるパターン」についてしつこく言うようだけどね、自分という人間をみれば、そこには正と邪、強と弱、清と濁、いろいろな要素が渦巻いていて、本当にやっかいだと思わされる。それなのに、いやそれだからか、他人には、特にアイコンと呼ばれるような人に対しては、片方を拾って、もう片方を忘れてしまうことを極端にやっちゃいがちだよね。「やっかいさ」から逃げ出して、自分なりにスキッとするストーリーを、相手に見出すっていうね。幼い頃からスポットライトの下に生きたMJは、世の人のそういう欲求を十分わかってて、それを受け入れていた気がするな。


“I just can't stop loving you” の語りで’people don’t understand me(みんな僕のことをわかってない)’とささやきながら、“Give into Me” では’don’t try to understand me(僕のことをわかろうとするな)’と歌い、“Is It Scary?” で’I’m gonna be exactly what you wanna see(僕はあなたたちが見たいと思うものになってみせる)’と言ってるでしょ。2000年の時点で既にメディアや世間からひどい目に遭っているわけで、『MJTapes』の中には、MJの悲痛な叫びも多いんだけど、一方で彼は、神や世間に対して「怒っていない」とも言うんだよね。



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Y:実際に怒ってたこともあったけど… (いわゆるソニーウォーズはこの会話の直後ぐらい。その話はまた後で)MJの捨て身の覚悟が「社会的正義」じゃないことは確かだよね。彼の作品は大抵の場合、自分の気持ちを直接表現しているんじゃなくて、様々な人の視点が取り込まれているし、怒りすらも作品として昇華させた。人々が踊ったり、辛いことが忘れられたり、癒されたり、、そういうことがエンターテイメントの尊い仕事だと信じて。


シュムリーは「どうして、自分だったのだろう」なんて、何度も考えてるけど、MJは、ラビであるシュムリーにも、政治的な正しさより、人の心を癒すことが大事なんじゃないかって言いたかったんじゃない? それなのに、このヒゲメンはw、自分のことをMJのカウンセラーだったと勘違いしてるわ、「オックスフォード・スピーチ」だって自分が原稿を書いたって言ってるけど、シュムリーが許さなくてはならないとわかってるのは、聖書に敬えって書いてある「自分の父親」のことだけなんだよね。だから、実際にMJの口を通したものとはちがう。


MJは自身の怒りを告発してもいい立場だったにも関わらず、「許さなくては」とスピーチしたんだから。エリ・ヴィーゼルや、シモン・ペレスもいた“Heal the Kids”のボードメンバーたちの中で。


シュムリーが処方薬についてウルサくいったことは、MJのためを思って言っていたことだと思うけど、じゃあ、MJがシュムリーのためを思って言っていたことを、彼が真剣に聞いていたかといえば、この本でも明らかなように、そうじゃないじゃない。シュムリーは、MJがこどもたちを残して…ってことに怒りを感じてるみたいだけど、そんな彼に一番キツい反論をするとしたら、


あなたは、自分のこどもたちの世代には、自分と同じような差別にあって欲しくない。そんな思いから、貧しいひとを助け、自分が同胞だと信じるユダヤの仲間が被った境遇に寄り添い、「世界に類のない唯一無二の民族的虐殺」であるとアナウンスする役目も積極的に行なった。


でも、あなたが「ホロコースト」を唯一無二だと信じ、イスラエルの暴走を許したせいで、罪のないこどもたちも大勢犠牲になった。ユダヤへの恨みは、キリスト教社会から、現代のイスラム社会へと拡大し、今、あなたの子どもや、これから生まれるユダヤ人の子どもたちは、あなたが受けた差別よりももっと強い恨みを受けつつある。あなたが、不当な差別を受けた人々ができる唯一の方法は「彼らをこの世界から追い出すことだけだ」と信じたばかりに。


マイケルの子どもたちは、父親の死によって、大変な苦痛を経験した後も、口さがない人々のせいで、今も辛い目にあることもしばしばだと思う。でも、あなたの子供より不幸せかどうかは誰にもわからない。ってことじゃないかな。



C:そこは大きく肯きたい。ただ、yomodaliteさんが、キツい反論しちゃったから、なんだかシュムリーのこと庇いたくなってきちゃったんだけどw、私がもしシュムリーの奥さんだったら、彼が「やっぱり間違ってた。MJの言う通りだ」って言って家に帰ってきたら、受け入れられてたかなぁとも思うよね。おそらくそんなことをしたら、もう大学にも戻ることも出来ないし、身に覚えのないことで逮捕されるとか酷い仕打ちにあるかもしれないし、9人の子どもを抱えて、これからどうやって生活するつもり?って言っちゃうかもね。



Y:だよね。シュムリーへの批判を考えてると、速攻ブーメランなんだよね。



C:私たちは、MJのことが好きだから、彼の側に立って考えてるつもりだけど、ここでの会話をよく聴いてみると、自分の中にも「シュムリー」がいるんじゃないかと思うよね。



Y:私たちがいる世界では、愛はすぐ憎しみに変わるし、正義はいつも暴走する。だから、MJは「僕は憎しみは絶対に教えない」と言い、「僕は正義は信じていない」と言ったんだよね。



C:世界で一番有名なポップスターとして、彼は「実像」を理解してもらうことよりも、皆の「虚像」であることを引き受けようとしたようにみえる。その覚悟はすごくて、そのことこそがMJの比類のなさだという気もするんだけど。ただ、世間は、そして私たちは、MJのその覚悟の大きさに甘えて、いろんなプロットが暴走した感があるよね。



Y:MJに関して、さまざまな噂が暴走した原因については、今は、メディアの罪についてばかり語られるんだけど、当時のMJの変化について、理解できていたなんていう人は、本当に少なかったと思う。


それでね、マイケル自身が「MJストーリー」のプロットをどう考えていたかってことなんだけど、、


☆この続きは、いつかまた。。


今、ふと思ったんだけど、、

MJがヒゲメンだったときは、シュムリーとの蜜月期だったんだなぁ。。





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by yomodalite | 2014-11-29 01:03 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

『MJ Tapes』の翻訳について[3]序章を終えて

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Photo : Angel Ball 2000


いつになったら終わるの!と、みなさんをイライラさせていた、シュムリーの1人しゃべりもようやく終わり、ついにMJとの会話が始まったわけですが、ここまでのストレスとか、今後のことも踏まえて、またまた、childspirits先生とおしゃべりしてみました。


《前回のおしゃべり》

最初、childspirits先生も、シュムリーへの不満を爆発させまくってやると勢いこんでいたんですけど、なんだかんだ、yomodaliteがいっぱいしゃべってます(てへへ)

☆ ☆ ☆


yomodalite(以下Y):序章、長かったよねーーー(しみじみ。。)あのヒゲメンwのしゃべりが長過ぎるせいで、「公開のお知らせ」から「まえがき」、前回の「おしゃべり」や、注釈と、言いわけするのに必死になって、しわは増え、老眼が進み、肌荒れ、腰痛、体重増加に、各種更年期障害の悪化と、自分たちで始めたこととはいえ、お互い散々な目にあってるわけだけど、なんかいいことってあった?(笑)ホント覚悟を決めていたつもりだったのに、モヤモヤしたり、読んでくれている人の笑顔が想像できなくて、胃が痛くなったりしたよね(泣)。


でも、何度でもはっきり言っておきたいんだけど、私たちは、シュムリーの見解に共感して、これを公表しているのではなく、とにかく全部読まずに批判したり、考察の材料とするなんてこともしたくないので、「全訳」にこだわったんだよね。


それと、これは、私たちではなくて、「私個人」の理由なんだけど、以前、「マイケルと神について」を書きはじめたとき、私は、様々なひとが、自分の信じていることや主張に都合のいい部分だけをとりあげて「マイケルの思想」だとか、マイケルの神はナントカと似ているとか言っていることが不満だったのね。だって、似ていると感じる点から、MJを考えていても、今、自分が信じていることを(無意識に)補強するだけでしょう? 私には、Godはひとりで、それは「Jehova」だと、2005年の時点で、MJが言ってたことをわかっている人はいないように見えたし、私にもわからなかった。


でも、彼が否定していたり、ここについては留保しているとか、そういうことだったら、少しはまとめられるんじゃないかと思って、無謀にも書きはじめたんだけど、当初の予定では「Imagine」と「All In your Name」を比較して、その違いについて書いたら、一応「第一部」終了というか、少しはスッキリすると思ってたんだけど、「All In Your Name」の訳詞が自分で納得できるまで完成できなかったのと(その後に和訳しました→)、それ以外にも、資料不足を感じることが多くて、それで、これに関しては、もっと徹底的に「遠回り」しようと思ったのね。で、その遠回りの第一歩が『MJTapes』の全訳だったんだよね。


childspirits(以下C):「MJについて語られた言葉より、MJが語った言葉」を知ってもらおう、という本来の目的にたどり着く前に、息絶えてしまうのではないかと思ったよね。そんなにしてまでどうして訳す?喜んで読む人ばかりではないのに。と自問したこともあるんだけど、シュムリーなしにはここに収められたMJの言葉は日の目を見なかったことを思うと、彼の解説を自分の意にそぐわないからといって「なかったこと」にするのは有用ではないし、今の時点で、自分たちなりに、シュムリーに対して反論すべきは反論し、共感すべきは共感したほうが、この対談がMJ研究の資料として生きたものになるんじゃないかな。というか、生きたものにしたい。とはいえ、まず反論すべきは反論したいんだけど(笑)、


この前、yomodaliteさんと話し合ったときは、シュムリーの語りの部分だけでなく、『MJTapes』全般を視野に入れていた気もするし、MJから学びたいのなら、最初から批判的になったり、感情的になっちゃいけないとかなり自制していたところがあるんだけど、シュムリーのまえがきは、その長さもしんどかったけど、全体を通して、後出しジャンケンみたいなものじゃないか、という思いはあったよね。MJとやった対談という「作品」に対して、「実はこうだった、ああだった」と、共同制作者が反論できないところで書くというのは、フェアではない気がしたよね。


Y:確かにね。でもさ、その批判はもっともではあるけど、反論できないところで、、っていうのは、シュムリーに限らず、ファンも含めてすべてに言えることだよね。MJは自ら語ることをずっと抑えていたしね。MJについての証言には様々なものがあって、彼について、なにが本当なのか?と思い始めると、じゃあ、誰が嘘をついているのか?と考える人もいる。でも、私自身はね、それは、誰かが嘘をついているわけではなくて、「MJストーリー」に対して、それぞれの人が感じた「プロット」の違いだと思うのね。


ストーリーは「物語」、プロットは「筋」というか、物語に因果関係を加えて解釈したものだ。と考えてもらえばいいと思うんだけど、もう少し説明すると、


彼が旅立つ前の一般的な “MJストーリー” というのは、「ジャクソン5で、一世を風靡した少年が、青年になり、類いまれなるダンスや、整形によって顔を変えたことで、史上空前の成功を手にしたものの、整形の繰り返しや、浪費癖、少年との不適切な交際によって、その栄光を台無しにした」というものだったよね。


これは、莫大な成功のあとには、転落がつきものという庶民感覚に則っていて、その要因を「整形」とか「浪費癖」とか「異常な性的嗜好」に結びつけて、さらにその原因は「幼児期のトラウマ」だとかっていう、児童への性的虐待をのぞけば、こういったストーリーは、大抵の芸能人にも当てはめることが出来るし、それは、誰もが想像できるストーリーだったよね。

でも、実際に、彼が亡くなってみると、そんな誰もが疑っていなかったストーリーに混乱が起きた。それが『THIS IS IT』で、「転落したスター」としてエンディングを向かえるはずだった物語に「復活」というありえない展開が起こった。


私たちはふたりとも『THIS IS IT』での復活からMJを考えてるよね。なぜ、彼は復活できたんだろう?って。私たちは、彼の最後を輝かしい結末だと感じて、彼の人生は不幸なこともあったけど、見事な人生だったんじゃないかという思いから、今までの “MJストーリー” を見直して、これまで想像していなかった事実をいっぱい発見した。


でも、『MJTapes』のシュムリーは、彼が亡くなった直後、彼が薬物の中毒で亡くなったという情報と、これまで流布された、性的疑惑を払拭したいという気持ち、加えて、彼との友情が壊れた原因から考えている。だから、素晴らしい人間性をもっていたMJが、性的児童虐待という疑惑に苦しみ、処方薬の乱用のせいで、徐々に気力をなくし、悲劇的な最後をむかえてしまったというのが、シュムリーが思う “MJストーリー” だよね。


「マイケルの死」には、そのあたりがよく表れていると思うんだけど、シュムリーには、親密だった思い出と、別れの思い出があって、親密だった思い出の中には、MJの優しさや、自分の子供たちへの態度から、児童への性的疑惑については、なんとしてでも誤解を解きたいという思いがある一方で、別れの思い出を辿っていると、自分から離れて、彼が思う「堕落した社会」であるエンターテイメントの世界に戻ろうとするMJに、生活態度を含めて批判的で、彼とのプロジェクトが上手くいかなかった一番の原因も、処方薬の使用について、自分がウルサく言うようになったことを、MJが疎ましく思うようになったからだと考えている。


そして、それがついに、彼の命をも奪ってしまったと思うと、父親としての責任を果たさずに、幼いこどもたちを親のない子にしてしまったという怒りも重なって、MJを強く非難している部分も目立つ。


C:シュムリーの感情がずいぶんダイレクトに表現されてる部分だよね。私ね、彼のしゃべりがあまりに長いから、訳しながら、「この本はシュムリーテープスかっ」って毒づいたときもあったけど、ある意味「シュムリーテープス」で間違いないと思う。彼という人間が、よく表れているもの。


この本が出版されたときのテレビ番組を動画で見たんだけど、そこでは本の内容を断片的に流したり、番組のキャスターが、”Some people say…”みたいな言い方で、シュムリーに話をふったりして、ある結論に誘導するために、他人の言葉を引用したり、状況の一部を切り取ったりするでしょう。純粋に「客観的」というよりは、建前としての「客観的」で、「他の人もこう言ってます」とか、「みんなそう言ってますよ」みたいな楯の陰で、自分だけは安全なところから、ものを言ったり、他人に石を投げたりする。


シュムリーが、そういった材料をメディアに与えたこと自体に、腹立たしい思いを抱く人もいるかもしれないけど、MJの「子供っぽい」と批判されたキャラクターの裏側には、知的で、複雑な内面があったという、その両面を見せてくれていることで、彼のこどもへの愛が本物だったことや、本当に優しくて、エンターティナーとしてだけでなく、人間として素晴らしかったことを提示してくれたことも確か。


『THIS IS IT』で、そのことを大勢の人が目の当たりにする前、無罪判決でさえ、まったく信じようとせず、異常な性格というイメージを流布しようとするメディアに向けて、自分が知っているMJを根拠に、彼の本当の人間性を提示したという姿勢には、卑怯なところがなくて、敬意を払いたいし、訳してても面白かったんだよね。


Y:そうそう、本の中では、MJの子どもの接し方に文句を言ってるように感じる部分もあるけど、メディアに登場してるときは、毅然として疑惑を否定してくれている感じがするよね。彼はもともとMJに対してメディアで言われてた印象しかなくて、直接交流して、その人間性に惚れ込んで、疑惑について否定すべき点は否定しなきゃって思ってるわけだから、メディアの主張とある程度バランスをとってしまうのは仕方ないしね。


それで、「プロット」の違いについての話をもう少し続けたいんだけど、私がフォローしてる海外ブログでみた画像なんだけど、


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The loneliest people are the kindest

最も孤独な人は、最も思いやりのある人である


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The saddest people the smile the brightest

最も哀しい人は、最も朗らかに笑う人である


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The most damaged people are the wisest

最も被害を受けた人は、最も賢明な人である



こうやって、なじみのある彼のショットに、逆の意味の言葉が添えられていると、共感する人が多いんじゃないかと思うんだけど、私たちは、MJから様々な面を感じている。でも、解釈つきの文章というものは、往々にして、どちらか一方を無視して納得させようとするものが多いんだよね。


例えば、この文章をシャッフルして、


・最も孤独な人は、最も朗らかに笑う。とか、

・最も被害を受けた人は、最も思いやりがある。


とすると、個々の要素はMJにあるものなのに「しっくりこない」。

つまり「ストーリー」として認識しにくいんだよね。


でも、それぞれの頭の部分で繋げて、


・最も孤独な人は、最も哀しく、最も被害を受けた人である。


とか、後半部分をつなげて、


・最も思いやりのある人は、最も朗らかで、最も賢明な人である。


だと「すんなり」するでしょう。


つまり、これが「筋の通ったストーリー」なんだよね。


3段目の写真はあんまり対照的なセレクトではないけど、1枚目と2枚目の彼のキュートな笑顔にメロメロにならない女子は少ないよね。この笑顔をみると、こっちまで幸せになっちゃうもんね。でも、彼がメディアに嫌がらせをされていたり、MJ自身が少年時に辛かったなんて、話を聞くと、彼のことを「かわいそう」だと感じて、彼の寂しげな表情もたまんなくて、そこも「キュン」ときちゃうでしょ。つまりさ、自分を幸せにしてくれた相手を、同時にかわいそうだと思って、私が応援してあげなくちゃ。と思う気持ち、「ファンの愛」って、大体そういうものだよね。


だから、このすんなり納得できるパターンは、正義を求めて、誰かを銃弾するようなブログの主張や、フェイスブックで、速攻「イイネ」がもらえるタイプの記事にも多い。


どういうことなんだろう?という疑問を解くために、人はそれぞれ自分が納得できるプロット(筋)を求める。「それじゃ、筋が通らない」なんてことをよく耳にするでしょう。ひとを納得させるためには、「筋が通っている」ことが重要なんだよね。でもね、上記の写真の例のように、筋を通すためには、筋が通るような部分を繋げるものでさ、だから、「真実」としてすっきり納得できるようなストーリーは、決して「リアル」ではないことが多い。


『MJTapes』は、全体にプロットが求められる通常の本と比べれば、ある章で感じるようなMJとはまた別の面が、次の章では展開されていたり、リアルなMJが垣間みれるという点は貴重なんだけど、シュムリーがひとりでしゃべっている部分は、自分との別れと、死因として取り上げられた薬物を直結させた「プロット」になっているから、そこは注意が必要だよね。


彼は、MJが鎮痛剤を必要としていることを、精神的な苦痛からの逃避としか捉えてないし、クリエイターの生活がわかってないから、これまでに見たスターが薬物で亡くなったというニュースに、MJを重ね合わせて考えているんだけど、当時、MJがヒストリーツアーと『インヴィンシブル』の製作でどれほど疲労していたかという想像はまったく出来ていない。


それから何年も経ってから、一緒に仕事をしたウィル・アイアムやエイコンといったクリエイター達が、少年のころに憧れだったMJに会ったとき、彼が薬物でダメになりかけていたとしたら、すごくがっかりしたはずなんだけど、彼らは自分がスターになった後でさえ、MJへの尊敬を失わなかったし、むしろ、直接その人間性に触れたことで、もっと尊敬するようになってる。


書き手というのは、どんな人でも、自分が主張したいことを書いてしまうものだし、主張に見合った証拠ばかり目に入りがちで、よく見つけてしまう。自分もそうなってしまうとよく反省するんだけど、


文章は、結論に向かって一直線に書いた方が説得力がある。


さまざまな事実を照らし合わせて、結論を出すのは至難の業だけど、最初から結論を決めて、エビデンスを揃えるのはすごく簡単なんだよね。特にネット社会では!


もっとも、ネットでMJについて書かれた文章の場合、それをエビデンスだと思うのも、あなただけだっていう文章がほとんどだけどさ(笑)


☆『MJ Tapes』の翻訳について[4]に続く





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by yomodalite | 2014-11-25 01:19 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

『MJ Tapes』の翻訳について[2]シュムリーの序章

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☆『MJ Tapes』の翻訳について[1]のつづき。。


Y:シュムリーは、このあとの会話でも、「名声」や「物質的な成功」「愛情」「孤独」…といった、誰もが自分の人生において悩む課題について、様々な方面からMJに質問して、彼の内面を引き出しているよね。ただ、彼は、この時期のMJを低迷していたと認識して、自分との対話によって「あるべき姿」を取り戻してほしいと思っている。メディアがどう報じようと、音楽界で、MJが「低迷」していた時期なんてないことを知っているファンとしては、見当違いと感じる部分もあるけど、私が驚いたのは、人生のあらゆる問いに関して、MJがすでに多くの「答え」を持っていたことなんだよね。



C:認識の違いということで言えば、「出版の経緯」でシュムリーは「惨めなほどの孤独さについて」告白されたことにふれている。マイケルは「皆に自分を愛してもらいたかった。心の底から愛してもらいたかった。なぜなら、真に愛されたと感じたことがなかったから」と語り、シュムリーはそんなマイケルに対して、「名声が手に入っても、身近な人からの愛情は手に入っていないよね。ファンの気持ちと本当の愛情は違うよね、かわいそうに」と言いたげ。でも、このシュムリーの認識も、マイケルの現状とは違っているんじゃないかな。


だって、マイケルほど愛された人はいないのだから。ファンを別としても、マイケルに接した人はみな、彼に魅了されたと言っているし、シュムリー自身が、実際会ってみたらマイケルの人柄の魅力に惹きつけられた、と「私たちの出会い」に書いている。そのマイケルが「愛されたかった」という時の「愛されたい」は、自分の「愛されたい」とは違うのでは? マイケルが「孤独だ」という時、自分の「孤独」とは違うのでは? とシュムリーは疑問を持つべきだったと思うのだけど。



Y:MJは、自伝『ムーンウォーク』でも自分の孤独について、『僕は自分が世界で一番孤独な人間のひとりだと信じている』と語っていて、表現者として、その感覚をもっていることに、誇りを抱いているという感じだものね。


◎[関連記事]映画『ミスター・ロンリー』


それと、そんな感じで同情させるの、MJがよく使う手だよねって思った人もいると思うけどw、でもさ、シュムリーだけじゃなく、男って嫉妬深いから、名声や仕事に対して自分より上の男を目の前にすると「身近な人からの愛情は手に入っていない」なんてことをまず考えるじゃない。可哀想ぶってるなんて批判されることもあるけど、MJにしてみれば、それは男の嫉妬を和らげ、相手の懐に入る方法でもあると同時に、実際、彼はあらゆることを「愛」を中心に考えていたと思う。



C:名声-これは彼が選んで手に入れた薬物と言っていい-、そして舵のきかない人生が、彼を徹底的に打ちのめしてしまったのだ。彼の人生における最大の悲劇は、注目されることと愛情とを間違えたこと、家族より名声を、真の精神的な目標より物質的な成功を選んだことである。


これは、「MJTapes」において一貫しているシュムリーのマイケル観で、表現を変えて、繰り返し述べられているよね。でもね、『THIS IS IT』のマイケルを見れば、2009年、シュムリーと別れてから8年(ただの8年じゃない、ものすごいバッシングと好奇の目に晒される年月)経った時点でも、彼は精神的に壊れていたわけじゃないし、名声や物質的な成功に左右された破滅などしていないことがわかるよね。


これも、シュムリーが独善的であるとか、マイケルを利用しようとしたということではなく、「名声」や「愛情」や「成功」というものの意味が、両者の間で違ってたということじゃないかな。シュムリーは「名声」を得ること=「物質的な成功」、「名声」=「愛情」の代用品、そして、「物質的な成功」は「精神的な目標」に劣ると捉えているけれど、マイケルにとっては、多分そうじゃない。


マイケルにとって作品を創ることと、「名声」や「物質的な成功」は、並行してやってくるものだけれど、彼は、それ自体を目標としていないし、「物質的な成功」と「精神的な目標」を相反するものとは考えていなかった。「精神的な目標」のために「物質的な成功」を手に入れようとしてたのではないかな。



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Y:MJは、仏教でいう、上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)のような分類で言えば、上品(じょうぼん)を目指してる。彼は、少年時代からイエスを見習いたい人として、尊敬してきたような人だから。


シュムリーは、聖書について深く研究してきた人だと思うけど、ユダヤ教では、成したことを重視する傾向があるので、精神性の高さについては厳しい見方をするみたい。でも、今はあらゆる分野で、下品(げぼん)から見ようとするね。その方が「お客さん」を多く集められるし、世の中には汚いことがいっぱいあるからね。


ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』とか、1960年代以降、MJが尊敬していたチャップリンや、J・Mバリ、ウォルト・ディズニーらを、幼児性愛や同性愛者として、徐々にその裏面を描くことが「真実」といった風潮になっていったけど、MJはその流れに逆行するかのように、彼らが成し遂げたことを讃えたでしょう。他にも『MJ Tapes』では、ハワード・ヒューズのような、MJ以前に、アメリカでもっとも「メディアの餌食」になったような人物についても「大好きだ」と答えている。そんなところからも、多くの人が選ぶ道以外を進むには、人々からの批判や疑惑を受け止めて、自分を磨いていかなくてはと、彼には最初から相当の覚悟があったように思える。


『THIS IS IT』に対して、自分が見た「真実」と違うと批判した人もいたし、殺されたのではという疑惑もあり、彼の死の真相については色々な言葉がとびかった。シュムリーも含めて、彼らの言葉には、かならず「原因」を自分以外に求め、他者の責任を「追求」するところがあるけど、MJは、あれだけ批判にあっても、誰かを批判することはめったにしなかったし、少しだけ言ってしまった場合も、後から反省したり、自分のことを振り返ってみようとしていたよね。


ファンや家族にとって、彼の死以上に悪い結果はないけど、おそらく、MJにとって一番悪い結果は「死」ではなかったんじゃないかな。


よく生きることと、どう死ぬかを考えることは、同じように大事というか、精神的なことと、物質的なこともそうだけど、一見対立していると思われていることも、実はそうではないのでは、とか。MJを見ていると、自分がどれだけ狭い見方をしているか、思い知らされることがよくある。



C:なぜ、今『MJTapes』を、しかも、シュムリーの主張まで全部紹介するのって言う人もいると思う。私も、以前はこの本を敬遠していて、日本語にしようなんて考えてもいなかった。でも、MJに対してこのようなアプローチをしてくれた本はやっぱり他にないじゃない。死後5年経って、MJに関する本がつぎつぎと出版されていても、彼の思想や精神に注目してくれた本はこれだけで、新しい世紀を向かえるこの頃、MJが何をどんな風に考え、『THIS IS IT』まで生きたのかを知りたい者としては、無視して通ることはできないと思うんだよね。



Y:シュムリーのプロローグは、マイケルの死にショックを受け、ふたりの友情が続いていた頃から自分はずっと注意していたのに、というやりきれない怒りと、またもや始まったメディアの狂騒の中での、彼へのいわれのない誤解も解きたいという思いが錯綜しているよね。


このあと公開する部分では、友情が終わった理由について語られているんだけど、シュムリーは自己弁護もあって、彼が思う「MJの黒い部分」についての話が続くでしょう? 自分との関係が終わったことと、マイケルが死に至った原因を直結させているところに疑問は多いものの、シュムリーの批判は、これまでメディアに登場したものの中では、まだ真っ当な方じゃない。



C:そうだよね。さっきも言ったけど、MJの思想や精神を紹介したいなら彼の言葉だけ取り上げて、って考える人もいるかも知れない。でもシュムリーには、ユダヤ教のラビとして、揺るがない自分の信念や、考え方の基盤があるから、話のかみあい方や、先に言葉の認識のところで述べたような、話のくいちがい方に、MJの考え方が浮き上がってくるように思う。物事を論じるときに、比較っていうのはすごく有効な方法だからね。


ただそれは、読む側にとってのこの本の価値で、マイケルがこの対談を行った意図は、また別に考えなきゃいけないよね。シュムリーと面識を持ちたいと言ったのは、マイケルの方だった。「どうして、ラビだったのだろう」とシュムリー自身もこの本の中で問いかけているけれど、マイケルは、深く考えてシュムリーを選んでいるだろうし、自分の意見に同調してくれるばかりの人物ではないということも、望んでのことじゃない?


揺るがぬ信念を持って座標軸になってくれる人物は、ユダヤ教のラビに限ったことではないかもしれない。プロテスタントの指導者でも、カソリックの指導者でも、仏教の指導者でもいいわけだけど、ユダヤ教のラビを選んだんだよね?


なぜかなぁ、と考えるとき、Black or Whiteの、“I’d rather hear both sides of the tale.”という一節を思い出す。マイケルをこれを実践していたんじゃないかなって。


何度か本を読んで「ユダヤ人とは?」って知ろうとして頓挫している私だけど(汗)、彼らがホロコーストを含む長い受難の歴史を持ち、その中で多くの優秀な人材を輩出していることはわかる。アメリカの政界や財界にも厳然とした力を持ち、ショービジネスの世界でも絶対的な力を持っているよね。それなのに、というか、そうであるがゆえに、一方ではたえず陰謀を画策しているようなイメージを持たれたり、受難の歴史にこだわりすぎる、理解の難しい人たち、と考えられることもある。


MJは、アメリカで、っていうか世界でかも知れないけど、大きな力ゆえに大きな疑念や偏見の対象にもなるユダヤ人を、話を聞くべき ’side’ だと考えたんじゃないかな。ジャクソン5時代の家庭教師がユダヤ人女性だったこともあり、彼は子供の頃からユダヤ人の歴史については関心を持っていたし、ビジネスの世界でもユダヤ人との関わりを多く持っていたわけだけれど、ここで改めて、彼らの考え方の根本であるユダヤ教について学び、自分の考え方との違いや共通点を知り、理解しようとしたんじゃない?


MJの住む世界のことを知らないシュムリーが、ラビとしての善悪の基準を前面に出して批判的なことを言うときも、彼は激高したり、無視したりするのではなく、冷静に自分の意見を述べている。MJがシュムリーとやりとりする姿勢は、「他者」というのは、非難したり追求したりして、自分が優越感を感じるために存在するんじゃなく、対話して、自分を高めていくためにあるのだ、ということを教えてくれるように思う。


MJは、自分がどんな人間か世間に知って欲しい、と言ったわけだけれど、この本でそれは成功してるんじゃないかな。彼が「愛」や「孤独」をどう考えていたかということもだけど、何より彼が「対話」と「理解」の人だということがよくわかるもの。それが翻訳したいと思った一番の理由なんだよね。だから、たとえシュムリーが私たちには不愉快に感じられることを言っていたとしても、切ってしまわずに伝えたい。



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Y:私も、ユダヤ教やキリスト教のお勉強については苦労してるんだけど、今の時点で、MJが会話の相手として、シュムリーを選んだ理由は大きく分けて2つあると思う。


ひとつは、自分の中で培われた信仰を確認するための対話者として。MJは「エホバの証人」を離れてから、宗教指導者を通して、神を学ぶということをしていないでしょう。それは、誰かが言ったことを鵜呑みにしないで、自分自身で考えるという訓練にはなっているけど、良くない点としては、自分の都合のいいように神を創造してしまうこと。新興宗教の教祖を目指すならそれでもいいし、律法を重視しないプロテスタントは解釈の違いで数多くの宗派を生んだけど、そもそも「三位一体」とか、「一神教」とはいえなくなっている部分もある。


でも、MJにとって、神がひとりだということはものすごく重要な概念なんだよね。彼は「エホバ」というユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通した神を信じているわけだから、それを生み出した「ユダヤ教」の指導者と対話するというのは、何かを学ぶときに、必ず「原点」から振り返ってみるという、彼が守ってきたやり方を考えれば必然だったと思う。


ユダヤ教とキリスト教の違いは、イエスがいるかどうかの違いという人もいるけど、MJにとってのイエスは、神ではなく目指すべき人間であり、ユダヤ教にとっての「救世主」は、まだ現れていないという解釈だから、シュムリーが、このあと「メシア・コンプレックス」なんて言って、MJを批判しているのも当然の流れと言えるし、彼にとっても「望むところ」だったんじゃないかな。


もうひとつは、


現在も収束する気配が見られないイスラエルとパレスチナ間の悲劇的な事態を、当時から危惧していたから。


ヴィーゼルは、2014年8月1日、米国の新聞に全面広告を出してて、


http://www.algemeiner.com/2014/08/01/elie-wiesel-condemns-hamas-for-using-children-as-human-shields-calls-on-gazans-to-reject-hamass-child-sacrifice/


記事の内容を端的に言うと、ハマスが「人間の盾」として子供たちを使っていることへの非難で、なにより悪いのはハマスだっていう主張なんだけど、記事では、シュムリーもそれに同調し、援護するかのようなコメントも紹介されてる。というか、シュムリーはこのキャンペーンを主催する立場で、見ようによってはヴィーゼルよりも過激にハマスを非難し、イスラエルの正当防衛を主張しているんだよね。


ガザで犠牲になった大勢の子供たちの写真を見せられると、シュムリーたちの言い分を支持することはむずかしいけど、パレスチナの政権は不安定で、イスラエルに行ったユダヤ人たちが、周辺国のテロに怯えるのはもっともで、それを米国に住むユダヤ人たちが援助しようとすることもよくわかる。でも、米国のユダヤ教会が、一丸となってイスラエルを支持しているわけでもないし、そもそもイスラエル建国に関しても、多くのユダヤ人が反対してた。


世界の富が、極少数の人々に集中していることも、ユダヤ人に力を持っている人が多いのも、彼らが国を超えて強力なネットワークをもっていることも事実。そんなことから、日本でも「ユダヤの陰謀」みたいなことが頻繁に話題にされ、侮蔑的な表現をカンタンにしてしまう人も多い。


でも、世界を思うがままに操る権力者の会議が、ユダヤ人を中心に行われていたとしたら、様々な国で暮らす同胞のユダヤ人を、イスラエルというひとつの国に集めて、イスラム国家を攻撃することにどんな意味があるのかな?


私が、世界を牛耳る権力者の考えを想像するのは、めちゃくちゃ無理があると思うけど、国をもたないことで差別をうけてきたと感じているユダヤ人のために「中東」の地に国を作って、そこに武器を投入して、イスラム国家を弱体化させる。っていう作戦は、世界覇権をもくろむ「ユダヤ人以外の人たち」にとっては、都合がいいんじゃない?


私たちの国でも「愛国」が敵国を意識させることとセットになっているように、戦争を起こしたがる勢力は、まず「国」を意識させたがる。それで、国をもたずに世界中にネットワークをもっているユダヤ人を嫌い、利用しているという部分もある。


第二次大戦のとき、ドイツが先に原子爆弾をもったら。という恐怖は、ユダヤ人の科学者にその研究を推進させた。でも、原爆がつかわれたのはドイツではなく、「日本」だったよね。


米ソの代理戦争のような朝鮮戦争のあと、韓国はキリスト教へと改宗し、「反日」政策を強めていった。日本も、韓国も、恨む理由があるとすれば「米国」のはずなのに。中東のテロリストと言われるような人は、欧米への憎しみを強めていて、特に「反米」意識が強いけど、彼らが「ユダヤ人」にターゲットを絞っていないのは、イスラエル=ユダヤだとは思っていないからでしょう。


MJが言っているとおり、人種や国や民族の問題じゃないんだよね。


それなのに、国や、民族や、宗教や、肌の色で、差別的をしたり、敵だと思ってしまうのは、何の罪もない、子供たちを不幸にすることで、その間違いをおかしているのが、今の「自分たち」でもあると。MJは伝えたかったんじゃないかな。


シュムリーが、イスラエルの正当防衛を主張している件だけど、彼は『MJ Tapes』の中でも、何度もエリ・ヴィーゼルの名前を口にしているよね。でも、そこはMJとの「温度差」がもっとも感じられる部分で、シュムリーがどれだけヴィーゼルのことを尊敬していたにしても、この本において必要とは思えない不自然さで、ヴィーゼルを持ち上げてるでしょう。MJとの関係や、彼をシンパに出来なかったことを、自分のコミュニティにいる人に言い訳したかったことが一番大きいのかもしれないけど、シュムリーにとって、MJの存在が、自分のメンターへの気持ちに動揺をきたすほどのインパクトを持ち始めていたようにも思えるよね。


少年時代の孤独感から、信教の道に進んだシュムリーは、マイケルが世界の子供たちの代弁者になりたいという言葉に心を動かされたと思う。でも、それは、ユダヤ民族の代弁者としてのヴィーゼルらの活動とは、どこかで衝突せざるを得ない。このあと紹介する「友情の終わり」には書かれていないことだけど、私には、ふたりの関係が終わった理由に、ヴィーゼルの存在が影響を与えなかったとは思えない。


黒人とか、ユダヤ人とか、そんなことはどうでもいい。みんな同じように神のこどもで、だからこどもの頃はそんなことを意識していなかったじゃないか、とMJはいう。でもシュムリーは、自分がユダヤ人だということから逃れることは出来ないし、君は、黒人として生まれたことから逃れられないのではないか。自分は、夫として、そして、こどもたちの父親として、彼らを育てる責任があり、ラビとして人々を導く責任もある。大人には、他にも様々な「立場」があると。


MJも、シュムリーの批判は受け止めたと思う。「ぼくはヒトラーの心だって変えることができる」と言っていたけど、それは、ヴィーゼルにも届かなかったし、彼はこの頃、はじめて自分自身のこどもを持って、本当に、他の子供を、自分の子と同じように愛せるかと、何度も自分に問い直したと思う。


私たちはユダヤ人じゃないから、彼らが経験したことを実感するのはむずかしいけど、個人としてではなく、日本人として、つまり「立場」をふまえての選択を迫られたときは、シュムリーのように行動する人が多いんじゃないかな。彼は、家族と同胞のために、正しい道を選び、正しいと思う人のために働いた。ヴィーゼルは「ノーベル平和賞受賞者」で、MJは、全メディアから批判されているポップアーティストに過ぎないって、何度も自分に言い聞かせて。


そして、多くの人は、進むべき道を決めるとき、選ばなかった道を批判して前に進む。シュムリーのこの長いプロローグも、そういうことなんじゃない。でも、MJは『THIS IS IT』まで、シュムリーよりももっと長い年月をかけて、自分が選んだ道だけを示して旅立った。


自分に出来ることは、イデオロギーで理想を実現したり、世界を変えることではなく、人の心を癒すことなんだって。。


私は、それが、彼の『THIS IS IT』だと思った。


MJは、これまでもずっとそうだったと思う。でも、、それは自分の想像をはるかに越えていたんだよね。


(一旦おしゃべり終了)


シュムリーのプロローグは、まだしばらく続きます。シュムリーは、『MJ Tapes』のときから、「どうして自分だったのだろう」と何度も問いかけていたけど、このあと、次作の『Honoring the Child Spirit』の序章を読み返すと『THIS IS IT』を見て、彼がもう一度、思い直したことも伝わるかもしれません。


彼が讃えようとしたのは、子供の精神ではなくて、MJの精神ではなかったかと。


◎『MJ Tapes』の翻訳について[3]序章を終えて…に続く





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by yomodalite | 2014-08-26 11:02 | MJ考察系 | Trackback | Comments(4)

『MJ Tapes』の翻訳について[1]THIS IS ITの衝撃

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ここまで『MJ Tapes』を読んでいただいた方に。


未だに終わらないシュムリーの序章ですが、なぜ、今、これを紹介しようとしたのか?について、翻訳の監修者である、childspirits先生と2人でおしゃべりしてみました。


それは、5年間を振り返ることにもなり、私たちの会話は、シュムリーに負けないぐらい長くなってしまったのですが。。



yomodalite(以下Y):2009年の6月26日のことは、覚えてる?



childspirits(以下C):それはもうはっきりと覚えてる。あの朝、何気なくテレビをつけたらワイドショーで、「今朝はいった大変なニュースです。マイケル・ジャクソンが亡くなりました」って言ってるのが耳に飛び込んできて。いきなりのことで、びっくりしたけど、もっとびっくりしたのは、ニュースを聞いた瞬間、涙があふれ出したこと。


マイケル・ジャクソンのことを日頃考えていたわけでも、彼の音楽をフォローしていたわけでもない。『オフ・ザ・ウォール』で、「あのマイケルが、こんな青年になったんだ」と思い、『スリラー』に驚嘆したあとは、「すごく売れてるんだな」と横目で見ているくらいの感じ。多くの人がそうだったように、世紀が変わる頃からは、スキャンダルにまみれ、メディアに追いかけられる彼しかわからなくなった。それなのにすごく涙が出て、あとはテレビの前に座り込んで、延々と彼の死に関するニュースを見続けてた。



Y:私も、朝の情報番組だったと思う。今は、なんとなくテレビをつけることはなくなったけど(これもMJが原因)、当時はまだそういう習慣があって、家の前に救急車が停まってる映像とか、ヘリコプターとか、見てても仕方のない映像なのに、そのときだけは目が離せなくて、とにかくショックだった。自分に出来ることなんか何もない状況なのに、どうしたらいいんだろう、って動揺しただけでなく、なんだか自分のせいなんじゃないかって思ったよね。そう思ったのは、私ひとりじゃなかったと思う。芸能人が亡くなったときに、負い目を抱いた人が大勢いたという経験は、MJ以外に誰かいたかなぁ。



C:あれほど強烈に、大勢の人にそう感じさせたのはMJだけじゃない?自分の事で言うと、彼がメディアに、容姿や奇行や家族のことで面白おかしく取り上げられ、バッシングされているのを見ながら、アメリカで黒人が影響力あるポジションを手に入れることのしんどさを想像したけど、一方で、彼の側にもバッシングを誘発してしまう要素はあるんじゃないか、とも思っていた。「白人になろうとしている」みたいな解釈も、何となく受け入れていたかな。ただ、そんなふうに傍観していたことで、彼を追い詰める流れに荷担したんじゃないかって、感じた。ある種の後ろめたさ、は彼の生前から感じていたのかも知れない。2008年だったかなぁ、リーディングのクラスで、MJの記事を取り上げたことがあったのね。



Y:どんな記事?



C:簡単に言うと、「マイケル・ジャクソンは本当にもうだめなのか?」みたいな記事。彼は近年キャリアの面で目立った活躍はなく、スキャンダルばかりで知られるようになっている。しかし、彼は本来は世界最高に売れた、才能あふれるエンターティナ-のはずだ、ってね。書き手の口調はどちらかと言えばMJに好意的だったと思う。


どうしてその記事を取り上げたかっていうと、マイケル・ジャクソンといえば変な人、という刷り込みしかされていないであろう若い人に、実はすごい人、の面も知って欲しかったから。授業ではよく知られているニュースについての英文記事を読むことで、メディア・リテラシーみたいなこともやりたいと思っていたからね。


ただ、その記事の書き手がそうであったように、MJのキャリアに再びピークがやって来るとは私も考えてなかったし、彼が実はすごい人、っていう場合の「すごい」が『スリラー』であるという認識も共通していた。そして、あの日のニュースを聞いたんだよね。



Y:私はね、当日は泣いたと言うよりは、朝からテレビで彼に関する映像をいっぱい見ないではいられないほどショックを受け、それほど大きなショックを受けた自分にも驚いたりして、それで夜には、もう今後メディアを通してマイケルを見ることを止めようということと、この衝撃が何なのかについて自分だけで考えたいという、なにか「決意」のようなものを抱いちゃったんだよね。



C:MJの死亡のニュースが入った日は、まるまるテレビで報道を見っぱなしだったけど、いくら見続けても、どうして涙が出たのか、自分にとってのMJとはどういう存在だったのかわからず、自分が関心をはらっていなかった時期の彼をとにかく見てみようと思ってPCに向かった。YouTubeを使うようになったのは、2009年6月26日以降だよ(笑)。で、「彼は、こんなにずっとかっこよかったんだ」、というよりは「こういうかっこよさを持っていたんだ」ってことに呆然とした。



Y:私は「デンジャラス」からファンだったから、80年代より、90年代以降のMJをよく覚えてるのね。ビッグスターに乏しかった90年代、彼のカリスマ性は並ぶものがなかった。ただ、その頃から徐々に「等身大のスター」が求められるようになって、「天才」で「お金持ち」というイメージのMJは、時代に合わないと思われるようになっていったみたい。



C:私は、デンジャラス以降は、ほとんどフォローしてなかったから、MJがどういう存在だったかについては、今と全然違う答えを持っていた。彼はすごい才能の持ち主で輝かしいことを成し遂げたけれど、ピークは過ぎていて、マスコミのバッシングに苦しみながら、失意のうちに死んでいったみたいに考えていた。彼の悲劇の根源を、奴隷制度にはじまり公民権運動を経て半世紀が過ぎてもなお差別され続けるアメリカの黒人、っていうステレオタイプの図式に求めていたんだよね、きっと。『THIS IS IT』を見るまではね。




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Y:初日に観に行ったんだよね。どんな感じだった?



C:うん、「最後まで頑張っていた彼の姿はどんなだったんだろう」という、期待と不安とおそらくは同情の入り交じった気持ちで見に行ったんだけど、上映後は、すぐに立ち上がれないまま涙を流していた。正確に言うと、立ち上がれなくなったのは、映画を見終わったあとじゃない。映画始まってわりとすぐ。ダンサーたちがMJと同じステージに立てる喜びについて語る場面のあと、『THIS IS IT』のオープニングシーンになるでしょ。オルテガの説明と共にいろいろな映像に輝く「ライトマン」が出てきて、’piece by piece’って開いて、MJが登場する。彼が右手をスッと掲げ、Wanna Be Startin' Somethin’ が始まる。その瞬間、もう、頭からどっかーんと何かが落ちてきたようなショックを受けた。


つま先から指先まで電気が走っているような立ち姿や、サングラスからのぞく、つぃっと上がった眉、引き締まった口元の表情を見て、「この人は、世間が自分を化けもの扱いしている間も、努力を怠らず、たえず挑戦し続けていた」っていう思いが閃いた。


右手を天に突き出し、体全体から放電しているような立ち姿というのは、「スリラー」のダンスシーンにもあるよね。あの頃のMJは坂道を猛スピードで駆け登っているような状態だったけど、そのあと、『THIS IS IT』までのMJには、困難な状況が次々起こっているよね。なのに同じポーズが、「スリラー」の時よりも、エネルギーに溢れて見えた。スリラーからの四半世紀を、普通のスターとして過ごしてきたら、こんな事が起こるはずはない。あんなひどいバッシングの中で、こんな進化を遂げるのは、並大抵の精神力や思考力じゃないなって、思った。


上映後に流した涙は、「この」MJを知った感動と、いままで知らなかった、知ろうとしなかった、自分のダメさ加減への後悔によるものかと思う。それで、結局19回も『THIS IS IT』を見に行くことになったんだよね。



Y:話を聞いてると、私のあの日のことも甦ってくるなぁ。呆然とした気持ちでスクリーンを後にしたとき、またもや、「自分はこれからどうしたらいいんだろう」って感じで、ただ、もう自分を落ち着かせる目的でダーリンに電話して、「今までに感動したこととは比べようがないぐらい、人生で一番感動した」って言ったと思う。他にどんな言葉も発したくなかったから、それだけで電話を切ったのね。友だちに『THIS IS IT』すごく良かったよ。なんていう普通の会話も絶対にしたくなくて、それで、リアルフレンドには、その後もずっとマイケルのことを話さないようにしてた。


それまで、私はオリジナルアルバム全部と、ブカレストライブを持ってるぐらいのライトなファンだったけど、あの大観衆の1人になるのが嫌で、MJのライブに行きたいと思ったことがなくて、だから、初めて実物の彼に出会えたような気分だったのかもね。


映画館にいるあいだはすごく幸せを感じて、どんなに泣いても、それは「感動の涙」だったのね。でも、観終わって家に帰ってきてからも涙が止まらなくて、それは感動の涙ではなかった。私は、通勤も、子供の世話も、介護もしなくていい身分だったから、もう本当に1日中泣いてて、自分がこれほど激しく泣いている状態をどうしたらいいのか、一体インヴィンシブル以降に見てきたマイケルは何だったのか。その答えを求めて、5年も経ってしまったみたい。



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C:私の生活は、『THIS IS IT』をはさんで、「紀元前」と「紀元後」って言えるくらい変わったと思う。とにかく毎日MJのこと考えた。スペースも予算も考えずCDやDVDを買いこんだのはもちろんだけど、彼に関係する本を手当たり次第に読んだ。で、読むほどに、映画を見た時に感じた彼の思考力は、現実のものだったという気がした。



Y:私もどこが変わったとは言えないけど、読む本は確実に変わった。MJ以外の人がどんなにキレのあるダンスをしても、振り付けをこなしているように見える。でも、MJが指先を少しどこかに向けただけで、そこには「意志」があり、「意味」があるように見える。彼の精神と肉体は完璧に一致していて、『THIS IS IT』まで、なにがあっても変わらなかったことが、私にはものすごい衝撃だった。


それまで、MJのことを、そんなに知性があるとは思ってなくて、本を読むのが好きだというインタヴューを聞いていても、成功本の類いであるとか、とにかく自己啓発好きで、ポジティブ思考という印象しかなかったんだけど、誰もが彼の人生は行き詰まっていると思うような状況の中、最後まで、その肉体から精神性が感じられるというのは、彼が、本質的な「知性」をもっていることに他ならないじゃない。それは、どんな「真相」よりも私には明らかなことだと思えたのね。


知識は本から学べても知恵は経験からしか学べない、という言葉があったと思うけど、彼は熟練のパフォーマーとしての「経験」だけでなく、それを長く実践するために極限の努力もして、世界一と言われるほどの成功を手にできるほどの「知恵」もあった。MJは、学んだ知識を最大限アウトプットすることが出来たひとだよね。


それなのに、MJほど、自分を賢く見せなかったアーティストもめずらしい。だとすれば、彼が自分を賢く見せなかったことには、「なにか特別な理由」があったはずだと思ったのね。それで、彼がどんな本を読んでいたのか、ものすごく興味が湧いてきて、彼が読んだと思われる思想書や宗教に関する本も、あらためて真剣に読むようになったんだよね。


C:私も「ムーンウォーク」や彼の詩集、オックスフォードでのスピーチや、色々なインタビュー、さらに彼が残したメモを読んで、それから彼の歌の詞を読み直した。そうしてみると、間違えていたことがちょっと具体的に見えてくるようになった、自分なりに、だけど。たとえば、彼がいつも口にしていた、子供のために生きている、というような発言。それを子供好きなんだなぁとか、自分の失われた子供時代への回帰なのかなぁと捉えていたんだけど、そんなに浅薄なものではないとかね。彼は子供の世界を、自分が癒されるのに必要な場所ではなく、この世界にある病を癒すのに必要な innocence の泉だ、と真剣に考えていたんだということがね。



Y:私の場合、オックスフォード・スピーチに感動したあと、さらに衝撃を受けたのが、『MJ Tapes』だった。相変わらず、センセーショナルなことのみ紹介されて、ユダヤ教のラビが、MJを裏切って出版したみたいな扱いだったけど、彼が、90年代に「こども」について以外言いたくなかったこととか、めったにしゃべらなかったこととか、色んなことが、今までとは違って見えてきたよね。



C:確かに「こども」への思いだけではMJの全体像に迫れない気がする。というか、どうして「こども」が最優先事項なのか、が理解する必要があるよね。そういった意味で、『MJ Tapes』には、手がかりになることが多いよね。英文学の世界にグロッサリー(glossary)という言葉があって、それは作家が特別な意味を持たせて用いた語の説明を集めた特殊辞典で、有名なのは「シェイクスピア・グロッサリー」なんだけれど、『MJ Tapes』はもしかしたら、マイケル・ジャクソンという人物(書物)を理解するためのグロッサリーの役目を果たしてくれるかも。


MJとシュムリーの対談を読み込むと、ひとつの語に対して、二人の認識が微妙に食い違っていることに気づくでしょう。その差異が「マイケル・ジャクソン・グロッサリー」になり得る。言葉=思考だものね。


☆『MJ Tapes』の翻訳について[2]に続く




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by yomodalite | 2014-08-25 11:36 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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