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物理学者が解き明かす重大事件の真相

下條 竜夫/ビジネス社



とりあげられている重大事件は、「福島第一原発事故」、「福知山線脱線事故」、「STAP細胞と小保方晴子問題」、「和歌山毒カレー事件」の4件。


ニュースでおなじみのそれぞれ一冊通して語られるような話題から、文系にはなかなか理解できない物理学の世界をちょっぴり垣間見れるという点で希少な本なのですが、第6章からは「地球温暖化問題」や「ビッグバン」を通して、現代物理学はどこまで正しいのか?という問いにも答えられ、

最終章「仁科芳雄こそが〈日本物理学の父〉である」では、物理学者が国家防衛のために生み出した兵器「原爆」とその平和利用として考えられた「原発」が、日本の物理学に与えた影響について、筆者は大学の准教授であるにも関わらず、かなり踏み込まれた話をされています。全体を通して、いわゆる陰謀論風味はまったくなく、恐怖を煽って扇動するようなところもありませんが、なかなか「危険な本」だと思いました(もちろん良い意味で)。

そんな興味深い本書の中から、

ビッグバンを疑っていたマイケルのために、第7章の「現代物理学は本当に正しいのか?」から、メモしておきます。

(省略して引用しています)

1995年ごろ、書店の科学のコーナーには、「相対性理論は本当か?」とか、「ビッグバン理論は間違っている」という現代物理を否定する本がたくさん平積みで置いてあった。相対性理論では、運動している物体と、していない物体では時間の進み方がちがうという奇妙なことが起きる。また、ビッグバン理論では宇宙の起源は138億年前であるとはっきり決定しており、それ以前は宇宙も時間も存在していなかったという。どちらも、我々の常識から大きくはずれていることもあって、この手の現代物理学を否定する本がたくさん売れた。

 

 私はこれらの本を「異端本」と呼んでいる。異端(heresy)とは、異端者(heretic)が唱えた異説のことだ。異端者は、ローマ教会に逆らって正統でない学説をとなえたために火炙りにされた。ローマ教会が正統と認める天動説に対して地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは、火炙りにはされなかったが、まさに異端者だった。多くの物理学者が正統と見なしている現代物理学を否定する人たちは、まさに現代の異端者だ。

 

 私は物理の専門家なので、理論の初歩のところは正確に理解している。相対性理論の「異端本」のいくつかは、相対性理論の基本的な理解でつまずいていた。我々は日頃、筒単に「同時」にという言葉をよく使う。しかし、相対性理論では、この「同時」が、見る人によって違う。だから、この「同時」を我々の日常生活と同じ「同時に」として考えるとたくさんの矛盾がでてきて、相対性理論が間違って見える。つまり、相対性理論(relativity theory)とは、「時間」と「長さ」はその測定者によって違う、時問は独立しているのではなく、測定者そのものと「関係(relate)している。(×相対的ではない)という理論なのである。

 

 同じく異端本で取り上げられる「ビックバン理論」のほうはどうだろうか? 近藤陽次というNASAにいた天休物理学者が書いた『世界の論争・ビッグバンはあったか ー 決定的な証拠は見当たらない』(講談社ブルーバックス、2000年)という本がある。私はこの本を読み、ビッグバン理論は宇宙物理学者の間ではまだ正しいとは認められていないとずっと思っていて「ビックバン理論」を異端とする本には、それほど違和感はなかった。

 

 ところが、最近、高校の物理の教科書を問いて見たら、「ビッグバン理論」がすでに取り上げられていてひどく驚いた。教科書に掲載されたということは、「ビッグバン理論は正しい、ビッグバンは本当にあった」と認められたことと等しい。ビッグバン理論から派生する「インフレーション理論」も高校の教科書に掲載されていて、さらに驚いた。これも仮説の理論だと私は思っていたからだ。「ビッグバン理論、インフレーション理論は正しい理論である」と、教科書執筆者とこれを検定した文科省ははっきり宣言したわけだ。


 相対性理論や宇宙物理学などの高度な数学を使う現代物理学は、専門家以外はほとんど理解できない。私は物理学者のはしくれ(原子分子物理という分野の専門家)だが、ビックバン理論や相対性理論は間違っているのか?と聞かれても、この領域の専門家ではないので、正しいのか正しくないのか、まったくわからない、数学をつかって確かめることもできないので、ここでは「科学哲学」を使って現代物理学そのものを疑ってみる。そもそも「哲学」とは、あるものごとが正しいか、間違っているかがわからないときに、その判断の指標を与えてくれるものである。アイン・ランドが、『哲学:誰がそれを必要とするか』という本の中でそう語っている。


マッハの科学哲学

 

 パートランド・ラッセルというイギリスの有名な哲学者兼数学者がいる。彼が中心となり、「科学哲学」と呼ばれる哲学の一分野をつくった。「科学(science)とは何なのか、何をするための学問か、科学が記述することははたして正しいのか」を取り上げる学問で、もともとは科学に対しては、中立的な立場だったが、だんだんと、科学哲学は現代科学を擁護つまり賞賛するために使われるようになっている。

 

 例えば、有名な科学哲学者のカール・ポパーとファイヤ・アーベントは「反証可能性(Falsifiability)」という理論をつくった。この「反証可能性」は訳が変で、本当は「科学は間違うことができる」という理論である。科学では、間違う可能性が高い仮説ほど価値があるという考え方だ。ところが、それがなぜか、「反証する理論に対して批判が生まれたとき、それを論破して証明できれば、それは科学であり、反証することができなければ、それは科学ではない」という考え方に変わり、「似非科学」「疑似科学」を排除し、正確に科学・非科学の境界を定めることができるとされている。このやり方で科学・非科学の境界を定めると、現在、科学のようだと考えられているものでも、厳密な反対尋問に耐えられない限り、科学とは認められない。例えば、民間療法のようなものは、科学的でないとして、「似非科学」というレッテルをはられ、否定される。逆に、厳しい反対尋問に耐えられれば科学と認められるため、些細な重箱の隅をつつくような研究も、重要な研究として重宝されている。

 

 しかし、科学哲学というのは、我々が、今まさに、「これは科学であり真理である」と認めていることが、本当に正しいのかを議論する学問である。むしろ、疑いようのない立派な説を疑うための試金石であり、現代の科学が取り扱う理論そのものを疑うためのものだ。科学哲学は、「疑似科学」「似非科学」として未完の科学を排除するための学問では決してない。このことがわからないと科学哲学の偉大さが理解できないと私は思う。

 

 そこで、科学哲学を理解するために、オーストリアの物理学者で、科学史家・哲学者でもあるエルンスト・マッハという偉大な科学哲学の先駆者を紹介する。「マッハの科学哲学」がわかると、科学哲学そのものが、なぜ存在するのかがよく理解できる。前述したカール・ポパーの「反証可能性」とか、トーマス・クーンの「パラダイム理論」も、本当はマッハの科学哲学から派生したものだ。


 マッハの考え方を具体的に説明する前に、マッハが現在生きていたら現代物理学についてどういうか、逆に現代物理学者がマッハをどう思うかについて書いておこう。佐藤文隆京都大学名誉教授が書いた『職業としての科学』(岩波新書、2011年)という本には、マッハの科学哲学のことが詳細に書かれている。佐藤教授は、ビッグバンなどの宇宙物理で有名な理論物理学者だ。普通の理論物理学者であれば、マッハに言及することはできない。なぜなら、マッハが生きていたら、理論物理学者に面と向かって、彼の理論を罵倒したはずだからだ。


 エルンスト・マッハは、19世紀末・20世紀初頭のヨーロッパで流体力学、波動論(kinematic wave theory)で大きな貢献をした、オーストリア学派=ウィーン・ブント(ウィーン学団)の偉大なる創始者であるが、特に物理学者たちの間では評判がよくない。マッハは「人間に見えない原子というものがはたして存在するかどうかわからない」と断言し、そのことで原子論を唱えたボルツマンを自殺に追い込んだ、とうわさされている。そのため、マッハの科学哲学は、現在では「道具主義(instrumentalism)」だと言われ、低い評価しか受けていない。マッハの科学哲学は、いかなるものなのか。エルンスト・マッハの「力学」から引用してみよう。


 あらゆる科学は、ある事実を人間の思考の中に模写し転写することによって、経験に置きかえる。そうすることで経験を節約するという使命をもつのである。模写は経験それ自身よりも手軽に手許においておけるし、多くの点で経験を代行できる。科学のもつ、この安上がりですますことの機能こそが、科学の本質を貫いている。このことは一般的に考えても明らかとなろう(中略)私たちは事実を思考の中に模写するとき、決して事実をそのまま模写してはいない。私たちにとって重要な側面だけを模写するのである。このとき私たちは直接的にせよ間接的にせよ、ある目標をもった実益をめざしている。私たちが模写するときはいつも抽象(abstract)しているのだ。ここにもまた経済的性格(思考時間を節約している)があらわれている。 (エルンスト・マッハ『力学』)

 マッハはこのように書いている。ここに、「科学は、実験結果・経験的事実をより分かりやすく、より経済的に、より労力を節約して理解するための道具に過ぎない」としている。ここには「真理」は存在しない。さらにマッハは人間の「感覚」の大切さを力説している。


 人間の感性的諸事実こそが、こうして、物理学者のありとあらゆる思想適応の出発点であり、また目標である。人間の感性的諸事実に直接に従おうという思想は、私たちに最も馴染み深い、最も強い、最も直接的な思想である。新しい事実に直ちに従うことができない場合には、その事実に、より豊富でより明確な形を与えるべく、最も強力で最も馴染み深い思想が押し追ってくる。科学上の仮説や思弁は、いずれもこれに基づく。(エルンスト・マッハ『感覚の分析』)

 ここでマッハは、あらゆる自然科学で議論するときの「事実」なるものは、経験的に確かめたもの、私たち人問感覚でとらえることができるものであるとしている。そうでなければ、その事実は事実として認められないと述べている。マッハだけでなく、いわゆる「ポジティビスト」や、「実証主義者」と呼ばれる学者たちは、次のように考える。

 

 理論はある場合は成立し、ある場合は成立しない。しかし観測した事実、体験した諸事実は確かな科学の基礎と土台になる。だから、これらの観測した事実、体験した諸事実こそが、科学的な推測(reasoning)や推論を始める最初の第一歩でなければならない。多数の人びとに認められている理論が先にあるのではなく、私たちの目の前に確かにある事実こそが、マッハの手法の土台である。

 

 我々も日頃、経験するように、あやふやな伝聞、間違って広められた事実など、「不確かな事実」がたくさんあり、対立する複数の視点から傍観すると、同じ出来事がまったく道う出来事だったことに気づく。この手法により観客を混乱させた黒澤明監督の名作映画『羅生門』では、盗賊、武士、その武士の妻の3人の登場人物が、同じ出来事を三者三様のとらえ方をしている様子を描き出していた。


 マッハは、人間の感覚でとらえられたもの、よく体験する事実だけを真の事実とした。それ以外はどんな理論でも前提にすることはしなかった。そして、私が前述したとおり、科学なるものを、それらの諧事実を簡潔あるいは思考節約して理解するための道具として定義づけた。そうして科学の役割を明確に定義づけ、かつ限定した。ある科学理論が正しいか正しくないかよりも、その科学理論が有用であるか有用でないかのほうが世の中にとっては重要だということだ。マッハは、「実用主義(pragmatism」とアメリカの学者世界で呼ばれるようになった学問の祖である。


 このアメリカの学問世界では主流派である実用主義の考え方は、「科学とは真理を求めるためのものである」という普通の人びとがもつ考え方とは、大きなズレがある。例えば竹内薫という物理学者がいる。彼が書いた本に『99・9%は仮説 ― 思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書、2006年)という本がある。この本に書かれているとおり、真理といわれているものは疑われるべきである。しかし、この題名には、逆に言えば「仮説として出されたものでも、反論とその再反論を繰り返すうちにいつかはO・I%の真理に辿り着く」という意味が含まれている。実はこれはカール・ポパーの反証主義そのものである。

 

 ところがマッハはこの考え方さえ取らない。「科学はもともと真理とは関係ない」とマッハは強く断言している。イギリスの代表的な英語辞書であるOxford Advanced Learner’s(OALD)にも、「科学」とは次のようなものであると、はっきりと定義されている。


 (日本語訳)科学とは、人間が実験などで証明できる事実に基づいていること。それによって証明された自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識。

明確に、科学は自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識にすぎないと述べてある。そして、法則(law)とは、この「自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識」をもっとも経済的かつ簡潔に記述したものに過ぎない。これがマッハの主張である。


 この考え方は、今考えても、非常に過激である。マッハは「見えない原子というものが存在するか、人間にはわからない」として、原子論を唱えたボルツマンと対立し、激しい論争を繰り広げた。このことは既述した。そのために、ボルツマンはうつ病に苦しみ、白殺した。当時、すでに、原子や分子なるものが存在するだろうという間接的な証拠がたくさんあった。現在の我々から見れば、原子の存在を認めてもいいと思う。それに対し、マッハは「感覚する(見る、触る)ことができなければ、それは存在するかどうかはわからない」として原子の存在を認めなかった。恐るべき頑固さである。

 

 マッハが生きていたら、「ビッグバンが本当にあったというのなら、実際に起こして私に見せてくれないか? できないのか、じゃあ、あったことがどうしてわかるんだ?」と本当に言ったと思う。これがマッハという希代の大天才学者が築き上げた科学哲学である。マッハは「実際に人間の五感で確かめられないものは、存在しない」といった。だから、マッハの目からすれば、ビッグバン理論やそこから派生した宇宙生成時のインフレーション理論も空想や戯言に過ぎない。

 

 現代物理学の最高峰とされる素粒子物理も同じだ。もし、マッハが生きていたら、「クオークという素粒子が存在するというのなら、ここでそれを見せてくれないか」と必ず言ったはずだ。クオークは、陽子、中性子などの素粒子を構成している究極の物質だとされている。しかし、クオークという素粒子は、検出することができない。クオークは実は架空の粒子で、今でも観測されていない。「存在する」と仮定すると、存在する素粒子(陽子、中性子、中間子)の性質が実にうまく説明できる。だから、その存在が世界の物理学会で認められている。矛盾する実験結果もない。ところが、不思議なことにクオークそのものは、どんな実験装置を使っても今なお検出できていない。観測できないのはクオークが「色」の性質をもっており、合わせて「白色」にならないと観測できないという理論までできている。

 

 理論的にはあるが観測できない。つまり、人間の五感では確かめられないということだ。そのような粒子は、マッハに言わせれば「存在しない」のである。しかし、現代物理学では、直接に検出不可能なものであっても、数学的にその存在が証明されていれば、存在していると認められている。2008年にノーベル物理学質を、南部陽一郎、小林誠、益川敏英の日本人3人が受賞した。小林・益川の理論は、新しいクオークを予言したことで有名だ。「CP対称性の破れ」という実験結果から、クオークは3つではなく、さらにもう3つなければ実験結果とあわないと数学的に証明した論文が認められ、ノーベル物理学賞を受賞した。この6つのクオークはあくまで数式の中でのみ存在する。実在することを、直接、確かめるのに成功した実験はない。


 現代に生きている我々からすると、マッハの哲学は、「それじゃ、先生。それが本当に有ると言うのなら、ここで見せてくれませんか」と、酔っ払いがくだを巻いて言いそうなことで、彼の属する学派の考えを大きく理解しないと、マッハがいったい何を根拠にしているのかが理解できない。そこでマッハの属する学派である中世のノミナリスト(唯名論者、個物派)について説明する。


 ヨーロッパでは、14世紀に普遍論争(universalienstreit)と呼ばれる神学論争が行われた。ノミナリストと、これに対抗するイデアリスト(観念論者)の間で繰り広げられた論争である。ノミナリストは「実在するのは個物だけである。すなわち、ものは、ただ個々のものとしてあるだけだ」と主張した。それに対し、イデアリストは、「個物に先立って、普遍なるものが実在する。この世界には普遍的なもの、すなわちイデアなるもの(観念や理論)が存在する」と、強く主張した。だから普遍戦争とは、「普遍は、個物に先立って実在する(実念論)」のか、あるいは「個物の後に人間がつくった名辞(唯名論)に過ぎない」のかという中世スコラ学中の最大の論争である(英語で言えば、定冠詞〈the〉と不定冠詞〈a,an〉の違いに相当する)。

 

 つまりマッハが属するノミナリストの系譜の思想(ノミナリズムという)は、「ひとりひとりの信者(個々の人)」を優先する。それに対して、イデアリストの系譜には「いつ、どこでも変わることなく有る(普遍としての)教会」がある。カトリックという言葉そのものが「カトルー(普遍)」という形容詞に由来するからだ。彼らイデアリストは普遍主義であり、体制派である。教会およびローマ法王擁護の立場であった。これを否定する思想がノミナリストということばに含まれていた。だからこの論争のあった14世紀では、ノミナリストの思想はイデアリストの体制派(トーマス・アクィーナスなど)と対立する過激かつ危険な思想だった。


 ノミナリストの思想は、このように、人間ひとりひとりとしての個体を認める思想だ。だから、当然、個人を尊重する啓蒙思想(enlightenment)や、近代思想(modern thought)につながっていく。そして、マッハの哲学は、このノミナリストの思想を、20世紀の現代科学において極限まで追究したものだ。

 

有名なドイツの大哲学者、マルティン・ハイデガーもノミナリストに分類される。ハイデガーはマッハと同じことを別のことばで書いている。『存在と時間』の一節から引用する。


ニュートンの法則も、矛盾律も、一般にいかなる真理も、現存在(引用者注:人間のこと)だけが存在している間だけ真であるのである。現存在がまったく存在していなかった以前には、そして現存在が、もはやまったく存在しない以後には、いかなる真理も存在していなかったし、いかなる総理も存在していないであろう。

ここで「現存在」とは、死んでしまう我々人間のことだ。人間は死んでしまうので存在が「現(いま)」に限定されている。そこで無限(永遠)の存在(神)に対して、現存在という呼び方をしている。


 「我々人間(人類)がこの地上からいなくなったとしても、ニュートンの法則などの物理法則はそのまま存在する」と考えるのが普通だ。一般的な日本人が持っている考え方だ。しかし、ハイデガーは、それをきっぱり否定した。「我々人間が死に絶えて滅びれば、そもそも、ニュートンの法則などは存在しないのだ」と彼は主張した。だから、ハイデガーの主張はエルンスト・マッハの言論とそっくり同じであり、同じ学派なのである。

 

 ノミナリストは、「自分が死んだら、世界そのものが終わる」と考えている。つまり、人間の感覚と思考そのものが、極限まで高く評価されている。言い換えれば「人間が死ぬとはその感覚と思考が停止すること」であり、死ぬと「世界が終わる」のである。さらに、人間の感覚と思考に反する絶対的なもの、つまり絶対神とか、この世を支配する自然法則を、人間が勝手に頭で考えた妄想(それはただの「名前」である)として、認めない。ノミナリストの思想は、ヨーロッパ全体を支配するローマ教会という体制派の神学との激しい戦いの中から生まれてきたので少々のことでは揺らがない。


 このようにエルンスト・マッハは観測可能なものだけが実際に存在する、すなわち実存していると考える。これが西洋哲学の基本にある考えである。かつ同時に最高級の考え方でもある。今でもこれ以上のものはない


 だから、エルンスト・マッハの科学哲学にしたがえば、現代物理学および現代科学には大きな欠点があることになる。では、具体的には、どこに問題があるのか? 本当に現代物理学が間違っている可能性があるのか? もし間違っている可能性があるとしたら何なのか? このことを、「ビッグバン理論」を対象にして考えてみよう。

              

 あまり知られていないが、ピックバンを否定する実験事実は、実は昔からたくさんある。特に天体観測の実験結果と矛盾するそうだ。最近でも、日本が誇る天体望遠鏡「すばる」によって、宇宙の果て130億光年ぐらい先のところに古い銀河があるという事実が得られた。このことはビッグバン理論と矛盾する実験結果だ。「ビッグバン(宇宙の始めの大爆発)が起こってから銀河ができた」とされているのに、古い銀河が宇宙の果てのほうにあると、ビッグバン以前にすでに銀河があったことになってしまう。次に引用する文は、佐藤文隆という京都大学名誉教授でビッグバン理論を長い間研究してきた宇宙物理学者に対して行われたインタビュー形式の文章である。あらかじめ断っておくと、引用する文の前では、ビッグバン理論がいかに正しいかを佐藤教授は述べていた。ところが佐藤教授自身が論調を急に変えた。佐藤文隆教授が、口を滑らして本音が出たと私は思う。


 ビッグバン批判の記事に書かれていることは、大半がもっともである。逆にいうと、批判としては何も目新しいことを言っていない。だがこのような批判があるにもかかわらず、私たち多くの専門家はなぜ「ビッグバン宇宙はもう駄目だ」と思わないのか。宇宙論に興味のある人は、まずこの事実にこそ注目すべきである。それが宇宙論の理解を一番早める。

佐藤教授が考える理由は、ここで話題になっている宇宙論の研究が物理学の一環をなしているという事実である。つまり、宇宙論での“もっともらしさ”の判定基準は、物理学全体の体系との整合性にあるといえる。宇宙論という言葉は本来は、人類が自分たちの住む世界を描写しようとする試みを意味する。これに対して、私がここで問題にしている宇宙論は「物理学の宇宙論」である。天体宇宙を餌食にして物理学の宇宙論を謳歌しているのである。


 実験物理のようにゴチャゴチャしていない何かスッキリした教えが宇宙論にはあるかもしれないと読者が期待しているなら、この分野はそれとは無縁である。宇宙論では物理学の応用が行われているのであり、また物理学の基礎はこのような応用で、より広範な普遍性が確かめられたのである。(佐藤文隆京都大学教授「ビッグバンのみが科学理論だ!」学研『大科学論争』所収、1998年)

 佐藤教授の発言の中で最も重要なのは「宇宙論での宇宙論での“もっともらしさ”の判定基準は、物理学の体系との整合性にある」という部分だ。実はビッグバン直後の理論と高子不ルギーの素粒子の理論の2つはうまくあう。つまり物理学全体の体系がうまく整合しているのである。これをわかりやすく説明すると、「ビッグバン理論と天体観測の結果は、いくら矛盾を起こしてもいい。ビッグバン理論を否定する天体観測結果がたくさんでても構わない。それだけではビッグバン理論は間違いであるとはならない。既存の物理学の諸法則と宇宙物理学の理論とが矛盾を起こしたときにだけ、そのときだけ、ビッグバン理論は否定される」。

 

 それでは、もしビッグバン理論が間違っているとしたら、既存のどの物理法則が否定されるのだろうか? 考えられる例をひとつだけ挙げておく。シカゴ大学にウィリアム・マクミランという物理学者がいる。彼は「光が長い距離を走る際には、その光は徐々に自分のエネルギーを失って、波長を変えるのではないか」と述べた。たったこれだけの理由付けでも、赤方偏移という現象が説明できてしまう。だんだん波長を変えるので、遠くから来る光はその波長を大きく赤いほうにずらす。つまり、光の波長がずれるのは、光そのものの性質でドップラー効果ではない、ということだ。しかし、このことは現代物理学では簡単に否定できる。なぜなら「エネルギーを失って」と述べているように、これは「エネルギー保存の法則」と矛盾するからだ。つまり、真空中を走る光は、常に一定の波長にしかならない。だから、このような「エネルギー保存の法則」に反することがないかぎり、この理論は成立しない。

 

 このように現代物理学は、既存の物理の定理、法則、原理の上に成り立つ。まさに、佐藤文隆氏が言うように、“もっともらしさ”の判定基準は、物理学の体系との整合性にある」の通りだ。


数学的にだけ証明されている現代物理


 「自然という偉大な書物は、数学という言語で書かれている」という有名な言葉がある。これは、ガリレオ・ガリレイの『贋金鑑識官』という書の中の言葉だ。現代物理学は「自然は数学という文字で書かれている」から、さらに進んで、「現代物理学は、数学的に証明されている」に、そしてついには「現代物理学は、実は数学である」となってしまったように私には見える。数学という学問には必ず「公理(axiom)」がある。公理とは、論証がなくても自明の真理として数学者たちに承認され、他の命題の前提となる根本命題であり、前提条件とされるものだ。数学は、この公理をもとにして、いろいろな定理を証明していく。前提となる公理が変わると、まったく違う数学体系となってしまう。公理として、一番有名なのは、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」だ。「2つの点を結ぶ直線はただ1つ引くことができる」あるいは「平行な直線は交わることはない」を公理としてできたものが「ユークリッド幾何学」で、逆に「2つの点を結ぶ直線は無数に存在する」「平行な2つの直線であっても交わる」を公理としてできたものが「非ユークリッド幾何学」だ。このようにしてある公理が否定されると、まったく別の新しい数学体系ができあがる。

 

 このことが、現代物理学にもまったく同じようにあてはまる。物理学にはさまざまな法則、原理、理論がある。これらは、まさに、数学の「公理」に相当する。例えば、この章の最初に取り上げた「相対性理論」は、完全に「光速度一定の法則」という「公理」によって、ビッグバン理論は「エネルギー保存の法則」を前提にして成立している。逆から言うと、前提となる既存の物理法則や原理がひっくり返ると、ビッグバン理論も素粒子理論も揺らいでしまう可能性がある。それが現代物理学だ。2012年に光速度以上で走るニュートリノがあると話題になった。ニュートリノは素粒子のIつで、1987年に物理学者の小柴昌悛氏(2002年ノーベル物理学言受賞)が観測に成功し、有名になった。ニュートリノが光速度を越えるとして世界中で話題になったわけだ。しかし、光速を越える物質の存在は「測定の間違い」で決着がついた。

 

 このような実験結果で出ると、体系がその土台から崩れてしまう可能性が本当にあった。結局間違いだったということだが、ここで私が説明したように、基本定理(数学上は公理)に間違いがあると、すべての理論がちゃぶ台をひっくり返したように怪しくなる。だから物理学者の多くが疑心暗鬼におちいりながらも、この実験の結果の正否を固唾をのんで見守っていたのである。


(引用終了)


◎[Amazon]物理学者が解き明かす重大事件の真相


第1章 理科系の目からみた福島第一原発事故(1)ー 福島第一原発事故の放射性物質放出量の過大評価とそのねらい


第2章 理科系の目からみた福島第一原発事故(2)ー マスコミが伝えない原発事故の真実


第3章 福知山線脱線(尼崎JR脱線)事故は車両の軽量化が原因である ー 理系の目から事件の真相を解明する


第4章 STAP細胞と小保方晴子氏について ー 緑色に光る小さな細胞は本当に存在する


第5章 和歌山毒カレー事件の犯人を林眞須美被告と特定した証拠は本物か?ー 理科系の「科学的に証明された」ということばが、いつも正しいとは限らない


第6章 排出権取引に利用された地球温暖化問題 ー 科学では地球の未来はわからない


第7章 現代物理学は本当に正しいのか?ー 正さの判定基準は、物理学の体系との整合性にある


第8章 仁科芳雄こそが「日本物理学の父」である ー 政治的に葬られた日本の物理学の英雄をここに復活させる


下條竜夫(げじょう・たつお)/兵庫県立大学理学部准教授。理学博士。専門は原子分子物理、物理化学。1964年、東京生まれ。1987年、早稲田大学理工学部応用物理学科卒業。チューリッヒ大学物理化学研究所、分子科学研究所を経て、現在兵庫県立大准教授。『放射能のタブー』(「福島第一原発から大気に放出された放射性物質のベクレル量はチェルノブイリの1000分の1」)、『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(「ジャーディン=マセソン商会が育てた日本工学の父・山尾庸三」)


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by yomodalite | 2016-04-27 17:04 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)
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「ゴロゴロ、ゴロゴロ・・・あーあ、バンクシーがお忍びで大阪に来て、私にだけ作品がある場所、教えてくれないかなぁ・・」(→関連記事)

ふぅーーーそういえば、、

西川貴教が『ミュージックポートレート』で選曲したせいで、久しぶりにヴァンヘイレンの「Jump」を見たんだけど、エディ・ヴァンヘイレンって、中川家のお兄ちゃんにクリソツだよねw


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ていうか、、あれからなんだかんだ意外と泣いてて思ったんだけど、こんなときのために、プリンスのありえね〜衣装の写真を集めておくんだったなって。。。

関西の人しかわからないと思うけど、

明石家さんまが関西で長年やっている番組に「痛快!明石家電視台」っていうのがあって、そこで何十年(?)もやってる定番ギャグ・・・



さんまちゃん:それは女物だよね?



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プリンス:男女兼用でございます!


さんまちゃん:それ、前についてるの何?



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プリンス:チュンチュンチュルリラです!





・・・っていうネタにもっと「ぴったり」なやつを、揃えておくべきだったよ(悔)








↓番組では毎回言ってるような気がしたんだけど
動画で探すのは苦労した「男女兼用です!」
プリンスの「5.5分袖です!」や、
「シンシンシースルー」な衣装も
アップしたかったなぁ・・







マイケルが旅立ったとき、連日朝から晩までなんども特集してたMTVも、毎日「パープルレイン」と、「1958−2016」っていう画面を流すだけで、そんなには特集されてなくて、TVの番組表には「洋楽ナツカシビデオ・ラブソング特集としか書かれていなかった番組で「Betcha by Golly Wow!」と、The Most Beautiful Girl In The Worldの2曲かかったところに、ちょっぴり「追悼」意識が感じたられたぐらいかな・・・



それでは、今日の1曲、
松尾伴内さんにも似合いそうなチュンチュンチュルリラな衣装で、
プリンスの「The Most Beautiful Girl In The World」!!!






残念ながら動画が消されてしまったので、
伴内チックな衣装だけ
写真で押さえておくね。


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by yomodalite | 2016-04-25 15:59 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)

プリンスは永遠

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プリンスが亡くなった。

今は驚いた、という以外に心境を表す言葉がなくて、不思議と悲しいという感情さえ湧き上がってこない。

たぶん、、プリンスに対して元々人間的な感覚をあまりもっていなかったからだと思う。私の中では、彼はCDの中にいる人で、それも何度か聴いているうちに、すぐに新しいのが出て、ただ聴くことでさえ、追いつくことができないし、必ずしもリアルタイムで買っていたわけではないせいか、アルバムからその時代時代の自分を思い出すなんてこともない。

こんなにも音楽を創り続けるなんて、いったいどんな生活なんだろう。と想像しても1ミリだって想像もつかなかったけど、それでいてプリンスの私生活を知りたいという気にもならなかった。

彼が亡くなったことで、これから彼の人生はもっと「語られる」ことになるのかもしれないけど、大勢の人が納得できるような物語にすることなんて絶対にできないと思う。



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西寺郷太氏の『プリンス論』の巻頭言。
あの男の話をしてくれ、詩の女神(ムーサ)よ、
術策に富み、トロイアの聖(とうと)い、城市を攻め陥としてから、ずいぶん諸方を彷徨って来た男のことを。
ーー ホメーロス『オデュッセイアー』呉茂一訳、岩波文庫



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もしも、「プリンスの楽曲を一曲も知らない」という人がいたならば、その人は幸運だと。「ポップミュージック史上最高の天才」の魔法を、この瞬間、ゼロから体感できるのだから・・・『プリンス論』より

幸運・・なのかな。

とりあえず、これぐらいは聴いてきた私だけど、


彼が遺した膨大な音楽をすべて聴くまえに、人生が終わってしまいそう。



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だから、まだの人は本当に急いだ方がいい。
私たちが100歳まで生きたところで、彼は永遠に先を行っているんだから!



Gold original video






スターって、地上からいなくなってもずっーーーと輝き続ける人のことを言うんだなぁ・・

ああ、やっぱり涙が出てきちゃった・・

私と同じ時代に生きてくれて、ありがとう!

いっぱい、いっぱい、素敵な音楽を遺してくれて、、本当に。。



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by yomodalite | 2016-04-22 11:04 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)
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いろいろと揺れる毎日・・・

そんな私の数日間をダイジェストでw



81分と短いし映画館で見ることもないか、と思いつつ、2013年の彼らの動きをさらに1年後に見るのもつまらない。そんな感じで見に行った『バンクシー・ダズ・ニューヨーク』は、予想以上に面白くて、帰り道の梅田のあちこちをストリートアーティストになった気分で見てしまうw。


ドキュメンタリーといえば、Amazonのおすすめで、速攻ポチった『マーロン・ブランドの肉声』についてもあれこれ書きたいと思いつつ、ずっとサボってるんだけど、、なんと、Marlon Brand Tapes があって、しかも、ブランドは自分の頭部のCGまで遺していたんだよね(驚)。ただ、この映画は、どこかでブランドが見ていたら、確実に文句つけまくりの出来ではあるんだけど・・・







そして、CSで見た映画で面白かったのは、長い間少しだけ気になっていた70年代の映画『ファール・プレイ』。


しょっぱなから、バニー・マニロウだったり、ダドリー・ムーアが、ビー・ジーズの「ステイン・アライブ」を踊ったりしていて、MJが『 オフ・ザ・ウォール』を創っていた時代を想いつつ、


『ミカド』というオペラが、思っていたよりもずっと長く重要な場面で使われていることに、「法王の暗殺だからね・・」なんて思ったり・・・とにかく、コメディ映画もミュージカルも傑作にするのは、もっとも難しいジャンルに思えてしかたないんだけど、その荒野に挑んだ、繊細で複雑な個性をもつ作り手が奇跡的に完成させた傑作だということだけは、ミュージカル音痴の私にもわかったかも。


週末は、格闘技本を読んでいれば、強くなれると思っている空手バカのダーリンが「お守り」が欲しいという神社に行く。


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宇野氏が、総理になったときに祈願したって・・・これを「晒し刑」としではなく、外塀に飾っておく神社なんだけど、大人気で入手困難なお守りは、この日も入手できず。お参りだけしてランチへ。


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(神社近くの公園で・・)




神社がある「新町」周辺は、オシャレで美味しい店がいっぱいある地域なんだけど、この日入ったのはここ。

◎[食べログ]ヌードルヤ MEーCHAーKUーCHA

オシャレ系の店にもかかわらず美味しいラーメンを食べたあとは、新町に来たらどうしても避けられないお店「餅匠しずく」へ。


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何種類もあって、どれもこれも美しいうえに、おいしい和菓子はホント選ぶのが大変なんだけど、この日は、白い桜餅と、ほおづき大福と、黒ごま大福の3種類を1個づつ。


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(https://www.facebook.com/)


◎白い桜餅
◎ほおづき大福
◎黒ごま大福

すぐ近くには、いちご大福で有名な「廣井堂」もあって・・・

http://sweetsreporterchihiro.com/22249

私が餅匠しづくで長考してる間に、ダーリンはいちご大福をゲット。

◎餅匠 しづく(食べログ)
◎廣井堂(食べログ)



いただいた後の「ほうずき」・・



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4種類の和菓子がすべて「大当たり」だなんて、大阪の「くいだおれ」ホント恐ろしすぎる。

そして、昨日の夜は「わに風呂」を試してみたんだけど(「マツコの知らない世界」で、亜土ちゃんが絵を描く合間にやっていたのだ)、鼻とか耳とかわやくちゃになって、全然ワニ気分になれず・・・亜土ちゃんにもなれっこなかったことを実感w



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by yomodalite | 2016-04-20 11:35 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)
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自分が震度5を経験したとき、これ以上の揺れには、絶対に堪えられないと思ったのに、震度7って・・・でも、あの頃の混乱を思うと、東京目線で、バラエティ番組を自粛したりして、一日中、九州の地震について報道するなんて、誰にとってもいいことないと思う。1個良いことがあったとしたら、裏では千個の迷惑がかかってそう。日頃から人の不幸や不正で生活している人たちの目線で、これ以上日本が覆われるなんてマジ最悪・・・。

そんなわけで、私のどうでもいい日常をお届けしますが(それが一番求められてないっつーのww)、

昨日は、録画してあったCSの番組「高橋大輔独占密着inトロント&NY完全版」を見た。

サッカー選手などと違って、フィギュア選手の引退って、競技会に限ってのことなので、高橋選手のような根っからのダンサーみたいな人なら、私的にはむしろ大歓迎。ジャッジなんて関係なく、彼が滑りたい、踊りたいっていう世界が観られるなんてサイコーーー!って思ってたんだけど、彼の中では競技会で「1番」を目指すという気持ちはすごく重要だったみたいで、鈴木明子さんが、プロスケーターへの道にすぐに移行したようには、気持ちの整理ができなかったみたい。

番組の前半では、スケートから離れていた時期に過ごした NYでの生活の様子が色々と映っていて、このへんは買ってきたばかりのカメラ(SONYに大枚の修理代を払った足で、ヨドバシカメラに直行。私の前にいた中国人が選んだと同時に「私もこれと同じの」って店員に言う手口で「爆買い」してきたやつ。修理代と商品代を合わせると、自分的には「爆」をつけずにはいれらない金額なんだけど、数年前に使ってたのとほとんど同じ形だから、新しいの買ったってダーリンにバレないという点も良い買い物をしたと思ってる)用のストラップをビーズで手作りしながら見てたんだけど、インタヴューが始まって、急に画面に集中したら、手先が緩んで、必死に糸に通したビースをすべてぶちまけた。「二兎を追う・・」って色々と残念なことを惹き起こすのね、と実感するものの、1個に集中できない性格は簡単には治らない。とりあえず、この場では、速攻ビーズストラップ作りを断念し、大輔の言葉に集中すると、

インタヴューの中で、彼は競技生活でもっともうまくいったのは3回あったと言う。

・全日本選手権2006FS「オペラ座の怪人」
・国別対抗戦2012FS「ブルース・フォー・クルック」
・全日本選手権2011SP「イン・ザ・ガーデン・オブ・ソウル」

そして、一番悔しい経験をしたのは、2012年の全日本選手権で、点差が開いたSPの出来がそんなに悪いとは思わなかったことを挙げていた。

・全日本選手権・札幌2012FS「道化師」(2本の4回転を成功させ、自己最高192.36点をマークするも、SPでの点差を逆転できず、羽生に敗れた)

番組後半は、スターズ・オン・アイス2016で披露される、ジェフリー・バトル振付の新作について。

ジェフリーは大輔に選んだ曲をこう説明する。

ジェフ・バックリィ(30歳で不慮の死を遂げたアーティスト)は、ハレルヤという曲が有名だけど、「ライラック・ワイン」もすごく良い曲。ある男がライラックの木からワインを作るんだ。彼は基本的に酔っているんだけどね。酔っぱらうと恋人が見えるんだよ。恋人は死んでしまったか、別れたのかはわからないけど、彼女のことを思い出すために飲むんだ。多分、恋人は死んでしまったと思うんだけど、彼は恋人の元に行く準備はできていないんだ。ちょっと暗いんだけど美しい曲だよ。君がどう思うか聞かせて。

このあと、ジェフリーが振付をしていく前半部の様子が、最初から見られて大興奮。大輔もジェフリー上手すぎるって言ってたけど、ホント現役時代よりも美しくみえて、ますます好きになっちゃった。


バックリーの曲は、ちょっと雰囲気ちがうけど・・あえてLIVE Versionで。


Jeff Buckley - Lilac Wine






どこを切っても好青年キャラしかないようなジェフリーだったけど、高橋への選曲センスから、彼の別の一面が垣間みれた気分。今日(15日19時)放送の「スターズ・オン・アイス」生中継も楽しみーーーー!(と言ってもおそらく生では観れない)


◎再放送「高橋大輔独占密着inトロント&NY完全版」
5/7(土)午後6:00~午後8:00、5/28(土)午後9:00~午後11:00


大輔の今後に安心したところで、ぶちまけたビーズを片付け、夕食に、少し前に『あさいち』でみた「ピーマンの肉詰め」は、ピーマンの種をとらない(!)と上手くできるという衝撃情報を自分でも試してみたくなって、数年ぶりに作ってみる。本当に信じられないことに、食べたときに、種がまったく気にならない(驚)。

自分が朝ドラを毎日見るようになるなんて、数年前まで考えられなかったけど、うっかり「あさいち」まで、続けてみてしまわないように気をつけているのにぃ・・・ピーマンの種をとらないでいいとか、タケノコは米ヌカじゃなくて、大根おろしでゆがくというのは(これは別番組)、テレビで知った情報の中で、1、2を争う有益な情報な気がする。

ダーリンは、『クレージー・ジャーニー』の影響からなのか、最近、探検家の人の本をよく借りてきていて、私も角幡唯介氏の書評本『探検家の日々本本』を横取りして、その本の中から、『倒壊する巨塔』や、『世界しあわせ紀行』を読んだり、高野秀行氏の『世界の辺境とハードボイルド室町時代』をパラ読みして、高野秀行氏の本はもっと読んでみなくちゃ、と思いつつ、友人から何度かおすすめされていた、カーソン・マッカラーズを読み始める。最近、村上春樹の新訳が文庫で出版されたのだ。

文庫っていいよね。どこでも持っていけることも考えると、この形が一番読みやすいと思う。机の上に『日亜対訳クルアーン』ていう分厚い本が乗っかっているときは、特にそう思う(これは図書館本だけど、kindle版を出してくれないなら買いたくない。読みにくいし、地震のときも大変だもんイスラム教って昔は回教だったし、モハメッドがマホメッドになって、ムハンマドになったと思ったら、コーランまでクルアーンとか言いだしたのは、きっと中田考氏のせいだと思うけど、でも、それで、なにか正解に近づいた気なんて全然しない。

かつて、どんなイタリアンレシピでも、トマトは種を取って調理することになってたけど、実際にイタリアではそんなことしてなかったとか、年を重ねると、そんな苦い経験だけが重ねられて、よけいにわからなくなることばっかり・・・カメラのピントを合わすよりも、自分の眼のピントを合わす方が大変だし(泣)、

でも、やっぱり新しいカメラで見るのは楽しくて、そうやってお金も人生も消費していくのね。「なっとく」by 明石家マンション物語(懐)



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by yomodalite | 2016-04-15 13:39 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)
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ウィラとエレノアの会話がイマイチ理解できないという感想を小耳に挟んだことがきっかけで、どんどん解説が長くなってしまったティーザー記事も今回で20本目。


◎初回記事「ヒストリー・ティーザーについての記事を紹介します」


世界で一番の有名人であり、かなりの読書家でもあるマイケルの『ヒストリー』を、読みやすい分量でまとまるような内容にしてしまったら、マイケルのHIStory(歴史観)や、HIStory(彼の物語)ではなく、マイケルを利用したストーリー(物語)になってしまう。そんなものはもうたくさん!と思っていただける方に共感していただけるようなものを目指し、ふたりが探してくれた内容から、さらによく見ることを心がけ、安易な物語や、主観を排除してきたつもりなんですが、そのことで、ますます理解しにくいのでは、というジレンマに苛まれ・・


ただ、自分なりに精一杯努力した、という気持ちも芽生えてきたので、そろそろ区切りをつけたいと思います。


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最後は、あの巨大な像を中心にして、なんとかまとめてみました


⭐️ ⭐️ ⭐️


HIStoryは、メディアによって繰り返し語られる嘘が、大衆の心に根を下ろして出来上がった偏見に満ちた物語(his story)を、彼自身の側から語った(his story)であり、彼の歴史観(history)でもある。


『意志の勝利』の監督リーフェンシュタールは、ナチの世界観を反映しただけでなく、ナチスドイツを創造し、維持していくための神話を創り出そうとしたが、マイケルがティーザーでやったことも、それと同じだと言える。ヒトラーは、「我々は、ひとつの国民にならなければ。そして君たち若者が、その国民なのだ。階級による差別はない。君たちの中にそんなものがあってはならないのだ」と言った。それは純粋なドイツ国民でさえあれば、優性が与えられるというもので、疲弊した国民、特に若者たちに熱狂的な受け入れられた。マイケルの映像は、ヒトラーが期待感を煽り、欲求をかき立てるという点では似ているものの、彼はマッチョ的な要素なしに、その熱狂を作り上げた。


でも、ヒトラーの『意志の勝利』が引用されただけでなく、チャップリンの『独裁者』の最後のスピーチを映像化したものだと気づいて感動した人も多いでしょう。マイケルは、チャップリンが演説した世界観を、その魅力的な「スマイル」とともに表現した。


長年、私はそれだけで納得したような気分でいたけど、でも、チャップリンの映画は、独裁者を床屋と同じ普通の人間として描いていて、スピーチのあとチャップリンが演じた男も、床屋に戻った姿が容易に想像できる。ただ、実際その後のチャップリンはそうではなく、『独裁者』はチャップリンへの世論を変え、愛すべきLittle Trampだった男は、アメリカを追われた。


ティーザーは、『独裁者』のあとのチャップリンの歴史をも内包し、インターナショナリズムや、反ナショナリズムが「非アメリカ人」として責められる大きな原因になることを覚悟し、また、演出にマイケルの意図が反映されていることが間違いないこの映像には、彼を崇める大勢の群衆が映され、巨大なマイケル像は世界のあちこちに建てられ、テムズ川をも渡って行った。マイケルの周囲には、「KING OF POP」のプラカードが常にあり、誰もが彼をエンターテイメント界の王様だと認識していただけでなく、彼自身もそのイメージを積極的に拡散した。


このフィルムは、王座に君臨するがゆえの攻撃の炎に、自ら大きな燃料を投入したと言う点でも稀有なものだ。実際、このあと彼が受けたメディアによる制裁もかつてないほどのものだったけど、巨大な像を建立し、自分を崇める大勢の人々をも映し出したのだから、自己神格化という批判は、マイケルにとって想像通りの反応だったはず。


実際、これが公開になった直後のインタヴューで、マイケルは十代のアイドルのような無邪気さで、「それを待ってたんだ」と答えている。議論が起こることを待っていたと。でも、このティーザーを細かく見て、真面目に論じるなどということが、マスメディアに無理なことだってわかっていたと思う。これはアルバムの宣伝のために造られた映像なので、そういった反応に広告効果があることも事実で、ビジネス感覚にも長け、また無類のイタズラ好きの彼は、真面目くさった批判も面白く感じていたかもしれない。でも、それだけの理由では、やはりこれほどリスクが大きい作品を創ることはできない。作者が意図しなくても、時代を超えて議論され続ける作品が出来上がることはある。でも、マイケル自身にその確信がなければ、商業的なポピュラーミュージックの最前線でトップの商業成績を保ちつつ、この緻密な構造を作品化するために、莫大な予算と時間を使うというのは絶対に不可能なことだ。


ティーザーには、『意志の勝利』や『独裁者』以外にも3つの映画が引用されていて、それらは、すべて世界大戦の恐怖や、最終戦争といった人類全滅の可能性を秘めている。


『意志の勝利』と『独裁者』は、世界制覇を狙うイデオロギーがテーマで、前者はそれを推進し、後者はそれに対抗している。『レッド・オクトーバーを追え』は、冷戦時代が舞台で、アメリカとソ連の軍事的緊張状態の中で、他者への理解を描き、『ターミネーター2』は、機械と人間が、地球だけでなく、宇宙の覇権まで争って戦争をする恐怖の未来を避けるために、現在を変えようとする。そして、『地獄の黙示録』は、アジアが大国の駆け引きが飛び交うチェス盤となった原因を、古代から受け継がれた人々の精神の中に見ようとした。


そして、マイケルの世界観は、帝国支配の歴史と、大戦後数十年にわたってソ連の占領下に置かれたハンガリーを舞台に、平和と戦争を並列することで語られる。ここでは「情景と音」はかみ合うことなく、音は常に情景を攪乱する。「善」と「悪」に対する従来の考え方に大きく挑戦し、人々の立場を逆転させ、他者への感情移入を促すように。


なぜなら、マイケルの革命は、敵を攻撃することではなく、自分の心の内の思考や感性に革命を起こすことだから。


私たちがこの映像を見て、不安を感じる部分があるのは、私たちが『意志の勝利』のように、独裁者の王を歓迎した事実と、『地獄の黙示録』のような《王殺し》を支持したという両方が表現されているからだ。


マイケルが旅立った後、彼の地に落ちていたイメージは反転し、大勢の人がマスメディアの嘘に怒りをあげたが、今、毎日のように誰かが批判されているのは、マスメディアのせいではなく、匿名のネットの声。


歴史から学ばない人々は過ちをくり返す。マイケルは、運命は私たち自身が作るものだと考え、この軍隊をどう読み取るべきかについて、あえて、わかりにくくしている。彼が率いている兵士たちは、一見、帝国主義国家の兵士たちと同じような規律をもち、命令に従っているように見える。でも、彼らは、敵を倒すことなく、腕には包帯を巻き、木で出来た銃をもち、全体主義ではなく、力強い団結をあらわしている。そして、マイケルは、彼らを率い、英雄広場へと向かっていく。


そこにつながる道には、大天使を戴いた円柱がいくつも並び、マイケルは大天使ミカエルのようにも見える。しかし、突然、雰囲気が変わり、車が燃え、『地獄の黙示録』のように、ヘリコプターが上空を旋回し、爆音が響き、マイケルの軍隊を歓迎していた群衆は、恐怖に怯えパニックに陥る。混乱した群衆の様子は、軍を美化する映像を疑わせ、同じ軍隊が自分たちに銃を向けるようになること、強力な軍の力が守ってくれると同時に、脅威にもなることも感じさせる。


私たちの「善」や「悪」という単純な考え方が、ものごとをさらに混乱させるのだ、と教えるように。


登場したヘリコプターは攻撃開始ではなく、祝福の合図だったことは、このあとすぐに明らかになる。ライトアップされた記念碑の中で、赤い垂れ幕の前に浮かび上がるのは、政治家や将軍たちの像で、その前には、起爆を指揮する威厳のある男と、スイッチを入れる男。彼らが「善」なのか「悪」なのかはわからず、像が爆破される不安を感じさせながら、男がレバーを押すと、縛り縄が飛び散り、像を覆っていた幕は地面に落ち、巨大な彫像が露わになる。


それは、デンジャラスツアーのオープニングで「JAM」を歌ったときと同じ衣装を着たマイケルの像で、ツアーが行われなかった米国では、驚異的な視聴率を記録した1993年のスーパーボウルのハーフタイムショーに登場したときとも同じ。これが「マイケル・ジャクソンの像」だということは誰の目にも一目瞭然で、批評家たちは、こぞって「空虚な栄光に彩られた自己神格化」だと批判し、マイケルと親しくしていたユダヤ教のラビは、人間の男性が巨大な像となって崇拝の対象になるという場面を見て、椅子から転げ落ちそうになったという。生来の深い精神性を持ち、『スリラー』のあとでさえ、熱心なエホバの証人だったはずの人間が、どうして自分を神格化したり出来るのか?と。


でも、この彫像が、マイケルの芸術や遺産を表現するなら、なぜ、弾ベルトを身に巻きつけ、POLICEバッジをつけた姿だったのか? 映像の冒頭でも、多くの人が聞き取れないエスペラント語ではあるものの、「世界共通の母と、愛と、音楽の癒やしの力の名のもとに、像を建てる」と言っていたはずなのに。マイケルの代表曲で、ムーンウォークのパフォーマンスで有名なビリージーンの衣装のように、帽子や、白く煌めくルーズソックスといった《シンボル》ではなく、なぜ、戦争や警察といった、マイケルのイメージとは真逆といえる《シンボル》で創られているのか?


私が思いつくのは、何度も断っていたハーフタイムショーのオファーを受けたのは、スーパーボウルが世界中で中継され、各地に駐留している米軍も見ていることを知ったからだった、という情報。マイケルは「さすがに僕もそこまではツアーでも行けないから」と考えを変え、出演を決めたという。米国では、ベトナム戦争から戦争の意義に疑問を感じる人が激増し、帰還兵は命がけの経験をして、国に戻っても社会から差別を受け、そのトラウマの解消には光が見えず、戦場以外で生きる術のない彼らのほとんどが外国での生活を余儀なくされ、彼らにとってのアメリカは米軍の中にしかない。そんな兵士たちの孤独と傷は、1982年に公開された『ランボー』によって映像化されたが、誰も演じたがらないことで、キャスティングさえも難航したという。


そして当時、社会主義国家が倒れていく革命の中、警察官たちが権力者たちの命令によって、市民を攻撃し、衝突する場面も幾度も映されていた。革命に燃える市民にとって、警察官は安全を守ってくれる存在ではなく敵になっていた。


つまり、マイケルにとって、ハーフタイムショーは戦場で傷ついた兵士たちへの慰問でもあり、この衣装を着て歌ったJam(団結)は、帰還兵に冷たいアメリカ社会と、兵士たちを繋ぎ、新たな社会を求める市民と敵味方に分かれた警察官をも団結の輪の中に入れようとする、マイケルの想いが込められたものだったのではないか。


引用された映画が最終戦争や黙示録に関わるものだったように、マイケルのティーザーでは、聖書の中で禁止されている「偶像崇拝」を揶揄したという側面もあるが、宗教が弾圧された社会主義国家では、1989年にベルリンの壁が壊されたあと、独裁者や指導者たちの彫像が倒される映像が世界中に溢れていた。そういった価値観が大きく転換した国々に、マイケルは「新たなヒーロー像」として、巨大な像を建てた。この像には、数多くの《星》の意味が重ねられ、人々の希望や、スター(英雄)、民族や、防衛、そして呪術でもある《星》をそのあらゆる意味で統合しようとしている。


黒人でありながら、白い肌になり、男性として、女性的な美を取り入れ、王として、子供の心を持ち、平和を祈りながら、兵士たちを癒し、権力者と市民を分断せず、人々の安全を見守る・・それは「マイケル・ジャクソンの像」であっても、マイケルが生涯に渡って体現しようとしたイメージ(像)だったのではないだろうか。


HIStory(曲)では、蹴飛ばされても果敢に挑み続け、自らを鼓舞する男が登場し、日々の歴史は、自らの手で作っていくのだと人々を励まし、ひとりひとりが歴史の担い手だということを意識させた。


マイケルが好きだったガンジーは、


「人は、自分が信じたものに近くなる」と言った。


HIStoryはマイケルの物語であると同時に、大文字のHISは神を指し、HIStory(神の物語)でもあった。私はこの世界のすべてを創造したという「神」の存在について、強い関心をもったことはなかったが、マイケルの信仰を考えているうちに、これまでとはまったく違う信仰の意味が感じられるようになった。


それは、自分が想像する以上の神を人はもつことが出来ない、という恐ろしさと同時に感じたこと。マイケルを「自己神格化」だと批判し、彼のあらゆる行動を批判した人々にとって、神を信じるということは、神に近づくことではなく、彼らにとっては運命に身をまかせることが神の思し召しであり、誰かを批判するのも、その正義の秩序を守るため。


『地獄の黙示録』の引用は、KING OF POPである自分への《王殺し》の予言ともいえる。疲弊した90年代の米国社会は、再生のための《王殺し》を、強く豊かだった80年代を象徴したマイケルに求めていた。マイケルは人々の暗い欲望を感じながら、さらに自分の殻を脱ぎ捨てるという転生を重ね、最終的には勝利を収めるという英雄への道を歩む決意を示した。何度も傷つけられながら、マイケルが人々を信じ続けたのは、


人は、自分が信じたものに近くなる。


という信念からだったのではないか。マイケルは神を信じることで、神の愛に近づき、愛は誰かを独占することではなく、与えることだと理解した。


女子サッカー界の英雄、澤穂希は、


「苦しくなったら、私の背中を見て」と言った。


時としてルールが通用しない愛について理解する手がかりは少ないが、人は手本になる「像(イメージ)」がなければ、苦しみに沈んだとき、暗い欲望から行動を起こし、世界に残されるものは憎しみでしかなくなる。


リアルタイムでこの映像を見たとき、素晴らしいと思うと同時に、何もしなくても売れるほど有名なアーティストが湯水のように広告費を使うことが無駄も思え、大人げないとも感じていた。これほど恵まれて成功したマイケルが、一番を目指し続けることに共感もできず、嫉妬する気持ちさえあった。それまで、一番を目指す競争の激しさの中に、美しさを感じたことがなく、なにか傲慢なものを感じていたからだと思う。


マイケルが与えられたものを大事にするだけでなく、かつてないほどの責任を感じて「KING」の役目を果たそうとしなければ、こんなにも才能に恵まれた人が、ここまで、すさまじい努力をしてくれなければ、わたしには何年経ってもわからなかったのだと思う。そして、マイケルもそれをわかっていたから、ここまで全力を尽くそうとしたのだろう。


たった十数年で変わる時代に身をまかせるのではなく、時代を超えるために身を投げ出した多くの英雄たちの姿を忘れず、いつまでも心の中で大きく立ち続けるために。あの像は巨大でなくてはならなかった。


スタジオでいつも驚くほどの爆音を好んだマイケルが、彼らに贈った壮大なレクイエムはもっともっと大きかったのだから。








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by yomodalite | 2016-04-12 11:38 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(3)

旧淀川の夜桜

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満開の桜が堪能できる最後の夜
ライトアップされた大川と堂島川の夜桜




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堂島川



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左奥は「水晶橋」





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対岸は「中之島Love Central」




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ipone5sの夜景撮影って、
これぐらいが限界でいいのかな・・


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by yomodalite | 2016-04-07 22:19 | 日常と写真 | Trackback | Comments(2)

大阪、お花見散歩

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大阪で3回目の桜の季節。

東京を離れるとき、家の目の前の隅田川沿いや、千鳥ヶ淵の桜もしばらく見納めなんだなぁ。。と思うとすごく寂しい気がしたんだけど、大阪のお花見の楽しさはそれ以上で、、

隅田川沿いは、普段から、東京のあらゆるテレビ映像で頻繁に映っている場所なのだけど、実際そこを歩いているのは、近所の住民だけで(それでロケ使用が多い)桜の季節になっても、人通りはそれほど変わらず、桜はとても綺麗だけど、屋台は並ばないし、お花見の場所とりも難しい。

千鳥ヶ淵の桜も美しさは圧巻だけど、やっぱり桜を見ながら、お弁当を広げたり、屋台ものをつまみながら、、というのはイマイチしにくいし、

目黒川の桜もめちゃくちゃ綺麗なんだけど、人の多さがハンパないし、川沿いのお店はどこも入れないほど混在してる。

でもね、大阪市の中心部を通る「大川」の桜はどこまで歩いていっても終わらないぐらい広範囲で、本当に大勢の人が繰り出して賑わっていても、混雑感がないし、たくさん出ている屋台は、味も東京よりずっとレベルが高い上に、座席を用意してくれているお店も多くて、どこでも腰を下ろす場所に困らないし、つまみ食いしながら、桜散歩するのもすっごく楽しいの。

そんなわけで、満開になった土曜日、今年も大川沿いをぐるりと桜散歩。


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ここは、大川沿いに行く途中。
田蓑橋の近くにある検察庁ビルの前
(メインカメラが入院中のため、廃棄寸前まで使い込んでるGR-Ⅱで撮影)




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奥に見えるのは中之島図書館



◎中之島図書館に、北欧サンド専門店オープン!

改装後の図書館の中にはまだ入ってないけど、たぶん、カフェはこの窓の奥



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図書館前にあった、今日イチ、シャレオツなチャリ003.gif



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川沿いに到着!
(ここからの写真はすべてスマホ!)



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こんな桜並木が延々と続く道を歩いていると、おなかが空いてきたので、



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桜ノ宮公園、川崎橋近くでいつものw「焼きたけのこ」を買う!



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このボリュームで2本で500円012.gif




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焼きたけのこを堪能しながら、そこから少し歩く・・



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旧桜宮公会堂
(大阪市内にいっぱいある重要文化財建築のレストラン)



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旧桜宮公会堂(右)と、泉布観(左)という2つの重要文化財がある敷地には、この時期オープンカフェも開設され、メニューは全てワンコイン。こんなに良い場所が、満開時の昼時に行列なしで座れちゃうし、神戸牛サンドをツマミながら、箕面ビールやコーヒーが楽しめます。

◎[参考記事]すばらしい建築物「泉布観・旧桜宮公会堂」


全国的にも有名な《造幣局の桜の通り抜け》もこの近くなんだけど、そちらは特別品種の桜なので、もう少し後のお楽しみ。

http://afun7.com/archives/3447.html


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《今日の音楽》

福山雅治やリリー・フランキーとのセッションで、アドリブで曲にあわせたラップを披露するのを見て、すっごく好きになったんだけど、彼が大阪北区天神橋6丁目(通称天六)育ちだと聞いて、ますますファンに。(今回の桜散歩もすべて大阪市北区内です)





桐谷健太「海の声」




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by yomodalite | 2016-04-03 19:16 | 日常と写真 | Trackback | Comments(4)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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