<   2016年 03月 ( 12 )   > この月の画像一覧

リップヴァンウィンクルの花嫁 [DVD]

黒木華,綾野剛,Cocco/ポニーキャニオン



久しぶりの岩井俊二監督の映画。長編実写映画としては12年ぶりだからか、公開前の広告期間の長いこと長いこと・・・いつになったら観られるのっ!とヤキモキしていた私は、始まったら始まったで、最初のレディースデーまで待って観に行くレベルの岩井監督ファンなんですが・・・

事前に情報を知りたくない私は、主演が黒木華だという以外は、なにも知らなかったのですが、前日、ダーリンに、明日『リップヴァンウィンクルの花嫁』を見に行くって言ったら、

「『野獣死すべし』って映画見たことある? その映画で松田優作が、リップヴァンウィンクルの話をする場面が、すごく怖くてさ・・・」

調べてみると、それはこんな場面・・・




(松田優作が演じる伊達が、刑事の室田日出男に言うセリフ)「リップヴァンウィンクルの話って知ってます?いい名前でしょ?リップヴァンウィンクル、彼ね、山に狩りに行ったんですよ。山へ狩りに・・そこでね、小人にあったんですよ。なんていう名前の小人だったかは忘れましたがね、ずいぶん昔の話だから、とにかくその小人に会って、ウィンクルは、お酒をご馳走になったんですよ。そのお酒があまりにも美味しくて、どんどん酔ってしまったんです。そして夢を見たんです。眠りに落ちて、夢を見たんです・・
『リップヴァンウィンクル』は、アメリカの小説家ワシントン・アーヴィングが書いたアメリカ版の「浦島太郎」で、主人公のリップヴァンウィンクルが戻ってきてみると、友人も妻もみんな居なくなっていた、というお話。時代遅れ、とか、眠ってばかりいる人、という意味があるそうで・・・

ちなみに、この本はマイケルの書棚にもあった本で、映画を観る直前に読み返していて『リップヴァンウィンクルの花嫁』は、この主人公に置いて行かれた「妻」の話なのかな?

と想像していたんですが、上映中はそんなこともすっかり忘れ、主人公がLINEのようなサイトを使いだすと、ニックネームの、クラムボンや、カムパネルラに幻惑されて、ああ、そーゆー話になるのか・・と思い、それで、実際にそーゆー話になったあと、「リップヴァンウィンクル」が登場して、Coccoがちょっぴり歌い、ちょっぴり踊り・・そして、ああ、そー来る、そうだよね、岩井監督だもんね・・・なんて観ていると、やっぱりそーゆー展開になって、岩井監督らしいわ・・なんて観ていると、最後は、あ、そーゆー風に終わるんだ。みたいな。ってどんな「みたいな」か、さっぱりわからないと思いますがww

とにかく、岩井監督ファンにとっては、ある意味予想通りであり、公式サイトで使用されているメンデルスゾーン以外も、誰でも聞いたことがある同じようなテンポのクラシックの名曲が全編通して流れる中、不思議と飽きることなく、次から次へと岩井ワールドに嵌められていくあっという間の3時間(上映後に見た情報サイトで3時間だったことを知って驚きました)。

春の眠さと、鼻炎薬の両方で眠い私を、なぜか目覚めさせる映画でした。

主演は黒木華さんとありますが、綾野剛さんも同じぐらいの存在感で、数多くの出演作の中でも、この映画の綾野剛がサイコーと思う人も多そう。かつてもっとも泣いた(周囲が引くほどの嗚咽レベルでw)映画が『笑の大学』だという私の涙腺は乾いたままでしたが、上映後の館内にはすすり泣きする方もチラホラ・・・それと、エンドロールで「アレっ」と思ったのだけど、森下くるみさんは、どこで出演されていたのかな・・・次回は、そこに気をつけて見なくちゃ・・

この映画への評価:クラゲが好きな人にお薦めしたい映画



[PR]
by yomodalite | 2016-03-31 12:03 | 映画・マンガ・TV | Trackback(1) | Comments(0)

f0134963_14283444.png


HIStoryティーザーについて、長々と書いてきましたが、今回と次回でティーザー解読の長い旅を一旦終了したいと思います。


今回は、マイケルが細部にまで注意を払って、さまざまな普遍的なシンボルを使っている点について分解してみます。


これらは隠された意味というよりw、マイケルはあらゆるものを混合させ、統合しようとしていたのだと思います。



f0134963_15233395.png



ローマ帝国や、オーストリア=ハンガリー帝国、ナチス・ドイツ、ロシア、アメリカなどで、軍隊のシンボルとして使われている鷲と剣(鷲と武具)の像。




f0134963_15234746.png



太陽は、太古からあるシンボル。




f0134963_15252606.png



神の軍隊を表す「鷲と武具」のシンボルから、兵士たちがあらわれる。



f0134963_15243806.png


工場、労働者、道具は、共産主義や全体主義のプロパガンダとしてよく用いられたシンボル。



f0134963_23490825.jpeg
(実際のポスター。労働者の地位と向上を目指し、
労働の価値観を重要視していた)




f0134963_15244911.png



この場所にいた男はエスペラント語で話し、それは、チャップリンの『独裁者』の引用でもあるのですが、チャップリンがユダヤ人のゲットーにエスペラント語を忍ばせたのは、ナチス対ユダヤ人という対立において、ユダヤ人の側からのみで描きたくなかったからでしょう。マイケルのこの「星」も、エスペラントのマークとしてではなく、ロシア、アメリカその他様々なシンボルに使われている「星」だと思います。




f0134963_15250867.png


文字は全て架空のものですが、ロシア語のようなデザイン。最初にナチスを思わせた軍隊に、ソ連のイメージを重ねている。




f0134963_15253724.png

f0134963_15254875.png


像が造られている場所では、《眼》の部分がクローズアップされる。眼のシンボルは、古代エジプトからあるもので、『HIStory』のブックレットには、MJがカフラー(Khaf-Ra)王に扮しているような写真もありました(→リンク)。この王の姿は、ハヤブサの姿あるいは頭部を持つ天空神ホルスが元になっていて、この神の目が世界中の眼のシンボルの元型になったとされる。ホルスの左目は月の象徴、右目は太陽の象徴とされ、この場面では像の右目(太陽)がクローズアップされている)




f0134963_15255975.png


ヒトラーの映像でも、兵士たちに惹かれる子どもは重要だった




f0134963_15260814.png



建築中の像の《星》。左手に見える鉄骨は、その星よりもずっと小さな《十字架》に見える。





f0134963_15262434.png



兵士を率いるマイケルの腕の《星》と、ヘブライ語やルーン文字のような古代を思わせる文字





f0134963_15321280.png



最初にナチスを思わせた兵士たちは、実はソ連軍のユニフォームを着ている。





f0134963_15314675.png



MJのコンサートでもお約束の《熱狂で倒れる少女》





f0134963_15324310.png



ナチスのパレードを思わせる光景の中にマイケルの《眼》のシンボル。マイケルの眼は《左目》なので月のシンボルといえるのかも・・・




f0134963_15325458.png



実際のマイケルの《眼》は隠され、サングラスを外す瞬間に期待が高まる




f0134963_15330975.png



再びコンサート会場のように、人々の熱狂は高まる。





f0134963_15331927.png



サングラスを外したマイケルが最高の「スマイル」を人々におくる




f0134963_15333082.png
f0134963_15333900.png



最初にナチスを思わせたパレードは、花吹雪や紙テープによってアメリカ的な様相をも見せる。観衆と兵士たちは、同じぐらい大勢。




f0134963_22463454.jpg



この場面も『意志の勝利』と酷似していますが、マイケルの映像では、凱旋門の前の広大な道の両側にハンガリーの英雄広場にある大天使ガブリエルを頂く円柱がいくつも並んでいる。ここから、マイケルを「大天使ミカエル」と捉えることができるが、一方で、ガブリエルは何体もコピーされ、大天使の意味は失われている。


マイケルがHIStoryの冒頭に、ムソルグスキーの組曲『展覧会の絵』を使っていることも考えると、この凱旋門から、ハンガリーが侵攻したウクライナの「キエフの大門」のことも思い出される・・・マイケルが率いる兵士たちの哀しみは、レッド・オクトーバー賛歌によって歌われていますが(→リンク)「キエフの大門」は、ムソルグスキーが亡き友人を追悼するためのレクイエム。建築家だった友人は、モンゴル帝国によって壊されたキエフの門の再建コンペに応募していたが、再建は行われないまま、友人も亡くなってしまった。





f0134963_15340323.png



兵士たちは、撃つことのできない、木で出来た《銃》をもっている




f0134963_15341934.png



『地獄の黙示録』と酷似したシーン。これも《太陽》のシンボルですが、この映像の中の太陽はすべて「夕陽」になっている。





f0134963_15343065.png
f0134963_15344091.png
f0134963_15352865.png



ヘリコプターの登場でこれまでとは雰囲気が一変し、暴動や攻撃への恐怖からパニックが起こる。





f0134963_15354289.png



ハンガリーの「英雄広場」にある千年記念碑。ライトアップされているのは、正面右側にある政治家や将軍たちの像




f0134963_15355268.png




像の除幕式への期待と、攻撃への恐怖に混乱する群衆(視聴者も同様)




f0134963_15360610.png
f0134963_15362236.png



天使ガブリエル像越し(手前の影)にサーチライトを浴びる像




f0134963_15370995.png


英雄たちの像が納められたハンガリーの千年記念碑は、実際は2つしかないのですが、ここでは、巨大な像の周囲にいくつも建てられている。彼が考える英雄はHIStoryという曲で歌われたように大勢いるからでしょう。



f0134963_15382082.png


像にかけられた幕を縛っていたロープが爆破によって解かれる・・



f0134963_15383268.png


彫像が建っている下の部分は、アメリカ国防省、通称ペンタゴンと言われる「五角形」から、各床に環状に広がる構造を模しているが、彫像の台座は、ダビデの星と同じ《六芒星》になっていて、それぞれの星の先が、「千年記念碑(英雄たちの像)」に繋がっている。星のシンボルは幾重にも意味が重ねられている)





f0134963_15222534.jpg

(ペンタゴン)






f0134963_23204594.jpg


実際の千年記念碑の中央にあるガブリエル像が取り払われ、戦争と平和の像の対比をピックアップしている




f0134963_15385781.png


現実の英雄広場と比較すると、マイケルの像が建つ広場では、歴代の王たちとガブリエルが一貫して消去され、マイケルの像は、ガブリエル像をさらに巨大化させ、その存在と交換されているようにも見える。




f0134963_23233765.jpg

(実際の千年記念碑)





f0134963_15391876.png


エスペラント語で、「さまざまな国が、世界共通の母と、愛と、音楽の癒やしの力の名のもとに、この像を建てよう!」といって建てられた巨大な像は、デンジャラスツアーの、オープニングと同じ衣装を着たマイケルの像で、「Jam(団結)」を歌ったときのもの。




f0134963_15392816.png


そして、腕にも、そのときと同じバッジ・・・




f0134963_23254024.jpeg


このバッジを衣装から拡大すると・・・




f0134963_23262024.jpg


「六芒星」と「円」と「五芒星」をミックスした上に、上部を「鷲」、下部に「POLICEを重ねてデザインされていることがわかる




f0134963_15395277.png



世界共通の母と、愛と、音楽の癒やしの力の名のもとに建てられた像は、なぜ、「POLICE」なのか?





f0134963_15400250.png


攻撃するかのように見えたヘリコプターは、この像に「降参」したかのように、股の下をくぐり、祝祭を盛り上げているかのように旋回し・・・




f0134963_15401896.png


f0134963_15403070.png


人々は歓声をあげ、誰もが「KING OP POP」を祝っているかのよう・・・




f0134963_15404692.png



でも、この結末はチャップリンが『独裁者』で演説した世界観をあらわしたものと言えるのでしょうか?私には、ただの床屋が「独裁者」と間違われて、演説した世界とはあきらかに異なる《要素》が混入されているように見えます。




f0134963_15405851.png




[PR]
by yomodalite | 2016-03-30 08:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
f0134963_09444914.jpg



『The Michael Jackson Tapes』は、明日で翻訳完了。

マイケルの会話がなくなった時点で、終了してた。と思う人がほとんどだとは思いますが、シュムリーの「謝辞」と、翻訳監修者childspirits先生の「あとがき」で、本当に終了です。

シュムリーのあとがきまでガマンして読んでくださった方も、彼のあまりのしつこさに「いいかげんにしろ!」と思われた方も多かったでしょう。

マイケルが旅立ってから、彼を救いたいと思っていた大勢の人は、誰もが彼を救うことができなかったと言い、誰もがそれを、自分とは別の取り巻きのせいにしました。

でも、マイケルを救うってどういうことなんでしょう?

彼は、イエスが言ったように

「自分の目の中の〈丸太〉に気がつかないのに、なぜ、人の目についた〈おが屑〉が気になるのか。自分の目の中の丸太で物が見えなくなっているのに、どうして、人に「あなたの目から〈塵〉を取り除く手助けをしよう」などと言えるのか。(→ 山上の説教)

と思っていたのではないでしょうか。

シュムリーは、取り巻きだけではなくマイケル自身に責任があり、とりわけ、幼い子供を残して去ったことを厳しく責め、自分の子供だけでなく、世界中の子供を救いたいという彼の夢をメシア・コンプレックスだと非難しました。

でも、マイケルについて書かれた数多くの本の中で、著者の内面や脳が割れるような体験とともに書かれた本は、シュムリーのこの本だけではなかったか。と、私は思います。私の方がもっともっと悲しんだ、と思う人は大勢いると思いますし、私自身、流した涙の量では余裕で勝っている気もしますが・・・それでも、人生をかけた仕事や、9人の子供をもつ父親としても、そのアイデンティティのすべてにおいて、本当に心を揺さぶられ、激しい葛藤の中で書かれた本は、この本以外にはないように思います。

人を導くラビとして、ようやく成功の果実を手にいれられそうになっていたとき、突如現れたピーターパンとの出会いと別れ・・・

そんな風に感じるのは、私だけかもしれませんが・・・シュムリーは「謝辞」でも、マイケルにありがとう。と言っていて、私はその言葉だけは100%信じています。



[PR]
by yomodalite | 2016-03-25 10:03 | ☆マイケルジャクソン書籍 | Trackback | Comments(0)

書店主フィクリーのものがたり

ガブリエル・ゼヴィン/早川書房

undefined



プリンストン大学の大学院でエドガー・アラン・ポーを研究していたフィクリーは、妻の助言から、アリス島でたったひとつの小さな書店アイランド・ブックスを経営することに。しかし、売り上げは観光客が訪れる夏だけ・・妻を事故で失ったあとは、ひとり売れない本に囲まれる毎日だった。


アメリア・ローマン(エイミー)は、ナイトリー・プレスという出版社の伝説の営業担当の後任として、アイランド・ブックスに赴いた。彼女は、長年独身で通してきた老人が78歳で結婚し、その花嫁を二年後の83歳で亡くすという、80歳の老人の回想録『遅咲きの花』を売り込むが、フィクリーに「好みではない」と言われてしまう。どんな本がお好みなのか?と聞くと、フィクリーは、「お好み」を嫌悪をもって繰り返し、


「お好みでないものをあげるというのはどう? ポストモダン、最終戦争後の世界という設定、死者の独白、あるいはマジック・リアリズム。才気ばしった定石的な趣向、多種多様な字体、あるべきではないところにある挿絵ーー基本的には、あらゆる種類の小細工。ホロコーストや、その他の主な世界戦争の悲劇を描いた文学作品は好まないーーこういうものはノンフィクションだけにしてもらいたい。文学的探偵小説風とか文学的ファンタジー風といったジャンルのマッシュ・アップ。児童書、ことに孤児が出てくるやつ。うちの棚にヤング・アダルトものは詰めこみたくない。四百頁以上のもの、百五十頁以下の本はいかなるものも好まない。リアリティ・テレビの番組に登場する俳優たちのゴーストライターによる小説、セレブの写真集、スポーツ回想録、映画とのタイアップ、付録のついている本、言うまでもないが、ヴァンパイアもね。デビュー作、若い女性向けの小説、詩、翻訳書。シリーズものを置くのも好まないが、こちらのふところ具合で置かざるを得ないこともある。そちらのことをいうなら、次の長大なシリーズものについては話す必要はない・・・。とにかく、ミズ・ローマン、哀れな老妻が癌で死ぬという哀れな老人のみじめったらしい回想録なんてぜったいごめんだ。営業が、よく書かれていますよと保証してくれても、母の日にはたくさん売れると保証してくれてもね」


アメリアは、顔を紅潮させ、当惑というよりは怒りを感じながら、このせいぜい十歳ほど年上の相手に、再度聞く。「あなたはなにがお好きなんですか?」

 

「今あげたもの以外のすべて、短篇集はたまにごひいきなやつがあるけど、客は絶対に買わない」・・・



偏屈な書店主と、出版社の営業と、島の数少ない住人・・未読のものや、昔読んで思い出すのに時間がかかるような海外作品もたくさん登場し、果たしてこれから面白くなるのか、あまり期待できないような序盤とはうってかわり、物語は徐々にラブストーリーのようでもあり、父と娘の話でもあり、大雑把なあらすじとしては、ベタといってもいいような展開を見せつつも、最初にフィクリーが「好みでない」と言っていたことがフリになっていたかのように、「本好き」が楽しめる要素が何重にも仕掛けられていて最後まで楽しめます。


13章あるものがたりには、すべて短編のタイトルが掲げられ、フィクリーによる短いコメントがついているのですが、物語の始まりは、ロアルト・ダールの『おとなしい凶器』。



f0134963_22123695.jpg




翻訳者のあとがきには、これらの短編はすべて読んでいなくてもいいけど、オコナーの『善人はなかなかいない』だけは読んでいた方がいいかもしれない。と書かれていますが、




f0134963_22143435.jpg



この本を読んだあと、『善人はなかなかいない』を読んでも、二度楽しめると思います。私はそうでした。




f0134963_22163346.jpg


ある日、書店の中にぽつんと置かれていた小さな女の子マヤ。フィクリーは彼女を娘として育てる・・・




そして、最後もロアルト・ダールの『古本屋』


「・・・人生を長く続ければ続けるほど、この物語こそがすべての中核だと、ぼくは信じないではいられない。つながるということなんだよ、ぼくのかわいいおバカさん。ひたすらつながることなんだよ。



f0134963_22171328.jpg



◎[Amazon]書店主フィクリーのものがたり


1. おとなしい凶器 ー ロアルト・ダール

2. リッツくらい大きなダイアモンド ー F. スコット・フィッツジェラルド

3. ロアリング・キャンプのラック ー ブレット・ハート

4. 世界の肌ざわり ー リチャード・ボーシュ

5. 善人はなかなかいない ー フラナリー・オコナー

6. ジム・スマイリーの跳び蛙 ー マーク・トウェイン

7. 夏服を着た女たち ー アーウィン・ショー

8. 父親との会話 ー グレイス・ペイリー

9. バナナフィッシュ日和 ー J.D.サリンジャー

10. 告げ口心臓 ー E.A.ポー

11. アイロン頭 ー エイミー・ベンダー

12. 愛について語るときに我々の語ること ー レイモンド・カーヴァー

13. 古本屋ー ロアルト・ダール



[PR]
by yomodalite | 2016-03-24 06:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)
f0134963_11522749.jpg


おともだちから、フランスの土産に極上チョコをもらったので、コーヒーとチョコに合うワインを買うのにうってつけの店に行く。


f0134963_11584807.jpg
TAKAMURA Wine & Coffee Roasters



ダーリンはあれこれ試飲して、コレッツィオーネ・チンクアンタ(赤)と、ロジャー・グラート・カヴァ・ロゼ・ブリュット(泡・ロゼ)を買って、私は、グァテマラと、ブラジルのコーヒーを100gづつ買って帰る。

そういえば、ブログを見てくれた人から、今年のバレンタインは一個しか買わなかったの? なんて言われたんだけど、違うの。

ググッと抑えたのは、あれこれ試食し回っていっぱい買うのをガマンしただけで、ピエール・エルメ以外にも、ドゥバイヨルで4個入りとか、あと、ペイラーノのジャンドゥイオット(金)と、ジャンドゥイオット・アンティーコ(銀)が3つづつぐらい入っているのとか、カカオ70%以上のは、チョコというよりは、サプリみたいなもんだし・・という感じで、Coppeneur(コップナー or コペヌール)の「クリュ・ド・カオ/マダガスカル71%」とか、それなりに買ってたのだ。



f0134963_09242492.jpg
お箱とチョコそのもの美しさと味の3つが揃ったセットで
どれを選んでも一番手堅いのは、ドゥバイヨルかも・・
と思う今日この頃

http://www.kataoka.com/debailleul.html



f0134963_09281746.jpg
ペイラーノは
お味が好きで自分用によく買う

http://peyrano.jp/about.html




f0134963_09301646.jpg
ドイツのショコラティエ、
Coppeneur
カカオ70%以上のは、酸味強めのが好き!

http://www.chokonikki.com/coppeneur

「クリュドカオ」
http://www.chocolabo.com/




でも、、チョコ・ジャンキーとしては、なんか「自分老いたな・・」って感じがしてたんだけど、プレゼントされたチョコは、日本ではめったに買えない、ジャック・ジュナン⤴︎⤴︎⤴︎



f0134963_09334810.jpg



一個一個が個性的なうえに、全部おいしい9個セットって結構ハードル高いよね。今年のピエール・エルメのは、そのハードルを越えられなかったなぁと思ってたんだけど、ここのは、9個全部美味しかったぁーーーーーー!!!!

それと、たまにしか買わないお高いチョコって、食べた後とっておきたくなるお箱も重要でしょ?ここのお箱はメタルボックスで、美味しくいただいたあとも、デスクに置いておきたくなるパッケージなの!






自分にとっての「宝石」とか・・



f0134963_09505131.jpg


いただいたお花をドライにして
取っておたり・・



f0134963_09530024.jpg

いろいろと小さな思い出を
しまっておくのに
ぴったり!

公式サイト(フランス語)
http://www.jacquesgenin.fr/fr/

053.gif




[PR]
by yomodalite | 2016-03-22 10:18 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)
f0134963_16250414.png



HIStoryティーザーに引用された5つの映画は、すべて世界大戦と世界帝国が創られる恐怖が絡んでいて、人類全滅の可能性がある深刻な恐怖をもたらすものを扱っている。(→「新たなヒーロー像」)

ということから、ここまで「黙示録」に注目して、4本の映画について書いてきたのですが、今回は肝心の「HIStoryティーザー」が、黙示録をどう扱ったか、について。


黙示録の天使は、

地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。

これは、ティーザーの映像が始まる前、エスペラント語で男が叫んだ、

「さまざまな国が、世界共通の母と、愛と、音楽の癒やしの力の名のもとに、この像を建てよ!」

という部分に似てますね。でも、このあと黙示録の天使たちが言った、

神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい。(黙示録14章)

と違って、ティーザーは、「像を建てよ!」です。

ここは、エスペラント語ですから、ほとんどの人が聞き取れず「大笑い」できた人は極わずかだと思いますが、以前も書いたように(→参考記事)黙示録の天使たちは、偶像を拝むとか、偶像を崇拝するものを地獄に落とす気がハンパないんですよ(笑)

これから、アホほどデカイ像を建て、しかも大勢で崇拝して見てますから、黙示録の天使たちは全員ブチギレ確実で、地獄行きのジャッジするに違いないんですがw、

ティーザーでは、このあと、軍隊のシンボルであり、ヨハネをあらわすとも言われる《鷲》の彫像が映り、


f0134963_16291183.png


マイケル率いる兵士たちが夕陽をバックに現れます。



f0134963_16301365.png


f0134963_16302545.png


黙示録(別名:The Book of Revelation)や、聖書(通称:The Book)への間違った解釈に基づいた「HIStory(歴史)」を「Past(過去)」のものとし、「Present(現在)」と、「Future(未来)」を「Book I(新たな本の第1巻)」とするという、マイケルの『HIStory : Past, Present and Future, Book I』が叩きつけた「挑戦状」が、ググッと感じられたと思いますが、マイケルの軍隊はさらに力強く進んでいき、


0:48あたりから、映画「レッドオクトーバーを追え」のサントラから、Hymn to Red October(レッドオクトーバー賛歌)の物悲しいメロディーが流れ、街道は「KING OF POP」のプラカードと、人々の悲鳴にも似た歓声に包まれます。


f0134963_16324381.png


黙示録では、「小羊(イエス)」を前にした天使たちは、

あなたは屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、彼らをわたしたちの神に仕える王、・・・屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。

と言うのですが、これは、「KING OF POP」のプラカードをもち、沿道でマイケルの軍隊に声援を送っている場面に対応しているんじゃないでしょうか。


f0134963_16391595.png


また、ここで、マイケルの腕章にある《777》が、黙示録で悪魔の数字と呼ばれる《666》のパロディだということはいわずもがなでしょう。聖書には「7」という数字が頻繁に登場しますが、黙示録は特にそれが顕著で、小羊(イエス)を、3つの《7》で表現している箇所もあります。

わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。


f0134963_16415846.png


音楽は、兵士たちの切ない心情を奏でていますが、マイケルは投げキッスと極上のスマイルを返します。


寒く、つらく、虚しい
光は私を置き去りにした
君が死んでしまうなんて、どうして私にわかるだろう?
今また旅立つ、懐かしき我らの国
これが現実で、夢ではないなんて
想像することもできない
母国、わが故郷
さらば、我らの祖国よ

恐れを知らず海を行け
北の海の誇りを胸に
革命の希望を胸に
君たちは人民の信念をみなぎらせ
十月に、十月に
我らの革命の勝利を君に告げよう
十月に、十月に
君たちは我らの遺産となるだろう

(Hymn to Red Octoberの歌詞和訳)

◎十月革命(Wikipedia)




f0134963_16491702.png



大勢の人々がいる街道は、英雄広場にある、現代美術館と近代美術館の間の路で、人々の歓声はますます高まり、



f0134963_16501304.png


次に立ち止まった街道で、マイケルが率いる軍隊は、実際の場所にはない《凱旋門》をくぐり抜け、その両側には、ハンガリーの英雄広場にあった、頂上に天使ガブリエルがいる像がいくつも並んでいます。ここでのガブリエルは、最終戦争の始まりを告げるという意味は感じさせるものの、伝統的な聖書の考え方では、大天使ガブリエルがいくつも、というのはありえません。それでは「大天使」になりませんからね。

大天使という存在は、新約聖書からは薄れているので、ヨハネの黙示録にもガブリエルの名前は登場しないのですが、ガブリエルを思わせる天使像を並べたことで、この街道にいる戦士たちと、それを率いるマイケルには「ミカエル」の意味を帯びてきます。神と自分のあいだの存在を認めず、神のメッセンジャーとしての天使には重きをおかずに、街道で見ている人々と同じように扱っていますが、「ミカエル」としては見て欲しいのでしょう。(参考記事→)




f0134963_17034828.png



そして、最終戦争に勝利するミカエルが率いる兵士たちは、腕に腕章ではなく「白い包帯」し、撃つことのできない木製の銃で、華麗なライフル・ドリルを披露します。(参考記事→)




f0134963_17050124.png


すると、ここで『地獄の黙示録』と同じ夕陽をバックにヘリコプターが現れます。映画では、「額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい」という伝統的な黙示録の解釈にそって、異教徒を攻撃しまくるのですが、(参考記事→)

マイケルの場合は、黙示録の天使たちを怒らせていますからね(笑)。

ここでは、天使が放った「イナゴ」(ヘリコプター)によって、車に火が放たれ、街灯を破壊したのでは?という不安と、

第七の天使が鉢の中身を空中に注ぐと、神殿の玉座から「事は成就した」という大声が聞こえ、稲妻、さまざまな音、雷が起こった・・・

という、2つの意味を感じさせつつ、完成した彫像の除幕式は、すっかり日が落ちた英雄広場で始まります。




f0134963_17102500.png



ロケ場所である、ハンガリーの千年記念碑は、左側に歴代の国王の像、右側に政治家や将軍たちの像が飾られているんですが(参考記事→)、映像では、右側の像たちが点灯され、そのあと英雄広場全体に照明が点いて、ガブリエル像の背後から、布で覆われた巨大な像が見えてきます。



f0134963_17110084.png
(ガブリエル像の背後から像を見ている)



除幕式を指揮している男は、王室関係の行事を思わせるサッシュをしていて、背後の彫像ははっきりとはわかりませんが、おそらく右側の政治家や将軍たちの像でしょう。



f0134963_17135670.png


ターゲットに照準を合わせ、発射レバーを引いた男は、ファッションを見ると、冒頭で彫像作りを指揮していた男のようです。



f0134963_17192043.png



この巨大な彫像が布で覆われていることを、黙示録的に解釈すると、小羊が最後の封印を解く役割を担っていることも思い出されます。

神とおぼしきひとの右手にある七つの封印のある巻物は、「小羊」が開くのがふさわしい

マイケルの「Book I」が、この巻物の意味をもっていると思われるのですが、この巨大な彫像も、最後に封印を説かれるべきものなのでしょう。

マイケルの「ティーザー」は、チャップリンが『独裁者』で演説した世界観を「スマイル」とともに提示して見せた世界だと思います。しかし、ここにはチャップリンが映画では表現していないことも盛り込まれています。


そのもっとも大きなものがこの《巨大な彫像》の建立と、


それを攻撃しようとする・・・


というわけで、この続きはまた次回。





(ここまでを確認したい人のために動画も貼っておきますね)




最後にもうひとつ・・


マイケルがこの時期、慌てて結婚しw、滅多にプライヴェートを見せなかったマイケルが、これでもか、と「結婚」をアピールしたことはご存知だと思いますが、



f0134963_11150641.jpg
(映像ではブーツに婚礼を挙げた場所が刻印されているだけですが・・参考記事→)

ハレルヤ、全能者にして、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。


最終戦争に勝つためには、花嫁の存在や、お披露目も重要だったんですよね(笑)






[PR]
by yomodalite | 2016-03-18 12:09 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

増補新版 芸能人はなぜ干されるのか

星野 陽平/鹿砦社



そろそろ、ヤクザ本を読まなくちゃ、ということで選んだ本。最近の新書のような軽い内容を想像していたのですが、ちょっぴり大きめサイズの本を開けてみると、著者の熱が直に伝わってくるようなずっしりとした二段組みで、いくつかの章は最近の新書なら、それだけで1冊になるぐらいの内容でぐいぐい読ませるのですが、読了後はぐったり疲れてしまうという感じの力作。


でも、ぐったり疲れてしまうのは、芸能界の闇が深いというよりは、国民の奴隷化が日に日に進んでいる時代に、芸能界だけを特殊化しているような記述になのかもしれません。芸能界の常識は社会の非常識だった時代は終わり、今や、それは日本社会の縮図になっているんじゃないでしょうか。


芸能プロダクションの経営者が集まって作った《音事協》の初代会長は、中曽根康弘でしたが、小泉純一郎が行った派遣事業の改正は、労働者全体を奴隷契約にしました。恫喝で動いていたり干されたりするのは、芸能人だけではないですよね。


プロローグ 北野誠事件

第1章 干された芸能人

第2章 「芸能プロダクション」とは何か?

第3章 抵抗の歴史

第4章 「ナベプロ帝国」の落日

第5章 ジャニー喜多川の少年所有欲求

第6章 「免許のないテレビ局」吉本興業

第7章 バーニングプロダクションと暴力

第8章 韓国、ハリウッド、声優業界

第9章 芸能と差別

付録 カリフォルニア州労働法・タレント斡旋業規制条項


第1章に登場した名前は、鈴木亜美、セイン・カミュ、ボビー・オロゴン、(元AKB48で卒業後AV女優になった)やまぐちりこ、加護あい、水野美紀、松方弘樹、川村ゆきえ、眞鍋かおり、小林幸子、(ユニット羞恥心の)野久保直樹、水嶋ヒロ、沢尻エリカ・・・


第2章では、「ナベプロ帝国」とまで言われた巨大芸能事務所を最初に創り上げた「渡辺プロダクション」の戦略と存亡、バーニングの躍進とレコード大賞の裏側など盛りだくさんな内容で、登場したのは、大原みどり、森進一、ピンクレディー、竹中労、泉ピン子、浜崎あゆみ、五木ほろし、八代亜紀、中森明菜、近藤真彦など・・


ナベプロは、自社タレントのレコーディングの際に、作曲、編曲をおこなって原盤にかかる費用を負担することで《原盤権》を保有し、それまで利益のほとんどがレコード会社に入る仕組みを変え、レコード会社と芸能事務所の立場が逆転した。71年に著作権法が改正されると、レコードを使用したり、演奏した際にも《音楽著作権》が認められるようになり、さらに利益が拡大する。またその利益によって、他の事務所タレントの《音楽著作権》をも取得するようになり、ますます勢力が拡大していった。


当時の職業安定法32条第3項には、


「有料で又は営利を目的として職業紹介事業を行う者は、労働大臣の許可を受けた金額を超える手数料その他の報奨金を受けてはならない」


とあり、手数料の上限は10%とされていたが、法律通り10%のマージンで経営していたのは、ごく少数の芸能プロダクションに過ぎず、タレントとの契約で、タレントが1割という実態もあるほどの奴隷契約だった。一方、力をもたない事務所と、売れっ子タレントの場合、事務所はパワータレントになめられる。という問題もあり、ナベプロが指揮を執る形で、独立や移籍をしようとしたタレントを、業界全体で徹底的に干し上げるという目的で、プロダクション経営者による《音事協》が設立され、元首相・中曽根康弘が初代会長の椅子に座った。


これによって、業界全体で、独立しようとするタレントを干すことが出来るようになったものの、《音事協》に加盟するには、3名の承認が必要で、会費も高く、弱小プロダクションには入会も困難なうえに、ポッと出は守ってくれない。《音事協》は、意に沿わない報道をしたマスコミに対しても力を発揮し、タレントを多数抱えるプロダクションは、「バーター」「共演拒否」という手段で、番組への影響力を増していく。


ドラマの世界で「バーター」が力を持ち始めると、番組とタイアップした曲が売れるようになる。音楽業界に芸能プロダクションの影響が顕著に見られるようになったのは、90年代の中頃で、ここで、現在の芸能事務所の頂点にたつバーニングが躍進する。バーニングパブリッシャーズは、エイベックス所属の有名アーティストの音楽出版権のほか、所属タレント以外の音楽出版権も多数もっていた。大手事務所は、弱小事務所からタレントを引き抜くことがますますしやすくなり、弱小事務所は、大手に上納金を納めなくてはビジネスにならない。


第3章は、戦前の映画業界の五社協定を崩壊させた、銀幕のスター俳優たちの歴史。


第4章は、ナベプロ帝国に挑んだジャーナリスト竹中労、日本テレビ「スター誕生」の成功、アグネス・チャン、森進一、沢田研二、小柳ルミ子というナベプロ独立が成功した理由など。


第5章は、この本の出版社「鹿砦社」のドル箱でもあるジャニー喜多川の少年愛疑惑が中心。


第6章は、お笑い界を独占する吉本興業の始まりから、現在の繁栄まで。興味深かったのは、2012年にその存在がクローズアップされた吉本ファイナンスの件と、漫才ブームの頃、島田紳助が労働組合を結成していたこと。


そして、第7章が、本書の白眉ともいえる「バーニングプロダクションと暴力」


当初、南沙織を抱える程度だったバーニング事務所は、75年に郷ひろみが移籍してきたことえ、有力事務所となり、日本テレビの「スター誕生」などによって衰え始めた渡辺ブロの影響力の低下から、有能マネージャーが流出。彼らに支援を行うことで、楽曲の権利を手にしていったバーニングは、利権の獲得を広く外部に求め、業務提携によって利権を拡大させ、ナベプロのドンと呼ばれた渡辺晋亡きあと、周防は芸能界のドンとして、君臨することになる。渡辺プロが、ヤクザの商売だった芸能置屋稼業を近代的な稼業にしたとすれば、バーニングは暴力団の力を芸能ビジネスに取り込んできたーー


バーニングと、90年代活況を呈した音楽業界でもっとも時代を牽引していた音楽プロデューサー長戸大幸。彼が率いるビーインググループとバーニングの関係。顔を腫らした長戸は、こう言った(らしい。)


「・・・原盤製作で金を投じている者の権利が保護されるから、音楽著作権のビジネスは美味しい。でも、バーニングは、カネも払わず、あとから入ってきて「よこせ」と言ってくる。それじゃ、ヤクザと同じだろう。俺は東京ではもう仕事ができない。長戸大幸の名前も使えない。これからは、ビーイングに代わって、エイベックスというレコード会社がバーニングと組んで音楽シーンを独占するだろう。松浦は連中に仁義を尽くす男だ」


登場する有名タレントは、華原朋美、小室哲哉、YOSHIKI、工藤静香、木村拓哉、GRAY、フォーライフレコードを設立した吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげる・・・


談合が行われる中で、もっとも利益を得られるのは談合破りである。《音事協》という談合組織の仕切り役であるバーニングは、タレントの引き抜き禁止という芸能界の秩序を維持するために暴力を誇示する必要があった。周防郁雄は、汚れ役を任じ、芸能界の闇を肩代わりしたことで「芸能界のドン」となった。


第8章の「韓国、ハリウッド、声優業界」では、韓国の芸能界は、日本を手本としていること、また、アメリカのエージェンシー制度は、それとはまったく異なり、芸能プロダクションというビジネスモデルは、日本と韓国にしかないこと。ただ、ストライキやでも行進によって、粘り強く製作会社と交渉し成り立ってきた声優業界の仕組みはかなり異なっていた・・・しかし、その声優業界も、近年、芸能プロダウションの進出が激しく・・・


第9章は、「芸能と差別」という内容として、よくある伝統的なものでした。


[PR]
by yomodalite | 2016-03-16 06:00 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

モナドの領域/筒井康隆

モナドの領域

筒井 康隆/新潮社

undefined



2015年の暮れに出版された、当時81歳の著者が最後の長編だという作品。


モナドについては、ライプニッツのも、数学のも、まったくわからないのだけど、日本の日常に「GOD」が現れるこの小説はかなり楽しめました。


カトリックの幼稚園に通い、プロテスタントの同志社大学を卒業し、神の問題はなじみが深かったという筒井氏は、いわゆる信者としてではなく、GODに興味がある人だというのは、以前読んだ本の解説でも感じていたんですが、SF作家の神テーマってソソられますよね。


ミステリ小説からは、ずいぶんと遠ざかっているので、これが「ミステリ」として面白いのか、どうなのかはわかりませんが、GODが話すことを目的に犯罪を犯した裁判で何を語ったのか、にワクワクしてしまう人には、おすすめ!


GODは、本が売れない出版社の社長の商売の相談にのったり、世界の破滅を救ってほしいと嘆願されたり、さまざまなタイプの人と話をするのですが、そこから、去年から続く『HIStory』20周年にちょっぴり関係がありそうなところ(?)を、あんまりネタバレしないようにピックアップすると、


「あなたのような存在を、今まで想像できた人はいるんでしょうか?」という質問に、


「何人もいるよ。デカルト君とかカント君とか・・彼らは哲学の方法を学問的にしようとして・・・ハイデッガー君はそういう一義的なものに批判的だった。だから師匠のフッサール君の・・・ハイデガー君は存在の問題にした・・・ハイデガー君はトマス・アクィナス君を読んでおるくせに、勉強したとは絶対に言ってはおらん・・・なあに彼の文章を読めば・・一目瞭然だろう。トマス君は今、どうも正当に評価されておらんようだが・・」


など、その他の箇所も含めて、筒井GODは、なんだかんだトマス主義者で、


「どうすれば自分の書きたいことが書けて、しかも読者に喜ばれて、作家としても成長する、そんな作家になれるんだろうか?」と悩む若い作家からの問いには、


「お前さんはジャン=フランソワ・リオタール君の本を読んでおらん。その種の議論なら今のところ彼が一番の優れものだ。ジオタール君は、政治の技術と芸術の問には相関関係があると考えた。政治が形而上学的な理想を形成しようとする時の様態と、芸術がギリシャ語で言うテクネー、つまり技術のモデルが、プラトン君以来詩を『鋳直し』や『型押し』として考えられてきた様態だ。プラトン君の『国家』にも書かれているように、政治の問題は人間の共同体のために善のモデルを遵守することにある。政治哲学が芸術を見習ってきたと言ってよい。これが中世、ルネッサンス、近代へと時代によって変化しながら続いてきた。


ところがナチズムがこの関係を逆転させてしまった。芸術が政治の役を果たすようになったんだ。ナチはありとあらゆる形態のもとにエネルギーの全体的な動員をするため、メディア、大衆文化、新しい技術などを大いに利用した。そして『トータルな芸術作品』というワグナー君の夢を実現した。実はだね、今日の政治もこれとは別の正当化や時には正反対の議論のもとに、やっぱり同じ症状を呈しているんだよ。近代民主主義では大衆の意見が、リオタール君がテレグラフィック、つまり遠隔映像的と言っている手続き、規制したり記述したりする様ざまな種類の遠隔記入によって鋳直されなければならないという原理でヘゲモニー、要するに人びとの意見による主導権が存続している。だけどナチズムが勝利したのもまたこの方法によるものだった。


しかし、これに従属しない思考やエクリチュール即ち書く行為は孤立化させられて、カフカ君の作品のテーマが展開しているようなゲットーヘと追い込まれてしまう。ゲットーと言っても単なるメタファーじゃないよ。何かの隠喩じゃないんだ。実際にワルシャワのユダヤ人たちはただ単に死を約束させられていただけじゃない。彼らはナチがチフスの脅威に対抗するため建設することを決めた壁をけじめとして彼らに対する『予防措置』の費用まで負指しなけりゃならなかった。現代の作家にとっても事態は同じだよ。作家たちがこれに抵抗すれば、ただ消え去るようにあらかじめ定められてしまう。つまり作家たちは自分たちの予防措置である『防疫線』を作るのに貢献しなきやいけないんだ。


そうしている限りはこの防疫線の庇護のもとで作家たちの破滅は遅延させられる。作家たちはその作品がコミュニケーション可能なもの、交換可能なもの、つまり商品化可能なものになるよう自分の思考のしかたや書く方法を変えることによって、ほんのつかの間の空しい延命、作家生命の遅延を『買う』んだ。ところがだな、こうした思考や言葉の交換や売買は、逆説になるが『どのように考えるべきか』『どのように書くべきか』という問題の最終的な解決に貢献しとるんだよ」


「え、それはなぜですか?」


「つまり、人びとの主導権を一層確固としたものにする、ということに貢献しておるんだよ。このリオタール君の考えかたは正しいもの、真であるとわしは決定している。お前さんが思考しなければならず、書かなければならず、その限りにおいて抵抗しなければならないというこの指令の送り手は、いったい誰なのか、その正当性はどのようなものか、こうした問いかけこそがまさに開かれたままの問いかけなんだよ」



と、、こちらも、まったく読んでないジャン=フランソワ・リオタールを正しいと決定されていたり、


多様体論または集合論についてはどうお考えでしょうか?なんて質問には、


「あれはプラトン君のいうエイドスとかイデアとかミクトンというものに・・・これは本来の無限ではないな・・・だからこれを悪無限などと・・・」とか、


他にも、ディヴィッド・ルイス君もある程度は正しいのだが、ではなにが間違っているかというと・・・なんてことにも、ガンガン答えていかれるので、


河川敷で発見された片腕のこととか、ベーカリーで評判になった腕の形のバゲットの謎のことなんか、すっかり忘れているうちにエンディングになってしまいました。


ちなみに、表紙の絵は、筒井氏の息子である筒井伸輔氏による「偏在するGODを表現した絵」だそうです。


◎[Amazon]モナドの領域/筒井康隆



[PR]
by yomodalite | 2016-03-14 06:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)

f0134963_21170742.jpg
システィナ礼拝堂の「デルフォイの巫女」




『汝、みずからを知れ』(グノーテイ・サウトン)

『度を過ごすなかれ』(メーデン・アガン)


デルフォイの神殿には、上記2つの格言(箴言とか神託とも言う)が書かれていたらしい・・・ただ、プラトンは3つあったと言っていたとか・・・ちなみに、Wikipediaの「デルポイの神託」には、3つの格言が刻まれていた。となっていて、3つめは、


「誓約と破滅は紙一重」(無理な誓いはするな)


この部分の注釈にはプラトンの『カルミデス』が挙げてあるので、プラトン説を採用したみたいなんだけど、でも、数のことより、神託を受けるためには、どうすればいいのか?とか、ギリシャ神話の神であるアポロンには、デルフォイの神殿を受け継いだとされているのだけど(それでアポロン神殿とも言われている)、どうして彼が受け継ぐことができたのか?とか、


あのミケランジェロのシスティナ礼拝堂にも描かれている『デルフォイの巫女』が受けた神託と、アポロンのはどう違うのか?などという疑問が、脳のあまり稼働してない領域にほんの少しだけど長くこびりついていたところ、

今、アポロン神殿の「汝みずからを知れ」は、神でない人間は必ず死ぬ。ということを知れ。という意味で「FA」になっているらしい、と小耳にはさみ、本屋に行って確かめてみたところ、ギリシャ・ローマ神話本で「アポロン」の項を見ると、たしかにそんな感じの記述が多くて、、アポロンは、美貌と、音楽、芸術に優れ、輝ける神でありながら、冷酷さ、残忍さをも併せ持っていたとか、なんとか・・・


とにかく、今本屋に置いてあるギリシャ・ローマ神話本には、そう書いてあるものが多かったんだけど、山本光雄氏は1905年生まれで、東大哲学科を卒業された方なので、きっと、ここまでの経緯についても書いてくださっているのでは・・・と、祈るような気分で、『ギリシア・ローマ哲学者物語』(講談社学術文庫)を見てみたら、期待どおりだったのでメモしておきます(あむさん、この本のこと教えてくれてありがとーー!)。


(下記は省略して引用しています)


『ギリシア・ローマ哲学者物語』後編・哲学者の憂い〈第十二夜〉より


これは東大の斎藤忍随君がヨーロッパ土産にくれた。骸骨の下に書いてあるギリシア文字は、グノーチ・サウトン、すなわち「汝みずからを知れ」だ。



f0134963_21320201.jpg

これをもらったときには、詳しいことはわからなかったが、その後「古代文化」という雑誌にこれと同じ図版があって、大阪大学教授の角田文衛氏が「酒宴の骸骨」という小論を書いておられた。原物はローマの国立テルメ博物館の所蔵。もとは、一八六六年にクインチリウス兄弟の別荘跡から発掘され、食堂の床面を飾っていた大理石のモザイク画で、骸骨をモチーフにしたモザイク画や酒杯の図柄は、一、二世紀の流行となっていた。


角田氏はセネカの話にも出たペトロニウスの作と言われる『サチュリコン』を参考にして次のように言っておられる。「〈汝みずからを知れ〉とは哲学の始祖タレスの言葉として伝えられている。しかし〈クインチリウス邸〉の食堂の床に記された〈汝みずからを知れ〉は深遠な意味をもった蔵言ではない。つまりそれは〈汝みずからも死すべき者であることを知れ〉という警告であり、それゆえにこそ命のあるあいだにできるだけ愉んでおけというのである」と。こうした考え方の底流をなしていたのは、当時のローマ世界に瀰漫(びまん)していた俗化されたエピクロス哲学であった、とされている。

 

私は氏の所論に賛成する。エピクロス学派について言うと、始祖のあとで有名なのはキケロより十年ばかり前に死んだローマの詩人哲学者ルクレチウスである。彼の著『物の本質について』はエピクロス哲学のいわば聖典だ。その後、紀元後二世紀ごろまでにその学派の哲学者として名前をあげるに値するような者はオイノアンダのヂオゲネスとヂオゲニアノスの二人くらいだろう。でもその学派そのものが衰微していたわけではない。


「汝みずからを知れ」に返ろう。この策言は当時より約百年以前に生きていたローマの詩人オヴィヂウスにおいてはかなり違った意味で利用されている。彼の著作に『アルス・アマトリア』すなわち『恋愛術』というのがある。その中で彼が恋愛術を説き教えているところに、詩人の姿をしたアポロンが現われてきて、こう言うのだ。

 

淫奔(いんぼん)なる愛を説く師よ、いざ、おまえの弟子たちをわが神殿に導き来れ。各自おのれ自身を知るべしと命ぜるかの文字、かの世界にあまねく知れわたりたる文字のあるところへ。おのれ自身を知る者にして、はじめて賢明なる愛はおこないうべし、またあらゆる仕事もおのれが力に応じて完了するなるべし。生来美貌に恵まれし者は、その点より眺められよ。色艶のよき肌をもちたる者は、ときに肩を裸にして横たわるべし。



f0134963_22183752.jpg
生来美貌に・・眺められよ。ときに肩を裸にして・・の例w




以上は樋口氏の訳を拝借したが、全部を自分で読んでみるがよい。この引用では、「汝みずからを知れ」は「汝みずからの身体の美点・長所を知れ」という意味に解され、その知った美点・長所を恋人の獲得と確保のため利用せよ、と忠告しているのだ。

 

この『アルス・アマトリア』を紀元前二年の作だとすると、それより四十二、三年前に書かれたキケロの『ツスクラヌム談義』においてもこの箴言がもち出されている。そこではオヴィヂウスとは反対に、それはわれわれの肢体や体格や容姿を知ることを命ずるのではなくて、「汝の魂を知れ」と命ずるものだと解されている。そして魂を知るということが神的なことだから、その篇言はある頭の鋭い人の作ったものだけれど、神に帰せられることになったという趣旨のことが述べられ、ついで魂の不滅の問題が論じられることになる。


しかし、このキケロの解釈はプラトンの『第一アルキビアデス』ですでに述べられていることだ。プラトンの『プロタゴラス』では、この篇言は七賢人が相そろって、デルポイの神殿に詣でて彼らの知恵の初なりとして、「やり過ぎるな」という箴言といっしょにアポルロンに奉納したことになっていて、『カルミデス』にも出てくる。この対話編では健全な思慮の徳、すなわち節制の定義が求められるのだが、ソクラテスの話し相手のクリチアスは、「健全な思慮」とは、つまり「自分自身を知ること」であると答える。しかしその解釈は『第一アルキビアデス』の解釈との一致から見て、プラトンのものとしてさしつかえはあるまい。


それによると、この箴言は「ごきげんよう」という普通一般の挨拶の代わりに神様が参拝者へなさる挨拶として、この「汝みずからを知れ」を奉納したのであって、その意味は「思慮健全であれよ」というのと同一である。しかし世間の人は別なものと思っているようで、また「やり過ぎるな」「保証、その傍に破滅」(誓約と破滅は紙一重)という箴言を後に奉納した人たちも同じくそう思い、また、それを忠告だと考え違いし、自分たちもそれに劣らぬ忠告を捧げるつもりでそうした、というのである。


しかし諸君にはおそらくその両者がどうして同一のことを意味するのか、すぐにはわかるまい。で、ちょっと説明しておこう。


『チマイオス』で「思慮の健全な」は「正気の」という意味で使用され、思慮の働きが睡眠によって、あるいは病気によって、あるいは神がかりによって拘束され、狂わされている心の状態と対立させられている。つまり、いろんな種類の「狂気の」と反対の意味で使用され、そして「正気の」人のみ自分自身のことを行ない、自分自身を知ることができるという昔からの言葉が正しいものとして承認されている。したがって「正気であること」は「自分白身を知ること」の必須の前提として、両者は同義だと主張されることになったのだろう。

 

次に「汝みずからを知れ」とソクラテスの「汝の無知なることを知れ」という勧告との関連も少々わかり難いかもしれぬ。プラトンは『ピレボス』でこういうようなことを言っている。神様が人間に「汝みずからを知れ」と命じられるのは、人間が自分自身を知らないからのことである。しかしこの自分自身についての無知は三種類ある。その一つは金銭に関し、自分を自分の財産以上の金持だと思う場合、他の一つは身体に関し、自分を真実ありのまま以上に大きく美しいと思う場合、最後の一つは魂の徳に関し、事実そうでないのに、自分を徳のすぐれた者だと思う場合である。この三つの場合は後にいくほど、そう思い違いする人数が多くなる。そして最後の場合は、権勢をもって影者、後者は笑うべき強い者とそうでない者とがあるが、前者は憎むべき醜悪な者である。


したがって右の関連において考えると、「汝みずからを知れ」は、「汝自身の無知を知れ」ということを意味することになるだろう。

 

ところで、この箴言はさきの『プロタゴラス』では七賢人の合作ということになっていたが、また別の伝えでは七賢人の一人のタレス、あるいはキロンの作となっている。また別の伝えもある。いま七賢人、あるいはその一人の作だとすると、そのときにおいてはどういう意味をもっていただろうか。それを推定する資料はほとんどないので、確実なことは言えないようだ。


私としては諸君に私の前編「哲学者の笑い」の第一夜の話を思い出すことをお願いする。「知恵のもっともすぐれた者」として自分に贈られてきた黄金の鼎(かなえ)をソロンは、「神こそ知恵のもっともすぐれたお方である」と言って、デルポイの神殿に奉納したというのである。この関連において考えてみると、「汝みずからを知れ」はソクラテスが『弁明』において言っているように、もっとも賢いと言われる人間の知恵さえも神の知恵に比べれば、まったく取るに足らぬことを知れという意味になるだろう。

 

またプルタルコスの小論に『デルポイのEについて』というのがある。そこで、内殿の入口に掲げてあるこのギリシア文字エイについていろいろな解釈が述べられているが、そのうちのペリパトス学派のアムモニオスの解釈では、Eは「汝はある」という人間の神に対する挨拶である。そして表玄関に掲げてある「汝みずからを知れ」は逆に神から人間への挨拶である。それは、エイは二人称単数のエイすなわち、「汝はある」で、神が永遠の存在者であるということを意味するのに対し、人間は絶えず生成消滅する可死的存在者であることを言うものである、というのだ。


プルタルコスといえば、紀元後一世紀ドミチアヌス皇帝治下、ローマで一時講義をしていたことがある。絵葉書の文字が書かれる数十年前のことだ。したがってこの時代では世間一般の人々にはやはり「汝みずからを知れ」は「汝の可死的なる者であることを知れ」という意味にとられていたのだろう。


しかしその解釈からただちに「それゆえに生を享楽せよ」というエピクロス学派の結論は出てこない。ボエチウスの『哲学の慰め』でも、獄中に呻吟する彼に「哲学」の化身によって「自分自身を知る」ことが勧められ、「実のところ、自己自らを知るときにかぎり他の諸物の上に卓越し、これに反して自己を知ることをやめれば動物の下に堕するというのが人間の本性なのだから」と言われている(岩波文庫、畠中尚志氏訳)。そして、ここではエピクロス学派とは反対のことが結論されている。


ともかく「汝みずからを知れ」という箴言そのものが謎なのだ。

いや、「汝みずから」がすでにスフィンクスの謎だ。


プロクロスが『第一アルキビアデス』の注釈の初めに言っているように、「自分自身を知ること」が哲学の初めだ。

 

哲学を学ぶ諸君! 諸君も正気をもって自分自身をよく調べたまえIーーこう言いながら、しかし私自身のために想い出す一つの話がある。哲学の祖タレスはあるとき何がむずかしいことかと尋ねられて、「自分白身を知ることだ」と答え、また何か容易なことかと尋ねられて、「他人に忠告することだ」と答えたということだ。

 

では、今夜はここまでにしよう。


(引用終了)



◎「3.11」関連の記事は、こちらのカテゴリにあります。

http://nikkidoku.exblog.jp/i45/





[PR]
by yomodalite | 2016-03-11 22:38 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(2)
f0134963_16442563.jpg


[追記あり]

地獄の黙示録について、少しは理解できたはずなのですが、原作と言われる『闇の奥』については、まだ、わからない点が多くて・・・


今後、『闇の奥』を読み返したときに、なにか参考になるかも・・という理由で、コッポラが原作にアンダーラインを引いた箇所などを、『地獄の黙示録・3Disc-コレクターズ・エディション」のミリアス・インタビューとブックレットから、メモしておきます。(また、前回アップした「ミリアス・インタビュー」も大幅に追記して、再投稿しました。)


英文は、こちらの「ORIGINAL TEXT」

日本語は、藤永茂訳の『闇の奥』から。


アンダーラインは、コッポラがインタビュー内で読み上げたり、ペーパーバックに赤線が引いてあった箇所です。


We penetrated deeper and deeper into the heart of darkness. It was very quiet there. At night sometimes the roll of drums behind the curtain of trees would run up the river and remain sustained faintly, as if hovering in the air high over our heads, till the first break of day. Whether it meant war, peace, or prayer we could not tell. The dawns were heralded by the descent of a chill stillness; the wood-cutters slept, their fires burned low; the snapping of a twig would make you start.


僕らは深く、より深く、闇の奥へ入り込んで行った。死んだような静けさだった。夜中に、時々、樹々のカーテンの向こう側で鳴る太鼓のひびきが河を上がって来ることもあったが、それは、われわれの頭上はるかの大気のなかでたゆたうかのように、空か白むまで、仄かに残っていた。その太鼓の音が、戦いを意味したのか、平和を意味したのか、それとも祈祷であったのか、知る由もなかった。その音が絶えて、冷たい静寂が降りて来ると、ほどなく朝が明けるのだった。木こりたちは眠りをとり,焚き火も燃え尽きかけて、誰かが焚き火の小枝を一本ポキンと祈る音にもハッと驚かされることにもなる。


We were wanderers on a prehistoric earth, on an earth that wore the aspect of an unknown planet. We could have fancied ourselves the first of men taking possession of an accursed inheritance, to be subdued at the cost of profound anguish and of excessive toil.


いうなれば、僕らは、見知らぬ遊星のような様相を帯びた地球、歴史以前の地球の上を彷徨っていたのだ。僕らは、深甚な苦痛と過酷な労役の末に手が届いた、ある呪われた遺産を所有しようとする最初の人間たちのように、自分らを思い描くこともできたかもしれぬ。


But suddenly, as we struggled round a bend, there would be a glimpse of rush walls, of peaked grass-roofs, a burst of yells, a whirl of black limbs, a mass of hands clapping of feet stamping, of bodies swaying, of eyes rolling, under the droop of heavy and motionless foliage. The steamer toiled along slowly on the edge of a black and incomprehensible frenzy. The prehistoric man was cursing us, praying to us, welcoming us―who could tell?


ところがだ。船が、流れの曲がり角をやっとこ回り終えたところで、重く、動きのない樹々の繁みの垂れ下がった陰に、突然、イグサ造りの壁や尖った草葺き屋根がチラリと見え、ほとばしる叫び声が聞こえ、黒い肢体の群れが乱舞し、手を打ち、足を踏み鳴らし、からだを揺さぶり、目玉をぎょろぎょろさせているのが、視界に飛び込んできた。この黒々とした不可解な狂乱のへりをスレスレに、船はゆっくりと遡航の骨折りを続けた。あの先史時代の人間たちが、僕らを呪っていたのか、折っていたのか、それとも、喜び迎えていたのかーー誰が分かるだろうか? 


We were cut off from the comprehension of our surroundings; we glided past like phantoms, wondering and secretly appalled, as sane men would be before an enthusiastic outbreak in a madhouse. We could not understand because we were too far and could not remember because we were travelling in the night of first ages, of those ages that are gone, leaving hardly a sign―and no memories.


僕らを取り巻くものへの理解から、僕らは断ち切られてしまっていた。狂人病院の中の熟狂的な狂躁に直面した正気の人間のように、僕らは仰天し、心中ぞっとしながら、まるで亡霊のように、その場を滑り抜けていったのだ。理解もできなければ、記憶をたどることもできなかった。なぜなら、僕らはあまりにも遠い所に来てしまったのであり、原始時代の夜を、ほとんど何の痕跡もーー何の記憶も残していない遠くに去ってしまった時代の夜を、いま旅しているのだったから。


“The earth seemed unearthly. We are accustomed to look upon the shackled form of a conquered monster, but there―there you could look at a thing monstrous and free. It was unearthly, and the men were―No, they were not inhuman. Well, you know, that was the worst of it―this suspicion of their not being inhuman. It would come slowly to one. They howled and leaped, and spun, and made horrid faces; but what thrilled you was just the thought of their humanity―like yours―the thought of your remote kinship with this wild and passionate uproar.


 『大地は大地とは思えぬ様相を呈していた。屈服した怪物が繋がれた姿なら、僕らも見慣れているが、しかし、あそこではーーあそこでは自由なままの怪物を目の当たりにすることができるのだ。この世のものとも思えないーーそして、あの男たちもーーいや、彼らは人間でないのではなかった。分かるかい、彼らも人間でなくはないのだという疑念ーーこれが一番厄介なことだった。その疑念は、じわじわと追って来る。彼らは、唸りを上げ、跳ね上がり、ぐるぐる回り、すさまじい形相をひけらかす。だが、こちらを戦慄させるのは、彼らも人間だーー君らと同じようなーーという想い、眼前の熱狂的な叫びと、僕らは、遥かな血縁で結ばれているという想念だ。


Ugly. Yes, it was ugly enough; but if you were man enough you would admit to yourself that there (上記の写真はここから)was in you just the faintest trace of a response to the terrible frankness of that noise, a dim suspicion of there being a meaning in it which you―you so remote from the night of first ages―could comprehend. And why not? The mind of man is capable of anything―because everything is in it, all the past as well as all the future.


醜悪、そう、たしかに醜悪だった。しかし、もし君に十分の男らしさがあれば、君のうちにも、ほんの微かとはいえ、あの喧噪のおぞましいまでの率直さに共鳴する何かがあることを認めるのじゃないかな。そのなかには、君にもーー原始時代の夜から遠く遠かに離れてしまった君にも理解できる意味が込められているのではないか、という朧げな疑念だ。考えてみれば何も驚くにあたらない。人間の心は何でもやれるーーなぜなら、そのなかに、過去のすべて、未来のすべて、あらゆるものが入っているのだから。


What was there after all? Joy, fear, sorrow, devotion, valour, rage―who can tell?―but truth―truth stripped of its cloak of time. Let the fool gape and shudder―the man knows, and can look on without a wink. But he must at least be as much of a man as these on the shore. He must meet that truth with his own true stuff―with his own inborn strength. Principles won’t do. Acquisitions, clothes, pretty rags―rags that would fly off at the first good shake. No; you want a deliberate belief. An appeal to me in this fiendish row―is there? Very well; I hear; I admit, but I have a voice, too, and for good or evil mine is the speech that cannot be silenced. Of course, a fool, what with sheer fright and fine sentiments, is always safe. Who’s that grunting? You wonder I didn’t go ashore for a howl and a dance? Well, no―I didn’t. Fine sentiments, you say? Fine sentiments, be hanged! I had no time. I had to mess about with white-lead and strips of woolen blanket helping to put bandages on those leaky steam-pipes―I tell you. I had to watch the steering, and circumvent those snags, and get the tin-pot along by hook or by crook. There was surface-truth enough in these things to save a wiser man.


あそこには、いったい何かあったのだろう? 喜びか、恐怖か、悲嘆か、獣身か、勇気か、怒りかーー誰が分かろう?ーーしかし、真実というものーー時という覆いをはぎ取られた裸の真実がたしかにあった。馬鹿な奴どもは仰天し震え上がるに任せておこう。ーー男たるものは、その真実を知っている。瞬ぎもせずにそれを直視できる。だが、それには、河岸にいた連中たちと少なくとも同じぐらい赤裸の人間でなければならぬ。その真実に自分の本当の素質をもってーー生まれながらに備わった力で立ち向かわねばならないのだ。主義? そんなものは役に立たぬ。あとから身につけたもの、衣装、見た目だけの服、そんなボロの類いは、一度揺さぶられると、たちまち飛び散ってしまう。そんなものじゃない、一つのしっかりした信仰が必要なのだ。この悪魔じみた騒ぎのなかに、訴えてくるものがあるかって? よかろう。僕にはそれが聞こえる。認めよう。しかし、僕には僕の声もある。そして、それは、善きにしろ、悪しきにしろ、黙らせることのできない言葉なのだ。いうまでもないが、馬鹿者なら、すっかり腰を抜かしてしまうとか、繊細な感情とかいうやつのおかけで、いつも安全だ。誰だ、そこでぶつくさ言っているのは? お前は、岸に上がって、一緒に叫んだり、踊ったりはしなかったじゃないか、と言うんだな? そう、たしかにーー僕はそうしなかった。繊細な感情からかって? 冗談じゃない。繊細な感情なんて糞食らえ! そんな暇はなかったのだ。いいかね。漏れ出した蒸気管に包帯をするのを手助けするために、僕は白鉛と裂いた毛布を持って右往左往していたし、舵取りを見張り、河床の倒木を避けて通り、どうにかこうにかポンコツ蒸気船を勤かすことで精一杯だったのだ。こうした事どもには、馬鹿よりはましな男であれば何とか款ってもらえるに十分な、表面的な真理があるものだ。


And between whiles I had to look after the savage who was fireman. He was an improved specimen; he could fire up a vertical boiler. He was there below me, and, upon my word, to look at him was as edifying as seeing a dog in a parody of breeches and a feather hat, walking on his hind-legs. A few months of training had done for that really fine chap. He squinted at the steam-gauge and at the water-gauge with an evident effort of intrepidity―and he had filed teeth, too, the poor devil, and the wool of his pate shaved into queer patterns, and three ornamental scars on each of his cheeks. He ought to have been clapping his hands and stamping his feet on the bank, instead of which he was hard at work, a thrall to strange witchcraft, full of improving knowledge.


その上、祈りを見ては、罐焚きの役の蛮人の監督もしなければならなかった。彼はいわゆる教化蛮人のひとりで、直立ボイラーの焚き方を心得ていた。僕のすぐ足許で働いていたのだが、それを見ていると、半ズボンをはいて羽根付きの帽子をかぶり、うしろ脚で立ち歩きの曲芸をしている大そっくりで、結構、感心させられたよ。まったく健気な野郎で、教カ月の訓練でこれだけになった。何か恐ろしいものに無理に勇気をふるって立ち向かうようにして、気圧計と水量計を薮睨みして見張っている。この哀れな小悪魔ーー彼は歯を研いで鋭くしていたし、頭の縮れ毛は奇妙なパターンに剃り込み、両頬には刀傷が飾りに三筋入れてあった。彼なども、やはり、あの河岸で、手をたたき、足を踏み鳴らしているほうが柄にあっていたのだろう。それだのに、教化のための知識を詰め込まれ、奇態な魔法のとりこになって、懸命になって働いている。教化されたことで、彼は有用になった。藤永茂訳 p96 - 100)


※光文社古典新訳文庫・黒原敏行訳(p89 - 93)



f0134963_15582943.jpg

“我々は闇の中に入っていく
そこは静かだった
夜、時々木々の後ろから
聞こえる太鼓の音が
川を上りかすかに漂った
夜明けまで我々の頭上で
舞っているかのように
戦争、平和、祈り・・・
我々には分からなかった”
(DVDの日本語字幕より)




[PR]
by yomodalite | 2016-03-09 17:38 | 映画・マンガ・TV | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite