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マイケルとチャップリンのエスペラント(2)

(1)の続き


ヒストリー・ティーザーのエスペラント語は、オープニングで男が叫んでいる、







“Diversaj nacioj de la mondo konstruas ĉi tiun skulptaĵon en la nomo de tutmonda patrineco kaj amo kaj la kuraca forto de muziko”


“Different nations of the world build this sculpture in the name of global motherhood and love and the healing power of music.“


「さまざまな国が、世界共通の母と、愛と、音楽の癒やしの力の名のもとに、この像を建てよう!」


と、そのあと溶鉱炉のようなところで、


“Venu ĉi tien!”

Come over here!


こっちへ来い!


という音声の二カ所のみで、


『独裁者』と違って、エスペラント語が文字として登場するところはありません。



このフィルムに登場する文字を見てみると、



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これは、ロシア語っぽくて、私はロシア語なんてチンプンカンプンなんですが、でも、少し違っているというか・・・ロシア語に使われているキリル文字の「З」「Ж」「Є」「У」を、ちょっぴり変えて造ったんじゃないかなぁ・・・

一番上部に並んでいる4文字も、「И」「Ф」「Я」までは、ロシア文字ですが、一番右側の三角みたいなのは、「Д」ではないような・・ロシア語だけじゃなく、おそらく非スラブ系文字で探しても少し違うんじゃないでしょうか? 

https://ja.wikipedia.org/wiki/キリル文字一覧

でも、、「Д」は「デルタ」だから、やっぱり文字デザインとして「△」もアリ??・・(ロシア語だとして、英語変換すると「IFAD」?)

なんてことを思っていたら、同時進行で調べていたティーザーの音楽に『レッド・オクトーバーを追え』のサントラが使われていることが判明!(kumaさん、moulinさんありがとーーー!!!!)

ちなみに、この曲の前にかかっている音楽については、「ターミネーター2」を加工してあるとか、後半は「レッドオクトーバー」と同じ作曲者の「Honor and Glory (1996 Olympic Games)」じゃないかとか、いや、1996年って『HIStory』よりも前じゃん・・などの話があったものの、結局、この前後の音楽は、MJの音楽チームが適当に創ったのではないか・・という感じになってきているんですけど、どなたか、わかる方はおられますか?(ブラッドさんは何か言ってないのかな・・)






この曲は、Hymn To Red October(レッドオクトーバーの賛歌)という題名なんですね。


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じゃあ、やっぱりロシア語だったのかな?と思いつつ、『レッド・オクトーバーを追え』の「Wikipedia」を見てみたら、

映画の冒頭では「КРАСНЫЙ ОКТIАВR」と赤い文字で表記される(一見ロシア語かと思うが、いわゆる偽キリル文字表記の一種)。

と書かれていて、


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こちらは、ティーザーと違って、私にはまったく「偽」っぽく見えなかったんですけど・・REDは「КРАСНЫЙ」だけど、Octoberは「октября」だったんですね。いずれにしても、ティーザーの文字がロシア語なのかどうかは、よくわかりませんが、

ソヴィエトの「十月革命」を指すレッド・オクトーバーは、“革命” という意味を感じさせますよね。

ベルリンの壁が壊れ、ソヴィエト連邦が崩壊したのは、ヒストリー発売の4年前(1989年)ですが、同じ年、撮影が行われたハンガリーでも、MJが、社会主義崩壊後にいち早く公演を行ったルーマニアや、自分の家として国宝のような城を買おうとしていたり、「ジャクソン・ランド」を建設する計画もあったポーランドでも(→参考記事)、東ヨーロッパ諸国の共産主義国家が次々に崩壊しました。「ヒストリー・ティーザー」の社会主義的な雰囲気からは、そういった国々に新たな光をもたらそうとしていた、MJの意志が感じられます。



また、その他の文字に目を向けてみると、


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(兵士たちは上部の星がないデザインではあるものの
MJと同じバッジ)



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(袖の部分もMJのバッジと同じ文字?)



よくはわからないものの、これらは、現在の主要な言語よりも古い、文字の根元を思わせるような、架空の文字ではないでしょうか。。

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルーン文字
https://ja.wikipedia.org/wiki/ヘブライ文字
https://ja.wikipedia.org/wiki/古ヘブライ文字


そして、この隊を率いているMJは、エスペラント語を話す溶鉱炉にいた男たちが造っていた「丸の中に星」のバッジをつけてはいるものの、

彫像とは異なるデザインになっていて、使われている文字も違います。


ちなみに、MJの逆側の腕のバッジはデザインが違っていて文字はなく、「777」のみです。


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では、

この隊を率いているMJは、彫像の男ではないのでしょうか?

というか、

エスペラント語で、「あらゆる国に共通した母と愛と音楽の力の名のもとに、この像を建てよう!」って言ってた像に、どうしてエスペラント語ではなく、英語で「POLICE」って入っているんでしょうね?(笑)

全然「エスペラントの星」じゃないじゃないですか(笑)

あの蒸せ返るような溶鉱炉で作業していた、エスペラント語を話す男たちも、出来上がった像を見て、( ゚д゚)ポカーン て感じでw、「話が違う!」と、MJに文句を言っても不思議でないような・・

隊を率いているMJが「POLICE」で、彫像とバッジを逆にした方が、しっくりくるような気がするんですけどねぇ・・

まだ、Part 3もあることですし、とりあえずこの疑問は、保留にしておきますが、

このティーザーの中で、架空ではない文字は「KING OF POP」などのプラカード以外に、もうひとつあるんですよね。

それは、MJのブーツの前面にはっきりと入っている

「DOMINICAN」という文字。


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えっーーー、ドミニカ共和国・・・せめてハイチにしてくれないかな(なんでw)とか、一瞬、頭が混乱したんですが、これは、おそらく、

「最近、リサ・マリーと結婚したんだよね、ドミニカ共和国で

という、MJの人生の1ページというか、歩みwを記念したものではないかと。

それは、確かに「HIStory」ですからね(笑)

そんなところで「Part 2」の補足もこれで終了(ふぅーーー)





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by yomodalite | 2015-10-30 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(4)

マイケルとチャップリンのエスペラント(1)

これは、HIStory Teaser, Part 2「独裁者」の内容への私の補足です。

エスペラント語に関する記事で、MJはなぜ、あの映像作品のオープニングで、作品のテーマを紹介するために、殆どの人が知らないような言葉を使ったのだろうという疑問が持ち上がったわよね(チャプリンが『独裁者』でエスペラント語を使ったことにも同じ問いができる)。(→ ③)

この問いについて、チャップリンの場合を先に考えてみたいんですが、

『独裁者』でエスペラント語が使われているシーンは、


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例えば、このナチを思わせる兵士たちの後ろにある看板には「TABAKBUTIKV」と大きく書かれていますが、その下左「CIGAROJ(葉巻)」や、下右「CIGAREDOJ(煙草)」がエスペラント語で、TABAKBUTIKV(Y)は、エスペラント語では変換できないのですが、TABAKは、ドイツ語その他の言語で「煙草」という意味のようです。


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こちらの写真の看板は、vestajoj = clothing(服)、malnovaj = old(古)「古着屋」と、D]olcj fresaj legomaj = Sweet fresh vegetables(甘くて新鮮な野菜)「八百屋」のようで、これ以外にもいくつかエスペラント語の看板が見られます。



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『独裁者』では、ナチスと思われる兵士や国は架空のものですが、チャップリンが演じている床屋はユダヤ人で、この場所は、ユダヤ人居留地(ゲットー)と思われますが、当時、ヨーロッパ各地にあったゲットーでは、通常、その国の言葉とイディッシュ語や、ヘブライ語が使われていて、看板に「エスペラント語」が普通に使われている場所があったのか、少し調べてみたんですが、そういった場所は見当たらず、


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(ゲットーのポーランド語とヘブライ語の看板)



私の最初の想像では、

ザメンホフの祖国ポーランドで、ナチが造った最大のゲットー、ワルシャワ・ゲットー(「ザメンホフ通り」と呼ばれる通りもあった)を象徴するために、街の看板にエスペラント語を潜ませたのではないかと思ったのですが、ザメンホフ通りにエスペラント語の看板があったかどうかについてもわかりませんでした。


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(ゲットーのポーランド語とヘブライ語の看板)


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(1940年10月のワルシャワ・ゲットーでは、
標識にドイツ語とポーランド語が書かれている)




最後のスピーチ部分や、ハンナに希望のメッセージを送っている部分などに「エスペラント語」が使われているのなら、その言語がもっていた「希望」という意味や、チャップリンの国際主義的な意識というのもわかりやすいのですが、

ユダヤ人であることをボカして表現したわけでもないのに、なぜ、ゲットーにエスペラント語が使われているのか?

そこが「なぜ、チャップリンはエスペラント語をつかったのか?」というウィラとエレノアの問いであり、私の疑問でもあったのですが、結局その答えはよくわかりませんでした。

ただ、ゲットーが「エスペラント語」で溢れているというのは、おそらく、ヒトラーをおちょくる映画として先行していた、ユダヤ人である三バカ大将の映画にはない発想だったのではないでしょうか。

私は、チャップリン自身がユダヤ人ではなかったからこそ、このゲットーを、伝統的なユダヤ色ではない風景にしたような気がします。

チャップリンのスピーチにある、

すべての人を助けたい。ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、黒人も、白人も。

それは逆にいえば、ユダヤ人だけが被害者ではない。ということでもあるでしょう。

共通の言語があれば、民族グループの不和に苦しまず、新たなコミュニケーションの道具になると考えたザメンホフに、チャップリンは自分に近い精神を見出し、その気持ちが、伝統的なユダヤ・コミュニティではなく、エスペラント語が看板に書かれている街を創造させたのではないでしょうか?

チャップリンは「エスペラント語」に希望があると思ったのではなく、民族的・言語的な基盤が異なっていることが、憎しみや偏見の主な原因になっている。と考えたザメンホフに共感し、すべての人の団結を訴えた。

マイケルがチャプリンから引き継いだのは「エスペラント語」というよりは、チャップリンの「団結」への気持ちであり、

それが、マイケルの「JAM」になったのではないでしょうか。


ヒトラーについても、特に戦争が絡んだ歴史については、中立的な態度で学ぶのはとても困難なものですが、『The trump and dictator』というドキュメンタリー映画の製作者のひとりが、ガーディアン紙に書いていた記事に、チャップリンが『独裁者』を創っていた時期のことが少し載っていたので、要約でちょっぴり紹介します。



ヒトラーが政権を取った1933年、スタジオの多くがユダヤ移民によって経営されているにもかかわらず、ハリウッドは彼の政策を批判しなかった。


批判することでヨーロッパのユダヤ人がさらなる苦境に陥ることを懸念し、ヨーロッパでハリウッド映画が不評になることも避けたかった。また、1939年に、英仏が参戦したとき、アメリカでは90パーセント以上が参戦に反対だった。


1931年にチャップリンがドイツを訪れたとき、大変な人気だったことを、ナチスは懸念していたが、これは、チャプリンが『独裁者』を撮る発端になったかもしれない。


チャップリンは「私の映画に政治的なものは一本も無い」と語っていたが、ある意味ではすべての彼の映画が政治的だとも言える。堅苦しい社会の中で、彼の存在は「反抗」を表すものだった。ナチスが彼を嫌悪したのは、そういった権力者を茶化すような姿勢だった。


1938年、チャップリンが『独裁者』の脚本を書き始めた時、アンチ・ナチの映画はハリウッドの本流ではまだ無く、ようやく38年に出てきたときも、現実に起こっていたことを考えればリアリティはなかったが、「独裁者」の製作が発表された時、


イギリスはヒトラーを怒らせるのをさけて上映禁止にし、ハリウッドのユダヤ人プロデューサーたちはチャップリンに製作を辞めるように言ったが、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの介入もあって、続けることになった。


チャプリンは二役を演じることに決め、バクテリア国の独裁者ベンツィーニ・ナパロニを演じていたジャック・オーキーは、当初、Benzino Napaloniというイタリアの独裁者役だった。チャプリンの仕事は進まず、


ようやく撮影が始まったのは1939年の9月で、第二次世界大戦勃発の数日後だった。撮影は秘密裏に進められたが、最後にシーンを撮る頃は、すでに、フランスもデンマークも陥落寸前で製作を中断することも考えた。ヒトラーの存在は、もう笑っていられる場合ではなかったから。


でも、彼は中断せず、エンディングを変えた。


元々は、グリフィスの『イントレランス』にならって大々的な平和主義のモンタージュで終わるつもりだったが、撮れば撮るほど納得がいかなくなり、チャプリンは、映画をスピーチでしめることを決意した。そのスピーチは、独裁者のものでも、床屋のものでもなく、チャプリン自身のもので、スピーチは賛否両論を引き起こし、今でもそれは続いている。


映画は大当たりしたが、占領下のヨーロッパ、南米の一部、アイルランドで上映禁止となり、アメリカにおいては、チャプリンの終わりの始まりとなった。


(要約引用終了)


では、マイケルのエスペラントに続きます。。






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by yomodalite | 2015-10-29 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

マイケルとPOLICE

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これは、HIStory Teaser, Part 2「独裁者」の内容への私の補足です。


みなさん、③の記事にあった

あの巨大な像が除幕されたとき、私たちには片方の腕についた腕章が見える。そこには、エスペラントの星の下に、太字でPOLICEと記されている。

という部分、確認されました?





動画の(3:13〜)


本当に一瞬で、なにが書いてあるんだろうと注目させるように、ズームアップしておきながら、ほとんど読めないようにするという、隊長のイケズな性格というか、乙女心を鷲掴みにする、焦らしのテクニックというか、後々まで考察したがる人にちょいと餌をまいてやったみたいな、そんなこんなが入り混じった「よくあるやつw」にホイホイとハマって何度も見てみたんですが、

右から「ECIL~」と来て、その次は、私には「U」に見えて、もしかしたら、「POLICE」に見せかけて、ちょっぴり違うんじゃないかと。


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それで、実際の彫像の写真を探してみたんですが、なかなかその部分の文字がはっきり見えるものが見当たらなくて、

「ヒストリー」のプロモーションでは、ティーザーの映像だけでなく、川を横断する彫像とか、何体かの彫像が造られているのですが、映像で使われている彫像を造った人の写真によると、


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実際のバッジを参考にしているようですね。それで、気付いたんですけど(遅っ!)、この彫像は、デンジャラス・ツアーのときのMJを模して造られていますよね。それなら、ツアー衣装はどうなってたんだっけ?



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と、確認してみたところ、
はっきり「POLICE」って書いてありますね。

自分でもびっくりしたんですけど、私、この衣装のバッジが「POLICE」だったことに初めて気づきました(大汗)


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(黒Verの衣装も同じ)



MJのミリタリー好きも、警察関係のグッズが売っている店によく行っていた話なども知ってはいましたが、専属デザイナーを抱え、いくらでもオリジナルの衣装が創れるMJは、そういったものを参考にしてバッジを造っていても、何人ものカメラマンを雇って、後世に記録されることを大いに意識していた、あの世界ツアーの衣装のバッジが「POLICE」だったなんて・・・

あのサングラスを外すまでの長い長いあいだ、ずっーーーと凝視してたはずなのに、一体どこを見てたのか(でもね、大画面でブカレスト見ても、その文字はなかなか見えないんだってば・・再度言い訳w)、とにかくあのステージ上のMJは「POLICE」として登場して、サングラスでみんなを見回したあと、”JAM” を歌っていたんですね。


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(両腕のバッジは同じデザインで、アームバンドの星と月のデザインは「Man In The Mirror」のCTEシャツと同じ)。


ちなみに、
バッドツアーの衣装のバッジは「Special Officer」なんですよね(ヒストリーツアーのベルト部分にもついてますが・・)


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こちらは、マイケル・ブッシュの『キング・オブ・スタイル』(ただし、この衣装についても、ティーザーの衣装についても参考になる言及はなし)の表紙にもなってる、あの衣装の前面にいくつもついてて(ヒストリー・ツアーの衣装のベルトにも)、


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赤と黒とシルバーのこちらのスーツの腕部分にも同じ形の「Special Officer」が付いてます。


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Special Officerは、POLICEと違って、仕事内容がはっきりしているわけじゃなくて、仕えている場所によって異なるようなものだと思うんだけど、MJの場合は、世界中の人々を守るために特命を受けた大佐?みたいな感じかなぁ。。

でも、「POLICE」は、、

マイケル・ジャクソンは、兵士にも警察にも敵意を持っていないように見える。・・あのとても表情豊かな兵士たちへの敬礼は、ひとつのメッセージ・・抑圧者の意志を遂行する使命を負わされた人たちに・・敵意や憎しみではなく共感や尊敬・・(→ ④)

というのは、もちろんそのとおりで、MJは、2007年に来日したときも、米軍基地に慰問に行って、彼らに感謝のきもちを述べています。平和主義者であっても、軍の仕事についた人々や、主義主張がちがう人を馬鹿にしたり、批判や、敵意を見せることはしなかったですよね!

ですから、ここで警察官に対してそういった意味合いがあることは不思議ではないですし、アルバム『ヒストリー』で、トム・スネドンを歌ったと思われる「D.S」にしても、憎しみを昇華しなければ、時間をかけてあんなカッコイイ曲にできませんからね。

ただ、そういった理由で、デンジャラス・ツアーのオープニング衣装すべてと、ヒストリーティーザーまで、「POLICE」バッジというのは、ちょっと違和感ないですか?

この彫像の除幕式も、集まった人々は歓喜の表情を見せていますが、覆いを外す爆薬の指示を出している人物とか、夜空を飛び交うヘリコプターも、その物々しさは、世界共通の母と愛と音楽の癒やしの力を象徴して建てられた像への「祝祭」というよりは、

常にメディアに追われ、激しい取材合戦に巻き込まれ、そして、このあと起こった、裁判のときの史上最大のメディアの狂乱を「予告」しているかのような、、

そんなことを思って、「Special Officer」や、「POLICE」のバッジを付けているMJを見ていると、

僕は正義は信じてない。正義は信じているんだけど、司法の《正義判断》は信じていないんだ… MJTapes「黄金律に従おう」より

と言っていたこととか、「大審問官」(→要約リンク)のことなどが脳内をうずまき、ますますデンジャラス・ツアーの ”JAM” がカッコ良く見えてきたり、何度も仄めかしつつも、それ以上は言えないギリギリで書いた「この記事」にいただいた、ちいちゃんママさんのコメントの言葉を借りれば、「キリストの受難から殉教への道をなぞらえるスキーム・・」とか、あらゆるところにみられるMJの驚くべき計画性・・てなことも考えてしまって、しばし呆然となってしまったのですが、

ヘリコプターのシーンについては、「Part 3」でも言及されていますので、次回、そちらもお楽しみにぃーーー!

とりあえず、「エスペラント語」についての補足に、続きます!



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by yomodalite | 2015-10-28 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(2)

HIStory Teaser, Part 2「独裁者」④

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(③の続き)


「ヒストリー」では、MJは一度もしゃべったり歌ったりダンスしたりしないけれど、彼の顔を体が多くのことを伝えていて、私に伝わってきたのは、チャップリンが床屋としてしゃべったあの台詞にすごく近いものよね。


申し訳ないが、私は皇帝になどなりたくない。そんなことはごめんだ。私は誰も支配したくないし、征服したくもない。私は、できるなら、すべての人を助けたい。ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、黒人も、白人も。私たちはみんな、お互いに助け合いたいと思ってる。人間とはそういうものなんだ。私たちは、お互いの不幸でなく、お互いの幸せによって暮らしたい。憎み合ったり、軽蔑し合ったりしたくない。この世界には、だれにでも暮らせる場所がある。この大地は豊かで、誰にでも恵みを与えてくれる。人生は、自由で美しいはずなのに、私たちは進むべき道を見失っている。



スピーチ全体の和訳

http://nikkidoku.exblog.jp/16974980/



ウィラ:すごい演説よね。アメリカの映画史上最高の演説だという人も大勢いる。『独裁者』は全編通して見ることをみんなに勧めるわ。まだ見ていない人も、とにかくチャップリンの最後の演説だけは見てほしい。ガービッチの、以下のような演説の後だけに、余計に心に響くのよね。


勝利こそが価値あるものだ。今日、民主主義や自由や平等は、人々を惑わせる言葉に過ぎない。いかなる国家もそのような考えの下に進歩はない。そんなものは、何かことを起こそうとするときの邪魔になるだけだ。そのようなものはさっさと捨ててしまおう。将来、一人一人の国民が、絶対服従のもとに国家の利益に奉仕することになるのだ。それを拒むものには思い知らせてやろう。市民としての権利は、すべてのユダヤ人、非アーリア人種から剥奪されることになる。彼らは劣った者であり、それゆえ国家の敵である。彼らを憎み、見下すのが、真のアーリア人種全員の義務である。


このあと、独裁者のふりをしたユダヤ人の床屋という二重の役を演じるチャップリンが、立ち上がって、さっきあなたが引用したような、すべての人に愛を呼びかける演説をする。


私たちはみんな、お互いに助け合いたいと思ってる。人間とはそういうものなんだ。私たちは、お互いの不幸でなく、お互いの幸せによって暮らしたいんだ。


下記の動画は、『独裁者』の最後の部分で、ガービッチの演説と、それに対するチャップリンの激しく心揺さぶられる演説が入っている。





元記事動画が削除のため全編動画を貼り付け

ガービッチの演説は1:57:00~



エレノア:抜き出してくれてありがとう、ウィラ。実際に映画でこれらの演説を見ると文字で読むよりもはるかにパワフルね。



ウィラ:そうね。そして、この最後の部分を見ると、『独裁者』がどのように視覚的に『意志の勝利』の堂々としたスケール感を出しているかもわかるのよね。『意志の勝利』のはじめで、ヒトラーが自動車でのパレードとともに登場するところがあるんだけれど、チャップリンはそれを再現し、権力を誇示する威圧的な建造物や兵隊の長い列も再現している。これらは「ヒストリー・ティーザー」でも再現されているわね。ここにあるのは、『意志の勝利』と『独裁者』と「ヒストリー・ティーザー」からの場面を切り取ったものだけど、その類似性がすぐにわかる。つまり、どの作品でも、背景には国家の力を示す巨大な象徴があり、前景には果てしなく続く隊列がある。



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『意志の勝利』の一場面



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『独裁者』の一場面



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『ヒストリー・ティーザー』の一場面



こういった映像によって、『独裁者』も『ヒストリー・ティーザー』も『意志の勝利』における広大な視野をとらえている。ただ、『独裁者』では、その広大な視野に次々と、自国のファシスト体制に従う兵士たちによって、ユダヤ人市民が抑圧され、殺害までされるという、帝国主義のイメージが織り込まれる。



エレノア:そう、『独裁者』は風刺作品なんだけど、深い苦悩と多くの論争を巻き起こす問題を扱ってもいる。「ヒストリー」も同じなのよね。そして、『独裁者』と同じように、「ヒストリー」は、多くの点でぎりぎりのラインまでやっている。高い技術で簡潔にやるという見事な手腕で、「ヒストリー」はリーフェンシュタール的な映像を、ナチスの恐るべき作品と『独裁者』の両方を思い起こさせるために使っている。マイケル・ジャクソンの立ち位置を、歴史的に、そして、個人的にはっきりさせるためにね。


MJJJusticeProject の洞察力の「ある記事」によれば、


彼のヒーローであるチャーリー・チャップリンと同じく、マイケル・ジャクソンは『意志の勝利』の視覚的効果を引用しつつ、そこにある感情を引きずり下ろした。チャップリンはオスカー候補にもなった『独裁者』でその映画を風刺し、ジャクソンはナチス体制の犠牲者たちを讃え、いまだにファシスト的信条を支持する人々の心のあり方を冷笑するためにその映画を引用した。


ウィラ:その記事は、ヒストリー・ティーザーを歴史的文脈に置き、予告されたアルバム『ヒストリー』を文脈の中に置く、とてもいい内容だった。



エレノア:リーフェンシュタール風の華麗な式典の場に、ヒトラーのような独裁的な指導者ではなく、マイケル・ジャクソンを置いた「ヒストリー・ティーザー」は、『独裁者』に出てくる穏やかな床屋が、ちょっとした変装で、ヒトラー的人物の代役になってしまう場面を思い起こさせるのよね。ナチスドイツのことを思い起こさせながら、ジャクソンとユダヤ人の床屋を結びつけることで、「ヒストリー」は黒人の体験とユダヤ人の体験、黒人のゲットーとユダヤ人のゲットー、ユダヤ人が受けた扱いと黒人がアメリカで受けた扱い。といったことについて、それとなく言及している。



ウィラ:それは興味深い見方ね、エレノア。独裁者という意外な役を演じるマイケルは、『独裁者』で、思いもかけず押し出されて、独裁者の役を演じることになったユダヤ人の床屋の体験を、自分と同列に置いている。ひとつ違っているのは、床屋が自分が望みもしないのに、その状況に放り込まれたことで、すごく戸惑っているのに対して、マイケル・ジャクソンはそうじゃない。彼は「ヒストリー」の中で、ゆったりと自信に満ちて見える。



エレノア:ただね、ウィラ、明らかに、マイケル・ジャクソンは独裁者の役を演じているんじゃなくて、独裁者に取って代わったように見えるのよね。軍隊の先頭で、大股で歩いている彼は、独裁的なリーダーがいそうな場所を独占している。でも、私たちは、独裁者の代わりに、マイケル・ジャクソンという、独裁とは対極の立場をとるひとりの男性を見るわけ。あの床屋のように、「皇帝になどなりたくない」と思っている、誰かを支配したり、征服したりするなんてことのない彼をね。


でも、MJがくつろいだ様子で、床屋はまったくそうではなかった、というのは同感だわ。ただ、結局彼らは二人ともその役柄に忠実だったということじゃないかしら。床屋は脚光を浴びるのに慣れてないし、ジャクソンは政治家ではないけれど、慣れていた。



ウィラ:そうね。



エレノア:でも、彼のあの美しい笑顔については、再び言及したくなっていたから、あなたが、あの瞬間についてとりあげてくれたことは嬉しいわ。私は、彼の笑顔は、チャップリンの歌の「スマイル」を視覚的に表現したものだと思う。そして、それは、アルバム「ヒストリー」のエンディング曲でもあった。彼の放つ輝きは、苦しみを覆い隠すもの。その苦しみはチャップリンにとっては馴染み深いものよね。


でも、マイケルと軍隊の場面に話をもどすと、あのシーンは、チャップリンの『独裁者』の最後の演説のもう一つの部分に繋がると思うのね。実のところ、あの演説は「ヒストリー」のための脚本集みたいなものだと思う。


兵士たちよ。あなたを軽蔑して、奴隷にするような人間に従うな。彼らは、君たちが、何をして、どう思い、何を感じるべきかまで指示し、君を、家畜のように扱って、砲弾の餌食として利用しようとしている。君たちは、機械でも、家畜でもない、心に愛と尊い人間性をもっている人間だ。だから憎んだりしない。愛のない者だけが憎むのだ。愛されず、不自然な者だけが。兵士たちよ!奴隷として戦うのを止めて、自由のために戦うのだ!


制服を着たロボットのような兵士たちの最上位に立つリーダーとして、MJは新しい上官の姿を提示している。「野蛮に・・・奴隷化する」のとは異なった種類のヒーローとして、彼は国家の仕事をするために徴兵されたすべての人々が、その過程において人間性を失っていくことに共感し、MJは、兵士たちが体現している体制にではなく、兵士たち自身と一体であろうとする。彼は偉大な心の大きさを示し、チャップリンの言葉を借りれば、「罪のない人々を拷問にかけ、拘束する」ようなシステムを非難する。そんなことをしてしまう人ではなくね。拷問する人もされる人も、帝国の邪悪な罠に捕らわれているということなのよ。



ウィラ:それは大事な点ね、エレノア。チャップリンが演説のこの部分を、独裁者の抑圧的な命令を遂行している兵士たちに向けて話し、彼らの人間性に訴えているというのは、すごく大事な点。チャップリンは、彼らが悪いことをやってしまったのは否定しない、彼らが市民を傷つけ、殺しさえするところも描いている。ただそれでも、彼らを悪魔だとは言わない。むしろ、兵士たちも、彼らを「見下し、奴隷にする・・家畜のように扱い、使い捨てにする」リーダーたちの犠牲者だ、と暗に伝えている。


そして、あなたが言うように、マイケル・ジャクソンは、兵士にも警察にも敵意を持っていないように見える。それは彼らが、それぞれの立場で命令を遂行していると思っていたからなのよね。実際、彼は兵士たちの隊列と一緒に歩いている。



エレノア:そう。あのとても表情豊かな兵士たちへの敬礼は、ひとつのメッセージよね。たとえ抑圧者の意志を遂行する使命を負わされた人たちに対してであっても、敵意や憎しみではなく共感や尊敬を感じているという。



ウィラ:そう。そして、スーザン・ウッドワードがメールで私に指摘したように、あの巨大な像が除幕されたとき、私たちには片方の腕についた腕章が見える。そこには、エスペラントの星の下に、太字でPOLICEと記されている。(☆)



エレノア:スーザンに感謝ね。それは気づいてなかったわ。もう一度見てみないと。



ウィラ:私も気づいてなかったのよ。でもそれは、重要なディテールだと思う。マイケル・ジャクソンがサンタ・バーバラ警察とのあいだで経験したこと、特に裸にされて取り調べを受けたことを考えれば、彼が警察全体に憎悪を感じていてもちっとも不思議じゃない。でも、「ヒストリー」からはそういう感じを受けない。彼が表現しているのはもっと複雑なものなのよね。


率直に言えば、そういった行為は一種の借用だと思うのね。白人の歌手や音楽家がジャズからヒップホップに至るまで、「黒人」音楽を借用して、白人の観点からそれを作り直したのと同じように、「ヒストリー」でのマイケル・ジャクソンは、白人がもつ権威のイメージ(そして人種を根拠にした権威主義の例として、ナチスドイツ以上のものがあるだろうか?)を流用し、多国籍であるエスペラントの観点からそれを作り直しているということ。あるいは、もっと良い例えだと、Queer Nation(*)みたいなグループや多くの黒人ヒップ・ホップアーティストたちが、過去に自分たちが投げつけられてきた軽蔑の言葉、たとえば「ニガー」とか「クィア」などを借用して、今はそれを名誉の印として受け入れ、それによってそれらの言葉から負の力を抜き取ってしまった、というようなことかな。


エレノア:そうね、借用して変容させているのよね。帝国主義や国家主義の権力構造は、人間の文化によって作られてきた方法よりも、他者を征服することが、人間本来の性質が持たらす生き残り戦略だと考える。だから、彼らは、優れた技術の所有者が優勢になると仮定する。でも、私たちの技術は、農業でも、産業、軍事でも、私たちの生存にとって逆効果になっている。まさに今、私たちの中の何人もの人々が、戦争によって住む場所を奪われたように、あまり遠くない将来、私たち全員が住めなくなるような、そういった世界を構築しつつある。


チャップリンはこう言ってる。


私たちが得た知識は、私たちを皮肉にし、賢さは、私たちを冷たく、不親切にしている。私たちは、考えてばかりいて、感じることが少なくなっている。機械化よりも人間性が大事で、賢くなるよりも、親切や思いやりの方が必要なんだ。こういった本質を失ってしまったら、人生は暴力的になり、なにもかも失ってしまう。


私たちは黒人への奴隷制度を撤廃したことなんかを、優れた人間の特質だと誇ったりするけれど、実際のところ、私たちは、お互いに対話する方法を変える必要があるとは、あまり信じていない。集団としても、個人ベースでもね。でも、マイケル・ジャクソンはそういう見方に与しなかったんだと思う。彼は自分を信じ、根本的なレベルでの変化をもたらす手段としての芸術の力を信じていた。まったく異なった意味での「意志の勝利」を思い描いていたのだと思う。


自分自身とこれまでの冷酷な専制君主を対比させることで、マイケル・ジャクソンは、彼の価値観、つまり芸術は世界を癒やすことが出来ると信じるアフリカ系アメリカ人アーティストとしての価値観と、他者への抑圧につながる価値観との違いや、システムの悪を指摘し、そこに捕らわれてしまった人たちのことも思いやるのよね。



ウィラ:見事なまとめ方だと思うわ、エレノア。ありがとう。そして、再びこの複雑な映像作品への理解を深める試みに参加してくれてありがとう。私たちの議論の結論は次の記事で。そこで、また他の重要な作品について語りましょう。


もうひとつ、皆さんに知らせたいのだけれど、米国議会図書館が最近、ジョー・ボーゲルによる『スリラー』アルバムについての論文を発行しました。このブログの「Reading Room」に加えておくわね。



エレノア:いいニュースね。こちらでわかるようにしてくれてありがとう。では、議論の最後のパートでまたご一緒できるのを楽しみにしてるわ。


(HIStory Teaser, Part 2 終了)


(☆)「巨大な像が除幕されたとき、片方の腕についた腕章のエスペラントの星の下のPOLICE」その他については、「次の記事」で!



☆この続きの「Part 3」はこちら



(註)____________


(*)1990年3月にニューヨーク市で設立された、LGBTQ(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、ジェンダークィア)の活動家組織のひとつで、同性愛者への差別と嫌悪の撤廃を目指している。





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by yomodalite | 2015-10-27 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

HIStory Teaser, Part 2「独裁者」③

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『独裁者』でユダヤ人の床屋の役を演じるチャップリンは、現実の状況を踏まえチャップリン自身の思いをこんな風に言っている。

今、私の声は世界中の何百万という人たちに届いている。何百万の絶望の淵にある男性や、女性、そして、幼い子供たち、罪のない人々を拷問にかけ、拘束するシステムの犠牲者に、届いている。

そして、その考え方によって、二人とも悪意ある攻撃を受けることになる。なぜなら、彼らが世界の調和を目指すこと、世界的な変化を本当にもたらしうる彼らのグローバル・コミュニケーションの力、そして彼らのスターとしてのパワーは、民主主義や国際主義よりも階層制度と国家主義を信奉している人々にとって、脅威だったから。


ウィラ:そうね。本当に同感するわ、エレノア。


エレノア:そう、マイケルの人生のあの時期につくったヒストリーで『独裁者』を、特に最後のスピーチを連想させることで、マイケル・ジャクソンは、自分がマスコミによって悪魔に仕立て上げられ、法の手によって不当かつ暴力的に扱われたことと、チャップリンの境遇とを重ね合わせている。そして、自分とチャップリンに向けられた性的異常者であるという非難は、社会が切望する変化を引き起こすような行動に火をつけるアーティストの政治的な力、つまりマイケル・ジャクソンが間違いなく持っていた力(そして今も持っている)を恐れる社会が使う道具だと言っている。

そして、重要な点として、彼らの世界平和や和解への関与は、国際言語であるエスペラント語が「ヒストリー」にも『独裁者』にも使われていることでも表現されている。「ヒストリー・ティーザー」のオープニングは、エスペラント語の音声で始まり、『独裁者』では、ユダヤ人のゲットーのシーンの看板の一部にエスペラントが書かれているのよね(*1)


ウィラ:そうね。私もそれは重要な点だと思う。エスペラント語については、2013年の記事(「¡Porque Soy Malo, Soy Malo!」)でも少し話して、簡単な歴史を説明したわよね。

エスペラント語は1800年代後半、世界の平和や理解を進める助けになるように、多くの異なる言語の要素を使って作られた。具体的に言えば、L.L.ザメンホフによって、言語や国籍や民族の区別を超えたコミュニケーションの中立的な手段として作られた。

だから、あなたが言ったように、本当にそれは「国際語」で、「世界の平和と理解」という使命を持っていたのよね。


エレノア:そうね。でも、エスペラントを前面に押し出していながら、よくわからないようになっている。多くの人はそれに気づいてないし、(『独裁者』を見る人と同じように)、エスペラント語だとわからず、意味もわからず、その重要性を完全に見逃していて、そもそもエスペラント語が出てきていることにまったく気づいていないと思うけど、

このサイトの読者でエスペラントの専門家である、Bjørn Bojesenとともに、かなりの議論をしてくれたおかげで、「Dancing with the Elephant」の読者は、それが使われていることに気づいただけでなく、その言葉の意味も知ることができた。(今、そのポストを再読してみたら、Bjørnさんは、エスペラントが『独裁者』で使われていることもコメント欄に書いていたのね)

ヒストリー・ティーザーの冒頭で語られているエスペラント語の言葉を訳すと、

「さまざまな国が、世界共通の母と、愛と、音楽の癒やしの力の名のもとに、この像を建てよ!」

となる。この、エスペラント語で話されている言葉は、『独裁者』にエスペラントが使われていることを思い起こさせるだけではなく、『独裁者』のラストの演説に込められた感情をも伝えている。そして、言語と言葉の内容の両方が、マイケル・ジャクソンが、世界の調和を生み出す条件としてのグローバル・コミュニケーションの重要性を信じていたことを示している。特に彼は、世界のいろいろな国々を愛(L.O.V.E.)と平和でひとつにするための手段としての音楽の力を信じていたのよ。

調べてみたところ、国際語であるエスペラントという名前に「希望」という意味があるのは偶然ではない。そして、それが「国際主義」をも表現しているということが、「ヒストリー・ティーザー」を理解する鍵じゃないかと思うようになったのね。

エスペラント語に関する記事で、MJはなぜ、あの映像作品のオープニングで、作品のテーマを紹介するために、殆どの人が知らないような言葉を使ったのだろうという疑問が持ち上がったわよね(チャプリンが『独裁者』でエスペラント語を使ったことにも同じ問いができる)。

私が思うに、主な理由のひとつは、見ている私たちの好奇心をかき立てるためじゃないかしら。私たちに、その言語を特定して、言われている言葉の意味を見つけて欲しかったのでは。なぜならば、それらの謎を解くことで、私たちはより大きな疑問を見つけることになるから。

たとえば、エスペラント語の歴史を深くひもとくと、「ヒストリー・ティーザー」と『独裁者』にエスペラント語が使われていることは、MJとCC(Charles Chaplin)を結びつけるだけでなく、ドイツとロシアのエスペランティストたちともつながっている。彼らの平和主義者的、国際主義者的な運動は、ヒトラーやスターリンに体制の転覆をはかるものだと見なされ、暴力的に罰せられたり、時には処刑されたりしたのよね。

自身の著作『我が闘争』で、アドルフ・ヒトラーは、ユダヤ人が世界を征服した時、国際的な謀略に使われうる言葉として、エスペラント語のことを言及している。ホロコーストで、エスペランティストたちは殺された。特に、(エスペラント語の創始者である)ザメンホフの家族は選び出されて殺害された。エスペラント語は1939年に禁止され・・・1937年には・・・スターリンがエスペラント語を「スパイの言語」だと非難し、エスペランティストたちを追放したり処刑したりした。エスペラント語の使用は、事実上1956年まで禁止されていた。

ウィラ:ああ、私はまったくわかっていなかったわ。じゃあ、「ヒストリー・ティーザー」にエスペラント語の言葉やシンボルがあるというのは、ものすごく強いメッセージなわけね。それは、あの映像作品の全体主義者的なイメージを根底から変えてしまうものね。どうしてあなたが、「エスペラント語・・・そしてそれが表す国際主義が、このフィルムを理解する上での鍵だ」と言ったのか、ようやくわかり始めたわ。


エレノア:よかった、わかってもらえて!とにかく、この映像のオープニングをエスペラント語の呼びかけにしたことで、マイケル・ジャクソンは、彼自身の「デンジャラスな」国際主義者的な傾向を主張し、それによって彼にもたらされる危険も明らかになった。マイケルが受けた困難の源は、彼や、彼の考えが重大な脅威だとみなされたことによるもので、彼にとっても、その文化は重大な脅威よね。 悪名高いファシストのイメージを使うことで示されたように、「ヒストリー・ティーザー」が表現した脅威は、今もそこにある。影に隠れていてもね。

“We’re talkin’ danger, we’re talkin’ danger, baby!” ー「Stranger In Moscow」
(僕たちは危険なことを話してる。危険なんだよ、ベイビー

オープニングシーンでは、真っ暗な画面にエスペラント語の言葉が流れ、並行してブーツのスタッカート・ビートが入り、そのあと地を踏むブーツと、トゥルル(*2)という、古代ハンガリーのシンボルである鷲の石像の映像が続く。(「ヒストリー・ティーザー」はブダペストで撮影された。後述)それから、アメリカのスワットチームが現れる。一見威嚇的かつ攻撃的に、彼らは、画面の下方からせり上がるように、観客に向かって行進する、映画の『パットン大戦車軍団』風にね。その後、場面は労働者が溶けた金属を流す作業をするところになるけど、これはソビエトのプロパガンダ映画で工場労働者の肉体美を描いていたのを連想させるわね。

マイケル・ジャクソンがどんな人で、何を訴えていたかを知っていると、MJの映像作品が、帝国主義者や全体主義者を思わせる映像で始まるというのは、違和感がある。見えているもの以上のものがここにはあって、何かとても興味深いことが進行しているとわかる。その何かは、「ヒストリー・ティーザー」にエスペラント語が使われていることの重要性に気づき、その言葉の意味を理解すると、より一層はっきりと見えてくる。なぜなら、エスペラント語で話されているのは、この作品の労働者が、全体主義体制のもとでの労働者を示しているのではない、と言っているわけだから。そうではなくて、彼らは、様々な国を代表して、自分の芸術を世界平和を進めるために捧げている「男の記念像」を作っていることを表しているのよ。

その像に加えて、労働者たちは、これもエスペラントの象徴である「巨大な星」も鍛造している。エスペラント語について勉強していてわかったんだけど、このエスペラントのシンボルの星は、5つの角が、ヨーロッパ・アメリカ・アジア・オセアニア・アフリカという5つの大陸を表しているのよ。この場面から1分後くらいに、エスペラントの星がMJのユニフォームもついていて、平和の星が、平和を願うスターの身を飾っているのを私たちは目にする。


ウィラ:とても興味深いわ。それで、『意志の勝利』にあるふたつの重要な場面を思い出したんだけど。映画の中心となる場面は、この映画のビジュアルの面に触れるとき、ほとんどの映画制作者が引用する、目の前に整然と列をなしている数十万の兵士たちに、ヒトラーが演説するシーン。そのシーンの始まりは、ナチス・ドイツのシンボルである、巨大な鉄の鷲を見上げる静止画像で、それからカメラがパンして、私たちは、その「鷲」が円の中に刻まれた巨大な鉤十字の上にあるのを見る。

一方、「ヒストリー・ティーザー」は、ハンガリアン・トゥルルのような鷲を見上げる静止画像から始まる。私がわかる範囲で言うと、この鷲の映像は、見る人によって違うことを意味する、もっと言えば正反対のことを意味する、複雑なシンボルなのではないかしら。でも、ウィキペディアはそこらへんについて、きちんと説明はしていない。こんな風な説明なんだけど。

トゥルルは、マジャール(ハンガリー人のこと)の創成神話において、最も重要な鳥。神の使いで、生命の木のてっぺんでさえずるとされている。まだ生まれていない子供たちが鳥の姿の精霊となって、その傍らにいる。

そのあとの場面では、労働者たちは、巨大なエスペラントの星を円の中に溶接している。つまり、これらの映像を通して、「ヒストリー・ティーザー」は、『意志の勝利』にあるファシズムと全体主義のシンボルを流用しつつも、それを破壊し、まったく新しい形に作りかえているのよ。


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『意志の勝利』にある、鉄の鷲をあおぐ画像と、
「ヒストリー・ティーザー」の鷲(トゥルル)の写真


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『意志の勝利』で円の中にある巨大な鉤十字と、
『ヒストリー・ティーザー』における円の中のエスペラントの星


鉤十字も星も、薄青の背景から差し込む光を受け、巨大なモニュメントとして浮かび上がっている。さらに気をつけてみると、労働者たちは、星のせいで小さく見える(ひとりの溶接工が星に当たる部分に座り、彼の持つトーチランプから火花が出ている)。要するに、星はとても大きく、この「星」がもつメッセージが、あの「鉤十字」にとって変わったことがわかるように、それは大きくなければならなかったのよね。


エレノア:すごいわ、ウィラ。これらの画像は、マイケル・ジャクソンが細部に注意を払っていることや、シンボルがもつ力を深く理解していることを示しているわね。エスペラントの星を、鉤十字と対比させ、さらに、ソビエトの兵器や、警察官のバッジや、アメリカの陸軍大将の制服を飾っている、より伝統的な五芒星の意味や、ポップ・スターとしてのマイケル・ジャクソンにも結びつけている。『ヒストリー』という作品は、「HIStory(彼の物語)」のメッセージと「HIStory(彼の歴史)」におけるヒーローを、伝統的な軍事的レジェンドやヒーローたちと対比させ、


マイケル・ジャクソンは、人間のエネルギーが帝国や国家の利益に供するための支配を生み出すために注がれるのではなく、新たなグローバル・コミュニティを作り出すために使われるような世界をめざそうと私たちに示している。


オープニングの後に浮かび上がるイメージは、膨大な人数の軍隊で、その軍を誰が率いているのかはわからない。でも見るものをじらすように、彼を象徴するあの膝上のブーツをはいた足のショットでヒントが示され、最後に彼の美しい顔が映され、この軍を率いているのが他でもないマイケル・ジャクソンであることが明らかになる。(④に続く)



(註)_________


(*1)『独裁者』のゲットーに見られるエスペラント語については、Part 2終了後の記事で。


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(*2)上下とも、トゥルルの写真

◎参考記事
「天までのぼる木にはトゥルルという名の霊鳥が住む」


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by yomodalite | 2015-10-26 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

HIStory Teaser, Part 2「独裁者」②

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ウィラ:そこはとても重要なポイントよね。マイケル・ジャクソンは、何十年もチャールズ・チャップリンの映画や人生についてを研究し、スイスにある彼の家族も訪ねているぐらい、チャップリンについてよく知っているわけだから、『独裁者』がチャップリンへの世論を変えるのにどれだけ影響があったか、確実にわかっていたはずよね。


エレノア:そうね、それは十分考えられる。『独裁者』はいくつかの理由で、チャップリンをとても難しい状況に追い込んだ。まず、1940年の時点では、アメリカにはヒトラーの支持者が大勢いて、彼らは『独裁者』の反ファシストというメッセージを受け入れることが出来なかった。そのあと、共産主義が毛嫌いされるようになると、反ファシストであることは、共産主義に賛成と見なされた。チャップリンが一生懸命「共産主義者であることを否定し、自分を『平和主義者』だと名乗った」にも関わらず、彼の評判は深刻なダメージを受けたのよ。

でも、私はチャップリンの本当の「罪」は、彼のインターナショナリズム(国際主義)や、世界調和のビジョンであり、一般的なナショナリズムへの批判だったと思う。彼は『独裁者』でもそれを表現していたのよね。


ウィラ:それはもう一つの重要な点ね、エレノア。そして、マイケル・ジャクソンとチャップリンのもうひとつの繋がりでもある。『マイケル・ジャクソン・テープス』で、マイケルがラビに言ってるわよね。

僕は自分を世界の一員だと感じている。だから、どちらか一方につくのはいやだ。「僕はアメリカ人です」と言うのが嫌いなのは、そういう理由なんだ。(→http://honor.exblog.jp/22816182/)

エレノア:興味深いわね、ウィラ。マイケルの世界的な影響力は、実際に、世界中の人々が彼に反応したという事実によって証明され、彼は「私たちの内のひとり」だという反応は今も続いている。でも、残念なことに、こういったインターナショナリズムや、反ナショナリズムは、「非アメリカ人」として責められる結果にもなった。そういったことが、チャップリンにも起こったのよね。


ウィラ:そうね。そして、マッカーシズム(*)の狂乱の中で、チャップリンは本当に厳しく糾弾されてしまった。


エレノア:『独裁者』の、特にその最後、チャップリン自身の声で、彼の見解をスピーチすることによって、チャップリンは非難にさらされることになり、1947年には、彼を国外追放にしようとする動きにまでなってしまった。1947年の6月、ミシシッピ選出の下院議員、ジョン・F・ランキンは議会でこう述べている。

彼がハリウッドにいることそのものが、アメリカの道徳観念の構築に有害なのであります。・・・(もし彼が国外退去となれば)、彼の忌まわしい映画がアメリカの若者の目に触れることを防げるのです。彼は追放されなければならないし、すぐに追い払わなければなりません。

チャップリンの悪魔化は、タブロイドの記事だけでなく、彼の評判や信用を破壊した性的異常性の法的告発が致命的となり、彼が1956年にアメリカからヨーロッパへ向かったとき、アメリカは彼の再入国を拒否し、ビザも取り消された。


ウィラ:チャップリンがどれほど映画や文化に貢献したかを考えると、信じられないことよね。そして、「悪魔化」というのはまさにそのとおりで、チャップリン自身もそれをよく承知していた。「Michael Jackson Academic Studies」というサイトの創設者のひとりであるケイリン・マークスが、最近私に面白い話をしてくれたわ。チャップリンはアメリカを離れる直前、写真家のリチャード・アヴェドンに写真を撮ってもらったんだけど、撮影の最後に、チャップリンはもう一枚撮ってくれと頼んで、指を頭から悪魔の角のように突き出すポーズで、カメラに向かったそうよ。これが、ケイリンが教えてくれたドキュメンタリー番組で、リチャード・アヴェドンはその時のことについてしゃべっている(39分20秒~)



(興味深いことに、チャップリンの話をする前、アヴェドンは、私たちが前回の記事で触れたウインザー公夫妻、ヒトラーの熱心な支持者だった夫妻の写真を撮った時のことを話している。アヴェドンは、夫妻がニースでギャンブルをしているのをよく見かけたと話していて、「二人は、ユダヤ人よりもはるかに犬たちのほうを愛していた」という見解を述べている)


50年後、マイケル・ジャクソンは、チャップリンと非常に似た方法で悪魔に仕立て上げられることになる。彼は、BBCニュースで取り上げられたように、サンタ・マリアの裁判所で、チャップリンがやったのとまったく同じポーズをカメラマンたちにとってみせたのよ。ここにあるのが、二人の「悪魔ポーズ」の写真。


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この写真についての記事
http://nikkidoku.exblog.jp/13746654/



エレノア:すごい。これを見ると、MJがチャップリンと自分は同じだと思っていたのが歴然ね。一致する点があまりにもたくさんある。どこかで聞いたんだけど、マイケル・ジャクソンは、あまりにもチャップリンを身近に感じていたので、一度など「僕自身がチャップリンだと感じることがある」とも言ったって。


ウィラ:そう、彼はドキュメンタリー番組「マイケル・ジャクソンのプライベート・ホームムービー」のインタビューの部分でもそう言っているし、ホームムービーには、よくチャップリンがやっていたように、「The Little Tramp(愛らしい浮浪者)」の服装をして、口ひげを左右に動かすマイケルの素敵な映像もあるわよね。これはファンが作った「スマイル」っていうビデオなんだけど、ここにはチャップリン風のマイケルの写真や、「プライベート・ホームムービー」からとったその他の場面も入っている。






これらの写真は違う機会に撮影されたもので、初めのは彼がソロになったばかりの頃で、もうひとつはあとのもの。だから、彼が長年チャップリンを敬愛していたのがわかる。基本的にはキャリアのスタートから終わりまでね。そして、あなたが言ったように自分とチャップリンを同じと見ていた。


エレノア:そうね。それと、子供の頃にMJがチャップリンのスケッチをしていたところを見ても、彼が幼い頃からチャップリンに興味をもっていたのがわかる。それはたぶん、チャップリンがサイレント映画のスターとして、言葉に頼らず身体を使って表現することに並外れた能力を持っていたからだと思う。MJもまさにそうだった。


◎Antiques Road Showに取り上げられたMJが描いたチャップリンのスケッチ
◎チャップリンを含め、MJが描いたいろいろな絵を載せているPinterest


でもそれだけじゃなくて、小さい頃からこの世界で目にする理不尽さに深く心を寄せていたマイケル・ジャクソンの、並外れた感受性と共感力が、チャップリンの持つ平和と調和を目指す姿勢に引き寄せられたのだと思いたいわね。MJの物語を語るために『独裁者』を引用することで、「ヒストリー」はMJの人生とチャップリンのそれとの、驚くほどの一致に気づかせてくれる。

チャップリンとマイケル・ジャクソンはともに世界の調和を思い描いていた。二人とも、そのために世界が変わることが必要で、世界が変わるには、世界が繋がらなければならないと理解していた。そして、二人とも世界中を繋ぐということにかけて優れた仕事をした。チャップリンは、サイレント映画のスターとして大成功することになったボディランゲージによって、ジャクソンは、音楽とダンスという言語を通して。そして、二人は、偉大なアーティストとしても、スーパースターとしても、人々の気持ちや考え方に触れ、世界中に影響を与えた。(③に続く)


(註)__________

(*)マッカーシズム/1950年代にアメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。アメリカ合衆国上院議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーの告発をきっかけとして、共産主義者であるとの批判を受けた政府職員、マスメディアの関係者などが攻撃された。これは赤狩りというよりも、リベラル狩りという側面もあった。

1947年、非米活動委員会でハリウッドにおけるアメリカ共産党の活動が調べられ、チャーリー・チャップリン、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーなども対象となり、委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者(ハリウッド・テン)は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された。グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、ダニー・ケイ、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン、キャサリン・ヘプバーン、フランク・シナトラなどが反対運動を行う一方で、エリア・カザンや、ウォルト・ディズニー、ゲーリー・クーパー、ロバート・テイラー、そして1981年に共和党から大統領に就任することになるロナルド・レーガンなどは告発者として協力した。

1950年2月、共和党上院議員であったマッカーシーが、「国務省に所属し、今もなお勤務し政策を形成している250人の共産党党員のリストを持っている」と発言したことは、メディアの関心を集め、これをきっかけに、アメリカ国内の様々な組織において共産主義者の摘発が行われた。この中心となったのが1938年に設立された非米活動委員会である。

マッカーシズムは共和党だけでなく、民主党の一部の議員からも支持を集め、あらゆるマスコミが赤狩りの標的になることを恐れて批判を控えていた中で、1954年3月に放映された番組「See it Now」は、強引かつ違法な手法で自らがターゲットとした個人や組織への攻撃を行うマッカーシーのやり方を鋭く批判した。この一連の放送は、陸軍との対立により強まってきていた大衆によるマッカーシーに対する不信を後押し、反マッカーシー派を勇気づける結果となり、(この経緯は『グッドナイト&グッドラック』として映画化されている)1954年12月、上院は賛成67、反対22でマッカーシーが「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として譴責決議を可決した。

しかし、その後、1995年、ベノナ(ソ連暗号解読プロジェクト)が機密扱いを外され、ソ連の暗号通信の内容が明らかになった結果、ソ連のスパイ行為はマッカーシーの見積もりよりも、さらに大規模なものだったことが判明し、マッカーシーに調査された人物の中に実際にソ連のスパイがいたことも明らかになった。

たとえば、メリー・ジェイン・キーニーはマッカーシーにより単に「共産主義者」とされているが、実際には彼女も、その夫もソ連のスパイだった。マッカーシーにより名指しを受けたロークリン・カーリーは、ルーズベルト大統領の特別顧問だったが、ベノナによりソ連のスパイであることが確かめられた。(マッカーシズムと、ジョセフ・マッカーシーのWikipediaより要約。参考書籍『共産中国はアメリカがつくった』





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by yomodalite | 2015-10-25 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

HIStory Teaser, Part 2「独裁者」①

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前回紹介した、HIStory Teaser, Part 1「意志の勝利」の続き、今回はチャップリンの映画『独裁者』との深い繋がりについての考察です。

私にとって、まず嬉しかったのは、以前、推測で書いていたチャップリンとMJの同じポーズの写真について、より確信がもてたことと、


「マイケルの軍隊は、チャップリンスピーチを映像化したもので、だから、最後の曲が “Smile” だった」という私の思いを、より強力に語ってくれたことと、


関連記事:http://nikkidoku.exblog.jp/17145592/


以前訳した「チャップリンのスピーチ」について再び考え直すきっかけになったことです。


また、私がはじめて、エスペラントのことを知ったのは、1985年の坂本龍一の同名のアルバムがきっかけで、そのとき、その言葉は、民族感情に左右されず、特定の民族に有利になったり、不利になったりしない。そんな夢を担った国際言語であると知ったのですが、ヒトラーはそれを「ユダヤの陰謀」と断じ、そのヒトラーのファシズムを揶揄したチャップリンは、共産主義者だと批判され、マッカーシズムによって、国外追放になりましたが、「赤狩り」で悪名高いマッカーシーは、共産主義という全体主義から、アメリカの自由を守ろうとしていました。そして、戦後、アメリカでは、日本よりも遥かに激しくヒトラーを「悪魔化」しましたが、ヒトラーが信じた「ユダヤ陰謀論」や、「人種差別」の精神をもっとも引き継ぐことになっているのは、なぜなんでしょう? ちなみに、それを「秘密結社」のせいにするのも、ヒトラーと同じ考え方ですからね(笑)

でも、チャップリンや、マイケルは、常に、正義や、理想ではなく、人々を分断しようとする力に抵抗し、心から愛と平和のために尽くしたと思う。

前置きが長くなりましたが、エレノアとウィラの会話の続きです。


ウィラ:今週も、エレノア・バウマンと私で、マイケルがヒストリーアルバムのプロモーションのために作った映像作品についての議論を続けたいと思います。前回の記事で話したように、「ヒストリー・ティーザー」は初めて公開されたとき、広範囲で議論を巻き起こしましたが、それはこの映像が、ナチのプロパガンダ映画『意志の勝利』を真似ているように見えるということが大きかった。そして、そこでの会話のように、確かにふたつの映像作品には、興味深い重要な関連性がありました。

しかしながら、ここにもう一本、このふたつの作品をつなぐ役目を担ったような映画があります。チャップリンの意欲的な傑作『独裁者』です。この映画は、『意志の勝利』や、そういったプロパガンダ映画を皮肉ることによって、巧みにナチのイデオロギーに対抗し批判している。『ヒストリー・ティーザー』は、この映画から目立たない形で引用することで、作品の持つ意味をより重層的なものにしていると、私は思います。

というわけで、今回のテーマは、『意志の勝利』と『独裁者』と「ヒストリー・ティーザー」との関連性、そして、それらの影響から、「ヒストリー・ティーザー」をどう解釈するか、です。エレノア、議論の続きに参加してくれてありがとう!


エレノア:ハーイ、ウィラ。こちらこそ、誘ってくれてありがとう。私にとって、マイケル・ジャクソンについて考えたり書いたりすることほど楽しいことはないわ。もちろん彼の音楽を聴くこと別格だけどね。本当のことを言うと、私は、MJの世界史や、映画史に対する理解や知識の広さや深さについて、未だに把握できていないし(いったい彼はいつそんな勉強をするひまがあったの???)、「ヒストリー・ティーザー」にそれら歴史の知識をすべて織り込み、このすごく短い映像作品に、とてつもなく多くの意味を持たせた、信じられないほどの芸術的能力についても、わかったとは言えない。

ただ、ここまでの議論で、私は「ヒストリー・ティーザー」を、様々な映画を引用した、複雑なコラージュだと思うようになったのね。ひとつひとつに、強い思いと歴史的知識が込められていて、それらが合わさって、マイケル・ジャクソン自身の物語になった。白人が支配する社会で名声を勝ち得ていった、パワフルな黒人アーティストである彼の側から語られる物語にね。その物語は、彼の存在や経験をより広い文脈の中に置き、彼個人の経験だけでなく、一部の人間を優位に置き、他を犠牲にするようなシステムに絡め取られた人たちの経験にも、思いを巡らせたものよね。「ヒストリー・ティーザー」は本当に、歴史について、マイケル・ジャクソンについて、そして慈悲について、私たち考えさせてくれる。私はこれを圧倒的に素晴らしい作品だと思うし、他の人もそう思ってくれることを願うわ。

個人のレベルで言うと、HIStory(彼の物語)はTHEIRstory(彼らの物語)へのアンチテーゼ。彼らの物語というのは、メディアによって繰り返し語られる嘘が、そのうち大衆心理に深く根を下ろして出来るものね。それらの嘘は、ヒトラーが「大きな嘘」と読んだものの類で(*1)、あまりに「巨大」で、「事実をそれほどまでにひどくねじ曲げる人がいる」とは誰も思い至らないのね。ヒトラーがナチスドイツにおけるユダヤ人の名誉を損ねるために言ったのもそのような嘘。

『ヒストリー・ティーザー』でマイケル・ジャクソンは、自分を地獄へ陥れたシステムを強く非難することで、自分を守ろうとした。そして、目的を達成するために『独裁者』と『意志の勝利』を使ったのね。

『意志の勝利』を思い出させる映像を使うことで、彼を破壊しようとした文化をナチスドイツにたとえた。そして、『独裁者』のテーマとプロットを引用することで、『意志の勝利』が讃えてしまった悪を明らかにし、そればかりか、『独裁者』の最後の有名な演説にあるような、『意志の勝利』が提示したものに代わるような世界観を提示して見せた。


ウィラ:いい総括だわ。エレノア。ありがとう。


エレノア:どういたしまして。


ウィラ:三つの映像作品を年代順に追っていくうえで、1934年公開の『意志の勝利』と1940年の『独裁者』を比較することから始めなくてはね。まず、前者では、アドルフ・ヒトラーは超人的な人物として登場するけど、『独裁者』は風刺映画だから、チャップリンは彼を傲慢で無能な人間、おばかなアデノイド・ヒンケルとして描いている。ヒトラーを取り巻く神話的なオーラをさらに取り払うため、チャップリンはヒンケルを「Fuhrer」(フュアラ:ドイツ語で指導者)ではなく「Phooey」(フューイ:英語で「ふーん」とか「ちぇっ」といった意味)と呼ぶ。同じように、ヒトラー内閣の閣僚であるヘルマン・ゲーリングや、ヨセフ・ゲッペルスは、チャップリンの映画では、ドジなへール・ヘリングや、へール・ガービッチ(ガベッジ〈ゴミ〉と発音されている)になっている。


エレノア:そして面白いことに『独裁者』の直前、MJの好きなお笑いトリオの「三ばか大将」が出演した、ナチスドイツを皮肉ったもう一つの作品があるのよね。


ウィラ:彼らの短編映画『You Nazty Spy(ナチのスパイめ!)』のことね。ドイツでのファシズムの興隆に対して、ハリウッドが反応したことや、しなかったことを論じた本が新しく出版されて、私はまだ読んでないんだけど、記事によれば、「三ばか大将の作品は、映画館で、ナチスドイツの本質を表現した一番最初のもの」とあるわ。長編映画である『独裁者』は、同じ年なんだけど、それより後に公開されているのね。

『独裁者』という作品の雰囲気は『意志の勝利』とはかなり異なっているけど、作品の意図や視点も違っている。『意志の勝利』では、何もかもが大規模で、もの凄い数の群衆、もの凄い数の兵士、記念碑的建造物、そして、ナチスのリーダーたちは、あえて言うなら、外見的に描かれている。と言うのは、カメラのアングルによって、私たちは彼らを見上げているような格好になっている。まるで台座に載った像や、オリンポスの神々のように。彼らの頭の中にある考えや感情なんて、わからないようになっている。実際のところ、私たちは彼らの人間性なんて見なくていいのよ。だって彼らは、神話的で、神のような存在としてそこにいるんだから。


エレノア:そうね。リーフェンシュタールはあらゆる技術を駆使して、ナチスのリーダーたちをÜbermenschen, つまり「スーパーマン」として描いているのね。


ウィラ:まさしくそうね。対照的に『独裁者』では、チャップリンの映画がいつもそうであるように、全てが等身大で、日々の生活のつらさ、特に権力側に目をつけられているユダヤ人のゲットーに暮らす人たちのつらさが描かれている。それは、チャップリンが二つの役、衝動的に命令を下す独裁者ヒンケルと、独裁者の命令によって人生をまるっきり変えられてしまうユダヤ人の床屋の二人を演じることで強調される。見る側は、ヒンケルと、床屋の場面を交互に見ることで、威張ってるだけで、頭が空っぽで、情緒も鈍い独裁者のファシスト的妄信が、どれほど、床屋や、彼の友達だけでなく、そのコミュニティ全体に危険が及ぶかということが、すごくはっきりとわかる。

そして、二本の映画は似通った事柄、ファシストのイデオロギーが、国の未来やアイデンティティや、自国への意識に与える影響について扱っているけど、そこにある世界観や雰囲気、そして意味するところは、これ以上無いほどかけ離れている。


エレノア:そうね。そして、これらの映画を年代順に考えてみると、『意志の勝利』が作られた1934年から『独裁者』が作られた1940年のあいだに、とても多くのことが起こった。そして、1940年から第二次世界大戦の終わりに起こったことによって、それらの映画の意味や重要性も変わったのよね。


ウィラ:先を聞かせて、エレノア。


エレノア:たとえば、1934年には、ヒトラーやナチスは、第一次世界大戦に敗れたドイツに希望を与え、共産主義に対する防波堤になったと賞賛されていて、リーフェンシュタールの映画も拍手をもって讃えられた。ところが1940年になると、ヨーロッパで戦争が起こり、多くの人々がドイツに対して不安を抱くようになった。結果として、国際世論も変わりはじめ、同じ映画が、非常に疑わしい体制のプロパガンダとして、懐疑的に見られるようになった。

ナチの脅威にみんなの目を向けさせ、ヒトラーのパワーやカリスマ性を損なわせるべく、チャップリンは『独裁者』を作り、1940年の10月にニューヨークでプレミア上映を行った。アメリカが第二次世界大戦に参戦する1年前のことよね。リーフェンシュタールが、ヒトラーを立派に見せようとした方法を参考に、チャップリンは、ヒトラーのふんぞり返った姿を嘲笑し、彼を等身大の人間に描いた。自らの驚くべき喜劇的才能を使いつつ、チャップリンが描いたのは、喜劇とはほど遠い状況だった。

現在では、多くの人が、ナチスをおちょくって批判するなんて、好意的に見ても、適切ではないと考えるでしょう。でも、思い出して欲しいのは、1940年には、ヒトラーの狂気の全体像はまだわかっていなかったし、「最終的解決」(ユダヤ人の大量虐殺計画のこと)も徹底して実行されてはいなかった。後年になって、チャップリン自身が言ってるわ。「ナチの収容所の本当の恐怖を当時知っていたならば、あの映画を撮ることはなかっただろう」って。


ウィラ:それは重要なポイントね。ふり返って見ると、今の人たちには、『独裁者』は悲劇を矮小化していて、無神経に見えるかも知れない。でも、強制収容所のような残虐行為は1940年の時点ではまだ知られていなかったし、あなたが言ったように、実際、最悪の事態はまだ起こっていなかったのよね。それはもっと後の戦争中に起きたことだから。

海外で起こっていることに対するアメリカの態度は、この時点ではすごく複雑だった。アメリカは、1941年12月7日に日本がパールハーバーを攻撃するまでは、公式には参戦していなくて、1940年は、武器や資金援助などの支援を連合国側に供与していた。実は、この国の歴史で唯一の平時徴兵制が始まったのは、1940年の9月で、『独裁者』が公開される1ヶ月前。アメリカは戦争に備えてはいたけど、積極的に参加してはいなかった。それは、第一次世界大戦でたくさんの犠牲者が出たことから、戦争に巻き込まれることをすごく嫌っていたからなのよね。

だから、あなたの言うことはわかるわ、エレノア。『独裁者』を理解し、その価値を知るには、それが製作された頃の歴史的背景を考慮しなくてはね。この時代は、戦争がいろいろな国を巻き込んでいくのを目にしながら、アメリカが大いに迷っていた時期であり、ホロコーストの恐怖の全容がまだわかっていなかった時期なのよね。


エレノア:そうなのよ。そして、第二次世界大戦で明らかになったことは、『独裁者』に対する私たちの感じ方を変え、『意志の勝利』への見方も180度変えたということよね。『意志の勝利』は、第三帝国(*2)の栄光の象徴ではなく、強制収容所と大虐殺の象徴になってしまった。で、「ヒストリー」におけるこれらの映画の使い方についての議論を複雑にしているのは、1940年と1994年の間に再び、このふたつの作品の重要性というのが変化していることなの。それも劇的にね。

「ヒストリー」が作られた1994年には、すでに何世代もの映像作家が、ナチスの残虐行為やその横暴を描く手軽な手段として、リーフェンシュタールのような映像手法を使っていた。だから、私たちはそういった映像が「ヒストリー」に現れた時、即座に嫌悪感を感じてしまうのよね。この映像効果によって、「ヒストリー」は、我々の心の奥深くにある、意識もしていないような感情を呼び覚まし、「集団的な罪の意識」のメカニズムと結びつけ、アメリカ文化の中にある人種差別や広範囲な抑圧の悪を明らかにした。そして、1994年には、『独裁者』はナチスに対する風刺映画というよりも、その役を演じていたチャップリンの栄光が失墜していた。マイケル・ジャクソンと同じような原因でね。(②に続く)


(註)__________


(*1)大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ(アドルフ・ヒトラー)


(*2)第三帝国/ナチスドイツを示す言葉として知られている。元はキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味する「三時代教説」と呼ばれる概念で、まず「律法の元に俗人が生きる『父の国』時代」、そして「イエス・キリストのもとに聖職者が生きる『子の国』の時代」、そして最後の審判の後に訪れる、「自由な精神の下に修道士が生きる『聖霊の国』の時代」の三つに分けられると定義されていて、「第三の国」は、来るべき理想の国であるというニュアンスを持っていた。

その後、保守革命の思想家アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックが、1923年に著した『第三帝国論』の中で、第一の国である神聖ローマ帝国と、第二の国であるドイツ帝国の正統性を受け継ぐ「第三の国(第三帝国)」の創設を唱え、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)統治下のドイツで、これが盛んに用いられた。(→ https://ja.wikipedia.org/wiki/第三帝国より要約)





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by yomodalite | 2015-10-23 06:00 | MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

プリンス論 (新潮新書) /西寺郷太

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今、日本中でかなりの人がこの本を読んで、プリンスを聴き直しているんじゃないでしょうか。私もそんなひとりで、ここ数年、圧倒的な差で独走していたMJなんですが、最近ほんの僅差でプリンスが上回っています。


ちなみに今日は、現在、絶賛骨折り中! ついさっきも、childspirits先生と、「みんな、マイケルで踊りまくってるのに、《マイケル太り》なんてしてるの、日本中で私たちだけじゃない?」などと憂いつつ、ダイソーのジャイアントコーン美味しいよね。と盛り上がってた、そんな罪つくりな『HIStory』と同年に発売された『The Gold Experience』(1995)から聴き始め、

iTunesの年代順プレイリストによって、今、『Emancipation』(1996)に移ったところなんだけど、これは、3枚組で全曲聴くと3時間ぐらいかかるんだけど、『プリンス論』では、第5章に記述があって、

「ワーナーでの最後の新録アルバム《カオス・アンド・ディスオーダー》の発売から、わずか3ヶ月後の1996年11月1日。」

あ、そっかぁ、『Emancipation』と『Chaos And Disorder』は同年だったっけ。iTunesの「プリンス・フォルダ」のプレイリストの表示順序を「年」に設定してあるんだけど、同年の場合は、アルファベット順が先の『Chaos〜』が先になるなんてことはないのね・・・でも、同じ「プリンス・フォルダ」に入ってるから、『Chaos〜』は、この次にプレイされるのか、、あ、、ちがうなぁ。。『Emancipation』のDisk 1の後、Disk 3、そのあと『Chaos〜』で、次がDisk 2になってる(???)。

まだ、『Emancipation』のDisk 1終わってないけど、今気づかなかったら、ずっと『Emancipation』を聴いてるつもりで、『Chaos〜』を聴くことになってたんだわ。ふぅーーー。

という具合に、とにかく、プリンスについて語るのはむずかしい(?)


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私のiTunesの「プリンス・フォルダ」には、最新アルバムの「HITnRUN Phase One」を含めて全部で18枚のアルバムが入ってて、入れてないディスクも4枚ぐらいあるはずなので(ベスト版やシングルや再発版はのぞく)、私にとって、プリンスは一番多くのアルバムを所有しているアーティストなわけですが、私にはプリンスについて語ることなんてまるで出来ないし、この程度の枚数ではファンと認めてももらえないというのが、プリンスなんだけど、本当にこんなにいっぱいあるのに、さらに、これまた山のようにある「アンリリースト」まで買う人がいるなんて、、いや、買う人がいるのはわかるけど、すべて聴き込んでいるなんていう人が、音楽を仕事にしてない人の中にいるのかな?

「プリンスは、この年のヴァレンタイン・デーに、22歳となったマイテと結婚。新婚旅行でハワイを訪れ、その2ヶ月後には、彼女が妊娠したことを発表。こうしたプライヴェートの充実が、《イマンシペイション》の持つ「祝福」のムードに拍車をかけた。

あーー『Emancipation』って祝福ムードだったんだぁ。殿下の音楽って、そーゆー感情とかイマイチよくわかんないんだけど、、そういえば、DELFONICSで有名な曲で、様々な人がカバーしてる「La-La (Means I Love U)」とか、すっごく甘い感じで歌ってる。。 でも、西寺氏が悲痛なアルバムだって言う『HIStory』だって、色々と大変な時期だっただけでなく、結婚して、長年待望してた子供ももうすぐ生まれる(と、MJは思ってた)ときのアルバムだし、そーゆー私たちのような普通の人々にとってわかりやすい “物語” を、天才と呼ばれるアーティストに適応できるのかなぁ。。

なんてことを思っただけでなく、ナンダカンダとこの間に用事を済ませてたら、あっという間に、『Chaos〜』に突入。第4章によれば、

「このアルバムの「荒削りなロック・バンド感が好きだ」と言う声を聞くこともあるが、僕はこの作品に関しては、彼のすべてのキャリアの中で最も低い評価を下している。」

えっーーー、このアルバムが西寺氏の最低なんだ。

「薔薇の花束が燃やされ、《1999》のレコード盤の瞳のイメージに涙が書かれ、踏みにじられ割られていた。しかも、その涙の中には、逆さまになったワーナーのロゴが・・・」

っていう感じは、音楽的にはあまりしないし、エレクトリックサウンドがあんまり好きでない人にとって、90年代のプリンスのアルバムの中ではとっつきやすくて聴きやすいアルバムなんだけど、それは、レコード会社の意向による大衆迎合や、移籍にともなう在庫整理・・ってことなんでしょうか。西寺氏が最低評価なのは、音楽的にちょっと昔のロック風というか、新しさに欠けるからなのかな。でもそこがまた良かったりもするので、私の不満はたったの11曲ってことぐらいなんですけどw

てなことを思いつつ、この間に一本電話受けてたら、あっという間に、また『Emancipation』に戻ってて、リスナーの方では、なかなか『Emancipation』から解放(emancipation)されませんww

「書き終えた今、あらためてこう思う。「もしも「プリンスの楽曲を一曲も知らない」という人がいたならば、その人は幸運だと。「ポップ・ミュージック史上最高の天才」の魔法を、この瞬間、ゼロから体感できるのだからー。」

何曲かわかんないぐらい知ってはいるものの、この魔法から、私が解かれる日が来る気配は全然ない。

同時代のライバルであるプリンスとマイケル。二人を語る場合に必ず言われるのは、「人種を超えた」ということ。でも、それって、つくづく「白人目線」というか、つまり、エルヴィスを見て、黒人がどう思ったかについては、「言葉がなかった」ってことなんだよね。そんな風に、確実に存在しているけど、まだ認識できないせいで、語られていないことはいっぱいあって、

ふたりは、ありきたりの物語を拒否しようとする姿勢も似通っていて、それゆえ、言葉にも慎重で、音楽評論家の手に負えないというところも・・・でも、マイケルは「大きな物語」を意識してたから、今後は長く「語られていく」と思うけど、おそらく、プリンスは老年になっても話題作を作り続ける天才であり続けるかもしれないけど、一生、言葉とは相性が悪いんじゃないかなぁ。。。

さて、これから、西寺さんのお気に入り曲をすべて混ぜ込んだプレイリスト創ってみよっと。。





youtubeでは削除されまくりのプリンスですが、やっぱり音楽がないと寂しいので、、マイテがたくさん登場するエロい曲で、この本には記述がない『The Hits 2』と『The Hits/The B-Sides』にしか入ってないシングル、"Peach" にしたかったんだけど、ニコニコ動画にしかなかったので(http://www.nicovideo.jp/watch/sm8935844)、1991年の「Diamonds and Pearls」に入ってるエロい曲、“Cream”を貼っておくので、最近のもう少し崇高な感じの曲は、アルバムを買って聴いてね。


(音楽が始まるのは1:55〜)





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by yomodalite | 2015-10-21 21:09 | 現代文化・音楽・訳詞 | Trackback | Comments(0)

オウム真理教の精神史ーロマン主義・全体主義・原理主義/大田俊寛

オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義

大田 俊寛/春秋社




『ヒストリー』20周年で、アメリカだけでなく、日本の1995年を思い返しているのですが、その年は、阪神大震災が起こり、オウム真理教によるサリン事件があった年でした。

20代から30代までグノーシス主義の研究に専念したという著者は、2011年に出版された本書で、これまでに出版されたオウム関連書籍を、元信者、ジャーナリスト、学問的著作に分類し、特に、学問的分野において、適切に論じられているものがなく、


・中沢新一『「尊師」のニヒリズム』

・宮台真司『終わりなき日常を生きろーオウム完全克服マニュアル』

・大澤真幸『虚構の時代の果てーオウムと世界最終戦争』

・島薗進『現代宗教の可能性ーオウム真理教と暴力』

・島田裕己『オウムーなぜ宗教はテロリズムを生んだのか』


著者は上記の代表的な五点の問題点を

オウム事件の原因を70年代後半から80年代以降の日本社会、すなわち、高度経済成長を達成した後の日本社会の問題に帰着させていることである。このような着眼はまったく間違っているというわけではないが、端的に言って、視野が狭すぎる。現代の日本社会においてオウムのような「カルト」が発生するに至ったのは、それに先行するさまざまな歴史的要因の蓄積があり、学問的分析においては、そのような要因をも視野に収めなければならない。
それとは逆に、仏教研究を専門とする学者によって執筆された論考にしばしば見られるものだが、オウムの問題を、例えば仏教史全体から考察しようとすることは、視野が広すぎる。宗教のあり方はそれぞれの時代によって大きく異なっており、近代以前の仏教の教義とオウムのそれを比較することは、両者の根本的な差異が大きすぎ、有効な分析にはなりえない。オウムはしばしば原始仏教へと回帰することを訴えたが。その精神史的ルーツが本当に仏教にあるのかということ自体を疑問に付す必要があるだろう。


という。このあと、オウムの教義が近代宗教の特質を備えていることを確認すると、「第1章」では、そもそも「宗教」とは何なのか、について、キリスト教の成立から、主権国家と政教分離に至るまで。といった内容が展開され、やはり「視野が広すぎる」のでは? と思うものの、


そのあとの第2章で、サブタイトルにもあるように「ロマン主義」、第3章で「全体主義」、第4章で「原理主義」と、近代宗教や精神史の総括が簡潔にまとまっているので、オウムのみならず、宗教やスピリチュアル、オカルト、陰謀論を考えるうえでは、ちょうどいい視野と言えるのかも。(ただし、本書の「ロマン主義とは何か」という説明は、宗教のなかの「ロマン主義」を説明する文章であって、精神運動全般としてのロマン主義を誤解させかねない点は要注意)


下記は、神智学、ニューエイジ思想、トランスパーソナル心理学、チベット仏教、インドの導師・・など、現在のスピリチュアルの根源が数多く登場する、


第2章「ロマン主義ー闇に潜むわたし」から(省略・要約して抜粋)


近代においては、主権国家の枠組みのもと、科学力・経済力・軍事力等が歴史的に類を見ない速度で発展し、またそれに伴って、社会の巨大化と流動化と複雑化が右肩上がりに進行していった。それではこのような社会において、人々が心理的に求めるものとは何だろうか。それは、世界の全体像を知りたい、ということである。


今や社会はあまりにも巨大化しており、事実上、誰もその全体像を一つの視野に収めることができない。また、社会はあまりにも高度に複雑化しており、誰もその詳細を見通すことができない。誤解してはならないのは、社会の全体像を把握することができないのは、それが非合理的な存在だからではなく、合理的に組み上げられたネットワークそのものが、今やあまりにも巨大で複雑なものと化しているからである。しかし人々は、自分が生きている世界の構造を知り、その全体像を見渡したいという欲望を断念することができない。そこから、幻想的な「世界観」が生まれることになる。

 

そして次に、自分が生きている意味を知りたい、ということである。啓蒙主義は、万人には平等な理性が与えられていると説くが、このような主張は実は、群衆社会に生きている人々にとっては、不安や恐怖の原因でしかない。なぜならそれは、自分自身が他の誰とでも交換可能な存在に過ぎないということを示すものだからである。人々はむしろ、自分がかけがえのない存在であり、自分の人生に固有の意味があるということを実感したいと欲する。複雑な社会のなかで一つの部品のように生きている自分は「偽りの自分」に過ぎず、「本当の自分」は見えないところに隠れている、と考えるのである。

 

近代人のこのような心理的欲望から、多種多様な幻想が析出されてくることになるが、ロマン主義という思想は、その主なものの一つである。


ロマン主義的宗教論の系譜をたどる上で、最初に取り上げておきたいのは、ドイツの神学者フリードリッヒ・シュライアマハーが著した『宗教論』という著作である。1799年に初版が公刊された『宗教論』は、副題に「宗教を軽んずる教養人への講話」と記されており、もはや人間は宗教という迷信にすがる必要はないとする、当時の先進的知識人に向けた反論として執筆された。


彼は、心のなかに湧き上がる宗数的感情を「宇宙の直観」と呼ぶ。『宗教論』では、究極的存在者を「神」という言葉でなく、「宇宙」や「無限(者)」という用語が使用される。『宗教論』という著作は、キリスト教の本質を捉えることを目的としているが、それ以上に、個別宗教としてのキリスト教やその人格神の観念を突き抜け、宗教一般の本質へと到達しようとしたものなのである。そして彼が言う「宇宙」とは、目に見える宇宙の背後に、あるいは人間の心の深部に存在する、不可視で精神的な「宇宙」なのである。


『宗教論』という著作は、美しい文体と説得力のある論理の運びによって多くの読者を獲得し、後世にも長く影響を与えた。しかし、実際に、シュライアマハーが提唱したことをそのまま実現しようとすると、オウムのような「カルト」的傾向を帯びた宗教が立ち現れることになる。また、人間の心の中には「宇宙」という無限の世界が広がっており、それに触れて自己を変革することに、宗教の本質があるというアイデアは、その後、数多くの心理学者たちによって具体的に展開される。(→ウィリアムズ・ジェイムズ『宗教的経験の諸相」~P63)


* * *


19世紀にヨーロッパで生まれたロマン主義という潮流は、20世紀後半のアメリカ・ニューエイジ思想においてヴァラエティに富む表現や実践方法を獲得し、60年代以降、日本では「精神世界」というカテゴリーが作り出され、ニューエイジ思想以上に雑多な内容のものがそこに放り込まれた。具体的には、東西の神秘主義、錬金術、魔術、ヨーガ、密教、禅、仙遊、輪廻転生、超能力、占星術、チャネリング、深層心理学、UFO、古代偽史などであり、一見したところ相互にどのような関連を持っているのか見分けがたいが、その大枠は、何か「宇宙的なもの」を感じさせてくれる対象の集まり、ということになるだろう。


シュライアマハーは「心のなかの宇宙」に触れて本当の自分に目覚めることを宗教の本質とし、宇宙を経験するために古今東西のさまざまな宗教について学ぶべきであると提唱したが、日本の「精神世界」論は、ポピュラーな水準でそれを具体化したもので、オウムもまた、こうした精神世界論のなかから生み出されたものの一つだったのである。

 

日本にヨーガを持ち込んだのは、心身統一論で知られる中村天風、神智学系のヨーガ団体の竜王会を主催した三浦関造、ヨーガ教典の翻訳に努めた佐保田鶴治などがその先駆けとなるが、クンダリニー・ヨーガを広く社会に浸透させたという点から考えると、超心理学を提唱した本山博、阿含宗の教祖である桐山靖雄に注目する必要がある。

 

本山博(1925~)は、霊能者の母を持ち、東京文理科大学(現・筑波大学)で博士号を取得した本山は、自らの神秘的経験を科学的に検証することを志す。その成果として1963年に公刊された処女作が『宗教経験の世界』。この著作では、超感覚的な存在を科学的に探求する試みが世界中で始まっていることが紹介され、J・B・ラインの超能力(ESP)研究、ユングの深層心理学、そしてヨーガの実践による超感覚的なものの体験が挙げられている。論理構成としては、ヨーガの修行者や霊能者が主観的に体験している超感覚の世界を、いかにして科学的に明らかにしうるかという問題が取り上げられ、著作の結論部においては、宗教経験に全体として三つの段階の深まりがあること、その第三段階おいては「心霊との全き一致」が生じることが論じられる。

 

本山の活動は、「超心理学会」の開設や「宗教心理学研究所」の運営など多岐にわたるが、1978年に公刊された『密教ヨーガ』という著作では、ヨーガの目的が「身体や心を健全にするだけでなく、人間の存在そのものを霊的に進化させ、宇宙の絶対者と一体にならしめるところにある」と説かれ、宇宙との一体化を実現するためには、クンダリニーを覚醒させ、身体内の七つのチャクラを問くことが必要であると説かれる。この著作には、本山自身の体験についても豊富な記載があるが、クンダリニーが覚醒したとき、一時的に身体が空中に浮揚したということが述べられている。オウムの信者のなかには、本山の著作や指導によって最初にヨーガに触れたという者も数多く存在した。

 

ヨーガや密教の修行をポピュラーなものとするのにより大きな役割を果たしたのは、本山の活動と並行して発展した、桐山靖雄(1921~)の「阿含宗」である。オウムの初期信者たちの多くが阿含宗に所属しており、麻原自身もかつて阿合宗で修行していたことが知られている。桐山は81年に『1999年カルマと霊障からの脱出』という著作を公刊し、ノストラダムス・ブームに荷担するとともに、悪しきカルマの増大によってこの世に破局が訪れるという形式の終末論を唱え、その論法はオウムにも引き継がれていった。また、阿含宗は関連会社として平河出版社を経営しており、桐山の著作だけでなく、ニューエイジ関連本も多数出版された。そのなかの一冊が1981年に中沢新一による『虹の階梯』である。(P99~104)


* * *


第3章「全体主義 ー 超人とユートピア」から(省略・要約して抜粋)


フランス革命の標語「自由・平等・友愛」に示されているように、近代社会を支える理念とは、個々の人間が自由で平等な主体として存立し、友愛の念を持って相互に尊重し合うということである。啓蒙主義においては、あらゆる人間には平等に理性が備わっているとされ、ロマン主義においては、個々の人間は他に還元できないかけがえのない固有性を持っていると見なされる。人間のあいだの共通性に着眼するのか、あるいは差異性に着眼するのかという点において、啓蒙主義とロマン主義の主張は対極的であるが、それでも両思想のベースには、人間の本来的平等の観念が存在していると見ることができるだろう。

 

しかし、地縁や血縁から切り離された「自由で平等」な個人が都市部に集合して群衆化し、アノミー的に裁き続ける近代社会において、人々は逆説的にも、生の指針を示し、自分を導いてくれる、特権的な人物の存在を強く希求するようになる。


一例を挙げれば、啓蒙的な自主独立の精神に立脚していたはずのフランス革命は、実際にはロベスピエールという一人の「カリスマ」によって唱導された。また、ロマン主義において、宗教の本質は心のなかに潜む宇宙を独白に探求することであるとされたが、自らの霊性をどれほど深く探求し、開発したかに応じて、人々から「導師」として仰がれるような高位の人物が現れてきた。


政治哲学者ハンナ・アーレントは群衆意識の性質について、次のように述べている。


大衆は目に見える世界の現実を信ぜず、自分たちのコントロールの可能な経験を頼りとせず、自分の五感を信用していない。それ故に彼らには或る種の想像力が発達していて、いかにも宇宙的な意味と首尾一貫性を持つように見えるものならなんにでも動かされる。事実というものは大衆を説得する力を失ってしまったから、偽りの事実ですら彼らには何の印象も与えない。大衆を動かし得るのは、彼らを包み込んでくれると約束する、勝手にこしらえ上げた統一的体系の首尾一貫性だけである。(『全体主義の起原』第三巻、80頁)


人々の利害はあまりに細分化・多極化しており、すべての人問に共通する利害を見出すことが難しい。ゆえに政治家や運動家は、特定の利害ではなく、明確に目には見えないものの、個々人がそこに自らの生の基盤があることを実感し、自我を没入させることができるような「世界観」を提示しようとする。全体主義とは一言で言えば、孤立化した個々の群衆を特定の世界観のなかにすべて融解させてしまおうとする運動なのである。


アーレントは、全体主義が構築する世界観について、次のように論じる。


全体主義運動は(中略)権力を握る以前から、首尾一貫性の虚構の世界をつくり出す。(中略)全体主義プロパガンダは大衆を空想によって現実の世界から遮断する力をすでに持っている。不幸の打撃に見舞われるごとに嘘を信じ易くなってゆく大衆にとって、現実の世界で理解できる唯一のものは、言わば現実世界の割れ目、すなわち、世界が公然とは論議したがらない問題、あるいは、たとえ歪められた形ではあってもとにかく何らかの急所に触れているために世間が公然と反駁できないでいる噂などである。(『全体主義の起原』第三巻、八三頁)

 

白身が生活する現実世界の全体像を見渡すことができない群衆は、現実世界の「割れ目」に存在するものを手掛かりにして、幻想的な世界観を作り上げる。ナチズムの場合で言えば、肯定的な存在としては、「ゲルマン民族の血の高貴さ」であり、否定的な存在としては「ユダヤ=フリーメイソンの陰謀」ということになるだろう。群衆はこうした不可視の想像物を基礎に据えることによって、幻想的で二元論的な世界観を構築する。すなわち、彼らは、自らの本来的アイデンティティはゲルマン民族としての血統にあるが、劣等民族であるユダヤ人や秘密結社のフリーメイソンがその高貴さを汚そうとしている、こうした相克こそが世界の実相である、と思い込むのである。


エーリッヒ・フロムがナチズムの運動に雪崩れ込んでいった群衆の心理を「自由からの逃走」と呼んだように、根無し草としての放恣な自由に疲れ、苦悩を抱える群衆は、その心の奥底では、強固な束縛こそを希求しているのである。(~P117)


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近代人に「超人」というヴィジョンを提示しだニーチェは、近代の世界においてはもはやキリスト教の原理が通用しないこと、キリスト教が提示してきた目的論的な歴史観が失効してしまったことに、もっとも正面から向き合おうとした。主著の『ツァラトゥストラ』で、主人公のツァラトゥストラは、独白に近いスタイルで「超人」について語り始める。しかしそもそも、なにゆえに超人の存在が必要とされるのだろうか。

 

ひと言にで言えば、それは、キリスト教の神がすでに死んでしまったため、神の存在を基準として人間主体を陶冶してゆくという従来の方法が、もはや通用しなくなったからである。ニーチェは、キリスト数的な主体から超人へと至る精神の歩みを、駱駝、獅子、小児という三段階の比喩を用いて語っている。駱駝とは、敬虔の念に溢れた重荷に耐える精神、キリスト教の規範に従属する禁欲的精神のことを指すが、これに対して獅子は、「われは欲す」という欲望と意志の言葉によって、その生き方を打ち砕く。しかし獅子も、新しい価値を自ら創造することはできない。それが可能なのは、無垢な小児である。小児は、過去については忘却し、その目は常に新しい始まりに対して開かれ、世界生成のありのままの姿を肯定する。「創造の遊戯」によって新たな価値を生み出すことができるのは、小児=超人なのである。

 

ニーチェは、プラトン主義的な形而上学や、神の国の実現という目的=終末を設定するキリスト数的な歴史観を、空虚な「背後世界」の存在を仮定し、それによって人間の価値や存在意義を提造しようとする錯誤的な思考であるとして、厳しく退ける。それに代わってニーチェが持ち出すのは、いわゆる「永劫回帰」の世界観である。あの世などという「背後世界」は実在せず、存在するのはあくまでこの世だけである。そしてこの世において、万物は流れ去るとともに、再び同一の状態へと回帰する。死もまた、人間の生にピリオドを打つものではない。人の一生はまったく同じあり方で、同じ世界のなかに再び回帰してくるからである。何らの意味も目的も終わりもなく、流れ去っては、永久に回帰し続ける世界。しかし、ニーチェの思想は、シュタイナーやユングのような20世紀のロマン主義者たちに多くの霊感を与えただけでなく、ナチズムにおける進化論や人種論を支えるバックボーンともなった。(P126。ウェーバーのカリスマ論~群集心理学~精神分析のパラノイア論)


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『わが闘争』において、ヒトラーがユダヤ的なるものとして指弾している対象、民主主義、マルクス主義、マスメディア、国際金融資本、売春業などには、確かに共通した傾向が見られる。それは、人間を慣れ親しんだ故郷の大地から引き剥がし、不透明で流動的な社会へと投げ込むもの。すなわち、近代的な群衆社会の特性を象徴するものなのである。しかしながら、彼の思索は、論理的一貫性を備えているとは言い難い。具体例を挙げれば、ヒトラーは、マルクス主義と資本家を共にユダヤ的だと見なしているが、言うまでもなくマルクス主義は資本家の打倒をその政治目標として掲げており、対立する両者がともにユダヤ的というのは、辻褄があわない。そこでヒトラーが持ち出すのが、いわゆる「ユダヤ陰謀論」である。ユダヤ人による活動はきわめて多岐にわたり、一見したところ支離滅裂で、ときに対立しているかのように思われるが、その背後にはすべての糸をひいている秘密結社が存在し、ある目的を達成するために、隠された計画を進めているのである。


表面的に露わになったものにはその「裏」があるのではないだろうか、と考える「陰謀論的解釈学」は、必然的に裏の裏、裏の裏の裏を追求することを余儀なくされ、その妄想の連鎖には歯止めが利かなくなる。(~P148。「洗脳の楽園」~グルジェフのワーク、ヤマギシ会の農業ユートピア)


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第4章「原理主義ー週末への恐怖と欲望」


原理主義という言葉は、本来、20世紀初頭のアメリカに現れたキリスト教・プロテスタントの一派を名指すために使われ始めた言葉であるが、視野を広げてみれば、キリスト教やその他の一神教だけでなく、日本の宗教思想にもその存在が認められる。日蓮主義はその一例であるが、日本において特徴的なのは、オカルト思想に由来する原理主義、例えば「竹内文書」に基づいた偽史的世界観や、ノストラダムスの予言書に基づく終末思想が大きな影響力を振るい、国内に流入したキリスト教原理主義と奇妙な混淆を起こしていることである。


アメリカ社会において一般に原理主義が広まったのは、急速に普及したテレビによって、「テレビ説教師」と呼ばれる人物たちが登場したことによる。彼らの歴史観は「ディスペンセーション主義」と呼ばれ、その最も有名な書物はハル・リンゼイが1970年に公刊し、アメリカで1800万部を売り上げた『今は亡き大いなる地球』である。リンゼイはイスラエルの再建を終末へのカウントダウンが開始された確証であるとみなす。同時にイスラエルの存在は、中東情勢を不安定にする要因となっており、メギドの丘(ハルマゲドン)に「諸国の王」が呼び集められ、最終戦争が引き起こされるための条件が徐々に整いつつある。旧約聖書のエゼキエル書にあにイスラエルの敵として登場する「ゴグ」をソ連のことだと考え、両者の間に核戦争が勃発すると予測する。ダニエル書の記述から「北の王」をソ連、「南の王」をエジプトだとし、エジプトもイスラエルへの侵入を目論んでいると考える。世界情勢は聖書の預言どおりに進行しており、ハルマゲドンは間近にせまっている。とする。(P177。~ブランチ・ダビディアン)


アメリカのキリスト教原理主義の信仰形態は、日本にも伝達された。日本ホーリネス教会の創始者、中田重治は、世界の終末とキリストの再臨が迫っていること、、そしてその際、正しい信仰をもった信者は救済されると説いたのだが、そこで、根本的な疑問に直面する。果たして、神の救済計画の中に、日本人の救済が含まれているのだろうか?このような疑問に回答し、信仰への確信を得るために、中田はきわめて突飛な論を引き寄せる。いわゆる「日ユ同祖論」である。(P183。~竹内文書、ローゼンベルグの『20世紀の神話』、ヒヒイロカネ)


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第二次大戦中から戦後にかけて、日本では最終戦争や、終末論に関する言説は影を潜めたが、1970年以降、再び活気を取り戻す。ハル・リンゼイが提示した終末論を焼き直した書物を執筆する人々が現れ、彼らの著作も多くの読者を獲得するようになり、その代表者の一人が、宇野正美である。宇野は、キリスト教の終末論に加え、ユダヤ陰謀論を唱えるようになり、1986年に出版された『ユダヤがわかると世界が見えてくる』『ユダヤがわかると日本が見えてくる』の二書は、100万部を超えるベストセラーになった。


また、1970年代半ば以降『地球ロマン』『UFOと宇宙』『迷宮』など数々のオカルト雑誌を公刊し、『ムー』や『トワイライト・ゾーン』の発刊、編集にも間接的に関わった、武田崇元は、東大法学部在学中にトロツキーを始めとする共産主義の思想に触れ、卒業後は大本教の出口王仁三郎の霊学思想へと軸足を移した。結果として武田の世界観は、共産主義と大本霊学という二つの革命思想を混淆させたものとなり、「霊的革命」「霊的ボルシェビキ」と称され、『はじまりのレーニン』などの革命感は、中沢新一にも影響を与えたと言われる。武田の著作はそれほど多くはないが、「有賀隆太」というペンネームで書かれた『予言書 黙示録の大破局』という著作の末尾に、世紀末の日本に「オカルト神道」が復活し、その流れから「再生のキリスト」が出現することが予言されている。(P193。~五島勉『ノストラダムスの大予言』~仏教による千年王国の実現~川島徹『滅亡のシナリオ』)


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このあと最終章の第5章で「オウム真理教の軌跡」として、麻原の出生からのサリン事件に至るまでの軌跡が綴られています。


◎[Amazon]オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義



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by yomodalite | 2015-10-19 23:20 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

黒いアテナ、フランツ・ファノン、姫野カオルコ 他

苦手な英語読みに時間がかかって、読書日記が書けないので、
9月と10月で読んだ本のすべてではなく、良本のみ、とりあえずメモ。


◎マイケル研究資料

下記は、MJ蔵書のブラックヒストリーといった分類の中におそらくあったはず。という推測で読んだもの。

1987年に初刊が出版され、世界的に話題になった本で、多くの本に引用されていますが、著名な読書家による紹介文などから感じるのは、実際のところ、日本では、ほぼ誰も読了していない本だと思います(笑)。

現在まで、《1》《2》(上下巻)が出ているのですが、原文がすごく難しい(と、著者自身も言っている)こともあって、翻訳に何年もかかり、《2》の方が先に出版されてしまうなどの混乱だけでなく、とにかく世界史について、広範囲に専門知識がないと読めない(あったとしてもかなりの難読本)本なんですが、

最近、2012年にという本が出版されていたことを知って、再度挑戦のきもちもあって、一応中身を見てみたんです。本書で巻き起こった批判をまとめて、著者が答えているというのは、あの、超長くてクソ面倒くさい本より少しは楽かも・・と思って。
結果から言えば、この本自体も上下巻あって、、全然無理でした!

それで、私が読めなかったから、隊長も、、なんて言うつもりはないですが、でも、マイケルもこの本を読んだのではなく、日本の知識人と同じようにw、多数出版された関連書籍を読んだのではないかと思うので(原典を必ず押さえるという基本から、書庫にある可能性は高いですが)、「マイケルの愛読書」には含めませんでした。



黒い皮膚・白い仮面 (みすずライブラリー)

フランツ ファノン/みすず書房



黒い肌と白い肌。それは、植民者と本国者によっての分断なのか、それとも、皮膚の色によっての分断なのか・・マルコムXにも大きな影響を与えたフランツ・ファノンの本も、マイケルは読んでるはず・・と思って、『地に呪われたる者』と『黒い皮膚・白い仮面』の2冊をパラパラと。こちらは、バナール本とは違って、私よりも何世代か前の人には、よく読まれていた本らしく、熱情的な筆致に、かつて日本にもあった「革命の季節」を感じました。

そして、マイケルの肌の色を変えたことの中には、彼の呪いも幾分含まれていて、感覚的には異なっているように見えるファノンの叫びが、マイケルの声を通して発信されていたのかもしれないと。

[参考記事]松岡正剛の千夜千冊


◎アート系

アート・ヒステリー ---なんでもかんでもアートな国・ニッポン

大野 左紀子/河出書房新社



現代アートといったような範疇で、アーティストになろうとしたことがある人や、作品というものを作ったことがある人、あるいは、それらを見ている人には、おすすめ。疑問に思ったことへの回答は得られないものの(当然でしょ)、疑問を再確認することが出来ます(そっちの方が重要でしょ)。


◎文学系

旅のラゴス/筒井康隆

1986年に出版された本なのに、今また売れているという評判につられて。。

[参考記事]終わらない不思議な旅の人生とロマン


受難/姫野カオルコ

米原万里氏が絶賛し、1997年の直木賞候補になった作品。姫野氏の作品は現代を描いているようで、世界にも通じる古典性もあると思うんですが、この作品もまったく古くなっていませんでした。流石!

これ以外に読んだ本で、良かったものは個別に書く予定。。



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by yomodalite | 2015-10-17 16:00 | 読書メモ | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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