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☆マイケルは、なぜ、あのアルバムを「スリラー」と名付けたのか?[2]の続き

自伝『ムーンウォーク』で書かれているように、『オフ・ザ・ウォール』は、かつてのチャイルド・スターが、時代にマッチしたレコーディング・アーティストへと成長できることを証明し、『スリラー』で、成し遂げる仕事のお膳立てをしたアルバムでした。

MJは、幼い頃から夢だった史上最高の売上げを誇るアルバムを創ることを、
周囲にも目標として指し示すことが出来る段階に来ていた。

自分を信じて、作品に文字通り魂を注ぎ込む。
そのためには死んでもかまわないと思うまでに。(『ムーンウォーク』p200)


下記はオリジナルのアルバム『スリラー』の収録曲。
( )内は作曲者および共演者 ☆印はMJ作曲

◎A面
1. Wanna Be Startin' Somethin'
2. Baby Be Mine (Rod Temperton)
3. The Girl Is Mine (featuring Paul McCartney)☆
4. Thriller (Rod Temperton)
◎B面
5. Beat It (featuring Eddie Van Halen) ☆
6. Billie Jean
7. Human Nature (Steve Porcaro & John Bettis)
8. P.Y.T. "Pretty Young Thing" (James Ingram)
9. The Lady in My Life  (Rod Temperton)


『オフ・ザ・ウォール』には、MJのさらなる魅力を加味するために、ポール・マッカートニーの曲が収録されましたが、『オフ・ザ・ウォール』よりも、さらに売れるアルバムを目指した『スリラー』では、ふたりがデュエットした「ガール・イズ・マイン」が、先行シングルとしてリリースされました。

(下記は、自伝『ムーンウォーク』より省略して引用)

この曲のように、1曲にふたつのビッグネームが入っていれば、最初に出すしかないのです。さもなければ、その曲ばかり繰り返しオンエアされ、目立ち過ぎてしまいます。ポールに声をかけたのは『オフ・ザ・ウォール』に “ガールフレンド” という曲を寄せてくれた彼の好意に対して、お返しがしたいと思ったからです。

ポールという、スタジオであらゆる楽器を操り、すべてのパートの楽譜を書ける男と、そんなことはできない若造の僕との共作です。にもかかわらず、僕らは対等に仕事をし、スタジオでポールが僕を引っ張って行く必要はなかったのです。僕にとってこの共同作業は、大きな一歩になりました。そこには、誤りを正すクインシー・ジョーンズの存在がなかったからです。

(引用終了)

アルバムを評価したり、オンエア曲を選ぶようなプロは、まず、ビッグネームが関わっている曲を聴いて、アルバム全体の出来を判断します。MJは1曲にふたつのビッグネームと言っていますが、「ガール・イズ・マイン」はMJが作曲した曲です。そこから判断すれば、『オフ・ザ・ウォール』で、ポールやスティービーの曲をシングルにしなかったのは、自分の曲を埋没させたくなかったからでしょう。「スリラー」で、ポールとの曲を先行シングルにしたのは、MJの実力が証明された後だったことと、

このアルバムを「R&B」ではなく「Pop」に分類させる意味があったと思う。

この間のポールとMJの共演は下記の3曲ですが、

・Say Say Say(MJ&ポール共作)
・The Girl Is Mine(MJ作曲)
・The Man(ポール作曲)

この中で一番の名曲が「Say Say Say」であることに異論がある人はいないでしょう。

実際、この曲はMJのシングルヒットの中でも歴代No.1の売上げを記録している。

ポールは「スリラー」より10ヶ月後、1983年10月31日リリースされたアルバム『パイプス・オブ・ピース』から、1983年10月3日に先行シングルとして「Say Say Say」をリリースし、PVも制作しました。

ポールは、スリラーの8ヶ月前の1982年4月にリリースした『タッグ・オブ・ウォー』でも、ステーヴィー・ワンダーとの共演曲「エボニー・アンド・アイボリー」をシングルリリースし、PVも制作していました。これは、スティーヴィーにとって、米英チャートではじめて1位を獲得した曲で、その他「Take It Away」も、ビルボードトップ10入りしています。

ポールは、80年代においてもシングル曲のチャートゲッターとして圧倒的でした。

(それなのに、未だに元ビートルズと言われているのは、
もしかしたら、ビートルズの版権所有者であるMJの策略かもしれませんww)

MJの伝説として、ミュージックビデオを革新したとは、よく言われていることですが、彼が変革したのは、プロモーションビデオ自体が、米国でビジネスになったということで、MJより前に面白いPVがなかったというわけではありません。

ただ、当時、若者が観たいと思うようなミュージックビデオは、その多くが英国のアーティストによるもの。音楽が輸出産業だった英国では、海外へのプロモーションが重要で、またハリウッドのような巨大映画産業がなかっため、音楽ビデオは、才能のある映像作家が活躍する土壌にもなっていました。

一方、米国の音楽界では、自国の売上げだけで充分な販売が期待でき、映像作家はハリウッドに集中していたせいで、当時のミュージックビデオはつまらなかった。

英国のビッグアーティストであるポールが、米国アーティストとの共演作をシングルカットし、予算をかけたPVを創ることは確実でした。

『パイプス・オブ・ピース 』は、前作『タッグ・オブ・ウォー』と2枚組での発売予定もあり、1982年にすべての曲が完成していて、『The Girl Is Mine』よりも前にレコーディングも終えていた。

それなのに発売は、スリラーより10ヶ月後の1983年10月。

ビッグアーティストが同時期に完成していたアルバムを発売する場合、
先輩の方が後からという慣習はあったかもしれませんが、

MJのアルバム『スリラー』は1982年12月1日にリリースされ、
ポールとマイケルのシングルリリースは下記の順番でした(☆印はビデオありのもの)

・The Girl Is Mine(1982年10月23日)
・Billie Jean(1983年1月2日) 
・Beat It(1983年2月3日)
・Wanna Be Startin' Somethin(1983年5月8日)
・Human Nature(1983年7月3日)
・PYT(1983年9月19日)
・Say Say Say(1983年10月3日)
・Pipes of Peace(1983年12月17日英国のみ発売。☆)
・Thriller (1983年11月12日)





ポールは前作「エボニー・アンド・アイボリー」のビデオでは、黒人と白人をピアノの鍵盤にたとえて、音楽に人種なんてないことを表現し、




「Say Say Say」では、一緒に「ミンストレル・ショー」を行って、黒人も白人も、芸能人はみんな同じ人種だと言っているようです。

『Say Say Say』のビデオが好きなMJファンは多かったと思います。

僕はそれをビデオと呼ぶのさえ嫌なのです。撮影現場でもスタッフたちに、僕らが作っているのは映画なんだ。僕らはビデオテープを使わずに、35ミリフィルムで撮影しました。真剣だったのです。(自伝『ムーンウォーク』P217)

というMJの『ビリージーン』や『ビートイット』より、

映画的だと思うのも私だけではないでしょう?

作品のテーマからか、米国では発売されませんでしたが、第2弾シングルの『Pipes of Peace』でも、ポールはMJよりもショートフィルムと呼びたくなるビデオを創っています。





MJは「彼の好意に対して、お返しがしたい」と書いていますが、

『オフ・ザ・ウォール』で、ポールが作曲した『Girlfriend』をシングルカットせず、MJ自身がポールの曲と同じような曲を書き直してみましたというような『The Girl Is Mine』を、同じようなタイトルの『Baby Be Mine』の次に収録したり、

私には、この頃のMJは、ギネスで「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定され、60年代からずっとチャートキーパーだったレジェンドに戦いを挑み、葬り去ろうとしていたように感じられます。

ポールは黒人と白人がいると思っている。

でも、MJは、黒人とか、白人という、肌の色で区別されたくない。

マイケルは「人種差別をするな」ではなく「人種なんて本当はない」と思っていた。

これまでの「黒人」の描かれ方は、自分とは違う「型にはまった」もので、黒人に与えられる役柄も少なかった。「セイ・セイ・セイ」のヴィデオに登場し、『特攻野郎Aチーム』や『ロッキー3』で大人気だった ミスター・T もそうであったように…

ポールが前作に引きつづき、反戦や、人種共存といった
平和をテーマに曲を創っているとき、

MJはポールに対しては、どんな女も「自分のもの」だと言ってばかりw

(いったいどこが「感謝」なの?と思うのは、私だけでしょうか…ww)

それでも、スリラーのシングルリリース前までに、ポールが創った優れたビデオを含め、MTVでは3本のMJ映像が集中して放映されることになり、『Say Say Say』での、ポールと「主演」を争うような共演は、彼を、次世代のスーパースターへと印象づけました。


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『The Girl Is Mine』のジャケットは、スナップ写真すぎるうえに、
着てるもんまで、ポールからもらったやつw
自分では1円も使いたくないのだ(笑)



一緒にレコーディング中は、特に垢抜けないファッションで
ポールを油断させておいたことが、
ありありと伝わる、他のシングルジャケット。(上から発売順)


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こちらは、『Say Say Say』のジャケット。
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MJだけがイラストっぽいようなw
そして、脚も長過ぎるようなw、
これも、MJのウルサいチェックのせいでしょうか(笑)


☆[4] に続く






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by yomodalite | 2014-05-31 12:08 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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『スリラー』の前作、アルバム『オフ・ザ・ウォール』の頃、MJは、日本でもすでに大人気だった。ただ、今のような熱狂的な女子ファンの存在はあまり感じられず、前回、MJのアルバムにはコンセプトが感じられないと言ったけど、『オフ・ザ・ウォール』には、コンセプトが感じられた。

それは「最強のダンスミュージック・アルバム」だったと思う。

ダンスフロアには流行がつきもので、その当時一世を風靡したものほど古くなりやすい。MJが研究し尽くしたという、あの「サタデー・ナイト・フィーバー」も、アルバム『デンジャラス』で取り入れられたというニュー・ジャック・スウィングもその例で、

マドンナが「コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア」でABBAを復活させたように、当時の流行が見直されて、再度ブームが来ることはよくあることだけど、『オフ・ザ・ウォール』のように、発売以来ずっと古びなかったということはない。このアルバムは、これまでのディスコミュージックよりも、フロアの外を意識したものだった。

永遠に踊れるような曲で、じっくり聴くにも相応しい。黒人音楽の新たな地平に立ったアルバムは、『オフ・ザ・ウォール』というタイトルに相応しく、当時すでに低迷していたレコード販売を、復活させたと言われるほど爆発的に売れた。

下記はオリジナルのアルバム『オフ・ザ・ウォール』の収録曲。☆印はMJ作曲

1. Don't Stop 'Til You Get Enough (第1弾先行シングル)
2. Rock with You(第2弾シングル・ロッド・テンパートン作曲)
3. Working Day and Night(第2弾シングルB面)
4. Get on the Floor(第3弾・4弾シングルB面)
5. Off the Wall(第3弾シングル・ロッド・テンパートン作曲)
6. Girlfriend(ポール・マッカートニー作曲)
7. She's Out Of My Life(第4弾シングル・トム・バーラー作曲)
8. I Can't Help It(第1弾先行シングルB面・スティービー・ワンダー作詞作曲)
9. It's the Falling in Love(デヴィッド・フォスター作曲)
10. Burn This Disco Out(ロッド・テンパートン作曲)


ディスコ・ヒットを狙った『オフ・ザ・ウォール』は、MJの魅力をそれだけではないものにするために、ポール・マッカートニーの曲も収録された。

CD以前のアナログレコードには、A面・B面があって、
ポール作曲の「Girlfriend」は、B面2曲目。

ポールは、多くのティーンエイジャーの少女達を失神させたビートルズの中でもアイドル的な人気を誇り、70年代も80年代もNo.1を狙えるチャートゲッターであり続けたソングライター。

MJは、ポールに曲を提供させたにも関わらず、それをB面1曲目の「OFF THE WALL」の次、B面3曲目のしっとりとしたラブソング「SHE'S OUT OF MY LIFE」の間という微妙な曲順に配置し、アルバムの中で目立たせなかっただけでなく、シングルカットもしなかった。

多くのディスコでも、DJたちがこの曲を無視したと思う。彼は自分が作曲した「Don't Stop 'Til You Get Enough」を第1弾シングルに選び、第2弾、第3弾は、クインシー組の作曲家として完成までコントロール出来た、ロッド・テンパートンの曲を選び、ポールと同じく確実なチャートゲッターだったスティービー・ワンダーの曲もB面にした。

MJとクインシーの戦略は当たり、このアルバムは大ヒットした。

それでも、1979年のグラミー賞では、
R&B最優秀ヴォーカル賞にノミネートされただけだった。

同年のグラミー章の最優秀楽曲賞にはビリー・ジョエルの「素顔のままで」。
最優秀レコード賞には「サタデー・ナイト・フィーバー」。

この結果を「黒人差別」とは言えないと思う。

MJ自身も、「サタデー・ナイト・フィーバー」を聴いたとき、
自分に出来たことを、先にやられてしまったと感じたのだ。

(下記は2003年のブレット・ラトナーによるインタヴューから)

MJ : Really, and then when the Bee Gees came out in the '70s, that did it for me. I cried. I cried listening to their music. I knew every note, every instrument.

MJ : ….そして、そのあと、、ビージーズが70年代に登場したとき、僕はやられたと思った。僕は泣いたよ。彼らの音楽を聴いて悔しかったんだ。僕は、彼らの音符も楽器も全部知ってた。(註:このあと、ラトナーが『サタデーナイト・フィーバー』より前の曲を歌いだしますが、MJが「cried」って言ってるのは、元々『サタデーナイト・フィーバー』のことだと思う)

BR : [sings] "This broken heart . . ." 

(ふたりで、ビージーズの『How Can You Mend A Broken Heart』を歌う)

MJ : I love that stuff. And when they did Saturday Night Fever, that did it for me. I said, "I gotta do this. I know I can do this." And we hit with Thriller. And I just started writing songs. I wrote "Billie Jean." I wrote "Beat It," "Startin' Somethin'." Just writing, writing. It was fun.

MJ : 大好きな曲だよ。それから、彼らが『サタデーナイト・フィーバー』をやったとき、僕は「してやられた」と思った。僕はこれをやる。僕にはできるってわかる。そして、僕らはスリラーに打ち込んだ。僕は曲を書き始めて『ビリー・ジーン』や『ビート・イット』を書いて、『スタート・サムシン』を書いて、ただ、もう書いて、書いて、それはすごく楽しかった。




Michael Jackson - Private home interview 2003 (PART 2/2)




黒人のチャック・ベリーではなく、1曲も作曲していない白人のエルヴィスにロックンロールの「KING」の称号が与えられ、そのエルヴィスや、他の黒人音楽からも強い影響を受けたビートルズがその王冠を受け継いだように、

黒人のたまり場だったディスコも、
ビージーズとジョン・トラボルタという白人によるヒットで、メジャーになった。

同じことを黒人がしても、白人評論家たちは、白人にすり寄ったと批判し、「ブラック・ミュージック」を愛する人たちは、黒人の音楽的優越を信じ、やはり、それを黒人の白人化だと批判する。

音楽界では、黒人が始めたことを、白人が取り入れ、ヒットするという例はいくらでもある。でもその逆はないことを、MJはまたも思い知り、彼の闘争心は極限まで燃え上がったのだと思う。

『オフ・ザ・ウォール』を創り上げた直後、MJはジャクソンズの『トライアンフ』制作に没頭し、これまでにはなかった野心的で、異質な曲「ハートブレイク・ホテル」を書いていた。

1981年、21歳のマイケルにインタヴューした湯川れい子氏は、

「エルビスは私たちの音楽を盗んで有名になった」というMJに、「エルビスという存在があったからこそ、黒人音楽が白人層にも広がったはず。」と切り返すと、「むしろ代償の方がずっと大きい。その証拠に、いまだに黒人のスーパーマンもピーターパンもいない」と言ったことを、そのときの鋭い眼光とともに紹介している。


自伝『ムーンウォーク』には、「ハートブレイク・ホテル」は復讐というコンセプトで書かれているけど、エルヴィスとは何の関係もなく、音楽界にとってエルヴィスは、白人だけでなく、黒人にとっても重要な存在だったけど、自分は彼の影響はまったく受けていない。(P187)

と書かれている。でも「ハートブレイク・ホテル」を聴いた誰もが、エルヴィスを思い浮かべることを、MJがわからなかったはずはなく、彼が絶対に違うと言いたいのは、黒人が、白人に対して復讐したわけではなく、自分もエルヴィス個人に復讐したかったわけではないということでしょう。



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また、自伝には、『オフ・ザ・ウォール』の成功が、
グラミー賞の結果によって、屈折したものになったこと。

自分がクリエイトしていく仕事に関して、

獲物を狙う猛獣のように客観的になれる自分と、
作品を創り終えて、神から与えられた才能を一滴も残さず注ぎきった自分。

このふたつのバランスをとることの難しさも語っていた。

『オフ・ザ・ウォール』前年の1978年、兄たちとのジャクソンズで、『デスティニー(Destiny)』を発表し、翌年の1980年には『トライアンフ(Triumph)』を発表した。

湯川れい子氏が、MJにインタヴューしたのは、
MJが自分の運命と神意(Destiny)を感じ、勝利(Triumph)を目前に感じていたとき。

スーパーマンにもピーターパンにも自分ならなれる。と思いながら、あと少しでそれはつかみきれず、『オフ・ザ・ウォール』では、業界からの予想外の拒絶にも直面した。

二十歳そこそこの若者が世界的な成功をおさめて、初めて経験することを、少年時代にすべて経験してしまったMJにとって、成功例がほとんどないチャイルドスターからの再ブレイクは高く厚い壁であっても、絶対に乗り越えようと思うことが、日々の努力へのモチベーションだった。

でも、そういった自分だけの特殊なモチベーションでは、もうその先へは進めない。

『オフ・ザ・ウォール』の成功と挫折は、
MJの中のデーモンを、はじめて輪郭のはっきりした「モンスター」へと変身させた。


☆[3]に続く




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by yomodalite | 2014-05-30 08:50 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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(以前書いた「スリラーはなぜ高く評価されているのか」のあと、なぜ、MJ自身がずっと特別な作品だと感じていたのか?を考えて書いたものです。)

マイケル・ジャクソンを語るとき、必ずといっていいほど登場する「スリラー」。そして、そのあとには、また必ずといっていいほど、世界一の売上げ枚数という話がつづく。

スリラー期のマイケルにまだあまり興味がなく、あの有名なヴィデオに何の衝撃も受けなかった私にとって、スリラーがMJの絶頂期という話は、整形の次にうんざりする話で、MJはバッドツアーのステージの素晴らしさと、来日プロモーションで人気が沸騰し、それで、スリラーのビデオもお茶の間に浸透したのだから、

少なくとも日本でのMJ絶頂期は「バッド」だったはずなのにと、いつも思っていました。

バッドツアーは日本から始まったので、MJにとっても日本は最初のプロモーションの場で、新幹線に乗り、各地の名所をめぐったり、日本滞在をリラックスして過ごしているようにみえる彼の笑顔は素晴らしいステージや歌と同様に日本のファンを虜にし、世界にもそのニュースが流れた。

スリラー期からバッド期のMJの顔の変化はかなりあるので、もし、日本でも「スリラー」が絶頂期だったら、「バッド」での彼の変化に、もっと拒絶反応があったはずだけど、日本のファンにとってMJは、浅黒い肌の「外人」であって、

日本には「日本人」と「外人」以外の「人種」はなかった。

だから、「バッド」では、よりカッコ良くなったとしか見えなかったし、当時の彼はファンになっても親にとがめられることのない好青年のロックスターだった。それなのに、スリラー期よりももっと爽やかな笑顔を見せるようになった「バッド期」のMJは、

なぜ、あのアルバムを「BAD」と名付けたのだろう?

アーティストが、アルバムをコンセプトで創るようになり、音楽評論もアルバムをそのコンセプトで語るようになった時代に、なぜか、MJだけがいつも売上げだけで語られ、今もそれが続いているのは、その偉業のインパクトのせいではなく、

結局、誰も彼のコンセプトがわからなかったからだと、今は思う。

MJ自身は、何度「スリラー」について聞かれても、うんざりする様子も見せず、いずれ劣らぬ完成度で創り上げた他のアルバムに注目して欲しいと言うこともなく、晩年まで、スリラーの栄光に関しては特別誇りに感じているようだった。すべての作品において、革新的でありながら、高い完成度を保ち、売り上げにおいてさえNo.1にこだわってきたアーティストとしては、その反応も極めて稀だと思う。

確かに、MJは「売れる」ことを誰よりも考えていたし、彼のアルバムは、どれも全体を通しての「物語」や「概念」といったコンセプトは感じられず、シングルヒットを詰め込んだという以外のコンセプトが見当たらないように思える。

そして、そういった場合のアルバムタイトルは、もっとも売れるシングル曲と同じであることがほとんどだ。

アルバム『スリラー』の中で最も有名な曲は、おそらく「スリラー」でしょう。映像と曲が同時に何度もオンエアされた「スリラー」の印象は強く、その後、MJを紹介する場面でも「世界一の売上げ」という言葉と一緒に、いつもこの曲が流れているように思う。

でも、「スリラー」は、このアルバムの7番目のシングルだった。

7番目のシングルなんて、普通はありえない。

当時は1枚のアルバムに対し、シングルは1曲が普通で、どんなに多くても3曲ぐらいだったと思う。オリジナルのアルバム「スリラー」には9曲しか収められていないのに、7番目だなんて… 普通に考えれば、シングルカットする気がなかったとしか思えない。

それなのに、なぜ、あのアルバムは「スリラー」と名付けられたのか?

現在、「スリラー」の歴史的評価は、人種の壁を越え、音楽ビジネスを変えたことと言われています。

「スリラー」がMJの全盛期という定説には異論があるものの、「人類史上最大のヒットアルバム」という歴史的評価が「結果的にそうなった」のではなく、それを可能にしたマイケル自身の明確な意志と「戦略」について振り返ろうと思います。






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by yomodalite | 2014-05-29 16:07 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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夏がもうそこまで迫ってきているような暑さではあるのだけど、
木々も空も晴れ晴れとしていて、
緑がキラキラとしている風景には、やっぱり気持ちよさを感じてしまう。

5月の緑の美しさは、毎年感じてきたことだと思うんだけど、

道路脇の街路樹にも、センターグリーンも、

東京よりも、大阪の方が緑が生き生きとしているように感じる。

大阪の方が日差しが強いから、そう感じるのかなぁ。。

もしかしたら、がれき焼却で拡散された放射能によるホルミシス効果??


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でも、放射能なら、東京の方が数値が高かったはず。。

単に、年のせいで、自然の美しさがよりわかるようになったからとか、

理由は、そのすべてなのか、まったく別にあるのかもわからないけど、

もしかしたら、大阪の方が、緑に「勢い」があるように見えるのは、
東京よりも、剪定作業をしてないからかもしれない。


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大阪では伸び放題で、伸びているけど、
東京では、伸びた緑を、まめにカットしてたんじゃないかなぁ。
こんな風に飛び出ているようなのを見たことがなかったから。

でも、そうだとしたら、剪定なんて、あんまりしない方がいいのかも。
長さなんて、そろっていない方が、緑が生き生きしててキレイだもの。


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大阪に来る前は、東京の方が絶対に街の清掃が行き届いていると思ってた。

大阪は喫煙率も高くて、吸い殻とか、ゴミが落ちていることも多いと思ってた。

東京には、外でタバコを吸っている人を注意して、罰金をとる係の人もいるし、
清掃係のひとが、お掃除をしてくれている姿もよく見かけたんだけど、

大阪では、そーゆー人をあまり見かけない。

それなのに、道が汚いと感じることは、全然ない。。

大阪の二重行政なんて、
東京の税金の使い方に比べれば、遥かに無駄がないんじゃないかなぁ。。


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by yomodalite | 2014-05-26 09:08 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)
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Michael Jackson handwritten video outline, on an 8.5 x 14 yellow sheet, written by Jackson for a video he was making with his personal videographer Steven Howell in the early to mid 1980s. Jackson writes:

オークションに出品された、1980年代前半から中頃、MJが個人的に雇ったビデオグラファー、スティーブン・ハウエルに書いた映像のメモ。

“Sun is setting and I must see the sunset from atop so I rush on top of the roof and my God, I become moved by the beauty of a sunset. Show the truth of its beauty on my expression how it inspires me in truth. Wind blows shirt and hair. Different locations of sunset.”

沈みゆく太陽、それを高いところから眺めずにはいられなくて、あわてて屋根にかけ登る、夕焼けの美しさにつき動かされて。僕の表現の本質が、どれほどそういった美しさから影響をうけたものかを見せる。シャツと髪が風になびく。別の場所の夕陽の情景。


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Michael Jackson handwritten video outline, on an 8.5 x 14 yellow sheet, written by Jackson for a video he was making with his personal videographer Steven Howell in the early to mid-1980s. Jackson writes:

もう1枚、同様のメモが出品されてて、

“Talk about myself my dreams and what I want to do. Show me preparing to dance with record glove hat and quick step. Magic shots like a Fosse movie. Their night fall the magic of the night now. The film must be too good to be true, like a fairy tale. Something out of a story book. The key is to get and do exactly what I see in my head.”

僕自身のこと、夢やしたいことについて話す。フォッシーの映画のような素晴らしいショットで、ダンスのときの手袋とか、帽子、素早いステップについて見せる。魔法のような夜が、今、降誕する!映像には、おとぎ話のようないい話がなくてはならない。なにか物語の本からとか。大事なのは、僕が頭の中で見たことが、実際にそうなるということ。


下記によれば、これを出品したスティーブン・ハウエルさんは「ターミネーター」をはじめ、エミー賞を3回受賞している撮影監督


でも、MJ作品で、スティーブン・ハウエルさんのクレジットを探したんだけど、海賊版のVHSしか発見できず。。
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下記によれば、そのビデオの内容は、MJは個人的なビデオテープのために、ハウエル氏を雇って撮ったもので、将来のプロジェクトについて話したり、姉のラトーヤと歌を歌っているけど、噴水の音に消されていて音質はあまり良くない。彼はそれをコピーして、許可なく売り出した。

http://www.mjjcommunity.com/

って書いてあるんだけど、これって、エンシノの噴水の前で、ペットのラマが登場したり、ラトーヤが登場する、通称「噴水インタ」のことだよね???噴水の音とか、確かに音声がプロっぽくないんだけど、今まで、TV番組の編集前の映像かと思ってた。






大好きな映像なんだけど、エミー賞を3回受賞してる撮影監督が撮ったようには見えないので、ちょっぴり調べてみたら、

上記のプロフィールだと「Cinematographer」で、撮影監督だと思ったんだけど、ハウエル氏が関わってる作品のクレジットを見てみたら、「Director of photography(撮影監督)」ではなくて「aerial director of photography」だから、主に[空撮」を専門にしてるビデオグラファーみたい。。

この映像は、天才の「素顔」が「素のまま」映ってるみたいな感じで、ものすごく魅力的なんだけど、今から振り返ると、スリラー期とバッド期は、単に顔が変化しただけじゃなくて、この間にものすごく演技の勉強をしたことが、よくわかる。。。

ビデオグラファーを個人的に雇って、自分の写り方とか、撮られ方なんかも、すごく研究してたんだね。きっと。



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by yomodalite | 2014-05-23 08:23 | マイケルの言葉 | Trackback | Comments(0)
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マイケルとハワード・ヒューズ[7]の続き

マイケルが、ヒューズを「僕にとって、彼はある意味、先生なのかもしれない」と言ったのは、彼が、エジソンや、ディズニー、ヘンリー・フォードのような人物に対しても、終生尊敬を失うことなく、笑われたり、無知だと批難され、たとえ全世界を敵に回したとしても、世界に自分の足跡の残した人々は、みんなそうだったのだから、自分を信じて進め。と言っていたことと同じような意味かもしれません。

でも、ヒューズについて調べてみたら、
あちらこちらで「ン?」と思うことがいっぱいあったので、

思いつくまま、半ば強引にw、こじつけようと思います(笑)


☆続きを読む!!!
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by yomodalite | 2014-05-21 08:46 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

MICHAEL JACKSON HOLOGRAM LIVE

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ニュースには反応しない主義ですが、
こちらは保存したいので貼っておきます!

私はMJに憧れて、実際に一緒に仕事ができるようになった大勢の人たちが、
愛にも熱にもうなされて体を壊すぐらい真剣に、いい仕事をしてると思いました。
私は前回のアルバムもそうだったと思ってるけど。。

画像はクリックすると拡大します!










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追加画像

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by yomodalite | 2014-05-19 22:26 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(10)
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自分で撮影した写真に、
勝手にイメージした音楽をあわせてみるという試み。。



Debussy "Arabesque" no.1 

Ivan Skrt





このとき偶然発見してしまったIvan Skrtさんなんですが、

http://nikkidoku.exblog.jp/18274574/


6月に「Black and White」というCDが出るみたいです。

http://www.ivanskrt.si

http://www.facebook.com/ivan.skrt.3




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by yomodalite | 2014-05-19 08:39 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)
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自分で撮影した写真に、
勝手にイメージした音楽をあわせてみるという試み。。


Sacrifice
Sinéad O Connor








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by yomodalite | 2014-05-17 09:49 | 日常と写真 | Trackback | Comments(0)
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ハワード・ヒューズのことは、アウトラインの把握で精一杯ではあるのですが、「こんな男はじめて!」とすっかり夢中になって短期間で調べた範囲で、MJとの相似点について、少しだけまとめておきたいと思います。

まずは、ふたりの相似点を、彼らを評した人の側から。

ジョー・ジャクソンが「息子はハワード・ヒューズのように扱われてきた」と言ったのは([1]参照)、当時のマイケルが家族とあまり行き来していなかったという話を司会者から振られ、「マイケルの周りの人間が壁をつくって取り囲んでしまい、家族が近づけないようにしてしまった」というような意味だったのですが、

マイケルをヒューズのように扱ったのは、側近だけでなく、
彼らを話題にした人々の多くもそうでした。

マイケルの側近たちも、様々なことが言われましたけど、彼らのように会いたがる人々が多過ぎる場合、不自由に感じることがあっても、側近たちのせいにしたいことは多かったでしょうね。

また、映画『アビエイター』で、随分とクローズアップされていた「細菌恐怖症」について、マイケルも同じように言われていたことを覚えている人も多いでしょう。

「THIS IS IT」とほぼ同時期に進行していた、クラシック音楽のアルバムを一緒に制作していた、ディヴィッド・マイケル・フランク氏は、MJと始めて会ったとき、「彼が細菌を心配していたと聞いていたため、握手することが気が重かった」と語っていましたし、


対談本を出版した、ラビ・シュムリーも、そういった報道を知っていました。ふたりのようなゴシップ紙を読むタイプではないような人にさえ、広く知れ渡っていたMJの細菌恐怖症の「元ネタ」も、ヒューズだったようですね。

MJがそうでないことは、ファンの多くが知っていましたが、ヒューズに関しては、私がこれまでに駆け足で見た資料のすべてでその記述がありました。(年号は本国での出版年)

◎書籍
ジョン・キーツ『ハワード・ヒューズ』(1966)
谷崎一郎『ラスベガス物語』(1999)
ノア・ディートリッヒ、ボブ・トーマス『ハワード・ヒューズ』(1972)
クリフォード・アーヴィング『ザ・ホークス』(上・下)(1981)
藤田勝啓『ハワード・ヒューズ ー ヒコーキ物語』(2005)

◎映像
TVスペシャル『ハワード・ヒューズ物語』(1977)
映画『アビエイター』(2005)
映画『ザ・ホークス』(2006)
映画『地獄の天使』(1930 ヒューズ監督・制作)
映画『暗黒街の顔役』(1930 ヒューズ制作)

(その他、ニクソンついて、ジョン・ディーン著「陰謀の報酬」(2006)とか、永年、ヒューズの映画を創ることに情熱を燃やしていた、ウォーレン・ベイティの制作・監督・脚本・主演作である『レッズ』を観るなどの迂回や、ネット検索も大いにしましたが、ヒューズの英語資料は、MJ関連の何倍もむずかしく、重要な著作でも日本語では読めない本も多い。1999年の谷崎一郎氏、2005年の藤田勝啓氏の著作は、いずれも、その時代までの英語資料の多くが、巻末に記されている真摯な本でしたが、

特に、谷崎一郎氏の『ラスベガス物語』で、

筆者は、多くの過去の文献を読み、自分なりにハワード・ヒューズという人間像を理解したつもりであるが、その人間像からは巷で噂されるような「マフィアと対決するためにラスベガスに乗り込む」ようなイメージは湧いて来なかった。

という「巷の噂」が記されているものは、まったくヒットしませんでした。

大勢の人が興味を抱き、これだけ多くの資料が、50年近く出版されていても、未だに1人の人物に対して、光が当てられていない部分や、忘れられている部分があることに驚きますが、おそらく、MJに対しての興味が尽きないのも、同じ理由によるものだと思います)

ただ、多くの資料で繰り返し言及されていても、それは、単に情報として受け継がれているだけで、何度も検証されたわけではありません。

私がそれらを鵜呑みには出来ないと思うのは、アイゼンハワーが軍産複合体を批判し、ケネディが暗殺され、ニクソンが盗聴事件で失脚した、そんな時代に、軍事機密に関わる最先端の飛行技術に関わり、ライヴァル会社と熾烈な戦いをしながら、個人主義を貫こうとする世界一のお金持ちが、盗聴や、暗殺を怖れるのは当然にも関わらず、

そういったことにはほとんど触れず、様々な彼の決断を「彼の病気」を原因とするものが多いからです。

彼が強迫性障害で、不潔強迫だったと断定的に書かれているものは数多くあります。またその原因は、

・幼いころの潔癖症の母親の影響
・墜落事故のとき痛み止めとして使われた麻薬中毒による精神衰弱

であるとされています。

トラウマはフロイトが用いたことで有名になった用語ですが、私は、こういったことを原因と断定し、医学的・科学的といった断定の仕方をする人ほど、フロイトの本など読んでおらず、自分と同じように読んでいない人や、科学的思考のできない人を騙ます人ではないかと疑いますね(トラウマ理論が大好きな割には、現代心理学ではフロイトの評価は低い、、とか、何でも受け売りで済ませているくせに、エラそーなことだけは言いたいタイプw)。

偉人を「病気」や「症例」として語るようになったのもヒューズの時代からでしょうか。精神医学や心理学といった、今では「疑似科学」として疑われるようになった分野はこの頃から大いに発展し、信じている人も多いですが、それで精神病の治癒率が上がり、人の心が癒されましたか? どれだけ他者を理解できるようになったんでしょう? 

多くの普通の人に「病名」や「症例」を与え、薬の消費量を上げ、社会全体を病気にしただけではないですか? 

分類しただけで、なにか解ったような気になって、その方法をあてはめることが流行しているだけではないですか?

それらは、歴史上の偉人たちを「等身大」として理解する物語に寄与し、マイケルが尊敬していたチャップリンや、ピーターパンの作者のJ・Mバリは、いつしか幼児性愛者に「分類」されるようになり、マイケルも同様の疑いをかけられるようになりました。

また、ハンサムな青年として人々の注目を浴びて、(MJの場合、幼少時からですが)お金持ちになり、多くの女性にもて、大成功をおさめたあと、社会から身を隠し引き籠もった。ということも、一般的なイメージでは、ふたりに共通していますが、MJの場合は、TV出演やステージを行なわなくなっただけで、後輩のミュージシャン達とのレコーディングも続けられていますし、晩年親しくつきあいがあった人は大勢います。

ヒューズに関しては、自分の会社をまかせているような人物でさえ、彼とのミーティングは困難を極めたという話は確かに多く、上記の本の中で、唯一ヒューズの側近であったノア・ディートリッヒの本にも、それは記されています。

でも、ジョン・キーツ本で、「ヒューズの事業は、80%がノア・ディートリッヒの才能、20%がハワード・ヒューズの賭博師魂」と評された、ヒューズ帝国のNo.2だったディートリッヒ本を読むと、その20%の重要さや、また、永年近くにいたからと言って、知っている部分は極限られるということもよくわかりました。

それは、よく考えてみればあたりまえのことで、結婚して10年以上一緒に暮らしている夫婦だって、相手のことを「よく知っている」なんて言えませんし、それは仕事現場での評価や見られ方とは正反対の場合も多いですよね。

ディートリッヒが話した内容は、公認会計士として、ヒューズがどれだけ損失を出したかについて、おそらく正確なのでしょうが、彼が世界一のお金持ちになったのは、自分のおかげだと終始言わんばかりの内容で、日本版の翻訳者あとがきには、

著者のノア・ディートリッヒは、ヒューズを奇人・変人・矛盾人間で片付けているが、読む人によってそれぞれ異なるのではなかろうか。訳者の印象では「ヒューズ帝国」の80%は自分が築いたと自慢しないとはいいながら自慢している著者より1枚役者が上であり、ひょっとすると、30余年間ディートリッヒが悩まされ続けた、ヒューズの矛盾だらけで、支離滅裂で無軌道な行動の陰には冷徹な計算ーーまで行かぬまでも、本能的な勘もしくは判断が働いていたのではないかと思われる。。。

と書かれていて、私は大いに共感しました。

ディートリッヒは、個々の取引においての損得を、年間の会社収益として見ていただけで、多くの人がヒューズに感じた「魅力」については悉く覆すような内容なのですが、それなら、なぜ彼が理不尽な要求に永年耐えてきたのか。という読者の疑問については、最初は魅力的だったけど、後年の彼からは魅力が消え失せ、耐えがたいものになったと、彼の容姿が衰えたことなどが書き連ねてあって、そこからわかるのは、ディートリッヒが極普通の嫉妬深い男だということだけです(笑)。

歴史を書き変えようとする天才たちの日常は、普通の人にとって理解しがたいことの連続で、親しい人間や、その場にいた関係者ほど見誤るというのは、マイケル研究で何度も経験したことです。

読者の多くは、天才のことを知りたくて、こういった本を手に取るものですが、それに相応しい書き手というのはほとんどいません。

1977年のTV番組『ハワード・ヒューズ物語』には、ヒューズが操縦する飛行機の中で、彼が自分の映画の脚本家と話をするシーンがあります。

脚本家 「主人公が最後に憂き目に遭うという話です」

ヒューズ 「その結末は気に入らない。主人公は仕事も恋人も自信も失う。

脚本家 「人生は甘くないですから」

ヒューズ「彼は浅はかで根性なしだ。映画の結末にはふさわしくない。変えてくれ。この世は特異なものだ。大抵の人間は他人に興味を示すものだ。でも、僕は他人には興味がない。興味はもっと他にある。

我々を取り巻くすべてが興味深い。地球とその神秘さ。空、そしてその先に広がる宇宙。隣人を理解したいという気持ちより、なぜ季節が移り変わるのか知りたい。退屈な人間が多すぎるんだ。

でも、どの人間にも価値がある。古臭いかもしれんが、真実だ。どんな人間にも価値がある。これが真実でなければ、僕は失業している」

このセリフは、実際にヒューズと仕事をした脚本家からのものではなく、「創作」なのかもしれませんが、世の中の多くは、スコセッシの映画『アビエイター』のように「人生は甘くない」方の真実を描こうとして、成功者の人生の最後を寂しいものにしたがります。それが自分の人生以上の悲哀でなくても。。

また、歴史を創ったような天才たちに対しては、彼らを尊敬している人でさえ、壁を築いたり、王座の孤独を「勝手に」想像するものですが、それらは例外がないほど「類型的」で、共演者たちを死ぬほど笑わせていた、マーロン・ブランドも同じように見られていたことを思えば、ヒューズが表に出ようが出まいが、おそらく言われたことは同じだったでしょう。


青年時代から、女にモテ尽くし、食べることにも興味がなく、様々なことに挑戦してきたヒューズが、60代から、さらに大事業を成し遂げようとしたとき、社交にかける時間の一切を切り捨てる決断をしたとしても、彼が実際にそれを成し遂げたことを思えば、それは病気ではなく「合理的」だったのではないでしょうか。

天才とは、そういった現実に反抗しようとする人への称号で、真の天才とはそれを本当に成し遂げた人のことでしょう。

安定した普通の幸せに満足し、その価値観で天才たちを見ると、彼らが苦しんでいる姿に耐えられず、理解もできないものですが、天才たちには、それが退屈にしか見えず、そのような日常に埋没して生きることを徹底して嫌う。

多くの人を自分の人生に巻き込む力があったヒューズや、MJには「どんな人間にも価値がある」ことは、わかっていたでしょう。

人生は甘くない。と何度も言いたがる人々は、自分に見える現実以外は認めようとはしませんが、

真実は、選び取る人の目によってどうにでも見えるものです。





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by yomodalite | 2014-05-15 09:46 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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