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うほほいシネクラブ/内田樹[1]のつづき

第二章「街場の映画論」より(抜粋・省略して引用しています)

『冬のソナタ』と複式夢幻能

『冬のソナタ』全20話を見終わる。今頃こんなところに感想を記すのはまことに時宣を得ない発言であることは重々承知であるが、あえて言わせていただく。

泣いた。ずいぶん泣いた。ユジンが泣くたびに、チュンサンが泣くたびに、私もまた彼らとともにハンカチ(ではなくティッシュだったが)を濡らしたのである。『冬ソナ』は日本の中高年女性を紅涙を絞ったと巷間では喧伝されていたが、そういう性差別的な発言はお控え願いたいと思う。

老狐ウチダでさえ「それから10年」というタイトルが出たところから(第三話の終わりくらいからだね)最後まで、暇さえあればむせび泣いた。心が洗われるような涙だった。

「ユジン、戻り道を忘れないでね」というところでは、頬を流れる涙を止めることができなかった。ミニョン、おまえ、ほんとうにいいやつだな。一方、サンヒョクが「ユジン、もう一度やり直さないか」と言うたびに、チェリンが「ミニョン、私のところに戻ってきて」と言うたびに、私はTVに向かって「ナロー、これ以上うじうじしやがると、世間が許してもおいらが許さないぞ」と頬を紅潮させて怒ったのである。

ともあれ、一夜明けて、われに返ったウチダは、映画評論家として、この世紀の傑作についてひここと論評のことばを述べねばならない。韓流ドラマの3つのドラマツルギーは「親の許さぬ結婚」「不治の病」「記憶喪失」だという。

しかし、私は今回韓国TVドラマおよび韓国恋愛映画に伏流するドラマツルギーの定型が何であるか確信するに至った。それは「宿命」である。宿命というと大仰だが、言い換えると「既視感」である。「同じ情景が回帰すること」それが宿命性ということである。


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かつてフロイトはそれを「不気味なもの」と名づけた。重要なのは「何が」回帰するかではなく「回帰することそれ自体」である。

「宿命」について、かつてレヴィナス老師はこう書かれたことがある。

宿命的な出会いとは、その人に出会ったそのときに、その人に対する久しい欠如が自分のうちに「既に」穿たれていたことに気づくという仕方で構造化されている、と。

はじめて出会ったそのときに私が他ならぬその人を久しく「失っていた」ことに気づくような恋、それが「宿命的な恋」なのである。


はじめての出会いが目眩のするような「既視感」に満たされて経験されるような出会い。私がこの人にこれほど惹き付けられるのは、私がその人を一度はわがものとしており、その後、一度はその人を失い、その埋めることの出来ぬ欠如を抱えたまま生きてきたからだという「先取りされた既視感」。それこそが宿命性の刻印なのである。

明治の速度

高橋源一郎の明治文学講義 in 神戸女学院。いちばんびっくりしたのは「明治の人は早口だった」という知見である。実は私も前からそう思っていたのである。最初にそれに気づいたのは、川上音二郎のパリ公演の録音というのを大滝詠一師匠の『日本ポップス伝』で聴いたときである。異常に早口なのである。川上音二郎と言えば「おっぺけぺ」の人である。自由民権運動の闘士である。

戦前の映画のせりふも速い。音楽もそうだ。戦後になってアメリカ文化が入ってきて、生活のテンポが速くなった....と一般には言われているが、実は人間の話す速度は遅くなっているのである。そのことについて、高橋さんのご高説を一部紹介しよう。

「明治に近づけば近づくほど、登場人物たちの会話が早口になるんです。

僕は、遠い時代のものがだんだん遠く感じられる理由ってのは何かって言うことを考えるんです。もちろん、自分が知らないとそういうようなこともありますが、スピードが違うんじゃないかっていう気がするんですね。

『野菊の墓』の原稿7、80枚っていうのは、ただ単に短いというだけでなく、速いんです。スピードが。『坊ちゃん』も大変速い小説ですね。このスピードのまま映画化したら、早回しのフィルムを見ているようで、とても不自然に見えるんじゃないかと思います。

この速い世界を映画にする、それはたぶん『虞美人草』や『たけくらべ』の時代までは可能だったのかもしれませんが、カラーの時代になったときすでに、我々自身のスピード感が違っていた。ある意味ゆっくりしている。どういうスピードかっていうと、僕は、テレビ的スピードじゃないかと思うんですね」

さすが史上最強の批評家、タカハシさんである。映画の早口から、それが文学そのものが内在させている「物語の速度」に連関していることを看破するとは。この「明治文学の速度」という知見はきわめて多産なものであるように私には思われる。(引用終了)

私は、常々「江戸」は「東京」より速いと思っていました。そしてその理由を、人生を概ね50年ぐらいと思って生きている人の方が、70歳を過ぎてからの「介護人生」を待っている現代人より、焦りがあるからだと思っていたんですが「カラーテレビが遅い」という知見には驚きました。

立川談志が、志ん生には最後までかなわなかったと言っているのも、晩年でも志ん生のスピードの方が速くて、その速さに付いていける観客がいないことも、理由のひとつかもと思っていましたけど....このスピードは、今後「グローバル社会」が進むことで、ますます「ゆっくり」になっていくでしょう。

それは、今よりもっと「野暮」な社会になることだとしか思えないと、暗くなりそうなので、遅くしか読めない「古典」とか、外国語を読む量を増やす方が、精神衛生上いいような気がしてます。


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photo : John Waters


ジョン・ウォーターズ賛

ジョン・ウォーターズの『ヘアスプレー』を見る。よい映画である。あまりに面白かったので、ジョン・ウォーターズの自伝『悪趣味映画作法』を取出して読む(訳者は町山智浩+柳下“ガース”穀一朗)。ウォーターズは17歳のときにディヴァインに会うんだけど、そのときの回想。

「他人に悪影響を与えるのにはもううんざりしていて、そろそろ自分にも悪影響を与えてくれるような人に会いたかったのだ」

そうでしょうね。そういえば、ウオーターズのアイドルがラス・メイヤーだということを知ったのもこの本でだった。ラス・メイヤーの『ファスター・プッシーキャット キル!キル!』は、ウォーターズのオールタイムベストで、この映画について、こうコメントしている。
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photo : 『Hairspray』John Waters


「過去15年間、ぼくは『ファスター』のリヴァイバルには、何十キロ遠くても必ずかけつけるようにしている。フィルムも借りて、友人と映画のスタッフには私語厳禁を言い渡したうえで、無理矢理鑑賞させた」

僕が一番気に入ったのは、ウォーターズのもうひとりのアイドル、ハーシェル・ゴードン・ルイスについてのコメント。

「ぼくはルイス氏の怪物的3部作『血の祝祭日』『2000人の狂人』『カラー・ミー・ブラッド・レッド』を近所のドライブインシアターで発見した。ティーンエイジのカップルが車から走り出てゲロを吐くのを見たとき、ぼくはこの監督になら死ぬまでついていけると思った」

僕もジョン・ウォーターズと小津安二郎になら死ぬまでついていける(2005年3月1日)


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『Hairspray』John Waters



私は、ウォーターズの映画は『ピンクフラミンゴ』以外は記憶がなく『ファスター・プッシーキャット キル!キル!』も流し見した程度で、近いうちに『クライ・ベイビー』(ジョニー・デップ主演)を観なくちゃと思っていた程度で何もわかっていないのですが、

ウォーターズの映画にまったく触れたことのない人に、念のため付け加えると、ウォーターズと、小津映画の雰囲気はあまりにも違います。(一般的なイメージとしては。。。)それで、内田先生の「死ぬまでついて行ける」発言にはビックリして、しばらく考えていたら、意外と似てるかもと感じ始めて、さらにビックリしたって感じでしょうか。。

とにかく、私は、この発言で『ヘアスプレー』も観なきゃと思い、ウチダ先生にも、ますますついて行きたいと思いました。


集中講義終わる

ハリウッド映画をトラウマ、抑圧、代理表象、転移などにからめて論じるというスタイルは、これまでと同じだけど、今回は「同期」「閾下知覚」「暗黙知」「無意識的言語活動」といったことに軸足を置いてみた。初日の朝に、寝床の中で「アナグラム」の話を思いついて、あれこれ資料に付け加えたところから話の筋道がどんどん変わってしまった。

これまでにアナグラムについて、それが識閾下でのある種の言語活動であることはとりあえずわかっている。それがコミュニケーションにおいて死活的に重要であることまでは分かっていたのである。

だが、時間意識の形成とアナグラムをつなぐ理路がよくわからなかったのである。それがぼんやりわかってきた。

アナグラムは「閾下の言語活動」であり、そこでは時間も空間も意識次元とはまったく違う仕方で展開している。この識閾を適切にキープする能力が人間の人間性をどうやら最終的に担保している。そんな気がしてきたのである。

識閾を設定し保持する力こそが、実は人間の知性の核心なのではないか。識閾というのは、フロイトの術語を使って言えば「無意識の部屋」と「意識の部屋」を隔ててる、あの番人のいる「扉」のことである。

この「扉」の管理がしっかりしてはじめて人間は「論理」とか「時間」とか「自我」とか「他者」といったものを維持することができる。この扉の開け閉めが緩んで、無意識の心的過程がダダ漏れになってしまうと、時間も論理も自我も、みんなまとめて吹っ飛んでしまう。


無意識と時間意識のかかわりについて考えるきっかけになっったのは、春日先生にうかがった統合失調症の「幻聴」の話である。幻聴というのは、自分の思考が声になって聴こえるという病症である。幻の声が自分の思考を「先回り」をして言い当ててしまう。患者は「宇宙人からの指令が聴こえる」とか「脳内にチップを埋め込まされた」といった定期的な作話によって「合理化」しようとする。

でも、よく考えたら「そんなこと」は誰にも起こる。アナグラムの例から知られるように、私たちは瞬間的に一望のうちに視野にはいるすべての視覚情報を取り込んで処理することができる。本を開いた瞬間に見開き2ページ分の視覚情報を入力するくらいのことは朝飯前である。だから、私たちはページを開いた瞬間に2ページ分「もう読み終えている」。しかし、私たちは「すでに読んでしまった文」を「まだ読んでない」ことにして、一行ずつ本を読む。

なぜ瞬間的に入力された情報を段階的に取出すような手間ヒマをかけるのか。

私にはその理由がまだよくわからない。よくわからないままに、直感的な物言いを許してもらえれば、たぶん、それは「手間ひまをかける」ということが「情報を適切に処理すること」よりも人間にとって重要だからである。「手間ひまをかける」というのは言い換えると「時間を可視化する」ということである。

おそらく、無時間的に入力された情報を「ほぐす」という工程を通じて人間的「時間」は生成する、一瞬で入力された文字情報をあえてシーケンシャル処理することは、知性機能の「拡大」ではなく、機能の「制限」である。私たちの知性はおそらく「見えているものを『見えていないことにする』という仕方で「能力を制御する」ことで機能している。

それに対して、統合失調症の人たちはおそらく「見えているものが無時間的にすべて見えてしまう」のである。かれらは「<超>能力が制御できない」状態になっている。発想の転換が必要なのだ。私たちは精神病というものを知性の機能が停滞している病態だと考えている。そうではない。逆なのである。人間の認識能力が制御されずに暴走している状態が統合失調症なのである。

私たちの中では実際には無数の声や、無数の視覚イメージが乱舞し、私たちの理解を絶した数理的秩序が支配している。その中の「ひとつの声」だけを選択に自分の声をして聴き取り「ひとつの視野」だけを自分の視線に同定し、理解を絶した秩序の理解可能な一断片だけに思念を限定できる節度を「正気」と言う。たぶん、そうだと思う。

この「理解を絶した数理的秩序」を私たちの貧しい語彙をもって語ろうとすると、それは「宇宙人の声」とか「CIAの監視」といったチープでシンプルな物語に還元されてしまう。だから、それについてはあえて語らない。それが知性の節度なのだ。ウィトゲンシュタインが言ったように「語り得ないものについては沈黙すること」が知性の生命線なのである。

アナグラムという現象は、人間の言語活動のうち、少なくとも音韻選択は識閾下でも活発に活動していることを示している。アナグラムについて書かれた詩学者が1冊も存在しないという事実は、アナグラムが人間の知性が統御すべき領域の出来事ではないということを意味している。おそらくそのことを古代人は知っていたのだ。というようなことを考えて映画を見る。

映画の中には無数のでたらめな表象が飛び交っている。とくにハリウッド・バカ映画の場合、映画を中枢的に統御している「作者」はもう存在しない。

フィルムメーカーたちが映画づくりにかかわる動機はきわめて多様である。あるものは金を儲けるために、あるものは政治的メッセージを伝えるために、あるものは宗教的確信を告白するために......それぞれがてんでかってな仕方で映画の現場に参加している。そこにはどのような意味でも「秩序」というようなもおが打ち立てられるはずがない。

しかし、それらの娯楽映画を分析的に見ると、すべてのフィルターがある種の「数理的秩序」に類するものに従って整然とする配列されていることがわかる。


いったい「誰」がその秩序を用意して、どうやって数百人数千人のスタッフ、キャストをその「意」に従わせたのか?私には説明ができない。たぶん、誰にも説明できないだろう。(引用終了)

このアナグラムの話は、本書の中で、私がもっとも理解できなかった部分(特に前半)で何度か考えてみたかったので、メモしておきました。

☆うほほいシネクラブ/内田樹[3]につづく


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by yomodalite | 2011-12-31 13:33 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)

うほほいシネクラブ (文春新書)

内田 樹/文藝春秋

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内田樹氏の映画本。内田本にハズレがないのも、重要な箇所に線を引こうとすると、すべての行になってしまうことも、やっぱりいつもどおり。しかも、新書としては、最重量の厚み(2センチ程)で、面白さが詰まっているので、どこを切り取ろうか決められないぐらいで....ホント困ってしまうのですが、、

返る田舎のない身なので、年末からお正月まで、本書からのメモを、気が向いたときに追加していきたいと思います。 

これまで内田氏の映画論は、小津映画についてのものぐらいしか知らなかったのですが、ジョニー・デップや、タランティーノ、特にジョン・ウォーターズをそこまで高く評価されていることは全然知りませんでした(嬉しいっ)

「まえがき」より(省略して引用しています)

本書は僕にとって3冊目の映画論の本です。最初が『映画は死んだ ー 世界のすべての眺めを夢見て』次が『映画の構造分析 ー ハリウッド映画で学べる現代思想』本書に収録したのは、その2冊を出した後にさまざまな媒体に寄稿したものと、ネットで公開したけれど、これまで活字化されなかった映画についての書き物です。

第一章は、本書のタイトルになった「うほほいシネクラブ」読売新聞の「エピス」という紙面に連載した映画評で、2004年から2008年まで、月に一回試写会に行って映画を観て、それについて書くという仕事でした。

第二章は「街場の映画論」は僕のブログから拾い上げた「映画に言及した雑文」とパンフに寄稿したもの。

第三章「小津安二郎断想」は小津安二郎のDVDブックに連載したもので、小津のコレクションから1本抜き出して、じっくり隅から隅まで見て、思いついたことを書くという愉悦的な仕事でした。

最後の第四章「おとぼけ映画批評」は、1998年にインターネットのHPを開設してすぐ連載を開始した個人的な映画評です(2003年まで5年間続けました)。当時のHPのアクセスは100くらいで、読んでいるのはほとんど知りあいで、友だちと居酒屋で、生ビールなんかごくごく飲み、「どう、最近なんか面白い映画見た?」というようなカジュアルな口調で書かれています。

メディアの映画評では、新作しか扱いませんが、今は古い映画でも、ネットで上でクリックすれば済みます。そういう新しい技術的環境を享受していながら、いまだに新作しかレヴューしないというのは、ちょっとおかしいんじゃないかと、、あらゆる時代のあらゆる作品はつねに現時点におけるレビューの対象となりうる。いささか過激かもしれませんけれど、そういう開放的な立場から書かれた映画評というのだってあってもよいと思います。(引用終了)

第一章の「うほほいシネクラブ」の映画評は、それぞれ新書の1ページぐらいの分量なんですが、それでも、内田氏の思想・哲学が垣間見れるというか、匠の技や至芸を堪能できてしまうという例をほんの少しだけ。(省略・抜粋して引用)

『2046』
ことばは誰にも届かない。けれども人々は語ることを止めず、その誰にも届かないことばを、響きのよい音調で、あるいは絞り出すように、あるいはつぶやくように語り続けます。おそらく、聴き取って欲しい人にことばの「意味」が届かないとわかったときに、人間はいちばん美しい「音声」を発して、それを補償しようとするからでしょう。

『エターナル・サンシャイン』
アメリカのみなさんは、年に一度『クリスマス・キャロル』映画が見たくなる。これは僕が最近発見した「ハリウッド映画の隠された法則」の1つです。

おのれの人生を凝縮した時間のうちに幻視することによって「回心」を経験する、という話型はアングロサクソンの方々の琴線にふれるもののようです。この映画も『クリスマス・キャロル』ものに分類してよろしいと思います。

人間と言うのは不思議なもので、確定したはずの過去に「別の解釈可能性」があり、そのとき「別の選択肢を取った場合の私」というものがありえたと思うと、なぜか他人に優しくなって、生きる希望がわいてくるんです。

これは本当。若い人も長く生きてればわかるようになります。

『チャーリーとチョコレート工場』
「ティム・バートンにはずれなし」「ジョニー・デップにはずれなし」というのは僕が経験から学んだ貴重な教訓です(もうひとつ「メル・ギブソンにはずれなし」というものもあります)

僕が興味をもったのは、この映画がアメリカ社会に伏流するある隠された心性をストレートに表現していたということです。それは「母親に対する子供の抑圧された悪意」です。

『Always 3丁目の夕日』
おそらく僕たちには「一度として所有したことのない過去を懐かしく思い出す能力」が備わっているのです。この映画はそのような想像力が生み出したもののように僕には思われます。

『シン・シティ』
映画が固有の現実性を獲得するためには、フィルムメーカーと観客が「同じ側」に立って映画内的現実を見つめているよいう状況設定が必要なのです。「こちら」にフィルムメーカーと観客、「あちら」に映画そのもの。この二項対立関係が成立すると、映画そのものが(もう人間が作り出したものではなく)固有の悪夢のような現実性を持ち始めて自律的に存在するようになるのです。真に創造的なフィルムメーカーは(タランティーノもそのひとり)そのことを知っています。

『ミュンヘン』
この映画の心情的な通低音は「アメリカに住むユダヤ人がイスラエルに対して感じる疾しさ」です、現在アメリカに住んでいるユダヤ人たちは、もう十分にアメリカ社会に根付いているにもかかわらず「もしも、ここでまたホロコーストが起きたら....」という悪夢のような想像からはなかなか逃れることができません。

万が一そのようなことが起きたとしても、逃れるべき「祖国」があるということが彼らを心理的に支えています。イスラエルという「心理的な支え」があるからこそ、アメリカのユダヤ人たちは「普通の生活」を享受できている。

しかし、当のイスラエルでは人々は存亡をかけた戦争を繰り返し、日常的にテロに脅かされ、テロを行っています。ですから「私たちアメリカのユダヤ人は、イスラエルに踏みとどまっている同胞の血と罪によって、おのれの市民的平和を購っているのではないか?」という疾しさは程度の差こそあれ、アメリカ・ユダヤ人のうちに伏流しているのです。

『バベル』
4つの物語に共通するのは「言葉が通じない」と言う状況です。言葉が通じないことがむしろ出会いたいという欲望を亢進させるのです。「あなたの言いたいことはよくわかった」という宣言は「だから、私の前から消えてよろしい」という拒絶の意志を含意しています。僕たちはむしろ「あなたの言いたいことがよくわからない。だから、あなたのそばにいたい」という言葉を待ち望んでいるのです。

『The 有頂天ホテル』
「自分らしく生きる」というのは、自分の中からこみあげてくるピュアな欲望や衝動に身を委ねるということではなく、人々が自分に期待している役割を粛々と演じきる覚悟性のうちにある。たぶん三谷さんはそういうふうに考えているんじゃないかと思います。(大人ですね)

『父親たちの星条旗』
クリント・イーストウッドは偉大なフィルムメーカーです。もしかすると未来の映画史には20ー21世紀で最も偉大なハリウッド映画監督として記憶されることになるかもしれません。『ダーティハリー』と『ガントレット』で刑事映画のスタイルを完成させ『ペイルライダー』と『許されざる者』で西部劇のスタイルを完成させ『ハートブレイク・リッジ』と『父親たちの星条旗』で戦争映画のスタイルを完成させたんですから。

スタイルの完成させたというのは、これ以上洗練された映像を作り出すことがほとんど不可能をいうことです。彼の映画について形容する言葉を1つだけ選ぶとしたら、それは「洗練」ということになるでしょう。

「洗練」というのは「過剰」の反対です。ですから、彼の映画ではすべてが「少しだけ足りない」

俳優は説明的な演技を禁じられており、画面は観客が予想するよりもわずかに早くカットアウトされ、ライトは画面の隅々まで行き渡って、俳優の表情をくまなく見せるには少しだけ足りません。重要なセリフを語るときは、観客が少しだけ耳を澄ましてわずかに身を前に乗り出さなければならない程度にわずかに音量が抑えられる。すべてが「少しだけ足らない」。

『硫黄島からの手紙』
硫黄島で死んだ二万人の兵士を鎮魂する映画はどう考えても日本人が自力で作るべき映画でした。この映画の中で僕たちは「天皇陛下万歳』と「靖国で会おう」という常套句に何度か遭遇します。これまでに見たどのような映画でも、僕はこのようなイデオロギー的言明に悪寒以外のものを感じたことがありません。けれども、この映画においては、僕はその言葉に不覚にも目頭が熱くなりました。

間違いなく多くの日本の兵士たちは死に際して、最後の希望をその言葉に託したのです。その動かしがたい事実が淡々と、どのような判断も込めずに、ただ記述的な仕方で示されているときに「そのような言葉を口にすべきではなかった」というようなあと知恵の政治的判断はほとんど力を持ちません。

このことがどれほどの力業であるかを理解したければ、日本人のフィルムメーカーが「アメリカの兵士たちが日本軍と戦って死ぬ映画」を作って、そのアメリカ人兵士たちのたたずまいの描き方の精密さがアメリカの観客たちを感動させるという事態を想像してみればよいでしょう(僕には想像ができません)

『ヘアスプレー』
ジョン・ウォーターズ師匠(私が「師匠」と敬称をつけてその名を呼ぶフィルメメーカーはこの世に小津安二郎と、ジョン・ウォーターズのお二人だけです)の、ボルチモア讃歌シリーズの中でも名作の誉れ高い『ヘアスプレー』(1988年)のリメイクです。

この師匠のスゴいところは「テーマなし(ほとんど)ストーリーなし」であるにもかかわらず始まってから5秒後に映画の中に引きずり込まれ、エンドマークが出るまで時の経つのを忘れてしまうスーパーな「娯楽映画」を作ってしまうところです。

映画はただ1つのことしか扱っていません。それは「ロケンロールへの愛」です。ロケンロールは20世紀のアメリカ人が誰にも気兼ねすることなくそれに対する無条件の愛を信仰告白することが許された唯一の対象でした。

ロケンロールこそ、1945年以後のアメリカ人が肌の色を超え、信教の違いを超え、階級を超え、政治的立場を超えて、1つに結びついた、たった一度だけの歴史的経験だったのでした。


ブルースは黒人の音楽であり、カントリーは中西部の白人の音楽であり、ポップスは中産階級の音楽であり、ラップは非抑圧階級の音楽であったからです。そのようなきびしい社会集団ごとの境界線がすべての文化財を乗り越え不能な仕方で切り刻んでいる中で、唯一「ロケンロール」だけは「ヒップ」なアメリカ人であると自己申告しさえすれば誰もが「自分のための音楽」として認知することのできる「開かれた音楽」だったのでした。

そのような文化的な「入会地」はもう21世紀のアメリカ社会には存在しません。だからアメリカ人たちは今万感の哀惜を込めて、ヘアスプレーで固めた髪の毛をロケットのように点に突き上げ、リーゼントを決めた兄ちゃん、姐ちゃんが底抜けに陽気なダンスをすることができた「ケネディが大統領だった時代」を目を潤ませてながら回顧しているのです。(引用終了)

エイミー・スチュワートを見ていると、妙にジョン・ウォーターズの映画が観たくなってきてたんだけど、『ヘア・スプレー』置いてないのね、TUTAYA DISCAS....

☆うほほいシネクラブ/内田樹[2]に続く


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by yomodalite | 2011-12-29 19:47 | 評論・インタヴュー | Trackback | Comments(0)
MJが完璧なアルバムとして、何度も挙げていたチャイコフスキーの「くるみ割り人形」(The Nutcracker)なんですが、そういえば、この曲は、ダンス(バレエ)のための音楽だったことに、今更なんですが、ふと気になって原作が読みたくなりました。

◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(河出文庫)E・T・A・ホフマン、種村季弘訳
◎『くるみ割り人形』アレクサンドル・デュマ、小倉重夫訳

下記は、上記2冊を読んだメモです。

「くるみ割り人形」に関しては、ドイツロマン派の作家、E・T・A・ホフマン原作とか、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマ原作とも言われたり、結局どっちなの?という疑問をもたれた方も多いんじゃないかと思うのですが、その件も含めて、デュマ版の翻訳者、小倉重夫氏の「あとがき」から省略して引用します。


1891年帝政ロシアの作曲家チャイコフスキーは、翌年12月に初演される彼にとって3番目で、最後のバレエ音楽『くるみ割り人形』の作曲に励んでいた。このバレエは前年に初演した『眠れる森の美女』に続き、フランス趣味をバレエに積極的に取り込んだもの。

振付けは、当時ロシア・バレエ界の大御所だったマリウス・プティバが担当することになっており、彼は上演のための台本をチャイコフスキーに手渡し、彼も有名な童話は充分に承知していたが、改めて読み直したりして、構想を練り始めた。

チャイコフスキーは、2歳年下の妹と特に仲が良く、彼女が嫁いだ後も、甥や姪たちとの団らんを楽しみ、『白鳥の湖』も『眠れる森の美女』も、この一家の家庭音楽界用のものとして作曲された。『くるみ割り人形』は、この妹の急死にショックを受け、2人の楽しかった思い出を回顧するとともに、彼女への追悼曲にしたもの。

前2作に見られるような小品の連鎖曲ではなく、少女とくるみ割り人形との出会いから、人形とねずみの戦闘の場に到るまで、彼は交響絵巻のように休みなく音楽を劇的に展開させたのである。全曲を支配するメルヘンチックな世界には、少女と妹が二重写しになって描写され、自らの体験から生み出されたと思われる幼き日の思い出が、生き生きとよみがえっているのである。

『くるみ割り人形』の原作は、一般にドイツ・ロマン派の作家、E・T・A・ホフマンが、1815年に書いた幻想童話として知られているが、バレエ版で使用されたのは、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマの手になるもので、このアレクサンドル・デュマは、実は2人いて、父子の関係にある。父親はデュマ・ペール(一般に大デュマ)と呼ばれ『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』の作者として広く知られている。

一方、息子はデュマ・フィス(一般に小デュマ)と呼ばれ、デュマ・ペールの庶子で、作家としては、娼婦の恋愛を描いた小説をイタリアの作曲家ヴェルディが名作オペラとした『椿姫』で有名である。

『くるみ割り人形』(原題は『くるみ割り人形物語』)は、1844年に息子、デュマ・フィスが、まだ20歳の若き日にE・T・A・ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』のフランス語訳に着手、やがて『三銃士』を完成し『モンテ・クリスト伯』を執筆中の父親も加わり、合作の形で完成させ、ペール、フィスの明記なく1845年に出版したものである。

研究者の間では、どちらの作品とすべきか、見解が分かれているが、フランスの作品リストでは父親の方に所収されてきている。また、彼らはこの同じ年に英語版もイギリスとアメリカ両方で同時に出版もしている。こうしたことからは、いかに一時期彼らがこの作品に執着していたかがうかがえる。

当時フランスのパリは、ヴィクトル・ユゴーをリーダーとするロマン主義の全盛期で、その影響はシェイクスピアやバイロンなどの文学と同時に、ドイツのそれからも顕著に受けていた。つまり、ドイツ文学のフランス化、あるいは新ドイツ主義とも言えることが盛んに行われていた時代で、文学、音楽、バレエなどの主題をはじめ、それぞれの創作活動にこれらは色濃く反映されていた。

たとえばゲーテの傑作『ファウスト』がフランス語訳出され、『ジューヌ・フランス』派の若きロマンティスティシズムの闘志集団に愛読され、ベートーヴェンらの交響曲作品が紹介され、ベルリオーズやリストが、フランス風に極めて標題的で、演劇的、絵画的な交響曲作品を作曲するようになり、そうした主題や背景には『ファウスト』などが使われ、

ゴーティエがアナトール夫人やハイネの著した民間伝承話や、死霊ヴィリからインスパイアされて製作されたバレエ『ジゼル』にも、フランス化現象が顕著に表れ、この頃の『ジューヌ・フランス』派の若人たちは、熱病に冒されたかのように、ドイツ文化がもつ神秘で幻想的な世界、疾風怒濤の精神運動(シュトゥルム・ウント・ドランク)に熱狂し、ロマンティズムを成熟させていった。

こうした傾向はゲーテのみならず、E・T・A・ホフマンにも及び、彼の幻想怪奇な小説は高く評価され、デュマ父子にも及んだ。翻案の形で進められたところから、随所にホフマンとの相違を見ることができるが、バレエと結びつけて読まれる場合は、デュマ版の方が有効である。

それはドイツ語よりもフランス語をたしなむことが多かった当時のロシアでは、ホフマン版よりも、デュマ版の方が広く流布していて、バレエ関係者はホフマン版を手にした形跡がないからである。バレエ版を製作するに際し、スタッフもダンサーも共に原作や台本が入手困難といったこともあってか、読み込み不足、かたこれらをもとに作曲された音楽にもかかわらず、それを軽んじる傾向が、昨今散見されるのは残念なことである。

バレエは憧れいずる魂を刺激するものでなければならないが、これでは舞踏劇としての醍醐味はそこなわれてしまうのではないだろうか。『くるみ割り人形』にしても、今日上演されている多くのバレエ公演に接するよりも、デュマ父子の翻案に触れ、舞台で欠落している部分を補うことで、作品の魅力を感受し、納得していただくことが望ましいのである。(引用終了)



ホフマン版と、デュマ版の両方を読んだ感想としてはデュマ版は、あきらかにホフマンのリメイクで両作はほぼ同じ話です。ただ、デュマ版の方が、より童話っぽいという感じでしょうか。。いずれにしても、私は、バレエの『くるみ割り人形』は、こどもバレエで見た記憶が強いせいか、原作を読むまで、こんなお話だったとは、全然知りませんでした。


以下は、ホフマン版『くるみ割り人形とねずみの王様』の訳者で、ドイツ文学者の種村季弘氏の「訳者解説」より(省略して引用)


『くるみ割り人形とねずみの王様』と聞いて真っ先に思い出すのは、ホフマンのこの物語ではなくて、同じ題名のチャイコフスキーのバレエ組曲のほう、という方の方が多いかもしれません。『眠れる森の美女』『白鳥の湖』に次ぐチャイコフスキーの3番目で、最後のバレエ。それ自体がクリスマスプレゼントのようなバレエとして知られています。

これはチャイコフスキーのバレエの原作ですが、ホフマン原作をかなり省略したデュマのフランス語訳から、マリウス・プティバが1892年に書き上げた台本にチャイコフスキーが作曲したのでした。ホフマン原作は1816年、80年近い年月のへだたりがあるうえに、デュマ、プティバの2人の手が入ったのでは原作ばなれもやむを得ません。

デュマの手が入ったために、ホフマン原作の不気味な雰囲気が消えてしまったのを残念がる人もいます。フランス的ブルジョア的に甘いお砂糖をまぶし過ぎたということでしょうか。この問題は「くるみ割り人形」のバレエ上演のたびに再燃するようで、バレエ評論家によると「くるみ割り人形」上演史では、少女クララを中心にした「かわいい」演出と、ドロッセルマイヤーを中心にした「不気味な」演出の2つの流れがあるということです。


yomodalite註 : 小倉訳の『くるみ割り人形』では、主人公はマリーで、マリーのお人形がクララ(ホフマン版の人形の名前はクレールヒェン“愛称クララ”)バレエ上演では、クララとくるみ割り人形(→あとから王子)が主役のヴァージョンの他に、熊川哲也のKバレエカンパニーなど、マリー姫が登場するヴァージョンでは、原作のマリーとクララが逆になっているものもあるような。。。

☆[動画]3分でわかる!くるみ割り人形(牧阿佐美バレエ団)

そういえば、チャイコフスキーのバレエは、現にこどもである、こどもに見せるより、昔こどもだったことのある大人に見せるように構成されているように思えないこともありません。お行儀が良くて、エレガントです。ではホフマンの方はどうでしょう。そんなにお行儀が良くはありません。

こどもたちはマリーもフリッツもやんちゃそのもの。くるみ割り人形も、一皮むけば白馬の騎士といった単純なでくの坊ではありません。みにくさも、人の良さも、そのくるみ割り人形の伯父さん、ドロッセルマイヤーおじさんにしたって、素敵なクリスマス・プレゼントを贈ってくれる、こっけいで気のいいおじさんというだけでなく、何だか向こう側の世界の回し者めいた、うさん臭い不気味な感じがしませんか。(引用終了)


チャイコフスキーが、ホフマン版を読んでいたかどうかは、微妙ですが、バレエ版のお菓子の国のイメージからは、まったく想像していなかったような物語で、種村氏が言われるように、ホフマン版には不気味な味わいがあり、文庫本で5ミリ厚ぐらいの話なんですが、深みのある濃厚な描写力で、こども向けとは言えない物語が展開されています。

バレエ版では、人形が「くるみ割り人形」という、お父さんのツマミのための道具?のようなものが、少女のおもちゃとして、あまりイメージ出来なかったこともそうですし、なぜ王子が人形に変身したのかについても、納得のいくストーリーではなかったような気がするのですが、

ホフマンの原作では、「くるみ割り人形」の大きく口が避けている(?)顔を、元々カワイイ顔とは考えておらず、「王国」には、決して甘くない人間模様があり、それらから真実を見抜き、利発で、勝ち気、信念を貫き、くるみ割り人形を助けることになる、主人公のマリーは、まるで、幼い頃のパリスちゃんを彷彿するようなおてんば少女で、不気味な味わいはあるものの、このお話は、こどもの「真実を見る眼を養う」ことに繋がるのかも。。。

(引用開始)

こっけいで不気味、気が良くて残酷、美しくて醜悪、エレガントでうさん臭い。そのどちらかではなくて、どちらでもあるのがホフマンの作中人物のようです。「かわいい」か「不気味」か、どちらかに局限されるわけではなく ー むろんバレエ演出はそれでいいのですが ー 善と悪、美と醜がまだ分かれていなくて、なにもかもがまるごとそのままにある、子供の世界、それも腕白小僧やおちゃっぴいの女の子の世界が、ホフマンの「くるみ割り人形」の世界だといえばよろしいでしょうか。(中略)

「くるみ割り人形」のマリーも、ねずみの大群にお菓子やお人形をみんな食べられてなくしてしまってから、くるみ割り人形のお菓子の王国へ招待されたのでしたね。


見た目においしそうなもの、きらびやかなものを、まずすべて失ってしまうことが、この世にありうべくもない夢の世界に招かれる条件なのですね。(引用終了)


ホフマンのことは、同じ文庫に納められた『見知らぬ子ども』『大晦日の夜の冒険』という3編の短編を読んだだけなのに、ウィキペディアの

ホフマンの評価はむしろドイツ国外で高まり、1828年にフランスに初めて翻訳されて以降バルザック、ユゴー、ゴーティエ、ジョルジュ・サンド、ミュッセ、ヴィリエ・ド・リラダン、デュマ、ネルヴァル、ボードレール、モーパッサンなど、中でも特に小ロマン派と呼ばれる作家達に大きな影響を及ぼし、

ロシアではプーシキン、ドストエフスキーなどがホフマンの物語を愛好し、その影響はエドガー・アラン・ポーにも及んでいる。ドイツではリヒャルト・ヴァーグナーがホフマンから霊感を得ており、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『タンホイザー』は『ゼラピオン同人集』のなかのパリを舞台にした小説群に多くを負っているほか、

『さまよえるオランダ人』もホフマン作品の暗鬱で神秘的な人物像から影響を受けている。またジークムント・フロイトはホフマンの『砂男』を題材にして「不気味」という感情の源泉を分析した『不気味なもの』という論文を執筆している。


という文章に、大いに「納得」してしまいました。

また、今まで「ロマン派」とか「ロマン主義」とか、何度か説明されても、今イチ、ピンと来なくて、よくわからなかったのですが、MJが創りたかった映画のことを、色々考えているうちに、なんだかすごく気になってきて.....だって、ハリウッドは、ストーリー、音楽、ダンスも含めて、現代のロマン派がもっとも結集した場所ですし、、

MJが「インストュルメント・アルバム」を計画していたときに、好きな音楽として挙げられていた作曲家たち(2人のバーンスタインとか...)も、まさに、その源流の人々だったり、、MJが「くるみ割り人形」がお気に入りの理由は、チャイコフスキーの「リズム」にあるのかもしれませんが、

ホフマンの世界と、その継承者たちの精神には、MJが「狼男」にこだわった理由や、おとぎ話の意味が詰まっているように思えました。

そんなわけで、古い本だけでなく、古い映画も観なくちゃという気持ちに、ますますなってきてます。

☆一番上の写真には「新刊」てあるけど、全然新しくないです!
◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(アマゾン)
◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(本が好き!)

◎『くるみ割り人形』アレクサンドル・デュマ、小倉重夫(訳)は、アマゾンでは現在取扱いなし。私は図書館を利用しました。

《下記は、ホフマンの生年を大雑把に把握するためのメモ》

◎ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日)
◎モーツァルト(1756年1月27日 - 1791年12月5日)
◎ベートヴェン(1770年12月16日ごろ - 1827年3月26日)
◎ノヴァーリス(1772年5月2日 - 1801年3月25日)

◎E・T・A・ホフマン(1776年1月24日 - 1822年6月25日)

◎ユゴー(1802年2月26日 - 1885年5月22日)
◎エドガー・アラン・ポー(1809年1月19日 - 1849年10月7日)
◎ワーグナー(1813年5月22日 - 1883年2月13日)
◎ドストエフスキー(1821年11月11日 - 1881年2月9日)
◎ボードレール(1821年4月9日 - 1867年8月31日)
◎ルイス・キャロル(1832年1月27日 - 1898年1月14日)
◎チャイコフスキー(1840年5月7日 - 1893年11月6日)
◎ニーチェ(1844年10月15日 - 1900年8月25日)
◎オスカー・ワイルド(1854年10月16日 - 1900年11月30日)
◎T・S・エリオット(1888年9月26日 - 1965年1月4日)


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by yomodalite | 2011-12-27 10:41 | 文学 | Trackback | Comments(6)
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☆[2]のつづき

本書の紹介を続けます(省略して紹介しています)


エルサレムの靴直し「偏見のない人」

私はイエスという男を好いていたわけではなく、また嫌っていたわけでもない。あの男の説教を聞いていたのは、その言葉よりも、その声が音楽的で美しいと思ったためだ。彼の声は耳に心地よかった。

あの男が言ったことはすべて、私にはうすぼんやりとしかわからなかった。しかし、彼の声の音楽的な響きは、はっきりと聞き取ることができた。

もしあの男が何を教えているのかを私に教えてくれる人がいなかったならば、本当にあの男がユダヤに味方しているのか敵対しているのかさえ、私にはわからなかったろう。


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ユダの母キボレア

私の息子は品行方正で善良な子だった。私には親切で優しかったし、親族や同郷の者たちにも愛情深かった。あの子は私たちの敵、紫の衣をまとう忌まわしいローマ人を憎悪していた。

息子は17歳のとき、私たちの葡萄園を踏みにじって行軍していたローマ兵士に矢を射たせいで、捕虜された。あの子は私の子、唯一の息子だ。

あの子は、今や干涸びたこの胸から乳を飲んだ。今や震える葦のようにか細くなってしまった私の手の指を握りしめながら、あの子はこの家の庭で初めて歩いた。

私はあの子が自裁して果てたと聞かされた。あの子は、友人のナザレ人イエスを裏切ったという自責に駆られて、レバノンの岩山から身投げしたという。あの子が亡くなったのを知っている。だが、あの子が誰を裏切ったわけでもないことを知っている。なぜならあの子が憎んだのは、ただローマ人だけで、ユダヤの同胞をあの子は深く愛していたからだ。

通りであの子はイエスに出会い、この家を出て、彼に従って行った。そのとき私の心は、あの子が誰かに従うのは間違っていると思っていた。あの子が別れを告げたとき、私はあの子の判断が間違っていると指摘したが、あの子はそれを聞き入れようとはしなかった。

どうか私にこれ以上、息子のことを訊ねるのはおよしください。
私はあの子を愛していたし、これからもずっと愛するだろう。

私はもうこれ以上語りたくない。ユダの母親よりはるかに尊敬されている、別の女のところに聞きに行くがよい。イエスの母親のところに行くが良い。彼女の心にもまた剣があるだろう。

彼女はあなたがたに私の話もするだろう。それで私の言いたいこともわかるだろう。


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最後に、
マグダラのマリアが、イエスの死から30年後に語ったこと。



マグダラのマリア(30年後)「霊の復活について」

いま一度私は語りましょう、死にあってイエスは死を征服したと。墓から蘇り、霊と力をもって復活したと。あの方は私たちの孤独を歩き、私たちの情熱の庭を訪れました。

あなた方があの方を信じていないのを知っています。私もかつてそうでした。信じないあなた方は大勢います。でも、その数はこれからどんどん減っていくでしょう。

言葉を見つけるために、リラや堅琴を壊さないといけないものでしょうか。
果実がなると確信するまえに、樹木を切り倒さないといけないものでしょうか。

あなた方がイエスを嫌うのは、北国出身の誰かがあの方を神の子であると言ったからです。しかし、あなた方はそれぞれが己を誇り、隣人とは兄弟になどなれないと思っているために憎み合っています。

あの方が処女から生まれ、人の種でないと言う者がいるから、あなた方はあの方を嫌います。しかし、あなた方は、墓に赴いた母たちの処女性を知らない。

自らの渇きに咽びながらも、墓地に下りて行った男たちのことも知らない。

大地が太陽と結婚していることをあなた方は知らない。その大地が私たちを山に遣わし、砂漠へと赴かせるのだということをあなた方は知らない。

あの方を愛する者たちとあの方を憎む者たちの間には、そして、あの方を信じる者たちと、あの方を信じない者たちの間には、大きな深淵が口を開けています。

しかし、やがて年月がその隔たりを埋め、あなた方は私たちとともに生きたあの方が不死であることを知るでしょう。

私たちもまた神の子であるのとちょうど同じように、あの方が神の子であることを知るでしょう。あの方が処女から生まれたのは、私たちが夫のない大地から生まれたのと同様に真実です。

不信者たちは大地から、その乳房を吸うために根を与えられず、高く飛ぶための翼を与えられず、この世界を満たす愛の滴を飲むこともできず、満たされることもない ー たいそう奇妙なことではありませんか。

しかし、私は自分が知っていることを知っています。それだけで充分なのです。


(引用終了)


なんとなくですが、私は、この本を読んでいるうちに、神を信じることが、
宗教でなくてもいいのではないかと思いました。



◎『人の子イエス』カリール・ジブラーン(アマゾン)
◎全国図書館蔵書検索サイト「カーリル」




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by yomodalite | 2011-12-25 12:09 | ☆マイケルの愛読書 | Trackback | Comments(5)
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Khalil Gibran



☆人の子イエス/カリール・ジブラーン (著)、小森健太朗 (翻訳) [1]のつづき

凡庸な伝記にありがちな「光と影」という描き方では、光が射し込む窓が、まるで1つしかないようなものが多く、凡庸なライターは、それを「二面性」と表現することにも躊躇しない。裏や表などという、そんな薄っぺらい人間などいるわけがないのに。。

でも、画家でもあるジブランは、光も影も多彩であることをよく知っていて、人が多面体であることがよくわかっている。洗礼者ヨハネ、マグダラのマリア、イエスの弟子ルカ....等々、さまざまな人物がイエスについて語っていて、

同じ人物が、人によってまったく異なるように見えていること、見る人の眼によって、見える顔は違うのだということが、カタログのようになっている点も興味深く、

また、ジブランは1883年生まれで『人の子イエス』は、1928年に出版されたものなんですが、ここで、イエスについて語っている人々は、現在とまったく変わらないようにも、私には見えました。

さまざまな人の中には、イエスを救世主として考えていない人や、批判者も多く含まれていますし、ルカやマタイといった福音書の語り手が、どう語っているかは、実際に本書で読んで頂きたい.....など色々迷った結果、下記に少しだけ紹介します。(かなり省略して引用してあります)


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Self Portrait and Muse, 1911



ナタニエル(イエスの使徒の一人)「イエスは柔和にあらず」

人々は、ナザレ人のイエスが柔和で謙虚だったと言う。人々が言うところでは、イエスは正しい義の人で弱者だったのに、しばしば力をもった強者と取り違えられているという。拘束されて衛兵たちの前に引き出されたとき、イエスは狼の群れに投げ込まれた羊にすぎなかったと人々は言う。

しかし、私は、イエスが人々に対して権威と力を持っていたと言おう。

従順で柔和な者が「我生命にして真実に到る道なり」と言うだろうか。
検挙で控えめな者が「我、父なる神の内にあり。父なる神、わが内にあり」と言うだろうか。

自らの力を自覚していない者が「我を信じざる者、この生命を信じず、永遠なる生命をも信じず」と言うだろうか。

心が貧しく思慮に乏しい者たちが、イエスのことを柔和で謙虚だと言うのを聞くたびに、私は胸がむかつき、腸が煮えくり返りそうになる。彼らは自らの弱さと貧しさをイエスに投影して、自らを正当化しようとしているにすぎない。

虐げられた者たちが、慰めを授ける仲間として、イエスを語るとき、そのイエスはまるで道ばたで日に炙られている虫けらのようだ。


そう、そのような者たちに、私は心底うんざりしている。私が認めるイエスは、強大な人であり、難攻不落の聳え立つ霊に他ならない。



イエスの信徒ダビデ「実際的なイエス」

あの方が語った説教やたとえ話の意味がわかったのは、あの方がもはやおられなくなってからでした。いやそれどころか、あの方の言葉が私の眼前で形をなし、体となって私が歩く道を歩くようになるまで、私はあの方が語ったことを理解しませんでした。

このことを私に話させてください。ある晩、私は机に向かって坐り黙考に耽りながら、あの方の言行を思い出して、それを記録に書き留めようとしていました。そのとき私の家に何人かの泥棒が侵入しました。泥棒たちが我が家の財物を盗もうとしていたのはわかっていましたが、イエスのことを夢中で考えていた私は、泥棒たちに剣をとって対峙することも「そこで何をしているのだ」と口にすることさえしませんでした。

私は泥棒の侵入に気づいてもなお、師の言動の覚書を続けました。
泥棒たちが去ったとき、私はイエスの言った言葉を思い出しました。

「あなたの上着を盗もうとする者には、別の上着をも与えてやりなさい」

そして、私は理解しました。私が師の言葉を書き綴っているとき、たとえ私の全財産を持ち去ろうとする者がいたとしても、私の筆を止めることはできなかったでしょう。

私とて、自分の身、自分の持ち物を守りたくないわけではありません。けれども、そんなものよりも貴重な宝がどこにあるのかを私は知っているのです。

(引用終了)

☆人の子イエス/カリール・ジブラーン (著)、小森健太朗 (翻訳) [3]につづく





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by yomodalite | 2011-12-24 20:03 | ☆マイケルの愛読書 | Trackback | Comments(0)
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本書は、マイケルの愛読書として知られている『預言者』の著者である、カリール・ジブランの英語で書いた著作の中では、唯一の長編で『預言者』に次ぐ、第二の代表作と言える作品。

この作品をMJが愛読していたという記事を読んだことはないのですが、ジョン・レノンは、箴言集『砂と泡』(Sand and Form)を『ジュリア』に引用し、ラジニーシは、「ジブランの著作は、真のイエスを表現することにおいて、きわめて近くまでいっている」と評価し、愛読書として9冊も挙げるなど、西洋の読書家にとって、ジブランの英語著作である7冊は必読本であること、

加えて『預言者』の著者が描いた「イエス」を、MJが読んでないわけがない。という私の判断から、本書を「MJの愛読書」と断定します。

下記は、訳者のあとがきから(省略して引用)


◎『預言者』の刊行

ジブランは、ニーチェの『ツァラトゥストラかく語りき』に出会っていたく感動し、詩的な表現の様式の理想をニーチェに見出した。書簡集でみても、この頃に知り合った女友だちには「ニーチェを読んでいないのなら、読んでから来てください。ニーチェの『ツァラトゥストラ』の話をしましょう」と書いている。


◎『人の子イエス』について

本書でのジブラーンの文体は、現代の口語文でなく、シェークスピアの時代に近い、古雅な英語で書かれている。翻訳に際し、文語調に訳すのが原著の味わいにふさわしいかもしれないが、本書では、主にイエスの語りを特化させるため文語調に訳すことで、コントラストをつけることにした。

本書は全部で79の小節からなり、イエスの同時代人による歌や証言で構成されている。ただし、この作品を「78人がそれぞれに語るイエス像」とするのは、いささか不正確で、重複する語り手を勘定すれば、語り手は72人である。

本書のイエス像は、新訳聖書の福音書を通して伝えられるイエス像と、似て非なるものがある。ジブラーンの描くイエスの教えには、苛烈な裁き手としての側面はほぼ払拭されている。本書のイエス像の特徴は「神の子」としてのイエスではなく「人の子」としてのイエスを強調する側面が大きいことである。

そのため、イエスの奇蹟などは描かれていない。「神の1人子」としてのイエスを否定し「人の子」としてイエスを肯定的に描くというのが、基本的なジブラーンのスタンスのようである。

このようなジブラーンのイエス像には、ジブラーンが傾倒していたニーチェのイエス観が反映されているだろう。たとえばニーチェは『善悪の彼岸』4章の164節で次のように述べている。

イエスは彼のユダヤ人たちに言った。「律法は奴隷のためのものであった。私が神を愛する如くに、神の子として神を愛せよ! われわれ神の子らにとって、道徳など何の関わりがあろう!」(木場深定訳)

道徳の教師として矮小化されているイエス像を、ニーチェは救い出し、道徳を超越して神を愛することを説いたイエス像を提示しようとしている。ニーチェを通してイエスは、神の1人子でなく、人みなが神の子であると宣べ、その姿勢は、ジブラーンを通した本書でのイエス像に受け継がれている。

ジブラーンの親友ナイーミによるジブラーン評伝中でも、本書のイエス像はニーチェの超人を模したものだと述べられている。

ジブラーンは種々あるイエス像がどれも気に入らないと列挙していて、キリスト教徒の描くイエスは従順な子羊のようで弱者にすぎるし、神学者の描くイエスは、あまりのジャーゴン、専門用語にイエスを閉じ込めすぎである。最近のアメリカ人作家によるイエス伝では、現代のアメリカのビジネスマンのようにイエスが描かれている。

どのようにしてイエスを描くつもりかというナイーミの問いに対して、ジブラーンは、何人もの同時代人の眼を通して語られる多面的なイエス像という構想を語った(引用終了)


マイケルへの興味から『聖書』を読んでみようと思われた方は少なくないと思いますし、私も、MJきっかけで読んでみて、ようやく、ちょっぴりわかったとか、理解が深まったという本が一杯あるので、今度こそ「よくわかる聖書」とか「面白いほどわかる聖書」とか「日本人にもわかる聖書」とか(不思議とこういった本に限って、さっぱりわからない本が多い)、そんな感じの本じゃなくて、実際の『聖書』を読んでやるぅ!という“野望”はあるんですが、

これまでの何十年間の読書経験でも、特に「新約聖書」に関しては、どーゆーわけか、旧約よりわかりにくいという印象がありました。(新約聖書を新書にした『新約聖書Ⅰ・Ⅱ』[文春文庫 解説:佐藤優]は、画期的だと思いました)

でも、

本書は、イエスのことを知りたいと思ったときに、聖書の難解なうえに「してはいけないこと」ばっかり言ってるイメージから逃れられ、尚かつニーチェの本質にも触れられるかもしれない....

そんな「お得な内容」については、

☆人の子イエス/カリール・ジブラーン (著)、小森健太朗 (翻訳) [2]につづく

☆ジブラン自身が描いたイエスの表紙も素敵。。
◎『人の子イエス』カリール・ジブラーン(アマゾン)
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[BOOKデータベース]同時代人七十数名の証言でえがくイエスの生涯。祈りの風土を知るレバノン生まれの詩人が甦らせた「地上を歩むイエス」。使徒たち、マグダラのマリア、総督ピラト、ペルシアの哲学者、ユダヤの大祭司、ナザレの隣人など、同時代人七十数名の証言のかたちで描くイエスの生涯。イエスの言葉と行いが、福音書の記述と異なっていたこともあったろう。

笑い、夢み、愛したイエス。その語りは人の心の中心を射抜いた。憎まれ、侮蔑され、十字架上で死んだイエス。彼は武装したローマ帝国と伝統を固守するユダヤ社会を前にひとり立った。「人の子」イエスは、人の飢え渇きをわが身で知っていた。本書の登場人物たちの孤独、苦痛と怖れ、悲しみ、執着、情熱と憧れは、わたしたちのものでもある。

著者ジブラーンは、初期キリスト教発展の地レバノンのマロン派の家に生まれ、渡米。ジョン・レノンにも愛唱された、米国で今も最も著名なアラブ系詩人である。読者は頁の中で、今も地上を歩む「人の子」イエスに出会うだろう。 みすず書房 (2011/5/21)




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by yomodalite | 2011-12-23 15:40 | ☆マイケルの愛読書 | Trackback(1) | Comments(0)

チャップリンのスピーチ

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このスピーチは、映画『独裁者』の最後のシーンで行われたものです。以前、歴史的に有名な映画として、これを聞いた(見た)ときは、独裁者に操られて、戦争に行くのではなく、わたしたち自身のために、立ち上がろうというメッセージを訴えたものだと思ってました。

それが間違っていたとは思っていませんが、この数年、MJのことを考えない日はないぐらいの毎日を過ごしてきたせいか、今日あらためてスクリプトを読んで、自分なりに訳してみて、なんだか全然わかっていなかったという気持ちと、やっぱり、そうだったのかなぁという気持ちも半分あって、結局のところ、すごく泣いてしまいました。

私は、チャップリンを歴史的偉人として知っている世代なのですが、この映画のチャップリンを批判したのは、戦争執行者たちや、支持者たちだけではなく、彼のファンや、映画評論家からも、決して評判がいいものとはいえなかった。

そこに至るまでの、コメディ演技の素晴らしさに対して、ラストの演説シーンはなかった方が良かったという感想は、今でもよく見られます。

そういった感想を抱く人は、この映画が公開されたとき、多くのユダヤ人が実際に収容所に送られ、ドイツ国民もその政策を支持し、日本はドイツの同盟国として、戦争に参加していたということの想像ができないのでしょうか? 

ヒトラーは、実際にこの映画を観たそうで、チャップリンは是非その感想が聞きたいと言ったという。私は、これが、心優しく人々を楽しませてきたコメディアンが行った演説だということを絶対に忘れたくないと思います。

映画の日本語字幕も、熱いスピーチに見合った素敵なものだと思いましたが、

◎独裁者(ラストの演説・DVDをコマ送りしながら、書き起こしてみた)

チャップリンの最後の映画が、マーロン・ブランドが主役で、MJの最後のSF(実質的に)にも、ブランドが登場しているという繋がりを強く感じ始めてから、チャップリンとMJの類似は、それを感じるだけでなく、ときどき突き刺さって来るような感覚を感じて......

それで、英文スクリプトから自分でも訳してみました。




I'm sorry but I don't want to be an Emperor, that's not my business. I don't want to rule or conquer anyone. I should like to help everyone if possible, Jew, gentile, black man, white.

申し訳ないが、私は皇帝になどなりたくない。そんなことはごめんだ。私は誰も支配したくないし、征服したくもない。私は、できるなら、すべての人を助けたい。ユダヤ教徒も、キリスト教徒も、黒人も、白人も。


We all want to help one another, human beings are like that. We all want to live by each other's happiness, not by each other's misery. We don't want to hate and despise one another. In this world there is room for everyone and the earth is rich and can provide for everyone.

私たちはみんな、お互いに助け合いたいと思ってる。人間とはそういうものなんだ。私たちは、お互いの不幸でなく、お互いの幸せによって暮らしたいんだ。憎み合ったり、軽蔑し合ったりなどしたくない。この世界には、だれにでも暮らせる場所がある。この大地は豊かで、誰にでも恵みを与えてくれる。


The way of life can be free and beautiful. But we have lost the way. Greed has poisoned men's souls, has barricaded the world with hate;
has goose-stepped us into misery and bloodshed.

人生は、自由で美しいはずなのに、私たちは進むべき道を見失っている。強欲によって精神は毒され、世界には憎悪の壁が築かれる。私たちは歩調を合わせ、悲惨と流血への道を行進している。


We have developed speed but we have shut ourselves in :
machinery that gives abundance has left us in want.
Our knowledge has made us cynical, our cleverness hard and unkind.

私たちは、スピードを発達させたことで、逆に閉じこもりがちになり、機械化は、私たちを豊かさにすると同時にさらに欲張りにし、私たちが得た知識は、私たちを皮肉にし、賢さは、私たちを冷たく、不親切にしている。


We think too much and feel too little :
More than machinery we need humanity ;
More than cleverness we need kindness and gentleness.

私たちは、多くを考えて、感じることが少なくなっている。機械化よりも人間性が大事で、賢くなるよりも、親切や思いやりの方が必要なんだ。


Without these qualities, life will be violent and all will be lost.

こういった本質を失ってしまったら、人生は暴力的になり、なにもかも失ってしまう。



The aeroplane and the radio have brought us closer together. The very nature of these inventions cries out for the goodness in men, cries out for universal brotherhood for the unity of us all.

飛行機やラジオは、私たちを近づける。こういった発明の本質は、人々の良心に呼びかけることだ。私たちみんなが普遍的な人類愛でひとつになろうと呼びかけるのだ。


Even now my voice is reaching millions throughout the world, millions of despairing men, women and little children, victims of a system that makes men torture and imprison innocent people. To those who can hear me I say "Do not despair".

今、私の声は世界中の何百万という人たちに届いている。絶望の淵にある男性や、女性、そして、幼い子供たち、罪のない人々を拷問にかけ、拘束するシステムの犠牲者に届いている。彼らに私は伝えたい。「希望を失ってはならない」と。


The misery that is now upon us is but the passing of greed, the bitterness of men who fear the way of human progress : the hate of men will pass and dictators die and the power they took from the people, will return to the people and so long as men die [now] liberty will never perish. . .

私たちは、今、悲惨な現実を味わっている。でも、強欲も、人間の進歩を恐れる男性の辛さも、一過性のものだ。憎しみはいずれは去り、独裁者たちは死ぬ。そして、彼らが人々から奪った力は、人々に戻るだろう。人類が絶滅しない限り、自由が絶滅することはない。


Soldiers : don't give yourselves to brutes, men who despise you and enslave you, who regiment your lives, tell you what to do, what to think and what to feel, who drill you, diet you, treat you as cattle, as cannon fodder.

兵士たちよ。あなたを軽蔑して、奴隷にするような人間に従うな。彼らは、君たちが、何をして、どう思い、何を感じるべきかまで指示し、君を、家畜のように扱って、砲弾の餌食として利用しようとしている。


Don't give yourselves to these unnatural men, machine men, with machine minds and machine hearts. You are not machines. You are not cattle. You are men. You have the love of humanity in your hearts. You don't hate, only the unloved hate. Only the unloved and the unnatural. Soldiers: don't fight for slavery, fight for liberty.

君たちは、機械でも、家畜でもない、心に愛と尊い人間性をもっている人間だ。だから憎んだりしない。愛のない者だけが憎むのだ。愛されず、不自然な者だけが。兵士たちよ!奴隷として戦うのを止めて、自由のために戦うのだ!


In the seventeenth chapter of Saint Luke it is written:
"The kingdom of God is within man"
Not one man, nor a group of men, but in all men; in you, the people.

ルカの福音書17章には「神の国は人々の中にある」と記してある。ひとりの男の中にではなく、特定の集団にでもなく、すべての人々の中に、そして、君自身の中に存在すると。

You the people have the power, the power to create machines, the power to create happiness. You the people have the power to make life free and beautiful, to make this life a wonderful adventure.

あなた方人々は、力を持っている、その力は機械を創造し、幸福も創造する。あなた方人々は、この人生を素晴らしい冒険にし、自由で美しくする力もある。


Then in the name of democracy let's use that power, let us all unite. Let us fight for a new world, a decent world that will give men a chance to work, that will give you the future and old age and security.

民主主義の名のもとに、この力を使い、団結しよう。新しい世界のために、働く機会が平等に与えられる世界のために戦おう。それは、君たちに未来を、古い世代には安全を与えるだろう。


By the promise of these things, brutes have risen to power, but they lie. They do not fulfil their promise, they never will. Dictators free themselves but they enslave the people. Now let us fight to fulfil that promise.

これらを公約をすることで、彼らは政権をもった。でも、彼らは嘘つきだ。彼らは約束を果たさない、絶対に。独裁者たちは自分自身を自由にし、人々を奴隷化する。私たちは、本当に約束のために共に戦おう。


Let us fight to free the world, to do away with national barriers, do away with greed, with hate and intolerance. Let us fight for a world of reason, a world where science and progress will lead to all men's happiness.

自由な世界のために、国境を無くし、強欲や憎しみや不寛容を追放するために、戦おう。科学や進歩がすべての人の幸せのためになる、そんな世界のために共に戦おう!


Soldiers! In the name of democracy, let us all unite!

戦士たちよ!民主主義の名のもとに、団結しよう!


(下記は恋人ハンナへのメッセージ)



Hannah, can you hear me? Wherever you are, look up, Hannah. The clouds are lifting. The sun is breaking through. We are coming out of the darkness into the light. We are coming into a new world. A kind new world where men will rise above their hate and brutality.

ハンナ、聴こえるかい? 君がどこにいたって、見てごらん!ハンナ、雲は上がり、太陽が現われる。暗闇の中に、明るい光が射し始め、新たな世界がやってくる。新たな世界は、人々が憎しみや暴力を克服して生まれるんだ。



The soul of man has been given wings, and at last he is beginning to fly. He is flying into the rainbow, into the light of hope, into the future, that glorious future that belongs to you, to me and to all of us. Look up, Hannah. Look up.

人の魂は翼を与えられている。そして、ようやく飛び立とうとし、虹の中に飛び立った。明るい希望をもつ未来の中に、輝かしい未来は、君にも私にも、私たちすべてにやって来る。上を向いて、ハンナ!


◎『独裁者』(ウィキペディア)


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写真は、晩年期のチャップリン


ヒストリー・ティーザーは、この『独裁者』の演説を発展させたものだと思います。

◎[関連記事]マイケル・ジャクソンの顔について(14) “HIStory”

チャップリンも、MJも「正義」のためには戦わない。

正義は、善と悪を分けようとし、善人と悪人を作り出す。だから、必ず「憎しみ」が生まれるし、その感情に囚われてしまう。そして、それを「独裁者」は支持する。独裁者がいても、殺人を実行する多くの人々がいなければ、戦争を起こすことはできないから。

罪のない人が拘束され、裁判は「無罪」を勝ち取らなくてはいけないという「システム」によって、善と悪が決定される。だから、MJは、いつも裁判のときにおどけていたのだ。

やっぱり、忘れてはいけないのは、あのときのMJの「スマイル」だと思う。






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by yomodalite | 2011-12-20 23:50 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(5)

Michael's Horror Story

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2002年の「Gold」誌インタヴューでも語っていたように、これから製作しようとしていた映画でも、MJは「ホラー」を考えていましたが、そんなMJの「ホラー好き」に関して、興味深い記事をメモしておきたいと思います。

下記は、2006年ごろにMJが書いた「ホラーストーリーのメモ」らしく、見つかっているのは一部分のようですが、不完全でありながらも興味深い点が多々合って、

これは、プリンスとパリスを主人公にした「お話」(子供たちに語るためか、または、演じさせるため?)なのですが、MJは、彼らもすごく怖がらせようとしていたり、また、彼らに語られるための「お話」にしては、とても視覚的で、ストーリーを書いていると言うよりは、想像した影像をメモしているように、私は感じました。

内容が飛んでいるせいもあって(言い訳?)、この「彼」が、どの「彼」なのかよくわからないというレベルで、あやうい箇所がいっぱいあり(汗)、

いつも以上にヤバい訳になっていると思いますので、色々とご指摘いただけると、すごく嬉しいです!

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私が一応訳してみたのは、下記の英文サイトのテキストから。両方とも同文だと思いますが、手書きメモと同じ(?)というよりは、内容をまとめた文章なんでしょうか?(credits : michaelious and mjjphotos この件に関してもご指摘をお待ちしています)

◎MJ'S HANDWRITTEN HORROR
◎A Horror Story Written By Michael

☆また、こちらのとてもとても素敵なブログでは、手書きのメモの方から、一部を訳してくださっているようで、大変参考になります!!!

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(引用開始)

Michael Jackson wrote this story titled "Kids on Swings". It was penned by Michael Jackson when he visited the UK in 2006.

「キッズ・オン・スウィング」というタイトルの物語は、マイケル・ジャクソンが、2006年に英国を訪れた時、書かれました。

It was written in black and blue pens on the back of letters and pictures of an Irish Georgian Castle...

それは、アイルランドのジョージ王朝時代の城が描かれた便箋の裏に、黒色と青色のペンで書かれました。

Written as play, it tells how Paris and Prince are playing on swings until the boy becomes disinterested and runs off.

それは、プリンスとパリスへのお話の脚本として、少年が元気に遊べるようになるまでを無関心ではいられないように書かれています。

(MJのメモはここから)

"A pack of wild dogs then chase the two as Paris screams for her Dad."

「野犬のパックが2人を追い、パリスは、パパを求めて叫びを挙げる」

The two kids spot a man working in a field with a sling blade."We see him working but we can't see his face."

2人の子供(プリンスとパリス?)は、そこで男が「スリング・ブレイド」(註1) を使うのを目撃します。「私たちは彼がナイフを使うのを見たわ。でも彼の顔を見ることは出来なかったの」

The character of Prince tells his sister "He murdered his wife and no one ever sees his kids cause he keeps them tied to the bed like his wife, before he murdered her. He starves them first then he murdered them, Paris."

プリンスの役は、妹のパリスに「彼は妻を殺した。それから誰も彼の子どもを見ていない、妻は殺される前にベッドに結び付けられていた。彼は、妻やこどもを、まず飢えさせてから殺したんだ」と伝えます。

His terrified sister admits to being scared before asking how he killed them. "He did it with a sling blade Paris."

パリスは、彼がどのように妻や子どもたちを殺したかを尋ねる前に脅えていました。「彼は、あの持っていたスリング・ブレイドでやったんだ。パリス」

In the next scene Prince and Paris are in bed - too frightened to sleep. A twisted passage then describes how the monster got a facial scar.

次のシーンでは、プリンスもパリスも、ベッドで眠ることができませんでした。紆余曲折をえて、その怪物(スリング・ブレイドで妻を殺害したと思われている男?)がどのように顔に傷を負ったのかが語られる。

"He starved a man for 2 weeks," it reads. "Just before killing him they had a fight. The guy he was trying to kill grabbed the knife to attack him. And he cut him over the eyes.

「彼は2週間人を飢えさせた」「殺す前に、彼らは殴り会った。彼(the monster?)を殺そうとしていた男は、彼を攻撃するためにナイフをつかみ、彼の目の上を切りつけた。

"He then got scared and ran into what they call the endless BLACK FOREST...he was never found again. Because they say there is no way out of the endless Black Forest."

「その後、彼(the monster?)は脅えながらも、人々が果てしない「黒い森」(註2)と呼ぶものに逃げ込み、2度と発見されることはなかった。果てのない「黒い森」には、出口がないと人は言う。

The two youngsters venture into the 'Black Forest' to visit the 'crazy man.'

2人(プリンスとパリス)は、その「狂気の男」(the monster?)を訪ねるために「黒い森」に乗り出します。

Shaking with fear, the children peer through the window of his cottage before a spine-tingling scene in which he creeps up behind them.

コテージの窓には、恐れ震えている子供たちの背後に、男が後ろから忍び込もうとするぞっとするような場面

He stabs them as they try to escape his clutches and Prince has an asthma attack and stops breathing.

彼は、彼の子供たちが逃げられないように強くつかんで、突き刺しました。ブリンスは(それを見て)喘息の発作を起こし、呼吸が出来なくなります。

The monster then hunts them down in the forest before Prince apparently dies with his sister's head on his 'lifeless chest.'

怪物は、森の中でプリンスとパリスを追いつめ、プリンスは死んだように見え、彼の「生命が途絶えた胸」の上には、パリスの頭があった。

In the final twist, the man carries Prince back to the cottage and holds hands with Paris. She is described as feeling 'safe and loved by him.'

最終場面、男は、パリスの手を握り、プリンスを抱えてコテージに運びます。パリスは、彼は安全で、大切にしてくれたと評する。

The man carries Prince to his bed and puts the cover over the sick boy before sitting in a chair and watching him.

男は、プリンスを彼のベッドに運び、具合の悪い少年に布団をかけ、椅子に座り見守る。

When her brother finally awakes from his coma, Paris calms the traumatized boy as she tells him the man "won't hurt you".

彼女の兄が昏睡から目覚めた時、衝撃を受けたプリンスに、パリスは「あの男はあなたを傷つけることはないわ」と鎮めます。

Closing lines read : "He pulls the Toys from his jacket. What was broken is now mended, Fixed Paris.

再終行、「彼は、上着からおもちゃを取出した。壊れていたものは今は修理されている。パリスが直した(パリスによる締めの言葉という意味?)。

He didn't steal our toys Prince he fixed them. KIDS are happy to see their fixed toys again.

彼は、僕たちのおもちゃを盗まないで、それらを直してくれたとプリンスは言う。子供たちは、元に戻ったおもちゃを見て幸せそうです。

"Man gets up, walks to the door right before he exits Prince says thank you they exchange smiles and we see him."

男がドアの方に歩いて出て行く前に、プリンスは彼と微笑みを交換し、彼に会えたことを感謝しますと言いました。
___________

註1「sling blade」は、カイザーナイフとも言われるナイフのことだと思われますが、このストーリーの全体を通して、MJの好きな映画『スリング・ブレイド』の影響が感じられる。

註2「BLACK FOREST」は、ヘルマン・ヘッセの生地として知られる、ドイツ語で「黒い森」を意味するシュヴァルツヴァルト(Schwarzwald)を指しているか、イメージしていると思う。

◎ヘルマン・ヘッセ格言集
___________

わたしは、

最初に見たスリングブレイドの男と、プリンスが妻を殺したと思った男、顔に傷がある“the monster”と、パリスが"won't hurt you"と言った男は同一人物で、上記の男を殺しに来た「男」(the monsterに顔に傷を負わせた)は別にいて、最初に殺人を冒したと思った「男」は、“the monster”ではなかった。

という構成になっているのかなぁと思ったのですが....みなさんは、どう思われましたか?


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by yomodalite | 2011-12-17 23:24 | マイケルジャクソン資料 | Trackback | Comments(9)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

ジョゼフ コンラッド/光文社



藤永氏の『闇の奥』は、以前に読んだ中野訳に比べると、とても読みやすく解説もわかりやすかったのですが、そこから更に、同氏の 「『闇の奥』の奥―コンラッドー植民地主義ーアフリカの重荷」を読んだことで、氏の解読に惹き込まれすぎたのでは?と思う点もあり、また、わたしにとって『闇の奥』は、映画『地獄の黙示録』の原作という意識が強過ぎるので、

『闇の奥』に関して、もう一度頭を冷やす意味でも、他の翻訳本にも興味がわいて来て、一番新しい訳書である、黒原敏行訳の『闇の奥』にも目を通してみました。

下記は、解説(武田ちあき・埼玉大準教授)より、要約引用。

英語文学の古典とされていても、なんだか難しそうと一般読者はひいてしまいがちだった『闇の奥』に、原文の緩急自在な語りの生気と勢いをのせた新訳が誕生した。落語そっくりとよくいわれるディケンズのノリのいい語りに、幼少から親しんでいたコンラッド(語り手であるマーロウは、その名からしてもディケンズを意識している)は、

その重厚ながら軽快な、自分で自分にボケやツッコミを入れたり、聴き手に話しをふったりしながら、ぐいぐい読者を引込む芸達者な語り口を、本書は日本語でたっぷりと読ませてくれる。

「人類の文明の歴史への深遠なる洞察」「帝国主義による植民地経営の残虐非道極まる実態への先鋭な告発」「人間性の深奥に潜む悪・道徳的腐敗の発見」ー

この小説はいままでずっと、こうした重量級のフレーズで評されて来た。しかし、その中心に描かれた苛烈なアフリカの現実は「何でも見てやろう」と勢い込み「若さとバカさの挑戦」に浮き立つ青二才だったマーロウ(著者コンラッドが投影されている)のうぶな目だからこそ、のけぞるばかりに圧倒的な闇の深さがいっそうの迫力で映るのだ。

コンラッド好きには、中野好夫、岩清水由美子、藤永茂のそれぞれ渾身の訳業と読みくらべるのも愉しい。だがなによりも、今の若い人、とりわけ社会の矛盾や将来の不安にへこみながらも、なんとか希望をみつけだし、自分らしい人生を歩んでいこうとする世代、いままさに冒険に出かけようとする現代の若きマーロウたちにこそ、本書をめくって欲しい。(引用終了)


ホントにもう「ノリのいい語りに、幼少から親しんでいた」とか「自分で自分にボケやツッコミを入れたり、」とか「若さとバカさの挑戦」とか、、、

マジですかーーー!これまでの2冊からは、そんな気配は、微塵も感じたことなかったんですけど...... (これだから、翻訳本はむつかしい。。武田氏の解説はここから先もとても興味深い内容なので、是非、本書でお読みくださいませ)

ただ、実際に読んでみた感じでは、残念ながら、そこまで言うほどの若々しい訳ではなくて、難しい漢字の量や、文語的な表現も、そんなに変わらないかなぁ。

下記は、訳者のあとがきから(省略引用)

コンラッドの『闇の奥』は、ただならぬ魔力で人を惹き寄せる小説だが、原文も翻訳も読みにくい、というのが世の共通理解だと思う。原文が読みにくいのなら、翻訳が読みにくくても仕方がない。いや、むしろ読みにくくなれればならない。そんなふうにもいえそうだ。しかし本当にこれはそんなに難解な小説なのだろうか。

これはごく少数の人間にだけわかってもらえればいい前衛的な実験小説として書かれたわけではないだろう。

密林の奥で進行する奇怪な事件を語る伝奇的な冒険小説であり、ぞくぞくしながらページを捲る手ももどかしく読んでもらおうとした物語のはずだ。途中で行き悩んで放り出してしまう難読書になるのはおかしいのではないか。(中略)

ということで、まず行ったのは、語学的解釈の不備をできるだけなくす努力だ。

たとえば、3つの既訳には、「クルツはドイツ語で、“短い”という意味だが、その名前は彼の人生のほかのすべてのことと同様に真実を語っていた」という論旨の訳文がある。これを私は、「真実を語っていなかった」と逆にした。

原文は、the name was as true as everything else in his life もちろん普通は「〜と同様に真実だった」でいいが、その直後に He looked at least seven feet long. (身長が少なくとも2メートル10センチあるように見えた)とある。つまり「短い」という名前は真実を語っていないのだ。こういう場合は否定的に訳さなければ論理が通らない。たとえば、a monkey as big as a mouse は「鼠と同じぐらい大きな猿」ではなく「鼠ぐらいの大きさしかない猿」なのである。

もうひとつ例をあげてみる。瀕死の黒人たちが大勢横たわっている暗い林の中で、河の早瀬の音が響いている。その音を、マーロウは、as though the tearing pace of the launched earth had suddenly become audible と表現している。それぞれの訳は次の通りである。

まるで動き出した大地の激しい足音が、にわかに聞こえだしたかのそうな(中野訳)

まるで動き出した地球の激烈な足音が、突然聞こえたかのようにね。(岩清水訳)

あたかも、猛烈な勢いで動き出した大地の足音が突然聞こえだしたかのような(藤永訳)

まるで地球がすさまじい速度で宇宙の中を飛ぶ音が、不意に聞こえ始めたかのようだった。(本書43P)

既訳はいずれも大地ないし地球の足音と解釈しているが、しかし大地や地球がどこを歩いて音を立てるのか、イメージが浮かばない。それにこの早瀬の音は、uninterrupted(途切れることのない)と形容されている。ザッーという連続音なのだ。足音なら、ズシン、ズシンという断続音だろう。

launched earth の launch は「投げる」「放つ」「発射する」という意味。つまり地球が投げ出され、あるいは発射されて、飛んでいるイメージだ。もちろん宇宙空間には空気がないので、公転する地球がザッーと音を立てるはずはないが、そういう音が突然聴こえだしたかのようだ、と言っているのだ。

突飛な解釈と思われるかもしれないが、じつはコンラッドは天体の運動のイメージをよく使う。『闇の奥』にも、「動いているとはわからないほどゆっくりと曲線を描いて降りてきた太陽が、ようやく空の低い所まで来て」とか.....もっと重要な例は『闇の奥』の姉妹編ともいうべき『ロードジム』(これもマーロウが語る物語だ)に見られる。(中略)

さて、個々の訳語でまっさきに注目されるのは、有名な「The horror!The horror!」というクルツの囁きかもしれないが、これはそれほど悩むこともなく「恐ろしい!恐ろしい!」というごく普通の選択肢をとった。藤永氏が訳註で説明しているとおり、日本語の「地獄」は幅広いニュアンスを持っているので勇み足になっているわけではないと思う。

それよりも、最後まで悩んだのは、何と言ってもwilderness(ウィルダネス)の訳語だ。結論からいうと、本書では基本的に「魔境」という古めかしくもおどろおどろしい訳語をあてることにし、その一部は、原語は wilderness の一語であるけれども、「魔境ともいうべき原始の自然」とか「緑の魔境」という説明つきの言葉にした。

しかし、どういう訳語をあてるにせよ、若干の解説が必要だろう。wilderness とは人間の手が入っていない自然の土地を指し、英和辞典には「荒野」「荒れ野」「荒地」「未開の地」「無人の地」「原始の自然」などの訳語が載っている。ただ『闇の奥』は植物が氾濫する密林が主体なので「荒野」「荒れ野」「荒地」は合わない。

一方、「未開の地」「無人の地」「原始の自然」はクルツを狂わせ、マーロウに深い恐怖を覚えさせる魔性に欠ける。人が住まない所ということでは「人外境」という言葉もあり、これと「魔境」を合わせた「人外魔境」という言葉もある。後者は小栗虫太郎の伝奇冒険小説「人外魔境シリーズ」の第1作がコンゴを舞台にしていることから捨てがたいのだが、語感があまりにも伝奇小説的すぎるので採らなかった。

ついでにいうと、漱石の『草枕』にいう「人でなしの国」は『闇の奥』の wilderness を実感するのに多少役立つかもしれない。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう(夏目漱石『草枕』)

どういう国なのかよくわからないが、とにかく人間的な価値尺度が通用しないのだろう。魑魅魍魎が棲んでいそうな恐ろしげなイメージがある。マーロウは「ただの人が作った人の世が住みにくい」と感じる漂泊の冒険家だが、その彼にも「人でなしの国は人の世よりもなお住みにく」いと骨身に染みたというのが『闇の奥』の話だといえなくもない。

もう1つ、聖書で wilderness といえば、パブテスマのヨハネが人々に悔い改めよと呼ばわる「荒野」(あらの)であり、人の世に汚されていない場所というイメージも持っている「原始の自然」と捉えた場所の wilderness にも無垢のイメージがあり、憧憬の対象にもなるわけだ。(中略)

14歳で日本中を震撼させたあの事件を起こした少年は、「俺は真っすぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」と作文に書いた。あれはダンテの『神曲・地獄篇』から取ったものだが、少年の「暗い森」は『闇の奥』の密林とも地続きだったかもしれない。『神曲』の英訳の中には「暗い森」を dark wilderness と訳しているものもあるのだ。(中略)

この普遍性から、ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』、コッポラ監督の『地獄の黙示録』、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』、村上春樹『羊をめぐる冒険』に『闇の奥』の影響があることはつとに指摘されているが、最新作の『IQ84』にもクルツとの対面に似た場面が出てきた。伊藤計劃の『虐殺器官』は『地獄の黙示録』経由のSF版『闇の奥』である。(中略)

コンゴでの植民地支配という時代背景に押し込めれば、クルツはすでに、幽霊の正体見たり枯れすすきだろう。しかし『闇の奥』が意図的に曖昧化し普遍化した闇に目を凝らすなら、21世紀の世界でも、クルツの幽霊はまだまだ色々な所にに現われるに違いない。(引用終了)


以前に挫折経験のある『闇の奥』を、もう一度読んでみようと思ったのは、マーロン・ブランドが『地獄の黙示録』のカーツ役を、どのように創造したかに興味があったことが大きく、映画でのカーツ大佐のシーンが、原作にはない部分が大半ということを知り、実際の原作を確認したかったからというのが、最大の理由でした。

この理由は『闇の奥』を小説として味わうことにおいて、不純な動機だったかもしれないのですが、何かしら、強い思いがなければ、この作品を最後まで読んで味わうのは困難なことも確かで、2冊の翻訳本を読んで、あらためて思うのは、やっぱり、この作品は「とてももやもやとした作品」だということです。

黒原氏が、藤永本の小説終了後の解釈にある、帝国主義や植民地支配への批判から、『闇の奥』のコンラッドの植民地支配の描き方をも批判するのはどうかということも一理はあるのですが、この作品に対して「すでに正体見たり」とするのも、やはり「あとがき」の中でのことで、

本文中は、どちらも「もやもやとしている」ことには変わりはなく、黒原氏が言われるように「密林の奥で進行する奇怪な事件を語る伝奇的な冒険小説」として読むことにもストレスを感じる人は多そう。

文庫のお手軽さは魅力的なものの、手軽に読み終わったところで「もやもやした感じが一向に解決しない」ことを考えれば、藤永訳の豊富な注釈とともに、険しい密林を分け入るように、読みすすんでいく方が、読み終わった後の充実感が感じられる可能性が高く、1冊だけ読むとしたら、冒頭に解説があり、また読了後の「もやもや」に関して「アフターフォロー」がある、藤永本がもっとも満足度が高いと思われますが、

いずれにしても、1回読んだから...という作品ではないので、両方読むのがベターだと思いました。

◎[参考サイト]うただひかるまだがすかる(4人の訳の比較があります)

☆こちらのレヴューは、3者の訳本すべてに共通なのでご注意ください。
◎『闇の奥』黒原敏行訳(アマゾン)


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by yomodalite | 2011-12-17 23:17 | 文学 | Trackback | Comments(0)

オバマ・ショック (集英社新書)

越智道雄、町山智浩



最近よく思うんですが、毎日のニュースから近未来のことが予測出来ないのは、それが、同時に、近過去のことを忘れさせる効果があるからだと思うんです。

私は数年前から「ニュースは寝かせて読め」をモットーにしてますw といっても、新聞を取っておくという意味ではなく新聞はすぐに捨てます!行政指導により一週間に一度しか捨てられませんが、出来るなら毎日捨てたいと思っていて、読んでもいないのですがw。

本書は2009年の新書。ちょうどイイ感じの漬かり具合が予想され、著者は2人とも「アメリカ通」ですし、過去において、町山本がハズレたことは一度もないので、すっごく期待して読みました!

下記は、町山氏による前書きから。

「Finally!」(やっとだよ!) ー 2008年11月、カリフォルニアの夜9時の「オバマが勝った」というニュースへの興奮、勝利演説の前に流された、同年3月のフィラデルフィア国立憲法センターでの演説。

私の兄弟は、姉妹は、姪や甥や、おじやいとこは、あらゆる人種、あらゆる肌の色で、3つの大陸に住んでいます。そして、私は、生きている限り決して忘れません。
私の物語が可能な国は、この世界でアメリカだけだということを。(オバマ演説より)


「私の物語」とは「私のような出自の者がその国の国家元首になること」という意味だ。この演説を聞いたとき、僕がアメリカに来た理由がひさびさに蘇ってきた。僕は自分が何人なのか分からないまま、大人になった。母は日本人で、父は韓国人だったが、韓国の言葉も文化も歴史も何一つ、子供に教えなかった。韓国について話すことすらなかった。

中学の頃に父母は離婚し、それ以降、父にはずっと会わなかった。にもかかわらず国籍は韓国で、名前も韓国名だったので、周囲からは韓国人として扱われた。18歳になったときに日本に帰化したが、父が外国人だと語ると、周囲はやはり僕を外国人として見た。

父は韓国のことを何一つ教えない代わりに、ハリウッド映画を見せ続けた。アフリカ系、イタリア系、アイルランド系、ユダヤ系、中国系、日系、ありとあらゆる「系」がいて、それぞれの国の苗字を持ちながら、みんな等しくアメリカ人として、刑事をしたり、ギャングをやったり、ラブロマンスを演じていた。そこには自分の居場所があるように感じた「日系日本人」以外登場しない日本のテレビや映画よりも。

10年ほど前、ついに僕はアメリカに渡った。妻はアメリカの会社に就職し、子供が生まれ、家を買い、イタリアやドイツやイランやクウェートやガーナやトルコやマーシャル諸島やインドや中国や韓国やモンゴルやグァテマラやメキシコから来た人々と近所付き合いしながら、ようやく自分の居場所が見つかったように感じた。

ところが、9.11テロ以降、アメリカはどんどん壊れていった。合衆国はブッシュを支持する田舎とブッシュに反対する都市部との2つに分かれて対立し、世界一の大国の威信は地に落ち、努力すれば豊かになれるはずのアメリカン・ドリームは住宅&金融バブルとともに粉々に砕け散った。

新しい大統領オバマは、バラバラになったアメリカを再び統合し、壊れたシステムを変革し、希望を取り戻せるのか?

自分では手がかりさえつかめないこの問いに答えて頂けるのは、越智先生の他にはいないと思った。先生はやはり、この歴史的な政権交代を、細かい政策論議をはるかに超えた人類的視点に立って俯瞰していらっしゃった。この1冊は、これからの世界を展望する大いなる助けになるはずだ。(ここまで省略して引用しましたが、町山氏の前書きは下記で全文読めます)

◎オバマ・ショック(集英社新書)

オバマ大統領の誕生から、数ヶ月で出版されたタイムリーな本にも関わらず、語り手、書き手、編集者としても一流である町山氏が、その知識だけでなく、経験も通してアメリカを語るだけでなく、稀有な研究者である越智氏の引出しを開けまくり、高レベルの対談がまとめられています。

第1章 オバマがチェンジ(変革)するもの—レーガン連合の28年
第2章 失われた八年—ブッシュとは何だったのか
第3章 アメリカン・ドリームという博打—サブプライムと投機国家
第4章 覇権国家の黄昏—衰える軍事、経済、文化のヘゲモニー
第5章 異端児か、救世主か—オバマが選ばれた理由
終 章 彼の「強運」は世界の味方なのか—オバマの未来、アメリカの未来


◎mm(ミリメートル)
◎杜父魚文庫ブログ

☆下記は、上記ブログに書かれている以外で、極私的にメモしておきたかったこと

(第4章「覇権国家の黄昏」スクリーンの彼方のアメリカから)

町山:父は強烈な「アメリカかぶれ」でした。そうなったのはアメリカ映画のせいだそうです。まだ10代の頃にハワード・ホークス監督の『暗黒街の顔役』を見ておかしくなっちゃったと。

越智:スカーフェイスですね。ジョージ・ラフトがギャングをやる。

町山:イタリア移民のギャングが貧乏からのし上がっていく物語です。まぁ、裏のアメリカン・ドリームですね。これを見て父は「アメリカはすごい」と思ったそうです。それからはもうアメリカ一辺倒で、戦後は進駐軍にくっついて英語を勉強しながら、ヤミ物資の横流しをして儲けました。

町山:西部劇とギャング映画が好きでしたねぇ。たとえば『俺たちに明日はない』とか。主人公が警官隊にマシンガンで撃たれて蜂の巣になって死んでいくギャング映画ですよ!それと、自分が見てきた映画の話もよくしていました。「今日、父さんは『ソルジャー・ブルー』という映画を見てきた。騎兵隊がインディアンを虐殺するんだ。手がこんなふうにバーンを斬られて....」とか身振り手振りで延々と語る。どうかしてますよ。おかげで、こっちはトラウマです。

越智:子どもが分かる、分からないは抜きなんだよね。親っていうのは、若ければ若いほど、子どもを自分の自我の延長として見てしまうから。

町山:それにしたって、子どもに『ソルジャー・ブルー』はどうかと思いますけど(笑)『ダラスの熱い日』も見せられました。ケネディ暗殺はCIAと軍産複合体の陰謀だという話ですが、小学校5年生にそんなものを見せても分かるわけがない(笑)。

越智:でも、そういう幼児体験が、いまの町山さんのお仕事に結びついているんだから。

町山:渡米してから、2年ほどコロラドのボルダーに住んでたんですが、そこにサンドクリークの大虐殺の慰霊碑が建っていました。なんと『ソルジャー・ブルー』の史実の現場だったんですよ「あっ、ここでつながってくるのか」と思いました。父は2006年に亡くなりましたけど、最後に見舞いにいった行ったら「お前はモニュメントバレーに行ったか」と聞くんです。行ったよ、と返すと「そうか、俺はあそこに立って写真を撮りたいんだ。映画みたいだろう」って。

越智:お父さんは行ったことがなかったんだ。

町山:実は一生で一度もアメリカには行ってないんですよ。死ぬまで、バーチャルなアメリカを生き続けた人でした。

◎『ソルジャー・ブルー』goo映画

ーーーーーーーー

越智:ローマ帝国が衰退し、四分五裂していったときに、どうやって生き延びたかと言うと、結局、芸術・文化で生き延びたわけです。その遺産を発展させたルネッサンスで磨かれたイタリアという文化的価値を周りに評価してもらうことによって、しのいできたんですね。アテナイが生き延びた背景も、ほぼ同様です。政治力や経済力は、衰えると廃墟しか残らない。しかし、廃墟には文化が残る。つまり、文化の方がうんと寿命が長い。ならば、文化を残してやれば、覇権が失われても子孫はそれで食っていける。じゃあ、これから落ちぶれていくアメリカが、アテナイやルネッサンス・イタリアのような生き延び方ができるかどうか。

町山:できないと思っていらっしゃる?

越智:と思うんですが、どうですか。果たして、アメリカのポップカルチャーが古典化できるのかどうか。

町山:ギリシャにはアリストテレスのイデア思想があって、それがルネッサンスでヒューマニズムとして蘇ってくる。アメリカのカルチャーにも同じ部分があるんじゃないですか

越智:たしかに、一種の理想主義、イデアはありますね。

町山:いわゆる「アメリカン・ドリーム」という理想主義。とくに、ハリウッド映画とポップ・ミュージックには、それが濃厚にあります。Love Conquers All(愛はすべてに打ち勝つ)とよく表現されます。恋人同士が境遇と戦って結ばれてハッピーエンド。Love Conquers Allという言葉はもともと古代ローマの詩人ウェルギリウス(バージル)の『牧歌』の一節だそうですから、まさにローマン主義、ロマンチックですよ。


◎ウェルギリウス『牧歌』

越智:それが、どのように古典化されるのか。文化というのは、最初はどんなものでも新しい形として出てくるんだけれども、古典化されたものには、初めから、時代を超えて生き延びられる要素がすでにデザインの中に入っていたと思いませんか。それはおそらく、芸術と永遠とをつなげたいという衝動があって、その衝動がタイムレスな要素をデザインの中に呼び込んだのではないか。じゃあ、アメリカのポップカルチャーの中に、永遠性を志向するという側面はどのくらい入っているんだろうか。

町山:『スターウォーズ』に限って言えば、ルーカスにとって、ダースヴェイダーというのは父親なんですね。ルーカスの実際の父親は田舎町で文具店を経営していたんですが、共和党員で厳格なキリスト教徒で、ものすごくシビアで暗い運命観を持った人だったそうです。世の中には運命というものがあって、そこからは逃げられないんだ、という....

越智:予定説的なプロテスタンティズムですね。

町山:だから、ダースヴェイダーは主人公ルークに言うんです。「私はお前の父親だ。私の味方につけ。これは運命だ」と。ところがルーカスはそれに反発して.....「どこにいちばん感動した?」ってアメリカ人に聞くと、たいていは1作目で百姓をしていたルークが地平線に沈みゆく二重太陽を眺める場面なんです。「このまま自分は田舎で働いて死んでいくのか」と絶望的な気持ちで、一生行けないかもしれない宇宙を見つめる。

町山:運命を超えていく物語と考えると、アメリカという国の成立ちに思い当たるんですね。アメリカは国が始まった段階ではプロテスタンティズムが厳しくて、予定説で、将来への希望といったものはほとんど考えられないような社会だったでしょう。

越智:そう、あの時代の墓石にはフード付きのマント姿に大鎌を持った髑髏や、翼が生えた髑髏などが描かれています。それが霊魂。ボストンあたりへ行くと、古い墓はみんなそれです。

町山:でも、アメリカを最初につくったのは、そういう暗い世界観を持った人たちなんですね。神というものが頭の上にどんと乗っていて、身動きがとれない。ところが、新大陸に住んでから、まったく違う明るい思想が出てきた。マニフェスト・ディステニーとか、フロンティア・スピリットとかアメリカン・ドリームとか、信じていればうまくいく。愛は勝つという予定説の楽観的解釈みたいなものが。厳格で暗い運命論者の先行世代にあとの世代が理想主義で反発した歴史が『スターウォーズ』などのハリウッド映画で反復されていると思うんです。

越智:ハリウッドというのは、政府の助成金にまったく頼らないで、ロシア・ユダヤ(東欧系ユダヤ人)たちが自己資金で始めて、自分たちの金を動かしてやってきたわけです。そのためには世界中、どこに持っていっても面白がってもらえるような内容にしなければならない。ヨーロッパのように助成金で映画をつくっている国は「これが我が国の文化です」というものを平気で出してくる。じゃあ、アメリカが覇権国でなくなって「これがアメリカなんだ」という作品を発信して商品価値を持ちうるんだろうか。

町山:ハリウッドは生まれたときからずっとグローバルでした。サイレント時代にドイツで『カリガリ博士』や『ノスフェラトゥ』がつくられると、すぐにその監督やらスタッフを引き抜いちゃう。ハリウッドはもともとユダヤ系がつくったので、ユダヤ系を中心に世界中のアーティストの亡命先みたいなことになってました。

ハリウッドは、アメリカにとって異端の集団で、保守派とずっと対立していますが、世界が考えるアメリカの良いイメージ、理想というのは、ほとんどハリウッド映画がつくったものですよね。世界で差別や圧政に苦しむ人々は少なからず、その映画をまぶしく見上げていたと思います。(引用終了)

越智氏の本をもっと活発に出版して欲しいと思うような内容でしたが、この後、あまりそうなっていないように思われるのが残念です。

◎『オバマ・ショック』(アマゾン)
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[内容紹介]彼の演説に、なぜ白人も涙したのか。ベストセラー「アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない」の著者が、師と仰ぐアメリカ研究者と白熱の対論!

史上初の黒人米国大統領に就任したバラク・オバマ。疲弊する大国は、なぜいま、彼を選んだのか? 覇権国家の衰退を歴史軸で考察する研究者(越智)と、合衆国を駆け巡るフィールドワーカー(町山)が、岐路に立つアメリカの過去・現在・未来を縦横無尽に語り合う。サブプライムローンの 現場 やハリウッド空洞化の実情など、アメリカが陥った病の症例を容赦なく暴き出し、多様な人種がオバマを「支持」した理由を明らかにする!

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by yomodalite | 2011-12-16 17:00 | 歴史・文化:美術 | Trackback | Comments(18)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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