カテゴリ:報道・ノンフィクション( 78 )

芸能人はなぜ干されるのか?/星野陽平

増補新版 芸能人はなぜ干されるのか

星野 陽平/鹿砦社



そろそろ、ヤクザ本を読まなくちゃ、ということで選んだ本。最近の新書のような軽い内容を想像していたのですが、ちょっぴり大きめサイズの本を開けてみると、著者の熱が直に伝わってくるようなずっしりとした二段組みで、いくつかの章は最近の新書なら、それだけで1冊になるぐらいの内容でぐいぐい読ませるのですが、読了後はぐったり疲れてしまうという感じの力作。


でも、ぐったり疲れてしまうのは、芸能界の闇が深いというよりは、国民の奴隷化が日に日に進んでいる時代に、芸能界だけを特殊化しているような記述になのかもしれません。芸能界の常識は社会の非常識だった時代は終わり、今や、それは日本社会の縮図になっているんじゃないでしょうか。


芸能プロダクションの経営者が集まって作った《音事協》の初代会長は、中曽根康弘でしたが、小泉純一郎が行った派遣事業の改正は、労働者全体を奴隷契約にしました。恫喝で動いていたり干されたりするのは、芸能人だけではないですよね。


プロローグ 北野誠事件

第1章 干された芸能人

第2章 「芸能プロダクション」とは何か?

第3章 抵抗の歴史

第4章 「ナベプロ帝国」の落日

第5章 ジャニー喜多川の少年所有欲求

第6章 「免許のないテレビ局」吉本興業

第7章 バーニングプロダクションと暴力

第8章 韓国、ハリウッド、声優業界

第9章 芸能と差別

付録 カリフォルニア州労働法・タレント斡旋業規制条項


第1章に登場した名前は、鈴木亜美、セイン・カミュ、ボビー・オロゴン、(元AKB48で卒業後AV女優になった)やまぐちりこ、加護あい、水野美紀、松方弘樹、川村ゆきえ、眞鍋かおり、小林幸子、(ユニット羞恥心の)野久保直樹、水嶋ヒロ、沢尻エリカ・・・


第2章では、「ナベプロ帝国」とまで言われた巨大芸能事務所を最初に創り上げた「渡辺プロダクション」の戦略と存亡、バーニングの躍進とレコード大賞の裏側など盛りだくさんな内容で、登場したのは、大原みどり、森進一、ピンクレディー、竹中労、泉ピン子、浜崎あゆみ、五木ほろし、八代亜紀、中森明菜、近藤真彦など・・


ナベプロは、自社タレントのレコーディングの際に、作曲、編曲をおこなって原盤にかかる費用を負担することで《原盤権》を保有し、それまで利益のほとんどがレコード会社に入る仕組みを変え、レコード会社と芸能事務所の立場が逆転した。71年に著作権法が改正されると、レコードを使用したり、演奏した際にも《音楽著作権》が認められるようになり、さらに利益が拡大する。またその利益によって、他の事務所タレントの《音楽著作権》をも取得するようになり、ますます勢力が拡大していった。


当時の職業安定法32条第3項には、


「有料で又は営利を目的として職業紹介事業を行う者は、労働大臣の許可を受けた金額を超える手数料その他の報奨金を受けてはならない」


とあり、手数料の上限は10%とされていたが、法律通り10%のマージンで経営していたのは、ごく少数の芸能プロダクションに過ぎず、タレントとの契約で、タレントが1割という実態もあるほどの奴隷契約だった。一方、力をもたない事務所と、売れっ子タレントの場合、事務所はパワータレントになめられる。という問題もあり、ナベプロが指揮を執る形で、独立や移籍をしようとしたタレントを、業界全体で徹底的に干し上げるという目的で、プロダクション経営者による《音事協》が設立され、元首相・中曽根康弘が初代会長の椅子に座った。


これによって、業界全体で、独立しようとするタレントを干すことが出来るようになったものの、《音事協》に加盟するには、3名の承認が必要で、会費も高く、弱小プロダクションには入会も困難なうえに、ポッと出は守ってくれない。《音事協》は、意に沿わない報道をしたマスコミに対しても力を発揮し、タレントを多数抱えるプロダクションは、「バーター」「共演拒否」という手段で、番組への影響力を増していく。


ドラマの世界で「バーター」が力を持ち始めると、番組とタイアップした曲が売れるようになる。音楽業界に芸能プロダクションの影響が顕著に見られるようになったのは、90年代の中頃で、ここで、現在の芸能事務所の頂点にたつバーニングが躍進する。バーニングパブリッシャーズは、エイベックス所属の有名アーティストの音楽出版権のほか、所属タレント以外の音楽出版権も多数もっていた。大手事務所は、弱小事務所からタレントを引き抜くことがますますしやすくなり、弱小事務所は、大手に上納金を納めなくてはビジネスにならない。


第3章は、戦前の映画業界の五社協定を崩壊させた、銀幕のスター俳優たちの歴史。


第4章は、ナベプロ帝国に挑んだジャーナリスト竹中労、日本テレビ「スター誕生」の成功、アグネス・チャン、森進一、沢田研二、小柳ルミ子というナベプロ独立が成功した理由など。


第5章は、この本の出版社「鹿砦社」のドル箱でもあるジャニー喜多川の少年愛疑惑が中心。


第6章は、お笑い界を独占する吉本興業の始まりから、現在の繁栄まで。興味深かったのは、2012年にその存在がクローズアップされた吉本ファイナンスの件と、漫才ブームの頃、島田紳助が労働組合を結成していたこと。


そして、第7章が、本書の白眉ともいえる「バーニングプロダクションと暴力」


当初、南沙織を抱える程度だったバーニング事務所は、75年に郷ひろみが移籍してきたことえ、有力事務所となり、日本テレビの「スター誕生」などによって衰え始めた渡辺ブロの影響力の低下から、有能マネージャーが流出。彼らに支援を行うことで、楽曲の権利を手にしていったバーニングは、利権の獲得を広く外部に求め、業務提携によって利権を拡大させ、ナベプロのドンと呼ばれた渡辺晋亡きあと、周防は芸能界のドンとして、君臨することになる。渡辺プロが、ヤクザの商売だった芸能置屋稼業を近代的な稼業にしたとすれば、バーニングは暴力団の力を芸能ビジネスに取り込んできたーー


バーニングと、90年代活況を呈した音楽業界でもっとも時代を牽引していた音楽プロデューサー長戸大幸。彼が率いるビーインググループとバーニングの関係。顔を腫らした長戸は、こう言った(らしい。)


「・・・原盤製作で金を投じている者の権利が保護されるから、音楽著作権のビジネスは美味しい。でも、バーニングは、カネも払わず、あとから入ってきて「よこせ」と言ってくる。それじゃ、ヤクザと同じだろう。俺は東京ではもう仕事ができない。長戸大幸の名前も使えない。これからは、ビーイングに代わって、エイベックスというレコード会社がバーニングと組んで音楽シーンを独占するだろう。松浦は連中に仁義を尽くす男だ」


登場する有名タレントは、華原朋美、小室哲哉、YOSHIKI、工藤静香、木村拓哉、GRAY、フォーライフレコードを設立した吉田拓郎、井上陽水、小室等、泉谷しげる・・・


談合が行われる中で、もっとも利益を得られるのは談合破りである。《音事協》という談合組織の仕切り役であるバーニングは、タレントの引き抜き禁止という芸能界の秩序を維持するために暴力を誇示する必要があった。周防郁雄は、汚れ役を任じ、芸能界の闇を肩代わりしたことで「芸能界のドン」となった。


第8章の「韓国、ハリウッド、声優業界」では、韓国の芸能界は、日本を手本としていること、また、アメリカのエージェンシー制度は、それとはまったく異なり、芸能プロダクションというビジネスモデルは、日本と韓国にしかないこと。ただ、ストライキやでも行進によって、粘り強く製作会社と交渉し成り立ってきた声優業界の仕組みはかなり異なっていた・・・しかし、その声優業界も、近年、芸能プロダウションの進出が激しく・・・


第9章は、「芸能と差別」という内容として、よくある伝統的なものでした。


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by yomodalite | 2016-03-16 06:00 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

人間臨終考/森達也

人間臨終考

森 達也/小学館



山田風太郎の「人間臨終図鑑」や、荒俣宏の『知識人99人の死に方』、臨終考とは少し異なるけど、嵐山光三郎の『追悼の達人』とか、著名人の死を描いた本には、「当たり」が多い。

それで、このタイトルを見て、すぐに読みたくなったのだけど、この本はいわゆる臨終考ではなくて、、死亡年齢や、最後の言葉といった事実や、知られざる真実のエピソードもいっぱいあるのですが、内容のかなりの部分を森氏が創作していて、でも、そこが面白い。

その人物が活躍した時代をずらしてあったり、いるはずのない場所に現れたり・・フィクションなんだけど、どこか実際にそうであっても不思議ではないように思わされて、楽しめます。(そんなわけで迷いつつも本書を「ノンフィクション」に分類)

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歴史上の超有名人が並ぶリストの中には、知らない名前もあって、

例えば「クォン・デ」

初めて、クォン・デの名前を知ったのは、テレビ・ディレクター時代だった・・・ベトナムからの留学生と雑談していたとき、「森さんは、クォン・デという名前をご存知ですか」と質問された。・・・「僕らの王子は日本に殺されたようなものなのに、どうして日本人は誰も、このことを知らないのですか?」・・・そうしてクォン・デについてのリサーチが始まった。・・・


そして、森氏の創作が冴えわたる「チェ・ゲバラ」

・・チェ:「私は何をしている」

「あなたは、先日行われた国政選挙で当選したのです」・・テレビでは、「チェ・ゲバラ議員に密着一週間。意外なその素顔!」とのタイトルで特番が放送されたばかり・・AKB48と一緒にグラビアを撮らせてもらえないかという依頼でした。・・ソフトバンクから白戸家の一員として出演してもらえないかと・・

チェ:「君に聞きたいことがある・・選挙前、『自公が圧倒的に優勢』と書いていた。・・これほどにメディアが一方的な勝利を予想するならば、普通はその逆に動くと思うのだが・・

『判官贔屓』ですね。・・でも、ここ数年はまったく事情が変わりました。むしろ反転しています。優勢と伝えた党や候補者に、さらにより多くの票があつまるようになってきたんです。これをバンドワゴン効果といいます」・・「多数派につきたいとの心情でしょうね。つまり集団化。・・東日本大震災から、さらに加速しています。・・

チェ:「なぜ、日本人は多数派につきたいのだろう」・・・


親鸞と、チェ・ゲバラに挟まれている「アンドレ・ザ・ジャイアント」も、他の人選とは異色の存在ですが、多かれ少なかれ異形のプロレスラーの中にあっても、アンドレはそこからさらにはみ出している、本当に破格の存在。社交的ではなく、なかなか心を開かない、彼の孤独と成功、アンドレは46歳でパリのホテルで急死した。森氏の本に何度か登場する「小人プロレス」の話はここでも繰り返される。


最後に登場する「飯島和夫(戦闘員)」は、67歳の現役ショッカー(仮面ライダー)の話。彼の最後は、大井銀座から少し離れたファミレスで、そこには、ゾル大佐と総統もいた・・・。


☆歴史人物の死に際に見る日本現代論2015年10月出版)



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by yomodalite | 2015-12-11 09:30 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

もうひとつの青春 ー 同性愛者たち/井田真木子

『プロレス少女伝説』ですっかり魅せられてしまった井田真木子氏の1997年の作品。

今、LGBD周辺の話題は活発になっていますし、以前から日本のテレビでは、常に彼らの中の人気者が大勢活躍していて、親しみやすい存在にもなっている。でも、そういった「芸能人」としてのLGBDではなく、本書では、発足間もない頃の「アカー」(動くゲイとレズビアンの会)を中心に、新宿二丁目に違和感を抱き、普通に家庭を築いて、普通の日常を送りたい、今までほとんど語られることのなかった同性愛者たちのリアルな姿が描かれています。

井田氏は、ゲイパレードに出かける彼らに同行し、彼らの生活を間近に見て、長期にわたって彼らを取材しながらも、常に自分が異性愛者だということを意識し、彼らの悩みや苦しみに安易に共感したり、彼らの気持ちを代弁することもせず、ストイックなまでに取材者との距離を保ちながら、

ノンフィクションの創り方として、もっとも手間のかかる方法で、彼らの真実に迫り、それぞれに異なっている同性愛者たちが抱える問題を丁寧に浮かび上がらせている。

レインボーフラッグがはためく、LGBDのパレードでは、マイノリティとして団結する彼らの中には、差別などないかのように見えましたが、本書の取材では、彼らの中にある序列も浮き彫りになっていて、黒人やアジア人に対しては、異性愛者の世界と同様の差別があるということに失望させられもしましたが、

時間のかかる取材も執筆もなくなっていて、お手軽なニュースが創られているネット時代では、井田氏のようなノンフィクションはますます貴重なものになっていると思います。

アメリカで同性愛結婚が合法になったというニュースを聞いて、異性愛者の中では、結婚しないカップルが増えているのに、なぜ、同性愛者たちは「結婚」という法律を求めるのか。私には、その理由がよくわからなかったのですが、本書を読んでいるうちに、彼らの「普通の生活」や「安定」を求める気持ちについて、少しだけ理解できたような気がしました。

井田真木子氏は、やっぱりスゴイひとです!





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by yomodalite | 2015-07-08 06:00 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

プロレス少女伝説/井田真木子

プロレス少女伝説 (文春文庫)

井田 真木子/文藝春秋

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著者である井田真木子氏は、2001年に、44歳という若さで亡くなられたノンフィクション作家。それなのに没後10年以上経った2014年に、井田真木子著作撰集というものが出版されているということを知り、どんな作品を書いておられた方なのか知りたくなって、1991年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した本書を読んでみることにしました。

伝説は、長与千種、神取忍という女子プロレスをあまり知らない人でも、名前と顔がわかる人が多いふたりと、海外から日本にやってきた、天田麗文と、デブラ・ミシェリーという4人の少女たちによるもの。

天田麗文は、外務省職員として旧満州に渡った父親が、中国人と結婚して生まれた子供だったが、父がガンで亡くなった後、12歳で、中国から日本に帰国することになった。言葉も通じず、地域にも家族にも溶け込めず、終日テレビの前に座っていた彼女を惹きつけたのは、女子プロレス。それから、彼女はプロレス雑誌をよむことで日本語を覚えるようになり、女子プロレスラーになれたら、南京に帰れる。それが彼女の唯一の夢となった。

デブラ・ミシェリーは、イタリア人の父と、アメリカ・インディアンの母、共に黒い眼と黒い髪のふたりから、ブロンドで青い目をもって生まれてきた。父は少女の美しさを偏愛し、その嫉妬からか、母からは虐待をうけ、7歳で両親が離婚すると、彼女は祖父母と同居しながら、アルバイトに精をだし、10代で起業家となるほどだった。その後、モデルにもなった彼女は次第にエンターテイメントの仕事に惹かれるようになり、その1ページを女子プロレスラーから始めた。

神取忍は、高校時代、女子柔道体重別選手権に出場し、3年連続で優勝していた。柔道の天分は明らかだったものの、キツくパーマのかかった金髪のカーリーヘア、なかば剃り落とされているような眉の彼女は、その試合内容よりも異彩を放ち、卒業後は大学の推薦入学をすべて断り、その後は、独自の練習方法で国際大会に出場した。彼女の肩書きは、当時から1985年に引退するまで「無職」だった。

そして、天田麗文がテレビを見て憧れ、デブラが「外人レスラー」として対戦して、これまでにない感覚を味わったのが、クラッシュ・ギャルズで旋風を巻き起こしていた長与千種だった。

長与千種は、元競輪選手で、引退後の商売に失敗した父親から空手を習っていた。1964年に大分で生まれた彼女は、『月刊平凡』の女子プロレス募集要項の “月収10万以上”という記載を見て、「こりゃあ、牛ば買えるわぁ!」と思った。その頃の彼女は、「土地を持っているんが金持ちで、10万円で土地を買って、そこに牛を飼ったら、もう絶対に金持ちにきまってる」と。「プロレスばぁなって、月に10万円の半分は仕送りしたる。その金でオヤジに牛買ってやる」本気だった。

私がこの本をのめり込んで読んだのは、貧しい境遇から這い上がった姿ではなく、自分の居場所を探し求め、人とは違った場所でそれを見つけ、大勢の人を熱狂させたこと。そして、それが厳しい練習量とか、根性などといったものよりも、彼女たちひとりひとりが新たに「創造」した物語によるものだったこと。

長与千種がもっていた部活の先輩のような明るさを、彼女自身がどのように演出していたか、また、「ミスター女子プロレス」「女子プロレス、最強の男」と言われ、男性のプロレスラーにさえ勝利した神取忍のことを、これまで、私は男になりたかった女性だと思っていた。

でも、彼女は、自分が「女」であることに強いこだわりを持っていた。

そして、現在よく使われるようになった「心が折れる」という表現は、今まで一度もギブアップで負けたことのなかった、女子プロレス草創期のスター、ジャッキー佐藤と神取忍の試合から生まれた言葉だった。

大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したとき、選考査員だった立花隆は、『私はプロレスというのは品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様が様々あるだろう。しかし、だからと言ってどうだと言うのか?世の大多数の人にとってはそんなことはどうでもいいことである』と言ったらしい。

プロレスが重要だったことは、私にもないですが、2015年の今、井田真木子の重要性は、立花隆の遥かに上をいっていると思う。『井田真木子著作撰集』も絶対に読まなければと思った。



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by yomodalite | 2015-05-26 13:09 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

読書メモ《ノンフィクション》プロット・アゲンスト・アメリカ 他

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今日こそは、読書日記を書こうと思ったのだけど、、
もはや、どうやって書いていいのかすら... w
とりあえず、ここ3ヶ月ぐらいの
歴史・政治・ノンフィクション本の読書の中から、
記憶しておきたい本をメモっておきます!


☆ ☆ ☆


『プロット・アゲンスト・アメリカ』フィリップ・ロス

こちらは、ノンフィクションではなく、歴史シュミレーション小説なんですが、ユダヤ人であるフィリップ・ロスが、自身の家族をモデルに、もしも第二次大戦時に、元飛行士で反ユダヤ主義者のリンドバーグが大統領になっていたら・・・。という内容。

7歳の少年の目線で差別にさらされる恐怖と家族・民族・国家を描き、ロス最高傑作との評され、「アメリカの若者を国益と関係ない戦争で無益に死なせることはない」という政治的スローガン「アイソレーショニズム」を推進してきた人々が、平和主義の美名の影で、ナチスの戦争犯罪にどう加担したかという実態が描かれています。

現代日本人にとっても人ごとではない内容、また、ユダヤ陰謀論の「陰謀」はどこから来たか? に興味がある人も是非! 




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リアリティのダンス/アレハンドロ・ホドロフスキー

『ホドロフスキーのDUNE』で、すっかりホドロフスキーにハマって、『リアリティのダンス』は公開まで待ちきれないぐらいだったのだけど、映画鑑賞後は、同名の本も読んでみた。分厚い本だけど、映画には入りきらなかった濃ゆーーーいエピソードが満載で、アート好きな人にとっては有名人も多数登場。彼の長い長い魂の旅を、チビチビと舐めるように読むのも楽しい傑作自伝。




物語 ユダヤ人の歴史

レイモンド・P. シェインドリン/中央公論新社



数千年に及ぶユダヤ人の歴史が簡潔にまとめられている教科書のような本。私が読んだのは単行本ですが、文庫や、Kindleでも買えます!

◎[Amazon]ユダヤ人の歴史(河出文庫・Kindle)

ここまでがおすすめ「ユダヤ本」w




リスクにあなたは騙される (数理を愉しむ)

ダン・ガードナー/早川書房

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◎参考書評「恐れのみを恐れよ」
◎参考書評「あぶすとらくつ」



クレイジー・ライク・アメリカ: 心の病はいかに輸出されたか

イーサン ウォッターズ/紀伊國屋書店



日本でうつ病が「心の風邪」だと言われるようになったのは、製薬会社のキャンペーンだった!

フリーランスから、会社員の嫁になってびっくりしたんですが、今の企業って社員のメンタルヘルスまで充実していて、病気になったら終わりのフリー生活から考えると、最初は夢のように思えたんですが、大量のワクチンやカウンセリングまで、会社が…ていうのは、どうなんでしょうねぇ。私のうつ病経験から言うと、薬が毒だとは言えませんが、、早期の精神科・神経科診療は、百害あって一利なしで、向精神薬を風邪薬のように服用すると、症状が悪化する可能性が高いです。

製薬会社のキャンペーンは、うつ病にかぎらず、情報番組、ニュース、ボランティア、NGOビジネスとか、なんとかリボンとか、とにかく花盛り。科学を装い、恐怖を操り、、、

◎参考書評[精神医療の真実 聞かせてください、あなたの体験]


日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか

矢部 宏治/集英社インターナショナル



孫崎享氏の『戦後史の正体』の仕掛人でもある著者がわかりやすく解説し、出版前から話題になった本。こちらで「立ち読み」出来ます!

http://www.shueisha-int.co.jp/pdfdata/0236/nihonhanaze.pdf

◎参考書評「すべての日本人が政治的な立ち位置の違いを問わず、知っておくべき内容」



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by yomodalite | 2014-12-03 20:00 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

ミック・ジャガー:ワイルドライフ/クリストファー・アンダーセン

ミック・ジャガー~ワイルド・ライフ~

クリストファー・アンダーセン/ヤマハミュージックメディア

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町山智浩氏の2012年から2014年までに、米国で話題になった言葉についてのエッセイ『知ってても偉くないUSA語録』、その第1章「4000 Women」は、本書に書かれている、ミックが抱いた女の数(笑)

ロック界では、キッスのジーン・シモンズが自伝で4897人だと言い(笑)、最近出版された本によれば、あのウォーレン・ベイテイは、なんと1万2775人だそうで(笑)、ブラジルの女優ソニア・ブラガはハリウッドに招かれたとき、「ベイティさんに抱かれました?」と聞かれると、「当たり前でしょ。ニューヨークに行ったら自由の女神を見るようなものよ」と答えたとか(町山本)。

MJファンの中には、著者のクリストファー・アンダーセンの名前に記憶がある方もおられると思いますが、あの本と同様、こちらも1ページごとというか、1行ごとに「見たのかよ」とツッコミたくなるような内容でw、厚さ2.5ミリで二段組みというボリュームの中には、女性だけでなく、男性も含まれるワイルドな下半身ライフがぎっしりと詰め込まれています。

友人としても、同時代のライバルとしても、デヴィッド・ボウイが頻繁に登場するのですが、両性具有でバイセクシャルというキャラを、当時もっとも体現していたボウイ以上に、ミックもセクシャリティを超越しようと、モンローをはじめ、セクシーな女性の研究を怠らなかったとか。

今では、ミックもボウイもクラプトンも「女性っぽさ」なんて1ミリも感じませんが、でも、今、レディ・ガガが「バイセクシャル」を掲げているのと、60年代や、70年代の雰囲気はどこか違うんですよね。性的マイノリティのためとか、そんなことはどうでもよくて、女の子とも、男の子とも、魅力的だったら「ヤってみたい」と思うだけ。リベラルなアイデンティティより、本当の自由が重要だったようです。

著者は英国王室のスキャンダル本で有名らしく、こういった話題にかけては、対象が誰であろうとw、勝手に筆が進んでしまいそうな方なんですが、ミック・ジャガーという素材にはぴったりあっているようで、セックスとドラッグのことしか書かれていないような本が、どこか「おとぎ話」のように感じられるのは、今はなくなってしまった「自由」がここにはあるからでしょうか。

そんな下半身ライフだけでなく、ストーンズと言えば、昔からハードドラッグ愛好者として有名でしたが、

第4章「天使と悪魔」から、省略して引用。

ーー1967年6月29日

すでにキースに懲役1年を宣告していたかつら頭のレズリー・ブロック判事は今、ミックに塀の中で三ヶ月過ごすように言い渡していた。チチェスターにあるウェスト・サックス裁判所の外には800人のファンが集結し。彼らの「恥を知れ!」やら「彼らを釈放しろ!」というシュプレヒコールが法廷内まで響いてきた。

ミックとキースに救いがあるとすれば、今回の有罪判決には世界中から抗議が殺到していることだった。デモ隊が各国のイギリス大使館を包囲し、ミックとキースを即刻釈放せよと要求した。世界中のディスクジョッキーが、ふたりが自由を手にするそのときまで、ストーンズの曲をかけ続けると誓った。そしてザ・フーは共闘の意を表明として、今の状況にふさわしいタイトルが与えられたストーンズの楽曲ー「ラスト・タイム」と「アンダー・マイ・サム」を両面シングルとしてレコーディングした。

世論も「ミックとキースを解放せよ」と声を荒げた。多くの新聞が「ストーンズへの厳罰は「毎度おなじみの英国の偽善」であり、「とんでもない不当判決」だと非難する社説を掲載した。決定打はロンドンの老舗『タイムズ』紙の編集長によって振り下ろされた。モッグは18世紀の英国詩人アレクサンダー・ポープを引用した「誰が車で蝶をひき殺すか?」というジャーナリスト史上もっとも有名なタイトルの社説において、今回の判決を激しく抗議した。

(引用終了)

ドラッグ使用してなかったわけじゃないのに、大メジャー紙が社説で、逮捕を非難するだなんて、今では想像できないですね。それと、ミックもキースも、ヘロインやコカインなどのハードドラッグを永年にわたって多量に使用していたはずなのに、どうして70歳を超えた現在まで、肉体的にも、精神的にも健康なんでしょう?

医者が処方する薬で亡くなるケースはすごく多いのに。。


また今年、ミックの恋人、ローレン・スコットが自殺というニュースもありましたが、彼女は、本書の第9章にルウェン・スコットとして登場しています。

最後に、マイケル関連についての要約メモ。

本書の前にかなり荒く読んだ、キース・リチャーズ自伝『ライフ』では、80年代、ミックはマイケル・ジャクソンの虜で、彼の事ならなんでも知りたがり、CBSと社長のウォルター・イェトニコフとの契約したのも、そうすればマイケルと同じぐらい売れると思っていた。というようなことが書かれていたのですが、こちらの本では、

ミックはジャクソンの偉業に敬意をもっていた。だが、違うレコード会社だったら、『スリラー』はあれほどの大ヒットにはならなかったということもわかっていた。

当時の妻のジェリーとの間に娘が生まれると、真夜中に夫妻のベッドで授乳することは許さない。母乳は胸がむかつくにおいなんだよ、とミックは言うと、マイケルは明らかに引いていたが、「ステイト・オブ・ショック」のデュエットにミックを参加させることについてはあきらめなかった。発売直後に第3位にランクインしたこの曲は、ソロのキャリアを気づくことに不安を抱いていたミックには大きな自信になったものの、コラボレーションについては、どちらのスターも相手に感心しなかった。ジャクソンはミックの調子はずれを非難し(彼は一体どうやってスターになんてなれたの?)、ミックはマイケルの才能を「ビールの泡のようなもの」とけなした。

(要約引用終了)

「ステイト・オブ・ショック」の記述は、『マイケル・ジャクソン・インク』にも少しだけあって、そちらは、この曲のリリースが、ジャクソンズのシングルと同時期でファミリーともめた…みたいな内容で、スリラーで成功したあと、アルコール中毒になって失脚したおしゃべり☆☆野郎のイェトニコフが発信源のようでしたが、本書の記述は、これまでの本や報道からまとめただけみたいですね。

本書にマイケルが登場するのは、これだけですが、MJが自分の使命を自覚するうえでは、確実に影響を与えたであろう人物についての客観的なストーリーの中には、MJが求められたり、反発された理由も浮かび上がってくるのでは、と思って読みました(ずいぶんと無茶な読み方ですがw)。


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by yomodalite | 2014-09-30 06:00 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

「国家秘密の取り扱い」について

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photo : http://whitney.org/Exhibitions/JayDeFeo



山本七平著『無所属の時間』/秘密の原則より
要約のため大幅に省略して引用しています。


「国家秘密と裁判」の関係が問題になり、朝日新聞の論説は「″国家秘密″ も大切であるが ″公正な審理″ ″被告人の防御権″ もまた司法にとって極めて重要な問題である。その調整をどうするか。真剣に検討されねばならない問題であると考える」という結論になっている。

私がいつも疑間に感ずるのは、こういった種類の論説である。「真剣に検討されねばならない問題であると考える」なら、まず最初に、そう主張する人が、真剣に、検討の素材となる具体的一案(俗にいうタタキ台か?)を提出すべきではないのか。

確かに、真先に提出された試案には愚案が多い。しかし、その愚案があってはじめて検討がはじまるのだから、それをしないなら「よきよう取りはからえ」というお殿様の一言であっても「論説」ではない。「論」とは「殿のおことば」ではないはずである。

「外交はガラス張りでなければならない」という極論と「外交交渉に秘密がつきまとうのは当然で、自分の手の内を予め全部相手に知られてしまえば、交渉などできない(従って国家秘密は大切だ)」という反論があり、

この二つが何ら生産的な討論を行うこともなしに騒いだだけで消えた。

社説は「国家の秘密」の存在を認めており「全てガラス張り」でなければならぬと主張している訳ではない。

これは一つの進歩だが、過去においてはしばしば「一切秘密があってはならない」という極論が主張され、これが奇妙な逆作用となり「秘密がある事をも秘密にする」という弊害を生んだ。

実を言うとこれが「秘密」というもののもつ最大の弊害なのである。

従って「それから脱却できる第一歩」の提示という点では、この論説も評価されてよい。

では、そのように「国家秘密も大切であるが……」とこれを認めれば、それで十分なのか。そうは言えない。

国家は、認められた秘密の範囲を無限に広げて行き、広げることによって「秘密があることも秘密にしてしまう」であろう。

これでは「ガラス張り」を主張して「秘密を秘密にする」逆作用を誘発し、それによって、一見、秘密がないように粧うという最悪の状態と同じ結果を招来してしまう。

従って、いずれをとっても、問題の解決にはならない。

それが外交問題に関連しようと、公正な審理に関係しようと、またそのいずれにも関連しない場合であろうと、秘密というものは、常にかくかくしかじかの取り扱いをすべきだという原則が確立されねばなるまい。

では秘密はいかに扱うべきか。

原則の第一は「公然の原則」である。

秘密は公然と秘密にし、秘密であることを秘密にしてはならない、
という原則である。

この原則は、少なくとも西欧圏では、個人・組織を問わず確立しているように思われるが、日本では非常にあやふやである事は否定できない。例えば我々は簡単に「知りません」とか「存じません」(アイ・ドント・ノゥ)とが言う。

この場合、そう言った相手が本当に「知らない」のか、知っているが「言明しない」と言っているのか、我々の社会では明らかでない。というのは「ノゥ・コメント」(言明しない)という言葉がないからである。

「ノゥ・コメント」は「知っていようが、知っていまいが、それについての言明を拒否する」ことであり、従って「知っている」とも「知っていない」とも言っていないわけである。

いずれにせよ、その件はその人の秘密だが、彼は、それが秘密であることは、公然と言明しており、そして、人には「秘密であることを言明する権利」があること、そしてこれを侵害する権利はだれにもないことを、社会が当然のこととして認めているわけである。

これが日本にはない。

従って戦犯裁判の時など、つい「日本的」な意味で「知りません」といい、後で知っている筈だという証拠を突きつけられて偽証罪になった例がある。これを偽証とするなら、政府の国会答弁などは偽証の連続となるかもしれない。従ってまず秘密は公然と秘密であると言明する慣行の確立が第一であろう

第二の原則は「期間と範囲の明示」という原則である。

いわば、秘密であることを秘密にしておいて、闇から闇へ永久に葬ってしまってはならない、ということであって、秘密は、それを秘密にする必要がなくなったら、一切を、資料として明示する義務を負うということである。

範囲とは、その秘密がどの部分に属するかの明示である。

沖縄返還協定に秘密の取り決めがあったのなら、それが軍事的か経済的か、または単なる手続上の問題か、あるいはまた自分の方の問題でなく…たとえば…相手方の…問題への配慮か、といった範囲は、いわば、消去法の形で明示すべきである。

これはある点を「ノゥ・コメント」ということによって、おのずと明らかになる。そして、明示した秘密の範囲以外には、一切、秘密があってはならない。

細かい点を省略すれば大体、以上が原則であろう。





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by yomodalite | 2014-04-17 08:38 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

「虚報」とは何か

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山本七平著『私の中の日本軍(上)』より
要約のため大幅に省略して引用しています。

「虚報」とは、発表された部分と事実とにどれだけの誤差があったかという問題でなく、入手した情報のうち、どれを発表し、どれを隠し、その隠した部分をどう処置したか、発表部分をどれだけ粉飾したか、という問題である。

虚報と報告の正確度は別だという事は、極端な例をひけば誰にでも理解できる事である。例えば前線から「敵に与えたる損害左の如し」というような報告が来る。そして戦後、この報告を調べてみたら一分一厘の誤差もなかったとする。

しかし、もし報告がこれだけなら、誤差がゼロでもこれは虚報なのである。

なぜなら「我が方の損害」がきれいに脱落しているからである。

従って発表された部分をどれほど丹念に事実と照合しても、虚報の証拠の何一つ出て来ないのが当然なのである。

問題の焦点をこちらへすり替えれば「見たまま、聞いたまま」であることは確実に証明できるから、絶対に「虚報の責任」は免れうる。

入手した情報の一部を故意に欠落させ隠蔽するだけでなく、その部分を、情報の受け手に無意識のうちに創作させるのである。

その時代には、その時代の常識と社会的通念とがある。当時の日本人には連合艦隊というイメージがあり、また近海まで敵艦をおびきよせて一挙にこれを全滅させた「日本海海戦」という記憶があった。

そしてこの常識や通念が、潜在的願望や希望的観測といっしょになると、情報のうち隠された部分を、無意識のうちに創作しておぎなってしまうのである。

「虚報」とは

「入手した情報の一部、特に最も重要かつ不可欠の部分を故意に欠落させて発表し、その部分を、情報の受け手が無意識のうちに創作して捕うよう誘導する報告もしくは報道をいう」と定義してよいと思う。


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by yomodalite | 2014-04-05 10:01 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

「扇動」とは何であろうか

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山本七平著『ある異常体験者の偏見』アントニーの詐術より、
要約のため大幅に省略して引用しています。



「扇動」とは何であろうか。

扇動は何も軍隊だけでなく、日本だけでなく、また現代だけのことでもない。

「扇動」は外部から見ていると、何かの拍子に、何かが口火となって、全く偶発的にワッと人が動き出すように見えるが、内実はそうではない。

「扇動」には扇動の原則があり、扇動の方法論があって、この通りにしさえすれば誰でも命令なくして人を動かし、時には死地に飛び込ます事ができるのである。

原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起させ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーがある対象に向うように誘導するのである。

これがいわば基本的な原則である。
ということはまず集団ヒステリーを起さす必要がある。

この方法論はシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』に出てくる、
扇動された者の次の言葉である。


(市民の一人)「名前は?正直にいえ!」
(シナ)「名前か、シナだ、本名だ。」
(市民の一人)「プチ殺せ、八つ裂きにしろ、こいつはあの一味、徒党の一人だぞ。」
(シナ)「私は詩人のシナだ、別人だ。」
(市民の一人)「ヘボ詩人か、やっちまえ、へボ詩人を八つ裂きにしろ。」
(シナ)「ちがう、私はあの徒党のシナじゃない。」
(市民の一人)「どうたっていい、名前がシナだ……」
(市民の一人)「 やっちまえ、やっちまえ……」


こんな事は芝居の世界でしか起らないと人は思うかも知れない――しかし「お前は日本の軍人だな、ヤマモト!憲兵のヤマモトだな、やっちまえ、絞首台にぶら下げろ!」「違います、私は砲兵のヤマモトです、憲兵ではありません」「憲兵も砲兵もあるもんか、お前はあのヤマモトだ、やっちまえ…」

といったようなことが、現実に私の目の前で起ったのである。

扇動というと人は「ヤッチマエー」「ヤッツケロー」「タタキノメセエー」という言葉、即ち今の台詞のような言葉をすぐ連想し、それが扇動であるかのような錯覚を抱くが、実はこれは「扇動された者の叫び」であって「扇動する側の論理」(?)ではない。

すなわち、結果であって原因ではないのである。ここまでくればもう扇動者の任務は終ったわけで、そこでアントニーのように「……動き出したな、……あとはお前の気まかせだ」といって姿をかくす。

扇動された者はあくまでも自分の意思で動いているつもりだから、

「扇動されたな」という危惧を群衆が少しでも抱けば、その熱気は一気にさめてしまうので、扇動者は姿を見せていてはならないからである。

もっとも、指揮者の場合は、大体この「叱咤・扇動型」が「教祖型」の仮面をかぶるという形で姿をかくす。従って、扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからないし「扇動する側の論理」もわからないし、扇動の実体もつかめないのである。

扇動された者は騒々しいが、
扇動の実体とはこれとは全く逆で実に静かなる論理なのである。

これは『シーザー』の有名なアントニーの演説を子細に読まれれば誰にでもわかる。そこには絶叫や慷慨はない。

彼は静かに遠慮深く登壇し、まずシーザーの死体を見せる。
そして最後をシーザーの「遺言書」で結ぶ。

いわば「事実」で始めて「事実」で結ぶ。

この二つの「事実」の間を、一見まことに「静かで遠慮深い問いかけ」を交えつつ、あくまでも自分は「事実」の披露に限定するという態度をとりつづけ、いわゆる意見や主張をのべることは一切しない。


(引用終了)



下記は、山本夏彦氏の名言より

汚職は国を滅ぼさがないが、正義は国を滅ぼす

嫉妬は常に正義に変装してあらわれるから、正義と聞いたら用心したほうがいい




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by yomodalite | 2014-03-14 09:33 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(0)

マスコミの言う「反省」とは

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山本七平著『私の中の日本軍(下)』最後の言葉より

(省略して引用しています)


「南京大言殺」がまぼろしだという事は、侵略が正義だという事でもなければ、中国にそしてフィリピンに残虐事件が皆無だったという事ではない。

それは確かに厳然としてあった。

それを正当化することはまず、本当にあった事件を隠してしまうだけであり、犠牲者がいるとなると、今度はこういう犠牲者に便乗して、本当の虐殺事件の張本人が、ヌケヌケと自分も戦争犠牲者だなどと言い出すことになってしまうからである。

虚報に虚報を上塗りし「百人斬り競争」を「殺人ゲーム」でなぞっていると、そういう全く不毛の結果しか出てこないのである。

南京大虐殺の「まぼろし」を追及された鈴木明氏のところへ「反省がない」といった手紙が来たそうだが、この世の中で最も奇妙な精神の持主は、そういった人びとであろう。

反省とは自分の基準で自分の過去を裁くことのはず。

あくまでもその人の問題であって、他人は関係はない。まして国際情勢も中国自体も関係はないはずである。両国の間が友好であろうと非友好であろうと、そんなことによってその人の反省が左右されるはずはあるまい。

いま「反省がない」といって決め付けているその人が、真っ先にまたその「時代の旗」を振るであろうことは、浅海特派員のその後の経歴がすでに証明していると言ってよい。


「週刊新潮」には次のように記されている。

便乗主義者にとって最もやっかいな相手は、自分自身の言動なのであった。

最後にもう一度、浅海氏が発言を求めてこられたので加える。

「戦争中の私の記者活動は、軍国主義の強い制圧下にあったので、当時の多くの記者がそうであったのと同じように、軍国主義を推し進めるような文体にならざるを得なかった。そのことを私は戦後深く反省して、新しい道を歩んでおるのです」


これが「反省」なのか、これが「反省」という日本語の意味なのか。「懺悔」という言葉もさかんにロにされた。

しかしこの言葉が、『罪と罰』にあるように「四つ辻に立って、大声で、私は人を殺しましたという」といったことを意味するなら、この「百人斬り競争」という事件だけをとってみても、一体全体どこに懺悔があるのか。

私は虚報を発して人を処刑場へ送りました、といった人間が、関係者の中に一人でもいるのか。もしいれば、それは懺悔をしたといえるであろう。

だが、そういうことは、はじめから関係者のだれの念頭にもない。

それどころか、虚報をあくまでも事実だと強弁し、不当に処刑場に送った者の死体を自ら土足にかけ、その犠牲者を殺人鬼に仕立てあげているだけではないか。

それは懺悔とは逆の行為であろう。

また本多勝一記者の「殺人ゲーム」を読んで、多くの人は「こういう事実を全然知らなかった」と言った。そういっているその時に、まだその人自身が、

実は自分が何の「事実」も知っていないことになぜ気付かないのか。

「百人斬り競争」を事実だと信じた人間と、「殺人ゲーム」を事実だと信じた人間と、この両者のどこに差があるのか。

自分が無実で、虚報で処刑されることは、その本人たちがだれよりもよく知っている。そしてそれゆえに、余計にどうにもできなくなる。何を言っても、何をしても無駄だという気になってしまう。

法の保護も、身を守る武器も、そして最後には自分の精神さえ。
しかし、そのとき、はじめて人は気づくのである。

すべて奪われても、なお、自分か最後の一線で渾身の力をふるってふみとどまれば、万人に平等に与えられている唯一の、そして本当の武器がなお残っていること。

それは言葉である。
自分で捨てない限り、これだけはだれも奪うことはできない。





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by yomodalite | 2014-03-11 08:38 | 報道・ノンフィクション | Trackback | Comments(3)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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