カテゴリ:☆MJアカデミア( 49 )

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ウィラ:そこはとても重要なポイントよね。マイケル・ジャクソンは、何十年もチャールズ・チャップリンの映画や人生についてを研究し、スイスにある彼の家族も訪ねているぐらい、チャップリンについてよく知っているわけだから、『独裁者』がチャップリンへの世論を変えるのにどれだけ影響があったか、確実にわかっていたはずよね。


エレノア:そうね、それは十分考えられる。『独裁者』はいくつかの理由で、チャップリンをとても難しい状況に追い込んだ。まず、1940年の時点では、アメリカにはヒトラーの支持者が大勢いて、彼らは『独裁者』の反ファシストというメッセージを受け入れることが出来なかった。そのあと、共産主義が毛嫌いされるようになると、反ファシストであることは、共産主義に賛成と見なされた。チャップリンが一生懸命「共産主義者であることを否定し、自分を『平和主義者』だと名乗った」にも関わらず、彼の評判は深刻なダメージを受けたのよ。

でも、私はチャップリンの本当の「罪」は、彼のインターナショナリズム(国際主義)や、世界調和のビジョンであり、一般的なナショナリズムへの批判だったと思う。彼は『独裁者』でもそれを表現していたのよね。


ウィラ:それはもう一つの重要な点ね、エレノア。そして、マイケル・ジャクソンとチャップリンのもうひとつの繋がりでもある。『マイケル・ジャクソン・テープス』で、マイケルがラビに言ってるわよね。
僕は自分を世界の一員だと感じている。だから、どちらか一方につくのはいやだ。「僕はアメリカ人です」と言うのが嫌いなのは、そういう理由なんだ。

エレノア:興味深いわね、ウィラ。マイケルの世界的な影響力は、実際に、世界中の人々が彼に反応したという事実によって証明され、彼は「私たちの内のひとり」だという反応は今も続いている。でも、残念なことに、こういったインターナショナリズムや、反ナショナリズムは、「非アメリカ人」として責められる結果にもなった。そういったことが、チャップリンにも起こったのよね。


ウィラ:そうね。そして、マッカーシズム(*)の狂乱の中で、チャップリンは本当に厳しく糾弾されてしまった。


エレノア:『独裁者』の、特にその最後、チャップリン自身の声で、彼の見解をスピーチすることによって、チャップリンは非難にさらされることになり、1947年には、彼を国外追放にしようとする動きにまでなってしまった。1947年の6月、ミシシッピ選出の下院議員、ジョン・F・ランキンは議会でこう述べている。
彼がハリウッドにいることそのものが、アメリカの道徳観念の構築に有害なのであります。・・・(もし彼が国外退去となれば)、彼の忌まわしい映画がアメリカの若者の目に触れることを防げるのです。彼は追放されなければならないし、すぐに追い払わなければなりません。
チャップリンの悪魔化は、タブロイドの記事だけでなく、彼の評判や信用を破壊した性的異常性の法的告発が致命的となり、彼が1956年にアメリカからヨーロッパへ向かったとき、アメリカは彼の再入国を拒否し、ビザも取り消された。


ウィラ:チャップリンがどれほど映画や文化に貢献したかを考えると、信じられないことよね。そして、「悪魔化」というのはまさにそのとおりで、チャップリン自身もそれをよく承知していた。「Michael Jackson Academic Studies」というサイトの創設者のひとりであるケイリン・マークスが、最近私に面白い話をしてくれたわ。チャップリンはアメリカを離れる直前、写真家のリチャード・アヴェドンに写真を撮ってもらったんだけど、撮影の最後に、チャップリンはもう一枚撮ってくれと頼んで、指を頭から悪魔の角のように突き出すポーズで、カメラに向かったそうよ。これが、ケイリンが教えてくれたドキュメンタリー番組で、リチャード・アヴェドンはその時のことについてしゃべっている(39分20秒~)



(興味深いことに、チャップリンの話をする前、アヴェドンは、私たちが前回の記事で触れたウインザー公夫妻、ヒトラーの熱心な支持者だった夫妻の写真を撮った時のことを話している。アヴェドンは夫妻がニースでギャンブルをしているのをよく見かけたと話していて、「二人は、ユダヤ人よりもはるかに犬たちのほうを愛していた」という見解を述べている)

50年後、マイケル・ジャクソンは、チャップリンと非常に似た方法で悪魔に仕立て上げられることになる。彼は、BBCニュースで取り上げられたように、サンタ・マリアの裁判所で、チャップリンがやったのとまったく同じポーズをカメラマンたちにとってみせたのよ。ここにあるのが、二人の「悪魔ポーズ」の写真。


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この写真について以前書いた記事
http://nikkidoku.exblog.jp/13746654/



エレノア:すごい。これを見ると、MJがチャップリンと自分は同じだと思っていたのが歴然ね。一致する点があまりにもたくさんある。どこかで聞いたんだけど、マイケル・ジャクソンは、あまりにもチャップリンを身近に感じていたので、一度など「僕自身がチャップリンだと感じることがある」とも言ったって。


ウィラ:そう、彼はドキュメンタリー番組「マイケル・ジャクソンのプライベート・ホームムービー」のインタビューの部分でもそう言っているし、ホームムービーには、よくチャップリンがやっていたように、「The Little Tramp(愛らしい浮浪者)」の服装をして、口ひげを左右に動かすマイケルの素敵な映像もあるわよね。これはファンが作った「スマイル」っていうビデオなんだけど、ここにはチャップリン風のマイケルの写真や、「プライベート・ホームムービー」からとったその他の場面も入っている。






これらの写真は違う機会に撮影されたもので、初めのは彼がソロになったばかりの頃で、もうひとつはあとのもの。だから、彼が長年チャップリンを敬愛していたのがわかる。基本的にはキャリアのスタートから終わりまでね。そして、あなたが言ったように自分とチャップリンを同じと見ていた。


エレノア:そうね。それと、子供の頃にMJがチャップリンのスケッチをしていたところを見ても、彼が幼い頃からチャップリンに興味をもっていたのがわかる。それはたぶん、チャップリンがサイレント映画のスターとして、言葉に頼らず身体を使って表現することに並外れた能力を持っていたからだと思う。MJもまさにそうだった。


◎Antiques Road Showに取り上げられたMJが描いたチャップリンのスケッチ
◎チャップリンを含め、MJが描いたいろいろな絵を載せているPinterest


でもそれだけじゃなくて、小さい頃からこの世界で目にする理不尽さに深く心を寄せていたマイケル・ジャクソンの、並外れた感受性と共感力が、チャップリンの持つ平和と調和を目指す姿勢に引き寄せられたのだと思いたいわね。MJの物語を語るために『独裁者』を引用することで、「ヒストリー」はMJの人生とチャップリンのそれとの、驚くほどの一致に気づかせてくれる。

チャップリンとマイケル・ジャクソンはともに世界の調和を思い描いていた。二人とも、そのために世界が変わることが必要で、世界が変わるには、世界が繋がらなければならないと理解していた。そして、二人とも世界中を繋ぐということにかけて優れた仕事をした。チャップリンは、サイレント映画のスターとして大成功することになったボディランゲージによって、ジャクソンは、音楽とダンスという言語を通して。そして、二人は、偉大なアーティストとしても、スーパースターとしても、人々の気持ちや考え方に触れ、世界中に影響を与えた。(③に続く)

(註)__________

(*)マッカーシズム/1950年代にアメリカ合衆国で発生した反共産主義に基づく社会運動、政治的運動。アメリカ合衆国上院議員のジョセフ・レイモンド・マッカーシーの告発をきっかけとして、共産主義者であるとの批判を受けた政府職員、マスメディアの関係者などが攻撃された。これは赤狩りというよりも、リベラル狩りという側面もあった。

1947年、非米活動委員会でハリウッドにおけるアメリカ共産党の活動が調べられ、チャーリー・チャップリン、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーなども対象となり、委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者(ハリウッド・テン)は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された。グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、ダニー・ケイ、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン、キャサリン・ヘプバーン、フランク・シナトラなどが反対運動を行う一方で、エリア・カザンや、ウォルト・ディズニー、ゲーリー・クーパー、ロバート・テイラー、そして1981年に共和党から大統領に就任することになるロナルド・レーガンなどは告発者として協力した。

1950年2月、共和党上院議員であったマッカーシーが、「国務省に所属し、今もなお勤務し政策を形成している250人の共産党党員のリストを持っている」と発言したことは、メディアの関心を集め、これをきっかけに、アメリカ国内の様々な組織において共産主義者の摘発が行われた。この中心となったのが1938年に設立された非米活動委員会である。

マッカーシズムは共和党だけでなく、民主党の一部の議員からも支持を集め、あらゆるマスコミが赤狩りの標的になることを恐れて批判を控えていた中で、1954年3月に放映された番組「See it Now」は、強引かつ違法な手法で自らがターゲットとした個人や組織への攻撃を行うマッカーシーのやり方を鋭く批判した。この一連の放送は、陸軍との対立により強まってきていた大衆によるマッカーシーに対する不信を後押し、反マッカーシー派を勇気づける結果となり、(この経緯は『グッドナイト&グッドラック』として映画化されている)1954年12月、上院は賛成67、反対22でマッカーシーが「上院に不名誉と不評判をもたらすよう行動した」として譴責決議を可決した。

しかし、その後、1995年、ベノナ(ソ連暗号解読プロジェクト)が機密扱いを外され、ソ連の暗号通信の内容が明らかになった結果、ソ連のスパイ行為はマッカーシーの見積もりよりも、さらに大規模なものだったことが判明し、マッカーシーに調査された人物の中に実際にソ連のスパイがいたことも明らかになった。

たとえば、メリー・ジェイン・キーニーはマッカーシーにより単に「共産主義者」とされているが、実際には彼女も、その夫もソ連のスパイだった。マッカーシーにより名指しを受けたロークリン・カーリーは、ルーズベルト大統領の特別顧問だったが、ベノナによりソ連のスパイであることが確かめられた。(マッカーシズムと、ジョセフ・マッカーシーのWikipediaより要約。参考書籍『共産中国はアメリカがつくった』



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by yomodalite | 2015-10-25 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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前回紹介した、HIStory Teaser, Part 1「意志の勝利」の続き、今回はチャップリンの映画『独裁者』との深い繋がりについての考察です。

私にとって、まず嬉しかったのは、以前、推測で書いていたチャップリンとMJの同じポーズの写真について、より確信がもてたことと、


「マイケルの軍隊は、チャップリンスピーチを映像化したもので、だから、最後の曲が “Smile” だった」という私の思いを、より強力に語ってくれたことと、


関連記事:http://nikkidoku.exblog.jp/17145592/


以前訳した「チャップリンのスピーチ」について再び考え直すきっかけになったことです。


また、私がはじめて、エスペラントのことを知ったのは、1985年の坂本龍一の同名のアルバムがきっかけで、そのとき、その言葉は、民族感情に左右されず、特定の民族に有利になったり、不利になったりしない。そんな夢を担った国際言語であると知ったのですが、ヒトラーはそれを「ユダヤの陰謀」と断じ、そのヒトラーのファシズムを揶揄したチャップリンは、共産主義者だと批判され、マッカーシズムによって、国外追放になりましたが、「赤狩り」で悪名高いマッカーシーは、共産主義という全体主義から、アメリカの自由を守ろうとしていました。そして、戦後、アメリカでは、日本よりも遥かに激しくヒトラーを「悪魔化」しましたが、ヒトラーが信じた「ユダヤ陰謀論」や、「人種差別」の精神をもっとも引き継ぐことになっているのは、なぜなんでしょう? ちなみに、それを「秘密結社」のせいにするのも、ヒトラーと同じ考え方ですからね(笑)

でも、チャップリンや、マイケルは、常に、正義や、理想ではなく、人々を分断しようとする力に抵抗し、心から愛と平和のために尽くしたと思う。

前置きが長くなりましたが、エレノアとウィラの会話の続きです。


ウィラ:今週も、エレノア・バウマンと私で、マイケルがヒストリーアルバムのプロモーションのために作った映像作品についての議論を続けたいと思います。前回の記事で話したように、「ヒストリー・ティーザー」は初めて公開されたとき、広範囲で議論を巻き起こしましたが、それはこの映像が、ナチのプロパガンダ映画『意志の勝利』を真似ているように見えるということが大きかった。そして、そこでの会話のように、確かにふたつの映像作品には、興味深い重要な関連性がありました。

しかしながら、ここにもう一本、このふたつの作品をつなぐ役目を担ったような映画があります。チャップリンの意欲的な傑作『独裁者』です。この映画は、『意志の勝利』や、そういったプロパガンダ映画を皮肉ることによって、巧みにナチのイデオロギーに対抗し批判している。『ヒストリー・ティーザー』は、この映画から目立たない形で引用することで、作品の持つ意味をより重層的なものにしていると、私は思います。

というわけで、今回のテーマは、『意志の勝利』と『独裁者』と「ヒストリー・ティーザー」との関連性、そして、それらの影響から、「ヒストリー・ティーザー」をどう解釈するか、です。エレノア、議論の続きに参加してくれてありがとう!


エレノア:ハーイ、ウィラ。こちらこそ、誘ってくれてありがとう。私にとって、マイケル・ジャクソンについて考えたり書いたりすることほど楽しいことはないわ。もちろん彼の音楽を聴くこと別格だけどね。本当のことを言うと、私は、MJの世界史や、映画史に対する理解や知識の広さや深さについて、未だに把握できていないし(いったい彼はいつそんな勉強をするひまがあったの???)、「ヒストリー・ティーザー」にそれら歴史の知識をすべて織り込み、このすごく短い映像作品に、とてつもなく多くの意味を持たせた、信じられないほどの芸術的能力についても、わかったとは言えない。

ただ、ここまでの議論で、私は「ヒストリー・ティーザー」を、様々な映画を引用した、複雑なコラージュだと思うようになったのね。ひとつひとつに、強い思いと歴史的知識が込められていて、それらが合わさって、マイケル・ジャクソン自身の物語になった。白人が支配する社会で名声を勝ち得ていった、パワフルな黒人アーティストである彼の側から語られる物語にね。その物語は、彼の存在や経験をより広い文脈の中に置き、彼個人の経験だけでなく、一部の人間を優位に置き、他を犠牲にするようなシステムに絡め取られた人たちの経験にも、思いを巡らせたものよね。「ヒストリー・ティーザー」は本当に、歴史について、マイケル・ジャクソンについて、そして慈悲について、私たち考えさせてくれる。私はこれを圧倒的に素晴らしい作品だと思うし、他の人もそう思ってくれることを願うわ。

個人のレベルで言うと、HIStory(彼の物語)はTHEIRstory(彼らの物語)へのアンチテーゼ。彼らの物語というのは、メディアによって繰り返し語られる嘘が、そのうち大衆心理に深く根を下ろして出来るものね。それらの嘘は、ヒトラーが「大きな嘘」と読んだものの類で(*1)、あまりに「巨大」で、「事実をそれほどまでにひどくねじ曲げる人がいる」とは誰も思い至らないのね。ヒトラーがナチスドイツにおけるユダヤ人の名誉を損ねるために言ったのもそのような嘘。

『ヒストリー・ティーザー』でマイケル・ジャクソンは、自分を地獄へ陥れたシステムを強く非難することで、自分を守ろうとした。そして、目的を達成するために『独裁者』と『意志の勝利』を使ったのね。

『意志の勝利』を思い出させる映像を使うことで、彼を破壊しようとした文化をナチスドイツにたとえた。そして、『独裁者』のテーマとプロットを引用することで、『意志の勝利』が讃えてしまった悪を明らかにし、そればかりか、『独裁者』の最後の有名な演説にあるような、『意志の勝利』が提示したものに代わるような世界観を提示して見せた。


ウィラ:いい総括だわ。エレノア。ありがとう。


エレノア:どういたしまして。


ウィラ:三つの映像作品を年代順に追っていくうえで、1934年公開の『意志の勝利』と1940年の『独裁者』を比較することから始めなくてはね。まず、前者では、アドルフ・ヒトラーは超人的な人物として登場するけど、『独裁者』は風刺映画だから、チャップリンは彼を傲慢で無能な人間、おばかなアデノイド・ヒンケルとして描いている。ヒトラーを取り巻く神話的なオーラをさらに取り払うため、チャップリンはヒンケルを「Fuhrer」(フュアラ:ドイツ語で指導者)ではなく「Phooey」(フューイ:英語で「ふーん」とか「ちぇっ」といった意味)と呼ぶ。同じように、ヒトラー内閣の閣僚であるヘルマン・ゲーリングや、ヨセフ・ゲッペルスは、チャップリンの映画では、ドジなへール・ヘリングや、へール・ガービッチ(ガベッジ〈ゴミ〉と発音されている)になっている。


エレノア:そして面白いことに『独裁者』の直前、MJの好きなお笑いトリオの「三ばか大将」が出演した、ナチスドイツを皮肉ったもう一つの作品があるのよね。


ウィラ:彼らの短編映画『You Nazty Spy(ナチのスパイめ!)』のことね。ドイツでのファシズムの興隆に対して、ハリウッドが反応したことや、しなかったことを論じた本が新しく出版されて、私はまだ読んでないんだけど、記事によれば、「三ばか大将の作品は、映画館で、ナチスドイツの本質を表現した一番最初のもの」とあるわ。長編映画である『独裁者』は、同じ年なんだけど、それより後に公開されているのね。

『独裁者』という作品の雰囲気は『意志の勝利』とはかなり異なっているけど、作品の意図や視点も違っている。『意志の勝利』では、何もかもが大規模で、もの凄い数の群衆、もの凄い数の兵士、記念碑的建造物、そして、ナチスのリーダーたちは、あえて言うなら、外見的に描かれている。と言うのは、カメラのアングルによって、私たちは彼らを見上げているような格好になっている。まるで台座に載った像や、オリンポスの神々のように。彼らの頭の中にある考えや感情なんて、わからないようになっている。実際のところ、私たちは彼らの人間性なんて見なくていいのよ。だって彼らは、神話的で、神のような存在としてそこにいるんだから。


エレノア:そうね。リーフェンシュタールはあらゆる技術を駆使して、ナチスのリーダーたちをÜbermenschen, つまり「スーパーマン」として描いているのね。


ウィラ:まさしくそうね。対照的に『独裁者』では、チャップリンの映画がいつもそうであるように、全てが等身大で、日々の生活のつらさ、特に権力側に目をつけられているユダヤ人のゲットーに暮らす人たちのつらさが描かれている。それは、チャップリンが二つの役、衝動的に命令を下す独裁者ヒンケルと、独裁者の命令によって人生をまるっきり変えられてしまうユダヤ人の床屋の二人を演じることで強調される。見る側は、ヒンケルと、床屋の場面を交互に見ることで、威張ってるだけで、頭が空っぽで、情緒も鈍い独裁者のファシスト的妄信が、どれほど、床屋や、彼の友達だけでなく、そのコミュニティ全体に危険が及ぶかということが、すごくはっきりとわかる。

そして、二本の映画は似通った事柄、ファシストのイデオロギーが、国の未来やアイデンティティや、自国への意識に与える影響について扱っているけど、そこにある世界観や雰囲気、そして意味するところは、これ以上無いほどかけ離れている。


エレノア:そうね。そして、これらの映画を年代順に考えてみると、『意志の勝利』が作られた1934年から『独裁者』が作られた1940年のあいだに、とても多くのことが起こった。そして、1940年から第二次世界大戦の終わりに起こったことによって、それらの映画の意味や重要性も変わったのよね。


ウィラ:先を聞かせて、エレノア。


エレノア:たとえば、1934年には、ヒトラーやナチスは、第一次世界大戦に敗れたドイツに希望を与え、共産主義に対する防波堤になったと賞賛されていて、リーフェンシュタールの映画も拍手をもって讃えられた。ところが1940年になると、ヨーロッパで戦争が起こり、多くの人々がドイツに対して不安を抱くようになった。結果として、国際世論も変わりはじめ、同じ映画が、非常に疑わしい体制のプロパガンダとして、懐疑的に見られるようになった。

ナチの脅威にみんなの目を向けさせ、ヒトラーのパワーやカリスマ性を損なわせるべく、チャップリンは『独裁者』を作り、1940年の10月にニューヨークでプレミア上映を行った。アメリカが第二次世界大戦に参戦する1年前のことよね。リーフェンシュタールが、ヒトラーを立派に見せようとした方法を参考に、チャップリンは、ヒトラーのふんぞり返った姿を嘲笑し、彼を等身大の人間に描いた。自らの驚くべき喜劇的才能を使いつつ、チャップリンが描いたのは、喜劇とはほど遠い状況だった。

現在では、多くの人が、ナチスをおちょくって批判するなんて、好意的に見ても、適切ではないと考えるでしょう。でも、思い出して欲しいのは、1940年には、ヒトラーの狂気の全体像はまだわかっていなかったし、「最終的解決」(ユダヤ人の大量虐殺計画のこと)も徹底して実行されてはいなかった。後年になって、チャップリン自身が言ってるわ。「ナチの収容所の本当の恐怖を当時知っていたならば、あの映画を撮ることはなかっただろう」って。


ウィラ:それは重要なポイントね。ふり返って見ると、今の人たちには、『独裁者』は悲劇を矮小化していて、無神経に見えるかも知れない。でも、強制収容所のような残虐行為は1940年の時点ではまだ知られていなかったし、あなたが言ったように、実際、最悪の事態はまだ起こっていなかったのよね。それはもっと後の戦争中に起きたことだから。

海外で起こっていることに対するアメリカの態度は、この時点ではすごく複雑だった。アメリカは、1941年12月7日に日本がパールハーバーを攻撃するまでは、公式には参戦していなくて、1940年は、武器や資金援助などの支援を連合国側に供与していた。実は、この国の歴史で唯一の平時徴兵制が始まったのは、1940年の9月で、『独裁者』が公開される1ヶ月前。アメリカは戦争に備えてはいたけど、積極的に参加してはいなかった。それは、第一次世界大戦でたくさんの犠牲者が出たことから、戦争に巻き込まれることをすごく嫌っていたからなのよね。

だから、あなたの言うことはわかるわ、エレノア。『独裁者』を理解し、その価値を知るには、それが製作された頃の歴史的背景を考慮しなくてはね。この時代は、戦争がいろいろな国を巻き込んでいくのを目にしながら、アメリカが大いに迷っていた時期であり、ホロコーストの恐怖の全容がまだわかっていなかった時期なのよね。


エレノア:そうなのよ。そして、第二次世界大戦で明らかになったことは、『独裁者』に対する私たちの感じ方を変え、『意志の勝利』への見方も180度変えたということよね。『意志の勝利』は、第三帝国(*2)の栄光の象徴ではなく、強制収容所と大虐殺の象徴になってしまった。で、「ヒストリー」におけるこれらの映画の使い方についての議論を複雑にしているのは、1940年と1994年の間に再び、このふたつの作品の重要性というのが変化していることなの。それも劇的にね。

「ヒストリー」が作られた1994年には、すでに何世代もの映像作家が、ナチスの残虐行為やその横暴を描く手軽な手段として、リーフェンシュタールのような映像手法を使っていた。だから、私たちはそういった映像が「ヒストリー」に現れた時、即座に嫌悪感を感じてしまうのよね。この映像効果によって、「ヒストリー」は、我々の心の奥深くにある、意識もしていないような感情を呼び覚まし、「集団的な罪の意識」のメカニズムと結びつけ、アメリカ文化の中にある人種差別や広範囲な抑圧の悪を明らかにした。そして、1994年には、『独裁者』はナチスに対する風刺映画というよりも、その役を演じていたチャップリンの栄光が失墜していた。マイケル・ジャクソンと同じような原因でね。(②に続く・・・)

(註)______

(*1)大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ(アドルフ・ヒトラー)

(*2)第三帝国/ナチスドイツを示す言葉として知られている。元はキリスト教神学で「来るべき理想の国家」を意味する「三時代教説」と呼ばれる概念で、まず「律法の元に俗人が生きる『父の国』時代」、そして「イエス・キリストのもとに聖職者が生きる『子の国』の時代」、そして最後の審判の後に訪れる、「自由な精神の下に修道士が生きる『聖霊の国』の時代」の三つに分けられると定義されていて、「第三の国」は、来るべき理想の国であるというニュアンスを持っていた。
その後、保守革命の思想家アルトゥール・メラー・ファン・デン・ブルックが、1923年に著した『第三帝国論』の中で、第一の国である神聖ローマ帝国と、第二の国であるドイツ帝国の正統性を受け継ぐ「第三の国(第三帝国)」の創設を唱え、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)統治下のドイツで、これが盛んに用いられた。(→ https://ja.wikipedia.org/wiki/第三帝国より要約)



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by yomodalite | 2015-10-23 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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(②の続き)エレノア:でも、マイケルとヒトラーをこんなふうに比較するというのは、やっぱり、あまりやりたくないわよね。この映像の持つ毒気にあてられてしまいそう。マイケルがヒストリー・ティーザーでやったことは、それだけリスクが高いことなのよね。


ウィラ:わかるわ。マイケル・ジャクソンとヒトラーを比較するなんて、間違ってるっていう気がするもの。あらゆるレベルにおいてね。信仰心、見識、未来へのビジョン、人の苦しみへの感情的な反応、全てにおいて二人は正反対に見える。でもマイケル・ジャクソン自身、2009年に『マイケル・ジャクソン・テープス』として出版されたラビ、シュムリー・ボテアック(*1)との対話の中で、その比較の話を持ち出していて、彼は、ラビと、ヒトラーやホロコーストについて話している時、恐怖感をあらわにする。

ホロコーストだけでどれだけたくさんの子供たちが死んだか、その数を知ったとき…[泣き崩れる]人は何故そんなことができるんだろう? 僕には理解できない。人種がどうであろうと関係ない。わからない。ちっとも理解できないんだよ。どんな事情があろうと… そんなことは、全く理解できない。誰かに言われて、それほどまでの憎悪に駆り立てられることってあるだろうか。人の心にそんな害をあたえることは、可能なのだろうか。

(マイケルがホロコーストのことを話していて「泣き崩れる」と挿入されているのは、ラビによるもの)このように、マイケル・ジャクソンはナチズムにはまったく反対だった。当然ではあるものの。


エレノア:もちろんそうよ。そうではないと信じることなんて、出来るはず無い。でも、信じた人もいたのよね。そういう人たちは、『They Don't Care About Us』における "kike me" などの歌詞が反ユダヤ的だ(だから彼は「ナチス支持」にちがいない)と信じようとした。マイケルは反ユダヤ人なんかじゃなく、むしろユダヤ人の側に立って発言してたのにね。評論家とかメディアとか、つまり既存のシステムを支持し、そこで成功している人たちは、そのシステムを守ろうとする。マイケルのパワーを弱めるために、彼らはそれを否定し、彼を頑固で頭の空っぽなポップスターと呼び、自分自身を祭り上げ、自分と皇帝を同一視するような高慢で愚かなポップスターだと嘲笑った。マイケルは、明らかに帝国の権力を、憎悪の思想として批判しているのにね。


ウィラ:「憎悪の思想」ね。マイケルもボテアックに言っているように「誰かに言われて、それほどまでの憎悪に駆り立てられることってあるだろうか」ってことよね。憎悪の思想は、マイケルの信条や信念に、100パーセント反しているのよね。でも、そのラビとの会話の続きで、マイケルはこんなことも言っている。

「ヒトラーは天才的な演説家だった。彼はあれほど多くの人々の心を変化させ、憎しみに向かわせた。彼はショーマンの才能があり、実際それを発揮した。彼は演説の前に、少し間をおいて、少量の水を飲み、のどをすっきりさせ、周囲を見回す。それは、エンターティナーが観客を惹き付けるためにやることと同じなんだ。」

エレノア:どうする、ウィラ!これから、MJが1分以上微動だにせず、そのあとゆっくりとレイバンを外そうとする動作を見られなっちゃうわ!


ウィラ:まぁねぇ、期待をかき立てるために「演技」に入るのを遅らせる、というのはヒトラーが発明した手法だとは思わないけど、彼がそれを非常に効果的に利用したのは確かで、マイケル・ジャクソンもそうしたのよね。そんな風に考えると、確かに動揺するけど、でも事実なのよね。

だからって、マイケル・ジャクソンを、ナチス支持者だと考えるのは、全くの間違いで、一部の批評家は、先述のラビの本にあるような一節を根拠にそう言ったけど、実際は、シュムリー・ボテアック自身が、繰り返しマイケル・ジャクソンを擁護していて、マイケルを糾弾している人たちは、自分の発言を曲解していると述べている。2009年11月にハフィントン・ポストに載った記事でも、2012年の記事でも彼はそう言っているのよね。

ただ、マイケル・ジャクソンをナチス支持者と呼ぶのは間違いにしても(大間違いで、彼は全く正反対の立場だった)マイケルが、良い目的にしろ、悪い目的にしろ、観客を惹きつけ、操ることのできるパフォーマーの力を理解していたのは確かで、彼がヒトラーをそのような観点から、つまり「天才的な演説家」「ショーマン」といったパフォーマーとして見ていたというのが、すごく興味深いことよね。シュムリー・ボテアックはこのことについて、確認のためにこう尋ねている。

「君はヒトラーとは真逆なんだろうか? 神は驚異的なカリスマ性を君に与えた。ヒトラーが、人間の獣性を引き出すとしたら、君は人間の純真さや善良さを引き出したいと考えている。」

マイケルはボテアックの言うことにうなずいて「僕はそう信じている」と言うのよ。


エレノア:そう。彼は幼い頃から、自分には果たすべき役割、使命があると信じていた。私もそうだっただろうと思う。


ウィラ:それが使命だったのかどうかは、私にはわからないけど、確かに彼は、文化的に驚くほどパワフルな存在になったわ。文字通り、世界を変えるようなね。

だから、扇動者としてのヒトラーの技術と、彼のイデオロギーを切り離して考えることが重要ね。マイケル・ジャクソンは、ヒトラーのメッセージに対しては嫌悪しか感じていないけど、ヒトラーの持つカリスマ性やメッセージを伝える能力については、高く評価せざるを得ないと言っているのよ。ヒトラーは自分の才能を、偏見や憎悪を広めるために使った。自身がダイアン・ソーヤーに語ったように、マイケルはヒストリー・ティーザーで、同じテクニックを、「愛」を広めるために、正しく使おうとした。あるいは「欲求」を広めるために、かな。実際は「欲求」の比重が重いかも。でも、欲求(欲望)というのは愛と密接に結びついたものだから。


エレノア:そうね。そして、欲求(欲望)は明らかにカリスマと結びついている。カリスマとは神秘性なんだけど、その神秘性を理解することにMJは非常に強い興味をもっていた。

カリスマ性というのはテクニックを超える。伝えるべきメッセージと、伝える人のパワーが両方あって、初めて成立する。

そのパワーとは、集まった人々の心の深くに入り込み、深いところにある欲望や願い、あなたの言う欲求(欲望)のことだけど、生存本能とも結びついた魂の奥底にある気持ちを、満足させる力ね。ヒトラーは、ドイツ国民の中にある欲求をかき立てた。彼らの中にある生存本能に訴え、生き残れるかどうかは彼にかかっていると思わせてね。そして、彼がリーダーになれば、生き残れるだけではなく、第一次世界大戦の荒廃の中から、立ち上がり再び輝くことが出来ると。


ウィラ:それはすごく重要なポイントね、エレノア。それは、『意志の勝利』と『ヒストリー・ティーザー』のもう一つの類似点を明らかにする。どちらも、深い屈辱と敗北の余韻のなかで撮られた映像作品ということ。『意志の勝利』の最初の画面には、次の言葉がある。


1934年9月5日

第一次世界大戦の勃発から20年

ドイツの苦難の始まりから16年

ドイツの再生の始まりから19年

アドルフ・ヒトラーは再びニュルンベルグに降り立ち軍事パレードを行った。


つまり映画は、ドイツの第一次世界大戦敗北と、それに続く困難な経済状況という、ドイツにとって本当に大きな苦難の時代を背景にして作られたわけ。

そしてマイケル・ジャクソンは、偽りの児童虐待の申し立てがあった後の1995年にヒストリー・ティーザーを作った。それはマイケルにとって、大きな苦難の時代で、世界中の人が彼のメッセージを曲解し、彼を小児性愛者と呼んでいる時期だった。

でも、屈辱や苦難にもかかわらず、どちらの作品も、自分は負けない、下を向いたりしないと宣言している。

マイケル・ジャクソンは、他の人間が自分にレッテルを貼ることを許さない。自分のレッテルは自分で貼ると。そして、ドイツ人も同じ宣言をしている。マイケルとドイツ、両者とも自分の力で再び立ち上がるのだ、とね。『意志の勝利』の最初の記述が示すように、この映画は「ドイツの再生の始まり」を記録し、祝福している。


エレノア:でも、ヒトラーが見せたのは、単なる再生の未来図ではない。それは、征服の未来図でもあった。生まれ変わったドイツが、その優位性を他の国々に見せつけるという未来図。その結果がどうなったか私たちは知っているわけだけど。


ウィラ:まったく、その通りね。だから今この映画を見ると、このあと何が起こったか知っているから、ぞっとするのよね。


エレノア:そしてリーフェンシュタールの映画は、ヒトラーの示した未来予想図が現実のものになって欲しいという欲求を生み出すために、つまりヒトラーの構想はすなわちドイツ国民が生きのこる道であることを示し、ヒトラーを彼らの英雄、救世主に見せるために、とても重要だった。そして欲求は生み出され、それはあなたの言うように「殆ど恋愛といってもいいし、性的悦楽ともいえる」

集団として生き残る、民族あるいは国家として存続していくには、他の国や民族との関係だけ考えていてもだめよね。世代から世代の生存を確実にするのは、性的な関係によるのよ。

だから、生き残りを呼びかけることは、性的な欲求を持とうと呼びかけることでもあるわけ。ヒトラーは「肉の肉」という言葉を使っていて、リーフェンシュタールはそこを取り上げているわけだけど、これは、アダムとイブ、そして性愛を呼び起こさせるために、彼が意図的に使ったんじゃないかな。

つまり、『意志の勝利』はある種の性的表現としても解釈できる。そこに出てくる映像は全て、優越性と力と強さに関するもので、言い換えれば、マッチョ的なもの。

冒頭には、上半身裸の美しい青年たちが早朝の霧の中に姿を現す場面があるわよね。男性の美しさを政治的軍事的パワーを結びつけることで、戦場での武勇と性的逞しさを結びつけている。


ウィラ:なるほど。それは考えたことがなかったわ。でも確かに、『意志の勝利』は、いろいろな形の男性パワーを見せた場面にあふれている。


エレノア:で、あなたが言ったように、『ヒストリー・ティーザー』は、『意志の勝利』と同じように、期待を呼び起こし、性的欲求をかき立てる

『意志の勝利』の冒頭でヒトラーが殆ど登場しなかったように、MJも殆ど姿を現さない。本当に、MJが見えるところは少ないわよね。でも、彼が現れるところは本当に面白いの。彼の美しい笑顔が大写しになる前に私たちが見るのは、セクシーなブーツとぴったりしたパンツ。それから彼が歩くところが見えるのだけど、その歩き方がすごい。もう威風堂々って感じで、圧倒的な自信に満ちているのね。

そして、彼は兵士たちに共感と敬意を示すために敬礼をして、場面は転換ていくんだけど、その敬礼の直前にカメラがフォーカスするのは… 彼の股の部分よ!すごく独特で、でもすごく効果的な、男らしさの表現よね。

でも、マイケル・ジャクソンによって体現される男らしさは、人間らしさもそうだけど、他の人間を征服することとはまったく関係なく、彼に対する欲求も、“bodice-rippers”(ヒロインが性的に暴行されるシーンを含む恋愛小説)に見られるような、征服されたいという欲求とも関係しない。

ナチス第三帝国の元にもなった帝国主義の根本原理が掘り起こされ、社会に急進的な変化がもたらされること、それは、地球や人類の生存を脅かし、人類の一員である彼自身の生存をも脅かされることであり、マイケル・ジャクソンは、自分のアートの力で、生き残るための新たな方法論、つまり、人々にとっての新しい欲望のありかたを生み出さなくてはならなかったのね。


ウィラ:それがあなたの本のタイトル『The Algorithm of Desire(欲望のアルゴリズム)』に結びつくわけね。つまり、私たちは一回りして同じところに戻ると…


エレノア:そう。どうしてそうなるかっていうと、欲求(欲望)の形が集団の存続を規定する。時代から時代、世代から世代への存続をね。

帝国はそのような存続の基礎を、「分断して統治する」(*2)というアイデアの元に作る。

急進的な変化に対して、マイケル・ジャクソンは、生存のための道(他国や他の国民への関与や性的欲望)を、「分断して征服する」という観念から、切り離さなければならなかった。そして、そのためには、性愛の観念も定義し直さなくてはならなかった。

私は、彼はそうして見せたと思ってる。私たちの感情の奥深くに届き、影響をあたえる自らの芸術の力を通して、彼は新たな連帯を生み出した。彼は私たちの脳の配線を変え、人々が惹きつけられるものに変化をもたらした。一人のスリムな若い男性が引き受けるには大きすぎる任務よね。それでも、彼はやり遂げた。


ウィラ:そうね。でも、性愛の観念を定義し直すということは、彼のキャリアの中で、ずっとやり続けてきたことよね。つまりね、彼は最初は黒人のティーン・アイドルで、世界中の何百万というティーン・エイジャーの欲求の対象だった。白人、黒人、アジア人、全ての人種のティーンたちが、彼を求めたのよ。それ自体が、とても力強い、性愛の新しい定義だったと思うの。

それと、彼は、先人たちとは非常に異なったやり方で、セクシーな存在になった。彼はこの上なく魅力的だったけど、マッチョ的な要素はなかった。男性がセクシーであるということの定義を変えたのよ。


エレノア:そう。女性たちもそれを肯定した。(*3)


ウィラ:面白いわね。じゃあ、あなたは、『ヒストリー・ティーザー』の中でマイケルがやろうとしたことは、軍事力や、性的暴力性といった、帝国主義の男らしさに結びついているものを壊すことだったと思うの?


エレノア:まさに、とてつもなく素晴らしい方法でね。だって、現代の記憶の中で、優越性を利用した体制としてもっとも悪名高いナチスドイツを引用するというのは、帝国主義を批判する最高の方法じゃないかしら。ナチスドイツを表現するとき、ヒトラーの演説と、リーフェンシュタールの芸術の両方のテクニックが見られる『意思の勝利』を、自分の言いたいことを表現するために使う以上の方法はないわよね。

私たちが話してきたように、『ヒストリー・ティーザー』は、マイケルの人生の中でも特に困難な時期に作られてはいるけど、もっと大きな視点で見ることもできる。マイケル・ジャクソンが世に出てきたのは、人々がこれまでの解決方法に自信を失い、新しい何かを探していたときだった。彼は、潮目が変わったことに気づいていた。「潮をよめ。満ち潮にのれば、幸運に通じる」(*4)彼は、その流れを捉えたのよ。

『ヒストリー・ティーザー』が私たちに見せてくれるのは新しいタイプのヒーロー、征服よりも慈悲に身を捧げるヒーローの姿ね。彼の芸術の力は、見るものの生き方を変えるほどに、心の奥底を揺さぶる。目も心も開かれて、私たちは物事を違ったふうに感じたり見たりすることが出来るようになる。死の舞踏ではなく、生命のダンスを踊りたくなるのよ。


ウィラ:そしてこの「新しいタイプのヒーロー」像はチャーリー・チャップリンの素晴らしい風刺映画『独裁者』にも見ることが出来るわね。この映画もまた、『意思の勝利』を引用しつつ批判する形で作られていて、『ヒストリー・ティーザー』に多大な影響を与えている。次の記事では、この映画に焦点を当てながら議論を続けていきましょう。

ではひとまず、ありがとう、エレノア。あなたのおかげで、たくさんのことが議論できたわ。


(ティーザーについての会話Part①を終了)


この会話の続き・・・


訳者註 ____________________


(*1)ラビ・シュムリーの名字

現在のワード検索では「シュムリー・ボティーチ」という表記も多いのですが、英語圏の発音として「ボティーチ」は遠すぎます。アメリカの番組などで彼が紹介されている際の発音に会わせて「ボテアック」を推奨します。


(*2)分断して統治する

分断統治の手法は、ローマ帝国時代や、あるいはそれ以前から存在したと言われるほど、歴史のあるもので、もっとも大きな統治としては、世界覇権国(帝国)が、各国を統治するため、各隣国との交流を制限し、周辺諸国がまとまって、帝国に襲い掛かることを防ぐための方法。

◎参考記事[世界史の窓]分割統治

http://www.y-history.net/appendix/wh0103-023.html

たとえば、現在の世界帝国であるアメリカと敵国関係にあった日本の場合、敗戦後、中国、韓国・北朝鮮、ロシアと独自に交流をもつことは、米国によって厳しく監視されている。また、国内政治においては、権力者層が社会を統治しやすくするため、外交問題をクローズアップし、内政に対する民衆の批判を、国の外側に攻撃の矛先を向けるため、仮想敵国を演出するという方法や、経済格差、人種、宗教、イデオロギーや、性的嗜好など、さまざまな分類を利用したり、また新たな枠組みをつくるなど、市民の結束を分断し、弱体化させるといったことが、反乱を防ぐために使用されている。分割統治の手法は、政治だけでなく、経済分野においても、さまざまに利用されています。

◎参考記事「サラミ戦術」

https://ja.wikipedia.org/wiki/サラミ戦術

右翼、中道主義、左翼、それぞれの中で意に沿わない者を分類し、より細かく(分割)していくことで、各勢力の弱体化を図り、独裁体制を完成させていくような手法。

ヒトラー率いるナチスも、潜在する反対勢力に対し部分戦略を用い続け、対立政党だけでなく労働組合も滅ぼし、既存の組織は次々に、ナチ党の傘下組織に取って代わり、最高法官として全権が委ねられたヒトラーは、最終的に全市民に対する生殺与奪の権利を掌握した。

また、安倍内閣不信任決議案の演説で、枝野幸男氏は、平成25年7月29日に開催されたシンポジウムでの麻生副総理の発言を引用し、こう述べています。

「3分の2という話がよく出ていますが、ドイツは、ヒトラーは、民主主義によってきちんとした議会で多数を握ってヒトラーは出てきたんですよ。ヒトラーは選挙で選ばれたんだから、ドイツ国民はヒトラーを選んだんですよ。だから静かにやろうやと。憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法が変わってナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気づかないで変わった、あの手口学んだらどうかね、ワーワー騒がないで。本当にみんないい憲法だとみんな納得してあの憲法変わっているからね」。

結論部分を除けば、私も認識は一緒です。まさにナチスドイツは武力クーデターで独裁を作ったのではないんです。ワイマール憲法という、当時の世界においてはもっともと言っていいくらい進歩的な憲法のもとで民主的なプロセスを経て権力を握り、そうやって得た国会の議席の力で、いわゆる権力委任法という法律でワイマール憲法を事実上停止をし、そして独裁に走った、まさに時代認識はそのとおりです。その手法に学ぶというようなことを堂々とおっしゃっている。まさに今やっていることは、それそのものではないのでしょうか。

演説の動画)

https://www.youtube.com/watch?v=EtY6P7aj0gc

テキスト書き起こし)

http://tekitoeditor.hatenadiary.jp/entry/2015/09/20/183144


(*3)原文では、Eleanor : Yes, she said yes….で、ウィラの反応は、「Ha! That’s funny. 」なので、The Girl is Mineの台詞、Michael : Well, After Loving Me, She Said She Couldn't Love Another → Paul : Is That What She Said → Michael : Yes, She Said It, You Keep Dreaming と関連しているのかも。。


(*4)シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の4幕3場、

There is a tide in the affairs of men. Which, taken at the flood, leads on to fortune; Omitted, all the voyage of their life. Is bound in shallows and in miseries. 

人の成すことには潮時というものがある。うまく満ち潮に乗れば成功するが、その期をのがすと、一生の航海が不幸災厄ばかりの浅瀬につかまってしまう。

というセリフを下敷きにしていると思われる。


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by yomodalite | 2015-10-01 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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(①の続き)ウィラ:実を言うとね、私は『意志の勝利』をこれまできちんと見たことがなかったんだけど、ようやくYouTubeで全編見ることが出来たわ(まったく、YouTubeには何でもあるのね!)。ナチスの活動すべてが、どれほどひどい過ちだったかわかっているだけに、この映像を見るのはすごく気が重かったのよね。。



Triumph of the Will 『意志の勝利』






エレノア:今回あなたと話すことになるまでは、私も見たことがなかったのよ、ウィラ。断片的にしかね。でも、見てみたら同じように感じたわ。私もヒストリー・ティーザーでさえ気が重かったんだから。


ウィラ:さっきあなたが言ったように、『意志の勝利』は、とても心が乱される作品ね。あのファシスト的なイメージも見るのをためらわせる原因のひとつ。でも、予想していたものとはまったく違っていて、驚くほど、マイケル・ジャクソンに直接つながるような面もあった。


HIStory Teaser





たとえば、あの映画は、ヒトラーがナチズムを若者主体の運動として構想したことを強調している。ヒトラーは、映画の中で5回とても短い演説をするのだけれど、おそらく最良の演説は、画面いっぱいに見える12歳の少年の集団に向けられたもので、(このシーンは45分くらいのところ)彼はこう言ってるの。

「我々は、ひとつの国民にならなければ。そして君たち若者が、その国民なのだ。階級による差別はない。君たちの中にそんなものがあってはならないのだ」

つまり、ヒトラーは自分のメッセージを子供たち、思春期前の子供たちに向けて発していて、彼らみんなが「ひとつの国民」になるのだと強調している。これは、マイケル・ジャクソンっぽい考えよね。さらにヒトラーはこう言うの。

「そして、そうでなければならないのだ。なぜなら、君たちこそ我らの肉の肉、我らの血の血なのだ。君たちの頭の中には、我々が従っているものと同じ精神が燃えさかっている」

これらの言葉、「君たちこそ純粋なる我らの肉の肉、我らの血の血なのだ」すごく私の心にひっかかったの。ふたつの理由でね。ひとつは、ヒトラーは「階級の差別なく」「ひとつの国民」だと言いながら、全ての人間が平等だとは思っていなかった、全てのドイツ人が平等だとさえ思っていない。むしろ正反対だった。彼は人をグループ分けし、明確な差を設けようとした。ユダヤ人と非ユダヤ人、黒人と白人、異性愛者と同性愛者、健常者と障害者、特に遺伝的な障害を持った者、というふうにね。

ヒトラーは、映画での最後の演説で、このことをそれとなく仄めかしている。「かつてバラバラだったこの国は、いまやひとつの高い理想に導かれている。我々は最良の血を継承するものなのだ」と言っているの。この「血」の問題は、ヒトラーにとってもの凄く重要な問題なのよね。なぜなら、彼は人種的純粋性という自分の考えを広めるためにこれを使ったのだから。


エレノア:そうね。今ふり返ると、これらの言葉に背筋が寒くなるわね。ヒトラーが言っているのは、単なる「血」ではなく、「最良の血」のこと。神によって作られた、「我が国民」の血。

「より優れた摂理に基づかなければ、何事も生まれはしない。この摂理は、地上にいる指導者から与えられるものではない。それは、我が国民を造り賜うた神から与えられたのだ」

これらの言葉で、ヒトラーは、自分の野望を裏付けるために、創世記にある創造の物語にふれ、ナチスが主張する社会的政治的秩序、つまりファシズムなんだけど、それは、神からもたらされたもので、ドイツ国民は(少なくともその一部は)神に似せて、完全なる姿で造られており、完全かつ超越的な精神を備えていると主張する。これが、リーフェンシュタールがヒトラーとナチスについて描いた方法では、「意志」として示されている。

ヒトラーは、カトリックの家に生まれたけど、彼には信仰心はなかった。でもドイツ国民の多くにはあった。だから、自分のやろうとしていることを正当化するために、ヒトラーは自分の主張を、キリスト教の信仰の枠組みに結びつけたのね。この映画をよく見ると(そしてヒトラーについて私が知っている一般的知識によると)、彼はドイツ人とナチ党と彼自身の野望を、神の意志の純粋な表現であると宣伝しているように見えるわね。


ウィラ:だから、タイトルが『意志の勝利』なのね?私はずっとこのタイトルの意味がわからなかったんだけれど。


エレノア:まぁ、それは私の推測なんだけど。

でも、意志というのは精神のはたらきであり、「あなたの意志はなされた」という場合の神の意志というのは、よく知られたキリスト教の重要なコンセプトよね。

また、「意志」という言葉は、ショーペンハウエルの著書名『意志と表象としての世界』をも思わせる。神話を造ることにきわめて優れていたリーフェンシュタールは、おそらく意識的、無意識的に、多くの連想を仕掛けている。ひとつの言葉で可能な限り大きな効果を生み出すというふうにね。

MJもまったく同じで、4分間のビデオの中にいろいろな連想を組み込んで、絶大な効果を生み出そうとした。『意志の勝利』は、リーフェンシュタールがヒトラーが抱いた優越性の神話を形にしたもの。ヒトラーの意志、ドイツ国民の意志、そしてドイツ国民そのものが、リーフェンシュタールによって神話化され、『意志の勝利』という形になったのよね。でも、今見てみると、ここにあるのはヒトラー自身の意志の勝利よね。

他の人間をコントロールするために自らの意志を行使する者は、つまりヒトラーの言うところの「支配民族」よね、そういう人たちは、(精神に対して)肉体と同一化される人たちよりも生まれつき、必然的に優位に立っていると見なされ、それが組織的な人間機械化、搾取、虐待、そして他者、特に他人種の撲滅(これはナチスの場合)の理屈づけとなる。ヒトラーの世界では、「最高の血」を受け継ぐアーリア人だけが、完全な人間として見なされ、他の人種は社会の害虫として駆除されるべきものになったわけ。


ウィラ:「最良の血」というその考え方が、どのように人種差別や大量虐殺を正当化していったかを思うと、背筋が寒くなる。で、一方マイケル・ジャクソンだけど、彼にとっても「血」のイメージというのはすごく重要なんだけど、それは真逆の理由、人々を人種や、他の人為的な区分けによって分断することを否定するために重要だといういう点が、特筆すべきことね。それこそ彼がヒストリー・ティーザーで比喩的に表現したことだと思う。ヒトラーが提唱した文化の物語を、まったく反対の意味にとらえるということ。

マイケル・ジャクソンの視点では、血というのは、私たちを(分断じゃなく)まとめる、ひとつの要素よね。

私たちはみんな、どんな人種だろうと、どんな宗教だろうと、国籍だろうと、みんな血管には血が流れている。傷を負えば、だれでも血を流す。人間の血液は、私たちはみんな、「ひとつの同じ仲間」、同じ人間であることを示すものなのよ。マイケル・ジャクソンはこのことを、「Can You Feel It」なかで美しく歌い上げている。「僕たちは皆同じ。そう、僕の体を流れているのと同じ血が、あなたたちの体にも流れている。僕の血管とあなたたちの血管には、同じ血が流れている」と。


エレノア:そうね。彼は、ある人が他の誰かよりも人間らしい、なんていう考え方を否定しただけではなく、分断ではなく協調という点から、人間であることの意味を問い直したのよね。精神と肉体、人間と自然を結びつけ直してね。

彼の考えには分断は存在しない。すべての人が同じ円の中に包まれる。


In my veins I’ve felt the mystery

Of corridors of time, books of history

Life songs of ages throbbing in my blood

Have danced the rhythm of the tide and flood


僕の血潮に感じる神秘

時の回廊、歴史を紡いできた書物

僕に流れる血の中で、幾時代もの生命の歌は

寄せては返す波のようなリズムを踊る

ヒトラーは、血をドイツ国民に特有の心と魂(そして意志)の象徴として使った(「君たちこそ我らの肉の肉、我らの血の血なのだ。君たちの頭の中には、我々が従うものと同じ精神が燃えさかっている」)マイケル・ジャクソンは、ヒトラーとは違って、血を、私たちみんなに共通した、生命の力を象徴するものとして使っている。人間を含めた全ての命は、自然の中にある聖なる力の表れであり、それは私たちの肉体に、血管に脈打っているものだと。

ヒストリー・ティーザーにおける彼の役割は、支配的な人々や、支配的な構造にかわるものを提示し、それらを否定すること。繰り返し「人間性」を表現してきた男という彼自身のイメージと、帝国のイメージ、もっと言えば、黒人である彼と同じく抑圧された人々を、ゲットーに押し込めるような(そしてもっとひどいことをした)帝国のイメージを並列することによって、ヒストリー・ティーザーは、帝国主義における「完全なる人間」がいかに非人間的であり、残酷であり、邪悪であり、生命よりも死をもたらすものであるかを明らかにしている。

マイケル・ジャクソンの世界では、誰かが他の人より「完全な」存在であることなどない。人種や性別や宗教や国籍によって、他よりも価値があるとか、価値がないとか、判断される人などいない。

マイケル・ジャクソンの世界では、人は分断されて、優位性を得ようとするのではなく、親族のようにつながって共感しあう。支配から共感へと転換するのよ。

もし、その人間の心からの願望が、「完全なる人間」のクラブに加わることなら、帝国主義の価値観や、既存の秩序を肯定するでしょう。でも、そのクラブへの入会や、そのクラブに関わるあらゆることを拒否するなら、その人にはマイケル・ジャクソンのパワーが備わっている。そういった人間は、既存の権力構造を打ち破ることができる。それゆえ、彼は危険だったのよ。


ウィラ:そうね。ただ、マイケルの「パワー」というのは興味深くて、彼はそのパワーの多くを私たちの欲求から得ている。彼は、私たちの欲求に反応することで、未来へのヴィジョンを描いている。それと、これはかなり突飛な意見なので、私が説明し終わるまで、少し待ってほしいんだけど、

ヒトラーと、マイケル、『意志の勝利』と『ヒストリー・ティーザー』には、もうひとつ重要な類似点があるのよね。

私が『意志の勝利』にすごく驚いたのは、そこに私が予想したような、ナチスの価値観を正当化するための長い演説など無かったこと。実際、ナチスのイデオロギーについてはそれほど詳しく言っていないし、ヒトラーの演説もすごく短くて、たいてい2,3分。最後の演説が一番長いんだけど、それでもたった9分くらい。プロパガンダ映画なんだけど、レトリックで見る人を誘導することに主眼を置いてないみたい。そうではなくて、この映画の目的は、欲求を生み出すことのように思える。主に、ヒトラーへの、そして生き生きとして、健康的で、強いドイツへの欲求ね。

『意志の勝利』の冒頭は、20分にわたる映像と音楽で、言葉はない。20分って長いわよね。特に2時間も無いような映画では。

そして、観客は、冒頭の20分間、ヒトラーを見ることは殆どない。そのかわり目にするのは、ニュルンベルグの美しい建造物の空撮映像(このとき観客はヒトラーと一緒に空からニュルンベルグへ舞い降りていく感じ)や、俯瞰画像、それから、ヒストリー・ティーザーに出てくるような、おびただしい数の兵士、数え切れないほどの隊列が、ヒトラーが演説するあろう場所に向かって行進していく姿よね。

それからヒトラーの乗った飛行機が着陸して、飛行機のステップを下りてくる彼の姿がチラッと映る。そして、彼の自動車パレードが街に入ってくる。でも観客が一番目にするのは、ヒトラーではなくて、群衆が熱狂的に彼を迎える様子よね。

これらの映像の目的は、期待感を煽ることであり、欲求をかき立てること。ヒストリー・ティーザーは、これとまったく同じやり方で始まる。

前半は軍隊が街の中心に行進したり、製鉄所労働者が主人公の到着に備える様子が出てくる。叫ぶファン、興奮する子供たち、失神する女性たちの姿も見える。でも、マイケル・ジャクソンその人は殆ど出てこない。彼の顔が見えるのは、前半も半ばを過ぎてから。それも、ほんのチラッと。

だから、ヒストリー・ティーザーの前半っていうのは、『意志の勝利』の冒頭20分間とほぼ一緒。どちらも、期待感をあおり、欲求をかき立てているの。よく似たタイプの欲求をね。それは、殆ど恋愛的欲求といってもいい、性的悦楽への欲求とさえいえる。だから余計に、「君らこそ我らの肉の肉、我らの血の血なのだ」という言葉にどきりとするのよね。

聖書の創世記において、アダムはイブに、おまえは「私の肉の肉」と言うんだけど、この言葉はよく結婚式でくり返される。

それで、ヒトラーがこの言葉を言う時、彼は巧妙なやり方で、彼と聴衆の関係は、男性と女性の結びつきと同じだとほのめかすわけ。そして、マイケル・ジャクソンは、自分の歌や映像の中でくり返し同じことをほのめかしている。つまり、マイケルとファンとの関係は、一種の恋愛関係だと。その考え方は、『意志の勝利』でも『ヒストリー・ティーザー』でも、群衆の様子が多く撮されていること、特に、愉悦の境地にいるかのように意識を失い、倒れる女性たちの様子が撮されていることで強化される。


エレノア:あなたの言うとおりだわ。リーフェンシュタールは、ヒトラーに恋していた。ドイツ人全部がそうだったんじゃないかしら。そして、ドイツ以外にもヒトラーの信奉者はいた。たとえばウインザー公爵夫妻とか(*1)。私は、Expressというサイトで、2009年に書かれたというこの記事に出会った時は本当にショックを受けたわ。記事には、「かつてその英国王族は記者に、ナチスの独裁者が失脚したら、それは世界にとって悲劇であると語っていた」とあるの。ヒトラーは、ドイツ国民にとっての正当なリーダーであるだけでなく、偉大な男だ、と英国の元王族が主張したのよ。


ウィラ:すごいわね。その記事にあることは、すべてがショッキングね。公爵が一時的にヒトラーを支持したことは知ってたけど、それは早い時期、戦争の前だと思ってたわ。戦争になってからもそれが続いていて、ドイツに情報を流し、英国を助けようとするルーズベルトの邪魔までしようとしたとはね。もしそれが本当なら、彼が王位を放棄したのは幸いだった。これについてはもっと調べたいと思うわ。

でも、リーフェンシュタールとヒトラーの関係は複雑ね。最近クインシー・ジョーンズが、彼女とランチを共にした時の話をしているインタビュー記事を読んだんだけど(*2)、彼が話している感じでは、彼女はナチスの指導者やヒトラーに対して、どちらかというと否定的で、誰もがコカイン中毒だったと語っているようね。(ジョーンズはさらに、「コカインは、恐れや困難を、暴力で解決させる」と言っていて、これはナチスの指導者との関わりで考えると非常に興味深い)

もっとも、クインシー・ジョーンズがリーフェンシュタールと会ったのは、第二次世界大戦が終わってから長い時間が経った後で、ナチスがやったことの恐ろしさも十分に明らかになった後だった。おそらく彼女の気持ちは、1934年に映画を撮ったときとは、かなり異なっていたはず。1934年には、まだ強制収容所や、その他の非道なことは起こっていなかったし、ヒトラーはドイツの新しい夜明けを約束してくれる一種の救世主のような存在だったんだものね。


エレノア:私もその記事は読んだわ。でも、クインシー・ジョーンズがリーフェンシュタールに会ってたなんて、面白いわよね。


ウィラ:ほんとよね。


エレノア:その記事で、クインシーはリーフェンシュタールの大ファンだと言ってるのね。MJは『意志の勝利』について、クインシーから教わったのかしら。私は、MJがチャップリンに興味をもっていたからかと思っていたんだけど。


ウィラ:私もまったく同じことを考えたわ。もしそうだとすると、マイケル・ジャクソンが『ヒストリー・ティーザー』に『意志の勝利』を使ったことに、新たな見方が出来るわね。


エレノア:あなたが言うように、二人が会ったのは、第二次世界大戦のずっとあと。『意志の勝利』を撮っていた頃の彼女はこう言っている。

「私にとって、ヒトラーは歴史上最も偉大な人物です。彼はまったく非の打ち所がなく、誠実でありながら、男らしいパワーに溢れています。彼は実に美しく、賢明です。光り輝いて見える。ドイツには、フリードリヒ、ニーチェ、ビスマルクなど素晴らしい男性たちがいましたが、彼らには欠点がありました。ヒトラーを慕う人たちにも欠点はあります。でも、彼だけは、純粋無垢。」

これらの言葉は、私には、恋する女性の言葉に思える。もしリーフェンシュタールの言葉が、大衆のヒトラーに対する感情を代表するものなら、ヒトラーの魅力によって欲求がかき立てられたわけよね。


訳者註__________


(*1)ウインザー公爵(=エドワード8世 イギリス王)

王位を捨てて結婚した「王冠を賭けた恋」など、ロマンチックなエピソードで有名ですが、人種差別的発言や、ヒトラーや、ムッソリーニなどのファシストへの親近感についても指摘されている。

(*2)Quincy Jones interview (The Telegraph)




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by yomodalite | 2015-09-29 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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☆この記事の「まえがき」はこちら

source : https://dancingwiththeelephant.wordpress.com/


ウィラ:おそらく、マイケル・ジャクソンの作品の中で私を最も当惑させるのは、アルバム『ヒストリー』のプロモーションビデオで、「ヒストリー・ティーザー」の名前で知られているものでしょう。

大まかなところでは、1934年に作られた、レニ・リーフェンシュタールによる、ナチのプロパガンダ映画『意志の勝利』を基にしているのですが、この映画がマイケル・ジャクソンのビデオの発想のもとになるなんて、まったくありえないというか、私には信じられなかった。それで、このビデオについてどう理解していいのかと何年も考えてはきたものの、納得のいく答えは見つけられず、なにか重要な意味が込められているのに、自分にはそれが見えていないという、もどかしさを抱えてきました。


そんなとき、私たちの友人エレノア・バウマンが、『The Algorithm of Desire(欲望のアルゴリズム)』三部作を書くに当たって資料を精査してみたら、この論議を呼ぶ映像について新たな考察が出来るようになったと言うのを聞いて、俄然やる気が湧いてきて・・・ありがとう、エレノア。あなたが新たに見つけたことをぜひ聞きたいわ。



エレノア:こんにちは、ウィラ。マイケル・ジャクソンについて現在進行中のとても重要な議論に参加させてくれてありがとう。すごくワクワクするし、学ぶことが多いわ。ヒストリー・ティーザーに頭を悩ませているのは、あなただけじゃない。実際私もどう考えていいかわからなかったし、表面的に見れば、あのビデオはMJが誇大妄想狂だということの証明になってしまいそうだものね。



ウィラ:多くの批評家はそう解釈したわよね。ダイアン・ソーヤーは、1995年にMJとリサマリー・プレスリーにインタビューしたとき、そういう批評を紹介している。


批評家は、あのビデオを「ポップシンガーが、かつてないほど厚顔無恥に、空虚な栄光に彩られた自己神格化を大真面目にやった例」だと言った


というふうにね。彼女はまた、ナチスのイデオロギーを広めているように見える軍隊のイメージの使い方を問いただすのだけれど、マイケルはそれを否定する。するとダイアン・ソーヤーは、例のビデオを見せて、そのあと、自分も批評家の言っている通りだと思うと、かなりはっきり言うのよね。




(その部分はインタビューが始まって21分くらいのところ)




☆こちらの記事の後半で、

インタヴューの主要な発言を紹介しています

http://nikkidoku.exblog.jp/14511016/




エレノア:当然そうでしょうね。批評家もマスコミもMJを「理解」したことなんてないもの。ダイアン・ソーヤーもそうだったように、彼があれを「大真面目に」やっていると思い込むっていうのは、あのビデオの意図をまったく理解していない証拠。MJという人間を、彼が何をめざしていたかを理解する点において、そういった批評はまるで意味をなさない。


ただ、それでも問題はのこる。私たちがMJについて知っていることを前提にすると、ヒストリー・ティーザーにはどんな意味があるか、っていうことよね。だって、意味があるのは確かなんだから。『ヒストリー(彼の物語)』は、主人公である男と同じように、謎だらけ。でも、その謎には手がかりが示されている、一見何でもないようなところにね。掘り下げて考えていくと、表面的には意味が無いように見える事柄の底に、隠されたロジックがあるということは、今までの経験でわかるのよね。



ウィラ:ええ、それは私も経験してきたつもり。最初は本当に訳がわからなかったり、不快感さえ感じたりするビデオ作品、たとえば『スムース・クリミナル』とか『ユー・ロック・マイ・ワールド』とかね、そういう作品は、理解するための鍵を見つけると、もの凄くパワフルな作品だとわかったもの。



エレノア:そうなのよね。そして、ヒストリー・ティーザーも例外ではない。アルバム『ヒストリー』のティーザー(まえふり広告)とされているけど、この映像はそれ自体がひとつの芸術的な作品になっている。これは、マイケル・ジャクソンのストーリー、「彼の(his)」ストーリーで、当時語られていた、ゆがんで偏見に満ちた彼についてのストーリーを、彼自身の側から語ったものよね。


『ヒストリー(彼の物語)』というタイトルが示すとおり、この作品はマイケル・ジャクソン自身の個人的な物語、彼の置かれている立場や、広い意味での歴史とどのように呼応しているか、もっと言えば何を象徴しているか、を示している。だから、この作品の中には『意志の勝利』を含め、いろいろな映画の引用があるんだけど、それらは、マイケルが自分の立場を説明し、私たちに理解してもらうのにふさわしいと判断したからこそ、取り入れられているのよね。


『デンジャラス』は、スーザン・ファストが『DANGEROUS(33-1/3)』の中で言ったように、大人のマイケル・ジャクソンを記念する作品であったわけだけど、『ヒストリー』は、アルバムもビデオも、文脈(コンテクスト)の中での、彼という人間を描き出している。その文脈とは、明確なビジョンを持ったアーティストとしての文脈であり、アフリカ系アメリカ人という文脈であり、帝国の文化としての文脈。痛烈な政治批評であり、文化についての鋭い分析であり、個人としての力強い宣言でもある。そこには、いままで隠されてきた、彼の複雑性、知識や、思考の深さなどが明らかになっている。


ウィラ、あなたや、このサイトに登場している人たちがしばしば指摘していることだけど、マイケル・ジャクソンの創り出す不調和は、多くの場合、私たちを不快にさせる。そして、私にとって、そういった不調和の中での最たるものが、ヒストリー・ティーザーに登場するマイケル・ジャクソンよね。現代史においてもっとも邪悪で、抑圧的な軍事独裁体制の象徴に囲まれて、これらのイメージとMJが並んで存在することと、自分の知っている彼の人物像や、彼の生き方とがかみ合わない。「いったい何考えてるの?」っていう感じ。そこには大きなリスクがある。でも、マイケル・ジャクソンという人は、常にリスクをとる人なのよね。



ウィラ:私もそう思うわ。そこが、アーティストとしての彼を決定づける特徴ね。



エレノア:でも、マイケル・ジャクソンが考え無しに何かをやるということは、一度だって無かった。だから、ヒストリー・ティーザーがリスクの高い作品だということはもちろんわかっていたはず。特に彼が直面していた状況を考えるとね。彼には、自分の声を人々に届ける方法が必要だった。そして、彼はそれを「HIStory(自分の物語)」に見つけ、「HIStory(彼の物語)」は私たちを挑発した。つまり注意を向けさせるということね。彼は、私たちを不快にすることで、疑問を投げかけ、表面以上のものを見せようとした。



ウィラ:そして、ダイアン・ソーヤーのインタビューで言っているように、それこそが彼の目的で、マイケルは「みんなの注意をひきたかった」と言っている。



エレノア:ほんと、たしかに私の注意はひいたわ。それで、この作品を考察するにあたって、丁寧に、映像のひとコマひとコマの行間を読むようにしていくと、これを作った人がどんな人間であり、どんなことを訴えようとしたか、より深く理解することが出来た。そして、彼が成し遂げようとしている仕事の凄さ、大きさもより理解できて、最終的には、この作品が彼の不屈の精神と未来への揺るぎない希望の証だということがわかった。


彼は、他の人なら完全につぶされていたような、世間をあげてのバッシングの的になり、警察からの暴力を受け、サンタ・バーバラ郡の検察からは執拗につきまとわれ嫌がらせを受けた。検察は、有罪の証拠は不足し、無罪の証拠は山とあるなかで、一見してまったく意味をなさないような攻撃をしたのよ。彼は、文化の歴史という観点から、自分に押し寄せたそれらの事柄を分析して、その背後にあるものを見つけようとした。『ヒストリー』はその分析の結果を私たちに見せてくれている。『ヒストリー』で、マイケル・ジャクソンは、自分を告発する人たちと自分の立場を逆転させている。つまり、自分を罪人にしようとしている社会の罪を問うているのよ。


悪の帝国と結びついたイメージを使いながらも、そのイメージと、世界を癒やすことを心の底から望んでいる男のイメージとを並立させることによって、『ヒストリー』はマイケル・ジャクソンの価値観と、彼を追い詰めていく人々の価値観を対比させ、それらの異なった価値観を明らかにし、新しい種類、新しい種族の文化的ヒーローを表現することによって、マイケル・ジャクソンへの悪意に満ちた攻撃は、恐れから発しているのだ、という議論を引き起こしている。


その恐れとは、マイケル・ジャクソンは、生き方においても芸術においても、帝国主義的な社会、つまり、人々を統合するより、分割していくこと(*1)、多くの場合、人種で人を分割していくことによって支えられている社会の前提を崩してしまうのではないか。という恐れよね。


『ヒストリー』は、マイケル・ジャクソンへの攻撃がどんな性格を帯びていたかを、政治的文化的な見地から、断固としたアプローチで明らかにした。それは、彼の政治的文化的パワーの証明になり、彼が象徴した、そして象徴し続けている体制への脅威の大きさを表しており、そのパワーと脅威は、スーザン・ウッドワードが、彼女自身の興味深い著書『Otherness and Power』で認知し分析したものね。



ウィラ:スーザンの著書からは、私も多くを学んだわ。実を言うと、彼女はその著書について私と話をしてくれることになっているの(*2)。でも、『ヒストリー』についてあなたが言ったことに戻ると、たしかにこれは1993年の疑惑後、初めてのアルバムで、ヒストリー・ティーザーは、その発売の幕開けとなるものだった。そして驚くべきことに、彼は自分のことをなんと言われようと、警察やマスコミからどんな目に遭おうと、恥じて沈黙することなど決してしない、ということをはっきりさせたのよね。ヒストリー・ティーザーは、大胆な挑戦状なのよ。


でも、あなたもこのフィルムの「政治的かつ文化的」イデオロギーの背景に、彼が真っ向から挑戦したと考えているのは興味深いわ。とにかく、彼の主張そのものではなく、その主張方法というか、既存の偏見を利用することで、文化的な怒りを引き出すという方法について、まず、聞きたいんだけど。



エレノア:ではウィラ、私の考えを述べさせてもらうわね。あなたが言ったように、この夏、本を書いている時、帝国主義と人種差別の関係について考えていた。もっと詳しく言うと、マイケル・ジャクソンを論じるに当たって、帝国主義的な文化的価値観が果たした役割について考えていたんだけど、このヒストリー・ティーザーの「帝国主義的」イメージが頭から離れなかったの。


私の本は、全体としては、社会のあり方を形成していく神話の力について述べているんだけど、特に論じているのは、


「創世記」にある創造神話が、肉体を持たない神が、物質を超越するという考えを浸透させることで、いかに帝国主義的な社会を形成し、維持していく力になったか、ということ。


「創世記」は、神という超越した存在を、自然や物質的な世界と切り離して、神聖なものとする。神は全てを見守り、自分と似た姿の人間を作り、その優越性に基づく世界観や価値観を、分離と階層を基本に構築する。自然から人間を切り離し、肉体を精神と分離してね。


西洋キリスト教社会の歴史では、どの帝国も次々とこの世界観、つまり、ある選ばれたグループや人種が、完全な「神の似姿」として作られ、それゆえ「完全な人間」だとする考え方を利用してきた。


選ばれた者たちは、その他大勢の上に位置し、他を支配し、物質よりも精神と強く結びつくと考えられ、支配される側は、肉体と結びつけられる、精神なき肉体というわけね。そういう者たちは、総じて文化的に価値の低いことや、肉体労働を引き受け、半人前の人間として扱われる。人間扱いされない場合さえある。たとえば、アメリカの憲法では(第一条第二項)奴隷は、自由人の16分の1の価値しかないとされていたのよ。



ウィラ:ちょっと前の記事で、あなたと話したのは、この「優越性」のイデオロギーと、それがどのように女性嫌悪や人種差別に結びつくかという話だったわね(*3)。その記事の中で私たちは、


「優越性」がキリスト教・ユダヤ教文化における中心的コンセプトだということを議論し、マイケル・ジャクソンは文字通り新しいイデオロギーを体現していて、それは、「神の内在性」ということだった。


あの議論はすばらしかった。あれで私の世界を見る目が変わったくらい。あなたはまた、この優越性のイデオロギーが、人間と環境にもたらす恐ろしい結果についても説明してくれたわよね。



エレノア:ええ、私にとっては、マイケル・ジャクソンの文化的重要性は、彼が神の内在性を体現していたという事実なの。優越性に基づく世界観に対抗するものを体現することで、彼は反帝国主義をも体現していた。だから、『ヒストリー』において彼が、今までに作られた帝国主義のプロパガンダとしてもっとも有効な作品であった『意志の勝利』にふれたことは、すごく重要なこと。


私は、『意志の勝利』はナチ体制がその権力の頂点にあったときに製作されたもので、ナチスの重要な集会をそのままドキュメンタリーにしたものだと思っていたのね。でも実際は、あなたが指摘したように、あれは1934年という早い時点で撮られていて、あの集会は撮影用にリハーサルを行った上で構成されている。だから、


リーフェンシュタールは事実を記録したのではなくて、映像を使って事実の構築をしている。その映像は、ナチの世界観を反映しているだけではなく、創り出してもいる。リーフェンシュタールはナチスドイツを創造し、維持していくための神話を創り出そうとしたのよ。



ウィラ:エレノア、それはすごい指摘ね。



エレノア:2003年の彼女の死去のすぐ後に書かれた記事によれば、「いまの社会主義国国家が発表するドキュメンタリーは、必ずこの映画のシーンを取り入れている。この映画ほど、私たちの社会主義国家に対する視覚的イメージを作り上げたものは無い」とのこと。



ウィラ:それはすごく興味深い問題で、私が長い間深い関心を持ち続けてきたことと結びついているわ。事実を反映するだけでなく、事実を生み出す、芸術の力ということにね。



たとえば、18世紀に、ふたつの非常に重要な潮流が同時に起こっている。それまでにはなかった新しい社会階層(中産階級)の隆盛とそれまでなかった新しい芸術形式(小説)の隆盛ね。『Desire and Domestic Fiction(欲望と家庭のフィクション:小説の政治的な歴史)』(*4)の中で、ナンシー・アームストロングは、この新しい文学形式は、単にこの新しい社会階層の興味を反映しているのではなく(評論家は小説を中産階級の複雑な歴史を表すものと見る傾向があるけれど)、小説が新しい階級の形成を助けていく側面があった、と言っている。アームストロングが言っているのは、


小説が、人間は社会的な地位でなく精神のありようで判断されるべきだという新しい社会認識を生み出し、この新しい認識が社会の流動性へのイデオロギーを生み出し、それが中産階級の登場につながった、ということ。


このプロセスは、『意志の勝利』についてもまったく同じことが言える。あの作品は、現実にナチのイデオロギーが民衆に受け入れられている場面を記録していると言うよりも、ナチが勝利をおさめればこのようになるだろうというビジョンを提示している、それによって、勝利が現実になることを助けているわけ。


マイケル・ジャクソンにもすごく近いところがあるんじゃないかと思うのね。作品を通して、彼はパワーのある芸術を創造しているだけじゃなく(それはもちろんやっているのだけれど)、社会的な変革を可能にするための新しい文化的覚醒を生み出そうとしたんじゃないかって。彼が私たちに見せてくれるのは、いかに今の社会の構造がいかに失敗しているか、特に社会から排除され無力な状態に置かれている人たちにとってはね。そして彼は、新しい文化の可能性を提示している。



エレノア:まったくその通りね。彼は、あなたが言ったように、「社会的な変革を可能にするための新しい文化的覚醒」を生み出そうとしている。マイケル・ジャクソンは、リーフェンシュタールと同じく、私たちの世界観に影響を形成し、影響をあたえる芸術の力、この場合は映像の力を理解していた。


『ヒストリー』にリーフェンシュタールを引用したことで、彼は自分もまた神話を作ること、それも新しい現実を生み出す、新たな神話を作ることを宣言している。


でも彼は、メディアや評論家が考えたように(ダイアン・ソーヤーのところの引用参照)お祭り気分で新たな帝国の建設準備をし、自分を神格化しようとしたわけじゃない。


彼の神話の最も重要な点は、誰もが平等であるということで、彼は帝国主義の神話を根こそぎ否定しているのよね。


『ヒストリー』のリーフェンシュタール風の映像、つまり記念碑的建造物や、広大な大通り、広場、ビッチリと密度の高い長い列を作って行進していく男たち、そういうものが多くの人に、帝国の栄光ではなく、ナチスの残虐行為を思い出させるということを、彼はわかっていたはず。それでも彼は、批評家やメディアはだめでも自分のファンたちは、マイケル・ジャクソンの信念とアドルフ・ヒトラーの信念の違いを理解してくれるだろうと信じていたのよ。


興味深いことに、アフリカ系アメリカ人のミュージシャンであるMJは、ナチスがユダヤ人と同じくらい見下していた人々の代表でもある。退廃的なアフリカ系アメリカ人の音楽(当時はジャズのこと)を聴くことは、ナチスによって禁止されていたし、拘留や、ときには死刑で罰せられることもあった。いわゆるアーリア人とその文化を純粋なものにする運動の一環としてね。ここにナチスのジャズに対する恐れや嫌悪についてのすごく面白い論文があるんだけれど、それによるとね、「ナチスに占領されたヨーロッパでは、…ジャズは抑圧された…それは不道徳と革新と情熱の象徴であり…全体主義者が眉をひそめたくなる全ての資質を兼ね備えていた(反ファシストの理論家セオドア・アドルノもジャズに関してはあからさまな嫌悪を持っていた)」とあるわ。



ウィラ:それはとても重要な問題ね。この6月のコメント欄で(*5)Midnight Boomerさんと Ultravioletraeさんが話してくれるまで、私もよく知らなかった。このことをもっと深く議論して、いつかみんなで記事を作りたいわ。。。でも、まずは、


ヒストリー・ティーザーで、マイケル・ジャクソンは、帝国と帝国主義についての物語を呼び起こし、その書き換えを行ったという話よね。



エレノア:そうね。「ヒストリー」は、兵士たちにソビエト連邦の制服を着せて、グーラグ(旧ソ連の矯正労働収容所)やKGB(Stranger in Moscowで「僕をつけまわしてた」と歌った)の記憶を呼び戻した上で、あらためて帝国主義を葬ろうとした。そこに、のちにアフリカ系アメリカ人の居住区で、ドアをぶち破り、職務質問をかけることで悪名をはせた、アメリカの特別機動隊を加えることで、ヒストリー・ティーザーはさらに一歩踏み込んで、帝国の悪を、身近な、ひとりひとりに関係あるものとして描き出す。


ソビエトの全体主義と、身近な存在であるアメリカの国家警察を、ナチスのファシズムと結びつけることで、ヒストリー・ティーザーは、過去、現在にわたる、3つの帝国的な抑圧の形を組み合わせた。その組み合わせに、並外れた洞察力と偉大な精神を持った黒人アーティストであるマイケル・ジャクソンと、彼の個人的、人種的な歴史を加えることで、この作品は、私たちに過去を思い出させ、それは彼の過去も含めてね、未来への希望を与えるものになっている。



ウィラ:そして、私たちは彼の他の作品から、この帝国主義の問題が、彼にとって重要なものだとわかる。彼は繰り返し、私たちの過去の植民地主義をさりげなく思い出させるということをやっていて、植民地主義や帝国主義の、後々まで続く結果を批判している。たとえば、そのことについては、『Black or White』や『They Don't Care About Us』や『Liberian Girl』のショートフィルムについての記事で、少し話したことがあったわよね。彼が、帝国主義の影響が長く尾を引くことをずっと懸念していたということは、ヒストリー・ティーザーを考察する上で非常に重要な背景だと思うのね。


それで、あなたは、ヒストリーのなかで、彼は、それまで抱き続けてきた帝国主義への懸念を、ファシズムやその他の独裁主義的な社会構造へと広げていったと思っているわけね?すごく面白いわ。それがわかると、どうして彼が『意志の勝利』を手本にしたか、説明しやすくなるわね。


訳者註__________


(*1)人々を統合するより、分割していくこと… ここでは、「分割」という言葉にしましたが、この文章の中で、度々登場する帝国主義の基本原理である「分断して統治する」と同じ意味です。他の国と比べ、アメリカは世界覇権国として、他の国を統治し、戦争を遂行するために、国内政治においても「分断政治」を基本とし、社会主義を徹底して嫌い、人々を、人種、宗教、イデオロギー、性別、性的嗜好、経済力・・・だけでなく、自由や、個性といったことまで含めて「違い」を強調することが前提となっています。アメリカニズムと同じ意味だとも言われるグローバリズムによって、同質社会傾向が強かった日本も急速に「分断」が進みつつあります。


(*2)Michael Jackson’s Otherness and Power

(*3)In My Veins I’ve Felt the Mystery

(*4)日本語の参考記事:http://d.hatena.ne.jp/toshim/20060601

(*5)Lessons in HIStory



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by yomodalite | 2015-09-28 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(5)
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今年(2015年)はヒストリー20周年。


スリラーも、バッドも時代を超えた傑作アルバムだと思います(MJのアルバムはすべてそうですが)。でも、ヒストリーは、「They Don't Care About Us」や、「Earth Song」など、世界中の人々にとって、まさに “今ここにある” 危機感が歌われていて、20年も経ったとはまったく思えないぐらい「現代」に生きている作品ではないでしょうか。


1995年は、アメリカにとって時代の分岐点だったのだと思います。そして、アメリカに起こったことは、10年、20年の時間差で、日本にも起こるという法則のためか、あの頃、マイケルが感じた感覚は、当時よりも、今の方が身にしみてわかるような気がします。


そして、そんなことを思い始めた頃、「Dancing With The Elephant」で、ヒストリー・ティーザーについての長文の記事(Part 3まである)が目にとまりました。


それは、2014年の後半にアップされ、それまでに、私のブログでもとりあげていた、リーフェンスタールや、チャップリンとの関係、そして、マーロン・ブランドと『地獄の黙示録』といった、マイケル・ジャクソンを考え直すときに、欠かすことのできない話題が詰まっていて、すぐにでも紹介したかったのですが、日本語にするのがすごく大変で、、、


今回も、childspirits先生に多大なご協力をいただいたのですが、、色々と難しい点がいっぱいあって、もたもたしているうちに、結局、一年近く経ってしまいました。


その間、「これを訳すより、こーゆー内容を自分で書いた方が早いのでは?」と何度か思うこともあったのですが、やはり、MJと同じ国に生まれた、同世代のアカデミックな女性二人の会話を紹介する方が価値がある。と思い直し、なんとか、Part 1の訳が出来上がりました。


今回、ウィラと会話しているのは、前回「We've had enough」についても語ってくれたエレノア・バウマンで、マイケル・ジャクソンの文脈(コンテクスト)、帝国主義や「分断して統治する」という、その基本原理に、彼がどう立ち向かったのか。そして、マイケルが体現した「神の内在性」(immanence)、、といった話題にも少しだけ触れています。


ヒストリーがプロモーションされていた頃の私は、『意志の勝利』を大胆にリメイクしたティーザーに興奮し、ヒトラーという悪のカリスマに対して、マイケルは善のカリスマとして、私たちの理想の世界に君臨するのだと理解していただけで、


帝国主義を身近に考えたことも、日本がアメリカに統治されていることさえ意識することなく、帝国が「分断」を求める理由も、日本の中で、様々な組織が「分割」されていくことが、人々のまとまった力を削ぐことだということにも無頓着で、1987年に、中曽根内閣がすすめた国鉄民営化という「分割」が、労働者から「ストライキ」という手段を奪い、労働組合というまとまった勢力をつぶしたことで、その後の自由主義経済への移行がスムーズになり、それが、今の安保法案成立にもつながっていくだなんて、想像もしていませんでした。


そんな風にいうと、政治の話をしているようですが、私は、マイケルが帝国主義を打倒するために立ち上がったのだと言いたいわけではなく、エレノアが話していることの主眼点もそうではないと思います。私はつくづく、マイケルが一度も政治の話をせず、終始、イデオロギーの人ではなかったことを、今、とても重要なことだったと感じています。なぜなら、それも結局「分断」へとつながっていくからです。


(追記:人々の心が「分断」されていくことへの危惧と、私たち自身のことに引きつけて考えたいという主旨から、訳者註は、「分断政治」について、より具体的な内容にしてありますが、私の考えとしてはっきりしていることは、どんな考え方にしろ、「相手の方が、悪であり、敵であり、愚かである」という場に身を置きたくない。ということです。)


その他、ここで取り上げられたテーマの中には、私もおしゃべりしたくなる話がいっぱいあって、それも、またいつか。。と思っているのですが、


とにかく、


明日から「Part 1」の内容を3回に分けて紹介しますね。






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by yomodalite | 2015-09-27 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(2)
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先日紹介したウィラとヴォーゲルの会話(Boy, is that Girl with You?)で、引用されていた本が面白くて、ふたりの会話について、chiidspirits先生とおしゃべりしてみました。


* * *


Y:いつもは、私がリクエストしてばっかりなんだけど、この記事は、childspirits先生の方からオススメしてもらったんだよね。最初に興味深いと感じたのはどういった部分だったのかな?



C:うん、この曲とショートフィルムが、人種の壁をぶち破る、というマイケルの意思表明だということは、タイトルからすぐわかるんだけど、、それ以上の要素がいっぱい詰まっているということを考えさせてくれる記事で、みんなでシェアしたいなと思ったのね。


たとえば、ショートフィルムのブロローグ部分が、白人家庭の孤立と機能不全、特に父と息子のそれを描いているとか、人種だけではなくジェンダーの壁を破ろうとするメッセージが込められていたんだとか。私たちのよく知らないアメリカの社会的背景とか、そういう見方もあるのかぁ、と思わせてくれる記事だったから。このサイトの記事はどれもそうなんだけどね。


あと、ラルフ・エリソンとかジェイムズ・ボールドウィンなどの作家の名前が、MJとの関連から出てきたことにも興味をひかれた。考えてみると彼らは文学の世界で、人種を越えたファン層を獲得し、議論を巻き起こした、いわばMJの先達なんだよね。「MJと文学」という観点は、自分には興味深くて、多くの人にも知ってもらいたいような気がしたのね。それと、もうひとつ、去年から頻発している黒人青年と白人警察官の事件がボルティモアで暴発したということもあって、この歌でMJが提起した問題は、まったく今日的なことなんだなぁと、改めて思ったので。



Y:この文章からは、マイケルが「人種の壁を突破した」とか「黒人として初めて、、」と言われていることが、実際にどれほどの偉業だったかについて、あらためて理解できるよね。ただ、当時の日本のファンは、MJのことを黒人という意識では見ていなかったし、彼が登場した80年代以降、日本のお茶の間にまで浸透したアメリカのスターは黒人の方が多かったという印象もあって、人種差別は、切実な問題として考えられなかったんだよね。



C : 彼らの活躍を目の当たりにすれば、アメリカの人種問題の深刻さや残酷さを感じることは少なかったかもしれないよね。


でも、かつては日本でも、結構アメリカの黒人が抱える問題を意識してたんじゃないかと思う。文学の話で言うと、1961年から68年にかけて、立派な黒人文学全集刊行されて、この中にはラルフ・エリソンやボールドウィンや、彼らの先輩であるリチャード・ライトも取り上げられている。そういう全集が編まれたってことは、需要があったんだよね。それに私が中学校の頃、音楽の教科書には「オールド・ブラック・ジョー」ものっていたし、「アンクルトムの小屋」の話も、小説全部読んだことはなくても、あらすじくらいは知ってる人が多かった。でも、今の若い人にはどちらも全くと言っていいほど、なじみがないみたい。先に挙げたボルティモアの暴動についての新聞記事を大学の授業で読む場合、かなり予習が必要な感じがするもの。



Y:その頃、黒人文学とか、人種差別について熱心だったっていうのは、“人権” について考えることが日本が近代国家になるために重要だっていう認識が教育現場にあったからじゃないかな。日本が貧しくても、上を見ていられた時代には、差別に打ち勝ってきた黒人たちへの共感があったんだと思う。


でも、日本人としてのプライドが揺らぎ始めた昨今では、日本礼賛みたいな教育の方が重要みたいで。。当時はよくわからなかったけど、最近の嫌韓・反中といった恥ずかしいブームを経験して、ようやく、今だに絶えない黒人差別がどういうことだったか、少しわかったような気がするよね。要するに今まで下に見ていたものが、そうとはいえなくなったとき、差別感情は、前よりももっと激しくなるということが。。



C : うん、人権についての関心は、上っていくべき目標がはっきりしていた、精神的なゆとりがあったからというのは、本当にそうだと思う。敗戦後、とにかくアメリカについて何でも知らねば、という機運もあったのだろうしね。かつてアメリカで、黒人に対してもっとも差別意識や憎悪をあからさまにしたのは、レッドネックと呼ばれるような貧困層の白人で、それはある意味分かりやすい構図だったのかもしれない。でも黒人の地位が上がり、大成功して何もかも手に入れているように見える黒人が現れてくると、既得権益をおびやかされる白人の層はかつてとは違ってくるわけで、差別や嫌悪の現れ方も違ってくる。


それは、日本で今起きている差別問題からも感じることだけど、私たちは、結局、アメリカの人種差別から大して学んでおらず、安全なところから黒人に対して勝手な共感を抱いたり、同情していただけだったのでは、と思わされるね。



Y:貧困層から始まった差別感情が、中間層の落ち込みにともなって、拡大していくという構図は、アメリカも日本もまったく同じで、その感情は黒人だけでなく、ユダヤ人感情にも見られるものだよね。


ただ、日本人が、黒人差別がわからないのは、異人種が少ない島国だからという部分もあるけど、ヨーロッパには、いっぱい黒人がいるのに、これほど差別が激しく、差別を根底にした暴行事件が多発しているのは、アメリカだけなんだよね。そういう意味では、ウィラは、「人種というのは、生物学的事実ではなく文化的なコンセプトによって生じるもの」だと言っているけど、私は、それを世界で最も受け入れないことが “アメリカ文化” だと言えるんじゃないかと思う。少し皮肉めいた言い方をしちゃうけど、アメリカのアカデミーで「人種問題」というのは、いつの時代もトレンドであって論文にしやすいんだなぁ、と。



C : ウィラの「人種というのは・・・」という発言は、現実の「アメリカ文化」がそれとは正反対だからこそ、特に意味を持つわけだよね。



Y:それで、そのことと少し関係があると思うんだけど、ロバート・ブライの『アイアン・ジョンの魂』が取り上げられてたでしょう。私たちふたりとも、その本を知らなくて、あわてて読んでみたわけなんだけど、訳してるときに想像してた内容とは印象が違ってて、それについても少し驚いたよね?


◎アイアン・ジョンの魂(単行本)

◎グリム童話の正しい読み方―『鉄のハンス』が教える生き方の処方箋 (文庫)



C:てっきり、マッチョな男性像や、家父長的な強い父親を取り戻そう、みたいなメッセージかと思ったら、のっけから全然違っていて、すごく意外だった。でも、調べてみたらブライという人は、シュールレアリストとしてスタートし、芭蕉や一茶の翻訳もしてるし、戦争や自然についての優れた作品もあり、異文化や歴史について広く深い関心を持った詩人なのよね。単純にマッチョの回復なんか提唱するするばずはないんだね。やっぱりちゃんと、原典にあたるの大事だなぁと、またもや実感。MJに関わってると、それをくりかえし諭されるように思うのだけれど、すぐ忘れちゃって・・・ベストセラーに対する偏見(笑)も悪い癖です。



Y:ホント実際読んでみてよかったよね。これはグリム童話の『鉄のハンス』(米国ではアイアン・ジョンとして知られている)の物語の解釈から、人生を探求する物語なんだけど、神話やおとぎ話やフロイトの理論について、自分の成長に繋げて考えるのではなく、世の現象や、他者への分析にカンタンに解答を出すための手段としか考えていないような人が書いたものとは一線を画す内容で、


「大変な時代を生きることになった。今まで通用してきた “男らしさ” なんてものがヨレヨレに擦り切れて、使い物にならない時代になってしまった」


ってところから始まる。ヴォーゲルは、この本について、「それがすべての男性に通じる普遍的なメッセージで “男らしさの危機” に対するオールマイティな処方箋だと思ってる」ところが問題だと言っているけど、


ブライが90年代に投げかけた問題というのは、むしろ、誰にでも有効な処方箋なんてないにも関わらず、正しさを世界中に押し付けたり、あるいは、様々な考え方を “調和させて” 、ひとつの正しさをつくることに熱中するあまり、古いものや、伝統から学ぶことが出来なくなっていること、それが、90年代のアメリカの病理の原因のひとつだと指摘しているところじゃない。


「鳥たちは、裸の木にどうやって巣をつくるのか、渡り鳥はどうやって越冬の地に飛んでいくのか、そういった情報は、本能の中枢に溜め込んで子々孫々へと伝えられていくわけだが、それでは人間たちはどうしてきたのだろう。新しい状況に対応していくために、たくさんの選択肢が必要であることを知って、そのための情報を、本能以外のところに蓄えることにしてきたのである。それが、おとぎ話であり、伝説や神話や昔話なのである。(...)この分野では、近世さまざまな人物が傑出した研究をしている。ジョージ・グロデック(*1)、グルジェフ、カール・ユング、ハインリッヒ・ジンマー、ジョーゼフ・キャンベル(*2)、ジョルジュ・デュメジルなどがあげられる。おとぎ話の世界に、私の目をひらかせてくれた先生は、マリー=ルイズ・フォン・フランツで、彼女のたくさんの著書の中で、女の物語に真摯に取り組んだように、私は男の物語について、忠実に追求してみたいと思っている」


というような記述からも、単純な「男性回帰運動」のようなものではないことがわかると思うし、ウィラが、「郊外で肘掛け椅子に座ってた父親がアフリカに吹き飛ばされて、マイケルジャクソンが部族の男性たちと踊る」という部分が、ブライのメッセージをそのまま表したシーンだと言っている意味も、少し想像できると思う。ただ、次に「インドの女性や、ロシアの男性グループとも踊る」ことが、ブライのメッセージとはかけ離れているかどうかは微妙かなぁ。



C : 私も、神話やおとぎ話やそれを分析する心理学の要素をふんだんに盛り込んで説明してくれている彼のメッセージと、マイケルがやろうとしていたことの間には、それほどギャップがあるとは思えなかったなぁ。「“男らしさの危機” に対するオールマイティな処方箋だと思ってる」のは、本の内容を受け取る側の問題であって、ブライが提起した「90年代のアメリカの病理」は、マイケルが『ブラック・オア・ホワイト』で突きつけようとしたものの中にもあって、それは、今に至るまで解決されてないと思う。



Y:この本を読んでいたら、以前、MJが子供たちのために書いたホラーストーリーのことを思い出して、このとき、MJは「通過儀礼」の重要さをわかってる人なんだなぁと思ったんだけど、ブライの考え方は、父親としてのMJの考え方と割と近い感じがしたよね。


◎[関連記事]Michael's Horror Story



C:マイケル、こんなホラーストーリー書いてたんだ。このメモに、昔話に出てくる「通過儀礼」の要素があるというのは、「アイアン・ジョン」を読んだあとだと、よくわかるね。MJは神話や心理学についてもすごく本を読んでるし、考えてもいたものね。子育てしているときのMJについては、子供を抱いたり世話をしたりという、ちょっと母性を感じさせるような文章や画像も多いんだけど、じつは彼は父として、ブライの言う「ワイルド・マン」の要素もすごく大事に思っていたんじゃない。それに、周りいた少年たち(フランク・カシオ含め)や若いアーティストたちへの接し方を見ると、MJは、若者たちが「ワイルド・マン」に出会う助けをする年長者(この本の訳では「年寄り」だけど)の役目を果たそうとしていたようにも見える。この本にある、子供と黄金のマリの話(7章)なんかも、MJが子供について言っていることと、すごく共通点があるし、体や心に受けた傷によって「ジーニアス」を発見していく(8章)、なんていうところも印象的だった。



Y:最初に「僕はシーツなんか恐くない:『ブラック・オア・ホワイト』における黒人の男らしさ再考」というヴォーゲルの論文のタイトルを見たとき、これがマイケルの「男らしさ」について論じられたものだということに、あんまりピンと来なかったのね。というのも、MJといえば「ピーターパン」で、大人になりたくない、いつまでも少年でいたい若者の代表で、黒人社会の中でも、ネイション・イスラムのルイス・ファラカンとか、“男らしくない” MJは、黒人の若者に悪影響を与えるみたいなことを言ってたでしょう。MJはこれまで「男らしくなくてもいい」というアイコンだったと思うんだよね。


でも、MJと同世代のスパイク・リーは『ブラック・オア・ホワイト』に共感して、ネイション・オブ・イスラムの呼びかけによるミリオンマーチに参加する予定だった人々を “別の場所” へと連れていく『ゲット・オン・ザ・バス』という映画を作り、同じ年(1996)に『ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス』のショート・フィルムも撮っている。これらの作品は、従来のような人権運動家による黒人の権利の獲得や、ブラックパワーのような黒人礼賛ではなく、人種を超えた連帯を表現したものだった。


◎[関連記事]マイケルとスパイク・リー



C:両方の作品とも、より高い次元を目指して若者を導いていく、男性の姿があるよね。「ピーターパン・シンドローム」という言葉のおかげで、ピーター・パンといえば、「大人になりたくない」部分ばかり強調され、MJが自分をたとえて言った意味も、かなり狭められて伝わっているけど、ブライの本では、飛翔し続ける若者、という意味で論じられているんだよね。



Y:ブライの本は1990年に出版されたものだから、『ブラック・オア・ホワイト』についての記述はないけど、マイケルが登場する箇所はあるんだよね。それは第4章の「父親不在の時代における王への飢餓」という章なんだけど、


「誰でも “王” と一緒にいられたらなぁと思う。若い女の子たちのあの熱狂ぶりはどうだ。「キング」と呼ばれたエルヴィス、最近では「プリンス」を目にした時のあの興奮ぶり、ディヴィッド・レターマンの家に絶えず押しかける女性たち。チャールズ皇太子の部屋からナプキンを盗んだり、マイケル・ジャクソンの家の外でキャンプをしたり、、、みんなが「王」の前にいたがる。ダライ・ラマは多くの人たちのために「王」の役を演じている。場合によっては、彼は法王の座さえ揺るがしかねない。父親に対する飢餓感は、王に対する飢餓感に形を変える…」


MJが「KING OF POP」という称号を大事に思って、本当に素晴らしい “王” になるためにどれだけ多くの努力していたか。それはポップミュージック界の王様というだけでなく、「人民のための王」という意味まで含まれていたよね。


マイケルとの繋がりを感じてしまう箇所は他にもいっぱいあるんだけど、第7章「赤、白、黒毛の馬にのること」の中から要約して引用すると、


「ヨーロッパのおとぎ話を調べれば、赤、白、黒の3色にこだわっているのがわかる。しかも、この3色には、ある順序が見られる。(...)白は、新月の聖母マリア、赤は満月の母親気質、最後の黒は、旧月の老婆。(...)若い女が、純潔の白から始まるのなら、少年は赤から始まる。(...)若者たちは、炎のように燃え、戦い、赤を見ては難題にぶつかるように鼓舞される。(...)


中世では、アイアン・ジョンの順序に、大いなる注意が払われていた。パルジファルの冒険談はその一例で、ここには赤騎士から白騎士へ、そして黒騎士へと、物語の展開がある。赤騎士時代に、どんなに多くの反社会的な行為に耽ることか!でも、赤を経ないでは、白には到達できないのである。でも、現代はそうはいかない。私たちは義務教育によって、子供を直接「白騎士」へと仕立てようとしている。(...)


私たちアメリカの、白騎士の段階には、どんな危険性が考えられるか。この白騎士は、赤の段階を通ってきていないため、耐えられなくなることが多いんだなぁ。そして悪しき赤を、インディアンや、共産主義者や、言うことをきかない女たちや、黒人たちに投影している。(...)レンブラントの絵は、彼が年をとっていくにつれて、周縁部の方がだんだん暗くなっている。黒の段階にいる人は、通常、他人を非難しなくなる。(...)ユーモアは、黒の段階になると生まれる」



こういった色の感覚についても、MJはすごく取り入れていたし、彼が『ブラック・オア・ホワイト』のとき、すでにユーモアを身につけるという黒の段階にあったことは、記事の中で紹介したメイキング動画でも感じられるけど、「I’m not going to spend my life being a color(僕は生涯、有色人種と呼ばれて生きる気はない)」というラップを、自分や黒人ラッパーではなく、制作者のひとりであるボットレルにやらせたのは、彼がラッパーではなく、しかも白人だったから。というエピソードなんかも、そういった事実を強化する話だよね。


◎[参考記事]http://7mjj.blog.fc2.com/blog-entry-194.html



もう少し、要約引用を続けると、


「私たちが『アイアン・ジョン』の物語から得られるものは、ほかでもない、若い男性が赤の強烈さから、白の交戦へ、そして黒の人間性にまで進んでいくという考え方ではないだろうか。(...)


聖職者たちは、赤の段階を飛び越えたたえに、自分を白の段階に強制的につなぎとめておかなくてはならない。政治家は、現実には正体不明の色である間も、白を装わなくてはならない。


人が黒へと動いていくとき、その段階で、影の材料すべてがあらわになってくる。それは、長いあいだ、悪玉の男や女たちや、共産主義者や、魔女や、圧政者の顔面に、内なる黒として投影されていたものだ。だから、この過程は、影を取り戻し、食べることだ、と言っていいと思う。ロバート・フロスト(*3)は、自分の影をたくさん食べた。だから彼は偉大なのだ。


黒へと進む男は、「道ある限り歩く」必要がある。黒に入っていくには、長い時間がかかる。男が投げ捨ててしまった、彼自身の暗い部分を見出す前に、どのくらいの年月が過ぎていくのだろう?彼がその部分を発見し、とっさにその瞬間、彼の黄金の髪が肩にはらりと落ち、すべての男たちは、彼の正体を知るところとなるーー」



で、、この文章は、「だが、それは次の物語である」で終わり、次章は、第8章「王の家臣から受けた傷」で、そこには、さまざまな “傷” についての話と、トリックスターの話も登場するんだけど、、2000年以降のマイケルの変化を語るうえで、ここに書かれてあることは重要だよね。社会が何を忘れていたのか。を思い出させてくれるし、MJがおとぎ話の重要性について語っていたことが、“子供らしさを失わないこと” ということだけではなかったこと。そして、マイケルが “子供らしさを失わないこと” を、あれほど語っていながら、父親として子供に良い教育ができた秘密についてもね。



C:そう。対談では、ブライのメッセージをかなり限定した形で引用したきらいもあるんだよね。それは、当時の一般的な理解のされ方がそうだった、ということなのかも知れないけど。とにかく本全体からは、マイケルが伝えようとしたこととの共通点がたくさん含まれていると思う。それは、最近あったボルティモアの抗議運動で『ゼイ・ドント・ケア・アバウト・アス』が使われ、そして、その抗議行動の中で起こった暴動を抑えたのも、MJの『ビート・イット』だったという事実にもよく表れていると思う。



今回ウィラたちの対談を訳したことは、始めに述べたような意味ですごく勉強になったんだけど、でもいちばん勉強になったのは、このブライの本を読んだことかなぁ。この本を丸ごと肯定するとかじゃないけど、マイケルのことや、自分のことを、いままで出来なかった角度から考え直すヒントを、いっぱい与えてくれそうな気がするもの。それと、ここには西洋の思想教養をもとにした分析があるけれど、私たちの先祖にはどういう神話や民話があり、それがどう通過儀礼と結びついていたか、などもさかのぼりたくなったなぁ。



Y:同感!ブライがこの本で語っている男性の段階について、マイケルは、すごく自覚的にその段階すべてを経験しようとして、「道ある限り歩き続けた」と思う。私たち、最終的にいつもこの結論に達しちゃうんだけど、またもや、「マイケルにはすべてがある」って思っちゃった。


未だに、MJについて、輝かしい成功を納めたものの、度重なる整形や、晩年は奇行が目立ち、、というような “物語” だと思っている人は、ただ、年をとったり、デカいだけのおバカな “お子ちゃま” で、「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪である」とか言った男は、青年期の成功から一歩も成長できなかったんだなぁなんてことも、よくわかったしね(笑)



C:「黒」に至るかどうかは、年齢に関係ないんだよね。



Y:マイケルのメッセージというのは、あらゆる考えの人々が利用したくなるほど、とても、ひとりの人間のメッセージとは思えないぐらい、「他者」を取り込んでいるんだよね。 

 

こうなると、ますますウィラが感動したという、ヴォーゲルがブライを引用して、MJの男らしさについて書いた論文も読んでみたくなるよね。childspirits先生!(笑)



C:英文読むのが遅い私に新たなが苦難が…。でも、いままでの経験からすると、MJに導かれてやることに、ハズレはないからなぁ。



Y:ブライは、第8章「王の家臣から受けた傷」の中で、「教師やセラピストたちは、自分の中に強力な料理人や、神話学者、あるいは魔術師を持っていることが多い。けれども、もし教師がワイルド・マンやワイルド・ウーマンを育てなかったなら、その人は私たちが「学者屋」と呼ぶだけのヘンテコな存在になってしまう。。」など、しばしば “学者屋” に対しての批判をしているんだけど、、ヴォーゲル、だいじょうぶかなぁ?(笑)



C : それ、私にとってもドキッとする言葉。やっぱり、読んでみなくちゃね!



《註》_________



(*1)ジョージ・グロデック/日本の著書ではゲオルグ・グロデック。精神分析者としてこのエスの概念を最初に提唱した。フロイトはグロデックからこの概念を借りている。著書『エスとの対話』『エスの本』など。



(*2)ジョーゼフ・キャンベル/『スターウォーズ』にも影響を与えたと言われる『千の顔をもつ英雄』で神話の基本構造を論じ、神話学の巨匠となる(ただし翻訳本はものすごく読みにくい)。死後に出版された『神話の力』は、ジャーナリストのビル・モイヤーズとの対談集で読みやすくおすすめです。



(*3)ロバート・フロスト/自伝『ムーン・ウォーク』の中で、マイケルもフロストを引用しています。

There are so many things all around us to be thankful for. Wasn't it Robert Frost who wrote about the world a person can see in a leaf? I think that's true. That's what I love about being with kids.

僕たちの周囲には感謝することがあふれてる。1枚の葉の中に世界を見ることができるって書いたのは、ロバート・フロストだったっけ?それは本当だと思う。僕が子どもたちと一緒にいるのが好きなのも、そういうことなんだ。(←この日本語は私訳。Chapter 6「愛こそはすべて」P287)

フロストのどの詩のことなのかはよくわからないのですが、、
こんな有名な詩があります

“Nothing Gold Can Stay”


Nature's first green is gold,

Her hardest hue to hold.

Her early leaf's a flower;

But only so an hour.

Then leaf subsides to leaf,

So Eden sank to grief,

So dawn goes down to day

Nothing gold can stay.


--- Robert Frost




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by yomodalite | 2015-05-17 22:30 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

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☆Boy, is that Girl with You?(3)の続き。。


ウィラ:『ブラック・オア・ホワイト』のジョン・ランディスのシーンにも同じことが言えると思う。ジョン・ランディスが監督かも知れないけど、場を支配しているのは彼じゃない。彼は、それが何かを理解しないままに、マイケル・ジャクソンの見識を皆に伝える助けをする、雇われた人に過ぎないのよ。そのことを、ジョー、あなたが紹介してくれた映像の中で、ジョン・ランディス自身がはっきりと見せてしまっているのよ。1:45のところで、彼はカメラに向かって「僕がこれを振り付けしたんじゃないからね。撮影しているだけなんだからね」と言っている。彼は、パンサー・シーンで画面に現れるすべてのことから自分を完全に切り離しているのよ。



ジョー:そのとおり。僕の論文でも彼の発言を取り上げていて、そこでも彼は似たようなことを、基本的に自分はこのビデオのために雇われたスタッフだ、というようなことを言っている。それは謙遜して言っている発言じゃないと思うよ。彼はマイケルがやっていることと自分とに距離を置きたいんだ。



ウィラ:そうね。私にもそう見える。彼はこのビデオのパンサー・シーンにすごく戸惑っているみたいね。それも理解できる。なぜなら、あなたが言ったように「白人の監督(ジョン・ランディス)は監督の座を奪われている」のだから。そして、マイケル・ジャクソンは白人監督の役割を否定しただけでなく、もっと重要なこと、長い歴史を持つ、黒人男性と黒人の文化に対するハリウッド流の表現方法に挑戦状をたたきつけたのだから。それを考慮すると、パンサー・シーンのクライマックスで、爆発と飛び散る火花の中、The Royal Arms Hotel の看板が落ちていく場面はすごい意味を持っていると思う。これは、「Royal Arms(王の権力)」への、それが象徴する植民地支配のイデオロギーへの、黒人からの抵抗であり、人種差別的・植民地支配的な世界観に侵された映画産業への抵抗ではないかとね。


そういった世界観の重要な原則は、あなたが論文で言っている、異人種間結婚の禁止よね。かつてそうであったような、それを禁止する法律はもうない。その代わり、その法にかわるものが、人の心に内在するようになった。黒人男性を見て嫌悪や憎悪を感じる白人女性の心が、白人女性と黒人男性が一緒にいるところを見て、激しい怒りに駆られる白人男性の心が、それを禁止する。


この植民地時代以後の人種差別主義は、D・W・グリフィスの言うところの「白人の中に、とりわけ白人女性の中に、黒人男性に対する嫌悪感を植え付けること」が目的なんだけど、アメリカの映画産業の始まりから、それは業界の中心にあった。マイケル・ジャクソンはそれに対して、パンサー・シーンで戦いを挑んだ。あなたの『國民の創世』と『ブラックオアホワイト』の分析を読むと、特にそれがよくわかる。



ジョー:うん、頑張って論じてみたよ。あれはすごいショート・フィルムで、マイケルの作品は殆どそうだけど、深く考えれば考えるほど、大きなものが得られるんだ。実際、いまこうしてあなたと話していると、自分の論文にもっと書き足したくなるよ!



ウィラ:わかるわ、あなたが言いたいこと。マイケル・ジャクソンのひとつの作品を完全に理解するのにはすごい時間と労力がかかるのよね。私だって、『ブラック・オア・ホワイト』について何年も考えているけど、それでもあなたの論文を読んでこの驚くべき作品の見方に新たな展望が開けたもの。



ジョー:だけど、多分そうやって最良の答えを見つけていくんだよね。僕はあの論文で、6,7千語削らなくてはいけなかった。学術的な論文では当然のことだけど、実際、活字にするものはたいていそうだよね。でも、僕は確信しているんだ。このショート・フィルムは、新たな、そして魅力的な切り口で、今後も論じられ続けるだろうって。33 1/3シリーズのあの素晴らしい「デンジャラス」の号で、スーザン・ファストが指摘しているんだけど(*9)、ジャクソンの歌やビデオの中で、『ブラック・オア・ホワイト』以上に学問の世界で注目された作品はない。

まず最初に出たのが、1991年に「ザ・シティ・サン」に掲載されたアーモンド・ホワイトの画期的な論文で(*10)、それ以後、特にジャクソンが亡くなった2009年以降は、何年にもわたってこの作品のことが論じられている。僕の論文もここ何年かの研究の一部で(博士論文の最初の一章だからね)、それがやっと活字になったんだよ!



ウィラ:私もうれしいわ。特にあなたの論文で、『ブラック・オア・ホワイト』があの当時、つまりロドニー・キング殴打事件(*11)がビデオに撮られた数ヶ月後、どれだけ真に革新的でありパワフルであったか、そして今日でもなおどれだけパワフルであるかが、あなたの論文によって示されたのだから。オリジナルの11分バージョンは見つけるのが難しいけど、見つかったところで、Vevoには強力すぎるのかもね!それで、あなたの論文は活字になって誰でも読めるの?



ジョー:うん。論文は、The Journal of Popular Music Studiesの3月27日号の第一版に掲載されてる。残念なことに、いまのところこの雑誌は一冊買うと、ちょっと高いんだ。僕はもちろん無料で読めるようにしたいんだけど、著作権の関係でいまは出来ない。スーザン・ファストは最近ブログで、学術論文の出版のプロセスは、他の多くの分野と同じく、このデジタル時代にどのように内容にアクセスしてもらうか、どのように運営していくかを未だ模索中であるということを、すごくうまく説明してくれている。(https://susanfast.wordpress.com/)



ウィラ:そう、スーザンが説明しているように学術雑誌は創るのに時間がかかるから高いのよね。別に儲けようとしているわけじゃない。学術雑誌に書く人はそれが出版されたからといって収入を得るわけじゃないし、著作権も所有しない。だから、たとえば私が自分の論文である “Monsters, Witches, Ghosts” を「Dancing with the Elephant」に再掲載したいと思っても出来ない。代わりに要約を載せるように言われるの。論文へのリンクをつけてね。幸いなことに、たいていの大学の図書館には、The Journal of Popular Music Studies がおいてあるから、大学の近くに住んでいる人は、おそらくあなたの論文をそこで無料で読むことが出来るわね。

それと、みんなに知らせておきたいのは、このサイトの「Reading Room」には、あなたが書いた議会図書館用「スリラー」の項目へのリンクが貼ってあるということ。残念ながらこれについてあなたと話す機会はまだ持ててないけど、これは議会図書館のために書かれたもので、National Register(国内登録)のところにあるのよね?



ジョー:そうなんだ。僕は「スリラー」について短く書いてと依頼を受けたんだけど、これがもう大変だった。議会図書館の登録項目(*12)には、400のレコーディング(音楽、音声、映像)が収められている。どれも議会図書館によって選択されたもので、国家保存重要録音登録審査委員会が提供している。それらの記録はアメリカの歴史にとって、もの凄く重要なものだからね。芸術的な意味でも、文化的な意味でも、歴史的な意味でも。だから、国の図書館に永遠に保存されておくべきものなんだ。議会図書館は、研究者や音楽批評家にコンタクトをとり、400のそれぞれのレコーディングについて、だいたい1000ワードくらいで多様な学術的エッセイを書くように依頼する。そうやって図書館のウェブサイトを充実させていくわけ。だから、音楽の歴史を愛する人は他の曲のエッセイもチェックしてみるといいよ。僕もいくつか読んだけど、すごく良かった。



ウィラ:本当にそうね。ちょうどいま、ブルーグラスの創始者であるビル・モンロー(*13)の「ケンタッキーの青い月(Blue Moon of Kentucky)」の項を読んでるところなんだけど、面白いことにこのエッセイは、モンローをD・W・グリフィスと比較するところから始まる。マーサ・グラハム(*14)や、議論の余地はあるかもしれないけど、グリフィスのように、彼が人生の中で作り上げたものは、その後も生き続け、何百ものアーティストがその影響を受ける、芸術や言語や語彙の、ひとつの体系になった。

そしてマーサ・グラハムがモダン・ダンスを生み出したように、そしてグリフィスが『國民の創世』によって、現代の映画を生み出したように、ビル・モンローはブルー・グラスというジャンルを生み出したってことね。議会図書館では、登録項目のエッセイの一覧、レコーディング項目のエッセイの一覧も見ることが出来るのよね。

さて、話をしに来てくれてありがとう、ジョー!あなたと話すのは、いつも本当に楽しいわ。



ジョー:ありがとう、ウィラ。僕のほうこそ。ジョイエにもよろしくね!



ウィラ:伝えておくわ!(終)



☆この会話についての私たちの「おしゃべり」はこちら!

《註》_________


(*9)スーザン・ファスト(Susan Fast)/カナダのマックマスター大学の教授で、2014年、音楽業書『33 1/3』において、マイケル・ジャクソンの『Dangerous』を取り上げ、Amazonレヴューにおいても高い評価を得ている『Dangerous(33 1/3)』を出版。


(*10)アーモンド・ホワイト(Armond White)/「The City Sun」の1991年11月26日号と12月3日号に、"The Gloved One Is Not a Chump" が掲載されている。その文章は現在ネット上では見られませんが、『KEEP GOING : Michael Jackson Chronicle』という評価の高い著書がある。

→Armond Whiteへのインタヴュー


(*11)ロドニー・キング殴打事件/1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがレイクビューテラス付近でスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出し、警官の装備であるトンファーバトンやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラがこの様子を撮影しており、映像が全米で報道されると黒人たちの激しい憤りを招いたが、裁判では、キングが巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかったという警官たちの主張が全面的に認められ、陪審員は無罪評決を下した。この裁判への不満がロス暴動のきっかけになったと言われている。

→ロサンジェルス暴動


(*12)ジョーが話している「議会図書館の登録」というのは、国家保存重要録音登録制度(National Recording Registry)を指すと思われる。これは2000年に制定された法案に基づいて始まった制度で、アメリカにとって、文化的・歴史的・芸術的価値のある音源を保存しておく制度。保存登録する音源の選定は、議会図書館によって任命された、国家保存重要録音登録審査委員会(National Recording Preservation Board)によって行われる。


(*13)ビル・モンロー/ブルーグラスとして知られる音楽スタイルの確立に寄与したアメリカ人音楽家。ブルーグラスの名は、彼のバンド名Blue Grass Boysから採られた。モンローは60年間、歌手・演奏者・作曲者・バンドリーダーとしての経歴を持ち、「ブルーグラスの父」と評されている。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/ビル・モンロー


(*14)マーサ・グレハム/アメリカ合衆国の舞踏家、振付師であり、モダンダンスの開拓者の一人。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/マーサ・グレアム


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by yomodalite | 2015-05-14 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

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☆Boy, is that Girl with You?(2)の続き。。


ウィラ:興味深いわ、ジョー。これまで話してくれたような背景は重要よ。なぜならあなたは、『ブラック・オア・ホワイト』を、よく言われるような人種主義への批判としてだけでなく、ジェンダーへの批判としても見ているものね。男であるとはどういうことか、とりわけ黒人の男であるとはどういうことかを表す、文化が生み出した抑圧的な物語に挑戦し、黒人の男性への見方を変えようとした作品としてね。


アメリカのメディアにおける黒人男性の描かれ方に、ある「パターン」が存在することにジャクソンは気づいていた。映画において、ジャクソンが言うところの「パターン」を最初に広めたのは、もちろん『國民の創世』だった。


形は違うけど同じように抑圧的な「パターン」を引き継ぎ普及させたのが、ブライの『男性運動』であり、ヒップホップであり、ヘヴィメタルだとあなたは言うのね。そして、『ブラック・オア・ホワイト』は、それらのパターンに真正面から挑戦し、人種やジェンダーについて、新しい見方を、あなたの言葉で言えば「見直し方」を提起しているということね。


ジョー:そうだね。裁判の頃のあるインタビュー(*5)で、マイケル・ジャクソンはボクサーのジャック・ジョンソンの話をしている(*6)。ジョンソンはアメリカ社会にある黒人男性への恐れ、特に、『國民の創世』の中心にある恐れでもある、黒人男性の秘めた力が、白人女性の純潔を冒涜するという、その性的能力への恐れを鋭く見抜いていたけど、監督のグリフィスはこれになんの疑いも持たなかった。あなたがさっき言ったように、彼は異人種間結婚への「嫌悪」を引き出したいと語っている。この恐怖は、奴隷制度の時代にさかのぼるものであり、エメット・ティル(*7)やユシフ・ホーキンス(*8)の死といった悲劇の中にも引き続き見られるものだ。(憶えておいて欲しいのは、1958年に白人と黒人の結婚を認めるアメリカ人は、たった4パーセントだった。1991年までにその数字は48パーセントにまで上がったが、それでも半分以下)


そして、マイケルジャクソンが『ブラック・オア・ホワイト』の歌詞の中で、この神話と対決している。「Boy, is that girl with you?(坊や、彼女はお前の連れなのか?)/ Yes, we're one and the same(そう、僕たちは一緒、同じ仲間さ)」から始まり、マイケルが燃えさかる十字架の中を歩きながら「シーツなんか恐くない!」とシャウトするシーン、人種の純粋性という観念を否定してみせるモーフィングシーン、そしてパンサー・シーンに至る流れでね。パンサー・シーンは、僕の意見では、ミュージック・ビデオの歴史の中ではもちろんのこと、映画史上でも最も大胆で、挑戦的な瞬間だ。



ウィラ:私もそう思うわ。



ジョー:このシーンについて僕が本当にすごいと思うのは、マイケルが象徴的な意味で監督の役を引き受けているということ。白人の監督(ジョン・ランディス)は監督の座を奪われているよね。これは、映画の歴史を、映画がどれだけ圧倒的に白人に支配されて来たかということを考えるともの凄いことだよ。何が起こったかというと、ジョン・ランディスはマイケルがパンサー・シーンでやろうとしたことにはすごく反対した。ソニーの重役たちも反対したんだ。最近、YouTubeに未公開シーンがアップされたんだけど、そこにこの時の様子が少し映ってるね。






(記事中にはありませんが、動画スクリプトを参考まで)


(共同で振り付けをしていたと思われるパターソンが、こんな風に、と動きながらマイケルに話している)


Patterson : “No, not wild―wild is great. I’m just saying, sometimes you get real funky or sometimes you get…. tight. [Video glitch―unintelligible.] Sharp body lines, Loosen your body, you know what I mean? Funk out. Funk out.

パターソン:いや、ワイルド、っていうんじゃなくて・・・ワイルドもいいんだけど。僕が言いたいのは、時にすごくファンキーになったり、時にスキッとした感じになったり(ビデオ画面乱れる)切れのある感じを出したり、力を抜いたり・・・わかるよね。ファンクな感じを出すんだ。


MJ : Be more wormy.

マイケル:もっと、芋虫みたいに、ってことかな。


Landis : You want more wormy. More wormy. Grab your nuts some more?

ランディス:もっと芋虫みたい? 芋虫って・・・もっとあそこを掴むとか?


MJ : See, he’s thinking dirty. I don’t do dirty things.

マイケル:ほらね、彼は下品なこと考えてるよ。僕は下品なことなんかしないよ。


Patterson : You know what I mean.

パターソン:僕の言ってる意味わかるよね。


Landis : You mean...“wormy,” right? He doesn’t mean “wormy.”

ランディス:だって、「芋虫っぽく」なんだろ? 彼(パターソン)は「芋虫みたいに」って言ってるのじゃないの?


MJ : No. It’s an expression. I know exactly what it expresses.

マイケル:うーん。そういう言い方なんだってば。僕にはどういう意味かわかるよ。


Landis : I know. (to Patterson): He knows what you mean.

ランディス:あ、そう。(パターソンに)マイケルは君の言ってることわかるって。


MJ: (smiling, to Landis): You’re so dirty.

マイケル:(ランディスに笑いながら)もう、下品なんだから。


Landis : Excuse me, was I doing…..

ランディス:ちょっと待ってよ、僕はそんな・・・。


Karen Faye : It’s all in the mind.

カレン・フェイ:心の中で、ってことでしょ。


MJ : Yes.

マイケル:そうそう。


Landis : (to camera) Was I imagining he was grabbing his nuts?

ランディス:君があそこつかんでるところを、想像しただって?


画像乱れの後、移っていないところで「カメラ回して」の声。マイケルが自動車の屋根で踊り、ボンネットに降りて踊り続け、さらに歩道に降りてフレームから消えるところまで撮影。マイケルが「もう一回」と叫ぶ。それからクルーが自動車の屋根で、次の撮影用にマイケルの身支度をととのえている。画面の外から:はーい、みんなスタンバイして!


Landis (to camera) : I didn’t choreograph this. I’m just shooting.

ランディス:(カメラに向かって)振り付けは僕じゃないからね。僕は撮ってるだけなんだから。


MJ : You are too religious

マイケル:君は信仰心が強すぎるんだよ。


Landis : Too religious...

ランディス:信仰心ねぇ・・・。


* * *


ウィラ:本当にね。それと、メーキングの映像のことを教えてくれてありがとう!見たことがなかったけど、とてもたくさんのことがわかる映像よね。これを見ると、ジョン・ランディスが、マイケルのやろうとしていたことや、それが重要なのかどうかを、本当の意味では理解していなかったとわかるわね。そしてあなたと同じく、私も、ジョン・ランディスの象徴的な意味での役割はモーフィング・シーンまでで終わっていて、その後のシーン、つまりパンサー・シーンは、すべてマイケルだけの作品だ、というところが重要だと思う。


そういえば、『リベリアン・ガール』でも、ビデオは、宣教師がすっかり布教を終えたあとのようなハリウッド的なアフリカの植民地の描写から始まるんだけど、突然すべてが変わるのよね。マルコム・ジャマール・ワーナー(黒人俳優)が「ここにあるどのドアを開けるのも恐いなぁ」と言うんだけど、面白いコメントよね。そして、ウーピー・ゴールドバーグ(黒人女優)が「だれがこれを監督してるの?」と尋ねる。カメラはスティーブン・スピルバーグ(白人監督)が監督用の椅子に座っているところを映すんだけど、監督してるのは彼じゃない。彼はただ退屈そうに待ってるだけ。


そしてロザンナ・アークエット(白人女優)がジャスミン・ガイ(黒人女優)に尋ねる。「私たちなにをすればいいの?」ジャスミン・ガイは「わかってるのは、マイケルに呼ばれたってことだけ。彼がここに来れば、なにをすればいいか教えてくれると思うわ」と言って、マイケル・ジャクソンこそがこの場を取り仕切っている人間だとほのめかす。答えは最後の最後に明らかになって、私たちはついにマイケルを見る。そして驚いたことに、彼はカメラマン用の椅子に座っているのよね。だから、彼がカメラをコントロールし、すべてを支配していた訳ね。監督用の椅子に座って、時計をちらちら見ながら、どうすればいいか指示してもらうのを待っていた白人男性ではなくて。だから、導入部分で期待させたのとは異なり、リベリアンガールは、よくある、白人の目でアフリカの植民地を描いたものではなかった、というわけ。まったく違ったものだったの。これは、世界中の何百万という家庭で見られる作品について全権を握っている、ひとりの才能ある若き黒人男性の話だったのよ。それが、とても楽しく、気楽な雰囲気で、賢いやり方で表現されているから、誰も彼がやっていることに気が付かない。





《註》_________


(*5)2005年のジェシー・ジャクソンによるインタビュー。


下記は該当箇所の抜粋


Jessy Jackson:君はこれがパターンのようなものだと思うんだね。でも、どうやってこれに対応している?すごく高いところに持ち上げられてから一転して、今は、君の人格も、潔白について攻撃されている。こういったことにどうやって対応するんだい?


Michael : そういったことを経験した過去の人物たちを参考にしている。マンデラの物語や、彼の経験は僕に大きな強さを与えてくれるし、それと、ジャック・ジョンソンの物語をPBS(米国の公共放送)で見たんだけど、これは今『Unforgivable Blackness』というDVDにもなっている。


1910年からのこの人物についての驚くべき物語で、彼は黒人初の世界ヘヴィ級チャンピオンとして、突如として登場したんだけど、社会は彼の地位やライフスタイルも受け入れたくなかった。それで、社会がやったことと言えば、ジョンソンを投獄するためにいかに法律を変えるかということ。彼は、ある種の勢力によって不当に投獄されたんだよ。そして、モハメド・アリや、ジェシー・オーエンス(ヒトラーとナチス党が白人種の優越性を証明することを望んだ1936年のベルリンオリンピック大会で、4冠を達成した黒人の陸上選手)の物語もね。


僕は、すべての物語を歴史をさかのぼって考えることができるし、それらを読むことで強さを得ることが出来るんだよ。ジェシー、あなたの話も僕に強さを与えてくれる。あなたの経験もね。僕は公民権運動の終わりの方しか知らなくて、本当には経験してないからね。70年代は子供だったんだ。でも、終わりの方の公民権運動には参加したし、目にすることも出来たんだよね。


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(*6)ジャック・ジョンソン(ボクサー)/黒人として初めての世界ヘビー級王者(1908年-1915年)となり、それは当時非常に大きな論争の的となった。その生涯をたどったドキュメンタリーにおいて、ケン・バーンズは「13年以上にわたり、ジャック・ジョンソンは地球上で最も有名であると同時に、最も悪名高い黒人であった」と評した。SF「You Rock My World」の黒人ボクサーの写真もおそらくこの人だと思われる。(VISIONのN寺解説は間違いが多すぎて、むしろ謎w)


→ http://ja.wikipedia.org/wiki/ジャック・ジョンソン_(ボクサー)


(*7)エメット・ティル(Emmett Louis “Bobo” Till 1941年7月25日– 1955年8月28日)は、アフリカ系アメリカ人の少年。14歳の時、イリノイ州シカゴの実家からミシシッピ州デルタ地区の親類を尋ねていた折、食品雑貨店店主、ロイ・ブライアントの妻キャロライン・ブライアント(21才)に口笛を吹いたと因縁をつけられ、後日、納屋に連れ込まれて凄惨なリンチ(目玉をえぐられ、頭を銃で撃たれ、有刺鉄線に縛りつけ、首に32 kgの重りをつけられた後、死体は川に捨てられた)をうけ殺害された。ティルの死体は3日後に川から発見され、引き上げられた。

→ http://ja.wikipedia.org/wiki/エメット・ティル


(*8)ユシフ・ホーキンス(Yusef Hawkins 1973年3月19日~1989年8月23日)は、ニューヨーク市、ブルックリンで、イタリア系アメリカ人に射殺された16歳のアフリカ系アメリカ人。 ホーキンズと3人の友人は10~30人の白人の若者の群衆に攻撃され、そのうちの7人が野球用バットを振るい、ピストルで武装していた者は2度も胸を撃ち、ホーキンズは亡くなった。

Death of Yusef Hawkins

http://en.wikipedia.org/wiki/Death_of_Yusef_Hawkins



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by yomodalite | 2015-05-12 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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☆Boy, is that Girl with You?(1)の続き。。


ウィラ:あなたの論文にある、


ジャクソンが言おうとしたのは、“Being a color(有色人種になる)というのは普遍的本質ではないということ。それは、想像や歴史や物語や神話を通して付与されたアイデンティティにすぎず、同心円的コミュニティにおける、ランク付けのための言葉に過ぎない。


これはとても重要な指摘で、部族の男たちとのシーンとモーフィングは、マイケルが言いたかったことの重要な部分だと思う。ふたつのシーンの重要性は、これらをショート・フィルムのどの部分に置くかという戦略によって、強化されているんじゃないかしら。ふたつのシーンは『ブラック・オア・ホワイト』の中心部分を、ブックエンドのように左右から支えていて、『ブラック・オア・ホワイト』は3つのパートから成り立ってるように見える。音楽が始まる前の、郊外でのプロローグと、マイケルが歌うメインの部分、音楽が終わったあとのエピローグ、いわゆる「パンサー・ダンス」と呼ばれる部分にね。それで、私はメインのパートが部族の男たちで始まり、モーフィングで終わるところが重要だと思うのね。


ジョー:鋭い観察だね。そしてもちろん、この新しい、複雑な人種についての物語は、たぶん、伝統的な白人郊外居住家族にむけて発せられているわけだよ。あなたがプロローグと呼んだ部分は、白人家庭の孤立と機能不全、特に父と息子の間のそれを描いている。白人の支配的な父(ジョージ・ウェント)は、表面上は、息子(マコーレー・カルキン)が大音量で音楽をかけていることで怒っている。


でも、マイケルがここで指摘していることはもっと深いところにある。父の怒りは無知から起こっている。彼は息子を理解していないし、息子の愛する音楽を、息子のヒーローを理解しない。世界を見る彼の視野はとても狭く、地域限定で、時代遅れ。だから息子は、文字通り父を家から吹き飛ばしてしまう。父は座っていた肘掛け椅子もろともアフリカという、文明の生まれたところに着地し、そこで彼の「学び直し」が始まる。



ウィラ:そう。そして大事なのは、息子のヒーローのひとりがマイケル・ジャクソンだということ。父親が荒々しく息子の部屋に入ってきた時に、そのノックの勢いでマイケルのポスターが落ちてしまう。あなたが論文で指摘しているとおり、似たシーンが、ビデオの最後の最後にあって、そこではホーマー・シンプソン(アニメ『ザ・シンプソンズ』に登場する父親のキャラクター)がリモコンをつかみ、テレビを消してしまう。息子のバートが『ブラック・オア・ホワイト』を見ていたから。それも、特にパンサーダンスをね。つまり、ビデオは、白人の父親の、怒った、抑圧的な態度という額縁に縁取られているわけ。その態度は、息子がポップカルチャー、とりわけ黒人アーティスト、マイケル・ジャクソンがもたらすようなポップカルチャーに触れるのを妨げるためのものよね。


これは当時の雰囲気を正しく反映していると思う。なぜなら、これもあなたが指摘しているように、『ブラック・オア・ホワイト』は、白人男性の怒りが高まっている中でリリースされたものよね。公民権や女性の権利やゲイの権利が認められるにつれ、「家庭や職場における男性支配が減退していった」そして、その大半は、白人による「男性運動」の高まりに結びついていった。興味深いと思うんだけど、『ブラック・オア・ホワイト』がリリースされた1991年に最も売れた本は、ロバート・ブライの『アイアン・ジョンの魂』(原題 "Iron John" )だった。あなたも言っているようにこれは、「傷ついた男たちに語りかけ、内なる“野生”と“戦士”を回復する事によって彼らを立ち直らせるための本」なのよね。


ブライの本や「男性運動」が当時どれだけ人気を博したか憶えているわ。男性たちが森に集まって大きなたき火をし、太鼓をたたいて、「オスとしての強さ」を奪ってしまうらしい文明の影響を振り落とすのよ。それらのことを、マイケル・ジャクソンとの関連から考えたことは無かったんだけど、『ブラック・オア・ホワイト』を理解する上でとても面白い歴史的な背景よね。特に、あなたが言っていた、郊外で肘掛け椅子に座ってた父親がアフリカに吹き飛ばされて、マイケルジャクソンが部族の男性たちと踊るのを見るっていうシーンを理解する上でね。


ある意味、これはブライのメッセージをそのまま表したシーンで、つまり、男たちよ原始に帰り、“内なる戦士” に目覚めよっていう。でも、マイケル・ジャクソンは、タイの女性たちや、小さい女の子も含めた平原で、インディアンたちと踊ることで、ブライの記述から逸脱していく。そして次に、インドの女性や、ロシアの男性グループとも踊る。マイケル・ジャクソンのメッセージは、ブライのメッセージとはかけ離れているのよ。



ジョー:確かに。ブライのメッセージのトンチンカンなところは、僕の意見では、それがすべての男性に通じる普遍的なメッセージで、もっと言えば、いわゆる「男らしさの危機」に対するオールマイティな処方箋だと思ってるところなんだ。ブライは、男性にもいろいろあるということを認識していなかった。マイケルはわかっていたけどね。でも、あなたが言うように、(ブライの本は)男らしさが危機にさらされていると認識されていたことを示す、とても興味深い歴史的背景だね。


実は、僕が結局あそこに書かなかったもう一つの背景は、ヒップホップの役割なんだ。あの当時のヒップホップ、特にギャングスターラップの多くが、超男らしいパワーを発散しようというような内容だった。真の男になって、ゲイやホモとかナヨナヨした奴を閉め出せ。女に優しい奴や、異なる人種と関係を持つ奴もだ、って感じの。


だから、このような背景から言えば、マイケルの歌やビデオは、ヒップホップや、ハードロックやメタルに浸透している言説に、直に異議を申し立てていることにもなる。ヒップホップのほうが言われること多いけど、メタルだって同じくらい女性嫌悪や同性愛嫌悪が強いよね。



ウィラ:本当にそうね。



ジョー:これらのジャンルは80年代終わりから90年代始めにかけての若者に多大な影響力を持っていた。だからマイケルが両ジャンルをブラックオアホワイトに取り入れたのは偶然ではない。ただし、メッセージの内容は創り直してね。




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by yomodalite | 2015-05-11 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(4)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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