カテゴリ:☆MJアカデミア( 50 )

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ここまで、ティーザーに引用された映画に潜む《黙示録》や《神話》を探ってきましたが、今回は、マイケルが遺したものから・・・


⭐️ ⭐️ ⭐️


「聖杯伝説」や「アーサー王と円卓の騎士」と呼ばれる神話の中には、登場する騎士たちがもつ様々な《聖剣》が登場します。アーサー王の剣《エクスカリバー》はもっとも有名なものですが、その代表的な伝説には、


湖の乙女から魔法の剣を受け取る

石に刺さった剣を抜いて王になる


という2つがあります。


ジャクソンズ時代のVictoryツアー(1984年)のオープニングでは、騎士に扮したランディが、舞台に置かれた石から剣を抜くことで、勝利(Victory)を宣言していましたよね。






(聖剣のシーンは1:20〜)




ジャクソンズは、ロックの殿堂入りもした素晴らしいグループなんですけど、マイケルの作品を見続けていると、そのクオリティの差に・・なんだかほっこりしてしまいますw このときの演出は、『スターウォーズ』の影響が色濃いものでしたが、でも、ジャクソンズに限らず、欧米人はホント《聖剣》が大好きで、同時代にチャートを席巻し、マイケルとも縁が深いTOTOのアルバムも、聖剣のオンパレードです。



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(1978~1988年までのTOTOのアルバムジャケット)




では、HIStory期のマイケルの「聖剣」や「王冠」の意味は何だったのでしょうか?



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これは、以前も紹介したマイケルの専属画家デイヴィッド・ノーダールによって、HIStoryの約1年前に完成した絵「The Triptych」。



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右側は、騎士として任命を受けている様子が描かれています。これは、叙任の儀式は、主君の前に跪く騎士の肩を、主君が長剣の平で叩くという伝統に沿っているもので、




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中世をテーマにしたロマンス絵画で有名な英国の画家、Edmund Leightonが、1901年に描いた「The Accolade(騎士の爵位授与)」(この絵の騎士は《鷲》と《月》のシンボルですね)という絵にも同じような場面が描かれていますが、




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騎士の爵位授与は、現代の英国でも基本的に同じスタイルで行われていて、これは、英国の俳優で、スタートレックやX-Menでもおなじみのパトリック・スチュワートが2010年に「騎士(Sir)」の称号を受けたときのもの。彼のように、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで永年活躍した人にはこの称号がよく与えられているんですが、ちなみに叙勲していない「ジョブズ」のものは、これの合成写真ですからね(苦笑)。




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念のため、弁明しておくとw、私はフリーメーソンの肩をもっているわけではありません(笑)。


ある団体はずっと「悪の組織」で、ある団体はずっと「善の組織」なんてことは、歴史においては一度もなく、どんな崇高な志をもって生まれた組織も、必ず腐敗していく。それだけは、長い歴史の中で唯一確かな真実といっていいことで、そこを無視した単純な陰謀論は、メディアの嘘と同じように大きな問題だ、と思っているだけです


ということをご了承いただいたうえで、


マイケルの絵に戻りますが、左側は、王としての戴冠ですね。



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左右ともに《獅子》が背景になっています。キリスト教では、ユダ族のライオンといえば、イエスを指しているのですが、世界中のあらゆる国で、王者や、勇者を象徴するシンボルになっています。




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そして、中央には、聖剣をもつマイケルが描かれ、Dancing the Dream』の詩「ARE YOU Listening?」の一部が書き入れてあります(→[和訳]ARE YOU Listening?)


また背景には《竜》が描かれていますが、黙示録で、大天使ミカエルが戦うのも、円卓の騎士達が戦うのも《竜》です。剣には二匹の蛇がデザインされているようで、これは、エクスカリバーと同類のデザインのように見えます。以前も書きましたが、この金色のマントが「スペードの形」になっていることも、意味があると思います。(→http://nikkidoku.exblog.jp/16382196/)


これらの絵から、「HIStory」製作時、マイケルは騎士に任命されて、竜退治に行き、成功して、王になり、竜を退治した聖剣によって、王国を治める。ことを、自らに課していたように思えるのですが、しかし、当然のことながら、マイケルの騎士の任命は、実際に起こったことではなく、彼の内面をあらわすものですよね。


この絵に書かれた詩には、


僕は粒子 僕は波
光の速度で回転して、変動し、先導する
僕は王子になり、悪党になり、あらゆることを行動し
宇宙では、天の川のその中で、熱狂そのものにもなる・・・


という内容があります。


あらゆるものになる。というメッセージは、映画『ムーンウォーカー』で、子供たちの優しいお兄さんでありながら、妖しげな酒場に行き、犯罪に巻き込まれると、スーパーカーで逃げるのではなく、スーパーカー自体に変身(!)し、少女が捉えられると、助けるためにロボットへと変化し(!)、そこから宇宙船になって彼方に去ったと思いきや、セクシーなロックスターとして舞い戻る(!)とか、マイケルの世界ではよくあることですよね(笑)



でも、彼の詩をいくつも訳していると気づくことですが、多くの場合で、主語や代名詞が変化していくという特徴があります。(これは、ウィラとエレノアの会話でも指摘されています→)


この詩も、このあと、「思索者や、探求者であり、露や、陽の光や、嵐であり、現象となり、砂漠であり、海であり、空でもあり、それらは原始の自己であり・・・」


それは、あなたも、僕もそうなのだ、と。


「あらゆるものになる」というのは、マイケルの信条というだけでなく、私たちへのメッセージでもあるわけです。これは、ティーザーが「自己神格化」だと誤解されたことにも通じることだと思いますがそれは最終的な「ティーザー解読」に再度書くこととして、


次回は、この絵の背景に描かれている、マイケルの《竜》とは?・・・について。






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by yomodalite | 2016-02-24 12:42 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(8)
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④の続き・・・


前回、ルーカス監督が、ジョーゼフ・キャンベルの神話学から『スター・ウォーズ』を生み出したことを書きましたが、コッポラの映画には、神話学において、キャンベルの先達であるジェームズ・フレイザーの『金枝篇』と、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』が効果的に使われています。


エンディングを間近にして、この2冊が登場した意味を解説するために、騎士物語について、もう少し説明しますね。



◎アーサー王物語と、聖杯伝説


アーサー王は、ブリテン王である父が、魔法使いマーリンの助けで貴婦人と同衾して誕生したと言われ、若くしてブリテン王となったアーサーは宝剣エクスカリバーの力で諸国を統一すると、貴族の娘グィネビアと結婚し、これを甥のモドレッドにゆだねてローマ遠征の途につくが、留守中、モドレッドが反逆し、王位と妃を奪われてしまう。アーサーは遠征を中断して帰国し、モドレッドを討つが、自らも致命傷を受け、不思議な島アバロンに去った。


アーサー王の城(キャメロット)には、大勢の円卓騎士たちがいて、彼らによる建国物語や、武功と愛の物語、また、キリストが最後の晩餐に用い、十字架上のキリストが流した血を受けたとされる聖杯(Holy Grail)の行方を探求するのが騎士の使命であるという「聖杯探し」の要素も織り込まれ、これらすべて総称して「アーサー王伝説」と呼ばれている。


アーサー王物語はさまざまに発展し、円卓騎士たちの物語である、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の悲恋物語や、『ランスロット』などの騎士ロマンスだけでなく、キリスト教神秘思想を導入したクレチアン=ド=トロワの『ペルスバルまたは聖杯物語』や、ドイツの詩人ウォルフラム・フォン・エッシェンバハの『パルツィヴァール』などのように、騎士たちが、血を流す槍と、聖杯を発見すること。このふたつによってその国が栄えるという聖杯信仰をも生み出しました。



◎病める王と荒地(Wast Land)


騎士ペルスバル(パルツィヴァール)は、漁夫王(漁師の親方ではなく、王様の名前w)の城で、血の滴る槍と、光る聖杯について見聞きしたものの、心に抱いた質問を口に出すことはなかった。これが失敗の原因だったと後で知ったペルスバルは、聖杯探索の旅に出る。《漁夫王》(Fisher King)は、癒えない負傷を得たことから、不具の王、病める王とも呼ばれ、王が病むことで、王国も病み、肥沃な国土は《荒地》(Wast Land)へと変わってしまう。勇者である騎士たちは、王の病を癒すために《聖杯》を探しに行き、それを持ち帰ることで、王と王国を癒そうとします。


騎士物語にあるふたつの重要な要素は《戦い》と《探究》なのですが、騎士は、聖杯を探すだけでなく、《ある問いを正しく問う》ことも重要なんですね。


しかし、キリスト教国の現実においては、美しく彩られた騎士物語は、各地で残虐な殺し合いをする兵士や、海外の品々を奪い取って持ち帰る商人たちに、肉体も精神も知識も優れたもっとも素晴らしい民族という意識を与えることになり、自分たちが、その精神によって世界を支配する、ことに疑いをもつことなく、異文化の人々への野蛮な行為を助長する手助けにもなっていました。


そういったヨーロッパの裏面に触れ、通俗小説として描いた最初期のものが、『地獄の黙示録』の原作である『闇の奥』(Heart Of Darkness, 1902出版)であり、20世紀最大の詩人と言われるT.S.エリオットの長編詩『荒地』(Wast Land, 1922年出版)は、第一次大戦後、ヨーロッパそのものを《荒地》と表現し、その少しあとに書かれ、映画の中でカーツが朗読していた『空ろな人間』という詩は、『闇の奥』の登場人物、Mr. クルツが、死んだ。から始まるものでした。




◎『金枝篇』と『祭祀からロマンスへ』


そして、コンラッドの『闇の奥』と、T.S.エリオットの『荒地』に大きな影響を与えた研究書が、カーツの部屋にあった2冊の本、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』(初版1890年)と、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』(1920年出版)です。



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『金枝篇』について、ターナーの描いた美しい絵だとか、金枝とはヤドリギのことで・・ネミの森がどうしたこうした・・なんていう説明をすればするほど、『地獄の黙示録』との関係がわからなくなるので、結論部分のみ、超あっさり風味で説明すると、


イエスが十字架に架けられた後、復活したという奇跡の物語は、世界各国の未開部族における生贄の儀式(祭祀)や神話と同じであり、人々は、常に、神(王)を殺すことで、その地を再生してきた。


ということ。これは、もっとも優れた民族で、未開部族を自分たちが啓蒙することで目覚めさせようという意識でいた、当時のキリスト教文化圏の人々にはショッキングな結論だったのですが、フレイザーの研究に多大な影響を受け、その祭祀についての見解は、聖杯ロマンスも同じであると結論づけたのが、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』で、ウェストンの結論をこれまた超訳すると、


王が病むことで、王国も病み、荒地(Wast Land)へと変わってしまう。それを癒すために、「聖杯」を探して、王と王国を建て直そうとするヨーロッパの基本となった騎士たちの物語は、病んだ王を殺すことで、国が病むことを防ぐ。新しく王となる者は、その聖なる力を受け継ぐために、王が自然死を遂げる前に殺さなくてはならない。そして、王を殺した者が、次の王となる。という、未開の村のシステムの中で、王を殺す勇気をもった若者と、それを望んだ人々の気持ちを癒すための儀式が基になっていた。


ということです。


こういったことは欧米の本を読む習慣のある知識レベルの人々にとっては、知っていて当然のことなんですが、これらは、カーツが単純に騎士道精神を信じていたわけでなく、彼がどれぐらい自己探求をしていたか、を示すための「小道具」であり、また、エンディングのウィラードの行動を予告するものにもなっています。



◎カーツとウィラードの狂気と嘘と欺瞞


カーツは、他者のために自分を捧げるという英雄に憧れていた。彼が38歳で空挺部隊を希望した理由には、キルゴアのシーンで見られたように、奇襲作戦しかない現代の騎兵隊に、自分なら戦闘の合理性や美しさをも指導できるという思いからだったのでしょう。しかし、彼の作戦は、上層部に独断的行為とのみ受けとめられ、戦争の中での「殺人罪」という理不尽な罪を負わされる。それは、現実社会が認める以上の、つまり、神話的な英雄レベルの苦悩で、地獄を知らぬ者に、何が必要かを、言葉で説いて分からせることは不可能だ」という彼の言葉には、それがよく表れています。ただ・・・


カーツは、ウィラードに「君のような人間が来ると思っていた」といったとき、


1)司令部の偽善的倫理を超えて正しいことをした自分を理解してくれる人間が現れて、自分の真実を息子に伝えてほしい。


2)村で、今や「病める王」となった自分を殺し、その若者に新たな王になって欲しい。


という、2つの希望をもっていた。


一方、ウィラードは、司令部の人間に、


この戦争ではいろいろな混乱が生じている。権力と理想、古い道徳観と現実の作戦行動、彼は現地人の間に入り、自ら神となる大きな誘惑に負けた。人間の心には戦いがある。合理と不合理、善と悪、善が勝つとは限らぬ。誰にも理性の限界がある。君にも、私にも。カーツは限界に達し、完全にイカレてしまった。彼の行動は良識による抑制を失い、人間の行ないとしていささかの容赦の余地もない。カーツの情報を集めながら、その行方を追い、発見次第、いかなる手段を使おうとも、「抹殺するのだ。私情を捨てて」


と言われ、戦場の英雄を「殺人罪」で処刑しようとする司令部に疑問をもったものの、命令を拒否することなく、カーツを追って旅にでる。しかし、カーツの経歴を辿っているうちに、彼が自分の損得からではなく、軍に復帰していることや、司令部が不健全だといったカーツの作戦が、的を得たものであったことがわかり、腐っているのは、司令部やさらに上の人々だと感じ、カーツへの共感が増す。


しかし、様々な困難を乗り越えて、カーツの王国に到着すると、


「君は考えるか? “真の自由”とは何か 他人の意見にとらわれぬ自由、自分からも解きはなれた自由とは何かを?」


と質問されても、ウィラードは命令だとしか答えられず、また、これまでカーツのことを考えてきたにも関わらず、なにも質問することができない。


カーツは、自分がたどり着いた地点を理解してくれる人間に、あとを継いで欲しいと思っている。でも、カーツが自分を殺す者を待っていたのは、本当に自分の王国の行く末を心配しているからだと言えるでしょうか? 


「息子よ、頼りが途絶えて、母さんも心配しているだろう。面倒なことになった。私は殺人罪に問われている。4名の二重スパイを処刑したからだ。我々は数ヶ月かけて証拠を固め、その証拠をもとに軍人として行動した。告発は不当だ。この戦いのさなかに、どう考えても正気の沙汰とは思えない。戦争には憐れみの必要な時がある。また冷酷で非常な行動が必要な時もある。だが多くの場合に重要なのは、なすべきことを冷静に見きわめて、沈着にためらわず、すみやかに、行動することだ。お前の判断で母さんに伝えてくれ。私は告発の件など気にしていない。私は彼らの偽善的倫理を超えたところにいる。ーー 私が信頼する息子へ。愛する父より」


カーツが息子に書いた手紙で、息子に「なすべきこと」だと言っているのは、軍人としての正しい行動を指していて、彼が軍服や、名誉勲章を大事にとってあったのも、自分のこれまでの戦いをまちがっていたとは思っていないことを示している。おそらく、非常に知的で、人格にも申し分のない軍人だったカーツに欠けていたのは《政治力》で、それは、戦争の意味や勝敗を常にわかりにくくする・・・


ナポレオンのしたことは、当時のフランスの栄光のためだった。しかし、ナポレオンが、ヨーロッパ全体にもたらした荒廃はひどいものであり、それは、ヒトラーにも同じことがいえる。カーツの判断が、軍人としての範疇にとどまるなら、それは、時と場所を越えれば、必ず矛盾をはらんだものになり、彼自身、ベトナムや、カンボジアの人々の方に理想の軍人を見るようになっていく。


そして、教義とか、政治信条だけでなく、選んだ職業倫理や、幼い頃から「こうしなくては・・」と思っていることが絡みあい、「絶対こうしなくてはならない」という結論を見出してしまうんですね。人というのは・・・


カーツは、自分を理解してくれる者を求めているが、その苦悩に魅せられ、自分に従おうとする者ばかりが増えていく。しかし、カーツは彼らを指導することに、もう未来を感じることができない。なぜなら、彼にはもう戦う目的がなくなっているから。彼が軍の理想を書きつらねた文章にあった「爆弾を投下してすべてを殲滅せよ」の文字には、その気持ちが表れている。カーツはこのジレンマを解消するために、《王殺し》を行う若者を待っていた。そして、自分を追ってきたウィラードに最後の期待をかけるものの、彼の答えは、カーツを満足させるものではなく、“ただの使い走りの小僧” だと失望する。


でも、ウィラードも実際のカーツを見て失望していた。彼は、なにかはわからないものの、カーツに期待していた。しかし、カーツがウィラードに言った言葉・・


「私を殺す権利はあるが、私を裁く権利はない。言葉では言えない。地獄を知らぬ者に、何が必要かを、言葉で説いて分からせることは不可能だ。・・・恐怖とそれに怯える心、両者を友とせねば一転して恐るべき敵となる。真に恐るべき敵だ・・・持つべき兵は、道義に聡く、だが同時に何の感情も感情も興奮もなく、原始的な殺人本能で人を殺せる男たちだ。理性的な判断を持たずに、理性的な判断が敗北を招く」


それは、司令部が自分に言ったことと同じ。ただ言い方を変えただけだった。


ウィラードはカーツの王国にたどり着き、その混乱した世界に言葉を失う。これまでの戦場と同じように死体があふれていただけでなく、もっと理解のできない不気味な世界は、ウィラードをこれまで以上の不安に陥れた。それで彼は、当初は疑問に思った司令部の命令を遂行することで、この旅を終わらせようとする。彼は、自分自身を探究して結論を出したのではなく、誰もが、そしてカーツ自身も望んでいるのだから・・と納得する。


つまり、ウィラードは、疑問を感じた、司令部にも、カーツにも《ある問いを正しく問う》ことをせずに、王殺しを行ってしまったのだ。カーツ殺しは、ウィラードの原始的本能を目覚めさせ、殺人は古代の儀式のように行われる。でも、彼は、その儀式に込められた《破壊と再生》を信じていないし、それは、神話に似せただけの行動で、そこには「光」がない。



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カーツの最後の言葉は、「horror horror(地獄だ、地獄の恐怖だ)」


殺されることを待っていたカーツには、死への恐怖はなかったはず。いざ、死が目の前に迫ってみると急に怖くなった、というのとも違うでしょう。「horror horror」は、カーツ自身が「恐ろしい」と感じたのではなく、人が生きることや、行動原理は、恐怖に基づいていて、人生はホラーに等しい、という意味ではないでしょうか。


そして、結局ウィラードが、カーツ殺しを決めたのも「恐怖」からだった。ふたりは、自ら戦場に魅せられて行ったはずなのに・・



◎「解読『地獄の黙示録』」との解釈の違い


4年ほど前に、立花氏の本を読んだとき、わたしはまだ、聖書も、『闇の奥』も『金枝篇』も『祭祀からロマンスへ』も、エリオットのことも、『地獄の黙示録』との関連がわかるほど理解していなかったのですが、数年かけて、これらの本を読み、ようやく少しはわかるようになったと思い、それで、この⑧を書く前に、あらためて、立花氏の本を読んでみたところ、氏が言っていることは、たしかに「知ったかぶり」ではないことがわかり(何様ww)、何度も「誤訳」を強調する割には、全然正解訳を書かないとか、その他いろいろ卑怯wだと感じる点は以前と変わらずあったものの、意外にも自分が理解したことと一致している点も多くて、驚いたり、がっかりしたりしたんですがw、エンディング部分の解釈で、どうしても納得できないという箇所が・・(嬉w)


・・・チャールズ・マンソンの大量殺人とカーツ王国のどちらも、weird という言葉で、シェフは表現するが、カーツが原始的本能を使って、シェフの首を斬り、その生首をウィラードのひざの上に投げ出す場面の、あのカーツの顔と、決意の場のウィラードの顔がいかに質的にちがうか、説明の必要はあるまい、ウィラードは、最後まで人間としての正気を保ってカーツを殺したのである。(p114)
カーツ殺しを果たして、寺院の前に出てきたウィラードは、民衆から、新しい王として迎えられる。カーツの子供たちは、いまやウィラードの子供たちになったのだ。・・彼は何を迷ったのか。彼もまた、自分が神になれる可能性を前にして、その誘惑に動かされたのだ。しかし、騎士に与えられた最後の試練もまたウィラードは切り抜ける。彼は無言で武器を投げ出し、即位したばかりの王位から退く。・・つまりコッポラは『荒地』を下敷きとしながら、これもまた根本的なところで換骨奪胎してしまったわけだ。彼にとっては「荒地」はカーツの世界なのである。(115 -116)


ウィラードが人間として正気? 騎士として正しい行動をとった?


人間の顔はいかなるものより多くのことを表現するという。あのウィラードの顔にこめられたものが、コッポラの観客への最大のメッセージなのである。そして、それが「荒地」への雨をもたらしたというのが、彼の寓話である。(p118)


私も、この映画は『闇の奥』よりも、構造的にエリオットの『荒地』に似ている部分が多いように感じますし、黒澤明をこよなく尊敬するコッポラが、雨のシーンに思い入れがあるのも間違いないと思います。そして、殺しに向かうウィラードが決意を固めた戦士の顔であったことも間違いないでしょう。でも、殺しを終えて、船に戻ってきたウィラードの顔に、光があったでしょうか? 上記に書いたように、私は、ウィラードは、「ある問いをきちんと問わなかった」ことで、騎士として失敗していると思います。エンディングで、オープニングと同じドアーズの「THE END」が流れ、ウィラードは翌朝、オープニングとまったく同じように目覚め、これからも覚めない悪夢を繰り返す姿が見えないでしょうか。そこには、終わりのない地獄しかない。


彼は命令を果たし終わったことで、また《空ろな人間》になってしまった。そして、雄々しく刀を振るった彼に、司令部からの通信が響く「こちらオールマイティ、哨戒艇ストリート・ギャング、応答せよ」



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カーツを神となる誘惑に負けた狂人だという司令部は、自らを「全能(オールマイティ)」だと言ってはばからず、地獄の底まで旅をしたウィラードは「チンピラ(ストリート・ギャング)のまま。もう一度繰り返される、カーツの最後の言葉「horror horror」は、ここでは、ウィラードの言葉のように聞こえる・・「彼の物語は、俺の物語、彼の物語が懺悔録なら、俺のも同じだ」。冒頭の、事を成し遂げたあとの独白でも、ウィラードはそう言っていた。



立花氏は、この雨の意味をさらにこう解釈している。


ラストシーンで、カーツを殺したウィラードは、群衆の中にわけいり、原住民の中にいたランスの手をつかんで、引き出し、いっしょにパトロールボートに乗る。そのとき雨が降ってくる。ランスは雨に顔をぬらして喜ぶ。・・このシーンは病める漁夫王が癒されて、「荒地に雨が降り、世界が救済される」という神話のシンボリックな表現である。ここで、「L.B.ジョンソン」の名前が意味を持ってくる。L.B.ジョンソンこそ病める王だったのである。L.B.ジョンソンが戦争の狂気から抜け出したときに、世界は救済され、雨が降ったのである。

病める漁夫王が癒され、荒地に雨が降り、世界が救済される。というのが、神話のシンボリックな表現なのはわかるつもりですが、このシーンがそうだと言うなら、何が救済されたと、立花氏は言っているのか?

このあと、1965年にベトナム戦争が本格化し・・・1968年にジョンソン大統領が北爆を停止し、北ベトナムに和平交渉を開始することを提案するとともに、次期大統領に出馬しないことを言明した。実際にはそのあともベトナム戦争は続き、次期大統領のニクソンもベトナム和平を公約したにも関わらず、すぐには終結させず、その後4年にわたって、北爆再開、ラオス、カンボジア進行など悪あがきを続け、死傷者が30万人を超え、国内の反戦運動が百万人単位の人を集めるようになり、ソンミ虐殺事件の報道、ペンタゴン秘密文書のスッパ抜きなどで、戦争支持者は激減し、財務破綻の末、ついに73年、和平協定に調印した。


という上記の文章は「L.B.ジョンソンが戦争の狂気から抜け出したときに、雨が降ったのである」のすぐあとの文章なんですけど、、で、何が救済されたんですか??? カーツの王国が「荒地」だったら、カーツが病める王で、漁夫王でしょう? 



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(雨はランスの血で汚れた顔をぬぐっただけ・・・)



この雨は、コッポラが映画の結末に悩み抜き、最後まで、島の爆破計画も捨てきれない中、なんとかエンディングを撮り終えた自分に降らせた雨ではないでしょうか。そこには、牛殺しの儀式の血や(これは村人の実際の儀式)、現実の戦争の傷を、洗い流したい、コッポラの気持ちが込められていたのかも・・・



◎コッポラの主題は・・・


脚本家のジョン・ミリアスが、これを書いたとき、コッポラは自分が監督をやるとは思っていなかったのに、監督と、出資者になり、本当に最後の最後まで、エンディングを決められなかっただけでなく、さまざまな部分に、大勢の人の意見が取り入れられているようなのですが、エンディングに、大きな影響を与えた『金枝篇』と、『祭祀からロマンスへ』は、カーツを演じたマーロン・ブランドと同じように、あとから現場に来た、デニス・ホッパーのアイデアで、急遽盛り込まれたものなんですね。

私の解釈は、最初からこの2冊の本ありきなので、エンディングからオープニングを遡って解釈するなら、整合性がとれていると思いますが、実際の現場では、最後までどうなるかわからないことだらけで、計画的ではなかった部分がたくさんあったようです。コッポラのコメントは全体的に、これは奇跡的に完成した映画であって、名作となった箇所のほとんどが、自分のディレクションではない、と言っているようにも感じられるのですが、その中でも、監督自身の気持ちが伝わる部分をDVDの監督コメンタリーから抜粋すると、


撮影中、何度も『闇の奥』を読み返し、この映画が戦争映画ではないことに気づいた。主題は道徳観だ、と。我々は嘘をつき、それが潤滑油となり、さらにひどいことが起こる。真実を言えば、いくらかの行動が不可能になる。すべてが機械化され、テクノロジーは広がり、嘘は極端に異様で、破壊的なものを生み、そして同時に美が備わる。・・・戦って守るというのは、『ゴッドファーザー』と同じ主題だ。マイケル(コルレオーネ家の三男)がやったことは、彼の家族を保つためだが、そのために家族は抹消される。

殺人と破壊と森林除去のために、金と努力と近代的な資源をたくさん使い、同時に安易に道徳観念を論じられるのか。少し考えるだけでも頭痛がする。これが『地獄の黙示録』の主題で、これを反戦映画だと考えたことはない。



◎原作『闇の奥』との違い


『地獄の黙示録』の意味がよくわからない、という理由で、原作『闇の奥』を読んでみたという人は多いと思いますが、それで、『地獄の黙示録』がわかったという人は少ないと思います。『闇の奥』は、植民地コンゴが舞台。そこは戦場ではなく、象牙や黒人が堂々と売られている世界で、クルツ(映画ではカーツですが)も軍人ではなく商人で、また、クルツは、カーツのように殺されたわけではありません。文学作品を原作とした映画の場合、その魅力のほんの断片の映像化であったり、原作よりも単純化されたものになっていることがほとんどなのですが、この映画に関しては、『闇の奥」は原作というには、話が違いすぎ、映画はかなりの「翻案」がされています。


特に、映画のカーツを、原作のクルツから探ろうとするのはお勧めできませんし、原作の語り手であるマーロウと、映画のウィラードの人物造形もかなり異なっています。曖昧なところは、原作も曖昧で、映画では、俳優、スタッフ、大勢のすばらしい映画製作者たちが、それぞれ肉付けしたことで、『闇の奥』にはまったくない別のテーマが、『地獄の黙示録』にはあると思います。



◎まとめ・・・


歴史は勝者が作る、と言いますが、歴史の最初から一貫して勝利している者などひとりもいませんし、王者は常に移り変わっています。だから、歴史は「王たちの物語」とは言えるのかもしれません。一握りの王たちが勝ったり、負けたりしていることが記述されている。では、王ではない、私たちは、その歴史にただ翻弄されてきただけなんでしょうか? 


この映画のフォトジャーナリストのように、状況を解説し、判断し、先導する人間がいて、私たちは、ヒトラーを熱狂的に支持し、ドイツが負けると、彼を葬ったように、日本でもなんども同じことが起きています。私たちは、王に力が無くなったと感じると、それを殺す側に参加する。


コッポラがベトナム戦争を描いた映画で、ウィラードを主役にしながら、彼だけでなく、どんな英雄も登場させなかったことで、この映画は、戦争の原因や責任を問う映画ではなく、「わたしたち」の映画になったのだと思います。カーツも、ウィラードも、嘘と欺瞞を憎んでいた。それなのに、


我々はみんな嘘をつき、それが潤滑油となり、さらにひどいことが起こる・・・



さて・・


マイケルの最初のショートフィルムと言える『ビリー・ジーン』も、最後の『ユー・ロック・マイ・ワールド』にも、マーロン・ブランドが強く影響していました。


「ホラー、ホラー」で終わった《王殺し》の映画は、《スリラー》で《王》になり、《スリテンド》でアルバム創りを終えたマイケルと、どう繋がっているのか、いないのか?


次回から、ようやく「ティーザー」の解読します!

HIStoryと黙示録:マイケルと神話 ①







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by yomodalite | 2016-02-09 14:12 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(6)

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③の続き・・・

聖書と黙示録、政治と歴史との関連に引き続き、今回は、マイケルの『HIStory』にもっとも影響がありそうな《神話や騎士道物語》との関連について。



◎Godがいる国の神話


まず、《神話》という言葉のイメージは、私たちと、Godがいる国では大きな違いがあります。


私たちが、神話の世界を想像するとき、そこには、原始のままの美しい森や、透き通るような川が流れていて、巫女のお告げを人々が聞き、作物の豊穣を神に祈っているような世界を思い浮かべ、自然を見ると、それをそのまま「神の恵み」だと感じるでしょう。


でも、Godがいる国の自然への感覚はそうではなく、神話学で有名なジョーゼフ・キャンベルは、「聖書の伝統は、社会的な方向をもった神話体系で、自然は悪しきものとして呪われている」と語っています。

「自然を悪と見なしたとき、人は自然と調和を保つことができず、自然を支配する、あるいは支配しようと試みる。おかげで緊張と不安が生まれる・・・聖書の中では、永遠は退き、自然は堕落しきっている。聖書の思考に従えば、私たちは異境で流刑生活を送っている・・・ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖典の伝統はすべて、いわゆる自然宗教を非難しながら、自己を語っている。・・・「創世記」にも書いてあります。われわれ人間が世界の支配者にならなければならない」



◎神話の主題と、英雄物語の基本


黙示録の《神の国》の創造が、こういった考えから生まれたものだということがよくわかると思うのですが、《神話》の主題も、この堕落した自然に《光》を取り戻す、ということになるわけです。


これが「聖杯伝説」や「アーサー王と円卓の騎士」と呼ばれる《神話》の基本で、こういった神話から、戦いに勝った国の王が《英雄》であるだけでなく、カトリックでは《聖人》にもなっています。ただ、誰も聖書が読めない時代は、聖書の内容とは関係のない物語で、人々を惹きつけていても大丈夫だったのですが、プロテスタントになると、事実と明らかに違うことは、聖書から除外するようになり、天使も聖人も新約聖書からはいなくなっていく一方で、騎士物語はますます盛んになり、中世の騎士に由来した「ナイト(騎士)」という称号が、現在のイギリスの叙勲制度にあるように、素晴らしい騎士というものが、最高の人物・人格である、というヨーロッパの伝統も出来たのですが、


キャンベルは、英雄伝説の基本構造は大きくは3つに分類され、


①英雄が、日常世界から危険を冒して、超自然的な領域に出掛け(セパレーション:分離・旅立ち)、②そこで超人的な力に遭遇し、未知の経験や、これまでの自分の殻を脱ぎ捨てるなどの転生を経て、最終的に決定的な勝利を収める(イニシエーション:通過儀礼)。③そして、英雄は、彼に従う者たちにも恩恵を授ける力をえて、この不思議な冒険から帰還する(リターン:帰還)。


これをもう少し細かく分析すると、


・Calling(天命)
・Commitment(旅の始まり)
・Threshold(境界線)
・Guardians(メンター)
・Demon(悪魔)
・Transformation(変容)
・Complete the task(課題完了)
・Return home(故郷へ帰る)


となり、西欧の騎士物語も、東洋のブッダの物語も、このパターンであるとキャンベルは言っています。


大学でキャンベルの授業に影響を受けたジョージ・ルーカスが、この基本構造を『スター・ウォーズ』三部作に適用して大成功を収めた話はよく知られていますが、その『スター・ウォーズ』第1作が公開になった1977年の2年後に公開された『地獄の黙示録』は、元々『闇の奥』を原作にしてベトナム戦争を描くという、ルーカスの企画が、コッポラに譲られて発展したもので、現代の英雄としての「騎士物語」を目指した『スターウォーズ』と『地獄の黙示録』は、裏表の関係にある映画ともいえるんですね。



◎登場人物の名前(ファーストネーム)


欧米では、子供を聖書から命名することが多いですよね。カトリックには、聖人と呼ばれる人が大勢いますが、例えば、最近「聖人」になったマザー・テレサは、元々は、アグネス・ゴンジャ・ボヤジュという名前で、アグネスは、聖アグネスという聖人から名づけられていて、修道女になったときに、リジューのテレサと呼ばれる聖人の名を、修道名にしたのだそうです。


でも、修道女や、アッシジのフランチェスコのように、実際に宗教的な奉仕活動をおこなった「聖人」だけでなく、伝説上で活躍した聖人も大勢いて、男子に人気の名前は、「騎士道物語」の登場人物の名前も多いんですね。


映画の中でその名前が呼ばれることはありませんが、『地獄の黙示録』の登場人物には、ミドルネームもきちんとつけられていて、その名前を見ていると、コッポラが黙示録だけでなく、神話や騎士道物語を意識していたことが見えてきます。


ウォルター・E・カーツ大佐 Walter E. Kurtz

ウォルターの名は、古ドイツ語で「支配する」ことを意味するwaltanと「軍隊、部隊」を意味するheriの合成により生まれたものであるとされる。ちなみに、原作の『闇の奥』で、クルツ(Kurtz)と呼ばれる人物は、そのドイツ系の苗字しか明示されていらず、母親が半分イギリス人で、父親は半分フランス人、イギリスで教育を受け、ヨーロッパ全体がクルツという人物を作り上げるのに貢献したような・・とされる人物。


ビル・キルゴア中佐 William "Bill" Kilgore

ウィリアム(ビルはウィリアムの愛称)の名は、ゲルマン的要素を持つ古フランス語の名に由来し、Williamは、念願や意志を意味する"Will"(「Triumph of the Will」の "ウィル" ですね!)と、ヘルメットや防護を意味する"helm"があわさった名前とされる。


ベンジャミン・L・ウィラード大尉 Benjamin L. Willard

ベンジャミンの名は、ヘブライ語で[son of the right hand=最も頼りになる助力者の息子]という意味。ベニヤミンを由来とする。米・英に多い。そして、 彼の役職は「U.S. Army Special Operations Officer」!(→マイケルもSpecial Officer だったよね!)


ちなみに、司令部の場面に登場して、カーツの情報を説明するハリソン・フォードはルーカス大佐」なんですが、これまでに、何度も指摘している《逆》パターンが、わかりやすい例としては、


ジョージ・フィリップス(“チーフ”)George Phillips

ジョージの名は、ドラゴン退治の伝説で有名なキリスト教の聖人ゲオルギウスに由来。槍で致命傷を与えたのち、アスカロンでトドメをさした。感謝した町の人々はキリスト教に改教したという神話があるのですが、“チーフ”は「槍」に射抜かれて亡くなります。



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ランス・B・ジョンソン・Lance B. Johnson

ランス(英: lance)は、中世から近代まで主にヨーロッパの騎兵に用いられた「槍」の一種。また、ランスロット(Lancelot)は、アーサー王物語等に登場する伝説の人物で、槍、剣術、乗馬のどれも彼の右に出るものはいない、最強の円卓の騎士と言われているのですが、元サーファーのランスは、もっとも軍人らしくない人物。



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(槍が刺さっているように自分で細工している)




◎ランス・B・ジョンソンとは・・


この映画のランスは、L.B.ジョンソンであり、円卓の騎士ランスロットでもあり、そして、さらに、サーファーのカリスマとしての彼は、このベトナム戦争をテーマにした映画の中で、聖書や、円卓の騎士という古い神話ではなく、当時は「ニューエイジ」と呼ばれていた新しい精神主義の波である、スピリチュアリズムに惹かれる若者という役どころも担っています。


この時代、サーフィンと哲学や精神世界を結びつける文化が流行っていて、60年代にハーバード大学の教授だったティモシー・リアリーは、LSDなどの幻覚剤による人格変容の研究を行うだけでなく、東洋の導師とも関係を深め、ニューエイジ文化の一翼を担っていたのですが、彼は、サーフィンの素晴らしさについて、「一回のライドで何回も生と死といった究極の人生を体験できる」とか、サーファーとは人類全般の進む方向を探るため、皆よりも列の先頭へ出され、道なき道をあゆまされているのだ」というような言葉で、若者のサーフィン文化を盛り上げていたんですね。


ニューエイジ文化は、科学の発展にともに信じることが難しくなり、また魅力的には見えなくなった大人たちの宗教よりも未来を感じさせ、残酷な歴史に由来しない輝かしいものとして、東洋など、異国の思想も大いに取り入れられたのですが、徐々に、プロテスタントが捨てたカトリック的な要素を、別の包み紙にくるんで再提出したような内容が多くなり、天国や地獄も、最後の審判も、昇天や、復活といったことも、新たな名前に言い換えて、隠喩としてではなく、現実に起こることとして信じようとする(そのため物理学用語なども使う)。


それで、結局、自分では何も考えず、教義を信じていれば、正義と救済が手に入るという「宗教」と同じものになり、他者の受け入れも、その教義を信じる仲間に限られる、というところまでまったく同じ歩みを辿ることになる。


「ソウル・・・」とか、「・・・ソウル」とか、仲間や恋人を求める人には、近づきやすく、宗教のもつ怖さとは無縁のように感じられ、なぜか、古代の神話が大好きで、ファンタスティックなもののように語る人が多いのですが、生きるということは、他の生き物から命を奪うことだという、ことを実感できない現代の若者が、古代の人々が神に求めてきたものを、どうやって誤解せずに理解できるんでしょう。


この映画の中でも、ランスは自分が撒き散らしたスモークによって、敵に発見され、そのときの攻撃で “クール” が死んでしまっても、自分の犬のことの方を気にしていたり、常に自己中なんですが、神話上では、聖ゲオルギウスとしてドラゴン退治の仲間だった “チーフ”の水葬のときだけ、パブテスマのヨハネになったかのように、なぜか、洗礼の真似事だけは上手い(笑)。



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(とても美しい「前世ごっこ」のシーン)




⑥の「ふたりのL.B.ジョンソン」で、ジョンソン大統領もランスも、共に、ジョンソン(ヨハネの息子)という名前が重要だと言ったのは、《ヨハネの啓示をそのまま継承していく者》だという意味だったのですが、


ランスが、ただアシッドにふけっているだけの自己中のニューエイジではなく、

「ヨハネの息子」だ、という証拠写真はこちら(笑)



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出ました!「神の国」Gods Country



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未来を輝かせるのは「神の国」ではなく、

君の心の中にある「愛」で、

それはどんな教義を信じることでもなく、

日々懸命に生きることで少しづつ大きくしていくものなのにぃ・・

(→ HEAL THE world)





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(クールや、チーフが亡くなるシーンより少し前の場面)



船のオイルタンクらしき場所には、CANNED HEATと書かれていて、これは、「Sterno」というブランドの物が有名な「携帯燃料」のことを指したり、そこから「アルコール中毒」という意味にもなっていたり、爆発しそうな位の熱い気持ち、といった意味もあるようですが、船の燃料が入っている場所に書かれているのは、、、なんか「変w」ですね。


上の写真では見えづらいですが、船体には、EREBUS(エレボス)という文字も見えます。エレボスはギリシャ神話に登場する神の名で、原初の幽冥を神格化したもので、「地下世界」を意味しています。


さて、ルーカスが、キャンベルの本から、『スターウォーズ』を創ったように、コッポラにも、この映画を創るうえで、啓示をうけた本がありました。そして、カーツとはいったい何者だったのか、ウィラードはなぜ、カーツを殺したのか? 


次回、ようやく『地獄の黙示録』の最終回!





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by yomodalite | 2016-02-02 21:47 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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②の続き・・・

たった、数分足らずのショートフィルムを解読するのに、なんでこんなに一杯読まないといけないの?とお思いの方も大勢いらっしゃると思うんですけど、ただ、こういったことは、マイケルが意識していたに違いないことではあるものの、わたしたちにとっては前提となる知識も意識もないことなので、説明しようと思うと、どんなに短くしようとしても、これぐらいになってしまって・・・(大泣)。


それでも、同じ資料を、ただただ「頭がいいフリ」とか「わかったフリ」をするためだけに使用してきた数多のものよりは、よっぽどわかりやすくマシなものになっているという自負もあるのですが、そんな私の伸びた鼻をへし折ってくれる人もマジで感謝しますので遠慮なく!


では、今回は、歴史・政治との関連と、

あらゆる場面で成立しない「父と息子の関係」や「お笑い」もちょっぴり・・・



◎リンカーンの言う “心の天使”


ウィラードが、カーツ殺しを請け負ったときに司令部から言われた言葉、


この戦争ではいろいろな混乱が生じている。権力と理想、古い道徳観と現実の作戦行動、現地人の間に入り、自ら神となるのは、大きな誘惑に違いない。人間の心には戦いがある。合理と不合理、善と悪、善が勝つとは限らぬ。時には、悪が勝って、リンカーンの言う “心の天使” を打ち負かす。誰にも理性の限界がある。君にも、私にも。カーツは限界に達し、完全にイカレてしまった。彼の行動は良識による抑制を失い、人間の行ないとしていささかの容赦の余地もない。その彼が軍の指揮を取っている」


この、リンカーンの言う “心の天使”というのは、彼の最初の就任演説の最後の方で述べられた、


I am loathe to close. We are not enemies, but friends. We must not be enemies. Though passion may have strained, it must not break our bonds of affection. The mystic chords of memory, stretching from every battlefield and patriot grave to every living heart and hearthstone all over this broad land, will yet swell the chorus of the Union when again touched, as surely they will be, by the better angels of our nature.


私は演説を終えるのが残念です。われわれは敵同士ではなく、味方なのです。われわれは敵同士になるべきではありません。感情が高ぶっても、われわれの親愛のきずなを切るべきではないのです。思い出の神秘的な弦が、全ての戦場や愛国者の墓から、この広大な国の全ての生けるものの心と家庭へとのびていて、再び奏でられるとき、統一の音を高らかにならすことだろう。その音は確かに、われわれの本来の姿であるよい天使によって鳴り響くことだろう。


のことで、黒人奴隷の解放をめぐって争われた南北戦争後、南部が連邦から脱退できないことを述べたあと、彼らへのアピールとして語られた言葉のようです。


で、このあと、司令部を出たウィラードは、戦場でテンガロン・ハットをかぶり、未だに南北戦争を戦っているかのような、カリカチュアされた南部・テキサス人、将軍キルゴアに出会います(キルゴアはテキサスにある地名)。



◎ここは笑っていい


深刻な戦争を描いている映画でありながら、また、色々と《逆》になっている部分や、パロディでもあると言ってしまいましたが、そう言ってしまうと誤解されそうな部分も・・・


キルゴア登場シーンは、「笑いどころ」が多くあるものの、実は「真実」という場面もあります。


まず、島に到着したとき、「カメラを見ないで先へ進め。テレビだ!カメラを見ずに戦っているフリをしろ!」というカメラクルーが登場しますが、ベトナム戦争は初めてテレビカメラが入った戦争で、人々に「反戦」意識が高まったのもそれが原因だったと言われています。ですから、これは実際の話。


でも、典型的なテキサス人のキルゴアがサーフィンをやってるわけがないw。


これは《逆》になっているという例なんですが、キルゴアが遺体にトランプを配っているのは、死者数を数えたり、恐怖を与えるために、実際に使われた方法で、これは真実です。また、戦闘中に、牧師が祈っていたり、その祈りの言葉も真実で、爆撃したあとに、「我々は暖かい庇護の手を差し伸べる」というアナウンスなども、本当にバカバカしいのですが、こういったことは、すべての戦争で行われていることで、この映画で何度も繰り返し表現されている、攻撃しておいて、助けようとする。という偽善行為で・・・一番笑えないところです。


そして、爆撃を終えて、「DEATH FROM ABOVE」と書かれたヘリコプターから、キルゴアが降りると、テンガロンハットの正面についている「騎兵隊」のマークが、それまでの倍ほどデッカくなっているw(これに似たギャグ、マイケルもやってたよね)。



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(befor)


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(after)



また、本来、いかにも軍人らしいキルゴアのような人物は、戦場がどういうところかわかっていないサーファーのランスを、軍人として鍛えることが役目であり、その厳しさが、若者が成長するための《通過儀礼》になるというのが、『愛と青春の旅立ち』などでも、おなじみの構図なんですが、キルゴアは、戦場では、まったく役に立たないサーフィンのカリスマを尊敬するような態度で接し、戦場における《父と息子》の関係は築かれることなく、ランスの成長も阻害されています。



物資運搬船の乗員を虐殺する


船の中では、もっとも冷静沈着にみえた “チーフ” は、航海中に船を発見し、物資を運搬している船は調べなくてはならない、というもっともな理由から検問するのですが、武器を隠しているかもしれないという疑惑は、軍人として未熟な若者 “クリーン” を興奮させ、銃の乱射を招いてしまう。


このシーンは、ベトナム反戦運動のシンボルにもなった「ソンミ村虐殺事件」から発想したと、コッポラは述べていますが、私たちの国で問題になっている南京虐殺にも似ている点があるように思えますし、この映画よりもずっと後に起きた、イラクに大量破壊兵器があると信じたことから始まったイラク戦争のことも思い出されますね。


そして、ここでも、同じ黒人である “チーフ” と “クリーン” に築かれるはずの《父と息子》の関係が壊れていて、父である “チーフ” は、軍人としての経験と判断から行動を起こしたことで、息子 “クリーン”の致命的な行動を招いてしまう。



◎ふたりのL.B.ジョンソン


この映画にはふたりのL.B.ジョンソンが登場します。そのひとりが、サーファーのランス・B・ジョンソンで、もうひとりが、ベトナム戦争時のアメリカ大統領リンドン・ジョンソン(Lyndon Baines Johnson


この、ふたりのL.B.ジョンソンについては、地獄の黙示録のレヴューとして評価の高い、立花隆氏の『解読 地獄の黙示録』でも指摘されていて、


「L.B.ジョンソンと聞けば、誰でもすぐに、あの大統領を連想する。(…)カーツ大佐のドキュメントの中に、二人が肩を並べて撮った写真が出てくるし、ベトナム戦争の将来展望に関する参謀本部宛の特別報告書がジョンソン大統領にも提出されていたこと、また、カーツがウィラードに読んで聞かせるタイム誌の記事にも(特別編集版)、ジョンソン大統領の名前が出てきて、ベトナム戦争がジョンソン大統領の戦争であったことを、いやでも思い出すように仕向けられている。」


と、ここまでは完全に納得。ただ、このあとの記述、


ランスとジョンソン大統領を重ねることで、ラストシーンの意味的含みが現実のベトナム戦争と重なってくる。カーツを殺したウィラードが群衆の中にわけいり、ランスの手をつかんで、一緒にボートに乗る。そのとき雨が降ってくる。ランスは雨に顔を濡らして喜ぶ。このシーンは、病める漁夫王が癒されて、「荒地に雨が降り、世界が救済される」というシンボリックな表現である。ここで、「L.B.ジョンソン」の名前が意味を持ってくる。L.B.ジョンソンこそが病める王だったのである。


については「???」で、これについては、最後の「神話」との関連で説明する予定ですが、私は、コッポラは、ランスとジョンソン大統領を、ある意味において《類似形》として描いているのではないかと思います。


リンドン・ジョンソンの経歴は、


保守的な南部テキサス州(キルゴアと同じ)から、戦争で戦うことを公約して、南部では支持者の少ない民主党の上院議員になり、その後、実際に戦争に行って、名誉勲章を受章するほど活躍する。ケネディ政権では副大統領になり、ケネディが暗殺されたことで、大統領の座につき、次の選挙でも大勝するものの、ベトナム戦争への判断ミスによって、政治生命を断たれ、また、ケネディ暗殺の首謀者だという根深い疑惑ももたれた。


というようなものなのですが、これらは、一貫したイデオロギーがなく、その場その場で上手く世の中を渡ってきたようにも見え、戦地と政界というふたつの厳しい戦場で成功をおさめ、生き残った人物であるともいえます。


そして、またランスも、サーフィンのカリスマとしては、誰もが一目置くような人物だったものの、軍人としてはまったくの素人。にも関わらず、結局、戦場の波をも乗り切って、最期まで生き残る。


カーツは、自分のことだけではなく、他人のために生きること決断し、そのためには、現在の価値観を破壊することも厭わない「英雄」の道を目指した人間ですが、リンドン・ジョンソンや、ランスは、既存の価値観の中で自分の目標を見つけ、そこのみに邁進する。だから、世界を変えることはできないし、その意思は元々ない。


また、ふたりのL.B.ジョンソンが、共に、ジョンソン(ヨハネの息子)という名前だという点も重要なのではないかと思いますが、それについても後述。



◎カーツとリンドン・ジョンソン


カーツに関する最初のレポートで、マーロン・ブランドが、ドイツ軍の青年将校を演じている『若き獅子たち』の写真が使われていたり、サーフィンをしているランスが「サヨナラ!」というのも、ブランドが演じた映画のタイトルだという「遊び」のあと、


「輝かしすぎる、いや、完璧だ。軍の最高幹部となるべき男だった。大将にでも、参謀長にでも・・・しかし、ベトナムがつまづきとなる。ジョンソン大統領宛の報告書は握りつぶされた。問題があったのだ。続く数ヶ月空挺部隊を訓練課程を3回も志願して、やっと受理された。空挺部隊?38歳にもなって? そして、特殊部隊に加わって、ベトナムに戻る」


というカーツの経歴は、ジョンソンが、自身の上院選挙の運動時に、もし戦争が始まったら、戦地に赴き敵と戦うという公約を掲げ、実際に、第二次世界大戦に海軍少佐として従軍し、輝かしい叙勲を受けたという経歴にそっくりで、しかも、副大統領時代、ケネディ大統領に送った、「アメリカが迅速に行動すれば、南ベトナムは救われる」という予想が大きく外れ、悪化する一方の戦争の責任から政治生命を断たれた。という経歴と対比するものですが、


カーツは名誉勲章を受章して除隊した後、出世には、何の見返りも期待できないうえに、厳しい訓練を必要とするグリーンベレーに自ら希望して入り、実際の軍事行動として、適切な作戦を実行したにも関わらず、軍部に逆らったとして処罰されようとしている。つまり、カーツは、ジョンソン大統領と、ある地点から《逆》コースを行く人物として、造形されているんですね。



◎カーツとダグラス・マッカーサー


上記で、L.B.ジョンソンと対比したカーツですが、軍人として一旦退いたあと、再び、軍に復帰して、カンボジアに行ったという、カーツの人物造型に、アメリカ史上、一人の手にこれほど巨大で絶対的な権力が握られた例は無かった。と評されるほど、日本を占領したダグラス・マッカーサーを感じた人も多いでしょう。


ウィラードが、カーツの資料を読みながら、「陸軍士官学校を首席で卒業、朝鮮戦線、空挺部隊、叙勲の回数多々、見事な経歴だ。」という字幕の背景にある資料映像には、ハーバード大学で歴史を専攻し、その修士論文は、「Phillipines Insurrection: American Foreign Policy in Southeast Asia, 1898-1905(フィリピンの反乱:東南アジアのアメリカの外交政策1898-1905)」とあるのですが、



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マッカーサーが、ウェストポイントアメリカ陸軍士官学校を首席で卒業し、フィリピンに陸軍少尉として派遣されたのは、1903年。このときが、マッカーサーとフィリピンとの長い関係の始まりなのですが、彼がフィリピンにこだわった理由には、マッカーサーの父親が、フィリピン総督だったという歴史があり、カーツが学んだ「フィリピンの歴史」も、マッカーサーの父親の外交政策といえるのかもしれません。また別の資料で、カーツの母親らしき女性が大きく写っているのも、マッカーサーのマザコンエピソードを思わせますし、独断で行った作戦に、上層部はカンカンになるものの、マスコミ人気によって、昇進したことなども・・・



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トルーマンや、アイゼンハワーの忠告を聞くことなく、終戦後、天皇に代わって日本の「王」となり、その後、仁川上陸作戦で、ソウルの奪回にも成功して、名声を高めると、米国の執行部は、ますます、マッカーサーに手を焼くようになり、最終的に解任されるという道のりと、この映画でのカーツの経歴には、重なる部分が少なくありません。


また、⑤でも取り上げた、元シェフのジェイが、ウィラードと一緒に船を降りて、マンゴーを探しに行ったとき、虎に襲われた、というシーンですが、


マッカーサーの有名なセリフ「I shall return(必ずや私は戻るだろう)」は、1942年に、ルーズベルトの命令で、フィリピンからオーストラリアへ脱出するよう命じられたときに発せられたものなんですが、その後の1944年から終戦までフィリピン・レイテ島で行われた、日本軍とアメリカ軍の戦闘で《マレーの虎》と呼ばれて恐れられた日本軍の大将、山下奉文とは敵対する関係で、


戦後、他のA級戦犯には同情的だったにも関わらず、フィリピン国民に「戦争犯罪人は必ず罰する」と約束したこともあり、フィリピン戦での戦争犯罪訴追には、非常に熱心に取り組み、山下は、フィリピンでの降伏調印式が終わるとすぐに逮捕され、部下がおこなった行為はすべて指揮官の責任だという理由で死刑判決が下されました。これには、山下に全責任を負わせ、アメリカ軍のおこなったマニラ破壊を日本軍に転嫁するためとの見方もあるのですが、マッカーサーは山下の絞首刑に際して、より屈辱を味わわせる様に「軍服、勲章など軍務に関するものを全て剥ぎ取れ」と命令し、山下は囚人服のまま《マンゴーの木で》絞首刑を執行された。ということがありました。


マンゴーを探しに行って、虎に殺されそうになった。というのは、《マレーの虎》を《マンゴーの木》で殺した。ことを《逆》にしたエピソードなのかもしれません。



◎カーツとジョンソンとマッカーサーの共通点


カーツの部屋で、ウィラードが発見したこちら・・


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これは、銀星章(シルバー・スター)と呼ばれる勲章なのですが、この章は、アメリカ合衆国の軍の勲章・記章の序列で、戦闘時における功績に限定すれば、シルバースターは名誉勲章、十字章に次ぐ第3位の勲章です。


しかし、名誉勲章の授与基準は「敵対する武装勢力との直接戦闘における任務の要求を越えた著しい勇敢さと生命の危険に際しての剛胆さ」とされるため、生存者の受章は非常に困難で、また、十字章は、「敵対する武装勢力への作戦行動における非凡な英雄的行為」なので、前線で戦った者への受章機会は少ない。


一方、シルバースターの叙勲は「敵対する武装勢力との交戦における勇敢さ」に対して贈られるため、上位の勲章よりも、前線将兵の受章機会は多く、実際に勇敢な行動に対して与えられる章であるとも言えます。


銀星章の受章経験者の中でも、7回受章というぶっちぎりの記録をもつのはマッカーサーで、あとから疑惑をもたれるものの、ジョンソンも歴代大統領の中で唯一この章を受章した人物。


カーツの人物像が、ジョンソンとマッカーサーを経由して出来ていることが、ここからもわかると思いますが、さらにわかりたい人は、カーツが、戦後の日本と大いに関係があり、この映画も・・ということも夜露死苦!



◎兵士のロボット化と、殺人ロボットの実用化


ウィラードが、司令部からカーツ殺しを命令される場面に戻りますが、こんなシーンがありました。



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抹殺するのだ。私情を捨てて」(字幕訳)
Terminate With Extreme Prejudice



このTerminateっていうのは「ターミネーター」と同じ言葉ですが、Extreme Prejudice というのは、通常使われない言葉だったそうで、当時かなりの流行語になったそうです。


直訳すると、「極端な偏見によって始末しろ!」といった感じでしょうか。マイケルファンとしては、彼の「Prejudice Is Ignorance(偏見は無知なり)」の方を深く噛み締めてしまうのですが、兵士たちは、実際に戦場に行くと、人を殺すことを嫌がり、なかなか立派な兵士にはならなかった。それで、兵士たちの発砲率を上げるために、色々と研究がなされ、ベトナム戦争では、それまでわずか15~20%にすぎなかった銃の発砲率が、90%に跳ね上がったということがあったようです。


◎参考図書「戦争における「人殺し」の心理学」


私情を捨てて目的をやり遂げる兵士は、これまでに紹介した、ヨハネの黙示録や、バガヴァッド・ギーターでも、理想の兵士だと考えられてきているわけですが、そこから、ロボット戦士が地球を救う『ターミネーター』へと繋がった可能性は大いにありそうですね。そして、最近では、「殺人ロボットの実用化」が実際に近づいてきたというニュースもありました。



次回は、神話や騎士道物語との関連について。






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by yomodalite | 2016-01-28 18:44 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)

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①の続き・・・


欧米で、ほとんどの人が知っている典型的な神話といえば、《アーサー王と円卓の騎士》と、《聖杯探し》。これらは、どれが原型なのかわからないほど膨大な量の物語があり、また、お互いが混じり合うことで、《英雄》と《探求》の物語を形成していて、それは、イエスの英雄化にも、影響を与えてきました。


ハリウッドでは、ヒーローを描く物語が無数にありますが、それらは、与えられた試練を乗り越えて、どう成長していくかという《通過儀礼》がテーマになっています。そして、その通過儀礼のもっとも大きな要素は、私たちの国では、ほとんど見られない《父殺し》。


宗教学者の島田裕巳氏は、「アメリカ映画は、父を殺すためにある」と言う。父殺しという《通過儀礼》を果たすことによって、英雄(ヒーロー)へと生まれかわるのだと。また、映画評論家の町山智浩氏は、ヒーロー物語と父殺しの関係について、「ユダヤ・キリスト教では、聖書は神を「父」、キリストをその「息子」として描いていて、その父子関係が世界理解の基本になっている。イギリスに反抗して独立したアメリカという国は、常に自分を父と戦った息子としてイメージせざるを得ない」のだと指摘しています。


そして、父殺しは、『スターウォーズ』を思い出してもらうとわかりやすいのですが、歴史や、未来や、神話を舞台にした映画では《王殺し》の物語へと変化します。


元サーファーのランスは、「ディズニーランドよりも素敵なところが他に?」と書かれた手紙を読んで、「あるさ、ここにある」と答えますが、『地獄の黙示録』のジャングル・クルーズは、真実を求める「探索」の物語であり、カーツという《王》を殺しに行く物語でありながら、若者を成長させる通過儀礼にはならず、ここには、誰ひとり《ヒーロー》がおらず、誰もがみんな間違っていて、旅の果てには、《答え(聖杯)》も《宝(聖杯)》も見つからない。


『地獄の黙示録』は、戦いや、王殺しを行うだけでなく、実際の歴史や、これまでの黙示録に基づく物語、神話、王殺しの物語、アーサー王や、聖杯探しといった騎士道物語や、宝探しのすべてを 解体” した物語で、とてもシリアスではあるものの、ある意味、それらのパロディになっているんですね。


この構造は、マイケルのショートフィルムに、とても大きな影響を与えているので、そういった例を出来るだけ多く紹介していきたいと思いますが、

まずは、聖書や、黙示録との関連から・・



◎ヘリコプターと「イナゴの群れ」


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この映画は、ヘリコプター集団の映像がよくあるのですが、これは、黙示録の「イナゴの群れ」ですね。


煙の中からは、イナゴの群れが地上へ出て来た。(...)「額に神の刻印を押されていない人には害を加えてもよい」と命じられ・・・そのイナゴの姿は、出陣の用意を整えた馬に似ていた。そのイナゴの姿は、出陣の用意を整えた馬に似ていた。頭には金の冠に似たものを着け、顔は人間の顔のようでもあった。(...)胸には鉄の胸当てのようなものを着け、その翼(つばさ)の音は多くの馬に引かれて戦場に急ぐ戦車の響きのようであった(黙示録・第九章より)



◎炎と、紫と黄色の煙


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私は幻の中で、馬と騎兵たちを見た。彼らは、・・・口からは炎、紫、および硫黄の色の・・・口から吐く火と煙と硫黄、この三つの災難で人間の三分の一が殺された。(黙示録・第九章より)


戦場を描いているので、爆発シーンや、煙が多いのは、普通なんですが、それ以外のシーンでも、紫と硫黄の色(黄色)の煙が何度も象徴的に登場したと思います。



◎ヘリコプターと『ワルキューレの騎行』


キルゴアが、「俺たちは空の第一騎兵隊」だといった翌朝、ラッパが吹かれ、ヘリコプターは離陸し、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』を大音量で鳴らしながら、ミサイルが打たれる場面は、


第五の天使がラッパを吹いた。・・・この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられた。深い淵の穴を開くと、大きな炉から出る煙のようなものが地上に広がり、太陽も空もその穴からの煙のために暗くなった。(ヨハネの黙示録より)


という場面ですね。黙示録の7人の天使たちは、何かを成す前に、ラッパを吹くことになっていて、交響曲のファンファーレも、このラッパから影響を受けているんですが、


「ワルキューレの騎行」は、アーサー王の物語を原型としている、ワーグナーのオペラ『ニーベルングの指輪』4部作の二作目で、騎行とは馬に乗って行くことです。ワルキューレは、北欧神話(ルーン文字で書かれている)に登場する半神のことで、「戦死者を選ぶ者」とされていて、一般的に、鎧と羽根のついた兜で身を固め、槍(もしくは剣)や盾を持ち、翼の生えた馬(ペガサスなど)に乗る美しい乙女の姿で表されています。



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『ニーベルングの指輪』では、神々の長ヴォータン(=オーディン。北欧神話の主神で、戦争と死の神)と知の神エルダの間に生まれた9人の娘達として登場し、天馬にまたがり槍と楯を持ち天空を駆け巡るワルキューレたちが、戦死した兵士の魂を岩山へ連れ帰る場面の前奏曲として『ワルキューレの騎行』が流れます。

『地獄の黙示録』では、この戦闘シーンから、しばらくして、武器をもって踊る、カウガールファッションの『PLAYBOY』のバニーガールたちが、ヘリコプターで、空から登場するのですが、彼女たちは、《ワルキューレ》としては、早々に兵士たちの前から立ち去っていき、黙示録の《バビロンの大淫婦》のように、裁かれて、焼かれることもなく、2000年版では、淫婦とは正反対の少女のようにも描かれています。



◎ウィラードに送られてくるレポート

船上にいるウィラードに次々に送られてくるレポートは、黙示録で、小羊(イエス)が開くのがふさわしいとされる巻物を指していますが、ウィラードはイエス的な人物としては描かれていない。



第五の天使は《アバドン》を呼び出し・・・


ヨハネの黙示録では、第五の天使がラッパを吹くと、地獄の蓋が開き、《アバドン》と《イナゴ》を呼び出す。ことになります。アバドンというのは、奈落の王のことで、ルシファーや、サタンと同一視され、「破壊の場」「滅ぼす者」「奈落の底」の意味をもっているのですが、ここでは「カーツ」を指しているようです。


また、このあと、第六の天使がラッパを吹くと、ユーフラテス川のほとりにつながれている《四人の天使》は、人間の1/3を殺すために解き放される。のですが、カーツは、ベトナム人の《4人のスパイ》を殺害するという最小の攻撃で、最大の効果をあげる作戦を選択します。


そして、第七の天使がラッパを吹くと、この世は、我らの主と、そのメシアのものとなり、主は限りなく統治される。というのですが、映画では、このあと不気味な「カーツの王国」へとたどり着く・・・



◎「船を離れるな」


マンゴーを取るために、船を降りて、ジャングルに向かったことで、トラに襲われそうになった場面で、元シェフは、船から離れたことを何度も後悔し、ウィラードも、教訓のように「船を離れるな」(Never get out of the boat. というシーンがあります。


これは、おそらくマタイ伝14章22-33で、イエスに「来なさい」と言われて、ペトロが、船から降りて、水の上を歩き、イエスの元に進むのですが(Peter got down out of the boat, walked on the water and came toward Jesus. )、途中で強風に会って、沈みかけ、助けを求めると、イエスが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われる。という場面を《逆》にしているのだと思います。



◎ラザロからの襲撃


ふざけた味方のボートから襲撃を受け、ボヤが起き、船長がリーダーらしき男を見て「お前か?ラザロ」と名前を呼ぶシーンがあります。ラザロといえば、コールドプレイのクリス・マーティンが、MJのTHIS IS ITでのカムバックを「ラザロ以来の復活劇」だと称したように、イエスによって、死から蘇った人物として有名なのですが、この場面でのラザロが、それとは正反対の下品な行為をしているのは、軍事行動と医療行為の両方を行っている「聖ラザロ騎士団」を揶揄する意図からだと思います。


マルタ騎士団、テンプル騎士団、ガーター騎士団、ラザロ騎士団といった騎士団の本来の使命は、巡礼者がキリスト教の聖地を旅するのを守ることだったのですが、現代では、キリスト教の慣習に基づき、慈善活動に取り組み、貧しい人々や病気に苦しむ人々を助けることに置かれていて、故レーガン元大統領や、ヒラリー・クリントンといった素晴らしいメンバーがいることで知られる現代のラザロ騎士団は・・・要するに偽善を行う「悪の秘密結社」なんですね(笑)


これは、聖書からの由来でありながら、歴史であり、騎士物語であり、現代の政治の話でもあるわけですが、こんな風に、この4つは実際に混ざり合っています。



黙示録と聖書に関連する場面は、まだまだありそうなんですが、


次は、歴史・政治との《関連》について・・・






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by yomodalite | 2016-01-25 09:35 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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HIStoryと黙示録:『ターミネーター2』の続き


さて、いよいよ、HIStoryティーザーに引用された最後の映画である『地獄の黙示録』について考えたいと思います。


1979年の作品ですが、今見てもまったく古さを感じない名画で、AFIが選んだ『アメリカ映画ベスト100』で、実際の戦争を描いてベスト30に選ばれた映画は、すべて他国の話か、アメリカが勝利した戦争の映画なのですが、


『地獄の黙示録』は、唯一アメリカが勝てなかった戦争をテーマにしてランクインしています。


また、ヨーロッパが起こした戦争に参加したといえた第二次大戦までの戦争とは違い、資本主義陣営の盟主となったアメリカと、共産主義陣営の盟主であるソ連、この二大国の代理戦争ともいえるベトナム戦争を舞台にしながら、これまでのヨーロッパの戦争の歴史そのものを問い、戦禍の中での「愛と友情」を描いたり、戦争の悲惨さや無意味さから「反戦」をテーマにした多くの戦争映画とも異なり、


『地獄の黙示録(原題:Apocalypse Now)』は、ヨハネの黙示録(The Apocalypse of John)の「最終戦争」や「千年王国」、「善と悪との戦い」といったプロットを採用して、未来を描いた『レッド・オクトーバーを追え』や、『ターミネーター2』のような映画とも違っていて、「今の黙示録(Apocalypse Now)」を描いているんですね。


マイケルは、『HIStory : Past, Present and Future, Book I』において、ヨハネの黙示録(別名:The Book of Revelation)や、聖書(通称:The Book)への間違った解釈に基づいた「HIStory(歴史)」を「Past(過去)」のものとし、「Present(現在)」と、「Future(未来)」を「Book I(新たな本の第1巻)」とするために、この映画を最後に引用したと思われるので、まずは、『地獄の黙示録』の解説から始めてみたいと思います。



◎ヨハネの黙示録と『地獄の黙示録』の違い


ヨハネの黙示録の最初の方には、わたしはアルファであり、オメガである」とあり、また、終わりの方で、わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後のものである。初めであり、終わりである」とあります。これは、ギリシャ文字の最初のΑ(アルファ)と、最後の文字Ω(オメガ)が、最初と最後、すなわち、「全て」と「永遠」という意味を持つと考えられ、伝統的な聖書の解釈では、この人物をイエスだとしてきたのですが、


『地獄の黙示録』は、ドアーズの「The End」で始まり、また、「The End」で終わる映画なんですね。



◎なにもかもが「矛盾」したストーリー


ウィラとエレノアの会話では、ヒストリー・ティーザーは「情景と音」が逆になっている、と表現されていましたが、地獄の黙示録では、常に「理性と感情」や、「感情と行動」が逆になっていて、・・・


オープニング、ジャングルが燃える風景をバックに「The End」が流れる。


これで終わりだ 美しい友よ これで終わりだ ただ一人の友よ 築きあげた理想はもろくも崩れ 立っていたものはすべて倒れた 安らぎは失われ 驚きは去って もう二度と君の瞳を見ることはないだろう 心に描けるだろうか 限りなく自由なものを あえぎながら見知らぬ人の助けを求め 絶望の大地をさまよう・・・果てしない苦悩の荒野に進むべき道を失い すべての子供たちは狂気に走る すべての子供たちは狂気に走る・・・  夏の雨を待ちわびて(字幕訳)






ジャングルに主人公の男(ウィラード)の顔がオーバーラップする。ウィラードは、厳しい戦場を離れ、愛しい故郷へ戻ったとたん、戦場が恋しくなり、妻と離婚し、軍に戻っていた。戦地とは離れた安全な部屋の中で、司令を待っているうちに、恐怖を感じ、鏡に映る自分を殴って、手に怪我を負う。翌朝、泥酔して目覚めたウィラードは、司令を届けにきた二人の男に抱えられて身支度され、司令部へと送られる。


ウィラードに与えられた任務は、人間として優れ、優しく、ユーモアを解し、非のうちどころのないエリート軍人だったカーツの殺害。


司令部の人間はいう。「彼は、特殊部隊に入って、考え方や作戦手段が変わった。カンボジアに入り、彼を神と崇め、絶対服従を誓う人々を意のままに動かしている。カーツ大佐には、殺人罪で、逮捕命令が出ている。彼は数名のベトナム人スパイを二重スパイだと決めつけ、独断で処刑した。


この戦争ではいろいろな混乱が生じている。権力と理想、古い道徳観と現実の作戦行動、現地人の間に入り、自ら神となるのは、大きな誘惑に違いない。人間の心には戦いがある。合理と不合理、善と悪、善が勝つとは限らぬ。時には、悪が勝って、リンカーンの言う “心の天使” を打ち負かす。誰にも理性の限界がある。君にも、私にも。カーツは限界に達し、完全にイカレてしまった。彼の行動は良識による抑制を失い、人間の行ないとしていささかの容赦の余地もない。その彼が軍の指揮を取っている」


ウィラードの心は揺れる。戦場の英雄に与えられた罪は「殺人罪」。レース場でスピード違反を取りしまるか? 彼は大きな疑問を抱きながらも、その任務を引き受け、船に乗り込む。


「行き先が地獄だってことを、おれは知らなかった。彼の物語は、俺の物語、彼の物語が懺悔録なら、俺のも同じだ」(事を成し遂げた後のウィラードの回想)


最初に降りた島では、米軍による空爆が行われた直後で、夥しい死体が転がっている。生き残った人はトラックに誘導され、「我々は暖かい庇護の手を差し伸べる」とアナウンスが響いている。将軍(キルゴア)は、大怪我をしているベトナム人に、自分の水筒から水をやろうとするが、ウィラードが乗りこんだ船に、有名サーファーがいることを知ると、貴重な水をあげずに捨て、その場から去っていく。死体の処理に追われる兵士、ヘリコプターで救助される牛・・・


牧師が祈る声が響く「栄光は天なる父のものなり、我々を救いたもう主に祈りを捧げよう。天にまします、我らの父よ、御名を崇めさせたまえ、御国を来たれせたまえ、御心の天になるごとく・・」


翌朝、ラッパが吹かれ、ヘリコプターは離陸する。現代の騎兵隊たちは、サーフィンの高波を目指し、ベトコンの拠点へと向かう。キルゴアは島の人々に脅威を与えようと、ヘリコプターから、ワーグナーの『ワルキューレの騎行』を大音量で鳴らし、ミサイルが打たれる。


学校が爆撃を受け、子供たちが犠牲になり、アメリカ軍兵士も大勢犠牲になる。攻撃は、さらなる攻撃を生みだし、その惨劇の中、キルゴアは、サーフィンのために、波の高さを確認し、ナパーム弾を搭載した爆撃機に、ヤシ畑への破壊司令を出す。燃え上がるヤシ林。「朝のナパームは格別だ」そう言い放つ彼は、「この戦争もいつかは終わる」と仲間を励ます。


キルゴアが許されて、なぜカーツが・・ ウィラードの自問自答は続くが、船は進んでいく。船の乗組員たちは、誰も目的地を知らず、目指してもいないが、誰もが船を降りられない。カーツ殺しを請け負ったウィラードは、カーツを知れば知るほど、尊敬すべき男に思えてくる。カーツは将官になれたのに、その道を捨て、前線を志願していた。カーツは何を目指しているのか?


船が進んで行くたびに、戦場は混乱を極め、乗組員の命はひとり、またひとりと奪われていく。そして、ウィラードは、ついに、これまでに目にした戦場以上に混乱した、カーツが支配する島(王国)へとたどり着く。


ここに住む米国人カメラマンは、ウィラードたちを出迎えて言う。俺たちは皆、彼(カーツ大佐)の子供だ、と。ウィラードが彼と話したいというと、「話を聞くんだ、心を拡げて、彼は軍人であり、同時に詩人だ」と言う。数え切れないほどの処刑された死体と生首があふれているその島の人々は、ウィラードをカーツの元へと運んでいった。


捕らえられたウィラードに、カーツは尋ねる。「君は考えるか? “真の自由”とは何か 他人の意見にとらわれぬ自由、自分からも解きはなれた自由、彼らは理由を言ったか?ウィラード なぜ私を殺して、私の指揮を断ち切るかを」


ウィラード「私の任務は軍の機密です」

カーツ「今更、機密ではなかろう 彼らはなんと?」

ウィラード「彼らはこう言いました。あなたは完全におかしくなり、作戦手段が不健全だと」

カーツ「私の作戦が不健全だと?」

ウィラード「私の目には作戦手段など・・どこにも・・」

カーツ「君のような人間が来ると思っていた。君は何を期待してた?

ウィラード「・・・」

カーツ「君は殺し屋か」

ウィラード「私は軍人です」

カーツ「どっちでもない 使い走りの小僧だ 店の主人に言われて、勘定を取りに来た」


この後、牢に入れられたウィラードに、カメラマンが言う。「なぜだ?、なぜ君のようないい奴が天才を殺す・・・知ってるか? あの人は君のことを好いてる。君を気に入って、処置を考えてる。知りたいだろ? 俺は知りたいね、どうする気か・・君は知らないだろうから、教えてやる。彼の頭は正常だ。彼の魂がイカれてる。わかるか? 彼はじき死ぬ。このすべてを憎んでる。時々・・彼は詩を朗読する。生き延びた君を彼は評価し、処置を考えてる。俺は君を助けない、君が彼を助ける 彼が死んだらどうなる? 彼が死ねばすべてが死ぬ 人々は彼について何と言う? 優しい男だった、賢い男だった、理想を持っていた。たわ言だ!俺が真実を証言するのか? ご免こうむる!それは、君の役目だ」


夜になり、ウィラードが意識を取り戻すと、目の前には、顔をカモフラージュにメイクしたカーツが立っていて、船に残してきた仲間の「首」を置いていく。激しい恐怖に意識を失ったウィラードは牢から出され、身を清められ、食事を与えられて、再び、カーツがいる場所へと連れて行かれる。カーツは詩を読んでいた。


空ろな人間たち 

互いにもたれ合ってるわら人形

頭の中にはわらが詰まってる・・(字幕訳)


カメラマンはウィラードに言う。「何を言ってるかわかるか ごく基本的な弁証法だよ・・弁証法理論には、 “愛” か “憎しみ” しかない。


(ウィラードの独白)「彼に会えば、すぐに任務を果たせると思っていた。」


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(カーツの軍服の「鷲のマーク」がクローズアップされる)



彼は俺の心を見通していた。将軍たちが俺の見たものを見たら、彼を殺すだろうか。もちろん殺すだろう。彼の家族が今の彼を見たら、どうするだろう。彼は家族を捨て、自分をも捨てた。彼ほど苦悩に引き裂かれた男を俺は知らない。



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(カーツのデスクには、聖書とゲーテの本、フレイザーの『金枝篇』、ウェストンの『祭祀からロマンスへ』が置かれていた)



「私は地獄を見た。君が見た地獄を。だが私を殺人者と呼ぶ権利はない。私を殺す権利はあるが、私を裁く権利はない。言葉では言えない。地獄を知らぬ者に、何が必要かを、言葉で説いて分からせることは不可能だ。恐怖だ。地獄の恐怖には顔がある。それを友とせねばならぬ。恐怖とそれに怯える心、両者を友とせねば一転して恐るべき敵となる。真に恐るべき敵だ・・・持つべき兵は、道義に聡く、だが同時に何の感情も感情も興奮もなく、原始的な殺人本能で人を殺せる男たちだ。理性的な判断を持たずに、理性的な判断が敗北を招く・・・


私は気がかりだ。息子が私の行動を理解できるかどうか。もし私が殺される運命にあるのなら、誰かをやって息子にすべてを伝えてほしいのだ。私が行い、君が見たすべてを。何よりも嫌悪すべきは「偽り」が放つ悪臭だ。君が私を理解するなら、君がやってくれ。


(画面が変わって)村人が、神への生贄として、牛を殺そうとしている


牛を生贄に捧げる祭りの夜、ウィラードは、カーツ殺しに向かう。再びドアーズの「THE END」が流れ始め、ウィラードは、村人が牛を殺すのと同じタイミングで、カーツに鎌を振り下ろす。


倒れたカーツの最後の言葉は、「地獄だ、地獄の恐怖だ(Horror Horror)」。


カーツが最後まで書いていた分厚い原稿・・(原作の『闇の奥』では、国際蛮習防止協会から、野蛮な行動を防止するための報告書を求められていた)しかし、理想を書き連ねてあるはずの、その原稿の中には、大きく赤い文字で、「爆弾を投下してすべてを殲滅せよ」の文字が。


(ウィラードの独白)これで俺は少佐に昇進。だが軍隊などどうでもいい。皆が殺る時を待っていた。特に彼が・・俺が苦痛を取り除くのを彼は待っていた。軍人として死ぬことを願っていた。みじめな脱走将校としてではなく・・ジャングルも彼の死を求めてた。彼の城であったジャングルも。


カーツが殺されたことが村人にも知れ渡り、全員がウィラードに向かって、頭を下げる。王を殺した者は、新たな王だと見なされる。しかし、ウィラードは村人の間を割って進んで行き、ランスと共に船に乗り込む。ウィラードは村を爆破することなく、島を立ち去った。(続く)


____________


[補足情報]ご覧になったことがない方に参考までに付け加えると、この映画には、現在「劇場公開版」(1979年版)と「特別完全版」(2000年版)と呼ばれている2種類のヴァージョンがあるのですが、コッポラ自身が制作費をまかなっていることもあって、1979年版から「ディレクターズ・カット」であり、特別完全版(原題:Redux)は、迷いに迷って振るい落とした場面を「復活」させたもので、いわゆる「最終版」とは違うんですね。


そんなわけで、「劇場公開版」では、まるごと削られたエピソードなども、「特別完全版」にはあるのですが、最初に「劇場公開版」で、作品全体を味わい、次に「特別完全版」を観ることを、私はオススメします。これは、マイケルの再発アルバムと同様で、追加された曲は、どれもとても魅力的だけど、最初のカットの重要性は変わらないといった感じでしょうか。


また、特別完全版は、HIStoryティーザーよりも後に公開されたものなので、この考察では、オリジナル版のエピソードを基本にします。





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by yomodalite | 2016-01-20 12:11 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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『HIStoryと黙示録:レッドオクトーバー』の続き


黙示録や、キリスト教や、ヨーロッパの歴史について、いろいろと面倒くさい説明をしていますが、自分の「信仰」や「主義」や「感覚」を説明するために、文字数を使っているわけではなくて・・・あふれるほどの知識や知性がありながら、それだけで、結論を出すことを良しとせず、あらゆる人々の考えに、すべて耳を傾けているマイケル・ジャクソンを言葉にするのは、本当に困難で、ウィラやエレノアと同じく、彼がやっていることは複雑で、ものすごい量の情報を詰め込んであるこのショートフィルムを語るのは難しいと思うのですが、他にいい方法も思いつかないので・・・続けます(泣)


* * *


『ターミネーター2』は、ソヴィエト連邦が崩壊した1991年の映画。引用された映画の中では、この作品をご覧になった方が一番多いと思いますし、会話でも紹介されているので、映画のあらすじを紹介することは省きますが、この映画の副題は「Judgement Day(審判の日)」ということもあり、HIStoryに引用された映画の中では、もっとも聖書の物語や、伝統的な「ヨハネの黙示録」の解釈に忠実で、また、ウィラとエレノアの会話で「新たなヒーロー像」だと評された中でも、『ターミネーター2』は、ミカエルを描くことがストーリーの主軸になっています。



◎『ターミネーター2』とヨハネの黙示録
「廃墟と化した2029年ロスアンジェルス、30億の人命が核戦争で失われた1997年8月29日、生存者はこの日の事を “審判の日” と呼んだ。彼らの悪夢はさらに続いた。機械との戦争である。ーー 敵の頭脳、コンピューターの“スカイネット”は、二体の殺人機(ターミネーター)を派遣。
殺害の目標は、人類の“抵抗軍のリーダー” 私の息子ジョンである。最初のターミネーターは、ジョンが生まれる前、1984年の私の命を狙い失敗した。第2のターミネーターの目標は少年に成長したジョン。抵抗軍はそれに対し、またも1人の戦士を送り出した。こうしてジョンをめぐる死闘が始まった。」(日本語字幕より)


ロスアンジェルスは、スペイン語で「天使の街」の意味をもち、このナレーションをしている、ジョンの母親の名前は、サラ。サラは、唯一神であるヤハウェ(=エホバ)が、人類救済のために最初に選んだ預言者で、イエスの先祖であるアブラハムの妻の名前で、高貴な母を示す名前としてよく使用されています。


そして、その息子のジョンというのは、「ヨハネ」の英語読みです。


聖書には、洗礼者(パブテスマの)ヨハネと、使徒ヨハネという二人の有名人がいるのですが、洗礼者ヨハネは、イエスの少し前に誕生し、イエスに洗礼を授けた預言者で、キリスト教では、伝統的にイエスの先駆者として位置づけられ、絵画や物語おいて、しばしば、イエスと同じような存在として描かれ、ちなみに、


「30億の人命が核戦争で失われた」という8月29日は、私たちにとっては、マイケル・ジャクソン聖誕の日ですが、洗礼者ヨハネが斬首された日として知られている日なんですね。


で、もうひとりの使徒ヨハネが、ヨハネの福音書とヨハネの黙示録を書いた、ヨハネだと伝統的に考えられてきたのですが、最近の解釈では、それぞれ別人が書いたという解釈が優勢になっているようです。


また、『ターミネーター2』には、関係ないのですが、①から続く「鷲のシンボル」について、付け加えておくと、ヨハネはしばしば「鷲」のシンボルであらわされています。


これは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネという、4人の福音書の著者が、それぞれの福音書で、マタイは獅子(王)、マルコは犠牲者(獣・牛)、ルカは罪なき人(天使)、ヨハネは神の子(鷲)として、イエスを描いている、と言われていることから来ていて、そこから、鷲と剣(武具)が「神の軍隊」としてのマークになっているんですね。



◎『ターミネーター2』と大天使ミカエル


オープニング、タイトルロールで映しだされる、廃墟と化したロスアンジェルスは、ブランコや乗り物といった子供の遊園地が燃え上がるような風景がメインに映し出され、その火の中から、不動明王のようなターミネーターの顔の骨格が浮かび上がるのですが、未来の救世主を守る最強の戦士ターミネーターが、「ミカエル」役を担っていることは明らかです。



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上で、洗礼者のヨハネも、イエスと同じような描かれ方をしていると書きましたが、黙示録を基にした物語の中では、ミカエルとイエスのイメージも混在していて、


人類のために、地球に「人間の姿」で送りこまれたというのは、イエスと同じ「受肉」を思わせますし、また、ターミネーターが裸で登場して、店の客から、ブーツや、革ジャン、オートバイや、ライフルを奪うというのは、『レッドオクトーバーを追え』で、KGBが読み上げた部分(字幕では省略されているので、新共同訳を記しますが)、


見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて、恥をかかないように、目を覚まし・・・


という部分ですね(笑)。


彼の「アイル・ビー・バック」と言う言葉は、「復活」をイメージさせるものですし、また、人間以上の力をもった最強の敵と戦って、勝利したあと、未来のために、溶鉱炉に消えていく姿は、イエスが十字架にかけられたことで、人類の罪を償ったということによく似ています。


ラストで、ターミネーターとジョンは抱き合い、「人間が泣く気持ちが分かった、俺は泣く事はできないけど」と言うシーンは、ターミネーターのような、ロボットの話ではありがちな展開ですが、人間が「人間のようなもの」を創るという物語は、ユダヤ教の「ゴーレム」から存在していて、天地創造において、神がアダムを創ったことを再現したいという、人間の欲望から来ているのだと思います。


聖書の世界では、神が、塵から人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれたことで、生きものになった。という創造神話があるのですが、このとき、人間を「神のロボット」として造らなかったのは、神が人に「自由意志」を与えたからだ。と考えます。それで、人が創るロボットに「自由意志」を与えたり、「自由意志」を徐々にもつだろう。という話が多いんですね。そして、人々が、最強の戦士を「天使」に求めた最大の理由は、


人間が、人間の死に堪えられないからではないでしょうか。人々が「復活」を求めてきた気持ちもまさにそうだと思います。


現実の戦争は、それぞれの人々にとってかけがえのない命を、無残で軽々しく奪っていきますが、どんなに、かけがえのない命であっても、人には必要な戦いや、死もあるのではないか、という思いから逃れることも、国の運命から逃れることも容易ではありません。


ギリシア彫刻のような肉体美を誇るボディ・ビルダーの最高峰「ミスター・オリンピア」(『意志の勝利』の監督リーフェンシュタールのもうひとつの傑作は、ベルリンオリンピックの記録映画『オリンピア』)で無敗の記録をもつほど成功し、世界中でボディビル人気に火をつけた。そんな経歴をもつシュワルツェネッガーが、機械で出来ていて、何度でも再生できる最強戦士だというところが、この映画の最大の魅力だと思いますが、


そのターミネーターを演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの父親は、オーストリア=ハンガリー帝国に生まれたナチス党員で、父の除隊後に生まれたシュワルツェネッガー、オーストリアの徴兵で、史上最年少記録の18歳で戦車兵として任務に就き、その後、本格的なボディビルをするために、21歳で、アメリカに移住したそうです。シュワルツェネッガー自身も新天地アメリカで「復活」のチャンスを与えられ、その後、政治家に転身するなど、多くのチャンスを与えられていたんですね。


ウィラとエレノアの会話では、


『ターミネーター2』とマイケル・ジャクソンと彼の物語には、他にもすごく興味深い関連がある。(…)「かつて彼は未来を破壊するようにプログラムされていた。しかし今、彼の使命は未来を守ること。彼の忠誠はひとりの子供に…」そしてターミネーターを演じるアーノルドは言う。「おれを信じろ(Trust me)」(…)ターミネーターは脅威のように見えて実は「未来と子供を守っている」それは、マイケル・ジャクソンがこの映画を引用した大きな意味よね。


とありましたが、確かに、子供を守るというミッションにおいては、ターミネーターと、マイケルには共通点がありますし、マイケルも「I’ll be Back!」や「Trust me」と言いたかったでしょう。でも、ターミネーターや、ジョンの母親であるサラが、誰かの命を奪ってもいいと信じ、非情な行動を起こすのは、人類の未来がかかっている、という「終末」への危機感からです。


私は、ロボットや、科学技術が好きで、意外ではあっても、マイケルとの関連性がわかりやすいこの映画の引用が、一番わかりにくくなっているのは、そこに原因があると思います。


なぜなら、マイケルは、「僕たちが犯した傷を直すために、変わろう」


と言っていたのであって、どこかに存在する、地球を滅ぼすかもしれない「敵」の脅威について、語ったことはないはずです。


彼が、変えよう、変わろうそして、始めよう、と言っていたのは、常に「自分自身」、「あなた自身」のことで、自分の主義や、有利な条件や、権利や、名誉を求めて、政府や法律といった社会を変えることだったでしょうか?


歴史について、深く学んでいたマイケルは、社会改革における「危機感」や、終末思想の「恐怖」が、さらなる悲劇を生むことについても、本当によく考えていたと思います。上記で、


洗礼者のヨハネや、ミカエルが、イエスと同じように描かれてきた、と書きましたが、マイケルはどう思っていたのでしょうか?


これについては、「HIStoryと黙示録」の一番最後に書く予定ですが、次の『地獄の黙示録』では、「王」についての話が中心になる予定なので、もう少しだけ、ヨハネについて続けると、、


聖書には、黙示録のような夢で見た話(預言)や、手紙なども収められているのですが、よく知られているのは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4種類の福音書ですよね。福音書というのは、すべてイエスとは面識のない後世の信者が書いたものなんですが、イエスの誕生から、イエスの発言や布教活動、最後の晩餐、裁判、そして、十字架刑のあと復活したことで、イエスが神の子であり、真の救世主だったことが証明された。このことを「福音(良い知らせ)」だとするための書です。


この中で、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれ、共通する記述や同じような表現があって、互いに内容の真実性について補完し合っていると言われているのですが、


「初めに言葉(Logos)があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」


から始まることで有名なヨハネの福音書は、それらとはかなり異なっていて、福音書を書いた人たちは全員イエスに会ったことがない人たちなのですが、中でも、ヨハネのものは一番後に書かれたにも関わらず、イエスの言葉が最も多く書かれていてw、イエスをより「神の子」として強調してあるんですね。


また、福音書を書いたヨハネは、「悔い改めよ、神の国が近づいた」という、イエスの先駆者だと言われる洗礼者ヨハネの「終末思想」に深く影響を受けていると言われ、そもそも、記述者が、自分をヨハネだと名乗ったのも、洗礼者ヨハネの言葉として聞いてほしいという思いからだった、という解釈や、また、ヨハネの福音書には「イエスの愛しておられた弟子」という表現があって、それがヨハネであるとする説などもあり、


黙示録に限らず、「救世主イエス・キリスト」を創り上げるうえで、ヨハネ(洗礼者ヨハネ+福音書を書いたヨハネ)という人物の影響力は大きいものがあるようです。


しかし、イエスが、自分に洗礼を授けたヨハネを尊敬していたことは確かであっても、イエスが、ヨハネの信者に留まっていたなら、キリスト教にはならなかったわけですし、キリスト教ヨハネ派の誰かによって書かれた「ヨハネの福音書」が、一番愛した弟子をヨハネだとしただけとも言えるでしょう。


当時流行していた「千年王国(神の国)」や、「終末思想」について、最近の研究によって、福音書の中で最古のものとされる、マルコの福音書では、終末に熱狂する人々に対して、冷静さを保つことを呼びかける、こんな言葉もあります。


ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに尋ねた。「おっしゃってください。そのこと(終末のこと)はいつ起こるのですか。また、そのこと(神の国のこと)がすべて実現するときには、どんな徴(しるし)があるのですか?」イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、「わたしがそれだ」と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争の噂を聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる、これらは産みの苦しみの始まりである。あなたがたは自分のことに気をつけていなさい」(マルコの福音書13章より。マタイ24章、ルカ21章にも同様の記述があります)

自分が住んでいる地域の牧師の話や、テレビ伝道師の説教を信じることが、神を信じることだと思う人がいる一方で、


キリスト教には、福音書の記述者だけを比較しても、それぞれの解釈の違いがあり、異文化や異なる言語の大きな違いを乗り越えて、この書物から何かを得ようとしてきた長い歴史から、様々なことを感じ、現代の常識から考えれば、荒唐無稽な記述があっても、依然として、地球も、人類や他の動植物も、被造物には違いないという思いから、神への畏敬の念を失わず、学び続けるマイケルのような人まで千差万別なんですよね。


ヨハネについて長くなりましたが、


次は最も難題な『地獄の黙示録』へと続きます。



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by yomodalite | 2016-01-13 16:33 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(4)
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HIStoryと黙示録:『意志の勝利』の続き


プロテスタント革命が、論理の解明を求める人を増やす一方で、「ロマン主義」と呼ばれる庶民文化が発展したと、①で書きましたが、人々が、キリスト教に抱いたイメージは、音楽・文学・演劇の中に多くの物語を生みだし、イエスは「革命によって人々を救済する若者」というヒーローの原型となり、ミカエルは勇者のイメージとして、その他、大勢の聖書の登場人物たちが、物語によって語られ、「美」や「正義」や「愛」を一体化した物語への欲望は高まっていきました。


そして、ヨーロッパの帝国が崩壊したあと、「ロマン主義」は、20世紀のアメリカ、ハリウッドへとその中心地を移し、美術と音楽と物語を一体化した「映画」は巨大産業へと発展しました。


アメリカはピューリタン(清教徒)が創った国だと言われることもありますが、大雑把に分けて、3つの宗教勢力がありました。


・清教徒に代表されるクリスチャン(プロテスタント)

・フリーメーソン

・ユダヤ教


アメリカ建国時のヨーロッパは、神の国を求める潔癖なプロテスタントにとっては、堕落した国(=自由の国)になっていて、そこに不満をもったクリスチャンと、


世界第一の都市が、ニューヨークに移転する前は、パリがその地位にいましたが、フランスが革命によって手に入れた「自由、平等、博愛」というのは、労働者の権利もそうなのですが、「(教会からの)自由」という意味も大きかった。「自由、平等、博愛」に、「寛容」と「人道」も基本理念に加えたメイソンリーは、自由の女神像を送るなど、アメリカに希望を見出していたが、それがナチスによって、フランスが占領されたことで、彼らの移住をも加速させた。また、自由主義者である芸術家たちも、アメリカを目指すことになった。


そして、ヨーロッパで迫害されていたユダヤ人もアメリカに新天地を求め、ナチスによって迫害されたことで、ますます、アメリカへの移住が進んだ。


アメリカの都市文化を作ったのは、宗教的には、後者2つの勢力で、フリーメーソンは、フランスにあった「自由の女神像」をニューヨークにも建て、政界に力を持ち、ユダヤ人たちはハリウッドで映画産業を興し、巨大財閥を形成し、グレートファミリーと呼ばれる一族もユダヤ系だと言われています。


宣教師の教えを信じることで「神の王国」を目指し、清貧を重んじてきたクリスチャンたちが、この2つの勢力が拡大することを、どれだけ嫌ったかは容易に想像がつくと思いますが、これが「ユダヤ陰謀論」の原動力となり、また、当初ナチスに好感をもった理由でもあった。


第二次大戦では連合国だった米国とソ連は、互いに戦勝国となると、資本主義と共産主義に分かれて争うことになりました。米国が、戦後のドイツやフランスのように、社会民主主義政党が強い影響力を持つ形で経済体制を構築できず、現在に至るまで「反共主義」が、ヨーロッパとは比較にならないぐらい強いのは、


アメリカが、政治から宗教を切り離すことができず、共産主義が、宗教否定につながるという面が大きいんですね。


では、そんなことを踏まえつつ、ハリウッドが生んだ3本の映画と黙示録との関わりの最初は、


『レッド・オクトーバーを追え!』について。


この映画が公開になったのは、ソ連が崩壊する1年前の1990年。民主主義と自由経済の最終的な勝利によって、社会の平和と自由と安定無期限に維持され、歴史は終わったという、米国の政治思想家フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』は、その1年前に論文として発表され(’92年に出版)、民主政治が政治体制の最終形態で、今後は安定した政治体制が構築され、政治体制を破壊するような戦争やクーデターのような歴史的大事件はもはや生じなくなる。と予測し、この時代を「歴史の終わり」と呼びました。


強権的な支配で覇権を極めた国家はすべて崩壊し、歴史を脱却した民主国家は、崩壊せず永久に存続するという、フランシス・フクヤマの主張はさておき、米国人にとっては、「悪の帝国」だったソビエト連邦が崩壊し、自由主義の盟主である我がアメリカ合衆国が勝利したという意識は、この映画のストーリーを米国にとって、楽観的なものにしただけでなく、1991年からの湾岸戦争や、その後のイラク戦争への楽観につながりました。


冷戦後のCIAの「第1の敵」が、ソ連から、日本の経済界へと移り、第二次大戦後の占領下以上に、米国の支配を受けることになった今の日本で、この映画を見ると、二大大国が拮抗しているという「冷戦時代」の良さばかりが思い出され、独裁政権や、社会主義国家以上に、アメリカの民主主義について、いくつもの疑問を感じずにはいられなくなるのですが・・・


◎『レッド・オクトーバーを追え!』とヨハネの黙示録


ストーリーは、1984年11月、ゴルバチョフ政権の前夜、ソ連の最新鋭の原子力潜水艦レッド・オクトーバーが深海に姿を消したことから始まります。艦長と乗組員の一部は、戦艦を手土産にアメリカへの亡命を希望していて、その真意を読み取る英知をもつ者がいると信じて、アメリカに向かうものの、第三次世界大戦の引き金になり得る状況に両国では緊張関係が高まり、原子力潜水艦を攻撃すべきだという意見でまとまりそうになる。しかし、ゆいいアメリカCIAのアナリストが、艦長の真意に気づいたことで、亡命は成功します。


映画の冒頭では、自国の艦長の調査に来たKGB(ソ連国家保安委員会)のエージェントが、艦長の部屋で、ある本を発見し、読み上げる。


その時来たりならば、心してみよ。我は盗賊としてあえて行くなり。ともに集わんとする者たちが、あまねく目指したる場所はアルマゲドン。7番目の天使が鉢を空けると、天国から声が響いた。「業はなされた」日本語字幕より)


これは、全部で22章あるヨハネの黙示録の16章の文章です。


聖書は翻訳によって解釈の幅が大きく、印象が変わることが多いので、この箇所を新共同訳で見てみると、


見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて、恥をかかないように、目を覚まし、衣を身につけている者は、幸いである。汚れた霊どもは、ヘブライ語で「ハルマゲドン」と呼ばれる所に、王たちを集めた。第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。


さまざまな解釈の中で、共通しているのは、最終決戦を戦う者たちが、盗賊のようであることと、アルマゲドン(=ハルマゲドン)という場所に集められたこと。字幕訳では、自分の意志で集まっているようですが、新共同訳では、汚れた霊たちが、王たちを集めたことになっていますが、映画では、船長が「善」なのか、「悪」なのかわからない人物で、不穏な計画を疑わせるために、『ヨハネの黙示録』が使われているようです。


KGBエージェントは艦長に


「責任を負うあなたが、世界終焉の本を?」


と尋ねます。ロシアのキリスト教であるロシア正教の中には、ヨハネの黙示録に相当する「イオアンの黙示録」があるんですが、ソ連時代は、共産革命によって、世俗主義、無神論、唯物論を奉じているので、キリスト教自体が禁止されている状態でした(これは中国でも同じで、社会主義国家は、どこも宗教を弾圧しています)


これに対し艦長は、


「我は《死》となり、世界を破滅に導く」アメリカ人が引用した古代ヒンズー教の教えだ。(彼は)原爆を発明。後日、共産主義だと疑われた。


と答えます。このアメリカ人というのは、原爆の父と言われるオッペンハイマーのことです。原爆の破壊力を目の当たりにして、それを兵器として使ってしまったことを、ヒンズー教の経典である『バガヴァッド・ギーター』の一節を引用して、


闘いに消極的な王子アルジュナを説得するために、ヴィシュヌ神の化身クリシュナが、任務を完遂するために恐ろしい姿に変身し、「我は死神なり、世界の破壊者なり」と言ったことに例え、自分がクリシュナになったことを悔やんでいった言葉です。






米国の異常なまでの「反共」意識はさておき、なぜ「共産主義者」だと非難されたのか?


オッペンハイマーは、ドイツから移民したユダヤ系アメリカ人で、ヒンズー教徒だったわけではないのですが、最高峰の知性をもっていると思われている物理学者にも、実は無神論者より、「神の存在」について深く考えている人々が多く、さまざまな宗教書を読んでいる人も多い。オッペンハイマーもそういった人で、国や民族に縛られることのない「神」を考え、世界を破壊してしまう武器を根絶するためにも、世界中の人々との連帯を重要視し、労働者の国際組織を目指した共産主義を信じる人々とも接点をもっていたようです。


艦長の意図は、はっきりとはわかりませんが、


第二次大戦で味方だった、アメリカ人が、大戦後は敵となったことが示唆されているだけでなく、ヒンズー教のエピソードは、細かい点は違っていても「ヨハネの黙示録」と同じ構造になっていて、それは、


「(神の)勝利のために、悪になる」


ということです。


このシーンは、観客に、船長が狂っているのか、善なのか悪なのか、を考えさせようとするオープニングでもあり、このあと、艦長の答えに納得できなかったKGBを、艦長は殺害するのですが、この行動も、亡命を希望する他の乗務員たちの夢をかなえるリーダーとして、


「勝利のために、悪になる」という例ですね。


キリスト教聖書全体も、ヨハネの黙示録でも、それほど単純な善悪二元論ではないのですが、戦いに勝利し、理想の国家を創るというマインドにあふれた米国では、ヨーロッパや日本と違って、現在でも「ヒーロー物語」が数多く創られています。


ウィラとエレノアの会話では、『レッド・オクトーバーを追え!』の新たなヒーロー像として、ショーン・コネリーが演じる、命令に背き、新しい技術をアメリカと共有しようとする艦長のことが言及されていましたが、アメリカ側の、もうひとりの主役であるCIAエージェントは、軍をイメージさせないスマートさで、アレック・ボールドウィンが演じています。


このキャスティングには、007シリーズで英国秘密情報部(MI6)のジェームズ・ボンド役で有名なショーン・コネリーを、冷戦下のオールドタイプのスパイへと押しやり、冷戦に勝利したCIAエージェントを、スマートなヒーローにしようとしている意図も感じられるのですが、


ショーン・コネリーは、この映画の数年前、フランス、イタリア、西ドイツ合作映画『薔薇の名前』で、粗末な衣服を身につけた清貧派の修道士として登場し、中世ヨーロッパ教会の文書庫の秘密を暴く役柄を演じていたり、年を重ねてからのコネリーには、賢者や預言者の風格があって、この映画のように、乗組員を引き連れて、アメリカに亡命するというのは、「モーセ」をも彷彿させます。


この物語は、ロシアの原子力戦艦の艦長と、アメリカCIAエージェントが、お互いに、高い知性と教養を備えたエリート軍人ゆえに、最終的に理解しあえた。という結末なんですが、


知性によって、ウィラが言うように、「まったく違った境遇の人の身になって考え、想像力を働かせて世界を見ることで、最終的に他者への共感がおこる」ことはあまり多くはありません。

 

艦長が引用したのは、まさにその最も大きな例で、


オッペンハイマーや、アインシュタインといったユダヤ系の人々は、ナチスドイツが先に原爆を開発してしまうことに恐怖を感じ、アメリカ国民として、自国の勝利を「最善」と信じ、また、その成果によって、アメリカは第二次世界大戦に勝利しました。


このとき、アメリカとソ連は同じ「連合国」ですが、勝利した連合国はその後、資本主義と共産主義に分裂し、米ソの「冷戦時代」となります。


原爆が実際に使われたことを後悔したオッペンハイマーは、国から監視される身分となり、その後の水爆の開発は、エドワード・テラーが中心になりました。エドワード・テラーは、ドイツによって、より複雑な立場に立たされ、マイケルが「ヒストリー・ティーザー」の舞台に選んだハンガリーの首都ブダペストで生まれたユダヤ人でした。



「水爆の父」と呼ばれたエドワード・テラーの生涯

①で端折ったことや、

マイケルがハンガリーを選んだ理由もちょっぴりわかる

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ソ連とアメリカの冷戦構造が敗れたのは、拡大する一方の軍事開発(+宇宙開発)費が、社会主義国では賄えないきれなくなったことが大きな原因でした。だとすれば、アメリカが冷戦に勝利して、唯一の「世界覇権国」になれたのは、ユダヤ人の貢献が大きかったと言っても過言ではないはずです。


原爆を投下した飛行機には、キリスト教宣教師が同乗し、異教徒は殺していいのだと、宣教師にお墨付きをもらって、原爆を落としました。


しかし、アメリカの勝利を望んで、原爆投下を支持し、実行もしたクリスチャンたちの中には、戦後、自らの罪悪感から逃れるために、その罪をユダヤ人になすりつけ、原爆投下は間違っていないけど、開発したユダヤ人たちは「悪魔」だという考えを支持するようになり、その多くは、共産主義にも反対の立場をとりましたが、冷戦を勝利に導いた資本家たちに対しても、やはり「悪魔」だと罵りました。


また、私たちは、悲惨な事件を何度も起こしながら、アメリカ社会が「銃規制」をしないことを不思議に思っていますが、そこには、独立精神を重んじ、自分の身は自分で守り、狩りによって、食料である肉を調達することで、国に頼らない。数々の間違いを犯してきた「国家」に縛られない自由を求める人々の権利が守られている、という側面もあります。


こういった人々のことを、「反知性主義」と呼ぶのですが、そこには、知的権威や、エリート側への正当な批判も存在しています。


実際のところ、現在の日本で「反知性主義」だと相手を批判している人は、自分の「知性」と「正しさ」に自信をもって表明しているだけで、相手を説得することはまるで考えていない人がほとんどです。彼らは、相手の馬鹿さ加減を、発見して罵ることで、それに共感する人を集め、選挙に勝てると思っていますが、正しさを主張するだけでは勝てないだけでなく、どんな政権であっても、間違いを起こしてきたことは、歴史が表明していることではないでしょうか。


「善」と「悪」が入れ替わるだけではなく、「知性」と「反知性」も常に入れ変わる・・・


ウィラとエレノアの会話にもあった、「誰かを信用するとか、誰が世界を脅かしているとか、私たちにわかるのか?」というのは、本当に重たい問題です。


さて、


①で、ルネサンスがギリシャ文化を復活させ、宗教革命が、神と人との間の教会の権威を失くしたことで、カトリックが、人々にイメージさせていたガブリエルのような「天使」から、古代の神話にあるように「鳥」が神のメッセンジャーとして復活し、ヒトラーのナチスのマークや、様々な紋章に鷲(鳥)が再び登場することになった。と書きましたが、


Part 2で対比した『意志の勝利』と『HIStoryティーザー』に登場した鷲の像は、


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『レッド・オクトーバーを追え』では、CIA長官の部屋に登場します。



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(実際のCIA長官の部屋にも、これとほぼ同じ像があった)


Part 2の会話では、『HIStoryティーザー』の鷲は、ロケ地であるハンガリーの「トゥルルの像」だと言われていますが、この鷲の足元に剣がある像は、0:41~で、もう一度登場します。



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このときも、特にハンガリーの「トゥルル像」の特徴を捉えているというよりは、ローマ帝国や、オーストリア=ハンガリー帝国、ナチス・ドイツも、ロシア、アメリカ、その他アラブ諸国でも国章や国旗になっている「鷲と剣(武具)」の像として撮られていますね。



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参考)https://ja.wikipedia.org/wiki/鷲_(紋章)


『HIStoryティーザー』で、ガブリエル像が登場しないのは、この鷲の方が、世界の人々の根元に共通して関わっている。と、マイケルが考えていたからでしょう。民族や宗教や国家が違っていても、人には、共通している点がたくさんある。ということを、マイケルは世界ツアーで経験していました。


マイケルはミケランジェロを大変尊敬していましたが、ギリシャ文化のように、肉体を通して表現することが、人種差別に繋がることを、彼は、ヒトラーの経験から学んだのかもしれません。


ミカエルの話は、次の『ターミネーター2』で!





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by yomodalite | 2016-01-08 21:00 | ☆MJアカデミア | Trackback(2) | Comments(8)
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新年早々ですが、去年に引き続いて、「HIStory」について考えたいと思います。


ウィラとエレノアの会話をPart 3まで紹介してきましたが、引用された映画で納得できたのは『独裁者』だけで、『意志の勝利』『レッド・オクトーバーを追え』『ターミネーター2』『地獄の黙示録』といった映画とマイケルの『HIStory』との繋がりや、「ハンガリー」という場所の意味について、すんなりわかった。という人は少ないのではないでしょうか。


その理由のひとつは、私たち日本人には、世界の歴史に、宗教と政治が絡まっていることを、なかなか理解しにくいということがあるように思います。


会話には直接登場しませんでしたが、この4本の映画は、すべて「ヨハネの黙示録」で繋がっています。これは、会話に登場した「マイケル(=ミカエル)が軍を率いているシーンの重要性」にも関係があります。ミカエルは「黙示録」で活躍する天使ですからね。


このフィルムにこれほど多くの引用を詰め込んで、「歴史」を表現した理由、そして、マイケルの「大天使ミカエル」の解釈や、彼が「KING(王)」にこだわった理由について、それぞれの映画に潜むヨハネの黙示録の「糸」をほぐしていくことで、あと一歩「HIStory」が示した歴史に触れたいと思います。


マイケルのティーザーで、MJが率いた軍隊は人々にナチスを思い出させ、HIStoryツアーオープニングのジェットコースター映像で、一際ゆっくりと映し出されたのは、ミケランジェロによるシスティナ礼拝堂の天井画でした。


①では、『意志の勝利』の背景から、ヒトラーとシスティナ礼拝堂、そして、ティーザーのロケ地であるハンガリーとマイケルを繋ぐ「糸」についても言及したいと思います。



◎「ヨハネの黙示録」の基本情報


黙示というのは、「隠されていた物事が、神によって明らかにされる」という意味で、預言者が幻の中で神の啓示を見聞きしたという体裁で書かれていて、主に「終末」のことが語られています。旧約聖書には複数ありますが、新約聖書では「ヨハネの黙示録」だけです。


「ヨハネは神の啓示を受け、アジアの7つの教会に決起をうながす手紙を送る。彼は、天でキリストが、7つの巻物を受け取るのを見た。封印が解かれるたびに、様々な事態が起こり、第7の封印を解くと、7人の天使が現れ、その天使たちがラッパを吹くと、また様々なことが起こり、第7のラッパが吹かれると、子を産もうとする女、その女を食おうとする竜、その竜と戦うミカエル、獣、7つの災いをもたらす天使などが現れた。竜と、獣と、偽善者たちの口から出た3つの穢れた霊は全世界の王を、“ハルマゲドン(アルマゲドン)”の地に集合させ、大淫婦は獣に食われ、獣と、地上の王、偽預言者は火の池に投げ込まれ、竜は底なしの深淵に投げ込まれるが、キリストを信じる者は復活し、キリストによる千年間の統治が始まる。それから、千年後にサタンが解き放たれ、ゴグとマゴクを招集するが、天からの火で焼き尽くされ、獣や偽預言者と同じく燃える池へと投げ込まれる。死人たちは、神の前で裁かれ、“生命の書” に名が書かれていない者も火の池に投げ込まれる。新たな地エルサレムが、天から与えられ、神と玉座に座る小羊によって永遠に統治される。ヨハネが見た幻はそのようなもので、天使から、これらが実現するのは間近であると告げられた」


上記は、よく見かける説明をまとめてみたものなんですが、ここには、当時流行していた「千年王国」の思想が強く打ち出されています。その思想では、「世界の終末」は2度訪れることになっていて、最初の終末時に世界が滅び、救世主が統治する千年王国が樹立される。そこから千年の後、サタンは復活するが、最後の決戦によって完全に滅び、最終的な終末が訪れる。この「最終決戦」で、勝利したのが、大天使ミカエルで、このあと、最後の審判が行われ、新天地が出現して、永遠の世界が続くことになる」というのがその思想です。


でも、実際の聖書の記述を読むと、こんな風に読める人は少ないと思えるほど難解で(上記の説明でさえよくわからないと思いますがw)、天使たちがラッパを吹くと、海の三分の一が血になって、生物の三分の一が死に、四人の天使は、人間の三分の一を殺した。という記述もあり、天使たちは残忍で、善や正義を表しているようには思えません。また、生き残った人間たちに対しても、「相変わらず悪霊や、金や、偶像を拝んだ」とか、とにかく偶像を崇拝するものを地獄に落とす気がハンパないので、天使の絵が好きな人は相当ヤバいですしw、上記でキリストとされている部分は、プロテスタントとカトリックの神学者が共同で翻訳した、日本でもっとも普及している新約聖書・新共同訳では「小羊」なんですが、その描写は、「屠られているような小羊で、7つの角と7つの目を持っていた」とか、まるで、マッドサイエンティストが造った「モンスター」が、「ゾンビ」になって現れたとしか思えないような姿なんですね(笑)。


ヨハネが、7つのアジアの教会に「決起せよ」といった内容の手紙を送っていることから考えても、「竜」は「敵国」ぐらいの意味で、崩壊したと書かれている「バビロン」は、ローマ帝国のことではないかとか、近代聖書学では、さまざまな解釈があり、聖書の正典への受け入れをめぐっても多くの論議があったようですが、世界の終末に起こる戦いにおいて、キリスト教を信じるものが最終的に勝利し、キリストを信じるものは、天国に行くことができ、彼らに「理想の国家」の建設という目的を与えました。


二千年以上前に書かれていることなので、「まだなの?」と思う人も、「すでに起こったこと」だと考える人もいますが、


終末の日が近づき、神が直接地上を支配する千年王国(至福千年期)の到来が間近になった。しかし、そのためには「悔い改め」が必要であり、サタンとの最終戦争のあとには、最後の審判が待っている。といったことを、これから間もなく起こることだと喧伝し、「救済」のために、信仰を先鋭化させる宗教集団が現れたり、世界を巻き込む壮大な戦いを描いた物語の原型として、多くの絵画やストーリーに影響を与えただけでなく、現実の戦争に多大な影響を及ぼしました。


海に囲まれたおかげで、侵略の恐怖に直面することなく、信仰を内面の問題と捉える傾向がある日本人と違い、キリスト教は、隣国との戦いに明け暮れた時代に必要とされた「帝国主義の道具」という側面が強く、宗教的リーダーである「教皇」が、軍隊のリーダーでもある。というのは、最初のキリスト教徒皇帝として有名な、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世から始まっていて、コンスタンティヌス1世が、神の予兆によって、それまで迫害されていたキリスト教に改宗し、彼が率いるローマ帝国が世界覇権国になったことで、キリスト教は世界を席巻しました。


会話に登場したハンガリーの千年記念碑にみられたように、君主であるイシュトヴァーン1世が、神のメッセンジャーである天使(ガブリエル)によって、「王」として認められ、キリスト教の布教に努めるというのは、当時のキリスト教(カトリック)の国々の建国神話の「典型的なパターン」で、そこから千年経ったことを記念するというのは、ヨハネの黙示録にもある「千年王国」と同じ思想によるものです。


しかし、これは、結局のところ、神ではなく、ローマ教会が任命しているわけです。キリスト教をつくったパウロは、ユダヤ教の律法によって差別され、救われない人々を救済しようとしたイエスに学び、ユダヤ教会が権威と法律によって、人々を縛っていることを批判して、キリスト教を作ったはずなんですが、その旗印を挙げ、神の勝利によってできたはずのローマ帝国は、その繁栄と同時に、当初批判したユダヤ教以上に人々を権威で縛り、腐敗していました。



◎宗教革命(カトリックとプロテスタントの分離)


教会は人々に神の教えを説くために、芸術家を使っていましたが、ミケランジェロ(1475 - 1564)らによる「ルネサンス」は、それ以前の文明であるギリシャから哲学や神話といった古典を学び直し、神が人を創ったという「受肉」を、解剖などの科学的な探求によって理解し、イエスや、モーセを「生きた人間」として描き出し、教会が批判してきたユダヤ人たちを、イエスと同じくアブラハムを祖先とする人々として、システィナ礼拝堂(ローマ教会)の天井画に描きました。


聖書が読めない時代、人々は「美術」に神を感じていました。


その後、聖書が、ドイツ語や、その他のヨーロッパ語に翻訳することができるようになり、大勢の人が聖書を読めるようになると、教会が言っていることと、聖書の矛盾がはっきりと露呈することになり、マルティン・ルターによる宗教改革(1517~ 後にプロテスタントと呼ばれる)に繋がりました。


プロテスタントが重要視したのは、「言葉」でした。


しかし、戒律宗教であるユダヤ教とちがい、イエスという人の姿をもった救世主を信仰に取り入れ、神を、心や内面の感覚と繋がっていると考えるキリスト教では、聖書が読めるようになったことで、むしろ、神に対して、言葉にできない感覚に対しての欲求が強くなり、


人々は「音楽」に神を感じるようになりました。


キリスト教聖書の矛盾は、論理の解明を求める人を増やす一方で、庶民文化の発展にも繋がり、それは「ロマン主義」と呼ばれ大きく発展していきました。隣国との戦争により、ヨーロッパ諸国の発展と衰退が繰り返された時代は、さまざまな文化が華開いた時代でもあり、1517年から始まった宗教改革の168年後に、音楽の父と言われるバッハ(1685 - 1750)が生まれ、その後、モーツァルト(1756 - 1791)とベートーヴェン(1770 - 1827)、また、文豪ゲーテ(1749 - 1832)も、同時期に登場し、彼らはすべて、ドイツ、オーストリアに生まれているのですが、この時代、それらの国は「神聖ローマ帝国」と呼ばれていました。



◎「神聖ローマ帝国」


ここで、ヒトラーがなぜ「第三帝国」を標榜したかを説明するために、「神聖ローマ帝国」について説明します。この国は、ローマ帝国といっても、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心とした国で、その中でも、いくつかの時代に分かれていて、


・「ローマ帝国」期(800 - 911 カール大帝の皇帝戴冠から東フランクにおけるカロリング朝断絶まで)

・「帝国」期(962 -1254 オットー大帝の戴冠からシュタウフェン朝の断絶まで)

・「神聖ローマ帝国」期(1254 -1512)

・「ドイツ国民の神聖ローマ帝国期(1512 - 1806)


最後に「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」という国があるので、ややこしいのですが、オットー大帝が戴冠した962年から、すべてドイツ(ゲルマン)系が支配していた国なんですね。


「神聖(Sacrum)」の形容詞は、1157年にフリードリヒ1世がドイツの諸侯に発布した召喚状に初めて現れ、彼らは古代ローマ帝国やカール大帝のフランク王国(5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパを支配したゲルマン系の王国)の継承国を自称した。フランク王国は西ローマ帝国の継承国を自認しており、「神聖ローマ帝国」の名は、西ローマ帝国からフランク王国へと受け継がれた帝権を継承した帝国であるということを標榜していた。帝位にふさわしいと評価された者がローマ教皇によりローマで戴冠し、ローマ皇帝に即位した。しかし、「神聖」の定義や根拠が曖昧で、現在のドイツからイタリアまでを領土とし、「ローマ帝国」と言っても、ローマは含まれていなかった。また、古代ローマ帝国の正統な継承国としては、15世紀中期まで東ローマ帝国が存続していた。当然のことながら、東ローマ帝国側は神聖ローマ帝国が「ローマ帝国」であることを認めず、その君主がローマ皇帝であることも承認しなかった。一方、神聖ローマ帝国側でも、東ローマ皇帝のことをローマ帝国であると認めず、「コンスタンティノープルの皇帝」「ギリシア人の王」などと呼ぶようになっていた。(Wikipedia「神聖ローマ帝国」より要約)


ルターが、神と人間のあいだに教会はいらない。と説いたことで、キリスト教は「内面的」な信仰を重視することになり、プロテスタント教会には、絵や像がなくなり、教会の外で、文化が華開くきっかけになったのですが、その一方で、神の声を人が直接聞くことで「王」になれる「王権神授」にも繋がり、ヨーロッパ諸国は、カトリックとプロテスタントに分裂し、血で血を洗う激しい宗教戦争時代へと突入していきます。


ハプスブルク家が帝位をほぼ独占するようになったドイツ国民の神聖ローマ帝国時代、帝国はヨーロッパ諸国の連合体となり、16世紀から始まった宗教改革によって帝国はカトリックとプロテスタントに分裂し、諸国の独立性が更に強化されることになる。ハプスブルク家は帝国内に官僚として君臨し、神聖ローマ皇帝(レオポルト1世)の意見よりオーストリア王朝の利益を優先するようになるが、帝国の集団防衛という神聖ローマ帝国独特の制度が確立した。しかし、その後スペイン継承戦争をきっかけに、諸侯のバランスは崩壊し、帝国は機能不全に陥り、分裂する。


・ドイツ国民の神聖ローマ帝国(1512 - 1806)

・オーストリア帝国(1804 - 1867)

・オーストリア=ハンガリー帝国(1867 - 1918)

・ドイツ帝国(1871 - 1918)


そして、ドイツ国民の神聖ローマ帝国が崩壊したあとの、オーストリア=ハンガリー帝国に生まれた、ワーグナー(1813 - 1883)は、作曲と歌劇の台本の両方を創作し、音楽界だけでなく19世紀後半のヨーロッパの中心的文化人となります。


モーツァルトとベートーベンの時代は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」、ワーグナーが生まれたときは「オーストリア=ハンガリー帝国」だったハプスブルグ家の帝国は、そのあと、さらに戦争によって翻弄され、19世紀初頭、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの侵攻を受け、帝国内の全諸侯が帝国からの脱退を宣言すると、オーストリア皇帝で、神聖ローマ皇帝だったフランツ2世は退位し、ワーグナーが亡くなった数年後に生まれたヒトラーが29歳の頃、ヨーロッパの中心に君臨したドイツ系名門貴族ハプスブルク家の帝国は終焉を迎える。


ワーグナーと同じく、オーストリア=ハンガリー帝国に、税関管理の子供として生まれ、画家や建築家を夢見たヒトラーは、第一次大戦(1914 - 1918)でのドイツ帝国の敗戦を目の当たりにし、失われたゲルマン民族の栄光を取り戻すために、武力による政府転覆計画を起こし、投獄されます。


そして、自分の誇りを、民族の誇りに求め、民族の誇りを、過去の歴史に求め、自分の行いによって、世界の運命も変わると信じたヒトラーは、獄中で『わが闘争』を執筆する。


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◎『意志の勝利』とヨハネの黙示録


上記の神聖ローマ帝国の存亡が、下記の『意志の勝利』の冒頭の年号より前のドイツの歴史なんですが、

1934年9月5日

第一次世界大戦の勃発から20年(1914年)

ドイツの苦難の始まりから16年(1918年)

ドイツの再生の始まりから19年(1915年)

アドルフ・ヒトラーは再びニュルンベルグに降り立ち軍事パレードを行った。

(Part 1「意志の勝利」③)


繁栄を誇った帝国が、第一次大戦の敗戦によって借金に苦しみ、誰もが絶望の淵にいるとき、ヒトラーは「再生」を掲げて人々を鼓舞しました。彼にもっとも惹きつけられたのは、若者だったそうです。


1933年にナチスが政権を握り、自らを「第三帝国」と呼んだのは、上記の「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」と、1871年からの「ドイツ帝国」に次ぐ第三のドイツ人帝国という意味で、「意志の勝利」というのは、「(神の)意志」であり、「神の意志による王国の最終的な勝利」を宣言しているんですね。


「君たちこそ我らの肉の肉、我らの血の血なのだ。君たちの頭の中には、我々が従っているものと同じ精神が燃えさかっている」


肉の肉とか、私たちには、ピンと来ないどころか、キモって感じすらするわけですが、これは、「神は、イエス・キリストを受肉して・・」という聖書の言葉から来ています。「神の子を、人間として地上に降誕させた」という意味なんですが、これにならって、ヒトラーが、我らの精神が、君たち少年の「血と肉」になっている。というのは、彼がこのとき神の代理人である「王」になったからです。


『意志の勝利』で、ヒトラーは、ひとつの民族、ひとりの総統、ひとつの帝国を掲げ、「千年王国」が樹立した。と宣言します。


人が常に「終末」に惹きつけられてきたのは、人の生命に限りがあるからだと言われています。自分の命運と、世界の命運が同じに見え、世界の神は、我らの神に結びつく。どの民族も、すべて神が創造したものに違いないのに・・


しかし、古代ローマ帝国の復活を目指したのは、ヒトラーだけではなく、第一次大戦の戦勝国でありながら、領土拡大に至らなかったイタリアでも、ムッソリーニがファシスト党による一党独裁を強いていて、イギリス・ファシスト連盟のオズワルド・モーズリーも大英帝国の復活を目指し、フランスでは、火の十字団(クロア・ド・フー)が支持を集めました。世界中でファシズムが燃え上がり、民族の誇りを口にしましたが、彼らの背後には、勢いを増すユダヤ系財閥と利権を争い、共産主義が邪魔だった大資本家の支援がありました。


これらの民族主義は、いわゆる「ナショナリズム」とは少し異なっています。


ヨーロッパ全土にひろがる宗教改革を起こし、交響楽を生み、発展させ、文豪も生み出した「神聖ローマ帝国」がゲルマン系の人々によるものならば、ヒトラーはゲルマン民族の優秀性や、大ドイツ主義を標榜すればいいはずなのですが、彼は『我が闘争』から、「アーリア民族の人種的優越」を主張し始める。どうして、ゲルマン民族が、インドやイランにルーツをもつアーリア人種になるのか、その理屈を説明することは私にはできませんが、当時のヒトラーはアーリア人種=白人と信じていたようです。


キリスト教の元であるユダヤ教には、ユダヤ民族が神に選ばれたという選民思想があり、ヨーロッパの王たちがユダヤの宗教に惹かれ、キリスト教を国教としたのも、唯一の神から選ばれ、最終的に勝利する民という立場を自分たちのものにし、聖地エルサレムの周辺である、中東やアジアにまで勢力を伸ばしたい、そのために、ヨーロッパの白人同盟を基本にしたんですね。


これは、同じく古代ローマ帝国の復活を目指したムッソリーニや、フランスが十字軍を持ち出したことと同様で、


キリスト教が、神から選ばれたという立場と、その証である聖書をユダヤ人から奪って(これが本当の原罪w)、ヨーロッパ人全体に拡大解釈し、世界覇権をめざすという歴史の繰り返しです。


ただ、残念ながら、これは一神教に限ったことではなく、平和な時代に仏教徒のようなふりをしていた私たちの国が、道義的に天下を一つの家のようにするという「八紘一宇」の精神を古代中国から盗んで、民族主義の隠れ蓑にしたのも、ここから大いに参考にしたことですし、日本、ドイツ、イタリアの3国はそれぞれの民族主義を拡大解釈し、地域覇者となるべく、三国同盟を結ぶ。


しかし、「宗教革命」がおこったドイツの精神主義によって、ヨーロッパが統一されそうになると、「産業革命」によって、ローマ帝国以上に植民地をもった、かつての大英帝国イギリスは、ナチスによってヨーロッパからはじき出されたユダヤ系や、共産主義国家と手を組み、アメリカ、ソビエト連邦、中華民国と同盟を結んで勝利することになる。


戦後、ヒトラーの狂気やファシズム政権の恐ろしさが知られるようになると、ヒトラーにすべて責任を押し付け、彼がやったことはすべて否定されるようになりましたが、マイケルは、若者がヒトラーに惹きつけられた理由について、よく研究したようです。


さて、「オーストリア=ハンガリー帝国」と、マイケルを繋ぎ、「HIStoryに込められた歴史」を補足するために、再びヒトラー以前のドイツの話に戻りますが、


ルターは、聖職者に導かれるのではなく、個人の信仰によってのみ救われるとし、神と個人の一対一の関係を重視しました。その革命によって、神と人々の間にいた天使たちは、徐々に整理され、非科学的な処女マリアへの受胎告知や、王の任命の伝達を担っていた大天使ガブリエルも、「王権神授」によって、その存在意義が薄くなり、新約聖書の「ヨハネの黙示録」には、キャスティングされなくなりました。


ルネサンスがギリシャ文化を復活させ、宗教革命が、神と人との間の教会の権威を失くしたことで、カトリックが、人々にイメージさせていたガブリエルのような「天使」から、古代の神話にあるように「鳥」が神のメッセンジャーとして復活し、ヒトラーのナチスのマークや、様々な紋章に鷲(鳥)が再び登場することになりました。


最終的に勝利を勝ち取ってくれるミカエルだけが重要になったわけです。


元々の聖書が書かれていたヘブライ語から、ヨーロッパ語への翻訳は困難で、誤訳も多く、難解な聖書の内容を読んでも、まず、どう解釈するかが重要になり、神と聖書を信仰のよりどころにしたことで、プロテスタントは現在に至るまで、聖書の解釈をめぐって、数え切れないほどの宗派を生みだしただけでなく、神とは何か?という問いは、無神論や、フリーメーソンや、世俗主義、共産主義といったキリスト教の枠をもこえて革命を起こしました。


音楽の世界では、モーツァルトがフリーメーソンに大きな影響を受け、ベートーヴェンがシラーの詩に音楽をつけた「第9」も、自由主義(フリーメーソン)に影響をうけたものですが、これらは、神を説くものが利用する「権威」から、人間中心主義を標榜しているんですね。


ベートーヴェンの「第九」にも登場する智天使ケルビムは、旧約聖書では、


それぞれ四つの顔を持ち、四つの翼をおび… その顔は人間の顔のようであり、右に獅子の顔、左に牛の顔、後ろに鷲の顔… かたわらには車輪があって、それは車輪の中にもうひとつの車輪があるかのようで… ケルビムの全身、すなわち背中、両手、翼と車輪には、一面に目がつけられていた… 


とか、またもや、マッドサイエンティストが造った「モンスター」としか言いようのない記述だったのですが、ルネサンス期には、天使から階級をなくし、「翼をもった裸の幼児」として描かれるようになりました(puttoと言う)。これは、マイケルが信じていたことと同じで、イエスが、「子供を見習い、子供のようにならなくてはならない」と言ったことから、賢い天使とは、子供のようなものだという理解が、ルネサンスの芸術家たちに広まったからで、第九の合唱曲として有名な「歓喜の歌」の精神は、マイケルの詩集に納められた「ecstasy」に近いものです。


◎「歓喜の歌」歌詞

◎ Dancing The Dream「ecstasy」


宗教改革から200年前後に、バッハや、モーツァルトやベートーヴェンが生まれたように、ドイツと同じプロテスタンティズムの精神を強く受け継いだアメリカ合衆国は建国から182年後に、マイケル・ジャクソンを生み出します。『HIStory』でエジソンの録音技術と、それを発展させたベリー・ゴーディをマイケルが取り上げたのは、活版印刷による聖書の普及が、ルターらによる宗教改革につながり、翻訳によって世界中に拡がったことを意識したものでしょう。


マイケルが米国から離れて、大規模な世界ツアーを行ったデンジャラス・ツアーで使用された、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」(初演1937)も、運命とか、女神といった言葉から誤解している人が多いのですが、「永遠の救いよりも官能だ」というカトリックの教義に反しているだけでなく、生命の書に名前が書いていない者は、天国に行けないとか、プロテスタントの「予定説」にある、神の救済にあずかる者と、滅びに至る者が予め決められているとする教義に反旗を翻した歌なんですね。


マイケルの「Brace Yourself(覚悟せよ)」とは、自分の運命を神に委ねるな、運命は自分自身が切り拓くもの、それを覚悟せよ。ということです。






マイケルの「KING(王)」や、「天使」については後述ということで、


次は『レッド・オクトーバーを追え』と、黙示録の関係に移ります。






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by yomodalite | 2016-01-06 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(0)
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会話の中に登場した、「ヒストリー」に込められた歴史についての記事を要約して紹介します。


source : Important Dates in HIStory(2014.5.22の記事)





「HIStory」という曲で、オーケストラの演奏が終わった後、歌の中で話される最初の言葉は、


Monday March 26th, 1827’(1827年3月26日月曜日)

November 28th, 1929'(1929年11月28日)


これは、前者がベートーヴェンが亡くなった日で、後者がベリー・ゴーディの誕生日。


ベートーヴェンは、古典主義からロマンチシズムへの移行を成し遂げた作曲家であり、ベリー・ゴーディは、「黒い」音楽を「白い」音楽に融和させた。マイケル・ジャクソンが、このことを取り上げたのは、音楽におけるパラダイム変換を強調し、ポピュラー音楽とアメリカの音楽の業績の意味について考えようと私たちを誘っているから。


「HIStory」には、多くのクラシックが使われていて、CDブックレットには、この部分が、子供向けの映画『Beethoven Lives Upstairs』からサンプル使用されていることが明記されている。 使用されているのは、「ゴーン、ゴーン、ゴーン」という教会の鐘の音で、また、「HIStory」には、多くの日付が流れる。その中で「月曜日」という曜日まで入っているのは、このベートーベンだけだが、それは、この映画のナレーションから生じたものではないかと思われる・・・


という内容の大半は、こちらのブログの方が記事にしています(和訳ではありません)ので、


http://mjnight.seesaa.net/article/440651221.html


そちらに取り上げられていない部分を中心に要約すると、


モーツァルトの時代、作曲家は教会や宮廷に雇われ、彼らの音楽は、雇い主の必要を満たし、彼らの意見や理想を表現するために創られていた。自分の作る音楽をそういった縛りから解放したのはベートーベンだが、それでも音楽学の中には、クラシックを「高級な音楽」とする規範はあった。


そもそも西洋の音楽の歴史は、ベートーベン・パラダイムと言われるように、オーストリア・ドイツの音楽の天才たちが中心で、 バッハ、モーツァルト、ベートーベン、ブラームスといった音楽が歴史教科書に載っている。しかし、学者の中ではこれに疑問を呈している者が多くなっている。 音楽の天才が特定の時代、オーストリアとドイツだけに存在しただろうか?  クラシックが上で、ポップミュージックは下なのだろうか? 


現代のアーティストたちのマルチな試みは、そういった構造を打ち破るもので、ベリー・ゴーディーは、そこに大きな役割を果たした。


ベートーベンと、ベリー・ゴーディーのアプローチで大きく違っているのは、ベートーベンは、孤独で強迫観念的に作品に取り組む孤高のアーティスト、一方のゴーディは孤独なアーティストではなく、音楽制作を、自動車産業の組立てラインに見立て、多くの才能が関わる音楽会社としての「モータウン」をイメージした。


マイケルのアプローチはどちらかに限定されるものではなく、歌の着想については、天から、自分に降ってくるものだと言っていたが、作品に仕上げる上では、共同制作を重視し、ベリー・ゴーディー・モデルを採用した。また、ポップミュージックでは、ソングライターは、プロデューサーとパフォーマーのニーズを満たすものであって、パフォーマーの方に重要度がおかれる。ただマイケルの場合、作曲家であり、作詞家であり、歌手、ダンサー、製作者、アレンジャー、振付師、映画監督、舞台監督、照明やコスチューム・デザイナー、また、ビジネスマンとして、マーケティング感覚も兼ね備えていることから、共同制作のすべての面を統括できる立場にあった。


ベリー・ゴーディー・モデルが可能になったのは、録音技術の進歩や、レコードプレーヤーの発達によるもので、かつては作曲家の書いた楽譜を、演奏家が再現するという形だったが、録音技術は音楽の制作や記録の形を変え、多くの人が作品の制作に関われるようになり、また作品の鑑賞も、レコードプレーヤーによって時と場所を特定せずにできるようになり、作曲家に印税という報酬をも生み出した。


マイケルが、エジソンについて、HIStoryという曲の中でも取り上げ(6:11~ "1 am the Edison phonograph~" と「エジソン式蓄音機」に吹き込む声)、Dangerousのジャケットにも載せているのは(*)彼が発明した録音技術と撮影技術が、音楽の歴史を変えただけでなく、過去に起こったことを今のことのように見たり聞いたりできるという点で、人々と歴史一般との関わり方を変えたからではないか。


さらに言えば、「HIStory」という楽曲のサウンド自体が、先に述べたような音楽のパラダイムの移り変わりを表現している。『展覧会の絵」のような、作曲家の書いた楽譜を楽器で表現する音楽から始まって、電子音を含む強いビートへ、そして次第にニュース音声や演説を取り入れた多重録音へ、というふうに。


そして、歌詞の中にマイケル個人の歴史、人間全体の歴史、黒人の歴史を多重的に取り込んでいると同時に、サウンドでも、技術進歩の歴史、音楽の歴史表現した、あらゆる「歴史」を詰め込んだ楽曲と言える。


「HIStory」であげられる日付には、マイケル・ジャクソンというアーティストを成立させた「歴史」において、重要な人たちが関わっている。その中にマイケルは、「古典交響音楽」から「新しい音楽学」への歴史を踏まえただけでなく、黒人の先駆者の歴史を、従来のような「ブラック・ヒストリー」枠ではなく、一般の歴史と同列に、もしくは中心的事項としてして扱っている・・・(要約終了)


みたいな感じです。


ナレーションに登場する「歴史」については、先に挙げたブログを含め、何人かの人が書いておられますが、怒涛の年号部分においては、リンク記事のLishaのものが、もっとも詳細に思えるので、


最後にその部分を。


1847年2月11日 Thomas Edison is born(トーマス・エジソン誕生)

1865年12月30日 Rudyard Kipling is born(ラドヤード・キップリング誕生)

1903年12月7日 The Wright Brothers first flight(ライト兄弟初飛行 )

1929年1月15日 Martin Luther King is born(マーティン・ルーサー・キング誕生)

1947年10月14日 Chuck Yeager breaks the sound barrier(チャック・イェーガーによる人類初の音速飛行) 

1964年2月9日 The Beatles perform on the Ed Sullivan show(ビートルズが「エド・サリヴァン・ショー」で演奏)

1989年11月10日 The Berlin Wall comes down(ベルリンの壁崩壊)


(5:42~ ヘッドホンの左チャンネル)


1858年1月18日 Daniel Hale Williams is born(ダニエル・ヘイル・ウィリアムス誕生。黒人として初めて医科大学を卒業し、米国で初めて心臓の切開手術を成功させた外科医)

1866年8月8日 Matthew Henson is born(マシュー・ヘンソン誕生。初めて北極点を踏んだ米国の黒人探検家)

1917年5月29日 John F. Kennedy is born(ジョン・F・ケネディ誕生) 

1928年9月 The discovery of penicillin(ペニシリンの発見)

1942年1月17日 Muhammad Ali is born as Cassius Clay(モハメド・アリがカシアス・クレイとして誕生) 

1961年4月12日 Yuri Gagarin’s first space flight(ユーリ・ガガーリン初の宇宙飛行)

1981年4月12日、The first Shuttle flight(初のスペースシャトル飛行)


(5:43~ ヘッドホンの右チャンネル)


1863年11月19日 Lincoln delivers the Gettysburg address(リンカーンによるゲティスバーグ演説) 

1901年12月5日 Walt Disney is born(ウォルト・ディズニー誕生)

1920年11月2日 The first commercial radio station opens(民放ラジオ局開局) 

(1940年10月9日 John Lennon is born(ジョン・レノン誕生)

1955年7月17日 Disneyland opens(ディズニーランド開園)

1969年7月20日 Astronauts first land on the moon(宇宙飛行士が初めて月面に着陸)


(5:44~ 音場の上部に耳を傾けて、中心よりもちょっと左寄り)


1865年4月9日 The Civil War ends(内戦終結。いわゆる南北戦争のこと)

1886年10月28日 The Statue of Liberty is dedicated(米国独立運動を支援したフランス系フリーメーソンから贈呈された自由の女神像が完成)

1919年1月31日 Jackie Robinson is born(ジャッキー・ロビンソン誕生。黒人初の近代メジャーリーガー)

1929年11月28日 Berry Gordy is born(ベリー・ゴーディ誕生)

1955年12月1日 Rosa Parks refuses to give her bus seat to a white passenger(黒人女性ローザ・パークスが、白人乗客にバスの座席を譲ることを拒否した) 


長い翻訳記事をお読みいただきありがとうございました。でも、ものすごい量の情報を一本のショートフィルムのなかに詰め込んだ「HIStoryティーザー」を探る旅は、まだまだ終えられそうにありません。


次は、ここまでの内容を踏まえた、私の考察記事「HIStoryと黙示録」に続きます。


註)__________


(*)ジャケットの男性については、ベートーベンとP.T.バーナム説と両方あって、私は、頭の上の小人から、P.T.バーナムで間違いないと思いましたが、マイケルのことですから、エジソンにも見えるという点も重要なのかもしれません。いずれにしても、エジソン1人に特定することはできないと思います。


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(アルバム『デンジャラス』の絵の一部)


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(P.T.バーナム)



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(エジソン)

◎[関連記事]ひとりごと(2012.7.26)P.T.バーナム


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by yomodalite | 2015-12-29 06:00 | ☆MJアカデミア | Trackback | Comments(2)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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