カテゴリ:文学( 167 )

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現在、熱烈なマイブームが来ている「三島由紀夫」。本書は、2005年に続編も含め、2巻出版されているのですが、続編のことは、最近になって気づきました。

下記は、監修をされた、中条省平氏(フランス文学・映画評論家)の「まえがき」から。


三島由紀夫が昭和45年(1970年)11月25日に割腹刎頸という衝撃的な自死を遂げてから、すでに35年の時間が経過しました。この歳月は、たいていの出来事を記憶の戸棚に片付けるに十分な長さです。しかし、三島由紀夫の自殺はいまだに神秘のオーラに包まれたまま、人間精神の深みが持つ解明しがたい魅惑と恐れとを投げかけています。三島の死はいまでもなまなましい「事件」なのです。(中略)

自衛隊が憲法改正に立ち上がることはないと悟った三島は、「これでおれの自衛隊に対する夢はなくなったんだ」と言い残して切腹します。この顛末を見るかぎり、三島の自殺は政治的なものであり、自衛隊蜂起の火付け役になることに失敗した責任をみずから取ったように見えます。これが三島が自決にいたった表面的な理由です。

しかし、この説明が「表面的」にすぎないというのは、三島は最初から決起が成功するとは思っていなかったからです。(中略)

また、三島は自分の主張を政治利用しようとする勢力がいることにも自覚的でした。たとえば、一部保守派が三島と楯の会を、日本に徴兵制を敷くための地ならしに利用するのではないかという疑念に対しても、自決直前の最後のインタヴュー(聞き手は古林尚)で、こう答えています。

「ぼくはそうやすやすと敵の手には乗りません。敵というのは、政府であり、自民党であり、戦後体制の全部ですよ。社会党も共産党も含まれています。ぼくにとっては、共産党と自民党は同じものですからね。まったく同じものです、どちらも偽善の象徴ですから。ぼくは、この連中の手にはぜったい乗りません。いまに見ていてください。ぼくがどういうことをやるか(大笑)」(小学館版『群像 日本の作家 三島由紀夫』)(中略)


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三島の死には、政治的な速効性はありませんでしたし、三島自身もそんなことは初めから思ってもいませんでした。しかし、30年以上たった今から考えると、彼の最後の行為は、戦後日本の精神的荒廃への生命を賭した警告という意味が際立って見えてきます。この日本の荒廃を、三島は一貫して、今のインタビュー発言にもあるとおり、「偽善」と呼んでいます。(中略)

「こんな偽善と詐術は、アメリカの占領とともに終はるだらう、と考えていた私はずいぶん甘かった。おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。〈中略〉

私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまふのではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代はりに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう」
(「果たし得ていない約束 ー 私の中の25年」、『決定版 三島由紀夫全集 36』

この30数年前の予言が、恐ろしいほどの正確さで今の日本の姿を言い当てているのを見て慄然としない人がいるでしょうか。三島由紀夫の自決にこれほど遠大な射程距離があったことは、経済バブルの崩壊に帰結した20世紀が終わった今こそよく実感できることです。

(引用終了)

最近になって、ようやく私が実感していたことと同様の感情を、代弁してくださったような、とても魅力的な「まえがき」だったのですが、三島について、多少は「あれこれ」読んできた、私にとって、本編は「まえがき」ほど、魅力的ではありませんでした。

三島を実際に知っていたり、彼がいなくなった時代に生き、現在活躍中の執筆者による文章は、三島が言っているように、からっぽで、ニュートラルで、抜け目がないことに「自覚」が感じられず、これまでに何度も読んだ内容と変わりばえしなかったからでしょう。

ただ、やはり中条氏による「死とエロティスズムと絶望をこえて」は、中学から三島のファンで、事件当時、16歳だった、中条氏のこれまでの思いが伝わるような文章で、

特に、三島が亡くなった翌年の春に出版され、自決にいたる4年間の軌跡」(帯文)を年代順に87編のエッセーで構成した『蘭陵王』という文集の紹介(笠原和夫脚本・山下耕作監督・鶴田浩二主演のヤクザ映画『総長賭博』や、アラン・ドロン主演『サムライ』を絶賛し、ヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』のナチス観を批判し、赤塚不二夫、水木しげるを熱く賞賛している)や、

◎「蘭陵王」MP3(映画『11.25 自決の日』で、三島が剣舞した曲)

『行動学入門』に収録された「革命哲学としての陽明学」のエッセーも、三島の遺言として重要と記し、1970年が日本人の近代精神史における分水嶺で、それを、当時、痛切に意識した日本人は、三島由紀夫を除いてほかにいなかったといっても差し支えないと記し、三島の、このエッセーの最後に書かれた、若者へのメッセージを伝えてくれています。


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(引用開始)

平田弘史の劇画や、赤塚不二夫のマンガに夢中になた若者たちが、そうしたサブカルチャーに飽きて、正統的な教養が欲しくなるときが、かならず来るといいます。そんなときでも、ヒューマニズムやコスモポリタニズム(さしずめ今ならグローバリズムというでしょう)へと逆行することだけはしないでくれと語って、このエッセーをこう締めくくるのです。

「若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、これらの与えたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなわち決して大衆社会へと巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を」

(引用終了)

このあとの、中条氏による、あとがき「三島由紀夫とはだれだったのか」も気持ちが熱くなる文章で、また、三島の最後の原稿『豊穣の海』の第四巻「天人五衰」を受け取られた、当時の編集者、小島千加子氏が、原稿を受け取るまで「最終回」であることを知らされておらず、原稿が入れられた封筒が、タクシーの中で開けるのも困難なほど、厳重に封印されていたこと、最後の原稿を渡すとき「最終回」を見て驚く頃には、事件が始まっていなければならないことなど、

大事を決行するまでの日常の段取りと、周囲に気づかれぬ算段、気配りの中で「天人五衰」を書き進めた力業と、気力に瞠目し、事件後は、日本の文学の編集者として、見る鏡を失い、空虚感を克服するのが骨で、三島さんと共に自分も終わったと職場を去る若い編集者も多かったという記述が印象的でしたが(本書には、最終回、昭和45年11月25日と書かれた直筆原稿の写真も掲載)、

他の有名執筆者の方の文章は、最近、三島由紀夫の文章に多く触れ、その潔癖さから、誤った影響を受けているからでしょうか。

特に、生前の三島と親交があった、瀬戸内寂聴氏が、三島について、何度も「売文」されているにも関わらず、仏教者として『豊穣の海』について踏み込まれることなく「不死」などと書かれることには、軽い「吐気」を感じました。

☆『続 三島由紀夫が死んだ日』につづく

[目次]

主なき三島邸(撮影・篠山紀信)
まえがき 中条省平
プロローグ 三島由紀夫の死は、当時どう論評されたか

最後の原稿を受け取った日     小島千加子
三島由紀夫の不死         瀬戸内寂聴
「日本」という病         篠田正浩
静かなる恐怖           森山大道
消された歴史の舞台        猪瀬直樹
「本気」の時代の終焉       呉智英
「革命なしの反革命」の奇跡    鹿島茂
死とエロティスズムと絶望をこえて 中条省平

あとがきにかえて
「三島由紀夫とはだれだったのか」 中条省平
三島由紀夫[略年譜]


☆出版社の紹介には、日垣隆氏の名前もありますが、実際の本には集録されていません。
◎[Amazon]三島由紀夫が死んだ日

◎[書評空間]三島由紀夫が死んだ日 あの日何が終わり 何が始まったのか
___________________

[MARCデータベース]昭和45年11月25日、三島由紀夫、自決。あの日、何が終わり、そして何が始まったのか…。瀬戸内寂聴、篠田正浩、猪瀬直樹ら各界著名人が、三島の死の歴史的意味を考える。没後35年、三島由紀夫回顧展記念アンソロジー。



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by yomodalite | 2012-06-28 09:59 | 文学 | Trackback | Comments(6)

東京大学で世界文学を学ぶ (集英社文庫)

辻原 登/集英社



辻原登氏が、2009年の春から夏にかけて、東京大学大学院人文社会系研究科現代文芸論研究室で、14回にわたって行われた「近現代小説」と題した講義をもとに構成された本。

学生への講義が、本としてまとめられているので、興味深い話題が取り上げられていることもそうですが、「その1」~「その3」まである「長いまえがき」から、期待を膨らませられ、最近読んだ『熊野でプルーストを読む』とは、また、ひと味違った、辻原氏の個性が伝わってきて、深い内容なのに読みやすいという、とても素敵な本でした。


第1講義 我々はみなゴーゴリから、その外套の下からやってきた
第2講義 我々はみな二葉亭四迷から、その「あひゞき」から出てきた
第3講義 舌の先まで出かかった名前―耳に向かって書かれた“声の物語”
第4講義 私をどこかへ連れてって―静かに爆発する短篇小説
第5講義 燃えつきる小説―近代の三大長篇小説を読む
(1)セルバンテス『ドン・キホーテ』
第6講義 燃えつきる小説―近代の三大長篇小説を読む
(2)フローベール『ボヴァリー夫人』
第7講義 燃えつきる小説―近代の三大長篇小説を読む
(3)ドストエフスキー『白痴』
第8講義 物騒なフィクション―ラシュディ『悪魔の詩』と冒涜するフィクション
第9講義 自作『枯葉の中の青い炎』は、どのようにして書かれたか
第10講義 ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をどう読み、
どうパスティーシュするか


この目次を見て、ゴーゴリとか、二葉亭四迷とか『ドン・キホーテ』とか、あんまり興味ないんですけど、と思った、私と似たような方も読んでいるうちに『ドン・キホーテ』がそんなにスゴい作品だったとは… と唸ってしまうかもしれません。

面白い箇所が、たくさんあり過ぎる本なのですが、読了後、ペラペラとめくって「近代」とか「聖書」とか「神話」の文字が目についたところから、ちょっぴり引用します。

第8講義「物騒なフィクション」

神話から宗教、歴史という大きな物語は、一元的な物語といっていいかもしれません。神なら神、聖書はまさに聖なるテキストですから、批判を許さない。世界の読みは1つしかない。(中略)何度も取り上げた『ドン・キホーテ』は、まさに騎士道物語をからかい、批判する物語です、物語の中で物語を批判する。そのことが、この『ドン・キホーテ』という小説の構造をつくっています。

騎士道物語は、ドン・キホーテにとっては聖なる書です。すべての生き方を、アマディースに従って、そのとおりに生きていくというテキスト。これを聖書になぞらえると、まさにキリストにならって生きる。そのことをからかう。パロディ化する。(中略)だからこそ『ドン・キホーテ』が近代小説の嚆矢であり、かつ完成であるといってもいいのです。

ここで、近代でなければ生まれなかった小説のジャンル、探偵小説について少しお話しようと思います。すべての近代小説は、探偵小説であると言われることがあります。

探偵小説というのは、謎解き小説ですが、これは近代になって初めて登場してきたジャンルです。本、あるいは新聞という器が登場して初めて成立するジャンル。つまり、読むということが物語を鑑賞する中心になったときに、初めて成立する物語のジャンルです。というのも、探偵小説というのは… 

(引用終了)

「ストーリー」に関する講義は、このあと、まだまだ続きます。

上記の目次にはありませんが、長い長い「まえがき」には、予定されていた講義も書かれていて、そこには、

『ユダの福音書』の発見とボルヘス、そしてまたまたチェーホフ

という講義もありました。それは、時間の都合で、今回は割愛せざるを得なかったとのこと。早く、本にならないかなぁ。。(次は、辻原氏の小説を読まねば。。)

◎[Amazon]東京大学で世界文学を学ぶ

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[BOOKデータベース]自作原稿を焼却したゴーゴリの数奇な生涯。漢語の輸入から日本文学の成熟へ、神話から始まって聖書へ―物語の歴史を考察する。短篇小説の跳躍について。近代の三大小説『ドン・キホーテ』『ボヴァリー夫人』『白痴』を細部まで読み解く要約の妙技。言霊信仰から『悪魔の詩』までの物騒なフィクションの話。小説の誕生から、その構造や手法をめっぽう面白く解説する。小説を通して見ると、人生と世界がつながる。目からうろこの文学講義。集英社 (2010/11/5)



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by yomodalite | 2012-06-12 09:03 | 文学 | Trackback | Comments(0)
辻原氏の本は、これが初めて。『本に埋もれて暮らしたい (桜庭一樹読書日記)』や「NHKブックレヴュー」で紹介されていたのを見て、ずっと読まなきゃと思っていました。
他にも「ねじの回転」のパスティーシュである『抱擁』や、『許されざる者』『闇の奥』など、タイトルを見ただけで、ドキドキしてしまうような本がいっぱいあって迷ったのですが、熊野のことも、プルーストのことも、特に気になっていなかったのに、これを最初に選んだのは、これが「本にまつわる本」で、桜庭一樹氏の『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』が取り上げられているという理由から。

それは、第一章 私の「解説」に納められていました。

… 回りくどい言い方をしているが、この小説はほぼ完璧な「悲劇」のプロットによって成り立っていることを説明したい。「悲劇」、もちろんギリシャ悲劇のことだが、悲劇中の悲劇、『オイディプス王』を借りる。(中略) なぜ、毎年、同じ劇を観、結末を承知しているにもかかわらず、人々は涙を流すのか。(中略) 観客にはわかっているが、登場人物自身は知らないことになっている皮肉な状況、劇的アイロニーと呼ばれるこの状況が、じつは涙の源泉なのだ。

しかし、おのれが何者なのか、と最後の最後まで捜査を押し進めていくオイディプスは、すべてを知っているつもりの観客の思惑を越えて、彼みずからを謎にみちた存在、怪物へと変貌させてゆく。その変貌に立ち会ったとき、結末を知っていると高をくくっていた観客・読者は、おのれの存在がいかに卑小なものであるかを思い知らされ、おそれおののく。このときだ、ほんものの魂の浄化がおとずれるのは。(後略)



解説のハイライトを掲載するわけにはいかないので、、、

この文章からは、桜庭氏の作品だけでなく、私が毎日考えている「あのひと」のことが、頭に浮かんでしまいました。(このブログには『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』のことは書いていませんが、同じ少女同士のストーリーである『少女には向かない職業』と、どちらか1冊だけ選ぶとしたら『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』を選ぶかなぁ)

他の「解説」作品は、

万葉集、「失われた時を求めて」、小説「発熱」と、鏑木清方「築地明石町」、アベル・ボナール『友情』。

それぞれに、著者の豊富な読書量と、文学者の感性で書かれた「解説文」らしからぬ、極上の文章なんですが、特に、本書のタイトルにもなっているプルーストは、今までに読んだ、数多くの「お茶に浸したマドレーヌの味」とは違った、印象的な話で、紅茶とマドレーヌの組合せの度に、“右目に刺したような痛み”と、“水の中の母” を思い出してしまいそうです。。

読書の周囲「女を描く」

近代化する、とは、近代人になる、ということだ。近代人という「主体」になることだ。ところが、それまでの日本では主体というものを語る必要がなかった。近代化の過程で、はじめて、世界、あるいは普遍性の文脈で何かを語らなければならない、そういう語る「主体」が必要になった。あるいはそういう主体にみあう現実というものをつくりださなければならなくなった。(中略)

このことは、近代小説においては主人公をどう立てるか、ということにつきる。主人公 ー 神、あるいは絶対者と対話し、対決、対峙する「われ」。

絶対者はない。近代技術は模倣によって習得できるが、絶対者は模倣することができない。そこでわれわれの先輩は、「おんな」を、仮に、主人公に対峙するものとして持ってきた。なぜなら「おんな」だけが、わが日本文学の中で唯一の個性ある存在だったからだ。(中略)

…しかし、この命脈もいまやつきた。「おんな」はもはやどこにも存在しない。(中略)もはや小説に描かれた女性を通して、男が世界を夢想しなくなったのだ。現代青年にとって「おんな」は絶滅した恐竜である。手で字を描かなくなった。あの、なぞりの線は、じつは「おんな」をなぞる線でもあったのだ。

人類は、近代において、「主体」とともに習得した重要な技術のひとつ、「黙読」という技術を、やがて再び失うだろう。「おんな」は筆記と黙読の中に、水の中の金魚のように生きていたのだ。 (p86 - 88)

近代化する、近代人になるというのは、近代人という「主体」になることだった。日本にもともと「主体」があったかどうかは別として、「主体」というのは、世界を構想する、その構想のしかたの原理であり、小説においていえば、主人公をどう立てるかということで、主人公を中心にして世界をどう描くか、という技術の問題に収斂する。

ヨーロッパは、この技術を千数百年にわたって、超越神・唯一神との対話、対峙、対決で徹底的にみがいてきた。神と対峙する「私・自己・主体・主人公」

幸か不幸か、この自己を扱う技術のなかったわれわれは、だが「近代小説」を模倣しなければならなくなったとき、つまり「神」に代わるものとして、長い伝統を持つ「をんな」をもってきた。くろうと女と相渉る「私」。

小説を日本語で書くかぎり、それまでの小説の言語、つまり戯作文から逃れることはできない。西鶴や為永春水の世界。これこそが花柳小説だ。くろうと女と相渉る男たち。花柳小説とロシア小説が遭遇し、合体して、われらが近代小説の濫觴となる。とりわけ独自な「私小説」というジャンル。をんなに振り回され、愚痴り、それでも追いかけて、つきまとう「私」。ドストエフスキーの小説に登場する女たちこそ格好のモデルだった。(中略)ドストエフスキーが描く「女」が重要だ。いまではもう息の根をとめられてしまったけれど。(p184 - 186)

仕事のあとさき「四人の幻視者」

…三番目の人物は、三上章(みかみあきら)という。日本語文法学者の中で鬼才という異能者だが、あまり知られていない。心ある人々からは、彼の業績は宝の山だと評価されている。日本語文法における幾多の業績の中から代表的なのをひとつあげれば、「日本語に主語はいらない」という主張だろう。彼は、日本語を英語など西欧語との徹底的な比較研究の中から、西欧近代が押し付けた論理の中心、文法の中心、文は「主語と述語よりなる」という命題、金科玉条を打破し、主語を持たない日本語がいかに論理的で美しい文の世界であるかということを論証、実証したのである。しかし、彼の体系は、西洋式論理、文法のみを正しいとする日本国家の教育政策によって無視されつづけてきた。抹殺されたといってもよい。

(他の幻視者:ツォルコフスキー/旧ソ連「ロケットの父」「ロシア・ソビエトのSFの父」。岡潔/数学者「不定域イデアルの理論」日本民族は30万年前に他の星から地球にやって来てマライ諸島あたりに落下し、一万年前に黄河の上流にいた。それから南下して、8千年くらい前にペルシャ湾からマライ諸島を回っていまの日本諸島にたどり着いた…。鹿野忠雄(かのただお)/遺著『東南亜細亜民族学先史学研究』)

(引用終了)

素敵ポイントはいっぱいありすぎて書ききれませんが、著者の「本にまつわる本」をもっと読みたくなって、読了後すぐに『東京大学で世界文学を学ぶ』も読み始めました。
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◎熊野でプルーストを読む(Amazon)
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「BOOKデータベース]「ぼくは14歳で家を出た。そして、本と映画とともに生きてきた」。1990年に芥川賞を受賞した著者は、豊かな物語性と変幻自在の舞台設定によって多くの読者を魅了し続けている。さらに近年刊行された『東京大学で世界文学を学ぶ』は、読み手としての優れた能力を遺憾なく発揮した作品として話題を呼んだ。その著者が自らの著作の航跡と周辺をたどり「本のある生活」を綴る。筑摩書房 (2011/8/9)




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by yomodalite | 2012-06-08 08:06 | 文学 | Trackback | Comments(0)

鐵道心中/岩井志麻子

鐵道心中

岩井 志麻子/双葉社



ええ。それはそれはもう、大騒ぎなどというものではなく。町中の、いえ、国中の話題にもなったのでした。

なんせその年の半ばにはもう、事件は歌になって流行したくらいです。冷え冷えとした歌を火照った唇に乗せ、人は己からは遠い甘美な死の恋情を口ずさんだのでした。


大正時代に入ってまだ、それほど間は経っていなかったのに。

孤独にして賑やかな大正時代が、あまりにも愛らしく哀しく短かったものですから。これは大正半ばの物語と呼ばれてしまうのです。

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あれは夕刻でしたわ。危うい初春の黄昏時。

不意打ちのように夜がそこに来ていて、でも愛しい人の顔もまだ手に取るようにわかる、そんな時間帯。黒々とした重い単行機関車には、やや老いた機関手と、まだ子供の顔をした火夫が乗り込んでいて。景色すべてに淡い血の滲む宵。

機関車が、ある女子師範学校を右側に見て進行中、若い男と女が抱き合ったまま飛び込んだのでした。最初から何らかの残骸として、引き千切られるのを待ち望む木偶のように。

女は線路脇に壊れた蝶のように撥ね飛ばされて、これはもう誰の目にも助からない思われたほどの重篤な姿を晒しました。骨に達する、というのでしょうか。可憐に白い頭蓋骨の一部が見えていて、耳朶が耳の近くにまで垂れ下がっていたのですから。

男のほうは運良く土手のほうに撥ね飛ばされ、軽い打撲と擦り傷とで済んでいましたが。緊急停止した機関車の脇で瀕死の女に取りすがり、

「決して決して、あなただけを行かせはしません。私は必ずや後を追います」千切れかけて首の辺りに垂れた耳たぶに、盛んに哀訴しておりました。あんなに死に物狂いだった男が、なぜに頬笑を浮かべていたなどという噂が流れたのでしょうか。

(ここまで冒頭部分を大幅に省略して引用)

帝大教授の令嬢として育ち、幼い子供もいる大会社の社長婦人が、お抱え運転手と鐵道心中を図るものの、二人とも奇跡的に助かり、夫人はその後、カフェーで働くようになる。

なぜ、夫人は心中しようとし、運転手はその場から消えたのか…

日本の映画・ドラマ界に「大正ブーム」が来ないものでしょうか。。

☆大正の唄……
◎花嫁人形 - 有山麻衣子
◎籠の鳥 - 村上幸子
◎カチューシャの唄
◎ゴンドラの歌 - 鮫島有美子

☆大正の唄ではないけど…
◎磯千鳥 - 倍賞千恵子

☆参考サイト
◎ユメイカ。

◎鐵道心中(アマゾン)



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by yomodalite | 2012-04-18 08:15 | 文学 | Trackback | Comments(0)

さらば雑司ヶ谷 (新潮文庫)

樋口 毅宏/新潮社

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雑司ヶ谷って、どの辺なのかよくわからなくて、最初は世田谷区かと思った(東京で住んだことのない区だし、わからない地名は大抵「世田谷」だと思ってしまうのだ)のだけど豊島区でした。

そういえば、世田谷以外でも、乗っていると、いつのまにか「埼玉」に行ってしまう路線とか「池袋」周辺も苦手なのだ。

雑司ヶ谷は、副都心線で、都電荒川線の「鬼子母神前」で、1丁目から3丁目までしかない「町」なんだけど、それで人口8088人って、ホントに、東京をひとつの「イメージ」で語るのはむつかしい。

著者は、雑誌「ブブカ」や「みうらじゅんマガジン」の編集長として活躍された方。その経歴に、グッと来てしまう人には、期待を裏切らない内容で、私は町山智宏氏と水道橋博士の推薦で読んでみようと思いました。

◎シリアスか洒落なのか、「読ませる力」町山智宏
◎「キラキラ・ポッドキャスト」水道橋博士『さらば雑司ヶ谷』を語る

下記は著者による「あとがき」から。

この小説は文中に表記した以外にも、以下の作品と人物へのオマージュ、霊感、意匠、影響、引用、パスティーシュで構成している箇所があります。

『不夜城』と『私が殺した少女』にリスペクトを。

他に、開高健、『池袋ウエストゲートパーク』(ドラマ)、高倉健、『そして、ひと粒のひかり』、佐野元春、『グラップラー刃牙』『サンセット大通り』、藤本義一、『さくらの唄』、つかこうへい、『カメレオン』(マンガ)、見えないドアと鶴の空』『人間交差点』、芥川龍之介、『ドランクモンキー 酔拳』『遺書配達人』、中島みゆき、『闇の子供たち』、ランボー詩集、『悲劇の誕生』、夏岡彰、『LOST』、荒川徹、『北斗の拳』、Q・タランティーノ、『嘔吐』、みうらじゅん、『昭和の劇 映画脚本家 笠原和夫』、ZIGGY、『ぼくは微動だにしないで立ち尽くす』、増井修、『幕張』、『ねじまき鳥クロニクル』、山崎洋一郎、『ロッキング・オン』のM.I.A.インタヴュー、『ニャン2倶楽部Z』『仮名手本忠臣蔵』、保阪尚輝、『花王名人劇場』で鹿賀丈史が出演したドラマ、北野大、『ビヨンド・ザ・マット』、平井夏美、『CUT』の石岡瑛子インタヴュー、ローリング・ストーンズ、シェークスピア、コーネリアス、浜田省吾、『わが谷は緑なりき』、バービー・ボーイズ、『虐げられた人びと』、電気グルーヴのオールナイト・ニッポン、山口絵里子、『さらば、わが青春の少年ジャンプ』、松本隆、『奇子』、鹿野淳、円谷幸吉と川端康成、『男樹』、GREAT3、『渋谷陽一の社長はつらいよ』、『ベイエリア在住町山智宏アメリカ日記』、ウィキペディアやgoo映画、他のサイトなどなど。(順不同)

それでは続編『雑司ヶ谷R.I.P』でお会いしましょう。

(引用終了)

続編も読みたいし、『CUT』の石岡瑛子インタヴューも読みたくなりました。

☆映画にしても楽しめそうな小説。町山智宏(1962年生まれ)、水道橋博士(1962年生まれ)に近い年齢の人は、さらに楽しめそう。

◎さらば雑司ヶ谷(アマゾン)
___________

[内容説明] 中国から久しぶりに戻った俺を出迎えた友の死と女の失踪。東京、雑司ヶ谷。狂気と猥雑の入り乱れたこの街で俺は歪んだ青春を送った。町を支配する宗教団体、中国マフィア、耳のない男… 狂いきったこのファックな人生に。天誅を喰らわせてやる。エロスとバイオレンスが炸裂し、タランティーノを彷彿とさせる引用に満ちた21世紀最強の問題作、ついに文庫化。脳天、撃抜かれます。新潮社・文庫版 (2012/1/28) 単行本(2009/8/22)


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by yomodalite | 2012-02-25 22:58 | 文学 | Trackback | Comments(0)

本に埋もれて暮らしたい (桜庭一樹読書日記)

桜庭 一樹/東京創元社

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最近、面白い本も、読まなくてはならない本も多くて、ブログに記録しておこうと思う本を選ぶのに、すごく迷う。ものすごく感動しても、それをどう書いていいかわからない場合は、書くことができないし...

「LOVEを込めてやる、LOVEを込めて言う、優しさを込めて言う。それができないのなら、口に出すな」(ケニー・オルテガが語ったMJの言葉)

という、なかなか守れない「掟」もある....

「桜庭一樹の読書日記」はこのブログに書いていない本も含めて、全冊読んでいて、毎回ものすごく感動してるけど、どこに感動したかっていうことについては、なかなか書けない。だって、面白ポイントが多すぎるんだもん。

でも、今回の日記は、桜庭氏が『傷痕』を書くことになった時期のことが書かれているので、そーゆー理由も含めて、、メモしておきます。

2010年12月某日

(P133)...今夜もまた、チェシャ猫のような微笑みをバーの入口の薄闇に漂わせながら、I本女史が現れた。

I本「桜庭さん! いやー、わたし『THIS IS IT』見たんですけどね、マイケル・ジャクソンが、なんと、桜庭さんとそっくりだったんですよ!」

桜庭「どっ、どっこも似てませんよ! なんの話ですか!」(中略)

I本「いや、自由というものにはね、孤独がつきものなんですよ.....。
わたし、わかります(←真顔)」


わかるように話してくれない.....。今夜もまた、楽しいけれどもなにもかもうやむやになってしまうような気がする。ちらっとK村女史を見ると、スケジュールの確認と打合せは.....(後略)

しかし、この影響で突如、脳内で舞台の廃校にMJが現れ、キング・オブ・ポップが銀座の廃校にネヴァーランドをつくって娘と住んでいる話に変わった。小説とは、ほんとに生き物である....(引用終了)

I本女史は、本書に何度も登場する講談社の編集者の方で、桜庭氏の本では『ファミリーポートレイト』を担当されていて、都会のお洒落なバーで、グランドピアノによじ登ったり、桜庭氏に「向日葵の種を変質的に集めているような男と結婚しろ」と指令を出されたり、また、立姿は『私がウォシャウスキー』のポスターのようで、

吉井和哉というキーワードでボタンを押したように爆笑されるような、そんなテンションの高さで、数々の名作を手がけてこられたベテラン編集者の方で(そのせいなのか、プロ級の歌唱力もある)、なんとなく、桜庭氏よりも、年上のように思われるのですが、、、

で、そーゆー人から、あの『THIS IS IT』のときのMJに似ていると言われる、そんな38歳(2009年時)の女って、、、想像できます?

MJも、桜庭氏も大好きな私としても、それは意外な発見で、びっくりして、似ている部分について、初めて考えてみたんですけど、

うーーーん、やっぱ、似てるかも。

いや、ま、どこがって言われると、困るんですけどw

まず、桜庭一樹の読書にかける想いと、MJのそれは似ていると思うんです。貪欲さという意味において。

この日本で、桜庭氏以上に、まるごと世界を把握したいというほどの「貪欲」さで、読書をされている方も少ないけど、、このレベルで本を読んで、読書日記で、自らそれらを紹介し、しかも売れっ子作家で、『傷痕』連載時も、他にも3本ほど連載を抱えられていたり....そんなところも、MJが『THIS IS IT』の過酷なリハ中、クラシックアルバムの制作までしていた...ところと似ているし、

また、I本女史が言われている「孤独」について、

MJはこれまでに「KING」と言われた人と比較しても、肩を並べる人がいないぐらいの「KING」なのだけど、いわゆる「王様の孤独」とも無縁で、彼のことをあまり知らない人は、MJがネバーランドのような「王国」に閉じこもっていたように思っているかもしれないけれど、彼は、晩年まで、周囲に大勢の人がいることが好きだったし、創作をするうえでも、共同作業が好きだった。

『THIS IS IT』でも、そういったMJの姿勢は見てとれると思うので、I本女史が言われているのも、そーゆー意味ではないと思うし、桜庭一樹のセルフドキュメントとも言える「読書日記」でも、桜庭氏の周囲には、常に人がいて、それは「食べ放題」にかける意気込みや、「おみやげ対決」にも感じられるし、想像を絶するような生活の中で、結婚もされている。


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◎「みのるのラブリーディ」桜庭一樹と友野英俊(芸人)の結婚式のこと

下記は巻末の(男子も出席してる)「読書日記女子会」から

F嬢 .....でも桜庭さんて、ほんとに毎日、着々と本を読みますよね。

桜庭 同じ時間に同じことをするように心がけてますね。それは、今よりも物事をわかりたいとか、もっとよく書けるようになりたいとか、そういう気持ちが常にあるかもしれない。もちろん楽しいからやっているんですけど。

K島 特定のことのエキスパートになりたいわけではないんですね。

桜庭 ひとつのジャンルを、がーっと読んで詳しくなるんじゃなくて、全体のバランスを取りながら、小説という文化全般をうっすらとよくわかりたい、というか。

K島 それは子供の頃から持っていた感覚ですか?

桜庭「この作品はどうしてこんなふうに作られているのか、きっとこういう意図があるんじゃないかな」みたいなことは考えていて、それがわかった気がすると修行が一歩前進した気分になる。魔法が一個使えるようになった感じ。

マニアの人みたいな、リストを埋めていくような読み方はしないですね。自分独自の、小説でできた街なり世界なりを作ろうとしている。(中略)

S藤 修行が好きなのはどうしてですか?

桜庭 本を読んだり仕事をするのも毎日同じ時間にきちんとやるのが好きなので、もともと求道的なところがあるのかも。

S藤 それって、完成型とかイメージしてます?

桜庭 さっき魔法っていったけど、『ゲド戦記』(U・K・ル=グウィン)のいちばん好きなシーンに、たしか偉い人が「偉くなると楽になる気がするけどそれは逆で、下っ端のときがいちばん楽なんだ。偉くなるとしなくてはいけない義務や人に教えるべきことがたくさんあって、自由がどんどん狭まる。それが魔法使いとして目指すべきところなので、君は頑張れば頑張るほど大変になるんだ」とゲドに言う場面があるんです。 (引用終了)


修行が一歩前進すると、魔法が一個使えるようになる。それで、どんどん偉くなると、自由はどんどん狭まって、しなくてはいけない義務や教えなくてはいけないことが増えるけど、それを目指して頑張って、偉い魔法使いになる。

なんだか、、まるで、MJのことを言っているような.... 

松岡正剛とか荒俣宏の方が、桜庭一樹よりももっと本を読んでるかもしれないけど、彼らは、それで魔法が使えるようにはなっていないし、

そんな風に頑張ろうと思っている人も滅多にいないし、だから、I本女史は「孤独」だと言ったんじゃないかな.... 

あと、おふたりは作品だけでなくスピリットの伝染性も、スゴいし...お笑い関係者を身近に置いておくところも...

やっぱり、MJと桜庭一樹は似ているかもしれない。『傷痕』に関しては、いずれまた。。


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あまりにも、多くの魅力的な本が紹介されているので、興味をもった本をメモするのも大変なんですが、たまたま「黄色の付箋を貼った部分のみ」ちょっぴりメモしておきます。

☆岩下尚史『芸者論』 
この本は、私も5つ星のスゴい本で、ここから私は、目一杯「芸者」のことを考える予定だったのに、MJショックのため、ペンディングになっていて.... とにかく、もう今後、これ以上の芸者本はないという本なのですが、、下記は、桜庭氏が本書について語っていること。

....花柳界の歴史を“神さまを演じる”という文化をもとに紐解いたおもしろい本だった。古来、巫女の仕事のひとつに、外の世界から村にやってくる男と一夜を過ごすことがあった。昔の人か考える幸福とは、遠い海の彼方から訪ねてくる客(神さま)に、毎年、巫女が服従することでもたらされるものだったからだ。

そこから、白拍子やら歌舞伎を経て、江戸時代の吉原へ....。いまもドラマや映画で見て、不思議に思えるこの場所のさまざまな風習は、じつは古代の巫女からきていた。客(神)は、神の目印の蓑笠代代わりに深編笠で結界の大門を越えたり、揚屋で大神と呼ばれたり、神前にお供えするような肴をやたら山盛り出されたり....遊女(巫女)との複雑な盃ことも、じつは、神と人の世界の契約の記憶をもとにしていたのだ。

これがやがて芸者の文化に繋がるが、近代になって、忘れられていって....。なんだか、日本の文化のお話なのに、ずっと、遠い外国の小説を読んでるみたい。不思議な本だなぁ。

読み終わって、でもこういう文化の中にある神さまというものは、消えたようでいて、都会の雑踏や、芸能スポットライトの中や、いろんなところにそーっと生き残っているんじゃないかなぁと思った。ちいさくなって、ときには安くなって、いつだって、しぶとく。

そういや、小説もまた、書く人が、ちいさな神さまをみつけては、読む人に目撃させるための道具、四角い“読む祝祭空間”なんだよなぁ、とかなんとか思いながら、夜も更けてきたので、考えすぎて頭から煙をもくもく出る前に、もう寝た。(引用終了)



☆辻原登『闇の奥』『許されざる者』『抱擁』『夢からの手紙』
『抱擁』は「ねじの回転」のパスティーシュ。『夢からの手紙』は時代物の短編集、最初の「川に沈む夕日」がすごい..... 辻原登さんは、先日のNHK-BS「ブックレヴュー」で、ジャン=フィリップ・トゥーサンの『浴室』やスタンダールの『赤と黒』などの素敵な邦訳で知られる野崎歓氏も『熊野でプルーストを読む』を薦められていて、今まで1冊も読んでいないので、アセってしまった方。。

☆ロミ『突飛なるものの歴史』
澁澤龍彦、種村季弘が教科書にした、ヨーロッパ美術史を巡る幻の名著と言われているのに、まだ読んでいなかった。。

☆スタージョン『不思議のひと触れ』
SF作家にして、アメリカ文学史上最高の短編作家とも言われるスタージョンの傑作短編集。ロバート・ハインラインによれば、彼はこの世のものとは思われないぐらいのイケメンだったらしい。桜庭氏はばらばらの能力をもつ5人の孤独なミュータントが“5人で1人”になることで人間以上の存在になっていくーという長編『人間以上』を読んでものすごく気に入ったらしい。

☆ヴァージニア・ウルフ『オーランドー』
桜庭氏は、ウルフ作品の中で、不老不死の貴族の青年を主人公にしたはちゃめちゃ英国文学史で、いちばん好きと語っている。

☆ハーパー・リー『アラバマ物語』
MJがそのテーマ曲も映画自体も主演俳優(グレゴリー・ペック)とも親しく、大好きな映画のひとつですが、そういえば原作は読んでいなかった。

☆山本史郎『東大の教室で「赤毛のアン」を読む』
村岡版『赤毛のアン』では、第37章が大胆に書き換えられているのである(中略)村岡花子が翻訳する際に省略するのが適切であると判断した箇所を、原作の作者であるモンゴメリーはなぜ省略しなかったのだろうか ー (『東大の教室で「赤毛のアン」を読む』より)

有名な村岡訳の『赤毛のアン』にはごっそり抜けている部分があった!犯人(村岡)の動機は?という謎解きを探偵役である著者(東大の先生)がしてみせる、その後、被害者(モンゴメリー)は、なぜ村岡花子が翻訳したように書かなかったのか?という謎に移って、これも見事に解いてみせる。それによって、どうして日本でこんなに長く、広く『赤毛のアン』が愛されているのかという謎まで解けてしまう。モンゴメリーと村岡花子は別の道を選んだというのだ(←桜庭氏)

☆酒井順子『儒教と負け犬』
日本、韓国、中国にわたって著者が取材するうちに、親の世代から自然と身に付いている儒教文化が家族や男女のあり方に影響している ー 『ファミリーポートレイト』を書いたとき「日本には欧米のような宗教観がないので、物語に重みをもたせるため、宗教の部分に“家族”をおいて書いた」とよくインタビューで話したけど......

☆中島京子『女中潭』『FUTON』
『女中潭』林芙美子、永井荷風、吉屋信子の小説に登場する昭和のさまざまな女中たちを、不可思議な筆で現代に蘇らせた連作集

『蒲団』を研究するアメリカ人文学者をめぐる出来事を掛け布団に、彼が主人公の妻の視点で描いた『蒲団』のパスティーシュを敷き布団に、さまざまな人物の生態を描く不思議な小説

☆中村文則『掏摸』(最新作『王国』はその姉妹編)
中村文則氏の本は、早く読まなきゃと思っていたので。

☆団鬼六『往きて還らず』
著者が父親から「ぜったい書くな」と言われた戦時中の話を小説にしたもの。3人の特攻隊員と、1人の美しい女。「俺が死んだら、こんどはおまえがあの女を妻とし、守れ」という1人目の言葉通り、女は特攻隊員が死ぬたびに夫を変えるが、どの夫もすぐに飛び立って死んじゃうのだった.....。

「これからどういう世の中になるかわかりませんが、自分は生きる事に致しました。短い間ではありましたが、有り難うございました」ー (『往きて還らず』より)

☆江本純子『股間』『猫背の王子』(デヴュー作)
著者は劇団「毛皮族」主催者(町田マリーと共に2000年に旗揚げされた女性による劇団)

☆水木しげる『水木サンの迷言365日』
木はね、妖怪の表現がうまい。人間よりうまい。最近はもっぱら木から妖怪の形を学ぶんです。そうすると、奇想天外な妖怪らしい妖怪が生まれる。すごいですよ、木は。

夢現(ゆめうつつ)っていうのがあるようですね。夢のときに明快な判断が与えられたりする。夢は三分の一ぐらい現実に入ってるんじゃないでしょうか。

この世に生まれて楽園で生活しないなんて、バカだよ(『水木サンの迷言365日』より)

☆『トワイライト』
雨が降り続ける街で、不思議な少年エドワードと出会ったベラ。禁断の恋に落ちた吸血鬼と少女の運命を描く、全米ベストセラー。桜庭氏はK島氏からその話を聞いたときは興味無さそうだったものの、一年後、超多忙の中、9冊ある原作を3回読み返し、映画も5、6回観たと言われるほどハマり、twitterにも「わしじゃよ、トライライト博士じゃよ」と言うキャラまで登場させた。

◎映画トワイライト・サーガ 公式ファンサイト「トワイライターズ・スクエア」
◎映画トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン」オフィシャルサイト
◎映画トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーン」予告編


ふぅーーーー、ちょっぴりだけって思ったのになぁ....

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[BOOKデータベース]サイン会、打ち合わせに撮影、連載開始…サクラバカズキは忙しい。ドナドナになったり、暴走族になったり、白い魔物(あいふぉん)に翻弄されたり…それでも嵐が来ようが、風が吹こうが、やっぱり毎日、書店に行き、毎日必ず、本を読む。読書魔サクラバの好評ウェブ連載単行本化。縦横無尽に読んで過ごした一年間。 東京創元社 (2011/1/27)


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by yomodalite | 2012-02-12 18:17 | 文学 | Trackback | Comments(0)
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フジテレビで深夜に放送されている『世界は言葉でできている』

番組をご覧になったことのない方にカンタンに説明すると、国内外の様々な有名人の名言が紹介されるのですが、最初は「虫食い部分」を伴って紹介され、そこから、回答者が名言を予想したり、それを上回る回答をするというもの。

回答者の方は、それぞれ言葉の達人の方ばかりなので、本当に毎回「素敵な言葉」ばかりなんですよね!

昨晩の放送から、ちょっぴり紹介すると、、

「あなたに影があるなら、光が当たっている証拠よ」(レディ・ガガの名言)

あなたに影があるなら、それは最大の武器よ。(BIKKE・Tokyo No.1 Soul Set)

次は、名脇役として、数々の映画に出演した女優で、エッセイストとしても活躍し、映画評論家の夫を支え続けた、沢村貞子の名言。

「何もできなかった。でも、1人だけ幸せにできた」

これは、「落ちこぼれ人間でしかなかった私が、なんとか生き延びてこられたのは、唯ひとり、貞子という心やさしく、聡明な女性にめぐり遭えたからである……ありがとう」

という、亡き夫が書いた原稿を偶然目にして語った言葉。

何もできなかった。でも、良い主演作品だった。(設楽統・バナナマン)


冒頭の写真は、以前、この番組を観ていて気になった、東京スカパラダイスオーケストラでサックスを担当されている谷中敦さん。私は、スカパラに「歌もの」があったことも知らなかったのですが、現在まで6曲ほどあるようで、谷中敦さんは、そのすべての作詞をされているようです。

◎歌もの第6弾『星降る夜に』の歌詞はこちら

それで、谷中敦さんが、フランク・ザッパの崇拝者という情報とか、松本人志に「三國連太郎によく似てる」と言われたお顔とか、、でも、役者としても活躍されていて、三國連太郎よりイケメンだし、サックスだし、詩人だし、ハンパなくモテてそう....とか、なんとなくちょっぴり気になってきて「詩集」も読んでみました。


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「栄光の砂の碑」

雲とビル、支柱とガラスに照りつける太陽
世界は優しすぎて落込む暇さえ与えてくれない
きわどいコントラストに住みつき、長い話に低く遅く惹きつけている
蒼穹の蓋をはねのけるとき凝視する羽ばたきの確かさをメモランダムに残して
賢く二つ折りして政治を馬鹿にした
狡がしこく二重書きした優勝作品の滲みだした栄光を帳消しにして
無限に上昇する自我から憶えきれない詩編がいくつもこぼれた
燃え続ける葉にも辞書にも年代記があり
いつか逸話にすげ替わる
誇り高き男もいつか
放浪の輝きに
目を見開いて
打ち付ける砂が
栄誉を称える音の形を歪める
その変化の美しさに目を閉じずに全身で感じて立ち尽くし
覚醒した夢を辿る
許容量以上の能力をさずかったお前は
いま
でかした勇者を
ばかにした
砂粒ほどのおれに砂粒ほどの記念碑



「偽物裁判」

なんか画面から臭いがしたんだよ。
それは行ったことがある場所だから、声もきこえるような気がしたんだよ
西方で列車事故
届いたよ、遺書をかけないあなたの気持ち
気持ち悪い外国人を馬鹿にして、詩を書いた
死んでも消えない罪だけど
優しいのか、攻撃的なのかは分からないな
愛を語りすぎてありふれちまったんだろうな
死を語りすぎてありふれちまったんだろうな
露悪趣味だと思うよ、締め付けて醜い自分の汚れを人に見せつけるのはさ
狙いがはずれても、いいんだろうか?
がんばってりゃ


◎[Amazon」放浪のメモランダム―谷中敦詩集

◎谷中敦《山羊座》(ウィキペディア )
◎谷中敦(関心空間)
◎東京スカパラダイスオーケストラ(ウィキペディア)
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[MARCデータベース]ヒット曲「めくれたオレンジ」「カナリヤ鳴く空」「美しく燃える森」の作詞者で、東京スカパラダイスオーケストラのバリトンサックス担当の著者が、携帯メールで綴った渾身のメッセージ。詩と散文を写真とともに収録。双葉社 (2002/09)



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by yomodalite | 2012-01-18 09:38 | 文学 | Trackback | Comments(3)
MJが完璧なアルバムとして、何度も挙げていたチャイコフスキーの「くるみ割り人形」(The Nutcracker)なんですが、そういえば、この曲は、ダンス(バレエ)のための音楽だったことに、今更なんですが、ふと気になって原作が読みたくなりました。

◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(河出文庫)E・T・A・ホフマン、種村季弘訳
◎『くるみ割り人形』アレクサンドル・デュマ、小倉重夫訳

下記は、上記2冊を読んだメモです。

「くるみ割り人形」に関しては、ドイツロマン派の作家、E・T・A・ホフマン原作とか、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマ原作とも言われたり、結局どっちなの?という疑問をもたれた方も多いんじゃないかと思うのですが、その件も含めて、デュマ版の翻訳者、小倉重夫氏の「あとがき」から省略して引用します。


1891年帝政ロシアの作曲家チャイコフスキーは、翌年12月に初演される彼にとって3番目で、最後のバレエ音楽『くるみ割り人形』の作曲に励んでいた。このバレエは前年に初演した『眠れる森の美女』に続き、フランス趣味をバレエに積極的に取り込んだもの。

振付けは、当時ロシア・バレエ界の大御所だったマリウス・プティバが担当することになっており、彼は上演のための台本をチャイコフスキーに手渡し、彼も有名な童話は充分に承知していたが、改めて読み直したりして、構想を練り始めた。

チャイコフスキーは、2歳年下の妹と特に仲が良く、彼女が嫁いだ後も、甥や姪たちとの団らんを楽しみ、『白鳥の湖』も『眠れる森の美女』も、この一家の家庭音楽界用のものとして作曲された。『くるみ割り人形』は、この妹の急死にショックを受け、2人の楽しかった思い出を回顧するとともに、彼女への追悼曲にしたもの。

前2作に見られるような小品の連鎖曲ではなく、少女とくるみ割り人形との出会いから、人形とねずみの戦闘の場に到るまで、彼は交響絵巻のように休みなく音楽を劇的に展開させたのである。全曲を支配するメルヘンチックな世界には、少女と妹が二重写しになって描写され、自らの体験から生み出されたと思われる幼き日の思い出が、生き生きとよみがえっているのである。

『くるみ割り人形』の原作は、一般にドイツ・ロマン派の作家、E・T・A・ホフマンが、1815年に書いた幻想童話として知られているが、バレエ版で使用されたのは、フランスの文豪、アレクサンドル・デュマの手になるもので、このアレクサンドル・デュマは、実は2人いて、父子の関係にある。父親はデュマ・ペール(一般に大デュマ)と呼ばれ『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』の作者として広く知られている。

一方、息子はデュマ・フィス(一般に小デュマ)と呼ばれ、デュマ・ペールの庶子で、作家としては、娼婦の恋愛を描いた小説をイタリアの作曲家ヴェルディが名作オペラとした『椿姫』で有名である。

『くるみ割り人形』(原題は『くるみ割り人形物語』)は、1844年に息子、デュマ・フィスが、まだ20歳の若き日にE・T・A・ホフマンの『くるみ割り人形とねずみの王様』のフランス語訳に着手、やがて『三銃士』を完成し『モンテ・クリスト伯』を執筆中の父親も加わり、合作の形で完成させ、ペール、フィスの明記なく1845年に出版したものである。

研究者の間では、どちらの作品とすべきか、見解が分かれているが、フランスの作品リストでは父親の方に所収されてきている。また、彼らはこの同じ年に英語版もイギリスとアメリカ両方で同時に出版もしている。こうしたことからは、いかに一時期彼らがこの作品に執着していたかがうかがえる。

当時フランスのパリは、ヴィクトル・ユゴーをリーダーとするロマン主義の全盛期で、その影響はシェイクスピアやバイロンなどの文学と同時に、ドイツのそれからも顕著に受けていた。つまり、ドイツ文学のフランス化、あるいは新ドイツ主義とも言えることが盛んに行われていた時代で、文学、音楽、バレエなどの主題をはじめ、それぞれの創作活動にこれらは色濃く反映されていた。

たとえばゲーテの傑作『ファウスト』がフランス語訳出され、『ジューヌ・フランス』派の若きロマンティスティシズムの闘志集団に愛読され、ベートーヴェンらの交響曲作品が紹介され、ベルリオーズやリストが、フランス風に極めて標題的で、演劇的、絵画的な交響曲作品を作曲するようになり、そうした主題や背景には『ファウスト』などが使われ、

ゴーティエがアナトール夫人やハイネの著した民間伝承話や、死霊ヴィリからインスパイアされて製作されたバレエ『ジゼル』にも、フランス化現象が顕著に表れ、この頃の『ジューヌ・フランス』派の若人たちは、熱病に冒されたかのように、ドイツ文化がもつ神秘で幻想的な世界、疾風怒濤の精神運動(シュトゥルム・ウント・ドランク)に熱狂し、ロマンティズムを成熟させていった。

こうした傾向はゲーテのみならず、E・T・A・ホフマンにも及び、彼の幻想怪奇な小説は高く評価され、デュマ父子にも及んだ。翻案の形で進められたところから、随所にホフマンとの相違を見ることができるが、バレエと結びつけて読まれる場合は、デュマ版の方が有効である。

それはドイツ語よりもフランス語をたしなむことが多かった当時のロシアでは、ホフマン版よりも、デュマ版の方が広く流布していて、バレエ関係者はホフマン版を手にした形跡がないからである。バレエ版を製作するに際し、スタッフもダンサーも共に原作や台本が入手困難といったこともあってか、読み込み不足、かたこれらをもとに作曲された音楽にもかかわらず、それを軽んじる傾向が、昨今散見されるのは残念なことである。

バレエは憧れいずる魂を刺激するものでなければならないが、これでは舞踏劇としての醍醐味はそこなわれてしまうのではないだろうか。『くるみ割り人形』にしても、今日上演されている多くのバレエ公演に接するよりも、デュマ父子の翻案に触れ、舞台で欠落している部分を補うことで、作品の魅力を感受し、納得していただくことが望ましいのである。(引用終了)



ホフマン版と、デュマ版の両方を読んだ感想としてはデュマ版は、あきらかにホフマンのリメイクで両作はほぼ同じ話です。ただ、デュマ版の方が、より童話っぽいという感じでしょうか。。いずれにしても、私は、バレエの『くるみ割り人形』は、こどもバレエで見た記憶が強いせいか、原作を読むまで、こんなお話だったとは、全然知りませんでした。


以下は、ホフマン版『くるみ割り人形とねずみの王様』の訳者で、ドイツ文学者の種村季弘氏の「訳者解説」より(省略して引用)


『くるみ割り人形とねずみの王様』と聞いて真っ先に思い出すのは、ホフマンのこの物語ではなくて、同じ題名のチャイコフスキーのバレエ組曲のほう、という方の方が多いかもしれません。『眠れる森の美女』『白鳥の湖』に次ぐチャイコフスキーの3番目で、最後のバレエ。それ自体がクリスマスプレゼントのようなバレエとして知られています。

これはチャイコフスキーのバレエの原作ですが、ホフマン原作をかなり省略したデュマのフランス語訳から、マリウス・プティバが1892年に書き上げた台本にチャイコフスキーが作曲したのでした。ホフマン原作は1816年、80年近い年月のへだたりがあるうえに、デュマ、プティバの2人の手が入ったのでは原作ばなれもやむを得ません。

デュマの手が入ったために、ホフマン原作の不気味な雰囲気が消えてしまったのを残念がる人もいます。フランス的ブルジョア的に甘いお砂糖をまぶし過ぎたということでしょうか。この問題は「くるみ割り人形」のバレエ上演のたびに再燃するようで、バレエ評論家によると「くるみ割り人形」上演史では、少女クララを中心にした「かわいい」演出と、ドロッセルマイヤーを中心にした「不気味な」演出の2つの流れがあるということです。


yomodalite註 : 小倉訳の『くるみ割り人形』では、主人公はマリーで、マリーのお人形がクララ(ホフマン版の人形の名前はクレールヒェン“愛称クララ”)バレエ上演では、クララとくるみ割り人形(→あとから王子)が主役のヴァージョンの他に、熊川哲也のKバレエカンパニーなど、マリー姫が登場するヴァージョンでは、原作のマリーとクララが逆になっているものもあるような。。。

☆[動画]3分でわかる!くるみ割り人形(牧阿佐美バレエ団)

そういえば、チャイコフスキーのバレエは、現にこどもである、こどもに見せるより、昔こどもだったことのある大人に見せるように構成されているように思えないこともありません。お行儀が良くて、エレガントです。ではホフマンの方はどうでしょう。そんなにお行儀が良くはありません。

こどもたちはマリーもフリッツもやんちゃそのもの。くるみ割り人形も、一皮むけば白馬の騎士といった単純なでくの坊ではありません。みにくさも、人の良さも、そのくるみ割り人形の伯父さん、ドロッセルマイヤーおじさんにしたって、素敵なクリスマス・プレゼントを贈ってくれる、こっけいで気のいいおじさんというだけでなく、何だか向こう側の世界の回し者めいた、うさん臭い不気味な感じがしませんか。(引用終了)


チャイコフスキーが、ホフマン版を読んでいたかどうかは、微妙ですが、バレエ版のお菓子の国のイメージからは、まったく想像していなかったような物語で、種村氏が言われるように、ホフマン版には不気味な味わいがあり、文庫本で5ミリ厚ぐらいの話なんですが、深みのある濃厚な描写力で、こども向けとは言えない物語が展開されています。

バレエ版では、人形が「くるみ割り人形」という、お父さんのツマミのための道具?のようなものが、少女のおもちゃとして、あまりイメージ出来なかったこともそうですし、なぜ王子が人形に変身したのかについても、納得のいくストーリーではなかったような気がするのですが、

ホフマンの原作では、「くるみ割り人形」の大きく口が避けている(?)顔を、元々カワイイ顔とは考えておらず、「王国」には、決して甘くない人間模様があり、それらから真実を見抜き、利発で、勝ち気、信念を貫き、くるみ割り人形を助けることになる、主人公のマリーは、まるで、幼い頃のパリスちゃんを彷彿するようなおてんば少女で、不気味な味わいはあるものの、このお話は、こどもの「真実を見る眼を養う」ことに繋がるのかも。。。

(引用開始)

こっけいで不気味、気が良くて残酷、美しくて醜悪、エレガントでうさん臭い。そのどちらかではなくて、どちらでもあるのがホフマンの作中人物のようです。「かわいい」か「不気味」か、どちらかに局限されるわけではなく ー むろんバレエ演出はそれでいいのですが ー 善と悪、美と醜がまだ分かれていなくて、なにもかもがまるごとそのままにある、子供の世界、それも腕白小僧やおちゃっぴいの女の子の世界が、ホフマンの「くるみ割り人形」の世界だといえばよろしいでしょうか。(中略)

「くるみ割り人形」のマリーも、ねずみの大群にお菓子やお人形をみんな食べられてなくしてしまってから、くるみ割り人形のお菓子の王国へ招待されたのでしたね。


見た目においしそうなもの、きらびやかなものを、まずすべて失ってしまうことが、この世にありうべくもない夢の世界に招かれる条件なのですね。(引用終了)


ホフマンのことは、同じ文庫に納められた『見知らぬ子ども』『大晦日の夜の冒険』という3編の短編を読んだだけなのに、ウィキペディアの

ホフマンの評価はむしろドイツ国外で高まり、1828年にフランスに初めて翻訳されて以降バルザック、ユゴー、ゴーティエ、ジョルジュ・サンド、ミュッセ、ヴィリエ・ド・リラダン、デュマ、ネルヴァル、ボードレール、モーパッサンなど、中でも特に小ロマン派と呼ばれる作家達に大きな影響を及ぼし、

ロシアではプーシキン、ドストエフスキーなどがホフマンの物語を愛好し、その影響はエドガー・アラン・ポーにも及んでいる。ドイツではリヒャルト・ヴァーグナーがホフマンから霊感を得ており、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『タンホイザー』は『ゼラピオン同人集』のなかのパリを舞台にした小説群に多くを負っているほか、

『さまよえるオランダ人』もホフマン作品の暗鬱で神秘的な人物像から影響を受けている。またジークムント・フロイトはホフマンの『砂男』を題材にして「不気味」という感情の源泉を分析した『不気味なもの』という論文を執筆している。


という文章に、大いに「納得」してしまいました。

また、今まで「ロマン派」とか「ロマン主義」とか、何度か説明されても、今イチ、ピンと来なくて、よくわからなかったのですが、MJが創りたかった映画のことを、色々考えているうちに、なんだかすごく気になってきて.....だって、ハリウッドは、ストーリー、音楽、ダンスも含めて、現代のロマン派がもっとも結集した場所ですし、、

MJが「インストュルメント・アルバム」を計画していたときに、好きな音楽として挙げられていた作曲家たち(2人のバーンスタインとか...)も、まさに、その源流の人々だったり、、MJが「くるみ割り人形」がお気に入りの理由は、チャイコフスキーの「リズム」にあるのかもしれませんが、

ホフマンの世界と、その継承者たちの精神には、MJが「狼男」にこだわった理由や、おとぎ話の意味が詰まっているように思えました。

そんなわけで、古い本だけでなく、古い映画も観なくちゃという気持ちに、ますますなってきてます。

☆一番上の写真には「新刊」てあるけど、全然新しくないです!
◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(アマゾン)
◎『くるみ割り人形とねずみの王様』(本が好き!)

◎『くるみ割り人形』アレクサンドル・デュマ、小倉重夫(訳)は、アマゾンでは現在取扱いなし。私は図書館を利用しました。

《下記は、ホフマンの生年を大雑把に把握するためのメモ》

◎ゲーテ(1749年8月28日 - 1832年3月22日)
◎モーツァルト(1756年1月27日 - 1791年12月5日)
◎ベートヴェン(1770年12月16日ごろ - 1827年3月26日)
◎ノヴァーリス(1772年5月2日 - 1801年3月25日)

◎E・T・A・ホフマン(1776年1月24日 - 1822年6月25日)

◎ユゴー(1802年2月26日 - 1885年5月22日)
◎エドガー・アラン・ポー(1809年1月19日 - 1849年10月7日)
◎ワーグナー(1813年5月22日 - 1883年2月13日)
◎ドストエフスキー(1821年11月11日 - 1881年2月9日)
◎ボードレール(1821年4月9日 - 1867年8月31日)
◎ルイス・キャロル(1832年1月27日 - 1898年1月14日)
◎チャイコフスキー(1840年5月7日 - 1893年11月6日)
◎ニーチェ(1844年10月15日 - 1900年8月25日)
◎オスカー・ワイルド(1854年10月16日 - 1900年11月30日)
◎T・S・エリオット(1888年9月26日 - 1965年1月4日)


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by yomodalite | 2011-12-27 10:41 | 文学 | Trackback | Comments(6)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

ジョゼフ コンラッド/光文社



藤永氏の『闇の奥』は、以前に読んだ中野訳に比べると、とても読みやすく解説もわかりやすかったのですが、そこから更に、同氏の 「『闇の奥』の奥―コンラッドー植民地主義ーアフリカの重荷」を読んだことで、氏の解読に惹き込まれすぎたのでは?と思う点もあり、また、わたしにとって『闇の奥』は、映画『地獄の黙示録』の原作という意識が強過ぎるので、

『闇の奥』に関して、もう一度頭を冷やす意味でも、他の翻訳本にも興味がわいて来て、一番新しい訳書である、黒原敏行訳の『闇の奥』にも目を通してみました。

下記は、解説(武田ちあき・埼玉大準教授)より、要約引用。

英語文学の古典とされていても、なんだか難しそうと一般読者はひいてしまいがちだった『闇の奥』に、原文の緩急自在な語りの生気と勢いをのせた新訳が誕生した。落語そっくりとよくいわれるディケンズのノリのいい語りに、幼少から親しんでいたコンラッド(語り手であるマーロウは、その名からしてもディケンズを意識している)は、

その重厚ながら軽快な、自分で自分にボケやツッコミを入れたり、聴き手に話しをふったりしながら、ぐいぐい読者を引込む芸達者な語り口を、本書は日本語でたっぷりと読ませてくれる。

「人類の文明の歴史への深遠なる洞察」「帝国主義による植民地経営の残虐非道極まる実態への先鋭な告発」「人間性の深奥に潜む悪・道徳的腐敗の発見」ー

この小説はいままでずっと、こうした重量級のフレーズで評されて来た。しかし、その中心に描かれた苛烈なアフリカの現実は「何でも見てやろう」と勢い込み「若さとバカさの挑戦」に浮き立つ青二才だったマーロウ(著者コンラッドが投影されている)のうぶな目だからこそ、のけぞるばかりに圧倒的な闇の深さがいっそうの迫力で映るのだ。

コンラッド好きには、中野好夫、岩清水由美子、藤永茂のそれぞれ渾身の訳業と読みくらべるのも愉しい。だがなによりも、今の若い人、とりわけ社会の矛盾や将来の不安にへこみながらも、なんとか希望をみつけだし、自分らしい人生を歩んでいこうとする世代、いままさに冒険に出かけようとする現代の若きマーロウたちにこそ、本書をめくって欲しい。(引用終了)


ホントにもう「ノリのいい語りに、幼少から親しんでいた」とか「自分で自分にボケやツッコミを入れたり、」とか「若さとバカさの挑戦」とか、、、

マジですかーーー!これまでの2冊からは、そんな気配は、微塵も感じたことなかったんですけど...... (これだから、翻訳本はむつかしい。。武田氏の解説はここから先もとても興味深い内容なので、是非、本書でお読みくださいませ)

ただ、実際に読んでみた感じでは、残念ながら、そこまで言うほどの若々しい訳ではなくて、難しい漢字の量や、文語的な表現も、そんなに変わらないかなぁ。

下記は、訳者のあとがきから(省略引用)

コンラッドの『闇の奥』は、ただならぬ魔力で人を惹き寄せる小説だが、原文も翻訳も読みにくい、というのが世の共通理解だと思う。原文が読みにくいのなら、翻訳が読みにくくても仕方がない。いや、むしろ読みにくくなれればならない。そんなふうにもいえそうだ。しかし本当にこれはそんなに難解な小説なのだろうか。

これはごく少数の人間にだけわかってもらえればいい前衛的な実験小説として書かれたわけではないだろう。

密林の奥で進行する奇怪な事件を語る伝奇的な冒険小説であり、ぞくぞくしながらページを捲る手ももどかしく読んでもらおうとした物語のはずだ。途中で行き悩んで放り出してしまう難読書になるのはおかしいのではないか。(中略)

ということで、まず行ったのは、語学的解釈の不備をできるだけなくす努力だ。

たとえば、3つの既訳には、「クルツはドイツ語で、“短い”という意味だが、その名前は彼の人生のほかのすべてのことと同様に真実を語っていた」という論旨の訳文がある。これを私は、「真実を語っていなかった」と逆にした。

原文は、the name was as true as everything else in his life もちろん普通は「〜と同様に真実だった」でいいが、その直後に He looked at least seven feet long. (身長が少なくとも2メートル10センチあるように見えた)とある。つまり「短い」という名前は真実を語っていないのだ。こういう場合は否定的に訳さなければ論理が通らない。たとえば、a monkey as big as a mouse は「鼠と同じぐらい大きな猿」ではなく「鼠ぐらいの大きさしかない猿」なのである。

もうひとつ例をあげてみる。瀕死の黒人たちが大勢横たわっている暗い林の中で、河の早瀬の音が響いている。その音を、マーロウは、as though the tearing pace of the launched earth had suddenly become audible と表現している。それぞれの訳は次の通りである。

まるで動き出した大地の激しい足音が、にわかに聞こえだしたかのそうな(中野訳)

まるで動き出した地球の激烈な足音が、突然聞こえたかのようにね。(岩清水訳)

あたかも、猛烈な勢いで動き出した大地の足音が突然聞こえだしたかのような(藤永訳)

まるで地球がすさまじい速度で宇宙の中を飛ぶ音が、不意に聞こえ始めたかのようだった。(本書43P)

既訳はいずれも大地ないし地球の足音と解釈しているが、しかし大地や地球がどこを歩いて音を立てるのか、イメージが浮かばない。それにこの早瀬の音は、uninterrupted(途切れることのない)と形容されている。ザッーという連続音なのだ。足音なら、ズシン、ズシンという断続音だろう。

launched earth の launch は「投げる」「放つ」「発射する」という意味。つまり地球が投げ出され、あるいは発射されて、飛んでいるイメージだ。もちろん宇宙空間には空気がないので、公転する地球がザッーと音を立てるはずはないが、そういう音が突然聴こえだしたかのようだ、と言っているのだ。

突飛な解釈と思われるかもしれないが、じつはコンラッドは天体の運動のイメージをよく使う。『闇の奥』にも、「動いているとはわからないほどゆっくりと曲線を描いて降りてきた太陽が、ようやく空の低い所まで来て」とか.....もっと重要な例は『闇の奥』の姉妹編ともいうべき『ロードジム』(これもマーロウが語る物語だ)に見られる。(中略)

さて、個々の訳語でまっさきに注目されるのは、有名な「The horror!The horror!」というクルツの囁きかもしれないが、これはそれほど悩むこともなく「恐ろしい!恐ろしい!」というごく普通の選択肢をとった。藤永氏が訳註で説明しているとおり、日本語の「地獄」は幅広いニュアンスを持っているので勇み足になっているわけではないと思う。

それよりも、最後まで悩んだのは、何と言ってもwilderness(ウィルダネス)の訳語だ。結論からいうと、本書では基本的に「魔境」という古めかしくもおどろおどろしい訳語をあてることにし、その一部は、原語は wilderness の一語であるけれども、「魔境ともいうべき原始の自然」とか「緑の魔境」という説明つきの言葉にした。

しかし、どういう訳語をあてるにせよ、若干の解説が必要だろう。wilderness とは人間の手が入っていない自然の土地を指し、英和辞典には「荒野」「荒れ野」「荒地」「未開の地」「無人の地」「原始の自然」などの訳語が載っている。ただ『闇の奥』は植物が氾濫する密林が主体なので「荒野」「荒れ野」「荒地」は合わない。

一方、「未開の地」「無人の地」「原始の自然」はクルツを狂わせ、マーロウに深い恐怖を覚えさせる魔性に欠ける。人が住まない所ということでは「人外境」という言葉もあり、これと「魔境」を合わせた「人外魔境」という言葉もある。後者は小栗虫太郎の伝奇冒険小説「人外魔境シリーズ」の第1作がコンゴを舞台にしていることから捨てがたいのだが、語感があまりにも伝奇小説的すぎるので採らなかった。

ついでにいうと、漱石の『草枕』にいう「人でなしの国」は『闇の奥』の wilderness を実感するのに多少役立つかもしれない。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう(夏目漱石『草枕』)

どういう国なのかよくわからないが、とにかく人間的な価値尺度が通用しないのだろう。魑魅魍魎が棲んでいそうな恐ろしげなイメージがある。マーロウは「ただの人が作った人の世が住みにくい」と感じる漂泊の冒険家だが、その彼にも「人でなしの国は人の世よりもなお住みにく」いと骨身に染みたというのが『闇の奥』の話だといえなくもない。

もう1つ、聖書で wilderness といえば、パブテスマのヨハネが人々に悔い改めよと呼ばわる「荒野」(あらの)であり、人の世に汚されていない場所というイメージも持っている「原始の自然」と捉えた場所の wilderness にも無垢のイメージがあり、憧憬の対象にもなるわけだ。(中略)

14歳で日本中を震撼させたあの事件を起こした少年は、「俺は真っすぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」と作文に書いた。あれはダンテの『神曲・地獄篇』から取ったものだが、少年の「暗い森」は『闇の奥』の密林とも地続きだったかもしれない。『神曲』の英訳の中には「暗い森」を dark wilderness と訳しているものもあるのだ。(中略)

この普遍性から、ウィリアム・ゴールディング『蠅の王』、コッポラ監督の『地獄の黙示録』、ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ/神の怒り』、村上春樹『羊をめぐる冒険』に『闇の奥』の影響があることはつとに指摘されているが、最新作の『IQ84』にもクルツとの対面に似た場面が出てきた。伊藤計劃の『虐殺器官』は『地獄の黙示録』経由のSF版『闇の奥』である。(中略)

コンゴでの植民地支配という時代背景に押し込めれば、クルツはすでに、幽霊の正体見たり枯れすすきだろう。しかし『闇の奥』が意図的に曖昧化し普遍化した闇に目を凝らすなら、21世紀の世界でも、クルツの幽霊はまだまだ色々な所にに現われるに違いない。(引用終了)


以前に挫折経験のある『闇の奥』を、もう一度読んでみようと思ったのは、マーロン・ブランドが『地獄の黙示録』のカーツ役を、どのように創造したかに興味があったことが大きく、映画でのカーツ大佐のシーンが、原作にはない部分が大半ということを知り、実際の原作を確認したかったからというのが、最大の理由でした。

この理由は『闇の奥』を小説として味わうことにおいて、不純な動機だったかもしれないのですが、何かしら、強い思いがなければ、この作品を最後まで読んで味わうのは困難なことも確かで、2冊の翻訳本を読んで、あらためて思うのは、やっぱり、この作品は「とてももやもやとした作品」だということです。

黒原氏が、藤永本の小説終了後の解釈にある、帝国主義や植民地支配への批判から、『闇の奥』のコンラッドの植民地支配の描き方をも批判するのはどうかということも一理はあるのですが、この作品に対して「すでに正体見たり」とするのも、やはり「あとがき」の中でのことで、

本文中は、どちらも「もやもやとしている」ことには変わりはなく、黒原氏が言われるように「密林の奥で進行する奇怪な事件を語る伝奇的な冒険小説」として読むことにもストレスを感じる人は多そう。

文庫のお手軽さは魅力的なものの、手軽に読み終わったところで「もやもやした感じが一向に解決しない」ことを考えれば、藤永訳の豊富な注釈とともに、険しい密林を分け入るように、読みすすんでいく方が、読み終わった後の充実感が感じられる可能性が高く、1冊だけ読むとしたら、冒頭に解説があり、また読了後の「もやもや」に関して「アフターフォロー」がある、藤永本がもっとも満足度が高いと思われますが、

いずれにしても、1回読んだから...という作品ではないので、両方読むのがベターだと思いました。

◎[参考サイト]うただひかるまだがすかる(4人の訳の比較があります)

☆こちらのレヴューは、3者の訳本すべてに共通なのでご注意ください。
◎『闇の奥』黒原敏行訳(アマゾン)


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by yomodalite | 2011-12-17 23:17 | 文学 | Trackback | Comments(0)

『闇の奥』の奥/藤永茂

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☆[1]のつづき

下記は、本書の冒頭「『地獄の黙示録』のエンディングをめぐって」より省略引用。

映画『地獄の黙示録』はベトナム戦争の、小説『闇の奥』は白人のアフリカ侵略の核心に迫った優れた芸術作品とみなされている。奇才オーソン・ウェルズは『闇の奥』をラジオドラマ化し、その後映画化しようとするものの断念して『市民ケーン』を制作。小説のクルツは丸禿げだが、ウェルズがクルツに扮した写真では髪がある。ウェルズはヒトラーをクルツに重ねて考えていた。

それから、40年後、コッポラは『闇の奥』を翻案した『地獄の黙示録』を撮影し、カーツを演じたブランドは丸禿げの男として現われる。この翻案されたクルツは映画の終わりの30分ほどの間に出てくるのだが、このエンディング、そしてブランドの演技が多数の評論家から「むしろない方がよかった」などと、散々にこき下ろされた。『ニューヨーク・タイムス』の映画評がその代表例である。

ほとんどすべての批評家が認める、この映画の最高の見せ場は、ワグナーの「ワルキューレ」の音楽を空から大音響で鳴らしながら(映画の背景音楽ではない)ベトナムの村落に襲いかかる米軍ヘリコプターの大群と、その指揮をとるキルゴア中佐の描写だ。


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『ニューヨーク・タイムズ』の映画評論家キャビーはこのキルゴア中佐をベタ褒めにし「息をのむような迫力と魅力でロバート・デュバルが演じ切ったキルゴアは、この映画の中のカーツの馬鹿臭い仰々しさの中に全く欠けている優れた資質のほとんどを備えている。カーツの方と言えば、結局のところ、彼の行動もセリフもこの映画の他の部分とはおよそ何の関係も持っていない。

米国のベトナム戦争介入を批判した著書『ベスト&ブライテスト』で有名なハルバームスタムも『地獄の黙示録』をベトナム戦争についてのベスト映画と呼んでいるが、エンディングについては「ブランドが出てくる終わりのところのたわ言はない方がいい」などと手厳しい。(yomodaliteのつぶやき:NTってどんだけバカなの?)

この映画の解説として日本でもっともポピュラーなのは立花隆『解読「地獄の黙示録」』だろうが、そのページ数の大部分が映画のエンディングを語ることに費やされているのはいささか異常である。(yomodaliteのつぶやき:立花氏が参考にしているのは、主に海外の雑誌と夫人の本だけで、国内の英語弱者のマスコミと読者に「上から目線が出来れば」それでOKだからw。

追記:立花氏の解釈については、私のマイケル・ジャクソンのショートフィルム解釈の前段「HIStoryと黙示録」の④〜⑧の中でも触れました。


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Lieutenant Colonel “Bill Kilgore” Robert Duvall



エンディングに悩みつづけたコッポラは、それから、23年もたった2001年に新たに編集した『Apocalypse Now Redux』(邦題「特別完全版」)を発表する。しかしエンディングの大きな変更はなく、この完全版の公開後もコッポラは満足できずローリング・ストーンズ誌のインタヴューで「あれは嘘のエンディングだ。僕の中には本当の結末がある」と奇妙な発言をしている。

果てしなく続くエンディングの腰の定まらなさは、一体何に由来し、何を意味するのか?アメリカの著名な文学評論家ハロルド・ブルームは、それを、コンラッドの『闇の奥』の意図的な曖昧性に求めている。

しかし、クルツにまつわる曖昧さ、晦渋さは読者向けのものであり、その創造者コンラッドの内心ではクルツの担う意味が明確にされていたとは、私は考えない。言い換えれば、多くの論者がヨーロッパの帝国主義的アフリカ侵略の核心を摘出する文学作品とみなす『闇の奥』には、本質的な曖昧さ、したがって、欠陥があると私は考えるのである。

そして、この根本的な欠陥がそのまま『地獄の黙示録』に移植されざるを得なかったことが、コッポラの終わることのない懊悩苦難の源泉であり、この映画が遂にベトナム戦争の本質の剔出に成功しなかった理由でもあると私は考える。


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映画『地獄の黙示録』の最初の脚本は、ジョン・ミリアスによって書かれているが、映画の完全版脚本とのもっとも大きな違いは、自分を殺しにきたウィラードを前にして、静かに死を覚悟し、カーツが訥々と語る告白の有無である。エレノア夫人その他の証言からも、コッポラは映画のエンディングをミリアス脚本よりも『闇の奥』に近くしたいと考えていたことが知られている。

表面的には、ミリアス脚本の方が完全版よりもはるかに小説に忠実で、コンラッドの原文そのものの科白がたくさんある。ウィラードにあたるマーロウが、クルツの死後、故国に戻ってクルツの婚約者に面会する場面が、小説の終わりにあるのだが、ミリアス脚本もウィラードがアメリカに帰って、カーツの妻に会う場面で終わっている。これは完全版のエンディングには全く欠けている。

では、コッポラが完全版の方をコンラッドの原作により近いものと考えたのはなぜだろうか? その答えはカーツ大佐の最期の告白に伏せられているとしか考えようがない。その重い告白の全文を読んでみよう。

俺はずっと恐怖を見てきた......お前も見てきた恐怖だ。だが、お前は俺を人殺しと呼ぶ権利はない。俺を殺す権利はある。お前にはそれをやる権利はあるが......しかし、この俺を裁く権利はない。恐怖が何を意味するかを知らない連中に、何が必要不可欠かを言葉で描いてみせるなんて出来やしない。恐怖。恐怖には顔がある......そして、お前は恐怖を友にしなければならぬ。恐怖と精神的な戦慄はお前の友なのだ。そうならなければ、恐るべき敵になる。恐怖と心を襲う戦慄は真に恐るべき敵なのだ。

特殊部隊と行動を共にしていた時のことだ......もう遠いはるかな昔のことのように思える......我々はある難民収容所に入って子供たちに予防接種をした。子供たちにポリオの予防接種をした後、そこから引き揚げたのだが、老人がひとり、泣きながら走って追っかけてきた。だまって見てはおれなかったのだ。すぐに取って返してみると、ベトコンがやって来て、予防接種をした腕を1つ残さず切り落としてしまっていたのだ。

山積みになってそこにあった......子供たちの小さな腕が山積みになっていたのだ。忘れもしない。俺は.....俺は.....俺は泣いた.....まるでどこかの老婆みたいに泣いた。俺の歯をむしり取って捨ててしまいたかった。何をしたいのか、自分でも分からなかった。ただ、これは心に刻んでおかなければ、絶対に忘れたくない、決して忘れてはならぬ......と思ったのだ。

次の瞬間、俺は悟った.....撃たれたように.....そう、ダイアモンドで......一発のダイアモンドの弾で額を撃ち抜かれたように.....そして思ったのだ。何とまあ、あの大した根性。あの精神。あの行為をやってのける意志。完璧で、真正で、完全で、透明で、純粋な意志。そして、ベトコンは我々より強いのだということを、俺は理解した。なぜなら、あれをやったのはモンスターではないと彼らは言い切ることができたからだ。

彼らはれっきとした人間たち......鍛え抜かれた精鋭であり、心底から戦う男たちだ。家族もあり、子供もあり、愛情にもあふれ、しかも、彼らは、あの強さ、あの残忍行為をやってのける......強さをもっていたのだ。もし、ああした男たちでできた十個師団が俺の指揮下にあったなら、ベトナムでの我々の困難は立ち所に片が付いてしまっただろう。

道義心があって......しかも同時に、無感情に、激情にも走らず、思慮もなく......そうだ、思慮分別なしに、原始的な殺戮本能を行使できる男たちが必要なのだ。なぜなら、思慮分別というやつが我々を打ち負かすことになるからだ。


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Colonel “Walter E. Kurtz” Marlon Brando


米軍最高幹部への昇進を約束されていたカーツは、その栄光のコースをかなぐり捨てて、密林の奥に分け入り、先住民に君臨する王となり、原始そのままの殺人鬼となった。その変貌の転機となった劇的事件を刺客ウィラードに語っているのである。しかし、コンラッドの『闇の奥』には、このカーツの告白に結びつけることが出来そうなクルツの発言は見当たらない。それでもなお、コッポラが完全版脚本の方がコンラッドの原作に近いと考えたとすれば、私たちはカーツの告白をさらに深く読み解く必要があるようだ。

西欧文学には、墜落(フォール)をテーマとする執拗な伝統がある。定冠詞をつけてザ・フォールとすれば、アダムとイブの物語、神の恩寵を失った人間の地獄落ちを意味する。エリオットの詩『虚ろな人々』もこの系譜に属する。人間と文明の本質的な空虚さと堕落というテーマの20世紀的寓話をコンラッドの『闇の奥』に読んだエリオットは、『闇の奥』の中の黒人ボーイの言葉「ミスター・クルツ ー 彼、死んだ」(Mistah Kurtz - he dead)を『虚ろな人々』の冒頭の題詞に選んだのである。だから、この2つの作品の内容は密接にからみ合っている。

『地獄の黙示録』のエンディングで、カーツ大佐は最後の告白の前に『虚ろな人々』の最初の二行までを読み上げる。

われらは虚ろな人間
われらは剥製の人間
互いにもたれかかり合って
頭には藁がつまっている。ああ!
われらの乾いた声
互いに囁き合うときのその声は
ひそやかで意味もない
枯れ草の中の風のように、あるいは
ワインの絶えたわれらの地下倉の中で
砕けたガラスを踏むネズミの足音のように
形のない形、色のない陰
麻痺した力、動きのないジェスチャー

ここで、一人称で語るエリオットを含めて、この詩を読む者が「われら」であり『地獄の黙示録』のカーツ大佐も「われら」の1人と考えるのが自然だろう。だから、立花隆氏も「独立王国のトップまで登り詰めたところで、発見できたのは自己の空虚さでしかないということになったのである。だから、We are the hollow men(「我らは空ろなり」)とつぶやきながら、自分の空しさを終わらせるために、自分を殺してくれる人間の出現を待つということになってしまったのだ」と結論する。

そうだとすると、カーツ大佐はコミカルな存在になる。虚ろな「われら」の1人と自覚して自己嫌悪に落ち入り、挙げ句の果てにウィラードに殺してもらうとは何とも冴えない結末ではないか。だが、別の解釈も可能のように思われる。問題は、カーツが口ずさんだ1、2行に続く次の6行にある。

真っすぐに前を見据えて
死の彼岸の王国へと渡って行った者たちが
たとえ、万一、われらを覚えていようとも
破滅した烈しい魂としてではなく
ただ単に、虚ろな人間
剥製の人間としてでしかない。


ここで、エリオットはクルツを「真っすぐに見据えて、死の彼岸の王国へと渡って行った者たち」の中に数え、虚ろな「われら」とはっきりと区別している。こうなると、1、2行まで口ずさんだところで、虚ろな言葉を並べ立てるカメラマンに本を投げつけるカーツ大佐は、人間の邪悪さと悲惨さを正面から見据えながら従容と死を迎える自分をクルツと同定していたのだと解釈できるかもしれない。

コンラッドのクルツを何らかの意味で英雄的と考えるか、考えないか ー これは『闇の奥』解釈の中核の問題である。『闇の奥』を下敷きにして『地獄の黙示録』の制作をきめた時、コッポラは同じ問題をそっくりそのまま抱え込んでしまった。カーツ大佐をある意味で悲劇的英雄として描くか、描かないか ー この決断がコッポラには最後まで下せずに終わってしまった。これが映像的には輝かしい成果を上げながら、思想的メッセージとしては『地獄の黙示録』が名作ならぬ一種の「迷作」に止まったと考えざるを得ない理由の1つである。

しかし、その失敗した根本的理由は別にあり、しかも、その理由もまた、コンラッドの『闇の奥』から必然的に移ってきたウィルスに『地獄の黙示録』が冒されたからだと考える。その症状はカーツ大佐の最後の告白の中に見ることができる。

(引用終了)


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ここから、藤永氏は『地獄の黙示録』の初期の脚本にはないカーツの告白が、どのような経緯で映画に組み込まれていったのか?という疑問を抱き、カーツが語った切り落とされた腕のエピソードの真偽に迫り、100年前のコンゴの蜜論で何があったのか?を綿密に探り、表題にある、コンラッド、植民地主義、アフリカの重荷に対して、これまで為されてきた論考から、さらに先鋭化した「闇の奥」のまさに奥を著されています。

それは、本書の核となる論考ですが、こちらにメモすることは控えます。

☆参考サイト『本と奇妙な煙』
◎『闇の奥』の奥[1]
◎『闇の奥』の奥[2]

わたしが引用した箇所は、冒頭部分の極一部で、本書は「腕切り落とし事件」の真相を追った部分や、レオポルド2世の虐殺・収奪の歴史を軸に、西欧中心の歴史の横暴の告発を主内容としたものなんですが、氏が物理化学者のためか、凡庸なジャーナリストが社会告発をするような手触りとは異なり、『闇の奥』の文学論としても、また、この作品が優れた文学作品として、長く研究対象とされてきた理由すらも見えてくる、大変な力作だと思いました。

藤永氏は、カーツ大佐を演じたマーロン・ブランド自身には触れていませんが、立花氏の本を読んだときのように、気分が悪くなることがないどころか、ここまでの藤永氏の真摯な作品追求に胸が熱くなり、

扱われているテーマのシリアスさに対して相応しくないことは、よぉく分かっているのですが、読んでいて清々しい興奮を味わってしまうのは、きっと本物の「知の巨人」に出会えたからだと思いますっ!

藤永氏は現在85歳で、紹介した著書2冊の執筆時も80歳....他にも、『ロバート・オッペンハイマー』の本も書かれてて、まだ読んでないのに...なぜか...すでに涙が...

☆追記:読了しました!『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』


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ちなみに、藤永氏が疑問とされている「カーツ大佐の科白はどこから来たのか?」ですが

ブランドの自伝にはこう書かれています。

1976年の夏、私は『地獄の黙示録』に出演するためにフィリピンに行った。ところが到着してみると、監督のコッポラは鬱になったかと思うと、次にはパニックに陥るという有様で、撮影は遅れ、物語の結末もきまっていなかった。脚本の出来も話にならず、全編ドラマ性に欠けていた。

そこで「このまま、脚本を使うのもいいかもしれないが、変えないと我々が損するんじゃないかな。『闇の奥』では、コンラッドはクルツという男をイメージばかりが肥大した、ほとんど神話的な人物として書いている。映画でもここを押さえないといけないよ。カーツ大佐は孤高で謎に満ちていなければだめなんだ。その姿が見えるのは、ぎりぎりまで私たちの想像の中だけにしておくのさ」

オリジナルの脚本のカーツ像にしがみついていたら、彼にまつわる不吉な謎に焦点をしぼることができないと私は主張した。私の申し出にコッポラは賛成し、私はハウスポートにこもって脚本をまるまる書き直し、カーツ大佐の風貌について思いをめぐらせた。コンラッドはクルツの特徴をこう記している。

「頭は見事に禿げている。未開のジャングルが磨きあげたのだ。見よ!あれは玉、象牙の玉である......」

私はコッポラに告げずに、頭をツルツルに剃りあげ、カメラマンと照明部にエキセントリックな照明を当ててもらい、心ここにあらずといった口調で科白をしゃべり、そうして撮影したテストフィルムをコッポラに見せて、観客の耳に初めてとどくカーツの声は、暗闇から聞こえてくるべきだと言った......

プロットを再構成するだけでなく、カーツの科白も書いた。その中の死を目前にしたモノローグは、45分間という長セリフで、自分を見失いそうになるまでのめり込んだ役といえば、このカーツ大佐ぐらいである。自分を極力コントロールしなければならなかった独白シーンは、私が演じたものでは最高の部類に入ると自負している。

即席で創りあげた演技だった......コッポラは2回撮影したが ー 45分間のアドリブ演技を2回である ー そのフィルムはほとんど使わなかった。インパクトがあると私は思ったのだけれど、映画全体のなかでは浮いてしまったのかもしれない。モノローグのフィルムは部分的にしか見ていないので、はっきりしたことは言えないが。


(上記は、P432〜P446までの文章を省略して引用。わたしは、個人的にも莫大な資金を投入し、映画製作の全責任を負わなくてはいけない監督コッポラに気遣いをしつつも、エンディングへの不満を述べた文章だと思いました)


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私は、本書を読んでいるうちに(冒頭部分だけでなく)、なぜ、ニューヨーク・タイムスや、ローリング・ストーンズ誌に映画評を書いているような人に、ブランドの演技がこれほどまでに貶されたのか?という理由とか、夫人の本に記された、コッポラの映画製作の実務的苦悩とはまた別の苦悩があったことなども透けて見えてきました。

yomodalite註:これらの感想は、個人差があり...というか、むしろ、そのような効果は、私だけに見られるおそれがありますので、ご注意ください(笑)。

また、立花氏の『解読「地獄の黙示録」』では、通常の映画製作とは比較にならないほど監督が苦悩して制作したという事実から、その苦労を「上からねぎらうような態度」で傑作としているものの、

「世界文学に匹敵するレベルで作られた映画」という意味において、そこに、世界文学が引用されていること以外、本質的なことは何もわかっていないじゃん!とか、

「闇の奥」が語られて来た文脈を多少はわかっていたなら、ブランドの「カーツ」への批判が、その議論と関係ないわけないってことに「ピン」と来て!とか、

映画『地獄の黙示録』の解読と言っても、実際の映画の解読ではなく、原作本の訳者と、字幕職人(戸田奈津子氏)への、自分の方が英語デキル自慢ばっかりじゃん!とか、

アメリカ人が、ベトナムや黒人を見る目に「日本人」をまったく感じないって(呆)などと思うのも、きっとわたしだけだと思いますが(笑)、

『地獄の黙示録』のウィキペディア「撮影中のトラブル」に記述されているような、俳優たちのエピソードは、俳優たちに責任を負わせようとする、予算に関して本来責任を負うべき人のリークと、無責任なマスコミの合わせ技で、無声映画時代に溯るほどの伝統的手法であり、そういったことに未だに無自覚で、うかつに信じてしまうのも、どんなものかと.....

☆☆☆☆☆(満点)

yomodaliteのつぶやき:今頃になって気づいたんだけど、、私が『闇の奥』を理解しようとする気持ちのほとんどは、おバカメディアやブロガーによる、ブランドへの名誉毀損が許せないからなんだなぁ。。。

◎『闇の奥』の奥―コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷/藤永茂(著)
◎[参考サイト]さてはてメモ帳 Imagine & Think!

☆「私の闇の奥」(藤永氏のサイト)にコメントされた、
高名な理論物理学者、川崎恭治氏と藤永氏のやりとり

◎白人にも黒人にも公平にする?(1)
◎白人にも黒人にも公平にする?(2)
◎白人にも黒人にも公平にする?(3)
◎白人にも黒人にも公平にする?(4)
◎白人にも黒人にも公平にする?(5)

☆闇の奥/ジョセフ・コンラッド[3](翻訳:黒原敏行)につづく


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by yomodalite | 2011-12-09 18:06 | 文学 | Trackback | Comments(2)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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