カテゴリ:文学( 167 )

太宰治の辞書/北村 薫

太宰治の辞書

北村 薫/新潮社



タイトルに惹かれて読み出したのだけど、「円紫さんと私」というこのシリーズ作に馴染んでいなかったせいか、最初はなかなか入り込めなかった。でも、太宰だけでなく、芥川龍之介や、三島由紀夫が登場して、地味な謎を追っていくところに、他人事とは思えないような共感を覚えて・・

編集者である「私」は、ピエール・ロチの『日本印象記』の鹿鳴館から、芥川の『舞踏会』、そこから芥川を「ロココ的」と呼んだ三島を迂回して、「ロココといったら」という太宰に行き着く。

太宰の『女生徒』創作の秘密を探っているときは、太宰の短編すべてを読み返したくなったけど、作中の「私」が、ピエール・ロチと言っても、今の人は知らないかもしれないが、昔は広く読まれていたという、ロチ(ロティ)のことはまったく知らなくて、芥川の『鹿鳴館』も読んでいなかった。

日本に憧れていたゴッホや、ラフカディオ・ハーンは、ロティの作品から強い影響を受けていたとか、またいつか読まないと・・が増えてしまった。

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by yomodalite | 2015-07-07 06:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)

日本語で読むということ

水村美苗/筑摩書房

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英語が「普遍語」という世紀の中での日本のあり方を問う『日本語が亡びるとき』を読み直したあと、読んでいなかった『日本語で読むということ』を読んだので、そこから、少しメモしておきます。

(省略して引用しています)

◎美しく生きる 
ー中勘助『銀の匙』

中勘助はこの一作だけで、目本の文学史に名を残しました。その『銀の匙』に「伯母さん」が出てきます。「あんまり人がよすぎるで」と借金を踏みたおした当人から嘲笑されるほど人のいい「伯母さん」は、ついに無一文となり、主人公の「私」の家の厄介ものとなって、病弱の「私」の子守をすることに生きがいを見いだしています。 
『銀の匙』が長く読みつがれてきたのは、ひとえにこの「伯母さん」の美しく生きる姿のせいだと言っても過言でぱないでしょう。「美しい」ことと「美しく生きる」ことの差ーーそれは、もっとも露骨にいえば、美しい女の人の写真と『銀の匙』の差です。この差が文学の基本にあることは誰の目にも明らかなことでしょう。

『銀の匙』の年のいった「伯母さん」がふつうの意味で美しい人だったとは考えられません。それでいてこの小説が出版されてから今日に至るまでの八十年間、彼女はまさに美しく生きた人として深く読者の心に生き残り続けてきたわけです。微妙なのは、文学の基本にあるという、この「美しい」ことと「美しく生きる」ことの差が、「表面的な美」と「内面的な美」という言葉には置き換えられないということです。
 
「内面的な美」という表現は、究極的には、ある人の生きざまが倫理的であることを意味するように思います。そして、倫理的であるということは、究極的には、その人の生きざまの立派さというものが万人にとって理解できるものであること、つまりその人の生きざまの価値に客観性があるということを意味するのではないでしょうか。ところが「私」の「伯母さん」の生きざまはそのようなものではありません。見方によっては、彼女は一人の意気地にの男の子を猫可愛がりするだけの無知蒙昧な老婆に過ぎないからです。

そんな老婆の姿が美しいのは、それを美しいと思う「私」という主人公の感銘に因るだけなのです。あるいは、その感銘を中勘助という一作家の文章を通じて共有できる私たちの感銘に因るだけなのです。

このように考えると、「美しい」と「美しく生きる」の差は「表面」と「内面」の差だとはいい切れません。それは二つの異なった価値の比喩、すなわち、万人にとって自明な価値と、自明ではない価値の比喩だといった方がよいでしょう。文学に即していえば、作家が書く必要のない価値と、作家が心をくだいて表さねばこの世に存在しないような、まことに捉えどころのない価値の比喩だといえるのかもしれません。
 
文学などというものはなんの役にも立たないものですが、端からみればどうでもいいような存在に光をあて、「美しく生きる」姿を人に知らしめることーーそれが、その小さな使命のひとつなのではないかと思っています。


◎たくさんの着物に彩られ綴る女性の半生
ー幸田文『きもの』

幸田文は女の作家である。そして彼女は着物について書いた。だが、女が着物を着ることと、女流作家が着物について書くことーーこの連動しているように思える二つのことがらは実は対立関係にある。その対立関係を示し、それゆえに幸田文が作家となる必然性があったことを暗示するのが、るつ子と着物のかかわりあいなのである。

そもそも、胴着の片袖を引き千切るところから始まるこの小説は、女が着物を着る話ではなく、女が自分の気に入らない着物を脱ぐ話なのである。事実るつ子は気に入らない着物を着せられると発疹してしまう。女学校へ上がったとたんに、るつ子だけ自分で着物を着るようにしつけられるのは、るつ子にとっての着物は、ふつうの女にとっての着物と同じ意味をもたないからなのである。
 
おばあさんはるつ子に言う。「よくおきき。お姉さん達は、いい恰好ならそれでいいんだけど、おまえさんはいい恰好より、いい気持が好きなんだよ」。このるつ子の性癖は、のちにおばあさんが、姉たちは結婚のなかに納まるだろうが、「るつ子は、下手をするとはみ出しそうな気がする」と心配をするのに通じる。
 
小説は、るつ子か結婚初夜に男に着物を脱がせられる場面で終わる。それはのちの不幸を予兆する。自分で着物を脱ぐ女として規定されているるつ子が、この男との結婚を脱ぎすてずにいられるはずはないからである。


◎日本の「発見」

「法隆寺も平等院も焼けてしまって一向に困らぬ。必要ならば、法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい。我が民族の光輝ある文化や伝統は、そのことによって決して滅びはしないのである」
 
第二次世界大戦中、坂口安吾は「日本文化私観』というエッセーでこう書いた。あれから半世紀たつ。異国で少女時代とに青春時代を送り、大人となってあこがれの母国に帰ってきた私を待っていかものは、まさに停車場だらけーーいや、駐車揚だらけの日本であった。法隆寺は残っていたが、多くの懐かしい〈形〉が消えていだ。〈形〉のあるものが滅び、なおかつ日本の「文化や伝統」が「決して滅びはしない」ということなど、はたしてありうるのだろうか。
 
日本はたんに近代化したのではなく西洋化したのである。タクシーが駕籠にとってかわるのは近代化だが、洋服が着物にとってかわるのが近代化かどうかは疑わしい。ましてピアノが邦楽にとってかわるのを近代化と呼ぶことはでぎない。タクシーを選ばざるをえなかった日本は、迷わずピアノを選んだ。日本はたんに近代化しかよりもいさぎよく日本的なものを捨てていったのである。その過程に拍車をかけだのが、「壮大が目本の伝統を見失」っても「日本を見失うはずはない」という、ひどく楽天的な民族主義である。そしてそれは、文化とはひとつのかけがえのない〈形〉である、という認識の欠落とつながっている。しかし〈形〉なくして日本の「民族の栄輝ある文化や伝統」などあるはずもないのである。たとえば安吾は桂離宮を「発見」したブルーノ・タウトにかんして言う。「タウトは日本を発見しなければならなかったが、我々は目本を発見するまでもなく、現に目本人なのだ」と。
 
だが日本人は日本を「発見」せずにすまされるのだろうか。ヨーロッパ人自身、近代との葛藤の中に自分の伝統文化を「発見」したのである。「発見」というのは、今、ここにかけがえのない〈形〉があるのを認識することにほかならない。その認識がなければヴェニスのサン・マルコ広場だって駐車場になっているであろう。
 
旧いものが消え、新しいものが生まれ、時のながれに文化が変容していくのはあたりまえである。だがあまりに多くのかけがえのない〈形〉を、ここまで平気で壊してきた日本が私にはひたすら悲しい。ただその日本にも、日本を「発見」し、日本の〈形〉をひきつぐことにお金にもならないのに一生をかけている人たちがいる。日本に永住の地を求めてもどってきたこの私を慰めてくれるのは、ほかならぬ、そのような人たちの存在である。


◎『絹明暗』のあとに

ユダヤ教が世界宗教のキリスト教となる契機は、パリサイ人批判にあった。パリサイ人とは一般的に偽善者と呼ばれるものである。だが彼らは実は「文士」なのである。安息日に何をすべきで何をすべぎでないかを論じ合う彼らは、外部の人間には意味をなさないルール内でのゲームにうち興じる人たちにほかならない。キリストは「文士」たちのルールの恣意性を指摘することによって、ユダヤ人以外の「人間」にユダヤ教の門を開いた。ところで、キリストにこのような「文士」批判を可能にさせたのは神ではない。それは旧約聖書に書かれている「言葉」なのである。パリサイ人は始終イエスに難問をふっかけて来るが、イエスの答は決まっている。かれは聖書の「言葉」を引用して、「あなたがたはこう書かれているのを続んだことがないのか」と言うのである。すなわち、キリストの世界性とは「読むこと」の結果なのだ。それは「今」と「ここ」から離れた所にある「言葉」との交流から生まれたものである。
 
鴫外の『青年』には漱石をモデルにしたふせきという人物が出てくるが、鴎外は主人公の青年の口を借りてその人物をこう評している。「ふせきという人は流行に遅れたやうではあるが、とにかく小説家中で一番学問があるさうだ」。この鴎外の文章では「流行遅れ」であることと「学問がある」ことが漫然と並列されているが、実はこのふたつの事実は同じことを指し示すものである。『青年』が書かれた当時(明治四十三年ー四十四年)日本で流行していた「自然主義」に漱石が無関係にやってきたことをわれわれは知っている。

そうして当時の人間の目に「流行遅れ」に見えた漱石が、実際は流行に無関係に、すなわち、「人間」に向かって書くことができたのは「学問」があったからなのである。「学問」とは「今」と「ここ」から離れた「言葉」を読むことである。のみならず、それが書かれた時からすでに「今」と「ここ」から離れていた「言葉」を読むことである。よくいわれる漱石の漢文学及び英文学の素養とは、そういう「言葉」との交流にほかならない。人は真空の中で孤高を持する訳には行かない。「人間」に向かって書かれた過去のテクストを続むことによってのみ、「人間」に向かって書くことが可能になるのである。
 
『績明暗』は漱石を読むことを通じて「人間」に向かおうとするひとつの試みである。そしてそれはわたしにとって日本語との結びつきの必然性を今一度選びなおそうという試みでもある。


◎作家を知るということ
 
ある作家をほんとうに知る。それはその作家を個人的に知ることではない。その作家が書いた作品を知るということである。そもそも作家というのは、自分を個人的には知らない読者に向けて書くのであり、その作品はそのような読者のためにのみ存在する。では、作家を個人的に知るということは、どんな意味をもつのだろうか? それはその作家をよりよく知ることとつながるのだろうか? あるいは、よりよく知ることとは何の関係もないのだろうか?
 
この問いに答えてくれるのが、ブルーストの『失われた時を求めて』に出てくる一つの逸話である。少年の主人公はある夏、海辺の避暑地でヴィルパリジス侯爵夫人という、祖母の友である老婦人と出会う。夫人は、娘時代に、今はすでに伝説の一部となった作家をたくさん個人的に知っていた。夫人の父親が始終晩餐会を開き、さまざまな作家を家に招いていたからである。主人公が驚くのは、そのような作家に対する侯爵夫人の評価である。夫人は何よりもまず晩餐会の客として彼らを評価する。その結果、夫人の作家の評価は、まったく的外れなものとなってしまっているのである。スタンダールは「ひどい俗人」として片づけられ、もう今では誰も読まないような作家が高く評価される。
 
しかも夫人は主人公に向かって断言する。「私にはその人達のことを話す資格があると思うのですよ、だってその人達はみんな私の父の家にいらしたのですから。……その人達に親しく接し、その人達の真価をより正確に判断できたものの言葉を信じなくてはなりませんわ。」
 
この逸話が指し示すのは、作家を個人的に知るという事実に内在するイロニーにほかならない。作家を個人的に知るというのは、その作家をほんとうに知ることと無関係だというだけではない。無関係だというだけでなく、大いなる妨げとなるものなのである。すなわち、ある作家の最高の読者でありたければ、その作家を個人的に知るべきではない。
 
さて、私は加藤周一という作家の最低の読者である。加藤さんは気がついたとき私の人生に登場していた….

『加藤周一コレクション2』のために書かれたこの素敵な文章の続きと、そのあとの “「個」の死と「種」の絶滅 ー 加藤周一を偲んで” は、ぜひ本書で。





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by yomodalite | 2015-05-24 06:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)

徘徊タクシー/坂口恭平

徘徊タクシー

坂口 恭平/新潮社



坂口恭平氏の初めての小説!


と言っても、ここに出て来る「僕」は、やっぱり総理(今でもそう呼びたい)のこととしか思えないし、こんな素敵なサービスを始めるのも・・・


認知症の親を介護されている方に朗報!21世紀の福祉の鍵は「介護」ではなく、新しい「知覚」です!


現実はひとつだけでなく、人それぞれに違うのです。認知症は病気ではなく、新しい世界の入り口なのかもしれません。徘徊という記憶による時空の旅をエスコートする「徘徊タクシー」。ぜひお試しください!


この世にボケ老人なんていない。彼らは記憶の地図をもとに歩いているだけなんだ。


この新たなサービスを提供する会社は、はたして上手く行ったのか。そしてお客はどこに行きたがり、運転手はそこに連れて行くことができたのか。。


ボケていない人も、この小説を読めば、人は「心の中の地図」を行けばいいのだとわかるかも。。


◎[Amazon]徘徊タクシー



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by yomodalite | 2014-09-21 08:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)
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連休中に、アイン・ランドの『水源』を日本で初めて翻訳された、藤森かよこ氏の講演会に行きました。

ランドの『水源』は1943年に出版され、聖書の次によく読まれた思想小説として、現代アメリカでもよく読まれている小説です。






日本でこの本を読んでみようと思うような人は、ネオコンとか、ハイエクとか、ティーパーティなどのワードから現代アメリカ政治について専門家ぶりたい。。という人が多いのだと思いますが、

翻訳者の藤森氏のランドへの愛は、
それとはまったく異なっていて、とても面白い講演でした。


5センチもの厚みを開くと、ニ段組みで文字がびっしり!という本ですし、暇な私でも、読むのにずいぶん時間がかかった本なので、「おすすめ」することはできませんが、

藤森氏は、アメリカ人は全員この本を「誤読」している。ハワード・ロークの生き方は労働自体に喜びを感じる日本人の方がわかる人が多いはず。と熱弁されていました。私もこの本を政治思想と結びつけるより、ブロードウェイ・ミュージカルや、ハリウッド映画の精神との共通性から読んだ方が面白いと思いますし、何より、ロマンティックな女性の生き方として、ランドを感じた方がいいのではないかと思います。

講演の資料の中には『水源』の中で、藤森氏が、特に好きな言葉が抜粋されていて、その中から、主人公ハワード・ロークが、恋人だったドミニクに言った言葉を少しだけ紹介します。

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(引用開始)

「君は、こんなこと聞きたくなかったと、思っている? でも、僕は君に聞いて欲しい。僕たちは一緒にいるとき、互いに何も言う必要がなかったよね。全然、必要なかった。でも、これから僕が言う言葉は、僕たちがもう一緒にいられなくなったときだからこそ必要な言葉なんだ。


ドミニク、僕は君を愛している。僕が存在しているのと同じぐらいに自己本位に僕は、君を愛している。僕の肺が呼吸するのと同じぐらいに自己本位に僕は君を愛している。僕は僕自身の必要から呼吸している。僕の身体に酸素を送るために、僕が生き延びるために、僕は呼吸している。

僕は、君に与えた。僕の犠牲ではなく、僕の憐れみではなく、僕の自我と僕のむき出しの欲望を君に与えた。これだけが、僕が望む君が僕を愛するやりかたなんだ。今、僕が君と結婚したら、僕は、君の存在すべてになってしまう。そうなったら、僕は君が欲しくなくなってしまうよ。そうなったら、君は君自身を必要としなくなってしまう。そうなると、君はもう僕を愛さなくなってしまうよ。

『私はあなたを愛している』と言うためには、人は、まず『私』の言い方を知らなければならない。君から、僕が君という一種の『降伏者』を得ても、何も獲得しないのと同じことだ。そんなもの空虚な残骸でしかない。もし、僕が君に、僕に降伏することを要求したら、僕は君を破滅させることになる。だから、僕は君を止めない。

僕は、君を君の夫のところに行かせる。今夜、僕はどうやって過ごせるのか、耐えられるのか、ほんとうは僕にもわからない。それほど今の僕は苦しい。でも、僕は君を行かせる。自分自身が選んだ戦闘から逃げない君のような人間、そういう君という人間全体が、僕は欲しい。僕と同じような、そんな君という人間が欲しい。戦闘というものには、少なくとも自分というものがあるよね」

(第二部 532より)


この言葉について、藤森氏のブログでの解説は、

CONTENTS → Ayn Rand Says(アイン・ランド語録)
→ 第27回 恋愛は人類にはまだ早い(12/21/2008)

にあります!


(写真は、最近撮った近所の薔薇。
アイン・ランドと藤森氏の印象から選びました。)




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by yomodalite | 2014-09-16 17:00 | 文学 | Trackback | Comments(0)

蚊がいる/穂村弘

蚊がいる (ダ・ヴィンチブックス)

穂村弘/KADOKAWA/メディアファクトリー


恋愛と結婚はちがうだなんて、10代の頃は嫌だったけど、今は、彼女がゴキブリを殺すところを見て、結婚しようと思ったなんていうエピソードに一番共感してしまう。人生のパートナーを選ぶにあたって、虫の殺し方は重要だ。


ダーリンも、私も、ゴキブリを発見すると、スゴく恐怖を感じる方なんだけど、その場では何もしないで、明日「コンバット」を買いに行こうと思うタイプ。そのうちどこかで死んでくれることを願って、反射的に、スリッパとか、新聞紙を丸めてとか、そういった行動は出来ない。


ただ、ダーリンは夏になると、毎日、真剣な顔で「蚊がいる」と言っては、すぐに両手でパチンとやって殺そうとする。家の中に侵入した蚊が絶対に許せないらしい。蚊取り線香を炊くのも大好きで、お気に入りの「天然除虫菊・金鳥の渦巻」を、Amazonで買って、100%天然成分とか、無香料、無着色という字を見ては、満足そうに、にんまりしている。


それで、私は、少しぐらいの血はあげればいいじゃん。蚊に刺されたってムヒがあるし、小さい虫だって殺すことないのに。っていつも言う。だけど、ダーリンが、蚊を殺すような人で良かったとも思ってる。蚊ぐらい殺してくれないと、結婚する意味がないような気がするのだ。


で、、


本書は、そんなダーリンと同い年の穂村弘氏の2013年のエッセイ。


ホムホムが結婚したときは、作品がつまらなくなってしまうのではと心配だったのだけど、このエッセイ集には、なんどか「奥さん」が登場して、いい味を出している。ホムホムは、相変わらず「ベッドで菓子パン」エピソードとか、妙に押しているんだけど、「生まれて、すみません」という感じの「生き方上手」な人って双子座に多い。太宰治とか、、


巻末には、太宰ファンの又吉(ピース)との対談も収められていて、そういえば、又吉氏も双子座。。双子座って、自分と同じ双子座が好きだからなぁ(自分調べw)。又吉氏は、このタイトルを、尾崎放哉の《すばらしい乳房だ蚊がいる》からかと尋ね、穂村氏に否定されていた。《咳をしてもひとり》しか知らなかった尾崎放哉だけど、やっぱり双子座っぽいと思って、Wikipediaを見てみたら、水瓶座だった。惜しい(...くないかw)


そんなことを思いつつ、


ベッドに横になってだらだらと読んでいたら、蚊に刺された。

ダーリンが仕事中で、家にいなかったのだ。


ああ、ますの(枡野浩一)の新作も読みたい。。


◎[Amazon]蚊がいる



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by yomodalite | 2014-09-05 08:53 | 文学 | Trackback | Comments(6)

いじわるな天使/穂村弘

あの人のことを忘れさせてくれるような物語が読みたいw、
それと、もう英語なんか見るのも嫌だw
サクサク楽しく読めて、
出来たら短編集がいいな。。
という希望どおりの本。

こちらは、歌集をのぞけば、著者のはじめての本。


いじわるな天使 (アスペクト文庫)

穂村弘/アスペクト

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穂村氏の本を読むのは久しぶりだったのですが、やっぱり “ホムホム” は、最初から “ホムホム” で、この本の最初のショートストーリーでの女の子のいじめ方にクラクラしてしまいました。

女の子のいじめ方のなかで、一等おもしろいのは、宇宙船の中でいじめるやり方だ。

四月のお天気の朝、ポニーテールが自慢の女の子といっしょに卵とシュリンプのサンドイッチを持って宇宙港を見学にいこう。宇宙港には、最新型の宇宙船が巨大なペンギンの家族みたいに並んでいるだろう。ぴかぴか光っているだろう。女の子を見学用の宇宙船に乗せてしまうまでは、ちやほやちやほやしよう。

「ポニーテールとかけてなんととく? 猫のトイレの砂ととく。そのこころはどちらも風にさらさらさら」
 
なんていいながら女の子のまわりをくるくる回ろう。女の子はうれしくなってにこにこするだろう。女の子はほめられるのが大好きだ。いいお天気が大好きだ。

見学用の切符を買ったら、空の色を映して真っ青なエアーチューブのなかを、ふたりでシューと滑って、コックピットに乗り込もう。ハッチを閉めたら、無重力ボタンを押してしまおう。なにもかもふわふわ宙に浮かぶだろう。女の子はあわててスカートの裾を押さえるだろう。ふわふわ宙に浮かんだら、さあ、もうこっちのものだ。それまでのにこにこ笑顔をひっこめて、大昔の花王石鹸のお月様マークみたいに意地悪な顔になって、
 
「よく見るそのリボン似合わないね」とか、「楽しそうに遊んでるけど宿題はもうすんだの?」とか、ものすごく意地悪なことを、いっぱい言おう。
 
女の子は悲しくなって、うつむくだろう。ふわふわ浮かんでうつむくだろう。女の子がうつむいたら、調子にのって、
 
「貧乏大臣おお大臣、貧乏大臣おお大臣貧乏。びんぼーだ。びんぼー。きみはびんぼーだ」と大騒ぎしよう。
 
ふわふわ浮かんだまま大騒ぎしよう。女の子はうつむいたまま肩をふるわせるだろう。そしたらその耳元で、
 
「白鯨モビーディックがエイハブ船長のあんよをぱくり」とか、「二十面相の水責めにあって小林少年と少年探偵団はあっぷあっぷ」とか、「インデアンのふんどし」とか、
 
思いつく限りのこわいことをいおう。あまりのこわさに女の子はこらえきれなくなって、涙をぽろりとこぼすだろう。そしたら….(「宇宙船で女の子をいじめる方法」より)

ホムホムの “いじめ” は、このあといっそう激しくなって、ついに・・・



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by yomodalite | 2014-06-30 08:24 | 文学 | Trackback | Comments(0)
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[本当にしつこいようですが、修正協議まだやってますw]

☆Among School Children[1]の続き


せっかく、岩波文庫からの訳詞を紹介したのに、

自分でも訳してみようという、いつもの無謀な試みです(止せばいいのにww



☆続きを読む!!!
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by yomodalite | 2014-06-20 13:44 | 文学 | Trackback | Comments(40)
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マイケルへの思いをバネに英語詩を読もう!シリーズ

そんなシリーズあったっけ?と思われるかもしれませんが、
一応ここにあるMJの詩以外は、すべてそうだと思っているんですが、

今回は、MJが高校の教科書に登場したときに引用された詩です。

教科書に関して、まだご存知ではなかったという方は、
こちらの「とてもとても素敵なブログ」をご覧ください。

私は教科書は買ってないので、本文の方への関連はわかりませんが、まずは、引用された詩「Among School Children」の全体を読んでみたいと思いました。

下記は、岩波文庫の『対訳イェイツ詩集』から、注釈も含めて転載しています。



Among School Children
William Butler Yeats

小学生たちの中で
ウィリアム・バトラー・イェイツ

I
I walk through the long schoolroom questioning;
A kind old nun in a white hood replies;
The children learn to cipher and to sing,
To study reading-books and history,
To cut and sew, be neat in everything
In the best modern way — the children’s eyes
In momentary wonder stare upon
A sixty-year-old smiling public man.

私は長い教室を歩きながら質問する。
白い頭巾の老いた尼僧が丁寧に答える。
子供らは数の足し引きや、歌や、
読本の読み方や、歴史や、
抜ち方や縫い方を教わり、すべて
最新のやり方で整えることを学びます。
にこそかに微笑む六十歳の議員さんを
子供らの目が、一瞬、いぶかしげに見あげる。

II
I dream of a Ledaean body, bent
Above a sinking fire, a tale that she
Told of a harsh reproof, or trivial event
That changed some childish day to tragedy —
Told, and it seemed that our two natures blent
Into a sphere from youthful sympathy,
Or else, to alter Plato’s parable,
Into the yolk and white of the one shell.

私は心に思う、消えかけた火の上に屈む
レダの体を、彼女が語った
つらい叱責の話を、子供の一日を
悲劇に変えた小さな出来事をーー
語って、二人の本性は若さゆえの共感から
融合し、一つの球体となった。
あるいは、プラトンの寓話を変えて言えば、
一つの卵の黄身と白身になった。

III
And thinking of that fit of grief or rage
I look upon one child or t’other there
And wonder if she stood so at that age —
For even daughters of the swan can share
Something of every paddler’s heritage —
And had that colour upon cheek or hair,
And thereupon my heart is driven wild:
She stands before me as a living child.

私はあの悲しみや怒りの発作を思い起し、
そこにいる子やあそこの子をながめ、
彼女もこの年頃にはこんなふうだったかと
思い一一白鳥の娘でも、その辺の水鳥と
同じ血をいくぶんかは分ち合うことがある一一
煩や髪の色もああだったかと考え、
だちまち心は狂おしく錯乱する。彼女が
生身の子供となって目の前に立っている。

IV
Her present image floats into the mind —
Did Quattrocento finger fashion it
Hollow of cheek as though it drank the wind
And took a mess of shadows for its meat?
And I though never of Ledaean kind
Had pretty plumage once — enough of that,
Better to smile on all that smile, and show
There is a comfortable kind of old scarecrow.

現在の彼女の像が心に浮ぶーー
15世紀イタリアの指がこれを作ったのか、
痩せこけた頬は、風を飲み、
食事代りに影を食べたかのよう。
私はレダ一族の一人ではないが、それでも
昔はきれいな羽根をしていたーーまあいい、
いまは微笑むみんなに笑みを返して、気安い
老いぼれ案山子もいることを見せてやろう。

V
What youthful mother, a shape upon her lap
Honey of generation had betrayed,
And that must sleep, shriek, struggle to escape
As recollection or the drug decide,
Would think her Son, did she but see that shape
With sixty or more winters on its head,
A compensation for the pang of his birth,
Or the uncertainty of his setting forth?

生殖の蜜がこの世におびき出した形、
記憶や薬の作用のままに
眠り、泣き叫び、逃げ出そうとするものを
膝に抱く若い母親が、どんな母親であれ、
わが息子が、この形が、60年を、いや、
さらなる歳月を経て、白髪を頭にいただく
姿になり果てるのを見たら、出産の苦しみや、
この世に出すときの不安を償ってくれると思うか?

VI
Plato thought nature but a spume that plays
Upon a ghostly paradigm of things;
Solider Aristotle played the taws
Upon the bottom of a king of kings;
World-famous golden-thighed Pythagoras
Fingered upon a fiddle-stick or strings
What a star sang and careless Muses heard:
Old clothes upon old sticks to scare a bird.

プラトンは自然が、事物の幻影ともいうべき
範例に戯れかかる泡にすぎないと見た。
もっと堅実なアリストテレスは
王の中の王の尻を鞭でぶった。
人も知る黄金の腿(もも)したピュタゴラスは、
ヴァイオリンの弓や弦をひねくって、星が歌い、
無頓着な〈詩の女神〉が聞いた調べを奏でた。
棒切れに引っかけた古着が鳥を脅かそうというのだ。

VII
Both nuns and mothers worship images,
But those the candles light are not as those
That animate a mother’s reveries,
But keep a marble or a bronze repose.
And yet they too break hearts — O Presences
That passion, piety or affection knows,
And that all heavenly glory symbolise —
O self-born mockers of man’s enterprise;

尼僧も母親も幻像を崇拝する。
だが蝋燭に照らされる像は、母親の
思いに生気を吹きこむ像とは違って、大理石や
ブロンズの静謐をたもつ。だが、これらの像も
人を悲嘆に陥れるのだ一一おお、〈存在者たち〉よ、
情熱と、信仰と、情愛とが認め、
天の栄光の一切を象徴するものよ、おのずから
現前して、人間の営みを嘲笑するものよ。

VIII
Labour is blossoming or dancing where
The body is not bruised to pleasure soul.
Nor beauty born out of its own despair,
Nor blear-eyed wisdom out of midnight oil.
O chestnut-tree, great-rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance?

魂を喜ばせるために肉体が傷つくのではなく、
おのれに対する絶望から美が生れるのではなく、
真夜中の灯油からかすみ目の知慧が生れるのでもない、
そんな場所で、労働は花ひらき踊るのだ。
おお、橡(とち)の木よ、大いなる根を張り花を咲かせるものよ、
おまえは葉か、花か、それとも幹か。
おお、音楽に揺れ勤く肉体よ、おお、輝く眼差しよ、
どうして踊り手と踊りを分つことができようか。

(翻訳と下記の解説:高松雄一)

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Among School Children[1927年8月The Dial 誌初出。詩集The Tower (London,1928)に収録] history『集注版』による訂正。旧版『仝詩集』では韻を合わせてhistoriesとしてある。 A sixty-year-old smiling public man イェイツは1922年にアイルランド自由国の上院議員に選出された。この詩は公人として学校を視察したときの感懐。 Ledaean body レダ(またはその娘ヘレネ)を思わせる姿。 our two natures blent / lnto a sphere 形而上派詩人ダン(John Donne,1572-1631)の詩 'The Ecstasy' は、並んで土手に寝そべる男女の魂が肉体を抜け出して中空で合体融合し、精錬され、ふたたび別れてそれぞれの肉体へ戻る、と歌う。 Plato’s parable 対話篇『饗宴』にある。人間はもともと男女両性を合せ持つ球体であったが、ゼウスがこれを「ゆで卵を髪で切る』うに」二つに切り分けた。以後それぞれが自分の半身を求めて合体しようとする。 daughters of the swan 白鳥に変身したゼウスがレダに生ませた娘たち。高貴な美女。 Quattrocento イタリア語。 15世紀(1400年代)イタリアの美術・文芸について記述するときに使う。 Honey of generation 3世紀の新プラトン主義哲学者心レピュリオスは『オデュッセイア』第13歌のニンフたちの洞窟の描写を解釈して、蜂蜜が浄化作用、性交願望、生成の歓びを表すとした(トマス・テイラーの英訳による)。 recollection 前世の記憶。 Plato プラトンは、イデアが真の実在で、自然の事物はその模像にぎないと考え両者を峻別した。 paradigm 形相(form)と同義のつもり。 Solider Aristotle アリストテレスはアレクサンドロス大王の少年時代に家庭教師を務めた。事物は形相の可能態であると見なして両者を結びつけたから、少年の尻を鞭打って矯正することもあり得だろう。  golden-thighed Pythagoras ピュタゴラスは弦の長さに応じて協和音程が得られることを発見し、また地球を中心として回転するいくつもの天球が美しい音楽を奏でていると考えた。当時は神格化されて黄金の腿を持つと伝えられていた。 images 尼僧は幼児イエス・キリストを、母親は自分の赤児を。 Presences 至高の存在者たち。イェイツは特定の神に呼びかけるのを避ける。 That は53行目のPresencesにかかる関係詞の目的格。55行目のthatも同じく関係詞だが、こちらは主格。 chestnut-tree horse chestnut とする説をとる。
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すばらしいお手本のあとに、お茶を濁すようですが、
自分でも訳してみようと思います。







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by yomodalite | 2014-06-09 12:01 | 文学 | Trackback | Comments(5)
桜庭一樹氏がツイッターで『赤×ピンク』が映画になったとつぶやいておられたので、原作本を読んでみた。ガーリーで、甘い感じのものに飢えていたのだ。
いつものことだけど。。

初版は、2003年にファミ通文庫から出版され、2008年に角川文庫で再販されたもの。ジュニアノベルとか、エンタメ小説とか、そーゆー感じのものを読んでみたかったということもあって、六本木の廃校となった小学校で行なわれる非合法ガールファイト(「ガールズ・ブラッド」)を舞台に、少女たちの肉体と精神を、格闘技を通して… というのは、まさに期待どおり。

「ガールズ・ブラッド」は、毎晩
レニー・クラヴィッツの「Rock'n Roll Is Dead」で始まる。

物語の主人公である女の子たちには、それぞれ「リングネーム」があって、

アルバイトでSMの女王様をしている、指名料2000円の「ミーコ女王」は、

学校とか、家庭に求められることより、個人に求められることに応えようと努力し始め、15歳でSMクラブに行き着いた。


空手でインターハイ出場の経験もある、指名料2500円の「皐月」は、

『マルホランドドライブ』のような夢を見たり、バイト先のレンタルビデオ屋では、『パリ・テキサス』のナスターシャ・キンスキーの美しさを見習えと言われたり、『2001年宇宙の旅』と『裸のランチ』と『隣の女』を一緒に借りようとする中学生の客に、

「この3本、一気に観ちゃダメだよ」
「どうしてですか?」
「気が狂うから」

と、小声で教えてあげるような、バイクと古着屋めぐりが好きで、ショートホープを吸うためのライターは「松田優作仕様」(超ロングな炎)という、女が好きな女。


生きることそのものに偏差値をつけたら、自分は42ぐらいという、
指名料三千円の「まゆ14歳」は、

ここはきっとロワッシーの館で、わたしたちはO嬢で、お客さんたちは、つかのまステファン卿になるためにきてるんだと思う。と言う。

そう、女の子は自らロワッシーを求め、そこから巣だって行くものだと私も思う。

『O嬢の物語』を読んでいなくても、

AKB48の子も、AVに出演する子も、みんな。。










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by yomodalite | 2014-03-12 08:37 | 文学 | Trackback | Comments(0)
書き出し「世界文学全集」[1]の続き

本書は、世界文学全集などでよく目にする作品の、書き出し部分だけ新訳を作って並べてみた」という本なのですが、「書き出し部分」は1、2ページなので、続きが読みたいと思うよりも前に終わってしまうことも多くて、ちょっぴり残念な部分も。。

でも、既読本の場合は、柴田訳と比較してみたくなりますよね。

本書には昨年ハマりまくってたポーの作品が3作も収録されていて、それも、あの『ユリイカ』が選ばれていたので、既読本の八木敏雄訳と比較してみることにしました。


He who from the top of AEtna casts his eyes leisurely around, is affected chiefly by the extent and diversity of the scene. Only by a rapid whirling on his heel could he hope to comprehend the panorama in the sublimity of its oneness. But as, on the summit of AEtna, no man has thought of whirling on his heel, so no man has ever taken into his brain the full uniqueness of the prospect; and so, again, whatever considerations lie involved in this uniqueness, have as yet no practical existence for mankind.


エトナ山の頂から悠然と下界を見やる者は、その眺めの広がりと多様性に主として思いが行く。踵を軸にしてすばやく回転でもしない限り、パノラマをその全体性の崇高さにおいて把握することは望めない。けれども、エトナの頂きにおいて踵を軸に回転しようと思った者はまだ誰もいないから、その眺望の無二性を十分に脳に取り込んだ者は誰もいない。したがって、さらに、この無二性をめぐっていかなる問題が隠れているにせよ、それらはまだ、人類にとって現実に存在してはいない。(柴田元幸・訳)

柴田氏は「oneness」を「全体性」「uniqueness」を「無二性」と訳されていますね。

エトナの山頂で漠然とあたりを見わたす者は、主としてその眺望の広がりと多様性に心うばわれる。踵でくるりと一回転してみないかぎり、その荘厳なパノラマを純然たる全一(ワンネス)としてとらえることはできない。ところが、これまでエトナの山頂でそのような旋回をこころみようとした者がいなかったので、その展望の完全な全体(ユニークネス)を頭に刻印した者はいなかった。したがってまた、その全体のなかにいかなる考察にあたいする知見がひそんでいようと、それは人類にとって、事実上、これまで存在しなかったも同然なのである。(八木敏雄・訳)

八木氏は「oneness」を「全一(ワンネス)」、「full uniqueness」を「完全な全体(ユニークネス)」にされていて、私もこれ以外ないと思ってたんですけど、、、

「oneness」は「全体性」か。。。

全一とか、ワンネスって、特殊というか、スピリチュアル業界用語みたいだからでしょうか?(苦笑)

で、このあと、individuality を、柴田氏は「不可分性」、八木氏の訳では、「全体性(インディデュアリティ)」となっていて、八木氏は「GOD」を意識して宇宙を考えていることがよくわかるのですけど、、



英米詩では、これまた、ハマっていたウィリアム・ブレイクの「The Marriage of Heaven and Hell」も、原文と照らし合わせて読んだり...

とにかく、海外古典のテキストは、今は簡単に探せるので、
いろいろ、勉強になりますねっ!





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by yomodalite | 2014-02-28 09:28 | 文学 | Trackback | Comments(10)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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