カテゴリ:MJ考察系( 75 )

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[追記 2014.12]

マイケルは、なぜ、あのアルバムを「スリラー」と名付けたのか?[4]の続き

『スリラー』のフィルムは1983年の終わりには出来上がっていました。翌年の2月にそれを発表し、まずはMTVでお披露目されました。(自伝『ムーンウォーク』p238)

と、自伝には書かれていますが、私が見た資料のほとんどに、1983年の12月にMTVで放映されたと書かれていて、いくつかの映画館では11月下旬に観ることができたとも。。


スリラーには、最も売れたミュージックビデオという記録もありますが、監督ジョン・ランディスは、すでにTVで何度も放映されているビデオを買う人がいるなんて思いもしなかったと語っています。確かに1983年、録画もできるビデオデッキがある家庭は多かったのですが、

『Making Michael Jackson's Thriller』には、スリラーのショートフィルム完全版と、メイキングドキュメンタリーだけでなく、『モータウン25』での “ビリー・ジーン” のパフォーマンス、『ビート・イット』『Can You Feel It』のクリップ、その他『オフ・ザ・ウォール』と『Workin' Day and Night』のオーディオも含まれていました。

スリラー完全版の録画の機会は数少なく、ムーンウォークを憶えたい人で『モータウン25』を見逃した人も多かったでしょう。

『ウエストサイド物語』よりも、もっと現代的なロック感覚にあふれた『ビート・イット』にも、多くの人が参加してみたくなるダンスムーブがあり、アルバム『スリラー』や、これまでのシングル版を買った人も、『オフ・ザ・ウォール』や『トライアンフ』を買っていない人も、楽しむことができて、それは、当時の購買用ビデオよりも廉価な20ドル前後で販売されました。

MJが自伝で言っている、アルバム『スリラー』の売上げが落ちてから、ディレオの発案で、急遽、ビデオを作ることになったというのは疑わしく、

このVHSに『モータウン25』からの映像を収録できたのも、番組に出ることを最後まで渋ったという交渉の時点で、自分の出演部分の映像権利を獲得していたわけですし、『ビリージーン』のビデオで、ムーンウォークを見せなかったことも含めて、

スリラーで長編ビデオを創ることも、
ビデオ販売の計画もかなり前からあったとしか思えません。

ここまで、長々と書いてきましたが、レコードの売上げを促進するだけでなく、自分の映像をメディアから求められる商品にする。という明確な意志についてをまとめると、

・「The Girl Is Mine」
ポールっぽい曲だけど、マイケル作曲(ポールの名前で、Popチャートに分類されることを期待。でも、印税はMJという作戦)

・「Billie Jean」
MTVにオンエアされるために作った初めてのビデオ。最大の武器であるダンスは抑え気味にし、それまでとは異なる「生まれ変わったMJ」についてミステリアスに表現した。

・「Beat It」
白人の若者は、MTVだけでなく、MJ自身のターゲットでもあった。

・「Wanna Be Startin' Somethin」「Human Nature」「PYT」
様々な音楽ジャンルを好む人々にアピールするように、アルバム「スリラー」の多様性を見せ、売り上げの拡大を図る。

・「Say Say Say」
ポールの予算で創ったビデオでは、ビートルズ以上のアイドル的な魅力も発揮し、新旧トップスター対決を企てる。前作2本にはなかった笑顔など、ガールへのアピールも欠かさず、ここまでに(83年中)3本の高品質ビデオが、徐々にMJをMTVの顔として認知させた。

7枚目のシングルというのは、そこまで売上げが悪ければもちろん、すごく売れても、出す必要がない。そういったありえない順番まで、スリラーのシングルカットをガマンしたというは、MJだけが心に秘めていても出来ない作戦だったと思いますが、彼の強い意志がすべてを動かして行ったことは間違いないことのように思えます。

かつてないほど完璧にこだわったスタジオワークを終えたか、あるいはもっと以前からだったのか、MJがこのアルバムを売るために考えていたことを想像すると信じられないという思いではありますが、2009年のときも、彼はステージに集中するだけでなく、映画のことや、ツアーに付随するビジネスだけでなく、新しいアルバムや、クラシック音楽のようなインストゥルメントアルバムまで、同時進行しようとしていました。

当時の私は、アートや、最新のトレンドを感じさせるようなものが、革新的なビデオだと思っていて、スリラー期のマイケルのPVを新しいとは思わず、同時期に活躍していた、ユーリズミックスのアニー・レノックスや、レディ・ガガにも影響を与えた、グレイス・ジョーンズのような人が新しい黒人アーティストだと思っていました。

これは、1985年のビデオですが、
以前は「Slave to the Rhythm」と言えばこの曲でした!




MJ : In my opinion, it has to be completely entertaining and have a sense of, a linear sense of continuity as far as …. I like to have a beginning, a middle and an ending and have it follow a story and not just be a collage of images, you know, and sometimes that's ok too but it depends on what the director, as a visionary what he sees.

MJ : 僕の考えとしては、ビデオには完璧に人を楽しませる感覚をもっていて、1本筋が通っているような… 始まりと中盤そして結末へと進行する物語をもったもの。イメージのコラージュではなくてね。監督が見ているヴィジョンが素晴らしいものなら、時にはそれもいいんだけど。


今、振り返ってみると、グレイス・ジョーンズの映像には「80年代」の雰囲気が色濃く感じられ、ジョーンズが巨大な像になっているところだけでなく、いくつか、バッド期以降のMJの映像を思い出す部分がありますが、イメージのコラージュではなくて、というMJの映像の作り方との違いがよくわかると思います。

でも、時代を変えるような「革新」とは、それまでの歴史を踏まえたうえで、変えるべきところを変える。聖書を物語の基本とする世界では、特にそういった物語が、何度も言及されて歴史に遺っていく。

また、少年時代に貧しさから脱却し、家の門の前に女の子がいなかった日は1日もないというMJが、史上最高というほど売上げにこだわる理由も、私にはずっとわからなかったのですが、

それは「黒人として初めてという記録」ではなく、
もっと先にある「歴史を変える」という意志で、

そのための第一歩が「史上最高の売上げ記録をもつレコード」だった。

そして、その目標のために重要だったのは、
これまでレコードを買わなかった層にアピールするということです。

MJは、ロッド・テンパートンに「子供にアピールできるような曲を作って欲しい」と注文を出し、元々「スターライト」だった曲は、『スリラー』へと変化しました。





全国をネットワークしたMTVは、音楽から地方や人種というコミュニティを希薄にしただけでなく、これまでレコードを買わなかった層にも音楽を届けることが可能になり、中でも、子供たちへの影響は大きかった。MJにとっても、子供はエンターテイメントを目指したときの自分自身の純粋なきもちを投影できる、絶対に裏切れない相手であり、こどもが純粋に憧れられるような、黒人のスターがいなかったことを、彼以上に憶えていたアーティストもいませんでした。

スリラーという曲は、『ビリージーン』や、『ビート・イット』に比べて、カバーバージョンがほとんど見られない曲です。サウンドトラックのように、最初から映像にあわせて創られているような曲で、ホラー映画でお馴染みの声で、物語が語られてもいます。

このアルバムが「ホラー」をテーマに創られていたら、この曲はアルバム1曲目に相応しい曲ですし、最初のシングルにもなっていたでしょう。でも、MJは、この曲を「Baby Be Mine」やポールとのデュエット曲「The Girl Is Mine」の後に配置して、さらにビデオでは、「Say Say Say」でのキュートな姿にキュンとなっていた女の子の甘い気持ちを一転させます。

なぜなら、それこそが「スリル」であり、
自分は、スリラー(スリルを行なう人)だから。





現在では、MTVの時代に最もフィットしたアーティストとして、誰もが、マイケルのことを思い浮かべますが、

おそらく彼以上にビジュアルについて悩んだ人はいないでしょう。

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『オフ・ザ・ウォール』で、ようやく結果を出したと思ったものの、評論家たちには「マイケル・ジャクソン」に対して、まだ固定化されたイメージがあり、少年時代の熱狂的人気以上のアーティストに成長することは信じられておらず、彼の個性は「R&B」のアーティストの中では、成長途中にしか見られなかった。

自分のアーティストとしての形を見いだすまで、多くの天才たちがもがき苦しむものですが、新生マイケル・ジャクソンを形づくるために、MJが悩んだ量に比べれば、たいしたことはなかったのではないかと思うぐらい、彼は考え抜いたのだと思います。

マイケルの整形については、あれこれと言われていますが、彼が行なった手術は、バッド期までの2、3回をのぞいて、一般的な芸能人が行なっていることと何ら変わりがないものです。

ただ、最初に行なった「鼻を細くする」という手術だけは、特別なものでした。

それは「人種」を信じる人々にとっては、ルーツをないがしろにするように見え、
そして、その感情を逆撫でするように、彼は肌さえも白くなった。

私は、彼の肌の色の変化について、それが「病気」であってもなくても重要ではないと思っています。ハリウッドでは、白人が黒人や東洋人の役を演じることは、極ふつうのことでした。それなのに、どうして彼らはそういった批判をうけなかったのでしょう?

チャイルドスターには、人種や性別があまり感じられないものです。その時代に世界中でスターになったMJには、成長することで、自分の世界が狭まっていくことが、どれほど辛いものだったでしょう。

努力して身につけたことのすべてが、少年時代よりも低く評価されてしまう。多くのチャイルドスターが乗り越えられなかった苦悩に加えて、黒人アーティストが表現できることは、もっと狭められていたうえに、兄弟すべてが芸能人のファミリーとして、その成長や変化を観察され続けてきている中でどうやって新しい自分を創り出せばいいのか。


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これほどの難問に答えが出せたのは「奇跡」としか言いようがないのですが、

MJが起こした「奇跡」には、考え抜かれた計画と、
信じられないまでの努力のあとしかないのが「現実」だと思います。

『ビリージーン』という曲には、『オフ・ザ・ウォール』を創り終えたころの「21歳のマニフェスト」には書かれなかった、最も重要なことを書き加えた。

キレイな女に気をつけろ
どんなときでも、もう一度よく考えろ。と

『ビート・イット』では、
破滅から逃げることを説き、

そして、『スリラー』は、

おそらく、曲が完成した段階で、彼にはその映像がはっきり見えていた。
それは、長い間、ずっと考えてきた「自分」にもっとも相応しい物語だったから。

自分が変身する姿と、それを怖がる人、それを見て笑う自分、
そして、恐怖を感じさせては、手を差し伸べる。
それらを何度も見られる映像にして、
世界には光と闇があるけど、
彼は恐怖に遭遇したときに、側にいてくれて、
スリルも与えてくれるスターだと認識させた

理想をいだいて失敗し、地獄に落とされた者たちを墓場から甦らせ、
彼らの思いも受けとめて
世界中の大勢の人々に踊ることを教えた。

私たちが今癒されているエンターテイメントは、
その多くが「君はそのままでいいんだよ」と、なぐさめてくれるようなものです。

マイケルが越えようとしたビートルズの『Let It Be(なすがままに)』も、グラミー賞で悔しい思いをした「素顔のままで(Just the Way You Are)」も、

そして今、これを書いているときは「Let it go(ありのままで)」という歌が流行っています。

マイケルは人々を癒すエンタテインメントの仕事をとても誇りに思っていて、「Escapism(現実逃避)」がとても大事だと考えていた人ですが、彼が人々に与えようとした世界は、常にそれらとは異なっていたように思います。

彼を見ていると、私たちは今のままでいいとは思えなくなるでしょう?

スリラーを創っているとき、
マイケルには音楽ビデオがビジネスになることも、
ビートルズから王冠を奪えることも、
これからの人々が生きるには、もっと踊れる音楽が必要だということも
わかっていた。

時代を象徴するような表現の出現には、多くの偶然や幸運が重なるものかもしれません。

でも、彼が幸運だったのは「スターライト」という曲のサビに「スリラー」がハマった、
その一瞬だけだったと思う。

了)

資料の読み間違いなどは、遠慮なくご指摘くださいませ。
また、「スリラー」に関してのハーバード大学のビジネス講座について知っている。
というか、受けましたけど。。という方も、ぜひ!


付記)

タイトルだけ決めてあるけど、おそらく書かない
マイケルのアルバム考察シリーズ…ww

◎何が「バッド」だったのか?
◎本当に「デンジャラス」だったものとは?
◎歴史の嘘と「ヒストリー」
◎「インヴィンシブル」ー究極は越えられない
◎THIS IS IT!ー 見つかった。何が? ショーは永遠に続くということ



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by yomodalite | 2014-06-05 19:57 | MJ考察系 | Trackback | Comments(7)
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アルバム『スリラー』の中から発表された『ビリージーン』『ビート・イット』そして『スリラー』という3本のビデオは、すべてこのアルバムのために僕が考えたコンセプトによるものでした。可能な限り映像的に音楽を提供しようと僕は心に決めていたのです。どうして世の中は、こんなにも原始的で、説得力のないビデオだらけなのか、理解できませんでした。(『ムーンウォーク』p215)

『ビリージーン』は、MTVが最初に放映した黒人アーティストのビデオだという、
MJのよく知られた伝説があります。

ただ、CBSの当時の社長イェトニコフが、マイケルのビデオを流さないなら、自社のアーティストすべてをMTVに出さないと言ったのは、若干「作り話」であるらしく、「Billie Jean」は、他のレコード会社アーティストである、プリンスの「Little Red Corvette」と同時期にMTVに登場しています。

(プリンスは『スリラー』の翌年、主演映画『パープル・レイン』で、映画とサントラの両方を大ヒットさせています。同じ時代を生きたふたりの天才の歩んだ道は、MJを考えるうえでとても重要だと思うのですが、今回はスルー)

それでは、『ビリージーン』より前のビデオは、どこで流されていたんでしょう?

私はアメリカに住んでいたわけではないので、実際のところよくわかりませんが、『Don't Stop 'Til You Get Enough』は、1979年7月、フランスの「M6 Music Hits」で初放映され、『Rock with You』は1979年11月、『She's out of my life』1980年2月、『Can you feel it?』は1981年2月に、英国の「VH-1 Classics Europe」というケーブルTVが最初に放映しています。

『Don't Stop 'Til You Get Enough』以外は、すべて英国のTVディレクターで、プロモーションビデオとして世界初作品(1975年)と言われているクイーンの『ボヘミアン・ラブソディー』のビデオで有名になった監督、Bruce Gowers によるものです。






『ボヘミアン・ラブソディー』は、これまで英国で一番売れた曲としても有名ですね。

この頃までのMJの作品は、いずれも海外でシングル発売日に初放映されています。本国よりも海外の方が早い理由について確かなことはわかりませんが、これは、当時のMTVが黒人差別をしていたからではありません。

なぜなら、MTVが始まったのは、1981年の8月1日。
これらの曲のプロモーションの頃はまだ存在していなかったのです。

おそらく当時の日本でもそうだったように、周辺諸国の方が、世界最大のマーケットをもつ国の音楽情報をいち早く取り入れたいと思うものであったり、また広い国土をもった、独立した州の連合体である米国では、音楽リスナーの地域格差が大きかったこともあり、全国的な音楽チャンネルの設立には至っていなかった。

MTVで初めて流れた音楽ビデオは、すでに2年前に発売になっていた英国のバンド、
バグルスの「ラジオスターの悲劇」でした。





それは、巨大音楽市場をもつ米国でラジオ時代の終焉を予見し、TVで音楽を楽しむ時代の口火を切り、それまでの英国やヨーロッパのような小さな音楽市場の視聴者層とは、まったく異なるタイプのビデオが求められる時代の到来でした。

ファンにとって『Rock with You』のキラキラしたMJは、今でもとても魅力的ですが、MTV発足の半年前の『Can you feel it?』は、まさにそんな時期に気合いを入れて創られたことがわかるレベルの作品だと思います。






それでは、『Can you feel it?』と比較して、3年後の『ビリージーン』は、
それほど画期的にレベルの高い作品に見えるでしょうか?





うん…  見えなくも、、ないか(笑)

私には『Can you feel it?』は、歌のメッセージをしっかりと押さえ、言うべきことを予算内でしっかりとビジュアル化した、インパクトがある作品に見えます。実際、この作品は、2009年に行なわれたビデオ作品人気投票ベスト100にも選ばれています。

一方、その2年後の『ビリー・ジーン』は、あとから振り返ってみると、

MJがこのあと創ったすべてのショートフィルムだけでなく、彼自身の未来予測も含まれた「青写真」になっているようで、とてもとても興味深いのですが、

監視する男、色が変化する猫、コイン投げ、サタデーナイト・フィーバーのフロアを思い出させるライトアップされた道、ステイン・アライブのバリーギブのようにジャケットを肩にかけ、タブロイド新聞が舞う道には、フレッド・アステアの「バンドワゴン」にも登場した虎模様の布、貧乏な男がリッチマンに変身、MGMミュージカルのようなセット、「オズの魔法使い」に登場したような道(yellow brick road)、男をだましそうな複数の女、爪先立ちのポーズ、HOTEL、誰と寝ているのかわからないベッド、盗撮、警官、逮捕される男、ゴッドファーザーの看板、虎模様の布が本物の虎に…

歌詞と、直接関係のないような、こういったシュールなテイストのビデオは、当時なかったわけではないので、この頃のMJが、あまりにも革新的なビデオをクリエイトしていたと言われると、なんだか納得できないと、私は長い間思っていましたし、映画用のフィルムを使ったことも、作品のインパクトに比べれば、予算をかけ過ぎているようにも見えましたが、

(後記:MJは35ミリを使ったと言っていますが、監督はインタヴューで16ミリでの撮影だったと明かしています→スティーブ・バロン監督が語る『ビリー・ジーン』裏話

この頃、音楽ビデオで一歩も二歩も進んでいた英国アーティストに対して、MJは、映画において大きな蓄積のあるハリウッドの人材によって、ビデオの質を上げようとし、その第一人者として他をリードすることを考えたわけです。それは、このあと「スリラー」で長編ビデオを創るうえでも、実に適確な判断だったと今は思います。

さて、『ビリー・ジーン』のビデオも、
これまでのように、英国やドイツの音楽ビデオ番組で初放映されているのですが

フィルムが出来上がっていた1月ではなく、3月が最初で、MTVでは4ヶ月後が初放映です。MTVが遅かったのは、よく言われているような黒人差別のせいかもしれませんが、今まで、発売と同時に放映してきた海外の放送局でも、遅れるようになったのは、なぜなんでしょう?

これは、私の想像ですが、

MTVだけでなく、他の国でも音楽チャンネルがこれまで以上に注目されることによって
「放映権」に変化が生じたからだと思います。

そして、他のビデオの何倍もの制作費をかけた『ビリー・ジーン』は、テレビ局にとって、もっとも手強い契約相手だったのではないでしょうか。

そしてこのあと、『ビリー・ジーン』には、さらに注目されることが起こります。

あの、最初に「ムーンウォーク」を見せたという伝説のTVスペシャル『モータウン25』が、リリースから4ヶ月後の5月16日(ショーが行なわれたのは3月25日)に放映されたからです。





前作『オフ・ザ・ウォール』では、ミュージックビデオ以外の露出はなく、大人気だったジャクソンズのバラエティーショーを、自ら降板したMJは、その後長らくテレビに出演していませんでした。そのせいもあり、TVスペシャル『モータウン25』で、ムーンウォークを披露したとき、世間は久しぶりにジャクソン5の少年が大人になった姿を見て、その魅力的な変化に驚きました。

パフォーマンスが素晴らしく、ムーンウォークがめずらしいダンスだっただけでなく、あの少年が、鼻が細くして、これまでとは違う新しい外観の若手スターになって帰ってきたということで、MJに大きな注目が集まったわけです。

新生マイケル・ジャクソンを初披露したのが、黒人音楽をメジャーにした「モータウン・レーベル」の記念番組だったということも、とても重要だったと思います。会場には、MJを少年時代から応援し、黒人に偏見をもたない人が大勢いたわけですから。

そして、その番組で大評判になったあと、『スリラー』からの、2番目のビデオ『ビート・イット』は、発売からおよそ2ヶ月後のプライムタイムにMTVで放映され、その後、米国3大ネットワークのひとつであるNBCのプライムタイムの番組「Friday Night Videos」で放映された初めての作品になりました(1983年7月29日)。

スリラー期のMJのビデオは、当時、ミュージックビデオをよく見ている人間にとっては、それほど画期的には見えなかったのですが、この年、米国では、ケーブルテレビではなく、3大ネットワークのプライムタイムに、音楽ビデオを放送する番組が始まり、今までとは異なる視聴者層にアピールするようなビデオが、より一層求められるようになったんですね。

1983年1月2日発売の『ビリー・ジーン』も、その1ヶ月後に発売された『ビート・イット』も、地上波テレビによって、さらに売上げに火がついたわけです。


1983年の秋までに、アルバム『スリラー』は、CBSの期待を遥かに越える、800万枚を売り上げていました。すでに売れに売れているアルバムからは、シングルリリースする意味も、3本目のビデオを創る理由も、レコード会社にもなかったはずです。

自伝には、売上げが落ち始めたことで、当時のマネージャー、フランク・ディレオが、もう1本、ビデオか、短編映画を作ってもらえないかと言ってきた。とあるのですが、そんなことをディレオが言うでしょうか?しかも、「短編映画」だなんて。。

2009年版の自伝の序文を書いた、ベリー・ゴーディーはこう言っていました。

「アーティストとしての偉大性を深く理解するには、さらに行間を読み取る努力が必要かもしれない。というのも、彼には二面性があったからだ。(中略)

作曲、歌、プロデュース、演技、演出と多岐にわたって能力を発揮してきたマイケルだが、実は思慮深さも兼ね備えていた。自分の身を守るために、キャラクターを作り上げて演じてきたこともある。ステージの自分と、普段の自分、あるいは会議中、契約中、企画中、プロモーション中など各々シーンに合わせたキャラクターをつくり出し、演じていた。

マイケル自身が絶対に創りたかったものでも、このときは、あまり自分の手柄や、計画とは思われたくなかった。ということではないでしょうか。






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by yomodalite | 2014-06-02 13:54 | MJ考察系 | Trackback | Comments(4)
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☆マイケルは、なぜ、あのアルバムを「スリラー」と名付けたのか?[2]の続き

自伝『ムーンウォーク』で書かれているように、『オフ・ザ・ウォール』は、かつてのチャイルド・スターが、時代にマッチしたレコーディング・アーティストへと成長できることを証明し、『スリラー』で、成し遂げる仕事のお膳立てをしたアルバムでした。

MJは、幼い頃から夢だった史上最高の売上げを誇るアルバムを創ることを、
周囲にも目標として指し示すことが出来る段階に来ていた。

自分を信じて、作品に文字通り魂を注ぎ込む。
そのためには死んでもかまわないと思うまでに。(『ムーンウォーク』p200)


下記はオリジナルのアルバム『スリラー』の収録曲。
( )内は作曲者および共演者 ☆印はMJ作曲

◎A面
1. Wanna Be Startin' Somethin'
2. Baby Be Mine (Rod Temperton)
3. The Girl Is Mine (featuring Paul McCartney)☆
4. Thriller (Rod Temperton)
◎B面
5. Beat It (featuring Eddie Van Halen) ☆
6. Billie Jean
7. Human Nature (Steve Porcaro & John Bettis)
8. P.Y.T. "Pretty Young Thing" (James Ingram)
9. The Lady in My Life  (Rod Temperton)


『オフ・ザ・ウォール』には、MJのさらなる魅力を加味するために、ポール・マッカートニーの曲が収録されましたが、『オフ・ザ・ウォール』よりも、さらに売れるアルバムを目指した『スリラー』では、ふたりがデュエットした「ガール・イズ・マイン」が、先行シングルとしてリリースされました。

(下記は、自伝『ムーンウォーク』より省略して引用)

この曲のように、1曲にふたつのビッグネームが入っていれば、最初に出すしかないのです。さもなければ、その曲ばかり繰り返しオンエアされ、目立ち過ぎてしまいます。ポールに声をかけたのは『オフ・ザ・ウォール』に “ガールフレンド” という曲を寄せてくれた彼の好意に対して、お返しがしたいと思ったからです。

ポールという、スタジオであらゆる楽器を操り、すべてのパートの楽譜を書ける男と、そんなことはできない若造の僕との共作です。にもかかわらず、僕らは対等に仕事をし、スタジオでポールが僕を引っ張って行く必要はなかったのです。僕にとってこの共同作業は、大きな一歩になりました。そこには、誤りを正すクインシー・ジョーンズの存在がなかったからです。

(引用終了)

アルバムを評価したり、オンエア曲を選ぶようなプロは、まず、ビッグネームが関わっている曲を聴いて、アルバム全体の出来を判断します。MJは1曲にふたつのビッグネームと言っていますが、「ガール・イズ・マイン」はMJが作曲した曲です。そこから判断すれば、『オフ・ザ・ウォール』で、ポールやスティービーの曲をシングルにしなかったのは、自分の曲を埋没させたくなかったからでしょう。「スリラー」で、ポールとの曲を先行シングルにしたのは、MJの実力が証明された後だったことと、

このアルバムを「R&B」ではなく「Pop」に分類させる意味があったと思う。

この間のポールとMJの共演は下記の3曲ですが、

・Say Say Say(MJ&ポール共作)
・The Girl Is Mine(MJ作曲)
・The Man(ポール作曲)

この中で一番の名曲が「Say Say Say」であることに異論がある人はいないでしょう。

実際、この曲はMJのシングルヒットの中でも歴代No.1の売上げを記録している。

ポールは「スリラー」より10ヶ月後、1983年10月31日リリースされたアルバム『パイプス・オブ・ピース』から、1983年10月3日に先行シングルとして「Say Say Say」をリリースし、PVも制作しました。

ポールは、スリラーの8ヶ月前の1982年4月にリリースした『タッグ・オブ・ウォー』でも、ステーヴィー・ワンダーとの共演曲「エボニー・アンド・アイボリー」をシングルリリースし、PVも制作していました。これは、スティーヴィーにとって、米英チャートではじめて1位を獲得した曲で、その他「Take It Away」も、ビルボードトップ10入りしています。

ポールは、80年代においてもシングル曲のチャートゲッターとして圧倒的でした。

(それなのに、未だに元ビートルズと言われているのは、
もしかしたら、ビートルズの版権所有者であるMJの策略かもしれませんww)

MJの伝説として、ミュージックビデオを革新したとは、よく言われていることですが、彼が変革したのは、プロモーションビデオ自体が、米国でビジネスになったということで、MJより前に面白いPVがなかったというわけではありません。

ただ、当時、若者が観たいと思うようなミュージックビデオは、その多くが英国のアーティストによるもの。音楽が輸出産業だった英国では、海外へのプロモーションが重要で、またハリウッドのような巨大映画産業がなかっため、音楽ビデオは、才能のある映像作家が活躍する土壌にもなっていました。

一方、米国の音楽界では、自国の売上げだけで充分な販売が期待でき、映像作家はハリウッドに集中していたせいで、当時のミュージックビデオはつまらなかった。

英国のビッグアーティストであるポールが、米国アーティストとの共演作をシングルカットし、予算をかけたPVを創ることは確実でした。

『パイプス・オブ・ピース 』は、前作『タッグ・オブ・ウォー』と2枚組での発売予定もあり、1982年にすべての曲が完成していて、『The Girl Is Mine』よりも前にレコーディングも終えていた。

それなのに発売は、スリラーより10ヶ月後の1983年10月。

ビッグアーティストが同時期に完成していたアルバムを発売する場合、
先輩の方が後からという慣習はあったかもしれませんが、

MJのアルバム『スリラー』は1982年12月1日にリリースされ、
ポールとマイケルのシングルリリースは下記の順番でした(☆印はビデオありのもの)

・The Girl Is Mine(1982年10月23日)
・Billie Jean(1983年1月2日) 
・Beat It(1983年2月3日)
・Wanna Be Startin' Somethin(1983年5月8日)
・Human Nature(1983年7月3日)
・PYT(1983年9月19日)
・Say Say Say(1983年10月3日)
・Pipes of Peace(1983年12月17日英国のみ発売。☆)
・Thriller (1983年11月12日)





ポールは前作「エボニー・アンド・アイボリー」のビデオでは、黒人と白人をピアノの鍵盤にたとえて、音楽に人種なんてないことを表現し、




「Say Say Say」では、一緒に「ミンストレル・ショー」を行って、黒人も白人も、芸能人はみんな同じ人種だと言っているようです。

『Say Say Say』のビデオが好きなMJファンは多かったと思います。

僕はそれをビデオと呼ぶのさえ嫌なのです。撮影現場でもスタッフたちに、僕らが作っているのは映画なんだ。僕らはビデオテープを使わずに、35ミリフィルムで撮影しました。真剣だったのです。(自伝『ムーンウォーク』P217)

というMJの『ビリージーン』や『ビートイット』より、

映画的だと思うのも私だけではないでしょう?

作品のテーマからか、米国では発売されませんでしたが、第2弾シングルの『Pipes of Peace』でも、ポールはMJよりもショートフィルムと呼びたくなるビデオを創っています。





MJは「彼の好意に対して、お返しがしたい」と書いていますが、

『オフ・ザ・ウォール』で、ポールが作曲した『Girlfriend』をシングルカットせず、MJ自身がポールの曲と同じような曲を書き直してみましたというような『The Girl Is Mine』を、同じようなタイトルの『Baby Be Mine』の次に収録したり、

私には、この頃のMJは、ギネスで「ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家」として認定され、60年代からずっとチャートキーパーだったレジェンドに戦いを挑み、葬り去ろうとしていたように感じられます。

ポールは黒人と白人がいると思っている。

でも、MJは、黒人とか、白人という、肌の色で区別されたくない。

マイケルは「人種差別をするな」ではなく「人種なんて本当はない」と思っていた。

これまでの「黒人」の描かれ方は、自分とは違う「型にはまった」もので、黒人に与えられる役柄も少なかった。「セイ・セイ・セイ」のヴィデオに登場し、『特攻野郎Aチーム』や『ロッキー3』で大人気だった ミスター・T もそうであったように…

ポールが前作に引きつづき、反戦や、人種共存といった
平和をテーマに曲を創っているとき、

MJはポールに対しては、どんな女も「自分のもの」だと言ってばかりw

(いったいどこが「感謝」なの?と思うのは、私だけでしょうか…ww)

それでも、スリラーのシングルリリース前までに、ポールが創った優れたビデオを含め、MTVでは3本のMJ映像が集中して放映されることになり、『Say Say Say』での、ポールと「主演」を争うような共演は、彼を、次世代のスーパースターへと印象づけました。


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『The Girl Is Mine』のジャケットは、スナップ写真すぎるうえに、
着てるもんまで、ポールからもらったやつw
自分では1円も使いたくないのだ(笑)



一緒にレコーディング中は、特に垢抜けないファッションで
ポールを油断させておいたことが、
ありありと伝わる、他のシングルジャケット。(上から発売順)


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こちらは、『Say Say Say』のジャケット。
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MJだけがイラストっぽいようなw
そして、脚も長過ぎるようなw、
これも、MJのウルサいチェックのせいでしょうか(笑)


☆[4] に続く






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by yomodalite | 2014-05-31 12:08 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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『スリラー』の前作、アルバム『オフ・ザ・ウォール』の頃、MJは、日本でもすでに大人気だった。ただ、今のような熱狂的な女子ファンの存在はあまり感じられず、前回、MJのアルバムにはコンセプトが感じられないと言ったけど、『オフ・ザ・ウォール』には、コンセプトが感じられた。

それは「最強のダンスミュージック・アルバム」だったと思う。

ダンスフロアには流行がつきもので、その当時一世を風靡したものほど古くなりやすい。MJが研究し尽くしたという、あの「サタデー・ナイト・フィーバー」も、アルバム『デンジャラス』で取り入れられたというニュー・ジャック・スウィングもその例で、

マドンナが「コンフェッションズ・オン・ア・ダンスフロア」でABBAを復活させたように、当時の流行が見直されて、再度ブームが来ることはよくあることだけど、『オフ・ザ・ウォール』のように、発売以来ずっと古びなかったということはない。このアルバムは、これまでのディスコミュージックよりも、フロアの外を意識したものだった。

永遠に踊れるような曲で、じっくり聴くにも相応しい。黒人音楽の新たな地平に立ったアルバムは、『オフ・ザ・ウォール』というタイトルに相応しく、当時すでに低迷していたレコード販売を、復活させたと言われるほど爆発的に売れた。

下記はオリジナルのアルバム『オフ・ザ・ウォール』の収録曲。☆印はMJ作曲

1. Don't Stop 'Til You Get Enough (第1弾先行シングル)
2. Rock with You(第2弾シングル・ロッド・テンパートン作曲)
3. Working Day and Night(第2弾シングルB面)
4. Get on the Floor(第3弾・4弾シングルB面)
5. Off the Wall(第3弾シングル・ロッド・テンパートン作曲)
6. Girlfriend(ポール・マッカートニー作曲)
7. She's Out Of My Life(第4弾シングル・トム・バーラー作曲)
8. I Can't Help It(第1弾先行シングルB面・スティービー・ワンダー作詞作曲)
9. It's the Falling in Love(デヴィッド・フォスター作曲)
10. Burn This Disco Out(ロッド・テンパートン作曲)


ディスコ・ヒットを狙った『オフ・ザ・ウォール』は、MJの魅力をそれだけではないものにするために、ポール・マッカートニーの曲も収録された。

CD以前のアナログレコードには、A面・B面があって、
ポール作曲の「Girlfriend」は、B面2曲目。

ポールは、多くのティーンエイジャーの少女達を失神させたビートルズの中でもアイドル的な人気を誇り、70年代も80年代もNo.1を狙えるチャートゲッターであり続けたソングライター。

MJは、ポールに曲を提供させたにも関わらず、それをB面1曲目の「OFF THE WALL」の次、B面3曲目のしっとりとしたラブソング「SHE'S OUT OF MY LIFE」の間という微妙な曲順に配置し、アルバムの中で目立たせなかっただけでなく、シングルカットもしなかった。

多くのディスコでも、DJたちがこの曲を無視したと思う。彼は自分が作曲した「Don't Stop 'Til You Get Enough」を第1弾シングルに選び、第2弾、第3弾は、クインシー組の作曲家として完成までコントロール出来た、ロッド・テンパートンの曲を選び、ポールと同じく確実なチャートゲッターだったスティービー・ワンダーの曲もB面にした。

MJとクインシーの戦略は当たり、このアルバムは大ヒットした。

それでも、1979年のグラミー賞では、
R&B最優秀ヴォーカル賞にノミネートされただけだった。

同年のグラミー章の最優秀楽曲賞にはビリー・ジョエルの「素顔のままで」。
最優秀レコード賞には「サタデー・ナイト・フィーバー」。

この結果を「黒人差別」とは言えないと思う。

MJ自身も、「サタデー・ナイト・フィーバー」を聴いたとき、
自分に出来たことを、先にやられてしまったと感じたのだ。

(下記は2003年のブレット・ラトナーによるインタヴューから)

MJ : Really, and then when the Bee Gees came out in the '70s, that did it for me. I cried. I cried listening to their music. I knew every note, every instrument.

MJ : ….そして、そのあと、、ビージーズが70年代に登場したとき、僕はやられたと思った。僕は泣いたよ。彼らの音楽を聴いて悔しかったんだ。僕は、彼らの音符も楽器も全部知ってた。(註:このあと、ラトナーが『サタデーナイト・フィーバー』より前の曲を歌いだしますが、MJが「cried」って言ってるのは、元々『サタデーナイト・フィーバー』のことだと思う)

BR : [sings] "This broken heart . . ." 

(ふたりで、ビージーズの『How Can You Mend A Broken Heart』を歌う)

MJ : I love that stuff. And when they did Saturday Night Fever, that did it for me. I said, "I gotta do this. I know I can do this." And we hit with Thriller. And I just started writing songs. I wrote "Billie Jean." I wrote "Beat It," "Startin' Somethin'." Just writing, writing. It was fun.

MJ : 大好きな曲だよ。それから、彼らが『サタデーナイト・フィーバー』をやったとき、僕は「してやられた」と思った。僕はこれをやる。僕にはできるってわかる。そして、僕らはスリラーに打ち込んだ。僕は曲を書き始めて『ビリー・ジーン』や『ビート・イット』を書いて、『スタート・サムシン』を書いて、ただ、もう書いて、書いて、それはすごく楽しかった。




Michael Jackson - Private home interview 2003 (PART 2/2)




黒人のチャック・ベリーではなく、1曲も作曲していない白人のエルヴィスにロックンロールの「KING」の称号が与えられ、そのエルヴィスや、他の黒人音楽からも強い影響を受けたビートルズがその王冠を受け継いだように、

黒人のたまり場だったディスコも、
ビージーズとジョン・トラボルタという白人によるヒットで、メジャーになった。

同じことを黒人がしても、白人評論家たちは、白人にすり寄ったと批判し、「ブラック・ミュージック」を愛する人たちは、黒人の音楽的優越を信じ、やはり、それを黒人の白人化だと批判する。

音楽界では、黒人が始めたことを、白人が取り入れ、ヒットするという例はいくらでもある。でもその逆はないことを、MJはまたも思い知り、彼の闘争心は極限まで燃え上がったのだと思う。

『オフ・ザ・ウォール』を創り上げた直後、MJはジャクソンズの『トライアンフ』制作に没頭し、これまでにはなかった野心的で、異質な曲「ハートブレイク・ホテル」を書いていた。

1981年、21歳のマイケルにインタヴューした湯川れい子氏は、

「エルビスは私たちの音楽を盗んで有名になった」というMJに、「エルビスという存在があったからこそ、黒人音楽が白人層にも広がったはず。」と切り返すと、「むしろ代償の方がずっと大きい。その証拠に、いまだに黒人のスーパーマンもピーターパンもいない」と言ったことを、そのときの鋭い眼光とともに紹介している。


自伝『ムーンウォーク』には、「ハートブレイク・ホテル」は復讐というコンセプトで書かれているけど、エルヴィスとは何の関係もなく、音楽界にとってエルヴィスは、白人だけでなく、黒人にとっても重要な存在だったけど、自分は彼の影響はまったく受けていない。(P187)

と書かれている。でも「ハートブレイク・ホテル」を聴いた誰もが、エルヴィスを思い浮かべることを、MJがわからなかったはずはなく、彼が絶対に違うと言いたいのは、黒人が、白人に対して復讐したわけではなく、自分もエルヴィス個人に復讐したかったわけではないということでしょう。



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また、自伝には、『オフ・ザ・ウォール』の成功が、
グラミー賞の結果によって、屈折したものになったこと。

自分がクリエイトしていく仕事に関して、

獲物を狙う猛獣のように客観的になれる自分と、
作品を創り終えて、神から与えられた才能を一滴も残さず注ぎきった自分。

このふたつのバランスをとることの難しさも語っていた。

『オフ・ザ・ウォール』前年の1978年、兄たちとのジャクソンズで、『デスティニー(Destiny)』を発表し、翌年の1980年には『トライアンフ(Triumph)』を発表した。

湯川れい子氏が、MJにインタヴューしたのは、
MJが自分の運命と神意(Destiny)を感じ、勝利(Triumph)を目前に感じていたとき。

スーパーマンにもピーターパンにも自分ならなれる。と思いながら、あと少しでそれはつかみきれず、『オフ・ザ・ウォール』では、業界からの予想外の拒絶にも直面した。

二十歳そこそこの若者が世界的な成功をおさめて、初めて経験することを、少年時代にすべて経験してしまったMJにとって、成功例がほとんどないチャイルドスターからの再ブレイクは高く厚い壁であっても、絶対に乗り越えようと思うことが、日々の努力へのモチベーションだった。

でも、そういった自分だけの特殊なモチベーションでは、もうその先へは進めない。

『オフ・ザ・ウォール』の成功と挫折は、
MJの中のデーモンを、はじめて輪郭のはっきりした「モンスター」へと変身させた。


☆[3]に続く




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by yomodalite | 2014-05-30 08:50 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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(以前書いた「スリラーはなぜ高く評価されているのか」のあと、なぜ、MJ自身がずっと特別な作品だと感じていたのか?を考えて書いたものです。)

マイケル・ジャクソンを語るとき、必ずといっていいほど登場する「スリラー」。そして、そのあとには、また必ずといっていいほど、世界一の売上げ枚数という話がつづく。

スリラー期のマイケルにまだあまり興味がなく、あの有名なヴィデオに何の衝撃も受けなかった私にとって、スリラーがMJの絶頂期という話は、整形の次にうんざりする話で、MJはバッドツアーのステージの素晴らしさと、来日プロモーションで人気が沸騰し、それで、スリラーのビデオもお茶の間に浸透したのだから、

少なくとも日本でのMJ絶頂期は「バッド」だったはずなのにと、いつも思っていました。

バッドツアーは日本から始まったので、MJにとっても日本は最初のプロモーションの場で、新幹線に乗り、各地の名所をめぐったり、日本滞在をリラックスして過ごしているようにみえる彼の笑顔は素晴らしいステージや歌と同様に日本のファンを虜にし、世界にもそのニュースが流れた。

スリラー期からバッド期のMJの顔の変化はかなりあるので、もし、日本でも「スリラー」が絶頂期だったら、「バッド」での彼の変化に、もっと拒絶反応があったはずだけど、日本のファンにとってMJは、浅黒い肌の「外人」であって、

日本には「日本人」と「外人」以外の「人種」はなかった。

だから、「バッド」では、よりカッコ良くなったとしか見えなかったし、当時の彼はファンになっても親にとがめられることのない好青年のロックスターだった。それなのに、スリラー期よりももっと爽やかな笑顔を見せるようになった「バッド期」のMJは、

なぜ、あのアルバムを「BAD」と名付けたのだろう?

アーティストが、アルバムをコンセプトで創るようになり、音楽評論もアルバムをそのコンセプトで語るようになった時代に、なぜか、MJだけがいつも売上げだけで語られ、今もそれが続いているのは、その偉業のインパクトのせいではなく、

結局、誰も彼のコンセプトがわからなかったからだと、今は思う。

MJ自身は、何度「スリラー」について聞かれても、うんざりする様子も見せず、いずれ劣らぬ完成度で創り上げた他のアルバムに注目して欲しいと言うこともなく、晩年まで、スリラーの栄光に関しては特別誇りに感じているようだった。すべての作品において、革新的でありながら、高い完成度を保ち、売り上げにおいてさえNo.1にこだわってきたアーティストとしては、その反応も極めて稀だと思う。

確かに、MJは「売れる」ことを誰よりも考えていたし、彼のアルバムは、どれも全体を通しての「物語」や「概念」といったコンセプトは感じられず、シングルヒットを詰め込んだという以外のコンセプトが見当たらないように思える。

そして、そういった場合のアルバムタイトルは、もっとも売れるシングル曲と同じであることがほとんどだ。

アルバム『スリラー』の中で最も有名な曲は、おそらく「スリラー」でしょう。映像と曲が同時に何度もオンエアされた「スリラー」の印象は強く、その後、MJを紹介する場面でも「世界一の売上げ」という言葉と一緒に、いつもこの曲が流れているように思う。

でも、「スリラー」は、このアルバムの7番目のシングルだった。

7番目のシングルなんて、普通はありえない。

当時は1枚のアルバムに対し、シングルは1曲が普通で、どんなに多くても3曲ぐらいだったと思う。オリジナルのアルバム「スリラー」には9曲しか収められていないのに、7番目だなんて… 普通に考えれば、シングルカットする気がなかったとしか思えない。

それなのに、なぜ、あのアルバムは「スリラー」と名付けられたのか?

現在、「スリラー」の歴史的評価は、人種の壁を越え、音楽ビジネスを変えたことと言われています。

「スリラー」がMJの全盛期という定説には異論があるものの、「人類史上最大のヒットアルバム」という歴史的評価が「結果的にそうなった」のではなく、それを可能にしたマイケル自身の明確な意志と「戦略」について振り返ろうと思います。






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by yomodalite | 2014-05-29 16:07 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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マイケルとハワード・ヒューズ[7]の続き

マイケルが、ヒューズを「僕にとって、彼はある意味、先生なのかもしれない」と言ったのは、彼が、エジソンや、ディズニー、ヘンリー・フォードのような人物に対しても、終生尊敬を失うことなく、笑われたり、無知だと批難され、たとえ全世界を敵に回したとしても、世界に自分の足跡の残した人々は、みんなそうだったのだから、自分を信じて進め。と言っていたことと同じような意味かもしれません。

でも、ヒューズについて調べてみたら、
あちらこちらで「ン?」と思うことがいっぱいあったので、

思いつくまま、半ば強引にw、こじつけようと思います(笑)


☆続きを読む!!!
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by yomodalite | 2014-05-21 08:46 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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ハワード・ヒューズのことは、アウトラインの把握で精一杯ではあるのですが、「こんな男はじめて!」とすっかり夢中になって短期間で調べた範囲で、MJとの相似点について、少しだけまとめておきたいと思います。

まずは、ふたりの相似点を、彼らを評した人の側から。

ジョー・ジャクソンが「息子はハワード・ヒューズのように扱われてきた」と言ったのは([1]参照)、当時のマイケルが家族とあまり行き来していなかったという話を司会者から振られ、「マイケルの周りの人間が壁をつくって取り囲んでしまい、家族が近づけないようにしてしまった」というような意味だったのですが、

マイケルをヒューズのように扱ったのは、側近だけでなく、
彼らを話題にした人々の多くもそうでした。

マイケルの側近たちも、様々なことが言われましたけど、彼らのように会いたがる人々が多過ぎる場合、不自由に感じることがあっても、側近たちのせいにしたいことは多かったでしょうね。

また、映画『アビエイター』で、随分とクローズアップされていた「細菌恐怖症」について、マイケルも同じように言われていたことを覚えている人も多いでしょう。

「THIS IS IT」とほぼ同時期に進行していた、クラシック音楽のアルバムを一緒に制作していた、ディヴィッド・マイケル・フランク氏は、MJと始めて会ったとき、「彼が細菌を心配していたと聞いていたため、握手することが気が重かった」と語っていましたし、


対談本を出版した、ラビ・シュムリーも、そういった報道を知っていました。ふたりのようなゴシップ紙を読むタイプではないような人にさえ、広く知れ渡っていたMJの細菌恐怖症の「元ネタ」も、ヒューズだったようですね。

MJがそうでないことは、ファンの多くが知っていましたが、ヒューズに関しては、私がこれまでに駆け足で見た資料のすべてでその記述がありました。(年号は本国での出版年)

◎書籍
ジョン・キーツ『ハワード・ヒューズ』(1966)
谷崎一郎『ラスベガス物語』(1999)
ノア・ディートリッヒ、ボブ・トーマス『ハワード・ヒューズ』(1972)
クリフォード・アーヴィング『ザ・ホークス』(上・下)(1981)
藤田勝啓『ハワード・ヒューズ ー ヒコーキ物語』(2005)

◎映像
TVスペシャル『ハワード・ヒューズ物語』(1977)
映画『アビエイター』(2005)
映画『ザ・ホークス』(2006)
映画『地獄の天使』(1930 ヒューズ監督・制作)
映画『暗黒街の顔役』(1930 ヒューズ制作)

(その他、ニクソンついて、ジョン・ディーン著「陰謀の報酬」(2006)とか、永年、ヒューズの映画を創ることに情熱を燃やしていた、ウォーレン・ベイティの制作・監督・脚本・主演作である『レッズ』を観るなどの迂回や、ネット検索も大いにしましたが、ヒューズの英語資料は、MJ関連の何倍もむずかしく、重要な著作でも日本語では読めない本も多い。1999年の谷崎一郎氏、2005年の藤田勝啓氏の著作は、いずれも、その時代までの英語資料の多くが、巻末に記されている真摯な本でしたが、

特に、谷崎一郎氏の『ラスベガス物語』で、

筆者は、多くの過去の文献を読み、自分なりにハワード・ヒューズという人間像を理解したつもりであるが、その人間像からは巷で噂されるような「マフィアと対決するためにラスベガスに乗り込む」ようなイメージは湧いて来なかった。

という「巷の噂」が記されているものは、まったくヒットしませんでした。

大勢の人が興味を抱き、これだけ多くの資料が、50年近く出版されていても、未だに1人の人物に対して、光が当てられていない部分や、忘れられている部分があることに驚きますが、おそらく、MJに対しての興味が尽きないのも、同じ理由によるものだと思います)

ただ、多くの資料で繰り返し言及されていても、それは、単に情報として受け継がれているだけで、何度も検証されたわけではありません。

私がそれらを鵜呑みには出来ないと思うのは、アイゼンハワーが軍産複合体を批判し、ケネディが暗殺され、ニクソンが盗聴事件で失脚した、そんな時代に、軍事機密に関わる最先端の飛行技術に関わり、ライヴァル会社と熾烈な戦いをしながら、個人主義を貫こうとする世界一のお金持ちが、盗聴や、暗殺を怖れるのは当然にも関わらず、

そういったことにはほとんど触れず、様々な彼の決断を「彼の病気」を原因とするものが多いからです。

彼が強迫性障害で、不潔強迫だったと断定的に書かれているものは数多くあります。またその原因は、

・幼いころの潔癖症の母親の影響
・墜落事故のとき痛み止めとして使われた麻薬中毒による精神衰弱

であるとされています。

トラウマはフロイトが用いたことで有名になった用語ですが、私は、こういったことを原因と断定し、医学的・科学的といった断定の仕方をする人ほど、フロイトの本など読んでおらず、自分と同じように読んでいない人や、科学的思考のできない人を騙ます人ではないかと疑いますね(トラウマ理論が大好きな割には、現代心理学ではフロイトの評価は低い、、とか、何でも受け売りで済ませているくせに、エラそーなことだけは言いたいタイプw)。

偉人を「病気」や「症例」として語るようになったのもヒューズの時代からでしょうか。精神医学や心理学といった、今では「疑似科学」として疑われるようになった分野はこの頃から大いに発展し、信じている人も多いですが、それで精神病の治癒率が上がり、人の心が癒されましたか? どれだけ他者を理解できるようになったんでしょう? 

多くの普通の人に「病名」や「症例」を与え、薬の消費量を上げ、社会全体を病気にしただけではないですか? 

分類しただけで、なにか解ったような気になって、その方法をあてはめることが流行しているだけではないですか?

それらは、歴史上の偉人たちを「等身大」として理解する物語に寄与し、マイケルが尊敬していたチャップリンや、ピーターパンの作者のJ・Mバリは、いつしか幼児性愛者に「分類」されるようになり、マイケルも同様の疑いをかけられるようになりました。

また、ハンサムな青年として人々の注目を浴びて、(MJの場合、幼少時からですが)お金持ちになり、多くの女性にもて、大成功をおさめたあと、社会から身を隠し引き籠もった。ということも、一般的なイメージでは、ふたりに共通していますが、MJの場合は、TV出演やステージを行なわなくなっただけで、後輩のミュージシャン達とのレコーディングも続けられていますし、晩年親しくつきあいがあった人は大勢います。

ヒューズに関しては、自分の会社をまかせているような人物でさえ、彼とのミーティングは困難を極めたという話は確かに多く、上記の本の中で、唯一ヒューズの側近であったノア・ディートリッヒの本にも、それは記されています。

でも、ジョン・キーツ本で、「ヒューズの事業は、80%がノア・ディートリッヒの才能、20%がハワード・ヒューズの賭博師魂」と評された、ヒューズ帝国のNo.2だったディートリッヒ本を読むと、その20%の重要さや、また、永年近くにいたからと言って、知っている部分は極限られるということもよくわかりました。

それは、よく考えてみればあたりまえのことで、結婚して10年以上一緒に暮らしている夫婦だって、相手のことを「よく知っている」なんて言えませんし、それは仕事現場での評価や見られ方とは正反対の場合も多いですよね。

ディートリッヒが話した内容は、公認会計士として、ヒューズがどれだけ損失を出したかについて、おそらく正確なのでしょうが、彼が世界一のお金持ちになったのは、自分のおかげだと終始言わんばかりの内容で、日本版の翻訳者あとがきには、

著者のノア・ディートリッヒは、ヒューズを奇人・変人・矛盾人間で片付けているが、読む人によってそれぞれ異なるのではなかろうか。訳者の印象では「ヒューズ帝国」の80%は自分が築いたと自慢しないとはいいながら自慢している著者より1枚役者が上であり、ひょっとすると、30余年間ディートリッヒが悩まされ続けた、ヒューズの矛盾だらけで、支離滅裂で無軌道な行動の陰には冷徹な計算ーーまで行かぬまでも、本能的な勘もしくは判断が働いていたのではないかと思われる。。。

と書かれていて、私は大いに共感しました。

ディートリッヒは、個々の取引においての損得を、年間の会社収益として見ていただけで、多くの人がヒューズに感じた「魅力」については悉く覆すような内容なのですが、それなら、なぜ彼が理不尽な要求に永年耐えてきたのか。という読者の疑問については、最初は魅力的だったけど、後年の彼からは魅力が消え失せ、耐えがたいものになったと、彼の容姿が衰えたことなどが書き連ねてあって、そこからわかるのは、ディートリッヒが極普通の嫉妬深い男だということだけです(笑)。

歴史を書き変えようとする天才たちの日常は、普通の人にとって理解しがたいことの連続で、親しい人間や、その場にいた関係者ほど見誤るというのは、マイケル研究で何度も経験したことです。

読者の多くは、天才のことを知りたくて、こういった本を手に取るものですが、それに相応しい書き手というのはほとんどいません。

1977年のTV番組『ハワード・ヒューズ物語』には、ヒューズが操縦する飛行機の中で、彼が自分の映画の脚本家と話をするシーンがあります。

脚本家 「主人公が最後に憂き目に遭うという話です」

ヒューズ 「その結末は気に入らない。主人公は仕事も恋人も自信も失う。

脚本家 「人生は甘くないですから」

ヒューズ「彼は浅はかで根性なしだ。映画の結末にはふさわしくない。変えてくれ。この世は特異なものだ。大抵の人間は他人に興味を示すものだ。でも、僕は他人には興味がない。興味はもっと他にある。

我々を取り巻くすべてが興味深い。地球とその神秘さ。空、そしてその先に広がる宇宙。隣人を理解したいという気持ちより、なぜ季節が移り変わるのか知りたい。退屈な人間が多すぎるんだ。

でも、どの人間にも価値がある。古臭いかもしれんが、真実だ。どんな人間にも価値がある。これが真実でなければ、僕は失業している」

このセリフは、実際にヒューズと仕事をした脚本家からのものではなく、「創作」なのかもしれませんが、世の中の多くは、スコセッシの映画『アビエイター』のように「人生は甘くない」方の真実を描こうとして、成功者の人生の最後を寂しいものにしたがります。それが自分の人生以上の悲哀でなくても。。

また、歴史を創ったような天才たちに対しては、彼らを尊敬している人でさえ、壁を築いたり、王座の孤独を「勝手に」想像するものですが、それらは例外がないほど「類型的」で、共演者たちを死ぬほど笑わせていた、マーロン・ブランドも同じように見られていたことを思えば、ヒューズが表に出ようが出まいが、おそらく言われたことは同じだったでしょう。


青年時代から、女にモテ尽くし、食べることにも興味がなく、様々なことに挑戦してきたヒューズが、60代から、さらに大事業を成し遂げようとしたとき、社交にかける時間の一切を切り捨てる決断をしたとしても、彼が実際にそれを成し遂げたことを思えば、それは病気ではなく「合理的」だったのではないでしょうか。

天才とは、そういった現実に反抗しようとする人への称号で、真の天才とはそれを本当に成し遂げた人のことでしょう。

安定した普通の幸せに満足し、その価値観で天才たちを見ると、彼らが苦しんでいる姿に耐えられず、理解もできないものですが、天才たちには、それが退屈にしか見えず、そのような日常に埋没して生きることを徹底して嫌う。

多くの人を自分の人生に巻き込む力があったヒューズや、MJには「どんな人間にも価値がある」ことは、わかっていたでしょう。

人生は甘くない。と何度も言いたがる人々は、自分に見える現実以外は認めようとはしませんが、

真実は、選び取る人の目によってどうにでも見えるものです。





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by yomodalite | 2014-05-15 09:46 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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☆マイケルとハワード・ヒューズ[5]の続き

マイケル・ジャクソンが旅立った後、彼への印象が変わったという人は多いと思う。

それまで、多数のメディアが報道していた堕ちたスターの姿とは異なり、他の誰ともちがう、まぎれもない天才だったことを、MJが、その一挙手一投足のみで覆したことへの衝撃は大きく、彼が「被害者」だったと印象づけられた人は大勢いると思います。でも、メディアが彼の秘密を暴こうと躍起になり、彼のイメージを貶めて行ったのは、マイケル自身の卓越した「戦略」が、永きに渡って功を博し、すでにこれ以上は考えられないほど成功したスターが、金にモノを言わせて、他にマネの出来ないプロモーションを行なうことへの反発があったということも忘れてはいけないと思います。

下記は、ヒューズの遺産によって創られた「Howard R. Hughes College of Engineering」がある、ネバダ大学ラスベガス校のサイトから、

MJが言っていた「僕にとって、彼はある意味、先生なのかもしれない。人を操る術っていうか、彼はみんなが興味を持ってしまう方法を知っていた」というヒューズのメディアコントロールに関連した文章を。


あの大胆不敵な飛行機乗りはどうなったのか?

破産に追い込まれてもいいから一発勝負してみたいという気持ちにかられて、あの現実離れした街、ラス・ベガスに行ったら、あなたはある日きっと次のような場面に出くわすことだろう。

痩せて、疲れ果てたような表情の男がいる。背が6フィート3インチあって、黒っぽい色の、どうということのないズボンに、胸元のボタンを開けた白いシャツのその男は、華やかなホテルのバーのテーブルで、ステーキとサラダをぼそぼそと食べている。贅沢と富にあふれた雰囲気に囲まれながら、ポケットの中で二枚の1ドルコインを擦り合わせることさえ、彼には不可能のように見える。その男こそ、ハワード・ロバード・ヒューズだ。間違えようがない。ハワード・ヒューズのような男は1人しかいないのだから。

その数週間前、ラスベガスで、八歳の娘を連れた女性が、ヒューズのテーブルにやって来て、サインをねだった。ヒューズが快く応じると、女性は感激して言った。「あんなにたくさんの有名な女優さんを世に送り出した方のサインがいただけたこと、娘はきっと自慢にするでしょう」ヒューズはサインし終わると、女性が人混みに隠れてしまうまで、彼女の姿を見送った。「さて」と彼は悲しげに言った。「あの大胆不敵な飛行機乗りのハワード・ヒューズはどこへ行ってしまったんだ」と。ーー スティーブン・ホワイト「ハワード・ヒューズ物語」(ルック誌1954年2月9日号掲載)

カール・バイオアール社は、ロサンゼルスの大手広告代理店で、顧客には名だたる有名人や企業がある。しかし、会社にとって最も手強く要求の多い顧客はなんと言っても、ハワード・ヒューズだった。

1996年、ネバダ大学のスペシャル・コレクションは、ラスベガスにあるハワード・ヒューズ・コーポレーションから、ディック・ハナの顧客関連ファイルを入手した。


ハナは、バイオアール社の副社長であり、顧客部の担当重役でもあって、ヒューズの広報を受け持っていた人物である。

ヒューズの他のエージェントと同じく、ハナは、自分に割り振られた役割をはるかに超える働きをした。数え切れないほどの発表記事を書き、「承認済み」の写真をセットにしたマスコミ用の資料を作成して広報活動を取り仕切っただけではなく、ヒューズについて書かれた記事や、ヒューズが興味を持っていることについて書かれた記事について、膨大な量の情報を集めることもやった。


ハナがヒューズのためにやる仕事は、ハワード・ヒューズに対する、そして世間からの厳しい目にさらされる彼のビジネスや政治的な指向についてのイメージをコントロールすることであり、ヒューズ本人について、あるいは彼が利害関係を持っているか、脅かされていると感じているものすべてについて、マスコミがどんな記事を書いているかチェックすることだった。


ハナが(仕事の)料金請求のために入念につけていた時間表は、彼が多岐にわたる、時には通常では考えられないような仕事を、顧客のためにやっていたことを示している。


1950年、12月:ヒューズ・ツール社のために、新聞と一般雑誌の記事のチェック、切り抜き、ファイリング。政府と民間の報告書から、関連するものをピックアップし、分析。

1950年、12月18日。独身男性に関する記事をのせる予定の国内誌とミーティング。ヒューズ氏の写真が1ページサイズで、レイアウトのトップにくること、好意的に扱われることを確認。

1950年、1月24日、26日。(流れから行くと、これはたぶん1951年の1月ではないかと思う)顧客の要請により、ある女性団体の資金源、活動、評判についての報告書を準備。

1951年、4月19日、20日、23日。顧客の要請により、全米黒人地位向上協会の活動、評判、資金提供元について、特別報告書を準備。

1951年、11月。ある国内誌の編集者たちと、執筆者及び全体的な雑誌の運営について話し合い。情報を西海岸に伝えること。

1952年、4月1日。ニューヨークの日刊新聞の編集委員と、ヒューズ氏の映画産業における共産主義との戦いについての社説が、どのような情報をもとに書かれたか話し合う。

1952年、7月24~25日、28日。8時間。顧客の要請により、過去の新聞に載った、あるミュージカルの批評記事をチェック。報告書を西海岸におくる。

1968年の、ハナによるヒューズのための報告書には、次のような見出しがついている。

「ヒューズ・オフィスのための特別業務 ---- 目的:この報告書は、種々雑多な内容を含んでいる。重要であるものも重要でないものもあるが、ハワード・ヒューズ氏は、(このようなことが)我々の仕事の中でもっとも重要な役割を持つものだ、という見方をしている」

1970年、9月の報告書の記述:ハナは、顧客の幹部で、高名なビル・ゲイ(ヒューズ関連のいくつかの会社の幹部)や、最近はそれほど重要メンバーではなくなっている、ボブ・メイヒューのための「特別調査プロジェクト」に少なからぬ時間を費やしてきた。これらの報告書には、広い範囲の噂話の追跡、現在進行中の訴訟およびこれから起こりそうな訴訟(たいていは、チェスター・デイヴィスとの)の把握、そして、時には何と表現して良いかわからない、顧客の要請による様々な事柄についての業務が含まれている」

1972年、2月25日。顧客の要請で、1970年のマスターズ・ゴルフ・トーナメントの1時間版をチェックし、ジャック・ニクラウスのプレイに関して、特定の出来事が起こっていると言うことを確認。トーナメントの最終ラウンドにおけるニクラウスのすべての動作を二度チェック:顧客側の担当者に、発見したことを報告。


100立方フィートに及ぶコレクションは、マスコミがどのようにヒューズをあつかったか、彼についての記事がどれほど(ヒューズ側からの)演出と、管理をうけていたものであるか、を示す、最も説得力のある貴重なコレクションである。


しかし、その事を超えて、ヒューズの並外れた情報収集活動の全体像を見せるこのコレクションは、どんなものがヒューズの興味をひいたか、を表してもいる。コレクションはまた、ヒューズが広告代理店を通じて承認した「公式ハワード・ヒューズ写真」のほとんどを含んでいる。


執拗に、そして異常なほどに世間の目を避けていた男が、これほどにも広報活動に長けていたことは、ハワード・ヒューズがかかえる多くの逆説のひとつだ。


ルイ14世以来、公に知られた人物が、大衆の自分に対する認識をこれほど極端にコントロールした例はない。


ハワード・ヒューズがラスベガスにいた年月について、最も事実を明らかにし、人の興味をひくであろう証拠文書は、マイケル・ドロズニンの著書『市民ヒューズ(Citizen Hughes)』のもとになった、謎めいた大量のメモの中に見られる。

一方、ハナの残した文書は、生身のヒューズを表すものとしては少し弱いが、「知りたい、コントロールしたい」という偏執症的な衝動に駆られてヒューズがやった活動の、多くの部分を明らかにしている。ハナの任務は、マスコミや一般のイメージを監視し分析することであり、ヒューズにとって有利な流れを作ることであった。任務の大部分は、地道に新聞記事を切り抜くことだった。スプルース・グース(木製の世界最大の8発エンジン飛行艇)の建造と「飛行」の記事、あるいはヒューズの製作したRKOの映画の宣伝記事については、何箱もの切り抜きがある。


また、ラスベガスの資産についてのファイルや、ヒューズに影響や脅威を与える事柄、たとえば原子力委員会、クリフォード・アーヴィング、マフィア、ウォーターゲートの公聴会、果てには、ハワード・ヒューズの事を書こうとした作家やジャーナリスト、番組を作ろうとしたテレビ・プロデューサーなどについてのファイルがある。ハナが最も手をやいた問題のひとつは、ヒューズは実は亡くなっているという噂が、絶えず立つことだった。


メイヒュー事件で、ハナのオフィスには何箱ものファイルができることになった。メイヒューを、ヒューズの「ネバダ事業」の責任者からはずすという「政変」は、名誉毀損での訴訟と対抗訴訟に発展し、ヒューズの謎めいた「ネバダ事業」への、マスコミの関心を高めることになった。ファイルにおさめられているのは、宣誓供述書の写し、記者会見の記録、モーリー・シェイファーがどうしてヒューズのラスベガス資産は損失を出し続けているのかを調査したテレビ番組「60ミニッツ」の台本などで、それぞれ注釈がついている。ヒューズの陣営で、誰が誰から金を盗んでいるかという問題は、ウォーターゲートやヒューズとべべ・レボゾ(ニクソンの政治顧問)の関係と同じくらい、人々の興味をひく話だった。ヒューズ帝国の支配にむけてのビザンチン作戦が明らかになる中、ディック・ハナは静かに自分の仕事を遂行した。


ヒューズのイメージをコントロールする仕事は、ヒューズのウォール街の弁護士(金融担当弁護士?)であり、ヒューズ・ツールの副社長兼主任弁護士でもあったチェスター・ディヴィスがローズモント・エンタープライズ社を設立したころには、あり得ない域に達していた。ローズモント・エンタープライズは、ヒューズグループの子会社で、ハワード・ヒューズに関する、現在・過去・未来すべての文献をコントロールするためだけに設立された会社だった。


ヒューズに関わる記事、ニュース映像を、それがどこのものであろうとすべて探し出して、リストアップするためにスタッフが雇われていた。スタッフは、すべての映像や写真に対する独占権を手に入れようとした。情報提供者のネットワークを通じて、ヒューズについて調査し、何か書こうとしているライターについては、だれであろうとローズモントの「オフィス」に、つまり、ロサンゼルスのロメイン・ストリート本部にいるビル・ゲイのとこに、報告が行った。


ライターは身辺調査され、連絡を受け、ローズモントが、ヒューズから彼の画像や伝記についてのすべての権利を委託されており、ライターの持っている素材を「発展させ、有効に活かす」権利を独占させてくれるなら、金を出す用意があると、告げられるのだった。もし買収に応じなければ、ライターも編集者も出版社も、訴訟という形で脅かされた。ローズモントのファイルには、多くのジャーナリストについての報告書とともに、多くの出版されなかった作品が含まれていた。それらのいくつかは、ヒューズを完全なフィクションの形で描いたもので、ライターがローズモントからの支払いに応じたものだった。ライターの原稿を手に入れるのは、実際は「発展させる」ためではなく、世に出さないようにするためだった。

ヒューズがどれだけ自分について書かれたものを抑えようとしたか、プライバシーに踏み込まれることをどれほど激しく嫌悪したかは、1962年に「ライフ」が彼について書いた記事への対処の仕方に表れている。


その頃ヒューズは、TWA航空の経営に対しての訴訟に巻き込まれており、世評に関しては特に敏感になっていた。それでも、自分のところのスタッフや妻のジーン・ピーターズさえも動員して、「ライフ」にインタビューの申し出をしていた。訴訟の件で、騒がれるのを抑える、または引き延ばすもくろみで。


彼は弁護士のガイ・バウツァーや広報担当のディック・ハナ、そしてクラーク・クリフォードという、非常に影響力のあるワシントンの弁護士を、「ライフ」側に送り込んだ。記事について雑誌側と「話し合い」、訴訟についての記事はなくすか、少なくとも最終稿はヒューズの承認を受けるようにと、雑誌を説得するためだった。ライフ誌はヒューズに屈せず、記事を載せた。後になって、クラーク・クリフォードは、本心を隠して、記事が載ったのは良いことだったという意見を述べた。クリフォードの手紙をビル・ゲイに回したロバート・メイヒューは同意しなかったが。代理人たちが記事を差し止めることに失敗したことは、ヒューズを激怒させた。彼はその怒りをガイ・バウツァーにぶつけた。バウツァーは、温厚でハリウッドでは有名な弁護士で、このクライアントの爆発ぶりにはなれていた。


「以下のポイントについて、簡潔かつ迅速な返答を送るように」とヒューズはバウツァーに書いている。

「しかし、前もって言っておく。この週末に君と個人的に話がしたい。その目的はお互いをより理解するためだ。目下のところ、われわれの現在の関係はこれ以上にないほど、悪化し、敵対的になっている。この前に話し合った時は、病気が回復し始める前だったために私はせいでかんしゃくを起こし血圧が急上昇し、話し合いは中断してしまった。そのあと私はひどく落ち込んでいる。たしかに、私はほかの人と同様、議論の的になっている物事を、自分の側から見る傾向がある。しかし、同様に君も、物事を自分の側から見る性分ではないか。


私は君が、ほかの何よりもノース・ウェスト航空の経営に興味を持っているように見えるのが気に食わない。君はいつも「自分はきちんと仕事をしている」と答える。しかし、その仕事がノース・ウェスト航空に利するものであるなら、私にとっては何の価値もない。私がノース・ウェストを所有しているのは長くてもあと1ヶ月なのだから、君の労力をそちらに向けてほしくはない。今は、ライフ誌の件と、ほかの3つか4つの懸案が私の心身にナイフのように突き刺さり、健康を回復しようとする私の努力を無にし、信じられない速さと力で、日々私を墓場のほうへと押しやっているのだ。


君のノース・ウェストでの働きは、ホノルルにいるヘンリー・カイザーならたいした仕事だと言うかもしれない。しかし私は今磔にされるような苦しみを味わい、ジーン(ハワード・ヒューズ夫人。女優ジーン・ピーターズ)はマリリン・モンローと同じ道をたどるんじゃないかと、賭けが行われているくらいだ。


このような状況の下では、君が1分であってもノース・ウエストのために時間を割くことは、私に耐えがたい苦しみを与える。君の時間と労力はすべてライフ誌の件のために使われるべきなのだ。

返信を待っている。対応は、午前中のうちにできるかわからない。私はもう疲れ果てているからだ。


(こちらは、kumaさんに訳してもらいました


ヒューズが、「ライフ」など、メディアに登場した自分の記事を集めていたことについて、同じようにメディアに苦しめられていた、マーロン・ブランドの自伝にある文章も紹介しておきます。


マスコミが話を勝手につくった場合、私は他人からどう思われようと知ったことではないと、無関心をよそおった。われ関せすの態度を押し通したのだ。しかし、それは仮面でしかなかった。新聞や雑誌に事実無根で、わいせつな作り話を書きたてられ、ひどく頭にきたこともある。なかでも腹にすえかねたのが、『タイム』誌と『ライフ』誌の記事だ。親会社であるタイム社のしっぽをつかもうと、私はさる調査機関をだきこんで、あらさがしをさせた。8千ドルを投じ、タイム社のニュース歪曲の歴史を膨大な調査書にまとめた。


それから、次つぎにテレビやラジオに出演しては、『タイム』と『ライフ』をこきおろし、その広告をくさした。しっぺ返しがしたかったのだ。私の狙いは中傷だったが、タイム社には打つ手がなかった。私は同社のゆがんだ報道が社長ヘンリー・ルースの偏見にみちた政治思想を反映しているという事実を、そのままなぞっていたにすぎないからだ。タイム社の非愛国的な出版物はアメリカ合衆国の評判を落としており、海外で祖国の威信を傷つけている。社が事実をねじまげて、外国を誹謗したつけは、いずれ国家が払うことになるだろう。そのように私はテレビやラジオで主張した。私は復讐を心から楽しんだ。長い間、私はこうやって生きてきたのだ。不当な仕打ちを受ければ、かならず報復した。


タイム社は私のところに密偵を送りこんだ。友人の親戚にあたる女だった。口実をこしらえて訪ねてきた彼女を、私は食事に誘った。マーティニがきいたのか、家に戻ろうとする頃には、私はハンドルさばきもままならず、ハイウェーをジグザグ運転するほど酩酊していた。女はさらにひどい様子だった。私の家の車道に車をとめて、降りようとすると、女はまだけなげにも任務を遂行しようとした。まわらない舌で、こう言ったのだ。「マーロン、なぜタイムを攻撃するの? 何か目的なの? 一体どういうことになっているの?」


「ああ、あそこの雑誌はすばらしいよ」私は言った。「だが、少々訂正すべきところがあったんで、テレビに出てそう言ったまでさ。歴史はきちんと伝えないと、まずいからね。ぼくはマスコミの誤報をただすのが国民の務めだと思っているから、このまま続けるつもりだよ。実際、感謝してほしいくらいだね。雑誌には『読者の声』の欄があるだろ。ぼくのしていることは、ある意味で『読者の声』と同じだよ。アメリカの評判を傷つけてはいけないとタイムがさとるまで、ぼくはえんえん、手紙を書きつづける……」


 そこで、私は女を茂みのなかに押し倒した。敵の密使と一戦交えようという魂胆だった。だが私は満足に動けないほど泥酔していて、女の耳たぶと蔦の区別さえつかない状態だ。女は貞操を失うことなく、無事ニューヨークに帰っていった。しかし、その夜を境に、タイムはほとんど私の名前を出さなくなった。もし記事にしたとしても、ぞんざいな書き方だ。タイム社は大会社である。しかし、これはダビデとゴリアテの物語だ。眉間にぴしっと石を当てれば、強大な敵もいちころなのである。(『母が教えてくれた歌』P253〜254)


(引用終了)


ヒューズの人生と業績がざっくりわかる優れた日本語の動画!
MJがヒューズと同じように語られていることがよくわかる?





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by yomodalite | 2014-05-09 22:49 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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名古屋旅行で中断していましたが、ヒューズ探求の旅は、まだまだ終えられそうにありません。

私も知らないうえに、おそらく読んでくれている人も知らない。資料は少ないうえに、古いものばかりというヒューズについては、調べることだけでなく、どう書けばいいのかもわからないんですが、

でも、、MJから「大好きなんだ」「ぼくの先生かもしれない」を聞いてしまうと、それもちょっと秘密なんだけど。というニュアンスで漏らされると、もうどうしようもなくて、あっという間に、デスク周りは、ヒューズ関連のものばかりになり、暇な時間のすべてをどっぷりとヒューズに浸かっています。

彼が「大好きだ」というヒューズに辿り着けるのは、まだ先のことかもしれませんが、ひとつひとつ、ツブしていく感じで、この映画も観てみました。





『ザ・ホークス』の監督は、『ギルバート・グレイブ』や『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のラッセ・ハルストレム。

ディカプリオが最初にオスカーに近づいた作品を撮ったハルストレム監督も、ヒューズに関しての映画を撮っていたんですね。こちらが公開されたのはイタリアでは2006年、米国では2007年。『アビエイター』は2004年末の映画でした。

『アビエイター』は、TWA(トランス・ワールド航空)が国際線に進出するといった1950年あたりで終わるのですが、『ザ・ホークス』で描かれているのは、それからずっとあとの1970年代。

この2作の映画を観てつくづく思ったのですが、2時間映画でヒューズを描くのは至難の業で、両方見ても、元々ヒューズについて知らない人が彼を理解するのはむずかしい。


この頃のヒューズは人前に出なくなっていたものの、人々の彼への関心は強く、ヒット作を探していた、売れない作家アーヴィングは、贋作画家の伝記を取材していた経験から、ヒューズの伝記を「創作」することを思いつき、

企画を持ち込まれた出版社の編集者は、ヒューズの自伝は、聖書よりも売れることを確信し、出版社も、連載を見込んだ「LIFE」誌も、その興奮の渦に巻き込まれて行く。

物語の終盤では、その本が「ニセモノ」であると、ヒューズ自身が語っている電話の音声が流れ、アーヴィングは「ニセ伝記」を創作する過程で送られてきた資料から、ヒューズとニクソン大統領の関係において、自分の「ニセ伝記」が利用されたことを示唆し、また、アーヴィング自身がヒューズと同化していく様子や、彼の一番の理解者のつもりでいたことなども。。

アーヴィングはこの詐欺事件の主犯でありながら、この事件の真相本も出版していて、それがこの原作なんですが、この事件以前にアーヴィングが取材して本にした贋作画家の話も、あのオーソン・ウェルズが『フェイク』という映画にしていたり、







上の動画で、町田氏が語っている以外にも、アーヴィングは詐欺事件で服役後、日本でも翻訳されるほどヒットした小説も書いてたり、彼自身も、何人もの女や、男を虜にしてしまう人物のようです。

この映画を観ただけでは、この「ニセ自伝」に老舗の出版社や、マスコミ人が惹き付けられた事情についても、アーヴィングがこの大胆な計画に突き進んでしまった理由についても理解しにくいのですが、

私が、原作本の『ザ・ホークス』を駆け足で読んだ印象では、アーヴィングは、当時人々がヒューズに抱いていた「奇行で人生に落ちぶれた大富豪」というイメージに疑問を抱き、小説家の空想力によって、むしろ「真実」にせまろうとしていたように思いました。

(原作本は上下刊で長いうえに、中古本でしか手に入れられませんが、ヒューズに興味がある人にはオススメの面白い本です)

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下記は、アーヴィングが「創造した」ヒューズのインタヴュー

ヒューズ「わたしは奇行で有名らしいが、その点はなんとも思っていない。奇行は卓越した知性の証だ。いや、自分に卓越した知性があると言いたいのではない。自分にそんなものがあるとは信じていないからな。本当だ。ただ、わたしは、、、そうだな、このように表現しようか。奇行を嘲る者は、、、奇行を嘲ることは、劣る知性の証だと。(中略)わたしの奇行は注意深く見てみれば、人生にはありふれた危機に対する知的な防御に過ぎないことだ。

それ以上に、どんな人間でも奇行はやるものだ。どんな人間も、いわゆる変わった態度を取ることはある。必ずしも、わたしの行動と同じではなくても、その人間なりの変わった態度があるんだ。その人間に勇気さえあればな」

アーヴィング「そして金があれば」

ヒューズ「そう、金だ。欲望の思いのままにふけることのできる金、気に入らなければ他人に地獄へ堕ちろと言えるだけの金だな。(中略)わたしの変人ぶりだけがわたしの個性だ。ほかの者が表現不可能、あるいは肝っ玉が小さ過ぎて表現できないときでも、わたしには表現できる余裕がある。(中略)正直に表現していればーーどれだけ変わっていても構わない。芸術家に近い考え方だな。そのあたりの感覚から見ると、芸術家はわたしのように裕福な男に近い。芸術家は個性の感覚を高度に磨き上げているし、ためらわずに世界にくそくらえを言える(後略)」

引用終了(『ザ・ホークス』上巻、275〜277ページから)

この映画は、ヒューズを描いた映画ではなく、

ヒューズをネタにした詐欺事件を描いているのですが、ディカプリオがヒューズを演じるために、若くして神経症にかかり、早々に破滅したかのような『アビエイター』に比べれば、

MJが仕掛けをしたと言っている「ヒューズの策略」についてや、人々のヒューズへの関心や、ねじれた愛情をも織り込まれ、わずかではあるものの、実際のヒューズの映像や彼の声も記録され、ヒューズ現象の一端が垣間みれます。

ハルストレムは、この映画を「コメディ」と捉えていて、ニクソンとの関係についても、アーヴィングの妄想や、70年代に作家が飛びつきそうなネタとして扱っているように思えますが、そんなところも、私には、社会派として骨太さがなくなっているスコセッシよりは「大人向け」の映画に思えました。

私が観た「レンタル版DVD」に納められた関係者インタヴューで「作品の教訓について」聞かれた、アーヴィングの妻を演じたマーシャ・ゲイ・ハーデンは、

ウソをつくな、なんて言うつもりはないわ。伝えたいのは、そんな平凡なことじゃなくて、人は自分の信じたいものを信じるということよ。

と答えていました。マーシャ・ゲイ・ハーデンの言っている意味とは違うかもしれませんが、私にとって、この映画では、何が正しいかをジャッジせずに描かれているところが魅力的で、マイケルのヒューズに対しての感情に、スコセッシよりは、近い人々によって創られているようにも思えました。


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クリフォード・アーヴィング(Clifford Irving)


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by yomodalite | 2014-04-26 10:26 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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ヒューズの人生を「神経症」で埋め尽くしてしまったのは、
この映画を製作・総指揮し、彼の神経症を見事に演じることで、
オスカーを取りたかったレオ様のせいなのか。

自分にオスカーをもたらせてくれた主演俳優のプランに乗った、
スコセッシの罪は…

脚本に使われた資料の不正は、制作を急いだためなのか(笑)

ヒューズの描き方について、なにか圧力があったのか(笑)

名匠と言われる監督や、ベテランスタッフなど、
映画界の先輩たちが見守っていながら、どうしてこんな結果になったのか(笑)

いったいどこが捏造なのか、今回は画像で検証します!(笑)

ヒューズは、リンドバーグと同世代で、飛行機の操縦は、身体的能力や、勇気だけでなく、科学的頭脳も有しているような人々による未来への挑戦で、リンドバーグも、人工心臓の開発をするなど、当時の飛行家はまさしく「英雄」でした。

リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行は、ビリー・ワイルダーによって映画化(邦題『翼よ、あれがパリの灯だ』)されていますが、ヒューズは飛行家であるだけでなく、世界最速の記録をつくった飛行機を制作する会社を経営し、実際の飛行機が空を飛ぶ姿を、初めて映像におさめた映画の制作・監督までつとめました。

また、その映画の主演は、ヒューズ自身ではありませんが、彼を見た誰もが、主演俳優よりも、華やかな美男子ぶりに目を奪われた。

世界一の億万長者で、飛行の世界記録樹立、制作・監督した映画の記録的な大成功、数多くの女優たちとの交際…

下記は、人々に、彼がやることすべてが羨望のまなざしで受けとめられていた1930年代のヒューズの写真です。


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1930年、監督も兼ねた『地獄の天使』が記録的な大ヒット。写真はヒューズが見いだした主演女優ジーン・ハーローと。


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1935年9月、自社で開発したH‐I機に試乗したヒューズは、時速567キロの世界新記録を樹立。


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1936年1月、単身大陸横断無着陸飛行の新記録樹立。翌37年、その記録をさらに短縮。


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同年、のちのトランス・ワールド航空(TWA)の実質的なオーナーとなる。買収金額は700万ドルとも1500万ドルともいわれている。

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1938年8月、世界一周早まわり飛行。従来の記録を半分に短縮する記録を樹立。TWAの国内線、国際線の拡充の布石とする。


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ひげ剃り中に電話をうけるヒューズ。

ここからは、『アビエイター』では破滅の序章のように描かれた1940年代のヒューズ。


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1941年、映画『ならず者(The Outlaw)』のロケ現場を訪れる(36歳)


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1946年、女優エヴァ・ガードナーとボクシング観戦(41歳)


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1946年、親友ケーリー・グラントとTWAの飛行機内で。


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1946年、XFー11機のテストフライを終えたところ。


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1946年7月、XFー11機試乗中大事故をおこし、五週間入院。


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体の状態はわからないものの、顔の損傷はそれほど激しいものではなさそう。


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1947年、受注契約上の不正をめぐって公聴会に召喚される。(42歳)


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1947年、少年ファンに握手でこたえるヒューズ


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1948年「TIME誌」の表紙を飾る。(43歳)


若い頃から、病的な潔癖性に描かれていた、映画『アビエイター』ですが、自分から握手を求めていることも多い彼は、このあと必死で手を洗っていたのでしょうかww

また、エンジニアたちと一緒になって、油まみれになることも厭わず、いつもゴミと間違えられそうな作業着を着用していたとも言われていますし、ロケ現場の厩舎でも落ち着いて見え、細菌への恐れなど特に感じられないのですが...


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事故で顔におった傷を隠すために、髭をはやすことになり、徐々に人前に出なくなったと言われていますが…


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こちらも公聴会と同年の1947年。



映画では、公聴会(上院調査委員会)のあと時を経ず、破滅していったような描き方でしたが、翌年、1948年、ヒューズ工作機械、ガルフ醸造所、ヒューズ航空機は順調に発展し、同年赤字の映画会社RKOも買収。またヒューズ航空機の重要部門としてエレクトロニクス企業をおこし、カルヴァーシティに大研究施設も建造しています。

タイトルの「I'm not a paranoid」は、彼が言ったとされる下記の言葉から。

I'm not a paranoid deranged millionaire. Goddammit, I'm a billionaire.
私は誇大妄想の狂った百万長者なんかじゃない。いいか、私は億万長者だ。

彼がいつどこで言った言葉なのか、本当にそう言ったのかもわかりませんでしたが…、次は、ディカプリオではなく、リチャード・ギアが主演した、ヒューズに関する映画について。



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by yomodalite | 2014-04-14 08:28 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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