カテゴリ:MJ考察系( 75 )

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とうとう、(3)まで、書いてしまいましたけど、まだ最初に書きたいと思ったところまで、全然来てなくて、焦ったり、迷ったりしつつ、これ以上、自分の心が折れないように、初心を思い出したり、いいわけしたりしたいんですけど、

マイケルに限らず、考察をする意味というのは、自分以外の人のことを考えることで、「自分を知ること」だと思っています。

マイケルは、「偉大な人を学ぶことで、自分も偉大になる」と考えて読書をしていました。

私にとって「偉大な人」は、マイケルですが、自分も。。というようなことは、まるで考えられないので、読書をする行為という部分だけをとっても、ものすごい違いがあるわけです(それ以外はもっと違ってるんですけどねw)。それで、「マイケル・ジャクソンを読む」ということのむずかしさを実感したり、

彼が読んでいた本とか、彼が偉大だと思っていた人物について調べたりということを、コツコツとやっていると、こんなに偉大な人たちがいっぱいいて、命がけで歴史を創ってきたのに、どうして世の中はよくならないんだろうと思って、絶望しそうになるんですが、

偉大な人たちは、そんなことに絶望することなく、偉大な精神を未来に繋ぐために、その身を削ってきた人だということはわかってきて、その「偉大な精神」とは何かということもわかりました。そこだけは、はっきり「わかった」と言ってしまいますが、「偉大な精神」とは、

We Are The World と、Heal The World です。

(ちなみに、今ほどマイケル病にかかっていない頃、私は「Heal The World」という曲は大好きでしたが、「We Are The World」は嫌いでした)

マイケルのことを尊敬しているから、そう思うのではなく、世界宗教の創始者も、科学者も、思想家も、詩人も、政治家も「偉大なひと」はみんなその精神だと思います。

2015年の私だけじゃなく、2016年も、2017年の私もきっとそう思っているんじゃないかと思います。それについては、7年続けているブログでさえ、なにか書こうと思ってから、実際に書いてみると、まるで違う内容になってしまうと思うぐらい、自分の考えも、その書き方もわからない私にしては、めずらしいぐらい確信しているんですが、残念ながら、人は「確信」したときほど、間違ってるものらしくw、


名越氏は、立派な精神科医の方なので、こんな風に言ってくださいますが、ほんの少しかじったその方法論だけで、偉大な人を「病気」に分類したり、幼児期のトラウマや、悲惨な体験を発見しては、物事の真実を知ったと、悦に入っている人の方が世の中には多いので、その創始者であるフロイトが「精神分析」について、慎重に書いてきたこととは、まるで違っていて、

偉大ではない人が、ものすごく正しいと感じるときは、たしかに「ヤバい病気」に犯されている可能性は大いにあって、

しかも、その「ヤバい病気」というのは、ふつうのひとが「偉大な精神」に触れたとき、よく起こる病気で、世の中がよくならない原因でもある。といってもいいぐらいの「ヤバさ」なんですが、一旦、発病すると、完治に至ることは極まれで、もともと感染力が強いだけでなく、発病した人はみんな、積極的に他人をも感染させようとするせいか、少しづつ形を変えて、蔓延するので、どんどんヤバさが増していくという、ホントに恐ろしい病気なんですけど、えっと、何の話でしたっけ(笑)

そうそう、「マイケル・ジャクソン考察と、偉大な精神を考えることのむずかしさ」についてですよ。たしかww

とにかく、そんなわけで、「偉大な精神」のことを考えていたって、偉大にはなれないことが多いだけでなく、むしろ、そこから離れていくことが多いので、

だから、マイケルことはわからない。ってことになるんですけど・・・

でもね、残念なことに、すでに「発病」してしまってるんです。私だけじゃなく、あなたも。

私が考える「マイケル」は、しょせん、「私の考え」です。

私の考えを「マイケルの考え」のように書かれたり、MJではないものを、「MJとして捉えられている」ことへの不快感は、私も日々感じていますが、

本当は憎む必要がないものを、憎んだことで起こる問題は重大で、世界中の人を愛し、また愛された人のことを考えることは、「自分を知ること」だけでなく、少しでも「自分を拡げること」に繋げたいと思います。

マイケルを理解することには、なんの自信もありませんが、今後も、病とつきあっていくので、どうぞよろしくお願いします。


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by yomodalite | 2015-01-22 14:31 | MJ考察系 | Trackback | Comments(8)
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☆[2]の続き

ソニー社内の権力闘争という側面については、下記に詳しく書かれています。

http://homepage3.nifty.com/mana/michael-world7.html

上記は、『ソニー:ドリームキッズの伝説』にインスパイアされた素晴らしい記事ですが、実際の本の中で、マイケルに言及した部分は極わずかということもあって、
少しだけ異論というか、解釈を加えたいと思うのですが、

まず、私は、マイケルにとって関係のないソニー内の権力闘争によって、彼が犠牲になってきた。とは考えません。

私を含め、ほとんどのファンは、MJのような「KING」ではないので、大きなものに巻かれたり、その犠牲になるような経験しかないため、つい、大好きなマイケルのことも、自分と同じように弱い立場として想像しがちなのですが、

「スリラー」で始まった彼の物語は、「バッド」で「デンジャラス」な「ヒストリー」を創りあげ、これ以上ない「インヴィンシブル」な男だったことを、ファンはもっとも忘れてはいけないのではないでしょうか。

「オフ・ザ・ウォール」を続けるということは、常に戦いに勝利するということです。

80年代のイエトニコフ時代のCBSレコードはソニー最大の稼ぎ頭で、90年代のモトーラ時代の音楽部門は、映画部門と並んで、ソニー全体にとって、むしろ「赤字部門」だった。ということは重要な指摘なんですが、歴代トップと、モトーラとの最大の違いは、

モトーラが、マイケルに並ぶほど収益をあげたマライアを育てたことです。


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それまで、なんだかんだ、マイケル頼みだったこれまでの社長と違い、自分自身もアーティストの経験があるモトーラは、プロデュース能力によって、次々にスターを生み出し、マライアを90年代には、MJを凌ぐほどのドル箱に成長させました。マライアにとって「耐えられないほどの干渉」は、裏を返せば、それほど、きめ細やかな指導だったとも言えます。

彼は財務のプロフェッショナルというよりは、むしろ、音楽業界を知り尽くした、現場の叩き上げとして、社長の座を射止めたわけです。

音楽産業は転換期をむかえ、全米のラジオ局は、クリアチャンネルが独占するようになり、それぞれのDJが音楽を選曲して放送する時代は終わり、流通も変化しました。ニューズ・コーポレーションに代表されるメディア・コングロマリットは、5大ネットワークをゴシップ雑誌と同じ水準に引き下げ、彼らは、マイケルの驚異的な知名度をビッグビジネスに転化しましたが、レコード会社にとってはそうではなかった。

ますます売れなくなる音楽業界で、放っておいても売れるアーティストにお金を使わせるよりも、新人のプロモーションにお金をつかう方が、新たな収入源につながることは、誰が考えても明白で、それは、モトーラ個人の考えというよりは、レコード会社だけでなく、多くのビジネス現場で正しいと判断される考え方で、私たちが働く会社でも、ビジネス論理は同じようなものです。

マイケルが、他のアーティストと比べて、待遇面であまりにも恵まれていたことは否定できず、90年代、数々のスキャンダルに見舞われ、ブランド価値に陰りが差したマイケルに物が言えるのは、当時マイケルと同じぐらい稼いでいたマライアの生みの親であるモトーラだけ。。

病床にあった盛田会長だけでなく、当時のソニーは、映画産業への壁に阻まれ、デジタル化への変化の中でもがき続けている最中で、マイケルと同様のマインドを持ち続けたくても出来ない状況でした。


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赤字に転落していた音楽部門を立て直すために、モトーラに期待されたことは、アーティストを今まで以上に「売る」ことだったでしょう。元々ミュージシャンで、敏腕プロデューサーだったモトーラは、これまで成功したアーティストの方法論も、彼らの音楽についても、アーティストが売れたいと思う気持ちも理解できたと思います。

売れるためにはどうすればいいか。日々そのことを考えていたモトーラは、これまでの社長よりも、マイケルのアルバム製作にしても、宣伝活動にしても、現実的な目線で見ていたでしょう。想像でしかありませんが、マイケルの90年代の売上げに匹敵するほど、マライアを売った男は、それまでの社長よりもマイケルに具体的な指示をしがちだったと思います。

そういった意味において、MJにとって、モトーラは、歴代社長の中でもっとも「ウザい」相手だったのでしょう。

成功に導いた実の父親や、ベリー・ゴーディ、クインシー・ジョーンズといった人々でさえ、自分のやり方を通すために別離し、有能なマネージャーのディレオ、ソニーウォーズでも切り札になった版権取得を可能にしたジョン・ブランカでさえも、首にしてきたマイケルは、自分に指図するような相手と長くつきあうことはしません。

マイケルの業績として、彼が新しい音楽ビジネスを開拓したということがよく語られています。新たなビジネスモデルを創るということは、経済分野においては、彼の音楽よりも評価されることですが、それは、そのモデルによって、他の人にも恩恵が与えられるからです。

2015年の音楽業界でも「MJフォロワー」は数えきれないでしょう。

『MJ Tapes』の中で、マイケルは、マドンナのことをあまり良く語っていない理由のひとつは、自分の真似をすることで、自分に近い地位まで獲得した彼女に、自分とはまったく違う精神を感じるからだと思います。その感覚は複雑だと思いますが、

あえて、ひとことで表すとすれば、「PHONEY(偽物)」ではないでしょうか。


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私たちが、心の底から「本物」だと思うアーティストは、素晴らしいものの中にも、「偽物」を感じるような鋭敏な感覚を、永遠に持ち続けることで、真の「本物」になったのだと思います。

マイケルは、マライアの才能を認め、高く評価していますが、それは、彼女がマドンナと違って、自分のライヴァルにはならないということもあったでしょう。でも、社長として、売上げベースで比較すれば、ふたりのアーティストの価値は拮抗していて、モトーラは、その一方を創ったという意識で、マイケルに接したはずです。

「KING OF POP」のみならず、「KING OF MUSIC」であるマイケルがそれをどう感じたか、どんな山よりも高い、MJのプライドを知るファンとしては、彼が「イラっ」とする感じが想像できるんじゃないでしょうか。

「KING OF MUSIC」である自分の想像の翼をすぼめることは、「音楽を殺すこと」と同じだと、マイケルが考えても、彼のファンなら、ただの傲慢だとは思わないでしょう。彼のような音楽を創り上げるには、それぐらいの妥協のなさと同時に、ビジネス論理にも打ち勝つことが必要でした。

米国の一流企業のトップにとって、女性蔑視的な行動や、人種差別的発言を公表されることは完全に「OUT」です。SONYのようなコンシューマー企業は特にそうです。

マライアから、最初にモトーラについて相談を持ちかけられたときから、MJが内心ほくそ笑み、マライアを移籍に誘導していった。とまでは言いませんが(あ、口がすべったw)、ソニーから移籍したマライアから、モトーラの罪状を聞いたとき、小さくガッツポーズするMJが、どうしても私には見えてしまいます(妄想ですw)。

会社に莫大な利益をあげたアーティストを育てたことで得た地位は、彼女に去られたことで、危うくもなっていました。モトーラのマライアに対しての監視や盗聴行為は、ライバル会社に移籍した元妻が自分の立場を悪くすることへの防御の意味合いもあったでしょう。

マライアの口からそれを聞き出したとき、それは、MJにとって、「時はきた。」という瞬間ではなかったでしょうか(またまた妄想w)。

当初のインタヴューで答えていたように、MJのソニー攻撃は、モトーラ下しの手段という側面が大きかった。

ただ、MJの心の中では、結局、そのふたつへの怒りは、同じものとして、燃え上がっていったのだと思います。


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by yomodalite | 2015-01-21 06:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(10)
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☆[1]の続き

ソニーへの抗議で、MJが主張したと言われているのは、

1. 所有する版権を奪うために、アルバム『インヴィンシブル』のプロモーションを積極的に行わなかった。

2. ソニー・ミュージックの社長、トミー・モトーラの人種差別や、元妻(マライア・キャリー)への監視・盗聴などの行為

当初のインタヴューでは、マイケルは「モトーラに怒っているんであって、ソニー全体ではない」と言っていたものの、デモでは、「STOP CRIMINAL MOTTLA(犯罪行為を止めろ、モトーラ)」「GO BACK TO HELL MOTTOLA!!(地獄へ帰れ、モトーラ!)」以上に、「SONY IS PHONEY(いんちきソニー)」「SONY SUCKS(くそったれソニー)」「SONY KILLS MUSIC(ソニーは音楽を殺す)」といったプラカードを挙げているマイケルの姿が目立った。(プラカードはファンが用意したもの)




マライア・キャリーは、CBSレコード(現:ソニーミュージックエンタテイメント)の社長だったトミー・モトーラに見いだされ、1990年にデビュー。1993年にはモトーラと結婚し、1999年を最後にソニー・ミュージックを離れるまで、会社に1000億円を超える利益を与えたと言われるほどの成功を納めた。敏腕音楽プロデューサーだったモトーラが、彼女を成功に導いたことは間違いないものの、私生活と仕事の両面で厳しい干渉を受け続けたマライアは、ついにそれに耐えられなくなり、1998年に離婚。ヴァージンレコードに移籍する。


西寺郷太氏の『新しいマイケル・ジャクソンの教科書』には、

モトーラが元妻のマライアと別離後にした仕打ち、『インヴィンシブル』からほとんどシングルカットがされず、ショートフィルムが作られなかったこと、マイケルの呼びかけにより、21世紀の「ウィー・アー・ザ・ワールド」とも呼ばれた『ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ?』のリリースをなぜかソニーが拒み続けたことは、未だに不可解であり、ふたりの個人的感情のもつれとしか思えない。


と書かれています。ふたりの間に感情のもつれがなかったとは言えないでしょう。ただ、『ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ?』は、自然災害の被害者や、飢餓を救うためだけのチャリティ・ソングとは違っていました。


(下記は歌詞からの抜粋)

How many people will have to die before we will take a stand?

どれだけの人が死んだら、僕たちは立ち上がるんだろう?


How many children will have to cry, before we do all we can?

どれだけの子どもが泣いたら、手を尽くすというのだろう?


If sending your love is all you can give to help one live

人が生きるのを助けるために、愛を与えることができていたら


How many times can we turn our heads and pretend we cannot see

僕たちは、何度顔を背け、見て見ぬ振りをするのだろう?


See, then why do they keep teaching us such hate and cruelty?

よく見て欲しい、なぜ彼らは、私たちに憎しみや残虐を教えようとするのか?


We should give over and over again

僕たちは、何度でも与えよう


What have I got that I can give?

他に何かできる?


We should give over and over again!

僕たちは、何度でも、何度でも、愛を与えるべきなんだ


(yomodalite訳)


◎[参考記事]“What More Can I Give”が歌われる前に行われたスピーチ





日本語字幕 “What More Can I Give”

(私訳とは少し異なりますが)




911を憶えている人なら、あの頃、アメリカ中が戦闘態勢になり、国中に星条旗があふれ、イラク戦争への道に突き進んでいったことを憶えているでしょう。当時は、「イマジン」も放送禁止になり、人々の平和を求める声は抑えられ、戦うことを強いた時代でした。


それぞれ別レーベルのアーティストが参加したこの曲のリリースは、各レコード会社が、その壁を越えて、力をあわせなくてはならない事業でしたが、アフリカやハイチの支援活動と異なり、この時代の米国で「ひとつになること」を求められたのは「テロとの戦い」の方。


“What More Can I Give” は、同時多発テロ事件で傷ついた人々に手を差し伸べるだけでなく、その憎しみを利用して、戦争を起こそうとする政府に反した内容で、お金集めを目的とするチャリティ・ソングを越えたものでした。


モトーラでなくても、そしてSONY以外のレコード会社でも、“What More Can I Give” のリリースには、積極的になれなかったのではないでしょうか。


☆ソニーウォーズの意味について[3]に続く



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by yomodalite | 2015-01-20 06:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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正月三が日を明けた頃、尊敬するある先生から、

「私はPHONEY(偽物)が嫌いなんです」

という言葉を聞いて、私の頭の中は、SONYへの抗議行動を起こしたときのマイケルの姿でいっぱいになり、そのあと、その先生と同年代である吉本隆明のNHKの番組「戦後史証言」を見て、

SONYという会社が2000年以降のMJの活動を妨げ、その他諸々、彼への陰謀に関わっていたという論調に違和感を感じていた理由のひとつは、偏向する報道の視聴者であり、利潤を追求するために働いている「私たち」が抜けていたからだと思いました。

大衆の原像を忘却し、この原像から、思想が孤立することは恥辱である。大衆の思想は、世界性という基盤をもっているのだ。ー 吉本隆明「情況とはなにか」

大衆の原像とは、今のありのままの大衆ではなくて、大衆の理想化されたイメージであり、それを正しさの基準としなければならないのだと。

MJが背負った「KING OF POP」の「POP(大衆)」にも、それと同じようなものを感じる。

番組では、吉本隆明に影響をうけた人々だけでなく、同時代のさまざまな論客による彼への異論も紹介されていて、それぞれの人がもつ「正しさ」のものさしのようなものも見えたけど、「思想家」として、時代を超えるものと、そうではないものとの違いも、少しだけ見えたような・・

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そんなことを考えつつ、久しぶりに西寺郷太氏の『マイケル・ジャクソン』を見てみたら、

人生を危険にさらせ ー『悦ばしき知識』

という、ニーチェの言葉が冒頭にあって、西寺氏がどんなきもちでそれを引用されたのかはわからないけど、なにか同じものを感じて嬉しくなった。マイケルは、ほとんど語らなかったし、むずかしい言葉も絶対につかわなかったけど、彼のことを考えようとすると、偉大な思想家の力を借りなくては説明の出来ないことがいっぱいある。というか、MJの持っていた何かが、それまでは何を言っているのかわからなかった言葉の中から、それを発見させたり、ゴミ箱に入れてもいいものも教えてくれる。

若いときに「本物をいっぱい見ろ」とよく言われたけど、何が「本物」なのかよくわからなかった。でも、一度でも「本物」に出会えると、芋づる式に「本物」に出会うこともできれば、素晴らしく見えるものの中に偽物があることにも気づく。

偽物は、借り物の言葉で出来ているけど、本物は、それを表す言葉がないことに気づかされて、言葉を失わせられる。それで、自分の無知を知ることができるのだ。

MJのことを考えていると、いつも言葉を失って、誰かが、彼について語っている、その言葉にも納得ができない(そんな経験をみんなもしてるよね?)。

そんなことを考えていたら、childspirits先生から電話がかかってきた。

C:お正月に『THIS IS IT』をコマ送りで見て、どうだった?


Y:私って、すっごい俳優だなって思うと、コマ送りで見るの好きじゃん? でもさ、『THIS IS IT』をこれだけ何度も見てるのに、まだやったことなかったのね。なんか、怖かったんだよねw、うっかりすると、なんだか恐ろしいものが見えそうでさ、そーゆーことよくあるじゃん、マイケルの場合w。でもね、だいじょうぶだった。もうね、どこで止めてもすっごく絵になってた!


C:娘がまだこどもの頃に、「スリラー」を見せたことがあったんだけど、それからしばらくして、「You Are Not Alone」を見て、すごくショックを受けてた。あの「スリラー」の人がこんな風になったんだって。


Y:リアルタイムで彼の変化を見てるときは、あれでも、充分ショックだったし、基本的にいつもショックを受けてたような気がするw「Blood On The Dance Floor」だって、今は死ぬほど好きだけど、昔あれを見たときの怖さは、未だに忘れられないし、あらゆる映像の中でも一番トラウマになった映像は「You Rock My World」のような気がするしw。。。あのね、今「ソニーウォーズ」のこと考えてて、それで、「Threatened」の歌詞も翻訳しようと思って読んでて、それで、あらためて怖いなぁって思ってたところだったんだ。ホント、マイケルってハンパなく恐ろしいよね。怒ってる神々って多いからかなぁ・・・




彼の怖さについては、まだよくわからないけど、「ソニーウォーズ」のときの、今までに見たことないような行動。あのときのMJは何に怒っていたんだろう?

SONYは、アップル設立前のスティーブ・ジョブズが憧れるほど輝いていた会社でありながら、一般的な米国人にとっては、自国の衰退を感じさせた外国企業の代表として、それまでも、職を奪われた人々による抗議のはけ口として常にニュースにされやすい会社で、単純な陰謀論を信じやすいファンにとって、うってつけの企業だった。

それまでのMJは、SONYから、その革新性の象徴のように扱われていて、彼が抗議した、レコード会社がアーティストから搾取しているという主張は、SONYという会社の固有の資質ではなく、むしろ、SONYのマイケルへの投資は、他と比較すれば異例で、MJがどんなに売れたからといって、他の会社だったらこれほど自由にできたとも思えなかった。

『HIStory』が、巨額の広告費を投じた割には売れなかった後の『Invincible』までの6年という長い歳月は、レコード会社としては我慢の限界を遥かにこえていて、MJがアーティストとして、彼らからの催促をかわし続けたことは流石としか言いようがないけど、SONY本体が映画部門の失敗で苦しむ中、売り上げ不振だったレコード部門の縮小は止む終えないもので、当時、MJが得意としていた華やかな宣伝は、消費者にも好まれなくなっていた。


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そんな状況の中でも、相変わらず巨額な費用をかけたビデオを製作し、それが1本しか創れなかったから、会社が「Invincible」を売ることを妨害したとか、マライア・キャリーの訴えを100%信用し、トミー・モトーラを「悪魔」呼ばわりするなんて、

「僕は人を憎むことは決して教えない」

と言っていたことに反してないだろうか。SONYとの契約の中には知られていないことも多くあるのだと思いますが、これまで見聞きしたものの中には、真実の光を放つものはなく、長い時間をかけて創った素晴らしいアルバムに対して、不当なほど酷い評価を下したメディアや批評家に憤慨するのならわかるけど、

すでに、知らない人が誰もいないほど有名になったアーティストが、広告が足らないことへの不満から、所属レコード会社に対して派手な抗議をするなんて、円熟したアーティストの行動とは思えないし、トミー・モトーラは、MJが「悪魔」と呼ぶには小さ過ぎる相手ではないか。長くエンタメ業界で過ごしてきた彼なら、モトーラ程度の「悪魔」なら、何度も遭遇してきたはず。。

『インヴィンシブル』が発売になったのは、同時多発テロと同じ2001年。抗議行動は、その翌年、ブッシュ大統領が「悪の枢軸」発言をした2002年。そのとき、マイケルには、もっと他に言うべき言葉があったのではないか。

私はずっとあのときのMJのことがわからなかった。


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by yomodalite | 2015-01-18 20:27 | MJ考察系 | Trackback | Comments(2)

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☆『MJ Tapes』の翻訳について[3]の続き

yomodaliteと、childspirits先生とのおしゃべりの続きです。



C:「すんなり納得できるパターン」っていうのは、MJの事に限らず、私たちが日々インプットしたりアウトプットしたりする言葉が陥りやすい罠だね。そういう意味で、『MJTapes』も他のMJ本とは一線を画していて、同時に、一線を画した批判のされ方もしたんだね。そのこともMJに出会ってすごく考えさせられた。


彼の事があるまでは、誰かの熱烈なファンになったことはなくて、「ファンの愛」というものを遠巻きに見ていたけど、MJの死後に「彼は誰かに殺された」という疑惑がいろんなパターンで出てきたとき、そちらに引っ張られたこともあったのね。急激に彼を好きになった分、彼の死を理不尽な悲劇とのみ捉え、彼をかわいそうな被害者と考え、「死に追いやった悪者」を突き止めて、「懲らしめねば」、みたいな気持ちにね。そんなことは自分にできることではないし、できたとしても、死後のMJにどんないいことがあるのかわからなかったけど。たぶん、悲劇の人というイメージにあうプロットを探して、大好きなMJのために何かをしている自分を感じたかったのかなぁ。だから、「すんなり納得できるパターン」と「プロット」の話は、人ごとではないかな。



Y:推理小説って、まさにプロットでできてるストーリーだからね。別に殺さなくてもいいようなことでも、殺す。ストーリーのためにw。MJのようなメガスターが「殺されるかもしれない」という想像は、生前から人々の中にあって、実際に「殺されたのかもしれない」という疑惑は、真剣に検証されなくてはならないし、その可能性を全否定するつもりはないんだけど、ただ、その論者のひとたちは、私が見た限り、全員その動機を「お金」に絞ってるよね。


それなのに、「お金のために殺された」と主張してるサイトは、どこも、お金のことがわかってるとは思えないんだよね、残念なことに。彼らが「確信」しているのは、世の中は強欲な人でがあふれていて、そういった人々が共謀している「不公平な社会」だということだと思うのね。そこは私も共感しなくはないけど、「強欲」から「殺人」へのプロットが弱くて、MJのお金の流れについて、比較的細かく説明してくれているところの情報を読んでいると、MJが亡くなった場合と、生きていた場合と比較して、確実に前者の方が儲かる立場を確保するのは、かなり難しいと思ったのね。利益を得るためには、まず借金の返済をしなきゃいけないわけだけど、この収支をプラスにもっていけるかどうかは、MJブランドが回復した現在から考えても不確定でリスクが大きすぎると思う。



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チャンドラーやアルビーゾがやったことを思い出すと、MJがリスクが大きくても「お金のため」という考えの犠牲になったことは間違いないんだけど、殺人に関しては、疑惑は理解できるけど、具体的に納得できるプロットには出会わなかったし、私にも出来ない。


だって、実際に調査したわけでもないのに、想像だけで人を判断するなんて、まさにMJがされたことと同じじゃない?


チャンドラーや、アルビーゾはお金のためだけかもしれないけど、メディアが、MJを利用できたのは、そこに様々な人の「正義感」や「ジャッジ」があったからでしょう?


でも、私たちには、殺人疑惑に決着をつけることはできないけど、MJが旅立つ前の美しい姿は、この眼ではっきり見たじゃない。それが、仮にものすごくいい状態を繋ぎ合わせたものだったとしても、あれだけたくさんの奇跡のような瞬間があるってことは、それまでの生活の賜物で、「1クールのレギュラーより、1回の伝説」(by 江頭 2:50)に重きをおいていたってことでしょ(笑)。



C:さすがエガちゃん、いつでも捨て身の芸人(笑)、いいこと言うわ。「すんなり納得できるパターン」についてしつこく言うようだけどね、自分という人間をみれば、そこには正と邪、強と弱、清と濁、いろいろな要素が渦巻いていて、本当にやっかいだと思わされる。それなのに、いやそれだからか、他人には、特にアイコンと呼ばれるような人に対しては、片方を拾って、もう片方を忘れてしまうことを極端にやっちゃいがちだよね。「やっかいさ」から逃げ出して、自分なりにスキッとするストーリーを、相手に見出すっていうね。幼い頃からスポットライトの下に生きたMJは、世の人のそういう欲求を十分わかってて、それを受け入れていた気がするな。


“I just can't stop loving you” の語りで’people don’t understand me(みんな僕のことをわかってない)’とささやきながら、“Give into Me” では’don’t try to understand me(僕のことをわかろうとするな)’と歌い、“Is It Scary?” で’I’m gonna be exactly what you wanna see(僕はあなたたちが見たいと思うものになってみせる)’と言ってるでしょ。2000年の時点で既にメディアや世間からひどい目に遭っているわけで、『MJTapes』の中には、MJの悲痛な叫びも多いんだけど、一方で彼は、神や世間に対して「怒っていない」とも言うんだよね。



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Y:実際に怒ってたこともあったけど… (いわゆるソニーウォーズはこの会話の直後ぐらい。その話はまた後で)MJの捨て身の覚悟が「社会的正義」じゃないことは確かだよね。彼の作品は大抵の場合、自分の気持ちを直接表現しているんじゃなくて、様々な人の視点が取り込まれているし、怒りすらも作品として昇華させた。人々が踊ったり、辛いことが忘れられたり、癒されたり、、そういうことがエンターテイメントの尊い仕事だと信じて。


シュムリーは「どうして、自分だったのだろう」なんて、何度も考えてるけど、MJは、ラビであるシュムリーにも、政治的な正しさより、人の心を癒すことが大事なんじゃないかって言いたかったんじゃない? それなのに、このヒゲメンはw、自分のことをMJのカウンセラーだったと勘違いしてるわ、「オックスフォード・スピーチ」だって自分が原稿を書いたって言ってるけど、シュムリーが許さなくてはならないとわかってるのは、聖書に敬えって書いてある「自分の父親」のことだけなんだよね。だから、実際にMJの口を通したものとはちがう。


MJは自身の怒りを告発してもいい立場だったにも関わらず、「許さなくては」とスピーチしたんだから。エリ・ヴィーゼルや、シモン・ペレスもいた“Heal the Kids”のボードメンバーたちの中で。


シュムリーが処方薬についてウルサくいったことは、MJのためを思って言っていたことだと思うけど、じゃあ、MJがシュムリーのためを思って言っていたことを、彼が真剣に聞いていたかといえば、この本でも明らかなように、そうじゃないじゃない。シュムリーは、MJがこどもたちを残して…ってことに怒りを感じてるみたいだけど、そんな彼に一番キツい反論をするとしたら、


あなたは、自分のこどもたちの世代には、自分と同じような差別にあって欲しくない。そんな思いから、貧しいひとを助け、自分が同胞だと信じるユダヤの仲間が被った境遇に寄り添い、「世界に類のない唯一無二の民族的虐殺」であるとアナウンスする役目も積極的に行なった。


でも、あなたが「ホロコースト」を唯一無二だと信じ、イスラエルの暴走を許したせいで、罪のないこどもたちも大勢犠牲になった。ユダヤへの恨みは、キリスト教社会から、現代のイスラム社会へと拡大し、今、あなたの子どもや、これから生まれるユダヤ人の子どもたちは、あなたが受けた差別よりももっと強い恨みを受けつつある。あなたが、不当な差別を受けた人々ができる唯一の方法は「彼らをこの世界から追い出すことだけだ」と信じたばかりに。


マイケルの子どもたちは、父親の死によって、大変な苦痛を経験した後も、口さがない人々のせいで、今も辛い目にあることもしばしばだと思う。でも、あなたの子供より不幸せかどうかは誰にもわからない。ってことじゃないかな。



C:そこは大きく肯きたい。ただ、yomodaliteさんが、キツい反論しちゃったから、なんだかシュムリーのこと庇いたくなってきちゃったんだけどw、私がもしシュムリーの奥さんだったら、彼が「やっぱり間違ってた。MJの言う通りだ」って言って家に帰ってきたら、受け入れられてたかなぁとも思うよね。おそらくそんなことをしたら、もう大学にも戻ることも出来ないし、身に覚えのないことで逮捕されるとか酷い仕打ちにあるかもしれないし、9人の子どもを抱えて、これからどうやって生活するつもり?って言っちゃうかもね。



Y:だよね。シュムリーへの批判を考えてると、速攻ブーメランなんだよね。



C:私たちは、MJのことが好きだから、彼の側に立って考えてるつもりだけど、ここでの会話をよく聴いてみると、自分の中にも「シュムリー」がいるんじゃないかと思うよね。



Y:私たちがいる世界では、愛はすぐ憎しみに変わるし、正義はいつも暴走する。だから、MJは「僕は憎しみは絶対に教えない」と言い、「僕は正義は信じていない」と言ったんだよね。



C:世界で一番有名なポップスターとして、彼は「実像」を理解してもらうことよりも、皆の「虚像」であることを引き受けようとしたようにみえる。その覚悟はすごくて、そのことこそがMJの比類のなさだという気もするんだけど。ただ、世間は、そして私たちは、MJのその覚悟の大きさに甘えて、いろんなプロットが暴走した感があるよね。



Y:MJに関して、さまざまな噂が暴走した原因については、今は、メディアの罪についてばかり語られるんだけど、当時のMJの変化について、理解できていたなんていう人は、本当に少なかったと思う。


それでね、マイケル自身が「MJストーリー」のプロットをどう考えていたかってことなんだけど、、


☆この続きは、いつかまた。。


今、ふと思ったんだけど、、

MJがヒゲメンだったときは、シュムリーとの蜜月期だったんだなぁ。。





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by yomodalite | 2014-11-29 01:03 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

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Photo : Angel Ball 2000


いつになったら終わるの!と、みなさんをイライラさせていた、シュムリーの1人しゃべりもようやく終わり、ついにMJとの会話が始まったわけですが、ここまでのストレスとか、今後のことも踏まえて、またまた、childspirits先生とおしゃべりしてみました。


《前回のおしゃべり》

最初、childspirits先生も、シュムリーへの不満を爆発させまくってやると勢いこんでいたんですけど、なんだかんだ、yomodaliteがいっぱいしゃべってます(てへへ)

☆ ☆ ☆


yomodalite(以下Y):序章、長かったよねーーー(しみじみ。。)あのヒゲメンwのしゃべりが長過ぎるせいで、「公開のお知らせ」から「まえがき」、前回の「おしゃべり」や、注釈と、言いわけするのに必死になって、しわは増え、老眼が進み、肌荒れ、腰痛、体重増加に、各種更年期障害の悪化と、自分たちで始めたこととはいえ、お互い散々な目にあってるわけだけど、なんかいいことってあった?(笑)ホント覚悟を決めていたつもりだったのに、モヤモヤしたり、読んでくれている人の笑顔が想像できなくて、胃が痛くなったりしたよね(泣)。


でも、何度でもはっきり言っておきたいんだけど、私たちは、シュムリーの見解に共感して、これを公表しているのではなく、とにかく全部読まずに批判したり、考察の材料とするなんてこともしたくないので、「全訳」にこだわったんだよね。


それと、これは、私たちではなくて、「私個人」の理由なんだけど、以前、「マイケルと神について」を書きはじめたとき、私は、様々なひとが、自分の信じていることや主張に都合のいい部分だけをとりあげて「マイケルの思想」だとか、マイケルの神はナントカと似ているとか言っていることが不満だったのね。だって、似ていると感じる点から、MJを考えていても、今、自分が信じていることを(無意識に)補強するだけでしょう? 私には、Godはひとりで、それは「Jehova」だと、2005年の時点で、MJが言ってたことをわかっている人はいないように見えたし、私にもわからなかった。


でも、彼が否定していたり、ここについては留保しているとか、そういうことだったら、少しはまとめられるんじゃないかと思って、無謀にも書きはじめたんだけど、当初の予定では「Imagine」と「All In your Name」を比較して、その違いについて書いたら、一応「第一部」終了というか、少しはスッキリすると思ってたんだけど、「All In Your Name」の訳詞が自分で納得できるまで完成できなかったのと(その後に和訳しました→)、それ以外にも、資料不足を感じることが多くて、それで、これに関しては、もっと徹底的に「遠回り」しようと思ったのね。で、その遠回りの第一歩が『MJTapes』の全訳だったんだよね。


childspirits(以下C):「MJについて語られた言葉より、MJが語った言葉」を知ってもらおう、という本来の目的にたどり着く前に、息絶えてしまうのではないかと思ったよね。そんなにしてまでどうして訳す?喜んで読む人ばかりではないのに。と自問したこともあるんだけど、シュムリーなしにはここに収められたMJの言葉は日の目を見なかったことを思うと、彼の解説を自分の意にそぐわないからといって「なかったこと」にするのは有用ではないし、今の時点で、自分たちなりに、シュムリーに対して反論すべきは反論し、共感すべきは共感したほうが、この対談がMJ研究の資料として生きたものになるんじゃないかな。というか、生きたものにしたい。とはいえ、まず反論すべきは反論したいんだけど(笑)、


この前、yomodaliteさんと話し合ったときは、シュムリーの語りの部分だけでなく、『MJTapes』全般を視野に入れていた気もするし、MJから学びたいのなら、最初から批判的になったり、感情的になっちゃいけないとかなり自制していたところがあるんだけど、シュムリーのまえがきは、その長さもしんどかったけど、全体を通して、後出しジャンケンみたいなものじゃないか、という思いはあったよね。MJとやった対談という「作品」に対して、「実はこうだった、ああだった」と、共同制作者が反論できないところで書くというのは、フェアではない気がしたよね。


Y:確かにね。でもさ、その批判はもっともではあるけど、反論できないところで、、っていうのは、シュムリーに限らず、ファンも含めてすべてに言えることだよね。MJは自ら語ることをずっと抑えていたしね。MJについての証言には様々なものがあって、彼について、なにが本当なのか?と思い始めると、じゃあ、誰が嘘をついているのか?と考える人もいる。でも、私自身はね、それは、誰かが嘘をついているわけではなくて、「MJストーリー」に対して、それぞれの人が感じた「プロット」の違いだと思うのね。


ストーリーは「物語」、プロットは「筋」というか、物語に因果関係を加えて解釈したものだ。と考えてもらえばいいと思うんだけど、もう少し説明すると、


彼が旅立つ前の一般的な “MJストーリー” というのは、「ジャクソン5で、一世を風靡した少年が、青年になり、類いまれなるダンスや、整形によって顔を変えたことで、史上空前の成功を手にしたものの、整形の繰り返しや、浪費癖、少年との不適切な交際によって、その栄光を台無しにした」というものだったよね。


これは、莫大な成功のあとには、転落がつきものという庶民感覚に則っていて、その要因を「整形」とか「浪費癖」とか「異常な性的嗜好」に結びつけて、さらにその原因は「幼児期のトラウマ」だとかっていう、児童への性的虐待をのぞけば、こういったストーリーは、大抵の芸能人にも当てはめることが出来るし、それは、誰もが想像できるストーリーだったよね。

でも、実際に、彼が亡くなってみると、そんな誰もが疑っていなかったストーリーに混乱が起きた。それが『THIS IS IT』で、「転落したスター」としてエンディングを向かえるはずだった物語に「復活」というありえない展開が起こった。


私たちはふたりとも『THIS IS IT』での復活からMJを考えてるよね。なぜ、彼は復活できたんだろう?って。私たちは、彼の最後を輝かしい結末だと感じて、彼の人生は不幸なこともあったけど、見事な人生だったんじゃないかという思いから、今までの “MJストーリー” を見直して、これまで想像していなかった事実をいっぱい発見した。


でも、『MJTapes』のシュムリーは、彼が亡くなった直後、彼が薬物の中毒で亡くなったという情報と、これまで流布された、性的疑惑を払拭したいという気持ち、加えて、彼との友情が壊れた原因から考えている。だから、素晴らしい人間性をもっていたMJが、性的児童虐待という疑惑に苦しみ、処方薬の乱用のせいで、徐々に気力をなくし、悲劇的な最後をむかえてしまったというのが、シュムリーが思う “MJストーリー” だよね。


「マイケルの死」には、そのあたりがよく表れていると思うんだけど、シュムリーには、親密だった思い出と、別れの思い出があって、親密だった思い出の中には、MJの優しさや、自分の子供たちへの態度から、児童への性的疑惑については、なんとしてでも誤解を解きたいという思いがある一方で、別れの思い出を辿っていると、自分から離れて、彼が思う「堕落した社会」であるエンターテイメントの世界に戻ろうとするMJに、生活態度を含めて批判的で、彼とのプロジェクトが上手くいかなかった一番の原因も、処方薬の使用について、自分がウルサく言うようになったことを、MJが疎ましく思うようになったからだと考えている。


そして、それがついに、彼の命をも奪ってしまったと思うと、父親としての責任を果たさずに、幼いこどもたちを親のない子にしてしまったという怒りも重なって、MJを強く非難している部分も目立つ。


C:シュムリーの感情がずいぶんダイレクトに表現されてる部分だよね。私ね、彼のしゃべりがあまりに長いから、訳しながら、「この本はシュムリーテープスかっ」って毒づいたときもあったけど、ある意味「シュムリーテープス」で間違いないと思う。彼という人間が、よく表れているもの。


この本が出版されたときのテレビ番組を動画で見たんだけど、そこでは本の内容を断片的に流したり、番組のキャスターが、”Some people say…”みたいな言い方で、シュムリーに話をふったりして、ある結論に誘導するために、他人の言葉を引用したり、状況の一部を切り取ったりするでしょう。純粋に「客観的」というよりは、建前としての「客観的」で、「他の人もこう言ってます」とか、「みんなそう言ってますよ」みたいな楯の陰で、自分だけは安全なところから、ものを言ったり、他人に石を投げたりする。


シュムリーが、そういった材料をメディアに与えたこと自体に、腹立たしい思いを抱く人もいるかもしれないけど、MJの「子供っぽい」と批判されたキャラクターの裏側には、知的で、複雑な内面があったという、その両面を見せてくれていることで、彼のこどもへの愛が本物だったことや、本当に優しくて、エンターティナーとしてだけでなく、人間として素晴らしかったことを提示してくれたことも確か。


『THIS IS IT』で、そのことを大勢の人が目の当たりにする前、無罪判決でさえ、まったく信じようとせず、異常な性格というイメージを流布しようとするメディアに向けて、自分が知っているMJを根拠に、彼の本当の人間性を提示したという姿勢には、卑怯なところがなくて、敬意を払いたいし、訳してても面白かったんだよね。


Y:そうそう、本の中では、MJの子どもの接し方に文句を言ってるように感じる部分もあるけど、メディアに登場してるときは、毅然として疑惑を否定してくれている感じがするよね。彼はもともとMJに対してメディアで言われてた印象しかなくて、直接交流して、その人間性に惚れ込んで、疑惑について否定すべき点は否定しなきゃって思ってるわけだから、メディアの主張とある程度バランスをとってしまうのは仕方ないしね。


それで、「プロット」の違いについての話をもう少し続けたいんだけど、私がフォローしてる海外ブログでみた画像なんだけど、


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The loneliest people are the kindest

最も孤独な人は、最も思いやりのある人である


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The saddest people the smile the brightest

最も哀しい人は、最も朗らかに笑う人である


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The most damaged people are the wisest

最も被害を受けた人は、最も賢明な人である



こうやって、なじみのある彼のショットに、逆の意味の言葉が添えられていると、共感する人が多いんじゃないかと思うんだけど、私たちは、MJから様々な面を感じている。でも、解釈つきの文章というものは、往々にして、どちらか一方を無視して納得させようとするものが多いんだよね。


例えば、この文章をシャッフルして、


・最も孤独な人は、最も朗らかに笑う。とか、

・最も被害を受けた人は、最も思いやりがある。


とすると、個々の要素はMJにあるものなのに「しっくりこない」。

つまり「ストーリー」として認識しにくいんだよね。


でも、それぞれの頭の部分で繋げて、


・最も孤独な人は、最も哀しく、最も被害を受けた人である。


とか、後半部分をつなげて、


・最も思いやりのある人は、最も朗らかで、最も賢明な人である。


だと「すんなり」するでしょう。


つまり、これが「筋の通ったストーリー」なんだよね。


3段目の写真はあんまり対照的なセレクトではないけど、1枚目と2枚目の彼のキュートな笑顔にメロメロにならない女子は少ないよね。この笑顔をみると、こっちまで幸せになっちゃうもんね。でも、彼がメディアに嫌がらせをされていたり、MJ自身が少年時に辛かったなんて、話を聞くと、彼のことを「かわいそう」だと感じて、彼の寂しげな表情もたまんなくて、そこも「キュン」ときちゃうでしょ。つまりさ、自分を幸せにしてくれた相手を、同時にかわいそうだと思って、私が応援してあげなくちゃ。と思う気持ち、「ファンの愛」って、大体そういうものだよね。


だから、このすんなり納得できるパターンは、正義を求めて、誰かを銃弾するようなブログの主張や、フェイスブックで、速攻「イイネ」がもらえるタイプの記事にも多い。


どういうことなんだろう?という疑問を解くために、人はそれぞれ自分が納得できるプロット(筋)を求める。「それじゃ、筋が通らない」なんてことをよく耳にするでしょう。ひとを納得させるためには、「筋が通っている」ことが重要なんだよね。でもね、上記の写真の例のように、筋を通すためには、筋が通るような部分を繋げるものでさ、だから、「真実」としてすっきり納得できるようなストーリーは、決して「リアル」ではないことが多い。


『MJTapes』は、全体にプロットが求められる通常の本と比べれば、ある章で感じるようなMJとはまた別の面が、次の章では展開されていたり、リアルなMJが垣間みれるという点は貴重なんだけど、シュムリーがひとりでしゃべっている部分は、自分との別れと、死因として取り上げられた薬物を直結させた「プロット」になっているから、そこは注意が必要だよね。


彼は、MJが鎮痛剤を必要としていることを、精神的な苦痛からの逃避としか捉えてないし、クリエイターの生活がわかってないから、これまでに見たスターが薬物で亡くなったというニュースに、MJを重ね合わせて考えているんだけど、当時、MJがヒストリーツアーと『インヴィンシブル』の製作でどれほど疲労していたかという想像はまったく出来ていない。


それから何年も経ってから、一緒に仕事をしたウィル・アイアムやエイコンといったクリエイター達が、少年のころに憧れだったMJに会ったとき、彼が薬物でダメになりかけていたとしたら、すごくがっかりしたはずなんだけど、彼らは自分がスターになった後でさえ、MJへの尊敬を失わなかったし、むしろ、直接その人間性に触れたことで、もっと尊敬するようになってる。


書き手というのは、どんな人でも、自分が主張したいことを書いてしまうものだし、主張に見合った証拠ばかり目に入りがちで、よく見つけてしまう。自分もそうなってしまうとよく反省するんだけど、


文章は、結論に向かって一直線に書いた方が説得力がある。


さまざまな事実を照らし合わせて、結論を出すのは至難の業だけど、最初から結論を決めて、エビデンスを揃えるのはすごく簡単なんだよね。特にネット社会では!


もっとも、ネットでMJについて書かれた文章の場合、それをエビデンスだと思うのも、あなただけだっていう文章がほとんどだけどさ(笑)


☆『MJ Tapes』の翻訳について[4]に続く





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by yomodalite | 2014-11-25 01:19 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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☆ケンブリッジ白熱教室・第2回「美と醜悪の現象学」[1]の続き


最初は、サルトルが登場するまで「長っ!」と思っていましたが、16世紀頃の芸術が大好きだと言っていたMJにとっては、プラトンから攻めてもらって良かったかも。

マーティン教授がよくいる、幼稚な持論全開なうえに上から目線な人ではなく、マイケルに対しても、好意以上の敬意が感じられて、次回がますます楽しみになりました。

下記は、マイケル・ジャクソンをテーマにした「美と醜悪の現象学」の後半部分です。

理想型がそれ自体が美しいかどうかについて。でも、ここで、美しいものはどこにあるのか。プラトンはときどき、美について語っている。ここで、私は質問された問題について考えてみたい。

理想型はそれ自体が美しくなければいけないのか? 

プラトンは美について、まるでそれ自体が理想型であるかのように話す。美の理想型。美の原型。ここに椅子があり、そこに美しいものがある。プラトンは言う。「その美しいものだけが、本当に美しい」。プラトンの言っている、その美しいものだけが、本当に美しいーこれを議論するのは、とてもむつかしいと思うが、よく考えると、なにを考えようとしているのか、よくわからない。美はすべての理想型に備わっているものとして、話をする方がもっと説得力があると思う。美は理想的な状態にあるすべてのものの特性だ。

理想的なその椅子は美しい。理想的なそのテーブルも美しい。という風に。椅子の理想型は美しい。なぜなら、その椅子そのものであるから。同様に男性の理想型が美しいのは、男性そのものであるから。だとすると、醜さも定義されるだろう。正確には、定義の欠如によって、定義される。何か質問がある?

生徒から:マイケル・ジャクソンの場合、彼はふたつの異なる観念の間に挟まれているとはいえないでしょうか。ひとつは、彼の自己改善への執着、具体的にいえば、整形への執着は、自分が美の理想型と考えたものに近づこうとしていたということを示しています。しかし、その理想型とは、社会によって形成されたものです。

一方で、マイケルは子どもたちと時間を過ごすことで、社会的知識を分解しようとしています。子どもたちは、社会的構成前に属していて、無知だと、彼は考えていました。このふたつには、対立した緊張関係があったと思います。一方で完全に、社会のパラダイムに嵌ろうとし、もう一方で、それらを超越しようとしている。ということです。

マーティン先生:君にハイパーノーミア。この言葉は私が創った言葉なのだが、アノミー、つまり、無規則状態の反対のものだ。アノミーは、深く社会規範を逸脱している。私はすべての社会の規則に反抗する人間だ。一方で、ハイパーノーミアとは、どういう意味だと思うか? 私は特に古典ギリシャ的な「ノモス」に注目したい。誰かノモスについて、手助けをしてくれないか? 

生徒から:慣習とか、法律の意味だと思います。

マーティン先生:慣習や、法律、だから、ハイパーノーミアは、規則を意識することだ。もちろん、マイケル・ジャクソンは、規則をとても意識している。彼は言う。「子どもは規則を無視する」。ハイパーノーミアは、規則や理想型に対する過敏性だ。でも、理想型についても曖昧さがある。それは、マイケルの中の曖昧さにも通じる。

プラトンは、「見てみろ。これらの理想型があるが、誰も理想型になることはできない。それを理解しなくてはいけない。今、地球に理想型は存在しない。理想型は、生まれる前、あるいは、死後のものだ。その間の部分、生きているときは考えるな。理想型になろうとしたりするな。なれるはずがないと言った。

しかし、誰もがやるのは「私は理想型になる必要がある」。よし、私たちはここに理想型が必要で、理想型に対応する人がいて、そこに理想型に対応しない人がいる。残念ながら、プラトンのもうひとつの解釈が存在する。言い換えれば、私たちは神話的なものになれるのか? 理想的な椅子を創ることはできるのか? 理想的な足の爪切りを創ることはできるのか? おそらく、無理だ。でも、可能性は埋め込まれているのではないだろうか? もしかすると、美は失われたもので、醜さが私たちに残されたすべてではないのか? これが哲学の行き着くところなのか? 醜さが私たちに残されたすべて。。

ソクラテスも同様のことを主張する。

君たちも読んだことがあるかもしれないが、ここで、『饗宴』の一部を思い出してもらおう。

饗宴(プラトン中期の対話編。副題は「恋について」紀元前416年、ギリシャ・アテナイの悲劇のコンクールの優勝祝賀の様子を語ったもの。祝宴にはソクラテスも参加した。

ソクラテスはアルキビアデスに向き合って言う。ここで、アルキビアデス、誰か彼について、知っていることをひとつ教えてほしい。誰か

生徒から:軍人ではなかったでしょうか。

マーティン先生:それは忘れていた(笑)、なぜなら、私が考えていたのは、彼はハンサムな男性だったということだから。彼はハンサムで、でも、彼は軍人でもあった。彼はアテネで最も美しい男性という名声があったと思う。彼はアテネの象徴のようなものだった。ソクラテスよりも若かった。ソクラテスは醜くて有名だった。アルキビアデスは、ソクラテスを森に住む好色な牧神サティロス、あるいは、セタ、サターンのようだと言う。サティロス、私は正しく発音している? (生徒から)「サティアです。」サティアか、どう発音するのかよく知らない。でも、要するに年老いた山羊、それでいい。

アルキビアデスはこう言う。「あなたは醜い老いた野獣だ。そうでしょう」でもそれから同時にソクラテスの気を惹こうとするが、激しく拒否される。ソクラテスの醜さに対する擁護は、理想的な美のみが、真に美しいがゆえに、アルキビアデスはその基準にあてはまらない。単なるこの世の美は、幻想にすぎない。だから、アテネ、そして世界は、再び醜い人々にとって、安全な場所になったのである。言い換えれば、私たちは皆、醜さの中にいる。ソクラテスは美しい人々の根本的な不平等を理解していた。この意味で、醜さの認識、理想型との一致との失敗、これが西欧哲学のまさに起源にあった。

そして、もちろん、理想型の排他性についての問題もまたそこにある。

ソクラテスの哲学にも関わらず、私たちはまだ理想型に自分を一致させようとしているのか? これが君が注意を払っていた「緊張関係」だと思う。

私にとって、現代のソクラテスは、ジャン・ポール・サルトルだ。

ジャン・ポール・サルトル(1905〜1980)フランスの小説家・哲学者。主な著作『嘔吐』『存在と無』、実存主義の中心的人物。「実存は本質に先立つ」容姿に強いコンプレックスを抱いていた。(*実存とは「現実存在」という意味)

他の哲学者が崇高なものを熟考する一方で、サルトルの場合は、醜さが、彼の哲学の全体に浸透している。君たちの中には、サルトルが醜さを発見した瞬間のことを知っている人もいるだろう。それは彼の自伝の中にある。サルトルが醜さを発見したときのことを、誰か憶えているか? 私が「髪型が決まらない日」と呼ぶ日だ。

サルトルが散髪をしたときのこと。私たちはみんなこのような経験をしたことがあるだろう。切り過ぎた髪型を伸ばしてくれ! サルトルの自伝で、この部分を憶えている人はいるか? それは、彼が7歳か8歳ぐらいのことだったと思う。実際、サルトルのこどもの頃の写真がここにある。彼はこの時点まで天使と呼ばれていた。(写真登場)注意を惹くのは、長い金髪とカールした髪だ。家にやってくる人はみんな、「おお、なんて可愛い天使なの。この子は天使だわ」と言っていたらしい。

これは、サルトルが抱いていた考えだ。これは少し、マイケル・ジャクソン風、ルソー主義的考え。いわば、髪を介して、私は天と繋がっているということ。しかし、彼の祖父がサルトルがあまりにも女の子ぽくなっていると、それで、彼はサルトルを床屋に連れて行くことを主張した。幼い天使サルトルは、「いいよ。面白そうだ。おじいさんと出かけるといつも楽しいから」と思った。当時、彼は7歳か8歳だった。よし、床屋に行こう。そこで、祖父が言う。「しっかり刈ってほしい」これは深刻だ。つまり丸刈りのように、すべて剃ってくれ。サルトルは帰宅する。母親は外出から帰ってきて、ドアを通り抜けて、サルトルがそこに立っているのを見る。彼は母親になにかこのようなことを言っている。「ねえ、髪を切ったから、見て」。彼女はもっていた買い物袋を落とし、階段を駆け上がって、ベッドに身を投げ出し、泣きじゃくった。散髪でこのようなリアクションをされたことはないと思うが、これはかなり強烈なものだ。

このとき、サルトルは彼のすべての凝視に関する理論を発展させたんだ。「地獄とは他人のことである」という観念はまさにそこから始まっていた。

彼が実際に書いているのは、これは天使の前で(幼い頃の写真)、これがそのあと(サルトルの写真として知られるもの)。散髪によってヒキガエルに変身させられてしまった。天使からヒキガエルへの散髪効果だ。それが、彼がその後の自分を表現する方法となった。髪が天使効果を使って、彼を変装させているが、それが取り除かれると、ソクラテスのように醜いものとして暴露される。

なぜ、サルトルは「地獄とは他人のことである」というのか。なぜなら、理想型の場合と同様に、私は、あなたの完璧なものに、自分を一致させることができないからだ。

サルトルの哲学者の彼女は同意する。「そう、あなたは実際に醜い。なんの疑いもない。周りの人を見て比べてみると、あなたの醜さは本当に際立っている」。実際に彼女がそう言ったわけではないが、でも、実存的な肉体について重要なのは、その肉体は、その肉体そのものではないという点だ。その肉体はいつも、その肉体であるもの以外のなにかになることができる。

私は私であるものではなく、私は私ではないものだ。

これは、問題であると同時に、解決法でもある。

実存主義は、それがプラトン的理想の領域と同じように、牢獄から脱出させる切り札であると言っている。ソクラテスにとって、醜さは現在そこにあるが一時的なもの。醜いあひるの子の議論の一形式で、いずれは白鳥になる。でも、サルトルにとって、醜さは避けられないものだが、とるに足らないもの。サルトルとソクラテスは、私たちが顔と本の理論と呼ぶものを共有している。彼らが鏡から切り離そうとするとき、顔が本の起源になっていて、本には顔の起源がのこっている。

サルトルは言う。「私は書くことから生まれた。その前にあったのは、鏡にうつった像だけだった」

でも、これらのどれも、あの素敵なマイケル・ジャクソンには当てはまらないのではないか? 彼はソクラテスよりは、アルキビアデスではないのか。彼はサルトルよりも、カミュではないのか? 彼はヒキガエルよりは、天使なのではないか? 

ここで、マイケルの傑作の一曲について考えてみたい。「マン・イン・ザ・ミラー」

僕は鏡の中の男から始める。彼に生き方を変えるように言ってみる。こんなにもわかりやすいメッセージはない。もし、世界をよりよい場所にしたいなら、まず、自分を見て、自分を変えることだ。

君たちの番だ。この曲は君たちにとって、なにを意味するか? なぜなら、私はマイケル・ジャクソンが、それが意味することを、君たちに伝えることができるから。「はい。どうぞ」

生徒から:先生は、サルトルのことを話していましたので、私はそれで「出口なし」のことを思いました。どの登場人物が言うのだったか、憶えていませんが、「私が鏡であるかのように、私の目に映ったあなた自身を見て」と言います。なぜなら、登場人物のひとりは、鏡を欲しがるのですが、彼女は鏡をもっていないからです。

マーティン先生:確か、イネーズだ。彼女は鏡をもっていない。だから私の鏡になって。でも鏡の中で…鏡の… 彼女はある時点で鏡になる事を申し出る。それから?

生徒から:それはエステルです。

マーティン先生:君がいてくれて本当に助かったよ。今日は私の「名前がよく思い出せない日」のようだ。そうだ、エステル。

生徒から:エステルは口紅を心配しています。イネーズは目を鏡として使うように言うのです。

別の生徒から:たぶん、鏡の中の男は理想形で、マイケル・ジャクソンは、もし、彼が理想形に自分の生き方を変えてほしいと思っているなら、自分の理想を変えなければいけないと、あるいは、少なくとも理想形に必死にたどりつこうとするのを止めようとしていると思います。彼は理想形にならなければいけないというプレッシャーを感じているからです。

マーティン先生:理想形は全てのものにあると思う。だからそれはもっともらしい説だ。

『マン・イン・ザ・ミラー』のプラトン的解釈からサルトル的解釈に移ろうと思っていた。自伝「ムーンウォーク」の中でマイケルは、この曲が、ガンジーや、キング牧師、ケネディ大統領などからの影響を受けていると言う。これは利他主義の訴えだと言う。とても気高い。でもマイケル自身を「利己的な愛の犠牲者」として表している。つまり、鏡が必然的に映し表す自己愛、あるいは自己観察のようなものだ。これはばかげて聞こえるかもしれない。

ショービジネスを生きる男性がいて、彼は確かに20世紀の最高のパフォーマーの一人。どうして彼は自分の外見にそんなに不安を抱くのか? でも自伝にはそれがかなりはっきり書かれている。「有名になると人々は凝視するようになる。観察する。それは理解できる。でもそれは易しい事ではない。なぜ私が人前でできるかぎりサングラスをかけているのかと聞くなら、それは人の目を見なければいけないというのが好きではないというだけだ。少し自分を隠す方法だ」。

ある時、彼は歯科医に細菌が入らないようにするため手術用マスクを渡される。そして彼は言う。「このマスクがとても気に入った」。

マイケルの「子供は自意識がない」という考えを思い出してほしい。逆説的だが、彼はステージで自分の全ての意識を失う事ができると言っている。彼はこの瞬間、他人に完全に観察されているからかもしれない。「パフォーマンスをしている時自分がどのように聞こえるか、どのように人に思われるかには気付かない。ただ口を開けて歌うだけ。だからパフォーマンスの中で自意識は消え、自己超越がある」。しかしステージを降りると自意識が戻る。

「一度ステージを降りるとまた対面しなければならない鏡がそこにある」。だから、マイケルは強い自意識、あるいは彼自身の、あるいは他人からの凝視の恐怖に苦しんでいたと言う事ができる。

そして整形の話にも触れたいと思う。マイケルがどのように視覚的に自分を再構築したのか。「10代の頃に向き合わなければならなかった最も大きな個人的苦悩は、スタジオで録音したり、ステージでパフォーマンスをしたりする事とは関係なかった。

当時の最も大きな苦悩は自分の鏡の中にあった」。彼はこれが思春期に始まったと言う。おそらく私たちは推測する事しかできないが、彼は肌の色素形成を気にしていた。彼は皮膚病恐怖症だったかもしれない。マイケルはどれくらいの治療を行ったか? でも治療をすればするほど、彼はもっと不満になる。

「時々私の人生経験はサーカスの仕掛け鏡に映った像のように思う。一部分はとても太っているのに他の部分は消え入りそうなほどに細い」。他にマイケルには解決法があるか。ひと言で答えると「アクセサリーをつける事」。ひとつの白い手袋。ショービジネスそのもの。だがこれがどのように光を反射させるかに注目してほしい。

彼の靴への執着。視線を屈折させるためにアクセサリーは反射するものでなければいけない。そしてマイクも。「マイクは私の手の自然な延長となっていた」。

自分を「もの」化するという意味でアクセサリーは全て1つの機能を持っているのではないか。メークアップも同じだ。「私は何かを自分の顔に塗られることを楽しんでいた。私がカカシに変身するとき、それは最もすばらしい事だった」。カカシは映画の登場人物。「それは世界で最もすばらしい事だった。役を通して誰か別人になって逃げられると思った」。

ここで再び彼は「もの」になる。これは自己客体化だ。「私は座ってこう言う事ができる。『よし今存在するものは他に何もない』」。サルトル哲学はここで何が起こっているのかを説明している。

これは全て「美」に関する事。「美」は超越した状態で、それに到達できるのは「その人でない」人間が「もの」になる事ができるとき。

「もの」というのはプラトンの言う理想形に近いものだ。あるいはサルトルの言葉を使えば「対自即自存在」。実在がついに本質になり意味を帯びる。

「即自存在」とはそれが何ものであるかを規定されて存在しているもの。一方「対自存在」は何ものであるかを規定されず、自己に向かい合うもの。つまり人間は「対自存在」にあたるとサルトルは言います。この即自存在と対自存在が一致した状態。本質と実存の一致が「即自対自存在」となります。

サルトルが書いている事。

La beauté représente donc un état idéal du monde.’
これは私たちが超越に与える価値だ。これは私たちが美と呼ぶもの。

美は世界の理想的な状態を表す。

でもサルトルは言う。「美は世界の人々につきまとう亡霊だが決して実現されないもののままだ。私たちは美しいものを切望する。私たちは、私たち自身が美の欠如である事を把握する限りにおいて、宇宙を美しいものの欠如として把握する」。

サルトルは『存在と無』の一節でこの対立を劇的に表現している。あるスキーヤーという人物の中の内面の「二元的実践」。このスキーヤーは理想形。スキーヤーそのものになりたいと願うがそうなる事ができない。彼の幻想は雪のように解けてしまう。

マイケルはある宗教の信者だったと知られている。でもサルトル哲学では、神を信じているだけではなく神になろうとしている。あるいは逆に言えば、神は「即自対自存在」に私たちが与える名前だ。

サルトルは言う。「私たちは皆、神になろうと企て、自らを神として投影する」。

マイケルの世界的人気は、彼がこの普遍的な状況を明らかにした事の印だと主張したい。

神になろうとする事の失敗。不可能な「即自対自存在」になろうとする事の失敗だ。

講義の結論に向かおう。

ここで「美」にも関連する言葉「崇高」という言葉に注目したい。

君たちは「崇高」という言葉を知っているし、おそらく「崇高」を経験した事もあるだろう。君たちは崇高かもしれない。誰か崇高の仮説的定義を提案してくれないか? あるいは、崇高に見えるだけで十分だと感じるか?どうぞ。

生徒から:崇高とは美と畏敬との間にある美的な感情だと思います。自然の力などに対して感じられる畏怖の感覚ではないでしょうか。

マーティン先生:モーガンからの崇高の定義。他に崇高なものについて意見のある人はいるか?どうぞスペンサー。

生徒から:それは理想形に似たものに到達するという事ではないでしょうか? 理想形と同じ特性を持つ事、そして一瞬ほんの一瞬の間だけ、それに到達する事ができて、そのあとは記憶の中に残されるようなものです。

マーティン先生:プラトンはそう言うべきだったと思う。理想形への近似化は君が言うように、一瞬の、いわば一瞬の中に感じる永遠のようなもの。崇高は一時的なものだ。

ある状態とある状態の間で不安定にあるという感覚だ。でもこれは身振りやダンスとしての哲学。綱渡り芸人、あるいは死ぬまで割れる波に乗るサーフィン。ムーンウォークは前に進むと見せて後ろに進む。このような形の崇高は維持できないものだ。

マイケルは答えのヒントを与えてくれていると思う。

彼は言う。「私はとても長いスピンをして、それから爪先で静止するつもりだった。一瞬の間止まって、ただそこにいたかった。ただそこで凍りつくように静止したかった。でも思ったようにはうまくいかなかった」。

私はマイケル・ジャクソンの慰めになるような提案をしたい。

それはソクラテスやサルトルからではない。レナード・コーエンの「チェルシー・ホテル」の中からだ。

「気にしない。私たちは醜い。でも私たちには音楽がある」。

そしてここで終わりにしたい。マイケル、レナード・コーエン、サルトル、そして、みんなどうもありがとう。

(拍手・講義終了)





私は、元々美しかった容姿にさらに磨きをかけ、世界一の容姿を手に入れた彼が、愛されることに恵まれていない人々を公平に愛そうとする姿に、少しだけ疑問を感じていたんですが、

彼が亡くなると、想像以上の喪失感でいっぱいになり、マイケル自身がそういった様々なジレンマにとことん苦しんだだけでなく、社会から、これ以上ないほどの批判をうけながら、最後まで、謙虚に考え続けたことがわかったことで、今まで、彼に向けていた疑問のすべてが、自分に降り掛かってきました。

この一時間弱の講義には、そのことが哲学的によくまとまっているなぁと感じました。

We are ugly but we have the music
私たちは醜い、それでも私たちには音楽がある

私は、この言葉を、マイケルに贈りたいとは思いませんが、彼の音楽を聴いていて、自分が救われているのは、まさにそうだと思いました。

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by yomodalite | 2014-10-21 13:57 | MJ考察系 | Trackback | Comments(8)
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10月10日から、NHK-Eテレ毎週金曜日の午後11時から放送している「ケンブリッジ白熱教室」。私は「白熱教室シリーズ」の熱心な視聴者ではありませんが、今回の教授、アンディ・マーティン博士の専門は実存主義。

これまでのラインナップの印象は、「はい、はい、アメリカ主義を学ぶんですね」という感じでしたが、今回は少しちがうのかも。。と思い、第一回の「ベッカム実存主義」から期待して見たんですが、やっぱりそうだと勝手に納得。

そんな講義の第2回が、マイケル・ジャクソンをテーマにした「美と醜悪の現象学」。

マーティン教授ならそういったタイトルであっても、幼稚な精神心理学的知識と、幼少期のトラウマ論(現在では、人の深層心理を探ることより、多くの人の幼少期を単純化し、自分を犠牲者とし、大人を虐待者とするだけの悪質なものになっていることが問題)で、論じるようなつまらないものではないはず。と期待して観たのですが、ほぼ期待どおりだったので、スクリプトで残しておくことにしました。

下記はその前半部分です(☆番組冒頭部分を要約して追記しました)

_______________

1209年創立のケンブリッジ大学。800年以上の歴史と伝統を誇る名門大学。

学生数およそ2万に対して教職員の数はおよそ5,000。最高の講師陣をそろえた大学の授業。中でも「スーパービジョン」と呼ばれる少人数・対話形式が特徴です。

そんなケンブリッジで今注目を集めているのが、サッカー好きで冗談好きイギリス人男性、マーティン博士の専門はフランス哲学と文学。サルトルを中心とした人間の実在を思考の中心に置く「実存主義」が研究のテーマ。

「私は毎日の日常は哲学にあふれていると思います。私は「哲学は役に立たない」「机上の空論」「学者だけのもの」という考え方から離れて、哲学は実践的で日常の経験を理解するために役立つ学問なんだと言いたいのです」

「哲学が扱う問題は人間の心理にも関連する。だから哲学は心理学ともつながりが深いのだ」

大胆な仮説や奇抜な思考実験を駆使して、現代人が心の中に抱える、さまざまな悩みや矛盾の解決方法を探る「実践的フランス哲学講座」。

サッカー界のスター、デビッド・ベッカムを実存主義者と見立てた思考実験や、世界的なポップスター、マイケル・ジャクソンを例に「美しさ」に対する人間の執着心を考察。更にFBIによる哲学者に対する捜査からフランス実存主義の歴史をひもとき私たちが抱える人生への不満不幸や嫉妬の解決方法を哲学を通じて探る。

マーティン博士は「生きているとはどういう事か」を実存主義を使って明らかにします。

第2回は「美と醜悪の現象学」。

人間はなぜ美しさを求めるのか。プラトン哲学と実存主義をもとに、美と醜悪の根源を考えていきます。

(拍手)こんにちは、みなさん。

「美と醜悪の現象学」、難しいタイトルだ。

副題を付けると、「マイケル・ジャクソンの新プラトン主義」

でも私のことを知っている学生は、私が歌ったり踊ったりしないことを知ってるだろう。

なぜ、マイケルは子どもに夢中だったのか?

哲学者ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば、心を奪われた状態、執着のひとつの形式だ。だが、これが最終的には、マイケルに法的な、道徳的な、そして経済的な問題をももたらした。名声の損失は大きかった。しかし、マイケル・ジャクソンは、これを完全に認識していた。と推測できる。それでも、彼は同じパターンを繰り返した。幼い子供たちが、彼とネバーランドに滞在する。すると、彼は児童虐待だと非難される。それは性的なものだったのか。フロイト的にみれば、すべては性的なものを関係がある。しかし、私は、エロティックではなく、ゼロティック、性的要素がゼロだったと主張したい。

つまり、彼の子供たちの執着はプラトニック、哲学的意味で、古代ギリシャのプラトン的だった。でも、哲学はこれから私たちが見ていくように究極的には心理学でもある。もしかすると、マイケル自身の哲学が、彼の苦悩に満ちた自意識と、彼自身の外見の両方の、そして、彼の死の原因だったのかもしれない。

子どもについての最も完全で、最も叙情詩的な賛歌は、ジャン・ジャック・ルソーの作品にある。ルソーは18世紀の啓蒙思想家で、百科全書の編纂に貢献し、自伝の傑作『告白』の著者でもある。


ジャン。ジャック・ルソー(1712ー1778)
フランスの哲学者・作家。主な著者「社会契約論」「人間不平等起源論」などで、文明や社会の非人間性を批判。人民主権の思想を説き、フランス革命の先駆けとなった。


ルソーは、年寄りとして知られる文明に対する手厳しい批判を行っている。これが、ルソーの演説、「子どもたちはすべてのことに気づく。彼らは疲れていない。彼らは、私たちがもはや興奮を忘れてしまったものに、興奮を見出す。彼らはまたとても自然体で、まったく自己を意識しない。。

よし、告白しよう。

これは、ルソーではなくて、本当はマイケル・ジャクソンだ。どうして間違えたのか。この引用は、マイケル・ジャクソンの1988年の自伝『ムーンウォーク』からのものだ。でも、ルソーのように聞こえるとも思わないか。ルソーの1762年の教育論『エミール』から取り出したといっても、おかしくないと思う。

これから、私は次の引用の中から、一語、注目したい言葉を選ぶ。突拍子もない質問だが、それがどの語かを当てて欲しい。

生徒から:どの話をしていますか?

マーティン先生:今、それを教える。これから、君たちに引用を読み上げる。だから、すべての言葉に敏感にならないといけない。そのあとで、君たちに尋ねる。もっとも重要な語はどれか。

私は彼らの周りにいうのが大好きだ。家にはいつもたくさんの子どもたちがいて、彼らの周りにいるだけで、私はエネルギーをもらえる。彼らはすべてを新鮮な目で、開かれた心でみる。子どもたちはそれほどにも、想像的なのだ。彼らは規則を気にしない。絵は紙の中央に描かれていなくても、空は青くなくてもよい。彼らは人々を受け入れる。彼らの唯一の要求は、公平に扱われ、愛されること。それは、わたしたち、すべての者が望むものだ。

私が選びたい言葉がある。それがどの語か、誰か予想して欲しい。その語は、この文章の中にあった。

生徒から:規則!

マーティン先生:規則。正解。私はとても驚いた。なぜなら、それが私が思っていた言葉だからだ。冗談を言っているわけではない。ここに書いてある。見せてあげるよ。マイケルの理論において、子どもたちにおける規則は重要だ。なぜなら、規則を乗り越えようとしているから。子どもたちには規則がない。規則を無視する。規則に反抗する。あるいは、まだ規則を学んでいない。マイケルの理論では、子どもたちは、デュルケムが社会規範のない者と呼ぶ領域に属する。「アノミー」だ。

エミール・デュルケム(1858〜1917)
フランスの社会学者。主な著作「社会分業論」「自殺論」独自の視点から社会現象を考察し、社会学の確立に大きな成果をあげる。デュルケムが定義した「アノミー」とは、社会秩序が混乱した状態をさす。

アノミーは、規範がないことを指す概念だ。共同体、規範的な社会の意志からは慣れている状態。子どもたちはまだ社会化されていない。彼らはまだ規則を教えられていない。彼らは規則に基づいた判断を行わない。私が知るかぎり、マイケルは、ルソーを参照しているわけではないが、ふたりを合わせて、「ジャン・マイケル・ルソー」と呼びたい。本物のルソーは子どもたちと自然の状態、そして野生的なものについて書いている。ルソーによれば、子どもたちは、高潔な野蛮人として知られるようになった神話的な存在の小規模なものだ。

‘L ‘homme est né libre, et partout il est dans les fers.
人間は自由な者として生まれた。しかし、至るところで鎖につながれている。

感動的な一行、ここでルソーはなんの話をしているのか。子どもと大人、狩猟採集民と農民? それ以上に人間の意識についてだと思う。ルソーをもう少し深く考えることができるように、マイケルとプラトンとの繋がっているかを19世紀の詩人、ウィリアムズ・ワーズワースの詩を見てみたい。

ウィリアムズ・ワーズワース(1770〜1850)イギリスのロマン派詩人。イングランド北部の湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に、情熱を秘めた自然賛美の詩を書き残した。

この詩は、マイケルとルソー、両方の考えを要約していると思う。『不死の暗示』から、少し抜粋を読んでみることにする。ワーズワースが語っている。

汝、喜びの羊飼いの子よ。私の周りで叫び、汝の歌を歌え。幸ある牧童よ。幸多き皆よ。汝らが呼び交す声を、私は聞いた。天も、汝らの喜びに加わって、笑っている。

よし、今度は私がどの語を選ぶと思うか? 君がまた当てることが出来るか見てみよう。

生徒から:二度も答えません(笑)

マーティン先生:そうか、しっぺ返しをくらってしまったわけか。。実は「満ち足りていること」天も汝らの喜びに加わって、というのが、私たちが話していること。つまりマイケルが言っていることの中心だ。私たちは、幸ある牧童を見ている。では、どこで、すべてがうまく行かなくなるのか、つまり、どうやって、鎖につながれるのか。ワーズワースによれば、満ち足りていること、完全さにも関わらず、私たちには、はじめから何かが欠けているから。羊飼いの子どもは、満ち足りた者と完全な喪失の間にいる。彼はどこかその中間にいて、不死の海と、私たちが行き着く都会の悪夢、遠くの陸地の奥の間の浜辺で遊んでいる。

私は以前、変身について語った。あるいは、偏見について話をした。例えば、美女と野獣。カフカの「虫」、ここに、サルトルが「逆超越」と呼ぶものがある。変形だが、良い意味の変形ではない。ワーズワース、ルソー、そして、マイケルは、いったいどこでこの考えを得たのか。私はプラトンからだと主張したい。この主張は、ワーズワースとルソーに関しては定評のある主張だと思うが、マイケル・ジャクソンの場合は、あまり明らかなことではなかったかもしれない。今までは。。

でも、私はこれを見れば明らかだ。哲学者の洞察のように、みんながこう言うことになる。なんで気づかなかったのだ。これは明白なことなのに。となることを願う。

この主張をするために、まずプラトンの美の概念について考えてみたい。なぜなら、これが、マイケルや他のひとたちの美的価値を実証するように思われるからだ。でも、その前に、私たちはプラトンの理想型の考え方について、概要をつかまなくてはいけない。

プラトン(紀元前427〜紀元前347)古代ギリシャの哲学者。ソクラテスの弟子。イデア(理想型)論を根本とする彼の理想主義的な哲学は、西洋哲学の源流にあたる。プラトンは、私たちの心の目によって洞察される純粋な形、つまり、物事の真の姿や、理想型に言及した。

私が椅子をみるとき、プラトンやソクラテスは、私は何を見るか?と問う。言うまでもなく、椅子だ。でも、同時に彼は、私は頭の中に、その椅子の像を持っていると言う。完璧で理想的な椅子。最初は馬鹿げたことのように思うかもしれないが、考えてみると、これを見ているという事実から、これが椅子だと、どうやって知るのか。でも、私が椅子の概念をもっていなければ、このものは一体なにかということになる。

テーブルでも、男性でも、女性でも、基本的な概念なしにどのようにして、それを知ることが出来るのか。私たちが見るすべてのものは「理想型」をもつと、プラトンは主張する。プラトンはすばらしい構想を思いつく。それは、ワーズワースが彼の詩の中で「我が家」と呼ぶものだ。生まれる前の天国、そこでの私たちは「理想型」をよく知っている。つまり「真善美」だ。

でも、生まれた後はどうなるのか?生まれると何が起こるのか? 誰か憶えているか? もちろん、君たちは忘れてしまった。それが彼の主張だ。ワーズワースはこう言う。人の世に生まれるのは、ただ、眠りと前世を忘れるに過ぎぬ。しかし、ルソー、ワーズワース、マイケルは、子どもはすべてを完全に忘れてしまったわけではないかもしれないと考えている。

重要なのは、忘れてしまうということ。そして、思い出さなければいけないということ。

思い出すことが哲学の機能だとプラトンは主張する。私たちが何かの知識をもつとき、それは、私たちが、忘れたものを思い出したからだと言う。それが、私たちが目指したもの。言い換えれば。それを取り戻すということだ。こじつけだと思わなければ、私はマイケル・ジャクソンの素晴らしい曲を偶然にも思い出したと言いたい。

I wan’t you back!

OK、ジャクソン5が、最初にこの曲を創ったのがいつだか知っているひとはいる? あるいは、最初にリリースされたのはいつか?

生徒から:1987かな? 76? 

私はつい最近確認したんだが、本当のプラトン的な意味で、私も忘れてしまった(笑)。でも、そのとき、私はすでに生きていて、60年代後半だったと思う。

生徒から:漠然としすぎです。

マーティン先生:ここにある私のメモを見よう。1969年だった。マイケル・ジャクソンは当時、10歳か11歳だった。そして、この曲はジャクソン5を有名にした曲のひとつ。子どもスターのジャクソンだ。君たちはこういうかもしれない。その曲はマイケル・ジャクソンではない。ジャクソン5だ。彼はこの曲を書いたわけではない。確かに正しい。でも、この曲はマイケルを念頭において書かれた。この曲は元々、自由になりたいという題だった。マイケルによって発展した。だから、彼はこの曲の生みの親ではないが、彼は育ての親であり、自分のものにした。さらに、彼はソロになってからも、この曲を歌っていた。技術アシスタント、演奏をどうぞ。

生徒のひとりがボタンを押して『I wan’t you back(帰ってほしいの)』が流れる。(体を揺らして、ノリノリなマーティン先生、生徒たちの笑顔。。)

このベースは素晴らしいね。これを考えた人は天才だ。話を元にもどそう。この曲の歌詞のいくつかに焦点をあててみたい。

誰かが集団の中から、君を連れ去ってしまった。それは一瞬のできごとだった。

これは、明らかに「理想型」だ。でも、歌手マイケルは、それをふいにしてしまった。彼は理想型である彼女を本当に大切には思っていなかった。

あって当たり前のものだと思っていた。今となっては手遅れだ。もう一度君を見るのは。

ここで、マイケルは典型的な人生について歌っている。生まれたとき、私たちは必然的に理想的なものから切り離される。失われた理想型をもう一度見るのはいつも手遅れだ。僕が失ったものを返してくれ。アップビートに乗せて、哲学者マイケルは回想の可能性を考えている。失ったものを心の中で、取り戻そうとしながら。これがまさに哲学の目的だ。回想、あるいは追憶。私たちを感覚的な知識から逃れさせる。そして再び、僕を生き返らせて。とマイケルは言う。

私たちは、この決定的な点を無視することはできない。回想は復活、転生の概念と結びつけられる。私たちは真と美を手に入れて、再び生まれるという。でも、どうやって、再び生まれることができるのか。答えはまず死ななければいけない。だから、古典的な議論では、哲学は、死のひとつの形だ。もちろん「悟り」が死につづく。でも、死は「死」にちがいない。

僕はなにも気づかずに、君を行かせてしまった。と、マイケルは言う。

人生は、言い換えれば、ある種の盲目だ。ワーズワースが言うように。かつて見たものは、もはや、見えなくなった。

僕に必要なすべては「もう一度のチャンス」と、マイケルは言う。

生徒から:先生が話をしている歌詞には、オルフェウスの神話に通じるものがあると思いますか?冥界から、妻を取り戻そうとするような、、冥界の王との約束は、冥界を出るまで振りかえらない。ということでした。でも、彼は、妻がまだそこにいるのか見ようとし、彼は妻を永遠になくしてしまいます。それで、失ったものについて考えているということです。

マーティン先生:その考えはとても良い。私の解釈より良い考えかもしれない。オルフェウスはもちろん、音楽の起源の神話と関係している。そうでなかったかい。その物語は非常にプラトン的だと思わないか。欲しいものを追うためには、冥界に降りていかなくてはならない。実質的には死ななくてはいけない。自分がとても親密だった者を追い求めるためでもいい。でも、現実世界に戻ろうとすると、オルフェウスは悲惨にも失敗する。

僕に必要なすべては「もう一度のチャンス」という歌詞を読んで思ったのだが、これは、芸術、特に音楽についていえることなのかもしれない。芸術や音楽は、ある種の典型のような「もう一度のチャンス」、失われた真や美を一瞬垣間みるチャンスを、私たちに与えてくれる。私はマイケル・ジャクソンが、プラトン、あるいは、オルフェウスの神話をほのめかしているという理論が理にかなっていると思いたい。別の言い方をすれば、喪失、忘却、そして回想という古典的なプラトン的理想型に通じる、マイケルの個人的な哲学だと言いたい。

この議論のほとんどは、プラトンの『パイドン』や『パルメニデス』(プラトン中期の対話篇。プラトン哲学の中枢であるイデア論が登場する重要な哲学書。プラトンの師ソクラテスの言葉が会話の形で書き残されている)からとっている。その中には、ソクラデスが登場する。

ソクラテスは、やや懐疑的だった。誰かソクラテスがどのように自らの理想型の理論について、懐疑的だったのか憶えているか? 椅子、テーブル、男性、女性、もちろん、これらにはすべて理想型がある。でも、彼は他のいくつかのものに言及する。これらには理想型があるのか?だれか、『パルメニデス』の中で、それが何だったのか憶えているか? ひとつは、足の爪切り、足の爪切りに理想型があるか? よくわからない。他のものは、ミミズの糞、ミミズによって残された痕、理想的なミミズの糞などというものはあるか?これはよい疑問だ。私はその答えを知らない。だから、プラトンは自分の理論について心配しはじめたのだと思う。自分の理論が内側から崩壊する可能性があると。

生徒から:理想型というのは、何らかの形で美しくなければならないのですか?足の爪切りが、椅子とちがうのはそこですか?

マーティン先生:それは面白い。なぜなら、私はその点について、今、まさに話をしようとしていたからだ。理想型それ自体は美しいのか?それについて、話をさせてもらおうか。答えは曖昧だが、でも、これは非常に重要だと思う。




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by yomodalite | 2014-10-20 18:27 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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☆『MJ Tapes』の翻訳について[1]のつづき。。


Y:シュムリーは、このあとの会話でも、「名声」や「物質的な成功」「愛情」「孤独」…といった、誰もが自分の人生において悩む課題について、様々な方面からMJに質問して、彼の内面を引き出しているよね。ただ、彼は、この時期のMJを低迷していたと認識して、自分との対話によって「あるべき姿」を取り戻してほしいと思っている。メディアがどう報じようと、音楽界で、MJが「低迷」していた時期なんてないことを知っているファンとしては、見当違いと感じる部分もあるけど、私が驚いたのは、人生のあらゆる問いに関して、MJがすでに多くの「答え」を持っていたことなんだよね。



C:認識の違いということで言えば、「出版の経緯」でシュムリーは「惨めなほどの孤独さについて」告白されたことにふれている。マイケルは「皆に自分を愛してもらいたかった。心の底から愛してもらいたかった。なぜなら、真に愛されたと感じたことがなかったから」と語り、シュムリーはそんなマイケルに対して、「名声が手に入っても、身近な人からの愛情は手に入っていないよね。ファンの気持ちと本当の愛情は違うよね、かわいそうに」と言いたげ。でも、このシュムリーの認識も、マイケルの現状とは違っているんじゃないかな。


だって、マイケルほど愛された人はいないのだから。ファンを別としても、マイケルに接した人はみな、彼に魅了されたと言っているし、シュムリー自身が、実際会ってみたらマイケルの人柄の魅力に惹きつけられた、と「私たちの出会い」に書いている。そのマイケルが「愛されたかった」という時の「愛されたい」は、自分の「愛されたい」とは違うのでは? マイケルが「孤独だ」という時、自分の「孤独」とは違うのでは? とシュムリーは疑問を持つべきだったと思うのだけど。



Y:MJは、自伝『ムーンウォーク』でも自分の孤独について、『僕は自分が世界で一番孤独な人間のひとりだと信じている』と語っていて、表現者として、その感覚をもっていることに、誇りを抱いているという感じだものね。


◎[関連記事]映画『ミスター・ロンリー』


それと、そんな感じで同情させるの、MJがよく使う手だよねって思った人もいると思うけどw、でもさ、シュムリーだけじゃなく、男って嫉妬深いから、名声や仕事に対して自分より上の男を目の前にすると「身近な人からの愛情は手に入っていない」なんてことをまず考えるじゃない。可哀想ぶってるなんて批判されることもあるけど、MJにしてみれば、それは男の嫉妬を和らげ、相手の懐に入る方法でもあると同時に、実際、彼はあらゆることを「愛」を中心に考えていたと思う。



C:名声-これは彼が選んで手に入れた薬物と言っていい-、そして舵のきかない人生が、彼を徹底的に打ちのめしてしまったのだ。彼の人生における最大の悲劇は、注目されることと愛情とを間違えたこと、家族より名声を、真の精神的な目標より物質的な成功を選んだことである。


これは、「MJTapes」において一貫しているシュムリーのマイケル観で、表現を変えて、繰り返し述べられているよね。でもね、『THIS IS IT』のマイケルを見れば、2009年、シュムリーと別れてから8年(ただの8年じゃない、ものすごいバッシングと好奇の目に晒される年月)経った時点でも、彼は精神的に壊れていたわけじゃないし、名声や物質的な成功に左右された破滅などしていないことがわかるよね。


これも、シュムリーが独善的であるとか、マイケルを利用しようとしたということではなく、「名声」や「愛情」や「成功」というものの意味が、両者の間で違ってたということじゃないかな。シュムリーは「名声」を得ること=「物質的な成功」、「名声」=「愛情」の代用品、そして、「物質的な成功」は「精神的な目標」に劣ると捉えているけれど、マイケルにとっては、多分そうじゃない。


マイケルにとって作品を創ることと、「名声」や「物質的な成功」は、並行してやってくるものだけれど、彼は、それ自体を目標としていないし、「物質的な成功」と「精神的な目標」を相反するものとは考えていなかった。「精神的な目標」のために「物質的な成功」を手に入れようとしてたのではないかな。



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Y:MJは、仏教でいう、上品(じょうぼん)、中品(ちゅうぼん)、下品(げぼん)のような分類で言えば、上品(じょうぼん)を目指してる。彼は、少年時代からイエスを見習いたい人として、尊敬してきたような人だから。


シュムリーは、聖書について深く研究してきた人だと思うけど、ユダヤ教では、成したことを重視する傾向があるので、精神性の高さについては厳しい見方をするみたい。でも、今はあらゆる分野で、下品(げぼん)から見ようとするね。その方が「お客さん」を多く集められるし、世の中には汚いことがいっぱいあるからね。


ケネス・アンガーの『ハリウッド・バビロン』とか、1960年代以降、MJが尊敬していたチャップリンや、J・Mバリ、ウォルト・ディズニーらを、幼児性愛や同性愛者として、徐々にその裏面を描くことが「真実」といった風潮になっていったけど、MJはその流れに逆行するかのように、彼らが成し遂げたことを讃えたでしょう。他にも『MJ Tapes』では、ハワード・ヒューズのような、MJ以前に、アメリカでもっとも「メディアの餌食」になったような人物についても「大好きだ」と答えている。そんなところからも、多くの人が選ぶ道以外を進むには、人々からの批判や疑惑を受け止めて、自分を磨いていかなくてはと、彼には最初から相当の覚悟があったように思える。


『THIS IS IT』に対して、自分が見た「真実」と違うと批判した人もいたし、殺されたのではという疑惑もあり、彼の死の真相については色々な言葉がとびかった。シュムリーも含めて、彼らの言葉には、かならず「原因」を自分以外に求め、他者の責任を「追求」するところがあるけど、MJは、あれだけ批判にあっても、誰かを批判することはめったにしなかったし、少しだけ言ってしまった場合も、後から反省したり、自分のことを振り返ってみようとしていたよね。


ファンや家族にとって、彼の死以上に悪い結果はないけど、おそらく、MJにとって一番悪い結果は「死」ではなかったんじゃないかな。


よく生きることと、どう死ぬかを考えることは、同じように大事というか、精神的なことと、物質的なこともそうだけど、一見対立していると思われていることも、実はそうではないのでは、とか。MJを見ていると、自分がどれだけ狭い見方をしているか、思い知らされることがよくある。



C:なぜ、今『MJTapes』を、しかも、シュムリーの主張まで全部紹介するのって言う人もいると思う。私も、以前はこの本を敬遠していて、日本語にしようなんて考えてもいなかった。でも、MJに対してこのようなアプローチをしてくれた本はやっぱり他にないじゃない。死後5年経って、MJに関する本がつぎつぎと出版されていても、彼の思想や精神に注目してくれた本はこれだけで、新しい世紀を向かえるこの頃、MJが何をどんな風に考え、『THIS IS IT』まで生きたのかを知りたい者としては、無視して通ることはできないと思うんだよね。



Y:シュムリーのプロローグは、マイケルの死にショックを受け、ふたりの友情が続いていた頃から自分はずっと注意していたのに、というやりきれない怒りと、またもや始まったメディアの狂騒の中での、彼へのいわれのない誤解も解きたいという思いが錯綜しているよね。


このあと公開する部分では、友情が終わった理由について語られているんだけど、シュムリーは自己弁護もあって、彼が思う「MJの黒い部分」についての話が続くでしょう? 自分との関係が終わったことと、マイケルが死に至った原因を直結させているところに疑問は多いものの、シュムリーの批判は、これまでメディアに登場したものの中では、まだ真っ当な方じゃない。



C:そうだよね。さっきも言ったけど、MJの思想や精神を紹介したいなら彼の言葉だけ取り上げて、って考える人もいるかも知れない。でもシュムリーには、ユダヤ教のラビとして、揺るがない自分の信念や、考え方の基盤があるから、話のかみあい方や、先に言葉の認識のところで述べたような、話のくいちがい方に、MJの考え方が浮き上がってくるように思う。物事を論じるときに、比較っていうのはすごく有効な方法だからね。


ただそれは、読む側にとってのこの本の価値で、マイケルがこの対談を行った意図は、また別に考えなきゃいけないよね。シュムリーと面識を持ちたいと言ったのは、マイケルの方だった。「どうして、ラビだったのだろう」とシュムリー自身もこの本の中で問いかけているけれど、マイケルは、深く考えてシュムリーを選んでいるだろうし、自分の意見に同調してくれるばかりの人物ではないということも、望んでのことじゃない?


揺るがぬ信念を持って座標軸になってくれる人物は、ユダヤ教のラビに限ったことではないかもしれない。プロテスタントの指導者でも、カソリックの指導者でも、仏教の指導者でもいいわけだけど、ユダヤ教のラビを選んだんだよね?


なぜかなぁ、と考えるとき、Black or Whiteの、“I’d rather hear both sides of the tale.”という一節を思い出す。マイケルをこれを実践していたんじゃないかなって。


何度か本を読んで「ユダヤ人とは?」って知ろうとして頓挫している私だけど(汗)、彼らがホロコーストを含む長い受難の歴史を持ち、その中で多くの優秀な人材を輩出していることはわかる。アメリカの政界や財界にも厳然とした力を持ち、ショービジネスの世界でも絶対的な力を持っているよね。それなのに、というか、そうであるがゆえに、一方ではたえず陰謀を画策しているようなイメージを持たれたり、受難の歴史にこだわりすぎる、理解の難しい人たち、と考えられることもある。


MJは、アメリカで、っていうか世界でかも知れないけど、大きな力ゆえに大きな疑念や偏見の対象にもなるユダヤ人を、話を聞くべき ’side’ だと考えたんじゃないかな。ジャクソン5時代の家庭教師がユダヤ人女性だったこともあり、彼は子供の頃からユダヤ人の歴史については関心を持っていたし、ビジネスの世界でもユダヤ人との関わりを多く持っていたわけだけれど、ここで改めて、彼らの考え方の根本であるユダヤ教について学び、自分の考え方との違いや共通点を知り、理解しようとしたんじゃない?


MJの住む世界のことを知らないシュムリーが、ラビとしての善悪の基準を前面に出して批判的なことを言うときも、彼は激高したり、無視したりするのではなく、冷静に自分の意見を述べている。MJがシュムリーとやりとりする姿勢は、「他者」というのは、非難したり追求したりして、自分が優越感を感じるために存在するんじゃなく、対話して、自分を高めていくためにあるのだ、ということを教えてくれるように思う。


MJは、自分がどんな人間か世間に知って欲しい、と言ったわけだけれど、この本でそれは成功してるんじゃないかな。彼が「愛」や「孤独」をどう考えていたかということもだけど、何より彼が「対話」と「理解」の人だということがよくわかるもの。それが翻訳したいと思った一番の理由なんだよね。だから、たとえシュムリーが私たちには不愉快に感じられることを言っていたとしても、切ってしまわずに伝えたい。



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Y:私も、ユダヤ教やキリスト教のお勉強については苦労してるんだけど、今の時点で、MJが会話の相手として、シュムリーを選んだ理由は大きく分けて2つあると思う。


ひとつは、自分の中で培われた信仰を確認するための対話者として。MJは「エホバの証人」を離れてから、宗教指導者を通して、神を学ぶということをしていないでしょう。それは、誰かが言ったことを鵜呑みにしないで、自分自身で考えるという訓練にはなっているけど、良くない点としては、自分の都合のいいように神を創造してしまうこと。新興宗教の教祖を目指すならそれでもいいし、律法を重視しないプロテスタントは解釈の違いで数多くの宗派を生んだけど、そもそも「三位一体」とか、「一神教」とはいえなくなっている部分もある。


でも、MJにとって、神がひとりだということはものすごく重要な概念なんだよね。彼は「エホバ」というユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通した神を信じているわけだから、それを生み出した「ユダヤ教」の指導者と対話するというのは、何かを学ぶときに、必ず「原点」から振り返ってみるという、彼が守ってきたやり方を考えれば必然だったと思う。


ユダヤ教とキリスト教の違いは、イエスがいるかどうかの違いという人もいるけど、MJにとってのイエスは、神ではなく目指すべき人間であり、ユダヤ教にとっての「救世主」は、まだ現れていないという解釈だから、シュムリーが、このあと「メシア・コンプレックス」なんて言って、MJを批判しているのも当然の流れと言えるし、彼にとっても「望むところ」だったんじゃないかな。


もうひとつは、


現在も収束する気配が見られないイスラエルとパレスチナ間の悲劇的な事態を、当時から危惧していたから。


ヴィーゼルは、2014年8月1日、米国の新聞に全面広告を出してて、


http://www.algemeiner.com/2014/08/01/elie-wiesel-condemns-hamas-for-using-children-as-human-shields-calls-on-gazans-to-reject-hamass-child-sacrifice/


記事の内容を端的に言うと、ハマスが「人間の盾」として子供たちを使っていることへの非難で、なにより悪いのはハマスだっていう主張なんだけど、記事では、シュムリーもそれに同調し、援護するかのようなコメントも紹介されてる。というか、シュムリーはこのキャンペーンを主催する立場で、見ようによってはヴィーゼルよりも過激にハマスを非難し、イスラエルの正当防衛を主張しているんだよね。


ガザで犠牲になった大勢の子供たちの写真を見せられると、シュムリーたちの言い分を支持することはむずかしいけど、パレスチナの政権は不安定で、イスラエルに行ったユダヤ人たちが、周辺国のテロに怯えるのはもっともで、それを米国に住むユダヤ人たちが援助しようとすることもよくわかる。でも、米国のユダヤ教会が、一丸となってイスラエルを支持しているわけでもないし、そもそもイスラエル建国に関しても、多くのユダヤ人が反対してた。


世界の富が、極少数の人々に集中していることも、ユダヤ人に力を持っている人が多いのも、彼らが国を超えて強力なネットワークをもっていることも事実。そんなことから、日本でも「ユダヤの陰謀」みたいなことが頻繁に話題にされ、侮蔑的な表現をカンタンにしてしまう人も多い。


でも、世界を思うがままに操る権力者の会議が、ユダヤ人を中心に行われていたとしたら、様々な国で暮らす同胞のユダヤ人を、イスラエルというひとつの国に集めて、イスラム国家を攻撃することにどんな意味があるのかな?


私が、世界を牛耳る権力者の考えを想像するのは、めちゃくちゃ無理があると思うけど、国をもたないことで差別をうけてきたと感じているユダヤ人のために「中東」の地に国を作って、そこに武器を投入して、イスラム国家を弱体化させる。っていう作戦は、世界覇権をもくろむ「ユダヤ人以外の人たち」にとっては、都合がいいんじゃない?


私たちの国でも「愛国」が敵国を意識させることとセットになっているように、戦争を起こしたがる勢力は、まず「国」を意識させたがる。それで、国をもたずに世界中にネットワークをもっているユダヤ人を嫌い、利用しているという部分もある。


第二次大戦のとき、ドイツが先に原子爆弾をもったら。という恐怖は、ユダヤ人の科学者にその研究を推進させた。でも、原爆がつかわれたのはドイツではなく、「日本」だったよね。


米ソの代理戦争のような朝鮮戦争のあと、韓国はキリスト教へと改宗し、「反日」政策を強めていった。日本も、韓国も、恨む理由があるとすれば「米国」のはずなのに。中東のテロリストと言われるような人は、欧米への憎しみを強めていて、特に「反米」意識が強いけど、彼らが「ユダヤ人」にターゲットを絞っていないのは、イスラエル=ユダヤだとは思っていないからでしょう。


MJが言っているとおり、人種や国や民族の問題じゃないんだよね。


それなのに、国や、民族や、宗教や、肌の色で、差別的をしたり、敵だと思ってしまうのは、何の罪もない、子供たちを不幸にすることで、その間違いをおかしているのが、今の「自分たち」でもあると。MJは伝えたかったんじゃないかな。


シュムリーが、イスラエルの正当防衛を主張している件だけど、彼は『MJ Tapes』の中でも、何度もエリ・ヴィーゼルの名前を口にしているよね。でも、そこはMJとの「温度差」がもっとも感じられる部分で、シュムリーがどれだけヴィーゼルのことを尊敬していたにしても、この本において必要とは思えない不自然さで、ヴィーゼルを持ち上げてるでしょう。MJとの関係や、彼をシンパに出来なかったことを、自分のコミュニティにいる人に言い訳したかったことが一番大きいのかもしれないけど、シュムリーにとって、MJの存在が、自分のメンターへの気持ちに動揺をきたすほどのインパクトを持ち始めていたようにも思えるよね。


少年時代の孤独感から、信教の道に進んだシュムリーは、マイケルが世界の子供たちの代弁者になりたいという言葉に心を動かされたと思う。でも、それは、ユダヤ民族の代弁者としてのヴィーゼルらの活動とは、どこかで衝突せざるを得ない。このあと紹介する「友情の終わり」には書かれていないことだけど、私には、ふたりの関係が終わった理由に、ヴィーゼルの存在が影響を与えなかったとは思えない。


黒人とか、ユダヤ人とか、そんなことはどうでもいい。みんな同じように神のこどもで、だからこどもの頃はそんなことを意識していなかったじゃないか、とMJはいう。でもシュムリーは、自分がユダヤ人だということから逃れることは出来ないし、君は、黒人として生まれたことから逃れられないのではないか。自分は、夫として、そして、こどもたちの父親として、彼らを育てる責任があり、ラビとして人々を導く責任もある。大人には、他にも様々な「立場」があると。


MJも、シュムリーの批判は受け止めたと思う。「ぼくはヒトラーの心だって変えることができる」と言っていたけど、それは、ヴィーゼルにも届かなかったし、彼はこの頃、はじめて自分自身のこどもを持って、本当に、他の子供を、自分の子と同じように愛せるかと、何度も自分に問い直したと思う。


私たちはユダヤ人じゃないから、彼らが経験したことを実感するのはむずかしいけど、個人としてではなく、日本人として、つまり「立場」をふまえての選択を迫られたときは、シュムリーのように行動する人が多いんじゃないかな。彼は、家族と同胞のために、正しい道を選び、正しいと思う人のために働いた。ヴィーゼルは「ノーベル平和賞受賞者」で、MJは、全メディアから批判されているポップアーティストに過ぎないって、何度も自分に言い聞かせて。


そして、多くの人は、進むべき道を決めるとき、選ばなかった道を批判して前に進む。シュムリーのこの長いプロローグも、そういうことなんじゃない。でも、MJは『THIS IS IT』まで、シュムリーよりももっと長い年月をかけて、自分が選んだ道だけを示して旅立った。


自分に出来ることは、イデオロギーで理想を実現したり、世界を変えることではなく、人の心を癒すことなんだって。。


私は、それが、彼の『THIS IS IT』だと思った。


MJは、これまでもずっとそうだったと思う。でも、、それは自分の想像をはるかに越えていたんだよね。


(一旦おしゃべり終了)


シュムリーのプロローグは、まだしばらく続きます。シュムリーは、『MJ Tapes』のときから、「どうして自分だったのだろう」と何度も問いかけていたけど、このあと、次作の『Honoring the Child Spirit』の序章を読み返すと『THIS IS IT』を見て、彼がもう一度、思い直したことも伝わるかもしれません。


彼が讃えようとしたのは、子供の精神ではなくて、MJの精神ではなかったかと。


◎『MJ Tapes』の翻訳について[3]序章を終えて…に続く





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by yomodalite | 2014-08-26 11:02 | MJ考察系 | Trackback | Comments(4)
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ここまで『MJ Tapes』を読んでいただいた方に。


未だに終わらないシュムリーの序章ですが、なぜ、今、これを紹介しようとしたのか?について、翻訳の監修者である、childspirits先生と2人でおしゃべりしてみました。


それは、5年間を振り返ることにもなり、私たちの会話は、シュムリーに負けないぐらい長くなってしまったのですが。。



yomodalite(以下Y):2009年の6月26日のことは、覚えてる?



childspirits(以下C):それはもうはっきりと覚えてる。あの朝、何気なくテレビをつけたらワイドショーで、「今朝はいった大変なニュースです。マイケル・ジャクソンが亡くなりました」って言ってるのが耳に飛び込んできて。いきなりのことで、びっくりしたけど、もっとびっくりしたのは、ニュースを聞いた瞬間、涙があふれ出したこと。


マイケル・ジャクソンのことを日頃考えていたわけでも、彼の音楽をフォローしていたわけでもない。『オフ・ザ・ウォール』で、「あのマイケルが、こんな青年になったんだ」と思い、『スリラー』に驚嘆したあとは、「すごく売れてるんだな」と横目で見ているくらいの感じ。多くの人がそうだったように、世紀が変わる頃からは、スキャンダルにまみれ、メディアに追いかけられる彼しかわからなくなった。それなのにすごく涙が出て、あとはテレビの前に座り込んで、延々と彼の死に関するニュースを見続けてた。



Y:私も、朝の情報番組だったと思う。今は、なんとなくテレビをつけることはなくなったけど(これもMJが原因)、当時はまだそういう習慣があって、家の前に救急車が停まってる映像とか、ヘリコプターとか、見てても仕方のない映像なのに、そのときだけは目が離せなくて、とにかくショックだった。自分に出来ることなんか何もない状況なのに、どうしたらいいんだろう、って動揺しただけでなく、なんだか自分のせいなんじゃないかって思ったよね。そう思ったのは、私ひとりじゃなかったと思う。芸能人が亡くなったときに、負い目を抱いた人が大勢いたという経験は、MJ以外に誰かいたかなぁ。



C:あれほど強烈に、大勢の人にそう感じさせたのはMJだけじゃない?自分の事で言うと、彼がメディアに、容姿や奇行や家族のことで面白おかしく取り上げられ、バッシングされているのを見ながら、アメリカで黒人が影響力あるポジションを手に入れることのしんどさを想像したけど、一方で、彼の側にもバッシングを誘発してしまう要素はあるんじゃないか、とも思っていた。「白人になろうとしている」みたいな解釈も、何となく受け入れていたかな。ただ、そんなふうに傍観していたことで、彼を追い詰める流れに荷担したんじゃないかって、感じた。ある種の後ろめたさ、は彼の生前から感じていたのかも知れない。2008年だったかなぁ、リーディングのクラスで、MJの記事を取り上げたことがあったのね。



Y:どんな記事?



C:簡単に言うと、「マイケル・ジャクソンは本当にもうだめなのか?」みたいな記事。彼は近年キャリアの面で目立った活躍はなく、スキャンダルばかりで知られるようになっている。しかし、彼は本来は世界最高に売れた、才能あふれるエンターティナ-のはずだ、ってね。書き手の口調はどちらかと言えばMJに好意的だったと思う。


どうしてその記事を取り上げたかっていうと、マイケル・ジャクソンといえば変な人、という刷り込みしかされていないであろう若い人に、実はすごい人、の面も知って欲しかったから。授業ではよく知られているニュースについての英文記事を読むことで、メディア・リテラシーみたいなこともやりたいと思っていたからね。


ただ、その記事の書き手がそうであったように、MJのキャリアに再びピークがやって来るとは私も考えてなかったし、彼が実はすごい人、っていう場合の「すごい」が『スリラー』であるという認識も共通していた。そして、あの日のニュースを聞いたんだよね。



Y:私はね、当日は泣いたと言うよりは、朝からテレビで彼に関する映像をいっぱい見ないではいられないほどショックを受け、それほど大きなショックを受けた自分にも驚いたりして、それで夜には、もう今後メディアを通してマイケルを見ることを止めようということと、この衝撃が何なのかについて自分だけで考えたいという、なにか「決意」のようなものを抱いちゃったんだよね。



C:MJの死亡のニュースが入った日は、まるまるテレビで報道を見っぱなしだったけど、いくら見続けても、どうして涙が出たのか、自分にとってのMJとはどういう存在だったのかわからず、自分が関心をはらっていなかった時期の彼をとにかく見てみようと思ってPCに向かった。YouTubeを使うようになったのは、2009年6月26日以降だよ(笑)。で、「彼は、こんなにずっとかっこよかったんだ」、というよりは「こういうかっこよさを持っていたんだ」ってことに呆然とした。



Y:私は「デンジャラス」からファンだったから、80年代より、90年代以降のMJをよく覚えてるのね。ビッグスターに乏しかった90年代、彼のカリスマ性は並ぶものがなかった。ただ、その頃から徐々に「等身大のスター」が求められるようになって、「天才」で「お金持ち」というイメージのMJは、時代に合わないと思われるようになっていったみたい。



C:私は、デンジャラス以降は、ほとんどフォローしてなかったから、MJがどういう存在だったかについては、今と全然違う答えを持っていた。彼はすごい才能の持ち主で輝かしいことを成し遂げたけれど、ピークは過ぎていて、マスコミのバッシングに苦しみながら、失意のうちに死んでいったみたいに考えていた。彼の悲劇の根源を、奴隷制度にはじまり公民権運動を経て半世紀が過ぎてもなお差別され続けるアメリカの黒人、っていうステレオタイプの図式に求めていたんだよね、きっと。『THIS IS IT』を見るまではね。




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Y:初日に観に行ったんだよね。どんな感じだった?



C:うん、「最後まで頑張っていた彼の姿はどんなだったんだろう」という、期待と不安とおそらくは同情の入り交じった気持ちで見に行ったんだけど、上映後は、すぐに立ち上がれないまま涙を流していた。正確に言うと、立ち上がれなくなったのは、映画を見終わったあとじゃない。映画始まってわりとすぐ。ダンサーたちがMJと同じステージに立てる喜びについて語る場面のあと、『THIS IS IT』のオープニングシーンになるでしょ。オルテガの説明と共にいろいろな映像に輝く「ライトマン」が出てきて、’piece by piece’って開いて、MJが登場する。彼が右手をスッと掲げ、Wanna Be Startin' Somethin’ が始まる。その瞬間、もう、頭からどっかーんと何かが落ちてきたようなショックを受けた。


つま先から指先まで電気が走っているような立ち姿や、サングラスからのぞく、つぃっと上がった眉、引き締まった口元の表情を見て、「この人は、世間が自分を化けもの扱いしている間も、努力を怠らず、たえず挑戦し続けていた」っていう思いが閃いた。


右手を天に突き出し、体全体から放電しているような立ち姿というのは、「スリラー」のダンスシーンにもあるよね。あの頃のMJは坂道を猛スピードで駆け登っているような状態だったけど、そのあと、『THIS IS IT』までのMJには、困難な状況が次々起こっているよね。なのに同じポーズが、「スリラー」の時よりも、エネルギーに溢れて見えた。スリラーからの四半世紀を、普通のスターとして過ごしてきたら、こんな事が起こるはずはない。あんなひどいバッシングの中で、こんな進化を遂げるのは、並大抵の精神力や思考力じゃないなって、思った。


上映後に流した涙は、「この」MJを知った感動と、いままで知らなかった、知ろうとしなかった、自分のダメさ加減への後悔によるものかと思う。それで、結局19回も『THIS IS IT』を見に行くことになったんだよね。



Y:話を聞いてると、私のあの日のことも甦ってくるなぁ。呆然とした気持ちでスクリーンを後にしたとき、またもや、「自分はこれからどうしたらいいんだろう」って感じで、ただ、もう自分を落ち着かせる目的でダーリンに電話して、「今までに感動したこととは比べようがないぐらい、人生で一番感動した」って言ったと思う。他にどんな言葉も発したくなかったから、それだけで電話を切ったのね。友だちに『THIS IS IT』すごく良かったよ。なんていう普通の会話も絶対にしたくなくて、それで、リアルフレンドには、その後もずっとマイケルのことを話さないようにしてた。


それまで、私はオリジナルアルバム全部と、ブカレストライブを持ってるぐらいのライトなファンだったけど、あの大観衆の1人になるのが嫌で、MJのライブに行きたいと思ったことがなくて、だから、初めて実物の彼に出会えたような気分だったのかもね。


映画館にいるあいだはすごく幸せを感じて、どんなに泣いても、それは「感動の涙」だったのね。でも、観終わって家に帰ってきてからも涙が止まらなくて、それは感動の涙ではなかった。私は、通勤も、子供の世話も、介護もしなくていい身分だったから、もう本当に1日中泣いてて、自分がこれほど激しく泣いている状態をどうしたらいいのか、一体インヴィンシブル以降に見てきたマイケルは何だったのか。その答えを求めて、5年も経ってしまったみたい。



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C:私の生活は、『THIS IS IT』をはさんで、「紀元前」と「紀元後」って言えるくらい変わったと思う。とにかく毎日MJのこと考えた。スペースも予算も考えずCDやDVDを買いこんだのはもちろんだけど、彼に関係する本を手当たり次第に読んだ。で、読むほどに、映画を見た時に感じた彼の思考力は、現実のものだったという気がした。



Y:私もどこが変わったとは言えないけど、読む本は確実に変わった。MJ以外の人がどんなにキレのあるダンスをしても、振り付けをこなしているように見える。でも、MJが指先を少しどこかに向けただけで、そこには「意志」があり、「意味」があるように見える。彼の精神と肉体は完璧に一致していて、『THIS IS IT』まで、なにがあっても変わらなかったことが、私にはものすごい衝撃だった。


それまで、MJのことを、そんなに知性があるとは思ってなくて、本を読むのが好きだというインタヴューを聞いていても、成功本の類いであるとか、とにかく自己啓発好きで、ポジティブ思考という印象しかなかったんだけど、誰もが彼の人生は行き詰まっていると思うような状況の中、最後まで、その肉体から精神性が感じられるというのは、彼が、本質的な「知性」をもっていることに他ならないじゃない。それは、どんな「真相」よりも私には明らかなことだと思えたのね。


知識は本から学べても知恵は経験からしか学べない、という言葉があったと思うけど、彼は熟練のパフォーマーとしての「経験」だけでなく、それを長く実践するために極限の努力もして、世界一と言われるほどの成功を手にできるほどの「知恵」もあった。MJは、学んだ知識を最大限アウトプットすることが出来たひとだよね。


それなのに、MJほど、自分を賢く見せなかったアーティストもめずらしい。だとすれば、彼が自分を賢く見せなかったことには、「なにか特別な理由」があったはずだと思ったのね。それで、彼がどんな本を読んでいたのか、ものすごく興味が湧いてきて、彼が読んだと思われる思想書や宗教に関する本も、あらためて真剣に読むようになったんだよね。


C:私も「ムーンウォーク」や彼の詩集、オックスフォードでのスピーチや、色々なインタビュー、さらに彼が残したメモを読んで、それから彼の歌の詞を読み直した。そうしてみると、間違えていたことがちょっと具体的に見えてくるようになった、自分なりに、だけど。たとえば、彼がいつも口にしていた、子供のために生きている、というような発言。それを子供好きなんだなぁとか、自分の失われた子供時代への回帰なのかなぁと捉えていたんだけど、そんなに浅薄なものではないとかね。彼は子供の世界を、自分が癒されるのに必要な場所ではなく、この世界にある病を癒すのに必要な innocence の泉だ、と真剣に考えていたんだということがね。



Y:私の場合、オックスフォード・スピーチに感動したあと、さらに衝撃を受けたのが、『MJ Tapes』だった。相変わらず、センセーショナルなことのみ紹介されて、ユダヤ教のラビが、MJを裏切って出版したみたいな扱いだったけど、彼が、90年代に「こども」について以外言いたくなかったこととか、めったにしゃべらなかったこととか、色んなことが、今までとは違って見えてきたよね。



C:確かに「こども」への思いだけではMJの全体像に迫れない気がする。というか、どうして「こども」が最優先事項なのか、が理解する必要があるよね。そういった意味で、『MJ Tapes』には、手がかりになることが多いよね。英文学の世界にグロッサリー(glossary)という言葉があって、それは作家が特別な意味を持たせて用いた語の説明を集めた特殊辞典で、有名なのは「シェイクスピア・グロッサリー」なんだけれど、『MJ Tapes』はもしかしたら、マイケル・ジャクソンという人物(書物)を理解するためのグロッサリーの役目を果たしてくれるかも。


MJとシュムリーの対談を読み込むと、ひとつの語に対して、二人の認識が微妙に食い違っていることに気づくでしょう。その差異が「マイケル・ジャクソン・グロッサリー」になり得る。言葉=思考だものね。


☆『MJ Tapes』の翻訳について[2]に続く




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by yomodalite | 2014-08-25 11:36 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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