カテゴリ:MJ考察系( 75 )

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読者限定ブログで公開している『Remember the Time』(MJのボデイガードが書いた本)をネタに、akimさんと4時間ぐらいおしゃべりした内容を、ちょっぴり公開します。


A:akimさん Y:yomodalite


Y:2006年頃からのマイケルの写真、いっぱい見てるつもりだったんだけど、彼ら(ビル&ジェイヴォン)の顔は記憶がなかったんだよね。ビルに関しては、なんとなくそれらしいのがあったけど、ジェイボンは一度も見かけたことがないんだけど・・・



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テレビ出演時:マイケル・アミール(左)ビル(中央)とジェイヴォン(右)



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(左)ビル?



A:ビルは2006年からだけど、ふたりが揃ったのは2007年からだよね。


Y:裁判のとき証言してたボディガードが2人いたでしょう。でも、ビルとジェイヴォンは、彼らとは違うんだよね。パームスタジオのエピソードのときも、すでに2人共いたはずなのに、あの頃の写真に写ってるのも、ビルとジェイヴォンじゃないよね。裁判で証言したマイケル・アミールはよくマイケルと一緒に写ってるんだけど。



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MJのアシスタントでセキュリティチーフだったマイケル・アミール・ウィリアムス



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911通報をしたボディガード、アルベト・アルバレス




A:ボディガードが変わるのは、本の中ではこれ以降の話で出てくるんだよね。ビルとジェイヴォンは、たしかロスには行ってないか、常駐はしてないみたいな・・・



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(左)マイケル・アミール(右)ビルじゃない人w




今紹介してるところは、ちょうど、ビルに全権が移ったぐらいのところなんだけど、どこかの時点で、マイケル・アミールに移行して・・



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(左)マイケル・アミール(中央)アルベト・アルバレス


ビルたちは、自分たちが最後まで一緒にいられたら、みたいなことも言ってたみたいだけど・・




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(右)ビルでもジェイヴォンでもアミールでもない来日時のボディガード




A:2006年も、2007年も、同じプロモーターの人(ポジティブプロダクション代表ブロデリック・モーリス)が絡んでて、2007年の来日では、マイケルと彼はなんらかのビジネスの話を詰めてたらしいね。


Y:そのビジネスがポシャったから、あの本あんなに高かったのかw


◎[Amazon]マイケル・ジャクソン リアルカムバック 2006


A:この頃のマイケルって、パフォーマンスではない、ビジネス関係で来日してたんだと思ってて・・レイモン・ベインが、あのファン・パーティーが超高額ということを、実はマイケルに知らせてなくて、彼はあくまでもビジネス・ミーティングだと思ってて、ファンたちが歓迎してくれることは知ってたけど、そんなに高額だとは知らなかったんだとかって古くからのファンには言ってた、みたいな話は聞いていたんだけど・・


Y:でも、ビルとジェイヴォンも日本のファンはマイケルに会うだけで高額なお金を払うんだ、とか知ってたわけだから、マイケルがわかってないわけないよね。


それと、エリザベス・テーラーのパーティに出るための衣装とか、すごく張り切って有名デザイナーに依頼して作ってるのに、MTVアワードに関しては、来る前からわかってるのに、来日してからあわてて、衣装を調達したりしてるでしょ。テレビ中継もあるし、帰国後、世界ではじめてステージに立つことで注目もされてたのに・・




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Japan MTV Award

衣装がチープでも、MJはゴージャス!




A:まぁ帰国したばっかりってこともあるんだろうけどね・・


Y:でもさ、帰って来たところだったにしても、エリザベス・テーラーのパーティーのときは、ロベルト・カヴァリに注文してわけだし、それこそ、THSI IS ITのときもお願いして、これまでもずっとやってきたマイケル・ブッシュに声かけたって良かったじゃない。サイズもそんなに変わってないんだし・・・


A:そこは謎だよね。


Y:テレビも入ってるのに、直前にユザワヤで買ったような材料で、衣装作らせるなんてね・・


A:混乱してるよね。


Y:うーーん、混乱なのかなぁ、あの高額のファンパーティーのときはスペシャルな衣装だったじゃない?あれは、お金が入るってわかってるけど、MTVアワードの方は、マイケル側からねじ込んだから、出演料がそんなに出ないとか・・いや、そんなことないか・・だって「Smap×Smap」と同時期だもんね。あれは、フジテレビがすっごく高額なギャラ払ってるから・・ただ、同時期とはいえ、それぞれスポンサー別だから、ギャラ別にシビアに考えてるってことはあるかな・・


A:ファン・パーティの衣装は、あのランディが突入したことで、行けなくなっちゃったエリザベスのパーティで着る予定だったのを流用してると思うんだよね。


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マイケルのためにデザインしたロベルト・カヴァリのデッサン画



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ファンパーティーの写真



Y:あ、そうなんだ・・。でも、MTVアワードも別に歌うわけじゃなかったんだから、あーゆースーツでも良かったのにね。


A:カヴァリの衣装は、出来上がるまで何ヶ月もかかってるんだよね。彼に注文したとき、マイケルが「もう僕はローファーとか、白い靴下とかうんざりなんだ、スエードのアンクルブーツとか履きたんだよね」とか言ったらしくて・・カヴァリがそれに合うような衣装を考えてデッサンを見せたら、マイケルも大喜びしてくれたんだけど、それをロンドンのワールドミュージックアワードのときに着用したマイケルは、観客が盛り上がってることに気分が高揚して、そのジャケットを、会場のファンに投げちゃったんだよね。




ジャケット投げは11:45~



それで、カヴァリがあんなに時間かけて作ったのに・・みたいなエピソードを自分のサイトで公開してたよ(笑)





Y:日本のMTVアワードは、帰国後世界初とはいえ、ほとんど日本人しか見ないからね。ロンドンの方がお金かけるのは仕方ないか・・


A:うん、帰国してからはじめて公の場に出るっていうイベントだったせいで、マイケルもまだ気持ちが乗ってなかったっていうか、まだ怖がってるっていうか・・・


Y:じゃあ、あの日本のMTVアワードで力を得て・・みたいな(笑)、あれがあってのロンドンってこと(笑)


A:そうそうそう・・私はずっとそう解釈してる(笑)


Y:はいはいはい、たしかにね(笑)


A:そう、あの日本のファンの歓迎があって、僕はまだ大丈夫、みんなまだ僕のこと好きでいてくれる、みたいな・・ジャパンMTVアワードも、別にマイケルのファンが集まってるわけじゃないし、色々なアーティストのファンが見に来てるのに、自分が出て行ったら、「えーーっ、マイケルぅ?」なんて言ってた人でも、これだけ盛り上がったっていうのは、あの頃のマイケルにはすごく力になって、これなら、ロンドンも絶対にイケる!という自信になったんじゃない?




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by yomodalite | 2017-06-15 07:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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(4)の続き・・・


下記は、アメリカでよく言及されるジェネレーションの区別。


・ベビーブーマー/1946~64年頃、第二次世界大戦後からケネディ時代に生まれた世代

・ジェネレーションX/1965~70年頃に生まれた世代

・ジェネレーションY/1980~95年頃で、ベビーブーマーの子供世代

・ジェネレーションZ/1995年以降の生まれ


マイケル自身はベビーブーマーですね。


2002年に書かれた本によれば、ヒップ・ホップ・ジェネレーションは、1965年から1984年の間に生まれたアフリカン・アメリカンという定義があるのですが、それは、2001年に、マイケルがオックスフォード・スピーチで語った「O世代」(「彼らは、ジェネレーションXからバトンを受け取った世代で、富も、成功も、おしゃれな洋服も、かっこいい車も、なんでも持っているけれど、内面に虚しさに、傷つき痛みを感じている」)に重なる世代でありながら、そこから取り残された、多くのアフリカ系アメリカ人でした。


・なぜ、黒人社会はいつも警察と対立しているのか?

・銃やドラッグが身近にあるなど、どうして黒人社会はギャングから抜け出せないのか?


といった疑問を持った方も少なくないのではないでしょうか?黒人社会にこれほど銃がはびこっているのに、どうして、銃規制に反対する勢力として取り上げられるのは、いつも「全米ライフル協会」という白人中心の団体なんでしょうか?


また、ヒップホップの歌詞に少し興味がある人なら、そこには、政治について語られているものが少なくなく、あまり見聞きすることがない宗教的な言葉や、陰謀論が多いことに気づかれた人も多いでしょう。


今回はそういったことに関連がありそうな、『スリラー』から『ヒストリー』までのヒップホップの宗教と政治について。引き続き『ヒップホップ・ジェネレーション』の内容を中心にまとめてみます。


◎ヒップホップの宗教と政治と・・・


1980年の大統領戦おいて圧倒的な勝利をおさめ、レーガン時代が始まった頃、戦争や核兵器の不穏な噂はあったものの、ニューヨークでは若者文化がひとつにまとまり、人種が分裂することはなかった。イギリスでは、セックス・ピストルズの仕掛け人のマルコム・マクラーレンが、バウ・ワウ・ワウをデヴューさせ、トーキング・ヘッズのサイド・プロジェクトのトム・トム・クラブは、「Genius of Love」をヒットさせた。



Bow Wow Wow - Chihuahua





Tom Tom Club - Genius of Love





白人アーティストのブラック・ミュージックへの賛美は続き、1982年のアフリカ・バンバータの「プラネット・ロック」の大ヒットへと繋がっていった。ヒップホップは、都市部のマイノリティだけのものではなくなり、ダウンタウンのクラブを再統合し、社会的落伍者を洗練されたアートの世界へ押し上げていく原動力となったものの、黒人との連帯を好まない白人ロックファンも大勢いて、人種的クロスオーバーの実現には至らなかった。


そして、俗にレーガノミクスと言われる富裕層の減税と、軍事支出の増加と並行して行われた社会保障支出の縮小、そして、麻薬撲滅政策は、黒人社会に壊滅的な被害をもたらしていく。


ヘロインは、第二次大戦中から急激に輸入が減少していたが、資本主義陣営と、社会主義陣営が真っ向から対立した冷戦時代に入ると、アヘンやコカインが反革命運動のための資金調達にもってこいの商品となり、この頃設立されたCIAは、麻薬密輸組織を通じて各国の反共勢力と手を結ぶことが多々あった。


イタリアの反共組織もCIAと関係を結び、アメリカを国外追放されたマフィアの大物が糸を引いたことも相まって、ヘロインの密輸ルートは再び構築され、軍隊とゲットーで爆発的に広まっていく。


販売から得た利益は、東南アジアの反共軍事活動へと還元され、地球の裏側で起こった戦争によって、ゲットーではギャングがうろつき回り、ブロンクスはドラッグの密売人と常習者の世界へと様変わりしていった。


戦後のコカイン取引は、カストロ政権から逃れたキューバの反革命活動家たちによって始められた。1976年、ジャマイカのDJ、ディリンジャーの「Cokane In My Brain」が大ヒットし、「富とステータスの象徴」だったコカインは、一般中流家庭のアメリカ人にまで手が届くようになった。その後、供給過剰を調節し、収益を上げるために、高価なものから安価なものまで、さまざまな新種のドラッグが誕生した。



DILLINGER - COCAINE IN MY BRAIN





そして、1982年の終盤、ドラッグの顧客は富裕層から労働者へと移り変わり、大衆のために作られたドラッグは、ストリートを悲惨な状況へ変化させる。


アフリカ・バンバータの「プラネット・ロック」が大ヒットを記録していた頃、戦争がもたらした新たなドラッグ、コカインの塊(ロック)でできた、後に「クラック」と呼ばれるようになる、もうひとつの「プラネット・ロック」が形成されていた。


ランDMCがオールドスクールを抹殺し、フーディニや、LLクールJらとともに、ニューヨークからツアーを始めた頃、ロスアンジェルス(西海岸)で人気のミックステープでは、フーディニの「Freaks Come Out at Night」の替え歌「The Clucks Come Out at Night」が人気になり、UTFOの「Roxanne Roxanne」は、「Rockman, Rockman(ロックマンはクラックの売人)」へと変わっていたのだ。


Whodini - Freaks Come Out at Night (1984)





ヒップホップのビートに、ストリートで叩き上げられたモンスターの物語が綴られるようになり、ヒップホップは、反抗期へと突入していく。


白人の麻薬使用者の数は、黒人を大きく上回っていたにもかかわらず、レーガン政権時代に成立した厳格な麻薬取締法では、黒人の使用が多いとされる固形コカイン「クラック」に対して、粉末コカインの100倍の懲役年数が課せられることになったのだ。


黒人の家庭では、父親や息子が逮捕され、残された家族は精神的にも経済的にも大きな被害を受けた。そして、貧困のサイクルから抜け出せないゲットーの子どもたちは、唯一の選択肢として麻薬取り引きを始めてしまう・・・。


1990年代中盤、ファイブ・パーセンター(*1)のストリート・サイファー(*2)や、アフリカ・バンバータが始めたズールー・ネイション(*3)の勉強会では、「新世界秩序」が話題にのぼるようになった。黙示のときが差し迫っているのだと。


ウータン・クラン、モア・ディープ、アウトキャストらが繰り出すサウンドは、閉塞感に満ちた時代の空気にマッチし、若者たちは、迷彩柄のジャンプスーツにコンバット・ブーツ姿で街を闊歩し、お互いをソルジャーと呼び合っていた。



ウータン・クランのドキュメンタリー (1994)




路上の書店商は、ハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』や、ウォード・チャーチルの『The COINTELPRO Papers(コインテルプロ白書)』(*4)といった反体制的歴史書や、『The Illuminati 666(イルミナティ666)』『Secrets of Freemasonry(秘密のフリーメーソン)』『The Unseen Hand(見えない手)』といった怪しげな小雑誌を売ることで活況を呈していた。


この不穏な空気は、1990年9月11日にジョージ・H・W・ブッシュ大統領が湾岸戦争前に連邦議会で行った『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』というスピーチに端を発していた。


今日まで我々が知っていた世界とは、分断された世界―有刺鉄線とコンクリートブロック、対立と冷戦の世界でした。今、我々は新世界への到達を目にしています。まさに真の「新世界秩序」という可能性です。ウィンストン・チャーチルの言葉で言えば、"正義と公正の原理により弱者が強者から守られる世界秩序"です。国連が、冷戦という行き詰まりから解放され、その創設者の歴史観を貫徹する準備の出来た世界、自由と人権の尊重が全ての国家において見出せる世界です。


これは、ペルシャ湾でサダム・フセインに対して取ったアメリカの軍事行動を正当化するための演説の一部で、ベルリンの壁が崩壊し、共産主義の脅威も薄れてきた頃、大統領は、新たなる敵に対して軍隊を動員し、警察部隊はゲットーに標的を定めた。


ブッシュの超国家的な「法の支配」は、アトランタのヒップホップ・グループのグッディ・モブが、1991年にリリースした「Cell Therapy」のように、強い中毒性のあるドラッグ、軍で訓練を受けた暗殺者、体制に迎合して生きる人々、コンピューター・チップの埋め込み、夜間の空挺部隊員の黒いヘリコプター、低所得者住宅、刑務所と結びついた。



Goodie Mob - Cell Therapy




学校の閉鎖、高騰する大学の学費、青少年に対する夜間外出禁止令や厳しい取り締まり、都市部における情状酌量なしの厳しい対応(ゼロ・トランス運動)、政府が市民監視のために使うテクノロジー、レイシャル・プロファイリング(*5)、刑務所建設ブーム、急上昇する受刑率など、あらゆることが急激に変わったことで、この急速な変化を手っ取り早く理解するために、グッディ・モブは、ブッシュの真の敵は、自分たちであると結論づける。


ストリート・ソルジャーたちは、生存主義者の必須本と言われる、M・ウィリアム・クーパーの『Beholda Pale Horse』を携行していた。白人のラジオ・パーソナリティーで右派愛国運動の英雄だったクーパーの著書を黒人の若者が読むのは奇妙な組み合わせだが、地方の白人過激派だけでなく、ゲットーの有色人種の若者を惹きつけたのは、クーパーの世界観が、コインテルプロ時代後の陰謀と、新世界秩序のパラノイアを結びつけていたからだ。


同署には、謎に包まれた邪悪な世界政府が、大衆を奴隷化する計画が描かれ、世界最終戦争はすでに始まっていることが語られていたが、クーパーが用意した「証拠」の大半は、お決まりの『シオン賢者の議定書』であり、そこに書かれたユダヤ人という言葉は、すべて「イルミナティ(光を受けた者)」に、ゴイム(人々)」という言葉は、すべて「キャトル(畜牛)」に置き換えること。といった指示が加えられていた。


対ドラッグの法律と米連邦緊急事態管理法は、憲法を停止し、永続的な警察国家を構築するための基礎を築いている、とクーパーは論じたが、この見解は、ルイス・ファラカン師のメッセージとほぼ同じだった。ゲットーでは、警察の圧力が、ほとんど厳戒令なみになっていた。


CIAは、極秘の政治活動を展開する資金を調達するため、ゲットーにドラッグを密輸している。とクーパーは語り、メディアはそれに反対する立場をとったが、後年行われた米国議会とCIAによる捜査によって、その基本的内容は事実であると確認された。


クーパーの奇妙な世界観は、さまざまなラップ・ソングによって語られ、ウィルスのごとくメインストリームに進出し、1993年の『Xファイル』の放映が始まると、社会全体に注目を浴びることになった。『Xファイル』の強烈な悲観主義は、ゲットーのストリート・ソルジャーの心情と合致していたのだ。


◎電気通信法の採決


マイケルのアルバム『HIStory』がリリースされた翌年の1996年、米国議会は電気通信法を採決。規制緩和の象徴ともいえるこの法律は、メディア独占企業寄りのスタンスを法律化したものだった。


この法律により、ラジオ局所有権の上限が解除され、空前の合併劇が相次ぎ、ごく少数の企業が公共の電波の大半を独占するようになると、コミュニティ番組は大幅に縮小され、どの番組も画一化されたプレイリストを使うようになった。


ラジオの平均聴取時間は急落し、ラジオ局の競争はなくなり、さらに大規模な合併が続いた後、1999年、クリア・チャンネルによる最大の合併劇が起こる。クリア・チャンネル内では激しいリストラの波が押し寄せ、音楽の選曲担当や宣伝スタッフが削減され、コミュニティ関連の部署は廃止された。


そして、悲惨なゲットーの現実をそのままに、メディア独占企業はヒップホップを大々的に商業化していった・・・

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(*1)ファイブ・パーセンターFive Percenters)/ネイション・オブ・イスラムから派生したセクトで、後に「The Nation of Gods and Earths」という呼び名も生まれる。ハーレムにある第七寺院の主任教師を務めていたクラレンス13Xによって創始され、彼の死後もハーレムやブルックリンといった東海岸の都市部を中心に増加し、1980年代の後期から1990年代のヒップホップアーティストたちに大きな影響を与えた。

「世界の人口の5%は貧しくも高潔な教師であり、この世の貧しき者の生き血を吸10%の者たちの嘘を信じず、この世に生ける真の神はアジアの黒い男であることを知っている。そして、富を有し、貧しき者の生き血を吸い、彼らを奴隷とする10%は、嘘によって大衆を支配し、貧しくも高潔な教師たちに敵対させる。この方法により、10%は預言者を殺し、共同体を崩壊させてきた」

という、ネイション・オブ・イスラムのイライジャ・モハメッドが布教させた思想を由来とする。

他のムスリムとは違い、自分たちを神の化身であると考え、科学や数学を用いてイスラームの真理を探究し、自らのまわりにあるものに意味付けを行なうことを常としている。彼らのレトリックの中には、droppin’ scienceというものがあり、ある事柄について語るとき、その原因や背景を数学(Supreme Mathematics)やアルファベット(Supreme Alphabet)を使って証明する。これは、ギリシャなどで発展した数秘術の影響を受けたもの。


例えば、0から9の数字にはそれぞれ意味があり(1は知識、2は知恵、3は理解など)、それらの数字を通して宇宙の真理を解明しようとするもので、アルファベットにも意味が当てられている(Allahという言葉は、arm、leg、leg、arm、headの頭文字からできているなど)。


◎Supreme Mathematics

◎Supreme Alphabet


こういった考え方は、ジャネット・ジャクソンの1989年のアルバム『Rhythm Nation 1814』にも使われていて、「R」は「規則および統治者」、「N」は「現在および国家の終わり」を指し、アルファベットの順番でRが18番目、Nが14番目という意味で「1814」。1は「知識」8は「構築および破壊」、4は「文化および自由」で、これは、ジャネットがこのアルバムの中で最もコンセプチュアルに伝えたいと思っていた3曲「The Knowledge」「Rhythm Nation」、「Miss You Much」にも表れていますね。


ジャネットのコンセプトは明るく楽観的なものですが、90年代中盤になると、陰謀論や終末論によってますます独自で複雑な「宗教性」を帯びたものになっていきました。

長文ですが、素晴らしい参考記事・・

(*2)ストリート・サイファー/公園や広場など路上でラッパーが集まり、円になってフリースタイルラップすること。


(*3)ズールー・ネイション/ヒップホップという言葉の生みの親である、アフリカ・バンバータが、1970年代に地域のギャング達の生活を更生するために立ち上げた団体。音楽やグラフィティ、ダンスなどをヒップホップのカルチャーとして一体に捉え、80年代には世界各国にも支部が誕生した。KRS-One、パブリック・エナミー、ア・トライブ・コールド・クエスト、リル・ウェイン、Nasなどの多くの有名アーティストや、人気司会者のジミー・ファロンも参加している。


(*4)コインテルプロ/Counter Intelligence Programの略。FBIが反体制分子を監視するために開発したテクニック。FBIは、ブラックパンサー党など、彼らが危険とみなした黒人の好戦的なリーダーを排除し、抹殺するために、警察やスパイや代理人を使って、(1)組織・敵陣などへの潜入行動(2)外部からの心理戦(3)法的強制力によるハラスメント(4)超法規的な力・・など、あらゆる方法を用いていた。


(*5)レイシャル・プロファイリング一般的には、警察が黒人やラティーノの、特に若い男性に的を絞っておこなう人種偏見に基づいた捜査方法を指す。具体的には、街中で警官が『不審』なマイノリティ人物を呼び止めて身分証明書の提示を求めたり、身体検査をおこなうこと。ニューヨークでは、ジュリアーニ市長が就任した1994年、ニューヨーク市の治安を良く、犯罪発生率を下げるために、徹底的なレイシャル・プロファイリングが始まった。




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by yomodalite | 2017-05-15 09:33 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

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(3)の続き・・・


『Dangerous』前後に起きた様々な変化、ビジネス、政治・社会状況について。


(参考図書『ヒップホップ・ジェネレーション』)


◎ヒップホップとビジネス


世界的なメディア業界における消耗品としてのヒップホップと、地域のアンダーグラウンドを結ぶ、広大なネットワークの中で力強い生命線となっていたヒップホップ。


90年代中盤になると、この2つの役割の間にあったクリエイティブな緊張状態は、メディア独占企業側に一気に傾き始め、脱白人ポップカルチャーに対する世界的需要に企業側が気づくと、ヒップホップは世界規模で統合されたメディアの主要コンテンツとなった。


ナイキや、アディダス、ペプシといった企業は、白人ベビーブーマー(1946~1964年頃までに生まれた世代)以外の新市場の開拓に乗り出し、都市部に住む有色人種に目をつけた。これまではニッチとして無視されていた彼らだが、一般の認識以上にブランド志向を持ち、実際はブランドをリードしている層であることがわかったのだ。


1980年代、ブラックミュージックを流すラジオ局は、自らを「アーバン・ラジオ」と称するようになり、ライオネル・リッチーや、マイケル・ジャクソンがアーバンだった80年代から、90年代になると、ヒップホップが「アーバン」の象徴になる。


1986年、Run-D.M.Cは「My Adidas」で、アディダスを一躍ヒップホップ・ブランドに変貌させ、その二年後、スパイク・リーとマイケル・ジョーダンは、ヒップホップを使ったブランド戦略をより高い次元へと押し上げ、1992年の「The Chronic」リリース以来、スヌープとドレーは2年間ヴィデオとラジオを独占し、ラップ業界は、音楽業市場の10%を占めるようになった。




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ロス暴動後、ヒップホップ世代の創造性が爆発した一方で、競争は熾烈を極めるようになり、雑誌に取り上げられ、高い評価を得られるかどうかをめぐって、編集者やライターが、ラッパーから脅迫をうけることもめずらしくなく、誰もが生き残りを賭けて、しのぎを削っていた。


1988年にハーヴァード大学のユダヤ系の学生によって創刊されたインディーズのヒップホップ専門誌「The Source」の発行部数は14万部に達し、ラップ業界の代弁者の域を超え、あらゆる文化や、政治も扱うようになった。ファッションのページには、その後、黒人初のスーパーモデルと言われるようになるタイソン・ベックフォードと共に、Bad Boy Recordsを設立したショーン・コムズ(パフ・ダディor ディディ)が登場し、1993年には、「The Source」の広告主は、レコード会社だけでなく、ナイキ、リーボック、セガなどにも広がった。平均的な読者層は21歳男性。そのうちの半数がブラック、4分の1以上が白人だった。



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(ショーン・コムズ:この表紙は1997年のもの)


一方、TV界では、これまで視聴者を独占していた三大ネットワーク(ABC、CBS、NBC)が、ケーブルTVなどによる視聴者の細分化によって視聴率が減少し、ビルボートのランキングに、バーコード読み取り方式の購買情報管理システム「サウンドスキャン」が取り入れられ、実際のセールスが集計されるようになると、インディーズで配給されたNWAの『Efil 4 Zaggin』が、初登場第2位を記録。

マイケルが、黒人として初めてMTVに登場したと言われた「Billy Jean」から5年後の1988年、MTVで最も人気番組になっていたのは、ドクター・ドレもホストとして参加していた「Yo! MTV RAPS」。MTVはラップ・ヴィデオがほぼ皆無な状態から、1日12時間もラップを放映するチャンネルとなっていた。

マイケルとの共同制作関係を解消したクインシー・ジョーンズは、『Dangerous』発売と同年の1991年、「The Source」を買収しようとして失敗するものの、その後タイムワーナーからの出資を受け、高級志向のヒップホップ雑誌「VIBE」を創刊。記事の質の高さだけでなく、エレガントな写真と画期的なデザインによる高級紙は、ジャンニ・ベルサーチや、アルマーニ・エクスチェンジなどの広告も掲載され、商業的にも大成功する。


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ホワイトネスからブラックネスへ、ベビーブーマーから若者へ、そして、郊外から都市部へ。「The Source」がシーンに登場した頃、エンターテイメント業界と、メディア業界は、空前絶後のパラダイムシフトを経験していた。


80年代の多文化主義を提唱する人々は 、社会が数々の文化を取り込み 、それぞれを尊重することを求めていた。この種の融合はあらゆる人々を幸せにできると考えられていた。しかし、『The Chronic』以降の企業の多文化主義は 、それとは逆の概念を持ち、アーバン・マーケティングは 、人種隔離と差別の現実を維持しながら、文化融合の欠点をも引き出した。



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「VIBE」に掲載された広告(1993)


歴史学者のロビン・D G・ケリ ーと、学者のヴィジャイ・プラシャドは、「多文化主義」という概念は 、政府や資本主義によって作り出されたと言い、ナオミ ・クラインは、90年代中盤、トミー・ヒルフィガーが、ラルフ・ローレンの偽物というイメージから、アーバン・クールの権化というイメージへ大変身を遂げた理由について、「アメリカの人種関係の核心にある距離感を利用したのである ― 白人の若者に対しては 、ブラック ・スタイルに憧れる心を利用して売り込み 、黒人の若者に対しては 、白人の富に憧れる心を利用して売り込んだのだ 」と(『ブランドなんかいらない』)。


リアルであり続けることと、成功を収めること。

メディアがヒップホップの商業化に加担した究極の代償のように、ヒップホップシーンに混乱状態がおとずれた。




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by yomodalite | 2017-05-09 00:23 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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(2)の続き・・・

パブリック・エネミーよりも、さらに過激な論争を呼ぶことになったN.W.A.(Niggaz Wit Attitudes 主張する黒人たち)は、後年ギャングスタ・ラップのゴッドファーザーとも呼ばれるようになるイージーE、議論を招くリリックを書き、現在も俳優として活躍しているアイス・キューブや、脱退後シュグ・ナイトと共にデス・ロウ・レコーズを立ち上げたドクター・ドレーなど、個性豊かな4人のメンバーをそろえ、Run-D.M.Cの「Walk This Way」が大ヒットした1986年にデビュー。


パブリック・エナミーのチャックDをメンターに、ネイション・オブ・イスラムについても学んでいたアイス・キューブがリリックを書いた「Boyz N The food」は、ブラック・パンサー党幹部の弟である、ジョナサン・ジャクソン(ショットガンやライフルを携行して裁判所を襲撃し、脱獄を企てた罪で死刑判決を宣告されていた兄ジョージの釈放を要求し、検事を人質に立てこもったが、警官の突入を受け、射殺された)の実話を取り入れたことで、同世代の神話ともいえるレヴェルにまで祭り上げられ、その過激なスタイルはギャングスタ・ラップと呼ばれるようになり、1988年のアルバム『ストレイト・アウタ・コンプトン』は大ヒットを記録します。



N.W.A. - Straight Outta Compton






ストリートのリアリティをあるがままに語っているようなN.W.A.のスタイルは、若年層のリスナーに受け入れられ、ラップのミックステープを作れば、誰でもお金が稼げるかもしれないという希望は、ストリートの若者を夢中にさせ、ディスコは過去のものになってしまう。


しかし、凶悪犯罪はこれまでにない件数を記録し、前年よりも4人多い78名の警察官が職務中に殺害されていた1988年、N.W.A.は、警官への暴力を支持するような曲(「Fuck Tha Police」)から大統領をも巻き込む大論争にまで発展する。


ロス暴動が起こったのは、それから4年後の1992年。


ハーレムで暮らす黒人と韓国人社会の対立は、1989年のスパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』でも描かれていたように、アフリカ系アメリカ人の高い失業率、LA市警による黒人への恒常的な圧力や、韓国人の黒人への蔑視など、サウスセントラル地区の黒人社会には怒りが渦巻いていました。


そんなとき、ロドニー・キング事件(*1)のLA市警警官が無罪になり、ラターシャ・ハーリンズ射殺事件(*2)における韓国人店主にも、異例ともいえる軽い判決が下りたことが引き金になり、「ロス暴動」へと発展していく(*3)


1991年にN.W.A.を脱退していたドクター・ドレの1992年のアルバム『The Chronic』(強力なマリファナという意味)は、ロス暴動がようやく終結した数ヶ月後にリリースされたのですが、それは、人々にとってストリートの緊張を和らげてくれる強力な鎮静剤としても作用し、大ヒットしたようです。



Dr. Dre, Snoop Dogg - Nuthin' But A G Thang





そして、1993年、ドレーはスヌープ・ドッグのデビュー・アルバム「Doggystyle」をプロデュースし、初のビルボード・チャート1位デビューという大ヒットを記録。西海岸ギャングスタラップは、その後もヒップホップシーンを席巻するようになります。



Snoop Dogg - Gin & Juice






ビッチだの、ファックだの、ドラッグだの・・といった内容を好意的に解釈すれば、政治や宗教に傾倒しすぎの男たちや、フェミニズムにハマっていく女たちに、もっとリラックスして人生を楽しめ。


そして、政府に要求したり、誰かから奪うのではなく、「自分自身で自分のものを得るべきだ」というメッセージが込められているのではないでしょうか。また、Nワードとして差別用語だったニガという言葉の多用には、いわゆる「ブラックパワー」的な黒人啓発運動への反動もあるようです。


そんな西海岸のギャングスタ・ラップは、ライヴァル「バッドボーイ」レーベルとの獲得争いに勝利し、デス・ロウ・レコーズに移籍することになった2パックによって、さらに確かなものになりました。



California Love





ヒップホップの歴史に必ず登場する「東西抗争」というのは、主に「西海岸」と「東海岸」のレーベル同士の争いで、


N.W.A.の初期メンバーであるドクター・ドレが、N.W.A.を脱退後の1991年に、シュグ・ナイトと共に設立したDeath Row Records(西海岸)と、


ショーン・コムズ(パフ・ダディor ディディ)が、1993年に創立した、Bad Boy Records(東海岸)は、実際のギャングさながらに対立していました。


1992年に公開された映画『ジュース』など、映画スターとしても人気を集めていた2パックは、ファンにレイプをした罪に問われ、収監されますが、デス・ロウ・レコード(西海岸)のオーナー、シュグ・ナイトは、140万ドルの保釈金を用立てることを条件に、刑務所内で2パックと契約を結び、出所後、2パックはライヴァルであるバッドボーイ(東海岸)を代表するノトーリアス・B.I.G.らを激しくこき下ろす曲を発表する。









ヒップホップ界の東西対決は、2パックの大成功によって激しさを増し、対立が話題となることで、ますます活況を呈すことになりましたが、


1996年9月6日、ラスベガスで行われたマイクタイソンの試合観戦後、2Pacは何者かに銃撃され、25歳にして命を落としてしまい、そして、翌年の1997年1月、ノートリアス・B.I.G.は、LAで行われた「Soul Train Award」に出席し、その後のパーティー終了後の移動中、交差点で何者かに銃撃され、亡くなってしまう。こちらもまだ24歳の若さで、ふたりの死は、ヒップホップの東西対決が引き起こした最大の悲劇となりました。


デス・ロウ移籍後初のアルバム『All Eyez On Me』から

メッセージ性の高い曲

Life Goes On(和訳付き)





ちなみに、


一年間だけ通ったハリウッドのガードナー小学校や、エンシノ、ネバーランド、Hornby Hillsと、マイケルは基本的に「西海岸」の住人で、N.W.A.以降のラップミュージックは、ワッツ地区や、コンプトンに限らず、それぞれ自分がいる場所を語るという考え方があるのですが、


『HISTory』の「This Time Around」や、『Invincible』の「Unbreakable」でラップを披露したノトーリアスB.I.Gはバッドボーイレーベル(東海岸)で、


マイケルが『Invincible』までに共作した、Run-D.M.C、ヘヴィD、LL・クール・J、ノトーリアスB.I.G、ジェイ・Z(Heartbreakerや、Invincibleに参加しているFatsに関しては不明)は、全員ニューヨーク出身。バスケ選手でありながら、音楽的にも成功し、『HIStory』の「2Bad」にラッパーとして参加したシャキール・オニールもニュージャージー州の出身なので、


マイケルが共演したラッパーは、全員「東海岸」なんですよね。


プロデューサーであるテディ・ライリーがNYハーレム出身で、ロドニー・ジャーキンスも、やはり東海岸であるニュージャージー州出身ということもあるのかもしれませんが、


どうして、マイケルは「東海岸」びいきなんでしょう?


そして、才能あふれるラッパーは数多くいるのに、なぜ、ノトーリアスB.I.Gと二度も、しかも、二度目の「Unblackable」のとき、すでに、ノトーリアスB.I.Gは亡くなっていたのに、インヴィンシブル期のインタビューで、マイケルは一度もそれについて話しておらず・・・


マイケルはあれほどこだわっていた「Unbreakable」について、そんなことさえ語っていません。


わたしのヒップホップへの興味は、この二度も共演することになったノトーリアスB.I.Gと、彼のラップの魅力を理解したいという思いからスタートしているのですが、それについては、またあとで触れることにして、ヒップホップとビジネスの結びつきに関してもう少し・・・





これは死後アルバムからの曲で

「俺たちは変わる必要がある」という

Changes

(youtubeのページに和訳あり)




(*1)ロドニー・キング事件

1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出し、装備のトンファーやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像によって、白人警官3人とヒスパニック系警官1人の計4人が起訴された。裁判の結果、キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかったという警官たちの主張が全面的に認められ(実際は両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年後の1992年に陪審員は無罪評決を下した。


(*2)ラターシャ・ハーリンズ射殺事件

ロドニー・キング事件の13日後の3月16日、持参したバックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていた15歳の黒人少女ラターシャ・ハーリンズを、韓国系アメリカ人の女性店主が射殺した。事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられ、店主は少女に椅子を投げつけた。その後、件のオレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。女性店主は逮捕されたが、陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという殺人罪としては異例に軽いものだった。この判決によって、黒人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。


(*3)ロス暴動

1992年4月末から5月頭にかけて、アメリカ合衆国・ロサンゼルスで起きた大規模な暴動。ロドニー・キング事件のLA市警警官に対して無罪評決、ラターシャ・ハーリンズ射殺事件における韓国人店主への異例の軽罪判決が引き金となり、黒人社会の怒りが一気に噴出して起きた事件と言われる。暴動鎮圧のために、4,000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)が投入され、さらに司法省が、ロドニー・キング事件について再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間にわたった暴動はようやく収束を見た。暴動による被害は死者53人、負傷者約2,000人を出し、放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件にも達した。被害総額は8億ドルとも10億ドルともいわれる。韓国人街は市警が暴動鎮圧に消極的だったと厳しく非難し、また彼らは『無実の我々が犠牲を強いられた責任は市当局にある』と述べた。この事件での逮捕者は約1万人にものぼったが、人種的にもっとも多かったのは44%のヒスパニック系で、42%が黒人、そして9%の白人と2%のその他の人種が含まれていたとされる。(以上、Wikipediaより)



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by yomodalite | 2017-05-01 07:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

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(1)の続き・・・

ヒップホップの世界では、1970年代 - 1980年代までをオールド・スクール、1990年代以降をニュー・スクールと呼ぶことがあります(現在は1990年代もオールドスクールと呼ぶことが多いですが)。オールド・スクールを代表するアフリカ・バンバータは、ヒップホップの創始に関わった3大DJの1人で、ラップ、DJ、ダンス、グラフィティなどの黒人の創造性文化を総称して「ヒップホップ」と名付けた、ヒップホップの生みの親。


プレイリストに、ジャクソン5も入れていたアフリカ・バンバータは、1982年に発表した『Planet Rock』により、ヒップホップ、ハウス、テクノの音楽シーンに多大な影響を与えたと言われていますが、クラフトワークに強い影響を受け、YMOから音のサンプリングを学び、ジョン・ロビーがシンセサイザーを演奏した『ビート・ボックス』を提供してもらったことで完成した『Planet Rock』のヒットは、マイケルが、YMOの「ビハインド・ザ・マスク」を、最終的に『スリラー』(1982)から外したのと同時期のこと。


Afrika Bambaataa - Planet Rock





1980年代後期から1990年代前期については、音楽面で革新的な技法・作品が多く生み出されたことから、特にゴールデンエイジ(黄金時代)と呼ばれ、マイケルが「JAM」で共演したヘヴィ・Dもその時代のアーティスト。

彼は1967年にジャマイカで生まれ、9歳からニューヨークに移住し、80年代末から90年代前半にニュージャック・スウィングのラッパーとして活躍していました。


Dangerous発売前の1989年のヒット曲

Heavy D & the Boyz - Somebody For Me





また、『Dangerous』には収録されなかったものの、同時期に録音された「Serious Effect」で共演したLLクールJは1968年生まれで、ヘヴィ・Dと同じくニューヨークで育ち、ふたりとも愛嬌あふれる明るいキャラクターで、ヒップホップがポップスに浸透していく一翼を担ったラッパーであり、俳優としても活躍したという点も、マイケルに好まれたように思われます。


マイケルの『BAD』と同じ1987年の曲

LL Cool J - I'm Bad





MJの売上には程遠いものの、当時の時代感覚に合った「Bad」なセンスは、おそらくLLクールJの方でしょう。マイケルの「BAD」は、病気理由であっても、人種の壁を破ったと賞賛された黒人としての外見を白人に見せてしまったことで、元々マイケルが気に入らなかったローリングストーン誌など老舗のロック雑誌のライターからは「偽物のロック」と判断され、ヒップホップによって今までにない盛り上がりを見せたブラックミュージックのジャーナリストたちをも混乱させたことで、真っ当な評価を受けることはありませんでした。


代表曲は「Dangerous」の前年にリリースされたこの曲

LL Cool J - Mama Said Knock You Out





プリンスはヒップホップに批判的でしたが、「Dangerous」の翌年に発表したアルバム『Love Symbol』には、この曲の影響も感じられるこんなラップ曲も。


Prince - My Name Is Prince

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14109619



今聞くと、Heavy Dの曲は、テディ・ライリーが推薦しただけあって、当時のニュージャックスウィング・サウンドそのものといった感じですが、LLクールJの曲は現代のラップにも近い感覚で、マイケルの「JAM」も、ニュージャックスウィングとは別のソリッドな感覚がありますね。


(1)で紹介したスパイク・リーのCMのように、この曲のショートフィルム(以下SF)には、嘘の告発によるスキャンダルから影響力が低下していたマイケルより、当時は影響力が絶大だったマイケル・ジョーダンが登場し、スポーツとダンスが融合し、ふたりの大スターがみんなに「JAM」を求めているような感じで、下記の和訳には使いませんでしたが、NBAで「Jam」と言えば、強力なダンクシュートという意味もあります。


SFの冒頭では、ハーレムのような場所で、ガラスが割られ、地球のようなボールが飛び出し、荒廃した地を見回すような映像の後、「全世界が一つになり、僕らが直面する問題に取り組めば、何か方法が見つかるはずだ」という歌が始まり、歌の最後では、そのボールは水溜まりから拾われる。


ジョセフ・ボーゲルの『コンプリート・ワークス」には、


「Jam」はマイケルの楽曲の中で、『Thriller』のオープニング曲「Wanna Be Startin’ Somethin’」に次いで社会を見据えた、内面を率直に吐露した曲となった。・・・彼は決まり文句を皮肉たっぷりに吐き捨てる。「世界はひとつ。みんなで協力しよう」。彼は現実はもっと殺風景なものであることを知っている。「世界は変わり続け/心もその都度変化する」と彼は観察し、質問を投げる。「僕らは正しいものと間違ったものを見分けられるのか?」

家族、政治、宗教のいずれもが彼を落胆させ、彼は考え続ける。彼は「幸せを見つけ」なければならない。しかし、他人の基準にはうんざりしている。「僕に教えようとしないでくれ/叫んだりわめいたりしないでくれ」。・・・

歌手の最後の救いが見つかるとすれば、それはもちろん音楽の中だろう。「Jam」とは時々息がつまりそうになるこの世界からの一時的な脱出のことであり、クリエイティブな世界に没頭し、音楽によって問題を解決することである。


と書かれています。私は、冒頭部分をマイケルが皮肉たっぷりに言っているとは思いませんが、彼は作曲者で、中心メンバーでありながら、「We Are The World」のツアーに参加しなかったり、「人種差別」や「多文化共生」の政治的な欺瞞には鋭い視点をもっていたと思います。


同署では、「Black Or White」のSF、後半部における暴力表現に見られたマイケルの痛みと怒りは、1992年ロス暴動を予言することになった。という記述もあるのですが、


後半の映像でのマイケルは「破壊」の限りを尽くしていて、ブラックパンサー党の黒人至上主義的ともいえる過激な思想を表現するかのごとく、最後は「ブラックパンサー」に変身します。これは、前半の多文化共生的なメッセージに反して、見るものを混乱させましたが、実はこの曲では、それらが相反していただけでなく、もっとあらゆるものが「混ざって(Jam)」いて、「Black Or White」は、黒人サイドが主張する「人種差別」ではなく、人種に限らず、あらゆる「カテゴライズ」への抵抗をテーマにしていました。


自由の女神像から登場したマイケルは、「白いシーツ(KKKのこと)なんか怖くない・・・」と言い、黒人差別に立ち向かっているようですが、そんな彼の肌はすっかり「白く」なっていて、ご丁寧にも、「I’m not going to spend my life being a color(僕は生涯、有色人種と呼ばれて生きる気はない)」というラップを、自分や黒人ラッパーではなく、制作者のひとりである白人のビル・ボットレルにやらせていたり(笑)・・・


◎参考記事「Black or White」でラップを歌った謎の男に会う

上記の記事で言われているように、「Black Or White」時点では、主流のラジオ局はラップをオンエアしない方針でした。つまり、マイケルはヒップホップがメインストリームに登場することにも一役買っていたわけですが、マイケルが、アルバムの最初の曲を『Jam』にしたのは、過激なメッセージから、分裂・対立が激しくなっていた時代背景や、その頃数多く語られていた多文化主義、結集や団結といった意味だけでなく、自由にやりあい、様々なものを混ぜ合わせ、ゴールにボールを叩き込む・・・その他にも、当時の日本では想像もしていなかったあらゆる意味が「Jam」には込められていたようです。



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by yomodalite | 2017-04-27 09:56 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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マイケルのアルバムに “ラップ” が登場したのは、1991年のアルバム『Dangerous』からでした。

前作『Bad』発売1年前の1986年は、ロックとラップを融合したRun-D.M.Cの「Walk This Way」や、白人ヒップホップの草分けであるビースティ・ボーイズ「Licensed to Ill」がヒットした年で、スパイク・リー監督のデビュー作『シーズ・ガッタ・ハヴ・イット』が低予算映画でありながら700万ドルを超える興行成績を残した年でもありました。


RUN-DMC - Walk This Way




Beastie Boys - Fight For Your Right




ナイキのCM撮影をまかされるようになったリーは、NBAの大スター、マイケル・ジョーダンを起用し、高価なスニーカーへの欲望は、「エア・ジョーダン狩り」と呼ばれる暴力事件を誘発するほどの大ヒットを記録。それまで業界第2位だったナイキを一躍トップメーカーへと押し上げ、自身が共演したジョーダンとのCMも評判を呼びました(1987)。





ちなみに、マイケルがペプシのCMに登場し、「コーラ戦争に勝った」と言われたシリーズCMが始まったのは1984年のこと。80年代は、エンターテイメント界と、スポーツ界の2人の若き黒人スター(奇しくも二人ともMJ)が、マーケティング史上にのこる快挙を成し遂げた時代でした。

当時、マイケルと『Bad』を製作していたプロデューサーのクインシー・ジョーンズは、ヒップホップに強い関心があり、マイケルがヒップホップのアーティストと会ったのも、クインシーがセッテイングしたRun-D.M.Cとの出会いが最初だと言われています。

クインシー・ジョーンズは、彼らとマイケルの共作を考えていて、「Crack Kills」という曲を録音したものの、結局「Crack(亀裂)」や、「Crack(ドラッグの一種)」をテーマにしたこの曲は『Bad』には収録されることはありませんでした。

『Bad』で実現しなかった共演では、Run-D.M.Cよりも、シングル曲でのプリンスとの計画の方がよく知られていますが、プリンスは自らこの共演を断り、マイケルがその後、ヒップホップとの距離を縮めていくのとは逆に、ヒップホップ界の汚い言葉や、男性優位で、女性蔑視的な言葉遣いや世界観を嫌って、ラップミュージックに反対の立場をとるようになります。

これは、マイケルファンにとっては意外というか、むしろ、マイケルがしそうなことだと感じる人が多いのではないかと思いますが、これまでマイケルよりもずっと過激な表現をしてきたプリンスは、1985年のアルバム『Around the World in a Day』以降、徐々に宗教色を強めていき、その後、マイケルが『Bad』期に離れた教団に改宗します(2001)。

ふたりは音楽や仕事に対しても、神に対しても、非常に似通ったところがあるのですが、マイケルは時代に支持されていることに、常に真っ向から立ち向かおうとし、プリンスは独自な道を歩もうとする。というのはこの後も続いたふたりの個性ではあるものの、プリンスが宗教的になっていった要因は、ヒップホップ世代の社会変化にもあるように思えます。

音楽やダンスの修養や、練習する楽器を手に入れなくとも、ラップを書くことで成功できるかもしれない、という希望は、かつて英国のパンクムーブメント以上に、黒人社会を変え、評論家はヒップホップに黒人社会の未来を感じ、アーティストによる過激な言葉は、音楽や文化だけでなく、政治やビジネスにも大きな影響を与えていく。

『Bad』と同じ1987年は、おそらくヒップホップに関する文章で、最も多く引用されているグループである、パブリック・エネミーのデビューアルバム『Yo! Bum Rush the Show』も発売され、彼らはセカンドアルバム『It Takes a Nation of Millions to Hold Us Back』から、より政治色が強くなり、

スパイク・リーの1989年の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』のテーマにも使用された「Fight The Power」を含む、彼らのアルバムの中で最も売れた1990年の3rdアルバム『Fear of a Black Planet』は、ブラックパワーや、ネイション・イスラムとの連携を深め、黒人至上主義的なメッセージによって、ポリティカル・ヒップホップの土台を作ることになりました。


Public Enemy - Fight The Power





この作品は、アメリカ国会図書館の重要保存録音物として永久保存もされているのですが、映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』で描かれたように、かつて隣人だったユダヤ人はハーレムを離れ、新しくハーレムで店を始めた韓国人社会との間に軋轢が生まれ、黒人社会の底辺には「反ユダヤ主義」や「新世界秩序」といった陰謀論が蔓延し、ドラッグビジネスや、銃による抗争や自己防衛は、地元警察との関係をますます悪化させていきました。

マイケルの『Bad』(1987)から、『Dangerous』(1991)までの間に、プリンスは『アンダー・ザ・チェリー・ムーン』(1986)や、『Sign "☮" the Times』(1987)、『Graffiti Bridge』で、音楽だけでなく、映画を通して、神や愛というメッセージを表現しようと苦心するのですが、音楽的な完成度はさておき、プリンスと消費者でもある一般の若者との距離は遠くなっていきました。


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by yomodalite | 2017-04-24 16:15 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

ネバーランドの彫像

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限定ブログで紹介している本のこともあって、このところ、またネバーランドの写真を見ることが多くて、中でも、ネバーランドの至るところに置かれた子供たちの彫像の素晴らしさには、あらためて感動してしまった。



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普段、こういった具象的な彫刻はあまり好きではなく、興味をもつこともないのだけど、ネバーランドの彫像たちは、どれも幸せな子供時代の一瞬を切り取ったかのように、すごく生き生きとしていて、とてもリアルに出来ている。


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こんな彫像を設置するために、マイケルは、相当多くの資料を取り揃えて発注したんだろうなぁと想像しているうちに、なぜ、こういった彫像がこれほど多く必要だったのかと不思議に思えてきた。



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ネバーランドは、最初から子供を招待して、彼らが楽しく遊べることを考えて創られている。滑り台や、鉄棒といった遊具を取り揃えるのはわかるけど、滑り台を滑っている子供の像や、鉄棒をしている子供たちの像では、実際の子供たちは、滑り台や鉄棒を使えないわけだし・・・子供が遊ぶ場所に、リアルな子供の像が必要だろうか?

かつて、ネバーランドの内部を公開したとき、そこにたくさん置かれたキャラクターや、マネキンについて、マイケルは、そういったものがあれば寂しくないから・・・といった答え方をしていたけど(彼はここにひとりで住んでいたわけわけではない)、家の外に置かれた彫像もそういった理由なのだろうか?

そんなことをぼんやりと考えていたら、偶然にも、ネバーランドの彫像は、スターリングラードにあるバルマレイ噴水にインスピレーションを受けているのではないか。という記事を発見した。

http://www.mjjcommunity.com/forum/

上記では、写真は見えなくなっていたけど、Barmaley Fountainで画像検索すると、確かに、ネバーランドにある彫像とよく似ている。


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この大きなワニを囲んで6人の子供たちが輪になっている像は、ウィキペディア(バルマレイの泉)によれば、1930年にスターリングラード(ロシア・現ヴォルゴグラード)の広場に設置されたが、

1942年、ドイツ、ルーマニア、イタリア、ハンガリー、およびクロアチアの枢軸軍とソビエト赤軍の戦いである、スターリングラード攻防戦(→Wikipedia)の惨禍と、無邪気に遊ぶ子供たちを対比した、エマヌイル・エヴゼリヒンの写真によって、世界的に有名になったという。

上記の記事によれば、子供たちが囲んでいるワニや、バルマレイは、共に、ロシアの詩人コルネイ・チュコフスキー(→Wikipedia)の『アイボリット先生』という童話が元になっているらしく、

Little children!
For nothing in the world
Do not go to Africa
Do not go to Africa for a walk!

In Africa, there are sharks,
In Africa, there are gorillas,
In Africa, there are large Evil crocodiles
They will bite you,
Beat and offend you

Don’t you go, children,
to Africa for a walk
In Africa, there is a robber,
In Africa, there is a villain,
In Africa, there is terrible Bahr-mah-ley!
He runs about Africa
And eats children
Nasty, vicious, greedy Barmaley!

子供たち、アフリカには行っちゃダメだよ
アフリカにはサメやゴリラや、凶悪なワニがいて、
噛まれるよ。
アフリカには恐ろしいバルマレイがいて
子供たちは食われちゃうんだ!


というような歌を歌いながら、子供たちは輪になって踊り、ロシアの典型的な悪者であるバルマレイとワニとの関係は、ピーターパンとフック船長の話に出てくるワニとも繋がりがありそうだ、と。

ネバーランドの輪になった子供たちの中央にはワニはいないけど、戦禍と無邪気な子供との対比を捕らえた写真は、映画『機械仕掛けのオレンジ』で、主人公のアレックスが無理やり目を開けられて見せられるシーンや、『Vフォーヴァンネッタ』にも登場するくらい有名で、マイケルが彫像を発注したときの資料だった可能性は高いと思う。


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コンクリート製の彫像は残ったけど、激しい戦闘によって、大勢の子供たちは亡くなってしまったのだろう・・そう思ってみると、楽しく遊ぶ子供たちの彫像は、HIStoryティーザーでも引用されていた映画『ターミネーター2』で、サラが追憶する核爆発の前の景色のようにも見える・・・



そう、ネバーランドは、ただの遊園地じゃない。

J・M・バリは、ロストボーイのために『ピーターパン』を書き、ネバーランドは、ピーターと同じように親からはぐれ、年を取らなくなった子供たちが永遠に冒険し、迷い込むための場所だった。そして、バリを深く知るマイケルは、病気の子供たちだけでなく、もうこの世にいない子供たち、そして私たちが失くしてしまった、すべてのロストチルドレンのために、「ネバーランド」を創ったのだから。


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ネバーランドで流れる音楽を製作した
ブラッド・サンバーグがシェアしてくれた音楽リストの中で
マイケルが特に気に入っていたという
映画『ポルターガイスト』からの曲






こういったBronze Garden Statue は、よくあるもので、マイケルだから意味があるように見えるだけかもしれないけど・・・


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(ブラッド・サンバーグのFBより)


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by yomodalite | 2016-07-08 12:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(2)
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☆[5]の続き

色々と回り道をしていることで、誤解を招いていることも多いと思うので、ここまでの要点を一旦まとめておきたいと思います。

[1]の要点

モトーラの「悪魔」呼ばわりは、MJが「人を憎むことは決して教えない」と言っていたことに反していないか。『インヴィンシブル』が発売になったのは、同時多発テロと同じ2001年。抗議行動は、翌年の2002年、ブッシュ大統領が「悪の枢軸」発言をした年。マイケルには、自分のアルバムのことよりも、言うべき言葉があったのではないか。

[2]の要点

星条旗があふれ、アメリカ中が戦闘態勢になって、イラク戦争への道に突き進んでいった時代、「僕たちは、何度でも、何度でも、愛を与えるべきなんだ」と歌う『What More Can I Give』をリリース出来なかったのは、モトーラや、SONYだけだっただろうか。

[3]の要点

ここまで良好な関係だったモトーラを「人種差別者」だと攻撃したのは、彼を失脚させるためで、ソニー攻撃は、モトーラ下しの手段という側面が大きかったのではないか。

[4]の要点

モトーラが『インヴィンシブル』の宣伝を抑えたのは、史上最高ともいえるほど派手な広告をした『ヒストリー』での経験から、広告のし過ぎは、リスナーや若手ミュージシャンから「お金持ちMJ」という反発を招き、メディアの反感を煽るだけだと判断したのではないか。

また、MJはこの行動により、モトーラ失脚に成功した(彼は音楽部門のトップの座は死守した)。

[5]の要点(本文に書ききれなかった不足分も加えてあります)

(4の後半からも含めて)音楽版権は、マイケルがATVを取得したときよりさらに大きな利益を生み出しつつあった。グローバル化による販路の拡大だけでなく、様々な商品フォーマットの開発が期待され、CD売上げや、オンエア使用料だけでなく、版権の「債券」としての価値も急上昇した。

労働者と経営者との格差が広がる時代が到来し、アーティストが才能と肉体を駆使して、生み出した作品を利用して、経営者たちが、彼らよりも儲けているという状況は変わらず、

MJが、音楽とダンスとビジュアルを融合させたことを、後続のアーティストたちが、真似するようになっただけでなく、モトーラや経営陣は、MJの様々な方法論や、版権の価値の重要性についても、後追いするようになった。

と、ここまでが、一応、前回までのまとめなのですが、

モトーラを「人種差別者」だと攻撃したのは、彼を失脚させるためという[3]の内容について、このあと、また別の見方をしてみたいと思います。

ハーレムで行なったスピーチのときに、その場に居合わせた、アル・シャープトン師は、自分はモトーラが人種差別主義者だとは思っていないし、マイケルが事前に何を言うかは知らなかったと公の場で発言し、

報道でMJの発言を知ったベリー・ゴーディは、マイケルに電話をかけ「〈人種という切り札〉を使うべきではない。我々はこれまで、一度もその方法はとらなかった。音楽はみんなのもので、肌の色は関係ない。というのが我々の信念だ。特に君はダメだ。これまで人種を意識してやってきたわけじゃないだろう。よく考えてみろ」と諭し、マイケルもまた、「あなたの言うとおりで、よく考えなくてもわかる。電話をくれて本当にありがとう」と言ったそうです(→『Michael Jackson Inc.』)

モトーラに対して、人種差別を訴えたのは、マライアや、ジョージ・マイケルはしていないことですし、この時代のMJが、黒人としての差別を訴えるというのは、当時の私には違和感しか感じられませんでした。

MJは黒人の可能性を拡げた人物として、今でも尊敬されていますが、当時、白人よりも「白い肌」になっていたMJが、黒人差別を訴えるのに相応しいとは思えず、SONYが販促活動を怠ったことを、差別のせいにするというのは、もっと理解できないことでした。

なぜなら、マイケルだけでなく、プリンスも、MCハマーや、ボビー・ブラウン、ジャネット・ジャクソンや、ホイットニー・ヒューストンも、日本でお茶の間に波及するほど、売れていた洋楽アーティストには黒人が多く、スポーツ界では、マイケル・ジョーダンの人気が凄まじく、オリンピックでは、カール・ルイスや、ジョイナーが活躍し、ゴルファーで一番の有名人といえば、タイガー・ウッズ、女子テニスでは、ビーナス、セレナ姉妹が大活躍し、日本で、アメリカの有名人と言えば、ほとんど黒人のように思えた80年代以降、「人種差別」という問題は、日本ではまったく感じることが出来ないことでもあったからです。

ただ、その後、日本でも、韓流ブームの後に、嫌韓流が流行り、GDPで抜かれた後に、反中ブームが起こったという経験を経て、当時のアメリカで、貧しくなった白人が、どんな思いがしたのか、なんとなく実感を持って想像できるようになった気がします。

満たされない思いを抱く白人が多くなり、自分たちには手にすることの出来ない人種差別という「切り札」を、苦々しく思う人が増えた。それは、日本が貧しくなってから、「在日特権」などということがクローズアップされたように、人類に共通したネガティブな感情なんだと思います。

黒人の流行を上手に取り入れた白人アーティストが活躍するという状況は、マイケルが登場する前は、トラボルタとビージーズによる「サタデー・ナイト・フィーバー」のブームがあり、ブルーアイドソウルと呼ばれた、ホール&オーツも大人気でしたが、この当時から、隆盛を誇っていたヒップホップ文化が、ハーレムだけでなく、ブルックリンをも席巻するようになってから、ブルックリン出身で、イタリア系のモトーラの周囲では、白人の中では一段下に置かれていた、ラテン系、ヒスパニック系の人々を中心に、黒人以外の人種で結束するという状況があったのではないでしょうか。彼らが、黒人勢力に対し、侮蔑的な発言をすることで、集団としてまとまるということは、容易に想像できることなので、

マイケルが「モトーラは、所属アーティストをニガー(黒人に対する蔑称)呼ばわりしている」と言ったことを、彼を失脚させるための嘘だと思っているわけではなく、実際にそういうことはあったのだと思います。

ただ、マイケルほど冷静な人が、様々なストレスを抱えていたとしても、人種差別への思いが再燃したという理由だけで、これまで封印してきた〈黒人差別という切り札〉を使ったとは、私には思えません。

と、このあと[7]に続く予定でしたが・・・

他のことに追われ、時間が経つうちに、MJエステートが持っていたソニー/ATVを、SONYに売却することが決定しました(マイケルの楽曲に対する出版権の所有権は100%エステートが所有したまま)。

http://yourockmyworld829.blog88.fc2.com/blog-entry-3683.html

これに関しての私の感想は、ジョーパパとまったく同じです。

http://yourockmyworld829.blog88.fc2.com/blog-entry-3685.html

マイケルの子供たちが、これを保有し、ビジネスとしていく意向があるのなら、また別の選択もあったでしょうが、長男の選んだ大学から想像しても、おそらくそういった興味はない様子。そうであるなら、マイケルが地上にいない、ビジネスに関与できない状態で、他にどんな選択があるんでしょうか。

「ソニーウォーズの意味について」は、他人をお金の亡者に仕立てて、正義を振りかざす方々が作る “真実” への危惧から書き始めたものですが、しばらく放置することにします。

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by yomodalite | 2015-03-23 08:40 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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SONY is phony like bologna は、ソーセージの肉のようにインチキという意味


引き続き、マイケルが自分の愛したSONYではないと感じた理由を、モトーラと絡めつつ、色々探っていきたいと思います。

モトーラがソニーミュージックの社長となった1990年代は、グローバリゼーションが地球規模化し、多国籍企業が世界経済を支配していくことになった時代でした。

MJのレーベルであるエピックレコードは1953年に設立され、コロムビアとエピックの2つのレーベルを柱としていたCBSレコードは、1988年にソニーに買収され、1991年にソニー・ミュージックエンタテインメントと改名する。

マイケルがATV版権を買ったのは1985年。1988年に自分のレーベル「MJJ Music」を創った頃、彼には、自分がレコード会社を所有して、アーティストを育てるということも考えていたようです。

MJの30周年記念コンサートには、彼に影響を受けた若いアーティストが大勢出演し、アッシャーや、ビヨンセ(ディスティニー・チャイルド)、ジャスティン・ティンバーレイク(インシンク)は、MJの大ファンを公言しているだけでなく、ブリトニー・スピアーズや、インシンクは、MJの教え子であるウェイド・ロブソンが振り付けを担当していました。

2015年に、ウェイドのことを考えるのは気が重いですが、オーストラリア出身であるウェイドを、アメリカに連れてきたのはMJで、振付師としてだけでなく「MJJ Music」で、アーティスト契約もし、Quoという名前でデビューしました。






ブリトニー・スピアーズやインシンクがやっていること、そのスタイルはすべて僕から来ている。僕がウェイドを教えたんだから。彼は僕のレコード会社「MJJ Music」に所属していて、ラップもできるし、何でもできるんだ。(『MJ Tapes』)


MJにとって、教え子のウェイド・ロブソンは、自分のあとを追う、ティンバーレイクや、ブリトニーを生み出しましたが、自分のレーベルでデビューさせた “Quo” は、ティンバーレイクや、ブリトニーのようには売れなかった。そして、ディスティニー・チャイルド(コロムビア)、インシンク(RCA)、アッシャー(Arista)といったMJチルドレンは、レーベルはちがっても、合併により、すべてソニーミュージックのアーティストになっていました。

ニルヴァーナの登場によって、「マイケル的な美学」が完全に過去のものとなっていく様を体感し続けた。「90年代」に生きる多くのミュージシャン、音楽ファンにとって「マイケル」こそは唾棄すべき商業的な音楽の象徴であり、「ニルヴァーナ/カート・コバーン」こそは救世主であった。(西寺郷太『マイケル・ジャクソン』)


というグランジロック全盛期のあと、怒濤のように現れた「MJチルドレン」は、マイケルへのリスペクトを取り戻す起爆剤にはなりましたが、『インヴィンシブル』は、彼らとヒットチャートを争わなくてはならなかった。


一方、モトーラは、ホール&オーツ、ビリー・ジョエルなど、永年に渡って、様々なアーティストを手がけてきたヒットメイカーですが、ソニー/コロンビア時代に彼が手がけたのは、マライアだけでなく、


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Jennifer Lopez




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SHAKIRA




タリアはマライアの後、モトーラと結婚したアーティスト。

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Thalia





上記の動画や写真は、2000〜2002年でセレクトしていて、彼女たちは皆、ブロンドヘアで、露出の多いファッションなど、マライアの成功パターンを繰り返したようにも見えますが、マライアのデビュー当時の写真を見ると、


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マライアが、今のような巨乳とエロティックな路線になったのは離婚直後から。


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離婚して、SONYを離れる直前1999年頃



ただ、SONYの女性アーティストが、モトーラの趣味により、みんなソフトウェービーのブロンドヘアで、ヌーディーなファッションになったようにも見えるので、コントロール・フリークだと言われても納得できるものはあります。

また、セリーヌ・ディオン、グロリア・エステファン、マライア・キャリー、ジェニファー・ロペス、シャキーラ、そして、マライアと離婚後、再婚したタリアなど、女性アーティストが多いだけでなく、マーク・アンソニー、リッキー・マーティンなど男性アーティストも含めて、

彼はイタリア系の自分と同じ「ラテン系」のアーティストを多く売り出したようです。

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Britney Spears





彼女たち以上に人気を得たブリトニーも、外見上の「戦略」は同じで、ブロンドでグラマーな美女が好まれるというのは、MJが好きな「黄金律」よりも、現世的に確実な「ゴールデンルール」なので、モトーラの個人的趣味ではなく、他のレコード会社でも似たような状況だったかもしれませんが、

この時代は、MJチルドレンが席巻しただけでなく、ポップチャートに登場するアーティストのほとんどに、ダンスの要素と、過激な肉体露出が求められるようになっていました。

最初に、MJが目を付けたATV版権の半分を所有し、巨大企業となったソニーミュージックは、所属アーティストを大勢抱えることによって、その権利ビジネスも巨大になり、SONYだけでなく、80年代から上昇傾向にあったグローバル企業の役員報酬額の伸びは90年を越えて、ますます、急激に上昇していきました。

アーティストが才能と肉体を駆使して、生み出した作品を利用して、アーティストよりも、派手な生活を楽におくっている・・・当時の音楽業界の幹部たちの姿を見て、

アーティストたちに、実際にその代価が支払われていないのは本当に悲しいことです。彼らは、世界中の人々と会社のために大きな喜びを生み出したのに、レコード会社のような組織を始めとして、完全に彼らを利用している。(2002年ハーレムでのスピーチ)


と感じたアーティストは多かったと思いますが、それを公言し、会社に潰されることがない立場だったのは、世界中でMJただひとりだったと思います。



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by yomodalite | 2015-01-31 00:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(11)
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☆(3)の続き


SONYデモで、プロモーションへの不満を主張したのは『インヴィンシブル』だけでしたが、そこまでの経緯を少し振りかえってみたいと思います。


宣伝が少ないと不満を表明した『インヴィンシブル』の前に出された『ヒストリー』と『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』は、その宣伝方法において、両極端な戦略がとられました。


『ヒストリー』は、業界の常識を超えるほどの派手な広告が打たれ、史上最も売り上げた二枚組アルバムという記録を作りましたが、その宣伝方法や、ティーザーは激しい批判を浴び、米英ともにNo.1にもなったにも関わらず、メディアは「失敗」の烙印を押し、


◎[参考記事]この記事内にあるTV『プライムタイム』の内容


一方の『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』は、発売日すら告知しない状態で店頭に並べられ、リミックス・アルバムとして世界最高売り上げのアルバムになりました。


『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』が急遽発売されたのは、未収録になった作品を長く埋蔵させるよりは、アルバムや、通常アメリカのアーティストが行かないような場所までケアしたツアーなど、多額の費用と時間をかけた『ヒストリー』期の損失補填に利用したい。という意向があったのかもしれませんが、


リミックスアルバムといえ、新曲が5曲も含まれたアルバムに対し、このときのMJは、宣伝がないことになんの不満も述べず、これまでよりも安い予算で創られたとおぼしきショートフィルムを1本だけ創っています。


私は未読ですが、2013年に出版された、彼の著書『Hitmaker: The Man and His Music』には、そんなことが書かれているんでしょうか(読まれた方は教えてくださいね!)?


◎[Amazon]『Hitmaker: The Man and His Music』


MJも尊敬する俳優ロバート・デニーロが、ブロンクスで生まれ、自分の才覚によって成功を納めた同胞に対して、「彼を誇りに思う」というレヴュー他、ビリー・ジョエル、ジェニファー・ロペス、有名音楽プロデューサーで、数々のレコード会社の社長でもあったクライブ・デイヴィス等からの賞賛の言葉が並んでいます。


このまったく違う2枚の宣伝方法は、マイケルにとっても、モトーラにとっても、次のアルバムの「観測気球」になったのではないでしょうか。


まったくの想像ですが、


モトーラは、宣伝のし過ぎは、若手ミュージシャンからの反発と、メディアの反感を煽るだけで逆効果になる。と考えたのではないでしょうか。


1993年の疑惑によって、MJが1530万ドルという巨額の和解金を払ったことは大きく報道されていました。また、グランジ・ロックが席巻した当時の米国で、成功したアーティストによる「金にものを言わせる」広告は、若者に好まれていなかった。音楽プロデューサーとして、様々なアーティストの売り出しを考えねばならず、MJだけに特別扱いはできない。むしろ、MJには先輩として、若手にプロモーション費用を譲って欲しいと。 


マイケルがどう考えたかは、さらにむずかしいですが、


『ヒストリー』ティーザーへの批判は、論争を巻き起こしたかったからで(TV番組『プライムタイム』での発言)、むしろ、歓迎すべきことであり、『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』は、自分が創ったショートフィルムだけで売れた。


というような結果を手にしていたのかもしれません。


西寺郷太氏の『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』には、


ソニー創業者のひとりである盛田昭夫会長のことを心から尊敬し、信頼していたマイケルにとっては「これは自分の愛したソニーではない」という気持ちが強かったのかもしれません。


と書かれています。私もそう思います。


マイケルの愛したSONYは、最新の技術と、夢のある商品を提供する「特別な会社」で、また、そのハリウッドへの挑戦に対しても、盛田社長と、マイケルは夢を共有する関係だったと思いますが、ヒットメイカー、モトーラが支配するソニーミュージックは、MJにとっては「普通のレコード会社」になっていた。



上記は、デモの後行われたスピーチですが、その中でも語っているように、


このとき、MJはソニーの半分を所有していました。


モトーラが、ソニー・ミュージックの社長になったのは1990年。『デンジャラス』『ヒストリー』『ブラッド・オン・ザ・ダンスフロア』『インヴィンシブル』の製作期間、彼は、MJのレコード会社の社長で、


MJのATV版権と、ソニーの音楽出版事業が合併し、ソニーATVミュージックパブリッシング(以下:ソニーATV)が出来たのは1995年。このときソニーミュージックの社長だったモトーラが、どの程度そこに関わったのか、あるいは関わろうとしていたのか?その詳細はわかりませんが、


モトーラのWikipediaによれば、


在任中、ソニーを最も成功しているグローバルな音楽会社の1つに変えた。とか、ビートルズなどのカタログを獲得をすることによってソニーミュージックの出版事業部を生き返らせて・・・などの記述があるので、ソニーATVの版権の利用について、もっとも力を行使できる立場だったと思われます。


◎Tommy Mottola(Wikipedia)


その使い方の中には、マイケルにとって「音楽を殺す」と感じられるようなことがあったのでしょう。MJは購入する版権の楽曲にもかなりのこだわりがあったようです(『MICHAL JACKSON.INC.』)。


しかしながら、財務一辺倒でない音楽プロデューサー出身のモトーラが、マライアを失った後のSONYで、マイケルまで潰そうとするでしょうか?


西寺氏と同じく、私もそこに大きな疑問を感じます。



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モトーラは、マイケルには「もっと売れて欲しかった」。ただ、マイケルが考えているようなプランは対費用効果に乏しく、これ以上時間をかけても仕方がない。すでに素晴らしい曲が出来ているんだから、これをシングルにすればいいだけだ。というような、誰もが思う正論を、「自分が悪者になるのだ」(西寺郷太『新しいマイケル・ジャクソンの教科書』)と思って言っていたのではないでしょうか。


当時のことを聞かれたモトーラは、「たとえ誰かがノーと言ったとしても、マイケルはイエスと言ってくれる別の人のところに行くだけだったと答えています。(『MICHAL JACKSON.INC.』)


しかし、納得のいかないMJはスピーチで語ったように、


版権の半分を所有したまま、離れる。


と、SONYに迫った。端的に言えば、それは「自分とモトーラのどちらを取るんだ」という脅しです。

そして、SONYはモトーラの方を解雇した。


MJは、モトーラをソニーミュージックの社長の座から降ろすことに成功したわけです。


スピーチでは、SONYから自由になる。と発言しているので、あれだけ批判したSONYに停まったことを疑問に思った人は多いと思いますが、デモの時点ではモトーラはまだ社長ですから、彼を失脚させるためにSONYブランドを攻撃した。ということで理屈は通ります。


これ以降、MJ主導のショートフィルムは創られることなく、多くの企画が流れていったことで、ファンは、MJの創作活動が妨げられていると感じ、さまざまな想像がなされ、マイケルがその後も何度か版権への陰謀を口にしてきたことは、それにさらに拍車をかけました。


「SONYは、ソニーATVの全権をにぎるために、自分のキャリアを破壊しようとしている」


という理屈は、


「アルバムが失敗すれば、資金ぐりが悪化し、ソニーATVを担保に借りている2億ドルの返済が滞る」


ということで、マイケルの心中としてはそうでしょうが、理由はどうであれ、彼が非常にお金のかかる生活をしていたことは否定できませんし、アルバムの制作費に莫大な金額をかけたのも、借金をしたのもMJで、モトーラや、SONYがそうするように仕向けたわけではありません。


MJは当時の破産という噂に対し、FOXニュースのインタビューで、「僕は最近、とある人物に5億ドル(約600億円)の小切手を渡したばかりだ」と答えていますが(→ http://moonwalker.jp/project_old/2002-2.html)


それほどお金があるなら、そして、なぜ、「スリラー」のときと同じように、自分のお金で「アンブレイカブル」のショートフィルムを創らなかったのでしょう?


また、その後も莫大なお金を借りられることができたMJは、なぜ、その借金で本当に創りたいショートフィルムを作らなかったのでしょう?


また、デモを行なった、2002年6月15日から7月16日までの間に、ソニーと共同で、カントリー音楽を扱う音楽出版社エーカフ・ローズを購入するという発表(7月2日)も行なわれています。そこから考えても、やはり、ソニーへの攻撃は、モトーラ失脚のための手段だったと、私には思えてなりません。


☆(5)に続く


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by yomodalite | 2015-01-25 06:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(2)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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