カテゴリ:MJ考察系( 70 )

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akimさんとのおしゃべりの続き・・・


写真は引き続き「Searching For Neverland」から。


A:akimさん Y:yomodalite


A:まだ公開前の部分だけど、このあと、ビルとジェイボンの本の中で、ショッピングモールに行く話があって、モールの関係者に「マイケル・ジャクソンが行く」っていうと、大変なことになるので、誰かって聞かれたとき、「プリンスです」って答えたら、全然どうってことなかったみたいな話があったよね。


Y:あの話は面白いよね(笑)


A:プリンスが人気ないっていうんじゃなくて、プリンスに対して人はマイケルのように突進したりしないっていうことがね。マイケルは、プリンスの場合は、みんな彼に対して一定のリスペクトがあって、うらやましいっていうきもちもあるんだけど、一方で、自分への熱狂のようなものは、プリンスにはないっていう自負もあってw・・たしかに、熱烈なファンでも、なんとなくプリンスに対しては、彼をもみくちゃにするなんて出来ないっていう雰囲気があるっていうか、実際されてるところも見たことがないよね。


Y:プリンスは、マイケルみたいにたくさんセキュリテイ連れてないし、ペイズリーパークの外で、よくチャリンコに乗ってたり、コンサート終わってから、すぐまた別会場でパーティーやるとか、マイケルと違って、わりと身近に見られるっていうイメージもあるからかな?


A:うーん、前にプリンスファンのブログを読んだことがあって、彼女曰く、ファンだからこそプリンスに対して「きゃープリンス! I love you!」なんて軽々しく言えないって書いてあったのね。なんていうか独特のオーラがあって・・。なんかわかるような気もするんだよね(笑) そういうのメディア側も理解してて、プリンスに対しては確かにあんまり変な、どーでもいい質問したら出て行かれて二度と答えてもらえないんじゃないかっていうのがあって、あんまり失礼な態度をとらないっていうか。

マイケルは「I love you more」ってお約束を返してくれるから、ファンもエキサイトしやすい(笑)。ファンの熱狂は彼にとって嬉しいものだったろうし、慣れっこだったろうけど、プリンスと比べたら、メディアの彼に対する軽々しい扱いはね・・・。そこはマイケルにとっては、本当に納得できない部分だったと思うんだけどね。2008年にマイケルがレコーディング中にウィル・アイ・アムに、「どうして人は僕のことを、プリンスのような本格的なソングライターだと思ってくれないんだろう」って言ったらしいんだけど※、すごくそれが忘れられないの。切なくて(笑) まぁ、でもプリンスの場合は、小さいから、もみくちゃにされたら、本当にめちゃくちゃにされちゃいそうだしね。


◎関連記事 別館akim「PrinceとMichael 神の寵愛を受けたふたり


Y:小さいってことで、思い出したんだけど、マイケルと会った人の印象って、大小の印象がすごく幅広くない? 日本のテレビ番組で、マイケルがいつも使ってたキャピタルホテルの人が、マイケルの手は、女性のように小さくて、とか言ってて、他にも手が小さくて女性のようだったって言ってる人が多いように思うんだけど、実際マイケルの手は、手形とか見ても、全然小さくないじゃない。

身長190センチ以上で、体重100キロ以上がゴロゴロいるようなアメリカ人の印象だったら、マイケルが小さくてっていうのも、わからないでもないけど、日本人の平均的な体型と比べたら、別に小さくないのに、「女性のように手が小さい」って感じちゃうのは不思議だよね。

ビルやジェイボンも、触ると折れるんじゃないかとか言ってるんだけど、でも、例えば、身長185センチのR・ケリーは、「少なくとも8フィート(2m40㎝!)はあるように見えた」って言ってるし(笑)、巨漢のラッパー、ノトーリアスB.I.G.は、マイケルと会ったとき、自分が子供の頃からどんなにファンだったか、モジモジと身を縮ませるように答えてたり、少年隊の東くんも自分よりも身長高かったって言ってるよね。


A:マイケルの場合は、身長うんぬんよりも、声の印象なんじゃない?あれが、か細い印象に繋がるみたいね・・・「Smap×Smap」のときも、小さい声でしゃべってたよね。


Y:そう、あれも地声じゃなくて、ちょっとでも声を出さないように、声を大事にするために、あんな風にしゃべってたんだって今は知ってるけど、「Smap×Smap」のときは・・あれをリアルタイムで見てた頃は、ホントなんて言っていいか、わかんなかったもんね。これで終わっちゃうの、もう帰っちゃうの、ホント、どうしちゃったのかなって・・






A:今から考えると、貴重な瞬間だったけど・・・


Y:うん。サングラスなしだったの、ジャパンMTVアワードのときだけだったもんね。高視聴率の地上波番組で、サングラス外してくれて、スマップと会話してくれてたらね。少なくとも日本では誤解が解けてたかなぁ・・

今はMTVアワードの動画も見られるし、あのとき私たちが抱いた不安とか、あんまり理解されないと思うけど、「Smap×Smap」も、高額ファンパーティも、マイケル愛が100%の人の前でも、子供たちがいる養護施設でも、一切サングラスを外さなかったっていうのは、当時はものすごく不安を掻き立てられたんだよね。






でも、マイケルの後半生は、メディアが作り上げた疑惑によって、ことごとく妨害されたって思うファンは多いし、誤解されたことを弁解したいという気持ちも強いんだけど、メディアによって散々おかしな話を掻き立てられた、ある意味マイケルの先達とも言えるハワード・ヒューズのことを、マイケルは、自分と同じ「被害者」としてではなく、大きな仕掛けをした「自分の先生」だって言ってたのを読んだときは衝撃的だったなぁ(*)

Bad期にP.T.バーナムをお手本にしたことは、よく知られていることだけど、その発言をしたのは、2000年頃のことだからね。


不潔恐怖とか、隠遁生活とか、ヒューズの噂は、マイケルの「フェイク・ニュース」に流用されてるものが多いんだけど、レオナルド・ディカプリオが、ハワード・ヒューズを演じた映画『アビエイター』では、ハンサムで、超大金持ちの実業家でありながら、世界記録をもつパイロットで、映画監督としても成功した、まさにアメリカンヒーローといえるヒューズが、次第に精神に異常をきたして、人々から隔離した生活をするようになったことを、少年の心をもつ繊細な「被害者」として描いていて・・そんなところも、マイケルに同情した人々の感情と似てるんだけど、でも、マイケルのヒューズの捉え方は全然そうじゃなくて、むしろ、ヒューズ自身がそういったことも「仕掛けた」んだと。マイケルには色々な誤解を解こうという意思はなかったみたいなんだよね。




A:うん、そんな気がする。THIS IS IT に至るまでは、本当にやりたくなかったんだろうし、子供のためのクラシックを作ったりとか、創作意欲は常にあったけど・・



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Y:クラシックといえば、THIS IS ITと同時期に、クラシックのアルバムを作ってたことも、あんなにスケジュール的に大変だって本人も思ってた時期に、どうして平行してやろうとするのかなって思ったんだけど・・




A:創作をすること自体は、やりたいことで、やっても苦にならないんだろうね。


Y:ビルとジェイボンの本にも、ブラッド・サンバーグを呼んで、創作活動してたことについて、そんな風に書いてあったね。


A:ブラッド・サンバーグとは、裁判の前にいったん別れたんだけど、帰国後、またやることになったんだよね。あと、ラベル・スミスもよく家に来てたんだね・・・それと、ジェイボンが、子供の頃、ネバーランドに招待されてたっていうことを証言してくれたのもよかったよね。


Y:バーニー先生の息子の学校も招待されてたけど、地域も経済格差もありそうなジェイボンも招待されてたんだから、ホントにたくさんの子供たちを招待してたってことだよね。しかも、ただ、見学するんじゃなくて、あの遊具を全部使わせてたり、身体の不自由な子供たちも乗れるように、係のひとに特別な指導も受けさせていたり、動物もたくさんいるから、飼育する人も大勢必要だし・・・


A:乗り物だけじゃなく、食べ物とか何もかも無料だからね。


Y:そんな施設を10年以上もずっと運営するなんて、もう想像もできないような巨額のお金を投じてるよね・・にも関わらず、こういったことすべてを無視して、マイケル個人の浪費癖と、少年への異常な性癖が目的だったみたいな話にしちゃうんだからね・・。メディアってホント怖いわ。


あの裁判のとき、ファンが熱心に応援したかもしれないけど、これだけ永年尽くしてきた地元で、マイケルが起訴されることへの反対運動が起こったとか、全然聞かないもんね。マイケルにしてみたら、これだけ地元に貢献してきたのに、って気持ちはすごくあったと思うよね。裁判のときに、メゼロウが陪審員として選ばれた地元の人たちは信頼できる人たちだと感じたとか、マイケル裁判に使われた税金は究極の無駄遣いだって感じてた人も大勢いたとは思うんだけど、今のトランプに対する報道もそうだけど、この当時から、マスメディアでは決められた方向にはっきりと誘導するように、報道するようになったって感じ。


ネバーランドに子供を招待することは、1993年の疑惑以降もずっと続けられてきていて、バーニー先生の病院にマイケルが来たのは2001年だけど、その頃学校に行ってたバーニー先生の子供たちなんかも、ネバーランドに招待されることを、すごく楽しみにしてたわけだし、そういった「おとぎ話」のように夢のあることを、一部の大人たちが疑ったことで、ぶち壊されたり、これ以上ないってぐらい泥を塗られたっていうのは、本当に悔しいし、無実になったあとも、謝罪もなければ、反転するような報道もなかったってことで、私の中では、メディアへの信頼が完全になくなったなぁ。


A:わかる。あたしも本当にそこんところは納得いかないもん。そういう意味で、この本もファン以外の人が読んでナンボだよねって思うよね。読んでほしいよ本当に。それと、まだ観てないから、どういう出来なのかまだわかんないんだけど、マイケルのインパーソネーターとして有名なナビが主演した番組、どこに焦点をあてて作られたのか、知りたいよね。ビルとジェイボンはTwitterで、感想聞かせてねって言ってるし、この本を元に製作されたんだよね。ナビは、グラサンかけて、遠目にみるとマイケルにすごく似てるからね。



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ナビとビル役の俳優


Y:そうそう、近づいちゃうとね、マイケルに似せようっていうのは、もう絶対に無理なんだけど、ナビは、パフォーマンスだけじゃなく、普段の動き方とか仕草とかも、すごく研究してるって感じだもんね。


A:予告編で見たんだけど、グレイスが子供たちを抱っこしてて、そこにいたマイケルを演じてたナビを見たときは、すっごく似てるなぁって思った、流石ナビだって。


Y:グレイスと言えば、今まで乳母と言うだけじゃなく、高い教養があって、子供たちの教育係としても素晴らしい人なんだとは思っていたけど、マイケルは、彼女のこと「ナニー(乳母)」じゃなくて、「ガバネス(住み込みの女性家庭教師)って呼んでて、相当な額を支払ってたみたい。



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(右)グレイス(左)番組でグレイス役のひと


ただ、グレイスは「住み込み」じゃなくて、ボディガードたちもみんな知ってるような超セレブが住んでる高級マンション(Turnberry Tower)に、レイモン・ベインよりも前に住んでたっていうのは、ちょっとびっくりしたかも。


一番小さな部屋でも、2つはバスルームがあるっぽい。

http://www.turnberrytowers.com/amenities/


A:私も、住み込みかと思ってたけど、通いだったんだなって・・でも、マイケルも通いにしたかったんだろうね。カシオ本にもあったけど、子供たちにとって、自分以上の存在になって欲しくないっていうかね。でも、マイケルが亡くなったあとも、グレイスがしばらく居たのは、子供たちにとっては良かったよね。マイケルがいなくなって、グレイスまでいなくなったら、子供たちにとって、大変すぎるもんね。


Y:一回いなくなったけど、キャサママが、呼び寄せたんだったんだよね。


A:今、彼女がどうしてるのかは知らないけど、でも、とにかく、マイケルの元で働くっていうのは大変なことだよね。複雑っていうか、私は、従業員であろうが、なんであろうが、マイケルの側にいたら保たなかったような気がするな。絶対ある日クビになるパターン(笑)


Y:私もーー!。今まで、午前二時とか、三時に「平気で」電話かけてきてたのにぃーって泣いてる自分が見える(笑)


A:バーニー先生の場合は、「バーニーもう寝てた?」とか、「ちょっと話を聞いてくれる?」みたいな感じだったから、まだしようがないなって感じだけど、ちょっとでもビジネスに絡んでたら、午前二時とか、三時に、「あれはどうなったの?」とか、「これはどうなの?」とか、普通に言われるわけだからね。


Y:で、なんか気に入らないことがあってクビになったら、アメリカでは突然クビになるって普通みたいだけど、そりゃ、まだ支払ってもらってないお金があるとか、怒鳴り込んでくる人がいるのも、わからないでもないよね、・・・そういえば、バーニー先生には、帰国後連絡してないんだよね。あれだけ親しく付き合ってたのに。


A:あーーーーー。


Y:わたしね、やっぱり、マイケルって人と別れるのが好きなんだと思うんだよね。なんていうかな、変化し続けていたいっていう気持ちが強いっていうか、同じ人とずっと付き合っていたら、もうそこで「終わってしまう」みたいな感覚があるんじゃない。次々といろんなところに行っても、結局、マイケルって誰とでも仲良くなれるしね。


だから、ビルとジェイボンが、マイケルには友達といえるような人はいなかった、とか言ってたけど、この時期、マイケルは、子供の服を洗濯したり、ご飯も作ってるし、「家庭」のことをこれだけやってて、ことごとく断ってはいるものの、仕事関係のミーティングもいっぱいあったわけだから、いわゆる普通のひとが必要としてる「友人」みたいなのって、必要なかったと思うんだよね。天から与えられたような仕事をしている人って、マイケルほどの天才じゃなくたって、みんなそんな感じだし、ことさら、それが「孤独」ってこともなかったと思うんだよね。


A:そうだね、私はバーニー先生の場合は、医者ってことが大きかったと思うんだよね。


Y:うん、私もそう思う。


A:単にあのひとが、そのへんの雑貨屋さんだとか・・・アンティークショップを営んでいたとしてもね、とにかく普通のひとだったら、どうだったろうって思うよね。


Y:それと、自分の子供たちにとって、ちょうどいいぐらいの年齢の息子がいたってこともあったんじゃない。それで、アンテイークの家具なんかの趣味があって、なおかつ、医者だった、と。この3つが揃っていたことが大きくて、中でも、医者っていうのは、すごく重要だったと思うなぁ。


A:バーニー先生は、あの本の中では全然書いてないけど、マイケルに処方してたのは事実だしね。


(⑥に続く・・・)



(*)MJ:ハワード・ヒューズは自分の所有するホテルの最上階にいるって、みんなが言ってた。そのフロアにずっといて下りてこない。暗がりの中、部屋の隅っこのベッドにいて、爪や髪をこんなに長く伸ばして、点滴に繫がれてるってね。

そんな風に、脳はおかしな考えを色々かき集めて、とんでもない話しを作り上げる。僕はそういうのが大好きだから、ハワード・ヒューズのことも大好きなんだ。彼は大きな仕掛けをしたからね。僕にとって、彼はある意味、先生なのかもしれない。

こんなことを話すのは、初めてなんだけど、ハワードのことが大好きなんだ。彼は天才だよ。人を操る術っていうか、彼はみんなが興味を持ってしまう方法を知っていて、P. T. バーナムもそういったことが得意だった。(『MJ Tapes』より)



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by yomodalite | 2017-06-22 08:59 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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akimさんとのおしゃべりの続き・・・


写真は引き続き「Searching For Neverland」から、Naviの熱演シーンを。


A:akimさん Y:yomodalite


A:マイケルの子供たちへの教育についてなんだけど、彼は体罰は嫌いかもしれないけど、父親の教育の厳しさみたいなものは、すごく受け継いでいるよね。


◎[参考記事]別館akim 優しい、けど厳しい、でもやっぱり優しい


大人が話しているときに、子供たちが、子供らしく振舞うというか、無邪気に騒いだりすることを、マイケルは絶対に許さなかったっていうか、ジャーメインが書いた本にもかいてあったけど、大人が入ってきたら、そのとき何をやっていても、すぐに立ち上がって挨拶するとか、なにかしてもらったときなんかも、プリーズとサンキューを忘れないとか、とにかく、マイケルは子供だからしかたないっていう言い訳は許さないんだよね。



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子供に対して「なんとかでちゅよ」みたいな言い方もしないし、大人に話をするように、子供に話すっていうのは、カシオが書いた本にも書かれてたけど、そういった部分は、子供たちにとって、メンタル的に厳しかったと思うよね。


Y:そうだね。マイケルが子供たちに絵本を読んでいるビデオがあったけど、こんなちっちゃい子にわかる話じゃないうえに、読み方も速すぎるよね(笑)


◎[参考記事]別館akim マイケルの読み聞かせ






A:一種のスピード・ラーニングなんじゃない?(笑)


Y:速く読む方が頭に入るとか(笑)


A:で、読み終わったら、パーンて閉じちゃう(笑)


Y:うん、ちょっとびっくりしたよね。子供目線のところがまったくないっていうか・・ふつうの親って、子供の成長時に、自分も子供時代に戻って、楽しもうとするところがあるじゃない。で、それを人一倍やっているのが、マイケルだって思われてたし、彼自身もネバーランドを作ったことを、そういう風に公的に説明してた。でも、マイケルは、自分が子供の頃、すごく大人だったっていう記憶もあって、むしろ、自分の子供に対しては、子供らしく扱うっていうことが出来ないのかな。



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本の表記には今のところないけど、

パリスちゃん、キティ好きだったのかな?



A:マイケルが亡くなったあと、子供たちが、オプラの番組に出演したとき、「お父さんのしつけはすごく厳しかった」って言ってて、ブランケットも、プリンスは上手くやってたけど、僕は・・って言ってたよね(*)


だから、体罰はないけど、パパはすごく厳しくて、必ずパパに、いいって言ってもらえるようにしなくちゃならなかったっていうのは、あったみたいだね。子供にとって、ジョーのような体罰が厳しいのか、マイケルが子供たちに課していたような精神的なプレッシャーが強い教育が厳しいのか、っていうのは、どっちもどっちだよね。

ジョーのような方法だと、ジョーが見てるところだけおとなしくしていられることもできるし、ジョーがいないところで、みんなで悪口をいうこともできるけど、マイケルの子供たちのように、ダディが全てみたいな環境で、ダディに「君たちにはがっかりしたよ」なんてことを言われたら、精神的にすごくキツイよね。本人たちは意識してなくても。


Y:子供には、学校と家というふたつの環境があって、学校でツライことがあっても、家はあたたかいと思える環境だったり、家でツラいことがあっても、学校ではみんなと平等でいわれる、とか、そーゆーのないからね、彼らには。マイケルパパしかしないし、ママいないし・・・


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A:マイケルの都合で、楽しみにしていたお出かけなんかもなくなるとかね・・子供にとっては、たしかに厳しいというか、そうとうなプレッシャーはあった感じはするよね。だから、マイケルが亡くなったことで、そういったたがが外れたり、他人から色んなことを言われるとか、そういった過酷な状況を、今は少し抜け出しつつあるのかもしれないけど、40歳ぐらいになって、振り返るとまた違った感想なんだろうと思うけど、10代、20代ではね・・。


Y:自分ことを考えても、10代、20代の頃の自分なんて、今の自分とは「別人」ってところあるからね。


A:体罰だって、トラウマになるけど、大好きなお父さんに嫌われたくないっていうプレッシャーだって、「Scream」じゃないど・・・子供たちはパパが大好きだからそれをマイナスとは思ってないだろうけどね。でも、マイケルはそういうプレッシャーを子供たちに課しているなんて思ってもいなかったんじゃないかな。


Y:まぁ、わかってはいないことはないんだろうけど、どうしようもないしね。自分の子供は大変だっていうのは、マイケルはすごくわかってて、そこは、彼自身にとってもすごくプレッシャーだったと思うし・・。それと、自分はそんなに長生きしないっていう自覚も、どこかで、マイケルにはあったのかな。


A:かもしれないね。


Y:そういうこともあって、子供たちへの教育をすごく焦ってたって感じはするよね。早く大人にしなくちゃいけないみたいな・・だから、あんなに子供好きで、現代の子供たちが、早く大人にさせられることを嘆いていたりしてても、ねぇ。


A:そこはもう本当にマイケル・ジャクソンの子供だからというのに尽きるよね。できるだけ子供の心を持って無邪気でいてほしいけど、「マイケル・ジャクソンの子供」が無邪気に「あれが欲しい、それはいや」だなんて言ったら、どんな風に噂が広がるか、普通の子供ならほほえましくても、彼らの場合はいつでもマイケル・ジャクソンというフィルターを通して見られちゃうでしょ?そりゃキビしいよね圧倒的に。

マイケルの子供だっていうことが、どういうことか、一番よくわかってる彼にすればさ、きちんと礼儀をわきまえて、誰に対してもやさしくできるようにしつけることは、彼の中では優先順位一位の最重要課題だったんだと思うんだよね。そこは一見矛盾してるようでも、無邪気と分別を天秤にしたら、「ジャクソンの子供」は無邪気だけにかまけてられないっていうか。


Y:あと、ビルとジェイボンの本の中で、子供たちは、マイケルが「普通のひと」じゃないってこともわかってた。っていう表現もあったよね。子供たちは、自分の父親が「マイケル・ジャクソン」だって知らなかった、っていう話もあったじゃない。でも、やっぱりそうじゃなかったんだね。ファンの人があれだけ、「わぁーーっ」と来るんだもんね。やっぱり、お父さんは、どこか違うって思うよね。


A:マイケル・ジャクソンっていう人が、どれだけ音楽界に功績を残したかっていうことはわかってなくてもね・・


(⑥に続く・・・)



(*)プリンスは上手くやってたけど・・



2010年11月、キャサリン、ジョーと共に3人が初めてインタビューを受けた。

オプラ:彼はどんなパパだった?しつけに厳しい人だった?あなた達はうまくやり過ごせたかしら?

パリス:厳しかったです。

ブランケット:おにいちゃんはいろんなことをうまくやり過ごしたよ。(プリンスを指して)

オプラ:おにいちゃんはうまくやってたのね?あなたもうまくやれたの?

ブランケット:あー、うーん

スクリプト:https://vindicatemj.wordpress.com/




(14:42~)3歳ぐらいのプリンスに、

ビデオの操作や撮影も教えようとするマイケルパパ




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by yomodalite | 2017-06-21 07:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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akimさんとのおしゃべりの続き・・・


写真は「Searching For Neverland」と、番組のプレミアムイベントのもの。


A:akimさん Y:yomodalite


Y:デンジャラスツアーを中断した後、ヒストリー期のマルセル・マルローとの「HBOスペシャル・ワンナイト・オンリー」の中止とか、2000年以降、シュムリーの本にも、ビルとジェイボンの本にも、マイケルが色々な仕事を断りまくってたことが書いてあったけど、打ち合わせが進んでいても、最終的にすべて断ってしまった仕事がすごく多かったみたいね。


マイケルが、デンジャラス・ツアーをアメリカでやらなかった理由は、子供の時から国内ではやり尽くしてて、他の世界でやってみたくてしようがなかったってこともあるけど、もうひとつは、喉にしても、ダンスをする肉体にしても、すごくキツかったってことも大きかったような気がするんだけど・・


喉に関しては、普段から小さな声でしゃべるとか、すごく気を使ってたけど、それでも、すごく小さい頃から酷使していて、レコード会社は、声変わりする前にたくさん録音しておきたいし、声変わりしてからも、以前の高音を出し続けなくてはならない上に、ダンスしながら歌わなくちゃならない。しかも、マイケル自身が、両方とも完璧を求めてて、そうでなくては、マイケル・ジャクソンじゃないっていう、マイケル自身の「マイケル像」もあるし・・。


A:たしかにそうかもね。2001年の30周年コンサートのときって、体調も悪かったみたいだけど、相当歌はキツかったっぽいもんね。


Y:うん・・あれよりもずっと前からキツかったんじゃないかな。英米は「口パク」に厳しいし・・ただでさえ、自分に厳しい環境で、これ以上消耗したくない、もっと別の世界のひとに、自分を初めてみるひとに見てもらいたいし、自分ももっと世界を見て回りたい。


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A:ヒストリーツアーはわかるんだよね。ほら、They Don't Care About Usで、プリズン描写の是非問題でSFは放送されないとか、ユダヤ人のいわゆるJew me, Kike me問題とかで、勝手に意味を取り違えられて、それに対して謝罪を求められたりとか、本当にこの国ではマイケルの意図がなーんにも伝わらないっていうの?「そうじゃないんだってば。なんでそうなるんだよ」って言いたかっただろうし、この上ツアーなんかしたら、よけい攻撃されるっていうか、とにかくすっきりした気持ちで国内ツアー頑張るぞっていうには問題がありすぎたという気がするんだよね。


Y:ただ、その手の問題で放送中止になるのも、謝罪を求められるのも、よくあることで、マイケルもエッジの効いた表現がしたかったわけだから、想定外ということはなかったんじゃない? 前回のデンジャラスツアーをやらなかったのなら、よけいにヒストリーツアーはやるべきで、やった方がイメージ回復になったと思うんだよね。やっぱりエンターティナーとして、この人は素晴らしいひとなんだって、大勢の人が再確認できるから。


最近ブログで、玉置浩二がデンジャラスツアーのときの衣装を着てたっていうの紹介したんだけど、彼も、数年前までずいぶん「奇行」のことなんかで叩かれてたじゃない。でも今それをかなり払拭できたのは、やっぱり彼の歌の力だったでしょう。やっぱアーティストは、自分本来の仕事で対抗するのが一番いいと思うんだけど、マイケルが、それをやらなかったのは、「ライブ」で今まで以上のものを出すっていうことに、特に「喉」に関しては、彼自身そうとう不安だったというか、すごく神経質になってて・・


バッドツアー以降、マイケルが生歌で歌うのって、例えばジャクソン5メドレーとか、オープニングの「Jam」とか、いわゆる歌唱力を聴かせる歌じゃないもんね。


A:歌唱力を聴かせるっていうと、たとえばどんな・・・

Y:たとえば、「You Are Not Alone」とか、

A:私は「I' ll Be There」は歌唱力を聴かせてると思うんだけど・・

Y:でも、あれがヒットしたときは、子供の頃だから、レコードとは違うよね。レコーディングとの差がわかるようなのが、嫌だったりして。


A:ああーー、レコードとの差がないようにしたいと。ベアデンとのからみのシーンでもレコードと同じでなくちゃって言ってたよね。


Y:あのシーン大好き!でも、あのとき、ベアデンにはレコードと同じでなくちゃって言ってたくせに、結局マイケル「もっとゆっくり」とか言い出して(笑)、「You gotta let it simmer「ベッドからはいでる感じ」・・とか、Just bathe in the moonlight. 「月光に浸る感じ」とか、なんだかんだ、レコードと違ってること求めてたよね(笑)。それで、THIS IS IT の「Way You Make Me Feel」は、これまでとはまた一味ちがう素敵な感じに仕上がって・・。だから、あれは、「君が勝手に変えないで(すべては僕が決めるんだから)」っていうことかもしれなんだけど(笑)


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A:たしかにね。でも、THIS IS ITのときは、歌う気だったんじゃない?ベアデンとか、オルテガが、全部歌わなくたってって言っても、「いやいや、絶対歌う」って、マイケルは言ってたらしいし。実際はどこまで生歌でいくつもりだったかはわからないけど。仮にやっぱり無理かもなって思う瞬間があっても、THIS IS ITのスタッフは、マイケルが完璧なステージにするためのそういう努力を厭わない人で、現に完璧だったということを、フィルムに残してあげたい、みたいな気持ちが強くあったんだと思うけど・・・どうなのかなぁ。


Y:バッドツアーや、Bad期のグラミー賞のときの「Man in the Mirror」のパフォーマンスはスゴかったけど、


30th Annual Grammy Awards





Dangerous期の大統領就任パーティーのときの「Gone To Soon」は、すごく素敵なんだけど、マイケルに期待されてる圧倒的なレベルとか、何十年も維持され続けた「KING OF POP」の称号を考えると、やっぱり「歌だけ」だと少しものたりないというか、これ以降、マイケルの生声で「うわぁーー!」ってなったことなくて、彼も避けてきたように思うのね。


Clinton Gala 1992


「Gone To Soon」は1:05~



他のアーティストは生演奏をするだけだけど、マイケルは自分のライブの一個一個を「伝説」として遺るものじゃなきゃって考えてたと思うんだよね。THIS IS ITでは、フィルムがマイケルの絶対条件だったけど・・リハーサルであっても、瞬間、瞬間の素晴らしさをなんとか記録できないかっていうのは、マイケルの中に強くあったんじゃないかな。

A:This Is It では、一瞬だけどアカペラで「Speachless」を歌う場面があるよね? あれは、ほんの一瞬なのに「うわぁ」ってなったよね。


Y:うん!もう一瞬なのに絶対に忘れられない瞬間!!だから、ビルやジェイボンが、マイケルの歌っているのを聞いて、すごく感動していたり、THIS IS ITのリハーサルでも、素晴らしい瞬間がいっぱいあったと思うんだけど、歌も踊りもあるステージで、それを何日もっていうのはね・・それで、フィルムにすごくこだわってたんじゃないかな。


私ね、マイケルの地声みたいなのを聞いてると、このひとはレコーディングのときに、100%以上の力でやっているんだなって思うんだよね。完璧とかじゃなくて、それ以上っていうか・・・


声とか、肉体的な部分だけでなく、マイケルが「無理だ」って思うのは、他のアーティストとは基準がちがってて、彼は、子供アイドルではなくなったことで味わった挫折もあって、もう二度と以前の方が良かったなんて言われたくなかったんじゃないかな。


常に自分の過去と比べられるっていうのは、ポール・マッカートニーもそうだったと思うけど、彼の場合は、自分が挑戦したいことを優先して、完成度には、あんまりこだわらなかった。でも、マイケルは常に「最高!」しか求めなかったから・・。


マイケルのツアーは、リハーサルどおりを重要視してて、それは彼の「完璧主義」からきてると思うんだけど、でも、そういった「完成度」は、ツアーごとに終わっていて、彼は繰り返すことにも慎重だった。


「一回性」っていうのは、音楽でもなんでもアートにとって重要なことだけど、長く活躍しているアーティストにとっては、むずかしいことだよね。ファンからいつも求められることを拒否しないといけないから。


A:一番しんどいときに、一番完璧を目指そうとしたっていうのはね・・・目指すこと自体は、マイケルらしいとは思うけど・・でも、最終的には断れなかったよね。このツアーは。いろんな意味で。


Y:断れなかったともいえるけど、やりたかったっていうのも本当だと思うんだよね。コンサート自体じゃなくても、リハーサルであっても、瞬間、瞬間の素晴らしさをなんとか記録できないかっていうのは、マイケルの中にもあったんじゃない。リハーサルからフィルムを入れるっていうのは、彼の希望だったんだから。

『THIS IS IT』で、50歳のマイケル・ジャクソンという「未知の世界」を垣間見た経験は、めちゃくちゃ素晴らしいパフォーマーを見たっていう感動とはまったく次元が違ってて、こんな風に何年経っても、その感動について考えさせられちゃうのは、肉体的にどうしても衰えていく部分と、それでも、前進していくことが出来る「何か」とか、「どこか」っていうのを、マイケルは普通の天才とはまったく違うレベルでずっと求めてきたからじゃないかな・・きっと永遠にそこまでしかわからないような気はするけど。


A:ダンスに関しても、2002年の赤い手袋の「Dangerous」が、最後だったよね・・。








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by yomodalite | 2017-06-20 07:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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akimさんとのおしゃべりの続き・・・


引き続き、写真は「Searching For Neverland」からです。


A:akimさん Y:yomodalite


A:マイケルとメディアの問題も、ファミリーのことも、マイケルが自分の神秘性を守るという行動が、ファン以外から見ると、やりすぎたっていう部分はあったんじゃないかな。


Y:うん、、ファミリーがマイケルに関わりたかったのに、マイケルが拒絶した理由は、薬物の問題とか、自分の健康状態について指図をうけたくなかったってことと、一緒に仕事をしたくなかったからだと思うんだけど、それは、家族が嫌いだっていうのとは少し違ってて、


前回も言ったけど、ファミリーや、側近、マイケルとビジネスを話し合った大勢の人たちが、彼のために「やるべきだ」と思ったことを、マイケルが「やらなかった」のは、彼にしかわからない特別な戦略ゆえのことで、


実際、マイケルの後半生で、問題ばかりが大きくなった理由は、マイケルがエンターテイメントの仕事をまったくしなかったことも大きな要因なんだよね。


昔から、芸能ニュースっていうのは、ないこと、ないこと組み合わせて、自由に作っていいってことになってるんだけど、コンサートの情報とか、レコード・リリースとか、ときどきホントの情報もあるから、アーティスト側にとっても、持ちつ持たれつの関係なんだけど・・


マイケルの場合「Bad」以降、『Dangerous』から国内ツアーを一切やらなかったからね。


A:そうだよね。


Y:’93年の疑惑も、デンジャラスツアーの最中で、アメリカを離れていたときだったけど、国内のツアーをやっていたら、事前に抑えられていたり、発覚後のメディアの盛り上げ方も少しは違ってたと思うんだよね。国内のプロモーターがいれば、ツアーの宣伝のためにポジティブな情報をメディアに供給できるし、チケットだけでなく、訪れる街も潤うから、あちこち色んなコントロールが効くんだけど、それがなくなっちゃったから・・。


少年に対する性的虐待っていうのは、現代アメリカでは、殺人よりも「悪魔化」されてるから、いったん疑われたら、無実を完璧に証明するのはすごく困難で、メディアはいくらでも「ニュース」に出来ちゃう。


A:『HIStory』から、アメリカ公演がないのはまだわかるけど、『Dangerous』から国内ツアーがなかったっていうのはホント信じられない。北米だけでも回ってればよかったのにね。なんでデンジャラスツアーをやらなかったのかが、ホントわからない。


’91年の11月に『Dangerous』が発売されて、’92年の6月から「デンジャラス・ツアー」が始まって、93年の2月がオプラの番組で、その年の8月に性的虐待疑惑が持ち上がって、11月のメキシコシティでツアーは打ち切りになっちゃうんだけど、もっと前に米国で出来たはずだし、一回でもやっていればね・・。


Y:マイケルの人気は「Bad」から陰りを帯びてきた、なんて書かれてることがあって、びっくりすることもよくあるんだけど・・


A:あれね、なんか陰りの基準が違うよね。


Y:マイケルの曲の中でももっとも言及が多いと言われる「Black Or White」も、皮膚病のことや、ネバーランドがマイケル個人の遊園地というだけでなく、病気の子供たちのための場所だったことが紹介され、歴代最高視聴率だった「オプラショー」も、「Heal The World」の合唱が感動的で、試合よりも高視聴率だった「スーパーボウル」も、クリントン大統領の就任記念パーティーで、大統領にも影響を与えるぐらいだった、それこそ全盛期だったと言ってもいいぐらいの『Dangerous』期が、このあと踏みにじられることになったのは、


わかりやすい理由としては、「’93年の疑惑」だと思うけど、その疑惑を大きくしたのは、『Dangerous』というアルバムにも原因があったと思うのね。


「人種問題」(Black Or White)は、はアメリカの統治や、分断政治に欠かせないし、人々に勝手に結集(Jam)されたら困るし、戦争嫌悪や世界平和(Heal The World)は、アメリカという国にとって、本当に危険(デンジャラス)だったんじゃない? 


なんせ、アメリカは、それから10年後の2001年の同時多発テロ事件(通称911)でも、「イマジン」を放送禁止にしちゃう国で、実際に、ジョン・レノンもマイケルもFBIから監視されてたけど、『Dangerous』が発売された’91年は、イラクを空爆して湾岸戦争が始まった年だったんだよね。


「’93年の疑惑」なんて、ちょっと調べれば、簡単にマイケルの無実が証明された案件なのに、デンジャラスツアーを国内でやらなかったこともあって、マイケルのスタッフは、当時、米国メディアに影響力をもたない人たちになっていたし、


2004年に再度蒸し返されたときは、人気のないブッシュ大統領の再選がスムーズに進むように、マスメディアとしては、大統領選挙以上の話題として、ちょうど良かったというか、今流行りの「忖度」?(笑)



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それと、マイケルはメディア嫌いにもかかわらず、ミュージックビデオという流通商品を創って、テレビの音楽放送も、ラジオの音楽番組も席巻してたでしょう。それで、自分たちが「発信者」だって思ってるマスメディアに嫌われたってところもあると思うのね。そういう意味でも「’93年の疑惑」は、メディア全体が「マイケル・バッシング」へのハンドルを切るのに都合のいい材料になったというか・・有名番組のホストって、この人が登場したら、必ず眉をひそめるような表情をするとか、態度ひとつとっても、みんな決められてる感じがするしね。


A:わかる~、プライムタイムのダイアン・ソーヤとかねー。私が印象に残ってるのは、2006年にマイケルがMTVアワードで来日したとき、どこかの放送局が密着取材してて、MTVだったかな。マイケルがビックカメラかなんかで買い物したときに、周辺の人だかりにインタヴューしてたんだけど、そのとき8割ぐらいが「マイケル迷惑ですよね」みたいな否定的な言葉ばっかりひろっててね。「お騒がせマイケル・ジャクソン」みたいなイメージばっかりなんだよね。でも、そういった否定的な言葉をマイクに向かって言ってた人たちだって、ひとまとめにして、マイケルの前に出したら、「うわぁーーー!マイコー!」っていう歓声になるんだよね。人のムードのようなものって、一瞬にして変わるし、マイケルは常にそういう人たちに晒されてきたんだよね。


Y:路上を騒がすようなことは、マイケルに限らず、誰であっても絶対に「良くないこと」こととして報道するっていうのはメディアの絶対ルールだからね。路上インタヴューでは、忌憚のない意見を求めてるなんてことはなくて、計画的に「街の声」を拾う。東京ではほとんど「銀座」か「新橋」でインタビューするけど、大阪では、絶対に「天神橋商店街」とか「京橋」で、面白そうなことを言いそうな人に声をかけるw。東京が銀座や新橋だったら、大阪でも中之島や北新地でサラリーマンに聞けばいいのにって、いつも思うんだけど、大阪のテレビ局では、スーツ着てる人には「絶対に声をかけるな」っていう鉄のルールがあるよね(笑)。


とにかく、どちらにしろ最初から狙い通りの人にマイクを向けて、プラン通りの「言葉」を取るからね。





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by yomodalite | 2017-06-19 07:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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akimさんとのおしゃべりの続き・・・

ビルとジェイボンの本を元にした番組「Michael Jackson:Searching For Neverland」が放映されましたね。


◎エステートが声明、LifetimeとNetflixのプロジェクトは許可していない


ランディとマイケルの衝撃的なエピソードは、そこでも取り上げられたみたいで・・

写真は、番組でマイケルを演じた、ナビの熱演や、研究熱心がわかるようなものを、話の内容とは関係なく選んでます。


A:akimさん Y:yomodalite


Y:ところで、どうしてランディって、あんなにマイケルから嫌われたんだと思う?マイケルとランディのあそこまでの確執ってなんだと思う?


A:わかんない。全然わかんないけど、彼がメゼロウを連れてきたのは間違いないし、裁判のときは確実に信頼してたんだと思うんだよね。裁判の間はね。カシオ本でも、ランディがやってきたのは裁判のときだって・・・


Y:この本で描かれてるような、マイケルがこれほどまでに家族と会わない、会いたくないっていうような描写を読むと、ジャクソンファミリーはどれだけ酷いんだって思う人もいるかもしれないけど、それは違うと思うんだよね。


A:ちがう、ちがう、私もそれは全然違うと思う。


Y:マイケルがメディアでとりあげられるような問題にしても、裁判にしても、マイケルだけの問題ではなくて、家族にとってもすごく重要な問題じゃない。彼らがマイケルを助けたいっていうのは、絶対に嘘じゃないし、間違いないんだけど、自分たちの問題でもあるから、自分の言葉として語りたいのは、マイケルを利用するもしないも、当然の要求だしね。


A:そりゃそうだよね。特にジャーメインなんかそうだよね。


Y:だよね(笑)。で、ランディは特に裁判に多く関わったから、それについて語りたいことがいっぱいあったと思うんだよね。だけど、マイケルはそれについて100%「No!」だったんじゃない、きっと。それで多分、ランディ的にはいろいろ進んでたことが、すべて「Out!」になっちゃったんじゃないかな。「MJJ Source」とか、マイケルから発信するメディアとして、ランディを中心に発足したのに、すぐ終わっちゃったもんね。



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マイケルはウェブサイトの出来に不満だったってこともあるのかもしれないけど、出来不出来っていう以前に、マイケルは、ランディが発信したかったことをすべて止めちゃったんだと思うのね。そこでふたりの間に確執が生まれ、ランディには借金が残ったんだと思うんだけど。


A:私もそう思う。そういうお金のトラブルが起こったのは間違いないんじゃない。


Y:あの頃のサイト構築は、今と違ってもっと金がかかったし、特にマイケルが満足するようなものってことになると、余計に凝った作りになって・・。それだけでもランディは大分持ち出してたんじゃないかと思うんだよね。


A:基本、マイケルって、人にやんや言われるのが嫌な人だから、誰かと組むと、自分の判断に従ってもらわないと嫌っていうか。家族には尚さらそういう気持ちが強いしね。


Y:どう考えても、ジャクソン・ファミリーって、他の芸能人や、有名人の家族に比べれば、みんな性格もよくて、ちゃんとしてる家族だと思うんだよね。こんなにたくさん兄弟いて、これほど全員優秀っていうのも、両親の教育がよっぽどしっかりしてたからだとも思うんだけど、マイケルの拒絶のしかたを見ちゃうと、悪くいう人がいっぱいいるのが可哀想になっちゃうんだよね。でも、実際のところ、ファミリーが悪いっていうよりは、やっぱりマイケルの方が「変わってる」んだよねw。


ファミリーや、側近たちや、その他、マイケルとビジネスを話し合った大勢の人たちが、彼のためにも「やるべきだ」と思ったようなことを、どんなにリスクを抱えても、マイケルが「やらなかった」のは、彼にしかわからない特別な戦略だったんだと思うんだよね。(←後述)


A:パフォーマンスじゃなくても、ファミリーでなにかしようっていうの、リアリティショーとか、まぁ、そういった話題作りにしても・・とにかくマイケルは頑なに断ってた・・


Y:ファミリーは、現代の他のアーティストがあたりまえにやっているようなことを、ほんの少しだけマイケルにもやって欲しい、それが「変人扱い」されていることを払拭することにもなるのに、マイケルはどうして、そこまで嫌がるんだろうって思うファミリーの気持ちは、すごくわかる気がする。


A:でも、マイケルは、母親以外のいうことはホントに聞きたくなかったみたいだよね。


Y:お母さんは、自分の考えをしっかりもっている人かもしれないけど、指図をするひとじゃないもんね。結局、マイケルは、整形のことにしろ、宗教からの脱会に関しても、母親のいうことを聞いてないし・・・


A:あのお母さんは、マイケルが強く言ったら、自分の意見をそれ以上言おうとはしないんだよね。でも、兄弟たちは、どうしても納得しないから、それで会いたくなかったのかな。



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番組のプレミア・イベントでのナビ


Y:マイケルはジャネットが一番仲がいいっていう話が好きなファンが多いけど「Scream」で共演したあと、ジャネットと、特にふたりで話をした形跡はないみたいだよね。逆に「やっかいな姉」として、少年への疑惑を大きくしたことでも、ファンから恨まれてたラトーヤに関しては、それなりに良好な関係が続いていて、ここでも、他の兄弟たちとは、行動を共にしてなくて、彼女とだけは別ルートがあったぽいよね。


ラトーヤは、マイケル本の出版とか、マイケル絡みの商売もしてるから、避けられてもいいような気もするんだけど、この姉に関しては、マイケルは妙に甘いっていうか、不思議なんだよね。バーニー先生の本で、ラトーヤに会ったとき、すごく綺麗だったって褒められたときも、きれいなだけじゃなく「彼女はいいひとなんだ」って言ってたしね(2001年~2005年の会話)



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A:毒にも薬にもなりそうにない、リビーやジャッキーと距離をおく理由もわからないんだけど、何を言われても、自分をダシにして、っていう風にしか捉えられなかったのかな・・


Y:不思議だよね。リビーに関しては、名前が出てくることさえないよね。あんなに綺麗で、優しそうで、貞淑な妻であり母でもあり、しかも、年齢的にマイケルたち兄弟のお母さん役もやってたはずなのにね・・


A:ジャッキーに関しては、今回の本の中でボディガードたちも、すごく紳士で、挨拶もしっかりしてて、とか言ってて、、シルク・ド・ソレイユの『イモータル』の現場に行ったときも、弟のためにこんなにしてくれて、、って泣いたりしてて、弟はシルクが大好きだったし、みんなホントにありがとう。って言ってるのをイモータルの特番で見たときも、この人はホントにいいひとで、1ミリもマイケルをダシになんて考えたこともないのに、マイケルから十把一絡げに避けられてかわいそうって思ったよ(笑)


レイモンと新しい弁護士(グレッグ・クロス)に対してマイケルは、「父さんに来てもらって蹴り飛ばしてもらいたいよ」って言ってたじゃない? やっぱり、マイケルがそうとう複雑なひとだからね。ジョーパパに関しては、かつては、キャサリンママに対する不誠実とか、気に入らないところはいっぱいあったかもしれないけど、後半はそうでもなかったというか・・


Y:うん。ビルやジェイボンが、ジョーパパを見て、「こいつがマイケルを叩いていた奴か」なんて、言われてるのを見ると、すごくかわいそうになっちゃうんだよね。マイケルはなんでもよく出来たし、ジャクソン5の中で、一番年下でありながら、家族の生活を支える「大黒柱」として、仕事の量も責任も多いのに、それを全部こなしていたわけだから、自分が怒られることに納得がいかないし、頭がいいから、力でねじ伏せられるのが、すごく嫌だったと思うけど、男兄弟が5人もいたらねぇ・・足が不自由で、物静かなお母さんの負担を考えても、お父さんが厳しくしてないと、周囲の環境に染まって、苦しい今の生活から抜け出せないし・・。


A:当時の、1950年代とか、60年代のしつけってことを考えれば、父親の強烈なリーダーシップが重要だって考えるのは、当然だしね。マイケルは、繊細なうえに優秀だったから、父親に対して、不満が大きかったと思うけど、同じことをされていても、ジャーメインやマーロンはあんまりそうは感じてないもんね。


Y:ムチの折檻って、今は信じられないって人が多いと思うけど、エホバの証人では、正式に認められているしつけ方法だし、学校の教室に、児童の教育に使う専用の「ムチ」があったのも、そんなに昔の話じゃないしね。


マイケルが、ジョーパパが会いに来たとき、あんなに拒否していたのに、ランディを説得するときだけは呼ぼうとしたのも面白いよね。ジョーパパも、あれだけ拒否されてて、呼ばれてもマイケルに会えるわけじゃなくて、ただ、ランディを説得するためだけなのに、飛んで来ちゃうっていうのも、なんか、不思議な信頼関係だよね。




ランディ登場のエピソード





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by yomodalite | 2017-06-16 08:03 | MJ考察系 | Trackback | Comments(2)
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読者限定ブログで公開している『Remember the Time』(MJのボデイガードが書いた本)をネタに、akimさんと4時間ぐらいおしゃべりした内容を、ちょっぴり公開します。


A:akimさん Y:yomodalite


Y:2006年頃からのマイケルの写真、いっぱい見てるつもりだったんだけど、彼ら(ビル&ジェイボン)の顔は記憶がなかったんだよね。ビルに関しては、なんとなくそれらしいのがあったけど、ジェイボンは一度も見かけたことがないんだけど・・・



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テレビ出演時:マイケル・アミール(左)ビル(中央)とジェイボン(右)



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(左)ビル?



A:ビルは2006年からだけど、ふたりが揃ったのは2007年からだよね。


Y:裁判のとき証言してたボディガードが2人いたでしょう。でも、ビルとジェイボンは、彼らとは違うんだよね。パームスタジオのエピソードのときも、すでに2人共いたはずなのに、あの頃の写真に写ってるのも、ビルとジェイボンじゃないよね。裁判で証言したマイケル・アミールはよくマイケルと一緒に写ってるんだけど。



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MJのアシスタントでセキュリティチーフだったマイケル・アミール・ウィリアムス



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911通報をしたボディガード、アルベト・アルバレス




A:ボディガードが変わるのは、本の中ではこれ以降の話で出てくるんだよね。ビルとジェイボンは、たしかロスには行ってないか、常駐はしてないみたいな・・・



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(左)マイケル・アミール(右)ビルじゃない人w




今紹介してるところは、ちょうど、ビルに全権が移ったぐらいのところなんだけど、どこかの時点で、マイケル・アミールに移行して・・



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(左)マイケル・アミール(中央)アルベト・アルバレス


ビルたちは、自分たちが最後まで一緒にいられたら、みたいなことも言ってたみたいだけど・・




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(右)ビルでもジェイボンでもアミールでもない来日時のボディガード




A:2006年も、2007年も、同じプロモーターの人(ポジティブプロダクション代表ブロデリック・モーリス)が絡んでて、2007年の来日では、マイケルと彼はなんらかのビジネスの話を詰めてたらしいね。


Y:そのビジネスがポシャったから、あの本あんなに高かったのかw



A:この頃のマイケルって、パフォーマンスではない、ビジネス関係で来日してたんだと思ってて・・レイモン・ベインが、あのファン・パーティーが超高額ということを、実はマイケルに知らせてなくて、彼はあくまでもビジネス・ミーティングだと思ってて、ファンたちが歓迎してくれることは知ってたけど、そんなに高額だとは知らなかったんだとかって古くからのファンには言ってた、みたいな話は聞いていたんだけど・・


Y:でも、ビルとジェイボンも日本のファンはマイケルに会うだけで高額なお金を払うんだ、とか知ってたわけだから、マイケルがわかってないわけないよね。


それと、エリザベス・テーラーのパーティに出るための衣装とか、すごく張り切って有名デザイナーに依頼して作ってるのに、MTVアワードに関しては、来る前からわかってるのに、来日してからあわてて、衣装を調達したりしてるでしょ。テレビ中継もあるし、帰国後、世界ではじめてステージに立つことで注目もされてたのに・・




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Japan MTV Award

衣装がチープでも、MJはゴージャス!




A:まぁ帰国したばっかりってこともあるんだろうけどね・・


Y:でもさ、帰って来たところだったにしても、エリザベス・テーラーのパーティーのときは、ロベルト・カヴァリに注文してわけだし、それこそ、THSI IS ITのときもお願いして、これまでもずっとやってきたマイケル・ブッシュに声かけたって良かったじゃない。サイズもそんなに変わってないんだし・・・


A:そこは謎だよね。


Y:テレビも入ってるのに、直前にユザワヤで買ったような材料で、衣装作らせるなんてね・・


A:混乱してるよね。


Y:うーーん、混乱なのかなぁ、あの高額のファンパーティーのときはスペシャルな衣装だったじゃない?あれは、お金が入るってわかってるけど、MTVアワードの方は、マイケル側からねじ込んだから、出演料がそんなに出ないとか・・いや、そんなことないか・・だって「Smap×Smap」と同時期だもんね。あれは、フジテレビがすっごく高額なギャラ払ってるから・・ただ、同時期とはいえ、それぞれスポンサー別だから、ギャラ別にシビアに考えてるってことはあるかな・・


A:ファン・パーティの衣装は、あのランディが突入したことで、行けなくなっちゃったエリザベスのパーティで着る予定だったのを流用してると思うんだよね。


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マイケルのためにデザインしたロベルト・カヴァリのデッサン画



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ファンパーティーの写真



Y:あ、そうなんだ・・。でも、MTVアワードも別に歌うわけじゃなかったんだから、あーゆースーツでも良かったのにね。


A:カヴァリの衣装は、出来上がるまで何ヶ月もかかってるんだよね。彼に注文したとき、マイケルが「もう僕はローファーとか、白い靴下とかうんざりなんだ、スエードのアンクルブーツとか履きたんだよね」とか言ったらしくて・・カヴァリがそれに合うような衣装を考えてデッサンを見せたら、マイケルも大喜びしてくれたんだけど、それをロンドンのワールドミュージックアワードのときに着用したマイケルは、観客が盛り上がってることに気分が高揚して、そのジャケットを、会場のファンに投げちゃったんだよね。




ジャケット投げは11:45~



それで、カヴァリがあんなに時間かけて作ったのに・・みたいなエピソードを自分のサイトで公開してたよ(笑)





Y:日本のMTVアワードは、帰国後世界初とはいえ、ほとんど日本人しか見ないからね。ロンドンの方がお金かけるのは仕方ないか・・


A:うん、帰国してからはじめて公の場に出るっていうイベントだったせいで、マイケルもまだ気持ちが乗ってなかったっていうか、まだ怖がってるっていうか・・・


Y:じゃあ、あの日本のMTVアワードで力を得て・・みたいな(笑)、あれがあってのロンドンってこと(笑)


A:そうそうそう・・私はずっとそう解釈してる(笑)


Y:はいはいはい、たしかにね(笑)


A:そう、あの日本のファンの歓迎があって、僕はまだ大丈夫、みんなまだ僕のこと好きでいてくれる、みたいな・・ジャパンMTVアワードも、別にマイケルのファンが集まってるわけじゃないし、色々なアーティストのファンが見に来てるのに、自分が出て行ったら、「えーーっ、マイケルぅ?」なんて言ってた人でも、これだけ盛り上がったっていうのは、あの頃のマイケルにはすごく力になって、これなら、ロンドンも絶対にイケる!という自信になったんじゃない?




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by yomodalite | 2017-06-15 07:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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(4)の続き・・・

アメリカでよく言及されるジェネレーションの区別には、


・ベビーブーマー/1946~1964年頃、第二次世界大戦後からケネディ時代に生まれた世代

・ジェネレーションX/1965~1970年頃に生まれた世代

・ジェネレーションY/1980~1995年頃で、ベビーブーマーの子供世代

・ジェネレーションZ/1995年以降の生まれ


があり、マイケル自身はベビーブーマーですね。

2002年に書かれた本によれば、ヒップ・ホップ・ジェネレーションは、1965年から1984年の間に生まれたアフリカン・アメリカンという定義があるのですが、それは、2001年に、マイケルがオックスフォード・スピーチで語った「O世代」(「彼らは、ジェネレーションXからバトンを受け取った世代で、富も、成功も、おしゃれな洋服も、かっこいい車も、なんでも持っているけれど、内面に虚しさに、傷つき痛みを感じている」)に重なる世代でありながら、そこから取り残された、多くのアフリカ系アメリカ人でした。


・なぜ、黒人社会はいつも警察と対立しているのか?

・銃やドラッグが身近にあるなど、どうして黒人社会はギャングから抜け出せないのか?


といった疑問を持った方も少なくないのではないでしょうか?黒人社会にこれほど銃がはびこっているのに、銃規制に反対する勢力として取り上げられるのは、いつも「全米ライフル協会」という白人中心の団体です。


また、ヒップホップの歌詞に少し興味がある人なら、そこには、政治について語られているものが少なくなく、あまり見聞きすることがない宗教的な言葉や、陰謀論が多いことに気づかれた人も多いでしょう。


今回はそういったことに関連がありそうな、『スリラー』から『ヒストリー』までのヒップホップの宗教と政治について。引き続き『ヒップホップ・ジェネレーション』の内容を中心にまとめてみます。


◎ヒップホップの宗教と政治と・・・


1980年の大統領戦おいて圧倒的な勝利をおさめ、レーガン時代が始まった頃、戦争や核兵器の不穏な噂はあったものの、ニューヨークでは若者文化がひとつにまとまり、人種が分裂することはなかった。イギリスでは、セックス・ピストルズの仕掛け人のマルコム・マクラーレンが、バウ・ワウ・ワウをデヴューさせ、トーキング・ヘッズのサイド・プロジェクトのトム・トム・クラブは、「Genius of Love」をヒットさせた。



Bow Wow Wow - Chihuahua





Tom Tom Club - Genius of Love





白人アーティストのブラック・ミュージックへの賛美は続き、1982年のアフリカ・バンバータの「プラネット・ロック」の大ヒットへと繋がっていった。ヒップホップは、都市部のマイノリティだけのものではなくなり、ダウンタウンのクラブを再統合し、社会的落伍者を洗練されたアートの世界へ押し上げていく原動力となったものの、黒人との連帯を好まない白人ロックファンも大勢いて、人種的クロスオーバーの実現には至らなかった。


そして、俗にレーガノミクスと言われる富裕層の減税と、軍事支出の増加と並行して行われた社会保障支出の縮小、そして、麻薬撲滅政策は、黒人社会に壊滅的な被害をもたらしていく。


ヘロインは、第二次大戦中から急激に輸入が減少していたが、資本主義陣営と、社会主義陣営が真っ向から対立した冷戦時代に入ると、アヘンやコカインがクーデターの反革命運動のための資金調達にもってこいの商品となり、この頃設立されたCIAは、麻薬密輸組織を通じて各国の反共勢力と手を結ぶことが多々あった。


イタリアの反共組織もCIAと関係を結び、アメリカを国外追放されたマフィアの大物が糸を引いたことも相まって、ヘロインの密輸ルートは再び構築され、軍隊とゲットーで爆発的に広まっていく。


販売から得た利益は、東南アジアの反共軍事活動へと還元され、地球の裏側で起こった戦争によって、ゲットーではギャングがうろつき回り、ブロンクスはドラッグの密売人と常習者の世界へと様変わりした。


戦後のコカイン取引は、カストロ政権から逃れたキューバの反革命活動家たちによって始められた。1976年、ジャマイカのDJ、ディリンジャーの「Cokane In My Brain」が大ヒットし、「富とステータスの象徴」だったコカインは、一般中流家庭のアメリカ人にまで手が届くようになった。その後、供給過剰を調節し、収益を上げるために、高価なものから安価なものまで、さまざまな新種のドラッグが誕生した。



DILLINGER - COCAINE IN MY BRAIN





そして、1982年の終盤、顧客は富裕層から労働者へと移り変わり、大衆のために作られたドラッグは、ストリートを悲惨な状況へ変化させる。


アフリカ・バンバータの「プラネット・ロック」が大ヒットを記録していた頃、戦争がもたらした新たなドラッグ、コカインの塊(ロック)でできた、後に「クラック」と呼ばれるようになる、もうひとつの「プラネット・ロック」が形成されていた。


ランDMCがオールドスクールを抹殺し、フーディニや、LLクールJらとともに、ニューヨークからツアーを始めた頃、ロスアンジェルス(西海岸)で人気のミックステープでは、フーディニの「Freaks Come Out at Night」の替え歌「The Clucks Come Out at Night」が人気になり、UTFOの「Roxanne Roxanne」は、「Rockman, Rockman(ロックマンはクラックの売人)」へと変わっていたのだ。


Whodini - Freaks Come Out at Night (1984)





ヒップホップのビートに、ストリートで叩き上げられたモンスターの物語が綴られるようになり、ヒップホップは、反抗期へと突入していく。


白人の麻薬使用者の数は、黒人を大きく上回っていたにもかかわらず、レーガン政権時代に成立した厳格な麻薬取締法では、黒人の使用が多いとされる固形コカイン「クラック」に対して、粉末コカインの100倍の懲役年数が課せられることになったのだ。


黒人の家庭では、父親や息子が逮捕され、残された家族は精神的にも経済的にも大きな被害を受けた。そして、貧困のサイクルから抜け出せないゲットーの子どもたちは、唯一の選択肢として麻薬取り引きを始めてしまう・・・。


1990年代中盤、ファイブ・パーセンター(*1)のストリート・サイファー(*2)や、アフリカ・バンバータが始めたズールー・ネイション(*3)の勉強会では、「新世界秩序」が話題になっていた。黙示のときが差し迫っているのだと。


ウータン・クラン、モア・ディープ、アウトキャストらが繰り出すサウンドは、閉塞感に満ちた時代の空気にマッチしていた。若者たちは、迷彩柄のジャンプスーツにコンバット・ブーツ姿で街を闊歩し、お互いをソルジャーと呼び合っていた。



ウータン・クランのドキュメンタリー (1994)




路上の書店商は、ハワード・ジンの『民衆のアメリカ史』や、ウォード・チャーチルの『The COINTELPRO Papers(コインテルプロ白書)』(*4)といった反体制的歴史書や、『The Illuminati 666(イルミナティ666)』『Secrets of Freemasonry(秘密のフリーメーソン)』『The Unseen Hand(見えない手)』といった怪しげな小雑誌を売ることで活況を呈していた。


この不穏な空気は、1990年9月11日にジョージ・H・W・ブッシュ大統領が湾岸戦争前に連邦議会で行った『新世界秩序へ向けて(Toward a New World Order)』というスピーチに端を発していた。


今日まで我々が知っていた世界とは、分断された世界―有刺鉄線とコンクリートブロック、対立と冷戦の世界でした。今、我々は新世界への到達を目にしています。まさに真の「新世界秩序」という可能性です。ウィンストン・チャーチルの言葉で言えば、"正義と公正の原理により弱者が強者から守られる世界秩序"です。国連が、冷戦という行き詰まりから解放され、その創設者の歴史観を貫徹する準備の出来た世界、自由と人権の尊重が全ての国家において見出せる世界です。


これは、ペルシャ湾でサダム・フセインに対して取ったアメリカの軍事行動を正当化するための演説の一部で、ベルリンの壁が崩壊し、共産主義の脅威も薄れてきた頃、大統領は、新たなる敵に対して軍隊を動員し、警察部隊はゲットーに標的を定めた。


ブッシュの超国家的な「法の支配」は、アトランタのヒップホップ・グループのグッディ・モブが、1991年にリリースした「Cell Therapy」のように、強い中毒性のあるドラッグ、軍で訓練を受けた暗殺者、体制に迎合して生きる人々、コンピューター・チップの埋め込み、夜間の空挺部隊員の黒いヘリコプター、低所得者住宅、刑務所と結びついた。



Goodie Mob - Cell Therapy




学校の閉鎖、高騰する大学の学費、青少年に対する夜間外出禁止令や厳しい取り締まり、都市部における情状酌量なしの厳しい対応(ゼロ・トランス運動)、政府が市民監視のために使うテクノロジー、レイシャル・プロファイリング(*5)、刑務所建設ブーム、急上昇する受刑率など、あらゆることが急激に変わったことで、この急速な変化を手っ取り早く理解するために、グッディ・モブは、ブッシュの真の敵は、自分たちであると結論づける。


ストリート・ソルジャーたちは、生存主義者の必須本と言われる、M・ウィリアム・クーパーの『Beholda Pale Horse』を携行していた。白人のラジオ・パーソナリティーで右派愛国運動の英雄だったクーパーの著書を黒人の若者が読むのは奇妙な組み合わせだが、地方の白人過激派だけでなく、ゲットーの有色人種の若者を惹きつけたのは、クーパーの世界観が、コインテルプロ時代後の陰謀と、新世界秩序のパラノイアを結びつけていたからだ。


同署には、謎に包まれた邪悪な世界政府が、大衆を奴隷化する計画が描かれ、世界最終戦争はすでに始まっていることが語られていたが、クーパーが用意した「証拠」の大半は、お決まりの『シオン賢者の議定書』であり、そこに書かれたユダヤ人という言葉は、すべて「イルミナティ(光を受けた者)」に、ゴイム(人々)」という言葉は、すべて「キャトル(畜牛)」に置き換えること。といった指示が加えられていた。


対ドラッグの法律と米連邦緊急事態管理法は、憲法を停止し、永続的な警察国家を構築するための基礎を築いている、とクーパーは論じたが、この見解は、ルイス・ファラカン師のメッセージとほぼ同じだった。ゲットーでは、警察の圧力が、ほとんど厳戒令なみになっていた。


CIAは、極秘の政治活動を展開する資金を調達するため、ゲットーにドラッグを密輸している。とクーパーは語り、メディアはそれに反対する立場をとったが、後年行われた米国議会とCIAによる捜査によって、その基本的内容は事実であると確認された。


クーパーの奇妙な世界観は、さまざまなラップ・ソングによって語られ、ウィルスのごとくメインストリームに進出し、1993年の『Xファイル』の放映が始まると、社会全体に注目を浴びることになった。『Xファイル』の強烈な悲観主義は、ゲットーのストリート・ソルジャーの心情と合致していたのだ。


◎電気通信法の採決


マイケルのアルバム『HIStory』がリリースされた翌年の1996年、米国議会は電気通信法を採決。規制緩和の象徴ともいえるこの法律は、メディア独占企業寄りのスタンスを法律化したものだった。


この法律により、ラジオ局所有権の上限が解除され、空前の合併劇が相次ぎ、ごく少数の企業が公共の電波の大半を独占するようになると、コミュニティ番組は大幅に縮小され、どの番組も画一化されたプレイリストを使うようになった。


ラジオの平均聴取時間は急落し、ラジオ局の競争はなくなり、さらに大規模な合併が続いた後、1999年、クリア・チャンネルによる最大の合併劇が起こる。クリア・チャンネル内では激しいリストラの波が押し寄せ、音楽の選曲担当や宣伝スタッフが削減され、コミュニティ関連の部署は廃止された。


そして、悲惨なゲットーの現実をそのままに、メディア独占企業はヒップホップを大々的に商業化していった・・・


☆(6)に続く

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(*1)ファイブ・パーセンターFive Percenters)/ネイション・オブ・イスラムから派生したセクトで、後に「The Nation of Gods and Earths」という呼び名も生まれる。ハーレムにある第七寺院の主任教師を務めていたクラレンス13Xによって創始され、彼の死後もハーレムやブルックリンといった東海岸の都市部を中心に増加し、1980年代の後期から1990年代のヒップホップアーティストたちに大きな影響を与えた。

「世界の人口の5%は貧しくも高潔な教師であり、この世の貧しき者の生き血を吸10%の者たちの嘘を信じず、この世に生ける真の神はアジアの黒い男であることを知っている。そして、富を有し、貧しき者の生き血を吸い、彼らを奴隷とする10%は、嘘によって大衆を支配し、貧しくも高潔な教師たちに敵対させる。この方法により、10%は預言者を殺し、共同体を崩壊させてきた」

という、ネイション・オブ・イスラムのイライジャ・モハメッドが布教させた思想を由来とする。


他のムスリムとは違い、自分たちを神の化身であると考え、科学や数学を用いてイスラームの真理を探究し、自らのまわりにあるものに意味付けを行なうことを常としている。彼らのレトリックの中には、droppin’ scienceというものがあり、ある事柄について語るとき、その原因や背景を数学(Supreme Mathematics)やアルファベット(Supreme Alphabet)を使って証明する。これは、ギリシャなどで発展した数秘術の影響を受けたもの。


例えば、0から9の数字にはそれぞれ意味があり(1は知識、2は知恵、3は理解など)、それらの数字を通して宇宙の真理を解明しようとするもので、アルファベットにも意味が当てられている(Allahという言葉は、arm、leg、leg、arm、headの頭文字からできているなど)。


◎Supreme Mathematics

◎Supreme Alphabet


こういった考え方は、ジャネット・ジャクソンの1989年のアルバム『Rhythm Nation 1814』にも使われていて、「R」は「規則および統治者」、「N」は「現在および国家の終わり」を指し、アルファベットの順番でRが18番目、Nが14番目という意味で「1814」。1は「知識」8は「構築および破壊」、4は「文化および自由」で、これは、ジャネットがこのアルバムの中で最もコンセプチュアルに伝えたいと思っていた3曲「The Knowledge」「Rhythm Nation」、「Miss You Much」にも表れていますね。


ジャネットのコンセプトは明るく楽観的なものですが、90年代中盤になると、陰謀論や終末論によってますます独自で複雑な「宗教性」を帯びたものになっていきました。

長文ですが、素晴らしい参考記事・・

(*2)ストリート・サイファー/公園や広場など路上でラッパーが集まり、円になってフリースタイルラップすること。


(*3)ズールー・ネイション/ヒップホップという言葉の生みの親である、アフリカ・バンバータが、1970年代に地域のギャング達の生活を更生するために立ち上げた団体。音楽やグラフィティ、ダンスなどをヒップホップのカルチャーとして一体に捉え、80年代には世界各国にも支部が誕生した。KRS-One、パブリック・エナミー、ア・トライブ・コールド・クエスト、リル・ウェイン、Nasなどの多くの有名アーティストや、人気司会者のジミー・ファロンも参加している。


(*4)コインテルプロ/Counter Intelligence Programの略。FBIが反体制分子を監視するために開発したテクニック。FBIは、ブラックパンサー党など、彼らが危険とみなした黒人の好戦的なリーダーを排除し、抹殺するために、警察やスパイや代理人を使って、(1)組織・敵陣などへの潜入行動(2)外部からの心理戦(3)法的強制力によるハラスメント(4)超法規的な力・・など、あらゆる方法を用いていた。


(*5)レイシャル・プロファイリング一般的には、警察が黒人やラティーノの、特に若い男性に的を絞っておこなう人種偏見に基づいた捜査方法を指す。具体的には、街中で警官が『不審』なマイノリティ人物を呼び止めて身分証明書の提示を求めたり、身体検査をおこなうこと。ニューヨークでは、ジュリアーニ市長が就任した1994年、ニューヨーク市の治安を良く、犯罪発生率を下げるために、徹底的なレイシャル・プロファイリングが始まった。


☆(6)に続く・・・


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by yomodalite | 2017-05-15 09:33 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

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(3)の続き・・・


『Dangerous』前後に起きた様々な変化、ビジネス、政治・社会状況について、主に『ヒップホップ・ジェネレーション』を参考にしてまとめてみました。


◎ヒップホップとビジネス


世界的なメディア業界における消耗品としてのヒップホップと、地域のアンダーグラウンドを結ぶ、広大なネットワークの中で力強い生命線となっていたヒップホップ。

この二つの役割の間にあったクリエイティブな緊張状態は、90年代中盤になると、メディア独占企業側に一気に傾き始めた。脱白人ポップカルチャーに対する世界的需要に企業側が気づくと、ヒップホップは世界規模で統合されたメディアの主要コンテンツとなった。


ナイキや、アディダス、ペプシといった企業は、白人ベビーブーマー(1946~1964年頃までに生まれた世代)以外の新市場の開拓に乗り出すと、都市部に住む有色人種に目をつけた。これまではニッチとして無視されていた彼らだが、一般の認識以上にブランド志向を持ち、実際はブランドをリードしている層であることがわかったのだ。


1980年代、ブラックミュージックを流すラジオ局は、自らを「アーバン・ラジオ」と称するようになり、ライオネル・リッチーや、マイケル・ジャクソンがアーバンだった80年代から、90年代になると、ヒップホップが「アーバン」の象徴になる。


1986年、Run-D.M.Cは「My Adidas」で、アディダスを一躍ヒップホップ・ブランドに変貌させ、その二年後、スパイク・リーとマイケル・ジョーダンは、ヒップホップを使ったブランド戦略をより高い次元へと押し上げ、1992年の「The Chronic」リリース以来、スヌープとドレーは2年間ヴィデオとラジオを独占し、ラップ業界は、音楽業市場の10%を占めるようになった。



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ロス暴動後、ヒップホップ世代の創造性が爆発した一方で、競争は熾烈を極めるようになり、雑誌に取り上げられ、高い評価を得られるかどうかをめぐって、編集者やライターが、ラッパーから脅迫をうけることもめずらしくなく、誰もが生き残りを賭けて、しのぎを削っていた。


1988年にハーヴァード大学のユダヤ系の学生によって創刊されたインディーズのヒップホップ専門誌「The Source」の発行部数は14万部に達し、ラップ業界の代弁者の域を超え、あらゆる文化や、政治も扱うようになった。ファッションのページには、その後、黒人初のスーパーモデルと言われるようになるタイソン・ベックフォードと共に、Bad Boy Recordsを設立したショーン・コムズ(パフ・ダディor ディディ)が登場し、1993年には、「The Source」の広告主は、レコード会社だけでなく、ナイキ、リーボック、セガなどにも広がった。平均的な読者層は21歳男性。そのうちの半数がブラック、4分の1以上が白人だった。



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一方、TV界では、これまで視聴者を独占していた三大ネットワークのABC、CBS、NBCは、ケーブルTVなどによる視聴者の細分化によって視聴率が減少し、ビルボートのランキングに、バーコード読み取り方式の購買情報管理システム「サウンドスキャン」が取り入れられ、実際のセールスを集計するようになると、インディーズで配給されたNWAの『Efil 4 Zaggin』が、初登場第2位を記録。

マイケルが、黒人として初めてMTVに登場したと言われた「Billy Jean」から5年後の1988年、MTVで最も人気番組になっていたのは、ドクター・ドレもホストとして参加していた「Yo! MTV RAPS」。MTVはラップ・ヴィデオがほぼ皆無な状態から、1日12時間もラップを放映するチャンネルとなっていた。

マイケルとの共同制作関係を解消したクインシー・ジョーンズは、『Dangerous』発売と同年の1991年、「The Source」を買収しようとして失敗するものの、その後タイムワーナーからの出資を受け、高級志向のヒップホップ雑誌「VIBE」を創刊。記事の質の高さだけでなく、エレガントな写真と画期的なデザインによる高級紙は、ジャンニ・ベルサーチや、アルマーニ・エクスチェンジなどの広告も掲載され、商業的にも大成功する。



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ホワイトネスからブラックネスへ、ベビーブーマーから若者へ、そして、郊外から都市部へ。「The Source」がシーンに登場した頃、エンターテイメント業界と、メディア業界は、空前絶後のパラダイムシフトを経験していた。


80年代の多文化主義を提唱する人々は 、社会が数々の文化を取り込み 、それぞれを尊重することを求めていた。この種の融合はあらゆる人々を幸せにできると考えられていた。しかし、『The Chronic』以降の企業の多文化主義は 、それとは逆の概念を持ち、アーバン・マーケティングは 、人種隔離と差別の現実を維持しながら、文化融合の欠点をも引き出した。


歴史学者のロビン・D G・ケリ ーと、学者のヴィジャイ・プラシャドは、「多文化主義」という概念は 、政府や資本主義によって作り出されたと言い、ナオミ ・クラインは、90年代中盤、トミー・ヒルフィガーが、ラルフ・ローレンの偽物というイメージから、アーバン・クールの権化というイメージへ大変身を遂げた理由について、「アメリカの人種関係の核心にある距離感を利用したのである ― 白人の若者に対しては 、ブラック ・スタイルに憧れる心を利用して売り込み 、黒人の若者に対しては 、白人の富に憧れる心を利用して売り込んだのだ 」と(『ブランドなんかいらない』)。



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「VIBE」に掲載された広告(1993)


リアルであり続けることと、成功を収めること。メディアがヒップホップの商業化に加担したことに対する、究極の代償のように、ヒップホップシーンに混乱状態がおとずれた。



《参考記事》1990~1993年までの「The Source」の広告


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by yomodalite | 2017-05-09 00:23 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)
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後半部を書き換えました


(2)の続き・・・

パブリック・エネミーよりも、さらに過激な論争を呼ぶことになったN.W.A.(Niggaz Wit Attitudes 主張する黒人たち)は、後年ギャングスタ・ラップのゴッドファーザーとも呼ばれるようになるイージーE、議論を招くリリックを書き、現在も俳優として活躍しているアイス・キューブや、脱退後シュグ・ナイトと共にデス・ロウ・レコーズを立ち上げたドクター・ドレーなど、個性豊かな4人のメンバーをそろえ、Run-D.M.Cの「Walk This Way」が大ヒットした1986年にデビューした。


パブリック・エナミーのチャックDをメンターに、ネイション・オブ・イスラムについても学んでいたアイス・キューブがリリックを書いた「Boyz N The food」は、ブラック・パンサー党幹部の弟である、ジョナサン・ジャクソン(ショットガンやライフルを携行して裁判所を襲撃し、脱獄を企てた罪で死刑判決を宣告されていた兄ジョージの釈放を要求し、検事を人質に立てこもったが、警官の突入を受け、射殺された)の実話を巧みに挟み込み、同世代の神話ともいえるレヴェルにまで祭り上げられ、その過激なスタイルから、彼らの音楽はギャングスタ・ラップと呼ばれるようになった。そして、1988年のアルバム『ストレイト・アウタ・コンプトン』が大ヒットを記録する。



N.W.A. - Straight Outta Compton






しかし、凶悪犯罪はこれまでにない件数を記録し、前年よりも4人多い78名の警察官が職務中に殺害されていた1988年、「Fuck Tha Police」など、警官への暴力を支持するような曲により、N.W.A.は、大統領まで巻き込んだ大論争を巻き起こすことになる。


それでも、ストリートのリアリティをあるがままに語っているようなN.W.A.のスタイルは、新しいパンク・ロック以上のものになり、ギャングスタ・ラップは、若年層のリスナーに受け入れられただけでなく、ラップのミックステープを作れば、誰でもお金が稼げるかもしれないという希望は、ストリートの若者を夢中にさせ、ディスコを古いものへと押しやってしまう。


ロス暴動が起こったのは、それから4年後の1992年。


ハーレムで暮らす黒人と韓国人社会の対立は、1989年のスパイク・リー監督の映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』でも描かれていましたが、アフリカ系アメリカ人の高い失業率と、LA市警による黒人への恒常的な圧力や、韓国人の黒人への蔑視によって、サウスセントラル地区の黒人社会には怒りが渦巻いていた。


そんなとき、ロドニー・キング事件(*1)のLA市警警官が無罪になり、ラターシャ・ハーリンズ射殺事件(*2)における韓国人店主には、異例の軽い判決が下りたことが引き金になり、「ロス暴動」へと発展していく(*3)


1991年にN.W.A.を脱退していたドクター・ドレの1992年のアルバム『The Chronic』(強力なマリファナという意味)は、ロス暴動がようやく終結した数ヶ月後にリリースされた。それは、人々にとってそれまでのストリートの緊張を和らげてくれる強力な鎮静剤としても作用し、大ヒットしたようです。



Dr. Dre, Snoop Dogg - Nuthin' But A G Thang






続く1993年、ドレーはスヌープ・ドッグのデビュー・アルバム「Doggystyle」をプロデュース。初のビルボード・チャート1位デビューという大ヒットを記録し、西海岸ギャングスタラップは、その後もヒップホップシーンを席巻するようになります。



Snoop Dogg - Gin & Juice






ビッチだの、ファックだの、ドラッグだの・・といった内容を好意的に解釈すれば、政治や宗教に傾倒しすぎの男たちや、フェミニズムにハマっていく女たちに、もっとリラックスして人生を楽しめ。そして、政府に要求したり、誰かから奪うのではなく、「自分自身で自分のものを得るべきだ」というメッセージが込められているのではないでしょうか。また、Nワードとして差別用語だったニガという言葉の多用には、いわゆる「ブラックパワー」的な黒人啓発運動への反動もあるようです。


そんな西海岸のギャングスタ・ラップは、ライヴァル「バッドボーイ」との獲得争いに勝利し、デス・ロウ・レコーズに移籍することになった2パックによって、さらに確かなものになりました。



California Love






デス・ロウ移籍後初のアルバム『All Eyez On Me』から

メッセージ性の高い曲

Life Goes On(和訳付き)





こちらは死後アルバムからですが、

「俺たちは変わる必要がある」という

Changes

(youtubeのページに和訳あり)





2パックの大成功に乗じて、西海岸の「デス・ロウ・レコード」は、東海岸の「バッドボーイ・レコード」への攻撃をいっそう強めていくことになりました。


ヒップホップの歴史に必ず登場する「東西抗争」というのは、主に「西海岸」と「東海岸」のレーベル同士の争いで、


スヌープ・ドッグ、2パックなど人気ラッパーを擁し、N.W.A.の初期メンバーであるドクター・ドレが、N.W.A.を脱退後の1991年に、シュグ・ナイトと共に設立したDeath Row Records(西海岸)と、


ショーン・コムズ(パフ・ダディor ディディ)が、1993年に創立した、Bad Boy Records(東海岸)は、実際のギャングさながらに対立していました。


ちなみに、


一年間だけ通ったハリウッドのガードナー小学校や、エンシノ、ネバーランド、Hornby Hillsと、マイケルは基本的に「西海岸」の住人で、N.W.A.以降のラップミュージックは、ワッツ地区や、コンプトンに限らず、それぞれ自分がいる場所を語るという考え方があるのですが、


『HISTory』の「This Time Around」や、『Invincible』の「Unbreakable」でラップを披露したノトーリアスB.I.Gは、「バッドボーイ」(東海岸)で、


マイケルが『Invincible』までに共作した、Run-D.M.C、ヘヴィD、LL・クール・J、ノトーリアスB.I.G、ジェイ・Z(Heartbreakerや、Invincibleに参加しているFatsに関しては不明)は、全員ニューヨーク出身で、バスケ選手でありながら、音楽的にも成功し、『HIStory』の「2Bad」にラッパーとして参加してくれたシャキール・オニールもニュージャージー州の出身なので、


マイケルが共演したラッパーは、全員「東海岸」なんですよね。


プロデューサーであるテディ・ライリーがNYハーレム出身で、ロドニー・ジャーキンスも、やはり東海岸であるニュージャージー州出身ということもあるのかもしれませんが、


どうして、マイケルは「東海岸」びいきなんでしょう?


そして、才能あふれるラッパーは数多くいるのに、なぜ、ノトーリアスB.I.Gと二度も、しかも、二度目の「Unblackable」のとき、すでに、ノトーリアスB.I.Gは亡くなっていたのに、インヴィンシブル期のインタビューで、マイケルは一度もそれについて話しておらず・・・


マイケルはあれほどこだわっていた「Unbreakable」について、そんなことさえ語っていません。


わたしのヒップホップへの興味は、この二度も共演することになったノトーリアスB.I.Gと、彼のラップの魅力を理解したいという思いが「すべて」なのですが、それについては、またあとで触れることにして、ヒップホップとビジネスの結びつきに関してもう少し・・・



こちらは、2パックの参考記事・・・

(*1)ロドニー・キング事件

1991年3月3日、黒人男性ロドニー・キングがスピード違反を犯し、LA市警によって逮捕された。その際、20人にものぼる白人警察官が彼を車から引きずり出し、装備のトンファーやマグライトで殴打、足蹴にするなどの暴行を加えた。たまたま近隣住民が持っていたビデオカメラでこの様子を撮影しており、この映像によって、白人警官3人とヒスパニック系警官1人の計4人が起訴された。裁判の結果、キングは巨漢で、酔っていた上に激しく抵抗したため、素手では押さえつけられなかったという警官たちの主張が全面的に認められ(実際は両手をあげて地面に伏せたキングが無抵抗のまま殴打され、医療記録によるとあごを砕かれ、足を骨折、片方の眼球は潰されていたとされるが、裁判では認められなかった)、事件発生から1年後の1992年に陪審員は無罪評決を下した。


(*2)ラターシャ・ハーリンズ射殺事件

ロドニー・キング事件の13日後の3月16日、持参したバックに1ドル79セントのオレンジジュースを入れ、手に支払いのための小銭を握っていた15歳の黒人少女ラターシャ・ハーリンズを、韓国系アメリカ人の女性店主が射殺した。事件の様子は防犯ビデオに収められており、2人は揉み合いになったのちに少女が店主の顔面を4度殴打、店主は床面に激しく転倒させられ、店主は少女に椅子を投げつけた。その後、件のオレンジジュースをカウンターに置いて店から歩いて出て行こうとする少女に対して、韓国人店主は背後から銃を向け、その頭部を撃ち抜いた。女性店主は逮捕されたが、陪審員は16年の懲役を要求していたにもかかわらず、判決は5年間の保護観察処分、およびボランティア活動400時間、罰金500ドルという殺人罪としては異例に軽いものだった。この判決によって、黒人社会と韓国人社会間の軋轢は頂点に達した。


(*3)ロス暴動

1992年4月末から5月頭にかけて、アメリカ合衆国・ロサンゼルスで起きた大規模な暴動。ロドニー・キング事件のLA市警警官に対して無罪評決、ラターシャ・ハーリンズ射殺事件における韓国人店主への異例の軽罪判決が引き金となり、黒人社会の怒りが一気に噴出して起きた事件と言われる。暴動鎮圧のために、4,000人を超える連邦軍(陸軍、および海兵隊)が投入され、さらに司法省が、ロドニー・キング事件について再捜査をアナウンスするなどの努力によって、6日間にわたった暴動はようやく収束を見た。暴動による被害は死者53人、負傷者約2,000人を出し、放火件数は3,600件、崩壊した建物は1,100件にも達した。被害総額は8億ドルとも10億ドルともいわれる。韓国人街は市警が暴動鎮圧に消極的だったと厳しく非難し、また彼らは『無実の我々が犠牲を強いられた責任は市当局にある』と述べた。この事件での逮捕者は約1万人にものぼったが、人種的にもっとも多かったのは44%のヒスパニック系で、42%が黒人、そして9%の白人と2%のその他の人種が含まれていたとされる。(以上、Wikipediaより)





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by yomodalite | 2017-05-01 07:00 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

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(1)の続き・・・

ヒップホップの世界では、1970年代 - 1980年代までをオールド・スクール、1990年代以降をニュー・スクールと呼ぶことがあります(現在はすでに1990年代もオールドスクールと呼ぶことが多いですが)。オールド・スクールを代表するアフリカ・バンバータは、ヒップホップの創始に関わった3大DJの1人で、ラップ、DJ、ダンス、グラフィティなどの黒人の創造性文化を総称して「ヒップホップ」と名付けた、ヒップホップという言葉の生みの親。


プレイリストにジャクソン5を入れていたアフリカ・バンバータは、1982年に発表した『Planet Rock』により、ヒップホップ、ハウス、テクノの音楽シーンに多大な影響を与えたと言われていますが、クラフトワークに強い影響を受け、YMOから音のサンプリングを学び、ジョン・ロビーがシンセサイザーを演奏した『ビート・ボックス』を提供してもらったことで完成した『Planet Rock』のヒットは、マイケルが、YMOの「ビハインド・ザ・マスク」を、最終的に『スリラー』(1982)から外したのと同時期のこと。


Afrika Bambaataa - Planet Rock





1980年代後期から1990年代前期については、音楽面で革新的な技法・作品が多く生み出されたことから、特にゴールデンエイジ(黄金時代)と呼ばれ、マイケルが「JAM」で共演したヘヴィ・Dもその時代のアーティスト。

彼は1967年にジャマイカで生まれ、9歳からニューヨークに移住し、80年代末から90年代前半にニュージャック・スウィングのラッパーとして活躍していました。


Dangerous発売前の1989年のヒット曲

Heavy D & the Boyz - Somebody For Me





また、『Dangerous』には収録されなかったものの、同時期に録音された「Serious Effect」で共演したLLクールJは1968年生まれで、ヘヴィ・Dと同じくニューヨークで育ち、ふたりとも愛嬌あふれる明るいキャラクターで、ヒップホップがポップスに浸透していく一翼を担ったラッパーであり、俳優としても活躍したという点も、マイケルに好まれたように思われます。


マイケルの『BAD』と同じ1987年の曲

LL Cool J - I'm Bad





MJの売上には程遠いものの、当時の時代感覚に合った「Bad」なセンスは、おそらくLLクールJの方でしょう。マイケルの「BAD」は、病気理由であっても、人種の壁を破ったと賞賛された黒人としての外見を白人に見せてしまったことで、元々マイケルが気に入らなかったローリングストーン誌など老舗のロック雑誌のライターからは「偽物のロック」と判断され、ヒップホップによって今までにない盛り上がりを見せたブラックミュージックのジャーナリストたちをも混乱させたことで、真っ当な評価を受けることはありませんでした。


代表曲は「Dangerous」の前年にリリースされたこの曲

LL Cool J - Mama Said Knock You Out





プリンスはヒップホップに批判的でしたが、「Dangerous」の翌年に発表したアルバム『Love Symbol』には、この曲の影響も感じられるこんなラップ曲も。


Prince - My Name Is Prince

http://www.nicovideo.jp/watch/sm14109619



今聞くと、Heavy Dの曲は、テディ・ライリーが推薦しただけあって、まんまニュージャックスウィングというか、最近の音に慣れた耳にはラップミュージックには聴こえませんが、LLクールJの曲は現代のラップにも近い感覚で、マイケルの「JAM」も、ニュージャックスウィングとは別のソリッドな感覚がありますね。


(1)で紹介したスパイク・リーのCMのように、この曲のショートフィルム(以下SF)には、嘘の告発によるスキャンダルから影響力が低下していたマイケルより、当時は影響力が絶大だったマイケル・ジョーダンが登場し、スポーツとダンスが融合し、ふたりの大スターがみんなに「JAM」を求めているような感じで、下記の和訳には使いませんでしたが、NBAで「Jam」と言えば、強力なダンクシュートという意味もあります。


SFの冒頭では、ハーレムのような場所で、ガラスが割られ、地球のようなボールが飛び出し、荒廃した地を見回すような映像の後、「全世界が一つになり、僕らが直面する問題に取り組めば、何か方法が見つかるはずだ」という歌が始まり、歌の最後では、そのボールは水溜まりから拾われる。


ジョセフ・ボーゲルの『コンプリート・ワークス」には、


「Jam」はマイケルの楽曲の中で、『Thriller』のオープニング曲「Wanna Be Startin’ Somethin’」に次いで社会を見据えた、内面を率直に吐露した曲となった。・・・彼は決まり文句を皮肉たっぷりに吐き捨てる。「世界はひとつ。みんなで協力しよう」。彼は現実はもっと殺風景なものであることを知っている。「世界は変わり続け/心もその都度変化する」と彼は観察し、質問を投げる。「僕らは正しいものと間違ったものを見分けられるのか?」

家族、政治、宗教のいずれもが彼を落胆させ、彼は考え続ける。彼は「幸せを見つけ」なければならない。しかし、他人の基準にはうんざりしている。「僕に教えようとしないでくれ/叫んだりわめいたりしないでくれ」。・・・

歌手の最後の救いが見つかるとすれば、それはもちろん音楽の中だろう。「Jam」とは時々息がつまりそうになるこの世界からの一時的な脱出のことであり、クリエイティブな世界に没頭し、音楽によって問題を解決することである。


と書かれています。私は、冒頭部分をマイケルが皮肉たっぷりに言っているとは思いませんが、彼は作曲者で、中心メンバーでありながら、「We Are The World」のツアーに参加しなかったり、「人種差別」や「多文化共生」の政治的な欺瞞には鋭い視点をもっていたと思います。


同署では、「Black Or White」のSF、後半部における暴力表現に見られたマイケルの痛みと怒りは、1992年ロス暴動を予言することになった。という記述もあるのですが、


後半の映像でのマイケルは「破壊」の限りを尽くしていて、ブラックパンサー党の黒人至上主義的ともいえる過激な思想を表現するかのごとく、最後は「ブラックパンサー」に変身します。これは、前半の多文化共生的なメッセージに反して、見るものを混乱させましたが、実はこの曲では、それらが相反していただけでなく、もっとあらゆるものが「混ざって(Jam)」いて、「Black Or White」は、黒人サイドが主張する「人種差別」ではなく、人種に限らず、あらゆる「カテゴライズ」への抵抗をテーマにしていました。


自由の女神像から登場したマイケルは、「白いシーツ(KKKのこと)なんか怖くない・・・」と言い、黒人差別に立ち向かっているようですが、そんな彼の肌はすっかり「白く」なっていて、ご丁寧にも、「I’m not going to spend my life being a color(僕は生涯、有色人種と呼ばれて生きる気はない)」というラップを、自分や黒人ラッパーではなく、制作者のひとりである白人のビル・ボットレルにやらせていたり(笑)・・・

上記の記事で言われているように、「Black Or White」時点では、主流のラジオ局はラップをオンエアしない方針でした。つまり、マイケルはヒップホップがメインストリームに登場することにも一役買っていたわけですが、マイケルが、アルバムの最初の曲を『Jam』にしたのは、過激なメッセージから、分裂・対立が激しくなっていた時代背景や、その頃数多く語られていた多文化主義、結集や団結といった意味だけでなく、自由にやりあい、様々なものを混ぜ合わせ、ゴールにボールを叩き込む・・・その他にも、当時の日本では想像もしていなかったあらゆる意味が「Jam」には込められていたようです。



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by yomodalite | 2017-04-27 09:56 | MJ考察系 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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