カテゴリ:宗教・哲学・思想( 43 )

7月になってから大分過ぎていますが、今年の上半期までに読んだ本の中で、
思想・宗教関連の本をまとめてメモ(つまらなかった本と古典はのぞく)。


フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした/副島隆彦ほか

去年の7月から、エマソンを読み始め、それ以来「ユニテリアン」と「理神論」のことばかり考えてきたので(嘘)、この中では、出版前からもっとも期待値が高かった本。

副島氏の教育者としての姿勢に感動し、本著もそれぞれの執筆者への指導の賜物であり、『説得する文章力』のスゴさも感じておりますが、例えば「ズバリと書く」というような文章は、副島氏のパーソナリティあってこそのもので、副島隆彦の著作が分業体制になるのなら別ですが、個々の名前で発表するのに、その書き方はないのではないか(妙なところで笑いをとらないでくださいw)と思ったり、

明治を創った人々が、メーソンに影響を受けていることを疑う理由はないのですが、個々の人々がメーソンだった。という証拠は弱いので、その部分への断定口調はいらなかったのではないかとか、

細かい部分に気になる点はあるものの、近代日本を創造した明治の人々が、西欧に何を学び、何に抵抗しようとしたのかについて、現代の日本人は真剣に振り返るべきであり、取り上げられている明治の偉人たちの物語は、日本の未来のために重要な内容だと思いました。





フリーメーソン/吉村正和(写真は旧装釘)

フリーメーソンについて書かれたシンプルでレベルの高い新書。1989年初版(上記の副島本で引用されていた新書は、荒俣宏氏の角川新書「フリーメーソン」でしたが、私はこちらの方が良書だと思いました)。





秘密結社イルミナティ入会講座《初級編》

フリーメーソンより、今は「イルミナティ」でしょ?という方へ。なぜ「イルミナティ」が注目されるようになったかと言えば、「フリーメーソン」が長い歴史の中で実態が明らかにされていて、ネタが尽きたから。実体として現在存在しているかどうかわからない「イルミナティ」には、いくらでも「ファンタジックな味付け」ができるからです。フリーメーソンの起源は、16世紀後半から17世紀初頭と言われていますが、イルミナティの創始者と言われるアダム・ヴァイスハウプトは1748年から1830年を生きた人。本書はヴァイスハウプトによる著作の初訳で、ドイツ語の原典からの翻訳のため(まともな英語翻訳がないからでしょう)、固い文章ではあるものの、「啓明思想」を立ち上げた人のただならぬ知性と熱気が伝わります。





タルムードの中のイエス/ペーター・シェーファー(著)上村静、三浦望(訳)

ユダヤ教の教典である「タルムード」で、イエスはどのように描かれているのか。について、ヘブライ大学、フライブルグ大学で、神学、哲学、ユダヤ学、新約聖書学を学び、1998年からは、ユダヤ学の教授として、プリンストン大学のユダヤ学・宗教学教授を務めるペーター・シェーファー教授が2007年に書いた本。

私は『MJ Tapes』の予習として読んだのですが(笑)それはさておき、

本書から、タルムードには、実際にイエスに関して侮蔑的な表現が多くある。ということが証明されたと息巻いている反ユダヤ主義の方もいるようですが、そういった方は、キリスト教の聖書に、どれだけユダヤを侮蔑する表現があるかをご存じなく、常に自分にとって都合のいい部分だけを「証拠」として発見してしまう癖があるのでしょう。

ユダヤ教では、ユダヤ人以外を侮蔑している。という表現も多く見られますが、著者は、これ以上は無理と思えるほど公平に、ユダヤ教とキリスト教、それぞれの視点から語っていて、アカデミックな学者が書いた本になっています。また、著者は、多くのラビが語って来なかったタルムードの内容の発掘にも努めておられるようで、いわゆる聖書物語には見られないような歴史に対しての記述にも、とても興味深い点がありました。

◎[Amazon]タルムードの中のイエス



聖書を読む/中村うさぎ、佐藤優

前著「聖書を語る」の続編。今回おふたりが読んだのは、創世記、使徒言行録とヨハネの黙示録。

佐藤氏は、本書を日本語で読むことができる神学的な思考方法を知るための最良の手引きだと書かれています。確かに、神学的な思考方法は、西欧思想の基盤なので、ここを通過しないで「哲学」とか言っても日本以外では通じないというか、通じたとしても、それは「思想」ではない。残念ながら…

そんなわけで、本書の半分以上をしめる「創世記」に、長いなぁと何度も感じるものの、信仰としてではなく「聖書」に興味をもっている者としては、矛盾が多いこの神話を読み解くことを何世紀も続けているという点が興味深い部分でもあり、ガマンして読み進めると、気鋭の作家おふたりによる会話に、共感できる部分も多々あり、それぞれ魅力的なおふたりについても、よくわかるうえに、幕間には、岡崎京子の『へルタースケルター』、巻末には『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読むという対談も収録されていて、

佐藤氏が言われるように、やはり「最良」の書だと思います。




完全教祖マニュアル/架神恭介、辰巳一世

『仁義なきキリスト教史』が面白かったので、こちらも読んでみました。

キミも教祖になろう!という序章では、教祖生活の素晴らしさが語られ、本文では、ホントに信者はできるの?という不安への答えから、第一部、思想編では、神の生み出し方、既存の宗教をどう焼き直し、高度な哲学を備えるにはどうすればいいのか?そして獲得した信者をどう保持するか、など。

第二部、実践編では、不況の仕方や、甘い汁の吸い方、後世への名の残し方まで!至れり尽くせりの内容で、その他、豊富なコラムで、日本や世界の既存の宗教についての知識も深まります。著者のまとめ方の上手さで、レベルの高い新書になっています。




世界がわかる宗教社会学入門(ちくま文庫)/橋爪大三郎

各宗教に関して手堅くコンパクトにまとめられているのですが、『不思議なキリスト教』の方が面白く、師匠である小室直樹氏の『日本人のための宗教原論』より見た目も内容も薄い。






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by yomodalite | 2014-07-09 22:36 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)
『仁義なきキリスト教史』が面白かったので、こちらも読んでみました。

これまでも様々な宗教解説書が発表されてきましたが、「どうすれば教祖になれるのか?」という肝心の疑問に答えた書籍は1冊もありませんでした。その点、本書は様々な宗教の成功例を論理的に分析し、あなたの成功に役立つ部分だけを抽出した大変科学的なマニュアルです。あなたも成功したいならば、ぜひ素直な気持ちで本書を読み進めていってください。凡人凡俗であるあなたでも、本書を熟読し、忠実に従うだけで、間違いなく教祖になれるのです!(「はじめに」より)


教祖になるための実用書として優れているかどうかは実践前なのでわかりませんがw、
簡単に読めて笑えるめったにない教養書かも。

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(クリックすると拡大します。ボケボケですが、なんとか読めるよね?)

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架神氏の本は、前書もそうだったけど、
参考書籍がきちんと記されてあるところもすごく素敵。

(こちらもボケボケですが。。)

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◎[Amazon]完全教祖マニュアル(ちくま新書)

◎[読書メーター]




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by yomodalite | 2014-07-01 22:35 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

なんでもわかるキリスト教大事典 (朝日文庫)

八木谷 涼子/朝日新聞出版

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名著として名高い『知って役立つキリスト教大研究(新潮OH!文庫)』の増補改訂版。KIndle版も出ましたーーーー!


って、昨年末のことなんですけどw、ちょっと前に「よくわかる」なんて書いてあっても、宗教関係者が書いた本は、よくわからない本ばかり。なんてことを書いてしまいましたが、本書も信仰者によるものではなく、西欧文学からキリスト教に興味をもち、自ら「キリスト教オタク」であるという著者によるもの。


◎著者プロフィール


こーゆーレファ本って、KIndle版が便利ですよね!


内容に関しては、こちらの「なか見!検索」で目次をご覧いただきたいのですが、大勢のレヴュアーが言っているように、キリスト教の宗派についての分類が秀逸で、イラストもカラーでわかりやすく、辞書やウィキペディアより読みやすいだけでなく、文章に読ませる魅力がある、めったにないレファ本。


宗派についての箇所で、私が今、ハワード・ヒューズの次の次ぐらいに興味がある「ユニテリアン」に関する部分を、省略して少しだけ紹介します。


なぜ、「ユニテリアン」なのかと言えば、大阪に来てから、日本の近代に思いを馳せることが多くなって、、それは、街中に、ヴォーリズやフランク・ロイド・ライトの影響が感じられる近代建築の素敵な建物が多いせいでもあるんですけど、


福沢諭吉がユニテリアンに失望して、天皇制が生まれ、ユニテリアンは「理神論」から「無神論」へと進行し、地球上を一つの共同体とするグローバリズムは、超格差社会を生み、そうして、東京は安っぽいチェーン店と超高層ビルが立ち並ぶ街になったんだなぁ。。みたいなことを、しみじみ感じてしまうのと、


MJは、その会派に属していたことはないですが、エホバの証人を脱会後の、彼の神の捉え方に一番近い宗派を選ぶとすれば「ユニテリアン」だと思うので。


(引用開始)


ユニテリアン・ユニヴァーサリスト

三位一体を教義としない、境界に位置する信仰者たち


◎自由と理性と寛容を重んじ、権威への盲従を嫌う

◎自由主義神学の最先端

◎北米では女性教師の比率が高く、性的マイノリティを排除しない

◎異宗教間の交流活動にも積極的

◎キーワードは万人救済説、ユニティ、リベラル

◎代表地域はアメリカ、ハンガリー、ルーマニア

◎イメージとしては、アイザック・ニュートン、

詩人ラルフ・エマソン、チャールズ・ダーウィン

◎信者は約50万人


名称の由来と起源


ユニテリアンとは、キリスト教正当は教理の中心である三位一体論者に対し、キリストの神性の教理を否定して神の単一性を強調する人々をさす。(中略)


一方、ユニヴァーサリストとは、少数の者のみが神に選ばれ救われるとする予定説とは逆に、すべての者が例外なしに救われるとする万人救済説を主張する人々のこと。(中略)


キリスト教においては、三位一体説をとる教派が「正統」とされている。そのトリニティに対し、神のユニティ、すなわち単一性を唱えてキリストの神性を否定したのがユニテリアンと呼ばれる人々だ。(中略)社会の表面に浮上するのは、啓示や奇跡を疑い、理性のみによる神の認識を主張する理神論が登場して、人間の合理的思考が尊重されるようになった18世紀後半から。英国では、インテリ層に支持され、ユニテリアンというと、知的で裕福な階層の人々がイメージされた。


いっぽう、アメリカのユニテリアン主義は、18世紀のニューイングランドの会衆派の人びとに広まり、人間の罪を糾弾する厳格なピューリタン神学に代わって、裕福な市民層に歓迎されるようになった。19世紀後半には、あのハーヴァード大学もユニテリアンの牙城となる。詩人ラルフ・エマソンも、元はユニテリアン教会の牧師だった。(中略)


聖書は、数々の優れた書のひとつとして真価を認める、という立場。聖書の無謬や逐語霊感説をはじめ、人の原罪や代替贖罪説(イエスのあがない)、地獄における永遠の罰、処女降誕を含む奇跡、悪魔の存在も認めない。イエスの復活も、肉の復活ではなく、キリスト教信仰の出発点としてとらえる。(中略)


人間の善性を強調し、良心の自由と理性と寛容とに価値をおき、国家と教会の結びつきには否定的。科学上の諸発見を尊重し、自由主義神学の最先端にいる。(以下略)


◎参考書評



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by yomodalite | 2014-05-04 00:45 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

仁義なきキリスト教史

架神 恭介/筑摩書房

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全然「着物」についてあれこれしてないやん!というツッコミだけでなく、もはや、どこが「読書日記」やねん!というあり様に、自分でも困惑しているのですが、

今日は2ヶ月ほど前に読んだ、類書がないほど素晴らしい本を紹介します。

今まで、キリスト教に関する本を、山ほどとは言いませんが、それなりに読んだ経験から言うと、まず、どんなに「面白」とか、「よくわかる」とか書いてあっても、キリスト教の宗教者が書いた本は、信者でない人間が読むと、疑問に感じる点への言及がなかったり、絶対に納得できない説明がしてあって、起こったことの背景も理解できないので、重要人物に関しても、感情移入できないことがすごく多いんですよね。

中でも、私たちが理解しにくいのは、

なぜ、「愛の宗教」と言われるキリスト教において、多くの人が処刑されたり、戦争が起こったりという、血で血を洗うような歴史が積み重ねられているのか?という点ではないでしょうか。

本書では、そういったキリスト教の血の歴史を、日本の偉大なヤクザ映画『仁義なき戦い』と同じような抗争の歴史であることに気づき、大親分「ヤハウェ」の下、様々な「組」がうごめき、内輪揉めや派閥抗争を繰り広げていった様子が生き生きと描かれています。

第1章 やくざイエス
第2章 やくざイエスの死
第3章 初期やくざ教会
第4章 パウロ ー 極道の伝道師たち
第5章 ローマ帝国に忍び寄るやくざの影
第6章 実録・叙任権やくざ闘争
第7章 第四回十字軍
第8章 極道ルターの宗教改革
終章 インタビュー・ウィズ・やくざ

少しだけつまんで紹介します(第1章「やくざイエス」より)

「兄貴、今日はどぎゃあな御用で…」

「いやぁ、なんちゅうことはないわい。シナゴーグの帰りじゃ。近くまできたけえのう、こんなぁの顔を見に来ただけじゃ」

とイエスは快活に答える。シナゴーグ、と言われても読者諸君には馴染みはなかろうが、これは極道用語であり、要は地域共同体の集会所のことである。隠語では会堂とも呼ばれる。この集会に集まった民衆を前に、ユダヤ組の筋モンや、もしくはやくざに近いものたちが、ヤハウェ大親分の生き様や伝説などを語り聞かせる、一種の極道教育機関であった

(中略)

「なんじゃ、あの外道、ヤハウェ大親分のこと馬鹿にしくさりよって。大親分以外の誰が許すいうんじゃ。許すも許さんもそぎゃあなこと決めれるんは大親分だけじゃろうが」

すると、これを耳ざとく聞きとめたのか、

「おどりゃあ、何をちびちびいうとるんじゃ!」

イエスはパッと立ち上がると啖呵を切って言った。

「ええか、こぎゃあことはのう、人の子が許してもええことじゃ」

この時にイエスが言った「人の子」というのは、極道用語で、、、


という具合に、すべて「極道用語」で説明されるんですね(笑)

もう少し、つまんで紹介します(第2章「やくざイエスの死」より)


イエスとて、ヤハウェ大親分の子分であるからには、親分のシノギに文句をつける道理はない。彼が怒りを覚えたのはサドカイ組のシノギであった。

「あン? おい、なんじゃこりゃ。偶像じゃないの。おどりゃ知らんのか、ヤハウェ大親分は偶像が大嫌いなんじゃ。このばかたれが、出直してこんかい」

貨幣には当地の支配者であるローマ皇帝の肖像が描かれていたのだが、これが偶像であるから受け入れられぬ、と突っぱねるのだ。そして困り果てている民に対し、神殿内で商いをしている両替商が「お客さん、うちで両替すりゃええんよ」などと声をかけてくる。こうして民衆の貨幣は両替商により特殊な貨幣へと交換され、それでようやく納付が認められるわけだが、もちろん両替商は手数料を取るし、そのアガリは、サドカイ組へと流れるわけである…

(中略)

「先生、教えて欲しいんじゃ。わしら、カエサルに税金を払うことは許されとるんかの、許されとらんのかの」

その言葉を聞いた瞬間ーーー、イエスは微かに顔をしかめていた。(中略)イエスはこの言葉の裏に秘められた彼らの罠を瞬時に見取ったのだ。

(中略)

イエスは(デナリ貨幣)を高々と掲げてこう言ったのだ。

「顔が彫られとるじゃろう。これは誰の顔じゃい」

「・・・カエサルじゃ。」

「ほんなら話は簡単じゃのう。カエサルのものはカエサルに返しゃえかろうがい」

それから、イエスは、柱の陰に隠れる男たちをキッと睨みつけて、こう付け加えた。

「もちろん、ヤハウェ大親分のモノはヤハウェ大親分に、じゃ・・・」

オオッ、とヤクザたちが驚きの表情を見せる。見事な切り返しであった。イエスはローマ当局への反逆の意志を明示せず、それでいてヤハウェ大親分の顔も立てたのである。

それだけではない。この言葉の含む意味に気づき、歯がみした者たちがいた。柱の陰にいたサドカイ組のやくざたちである。「ヤハウェ大親分のモノはヤハウェ大親分に」これはヤハウェ大親分への上納金を集めるという名目で、体よく民衆から搾取を繰り返していたサドカイ組に対する皮肉でもあったのだ。

(引用終了)

このあと、サドカイ組とパリサイ組の違いや、初期やくざ教会が様々に分裂していく様子や、また、イエスが亡くなった後の、パウロの人物描写は秀逸で、ローマ帝国とキリスト教の関係もわかりやすいのですが、

下記は、第6章「実録・叙任権やくざ闘争」から(かなり省略しています)

グレゴリオス7世はキリスト教任侠道における3つの改革に着手していたのである。それは、シモニアでありニコライスムであり、俗人叙任であった。この3つの問題は、まるで違うことのように見えながらも1本の線で結ばれている。

シモニアは日本の極道用語では「聖職売買」と言われる。一方ニコライスムの語源はよくわからない。どうやらこの時代には姦淫とほぼ同じ意味で使われていたようだが、司祭などのやくざが妻を持ったり妾を囲ったりすることを問題視した言葉である。最後に、俗人叙任である。これは、司祭や司教などの組長の地位を「プロフェッショナルなやくざ」以外の王や資産家などが任命することである。この「プロフェッショナルなやくざ」を極道用語で「聖職者」と言う。なお、プロフェッショナルでないやくざは「信徒」である。。

と、ここから、さらに詳しい説明があるのですが、

こういった感じで、やくざ口語ではない部分も、簡潔にまとめられ、巻末には参考図書も提示してあるだけでなく、物語を脚色した部分についても説明があり、作者の頭の良さだけでなく、真面目な仕事ぶりに感動し、大いに笑いました。

最後に、

ラビ・シュムリーと、マイケルの会話をより深く理解したい人のために、
私のテキトーで大雑把な情報を補足しますが、

シュムリーはユダヤ教の中でも「Orthodox(正統派)」と言われる宗派なので(今はそういう言い方はしないんだけど)一応「パリサイ派」と言える。

で、パリサイ派とサドカイ派とエッセネ派が、本書でどう説明されてるかというと、

当時、ユダヤ地方を支配していたやくざには3つの代表的な組があった。いずれもユダヤ組本家から枝分かれした二次団体であり、サドカイ組、パリサイ組、エッセネ組といった。

サドカイ組は都市エルサレムにエルサレム神殿という巨大な事務所を構え、そこで民衆からヤハウェ大親分への上納金を集めてシノギとしていた。(中略)現状のシノギで十分懐が潤っているため、彼らは体制維持を志向しており保守的である。ヤハウェ大親分の言いつけも違わず守ろうとした。

サドカイ組が世襲的な「やくざ貴族」であるのに対し、パリサイ組はより庶民的な立ち位置に近く、ヤハウェ大親分に熱烈な忠誠を誓ったゴロツキたちの集まりである。ヤハウェ大親分の言いつけを厳しく守ろうとするのは同じだが、大親分の言いつけに人為的な解釈を加えることもあった。(中略)この点でサドカイ組とはソリが会わず、彼らは対立関係にあった。

エッセネ組は特殊なヤクザ組織であり、彼らの中の一派は、社会から距離を置き、独自の共同体を作って暮らしていたとされる。

で、、イエスの兄弟子であるヨハネも、イエスも「エッセネ派」だったと言われていて、MJが元信者だった「エホバの証人」もエッセネ派の影響が強いと言われています。。

そんなわけなので、

新約聖書で、イエスの宿敵のようなパリサイ派のシュムリーと、MJが深く対話し、その後決裂したことは、歴史の必然であり、MJにもその意志があった。

みたいなことも、もしかしたらわかるかもしれません(笑)

超おすすめ!(私は「Kindle版」で読みました)



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by yomodalite | 2014-05-01 11:21 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

聖書男(バイブルマン) 現代NYで 「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記

A.J.ジェイコブズ/CCCメディアハウス




著者のA.J.ジェイコブズは、体にいいことを全部試してみたという『健康男』や、百科事典の全巻読破に挑戦した『驚異の百科事典男』などで人気を得た、エスカイア誌のシニアライター。

本書には、現代ニューヨーカーである著者が、聖書の教えを忠実に守るという生活を1年続けた顛末が綴られています。

(下記の太字部分は、本書を要約して引用)

何世紀ものあいだ、聖書は実話だと思われていた。完全なノンフィクションだと。ほとんどの人は、聖書学者のマーカス・ボーグいわく、「根っからの字義解釈主義者」で、聖書が実話でないと考えるに足る根拠もなかった。ところが、次第に科学と聖書の物語が激しく対立するようになった。(中略)

そのうち、この百年主流だったのがモダニズムとファンダメンタリズムの二つだ。モダニズムによれば、科学と宗教は別個のもの。スティーブン・ジェイ・グールドいわく、両者は「重複することなき教導権」だ。聖書は比喩的な言葉と詩にあふれている。天地創造の物語は、説得力はあるかもしれないが、神話にすぎない。


著者は「誰もやらないようなことを超まじめにやってみる」という経験を、軽妙な文章にしていて、ジョーク満載の気の張らないエッセイになっているものの、ファンダメンタリズムなどの原理主義や、聖書のさまざまな字義解釈を茶化しているわけではなく、

本書を執筆前の著者は、

自身を「不可知論者」であるというユダヤ人で、ニューヨークで宗教の話題はタブーのような家庭に育ち、「不可知論者」という言葉の意味を知る前から、神という観念は要らないと思っていた。姿も見えず、声も聞こえない神を、なぜ必要とするのか。神は存在するかもしれない。でも、それは、この世では絶対に知りえないこと。。

入学した非宗教系の総合大学では、ユダヤ・キリスト教の伝統よりもウィッカの儀式における記号論を研究したがる学生の方が多く、聖書を読むことはあっても文学としてだった。

ただし、宗教の歴史は学んでいて、公民権運動や慈善の寄付、奴隷制の廃止など、人類の偉大な遺産の多くが聖書を原動力としてきたことも、戦争、大虐殺、征服といった、負の遺産を正当化するのに聖書が使われてきたこともわかっていた。

宗教にはいい面もあるけれど、現代社会においては危険な存在で、悪用される可能性がきわめて高く、ほかの旧弊なものと同じように、徐々に消えてなくなり、近い将来、すべての決定がミスター・スポック流の非常な論理に基づいて下される新啓蒙主義の楽園に暮らすことになる、と。

もうお気づきだろう、みごとな誤解だった。

聖書の、そして宗教全体の影響力はいまだに絶大だ。
ぼくがこどもの頃より大きいかもしれない。。

聖書を字義解釈するといっても、実際はみんな選り好みしているんじゃないか。自分の信条にあった箇所を聖書から抜き取っているんじゃないか。ぼくは違う。層のように積み重なった解釈をはぎとり、その下にある真の聖書を見いだすつもりだ。究極のファンダメンタリスト(原理主義者)になってやる。そうすれば、聖書のどこが偉大で普遍か、逆にどこが時代にそぐわないか、見極められる。


このあと、著者は聖書と真剣に向き合い、聖書に書かれてあるとおりの生活を実践してみるだけでなく、宗教に無関心だった家族とは異なり、ユダヤ人として生まれ、ヒンドゥー教徒になってグルを自認し、ヒッピー文化に出会い、キリスト教徒になって、いまは、イスラエルの超正統派ユダヤ教徒というスピリチュアルならなんでもござれの親戚に会い、自身の民族的宗教であるユダヤ教を中心に聖書を「体験」しながら、精神世界への旅に出る。

日本人には理解するのが難しい「聖書」ですが、
宗派については、特にわかりにくいですよね。

本書では、軽妙な口調で「聖書生活」を語られるだけでなく、さまざまな宗派についても、それぞれの長所と短所のバランスを考えつつ多く語られていて、Godについて、現実アメリカで語られてきた話題の多くを、かいま見ることが出来ます。

他者と接することがなく、他者に意見をいう技術も、言葉も磨いてこなかった私たちは、ユダヤ人の「優位性」や「選民意識」など、都合のいい部分だけ似ているだなどと妄想を膨らませている人は多いものの、

批判されることによって培われてきたこともなく、宗教についてあまり考えないことが「常識人」だということに安住し、他国の宗教を理解しようとしていません。

それなのに、どうして、靖国神社への参拝をいずれ他国が理解してくれるだろう。などと期待することが出来るんでしょう?

神とは何か? という根本的な問題はさておき、

現実に、「他者」が神とどう接してきたか?について、
特に、ユダヤ教について楽に読める本は希少だと思います。

価格が安いだけでなく、注釈がとても豊富なので、その部分の読みやすさからも「電子書籍」の方に利があると思いました。下記は、Kindol版のリンクですが、私は「iBook」で購入し、iphoneで読みました(私が購入した時点ではKindle版より安かったので)


《MJメモ》

あらゆる本に登場する「マイケル・ジャクソン」ですが、2005年に出版された本書の564Pには、

アンサーズ・イン・ジェネシス(AiG)と呼ばれる福音派が建築中の、6千年足らず前に神が塵からアダムを創ったと信じる人々にとってのルーブル宮と著者が称する「創造博物館」を見学して、

完成のあかつきには、マイケル・ジャクソンの裁判並みに大勢のマスコミが押しかけてくるだろう。

また、カパロットと呼ばれる正統派ユダヤ教徒によって行われる儀式を見に行き、そのすごい人ごみの中で、ラビ・シュムリーボテアックに出会い、

上院議員のジョー・リーバーマン、レゲエ・ミュージシャンのマティスヤフについで3番目に有名な正統派ユダヤ教徒。。。「ザ・ラーニング・チャンネル」のショーを準備中で(のちに放送された)、驚くほどマスコミ通だ。「以前ここにドキュメンタリー番組のクルーがきたことがある。なんの説明もなく、それだけ見たら、野蛮でくだらない感じがする」我々の文化にはもっとくだらないものがたくさんあるんじゃないだろうか」「カパロットはボトックスよりもくだらないだろうか?全実体変化よりもくだらないだろうか?」

・・・などの記述がありました。


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by yomodalite | 2014-01-21 09:58 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

真贋 (講談社文庫)

吉本 隆明/講談社



1ヶ月ぐらい前に読んだ本。ほとんどの本と同じように、所々うなづいたり、なんか違うんじゃないか。とか思ったりしつつ読み終えたのだけど、あたりまえのようなことの中に、吉本氏以外は書かないであろう、わずかな「印」のようなものが感じられた。

戦後最大の思想家と称されることもある吉本氏ですが、世界基準での「思想家」という基準にはまったく届いていないのではないかと思う。でも、むしろ、そうだからこそ、氏の歩まれた道は、日本の思想家としても、日本人としても、もっとも真摯なものだったのではないかと思う。


下記は本書からの抜粋
(文章が省略してあることをご了承ください。また文中の太字は私によるもの)


まえがき

少し前に、ある新聞社からいじめられている子どもたちに向けて何かメッセージを書いてほしいと頼まれたことがあった。いまさらとくに書く必要はないと丁重にお断りした。この問題に関して僕の考え方は、一貫している。いじめるほうもいじめられるほうも両方とも問題見だ、ということだ。

僕自身いじめっ子だったという過去がある。たいていのクラスにはいじめられやすい子というのがいた。何となく恐縮したような雰囲気だったので、からかいやすかったせいだと思う。僕は腕白で悪童だったから、先頭を切ってからかったり、小突きまわしたりしていた。

ある日、いつものようにクラスのいじめられっ子を追いかけまわし、馬乗りになっていたら、その子は履いていた自分の下駄を脱ぎ、その下駄で僕の頭を思いっ切り殴った。頭を股られた僕は、一瞬フラフラして、何か起きたのかすぐにはわからなかった。そして次の瞬間、膝がガクガクし、地面に膝をついていた。その隙にその子は走って逃げていった。

この野郎、生意気だ。不思議なことにそういうことは一切思いつかなかった。逆に僕は、面白半分に人のことをからかったり、いじめたりしてはいけないと本気で思った。いじめる根拠があるのならまだしも、その子には関係のない自分のうっぷんを晴らすためや、まったく違う目的でいじめたり、からかったりすることはよくないことだ、と大変反省させられたという記億がいまもある。

いじめられていた子にとって、下駄で股るというのは最後の切り札だったのかもしれない。力いっぱい頭を殴られたことで、僕は目が覚めた、といえば大げさだが、それ以上のことをする気も何もなくなってしまうくらい衝撃を受けた。

真剣に自分の人生を生きている、そういうことに気づかされた瞬間だったと思う。誰もが生死を懸けて自分の人生を生きている。当たり前なようで、誰も当たり前には思っていないのかもしれない。

いま、世の中を見ていると、すべてが逆な方向に進んでいるような気になることがある。あまりにも常識的な「問い」と「答え」にあふれ、実は本当に考えるべきことを考えずに、考えなくてもいいことを考えているのではないか。滑稽ですらある。

まずは、どうでもよさそうなことから考えてみる。そういった視点が必要なのではないか。これまでとはちょっと違う部分を見る。そうしたことで少しは世の中の見方が変わっていく可能性があるかもしれない。そんなことを期待して本書にとりかかることにした。


善悪二元論の限界「自分の毒に責任をもつ」

本を読むことが、人をどう変えるかということに関しても、人さまざまでしょう。高度な感覚や心を持ち得ることで、人間としてよくなるという観点もありますが、その一方で、毒がまわていることにも注意しなければなりません。

お金に毒があるということは、誰もがよくわかっていると思います。お金は怖い、お金は人を変えるという話をよく耳にするからです。しかし、文学や本といったある種芸術的なものにも利と毒の両面があるということは、あまり意識的に考えていないのではないかと思います。世間一般では、物事の毒がどこにあるかわからない、あるいはそれが存在することすらもわからない、という人が多いのではないかと思います。

これは文学に限りません。なにごとにおいても、いいことばかりではなく、毒のほうもきちんと言わなければならないと思っています。また自分自身の問題として、時にはどういう毒が自分にまわっているかということも冷静に考えることをしないと、大きく間違ってしまうこともあるのではないでしょうか。

毒というのは利と一緒にある。そして逆説的な言い方をすると、毒は全身にまわらないと一丁前にならない、という印象もあります。一丁前の作家でも詩人でも、文字を書いて仕事をしている人は、必ず毒がまわっています。

そういう人は、せめて毒をそのまま出さないようにしたり、あるいは毒を超越するようにしたりと、絶えず考え続けることで、かろうじて均衡を保っているというのが妥当なところでしょう。
ー(p39 - 40)


本物と偽物「いい人と悪い人」

僕は、男女問題に限らず、一般の人間関係においても、いい関係かどうかを判断する基準というものを持っています。それは、お互いが言いにくいことをきちんと言えるかどうかです。

だから、文章を書く場合でも、できるだけ言いにくいことを書こうとするわけです。言いやすいこと、言うと褒められそうだと予想できることは、意識的にあまり言わないようにしよう、と考えています。

言いにくいことを言うことが、なぜいいかというと、その行為が自己解放になるからです。主観的ではありますが、周囲の社会や人間関係において感じるさまざまな僻屈から解放される一番の方法は、言いにくいことを言うことです。

もちろん言いにくいことの内容が、社会的に判断して、どういう結果を招くことになるかを考えておくことは必要ですが、それでも、言いにくいことを言えたときの解放感は何ものにも代えがたいものがあります。

でも、人間の好き嫌いに関して発言するときは、かなり慎重になったほうがいいと思います。たしかに僕も、さまざまな意味で、人間に対する好き嫌いの感情を持っています。とくに主題を限定した上での好き嫌いというのは、あると明確に言えます。でも、特定の人間を指して、その人が好きか嫌いかと漠然と聞かれたら、それははっきりと答えられないと思うのです。

実際には、主題を限定した場合の好き嫌いが、その人に対する全人的な好き嫌いの評価になってしまいがちです。僕にとっての理想というのは、そうした判断の仕方が僕の中からなくなることです。

たしかに、主題を限定すれば、嫌いな人を好きになる可能性だってもちろんあります。だからといって、ある主題に限定して、その人が好きか嫌いかを判断するのはやめたほうがいいと僕は確信しています。

しかし、自分自身がうまくそれができているかどうかはまた別なことで、できていない部分があるかもしれません。そもそも、好きな人、嫌いな人という判定自体が不可能です。

つまり、人間というものを一つのイメージとして考えた場合に、ある視点から言えば嫌いだけれども、違う視点から見ると、その同じ人が好きだという面を人間は必ずと言っていいくらい持っているからです。

ですから、特定の主題によって人の全人格に関して好き嫌いを判定する、そうした判定の仕方をとらないですむ精神状態を保っていくようにしていければと思っています。
ー(p111-115)


才能とコンプレックス「人間にとって一番大切なこと」

人間にとって大切なことはきっとたくさんあると思います。そして、たぶん多数の人が、人間として大切だと思っているものはやっぱり大切に違いありません。でも、実際は、自分の性格や成り行きなど、さまざまな理由で、人間として大切だと思えることとの距離感があって、なかなかそこにいけない状態にいることが多いものです。

でも、人間として大切なことを考えたり、それを実現するために自分の行動の仕方を変えたりする意識が重要なのではないでしょうか。それは、社会全体にとっても重要なことではないかと思います。僕はそういうことを、いつでも考えていますし、つねに自分の頭の中に置いています。

社会にとって本当に大切なものは、どこかにあることは確かです。では、それはどこかと言えば、少なくとも、大多数の一般の人が認めているところが、きっと人間にとって一番犬切なところではないでしょうか。

それに自分が近づこうとしても、自分の気持ちが乗っていかない、あるいは事情があってそうはなれない、そういうことが日常生活の中では多く起こります。でも、そのギャップを考え続けていくことが、もっとも示唆に富んでいるような気がします。そうした意識を持つことこそが、生きる上で「大切」という言葉にふさわしいのでしょう。

若い頃から、そのことはつねに気にかかるところでした。その時代の社会的な状態や、自分の気持ちの据わり方の状態などにより、また年代や年齢によって違うことはあると思いますが、その中で一貫していたことはと言えば、こうしたことを自分の頭で考えてきたことです。

大切なことはその都度変わっていきます。だから何か人生で重要だというふう亘一日われたら、ずっと一貫して、大切なものと現状の自分との距離について考えていくことだと思うのです。

おまえの一番大切なことは何かと間かれると、人によって、誠実であることが重要だとか、愛情が重要だとか、一人一人言い方が違うと言っていいくらいです。たしかにそれはどれもみんな重要でしょう。

でも、自分にとって真に重要なことは何なんだと突きつけられたら、僕ならこう答えるでしょう。その時代時代で、みんなが重要だと思っていることを少し自分のほうに引き寄せてみたときに、自分に足りないものがあって行き得なかったり、行こうと思えば行けるのに気持ちがどうしても乗らなかったりする、その理由を考えることだ、と。

みんなが重要だと思っていることというのは、大多数の人が考えている、あるべき人間の要、あるべき性格、あるべき環境など、いろいろなものが含まれるでしょうが、そこにはなかなか達することができないために、その時々で葛藤が生じるのです。

そうした葛藤を僕はいつも感じています。それが人間にとって重要かどうかは人それぞれですから、何とも言えませんが、僕の中に一貫してある思いというのは、どうもそれだという気がします。

では、僕にとって現在、具体的に何か重要か。一つは体のことがあります。老齢にまつわるさまざまな問題を解決することはできないでしょうが、そうした主題でものを書くことで、解決に少しでも近づくのではないかと考えたりもします。自分の身辺のことを考えても、若い頃とは違う思いがあります。女房の病気が少しでもよくなってほしい、子どもが介護でくたびれて参ったというようにならないでくれたらいい、などと書くことで解決に近づくことがあるかもしれません。

時代、時代にいろいろ変わる一つ一つの課題というか、問題に対して自分なりにアプローチを考えたり、いかに克服していくかというプロセスを考えることは、僕にとってもっとも長続さしている習慣のようなものです。つねにその時々が選択であって、これは忘れたほうがいい、これは考えないほうがいいと判断していく。人生はその積み重ねです。

◎[Amazon]真贋(講談社文庫)/吉本隆明



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by yomodalite | 2013-12-09 08:00 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

哲学の冒険―「マトリックス」でデカルトが解る

マーク ローランズ/集英社インターナショナル

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本書は、こちらのコメント欄で、hizirinosatosiさんから、ご紹介いただいた本なのですが(感謝!)、大分時間が経ってしまったものの、ようやく手にすることが出来て、すっごく面白かったので、私も紹介したいと思いました。

まず、タイトルには「マトリックスでデカルトが解る」とありますが、

第1章 「フランケンシュタイン」で実存主義が解る
第2章 「マトリックス」でデカルトが解る
第3章 「ターミネーター」で心身問題が解る
第4章 「トータル・リコール」&「シックス・デイ」でアイデンティティ論が解る
第5章 「マイノリティ・リポート」で自由意志が解る
第6章 「インビジブル」でカントが解る
第7章 「インデペンデンス・デイ」&「エイリアン」で黄金律が解る
第8章 「スター・ウォーズ」でニーチェが解る
第9章 「ブレードランナー」で死の意味が解る


出版社は「人気映画を題材に哲学の理論を痛快に解き明かす!」と豪語し、デカルトだけでなく、カントや、ニーチェや、実存主義まで「解る」といいたげですが、残念ながら、そんなに甘くはなく、そもそも哲学とは「解る」ものではなく、疑ったり、考えたりすることを、生きている間のすべてに要求するもので、著者も「序文」で、

哲学とは「知る」ことではなく「する」ことに関する学問である。

と言っています。

思想・哲学分野の本は、ハズレ率の高さがハンパない分野で、知ったかぶりな著者が、同様に知ったかぶりたい読者のために、わかっている風に書くという「芸風」が蔓延していて、有名な思想家を「ダシ」に、あまり関係のない自分の主張をしてしまっているような本が多いのですが、

本書は、そういった哲学を「する」こともなく、安易に「利用している」人が書いた本とは異なり、著者には、若い学生を哲学の世界に惹き込もうという気持ちがあり、また映画紹介本としても面白いので、私は本書をきっかけに『フランケンシュタイン』を楽しむことができました。

また、SFを作家として創り、優れた現代批評を行なってきた、翻訳監修者である筒井康隆氏の解説が素晴らしいので、2005年の出版から8年経っていることですし、

要約したり、省略せず、下記に全文引用します。

監修者解説 筒井康隆

優れた映画はおしなべて哲学的だが、中でもSF映画は、SFがそもそも文明批評を基盤にしている上、現実の一部をエクストラポレーション(外挿法)によって拡大し、この傾向がこのまま進行すれば未来はどうなるかという思索によって読者に驚き(センス・オブ・ワンダー)をもたらすものである以上、どんなSF映画も思索的であると言え、すべてのSFのSはスペキュレーティヴ(思索的)のSだと言う人もいて、ただの怪獣映画、宇宙活劇といえどもそこには必ず何らかの哲学的命題が含まれているのだ。
 
本書の著者はイギリスのハートフォードシャー大学で哲学を講じている教授である。学生たちに何とか哲学に興味を持たせ、その何たるかを教えようというのでSF映画を持ち出してきたところにアイディアの妙がある。本書はこの著者の授業の内容を本にしたもので、たいていの若者が見ているSF映画から哲学的命題を引き出してきて、わかりやすく論じている。いわばSF映画による哲学概論であり、この着想はたいへん優れている。
 
むろん、高い哲学性が含まれているものとしてSF映画すべてをひとしなみに扱うことはできない。小生などは例えば『未来世紀ブラジル』を優れた記号論として高く評価するし、それ以外にもここに取り上げられていないSF映画の中にもっと優れた作品がたくさんあるのだが、この著者はあくまで聴講生や読者のために、できるだけ多くの人が見ている、人気のあった映画のみを俎上にのせて論じ、意外な映画から意外な命題を導き出しているのだ。だから読者諸君は、序章で著者が進言するように、「各章を読む前に、その章が扱っている映画を見ておく」のがよいだろう。すでに見ている読者も、ビデオ店から借りてきてもう一度参考にされるがよい。二、三の章で、たとえ哲学的思索が次第にその映画から離れていくように思うことがあっても、哲学のとっかかりに学ぶ者が必ず困惑するあの取っつきにくさは、幾分かは軽減されている筈だ。
 
第一章では映画『フランケンシュタイン』によって「不条理」という哲学の概念が説明されている。映画『フランケンシュタイン』はポリス・カーロフがモンスターを演じた昔のものではなく、ロバート・デ・二ーロがモンスターを演じた新しい方である。著者はその理由を「デ・二ーロのモンスターの方が知的で繊細だから」としていて、これはわれわれが自分自身を見る眼と他から見られる眼の矛盾について悩む人間的悩み=不条理が、よりよく表現されているからである。
 
「不条理」という哲学用語に間しては、この用語を好んだフランスの実存主義の作家・哲学者アルベール・カミュによる説明「シーシュポスの神話」を援用して論じている。ご存じのようにカミュには他に『異邦人』という問題作もあるが、この主人公がすでにフランケンシュタインのモンスターとの類似を示してもいる。不条理に対する人間のむなしい反抗を描いたこの作家を最初に登場させ、その説明をデ・二ーロ演じるフランケンシュタインのモンスターと対比させたのは、何故か縦笛を演奏できるというこのモンスターの人間性によって、存在の意味、生の意味を探求する究極的な哲学の大命題への導入部にするためだ。
 
第二章で登場するのは映画『マトリックス』ー 現在では続編が製作されたが、ここではあくまで最初の方の『マトリックス』である。これは五十年前に発表されて当時SF界で話題になった、わが実弟俊隆の書いた唯一の小説『消去』とまったく同じ設定のSFであり、巨大人工知能によって人間すべての脳が溶液に浸され、その中でプログラムされた仮想現実をいっせいに夢見ているという世界の話である。映画の方では、自分か長年生きてきた世界が現実ではなかったと知った主人公が、この人工知能つまりマトリックスと対決し、救世主(the One)と呼ばれる存在になる。
 
このSFの世界を現実に置き換えて思索すれば、それはデカルトの認識論になると著者は説明する。20世紀のカミュから17世紀のデカルトに飛ぶことでおわかりのように、登場する哲学者たちは年代として逐次的ではないので、この本はいわゆる哲学史にはなっていない。あくまで哲学的に思索する方法や論理を教える講義になっている。

このデカルトの認識論というのは、どんな感覚による判断も信頼できず、1十1=2という数学的真理さえ神や霊がわれわれを編しているのかもしれないという懐疑主義であり、すべてを疑ったあとに残っているのは考えること ー つまり「疑う」ことは「考える」ことだから、「われ考えるゆえにわれあり」という第一の形而上学的真理にたどりつくのであり、まさに『マトリックス』の世界そのものであろう。ところが著者はそこにとどまっていず、自分の思考さえ確信できるのかという思索を、ニーチェやヒュームの論理を援用して現代的に敷衍している。
 
著者はどうやらアーノルド・シュワルツェネッガーの大ファンらしく、『ターミネーター』を取り上げた次の第三章ではなんと「シュワちゃん」を偉大な哲学者として「心とは何か」という「心身問題」を論じている。むろんシュワちゃんに仮託して自分の論を述べているのだが、オーストリアが誇る哲学者としてシュワちゃんの主演作品は次章でも採り上げられている。この『ターミネーター』も現在第三作目が作られたが、ここで論じられているのは『ターミネーター1・2』である。
 
「心身問題」つまり「心とは何か」というのは哲学的に重要な命題である。脳を観察しても心の状態はわからない。では物質的でない心がどうして『ターミネーター』におけるサイボーグに宿るのか。著者は物質的身体しか持だないサイボーグに非物質的な心が宿ることは絶対にないとする「二元論」を取りあげ、心がどんなものであるかが述べられていないことを理由にこれを退け、「唯物論」に向かい、ここからコンピューター・プログラムの世界に入っていって「神経回路網モデル」の実現可能性を論じている。
 
フィリップ・K・ディックは優れて哲学的なSF作家であり、次の第四章では彼の短篇「追憶売ります」を映画化した『トータル・リコール』が取りあげられる。以前の自分の記憶を消され、偽の記憶を植えつけられた男の話であり、主人公を演じるシュワちゃんは昔の記憶が戻れば今の自分は存在しなくなるというので自分の新しい生命のために戦うのだ。言うまでもなくここで問題になるのは自己同一性、ここでは人格同一性とされているが、つまりアイデンティティの問題である。古い記憶の持ち主が悪玉であるとすれば、その人格もまた自分なのか。
 
著者は一挙に紀元前の古代ギリシアに飛んで、ヘラクレイトス、アリストテレスという二大哲学者を引用する。身体的には無論のこと、記憶や感情など、すべての点で人間が同じ人物でいられる筈がないとするヘラクレイトスと、本質的変化がない限り存在は終らないとするアリストテレスを対比させて論じていて、『トータル・リコール』では主人公の新しい記憶こそ本質的だとする「記憶論」を支持してアリストテレス寄りだったシュワちゃんは、十年後の映画『シックス・デイ』では進歩してヘラクレイトス寄りになったと説いている。ただし「人格の同一性などは存在しない」とするヘラクレイトスとは異なった理由からであると論じている。
 
『シックス・デイ』は自分のクローン人間に家庭を乗っ取られた男の詣である。著者はギリシアの哲学者の古臭い議論などから離脱して、シュワちゃんに託して自分の理論を推し進めた末に、ついには「われわれは存在しない」「自分というものは先行していた自分の生き残りに過ぎない」という結論にたどりついてしまう。「これが人格の同一性の問題」だと著者は言っている。
 
第五章では著者が哲学における最大最悪の問題だという「自由意志の問題」または「人間の尊厳の問題」が論じられる。取りあげられる映画はまたしてもディック原作の『マイノリティ・リポート』である。これはプリコグと呼ばれる、殺人を予知できる子供たちの力を活用して犯罪を予防する詣である。だが予供たちは、ある殺人の犯人が予防局のりIダーであるトム・クルーズであると予知してしまう。さて。トム・クルーズにその予知から逃れ、殺人を犯さないでいられるという選択ができるのかどうか。ここからが、われわれは本当に何でも自由に決定できるのか、われわれには自由な意志かおるのかという哲学的な議論となる。
 
著者は、神がすべてのことをあらかじめ定めたというルターなど神学者の神学的決定論、つまり「予定説」や、すべては神の本質の必然的な現れであるとするスピノザの「決定論」を説明し、さらに、神が宇宙の最初の状態を知っているのなら、これから起こるすべても予知できる筈という「ラプラスの魔」として有名な、19世紀フランスの数学者・天文学者ラプラスのことばを引用し、また18世紀イギリスの哲学者ヒュームの、正しい筋道による行動なら自由といえるが、強制されたものは自由ではないとする「両立主義」を引用し、結局は人間の自由など証明できず、尊厳もないのだという結論に達して、ハッピーエンドに終わる『マイノリティ・リポート』の哲学的不徹底さを指摘している。なるほど、最大最悪の問題ではある。
 
次の第六章は道徳の問題で、H・G・ウェルズ『透明人間』の映画としての最新版『インビジブル』が取りあげられる。これはまた紀元前ギリシアの哲学者プラトンが『国家論』の中で伝えた「ギューゲースの指輪」という話の作り替えであるとも言っているが、これらのいずれもが虚構とはいえ、まったく透明人間になったやつは必ず悪いことをするものであると感心する。『インビジブル』の主人公で透明人間になるケビン・ベーコンがさんが悪いことをするのは道徳的である必要がないから、つまり逮捕されないからだというのだが、ここから、では道徳的であるとはどういうことなのか、なぜ人間は道徳的であるべきなのかという哲学の大きな命題に入って行く。

 まず「万人の万人に対する戦い」で有名な17世紀のイギリスの哲学者ホッブスの社会契約説が紹介され、著者はこれを「自身の利益を推し進めるために他者と契約するのが道徳性であるというのは、例えばケビン・ベーコンの場合道徳的である必要はないのだから、これは空虚な道徳性になってしまう」と退ける。次にまたヒュームを登場させ、「人間はその内的自然から打算的であるよりも道徳的であることを好む」とした人文(道徳)哲学を紹介し、これも「その理由が述べられていず、単なる因果説明であり、道徳的理由が打算的理由に優ることを正当化していない」として退け、最後に18世紀ドイツの哲学者カントの「無矛盾性」という論理的な答えを次のように紹介する。「誰もが約束を破ったら、約束するという行為が無意味となり、人は約束することをやめてしまう。すると破る約束もなくなるのだから、約束は破られないことになるこれは矛盾したポリシーだから約束を破るというのは道徳的に間違っていることになる」

このようにわかりやすく哲学を説くのがこの本の狙いである。あるテレビの番組で若い男性が「なぜ人を殺してはいけないのか」と発言し、物議を醸した。

同席の大人たちが怒り、騒ぐだけだったのは、このような哲学に親しんでいなかったからである。カントの無矛盾性を持ち出すほどのことでもなく、ポップスの社会契約説だけで充分論破できた筈の議論なのだ。
 
しかしこの無矛盾性さえ、著者は「この説は、なぜわれわれ(人間)は道徳的であるべきかではなく、なぜ自分(個人)が道徳的でなければならないかを証明していない」として退けるのである。そしてこの問いは答えられる類いのものではないとまで言い回る。道徳的か利己的かは理性を超えた選択だというのだ。まことに哲学というのは奥深いものである。
 
ではこの道徳性の問題、相手が人間ではなく異星人であればどうなるのか。というわけで次の第七章では映画「インデペンデンス・デイ』と『エイリアン』を持ち出してきて引き続き道徳性の問題を論じている。引きあいに出されるのはまたしてもカントで、前章に続く「無矛盾性」に加え、「公平性」という概念が提示される。他人は自分の目標を推し進めるための手段であるだけではなく、目的として扱わねばならない、例えば配管工に工事をしてもらったら賃金を払う、これが公平性だというのである。さらに「最大多数の最大幸福」ということばで有名な18〜19世紀イギリスの法学者ジェレミー・ベンサムと、その門弟の息子で19世紀イギリスの哲学者ジョン・スチュアート・ミルという、功利主義を展開した二人を紹介している。
 
「インデペンデンス・デイににおける異星人は知能が高く、地球を襲って資源を根こそぎ略奪し、人間が反抗すれば種全体を消してしまう。こんな種族に対し、いかに道徳性の問題を話しあうかが問題となる。「無矛盾性」と「公平性」の原理は異星人にも通用する筈だ、と、著者は言う。

なぜなら異星人同士もこの原則を護っているからで、少なくとも人種差別や性差別に対しては理解できる筈だ。では『エイリアン』のシリーズ三作品における異星人はどうであろうか。この種族は人間の体内に卵を産みつけ、胸を突き破って出てくる。これは他の種族を手段として利用するだけだから明らかに「公平性」に反する生物種差別である。ではそのことをもってわれわれは彼らを説得できるのか。これはできないと著者は言う。そして著者はわれわれが他の生物種に対していかにひどいことをしているかをえんえんと論じた末、異星人をひどい種族と思うなら、われわれは鏡を覗いた方がいい、われわれ人問が他からどう見られているかを考えることこそがSFの大きなメリットであって、そこにこそ「無矛盾性」や「公平性」という黄金律の意義があるのだと結論する。

 現在『スター・ウォーズ』シリーズは五作品が公開されたが、第八章で収りあげられるのもこの全作品で、論じられる中心はダース・ベイダーである。つまりジョージ・ルーカスが示しているマニ教的二元論を手がかりにして善悪の問題を論じているのである。ダース・ベイダーに象徴される、悪を実在的で偏在するものとしたいスター・ウォーズには、悪を「善の不在」と見做すキリスト教会に逆らっているわけだが、そのキリスト教の教義がそもそも、第六章で登場したブラトンにまで潮ることから、哲学では避けて通れぬこのプラトンの「善のイデア」をわかりやすく解説している。ブラトンは、いろいろな善の中にも悪いものがあり、その善と悪の間にはいろいろな段階があり、その序列の最高に位置するのが完璧な善のイデアであるという。だからプラトンにとって最も実在的なものは善の形式であり、悪の形式というものはなく、悪とはただ善の不在、脱落、欠如に過ぎないのだ。
 
しかし『スター・ウォーズ』において、最も実在的な登場人物はダース・ベイダーではないか、と、著者は反論する。ここで援用されるのが19世紀ドイツの詩人で哲学者でもあるニーチェの立場であり、20世紀オーストリアの精神分析学者フロイトの昇華理論である。ニーチェは、キリスト教会の言うように悪を抑圧するのではなく、その原始的な衝動を昇華してこそ芸術的な人生が送れるのだと言う。これはのちのフロイト理論とほぼ同じ考えである。ダース・ベイダーは悪の衝動を抑圧して神経症にならなかったのはよかったのだが、その欲求を昇華させなかったので偉大な超人になれなかった、しかしもしダース・ベイダーが芸術的な人生を送ったとすれば、『スター・ウォーズ』はどんな映画になっていただろうかと著者は言う。欠点があるから面白いのだという、この章はおかしな結論になってしまう。
 
最後の第九章で、いよいよ哲学の最大の問題「死、そして生の意味」が論じられる。当然のことながらここで語られるのは20世紀最大の哲学者と言われるハイデガーであり、論じられるのは20世紀最大の書物と言われる「存在と時間」の中心命題である。そして取りあげられる映画『ブレードランナー』の原作はまたしても最高の哲学的SF作家フィリツプ・K・ディックの長篇『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』である。アンドロイドはここではレプリカントと呼ばれる、人間によって労働力のために作られた存在である。このレプリカントに反抗心を持たれては困るので、人間は彼らに四年間の寿命しか与えなかった。しかし彼らは暴動を起こす。これらのレプリカントを殺すための特捜班はブレードランナーと呼ばれ、主人公ハリソン・フォードもその一員だ。だが彼は次第に彼らの立場を理解するようになる。だからこの映画の意義は「死ぬべき運命」とでも言うべきものにある。
 
死は悪いことなのかという疑問がまず論じられる。では生はなぜいいことなのか。死によって奪われるものの価値が見つかれば、生の価値も見出せるのではないか。ハイデガーの言うようにわれわれは「未来へ向かう存在」であり、死は未来を奪うが、単なる欲求で非概念的に未来へ向かっている者と、未来に間する明確な概念を持って概念的に未来へ向かっている者とでは、死によって奪われるものの価値が違うのである。その価値こそがつまりは生の価値なのではないか。時間的に限界のない人生は人生ではない。死こそが人生のそれぞれの時間の意味を際立たせ生かしてくれるのであり、死がなければ本質的に意味をなすものはなくなってしまう。
 
だからこそ、と、ハイデガーは言う。死に向かいあうことが大切である、死に対して自分を投げ込む=企投することによって人生を先駆的に了解することができる、自分の人生の意味が了解でき、今何をなすべきかも知ることができると。
 
哲学はいろいろ、哲学者もまたいろいろである。アリストテレスの時代には神の存在を疑うことなどできなかった。だからこそ彼は神の存在を証明し、その後の哲学者たちも神の存在を疑わなかった。ニーチェに影響を与えたショーペンハウエルなどという厭世哲学者その他多くの哲学者は多くの哲学の徒を自殺に追いやりもした。ハイデガーは死を肯定的に論じることによって逆に生を価値あるものにした。神が死んだ今、われわれは哲学によって人生の価値を探求すべきだが、そのためにもわれわれ映画好き、SF好きは、ただ面白いだけでなく何故か心に引っかかるSF映画、優れて哲学的な命題を含む名作群を今1度、本書を手がかりにして哲学的に考察するべきであろう。

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by yomodalite | 2013-09-07 08:48 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(6)

純粋理性批判 ─まんがで読破─

カント/イースト・プレス

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数日前に行った、紀伊國屋グランフロント店で買った本。

世界の名作を30分から1時間程度で読めるように凝縮して、まんがで紹介されているという「まんがで読破」シリーズは、日頃、書名だけで、ネットで注文するか、図書館に予約することが多い私でも、実際に見てみたいと思ったので、久しぶりに書店で何冊か立ち読みしました。

その中から、「純粋理性批判」を選んだのは、『ホロコースト産業』という本の中で、著者であるフィンケルシュタインが、

賞賛を浴びたある回想録で、エリ・ヴィーゼルは、ブーヘェンヴァルト収容所から解放されて間もなく、18歳になったばかりのころに

「『純粋理性批判』を読んだ。笑わないでほしい。イーディッシュ語で、である」

と述べている。当時は「イーディッシュ語の文法などまったく知らなかった」とヴィーゼルも認めているが、それ以前の問題として、『純粋理性批判』のイーディッシュ語訳は1度も出ていないのだ。

と、書いていて、出版されてもいない本を読んだ。というヴィーゼルを嘘つきだと批判しているのはわかるものの、

1928年生まれのヴィーゼルは、15、16歳で収容所に送られ、18歳の頃は終戦から1年後ぐらい、ルーマニア出身のヴィーゼルが、その頃にイディッシュ語(ユダヤ語)を知らなかったことを、なぜ「笑わないでほしい。」と述べなくてはならないのか。など、その状況がつかめない部分は多いのですが、

でも、事実について議論しよう。という姿勢を貫いているフィンケルシュタインは、そうは言っていないものの、たぶん、自分が経験した(もしくは心からそう思った)から、それが真実だ。というような論法で、ホロコーストを語るヴィーゼルに、

おまえ、1度でも「認識」について考えたことがあんのかよ。

という批判をしているんじゃないかなぁと思って、そんなことから『純粋理性批判』のことが、気になっていたんです。

◎関連記事 マイケルと神について(4)エリ・ヴィーゼル Part 1

本書のプロローグは、

私たちは世界についてどれほどのことを知りうるだろうか?

私たちが存在するこの世界のこと 
そのはじまりと終わりーー

あるいは世界の背後に存在するかもしれない何者かのこと

そして「私」自身についてーー

カントもまた古代から人々が探求し続けたこの問いに答えようとしたひとりであった

私たちは何を知りうるのか?

で始まり、火星の有人宇宙船のニュースから、科学が発達しても、まだまだ人間にできないことがあることや、環境汚染、兵器の開発、クローン技術の応用などの科学技術の発展が進めば、人間は神になりうるのだろうか?という話題で盛り上がる高校生たちの元に、遅れて現れた地学教師、大崎正美は、さらなる難問、

神の存在証明は可能か?

と問いかける。人間に神様がいるかいないか科学的に証明するなんて、、科学には限界があるってことですか?と質問する高校生たちに、大崎先生は、

それは科学の限界というより「認識の限界」と言ったほうがいいわね。つまり私たち人間は「認識」することによって世界観を得ている。だけど「認識」には限界があると考えられていて、人間の認識能力について多くの哲学者や科学者が研究してきたことで、「認識論」という哲学のひとつの分野があり、

その認識論史で偉業を成し遂げたのが、カントで、その主著が『純粋理性批判』。

科学の話がどうして哲学の話になるのか?と問う高校生に、人間の住む世界の基本的な原理・方法などについて疑問をもち、それを解き明かそうとすること… それが哲学なの。

ここから、哲学にはふたつの基本課題があって、

ひとつは、なにが存在するのか?という「存在論」で、もうひとつが、なにを知りうるのか?「認識論」である。

という、おかっぱメガネの大崎先生の課外授業は、厚さ1㎝のマンガで『純粋理性批判』が、凝縮されていて、たったの580円。哲学を実感したい人には、これぐらい凝縮されていた方が、糸口がつかめるかも。。

◎『純粋理性批判』「まんがで読破」

同シリーズ内の本も何冊か立ち読みしたんですが、数日前に買ったばかりのヒールの高い靴でグランフロント内を散策し疲れて読んだ感じでは、、ニーチェの3冊は「うーーーん??」という感じで、「ブッダのことば(スッタニパータ)」と「武士道」と「葉隠」は違和感をバリバリと感じました。

出版社のサイトによれば、読みやすさでEASY, NORMAL, HARDに分類されていて、『純粋理性批判』はHARD。確かに、どれほど読みやすかったとしても、これを自分中で理解するのは難しいんですよね。日本は伝統的に神が存在しているか?という問いをしないものですから、その問いに明確な答えを出そうとして、あらゆる学問が発展しているということも、理解しようがない。

でも、スッタニパータがNORMALなのはまだわかるとして、ニーチェ本をNORMALで、物語にしてしまうと、話が違うという印象で、、

ダンテの神曲は、デビルマンを描いた永井豪作品の方がおすすめだなぁと思いました。

このシリーズは他にも読んでみたい本がいっぱいありましたが、ひとつ不満なのは、参考図書が書かれていないところかな。

◎「まんがで読破」シリーズ一覧
◎[Amazon]まんがで読破「純粋理性批判」


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by yomodalite | 2013-06-03 13:05 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

ブッダは歩むブッダは語る―ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う

友岡 雅弥/第三文明社



この本は「こちらのコメント欄」でお勧めされて読みました。
Mさんありがとうーーー!!! とても素敵な本でした。

著者は、大阪大学文学部卒業後、同大大学院博士課程修了(インド哲学専攻)され、1991年にはインドと日本の国交回復40周年を記念した公式行事で講演も行なっている方。

最初、著者が、ブッダに挑戦しようと考えたのは、フーコーの『言葉と物』『知の考古学』を読んでからでした。と書かれているのを見て嫌な予感がしたんです。

そのあとすぐにデリダの名前も登場して、仏教を語るのに、フランス現代思想を多用し、複雑でもないことを、あえて複雑に、ムツカしい言葉や、外国語で、ごまかしつつ、フワフワしたようなことを、ダラダラと書いてあるか、もしくは、最新の物理学から、仏教はスゴい!とか、、そんな、よくありがちな本かと。

でも、この続きを読んでみたら、全然そうではありませんでした。

はじめに。から、省略して引用します。

ウォルター・ベンヤミンは、友に宛てた手紙の中で、こう述べています。

真っ暗な闇の中を歩み通す時、助けになるものは、橋でも翼でもなく、友の足音である

友とは暗闇の中ですがりつく対象ではありません。携帯で呼び出すと、飛んでくるだけの人ではありません。もちろん、友はそういうこともしてくれます。でも、それだけでは「都合の良い人」であっても友ではありません。

友も歩いているのです。私のように歩いているのです。その存在を想うだけで、その足音だけで、私は1人で歩けるのです。姿が見えなくてもよいのです。離れていてもよいのです。私にとって、仏教という宗教は、このベンヤミンの言葉における「友」のニュアンスに近いものがあります。

真っ暗な道を歩く、しかも1人で歩く。その時、友の足音を聞き取れる人は、勇気を持って前に進むことができるでしょう。仏教がもたらす人生への確信というものはこういうものであると思います。

仏教は信じているだけで、ひとりでに暗闇が明るくなったり、自分が歩かなくても自動的に目的地まで連れて行ってくれることを望む「魔法」の類いではありません。真っ暗な闇を、1人ではないという確信をいだきながら、1人で歩み通す人をつくる信仰なのです。

この本の目的は、1人歩む人をつくろうとした1人の「独りあゆむ人」
ゴータマ・ブッダの姿をできるだけリアルに描くことにあります。


(引用終了)

本書は、これまで、仏教に対して、何らかの疑問を抱いていた方には、
特にとても魅力的で、納得する箇所が多い本だと思います。

去年の冬頃から、ジョン・レノンが、ブッダや仏教をどう考えていたか。について、探ったり、想像していて、少しづつ、私もブッダの姿を想像するようになり、イエスや、ブッダや、モーセといった人々は、全員「反逆者」として登場し、遺された者とその集団は、徐々に体制的になっていく。という歴史には例外がないこともよくわかってきました。

誰もが共感しそうなエピソードや、感情から説明しようとして、仏教とも、ブッダとも、何の関係もない話をする「仏教者」や「スピリチュアル業界の人」は大勢います。語っている人自身が魅力的なのだとは思いますが、友岡氏のように、ブッダの実際の姿にこだわり、親切に書いてくれている本は少ないと思います。

下記は、本書から「グッとくる言葉」を紹介します。(一部要約しています)
これらの言葉が、どのように説明されているかは、本書をぜひお読みください。


(引用開始)

仏教がきわめて現実批判的な、そして神秘性を徹底して排除した宗教であることを示そうと思いました。(P.2)


ブッダは、現状認識を曇らせる甘い幻想を排除します。私たちと幻想との蜜月関係は存在しません。幻想の破壊者としてのゴータマ・ブッダにできるだけ迫りたいというのも、この本の目的です。(P.7)


他者への「冷たいまなざし」が「権力」の特徴です(P.8 )


「痛み」を感じることなく、誰かを「悪」と決めつける。「痛み」を感じることなく、自分のやっていることを「善」と思う。これこそ、もっとも避けなければならない態度でしょう。(P.18)


アナキン・スカイウォーカーのあまりに澄んだ目に、ダース・べーダの心が宿るのです。

空虚な明るさ、単純なプラス思考がどれほど精神をむしばむかは、ここ数年、各種の「自己啓発セミナー」が心に与える悪影響についての研究や調査が発表されてきたので、それにつれて少し理解されるようになってきました。

この「多幸の罠」に抵抗するのは、今世紀最大の神学者の1人であり、ナチスと戦ったパウル・ティリッヒの名著『生きる勇気』で示唆したあの姿勢ーーそう、「にもかかわらず(trotz)」です。(P.25)


落語の中で僧侶は、大抵、辛辣な批判の対象、笑いの対象になっています。徳川幕府体制の走狗となり、幕府権力にまつろわぬ人々を、寺院の人別帳から外すなどして、排除した仏教諸勢力は、庶民のあからさまな嘲笑の対象となっていたのです。(P.35)


ブッダが解決しようとした根本問題とは何か。ブッダが治そうとした「重い病」とは何か。それは、病者とその周囲の人たちとの、相互不信なのです。(P.49)


ブッダのなそうとしていたことは、当時の社会にあった「慣習」や「常識」に対する挑戦であったということが分かります。いや、それだけではなく、「当時の社会」に対してだけではなく、慣習や常識、「みんながしているから」「昔からの習わしだから」と、自らの行為を常に不問に付す態度や人間の精神の堕落に対する挑戦であったということが分かります。(P.81)


少し考えれば、少し実証的になれば、虚構だとわかるはずのものなのに、しかし、考えさせずに、感情に訴える。感情に訴えるが故に、一見それは、分かりやすく見え、多くの支持を得るのです。(P.116)


直接的暴力とは、力であり武器、兵器です。しかし、間接的暴力、組織的暴力、社会的暴力とは、物事の複雑性を見ることを嫌がり、すべて単純に善・悪などに分けて、人なり物事なりを、「悪」や「敵」としてレッテルを貼り、「一件落着」させようとする態度をいうのでしょう。

智慧とは、単純化しないこと、常に排除されがちな「他者」「少数者」を思考の視野に入れ続けることであると思うのです。(P.117)


智慧とは「魔力に抗する力」なのです。「神通力」「魔法の力」とは何でしょうか?それは、物事をあっけなく片付ける力です。

精神分析学者のエーリッヒ・フロムは、人間のもつ「負の性向」として、魔術的性向を挙げていました。魔術はパッと鳩が出ます。パッと人が消えます。そのように、魔術的性向の人は、ある人に少し優しくされただけで、その人が全面的に「いい人だ」「イケてる」と思い、その同じ人にちょっとキツく言われただけで「ヤなやつ」と評価が極端から極端にブレるのです。(P.118)


(智慧とは)とにかく安易に、“魔術的に”、結論を出さず、いつも自分の出した結論を相対化し、さらに実相に迫ってゆく「精神の良心的な態度」をいうのです。智慧とはあくまで多様へと開かれ、単純化という暴力に抗する力なのです。(P.120)

(ブッダの言葉から)

世界はすべて輪廻的存在にすぎず、うつろい行く。私は自身(アートマン)の定まるところはないかと、求めさすらったが、自分の立場に誰もが固執していて、そうでない人などいなかった。それぞれが自分の立場を究極だ、と言っては、対立し反目し合っている。私は絶望的になった。その時私は、すべての人々の心に「見がたき1本の矢」が突き刺さっているのを見た!

その矢の勢いの慣性によって、人々は輪廻的な生存へと飛ばされるのだ。この矢させ抜いてしまえば、輪廻的生存となることはない。輪廻の激流に飲み込まれることもない。

私は思う。人を輪廻に引きずり込む激流は(輪廻を厭いながらも)いつまでも輪廻のなかに留まろうとする深層の欲望である。押し寄せる波々は、その時々の衝動的欲望である。激流に漂う漂流物は、妄執の対象物である。

過去に囚われるな。未来に対しても、なにかを妄執しないようにせよ。この今においても、儚き輪廻的存在に執着し、呪縛されることのないようにせよ。そうすれば「安住する者」として、行動することができる。

物や事柄について「これは私のものだ」という自己中心的な執着の存在しない人は、この現実世界に生きながらも、老いることはない。そのような聖者は、自分と他者を比べて、自分が優れているとか、劣っているとか、同程度であるとか、煩うことはない。

(以上、ブッダの言葉 P.126)

これがブッダの宗教的体験であるとすれば、それは、いわゆる神秘的な「悟り」のようなものではなく「生きる姿勢」のようなものであることになります。そう、「悟り」ではなく「目覚め」です。「安住する者」として、行動することができる。のです。

現実との関わりを断ち、静かな山野に交わり、悟りの座に安住するのではないのです。それは精神を眠らせる行為です。ブッダは目覚めて、歩き出すのです。(P.127)


今まで問わなかったことを問い続けることが、「思想」なのです。

今、この国は、今まで信じて疑わなかった「大企業の信頼性」とか「一億層中流意識」とか、「無限に続く経済成長」とかが、非常に壊れやすいものであることが判明した反動として、「J回帰」現象を起こしています。「日本国民の神話的歴史」などへ統合し、回帰させようとする動きが顕著です。しかし、それは精神の停滞そのものなのです。

今まで問題でなかったものが問題になった時に、他の「問題なきもの」に逃走するのではなく、問い続けることが精神の働きなのです。(P.128)


人は「恐怖の影」を自分ではなく、他人の上に見ようとします。他人は例え老人であり、病人であり、また例えば外国人であり、「自虐史観論者」です。そして、自虐(自分の中に矢を見ること)に耐えられず、加虐に走るのです。しかし、ブッダはそれに耐え、自分の中に他者が他者として、生きることを可能にしたのです。(P.133)


「無神論」という言葉が、例えばヨーロッパではどのような戦いの中で、勝ちとられてきた言葉かーー自称「無神論者」の人たちは理解しているのでしょうか。「神」の権威を振りかざす王や権力者の間で行なわれた戦いの熾烈さを、想起しているのでしょうか。おそらく「真の無神論者」がもっとも嫌悪するのが、年中行事として形骸化した祭式でしょう。それこそが、権力者が作り上げた「虚構の共同体の維持装置」なのですから。

「初詣は宗教じゃない。みんながやっている習慣なんだ」しっかり神だのみをしている事実を覆い隠すように「仮称無神論者」は言います。この習慣というのが曲者なのです。「習慣」とは、フーコーが「権力のまなざし」として感じ、ベンヤミンが「勝者の歴史」と見抜いたものに通じるのです。そして、まさに仏教が疑問を投げかけた、サンカーラそのものなのです。(P.151ー152)


プンナカという弟子の「何故、世間では儀式が行なわれるのですか」という質問に、ブッダはこう答えました。

人々が儀式を行うのは「今の自分」執着しているからである。老いなど「今の自分」と異なるものに不安と嫌悪を抱くから儀式を行うのである(『スッタ・ニパータ』、V)

「今の自分」は「今の社会の仕組み」「今の世間の常識」に複雑に呪縛されています。「今の自分」「今の境遇」の延長に対する欲望は「今の社会の存続」を何の疑いもなく、受け入れることになるのです。(P.152)


ブッダの臨終がせまってきたとき、「世間にはさまざまな哲学者、聖人がいます。そのうち、真理を誰が知り、誰が知らないのか」と、スパッタという男が訊ねたのです。これが死を前にした人に対する態度でしょうか。疑問のための疑問、偽りの求道、虚構の希求!ブッダの解答は簡潔で鋭いものでした。

「私は29(一説には19)歳で、聖なるものを希求して家を出た。以来、50年あまり、私は道理と真理の道を歩んできた」

私の人生を見よ、というのです。目の前の私の姿を見よ、と言うのです。偽りの希求をするスパッタに対して、最高の解答です。(P.159ー160)


ブッダは「何か」と言う言葉で表される実体的、固定的なもの“を”知ったのではなく、その固定的なもの“から”離れたのです。「何か」という固定的、実体的なものは「悟るべき対象」ではなく、そこから「離れるべき呪縛」「目覚めるべき夢」なのです。(P.165)


立場や意見はそれに固執してしまえば、固定的なドグマ(教義)になってしまうのです。「悟り」もそうです。固定的、実体的であるゆえに「悟り」も一種のドグマ(教義)に過ぎないのです。

では、ブッダは何の立場も意見ももたないのか?その時その時、最大限に何をすべきかを、考え抜いた人がブッダです。ただ、ブッダはその自分の考えすらも常に越えよう、突破しようとしたのです。(P.166)


永遠に今の自分から目覚め続け、今の自分を突破しつづけたブッダーーしかし、ブッダの死後の仏教の歴史は、ブッダに「悟り」を押しつけたのです。

弟子たちは、ブッダの思想を、法数という、いわゆる12因縁などの数で整理してゆきました。この時に生きられるべき宗教が、学ばれるべき学問になってしまったのです。

常に整理やまとめを逸脱していくのが、真実でしょう。しかし、整理もまとめも、他者に伝えていったりする時には必要であることも事実です。要はまとめきれないものへの目配せがあるかどうかなのです。(P.168)


ブッダは「人々が理解しない場合は徒労となり、悩みとなる」とも考えました。当時、多くの宗教者は、林の中で、ヨーガの瞑想を行なって、悟りを得たのです。しかし、ブッダの心は止まらず「揺れ」ました。その揺れは、先に述べた「他者へのまなざし」の故です。心が揺れては瞑想になりません。ここからが他の宗教家との「異なり」です。

ブッダの思想の特徴は「立場」を永遠に突破するところにあります。一つの立場に固執することから、常に飛躍するところにあります。「悟り」もひとつの立場です。「瞑想」もひとつの立場です。永遠の脱出者ブッダは、心地よき悟りから脱出しようとするのです。「心地よさ」はくせ者です。「心地よさ」は立場を構築してしまったことへの表れです。安らかな繭の中で、快適な惰眠を貪るのです。(P.174ー175)


固定化、実体化した「悟り」こそ、ブッダが批判し、否定したものです。(P.179)

(引用終了)


本書からメモした言葉は、まだいっぱいあって、特に「業報輪廻思想(カルマ)」についての内容は、また別の記事で紹介できればと思います。

さて、

このところ、世界中の神々について考えてる時間が長くて、
それで、わかったことなんですけど、、

私は、これまで「Rock & Roll」と言われると、なんか、自分の聴いてきた「Rock」ではないというか、特に日本人ロッカーの「ロケンロール」とか「シェケナ・ベイビィ」wとか、さっぱりわからないわ、恥ずいわで、苦手だったんですけど、

やっぱり、本書からも「& Roll」ってところが、すごく大事だってことがわかりました。

そんな気分でいるせいか、最近、毎日のように、何度も何度も聴いてしまう曲を最後に。

みんな行くよぉーーーーーーーーー!

♪feelin Comes... Feelin' Come... Feelin' Come To Me…

とり憑いた悪魔でも、天使でも、Baby Wanna Rock'n Rollーーーーー

絡みつくような鎖なんて捨てちまえっ!♫




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by yomodalite | 2013-01-29 09:28 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)
本当にどこまで執拗なのかと思うくらい、小沢氏は叩きのめされ、原発事故の教訓は、その責任者には及ばず、放射能の恐怖は、日本をますます独立国家から遠ざかる戦略を押し進め、日中戦争も、もはや避けられないというか、経済界のトップも、それと常に同調するマスコミも「中国と戦おう!」でまとまっていて、

彼らはそれが「リアリスト」であり、その考えが「賢い」のだと思っているようです。

まったく、愚かな歴史の繰り返しに、何の反省もなく、
ただ、大樹に寄り添ってるだけのくせに、、

がっぺ、むかつくっ!

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この怒りと、虚しさをどうすればいいのかは、わからないものの、

でも、毎日、時は流れていくし、電気は使うし、ごはんも作らないとね、、

と思う、歴史と、食と、エネルギーに、興味がある方なら、
本書のタイトルに「ハッ」とされるはず。

副島氏の「癒し系」おすすめ本、第二弾は『個人備蓄の時代』


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(写真は、本書の2ページより)



下記は「あとがき」と「第8章」から、省略して引用。

私はこの半年間、個人備蓄を目指す人々が、一般国民が、自分で手に入れることのできる技術と知恵を調べて集めた。こんなものしか集められなかった。しかし大事なことは、自分に出来る限りのことをすることだ。出来もしないことを、高望みしてやろうと思うのは間違いである。

大災害(大地震)と恐慌(経済危機)と戦争(軍事衝突)が迫り来ることを心配して、ビクビク生きる、というのは愚の骨頂である。

備える(準備する)だけのことをやって、そして安心すべきである。

人に頼らない。政府(行政)にも頼らない。どうせ、いざと言う時には誰も人のことなど構っていられない。自分のことは自分でやるしかないのだ。自分にできるだけのことをするしかない。それで十分である。(以上、あとがきより)

第8章では、

日々の生活に追われ毎月の収入でようやく暮らしが成り立っているような人々(サラリーマン階級)には、「いざという時の準備、備蓄」など、実際上できないのである。だから、この『個人備蓄のすすめ』は小金持ち層のみなさんに向けた本だ。

と、書かれています。

確かに、災害に備えてもう一軒、自宅とは離れた土地に別の家を買って、、とか、パナソニック製の蓄電池は高額ですし、太陽光パネル設置に関しても、まとまった金額が必要で、小金というよりは、小銭しかないという、私と同様の「階級」の方々には、手が出ない方法も多いのですが、

第5章「自分が食べるだけの野菜を作る」では、副島氏が実際に果樹を植え、5坪の畑で野菜を収穫された経験が語られていて、作りやすい野菜についてや、米を長期保存する方法や、手作りみそのことなど、主婦が、友人と一緒に話題にできる内容もあり、

同世代の友人だけでなく、20代のネイリストさんなども、田舎に共同の畑や、田んぼを共同で、、とか、お米の備蓄についての話とか、すごく興味をもっているというか、この頃、特にそう思うんですけど、都会で一人暮らしの男子は、今後は、賢い女子のともだちがいるかどうかで、生死を分けるんじゃないでしょうか。

政治・経済本のような表紙ですが、内容は女子会で話題にできるような事柄も多く
小銭しかなくても、小金持ちの知恵は、1400円で手に入れられます!
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☆自分に出来る限りの心構えをして、あとは死ぬまで、楽しく生きていたいと思う人へ
◎[Amazon]個人備蓄の時代

この本の「カテゴリ」どこにも当てはめられなくて、いっそのこと「戦争・軍隊」にしようかとも思ったんだけど、リバータリアニズムの実践ということで「宗教・哲学・思想」にカテゴライズしました。

◎参考書評「大摩邇(おおまに)」

[目次]

第1章 個人備蓄の時代がやってきた

迫り来る有事に備え、二件目の家を建てる中長期計画を練る

第2章 エネルギーを「自衛」する

太陽光発電 震災にびくともしなかった男たち

第3章 エネルギーを蓄える

蓄電池とEV(electric vehicle エレクトリック ビーグル)
非常用発電機を備蓄せよ

第4章 食料を蓄える
かつて日本には蔵があった

現代の蔵・零下60℃の超低温冷凍庫に食料を備蓄する

第5章 自分が食べるだけの野菜を作る

個人備蓄の根本思想 米の長期保存

第6章 世界で、日本で、エネルギー戦争が始まっている

中国メーカーが崩壊させる太陽光パネルの価格市場
ソフトバンク孫正義の野望

第7章 メガソーラー人気は3年で終わる

あまりにも不安定な太陽光の出力、
国の主要電力にはなり得ない

第8章 個人備蓄をしたものが生き残る  
金、実物資産……。徹底的に実物を備えよ





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by yomodalite | 2012-12-13 08:25 | 宗教・哲学・思想 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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