カテゴリ:科学・環境問題( 23 )

シンギュラリティ:人工知能から超知能へ

マレー・シャナハン/エヌティティ出版

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現代は、日本でもその他の先進国でも、未来への希望より、昔に戻りたいという欲望が噴出しているように感じるのですが、そのひとつの要因が、「人工知能」の進歩ではないでしょうか。

本書は、2015年に出版された「The Technological Singularity」の日本版で、マサチューセッツ工科大学に次いで世界大2位の最難関大学と言われるインペリアル・カレッジ・ロンドンの教授で、認知ロボット工学の専門家であるマレー・シャナハンが書いた本。間近に迫ってきた人間レベルのAIの可能性について、具体的な話が展開されています。

汎用人工知能とはどういったものか?という、第1章・人工知能への複数の道、脳をコピーし、マッピングする・・という、第2章・全能エミュレーション、そして、機械学習アルゴリズムとか、ビッグデータによる人工知能、人間レベルのAIは、どこまで人間レベルなのか?もしくは、どこまで人間らしくするか?といった、第3章・AIの設計、生体脳と違い、脳のエミュレーションでは任意に何度でもコピーすることができる。生体脳とちがって、デジタル脳は加速できる。という第4章・超知能。

ここまでで、本書の半分ぐらい。

よく出来たSF映画の10倍以上怖いというか、AIの擬人化についての想像が身に迫ってきて、すでに胸が苦しくなるぐらいなんですが、

AIが感じる自己認識や、苦しさといった、第5章・AIの意識から、人間レベルのAIから、人間以上の「超知能」と、人間がどう亜変わっていくのかという、第6章・人間に及ぼすインパクト。

第7章は、「天国か地獄か」という章題ですが、私にはここに「天国」を見出すのはむつかしかったです。




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by yomodalite | 2016-07-12 07:00 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)

物理学者が解き明かす重大事件の真相

下條 竜夫/ビジネス社



とりあげられている重大事件は、「福島第一原発事故」、「福知山線脱線事故」、「STAP細胞と小保方晴子問題」、「和歌山毒カレー事件」の4件。


ニュースでおなじみのそれぞれ一冊通して語られるような話題から、文系にはなかなか理解できない物理学の世界をちょっぴり垣間見れるという点で希少な本なのですが、第6章からは「地球温暖化問題」や「ビッグバン」を通して、現代物理学はどこまで正しいのか?という問いにも答えられ、

最終章「仁科芳雄こそが〈日本物理学の父〉である」では、物理学者が国家防衛のために生み出した兵器「原爆」とその平和利用として考えられた「原発」が、日本の物理学に与えた影響について、筆者は大学の准教授であるにも関わらず、かなり踏み込まれた話をされています。全体を通して、いわゆる陰謀論風味はまったくなく、恐怖を煽って扇動するようなところもありませんが、なかなか「危険な本」だと思いました(もちろん良い意味で)。

そんな興味深い本書の中から、

ビッグバンを疑っていたマイケルのために、第7章の「現代物理学は本当に正しいのか?」から、メモしておきます。

(省略して引用しています)

1995年ごろ、書店の科学のコーナーには、「相対性理論は本当か?」とか、「ビッグバン理論は間違っている」という現代物理を否定する本がたくさん平積みで置いてあった。相対性理論では、運動している物体と、していない物体では時間の進み方がちがうという奇妙なことが起きる。また、ビッグバン理論では宇宙の起源は138億年前であるとはっきり決定しており、それ以前は宇宙も時間も存在していなかったという。どちらも、我々の常識から大きくはずれていることもあって、この手の現代物理学を否定する本がたくさん売れた。

 

 私はこれらの本を「異端本」と呼んでいる。異端(heresy)とは、異端者(heretic)が唱えた異説のことだ。異端者は、ローマ教会に逆らって正統でない学説をとなえたために火炙りにされた。ローマ教会が正統と認める天動説に対して地動説を唱えたガリレオ・ガリレイは、火炙りにはされなかったが、まさに異端者だった。多くの物理学者が正統と見なしている現代物理学を否定する人たちは、まさに現代の異端者だ。

 

 私は物理の専門家なので、理論の初歩のところは正確に理解している。相対性理論の「異端本」のいくつかは、相対性理論の基本的な理解でつまずいていた。我々は日頃、筒単に「同時」にという言葉をよく使う。しかし、相対性理論では、この「同時」が、見る人によって違う。だから、この「同時」を我々の日常生活と同じ「同時に」として考えるとたくさんの矛盾がでてきて、相対性理論が間違って見える。つまり、相対性理論(relativity theory)とは、「時間」と「長さ」はその測定者によって違う、時問は独立しているのではなく、測定者そのものと「関係(relate)している。(×相対的ではない)という理論なのである。

 

 同じく異端本で取り上げられる「ビックバン理論」のほうはどうだろうか? 近藤陽次というNASAにいた天休物理学者が書いた『世界の論争・ビッグバンはあったか ー 決定的な証拠は見当たらない』(講談社ブルーバックス、2000年)という本がある。私はこの本を読み、ビッグバン理論は宇宙物理学者の間ではまだ正しいとは認められていないとずっと思っていて「ビックバン理論」を異端とする本には、それほど違和感はなかった。

 

 ところが、最近、高校の物理の教科書を問いて見たら、「ビッグバン理論」がすでに取り上げられていてひどく驚いた。教科書に掲載されたということは、「ビッグバン理論は正しい、ビッグバンは本当にあった」と認められたことと等しい。ビッグバン理論から派生する「インフレーション理論」も高校の教科書に掲載されていて、さらに驚いた。これも仮説の理論だと私は思っていたからだ。「ビッグバン理論、インフレーション理論は正しい理論である」と、教科書執筆者とこれを検定した文科省ははっきり宣言したわけだ。


 相対性理論や宇宙物理学などの高度な数学を使う現代物理学は、専門家以外はほとんど理解できない。私は物理学者のはしくれ(原子分子物理という分野の専門家)だが、ビックバン理論や相対性理論は間違っているのか?と聞かれても、この領域の専門家ではないので、正しいのか正しくないのか、まったくわからない、数学をつかって確かめることもできないので、ここでは「科学哲学」を使って現代物理学そのものを疑ってみる。そもそも「哲学」とは、あるものごとが正しいか、間違っているかがわからないときに、その判断の指標を与えてくれるものである。アイン・ランドが、『哲学:誰がそれを必要とするか』という本の中でそう語っている。


マッハの科学哲学

 

 パートランド・ラッセルというイギリスの有名な哲学者兼数学者がいる。彼が中心となり、「科学哲学」と呼ばれる哲学の一分野をつくった。「科学(science)とは何なのか、何をするための学問か、科学が記述することははたして正しいのか」を取り上げる学問で、もともとは科学に対しては、中立的な立場だったが、だんだんと、科学哲学は現代科学を擁護つまり賞賛するために使われるようになっている。

 

 例えば、有名な科学哲学者のカール・ポパーとファイヤ・アーベントは「反証可能性(Falsifiability)」という理論をつくった。この「反証可能性」は訳が変で、本当は「科学は間違うことができる」という理論である。科学では、間違う可能性が高い仮説ほど価値があるという考え方だ。ところが、それがなぜか、「反証する理論に対して批判が生まれたとき、それを論破して証明できれば、それは科学であり、反証することができなければ、それは科学ではない」という考え方に変わり、「似非科学」「疑似科学」を排除し、正確に科学・非科学の境界を定めることができるとされている。このやり方で科学・非科学の境界を定めると、現在、科学のようだと考えられているものでも、厳密な反対尋問に耐えられない限り、科学とは認められない。例えば、民間療法のようなものは、科学的でないとして、「似非科学」というレッテルをはられ、否定される。逆に、厳しい反対尋問に耐えられれば科学と認められるため、些細な重箱の隅をつつくような研究も、重要な研究として重宝されている。

 

 しかし、科学哲学というのは、我々が、今まさに、「これは科学であり真理である」と認めていることが、本当に正しいのかを議論する学問である。むしろ、疑いようのない立派な説を疑うための試金石であり、現代の科学が取り扱う理論そのものを疑うためのものだ。科学哲学は、「疑似科学」「似非科学」として未完の科学を排除するための学問では決してない。このことがわからないと科学哲学の偉大さが理解できないと私は思う。

 

 そこで、科学哲学を理解するために、オーストリアの物理学者で、科学史家・哲学者でもあるエルンスト・マッハという偉大な科学哲学の先駆者を紹介する。「マッハの科学哲学」がわかると、科学哲学そのものが、なぜ存在するのかがよく理解できる。前述したカール・ポパーの「反証可能性」とか、トーマス・クーンの「パラダイム理論」も、本当はマッハの科学哲学から派生したものだ。


 マッハの考え方を具体的に説明する前に、マッハが現在生きていたら現代物理学についてどういうか、逆に現代物理学者がマッハをどう思うかについて書いておこう。佐藤文隆京都大学名誉教授が書いた『職業としての科学』(岩波新書、2011年)という本には、マッハの科学哲学のことが詳細に書かれている。佐藤教授は、ビッグバンなどの宇宙物理で有名な理論物理学者だ。普通の理論物理学者であれば、マッハに言及することはできない。なぜなら、マッハが生きていたら、理論物理学者に面と向かって、彼の理論を罵倒したはずだからだ。


 エルンスト・マッハは、19世紀末・20世紀初頭のヨーロッパで流体力学、波動論(kinematic wave theory)で大きな貢献をした、オーストリア学派=ウィーン・ブント(ウィーン学団)の偉大なる創始者であるが、特に物理学者たちの間では評判がよくない。マッハは「人間に見えない原子というものがはたして存在するかどうかわからない」と断言し、そのことで原子論を唱えたボルツマンを自殺に追い込んだ、とうわさされている。そのため、マッハの科学哲学は、現在では「道具主義(instrumentalism)」だと言われ、低い評価しか受けていない。マッハの科学哲学は、いかなるものなのか。エルンスト・マッハの「力学」から引用してみよう。


 あらゆる科学は、ある事実を人間の思考の中に模写し転写することによって、経験に置きかえる。そうすることで経験を節約するという使命をもつのである。模写は経験それ自身よりも手軽に手許においておけるし、多くの点で経験を代行できる。科学のもつ、この安上がりですますことの機能こそが、科学の本質を貫いている。このことは一般的に考えても明らかとなろう(中略)私たちは事実を思考の中に模写するとき、決して事実をそのまま模写してはいない。私たちにとって重要な側面だけを模写するのである。このとき私たちは直接的にせよ間接的にせよ、ある目標をもった実益をめざしている。私たちが模写するときはいつも抽象(abstract)しているのだ。ここにもまた経済的性格(思考時間を節約している)があらわれている。 (エルンスト・マッハ『力学』)

 マッハはこのように書いている。ここに、「科学は、実験結果・経験的事実をより分かりやすく、より経済的に、より労力を節約して理解するための道具に過ぎない」としている。ここには「真理」は存在しない。さらにマッハは人間の「感覚」の大切さを力説している。


 人間の感性的諸事実こそが、こうして、物理学者のありとあらゆる思想適応の出発点であり、また目標である。人間の感性的諸事実に直接に従おうという思想は、私たちに最も馴染み深い、最も強い、最も直接的な思想である。新しい事実に直ちに従うことができない場合には、その事実に、より豊富でより明確な形を与えるべく、最も強力で最も馴染み深い思想が押し追ってくる。科学上の仮説や思弁は、いずれもこれに基づく。(エルンスト・マッハ『感覚の分析』)

 ここでマッハは、あらゆる自然科学で議論するときの「事実」なるものは、経験的に確かめたもの、私たち人問感覚でとらえることができるものであるとしている。そうでなければ、その事実は事実として認められないと述べている。マッハだけでなく、いわゆる「ポジティビスト」や、「実証主義者」と呼ばれる学者たちは、次のように考える。

 

 理論はある場合は成立し、ある場合は成立しない。しかし観測した事実、体験した諸事実は確かな科学の基礎と土台になる。だから、これらの観測した事実、体験した諸事実こそが、科学的な推測(reasoning)や推論を始める最初の第一歩でなければならない。多数の人びとに認められている理論が先にあるのではなく、私たちの目の前に確かにある事実こそが、マッハの手法の土台である。

 

 我々も日頃、経験するように、あやふやな伝聞、間違って広められた事実など、「不確かな事実」がたくさんあり、対立する複数の視点から傍観すると、同じ出来事がまったく道う出来事だったことに気づく。この手法により観客を混乱させた黒澤明監督の名作映画『羅生門』では、盗賊、武士、その武士の妻の3人の登場人物が、同じ出来事を三者三様のとらえ方をしている様子を描き出していた。


 マッハは、人間の感覚でとらえられたもの、よく体験する事実だけを真の事実とした。それ以外はどんな理論でも前提にすることはしなかった。そして、私が前述したとおり、科学なるものを、それらの諧事実を簡潔あるいは思考節約して理解するための道具として定義づけた。そうして科学の役割を明確に定義づけ、かつ限定した。ある科学理論が正しいか正しくないかよりも、その科学理論が有用であるか有用でないかのほうが世の中にとっては重要だということだ。マッハは、「実用主義(pragmatism」とアメリカの学者世界で呼ばれるようになった学問の祖である。


 このアメリカの学問世界では主流派である実用主義の考え方は、「科学とは真理を求めるためのものである」という普通の人びとがもつ考え方とは、大きなズレがある。例えば竹内薫という物理学者がいる。彼が書いた本に『99・9%は仮説 ― 思いこみで判断しないための考え方』(光文社新書、2006年)という本がある。この本に書かれているとおり、真理といわれているものは疑われるべきである。しかし、この題名には、逆に言えば「仮説として出されたものでも、反論とその再反論を繰り返すうちにいつかはO・I%の真理に辿り着く」という意味が含まれている。実はこれはカール・ポパーの反証主義そのものである。

 

 ところがマッハはこの考え方さえ取らない。「科学はもともと真理とは関係ない」とマッハは強く断言している。イギリスの代表的な英語辞書であるOxford Advanced Learner’s(OALD)にも、「科学」とは次のようなものであると、はっきりと定義されている。


 (日本語訳)科学とは、人間が実験などで証明できる事実に基づいていること。それによって証明された自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識。

明確に、科学は自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識にすぎないと述べてある。そして、法則(law)とは、この「自然界と物理的世界の構造と振る舞いについての知識」をもっとも経済的かつ簡潔に記述したものに過ぎない。これがマッハの主張である。


 この考え方は、今考えても、非常に過激である。マッハは「見えない原子というものが存在するか、人間にはわからない」として、原子論を唱えたボルツマンと対立し、激しい論争を繰り広げた。このことは既述した。そのために、ボルツマンはうつ病に苦しみ、白殺した。当時、すでに、原子や分子なるものが存在するだろうという間接的な証拠がたくさんあった。現在の我々から見れば、原子の存在を認めてもいいと思う。それに対し、マッハは「感覚する(見る、触る)ことができなければ、それは存在するかどうかはわからない」として原子の存在を認めなかった。恐るべき頑固さである。

 

 マッハが生きていたら、「ビッグバンが本当にあったというのなら、実際に起こして私に見せてくれないか? できないのか、じゃあ、あったことがどうしてわかるんだ?」と本当に言ったと思う。これがマッハという希代の大天才学者が築き上げた科学哲学である。マッハは「実際に人間の五感で確かめられないものは、存在しない」といった。だから、マッハの目からすれば、ビッグバン理論やそこから派生した宇宙生成時のインフレーション理論も空想や戯言に過ぎない。

 

 現代物理学の最高峰とされる素粒子物理も同じだ。もし、マッハが生きていたら、「クオークという素粒子が存在するというのなら、ここでそれを見せてくれないか」と必ず言ったはずだ。クオークは、陽子、中性子などの素粒子を構成している究極の物質だとされている。しかし、クオークという素粒子は、検出することができない。クオークは実は架空の粒子で、今でも観測されていない。「存在する」と仮定すると、存在する素粒子(陽子、中性子、中間子)の性質が実にうまく説明できる。だから、その存在が世界の物理学会で認められている。矛盾する実験結果もない。ところが、不思議なことにクオークそのものは、どんな実験装置を使っても今なお検出できていない。観測できないのはクオークが「色」の性質をもっており、合わせて「白色」にならないと観測できないという理論までできている。

 

 理論的にはあるが観測できない。つまり、人間の五感では確かめられないということだ。そのような粒子は、マッハに言わせれば「存在しない」のである。しかし、現代物理学では、直接に検出不可能なものであっても、数学的にその存在が証明されていれば、存在していると認められている。2008年にノーベル物理学質を、南部陽一郎、小林誠、益川敏英の日本人3人が受賞した。小林・益川の理論は、新しいクオークを予言したことで有名だ。「CP対称性の破れ」という実験結果から、クオークは3つではなく、さらにもう3つなければ実験結果とあわないと数学的に証明した論文が認められ、ノーベル物理学賞を受賞した。この6つのクオークはあくまで数式の中でのみ存在する。実在することを、直接、確かめるのに成功した実験はない。


 現代に生きている我々からすると、マッハの哲学は、「それじゃ、先生。それが本当に有ると言うのなら、ここで見せてくれませんか」と、酔っ払いがくだを巻いて言いそうなことで、彼の属する学派の考えを大きく理解しないと、マッハがいったい何を根拠にしているのかが理解できない。そこでマッハの属する学派である中世のノミナリスト(唯名論者、個物派)について説明する。


 ヨーロッパでは、14世紀に普遍論争(universalienstreit)と呼ばれる神学論争が行われた。ノミナリストと、これに対抗するイデアリスト(観念論者)の間で繰り広げられた論争である。ノミナリストは「実在するのは個物だけである。すなわち、ものは、ただ個々のものとしてあるだけだ」と主張した。それに対し、イデアリストは、「個物に先立って、普遍なるものが実在する。この世界には普遍的なもの、すなわちイデアなるもの(観念や理論)が存在する」と、強く主張した。だから普遍戦争とは、「普遍は、個物に先立って実在する(実念論)」のか、あるいは「個物の後に人間がつくった名辞(唯名論)に過ぎない」のかという中世スコラ学中の最大の論争である(英語で言えば、定冠詞〈the〉と不定冠詞〈a,an〉の違いに相当する)。

 

 つまりマッハが属するノミナリストの系譜の思想(ノミナリズムという)は、「ひとりひとりの信者(個々の人)」を優先する。それに対して、イデアリストの系譜には「いつ、どこでも変わることなく有る(普遍としての)教会」がある。カトリックという言葉そのものが「カトルー(普遍)」という形容詞に由来するからだ。彼らイデアリストは普遍主義であり、体制派である。教会およびローマ法王擁護の立場であった。これを否定する思想がノミナリストということばに含まれていた。だからこの論争のあった14世紀では、ノミナリストの思想はイデアリストの体制派(トーマス・アクィーナスなど)と対立する過激かつ危険な思想だった。


 ノミナリストの思想は、このように、人間ひとりひとりとしての個体を認める思想だ。だから、当然、個人を尊重する啓蒙思想(enlightenment)や、近代思想(modern thought)につながっていく。そして、マッハの哲学は、このノミナリストの思想を、20世紀の現代科学において極限まで追究したものだ。

 

有名なドイツの大哲学者、マルティン・ハイデガーもノミナリストに分類される。ハイデガーはマッハと同じことを別のことばで書いている。『存在と時間』の一節から引用する。


ニュートンの法則も、矛盾律も、一般にいかなる真理も、現存在(引用者注:人間のこと)だけが存在している間だけ真であるのである。現存在がまったく存在していなかった以前には、そして現存在が、もはやまったく存在しない以後には、いかなる真理も存在していなかったし、いかなる総理も存在していないであろう。

ここで「現存在」とは、死んでしまう我々人間のことだ。人間は死んでしまうので存在が「現(いま)」に限定されている。そこで無限(永遠)の存在(神)に対して、現存在という呼び方をしている。


 「我々人間(人類)がこの地上からいなくなったとしても、ニュートンの法則などの物理法則はそのまま存在する」と考えるのが普通だ。一般的な日本人が持っている考え方だ。しかし、ハイデガーは、それをきっぱり否定した。「我々人間が死に絶えて滅びれば、そもそも、ニュートンの法則などは存在しないのだ」と彼は主張した。だから、ハイデガーの主張はエルンスト・マッハの言論とそっくり同じであり、同じ学派なのである。

 

 ノミナリストは、「自分が死んだら、世界そのものが終わる」と考えている。つまり、人間の感覚と思考そのものが、極限まで高く評価されている。言い換えれば「人間が死ぬとはその感覚と思考が停止すること」であり、死ぬと「世界が終わる」のである。さらに、人間の感覚と思考に反する絶対的なもの、つまり絶対神とか、この世を支配する自然法則を、人間が勝手に頭で考えた妄想(それはただの「名前」である)として、認めない。ノミナリストの思想は、ヨーロッパ全体を支配するローマ教会という体制派の神学との激しい戦いの中から生まれてきたので少々のことでは揺らがない。


 このようにエルンスト・マッハは観測可能なものだけが実際に存在する、すなわち実存していると考える。これが西洋哲学の基本にある考えである。かつ同時に最高級の考え方でもある。今でもこれ以上のものはない


 だから、エルンスト・マッハの科学哲学にしたがえば、現代物理学および現代科学には大きな欠点があることになる。では、具体的には、どこに問題があるのか? 本当に現代物理学が間違っている可能性があるのか? もし間違っている可能性があるとしたら何なのか? このことを、「ビッグバン理論」を対象にして考えてみよう。

              

 あまり知られていないが、ピックバンを否定する実験事実は、実は昔からたくさんある。特に天体観測の実験結果と矛盾するそうだ。最近でも、日本が誇る天体望遠鏡「すばる」によって、宇宙の果て130億光年ぐらい先のところに古い銀河があるという事実が得られた。このことはビッグバン理論と矛盾する実験結果だ。「ビッグバン(宇宙の始めの大爆発)が起こってから銀河ができた」とされているのに、古い銀河が宇宙の果てのほうにあると、ビッグバン以前にすでに銀河があったことになってしまう。次に引用する文は、佐藤文隆という京都大学名誉教授でビッグバン理論を長い間研究してきた宇宙物理学者に対して行われたインタビュー形式の文章である。あらかじめ断っておくと、引用する文の前では、ビッグバン理論がいかに正しいかを佐藤教授は述べていた。ところが佐藤教授自身が論調を急に変えた。佐藤文隆教授が、口を滑らして本音が出たと私は思う。


 ビッグバン批判の記事に書かれていることは、大半がもっともである。逆にいうと、批判としては何も目新しいことを言っていない。だがこのような批判があるにもかかわらず、私たち多くの専門家はなぜ「ビッグバン宇宙はもう駄目だ」と思わないのか。宇宙論に興味のある人は、まずこの事実にこそ注目すべきである。それが宇宙論の理解を一番早める。

佐藤教授が考える理由は、ここで話題になっている宇宙論の研究が物理学の一環をなしているという事実である。つまり、宇宙論での“もっともらしさ”の判定基準は、物理学全体の体系との整合性にあるといえる。宇宙論という言葉は本来は、人類が自分たちの住む世界を描写しようとする試みを意味する。これに対して、私がここで問題にしている宇宙論は「物理学の宇宙論」である。天体宇宙を餌食にして物理学の宇宙論を謳歌しているのである。


 実験物理のようにゴチャゴチャしていない何かスッキリした教えが宇宙論にはあるかもしれないと読者が期待しているなら、この分野はそれとは無縁である。宇宙論では物理学の応用が行われているのであり、また物理学の基礎はこのような応用で、より広範な普遍性が確かめられたのである。(佐藤文隆京都大学教授「ビッグバンのみが科学理論だ!」学研『大科学論争』所収、1998年)

 佐藤教授の発言の中で最も重要なのは「宇宙論での宇宙論での“もっともらしさ”の判定基準は、物理学の体系との整合性にある」という部分だ。実はビッグバン直後の理論と高子不ルギーの素粒子の理論の2つはうまくあう。つまり物理学全体の体系がうまく整合しているのである。これをわかりやすく説明すると、「ビッグバン理論と天体観測の結果は、いくら矛盾を起こしてもいい。ビッグバン理論を否定する天体観測結果がたくさんでても構わない。それだけではビッグバン理論は間違いであるとはならない。既存の物理学の諸法則と宇宙物理学の理論とが矛盾を起こしたときにだけ、そのときだけ、ビッグバン理論は否定される」。

 

 それでは、もしビッグバン理論が間違っているとしたら、既存のどの物理法則が否定されるのだろうか? 考えられる例をひとつだけ挙げておく。シカゴ大学にウィリアム・マクミランという物理学者がいる。彼は「光が長い距離を走る際には、その光は徐々に自分のエネルギーを失って、波長を変えるのではないか」と述べた。たったこれだけの理由付けでも、赤方偏移という現象が説明できてしまう。だんだん波長を変えるので、遠くから来る光はその波長を大きく赤いほうにずらす。つまり、光の波長がずれるのは、光そのものの性質でドップラー効果ではない、ということだ。しかし、このことは現代物理学では簡単に否定できる。なぜなら「エネルギーを失って」と述べているように、これは「エネルギー保存の法則」と矛盾するからだ。つまり、真空中を走る光は、常に一定の波長にしかならない。だから、このような「エネルギー保存の法則」に反することがないかぎり、この理論は成立しない。

 

 このように現代物理学は、既存の物理の定理、法則、原理の上に成り立つ。まさに、佐藤文隆氏が言うように、“もっともらしさ”の判定基準は、物理学の体系との整合性にある」の通りだ。


数学的にだけ証明されている現代物理


 「自然という偉大な書物は、数学という言語で書かれている」という有名な言葉がある。これは、ガリレオ・ガリレイの『贋金鑑識官』という書の中の言葉だ。現代物理学は「自然は数学という文字で書かれている」から、さらに進んで、「現代物理学は、数学的に証明されている」に、そしてついには「現代物理学は、実は数学である」となってしまったように私には見える。数学という学問には必ず「公理(axiom)」がある。公理とは、論証がなくても自明の真理として数学者たちに承認され、他の命題の前提となる根本命題であり、前提条件とされるものだ。数学は、この公理をもとにして、いろいろな定理を証明していく。前提となる公理が変わると、まったく違う数学体系となってしまう。公理として、一番有名なのは、「ユークリッド幾何学」と「非ユークリッド幾何学」だ。「2つの点を結ぶ直線はただ1つ引くことができる」あるいは「平行な直線は交わることはない」を公理としてできたものが「ユークリッド幾何学」で、逆に「2つの点を結ぶ直線は無数に存在する」「平行な2つの直線であっても交わる」を公理としてできたものが「非ユークリッド幾何学」だ。このようにしてある公理が否定されると、まったく別の新しい数学体系ができあがる。

 

 このことが、現代物理学にもまったく同じようにあてはまる。物理学にはさまざまな法則、原理、理論がある。これらは、まさに、数学の「公理」に相当する。例えば、この章の最初に取り上げた「相対性理論」は、完全に「光速度一定の法則」という「公理」によって、ビッグバン理論は「エネルギー保存の法則」を前提にして成立している。逆から言うと、前提となる既存の物理法則や原理がひっくり返ると、ビッグバン理論も素粒子理論も揺らいでしまう可能性がある。それが現代物理学だ。2012年に光速度以上で走るニュートリノがあると話題になった。ニュートリノは素粒子のIつで、1987年に物理学者の小柴昌悛氏(2002年ノーベル物理学言受賞)が観測に成功し、有名になった。ニュートリノが光速度を越えるとして世界中で話題になったわけだ。しかし、光速を越える物質の存在は「測定の間違い」で決着がついた。

 

 このような実験結果で出ると、体系がその土台から崩れてしまう可能性が本当にあった。結局間違いだったということだが、ここで私が説明したように、基本定理(数学上は公理)に間違いがあると、すべての理論がちゃぶ台をひっくり返したように怪しくなる。だから物理学者の多くが疑心暗鬼におちいりながらも、この実験の結果の正否を固唾をのんで見守っていたのである。


(引用終了)


◎[Amazon]物理学者が解き明かす重大事件の真相


第1章 理科系の目からみた福島第一原発事故(1)ー 福島第一原発事故の放射性物質放出量の過大評価とそのねらい


第2章 理科系の目からみた福島第一原発事故(2)ー マスコミが伝えない原発事故の真実


第3章 福知山線脱線(尼崎JR脱線)事故は車両の軽量化が原因である ー 理系の目から事件の真相を解明する


第4章 STAP細胞と小保方晴子氏について ー 緑色に光る小さな細胞は本当に存在する


第5章 和歌山毒カレー事件の犯人を林眞須美被告と特定した証拠は本物か?ー 理科系の「科学的に証明された」ということばが、いつも正しいとは限らない


第6章 排出権取引に利用された地球温暖化問題 ー 科学では地球の未来はわからない


第7章 現代物理学は本当に正しいのか?ー 正さの判定基準は、物理学の体系との整合性にある


第8章 仁科芳雄こそが「日本物理学の父」である ー 政治的に葬られた日本の物理学の英雄をここに復活させる


下條竜夫(げじょう・たつお)/兵庫県立大学理学部准教授。理学博士。専門は原子分子物理、物理化学。1964年、東京生まれ。1987年、早稲田大学理工学部応用物理学科卒業。チューリッヒ大学物理化学研究所、分子科学研究所を経て、現在兵庫県立大准教授。『放射能のタブー』(「福島第一原発から大気に放出された放射性物質のベクレル量はチェルノブイリの1000分の1」)、『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(「ジャーディン=マセソン商会が育てた日本工学の父・山尾庸三」)


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by yomodalite | 2016-04-27 17:04 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)
2ヶ月ほど前に、60年代の映画『アラバマ物語』をDVDで見直したんですが、再発版には、出演者だけではなく、当時のアラバマ住民が、南部の歴史やその頃の生活について語っている90分のメイキング・ドキュメンタリが収録されていて、そのタイトルが『Fearful Symmetry』。

オープニングで、ブレイクの『Tyger』が引用され、詩の中の “Fearful Symmetry” が拡大されて、タイトルバックになるのですが、当時の激しい人種差別や、村民同士の対立、そういった白人の世界と黒人の世界を『Fearful Symmetry』と名付けるセンスがよくわかりませんでした。


それで、尊敬するF先生にメールで質問したところ、ドキュメンタリ作者の意図はわからないものの、シンメトリと神のクリエイションの関連を考える良い糧になるでしょう。と、物理の世界におけるポピュラーな評論書である、本書を紹介していただきました。(原題:Fearful Symmetry:The Search for Beauty in Modern Physics, New York, 1986)

対称性は、物理の世界ではたいへん重要な事柄のようですが、南部陽一郎氏らがノーベル物理学賞を受賞された「自発的な対称性の破れ(Spontaneous Symmerty Breaking)」のように、自明だった対称性が仮定にすぎない。。。というようなことが、アインシュタインや、マイケルのGODへの想いを覆すものなのかどうか。

神の方程式は本当に美しいのか?ということ。

パリティも、ゲージも、クォークについても、基礎的な物理学や、宇宙についてのことも、これまでにも何度も挫折していて、こちらの本も、著者が優しく書いてくれていることはひしひしと伝わるものの、理解するまでには至っていないんですが、私が知りたいと思っていたことを書いてくれている本には違いないので、

いつかきっと。という想いをこめて、

相対論から、80年代初頭までの物理理論の展開をシンメトリーの視点から描いた本書のことを、

少しだけメモしておきます。


(引用開始)

物理学が進歩していくにつれ重要になってきたのは、美を感じ取る力である。究極のデザイナーの心を読みとるために、物理学者たちは対称性と美から成り立っているものへと、その関心をむけることになったのである。夜のしじまの中で、まだ夢みられたこともないような対称性について、語りかけてくる声に耳を傾けているのである。

かつて、アルバート・アインシュタインは次のように語った。

「私は、この世界を神がどう創ったか、それを知りたいのだ。したがって、あれやこれやの現象や、あれやこれらの要素のつながりには関心がない。私は神の考えを知りたいのであって、その他のことはとるに足らないことなのだ。」

確かに、物理学の方程式の中には醜いものもあるが、われわれにしてみれば、そんなものは書き留めるのはおろか、それを見ることさえ我慢ならないのであって、かの創造主がこの宇宙をデザインするにあたって、美しい方程式だけを用いたのは疑いないことだと、そう確信しているのだ。事実、この自然を記述しているという2つの方程式が与えられて、その間で選択を迫られるとき、われわれが選ぶのはいつも、われわれの美意識に訴える方の式である。「まず、美しさに気を配ろう、真理はあとからついてくる!」


物理学者のひとりとして、私はアインシュタインの言わんとしたそのことに、大きな魅力を感じる。もちろん今日、物理学者の圧倒的多数は、個々の特定の現象を説明することに力を注いでいる。しかし一方には、少数ではあるが、アインシュタインの知的末梢たちもいるのであり、しかも彼らはいまや、以前にも増して野心に満ちあふれている。つまり、自然界の基本デザインを求めて闇夜の森に入り込み、しかも、その限りない自信の中で、すでにそれを垣間みたと主張するまでに至っているのだ。

そうした彼らの研究を導いている基本原理は2つある。すなわち、対称性とくりこみ可能性である。くりこみ可能性というのは、異なる特徴的長さをもった物理過程どうしが互いにどう関係するのかに関わることで、これについても本書ではふれるつもりである。しかし、本書での私の関心はむしろ、基礎物理学者たちがこの自然を眺めるときの、統一的な美の視点としての対称性のほうにある。

(引用終了)







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by yomodalite | 2014-10-29 22:41 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(6)
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下記は3月15日にオノ・ヨーコからTwitterフォロワーにダイレクトメッセージとして送られたもの。遅くなりましたが、苦手な英語力でざっくり和訳してみました。

日本語部分にはご注意のうえ、気になる点は遠慮なくご指摘くださいませ。

☆続きを読む!!!
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by yomodalite | 2013-03-26 09:08 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(2)
本書は、今年(2012年)の10月に出版された本で、サブタイトルは「農業、漁業、林業、そして食卓を語り合う」。

地球や、南極や、アマゾンの原生林や、アフリカのこどもたちのビジュアルとともに、カタカナ混じりで語られる環境問題をネタにした「経済活動」ではなく、日本の農業や、林業の健全化が、私たちの健康を守り、環境をも守ることなのではないでしょうか。

下記は「まえがき」から(省略して引用しています)。

私は敗戦時に小学校二年生だった。あの社会的な価値の転換をみてしまうと、モノに直接携わることの大切さがしみじみとわかる。モノに関わらないと、むしろ不安でしょうがない。お金のやりとりだけでは、自分が宙に浮くような気がする。その気分に拍車をかけているのは、インターネットの普及である。こういう時代に、モノに携わったり、ごくふつうの日常を研究している人に会うと、ホッとする。そういう人たちを選んで、対談させてもらったのが本書になった。

(引用終了)

対談者は、下記の4名の方で、

・食卓を研究している岩村暢子氏(アサツーディケイ200Xファミリーデザイン室室長)
・田んぼには肥料も農薬も要らないという、岩澤信夫氏
・山と川に手を入れれば、漁業は復活するという、畠山重篤氏
・林学がない国の森林を救う、鋸谷茂氏

私が一番興味があった田んぼについて語られ、
対談後に亡くなられた、岩澤信夫氏との対談から、大幅に省略・抜粋して紹介します。

(引用開始)

養老:不耕起栽培、つまり、耕さない農法について知ったのは、アメリカの科学雑誌を読んだのがきっかけでした。当時アメリカでは、農業の一割がすでに不耕起になっていて、じゃあ、今までの農業は何だったんだ、という……。

岩澤:今ではアメリカの全耕地の50%以上が不耕起栽培のようですね。大型機械が導入されたことで、畑の表土が失われてしまったのですが、耕さなければ土に粘性を与えるグロマリンが働くことがわかって…(中略)

養老:1993年の大冷害のときの田んぼの様子は『究極の田んぼ』に掲載された写真で見ました。あぜ道を挟んで、不耕起の田んぼと慣行農法の田んぼがあって、違いがはっきりわかります。

岩澤:あのときは「おてんとう様が顔を出さないから冷害が起きた」と農家も学者も口をそろえて言いました。しかし、私たちの田んぼでは完全に実が入ったのですから、おてんとう様のせいではないんです。やり方を変えれば、天候が悪くてもコメはちゃんととれます。

私の不耕起栽培は、冬期湛水という農法とセットになっています。

会員の田んぼで生き物調査をしました。そうすると、イトミミズが10アール当たり、1500万匹もいる田んぼがあることがわかりました。そういう田んぼでは、イトミミズの糞がトロトロの層になって積み重なり、雑草の種を覆っています。もっとすごいのは、このトロトロ層に膨大な肥料分が含まれていることです。肥料は一切使わなくていいんです。生き物の活動だけでお米ができてしまいます。

養老:不耕起冬期湛水農法は、植物としてのイネの強さを生かす農法なのですね。

岩澤:不耕起冬期湛水の田んぼからは、何万匹というアキアカネが飛び出します。地面には、すき間がないほどタニシが棲みつきます。ドジョウもメダカもものすごく増えます。田んぼが生き物だらけになるんです。

(引用終了)

こんな素晴らしい人々がいることがわかって安心するものの、
今、変化していかないと、、と焦ってしまう内容もいっぱい。

☆食や、環境問題に興味がある方に!

◎[参考書評]ダ・ヴィンチ電子ナビ

◎[アマゾン]日本のリアル(PHP文庫)





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by yomodalite | 2012-12-07 08:46 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)

ほんとうの環境問題

池田 清彦,養老 孟司/新潮社



Twitter 2011.4.15〜4.19[原発と政治]④に記録した、「金融バブルとエネルギーバブルは同じ問題なのに」という、つぶやき。

参照動画は、『超マクロ展望 世界経済の真実』の著者、萱野稔人氏と、『TPP亡国論』の中野剛志氏の対談でしたが、

マクロ経済とか、TPPとか、そーゆー経済新聞ぽい言葉って、今イチ...っていう、わたしの同じような感性の方は、もう一度「環境問題」に関して、考え直してみるといいと思うんです。

だって、地球温暖化問題から、原発が、どんどん増えていったんですから。

CO2を利用したひとたちは、CO2悪者説に力がなくなってきたところに起きた、日本の原発事故だって、ビジネスチャンスに見えてると思います。

本書は、2008年の出版で、養老孟司氏の「環境について、ほんとうに考えるべきこと」、池田清彦氏の「環境問題の錯覚」「“環境問題”という問題」という、おふたりの対談が、まとめられています。

養老氏による、第一章の冒頭のことば。

実は環境問題とはアメリカの問題なのです。つまりアメリカ文明の問題です。

日本は世界と比較して、省エネが上手く行っている国なのに、どうして、CO2削減のために、これほどお金を使わなくてはいけなかったのか....

地球温暖化のときと同様、復興だの、被災者支援だの、立派な理由をつけて、強奪されていく「税金ドロボー」ビジネスに乗せられないように、被災地以外のひとは、TVニュースを消して、本を読みましょう。
[共同通信]仙谷氏、復興財源に所得増税を 「期間限定で」


◎『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司(アマゾン)

[BOOKデータベース]
「地球温暖化を防止しよう」だって?そんな瑣末なことは、どうでもいい。大事な「問題」は、別にある。環境問題の本質を突く、緊急提言。新潮社 (2008/03)


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by yomodalite | 2011-04-24 16:10 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)
養老氏と言えば、「唯脳論」の人。

長い間、様々な著作や、TV番組を通じて「脳」ブームを作ってきた方って印象があるんですけど、このところ、私は、あんまり読んではいませんでした。

脳関係の本って、茂木健一郎氏のものも含めて、なんだか厭きたって気がしてたんです。養老氏も茂木氏も、著作の完成度にはこだわらないことで、過剰な出版数を維持しなくてはいけない、日本の出版社に寄与してきたとは思いますけど、読者としては「当たり」を見つけるのが、すごく難しいという部分でも、敬遠してました。

でも、茂木氏の著作で感動したことは一度もないんですけど、氏のブログはわりと面白いんですよね。

◎茂木健一郎「クオリア日記」
◎茂木健一郎「連続ツイート」

上手く説明できませんが、お二人の面白さに比べると、一般向けの書籍の乱発と、著作の完成度の低さはどうしてなんだろう、、でも、なんとなく、その原因も、お二人の仕事というか、研究に、原因があるのかな〜なんて思いつつ、めったに行かない「ブックオフ」の文庫欄で、この本を見つけました。

南伸坊氏の「個人授業」シリーズは、本書以外にも、心理療法、免疫学、生物学などがあって、他著も是非読んでみたいものばかりですが、あの、南氏が、養老氏を、わかりやすく解説してくれるなんて、、、素晴らし過ぎませんか?

で、興奮しつつ、表紙を眺めてて、ふと、思ったんですけど、養老孟司氏の専門は「解剖学」なんですね。それで、解剖なら、わかる気がするけど、「解剖学」って何なの?ってことに、初めて気がついたんです。で、そこに気づいた瞬間、ほんのちょっぴり「あっ」て声を上げそうになりました。もしかして、これが、アハ体験(笑)

さらに、冒頭を立読みしてみたら、「まえがき」に、「笑うと、頭がはたらいている気がする。笑った時に、人は何かを考えているというのが、わたしの持論です」って書いてあって、もう、欲しくてたまらなくなったので、105円と交換しました。

近年、こんなに「わらしべ長者」気分になったことは、めずらしいかも。。。

ただ、家に帰って、じっくり読んでみたら「アハ体験」かどうかは、よくわからなくなりました。

解剖なら、わかる気がするけど、「解剖学」って何なの?っていう疑問は、ことのほか、むずかしいんです。で、南氏は、そこが、むつかしいってことを、今までの誰よりも、わかりやすく、すごく丁寧に「バカの壁」を、打ち砕こうとしてくれています。

それゆえ、この本は「解剖学」を、わかりやすく説明してくれる本ではなくて「解剖学」って、こんなに、むずかしいんだってことを、丁寧に、気づかせてくれるという、南氏以外では、ありえない、希少な本になっています。

「脳」本に厭きた方へ。。。

______________

[目次]

第1講 解剖学事始
第2講 人間はなぜ解剖をするのか
第3講 落語と孔子と二宮尊徳
第4講 大腸と小腸は同じ!?
第5講 耳小骨
第6講 目玉の話
第7講 セクシイの巻
第8講 形からわかること
第9講 科学の哲学の話
第10講 無限と解剖学
第11講 脳にとって冗談とは何か?
第12講 奇抜な結論
第13講 世界1、世界2、世界3
第14講 現実とは何ぞや
第15講 忘却の彼方
復習 『対談』人体の不思議
補講 蛇の足の解剖学(養老孟司)


[BOOKデータベース]ネズミも象も耳の大きさは変わらない!?えっ、目玉に筋肉あるの?誰もが知りたい体のしくみ。でも、解剖学はそれだけでは終わらない。解剖して名前を付けるってどういうことなんだろう。ハゲおやじの「頭」と「額」の境目はどこ?器官は何のためにあるの?そもそも何かのためにあるの?落語や二宮尊徳、哲学や社会に話が飛躍して、好奇心は無限に広がる、シリーズ第3弾。

[MARCデータベース]胃がどこにあって、何の役に立っているのか、それを知るだけじゃつまらない。落語や孔子や哲学も、解剖学とは深い関係にある。解剖学の基礎から最先端までを、オモシロく、わかりやすく学ぶ授業録。 新潮社 (2001/03)





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by yomodalite | 2010-11-23 15:29 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)
内容に偽りのないタイトル。そのせいでしょうか、数ページ読んだだけで、もうわかったような気になってしまいました。初版は2003年。著者は通販会社「フェリシモ」に10年在籍した後、翻訳家で、NPO法人グリーンピースジャパン事務局長、星川 淳氏の「半農半著」にインスパイアされ、半農半X研究所を設立、「半農半X」というライフスタイルを提唱する活動を行なっている模様。

「半農半X」は、説明を聞かなくてもわかる“言葉”だと思うんですが、最後までコンセプト紹介が続き、具体的な方法に乏しい印象なのは、著者のブログのプロフィールにある 「講演等は間際であっても対応させていただきます。」という姿勢のためでしょうか。

半分を農作業、残りの半分は自分の得意なことや好きな事をする。それをエックス(X) とする。っていう説明が必要な人。なんで、そんな生活をしなくちゃいけないの? と思う人、それと、NPOビジネスに興味がある人にはオススメ。

著者は農業よりも“X”デザインに力点を置いているようなので、“X”がわかっていて、農業を知りたい人には不向きかな。

______________

【出版社 / 著者からの内容紹介】原油高騰・食糧危機・生活不安・環境破壊・・・
個人・世の中が抱える悩みを一度に全て解消する方法

ガソリンや食品の価格高騰、温暖化といった環境問題、生活・職業の格差など、いま個人にとっても世界にとっても、未来は不透明さを増している。

しかし、すべての難題を一挙に解決できる方法がある。それが「半農半Xという生き方」。

自分たちが食べる分だけの作物を育てる「小さな農」を行いながら、好きなこと、個性、天賦の才を生かした仕事をして一定の生活費を得る。
お金や時間に追われることなく、人間も地球もストレスから解放されるライフスタイルである。ソニーマガジンズ (2008/08 初版2003/07)






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by yomodalite | 2009-10-28 14:21 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)

ナンパを科学する ヒトのふたつの性戦略

坂口 菊恵/東京書籍




こちらは、ダーリンが日経新聞の書評に惹かれて図書館から借りてきたもの。きっと、ナンパが成功しないのはどうしてなんだろう?と昔から疑問に思っていたに違いない。本を読んだところでナンパを成功させるのは無理なんですけど、一体どんなことを学ぼうとしているのか興味があったので、中味を覗いてみると、 「序章」は、“ナンパ・痴漢をどうやって研究するか”というタイトルなのですが、

著者は小学生高学年頃から頻繁にナンパに遭っていたらしく、非常に不快に感じていたが、大学に入った後、魅力的な女子でもナンパにあった経験はほとんどないという人が少なくないことや、また痴漢にはよく遭うが、ナンパはほとんどないなど、どういった要因が「標的」になるのか?が気になった。

(P13〜)本書の目的は、望まぬ性的アプローチの是非や社会的取り扱いのしかた、一般的解釈について議論しようとするものではない。(中略)どういう女性が性犯罪の被害にあいやすいかなどということを詮索するよりも、女性を人格を剥奪された性的な対象物として見なすような男性の視点を銃弾すべきだという主張がある。(中略)

(P15〜)それよりも、自分が性的な対象として見られる可能性があるということを認識させ、どのような状況がリスクを高めやすいのか客観的なデータを蓄積する方が即効性のある対処法だと思われる。(中略)
 
また、特に痴漢に関する議論をすると、痴漢被害などよりも痴漢冤罪の方がよっぽど大きな問題である、被害を訴えるような女性は潜在的な加害者もしくは狂言者である、という論調の人を決まって見かける。(中略)なぜ性犯罪もしくは望まぬ性的アプローチという現象が生じるかということには共通する根もあるだろうが、基本的に別の問題である。本書で取り上げられるのは、冤罪の方ではなくて、なぜそもそも一方が望まないのにもう片方が性的なアプローチをしようと望むようなことが起こるのか、またそうしたアプローチをする側は何を基準に相手を選択しているのか、選択の基準のアプローチの種類によって異なるのか、という問いに対する検討である。

できるだけ中略しても「本書の目的」が語られる箇所まで、ずいぶんと無駄に文章が長いんですが、、、下記が章タイトルのどうやっての部分↓

(P16)探求をはじめるにあたって、私は特定の時代の思想や学問伝統になるべく影響されない方法を取りたいと思った。一般的な人文社会科学の研究手法では、特定の主義主張に色つけされた社会的構成概念を理論構築のための基本用語として用いている場合が少なくない。これでは時代や社会が変わった場合に通用しないし、そもそももととなっている構成概念の妥当性が客観的に吟味されたものでない場合が多い。標準的な社会科学のモデルは人の行動に及ぼす人為的な文化の影響をとても重視するために、文化や環境による規定を越えた要因に関する検討をおこなうのは守備範囲を越えている。(中略)もっと普遍的な視点から人の社会行動を調べる方法があるのだろうか。

一つの方法として、(中略)人間行動学(ヒューマン・エソロジー)という分野がある。(中略)人の行動に関する進化的適応に関する探求を、心理学的手法を用いておこなう分野を進化心理学という。

進化心理学は仮説構成のよりどころとして進化生物学や行動生態学の知見を用いる点に特徴があるのであり、それ自体でまとまりのある、確率された研究手法を持っているわけではない、実際に用いられる研究手法は多くの場合、従来の社会心理学、認知心理学、近く心理学などの分野で培われたものの援用である。(中略)

本書では、人の性行動の多様性を説明する至近要因を、各種ホルモンの行動との関係を検討する内分泌行動学の知見を用いて検討している。(序章終了)

ふぅ〜。

本書に興味をもった人は、とりあえず書店で、この序章だけは全文読むことをお薦めします。目次だけ見て、面白いかも?と思われた方は、第1章を読むのも辛いし、読了後は金返せ!となる可能性が高いので、購入は慎重に。

この後も著者は、予期せぬ性的アプローチとして、常に「痴漢とナンパ」を同様に扱っている点で「どうかしている」としか思えないんですがw、

著者が経験したナンパ方法と、ナンパ者への不快感が研究の要因にも関わらず、ナンパ手法や成功要因など、国柄による違いや大きさよりも、「私は特定の時代の思想や学問伝統になるべく影響されない方法を取りたいと思った〜」など、テーマに対してそぐわないうえに、妙な本格嗜好の研究姿勢。そのせいなのか、著者がナンパにあいやすいという当初の疑問に、この研究で答えが出ている気がしない。

結論らしき点は、全体を通して非常に少ないのですが、第2章、第3章には、

・ナンパにあう女性は短期的配偶戦略の指向性が高い傾向にある
・短期的配偶戦略の指向性が高い人はセルフ・モニタリングの傾向が強い

というデータがあります。その他、データは色々あるのですが、どれも最初の疑問の答えに、遠いながらも少しは近づいているというよりは、あさっての方向を掘っている感じ。

ちなみに、サブタイトルの“ヒトのふたつの性戦略”とは、「短期的配偶行動」と「長期的配偶行動」のことなのですが、簡単に言うと「短期」の女性は、男性から資源をすぐ引出せ、予備の相手を確保し、男性は、パートナーの数と、手に入りやすい女性の判別。

「長期」の女性は投資する余裕と意志がある男性の判別ができ、親としての能力や遺伝子の質。男性は(知らずに)自分の子ども以外に投資させられないようにすること、たくさん子どもを産む女性の判別など。

また、セルフモニタリングとは、社会的文脈に応じた感情表出のコントロールが上手い人が高セルフモニターで、苦手な人が低セルフモニター。

序章を数行読んで、センスのない研究者だなぁ〜という感想が、読み進むとますます深まるという読書経験。データにはそのものには興味深い点もあるのだけど、まとめかたが下手。この内容なら、冒頭で著者の個人的体験を語らないほうが良かった。(著者の経験したナンパにはかなり特徴があるので)

これを、一般の読者にも読ませようとする日経新聞(もちろん出版社も)は、まるで、ジャンキーを清純派アイドルにして売ろうとする芸能プロダクションと同様の手法ですね。

☆☆(イタリア人にケンカ売るつもり?ナンパを粋に袖にしてこそ、大人の女なり!)

◎日経新聞(ナンパされまくりの著者の写真。短期的配偶戦略が高い?)
http://f.hatena.ne.jp/zoe1/20090524191551
_______________

目次
序章 ナンパ・痴漢をどうやって研究するか
1章 女性にスキがあるの?
2章 ふたつの性戦略
3章 ナンパ相手の選び方
4章 悪い男がモテるわけ
5章 芸能人は離婚が多い?
6章 環境に応答するホルモン
終章 配偶行動にはコミュニケーションが必要だ

【内容紹介】
美人がナンパにあいやすいとは限らない,どうして「だめんず」好きになってしまうのかなど,ヒトの恋愛・性行動にまつわるさまざまな疑問を,進化心理学の立場から,豊富な研究結果を用いて解き明かす一冊。 東京書籍 (2009/4/17)

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by yomodalite | 2009-08-10 21:30 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)

千鶴子には見えていた!―透視は、あっても不思議はない

竹内 久美子/文藝春秋




久しぶりに、竹内久美子氏の本が読みたくなった。アマゾンの出版年月の新しい順で検索し、本書のタイトルに惹かれたのだけど、竹内氏が、遺伝子や動物行動学の知識から、透視や超能力といったテーマを深く追求した本かも。という私と同じような想像をした人。。。残念でした。本書は週刊文春で長期連載中(?)の『私が、答えます』の新刊で、(といっても2007年出版。本誌はもうずっと読んでいないので、連載タイトルが変更になっているとかは知りませんが)読者からの質問に竹内氏が回答し、寄藤文平氏のイラストが効いている、あのシリーズの本です。

第1章 たかがセックス、やっぱりセックス!
第2章 真似したい?真似したくない?動物たちの羨ましい生態
第3章 こんなことも、あんなことも。いろいろあります、人間ですから
第4章 奇妙な動物大集合!地球は誰のもの?
第5章 美しく咲き誇るだけではない植物たちの現実
第6章 陸、海、空——。ムシ、トリ、サカナだって大活躍

と、6章あって、タイトルに繋がる話題は、第3章「こんなことも、。。。」の“透視ははあっても不思議はない”からだと思われますが、その質問とは、

Q:動物にはテレパシーが存在すると思うのですが、どうでしょうか?(56歳、男)

というもの。ここから、どうやって御船千鶴子の話題になっていくかは、本書で確認していただきたいのですけど、このタイトルを考えた編集部には本当に感心しますね。

こんなふうに、タイトル偽装がはびこるようになったきっかけの本は何だったのか、もう忘れてしまうほど、こういった慣習は定着してますけど、19:58に始まる番組とか、CMまたぎの悪どい演出を行なってきた業界がどうなったか、今後同じように斜陽とならざるを得ない出版社は、今こそ「良心」をブランド化すべきだと思います。

質問力の低下と、回答者の守備範囲の限界、長期連載によるマンネリ感が充分過ぎるほど感じられますが、寄藤文平氏とのコンビネーションと、個性的な回答者によるQ&A本は、手堅いコンテンツゆえ、扇情的すぎるタイトルは固定ファンを失う結果に繋がるのでは。。。

『私が、答えます』○巻として、書棚に並べた方がメリットが大きかったのでは?
___________

【BOOKデータベース】遺伝子が解く、動物の神秘。抱きしめるだけで交尾する。自分のペニスを自分に挿入。人間の未来形の動物がいる!?寝ても、寝てもまだ眠い。1日20時間も眠る。ウンコを食べないと死んでしまう!…イヌは見た目が9割!少子化でおっぱいが1個に?ニホンザルは日本人よりエラい!?などなど、人間、動物、昆虫、植物…生き物たちの驚くべき生態と超能力に関する謎を、動物行動学をベースに鋭くかつユーモラスに解明。

【MARCデータベース】
イヌは見た目が9割! 少子化でおっぱいが1個に? 人間、動物、昆虫、植物など、あらゆる生き物たちの驚くべき生態と超能力に関する謎を、動物行動学をベースに鋭くかつユーモラスに解明する。『週刊文春』連載等を書籍化。 文藝春秋 (2007/07)

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by yomodalite | 2009-08-06 12:03 | 科学・環境問題 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


by yomodalite