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象徴天皇制と皇位継承(ちくま新書)/笠原英彦

象徴天皇制と皇位継承 (ちくま新書)

笠原 英彦/筑摩書房




私が皇室にもっている最大の疑問は、「なぜ皇室に男子が生まれないのか」ということ。

出生前に性別がわかり、男女産み分けすら可能な時代に、今上天皇と同世代の宮家から急に男子が生まれなくなったのは、どうみても不自然ですが、戦後の皇族にも、ゆるやかな皇統断絶に心理的に激しい反発は見られなかったように思う。象徴天皇を受け入れた昭和天皇も、これを了承していたのだろうか?

戦後改正された皇室典範は宮家を激減させたが、存続した宮家その後の男子出産は、天皇直系で、初めての平民からのお妃を得た今上天皇家にのみ2人の男子出産(現皇太子、秋篠宮)があるのみで、2006年に秋篠宮家に悠仁親王が生まれるまで、12人中、男子はたったの3人。その3人は、すべて天皇家直系に限られ、秋篠宮以降に生まれた皇族9人はすべて女子であり、約40年9ヶ月男子が生まれていない。

GHQによる皇族の激減をはかった皇室典範改正より、占領終了後も、皇統断絶政策に協力した国内勢力の正体が何だったのか。とりあえず宮内庁病院と、愛育病院(他に皇族が出産された病院があるのか不明)には、なにか仕掛けがあるとしか思えない。
 
本著の、マッカーサーにより「皇統断絶という時限爆弾」がしかけられた、という主張は今更ですが、その後その体制を維持してきた国内勢力には一切触れられていない。
また、皇統を維持のためには、女系天皇を認め、典範改正の方途を探らねばならないというの著者の考えは、現在の今上天皇家を支持して来た、戦後の日本国民にとって、穏当のものだと思いますが、女系の説明なども、特に目新しいものがあるわけでなく、今後の議論のチェイサーになりそうな点はあまりない。

悠仁親王誕生により、いったん終息した議論をどう再開させるか、決着までは、何年もかかり、雅子妃も、愛子内親王も悩み多き日々でしょう。昨年は絢子女王のスキャンダル記事が週刊誌で話題となりましたが、現在まで、女子皇族の意義を無いに等しい状態においてきた国民の怠慢を、もっとも注目を浴びる皇太子家のたった1人の子供として、愛子内親王にも背負わせるのはあまりにも酷であると思う。

○常陸宮家(今上天皇の弟)には、子女がまったくいない。
○三笠宮(大正天皇の第4皇男子)は現在93歳。
○寛仁親王(62歳・麻生太郎と義兄弟。三笠宮の息子)には2女がいる。
○桂宮家(60歳)は、40歳の時桂宮の称号を受け、独立の生計を立てるようになった矢先、病(硬膜下出血といわれるが未公表)に倒れた。独身で宮家を創設したため、家族はない。戦後新宮家の設立はいずれも次男以下の婚姻による独立を契機にして行われたが、宜仁親王は独身のまま宮家を創設すると言う珍しいケース。
○高円宮家(三笠宮崇仁親王の三男。今上天皇の従弟)は2002年に慶応義塾大学病院にて死去。3女がいる。
○皇太子家、2001年に愛子内親王誕生。
○秋篠宮家、1991年眞子内親王、1994年佳子内親王、2006年悠仁親王が誕生。

皇太子(宮内庁病院で出生)
秋篠宮(宮内庁病院で出生)
愛子内親王(宮内庁病院で出生)
眞子内親王(宮内庁病院)
佳子内親王(宮内庁病院で出生)
悠仁親王(愛育病院にて出生。帝王切開)
彬子女王(1981年愛育病院?)※三笠宮寛仁親王家
瑶子女王(1983年愛育病院?)※ 三笠宮寛仁親王家
承子女王(1986年愛育病院にて出生) ※高円宮家
典子女王(1988年愛育病院?)※高円宮家
絢子女王(1990年愛育病院?)※高円宮家
※愛育会総合母子保健センター愛育病院は祖母の崇仁親王妃百合子が総裁を務める

◎毎日1冊!日刊新書レビュー

天皇制に仕掛けられた爆弾〜『象徴天皇制と皇位継承』

このままでは皇位継承者がいなくなってしまうかもしれない──そうした危機意識のもと、2005年1月から有識者会議で検討されてきた皇室典範改正案は、2006年2月、秋篠宮家の紀子妃に男の子、悠仁親王が誕生したことで見送りとなった。

目の前の局面が回避されたおかげで皇室存続をめぐる騒動は緊張感を失いすっかり下火になったけれど、根本的に解決されたわけではないのは子供でもわかるリクツで、遠からず(といってもたぶんけっこう遠いが)再燃するのはあきらかである。

皇統が断絶の危機に瀕しているのは、戦後改正された皇室典範のせいだ。

新典範は旧典範をおおよそ引き継いでおり、有識者会議で議論の焦点だった「男系男子の世襲」や「女帝の否定」なども明治の典範を踏襲したものなのだが、問題は、典範改正にあたり、天皇直系の秩父宮、高松宮、三笠宮以外の11の宮家が皇籍から離脱させられると同時に、側室制度(お妾さんですな)も廃止されたことにある。

万世一系がフィクションでありイデオロギーであることに今日異を唱える人はあまりいないけれど(なかにはY染色体まで持ち出しトンデモも何のそので強弁する八木秀次のような人もいるが)、天皇家の系図が現在まで千数百年以上たどれることは事実だ。

しかしそれは危ない橋を何度もわたることでかろうじて維持されてきたものであって、そういう綱渡りのためのバッファとして、側室や宮家という制度は機能してきたのである。大宅壮一は「万世一系」は「血のリレー」だとミもフタもなく喝破している(『実録・天皇記』だいわ文庫)。

したがって、宮家を減らし側室を廃止すれば、皇統がいずれ淘汰されてしまうかもしれないことは考えてみれば自明であった。

しかし、日本側の要人はこのリスクにどうやら気づいていなかったらしい。宮内庁内部ですら、皇位継承問題が取り沙汰されはじめたのはようやく1990年代に入ってからだという。

本書の最大の眼目は、皇統断絶の危機はGHQによって意図的に仕込まれたものだった、という主張にある。

〈マッカーサーが仕掛けた爆弾〉と著者は表現しているが、日本を占領統治するのに都合がよいからマッカーサーは天皇制を存続させたというのはいまや定説だけれど、用が済んだらお払い箱にすることまでマ元帥は計算ずくだったというのである。

当時の政府はGHQの意向を踏まえた皇室法体系の不備を余りに軽視していた。すなわち「マッカーサーの仕掛けた時限爆弾」に気づいた政府首脳は存在しなかったのである。日本の政府上層部は昭和天皇の存在を確保したことで安心してしまったのではないだろうか

◎女性天皇と女系天皇の違い、わかります?

「皇統断絶=GHQの陰謀」説はほかにも唱えている人を見かけたことがあるが、文字どおり陰謀論の類だろうとばかり思っていた。

著者の笠原英彦は日本政治史および日本行政史を専門とする慶大の教授であり、天皇制議論にかんしては左派も右派も幼稚すぎると切り捨て「イデオロギー・フリー」を標榜、万世一系も神話にすぎないと冷静な判断を下している。そういう人が断言するからには確固たる論拠がある、といいたいところだが、うーん、やっぱり弱いんじゃないかなあ。

笠原はフェラーズ准将が米内光政に漏らしたという「十五年二十年さき日本に天皇制があろうがあるまいが、また天皇個人がどうなっておられようが関心は持たない」という発言に着目し、日本における共産主義革命を企図するソ連を牽制する目的もふくめ象徴天皇制は創出されたのだといい、〈重要なことは米ソ両国ともに、将来天皇制が消滅することを容認していたことである〉とする。

この「容認」と皇室財産没収などの状況証拠から「仕掛け」という結論は導かれているのだが、受け身の「容認」と積極的な「仕掛け」ではずいぶん話が違うわけで、ちょっと飛躍している。

GHQ側、日本側いずれも思慮が足りず、戦後60年を経てその破綻があらわになっているだけじゃないかという気がするのだが、いずれにせよ、このままでは皇統の断絶が必至であることは間違いない。面倒くさい議論を抜きにして結論にだけ着目すると、皇統を維持するために取りうる選択肢、典範改正案は四つほどしかない。

(1) 女性および女系天皇を認める
(2) 戦後離脱させた旧宮家を皇籍に戻す
(3) 養子を認める(ただし皇族の血を引く民間人にかぎる)
(4) 側室制度を復活する

皇室典範をめぐる議論は、煎じ詰めれば「女系を認めるか否か」という争いに集約される。

女性天皇と女系天皇の区別がいまひとつわからんという人がけっこう多いのでかんたんに説明しておこう。

女性天皇は、女性の皇族が即位した天皇を指す(そのまんまだが)。

一方、女系天皇は、皇族のお母さんから生まれた子が即位した天皇を指す。たとえば、愛子内親王が結婚して生まれた子供が即位すると女系天皇ということになる(男子でも)。

過去には8人10代の女性天皇がいた。しかしこれらの女性天皇は次の皇位継承者が幼かったりしたさいの“中継ぎ”として即位しており、女系の天皇はかつて存在したことがないとされている。

(2)〜(4)は男系世襲こそが伝統であるとハードコアに主張する保守派が訴える改正案で、彼らは、女系を認めることすなわち皇室解体にほかならないと主張したり(西尾幹二ほか)、馬の骨(パンピー)が皇族入りするため天皇制が破綻すると予言したりしている(宮台真司とか)。堀江貴文がブイブイいわせていたとき、「愛子さまがホリエモンと結婚したらどうしますか!」と右翼が絶叫していたが、つまりそういうことである。

有識者会議で出された結論は(1)だった。共産党や社会民主党さえ女系容認の構えをとっているが、これはようするに「どうでもいい」といっているのと大した違いはない(本当は天皇制自体に反対なのだが、象徴天皇制がいかんとも動かしがたいという現状認識に甘んじるしかない以上、男でも女でも別にどっちでもいいんじゃない? ということだ)。

著者も『女帝誕生』(新潮社、2003年)という本を上梓していることからもわかるとおり女系を認める立場だが、象徴天皇制の意義を積極的に評価し維持していくためには女系天皇は不可避であるとしており、共産・社民的なし崩し容認とはちょっと趣が違っている。

GHQにあてがわれたものだったにせよ、現行の象徴天皇制は伝統を正統に継承・発展したものだというのが著者の強調するところである。有識者会議には、皇室問題の専門家がいなかったことに対する疑問や、女系容認の結論ありきではないかといった批判が出ていたが、著者は、「日本国民の総意」の代表たりうる妥当な人選であり議論だったと評価している。

継承すべきは伝統の本質なのである。本質さえ見失わなければ、伝統は革新しうる。皇室の神秘性にのみ目を奪われることなく、「日本国民の総意」に基づく象徴としての天皇のあり方を模索すべきである

◎改革者、今上天皇

著者は、今上天皇こそが「改革者」だという。不執政が天皇の本来あるべき姿であり、今上天皇は象徴天皇制の理想を体現している存在なのだと(昭和天皇はことあるごとに政治に介入しようとした、つまり象徴天皇制の意味を理解していなかったと低い評価を下されている)。

今上天皇の「改革」により実現された現在の象徴天皇制と、男系世襲という古い「伝統」に固執する天皇制を較べれば、どちらが「国民の総意」を反映したものであるかはあきらかであり、女性・女系天皇の問題を矮小化することなく「マッカーサーの仕掛けた時限爆弾」を解除し、典範改正の方途を探らねばならないというのが著者の考えだ。

議論にやや繰り返しが多く、若干とりとめのない印象はあるものの、先行議論の紹介や参考文献が充実しており女系天皇議論の尖端をサーヴェイするには有用な一冊である。「マッカーサーの爆弾」うんぬんはともかくとして(といってもこれがこの本のウリなのだけれど)。

この手の問題は評者の見解を問われることが多いので最後にかんたんに。

象徴天皇制があくまで「国民の総意に基づく」ものであるとするなら、いずれ潰えて、日本は共和制に移行せざるをえなくなるんじゃないかというのが私の予測である(それがいつかはわからないがいつか)。

ただし、天皇という象徴が日本という国を精神的に支えてきた面はたしかにあると思われるし、興味深い伝統(あるいは制度)でもあるので、いま現在の「国民の総意」が支持しているという統計をいちおう信用するという前提で皇室は維持されるべきという意見に同意するのにやぶさかではなく、維持に努めるのであれば、女系天皇を認めるのが現状の社会情勢にはいちばん合致していると思う。

(文/栗原裕一郎、企画・編集/須藤輝&連結社)

【目次】
第1章 象徴天皇制の誕生
第2章 皇統断絶という時限爆弾
第3章 皇室典範と皇位継承
第4章 象徴天皇制の定着
第5章 小泉内閣の皇室典範改正案
終章 伝統と法理
_______________

【内容情報】皇位継承のあり方を論じるとき、欠かせない視点がふたつある。ひとつは、現在の天皇制が「象徴天皇制」であること。もうひとつは、現行の皇室典範は、何ら安定的な皇位継承を保証するものではないこと。古代より近現代におよぶ天皇制のあり方を歴史的に問い直し、戦後GHQによって皇室制度に仕掛けられた「時限爆弾」の存在を指摘する。今上天皇の体現する象徴天皇制の理念を踏まえ、皇統断絶の危機を回避する道を探る。象徴天皇制の今後を考える上で必読の書。 筑摩書房 (2008/05)


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by yomodalite | 2008-09-07 07:08 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

安保条約の成立 — 吉田外交と天皇外交 (岩波新書)/豊下楢彦

安保条約の成立―吉田外交と天皇外交 (岩波新書)

豊下 楢彦/岩波書店




久しぶりの岩波新書。著者は今年「昭和天皇・マッカーサー会見」で更にこの論を深めているらしいのだけど、まずは96年のこの著作から読んでみました。『昭和天皇・マッカーサー会見』も読了しての感想を一言で言えば、日本の学者は1945年の終戦の日から、63年もかけてここに辿り着いたということ。

下記は「シャンバラ」http://shanbara.jugem.jp/?eid=34 より

日本は51年のサンフランシスコ平和条約と同時に、日米安保条約をアメリカとの間に結んだ。それは確かに不平等なものであったが、坂元教授によれば、それは「日本側の外交交渉の拙劣さよりも、当時の日米の立場と力関係から説明するのが妥当ではないか」というものである。ところが、豊下教授は全く別の見解を提示している。

講和条約の交渉が始まる前年、つまり50年6月に朝鮮戦争が勃発した。49年の中国共産党による政権樹立とともに、アジアでの冷戦色が急激に強まってしまう反面、アメリカにとって日本の戦略的価値が飛躍的に高くなった。よって51年の1月末から始める日米の講和交渉において、日本としては基地提供をカードとして使用し、アメリカとの交渉を有利に行うことが”可能”であった。

しかしながら、交渉の開始とともに日本はそのカードを自ら捨ててしまう。1月30日に提出された「わが方見解」という文書に、吉田の指示にもとづいて「日本は、自力によって国内治安を確保し、対外的には国際連合あるいは米国との協力(駐兵のごとき)によって安全を確保したい」という文言が挿入されたのだ。つまり、日本の基地をこちらから”提供してあげる”のではなく、日本の要請に基づいてアメリカが"駐兵してあげる"という形式になってしまった。結果的に、日米安保条約は日本にとって相当不利な条約となった。なぜ吉田はこのような、日本を交渉において不利にするような文言を挿入させたのだろうか。

豊下教授は、そこに天皇の影響があるのではないかという仮説を展開している。天皇は日本の安全保障を確保するために、米軍の駐留を望んでいた。なぜならば天皇はソ連、もしくは国内の共産主義勢力の革命の危険性を強く認識していたからだという。革命によって政権が転覆させられ、天皇制そのものが廃止されれば、天皇も裁判にかけられる可能性がある。

しかし、マッカーサーは日本を非武装中立にするという持論をもっており、天皇の思うとおりに事が運びそうにない。そこに登場したダレスにアプローチをして、非公式のチャンネルを作ったのではないか、というものである。ダレスも天皇も米軍を日本に駐留させることを望んでおり、マッカーサーと吉田の両者をバイパスして、それを実現させようとしたと教授は推測する。吉田は頻繁に交渉の経過を天皇に報告しており、その中で天皇に「御叱り」を受けて方針転換し、日本から基地提供を申し出たのではないかというのである。(後文略)

下記は「公式 天木直人のブログ」より

豊下楢彦という国際政治学者

書評のついでにもう一つ書いておく。豊下楢彦という国際政治学者がいる。私が彼を知ったのは「安保条約の成立」―吉田外交と天皇外交(岩波新書)ーを読んだ事がきっかけであった。

その著書により、昭和天皇が、新憲法の下で政治的行為を行わない象徴天皇になってからも、単独でマッカーサーと何度も会見し、自らの保身の為に吉田茂に安保条約の早期締結を迫った事を知った。

もっとも、前段は周知の事実であるが、後段は豊下の推論である。昭和天皇とマッカーサーの会談の真相は未だそのすべてが公開されていない。おそらく今後も公開されることはないであろう。だから豊下の推論はあくまでも推論にとどまって終る。しかし彼の推論は少なくともその著を読む限り説得力はある。そしてその推論が正しければ、われわれの戦後外交のイメージは一変する。

豊下教授の国際政治学者としての一般的評価を私は知らない。しかしこのような意見を著書で明らかにする学者は、その実力や業績の如何にかかわらず、既成体制にとって容認できないということであろう。御用学者のようにメディアやマスコミなどで重用される事は決してありえない。

その豊下が、同じ岩波新書から、「集団的自衛権とは何か」という最新著を先月上梓した。さっそく購入して読了した。教えられる本だ。タイムリーな本だ。

その中で私が注目したのは、何と言っても、1960年の安保改定に先駆けて行われた重光葵外相とダレス国務長官とのやり取りの中の次のごとき米国の本音である。
・・・(1955年に行われた重光葵の訪米の目的は)日本には(全土にわたって)基地を提供する義務はあるが米国には日本を防衛する義務はない、という不公平極まりない旧安保条約の改定を要請することであった。

このため重光は安保条約にかわる相互防衛条約案を携えて臨んだ。しかしダレスは重光の提案を門前払いする。(その表向きの理由は)安保改定を受け入れる大前提として、日本がまず憲法改正を行い、集団的自衛権の行使を可能にすること(であったが、実は重光案の中には米国として受け入れがたい項目があったのだ)。すなわち、「日本国内に配備されたアメリカ合衆国軍隊はこの条約の効力発生とともに撤退を開始するものとする」という項目があったのだ。

ダレスはこれに激しく反発した・・・ダレスにとっては、日本が集団的自衛権を行使して「米国を守る」ことよりも、米国が日本の基地を特権的に維持し続けることの方がはるかに重要な意味を持っていた・・・ダレスの最大の獲得目標は、「望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利」の獲得にあった・・・

(米国にとっては)日本を独立させた以降も占領期の米軍の特権維持を保障するような条約を締結することこそが、死活的な意味を持っていたのである・・・

一般国民は、岸信介の手による日米安保条約の改定が、それまでの片務的なものから対等なものに改められたと信じ込まされている。それが岸信介の一大功績であると思い込まされている。しかし実際は安保条約の改定によって米国の一方的な基地占有が固定化されたのだ。

ついでに言えば、豊下が指摘するもう一つの重要点も見逃せない。それはいわゆる極東条項の起源についてである。

極東条項とは、極東における共産主義の脅威から米軍が日本を守ると言う意味で、米軍の軍事行動を地域的に限定する条項であると解されている。だからこそ極東を超えたベトナムや中東地域での米国の戦争に日本から米軍が出兵することが、安保条約の逸脱であると批判される。
 
ところが安保条約の交渉の経緯を検証すると、極東条項は米国の要求によって書き込まれた米軍のフリーハンド条項であるのだ、と豊下は言う。

旧安保条約は、言うまでもなく、国連による集団安全保障(特定国との軍事同盟によって安全保障を図るという集団的自衛権の発動ではなく、国連加盟国全体によって潜在的な敵に対応し安全保障を図る事)が発動されるまでの過渡的な二国間条約にしたいとする日本側の考えと、自らの安全保障政策のために在日駐留軍を自由に使いたいとする米国の間のせめぎあいの結果、日本が全面的に譲歩して出来たものだった。

言い換えれば、米軍の軍事行動を、国連憲章に縛られる事なく、米国独自の判断で一方的に行えるよう米国が要求してきた条項であった。そして、そのような米国の要求を受け入れざるを得なかった事を「汗顔のいたり」と考えた外務官僚が、その「悔恨」を背景に、岸政権下の安保条約改定交渉において削除を申し入れたところ、再び拒否されたといういわくつきの条項であった。

豊下は次のように解説する。

「日米安保条約が国連憲章の目的と原則を再確認しその遵守を謳っている以上、米軍の行動には憲章51条の規定に従い『武力攻撃の発生』という縛りをかけることが必要不可欠であった。ところが譲歩の結果この縛りを欠くことになったため、またしても国連憲章を無視した米国の「一方的行動」を想定した条約となってしまった・・」(後文略)
____________

【出版社/著者からの内容紹介】「安保再定義」が声高に論じられている。だが、そもそも安保条約とは何なのか。なぜ、一方的な駐軍協定というべきものになったのか。著者は、発見された「非公開外交文書」とダレス文書を読みぬき、「吉田ワンマン外交」に解消されない新たなベクトル「天皇外交」を見いだしていく。戦後史を考え、現代を考えるための必読の書。岩波書店 (1996/12)

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by yomodalite | 2008-08-11 12:38 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

隠された皇室人脈−憲法九条はクリスチャンがつくったのか!?/園田義明

隠された皇室人脈 憲法九条はクリスチャンがつくったのか!? (講談社+α新書)

園田 義明/講談社




『最新アメリカ政治地図』の園田氏の本なので期待して読みましたが、徳本栄一郎『英国機密ファイルの昭和天皇』、鬼塚英昭『天皇のロザリオ』を読んでいるものにとっては、重複内容が多く、前2著と比較すると著者の熱の低さと新書の軽さが少し残念。

表題よりも第5章の「富田メモ」と昭和天皇の真意の記述が興味深い内容でした。

__________

【MARCデータベース】八百万の神々の宿るクスノキから神格化された楠木正成に至る日本人の信仰をひもときながら、皇室にキリスト教を戦略的に接ぎ木した現実主義者としての昭和天皇像と、皇室を支え続ける隠れたクリスチャン人脈に迫る。講談社 (2008/05)

第1章/皇太子ご成婚と二人のクリスチャン
・「テニスコートの恋」の真実、皇太子妃をめぐる暗闘があった〜他
第2章/日本キリスト教人脈の源流
・吉田茂に束ねられた人脈、御前会議「機密漏洩」事件〜他
第3章/昭和天皇が選んだカトリック
・戊辰戦争は「南北朝」動乱だった、侍従・木下道雄と正田家、
・カトリックと国家神道の因縁、長崎で結ばれた皇室とバチカン〜他
第4章/戦後憲法とクエーカー人脈
・新渡戸稲造門下生の「団結」、『武士道』と象徴天皇、吉田と岸の化かしあい
・今上天皇とヴァイニング夫人、靖国神社「再国営化」論〜他
第5章/「富田メモ」と昭和天皇の真意
靖国神社と宮中の亀裂、厚生省・陸軍人脈とA級戦犯、靖国神社「非宗教団体論」〜他



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by yomodalite | 2008-06-25 14:37 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

昭和天皇 二つの「独白録」/東野真(著)、粟屋憲太郎、吉田裕(解説)

昭和天皇二つの「独白録」 (NHKスペシャルセレクション)

東野 真/日本放送出版協会



1997年6月にNHKスペシャルとしてテレビ放映された内容を単行本として出版したもの。著者の東野真氏はNHKのディレクター。

この本により、1990年12月の「文藝春秋」誌に発表された「昭和天皇独白録」が昭和天皇が東京裁判から自らの罪を免れることを目的とした文書であることが明らかにされた。(『昭和天皇独白録』寺崎英成著/文春文庫)

当時、東京裁判の対策として書かれたなら、アメリカに示したであろう英文の独白録があるはずだ、との反論がありましたが、それがNHKの取材により発見された。英語版の「独白録」を持っていたのは、元アメリカ陸軍准将ボナー・F・フェラーズ。フェラーズは、1944(昭和19)年から二年間にわたって、ダグラス・マッカーサー元帥の軍事秘書で、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)を愛読し、皇室内にも非常に信頼された日本通。

元大統領ハーバート・フーヴァーと同じくクェーカー教徒(フレンド派)でマッカーサーを大統領選挙にかつぎ出すために活動した。寺崎氏も後年クェーカーとなっている。

天皇が主張したポイントは以下の2点(p. 133)。

1.自分は立憲君主であったから政府の決定したことを無条件に裁可していた。

2.もし開戦の決定に拒否権を行使していたら、クーデターなどの内乱が勃発して日本は滅びていた。

つまり、天皇は「自分は無力であった。戦争を起こしたのは好戦的な、軍国主義者たちである。だから私は無罪である」と主張したのだ。それならば、なぜ終戦のときだけ天皇は「聖断」を下して日本軍の戦闘を止めることが出来たのかと、当然原告側からは追求されるだろう。ここが論理的に苦しい箇所であり、フェラーズらもそれを協議している。

(以下『昭和天皇独白録』より引用)
開戦の際東條内閣の決定を私が裁可したのは立憲政治下に於る立憲君主として已むを得ぬ事である。若し己が好む所は裁可し、好まざる所は裁可しないとすれば、之は専制君主と何等異る所はない。

終戦の際は、然し乍ら、之とは事情を異にし、廟議がまとまらず、鈴木総理は議論分裂のまゝその裁断を私に求めたのである。そこで私は、国家、民族の為に私が是なりと信ずる所に依て、事を裁いたのである。

今から回顧すると、最初の私の考は正しかつた。陸海軍の兵力の極度に弱つた終戦の時に於てすら無条件降伏に対し「クーデター」様のものが起つた位だから、若し開戦の閣議決定に対し私が「ベトー」を行つたとしたならば、一体どうなつたであらうか。(『昭和天皇独白録』(文春文庫)、p. 160)

天皇は「終戦時は内閣が機能していなかったので自ら決断せざるを得なかったのだ」と少々苦しいながらも弁明することになった。

他にも、フェラーズの戦中での重要な任務である「心理作戦」には驚かされた。

《終戦の年の天皇誕生日に投下されたビラ》

「今日は天長節」
今日4月29日は御目出度い天長節であります(中略)
戦争の責任者である軍首脳者はこの陛下の御誕生の日に戦捷を御報告申し上げる事も出来ず、むしろ自身の無能の暴露を恐れているでせう。軍首脳部は果たして何時まで陛下を欺き奉る事が出来るでせうか。

終戦前から、米軍は戦争責任を負う者として、「軍首脳部」を指摘し、天皇はだまされている、という認識を示していたことは驚きだった。

《「聖断」前、8月13日午後に東京に巻かれたビラ》

日本の皆様
私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国の政府が申し込んだ降伏条件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット連邦を代表してアメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します。戦争を直ちにやめるか否かはかかったお国の政府にあります。皆様は次の二通の公式通告をお読みになれば、どうすれば戦争をやめる事が出来るかがお判りになります。

ビラには、これに続いて、日本政府の通告文とバーンズ回答とが印刷されている。このビラは翌日の早朝にもまかれ、その直後8月14日の午前中、天皇自らの発意で初めて御前会議が召集された。

天皇は後にフェラーズが心理作戦の担当者だったと聞いて、寺崎に託してメッセージを伝えた。フェラーズが家族にあてた手紙によると

昨日、天皇から個人的なメッセージを受け取った。その内容はこうだ。心理作戦でまかれたビラや新聞は非常に効果的だった。いや、効果的過ぎたかもしれない。予定していた重要な軍事会議は心理作戦のせいでキャンセルせざるをえなかったというのだ。そして、ビラを見た軍人たちがクーデターなどの過激な行動に出るのを恐れたため、天皇は終戦の決断を下したのだそうだ。心理作戦によって終戦が早まったのだ。
(1946年3月10日のフェラーズ文書)

予定していた重要な軍事会議とは14日午前中に予定されていた最高戦争指導会議のことである。心理作戦のビラが日本の終戦交渉を暴露したため、危機感を抱き、終戦の「聖断」を下したー天皇はそう説明しているのである。同じようなことは「独白録」にも書かれている。

日本を去るとき、フェラーズは、当時日米振興会会長を務めていた笠井重治へを通し天皇にあてて一通の書簡を送っていた。フェラーズは直接会う事を希望し、天皇もそれを希望していたが、吉田外相の判断によって会見は実現せず、代わりに書簡を渡す事になった。

フェラーズは何を伝えようとしたのか。天皇にあてた書簡の写しは残念ながらフェラーズ書簡に残されていない。しかし後に笠井の手紙からその内容を推察することができる。17年後の1963年4月29日付けのフェラーズへの手紙に次のような一節があるからだ。

今日は、天皇誕生日だ。マッカーサーと君のおかげで、天皇の座は維持された。君には本当に感謝している。君の努力は素晴らしかった。君と二人で、天皇に「遺憾の意」(Imperial repentance)を表明するようお願いしようとしたことを覚えているかね?あれが実行されていれば、天皇は日本国民のみならず、世界の人々の敬愛を集めたことだろう(フェラーズ文書)

フェラーズが天皇に伝えようとしたのは、どこかの時点で天皇自ら戦争についての意見表明を行うべきだというメッセージだったのではないだろうか。「遺憾の意」というのは、「戦争をとめられなかったことは遺憾である」といったような内容かと思われる。フェラーズがなぜこうした提言をしたのかは明らかでない。(中略)今日に至るまで、天皇の戦争責任問題が折に触れて内外から問題にされることを考えれば、この提言の持っていた意味は少なくないというべきだろう。

戦後30年1975年10月31日初のアメリカ公式訪問を終えて帰国した折に、訪米の成功を記念して記者会見が行われた。このときある記者が「いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか」と質問した。天皇はやや表情を固くして次のように答えた。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないので、よくわかりませんから、そういう問題については、お答えできかねます。

天皇のパーソナリティーがよくわかる発言だと思う。天皇は科学的知性の人で、決して文学的でない。日本の軍部があまりに文学的というか、合理的精神とかけ離れていたのと対象的で、これが逆だったらと思わずにはいられない。もっとも、非科学的で、合理的精神に欠けているのは当時の軍部だけではなく、その後の政治もマスコミもまったく変わらない。

戦争責任に関してどう答えるか、この記者を含めて大勢の日本人が期待しているのは、不祥事を起こしたときに謝罪する経営者に期待しているものと同質の非常に「文学的」なものだ。世界を巻き込んだ戦争に対して、天皇と日本と自分の国籍さえ、よく理解していない幼稚な精神からの質問としか思えない。

私自身は、この本によって天皇への見方が変わったということはないですね。天皇教のようなものを作ってしまう心性が、天皇にかかわりなく現代の日本にも色濃く残っている。日本人はとにかく担ぎ上げてついていくのが今でも大好きですから。

この本は、この英語版発見は「NHK」取材班の手柄とし、天皇温存によって日本を運営する案をほとんどフェラーズ一人のパーソナリティーを主体としていて、フェラーズを送りこみ、日本を学ばせた真の支配者たちのことには触れていない。天皇の戦争責任について、最も厳しい態度をとっていたのがオーストラリアとソ連だったのは、この二国が世界支配者たちとあまり接点がないからでしょう。
________________

【内容「MARC」データベースより】天皇訴追に備えて用意された英語版「独白録」。東京裁判前夜、日米共同で進められた極秘工作の全貌を明らかにするとともに、「独白録」の日本語版と英語版を徹底比較する。日本放送出版協会 (1998/07)



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by yomodalite | 2008-04-02 14:10 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

枢密院議長の日記(新書)/佐野眞一

まるで日記を書くために生まれてきたとしか思えないようなパーソナリティーが枢密院議長だったら。。。

歴史好きにはもうたまらない奇跡なんですけど、そのあまりにも判読しがたい文章は、チーム佐野にかかっても、精読出来たのは大正10.11年のたった2年分だけ!!宮中某重大事件や、日韓併合の舞台裏など興味深い事件が記されているものの、読者側の期待値にはどうしても到達しにくい性質の本です。

ただ当時の皇室、貴族社会の雰囲気を知るには良書。

__________

【要旨】これは一種の奇書である。なぜなら本書が対象にする枢密院議長・倉富勇三郎(1853〜1948)の日記を、著者も含め誰も読み通せなかったからである。明治・大正・昭和の三代の天皇に仕えた倉富の日記には、昭和天皇の婚姻をめぐって世間を騒がせた「宮中某重大事件」や白蓮騒動などを間近で見聞した記述が残され超一級史料とされているが、本にすれば50冊以上と、とてつもなく長いのである。しかも、ミミズがのたくったような字の判読は困難を極め、記述の大半は細々と、延々と、淡々とつづられた日常の些事(さじ)。死ぬほど退屈で、読む作業は〈渺茫(びょうぼう)たる砂漠のなかから、一粒の砂金を見つける作業に似ている〉のである。
 しかし、日記を〈一点一画たりとも創作のない究極のノンフィクション〉と感じた著者は、大正10年と11年を中心とした約2年分を7年かけて解読、本書にした。日記の最後は〈午後五時三十分頃、硬便中量〉だったという。記録する人間の熱意と、人間を知ろうとするノンフィクション作家の熱意がぶつかり、スパークする力作だ。 (2007年10月31日読売新聞より)  講談社 (2007/10/19)

【目次】
序章/誰も読み通せなかった日記
第1章/宮中某重大事件—怪文書をめぐる「噂の真相」
第2章/懊悩また懊悩—倉富勇三郎の修業時代
第3章/朝鮮王族の事件簿—黒衣が見た日韓併合裏面史
第4章/柳原白蓮騒動—皇族・華族のスキャンダル
第5章/日記中毒者の生活と意見—素顔の倉富勇三郎
第6章/有馬伯爵家の困った人びと—若殿様と三太夫
第7章/ロンドン海軍条約—枢密院議長の栄光と無念
終章/倉富、故郷に帰る





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by yomodalite | 2008-01-08 20:00 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

吾輩は天皇なりー熊沢天皇事件/藤巻一保

有名ではあるものの、詳しいことは何もわからなかった「熊沢天皇」に関して、登場の時代背景、正統の根拠、支持者の移り変わり、人柄、登場から退場まで大雑把ではあるが全容がわかる。また、著者は、天皇不要論者のようですが、その事によって記述がゆがめられている点は、あまり感じられなかった。

第1章 熊沢天皇あらわる
第2章 熊沢一族と南朝幻想
第3章 熊沢天皇擁立記
第4章 全国巡幸へ
第5章 孤独な王様
第6章 尊熟法皇、東都に死す
第7章 “天皇ごっこ”の行方

◎[参考サイト]毎日一冊!日刊新書レヴュー

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【日販MARC】「我は南朝の正統なる末裔なり」。そう主張して昭和天皇を訴えた男、自称天皇・熊沢寛道の生涯とは。幻想の血脈を求めつづけた怪人たちの悲喜劇を追う異色のドキュメント。

【BOOKデータベース】戦後の混乱期、南朝の末裔を自称し、「北朝方の現天皇はニセモノだ!」と訴えて時代の寵児となった人物がいた。その男の名は、熊沢寛道。南朝幻想に憑かれて奔走するも、時代の波にあえなく呑み込まれていった自称天皇とその一族たちの悲喜劇を描き、近代天皇制の陰画を鮮やかにあぶり出す。 学習研究社 (2007/09)





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by yomodalite | 2007-11-20 22:30 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

幕末の天皇 (講談社選書メチエ) /藤田 覚

幕末の天皇 (講談社選書メチエ)

藤田 覚/講談社

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明治以前の天皇、皇族について書かれたわかりやすく読みやすい本。光格という諡号をもつ天皇がどのような人物だったのか理解でき、光格から孝明天皇という流れから幕末という近代の歴史を読み直すのに良い本。

【目 次】
第一章/江戸時代の天皇
第二章/光格天皇の登場
第三章/天皇権威の強化策
第四章/鎖国攘夷主義の天皇
第五章/江戸時代最後の天皇

☆参考サイト
松岡正剛の千夜千冊
___________

【BOOKデータベース】近代天皇制は、十八世紀末から八十年間にわたる、朝廷の“闘い”のドラマから生まれた。神事や儀礼の再興、復古を通して、朝権を強化した光格天皇。その遺志を継ぎ、尊皇攘夷のエネルギーを結集した孝明天皇。幕末政治史の表舞台に躍り出た二人の天皇の、薄氷を踏むような危うい試みを描き、「江戸時代の天皇の枠組み」を解明する。


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by yomodalite | 2007-10-11 10:43 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

幕末の天皇・明治の天皇/佐々木 克

幕末の天皇・明治の天皇 (講談社学術文庫)

佐々木 克/講談社

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藤田 覚氏の『幕末の天皇』を読もうとして間違えました。この時代に関して、意見をいうほど知識も読書経験もありませんが、前書に比べ特に良書と感じるところはありませんでした。藤田氏の本にある一本筋の通った感じというか、「魂」が感じられない。普通の学者本。

[目次]
■第1部 幕末の天皇
天皇の位置の浮上、将軍をしたがえた天皇、文久三年八月十八日政変と天皇、天皇と諸侯との新しい関係、庶政委任体制と天皇、朝廷政治の終焉
■第2部 明治の天皇
見えない天皇から見せる天皇へ、大元帥天皇の創出;巡幸する天皇、行幸する天皇、「御真影」の誕生)
____________

【BOOKデータベース】幕末から明治へ、時代は激しく動き世の中は一変する。その中で、俄にクローズ・アップされる天皇の存在。天皇は、維新後、夥しい回数の行幸と巡幸を繰り広げた。雲の上の見えない存在から見える天皇・見せる天皇へ。薄化粧をした女性的天皇からヒゲを蓄えた軍服姿の天皇へ。維新の前と後の全く対照的な天皇像を通して、明治とはどのような時代であったかを解明する。 講談社 (2005/11)

[要旨]
幕末から明治へ、時代は激しく動き世の中は一変する。その中で、俄にクローズ・アップされる天皇の存在。天皇は、維新後、夥しい回数の行幸と巡幸を繰り広げた。雲の上の見えない存在から見える天皇・見せる天皇へ。薄化粧をした女性的天皇からヒゲを蓄えた軍服姿の天皇へ。維新の前と後の全く対照的な天皇像を通して、明治とはどのような時代であったかを解明する。


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by yomodalite | 2007-10-09 22:08 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

日本のいちばん醜い日/鬼塚英昭

日本のいちばん醜い日

鬼塚 英昭/成甲書房



『天皇のロザリオ』と同じく、膨大な資料の精査から書き上げられた力作。

前半は、バーガミニの『天皇の陰謀』を引用し、半藤一利の「日本のいちばん長い日」(大宅壮一との共著?)の嘘を暴くこと、

後半は、皇室と国際金融との関わりから、皇室の財産や、「天皇家の実像」が描かれている。バーガミニや、シーグレーブなど、主に海外の著作から、日本の研究者の著作の誤りや、怠慢を指摘し、刺激的な「真相」へ迫っている。

著者の主張をまとめると、

1)8.15宮城事件は偽装クーデターであり、首謀者は三笠宮で昭和天皇の名代であった。

☆青年将校による「偽装クーデター」を演出するのは、皇室をクーデターの被害者として演出し、効果的に陸軍抗戦派の志気をそぐという目的があった。

2)原爆はなぜ広島に落とされたか?→抗戦派の陸軍の第二総軍を壊滅状態に置くという狙いがあった

3)日本を戦争に駆り立てたのは、天皇一族や親英米派と言われた海軍高級軍人や外務省高級官僚と政治家。昭和19年初頭にはもう日本は終戦に向けて動いていたが、ずるずると戦争が長引いたのは天皇家の海外貯金が保全されることと、天皇一族の生命の保障を図っていたから。

☆明治天皇の入替えにより、被差別部落から皇室に入った一族には、財産への飽くなき欲望があった。

4)昭和天皇の父親は西園寺公の養子であり、大正天皇と同年代だった、西園寺八郎。秩父宮、高松宮、三笠宮は東久邇宮が父親。

☆病弱の大正天皇が何人も子供を授かったという話は信じがたい。貞明皇后は、昭和天皇を全く気にかけず、秩父宮を皇位につけるべく画策している。

☆友人Fの説として、昭和天皇は大室寅之祐という説も紹介。

5)天皇家への国際金融同盟の脅迫ー
2.26事件は、壬生の乱。大正天皇に子供が出来なかったので、貞明皇后に男をあてて、子供を産ませた。「皇室の秘め事」により、日本は太平洋戦争に誘い込まれ、敗北という結果となった。

後半は、刺激的な話題が多く、まとめづらいですが、大体こんな所。

半藤一利『日本のいちばん長い日』が物語に過ぎないことは至極納得する。どの時代あれ多くの人間は「真実」と共に生きる事ができない。「物語」によって生き「物語」によって死ぬのだ。

バーガミニが示唆したであろう「某中佐」は、三笠宮だと思われるが、クーデターの黒幕として、三笠宮が昭和天皇の名代という説には、特に納得させられる説明はない。海軍悪人説については、このとおりかもしれない。皇室およびヨハンセングループが、国際金融同盟と通じていたことも間違いないでしょう。

鬼塚氏は、そのことをもって天皇を告発する姿勢ですが、その怒りの激しさは戦後生まれの私にはどうにも理解できない。国際金融同盟に対して昭和天皇でなかったなら、戦争を避けられたというのなら、昭和天皇が愚鈍な王様だったという証明になるのですが。。。

鬼塚氏への不満は、明治維新から日露戦争、大東亜戦争が仕組まれていたことを示唆しつつも、最終的に天皇個人への呪詛へと向かっていくこと。文春や岩波系の文化人が「天皇教」の呪縛から逃れられないと鬼塚氏は言うが、確かに明治からの日本の戦争の歴史は「天皇制」と密接に関わっているが、天皇制でなかったなら、日本が「戦争の歴史」から免れていただろうか?

特攻隊の狂気は、イエスや、アラーの名の下に行われた狂気を上回るものだろうか? 戦後天皇を断罪していたなら、今の日本が抱える様々な問題を解決できていたであろうか? 

天皇責任の議論が出来ないことを嘆く日本人は多いが、神の否定の後には、徹底した資本主義と、グローバリズムしか残っていない。

また、天皇制への批判というよりは、やはり、昭和天皇個人への呪詛に満ちていて、制度というよりは「人物」批判のように感じられた。 

鬼塚氏の力作を戦後60年後に、読む事ができることができる幸せを感じつつ。

☆☆☆☆

☆「ジャパンハンドラーズと国際金融情報」

ここで、鬼塚氏の主張を私なりに咀嚼すると、広島に原爆を落としたのは、抗戦派の陸軍の第二総軍を壊滅状態に置くという狙いがあったという。また、同じく第一総軍は、本部を東京に持ち、この指揮官の中に第一二方面軍の田中静壱大将がいる。鬼塚氏は、田中大将の45年8月24日の「自決」の時刻が、「森大尉が斬られた同じ時刻」である「午後11時すぎ」という、蓮沼侍従武官長の死の直前の回想記を根拠に、半藤本が書く「森大尉殺害」の時刻は実際よりも2時間も遅れていた、つまり半藤は嘘をついていると書いたのである。(中略)

〜が、いろいろの記述を読んだ結果、要点として、鬼塚氏は、「半藤本には、塚本中佐の話や、阿南陸軍大臣が終戦の前日の14日から15日の間断続的に、皇族の一人である三笠宮と個人的に会って激しい議論をしていたことが書かれていない」、ということが言いたいのだと理解した。

そして、下級将校にすぎない畑中、椎崎らがなぜ自由に皇居に入り込めたのかという本質的な問題点を指摘する。確かに。これは鬼塚氏は、「皇族レベルの手引きがなければ出来ない話だ」というのである。(中略)

〜要するに天皇の身の保全はアメリカの戦争指導部によって保証されたわけだ。グルー大使とスティムソン陸軍長官が保証した、というのでいいだろう。マッカーサーが天皇の姿に感動したというのは、たぶんとってつけた話だろう。「身を守ってくれたアメリカの実行した東京裁判も、原爆もこれは容認せざるを得ない。下手に突くと、やぶ蛇が出る」と昭和天皇は考えたのではないか。だから、富田メモのような靖国宮司批判をやったのではないか、というのが今の私の勝手な考え。

ただ、鬼塚さんたちに言いたいのは、この宮中グループというか、ヨハンセンの功績というのもある、というところ。

グローバリストのヨハンセン・グループは、吉田茂を初めとして、国際金融資本グループの「実力」を明確に理解していた。だから、憲法九条によって、戦争に巻き込まれることを避ける、という決断をした。グローバルに「奴ら」の恐ろしさを本当に分かっていたからこそ、戦争放棄というウルトラCの憲法を逆用して、少なくとも軍事的には国際秩序に積極的にコミットしていくことを封じるとという「妙手」を可能にしたのだろう。経済的にはむしられているけれども。 (中略)

〜共同通信の報じた、皇室の隠し財産の記事、これは重要であるから、「佐賀新聞」のデータベースを使って調べて保存しておかなくては為らない。
結局、鬼塚氏もまた、中央銀行ネットワークであるBIS(国際決済銀行)に行き着いた。このBISは、戦時中も敵味方となく資金決済をしていた。だからこそ、アメリカのロックフェラー・スタンダードやロスチャイルドのシェルが、パナマ船籍という抜け道を使って、日本やナチスドイツに石油を輸出し続けた、という話になる。あるいは、赤十字の船という抜け道をつかったらしい。

【目 次】

《悲の章》
・かくて「神聖悲劇」の幕が上がった
・某中佐の行動の中に真実が見える
・三笠宮の終戦工作
・某中佐の行方を追う
・偽「クーデター」計画があった

《惨の章》
・森近衛師団長惨殺を諸作品に見る
・X少佐の行方を追う
・森師団長惨殺事件の周辺を洗う
・『天皇の陰謀』はどうして偽書とされたのか
・そこに、誰と誰がいたのか
・『さらば昭和の近衛兵』を読み解く
・近歩二第一大隊長の手記を読む

《空の章》
・『昭和天皇独白録』には真相が書かれていた
・森赳、死線をさまよう
・「神聖悲劇」が森赳を惨殺した
・失われた二時間を求めて
・何が起こり、時が失われたのか

《玉の章》
・玉音版はどこに消えたのか
・「玉音版事件」は国民にどのように伝えられたのか
・天子の変身、サムライの落日
・皇居前広場の奇々怪々

《秘の章》
・太平洋戦争はどうして起こったか
・皇室の「秘めごと」から歴史の闇を見る
・天皇ヒロヒトは南進策をとった
・鶴の一声、近くて遠し

《醜の章》
・原爆投下の謎に迫る
・広島にどうして原爆が落ちたのか
・かくて、鶴の一声が発せられた
・八月十五日、日本のいちばん醜い日
_________

【内容紹介】 1945年(昭和20年)8月14日から15日の二日間に発生した「8.15宮城事件」、世にいう「日本のいちばん長い日」—徹底抗戦を叫ぶ陸軍将校たちが昭和天皇の玉音盤奪取を謀って皇居を占拠したとされるクーデターで、森近衛師団長が惨殺される。この惨殺はなぜ決行されたのか?いつ、どこで殺害されたのか?遺体はどう処理されたのか?膨大な史料と格闘しながら真相を追っていくうちに著者は、この事件が巧妙なシナリオにのっとった偽装クーデターであることを発見した。この日本という国に、依然として残る巨大な「タブー」に敢然として挑戦する「危険な昭和史ノンフィクション」の登場(2007/8月)

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by yomodalite | 2007-08-10 16:33 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

英国機密ファイルの昭和天皇/徳本栄一郎

英国機密ファイルの昭和天皇 (新潮文庫)

徳本 栄一郎/新潮社



著者である、徳本栄一郎氏といえば、『角栄失脚歪められた真実』でアメリカの外交機密文書から、ロッキード事件はアメリカの陰謀ではなかったという結論に導いた妖しげな人(笑) という印象が強いのですが、英国公文書へはどうなんでしょうか? 

貞明皇太后や、開戦前の吉田、白州に関して、初めて聞く話があり、英国の当時の米国に対する感情など、興味深い話がわかりやすく語られている。

それにしても、杉山陸軍大臣の言葉「それは政治問題なので、自分の管轄外だと答えた」など、後述の著『日本人はなぜシュートを打たないのか』と同様の日本人の問題点を感じました。

【目次と主な内容】

■プロローグ 白洲次郎の涙

■第1部 戦前編
「二重戦略―秩父宮留学の裏で」

大英帝国が、東洋の新興国と手を組んだのは、ロシアへの警戒と不信があった。
松方正義の死去、大正天皇への不安、英国政府は新しい対日政策指針に取り組んだ。
英国は、「米国と同盟を結べば、日本への石油、アルミを供給できる」と考え、
唯一頼りになる同盟国は米国との結論に達した。
秩父宮の留学を実現させ、日英友好を演出し、白州のような若者には英国式教育をみっちりと仕込む。同時に、将来の対日戦争計画を作成し、日本人を「黄色人種」と言い放つ。

「秘密交渉―吉田茂の『示唆』 」
満州事変、国連脱退が、日本の国粋主義団体に追い風を送っていた。牧野伸顕の内大臣辞任に、昭和天皇は声を上げて泣く程のショックを受けていた。軍部の発言力は増し「2.26事件」が起こる。
吉田茂は、行き当たりばったりとも見える英国との和平工作を続けた。吉田の独走は、彼1人の思いつきか? 吉田は、日英の関係改善の強い意思は、天皇の意思であることを示唆した。

「日英緊迫―天皇の懇願」
日本の対中政策は、行き詰まりを見せていた。国連脱退〜孤立への焦りは、ドイツとの防共協定締結に結びつくが、欧米列強との関係はますます悪化した。そうした中、秩父宮はジョージ6世の戴冠式に出席するが、賓客の先頭を贈り、最重要の賓客として遇された。英国は天皇の意思を読み取り、メッセージを送ったのだ。

しかしその最中に、北京で盧溝橋事件が勃発。日本の軍の一部には反日運動を終息させようとする強硬派が出現し、中国では全土に抗日運動が拡大していった。たった3発の銃弾が、日中戦争を引き起こした。盧溝橋事件から一か月余り後、ヒューゲッセン英国大使の乗った車が日本軍機の爆撃を受け、英国民は一気に激昂した。吉田と面会した英国は、吉田野言う英米との和平を望む「日本の仲間」の存在自体を疑い、吉田の英国外務省でのクレディビリティは失墜していく。

稚拙な交渉手法、思いつきのワンマン外交を非難するものは今も多いが、実は、吉田の交渉は、昭和天皇、秩父宮、西園寺公望、牧野伸顕など、元老・重臣から成る集団だということが明らかになってきた。クレーギーは、皇族の英国への愛着に、期待をもったが、

大使館に押し掛けた学生の声明ー「欧州の抑圧を取り除かない限り、アジアに平和と繁栄は実現しない。日中戦争は、中国との戦いではなく、南京政府を支援する英国やロシアとの戦いである。これはアジア解放の歴史的闘争で、われわれは日本の政策を全面的に支持する」ー

急進的ナショナリズムが広がっていくのを感じざるを得なかった。

「反逆大使―戻らない針」
中国の蒋介石政権は、積極的な欧米メディア工作を展開していた。中国側の被害を大きく誇張する手法に日本政府は翻弄されていた。

★杉山元陸軍大臣「われわれの見解が理解されていないのは非常に遺憾です。日本軍は日本のみならず、極東、世界のために戦っています。このままでは、ボルシェヴィキズムの脅威が中国から日本にも波及してしまいます。

★クレーギー「かえってボルシェヴィキの影響は増していますよ。もし日本が誤解されていると思うなら、ブリュッセルの九か国条約国会議の場で、世界を納得させるべきでしょう」
杉山は、それは政治問題なので、自分の管轄外だと答えた。

日本のあらゆる新聞は、英国に対抗するため、ドイツやイタリアと手を組むのが、協定の狙いだと報道していた。天皇、広田弘毅、杉山元、本間雅晴は、日中戦争の継続を望んでいない。結果的に、広田は東京裁判でA級戦犯として死刑になり、杉山は、敗戦直後、拳銃自殺を遂げ、本間は、戦後マニラの軍事法廷で、「バターン死の行進」の責任を問われ、銃殺刑となった。日本との宥和政策を打ち出したクレーギーのスピーチは、『極東のミュンヘン』を認める、ことと理解され、波紋をよんだ。

「豪腕首相―切り捨てられた日本」
近衛文麿は、英国政府内で「メランコリック・プライム・ミニスター」(憂鬱な首相)と呼ばれていた。
東条内閣が誕生した時、天皇が内大臣の木戸幸一に「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」と語ったのは有名。

敢えて開戦論者の東条を首相に任命し、主戦派の軍人を、迎えようという天皇の狙いをクレーギーは承知していた。チャーチルには、何としても米国を参戦させたい理由があった。そのため日本の穏健派の和平工作に応じる訳には行かなかった。

「日本の攻撃で、米国が一丸となり参戦したのは天佑だった。大英帝国にとって、これに勝る幸運は滅多になく、真の敵の見方が明白となった。日本が無慈悲に壊滅される事で、英語圏と世界に大きな恩恵を与える」

最後まで、日英の関係改善に尽力したクレーギーに対して、吉田や親交のあった者は、彼の息子のビジネスを支援し、恩を忘れなかった。1998年に天皇訪英の際にも、親子はレセプションに招待された。

■第2部 戦後編(皇室危機―資産隠匿疑惑)
強引とも言えるGHQの手法の裏には、国際政治の水面下の駆け引きが潜んでいた。英国を始めとする極東委員会はGHQが新憲法草案を造り、日本に押し付けた事情を把握していた。彼らのあまりの理想主義が、将来、日本の外交や安全保障論議に混乱を引き起こす事も見抜いていた。

総選挙が実施され、鳩山内閣誕生が確実となったが、GHQの介入に依って、鳩山は公職追放となる。
マッカーサーは、天皇を高く評価していたが、英国は、天皇がマックの前では、民主主義を唱えるが、実は面従腹背ではないのか、と疑う。スイスを舞台にした「皇室の資産隠匿疑惑」が理由だった。
  
広島に原爆が投下された翌日、1945年8月7日、良子皇后が、1千万スイスフラン(数十億相当)の巨額寄付を赤十字国際委員会に行った。寄付金は、終戦後、スイス当局が凍結するが、この資金を巡って、赤十字と英国政府の間に熾烈な争いが起きる。

★英国「資金の大部分は、日本領の英国人戦争捕虜の救援用に送った資金を、日本が為替取引きにより、スイスフランで取得した。これまでに日本は、一度にこれほどの巨額な資金を行った事例がない」

終戦の数週間前、日本人がスイス銀行から300万フランの引出しを試みている。それ以外に500万フランの引出しに成功した例もあった。この時期の皇室ファイルには、目録に載っていながら、閲覧禁止や廃棄処分にされたファイルが少なからずあった。その一つが「昭憲皇太后基金」である。それは、1912年美子皇后(後の昭憲皇太后)が国際赤十字に当時の金額で10万円(約3億5千万)を寄付して創立された基金だ。

不思議なのは、1949年の目録に載った「昭憲皇太后基金」が未だに機密扱いされていること。1948年8月ストックホルムで、第17回赤十字国際会議が開催されたが、ここで採択された決議は「昭憲皇太后基金」にも触れ、それに関する英国政府文書が作成されたが、これが未だに非公開。同じ年高松宮が英国王室に手紙を送っているが、この手紙自体が保存されていない。ひとつ言えるのは、赤十字と英国が対立した1948年夏は、昭和天皇と皇室にとって、最もデリケートな時期だったという事。
 
敗戦を経て、昭和天皇を取り巻く環境は激変した。GHQが「民主化」の名で、日本を改造し、自分を最大限利用しようとしている事は、天皇は承知していた。天皇は、欧米で隠然たる力をもつ人物への接触を試みた。その人物こそ、バチカン市国のローマ教皇だった。

「天皇改宗―ローマの触手」
1948年3月30日、日本で社会福祉活動をしていたヨゼフ・フロジャックは、天皇のメッセージを携え、ローマ教皇ピウス12世に会った。天皇は皇太子時代の欧州歴訪から、法皇庁と連絡を取る必要を感じていた。

英国は、バチカンを警戒していた。その裏には教皇ピウス12世への連合国の不信感が横たわっていた。当時バチカンには、共産主義を公然と敵視したナチス・ドイツへの親近感があり、ソ連には宗教をアヘン呼ばわりし、聖職者を弾圧していた。ローマ教皇庁は、軍国主義の崩壊により、生まれたイデオロギー上の空白地帯を埋めたいと考え、天皇が改宗する可能性に期待していた。日本を巡り、キリスト教と、共産主義が凌ぎを削っていた。
  
天皇自ら地方を視察する「巡幸」も続いていた。天皇を取り囲む進駐軍兵士は、護衛よりも監視と言った方が相応しかった。当時の天皇は物理的、精神的に軟禁状態に置かれていた。終戦直後のマニラで、マックは、「天皇は今の日本で最も民主的な考えを持ち、極めて扱いやすい男だ」と答えているが、この時期の英国政府、ローマ教皇庁の内幕を見ると、冷静な現実主義者で、したたかな天皇像が浮かび上がってくる。

「退位計画―英米の鍔迫り合い」
終戦から3年近くが過ぎ、天皇退位という事態は、絵空事ではなかった。天皇が退位すれば、皇太子明仁が即位する。明仁が14歳の少年となると、摂政が設置されることになるが、秩父宮が肺結核を患っているので、高松宮か、三笠宮ということになるが、高松宮に、英国は強い警戒心を抱いていた。

マックが明確に否定した後も、天皇退位の噂は消えず、芦田内閣の国会図書館専門調査員の入江俊郎が、ガスコインにエドワード8世の国王退位の経験をもつ英国にアドヴァイスを求めてきた。ガスコインは慎重に対処したが、その後も『文芸春秋』に「天皇退位説に因んで」という記事が英訳され、連合国間で、回覧された。(執筆者 森田草平)英訳したハーバート・ノーマン駐日カナダ代表は、個人コメントを添付していた。

★ノーマン「現在の天皇はどちらかと言えば無能、神経質かつ内気だとする声がある。このため、天皇が無意識な政治家、官僚、廷臣に取り囲まれ、利己的な目的に彼の権威が利用される懸念もある。自分も天皇が攻撃的ナショナリズムの集約点となりうる印象をもつ。」

「歴代の天皇が時代に取り残され、時の支配層に支持と保護を求めてきたことを、この著者(森田)は示している。それは封建時代初期の武士階級であり、16世紀の偉大な征服者秀吉であった。(中略)一体天皇制を維持する利点は何かと、読者に問いかけているのである。
  
この辛辣とも言えるノーマン報告は、英国外務省で反発も呼んだ。彼らの内部メモ。

★「(ノーマン報告書は)日本が奉献主義を脱して西洋文明を導入した際、明治天皇が果たした役割を軽視している」。紀元、7、8世紀、皇室が主導して中国文明を取り入れた事も同様だ。」

★「現在の天皇を“無能”“神経質”“内気”と片付けるのは公平ではない。1936年の反乱(2.26事件)の時、これを『謀反』としたのは天皇だけだった。1945年以降も、米国から与えられた役割を彼は信念を持って遂行している。ノーマンや、英国外務省は、天皇制の歴史を調べ上げていた。神武天皇に始まり、戦国時代の信長、秀吉、徳川幕府が時の天皇をどう利用したか、明治維新で天皇が果たした役割は何か、昭和初期の狂信的天皇崇拝はなぜ生まれたのか。彼らが『日本書紀』や『古事記』まで遡り、日本の天皇制を研究していた事が伺える。

ハーバート・ノーマンは、その後、駐エジプト大使に赴任したが、1957年カイロ市内の9階建てのビル屋上から投身自殺した。享年47歳。動機はスパイ疑惑だった。1950年代、東西冷戦が激化するとノーマンがソ連のスパイではないかという疑惑が生まれた。ノーマンは大学在学中、共産主義に熱中した時期があった。

「皇太子攻略―家庭教師派遣に固執した英国」
トルーマン大統領と対立を繰り返したマッカーサーは、連合国最高司令官から解任された。吉田は、顔面蒼白となり、しばらくショックで口も聞けない状態だった。知らせを聞いた天皇も同様の反応だった。天皇は、帰国前に、宮中へ参内させたいという強い希望をもっていたが、反応はそっけなく、逢いたいなら、羽田空港まで見送りにくるべきとの発言に、周囲の相談を無視し「かまわぬ、行く」と決断した。天皇は結局、米国大使館にマックを訪ね、別れの(そして最後の)挨拶を交わした。
マッカーサーの後任は、リッジウェー中将に決まった。GHQはシーボルト率いる外交局が存在を増した。占領中、在京の各国外交団は、単独で天皇と会見しないという暗黙のルールがあったが、米国は公然と破った。再び天皇退位の噂が流れ始めた。

★「松平恒雄(元宮内大臣)は、天皇の贖罪意識を憂慮している。A級戦犯処刑時には、鬱状態が進んでしまった。側近たちは天皇を励まして、皇太子の若さを考慮して『不幸な手段』に走らぬように説得している」

★「(日本政府関係者によると)秩父宮妃の摂政就任を支持する声は大きい(中略)秩父宮妃の資質、性格、人気に疑問の余地はない。彼女を摂政に任命する必要が生じた場合、広く歓迎されるだろう。だが、1947年に公布された皇室典範は、天皇家の家系に属さない彼女を、摂政にできない」

天皇退位が現実味を帯びた当時の緊迫感が伝わる。と同時に本来摂政に就くべき高松宮が、いかに信用されていなかったかが分かる。

■エピローグ 皇居を見据えるユニオン・ジャック

【英国機密文書に描かれた人物寸評】
●昭和天皇
周囲の人間の操り人形とならないためには、強い個性が求められるが、〜持ち合わせていない。気立てがよく、従順だが、知的で明敏には見えない。
秩父宮のような自由を与えられず、意志を決定する機会を持てなかった。
個人としての天皇は自由主義や、穏健主義の傾向が見られる。軍部に対して行動し、
1932年上海からの日本軍撤退は、天皇に依る所が大きかった。
天皇を支持するのは、元老、薩摩、長州、資本家、大地主など、すでに富と権力を保持するもの。

●秩父宮(天皇の弟)
秩父宮を取り巻いたのは、桜会、神兵隊など陸軍の将校、右翼運動家、今の天皇に不満を抱く皇族。事態をややこしくしたのは、貞明皇太后(天皇の母)が、秩父宮をことさら贔屓し、かわいがった事、しばしば昭和天皇に政治的助言を与えることに、天皇が嫌がっている。2.26事件は、昭和天皇を追放しようとして失敗した企てだった。

●高松宮(天皇の弟)
★ガスコイン駐日代表
「高松宮は、反動主義の傾向があり、公職追放された人間達と結びついています。摂政が設置され、高松宮が指導的な役割を果たすようになれば、占領目的上望ましいことではありません」
★マッカーサー
「高松宮は極めて信用できないという評価には、私も同意します。また天皇退位の噂は、国内の公職追放された人間が流し、ウォール街の一部分子が広めているだけです」
元の地位に復帰したい公職追放組が、今の天皇をGHQのイエスマンと見ている。GHQの経済改革に不満をもつ米国のビジネス界も、行き過ぎた財閥解体や、公職追放はビジネスに悪影響を及ぼす。彼らは「ニューズウィーク」など米国メディアを利用し、退位の噂を流している。
★英国極東部
「他の皇族と比べた場合、降伏以来の高松宮は、公式の場で、不用意な発言が目立ち、一貫性がない。占領初期、高松宮は意図的に米国人を歓迎したが、その後は、占領政策の不満分子の影響を受けている」

●貞明皇太后
宮中内外の情報に驚くほど精通し、英国の政治情報にも強い関心を持っていた。
卓越した知性と、強烈な個性を備えた女性。皇太子時代の天皇が訪英出来たのも、
彼女の強い主張に依るもの。
反英感情が高まる中、皇室が持つ英国コネクションへの忠誠は批判も呼び、松平恒雄も、
外交政策で、天皇に悪影響を与えると非難されている。

☆参考サイト→ぽっぺん日記
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【出版社/著者からの内容紹介】 ヒロヒトの全てを報告せよ----。 インテリジェンス先進国の英国は、かつて七つの海を支配した情報網を駆使 し、敵対関係となった太平洋戦争前後も、わが国を冷徹に見つめ続けていた。とりわけそのターゲットとなったのは、日本のトップ、"天皇裕仁"だった。 退位計画、カトリック改宗説、皇室の資産隠匿疑惑。 そして、天皇の"名代"として動いた、吉田茂、白洲次郎の暗躍まで。 何から何まで、英国に筒抜けだったのだ。

ロンドンの公文書館に眠っていた、知られざる昭和天皇の真相! 新潮社 (2007/05)

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by yomodalite | 2007-08-03 16:25 | 天皇・皇室 | Trackback | Comments(0)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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