浮世絵のきもの[3]「ボストン美術館 浮世絵名品展」(Ⅱ)辰巳芸者とは?

浮世絵のきもの[1]「ボストン美術館 浮世絵名品展」
浮世絵のきもの[2]「ボストン美術館 浮世絵名品展」

上記の続きなんですが、、、辰巳芸者の件です。

いろいろ嗅ぎ回っているのですけど。。。
辰巳芸者への疑問は、目一杯膨れ上がっていて、何から手をつけようか混乱しています。
鼠色系の着物に、羽織、素足が3拍子揃った「辰巳芸者」が浮世絵に見つからないということは、単純に考えて、それぞれが時代が異なる辰巳芸者の特徴だったのではないか?と考えられないでしょうか? 

深川は明治維新後も「江戸」の雰囲気を残し、花街としては吉原に次ぐ歴史が長い土地ですから、もしかしたら、「江戸の粋」というコピーだって、明治以降の深川が作った可能性もないとは言えません。

辰巳芸者の特徴を考える上で、対比される吉原芸者はどうだったか?というと、

吉原芸者は、吉原の大衆化が進む中で芸能の流行に与ることのできなくなった遊女のヘルプとして郭と契約を結んだ者で、遊女の職分を侵さないように服装には、細かい規則が設けられていた。(そうした芸者の監督所が創設されたのは1779年)

・白襟無地の紋付の小袖に、縫いのない織物の帯を「後結び」。
・裾まわしを「紺」にして、襦袢を着ない。
・縮緬の白の蹴だしを巻いて素足。
・頭は島田で、平打の笄(こうがい)1本、櫛1枚、簪1本。


同時期の吉原遊女は、花鳥山水の図案の打掛けに総縫いの上着と無垢の下着、頭の上は小間物屋と言われるぐらい派手だった。ともありますが、とにかく吉原芸者も「素足」です

例えばこの絵。


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鳥居清長/当世遊里美人合(1783年)




この絵は、芸者の服装の規則が出来て4年目後の絵ですが、左から2番目の女は、帯を前結びにしているので遊女と思われますが、頭に扇子を翳しているので、飾りがはっきり見えないのですけど、全員あまり髪飾りに変化はありません。

一番左と、右から3番目は着物も襦袢というか蹴りだしが明らかに地味ですが、右から3番目の女は、遊女と同じく襟がピンク。一番右は、襟は白で、帯も着物も地味ですが、蹴りだしだけではないようにも見えまた足は全員「素足」です。


更にこの絵。

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鳥居清長/雪月花美通の色取「雪」(1784年)



ボストン美術館カタログの解説によれば、モデルの社会的階層ははっきりせず、普通の中流家庭のようにも思われるが、煙草を吸う情景は「浮き世」と関連づけられることが多く、また黒い衣装の女と、それ以外の二人の衣装に階層の違いが感じられるが、使用人の態度には見えないので、芸者と世話役にも見える。という二つの解釈がされています。

このような振袖を着ているのは、まだ一人前の芸者ではない禿かと思っていたけど、この芸者は赤ん坊の母親であるように見えるし、この2年後の清長の「日本橋の往来」の裕福な商家の娘の振袖姿とどこが違うのかよくわからない。

江戸時代は、身分制度を守るためにやたらと服装の差別化にうるさいのですが、守られていない故に何度も厳しく規範を作ったとも考えられます。

で、辰巳芸者なんですが、「江戸の粋=辰巳芸者」という疑問にこだわっていますので、まず全盛期と考えられる時期を特定してみましょう。

ウィキペディアの辰巳芸者には、

深川は明暦(1655年から1657年)ごろ、主に材木の流通を扱う商業港として栄え大きな花街を有していた。商人同士の会合や接待の場に欠かせないのは芸者(男女を問わず)の存在であったために自然発生的にほかの土地から出奔した芸者が深川に居を構えた。その始祖は日本橋の人気芸者の「菊弥」という女性で日本橋で揉め事が会って深川に居を移したという。


とあります。吉原が浅草裏に移転する1656年頃とほぼ同じくして深川が花街として栄え始めたということですね。

↓こちらで、下記のような羽織芸者の諸説が紹介されています。
「御服屋」歴史編7 女物の羽織

・もともと芸者というのは男の仕事で、男芸者すなわち幇間(たいこもち)がひいきの旦那衆から羽織を頂くという習慣が残って女性ではあるが羽織を着る習慣があったといいう説

・江戸時代の官許の郭は吉原だけですが吉原の芸者が羽織を着ることが禁じられていたので 向こうを張って羽織を着たという説

・14,15才ごろの若い芸者をお客が男装させて船遊びに連れ出したことから始まるという説。現在でも深川髷という独特の男髷で芸者衆が祭りに参加する事がある。

・女性が派手な格好をして町を歩けば風紀を乱すというお上に対抗したという説


尚、女性の羽織については1748年と1841年に着用禁止のお触れが出されていて、女性は羽織を着る事ができなくなったようです。
ちなみにこの時代の幇間というのは、現在イメージする騒々しい世辞を言う印象とは異なり、宴席を影で支えるために自らの存在を消し、茶事の心得や床の間の花を生けるなど茶人そのものと言えるものだったそうです。

で、菊弥に関しては、こちら↓
「みんな知恵蔵」 朝日日本歴史人物事典の解説

江戸中期の踊り子(芸者)。江戸の人。享保末年,江戸日本橋芳町の踊り子であったが,追われて深川仲町に移り,小唄や三味線の師匠をする傍ら茶屋を開き,すっかり衰微していた岡場所(非公認の遊里)深川を踊り子の本場とし,吉原や品川に並ぶ繁華な遊里とする因を作った。江戸浄瑠璃の一派豊後節の流行に乗って,太夫が着用した黒羽織を愛用し,これが深川の踊り子の風儀となったため,深川の羽織芸者の最初の人として知られる。 (宇田敏彦)

太夫とは、浄瑠璃の語り手のことらしく、この菊弥が、深川芸者の芸は売っても身は売らずという建前を支えていた人物らしいですね。享保は1716年から1735年。「柳橋花街の発展が天保の改革(天保1830年から1843年)で門前仲町の芸者達が弾圧を逃れて、こちら側に次第に移る者があり。。。」とあるので、江戸深川芸者は1735年〜1843年に全盛期があったと思われます。

ただ、岩下尚史氏の『芸者論』によれば、深川が吉原を圧倒する勢いを見せたのは、文化年間(1804〜1818)とあるので、更に絞って1804〜1843年とします。『芸者論』には、更に驚くべきことが書かれていて、

本来は男にしか許されぬ羽織を着て、生意気にも足袋を履き、権兵衛名と称する男名前を名乗り、何かと言うと男嫌いのふりをして。。。

生意気にも足袋を履き...??なんと、辰巳芸者は足袋を履いていた!?

でも、辰巳芸者が浄瑠璃の豊後節を踊る「芸人」であったなら、そのほうが理屈にあっています。当時は白足袋といえば芸人ですし、また辰巳芸者が何かと張り合いたがるのは、白襟紋付の吉原芸者ではなく、江戸の芝居町で男たちに愛された陰間だったらしく、陰間茶屋が芳町、芝、湯島だったことなども下町芸者の発祥と関係が深そうです。当時の陰間は女装ではなく、美青年の色気で売っていたらしく、その美青年ぶりを真似た者が、羽織芸者と言われた頃の辰巳芸者だったのではないでしょうか。

その後の天保の改革で、特に歌舞伎役者は苛烈な差別を受け、衣服は身分を表すもので、めいめいの好みを表現することは階級制度の根幹を揺るがすという考えから、服装に対して厳しく取り締まろうとします。前述したように1748年と1841年に女性の羽織禁止令は、辰巳芸者の全盛時と重なり、辰巳芸者が「羽織」を流行らせていたからこその禁止令といえそうです。

また下記に、男羽織の説明があります。概ね黒の長羽織が流行っていたようです。
「御服屋」歴史編5 江戸時代の男性の服装

最初に「羽織」と呼ばれた全盛期(深川芸者の歴史は長いので第一次ブームと呼んだ方がいいのかもしれませんが)の辰巳芸者は、当時の歌舞伎役者などの「芸人」(男Z)を真似た衣装で、彼らの同じように「足袋」を履き、多分黒の長羽織で、その当時の着物は鼠色系ではなく、華やかな役者風だったのかもしれません。いずれにしろ、辰巳芸者が、吉原ともっとも異なっていたのは、男っぽさで、ファッションも「男装」が基本にあったのではないかと思います。(続く)

芸者論—神々に扮することを忘れた日本人』岩下尚史





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Commented by けいこ at 2009-05-03 21:05 x
「髪結伊佐次」シリーズを読んで辰巳芸者に興味を持ちこのページを拝見したのですが、豊富な背景知識と詳細な思考に感動しました。色々と教えて下さって有難うございます。
Commented by yomodalite at 2009-05-03 22:51
コメントありがとうございます!辰巳芸者には興味津々なのですが、まだまだわからないことが一杯。辰巳芸者のファッションの変遷(いつから足袋を脱ぐようになったとか、羽織を着なくなったとか、着物の趣味とか、、)をまとめたいと思っているのですが、なかなか難しいです。こちらこそ、色々教えてくださいませ。「髪結伊佐次」未読でしたが、興味もちました!ありがとうございました。
Commented by さちまな at 2011-06-18 04:05 x
深川について調べていてたどり着きました。
画像もあわせて興味深く読ませていただきました。
続きが楽しみです。
Commented by yomodalite at 2011-06-18 10:05
さちまなさん、コメントありがとうございます!!!

浮世絵と当時の実際の女との「差」は、現代の女性とアニメやマンガの絵ぐらいの差があると考えなければいけない部分もあると思いますし、、芸者に関する歴史って、なかなかわからないですよね。

でも、たぶん、当時の江戸は、人口比率において、圧倒的に男性が多かったこともあり、京都の芸妓とは、全く異なった、男っぽい江戸文化の中で、辰巳芸者は、その登場時は、吉原とは違って「フリー」な存在で、自発的な女による「風俗」で、それが最先端だった時期から、一般化、記号化するまでには、様々なファッションの変遷を経てきているんではないでしょうか。

辰巳という場所も、渋谷にブランド校に通う「援交少女」が登場し、ギャル革命から、109でギャルファッションが一般化したのと同じぐらいの変遷があったと思いますし、また、なんとなく、辰巳芸者には、そういった「ギャル」に近い感覚があったように思うんですよね。。
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by yomodalite | 2008-11-08 13:11 | きもの | Trackback | Comments(4)

旧「読書日記と着物あれこれ」。歴史/文学/お笑いを好み、着物生活をしていたはずが、いつしかマイケルジャクソンのように本を読もうになってしまったブログ。永年暮らした東京を離れ、現在は大阪を満喫中。


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